2017/04/02:ウィンズロウは「ストリートキッズ」の衝撃的に出会い、以来ニール・ケアリーはカミさんも大好きになり二人して何度も読み返すような大切な作品となった。
またウィンズロウの立ち位置は非常に常識的であり、しかも紛争や麻薬戦争などの背景にある著しく非対称な社会をきっちりと見据えた上で我々の側に立っていると感じた。「犬の力」で僕はウィンズロウの事を全面的に信じるに至った。
しかし何故か食指が動かずしばらく放置していた「報復」。ドイツ語で出版され、ウィンズロウの情報に現れない作品。そういう意味ではニール・ケアリーシリーズも現在のウィンズロウのサイトでは割愛されている。更にそもそもウィンズロウの経歴には穴がある訳でそれは今更驚くことではないのだけれど、過去のことならまだしもなんでいまそんな事をするんだと。
しかも内容をみるとテロリストによって家族を殺された元デルタフォースが主人公でタイトルが「報復」となるとあらすじは自ずと大体見当がつこうと云うもので、さすがのウィンズロウをもってしても予想外の展開を生み出す事は難しいのではないのだろうか。
要するに、つまりは素直に楽しめる感じがしない。のである。
しかし、二部門の責任者を仰せつかり体制の安定化に向けて手を打ってきたのがいろいろ波及して年度末と人事異動ですったもんだとなり、ちょっとかなりくたびれてきたこともあり、ふらふらとコンフォートなところに逃げ込んでしまった。
仕事の方はもちろん片付く訳はなく来週から新年度を迎えてまたドタバタの日々になるのだけど、どうにか期末は乗り越えた。
しかし、なかなか大変だったよ。マジで。
今週末はやや茫然自失。なんだかいろいろな事が手に着かない。取り留めもない事をあちこちかじってはまとまらない。
この記事も。
本題に進む前にこんな書いてしまったら、もう大体言いたい事はわかって貰えているのではないかと思う。本書は概ね予想以上でも以下でもない感じで進んでいく。
どこかで何かがどうにかなるのではと思いつつページをめくっていく。
「われわれは12年も戦争を続いている。ビン・ラーディンを殺し、アルーカイーダの中枢を破壊し、タリバンの幹部の大半を殺害した。どこかでやめなくてはならない」
「今はまだそのときではありません」
「なら、どうすればいい?」レイトンは尋ねる。「永久に殺人を続けて、無期限に勾留をつづけろと?勝利宣言はいつできるんだ、デーナ」
「勝ったときに」
「どうやって決める?テロリストの最後のひとりまで殺したときか?そんな日は絶対にこない。無人機のミサイルを命中させて民間人を殺すたびに、テロリストを新たに生み出しているのだから。未来永劫、戦争をつづけるのか?」
正にその通りなのだけど、本書はこんな会話が登場しても特に大きな軌道修正もなく、一直線に進み続けていく。
登場人物たちはまるであたかも最初からそうなる事を定めとして「知っている」かまたは「プログラム」されているかのように自動的に機械的に動いていく。
何だろうこの本は。物語を引っ張っていく情動は希薄で、サスペンスが生まれないという点では「カルテル」のようでもあり、それともまた異なるのは正にウィンズロウ本人の不在だ。
何か脱け殻みたいに核となる部分というか芯というか肝心な部分に心というか魂がない。
まさかここを狙っている訳ではないだろうと思う。訳がわからん。
気づいたら訳がわからんうちに読み終わってしまっていた。そして仕事も。気づいたら最終日が終わっていた。
2016年度は社会人30周年でありました。気づいたら30年。僕の仕事人生がこんな風になるなんて思いも寄らない事だった。正に波瀾万丈、正に冒険の日々ですよ。小説がつまらないと感じるのは自分自身の人生を目一杯楽しんでいる反動だと思うことにしよう。
2017年度も頑張るぞー。おー。
ニール・ケアリーシリーズのレビューは
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「キング・オブ・クール」のレビューは
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「野蛮なやつら」のレビューは
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「紳士の黙約」のレビューは
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「夜明けのパトロール」のレビューは
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「シブミ」のレビューは
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「フランキー・マシーンの冬」のレビューは
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「犬の力」のレビューは
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「ザ・カルテル」のレビューは
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2017/03/26:スティグリッツの本でしかも訳が峯村さん。絶妙な語り口は果たしてスティグリッツ本人なのか、峯村さんによる味付けなのかわからない部分が多々ありましたが、結果的に非常に読みやすくて、じっくり没頭して読みました。
内容もまたとても濃くて読み切るのにかなり時間がかかりました。抜粋したメモも大量。親指が腱鞘炎になりそうだわ。
ギリシャが破綻寸前に追い込まれていった時は正直何も判ってなかった。ギリシャが財政破綻しかけているのは、報道の通りギリシャの人々が怠惰で、観光資源に頼り切ってろくに仕事にも行かないような適当なことをし続けた結果だった、みたいな話を正に鵜呑みにしていた。
実際旅行に行った人も街が汚い、みたいな事を言っていた。しかしそれは寧ろ怠慢からきたのではなく、無慈悲に強いられた超緊縮財政の結果だった。僕らは結果を原因だと思い込まされていたのであった。
先般、イギリスがユーロからの脱退を決めた。僕は残留になるものと読んでいたのでこの投票結果にはずいぶんと驚いた。ユーロは行政機構の集中化であって、結果的に政府運営コストを削減するものだと思っていたからだ。僕は反新自由主義者で小さな政府を標榜するのは違和感があるが、それでも小さな国が大国同様の政府機構を運営するのはコスト的に無理があり、合併にはメリットがあると思っていたのだ。
しかし、そもそもユーロはそんな風に作られてはいなかった。
そんな事を言うとついでにトランプが当選するとは思ってもいなかったので僕の政治経済に関する事実認識は怪しく、だからこそそこから予測されるものなんて全くないアテにならないのは仕方ない。
そしておそらくは世間一般的に市井の人々はたいてい僕のようにいろいろと事実誤認を重ねていて、だからこそ「あるべき姿」とか、「正しい選択」といったものが見当外れのものになってしまうのはやむを得ないのかもしれない。
僕なんかが見当外れの意見を抱いていても大勢に影響はないのだけれども、ユーロを運営している指導者たちもどうやら激しく見当外れで時代遅れの理論と価値観をもって意思決定をしていたらしい。そんな事が本書を読んでいくとありありと解ってくる。
本書ではふたつの過ちを取り上げる。ひとつは、新自由主義イデオロギーのもと、不公正な競争を恐れるあまり、産業政策を禁止してしまったこと。新規加盟国組の後進諸国は、先進諸国に追いつきたくても、域内が収束するための手段を奪われていた。また、公正な″政府補助″が狭義に解釈されたため、傾いた銀行へのイタリア政府の支援には疑問が投げかけられた。しかし、このような援助がなければ、中小企業向けの信用供与は限定され、イタリアの経済成長の足かせとなりつづけるだろう。
もうひとつの過ちは、欧州域内で税務政策の協調を怠り、共通の累進課税を導入できなかったこと。これは破綻的な税率引き下げ競争を招き、不平等の拡大を後押しすることとなった。各国政府は、国内で累進課税を導入したくてもできない立場に置かれている。富裕層は国内で事業を継続しながら、住居だけを海外へ移せることを心得ており、政府に脅しをかけるのだ。欧州委員会のジャン=クロード・ユンケル委員長は、ルクセンブルク首相時代、この″底辺への競争″の達人として名を馳せていた。もちろん、法人税と所得税の引き下げ競争は、企業利益に奉仕してきた。
指導者達が揃って大きく足を踏み外すとそこには破滅的な影響が生まれる。失われた損失は、失われたままで、決して取り戻すことはできない。
中央銀行の独立性に関する新自由主義の主張--ECB設立時に優先だった主張--は、重大な欠陥を持つ三つの前提にもとづいているようだった。第一の前提、インフレだけに取り組めば済むということ。第二は、金融政策を通じたインフレ退治は、純粋に技術的な問題であるということ。第三は、中央銀行の独立性を高めれば、インフレとの闘いを有利に展開できるということだ。
実際、この失敗によって生じた損害はかつての世界大恐慌を凌駕する程の規模になるのだという。これほどまでにも酷い損失を産みつつも指導者たちはこの失敗から目を背け続け、または無視し、あたかもそんな事は起きていない、仮に起きたとしてもそれはやはり本人たちの怠慢のなせる技であると言い切ってきた。
ドイツのギリシャに対する態度はまさにそれだった。自分たちを見習って貿易黒字にしろと。
ここで問題とされる赤字には2つある。財政赤字と貿易赤字である。
答えを理解するには、時間を遡る必要がある。財政赤字と貿易赤字が密に結びついているという考え方は、ユーロ圏が構築された1990年代初頭に一世を風靡していた。"双子の赤字"の名のもとで、経済学の教科書にも載ったほどだ。論理は単純明快。政府が支出を増やし、かつ、ほかの条件が不変ならば、総需要は増加する。もしも、経済が完全雇用を実現していれば、総需要の増加分は、輸入によってのみ充足されうる。(たとえは為替レートの不変が理由で)もしも輸出が不変ならば、必然として貿易赤字は増加せざるを得ない。傍点部分は、論理上の重要な仮説を表すが、のちの研究により、これらの仮説はおおむね成り立たないことが証明された。
"現代"の我々が理解しているように、貿易赤字の原因は多くの場合、政府の浪費ではなく民間セクターの乱行である。つまり、(収斂基準が意図するとおり)政府の浪費に歯止めをかけても、必ずしも、大規模かつ慢性的な貿易赤字の抑制にはつながらないわけだ。
しかも、貿易赤字は世界全体でみれば貿易黒字と相殺されるものであり、どこかの国が、この場合特にドイツが貿易黒字を計上するなら、必ずどこかこの場合はギリシャのような国が貿易赤字となるのは避けられない話なのだ。
ドイツがやってきたことはまるで町内会のいじめっ子ジャイアンのデスモード。ドラえもんでいじめられるのびたくんと違い、ドイツのやったことでは、実際に人々は職や家を失い命を落とした者もいるのである。
ユーロに留まるならば命令に従えと迫るドイツに弱小諸国は震え上がった。危機当事国に対する制裁的な条件はあまりに過酷だったからだ。
かくして、制裁は発動されギリシャは膝を屈した。そして格差は拡大の一途をたどるのである。
イギリスはこの硬直的でDV家庭のようなユーロからの離脱を図った。というような状況だったのだ。イギリスも茨の道を歩むことになるのだろうが、ユーロに残された国々もまた茨の道を歩むことになる。
スティグリッツはこの事態にも解決策はあると述べている。それは決して突飛でミラクルな方法ではなく、地道で堅実なものだった。
しかし果たしてユーロは目を覚まして軌道を修正することができるのだろうか。
いずれはきっと。と思う。絶滅危惧種、または氷河期を前にした恐竜たちのように新自由主義者たちの前途は暗い。いずれ絶滅するであろうと思う。しかしそれにはまだまだしばらく時間がかかるだろう。残念だけどそんな気がする。
先日脳梗塞で弱っている石原慎太郎は築地市場の移転問題で都議会に証人喚問されたが、弱っている老齢の石原に都議会議員たちは歯が立たないのである。世の中は正しくとか正しくないとかで動いていく訳ではなく、こういう強い人に引きずられて進んでいくのだなと、おろおろしながら愚かな道に着いてって、みんなで大損するのだなと思ったわ。
ユーロにもきっとティラノサウルスみたいなおっかない人がいるに違いない。
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2017/03/05:初めに書いてしまうが椎名誠が好きでたくさん読んできたし、ご本人が薦める本もずいぶんと読んできた。先日ひさびさに椎名さんの本を読んで、思い出したようにその本に登場した本を見つけて読んだのだけど、よくよく見返すと、この本のことはそれほど誉めてなかった。微妙な書き方だったのだ。
読んでみてわかった。ああそういことかと。
2003年2月1日スペースシャトルコロンビア号はミッションを終え帰還するために大気圏に再突入したが左翼の損傷が起こり空中分解し、乗務員全員が死亡するという事故がおこった。
発射時点の断熱材剥離による損傷が大気圏再突入に耐えられなかったものだという。
しかし、正直事故の印象はかなり薄い。申し訳ないけど。チャレンジャーが発射数分後に分解したのは1986年1月28日。この時はまだ高度も高くなくていろいろな角度でバラバラになって墜ちてくる機体の映像が撮影され繰り返し報道されたのを覚えているが、コロンビア号はかなりの高度を高速で飛行している最中に分解したためほとんど映像がない。事故の印象が残らなかったのはこのせいなのかもしれない。
でもやはりアポロが月面に到達したときのあの注目度、高揚感からみると宇宙飛行士も宇宙開拓も向けられる目線は冷めてきたことも事実だ。
それはアメリカの威信やアメリカンドリームのような言葉の持つ響きが虚ろになってきたことと同じ歩みをとってきた。
何しろ宇宙開発で先行していたアメリカはいつの間にかソ連に追い抜かれていた。スカイラブ計画で米ソがドッキングしたところまではまだ良かった。この時僕は夜空を横切るスカイラブの反射光を追って夜空を見つめていた。そして確かに事前に調べていた通りの時間と方位に現れた。予想外の速さで夜空を横切るスカイラブを興奮して見つめていたことは今でもよく覚えている。
しかしアメリカの威信は陰りをみせ始め、国際宇宙ステーションの計画ではあろうことかソ連のロケットに乗せてもらって宇宙に行くという。ハリウッド映画にどっぷりはまりアメリカに憧れのようなものを抱いていた僕にとってそれは裏切りに近い行為に見えた。大袈裟かもしれないけども、勧善懲悪の単純な世界観で生きていた僕にとってソ連は敵以外の何物でもなかったのだ。
宇宙開発やロケット発射に対する視聴率がアメリカや日本で低下していったのは僕にとっても当然の事だった。信頼できない邪悪な敵だったはずの国とにこやかに手をつなぎ客としてロケットに乗せてもらう姿を何で観たいと思うのか。僕ら昭和の子供たちは大抵そのくらいアメリカの事を単純に信じていたのではないだろうか。
1981年4月12日の朝にコロンビアが初めて打ち上げられるまで、宇宙は六年間の長きにわたり、ソ連の独占的な支配下にあった。地上においては、アメリカは連戦連敗から抜け出せずにいた。まだヴェトナムの悪夢の余波も生々しく、イラン革命後に起きたテヘラン米大使館占拠人質事件では、人質救出に向かったヘリコプターが砂漠に埋まった。スリーマイル島原子力発電所事故は、大惨事になる一歩手間だった。鉄のように強固に見えたデトロイトの自動車業界も、安くて故障の少ない、聞いたこともない車が日本からどっと押し寄せてくると、なすすべもなく後退を余儀なくされた。世界恐慌の頃の「アメリカ製を買おう」というスローガンが再び叫ばれたが、誇らしさよりも、嘆願するような響きが強かった。
ましてこの時、ISSに滞在していた乗組員たちの帰還が危ぶまれる事態になっていたとは。
これは国際宇宙ステーション(ISS)のミッションSTS-113の実施に向かう第六次長期滞在チーム、エクスペディション(Expedition 6)に起こった事だった。このチームは2002年11月24日に地球を離れ2003年3月に帰還する予定がコロンビアの事故で滞在が無期限延期という状態になってしまったというものだ。果たして彼らは、というのが本筋であります。
しかしこの本、宇宙開発の過去の経緯やら地上で彼らの帰りを待つ家族の話やさらには彼らの出会いみたいなところへと逸脱していってなかなか話が進まない。
ただでさえ上述したISSのミッションは複数の長期滞在チームによって行われるため計画、エクスペディション6の予定とかの全体像がわかりにくい上に、こうした逸脱によって時間軸がややこしいことになってしまっている。
それに何より、帰還予定が無期限延期となった時点での緊迫感のなさ。なんだこれ。僕ら
確かに彼らの運命は風前の灯火なのだけど、アポロ13なんかを読んできた事を振り返るとなんともぼんやりしているのでありました。
ミッションや事故の記憶が全く無い分最後まで読ませる力はありましたし、得るものもありましたが、それにしてもちょっと長かったわ。
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2017/02/26:新自由主義という概念を知ったのはこの5年程度の間なのではないかと思う。アメリカは新自由主義所謂ネオコンの台頭によってとてもおかしなことになっていってしまった。
こんなことが日本に起こったら大変なことになると思った。
アメリカへの追従と模倣が日本のお家芸のようになっていたことから放っておけばいずれ同じようなことが起こるだろうと考えた訳だ。
逆に言えば「政府の規模と権限をバスタブに沈められるぐらいの大きさ」にしようとしているこの新自由主義なるものはまだ日本では大きな勢力にはなっていないと思っていた。
電電公社も国鉄も郵政も民営化が進んできたが、これは外圧によるもので日本が自ら選択している訳ではないとも考えていた。着実に進んではいるものの本気で取り組んでいる訳ではないと思ったのだ。
それは僕自身が高度経済成長の時代に育ち、通産省の主導によって産業は保護主義的に育成されてきたことをみてきたからだし、日本型の企業経営は労働者と経営サイドの敷居が欧米とはことなりまだまだ家族的で終身雇用的なスタンスに立っているところが大きいと実感していたし、何より世界的にも奇異に映る程の財政赤字を作り出した政府はどこから見ても新自由主義的ではないと思っていたからだ。
しかしそれは単なる世間知らずであったに過ぎなかった。僕の心配はすべて杞憂であった、だって既に日本はどっぷり新自由主義的な政党政治家によって支配され運営されていて、むしろ欧米よりも先に進んでいたりもしていたのだから。
びっくりして開いた口が塞がらないというのはこういうことを言うのだろう。そんなバカなと思った。
本書で言う「新自由主義」とは、資本主義の好不況の波を政府の介入によって調整し、安定さえるという、T・H・グリーン等が唱えたNewLiberalism、いわゆる「修正主義」という意味での「新自由主義」ではない。そうではなくて、J・M・ケインズの理論的支援を受けながら修正資本主義が達成した福祉国家大勢を攻撃の対象とするものである。より一般的には、国家の経済領域への介入による各種の調整を否定し、契約自由の原則、市場原理による景気調整等、自由主義の「復活」を企図する思想及び政策体系のことである。
本書はこの上記の定義される新自由主義が戦後の日本政府のなかでどのように浸透拡大してきたのかについて時期を追って詳らかにしてくる。
戦後、それも終戦直後から始まるとはどこまで予想外なんだこれ。
日本の政治責任という観点でのみ語れば、日本は愚かにも全体主義的な政府を生み出し暴走を許したことで第二次世界大戦へと盲目的に突入し、沖縄での地上戦や東京大空襲、そして広島・長崎への新型爆弾の爆撃で都市が消滅するような被害を生んだ。
この歴史的背景というか、その大きな流れから新自由主義的思想に対する反論が起こりにくかった、共産党や社会党もその延長線にファシズムがあり、戦時中の戦争責任の一端を担ってしまった負の遺産が新自由主義への傾注にブレーキを掛けられなかったという側面もあるのだという。
なるほど戦争経験者たちは政府に対しても社会主義に対しても一定の距離を置き不信感を持って付き合っていたというのは言われてみれば当然の意識だ。僕らのような戦後高度成長期に生まれた者とは世の中の見方がまるで違っているのである。
こうした日本の生い立ちを下地に新自由主義はあまりストレスなく政治家にも財界にも一般の有権者達にも受け入れられてきた。
とはいうものの、全面的にそのような政策が暴走することもなかった。それは様々な政治的・経済的な状況の中で幾度も舵を切れられていく。
通読して感じたのは特定の政治家や政党が極端に新自由主義的であったりする訳ではなく、様々な利害関係者たちの間でおこるコンフリクトを解消するための方策の一つとして「新自由主義的」な施策や政策が生み出され、種々選択のなかで結果論的にそれが選択されたり、されなかったりしてきたということが浮かび上がってくる。
G・エスピアン=アンデルセンは、米国を代表とする自由主義レジーム、北欧を代表例とする社会民主主義レジーム、独仏を代表例とする保守主義レジームの三類型を提起し、福祉国家類型論に関する議論を活性化させた。
興味深いことは、エスピアン=アンデルセンが日本について、三つのレジーム特徴をそれぞれ備えているとし、明確な規定を見送っていたことである。確かに日本は、家族主義や職場毎の社会保険体制を考慮すれば保守主義レジームであり、国民皆保険・皆年金体制を有する点から見れば社会民主主義レジームであり、そして、保育や介護について自助努力が必要であることから見れば自由主義レジームであると言えた。
日本はつまり戦争責任・敗戦といった経緯から欧米にみられる政治スキームのどれにも属さない独自の形態をとっているというのである。ここで登場するエスピアン=アンデルセンとは、イエスタ・エスピン=アンデルセン(Gøsta
Esping-Andersen)というデンマーク出身でスペイン在住の社会学者・政治学者が提唱した福祉レジーム論のこと。
本書は各時代の各政権・首相をはじめとするブレインたちが世論や国際経済、国際政治の駆け引き、更には東日本大震災のような天災のはざまでどのような舵取りをしてきたのかについてこれでもかという現実を突きつけてくる。
そう考えると日本政府、政党、政治家達は充分に差別的であって、日本人至上主義的だし、右翼や差別主義者たちを焚き付けるような事でそういう人たちの注目と票を集める事で選挙を勝ち抜いてることを考えると、トランプはむしろ日本の真似をしていると見る事すら可能な事に気づく。
幼稚園で教育勅語を暗唱だなんてそれは洗脳じゃねーかと。そんな連中に便宜を図ったり、賞状送ったりしてるなんて、破廉恥にも程があるけども、これはトランプ的というよりも、もう一度言うけど日本の政治家的なセンスなんだろう。
でこういうアホに惹かれるアホが多いから選挙に強くなる。日本はとうの昔から民主主義の限界を越えていたという訳だ。
新保守主義的であるのかそうでないかをさておいても非常に読みどころの多い読み物となっていました。
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2017/02/05:昨年義母が亡くなり今年のお正月は喪中ということで、お年賀も元朝参りもなく、拍子抜けした年明けでした。行っちゃいけないという説が大勢だけれども、なかにはいや実は構わないなんて言っているのもあって、本当のところはわからない。しかし、これの「本当のところ」というのは一体何なのか。
また年末にはクルマを傷つけ大いに凹み、年明けからも自転車の鍵を無くしたり、スマホを落として液晶を割ったり、カミさんはインフルエンザから副鼻腔炎と顎関節症を起こして一月体調不良が続いている。
職場でも人事やら人間関係やら事件事故に病人だご懐妊だでゴタゴタする毎日だ。 家でも職場でも「こりゃお祓いが必要なのでは」とつい口にでる。実際我が家は長男が厄年ということもあって来週あたり地元の神社でお祓いを受ける予定だ。
信じる信じないではなくなんもしないままでいるのは落ち着かないというところだ。
こういうのは信心とはまた別腹なところが適当というか矛盾しているのは判っているのだけど、まーそれが日本人というものなのではないのか。
と妙に納得したりしてるが、実際この感性は何なのか。
ということでサイキックである。サイキックというと「超能力」と云うイメージだが、イギリス人のそれは割と緩くて曖昧なものがあるようだ。副題にもあるとおり霊能者や占い師もサイキックに含まれているのである。
水晶玉や生年月日で人の運命を占う占い師が「サイキック」?そうなのか。
一方でスプーンを曲げたりするような「超能力」は本書には登場しない。著者の興味はあくまで未来や過去を見通す力の真贋にあるのである。霊能者が登場するのも単に霊が見えるとかではなく、彼らから過去や未来に関する情報が得られる場合に限っているのである。
それは星占い、手相、ジプシーのタロットカードから強力な霊能力を持つとされる超能力探偵まで手段の異なる様々なサイキックたちを訪ね歩く旅でありました。
そしてイギリスという国が実は昔からこうした御告げをものすごく信じやすい人たちの国であったということだった。思い起こせば魔法や神話のような物語がたくさんあるイギリスは筋金入の超常現象大好きな国だったのだ。
日本人のように。
カミさんも娘も占いが気になるようで、お気に入りの占いには欠かさず目を通している。そして占いの結果であーだこーだ話し合ったりしている。僕はそんな事はしないけどお正月、今年はやらなかったけど、元朝参りではおみくじを買うし、良かったり悪かったりに一喜一憂してしまう。
いろいろな占いに対してカミさんや娘は当たる、当たらないに敏感だ。「これはすごいよく当たる」みたいな事をよく言っている気がする。
僕は星の運行とかでそんないろんな事が決まる訳なかろうと思っているけどいちいち口ははさまない。さらに僕はそもそもそんな占いを唱えている人たちにはいかがわしい感じの人たちが多いと思つている。
シルヴィア・ブラウンの成功の秘密は何か、彼女は本当に世界最強のサイキックなのか。僕はそれを知りたかった。シルヴィアはこれまでに、ものすごい予言をいくつもしている。そのひとつによれば、人類は2018年に地球外生命体と遭遇する。とはいえ、シルヴィア自身はすでに宇宙人と昼食をともにしたらしい。彼は「ヘアブラシの使い方を知らなくて、ゼリーを飲み物と間違えた。宇宙人ってほんとにかわいいの」シルヴィアは宇宙人とのランチをそう振り返っている。
宇宙人はどうかと思うけども、例えば霊能力を持つとされる人たちがすべて見えもしないものが見えるとでたらめを言っている訳でもないのではないだろうか。まして悪意を持っている訳でもない。
人間の脳はパターンを見いだす事で問題解決を図るようにできており、時として本来は何もないところに何かがあると見たり感じたりすることがある。霊能者などはこうしたところに敏感な感性を持っているのかもしれない。
名だたる宗教に関する本を読んではこの信者の人たちは一体何を信じているのか。なんて事を繰り返し呟いてきた僕だが、こうなってくると、信じる、信じないのレベルが桁違いな感じだ。
実在性はともかく彼らのなかには本当に一般の人たちには見えないものが見えていると思う。理屈の上ではここで肝心なのは実在性だと思うのだけど、占いやおみくじを受け入れてしまう自分にはそんな事はどうでもよくて、そこに述べられている事の可能性に向いてしまうのだ。
今回何度も登場する僕のカミさんはキリストの存在とか復活を頭から信じてはいないと思うのだけど、じゃなんでどこの誰とも、どうしてそんな事が解るのかの理屈も全くわからない占いを「信じる」のかというのと同じだ。
そしてそれはおみくじについ一喜一憂する自分も同じ。
なんとあちこちインタビューしてまわる先のお一人はリチャード・ドーキンスその人でありました。
「サイキックは力になってくれる、あるいはサイキックに会えば気分が良くなると考えているなら、その行動は理論的もしくは理性的と言えませんか。彼らは理性で判断しているのだから、非理性的ではないですよね」僕は聞く。ドーキンスは眉をひそめる。
「それがサイキックのもとを訪れる理由だ」彼が静かな声で言う。「だが、それはサイキックの言葉が正しくと信じる理由にはならない。サイキックのおかげで気分が良くなるかもしれないが、それを言うならプラシーボ効果も同じことだ。だからといって、サイキックの言うことが正しいということには決してならない」
ドーキンスの言葉を聞きながら、僕はやり過ぎなくらい相槌を打つ。だがドーキンスが話し終わり、僕がうなずき終わったその時、僕の脳が「あなたは質問に答えてない」と言ってやれと僕の口をそそのかす。
ドーキンスの懸念、サイキックは理性や科学の体系を危険にさらすものであるという理屈については僕も激しく同意はするのだけれども、所謂原理主義的な宗教感とはこれまた違った根深さがこのサイキック信奉には存在し、ここから離れるには脱宗教とはまた別の難しさがあるというか、無理なんじゃないのかとか、努力する意味があるのかとすら感じる。
つまりは何を言いたいのかと云えば、それはつまり自分自身の未来、そして今にまつわる問題だからだ。
自分の将来はどうなるのか。今のこの現状はどんな原因によるものなのか。おそらく実際には将来、そりゃ誰にもわからんし、今の現状はまたまたそーなだけだと思うけどもそれではあまりに身も蓋もない、そして不安だ。だからどうしても何か寄りどころになるものが欲しい。
そしてその根底には、何故なのか。どうなっているのか。について考えずにはいられない人類の習性がある。だからこそ人類はいろいろな謎を解いては環境に適応するだけではなく、積極的に変化して進化してきた。
因果関係における実在性と可能性の間で揺れ動く僕らは選択肢を多様化することでどうにか生き延びてきた。
サイキックを訪ねる今回の旅は予想通りどこにもたどり着かない旅だったけれども、予想以上に深く物事を考えさせてくれる機会を与えてくれました。
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「転落の街(The Drop) 」
マイクル・コナリー ( Michael Conneliy )
2017/01/22:いやはや忙しい。下期は特に忙しい。業績評価に、目標設定があって更に能力評価と3つの人事イベントが五月雨で、終わったと思ったら来期の予算だ、要員計画だとなり、今年は中期計画の策定もあって何がなんだか、という感じなところに、退社を申し出て来る人やご懐妊で産休だ、病気だメンタルだと云う人たちで右往左往。なんでこんなに重なるのかと言えば一言で云って部員の人数が多すぎるのよ。事件事故でジャグリングをしてる感じだ。
もやもやも絶頂極まれりという状況のなか休日に逃げ込む場所として選んだのがこのマイクル・コナリーの『転落の街』。
こんな時の為に取っといた一冊なのよ。間違いない。外れなしの一冊。
そのコナリーの本の中でも評判がよい。近年快調に飛ばしてきたコナリーの新作が高評価であるというのはどうした事なのか。
つまり近年の作品を上回るものになっているという意味なんじゃないのか。
コナリーの本には普段から余計な情報を遮断してかかっている僕だが更に慎重に目をつぶって取りかかっていく必要があるだろう。
しかし実際には2011年に刊行された本で、縷々情報が入ってしまい事件があの宿敵アーヴィン・アーヴィングの息子の転落死にまつわるものである事を既に知ってしまった。
それをボッシュが追うのである。果たしてどんな事件でどんな結末を迎えるのか。
2011年、未解決事件班に異動して一年になるボッシュは新たな事件が割り当てられるのを心待ちにしていた。
コールドヒット。未解決、迷宮入りした事件の証拠を最新の科学捜査、DNA鑑定で洗い直し、個人が特定できたものが週に一度郵送されてくるのである。
今回ボッシュの手元にやってきたのは厄介な問題含みのものであるが故だった。
1989年19歳の女性が乱暴され絞殺されるという事件の証拠として提出されたのは被害者の首もとから検出された血痕であった。
この血痕は被害者のものではなくDNA鑑定で浮かび上がってきたのは性犯罪暦を重ねる男だったが、事件当時はまだ8歳。しかも彼の犯行は少年に対するものばかりであった。
考えられるのは未解決事件班のなかで証拠の入れ替えが起こっていること。
仮にそれが事実だとすると他の未解決事件の証拠も汚染されている可能性が浮上、未解決事件班の信頼性は地に落ちるよりも酷いことになってしまう。
ボッシュに期待されているのは騒ぎが表沙汰になる前に何が起こっているのかを調べることだった。
ベテランであるが故に任される事件に向けてスパートをかけようとしたボッシュだったが、別件が割り込んでくる。
それが高級ホテルの最上階から転落死した男の事件だ。そしてこちらは昔の事件ではなく最新のものだった。
その日、夜明け前に転落したらしい男は現在市議を務めるアーヴィン・アーヴィングのひとり息子だった。アーヴィングは元市警の警察官でボッシュの上司であったこともあったが、価値観というか、善悪の境目というか、つまり全くそりが合わず対立してきた相手なのであった。
アーヴィングはなんと息子の死に関する捜査をボッシュに任せるよう市警に圧力をかけてきたというのである。
最初から政治的意味合い含みとなることが明らかなこの事件は誰もが知るところで、真っ直ぐは進まず、これもまた厄介な展開になる可能性があり、下手を打てば手酷い痛手を受けることにもなりかねない。
できれば引き受けたくはないような事件こそボッシュの元に転がり込むものなのだ。それにしてもアーヴィングはなぜあれほどまでに反目していた自分を指名してきたのか。
その意図を訝りつつも現場に急行するボッシュ。同行するのは未解決事件班でチームを組むチューだった。
死体を間近に見るのが苦手でその必要がない事から未解決事件班に志願したチューはまだ刑事としては半人前で、まして事件直後の現場は不慣れだった。ボッシュが多くを語らず必要な指示だけを投げつけることに不満な様子だ。
事件捜査としては既に出遅れている事から構わず先に進むボッシュとの間に徐々に溝が生まれていく。
市警本部の上層部に上がっていったライダーはボッシュの庇護を保証したものの相変わらず高圧的に報告を求めてくるアーヴィング。
自分から指名したくせに息子の家族に引き合わせる事に躊躇する相手の懐に土足で踏み込むボッシュは無傷で捜査を終えることができるのか。
ボッシュはまた転落事件捜査の傍ら、先のコールドヒットの事件捜査も進めていくのだが、この二つの事件それぞれがすごいスピードで走り出す。
この本なんだか厚さがおかしい。上下2巻なんだが、まだまだ後ろがたくさんあるのにどんどん進んで行ってしまう。当然ながらそれで終わる訳がないのだけど、全然先がある。
これってどういうこと?何がこの先待っているのか。こういうのは初めてだと思う。
なんだこれこの本。そして本書は最後まで読者を裏切らない。二転三転。見事なまでの疾走感で駆け抜けていく。
ネタバレなしの本サイトとしてこれ以上具体的な内容には踏み込みませんが、読了して本当に感心したのは、奇をてらわない、無茶な設定や、トリッキーな技も用いずミステリーをここまで面白く書けるのだという、つまり王道、本道を極めていこうとするコナリーの気概だ。
こうでなければ。これこそ僕らが求めているものだと。そう思わせる力がありました。
見事だ。脱帽だ。
仕事の嫌な事もなにもかも吹っ飛ぶ至福の一時を頂戴しました。
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2017/01/21:言葉を失うような本でありました。沖縄は米軍の上陸作戦が展開し壮絶な戦闘が行われ民間人も含めて甚大な犠牲者を出した。
特に沖縄の人々は徴用され、米軍に捕まれば残虐な目に遭うと擦り込まれ、バンザイ攻撃や自決に追い込まれるなどの多くの悲劇を生んだ。
しかし沖縄で行われた死闘のほとんどは表に出てきていない。日本軍は現地で殲滅されたからなのもあるのだろうが、一般的な日本史はどうも都合の悪いとこを省略したり曖昧にしたりしてる部分が多く、近代史においてその特徴が顕著だ。
なのでこうした史実に迫るには海外の情報に当たる方が視野が広がってよいのである。
そんな訳で沖縄戦の実態に迫るべく本書に取りかかることにした訳です。
本書はこの戦いを生き抜いた米国の兵士たちへの取材を丹念に行い、そこで彼らが目にした光景を再構成したものだ。そのせいもあって描き出される出来事は断片化され、前後の状況のほとんどは極端に省かれるかまたは不明なままだ。
目の前で死を遂げる敵兵はもちろんだが、友軍の兵士ですら名前がない。シュガーローフヒルで繰り広げられた戦闘は近距離の肉弾戦であり、複雑強硬に固められたら日本軍の要塞から行われる攻撃は予測不能であったことから、米軍の前線は混乱・孤立化し激しく消耗していった。
投げ込まれた手榴弾をお互いに投げ返し合っていたとか、点火するために自分のヘルメットに叩きつけた手榴弾が爆発し頭部が吹き飛んだ日本兵の姿をみて笑ったなどという出来事がひたすら続く。
そこで命を落としていく人々はどちら側の者であろうとも、理由も原因も、そもそもの目的ですら希薄だ。殺し合っているというのともまた違う。衝突した双方の間で炸裂する兵器によって人々は死んでいくのだ。ただただ夥しい殺戮があるのみなのだった。
米軍の多くの人々は二十代で、25歳を越えていると年寄り扱いされるような現場だったようだ。日本軍の兵士たちにはアジア方面で経験を重ねた熟練の兵士もいたようだが、やはり多くは寄せ集めの若い兵士や沖縄で現地徴用された素人の人々であった。
更に沖縄戦の背景には派遣された旅団が輸送船の中で攻撃を受けほぼ壊滅したという出来事もあったそうです。
本書のあとがきにはその輸送船の出来事が紹介されていた。
シュガーローフヒルで、第六海兵師団と真正面から激突することになる独立混成第十五連隊は、昭和19年6月24日千葉県の佐倉で近衛歩兵連隊を中心に習志野や木更津、その他、関東地方の部隊出身の兵士らで新設された。連隊長は美田千賀蔵大佐で、部隊は編成後、ただちに佐倉から習志野に移動して、7月1日、列車により陸路で山口県の門司港に集結、そこから船団にて沖縄に輸送されるために待機した。
この連隊は、三個歩兵大隊に砲兵中隊、速射砲中隊、工兵中隊がくわわり、総員が2180名であった。
そのすこし前の6月3日に、やはりシュガーローフ一帯の守備を命じられる独立混成第四四旅団も、南九州の兵士を中心に編成された。旅団は、それぞれ三個大隊から構成される第一歩兵隊と第二歩兵隊からなり、第一歩兵隊は鹿児島の第四五連隊、第二歩兵隊は都城の二三連隊で編成され、それに熊本で編成された旅団砲兵隊と、旅団工兵隊が配属された。
6月27日、旅団は、四国で編成された独立混成第四五旅団の兵士らとともに、鹿児島港から沖縄支援に向かう十数隻からなる船団のうちの一隻、戦時徴用船・富山丸に乗船して出航した。
この船は第一次世界大戦でドイツから戦利品として得た船であり、当時日本に残存していた最大級の積載量をもつ輸送船であった。旅団主力の4000名余りの将兵に、ドラム缶1500本分のガソリン、トラックなどの車両、さらに火砲や弾薬が満載されていた。船団は富山丸が中心となり、偽装のために甲板に空のドラム缶をのせた輸送船が周囲に張り付くように取り囲み、駆逐艦二隻にくわえ、哨戒機も上空から警護にたずさわった。
こうした偽装工作にもかかわらず、6月29日午前7時、富山丸は徳之島の亀徳港の沖合 4キロの地点で、米国軍の潜水艦「スタージョン」の魚雷攻撃を受けた。一発目と二発目の魚雷が左舷船首と、ガソリンが積まれていた船倉に命中し、大火災が発生した。さらに三発目の魚雷が機関室に命中、積み荷の弾薬が誘爆し、船は真っ二つにさけ一分半で沈没してしまった。
この攻撃で、重装備のまま、すし詰め状態で船室にいた兵員は大半が船とともに沈み、さらに運良く海上に逃れた兵士らも、流れ出たガソリンによる火炎に飲み込まれ、結局、将兵、船員合わせて3874名が死亡してしまった。
いずれにしても近代化され殺傷能力の高まった兵器の前で一人一人の兵士の経験値や戦闘能力は殺傷能力を高めはしても、生存能力は相関しない。単に居る場所と時間が悪ければ死や負傷が容赦なく降りかかってくるのである。
そこにあったのはただひたすらな「鉄の暴風」でありました。
ウィキペディアによれば沖縄戦による損害は 死者・行方不明者戦傷者が双方で274,236人となっていました。終戦は日々遠い記憶になっていっている訳ですが、彼らが直面した恐怖と狂気、無念さは決して忘れてはならないと思います。
一方平和に慣れきった今の我々。それでも日々の暮らしにストレスも悩みも尽きないけれども、散っていった彼らの思いを振り返って、なんと些細なことに囚われているのだと、目を覚まさせてくれるものもありました。
△▲△
2017/01/08:年が改まりました。喪中につきお年賀を遠慮させて貰っております。当たり前ですが世間的には新年・お年賀モード全開のなか、なんだか居場所がない落ち着かない元旦を過ごしております。
さて2017年最初の一冊はエマニュエル・トッドの「家族システムの起源」であります。ちょっとの間、トッドとエドワード・サイードと混線してて亡くなったと思っておりました。大変失礼しました。
日本語版への序文
序 説 人類の分裂から統一へ、もしくは核家族の謎
第1章 類型体系を求めて
第2章 概観――ユーラシアにおける双処居住、父方居住、母方居住
第3章 中国とその周縁部――中央アジアおよび北アジア
第4章 日 本
第5章 インド亜大陸
第6章 東南アジア
原註
第7章 ヨーロッパ――序論
第8章 父系制ヨーロッパ
第9章 中央および西ヨーロッパ――1 記述
第10章 中央および西ヨーロッパ――2 歴史的解釈
第11章 中東 近年
第12章 中東 古代――メソポタミアとエジプト
第II巻に向けて――差し当たりの結論
原註
訳者解説
訳語解説
参考文献
図表一覧
索引(地名・民族名/人名)
冷静に考えればどうしてこんな勘違いをしたのか訳がわからないよ。トッドの本は何冊が読んでいてどこかで混線したか。
「帝国以後」、「デモクラシー以後」 、「自由貿易は、民主主義を滅ぼす」 、あれまてよ、「ヨーロッパ戦後史」はどうしたと思ったらなんとこちらはトニー・ジャッド。エドワード・サイードじゃなくてトニー・ジャッドと混線していたのだった。
どっちせよ、激しい混線には違いないのだけど。
因みにエドワード・サイード(1935年11月1日 - 2003年9月25日)はアメリカの文学研究者、文学批評家でパレスチナ系の方、トニー・ジャッド(1948年1月2日
- 2010年8月6日)はイギリスの歴史学者。本書の著者、エマニュエル・トッド(1951年5月16日 - ) は、フランスの歴史人口学者・家族人類学者。ユダヤ系だがカトリックの信者だそうだ。
3者は何れにせよ鋭い洞察・分析能力でこの世界と歴史をひも解き僕らに新しい、これまでみたことのない世界観を与えてくれる人たちであって、政治システムや国際関係などに関する著書が中心となっており、トッドの専門分野が全然別のところにあるということに考えが及んでいなかったよ。
ノーム・チョムスキーの肩書も言語哲学者、言語学者、社会哲学者、論理学者となっていて普段僕が読んでいるチョムスキーの本、近年のアメリカ政府の政治史は副業。トッドは人口動静からソヴィエト連邦の崩壊を予測し「預言者」と呼ばれるようになった人だが、本業とは外れた副業的な成果なのでありました。トッドの本業は家族人類学者・・・。家族人類学って何ですか。どうやらそれは全地域・地域の過去からの家族構成、家族の形態を分類しその変遷を追い、並行して記録に残る史実との間の相関をみてみようという気の遠くなるような根気のいる作業を重ねつつドラスティックな歴史の動きを把握し直そうという大変野心的な試みを行っているものらしい。
家族の形態やその変遷・発展など全く思いもよらない考え方であった次第で、これは是非とも読んでおきたいと。上下2巻でかなり大振りな本書は途中長めの休憩も含めて結局2ヶ月もかかっちゃいました。チョムスキーの本業、成文法の本同様、こういう飛びぬけて高い知性を持った人の本当の専門分野の本ってほんと途轍もなく難しいんだねー。びっくりだよ。
トッドは家族の形態を以下の種類に分類区別したのだそうだ。
家族の型
父方居住共同家族(父共)
母方居住共同家族(母共)
双処居住共同家族(双共)
父方居住直系家族(父直)
母方居住直系家族(母直)
双処居住直系家族(双直)
一時的父方同居[もしくは近接居住]を伴う核家族化(父同[もしくは近]核)
一時的母方同居[もしくは近接居住]を伴う核家族(母同[もしくは近]核)
一時的母方同居[もしくは近接居住]を伴う核家族(双同[もしくは近]核)
平等主義核家族(平等)
絶対核家族(絶核)
追加的な一時的同居を伴う直系家族(追同直)
親子関係のなかで同居するのがおおくを占める、同居するとしたら母方なのか父方なのか、つまり子供世代の夫婦がどっちの親のもとに同居する傾向があるのかということだ。これに、資産相続の行われ方によって、長子直系重視なのか、平等的なのかによって家族の型は分類されている。これが時代の進化変遷とともにというか変遷の原動力として家族システムが進化してきたのだというのである。
僕の父方の実家は明らかな長子直系型であって、少子化に伴って家族の型は変更を強いられているものの、長子直系型は世界のスタンダードなのかとのほほんと思ってましたよ。
ところが全然違うのね。地域民族によって思いがけない程豊かな多様性がそこにはあった。発想もさることながらこの分類を浮かび上がらせるこの能力には舌を巻く。
現在入手可能な歴史データの示すところでは、男性長子相続が本当に日本に、その貴族層の中に登場したのは、鎌倉彫時代(1190~1333)後半になってから、すなわち、十三世紀から十四世紀初頭までの時期においてであった。それは、実際の政治的権力の中心が京都地域、すなわち畿内から東へと動き、鎌倉と東京のある地域、関東へと移った時期である。農民層の中に不分割の規則が登場したのは、その頃か少し後のことだったと仮定することができる。家族変動がどのような社会階層の中に起こったのかという問題は、ある意味では言葉の用い方に関わる。というのも、日本の封建時代初期の特徴の一つは、ほとんど貴族である武装大農民と言うか、ほとんど農民である小貴族と言うか、どちらとも決められない中間色的階層の登場だったからである。平均的階層を中心にして、その上と下に細かく階層分化したこのような農村的社会形態は、直系家族の古典的な相関者である。ここでは、どちらが原因でどちらが結果七日は、即断しないでおこう。遺産の不分割の規則は、農村社会の両極化を妨げる。同じ現象がヨーロッパでも、フランスの南西部や南ドイツで観察される。
しからばこの長子直系型の家族システムはどこからやってきたのか。予測されるのは農業技術などと一緒に中国からやってきたのかと思ったのだが、トッドの研究はその予想をあっさりと裏切ってくる。
日本型直系家族は、朝鮮経由にせよ直接にせよ、単に中国から到来したものであると考えることができないのは、明らかである。この両国の最初の緊密な接触の時代に、中国はすでに共同体家族化されていた。せいぜいのところ、法典と儒教的慣行の中に昔の中国型直系家族の儀式的痕跡が残るのに気付くことができるぐらいであった。それだけでも概念的次元では無視できないが、ヨーロッパの封建時代にほんの少し遅いだけの日本の直系家族・封建時代は、中国の直系家族・封建時代の消滅の1000年以上も後に誕生した。平安時代末期の日本の貴族階級の家族システムについて知られていることはきわめてわずかだが、それでも、当時、いかなる直系家族的概念も家族的慣行の中に根付くのに成功しなかったということを明らかにしている。
直系家族が出現するには、大開拓の終了、国土の中心部における集約農業の出現、昔から人が居住する地帯─本州の西の三分の二、プラス四国島と九州島の人口稠密部分、としておこう─における日本農村社会の稠密化を待たなければならない。長子相続は鎌倉時代に出現した。この時代は、中央部地域の東に位置する〈関東〉の勢力上昇が顕著であり、この地域を発展の震央と考えるのは妥当と思われる。長子相続は、京都の宮廷の権威をはねつけた戦士的貴族たちによって〈関東〉にもたらされたのである。
つまり農業由来ですらないという訳だ。本書におけるトッドの文章は非常に読みにくくて集中力が持続できず、斑に読んだというか、字面を追った感じになっているところが多々あって全く理解できた感はないのだけれど、上記の文章を読む限り少なくとも日本における長子直系相続の形態は農業が稠密化し、労力に余剰が生じたことに伴う支配者層の台頭があって、この支配者層の間で生まれてきたことを示唆している。
定住しない狩猟採集民や遊牧民たちは特定の子孫にのみ資産を相続するよりも、集団で寄り添うことの方が優先され、父方だ母方だといった規程などがない親族一同で寄り合って暮らしいている方が合理的だったろう。農業は定住化を促進したが、農業従事者たちの家族は労働力を確保するためにやはり大家族化し集団でまとまっている方がやはり合理的だった。
トッドは家族システムの起源的基底というものを以下のように書いていた。
フィリピン、ボルネオ島北部、セレベス[スラウェシ]における、核家族システムと双処居住家族システムは、極限的な周辺部に位置する事と、末子相続原則も含めて、明解な組織編成原則を持たないことから、われわれとしては、これらは最も太古のシステム、つまりわれわれのモデルによれば、人類の起源的な類型と考えられるものにきわめて近いシステムの残存であるとみなすのとになる。この地帯では、残存的狩猟採集民集団が担う人類学的類型と、焼き畑農業もしくは定住的・集約的な農業を実践している住民集団が担う人類学的類型の違いがあまり感知されない。民族カテゴリーから出発しようとすると、共通紀元前2000年ごろ台湾から農業をもたらしたオーストロネシア系諸住民集団と、アグタ人のようなネグリト系諸集団を、家族という点で対比するのは容易ではない。もっとも、アグタ人は、今日ではオーストロネシア語を話すのだが、ボルネオ、フィリピンのルソン島北部、あるいはタウスグ人が占めるホロ島で観察される非定住的な直系家族形態は、当面は措いておこう。
この極限的周縁部では、家族構造と親族用語の間に素晴らしい照応を観察することができる。フィリピン諸島やボルネオ島、そして実を言えば東南アジアの残りのかなりの部分で見出されるのは、双方的ないし未分化的親族概念、すなわち男性の系統と女性の系統を区別することのない考え方を露呈する用語体系の絶対的な優位性である。このような用語体系としては、兄弟とイトコを区別するエスキモー型の用語体系と、それらを区別しないハワイ型の用語体系のどちらかしかない。ユーラシアの最西端で行われるヨーロッパ的分類は、大抵はエスキモー型である。
これが食糧生産に余力ができて非食糧生産的な仕事をする人が生まれてくるとそれらを束ねて組織化するための権威づけがどうしても必要となり、民族や信仰などを拠り所にした支配者層が生まれこうした支配者層が富や権力を子孫に継承していくためにはどうすればいいか。複数の子孫に均等にこれを分配してしまうと集約された富や権力は世代を経るに従い取るに足らないものに小口分割化されてしまうだろう。これを防ぐためには特定の子孫にのみ受け渡し分割しない方がいい。
一人っ子にすれば資産相続で揉める心配はないけれども、ちゃんと育つのか昔の社会では乳幼児の死亡率も高く戦もあるしとなると子供一人では何かと先々不安だし。みたいな原理が働いていたのだろうと思う。きっと。
本書はこうした分類を非常に狭い領域の民族・集団ごとの時間的変遷を丹念に追っていく。その範囲はもちろん東南アジア、ヨーロッパ、中東へと広がっていくのだが、その情報量に加え、彼の地の地理的環境と歴史自体へ不案内さがくわわり、折角の内容がまるで理解できないところが多々あったのは残念としか言いようがない。
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