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息子が殺人犯になった――コロンバイン高校銃乱射事件・加害生徒の母の告白 (A Mother's Reckoning:
Living in the Aftermath of Tragedy)

スー・クレボルド (Sue Klebold)

2017/09/30:コロンバイン高校の銃乱射事件が起こったのは1999年4月20日。未曽有の事件だったが、

この事件の犯人の一人ディラン・クレボルドの母親の手記。

僕は以前、この事件について書かれた「コロンバイン銃乱射事件の真実」を読んだ。

「コロンバイン銃乱射事件の真実」のレビューはこちら>>

あまりにも衝撃的な事件であった訳だが、主犯の二人が学校内で自殺を遂げたことから、 その真相は闇にまぎれ、犯人たちは学校でいじめられていたとか、トレンチコートマフィアと呼ばれる嫌世的な非行グループだったとか、独自のカルト宗教にはまっていたとか、いろんな話があったけれども、どれもでたらめだったが、実態がわかってきた頃には事件に対する世間の興味も記憶も霧消してからのことだった。

「コロンバイン銃乱射事件の真相」は綿密な取材の基づいたもので、特に学校の生徒の父兄で、FBIの捜査官で、かつ現場にたまたま一番に現場に到着していたドゥエイン・フュゼリエ監督特別捜査官による当時の状況や捜査の結果がきちんと正しく把握されていることが大きい。

実際はどうやらサディステックな破壊衝動を抱え最悪な状態に壊れていたエリック・ハリスに、うつを発症し自死することだけを望んでいる特異なまでに消極的で受け身な状態のディランは洗脳されたような形で彼の指示に従って事件に巻き込まれていったらしいのだ。

しかし、それにしてもである。

陽動作戦として郊外に爆弾をしかけ、銃乱射によって13名が死亡、24名が重軽傷を負うという凄惨な結果に加え、図書館にしかけた爆弾が計画通りに爆発していたらこの被害がどこまで大きくなったのかわからないという事件を起こすその原動力というものがどんなものなのか。

こうした計画を水面下で進めている間に周囲の家族や友人は誰一人気づかなかったということがあり得るのか、という疑問。

この解消しない疑問に対するもどかしさは本書を手に取らせるに充分な動機を与えてくれると思う。

その一方で、この母親は、本当のことを書いているのか、とか、何かこう普通じゃないところがあって目にしていても重大な印を見落とすような人物なのではないかという疑わしさ。

本書のなかで本人はディランが重篤なうつに陥っていたことのサインが実はいろいろ出ていたのに、それと気づかず思春期の男の子にありがちな反応だと片づけてしまったことがあったことは認めている。

勿論どんな病気であろうと犯してしまった事件の責任がなくなる訳ではないことも繰り返しのべている。

本書の目的としては当時の事件前の出来事、事件後の世界を敵に回したかのような状況のなかでの暮らしぶりについて、家族でしか知り得ない状況について詳しくのべている部分と、その後の調査によって判明してきたディランの病状や他の銃乱射事件の分析結果から、類似の事件を抑止することができたらという思いから書かれている部分とがある。

それは殺人してから自殺していくというパターンがあること、ディランとエリックのような二人組の犯行が少なからずいるということがわかってきたことなどだ。

本人の文章は非常に知的で抑制のきいた内容で違和感がないものになっているのだけれども、それでもやっぱりほんとうに子供の変質に気づけなかったのか、本当のことを言っているのかという疑いは個人的には払拭しきれなかったし、事件やディランを分析している後半の部分では理論的すぎるというかやや人間性に欠ける無機的な面がこの母親にもあるのではないかという印象が強まった。

だからといって事件に結びつくのではないかと言いたいわけでもないのだけれど。

感情や思考といったもののパラメータは無数にあっておそらく多分人によって想像以上に様々な形になっているのではないかと思う。

同じ状況で感じる感情や思考が千差万別になるのはこうした理由からくるものだろう。 これらのパラメータがひとつひとつ見えるようになったと仮にしてもどこからが異常なのかということを明確化することは難しいのではないかと思う。

異常者だったから事件が起こった、はあまりに短絡的な考え方なんだろう。

先般起こった相模原障害者施設殺傷事件では刃物で19人を刺殺、26人が重軽傷を負うというコロンバインの事件もかすむ大量殺人事件がこの日本で起こっている訳で銃社会かどうかという問題でもないということが突き付けられた。

こちらもいろいろ事後で出てくる話を読んでいくと兆候というか事件を起こそうとしていることを直接聞いたりしている人がいたにも関わらず止めることができなかったようなのだ。

ディランの母親は言う。もっとよく理解していたら事件を止められたのではないかと。

そうかもしれない。勿論止められれば、犠牲者は死なずに済んだろう。

いろいろ疑わしいところはあるものの、この一言には嘘がないと思う。

本書に出てくるような類似の事象もやはり同様に止めることができたのかもしれない。

また一方でどうにか最悪の事態を回避して事件にならなかったケースだってきっとたくさんあるんじゃないだろうか。

確率から言えば未然に防げたケースの方が、実際上に事件になるケースよりもずっと多いはずなんじゃないかと思う。

恐ろしい話だが、目をつぶって通り過ぎていると我々も実は事件を防げる立場にいながらそれを見過ごし大きな後悔とともに残りの人生を生きていくことになってしまう可能性だってあるのだ。

我々は何故最悪で稀なケースで学ぼうとしているのか。ほんとは未然に防げた類似のケースにもっと目を向けるべきですね。

本書を読んで感じた一番もどかしい点がなんだかはっきりしなくてもやもやしてたけど、書いててようやくすっきりしたよ。9月も怒濤のように過ぎ去って行きます。


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天国の南 (South of Heaven)
ジム・トンプスン (Jim Thompson )


2017/09/18:これを見つけた時は正に飛びついた。トンプスンの本が出てくるなんて!!直前ウンベルト・エーコの「バウドリーノ」を読み終えるところで、続けて読む本としてはややセンスに欠けるとは思った。自分これを次に読むんかと。

しかしやはりすぐ読みたい。一体何年に書いた本なのか、どうして今これがでてきたのか。どんな話なのか。いろいろ気になる訳だけど、予備知識を極力排除、自分のサイトすら覗かずに本にとりかかり、怒涛のように駆け抜けて読了しました。

ネタバレ禁止を鉄則とする我がサイト。本書に関してどこまで何が書けるのか。

恐らく1920年代と思われるアメリカ南西部。流れ者たちを使い捨ての消耗品として働かせる石油のパイプライン敷設工事の現場で仕事を待っている男たち。

敷設工事は進むにつれ作業現場が移動していく、この移動する現場から出てくる仕事を受けるために人々は現場付近で待ち構えているのだ。

そしてその仕事は身を削り、いつ命を落としても不思議ではない過酷なもので、実際に死ねば、その場所に葬られる。名も知らぬ男が、名も知らぬ場所に葬られ、それを知らせる相手も問われない。正に無法地帯な訳だ。

40年後、恐らく21か22才だった当時の出来事を振り返り独白する主人公。物語はこの回想という形で進んでいく。

彼が語ろうとしている物語はどんな話なのか。いやこれ難しいな。

物語が進むにつれ主人公や登場人物の背景がいろいろと見えてくるのだけど、行きずりの行き当たりばったりな流れ者たちであるが故に、お互いに信頼感が希薄で危なげだ。

信頼性に欠ける、不信感が伴う人間関係が物語を捩らせていく。

どうやらここに集まった者達のなかには単に仕事が欲しくてやってきた訳ではない奴らが紛れているらしい。

いやもう既に書きすぎだ。やめよう。

限界まで切り詰められた描写で読者の我々も登場人物たちの意図から隔絶された不穏な世界観はトンプスンワールド全開である。

また三好さん亡き後のトンプスンな訳だがそこはエルロイの「LAコンフィデンシャル」などを手がけた小林宏明氏がツボを抑えた全く違和感のなく仕上げてくれていました。

誰を信頼すればいいのか、怪しげな行動の背後に隠されているのはどんな意図なのか。読者はこの主人公と、いや主人公以上にただただ振り回され翻弄されていく。

疑惑が広がり、闇が深まるばかりのまま物語はラストに向けて加熱・加速していくのだけどこのヒート感は素晴らしい。こんな本が埋もれていたとは。いやはやあっぱれであります。他のトンプスンの作品とはまた一味違う傑作だと思います。

トンプスン?という方は是非この一冊から始められるのがいいと思います。

「内なる殺人者」のレビューはこちら>>

「サヴェッジ・ナイト」のレビューはこちら>>

「死ぬほどいい女」のレビューはこちら>>

「アフター・ダーク」のレビューはこちら>>

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「鬼警部アイアンサイド」のレビューはこちら>>

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「取るに足りない殺人」のレビューはこちら>>

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「脱落者」のレビューはこちら>>

「反撥」のレビューはこちら>>

 
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バウドリーノ (Baudolino)
ウンベルト・エーコ (Umberto Ecotnam )

2017/09/10:読み終えのにかなり時間かかっちゃいましたが、ようやく読了しました。

色々と予想外な本でした。

「薔薇の名前」をどうしたって思い描いてしまう訳だけども、あまりに予想外な作風で愕然。まさかこのまま?と慌てるくらいでした。

主人公バウドリーノは自他共に認める大ホラ吹きで、本書はこのホラ吹きが語部なのである。

この全く信頼できない語り手が語りに語る物語は、当然のことながら嘘にまみれている訳なのだが、果たしてどこからどこまでが噓なのか。

しかし、本書はフィクションであり、フィクションである以上、全部作り話である訳だ。

しかし、その一方でバルバロッサことフリードリヒ一世(神聖ローマ皇帝)の生涯などの史実はかなり正確にトレースされている、らしい。

またバウドリーノの生まれた村は後のアレッサンドリアとなる地であり、この町に伝わる伝説をはじめに、聖書にまつわるもの、地の果てにまつわるものなど数々の伝承、伝説をことごとく取り込んで束ねていく。

これはそうあれだ、ジェイムス・エルロイの作品や「フォレスト・ガンプ」のように当時の出来事と法螺話を織物のように織り込んだ仕掛け絵本のような作品なのでした。

そしてそこは正にウンベルト・エーコならではの博識に支えられ見事に当時の人々の世界観、価値観、文化が蘇ってくる。

しかしこれ、自分はそうだったんじゃないかなーと思うんだよね。違うかもしんないけど、ってお茶目なエーコが舌をだして笑ってるところが見えてくる。

そうきっとエーコも楽しんで書いたに違いないと思うような遊び心も随時に見られる出来上がりで、ほら吹きの主人公に、後ろで笑ってるエーコに、そして当時やはり世界の果てを見てきたと真顔で語っていた人たちが確実にいたはずのほら吹きたちにぐるぐると翻弄されて楽しむ本なのでした。

あーまだぐるぐるするー。


「歴史があとずさりするとき 」のレビューはこちら>>


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われらの子ども:米国における機会格差の拡大
(Our Kids: The American Dream in Crisis )

ロバート・D・パットナム (Robert David Putnam)

2017/08/20:ずっと気になっていた「孤独なボウリング」の著者、ロバート・D・パットナムの新著。やや大ぶりの本に手を焼きましたが、予想外に読みやすかった。反面内容は非常に重たいものでしたけども。

近年急速に拡大してきた格差によって社会は大きく変容してきた。

当然そのなかで暮らす人々の暮らし方や価値観、他者との繋がりといったあらゆるものも大きな変化を遂げてきた。

本書は様々な場所、環境のなかで暮らす人々にインタビューし彼らのストーリーから社会的、構造的な問題を抉り出そうとするもので、その労力は大変なものがあった。

アメリカにおける不平等をめぐる最近の議論は、二つの関連した、しかし個別の問題が入り交じっていることが多い ・所得と資産における平等。 今日のアメリカ成人における所得と資産の分布─「オキュパイ運動」により1%対99%としてフレーム化された─は、この数年の間に多くの党派的議論を生み出してきた。しかし歴史的に見ると、アメリカ人の大半はこの種の不平等に対して大きな懸念を示してきたというわけではない。われわれが他社の成功をねたまなかったり、社会経済的なはしごがいかに高かろうとも気にかけない傾向があるのは、能力と活力が等しく与えられていれば、それを登るチャンスは誰にも平等であると考えられているからである。 ・機会と社会移動性における平等。 次世代にとっての展望─すなわち、出自の異なるどんな若者であっても確かに、ほぼ同じ高さからはしごに足をかけ、そして能力と活力が等しければ、同じようにそれを登っているのか否か─は、全体としてわが国の文化においてより重要な問題を提起している。わが国の独立が「全ての人は平等に造られている」という前提で始まるように、あらゆる党派のアメリカ人は歴史的にも、この問題を非常に気にかけてきた。

これら二種類の平等が関係しているのが明らかなのは、ある世代における所得の分布が次の世代の機会の分布に影響を与える可能性があるからである─しかし、これらは同じものではない。



そもそも人の能力や才能には差違がある。能力や才能に応じた報酬と、平等性は根本的なコンフリクトを孕んでおり、中庸、中立的な解決を保つ事が大事なんじゃないかと思う。

この問題だけでも充分根深いものがあるのに、現実には生まれた家の資産や地域によってはしごの高さが大きく異なる。

墜ちるのは容易いが上がるのは難しい。特に下層に下がれば下がる程、一段上がるための難易度は非常に大きくなるのだ。

結果、下層にいる人々がそこから移動することは少なく、街や社会といった単位で階層が断絶していく。

これらの人々のインタビューは息が詰まるような、手が痺れるような恐ろしさがある。

にもかかわらず各々の人々は自分たちの見える水平線までの範囲で自分たちの暮らしは当たり前のものとして受け入れている。

特に逆境的児童期体験尺度は恐ろしい分析結果だと思う。

表3・1逆境的児童期体験尺度

1.家にいた大人に、身体的に恥をかかされたり脅かされたりした
2.家にいた大人に殴られたり、たたかれたり、傷つけられたりした
3.大人から性的虐待を受けた
4.愛してくれたり支えてくれる人間が家族にはいないと感じた
5,親が別居、離婚した
6,親の飲み過ぎや中毒で面倒を見てもらえず、食事や衣服に事欠いた
7,母親/継母に身体的虐待を受けた
8。アルコール中毒者や薬物使用者と住んでいた
9家族の中にうつ病になったり自殺の恐れのあるものがいた
10家族の中に服役したものがいた


遺棄されたと云う表現すら正しく思える環境に生まれた子供たちにどんな機会が期待できるというのだろうか。

またこうした逆境的環境を生きる人々が集団となり地域、街といった単位でかたまっていくことで地域的な格差は埋めることが出来ない分断となって固定化されていく。

そしてそれは犯罪、貧困、児童の健康、抗議活動、エリートのネットワーク密度、市民参加、十代の出産、利他主義、不調の自覚、集合的効力感などの様々な問題の不平等となって現れているという。

わが国の歴史の中で、社会経済的格差の拡大によってわれらの経済、われらの民主主義、そしてわれらの価値観が脅かされたのは初めてではない。こういった難題を成功裡に克服して機会の復活を目指すべく現在まで追求されてきた各個別の対応は、具体的にはさまざまに異なっているが、それらは全ての根底にあるのは他人の子どもに対する投資への責任立った。そして、そのような責任感の根底にあるのは、これらの子どももまたわれらの子どもなのだ、と言う根深い感覚だった。


移民問題などが加わり、様々な集団に分断された現代アメリカにおいて他の集団における子供たちをわれらの子供とは思わない価値観が広がっていくことで問題解決は一層難しいものとなっていると思われる。

先日白人至上主義者と差別を反対する者たちがデモで衝突、激昂した白人至上主義者が車を暴走させ死傷者を出す事態となった。

トランプはあろう事かこの事件に対して両方に非があると述べ、全米を巻き込む論争の火種を生んだ。ここでも明らかになったのはわれわれとわれわれ以外を区別する深い溝の規模と広がりだった。

安倍は前回の都議選で「あんな人たちに負ける訳にはいかない」と演説して大敗した訳だが、この時に見えた分断も同じ類のものだ。

日本にも見えにくいが恐ろしく醜い分断が走っている。

現代社会の断層を可視化する非常に重要な一冊であると思いました。


ロバート・D・パットナム『われらの子ども』関連情報


「われらの子ども」のレビューはこちら>>

「上昇(アップスウィング)」のレビューはこちら>>

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不道徳な見えざる手
(Phishing for Phools: The Economics of Manipulation and Deception )

ジョージ・A. アカロフ ( George A. Akerlof )/
ロバート・J. シラー (Robert J. Shiller)

2017/08/20:私事ですが自宅を引越しました。7月の週末を使って準備して8月月初めに引越、夏休みを使って新居の整理をしました。お盆の帰省を挟んでまだ作業は終わらない。家に居るより会社で仕事してる方が楽という不思議な感慨を味わいました。

またこのお引越作業のなかで強力な断捨離を敢行、夥しい量の本や不要品の処分をしました。いつか見る、読む、使うかもと思っていたもののほとんどは残念ながら、そんな機会も時間もなくて、後で考えると持っている意味のないものがほとんどだった。

なかには何でこんな物を買ったのかというような物もあって、無駄遣いにも程があるだろうと激しい反省するようなものも出てきた。

五十も半ばに近付きつつあるわれわれとして、もうこんな無駄な事をしている場合ではないよなと夫婦二人で心に誓ったのでありました。

さてそんな最中でもちゃんと本を読んでおります。本書はノーベル経済学賞を受賞した二人の手によるもの。

でまぁ一言で言うと、自由市場を盲信し、理想が実現しないのは、市場の自由化が不完全であるからだとして譲らない頑迷な信条に対して、バカじゃないのとするものだ。
私たちが本書を書いたのは、別の間違った発想だと思われるのを相殺しようとしてのことだった。自由市場に冠しては、アメリカで広く信じられている物語があり、それか外国でも影響力を持つ、その物語は、標準経済学についての粗雑な解釈から生じている。それは、自由市場経済は、所得分配と外部性という落とし穴を除けば、可能な世界すべての中で最高の者をもたらす、という物語だ。この呪文によると、万人に「選択の自由」を与えさえすれば、この世の天国が到来し、既存のテクノロジーや人間の能力や所得分配に基づいて最もエデンの園に近いものが実現する、というのだ。

私たち(著者)は自由市場が生み出した豊穣は分かっている。でもあらゆるコインには両面があるのと同じく、自由市場にも裏面がある。豊穣を生み出すのと同じ人間の創意工夫は、セールスマンの技能にも向けられる。自由市場は、お互いに利益があるものを作り出す。でも相手を犠牲にして自分が儲かるものも作り出すのだ。利潤が得られる限り、どちらもやる。自由市場は、人類最強のツールかもしれない。でも、あらゆる強力なツールと同じく、これも諸刃の剣なのだ。


目次

まえがき 経済はごまかしに満ちている

序章 みんな操作されてしまう:釣りの経済学

第1部 釣り均衡を考える

第1章 人生至るところ誘惑だらけ

第2章 評判マイニングと金融危機

第2部 あちこちにある釣り

第3章 広告業者、人の弱点を突く方法を発見

第4章 自動車、住宅、クレジットカードをめぐるぼったくり

第5章 政治でも見られる釣り

第6章 食品、医薬品での釣り

第7章 イノベーション:よいもの、悪いもの、醜いもの

第8章 たばこと酒と釣り均衡

第9章 倒産して儲けを得る

第10章 マイケル・ミルケンがジャンクボンドを餌に釣り

第11章 釣りと戦う英雄たち

第3部 自由市場の裏面

結論 自由市場のすばらしい物語を見直そう

あとがき 釣り均衡の重要性

謝辞

訳者あとがき

参考文献


極めて冷静で全うな考え方であって、経済の実態からみても非常に確からしいと思う。

自由市場は確かにわれわれを非常に豊かにしてくれている。その恩恵は計り知れないものがある。しかしその規模が大きくなるにつれて、その中で他人を意図的であるかどうかに関わらず、出し抜き、騙し、盗み、あるいは損を押し付けるような事が起きてしまうことは避けられず、結果的に自由市場は毀損していく。

自由市場の実現を標榜する人たちは法律・規制撤廃を声高に唱えているけれども、仮に完全に撤廃が実現されても、このような事象によって完全自由市場は達成されることはない。

本来はこの時点で証明完了なんじゃないかなと思うのだけど、世の中そんなに簡単に人の考え方って変わらないものなんでしょうねー。

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グローバル資本主義と〈放逐〉の論理
――不可視化されゆく人々と空間
(Expulsions: Brutality and Complexity in the Global Economy Be Done? )

サスキア サッセン (Saskia Sassen)

2017/07/30:安倍が「あんな人たちに負けるわけにはいかない」と本音を吐いた結果、都議選は歴史的敗退、ざまみろ、仙台市長選も負け、やったー、政権支持率も低迷、いいきみだ。当然だろう。これが自民党の終わりの始まりになればいいと思うけども、仮に自民党が解体されても世の中が大きく変わることはきっとないだろう。

不思議なのはこんな安倍を支持してる市井の人たちがまだいるという事だ。安倍が「あんな人たち」と呼んだ人たちはどういう人たちだと思っているのだろう。安倍が「あんな人たち」ではない自分達の側に立っているのは金と権力を握っている者の事だと思う。逆にいえば金も権力もない一般人なんてみんな「あんな人たち」で、自民党の政治家のなかにも含まれていない人がいるほど小さな集団の事を指しているものと思われる。

仕事してんのかどうかも怪しくて中国や韓国をデスってるヘイト集団の人たちは安倍を嫌ってない感じだけど票集めのために利用されてるだけだ。

票を集めて切り捨てる、恐らく有事の際には一番前で戦わせられて命をすてさせられる、こういう構図を〈放逐〉と見るべきなのかもなと本書を読んで気づいた。

本書が示唆する〈放逐〉の概念はなかなか難しい。ちゃんと解ったとは思わないけど自分なりの解釈は次のようなものだ。

先ず大前提として経済の縮小がある。この縮小は一時的なものではなく、ずっと続くものだ。世界人口が縮小し、化石燃料が枯渇し、温暖化により、地表も、耕作可能な土地も、飲料可能な淡水も、生物多様性も縮小していくデストピア、黙示録的な世界観がある。

放逐とはつまり恐ろしく縮小を続けるという世界観のなかで金と権力と資源を収奪していく富裕層、多国籍企業の活動により、結果的に切り捨てられ不可視化されていくもの。

つまりそれは土地や職を奪われ、街や民族、国を崩壊され難民化したり、避難所に暮らしたり、都市の中で孤立化したり、命を落として追いやられる人たちであり、荒廃される土地や自然環境である。

日本語版への序

序 過酷な選別

第1章 縮小する経済、拡大する放逐
 持続不能な矛盾? 包摂から放逐へ
 難民という負担を背負う
 結論――収奪性の編成


第2章 新しいグローバルな土地市場
 規律体制としての債務――土地取得の基礎を整える
 外国の土地取得の実行者、場所、取得されたもの
 大規模土地取得の実態
 一つのケース――地表レベルでのパームオイル生産
 結論

第3章 金融とその能力――システムの論理としての危機
 地方の住宅がグローバルな金融商品になるとき
 グローバルな拡大の可能性
 その他のグローバル住宅市場――超富裕層のためのスーパープライム
 金融――自らのパワーを制御できない?
 成長と繁栄に対する認識を変える

第4章 死んだ土地、死んだ水
 土地の劣化
 産業廃棄物――その多様なメカニズム
 鉛汚染
 クロム汚染
 鉱業と資源採取
 土地、水、空気を汚染する力
 水資源の収奪
 グローバルな規模拡大
 結論 国境線を超えて――グローバルな条件

結語 システムの末端で

 謝辞
 訳者あとがき
 原註
 引用文献
 索引

そう考えて読むと本書が例示してくる夥しい事例の規模と広がりは想像を絶する。そしてここでもアメリカはその他から突き抜けた状態になっていた。

 現在、アメリカ人の100人に一人が米国の州刑務所もしくは連邦刑務所に収監されているか、未決囚の状態で留置されている。保護観察か仮釈放の人々を加えると総数は700万人に達し、アメリカ人の31人に一人に上る。さらに逮捕歴や有罪判決を受けたことがある人々の総数を加えると、その数は6500万人に達し、4人に一人となる。米国の刑事司法制度が今では人口全体の25%に関わっていることは、大半のグローバル・ノースの国に比べて著しく多い。アメリカ例外主義をめぐる議論がこれまで交わされてきたが、州ならびに民営刑務所の急増はその根拠になりうる。米国は収監率で世界をリードしているばかりか、ルイジアナ州は世界の刑務所の「首都」となりつつあり、同州の55人に一人が現在刑務所で暮らしている。

刑務所を民営化し人々を収監することで収益を上げる、稼働率を上げるために逮捕者、有罪判決の件数を増加させるようなバイアスが働いているような事すら起こっているのだという。

清潔で安全な都市が創られていく一方で、排除され放逐されていく人や環境や地域がある。それらは巧妙に不可視化され忘れ去られていく。高度先進国の暮らしの裏には夥しい犠牲がある。誰しも意図して、悪意を持ってやっている訳ではなく、結果としてそうなっている。放逐のメカニズムはグローバルで重層的だが、敵もボスキャラも陰謀論も登場しない。つかみどころのない放逐の仕掛けは理解することもなかなか難しく、これを解決、解消するのはもっともっと難しい。


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21世紀の不平等 (Inequality: What Can Be Done?)
アンソニー・アトキンソン(Anthony Barnes "Tony" Atkinson)

2017/07/09: ピケティの「21世紀の資本」は大変話題になりました。その盛り上がりはすごかった、あのような固い本が書店で山積みになりメディアに大きく取り上げられ正に世間を席巻した様相だったけれども日本の場合冷めるのも早かった。

それこそ何事もなかったかのように走り抜けていったことに僕はかなり驚いた。少しでも格差是正の方向に舵が切られることを期待してたのだけど。

安倍政権はその後もますます右傾化差別化が進み先日の東京都の都議会議員選挙の応援演説で秋葉原にやってきた安倍は反対を表明し野次ってきた人々を指さし「あんな人たちに負けるわけにはいかない」と線を引いてきたのである。

一国の首相が国民の分断を積極的に進めるというのがどれほど異常なことなのか本人はわかろうとする気もないらしい。

この発言を前後して秋葉原は騒然となり「帰れ」コールが周囲の群集にも広がり演説はぶち壊しになり自民党は選挙で歴史的な大敗を喫した。 ざまみろである。本人がどう思おうと言ったことやった事のツケは必ず回ってくるものだ。 このニュースを読み始めたとき、あー自分も行けばよかったと思ったのだが、「あんな人」発言を受けて、あ自分も切られた側だと思った。 なんで切り捨ててくる国に自分は税金払っているのかとか。埒外にいるのにどうしてルールを守る必要があるのかとか いろいろ思う人が大勢いるのではないかと思う次第であります。

とまあいつもながら前置きが長くなりましたが21世紀の不平等。著者のアンソニー・アトキンソンは不平等研究の第一人者でピケティが師事し2010年には共著の本を出しているような人であります。調べてみると今年の1月に亡くなられているようです。

本書が著されたのが2015年。70歳で本をだしている!というのもすごい話です。そして序文はあのピケティが寄せている。

ピケティはこの序文のなかでアトキンソンのことを伝説的なまでに慎重なイギリスの学者と呼び、その業績を次のように語っている。

1966年から2015年にかけて、アトキンソンは書籍を50冊前後と、学術論文350本以上を発表している。これは富の分配と貧困を巡る国際研究という広い分野に深い変革をもたらした。1970年代以降も、重要な理論的論文を書き、特に最適税制理論に関するものが多い。こうした貢献だけでも、ノーベル賞数個分の価値がある。だがアトキンソンの最も重要で深遠な研究は、不平等の歴史的、実証的な分析であり、それも全く危なげなく活用可能される理論的モデルを尊重しつつ、慎重かつ穏健な形で実施されているのだ。



最大級の賛辞だと思います。そんなすごい人なのだけどアトキンソンの本で日本でだされるのはこれがお初らしいというのはどういう事なのだろう。

またアトキンソンはEUの支持者であったそうだ。EU創設の頃に期待と希望を抱き続けていたのではないだろうか。そのEUからの離脱を決めた国民投票の結果をみてどう思ったのだろうか。

序文:もっと平等な社会に向けた現実的なビジョン ――トマ・ピケティ はじめに

第Ⅰ部 診断
第1章 議論の基礎
第2章 歴史から学ぶ
第3章 不平等の経済学

第Ⅱ部 行動のための提案
第4章 技術変化と対抗力
第5章 雇用と将来の賃金
第6章 資本の共有
第7章 累進課税
第8章 万人に社会保障を
不平等を減らす提案

第Ⅲ部 できるんだろうか?
第9章 パイの縮小?
第10章 グローバル化のせいで何もできないか?
第11章 予算は足りるだろうか?
この先の方向性

用語集

いろいろな思いをもって本書にとりかかった訳ですが、残念なことに全く頭に入ってこない。解らない部分が多すぎて何を主張しているのか、論旨もぼやけてしまい結論も意味不明という始末だ。ピケティの分かりやすい序文から突き放された感じだ。

ピケティを始め専門家の人たちなら理解できるのでしょう。そして内容はもちろんしっかりしていて確かなものなのだろうと思うけれども僕には果てしない解らなさである。

本書は縷々説明をした上で具体的な提案をしているのだが、その根幹には累進課税の制度設計の見直しにあって、それに僕は激しく同意する。その程度までは理解できるのだけど、この累進の税率をどうすべきかというような話とその根拠という話になっていくとどんどん置いて行かれて訳が分からなくなって行ってしまう。

せっかくなのでその提案をここに引用させて頂くが解らなさ加減というか僕の理解力の程度が知れようというものだ。

提案1 技術変化の方向を政策立案者たちは明示的に検討事項とすべきである。イノベーションは労働者の雇用性を増大するような方向へと奨励し、サービス提供における人間的な側面を強調すべきである。(第4章)

提案2 公的政策は、ステークホルダー聞の適切な権カバランスを目指すべきであり、そのためには(a)競争政策に明示的に分配的な側面を導入すべきであり、(b)労働組合が労働

者を平等な立場で代表できるような法的枠組みを確保すべきであり、(c)社会パートナーや各種政府団体を含む社会経済評議会が存在しない場合には、それを設立すべきである。(第4章)

提案3 政府は失業を防止・削減する明示的な目標を採用し、求める者に対して最低賃金での公雇用保証を提供することで、この目標を具体化すべきである。(第5章)

提案4 国民報酬政策を作るべきである。これは二つの要素で構成される:生活賃金で設定された法定最低賃金と、社会経済評議会を含む「国民的対話」の一部として合意された、最低以上の報酬慣行規範である。(第5章)

提案5 政府は国民貯蓄国債を通じ、貯蓄に対するプラスの実質利率を保証すべきである。一人当たりの保有高には上限を設ける(第6章)

提案6 成人時点で全員に資本給付(最低限相続)を支払うべきである。(第6章)

提案7 公的な投資当局を作り、ソヴリン・ウェルス・ファンドを運用して企業や不動産を保有し、国保有の純資産価値を増やすべきである。(第6章)

提案8 個人所得税の累進性を高める方向に戻す。限界税率は課税所得の範囲に応じ 高税率は65パーセントにして同時に税収基盤を広げるべきである。(第7章)

提案9 政府は個人所得税に勤労所得割引を導入すべきである。これは一番低い所得区分に限る のとする。(第7章)

提案10 相続や生前贈与は累進生涯資本受給税のもとで課税すべきである。(第7章)

提案11 最新の不動産鑑定評価に基づいた定率または累進的な固定資産税を設ける。(第7章)

提案12 全児童に対し相当額の児童手当を支払い、それを課税所得として扱うべきである。(第8章)

提案13 全国レベルで参加型所得(P1)を導入し、既存の社会保護を補うようにして、いずれ全EUでのベーシック・インカムを視野に入れるべきである(第8章)

提案14 (提案13の代案)社会保険制度を刷新し、給付の水準を引き上げ、支払範囲を拡大すぺきである。(第8章)

提案15 富裕国は公的開発扱助(ODA)の目標額を、国民総所得のーパーセントに引き上げるべきである。(第8章)

検討すべきアイデア:
・世帯が融資市場にアクセスして住宅担保以外の借入を可能にすることについての包括的な検討。
・民間年金への拠出についても、現在の「優遇」貯蓄制度と同じやり方で「所得税に基づく」扱いを検討する。これは税の支払いを促す。
・年次資産税の是非の再検討と、それを成功裡に導入するための条件の検討。
・総資産額に基づく個人納税者に対する世界的な課税制度と、企業に対する最低税を設ける。


その有効性について僕は全く何もない。ただ思うのはこの実現性だ。日本でどうかと考えるに冒頭の安倍の用な政治家が弱者のことを本気で考えるなどということが全く期待できないことは明らかで仮に前向きな事を言ったとしたらそれは選挙のためでしかない。

今回と都議選の結果から自民党は舌触りの良い事をいろいろ言い始めるに違いないがこれを信用しちゃだめだろう。

そんな信頼性の低い政治家と政府運営をしている国が統率のとれた形で格差是正を実現することに対する期待値など宝くじに当たるよりもずっと低いにちがいないと思うよ。


「21世紀の資本」のレビューはこちら>>

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沖縄思想のラディックス
仲宗根勇 仲里効 編

2017/07/01:黒いものを白だと言い続ける安倍政権というか日本政府はあまりにも奇妙だが、海の向こうにトランプや将軍さまが予測不能な動きをしていることでなんだか薄まってしまうのが、これは今の世の中全体がおかしな方向へ進んでいるということなのではないかと不安になる。

沖縄のラディックス。ラディックスとは「基底」という意味で、沖縄に置ける基底とは辺野古新基地建設問題なのだという。これは1995年の米兵による少女暴行事件が外交問題に発展、1996年に日米政府間で普天間基地を5年から7年の間で全面返還することが合意されたという問題である。

沖縄の問題というと、なんで在日米軍基地の74%が沖縄に集中しているのか、それに加えて自衛隊も駐留してるのかとか、そもそも日中関係や北朝鮮の脅威はどこまで本当なのかとか。さらに遡れば、日本で唯一民間人を巻き込んだ地上戦に突入し、敵国に加えて自軍からも虐殺されなければならなかったのかとか、そもそも琉球王朝を日本の領土に無理やり取り込んで行ったその責任はとかとかとか、いろいろあるじゃないかと思った訳ですが、そんな過去のことよりも今これからの沖縄を描いていく為の基底、つまり前提となる問題は辺野古の基地がどうなるのかと言うことだと言っているのである。

正に沖縄の民意を問う知事選において圧勝した翁長県知事が就任したことをあざ笑うかのように突き進む普天間基地の工事とそれに抗議する人々を蹴散らす日本政府の暴挙。

それらはある程度問題意識を持ってニュースを読んでいるつもりの僕もこの現地で進んでいる事態の半分もわかってなかった。

これを読んでどこまで判ったのかは謎だが、やはり現地で自分の生活のなかの問題として目の当たりにしている方々とは理解の度合いが桁違いになってしまうのは避けられないことなのだろう。

それは東日本大震災の際に嫌と言うほど実感したことだ。被災地から遠く離れれば離れるほどその実感は等比級数的に薄まり、痛みも苦しみも悲しみも朧気になっていくのだ。

九州の地震はやはり僕にとっては実感が薄かった。東北や浦安の地震被害を目の当たりにしているにもかかわらずにもである。

誰しも自分の立ち位置があり、相対的に遠い話は朧気になってしまうのだろう。

政府は国内の人心を問題から逸らして実感のない遠いものにするために国外に目を向けさせようとする。

権力者は国内政治の実情を国民の目から隠すため、国外に緊張状態を作り出し、国民の目を国外へ逸らそうとする。そしてさかんに愛国感情、ナショナリズムを吹聴し煽り立てる。 また政治用語で言う、所謂オフショア・バランシングというものがある。つまりオフショア(沖合)に緊張状態を作り出そうとして自分の敵の敵を探しそれを援助してその敵同士を戦わせ、自分はこちら側にいて安全と利益をはかる。米国はこれまでこの狡い方策を多用してきた。ホメイニ革命(イラン)と戦わせるためにフセイン(イラク)を利用、そのフセインが強大になると湾岸戦争。アフガンへのソ連侵攻に対抗するためにアルカイダ、すなわちビン・ラディンの利用、ビン・ラディンが強大化すると「テロとの戦い」を標榜。

安倍政権はそれを真似して尖閣に緊張状態を作り出そうとしているのだ。
中国は何度も尖閣棚上げを持ちかけるが安倍政権はそれを拒み続けている。尖閣の緊張で中国の目を日本本土から離してそこに向けさせ、日本の安全(?)と利益を図るという次第だ。尖閣諸島-そしてそれを行政区に抱える石垣市はその緊張状態を引き起こすための生きている餌!生き餌とされているのである。さらにそれを拡大したのが南西諸島防衛構想であり、南西諸島、つまり与那国、石垣、宮古、沖縄本島(辺野古だ)、奄美諸島(それは奇妙にも旧琉球域と一致)は安倍政権が中国と対峙するための(あるいは中国を誘い出すための)エサであり、いったん事が起きると日本国防衛の「盾」の役目を負わされて「捨て石」とされるのだ。しかも安倍政権は南西諸島を守ろうとする意志はカケラもない。南西諸島が壊滅しても日本国そのものには何の損失もない。我々が戦争で死んでも、彼らは痛くも痒くもないのだ。七十年前の沖縄戦と同じように、再び我々は「捨て石」とされるのだ。日本国はこのオフショア作戦のおかげで安全と利益を追求できるのだ。これが安倍政権が考える南西諸島防衛構想のまことに狡猾な機能なのだ。


沖縄の人々の思いは深い。しかしこれに実感の薄い我々のようなもの。そして更に彼らを貶め差別する者、鵜呑みにして同調していく者たちによって国民は散り散りに分断されていく。

価値観や信条を分断していくと選挙は恐らく戦い易くなり、ちょっとした人数で当選しちゃうようになるのだろう。こうして議会制民主主義は乗っ取られていくのだ。いやもうすでに我々の国は乗っ取られている。そして民意とは全く異なる路線を暴走していくのだ。

これは日本がかつて歩んだ道のりで行き着く先は同じ場所だ。


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