2017/12/31:年末も年末、2017年もいよいよ最終日となりました。いやはや今年もいろいろ大変でした。放心状態でまとまったことになんも手をつけられないでいます。どうにか腰を上げて最後のレビューに取り組みます。今年最後を飾るのは大好きなジム・トンプスンの作品です。今年はトンプソンの未訳の作品が二つもでてきて幸せだ。折しもケーブルテレビでは「ゲッタウェイ」をやっててすかさず録画。この年末年始にじっくり観るつもりです。
さて「ドクター・マーフィー」について。本作は1953年2月に書かれたもので第七作目、原題は″The alcoholics″ 1949年に第四作目の「取るに足りない殺人」で注目を集めたトンプスンは1952年に「内なる殺人者」を含めた二作を、1953年は本編、「サヴェッジ・ナイト」を含めた五作、1954年には「死ぬほどいい女」を含めた五作と怒涛の執筆活動のピーク期間に書かれた作品となる。怒涛の執筆活動の裏側には入ってきたお金で浴びるようにアルコールを摂取し、友人や家族との人間関係をことごとくぶち壊して行ったトンプスンがおり、本編はその実体験を踏まえた内容になっている。
最後に収められている霜月蒼氏の解説も必読的な内容でこれを読んでしまうと、それに何を加えればいいのか立ち止まるくらいなんだけど、じゃ以上とするのも残念なので少しだけ。
原題、邦題からもご想像の通り本作はアルコール中毒に関わる医療施設の話だ。冒頭自暴自棄となって死にそびれて海から登場するのがドクター・マーフィーなのだが、珍しく三人称で語られていて、彼が主人公なのかは判然としない。彼の行動についていく形で病院スタッフや患者たちが入り乱れてくるのだけどやはり誰が主人公なのか、どう物語が進んでいくのか皆目手がかりがでてこない。
読んでいて思い出したのは筒井康隆の「夜を走る」や「穴」といった不条理劇だった。
本サイトでは取り上げる機会がないままだが僕はほとんどの筒井作品を繰り返して読んでいるかなりのファンなのだ。なかでも「夜を走る」は大好きな作品だ。これはアルコール中毒の深夜タクシーの運転手の独白という形で進む強烈な内容で、あれこれ言い訳を自分にしながら最悪な結末へと突進していく展開が目覚ましい。
本作もこのような形かはたまたトンプスン的な形かでどこかで踏み外して人生を脱線していくような転換点がやってくる気配に包まれていて、全編緊張感が充ちている。
果たして物語はどんな方向へ進むのか。
ネタバレ禁止の本サイトとしてはこれ以上内容に踏み込むのは辞めますが、本作品は既出のトンプスンのどの作品とも異なる異色中の異色作でありました。
会社では怒濤のような日々が続いております。少しでも良い職場になるようほんとに真剣に取り組んでいますが、業務や運用やシステムなんかよりも何より人が大切でこれがまた一番難しい。悩ましい。新年も年明けからシビアな展開に心が磨り減りそうですが、希望をもって前進していこうと思います。
この1年こんな僕におつき合いいただき本当にありがとうございました。 皆様も良いお年をお迎えください。
「内なる殺人者」のレビューは
こちら>>
「サヴェッジ・ナイト」のレビューは
こちら>>
「死ぬほどいい女」のレビューは
こちら>>
「アフター・ダーク」のレビューは
こちら>>
「ポップ1280」のレビューは
こちら>>
「鬼警部アイアンサイド」のレビューは
こちら>>
「失われた男」のレビューは
こちら>>
「グリフターズ」のレビューは
こちら>>
「荒涼の町」のレビューは
こちら>>
「取るに足りない殺人」のレビューは
こちら>>
「この世界、そして花火 」のレビューは
こちら>>
「 天国の南 」のレビューは
こちら>>
「ドクター・マーフィー」のレビューは
こちら>>
「脱落者」のレビューは
こちら>>
「反撥」のレビューは
こちら>>
△▲△
2017/12/24:ナオミ・クライン、「ブランドなんか、いらない」、「ショック・ドクトリン」に続く三冊目「これがすべてを変える」のテーマは気候変動、地球温暖化VS資本主義だ。気候変動が我々の暮らしを一変させてしまう。のか、はたまた気候変動が資本主義を根底から覆すことになるというのか。如何にもナオミ・クラインらしい広く深い調査、情報収集に基づいて鋭い角度で切り込んでくる作品となっておりました。
ここで云う資本主義は特に前著「ショック・ドクトリン」で暴き出された惨事便乗型資本主義と我々人類との闘いという形で、いわば前著を発展させたものと云うか、惨事便乗型資本主義の先頭を走っているのが、セブンシスターズに代表されるエネルギー産業、多国籍企業だからだと言うか、というものだ。
惨事便乗型資本主義とはシカゴ学派らが中核となったクーデターなどによる政権転覆とそれに続く体制展開によって権益を一気に収奪していく事で富を集約していく企てのことだ。これはアメリカでもロシアでも世界中どこでも同時平行的に起こっており、この日本でも当然だが起こっている。
まだピンとこないならあの東日本大震災の経緯を振り返って見ればいい、被災者、特に福島の原発周辺の人々の暮らしは崩壊し元に戻る事は決してないような事態を招いたが東京電力はこれの責任を一般人に押し付けたばかりか、責任者たちは処分されることもなく、会社は史上最高益を上げるような事が平気で行われているという一例だけでも十分じゃないかと思う。
まだなに言ってんのというなら天然資源に恵まれた国というか地域が大抵どこも政治情勢が不安定でそこに暮らす人々が天然資源の受益をほとんどと言うか全く享受できずにいる事を見てみればいい。
政治情勢が不安定なのは利権の奪い合いがあるからなのは確かだけれども、安定した資源供給を受ける為に国外から介入・支援、援助が、場合によっては軍隊や暴力が持ち込まれることもあると云う事実をみれば明らかだろう。
この手の話になるとついつい熱くなってだーっと書いてつまり話が長くなるので少し冷静になろう。
問題は気候変動に関する話だ。蒸気機関発明以降、化石燃料の消費はそのスピードを増し、大気中の二酸化炭素濃度は上昇の一途を辿ってきた。
もちろんその因果関係、つまり二酸化炭素濃度の上昇と化石燃料の消費のことだが、は明らかで、それによって気候変動が起こっているという話は三段論法的に小学生の子供でも理解できるような類の話だとおもう。
そしてこの気候変動が人類史上例をみない規模で進んでおり、これまた人間の化石燃料の消費という行動からみれば史上に例が無いことも明らかなんだけど、それによっては地球の気温上昇が人間のみならず多くの生命の存続を困難にするような事態となり歯止めが利かなくなりつつある。という話は控えめに考えてもかなり信憑性の高い話であり、タレブ的にものを考えるのであれば、起こってしまった場合の損失を考えれば、その船には乗らない方が賢明な道のりだと考えるべき問題なはずだ。
重要な社会問題や政治問題に対する世論が変化するとき、そのスピードは比較的緩やかであることが多い。急激な変化が生じたときは、通常、何か劇的な出来事が引き金になっている。気候変動についての意識がわずか四年間で大きく変化したことに、調査を行った側が驚愕した理由はそこにある。2007年のハリス世論調査では、化石燃料を燃焼させ続ければ気候変動を招くと考えるアメリカ人は72%だった。これが2009年きは51%に、2011年6月にはさらに44%まで減少し、人口の半分を優に下回ったのだ。同様の傾向は、イギリスやオーストラリアでも確認されている。アメリカの独立調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査研究ディレクター、スコット・キーターによれば、アメリカでの調査結果は「近年の世論調査のなかで、短期間に最も大きく変化した例」だという。
なのにこうした実態はどうしたら起こるのか。これは石油メジャー達による、メディア戦略やクライメート事件のような嘘の情報、御用学者たちによる否定的な研究結果などに惑わされたということもあるだろう。
しかし何より僕らの今のこの快適な生活を止めることは容易ではなく、個人の努力ではどうしようもなくて社会レベルでの改革が求められるもののどんな解決方法があるのかわからない。普段の生活ではなかなか気候変動を実感できない。かくして僕らは芸能人の不倫問題なんかに目を奪われて、危機感を失う。
そんなところなんじゃないだろうか。
我々個人個人の意識もどん亀のように停滞ぎみで憂慮していると言ってる自分自身も全く生活を変えることができずにいる。タレブがキャビア左翼とかシャンパン社会主義とか書いていたのを読んだ僕は正に自分の事だと思ったよ。
つまり、社会主義(時には共産主義)や節制的な政治体制を支持しているのに、たいていは遺産で堂々と贅沢生活を送っている連中で、そんな奴らの話を聞く意味はないのだそうだ。そりゃそうだ。
だって先進諸国の現代社会に暮らす上でエネルギー消費を大幅に減らす事を難しいというか困難だ。無くてはならない、避けられない文明の力を享受、分かちがたく依存している僕らはおしなべて皆、エネルギー産業や略奪する多国籍企業、惨事便乗型資本主義の片棒担ぎ、共犯者であるからだからだ。そして政府国家も。
それにも関わらず、気候変動の問題が豊な先進工業国で議論されると、多くの場合、すぐに返ってくるのは、悪いのは中国だ─あるいはインドだ、ブラジルだ、などなど─という反応だ。急速に経済成長している新興国が大きな問題であることはわかりきっているのに、なぜ自分たちが排出量を削減しなければいけないのか、と。向こうは、われわれが閉鎖するよりずっと速いペースで、毎月のように石炭発電所を建設しているではないかというわけだ。まるで欧米に暮らすわれわれは、向こう見ずで環境を汚染するこの成長モデルの傍観者だとでもいうように。こうした結果を招いた輸出主導型の発展モデルを押し付けたのが、自分たちの政府や多国籍企業だったことも、中国広東省の珠江デルタを大量のCO2を排出する経済特区にしたのが、ひとつの目的のために脇目もふらずに突き進む大企業だったことも、みな忘れてしまったかのように。そしてそれらは、世界中のすべての国で経済成長という「神」に寄与するという美名のものに行われてきたのだ。
この二重三重に連なる共犯者たちに連座している自分が利いた風な事を書こうとしているというなんとも気の滅入る話になってしまう訳だけれども、本書ではこの状況がじわじわとそして大きな力を持って動きだしてきている事を紹介してくれる。
少数民族たちを初めとして、鉱物資源の眠る地域に暮らす様々な人々が、環境破壊と気候変動という共通の課題を前に手を結び、力を合わせて、多国籍企業や政府と対峙し押し戻し始めているという。
気候変動が目に見える形で我々にその変化を見せ始めれば、それを無視する事は難しくなるだろう。こうした光景が与えるショックがこれまでの関係を逆転させることになる。
一旦逆転が始まればその力は最早もとに戻すことが不可能な程の規模となって、我々の価値観や意識を変えていくだろう。
果たして、それで気候変動が収束するのかどうかは定かではないけれども、必ずこの歴史的転換点がやってくることだけは間違いない。
僕はそれを目撃する機会があるのだろうか。きっとすごい事が起こるんだろうなー。
「ブランドなんか、いらない」のレビューは
こちら>>
「ショック・ドクトリン」のレビューは
こちら>>
「これがすべてを変える」のレビューは
こちら>>
「NOでは足りない」のレビューは
こちら>>
「地球が燃えている」のレビューは
こちら>>
△▲△
2017/11/18:タレブ大好きであります。ブラック・スワンに端を発し果ての国で起こる複雑なペイオフには、そもそも予測も確率も役に立たないという知見にたどり着き、新しい知識、概念の扉が開けた!と叫んだタレブがおそらく満を持して担ぎ上げてきたものがこれなはずで、となれば僕としては何をさて置き読まずにいられてようかというものであります。
反脆弱性。もちろん簡単な話ではない。「ブラック・スワン」も「強さと脆さ」も読んでいない方にいきなり本書はちとハードルが高すぎるかもしれません。
ふたつとも読んでいる僕でさえ、はて何を言っているのか怪しいところが多々ありましたからねー。
前著で彼が書いていたことを僕はこんな感じにまとめていた。
先ずはブラック・スワン。タレブは、白鳥と言えば白いもので、白くない白鳥はいないというのが常識だったが、実は黒い白鳥が実在したという逸話をもとに、「想定外」で更にそれによって常識はずれの損害や利益を生む事象をブラック・スワンと呼んだ。
例えば東日本大震災やそれに伴う福島原子力発電所のメルトダウンやリーマンショック、9.11の同時多発テロなどのようなものが頭に浮かぶだろう。もちろん世の中の大半の人にとってはその通りだったろう。しかし、ブラック・スワンはもっと広い範囲が対象となる。
自分だけがそんなことは起こらないと思い込んでいるものでもそれは当てはまるし、大損害の反対側にある大きな成果を生むものも当てはまるという訳なのだ。
タレブは「ブラック・スワン」という概念を哲学の認識論と意思決定論に問題として捉えている。しかも『ブラック・スワン』はこれまでの思想の歴史が単なる不毛な頭の体操であり、前戯にずきず、私たちが知らないことが私たちに害をなす領域の見取り図を描き、脆い知識に体系的な限界を設定するという点で、歴史上はじめての試みであるとまで言い切っているのでした。
このまま続けるとやや紛らわしくなってしまうが、タレブは現在の知識体系がそもそも予測可能な範囲で機能するものをモデル化したもので成り立っていると指摘していた。
しかし、現実世界ではちょくちょく予測不能で桁外れな事象が発生する。当然モデル化された知識では出来事も予測不能なら、そこから生じるペイオフも予測不能なものになる。
だから経済学の教科書は現実世界では全く役に立たないと一刀両断していたのだった。
予測不能な場所をタレブは「果ての国」と呼んでいた訳だが、この果ての国で起こることを含めて世界を捉えることを目指すことがつまり歴史上初めての試みじゃないかと強弁していた訳だ。
と云うことを言っていたハズという前提で本書の内容をかいつまむと、つまり世の中の事象は統計やモデルを使って予測することは難しいというか無理なので、タレブのいうところの三っ組、トライアドを使ってその性質を捉え、その性質に合わせた対応をすべきなのだということ。正確に予測はできないけれども正しい戦略を使えば、果てのくにで起こる複雑なペイオフも飼い慣らすことができるハズだと。
では次に三っ組、トライアドとは「脆弱」、「反脆弱」、「頑健」のことだ。
ほとんどの人は、「脆い」の反対は「強い」「耐久性がある」「頑丈」とか、そんな風に答えるだろう。でも、強いとか、頑丈だとか、その種のものというのは、壊れることもなければ、状態がよくなることもないので、小包には何も書く必要がない。緑色ででかでかと「頑丈」と書かれた小包なんて、見たこともないはずだ。
論理的に言えば、「脆い(壊れやすい)」荷物の正反対は、「取扱不注意」「乱暴にお取り扱いください」と書かれた荷物ということになる。この小包は、中身が壊れないだけではない、衝撃や乱暴な扱いを受けることがかえってプラスになるのだ。脆い小包とはよくても無傷な小包であり、頑丈な小包とはよくても悪くても無傷な小包であり、脆いとは正反対の小包は悪くても無傷な小包という訳だ。
タレブはこのトライアドを様々なものに適応できるとし、長い一覧表をつけているのだけど、彼らしいウイットというかも含まれてて、ちと分かり難い。
例えば評価に対するものとして、政治家や学者は脆く、郵便局員やトラック運転手は頑健、芸術家や作家は反脆い。人間関係では友情は脆く、親類関係は頑健、愛情は反脆いのだという。
特定の話題において、ある項目や政策について論じるときは、それがトライアドのどの分類に当てはまるかを考え、状況を改善する方法を考えてほしい。たとえば、中央集権的な国民国家は、トライアドの一番左、つまり脆弱のカテゴリーに属する。一方、分権化された都市国家のシステムは、一番右、つまり反脆弱のカテゴリーに属する。後者の属性を理解する事で、巨大な脆い国家というありがたくない状況から抜け出すことができる。
あるいは、間違いについて考えてみよう。左側の脆弱のカテゴリーの場合、間違いはめったに起こらないが、起こるときは巨大なので、取り返しがつかない。右側の反脆弱のカテゴリーの場合、間違いは小さく穏やかなので、取り返しがつくし、すぐに克服できる。また、情報も豊富だ。したがって、ある種のしくじくりや試行錯誤のシステムには、反脆さという性質が備わっているはずだ。反脆くなりたいなら、「間違いを嫌う」状況ではなく、右側の「間違いを愛する」状況に身をおくべきだ。そのためには、間違いはしょっちゅう起こるが、一つ一つの害は小さいという状況を作ればいい。本書ではこのプロセスを「バーベル」戦略と呼んでいる。
バーベル戦略についてもう少し。寧ろわかりにくくなってる気もするが。
極端な安全策と極端なリスク・テイクのふたつを組み合わせる二重戦略。″一峰性″の戦略よりも頑健とみなせる。多くの場合は、反脆さの必須条件である。たとえば生態系の場合、会計士と結婚し、ロック・スターとたまに浮気すること。作家の場合、安定した閑職につき、暇な時間に市場の圧力を受ける事なく執筆すること。試行錯誤も一種のバーベル戦略だ。
要は極端な事象が起こる確率なんかを考えるのではなく起きてしまった場合に起こるペイオフに集中し、対策を取れと云っているのだ。
この背景には繰り返すが統計や経済学の理論なんかは何の役にも立たないという挑戦的なタレブのスタンスがある。文句があるならかかってこいと。
そして理論を振りかざす割には自分自身の生活では全くそれに反した暮らしをしている奴らや、身銭を切ることのない位置からあと知恵で物知り顔で語るタレブがフラジリスタと呼ぶ連中に対する怒り心頭なスタンスがある。少なくとも自分は自分の信条に則り生活をし、身銭も実際に切ってるという訳だ。そしてそれがちゃんと機能しているのだから、当てにならない理論をいじくり回しているフラジリスタの言うことよりもずっと確からしいだろうという訳だ。
極めつけは、スティグリッツが2010年に書いた「ほうら言ったじゃないか」的な本だ。ご大層にも、彼は2007~2008年に始まった危機を″予測″していたとおっしゃる。
社会がスティグリッツやオルザク兄弟に与えた、この常軌を逸した反脆さを見てほしい。あとでわかったように、スティグリッツは(私の基準からすれば)予言者でも何でもなかっただけでなく、微小な確率に対するエクスポージヤーを蓄積するという問題の一端も担っていた。だが、彼はそれに気づきもしなかった!学者というのは、何のリスクも冒さないものだから、自分自身の意見を覚えておくようにはできていないのだ。
基本的に、学術誌に論文を発表することはできても、リスクの理解能力はどんどん衰えていくという、おかしな能力を持っている連中は危険だ。問題を起こした張本人の経済学者が、危機を後言し、挙げ句の果てには起きた出来事に関する理論家になったりする。こんなことでは、もっと大きな危機が起きても不思議じゃない。
驚いたことにあのスティグリッツまでもがフラジリスタの烙印を押されてけちょんけちょんなのだ。
うーむなるほど。タレブを信じて自分も定期的に断食をすべきなのか。経済学は死んでるし、全く役に立たないと考えている自分としてはタレブが正しいと思いたいところではある。
私が唱える認識論の中心的信条とは次のようなものだ。私たちは、何が正しいかよりも何が間違っているかをずっと多く知っている。脆さと頑健さの分類を使って言い換えれば、否定的な知識の方が、肯定的な知識よりも、間違いに対して頑健だ。つまり、知識は足し算よりも引き算で増えていくのだ。
今、正しいと思われているものは、あとになって間違いとわかる場合もあるが、間違いだとわかりきっているものが、あとになってやっぱり正しかったとわかる、なんてことはありえない。少なくともそう簡単には。
もちろん信じるか信じないかはあなた次第だが、上記の一文のみならず示唆に富んだ本書は一読の価値ありと考えます。
「身銭を切れ」のレビューは
こちら>>
「反脆弱性 」のレビューは
こちら>>
「強さと脆さ」のレビューは
こちら>>
「ブラック・スワン」のレビューは
こちら>>
△▲△
2017/11/05:ご無沙汰してしまいました。期末期初のどたばたで更新ができていませんでした。 まるで西部開拓時代からタイムスリップしてきたかのような人々がいる、という話は聞いていたけども、それが意味することを理解できていた訳ではなかった。
ヒルビリー。彼らは正にそれそのものだった。
著者は1984年生まれ。本書は彼の生い立ちに沿って家族の暮らしぶりや価値観が詳しく語られていくのだが、本当に唯一現代的なのは彼の母親が薬物依存であることぐらいなのだ。
私は白人にはちがいないが、自分がアメリカ北東部のいわゆる「WAPS(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)」に属する人間だと思ったことはない。そのかわりに、「スコッツ=アイリッシュ」の家系に属し、大学を卒業せずに労働者階層の一員として働く白人アメリカ人のひとりだとみなしている。
そうした人たちにとって、貧困は、ダイだい伝わる伝統といえる。
先祖は南部の奴隷経済時代に日雇い労働者として働き、その後はシェアクロッパー(物納小作人)、続いて炭鉱労働者になった。
近年では、機械工や工事労働者として生計を立てている。 アメリカ社会では、彼らは「ヒルビリー(田舎者)」「レッドネック(首筋が赤倉日焼けした白人労働者)」「ホワイト・トラッシュ(白いゴミ)」と呼ばれている。
だが私にとって、彼らは隣人であり、友人であり、家族である。 アメリカ社会において、「スコッツ=アイリッシュ」は特徴的な民族集団のひとつだ。「アメリカを旅すると、スコッツ=アイリッシュが揺るぎない地域文化を一貫して維持していることに驚かされる」と、ある著述家が書き記している。「ほかのほとんどの民族集団が、その伝統を完全に放棄してしまったのに対して、スコッツ=アイリッシュは、家族構成から、宗教、政治、社会生活にいたるまで、昔のままの姿を保っている」
延々と云っていいくらい彼の生い立ちが続くのだけど、その結果上記の一文の意味するところが実感を伴って理解できる。そして何故彼がこのような家庭内の、言ってみれば「みっともない」出来事をさらけ出しているのか。やがて彼が本書を書いた目的というものが明らかになってくる。
ヒルビリーの人々はオバマ大統領がイスラム教徒だと信じていたり、9.11がアメリカ政府による陰謀だったと云ったことを信じていたりする。
正にチョムスキーが著書のなかで憂慮していた人々は彼らのような人々だったのだ。
ただ、私たちのコミュニティーの三分の一の人が、明確な証拠があるにもかかわらず、大統領の出自を疑っているとするならば、ほかの陰謀論も、思ったより浸透している可能性が高いだろう。
これは自由至上主義のリバタリアンが、政府の方針に疑問を投げかけるというような、健全な民主主義のプロセスとはちがい、社会制度そのものに対する根強い不信感である。しかも、この不信感は、社会のなかでだんだんと勢いづいているのだ。
夜のニュース番組は信用できない。政治家も信用できない。よい人生への入り口であるはずの大学も、私たちの不利になるように仕組まれている。仕事はない。何も信じられず、社会に貢献することもできない。
貧困と母親の薬物依存と地域の頑迷な価値観、文化のなかでの成長は逆境的児童期体験 のチェックリストそのものであるにもかかわらず、著者は祖母など一握りの人々に支えられ貧困層から這い上がるはしごを一段、一段と上がっていく。
本人の並々ならぬもあって彼は思いも寄らない処まで登っていく。
このあたり、彼の意図が浮上してくるあたりが本書の本当に感動すべきところで、その聡明さと、優しさには目頭が熱くなるものがありました。 同じような経験をしている人でもこの泥沼から抜け出せるのだと。彼はヒルビリーの人々にはしごの上がり方を指し示すためにも自分の出自をこれでもかというほど晒していたのだった。
そしてその一方で、公共政策が歪んだ統計情報によってお門違いな解決方法を採用するなどにより、成果を生み出せずにいることなどを挙げつつ、政府が行うべき現実的な解決策についても具体的な提案を行っている。
確かに彼はとても優秀だが、きっと恐らく稀ではない。まして偶然が生んだ天才でもない。つまりヒルビリーの人々が愚かな訳ではなく、彼らが集団として持ってしまっている文化や宗教や価値観がこうした才能の芽を摘んでしまっているのだ。そして社会から孤立しているが故にますますその距離は大きく断絶していく。ロバート・D・パットナムが「われらの子ども」で書いていたように地域が、街がまるごと貧困層に陥り、家庭内では逆境的児童期体験尺度が悪化していく。こうした悪化を社会で救えないことが事態を悪化させていくのだ。日本でも貧困層がじわじわと拡大してききているが政治が大きくこの問題に取り組んでいるとは残念ながらまだ言える段階にはないと思う。5年、10年先の日本はやはりアメリカの跡を追っていたということになるのだろうか。
今日は日本にトランプ大統領がやってきます。大勝した自民党安倍政権が大歓迎して出迎える模様ですが果たして無事に終わるかな。
△▲△