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鳥頭なんて誰が言った?
動物の「知能」にかんする大いなる誤解
(L'Intelligence animale)

エマニュエル・プイドバ(Emmanuelle Pouydeba)

2019/09/29:「2001年宇宙の旅」はそれを超える映画を作るのが不可能だといっても過言ではない作品だと言われている。僕もそう思う。これを超えるテーマを探すことが困難だと思う。似たようなテーマを扱っている映画がいくつか思いつくけれども、その立ち位置はどれも違和感があるものばかりだ。ハリウッド映画は心とか魂とか命といったものを描くのに何か障害があるのだろうか。「ブレードランナー2049」もそうだ。そういえばSF小説のなかにも同じように感じるものがある気がする。

本書「鳥頭なんて誰が言った?」は動物の知性について深く考えさせられる作品だった。このなかでもなんどか日本人について言及があり、動物の心や感情、知性といったものの実在性について西洋とは異なり当たり前のこととしてとらえられているというようなことが書かれていました。やはり西洋と日本では何か根本的なところで捉え方が異なるところがあるのだろう。

先日公園の駐車場でみかけた鳩はどうやら轢かれて死んだ相方の亡骸の脇に寄り添って立ち尽くしていた。僕はその鳩の心の痛み、悲しみを強く感じた。どうしてあげることもできない自分も悲しいと思った。

我が家ではこうした出来事や感じ方が当たり前のようにある。同じようなエピソードがたくさんある。そしてそれを当たり前のように思っている。しかし、こんな話を他所ですると怪訝な顔をする人がやはりいる。「幽霊をみた」とか「超能力がある」みたいな話と同列に受け取っている様子の人もいるような気がする。

幽霊や超能力はともかく、動物の心の実在性について意見が異なる人がたくさんいるというのはやはりなんだか居心地が悪いと思うのだけど、如何なものなのだろうか。

ヒトは、他の種とは違って、分節言語や模倣能力や「心の理論」(他者の意図を理解する能力)を備えているために、習慣的に最も知能が高い動物だと考えられている。実際、ヒトは自動的に、あらゆる比較の対象と位置づけられているというのに、その起源は約300万年前という最近のもので、約40億年前に誕生した生命の歴史のほんのわずかしか遡っていない。それにもかかわらず、知能を証明するための実験にかかわるいくつかの基準は、必然的にヒトの優位性を明らかにし、ヒト属のあいだでも合理性から程遠い結論を導くものになっている。たとえば分節言語を例に挙げると、かつて唖者はわかの動物と同様に知性が欠如しているとみなされていたのだ。

こうしてヒト属は一般的に、最も知能が高い生物属だと考えられてきた。そのうえそこには。生物種は登場するのが後になればなるほど、知能が高くなっていくという考えが隠れている。といっても、こうした知能の序列化は多くの要因に左右される。というのも、まず「知能/知性」という言葉の定義は、文化(アジア、アフリカ、西洋・・・・)、あるいは分野(哲学、心理学、倫理学、生態学、進化学)に応じてさまざまな意味を持っている。「知能/知性」という言葉の世界共通の定義など存在せず、その定義について本を書くなら、一冊ではとても済まないだろう。狭い意味では、この言葉は「理解する力」という意味であるが、調べられるかぎり最も広義の一つに、知能とは概念的で合理的な知識を獲得できる要因となる心理機能全体を意味すると指摘されている。この能力は、論理的に思考し、計画し、問題を解決し、抽象的に考え、複雑な意図を理解し、経験を通して素早く学べる能力を示唆している。知能を形成する要素がいくつもあるというのなら、どうやって異なる動物種の間で知能の比較をすればいいのだろう?


著者はこの考え方に踏み込み「知性」、「知能」には一定の定義が存在せず、比較も序列化も結局のところは人間が自分自身の優位性や特別視をするために捻りだしたものだと言い切っていた。

本書が繰り出してくる哺乳類から魚類、爬虫類、昆虫までもが利用している知恵や問題解決能力は紛れもなく人間の自分本位な考え方を見直さざるを得ない例が目白押しでした。初めて読むようなとんでもない話はどれもとっても面白いものでした。

「2001年宇宙の旅」も根底には人間の特殊性があった。なるほどそこには気づいていなかった。サルがモノリスにであって知性を授かるというのが物語の始まりだった訳だけど、盲点でした。言われてみれば確かにこれはかなり思い上がった考え方である訳だ。それより遥か以前から生物は知恵を発揮して道具を利用して問題解決をしていたと。いやはや。

初めて道具をつくったのは誰で、それはいったいいつのことだったのだろうか?6億年前に節足動物がつくったのだろうか?それとも5億年前の魚類か頭足類?4億年前のクモ類か昆虫類?2億3000万年前の哺乳類?1憶5000万年前の鳥類?6500万年前の霊長類?それとも300万年前の人類の誰かだろうか?行動は化石として残らないのでそれに答えることは不可能だ。そのうえ、道具に関連づけられている身体的形状の特徴は、これまで見てきたとおりまだまだ議論の余地があり、現存する種が道具を使う、ならびに/あるいは道具を製作するからといって、その祖先が同じようにしていたわけではない。一方でそれほどリスクを冒すことなく結論を導き出せることもある。それは、初めて道具を使い、道具を製作したのがヒトである可能性は限りなく低いということだ。非常に多くの動物種が道具を、しかも多様な状況で使っている。


しかし、ではどうして人間だけがこうした高度な技術で道具を使えるようになったのか。言葉が交わせる文字を生み出したとか、いろいろなものが重なっている訳だけど、今から何万年、何億年たったら他の動物たちが道具を作ったりするようになるのかしら。と考えたとき、仮にチンパンジーやゴリラが道具を作って効率的に狩りをしたり火を熾したりするようになったらどうなるか。おそらくその先には人類との衝突が起こるのではないだろうか。人間のこの他を寄せ付けない独自性は恐らく他の動物種の接近を許さない方向で進化しているように思える。うまく書けなくてもどかしいのだけど、他の動物種の進化の可能性を奪い続けてきたからこそ、人間の今の立ち位置があるに違いないと思う。

著者はクモが巧妙な罠を作ることや昆虫が巣作りをしたり社会性行動したりすること、更には細菌が抗生物質と戦うことも知性・知能と結びつけていた。本能に埋め込まれているような行動を知能と呼ぶのかという点ではさすがに少し立ち止まってしまったが、ぐるっと回ってこの話は結局知恵や知能といった言葉の定義の方に問題があるということに終着するのだと気づく。全体的にはなるほどな話ではある。


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真昼の盗人のように ―ポストヒューマニティ時代の権力
(Like A Thief In Broad Daylight: Power in the Era of Post-Human Capitalism)

スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek)

2019/0918:しかし解り難い本だなー。とりあえず文字づらは追いましたがなんだかさっぱりでありました。とても重要なテーマを取り扱っていると思うものの、彼の主張が具体的に何を訴えているのか最後まで理解できませんでした。

そもそもこのタイトルの「真昼の盗人のように」についてだけども、

では、社会の根本的な変化は、どのように起こるのだろうか。断じて意気揚々とした勝利としてではないし、あるいは、メディアでひろく予測されているような大惨事としてでさえない。そうではなく、それは「盗人が夜来るように」起こる。「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜来るように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦の生みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らを襲って来る。そして。それから逃れることは決してできない」(「テサロニケ人への第一の手紙」第五章、第二―三節)。これは「平和とセキュリティ」に取りつかれた今日の社会で、すでに起こっていることではないか。しかし、よくみれば、変化はすでに真昼のうちに起こっていることがわかる。資本主義は公然と崩壊し、公然と別物へと変化しているからだ。われわれがこの進行中の変化に気づかないのは。イデオロギーにどっぷりつかっているからである。

同じことは精神分析の治療にもいえる。病状の解消は「真昼の盗人のように」、予期せぬ副産物のように到来するのであって、設定された目標の達成としてもたらされるのではない。精神分析の実践が、その不可能性ゆえに可能なものであるのは、そのためである。 続く・・・。夜が昼になっているところは昼のうちに既に始まっているということを言いたいのだろうとは思うのだけど、「その不可能性ゆえに可能なのだ」


とかつまりどういう意味なんだと。

格上を各上と書いていたりと翻訳がわるいのか誤植なのかわからないけれども、著者本人だけではない関係から本書は必要以上に読みにくいねものになっているように思うよ。

フランシス・フクヤマは議会制民主主義と資本主義に基づく自由経済が人類の社会が到達する最終形態なのだと強く説いたのはずいぶんと前のことだった。それは物理学がかつてすべての問いを解決して学問として終了するのではないかと強く期待されたことにも似て、大いなる早合点というか世の中を甘く見過ぎたということだった。

物理学はむいてもむいてもたどり着かない玉ねぎのような世界観に向けて学問としては果敢に前進してきたけれども、政治手法や経済理論は完全に停滞、いや著者が述べるように公然と崩壊したことで逆行したともいえる。

ジジェクは左翼ポピュリズムの方面からこの議会制民主主義と資本主義自由経済を超える社会・経済システムを生み出す必要性を訴えているのである。じゃどうすればいいのかという点についてははっきり書いてあるのかどうなのかわからなかったよ。ごめん。

途中「ブレードランナー2049」のお話がでてきて、まだ僕観てないんだよなーと思いつつ読み進んだら冒頭部分かと思ったら思いっきり話の核心部分まで書いててこれネタバレじゃんという状況でした。

一旦中断して映画観ましたよ。慌てて。

僕がここでさらにネタバレしたりはしたくないけど、どうしてもこれだけは言いたい。「ブレードランナー」の最大の謎はデッカードがレプリカントだったのかどうか。という点だと思う。映画の良し悪しはともかく、この謎は謎のまま残った。

「ブレードランナー2049」を観るものが当然のようにこの謎を抱えて観に来ていてるというのが作り手には当然のように理解されているはずだった。そしてそれをどのように扱っているかが試されるのだということも。

しかし、観てびっくりした。まさかの両張りしているのだ。レプリカントだとはっきり描いている部分と人間だと描いている部分が同時進行しているのである。であるがゆえにストーリーは円環的に破綻している。これはひどい。


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カリ・モーラ (Cari Mora)
トマス・ハリス(Thomas Harris)

2019/09/16:何年振りかっていうと13年ぶりなんだそうです。個人的にはもう引退かなーと思い込んでおりましたので、これはびっくり、そしてとても嬉しい。まさかトマス・ハリスの新作に出会えるなんて。思いもよらない出来事に感無量であります。 しかもこの新作が出ていることを知らずにいた僕の誕生日のお祝いに子供たちからプレゼントされた。

トマス・ハリスの新作を親に送ったらよろこぶということを知っている子どもというのもどうだろうすごい話じゃないか。

僕はあまりにもったいなくて、なかなか本にとりかかることができず、ようやく読み始めたのは新盆の行事を済ませた後でした。

マイアミにある大規模だが、最低限の維持管理しかされていない屋敷はかつてパブロ・エスコバルが建てたものだった。エスコバル本人はこの屋敷に足を踏み入れたことがない。一説には本人がアメリカに身柄引き渡しされた場合を想定して家族を暮らさせるために建てたらしい。屋敷は1993年にエスコバルがコロンビア国家警察の治安部隊に射殺されて以降何人もの所有者を渡り歩いてきた。結果屋敷内には実際に使用されていた電気椅子やエイリアンマザーの等身大模型など悪趣味な置物に満ち溢れ、現在はとフェリクスという不動産屋が法定で定める最低限の管理している状態だった。

必要事項の一つとして管理人を常駐させること。しかし建物の由来と邸内の悪趣味な置物のおかげで管理人は居着かず唯一平気で住み込んでいるのが25歳になるコロンビアからの移民カリ・モーラであった。

彼女はコロンビアの内紛のなか反政府左翼ゲリラFARCに拉致少年兵として徴用されたのは11歳の時のことだった。上腕部に避妊インプラントを埋め込まれ、ゲリラとして戦うすべを叩き込まれ実戦に投入されるという悲惨な戦争体験を持っていた。

マイアミのこの豪邸の管理人の仕事は命からがら逃げだしてきてようやくたどり着いた場所だった。管理人をする傍ら鳥や小動物を保護管理するセンターの治療室で獣医の助手を務めるというのも彼女の仕事だった。いずれ獣医の資格をとってアメリカに正式に移住する、というのが目下の彼女の目標であった。そしてもう一つは大事なことはマイアミにいる叔母と従妹とその娘の三人の身よりを守りぬくことであった。

穏やかでひっそりとした彼女の生活を脅かす影。それはエスコバル邸のどこかに眠る莫大な金塊という情報に突き動かされている者どもの影であった。

出てくる人物がどれもめちゃくちゃな曲者な異常者という状況下で果たしてカリの運命は・・・。

「羊たちの沈黙」チックなものを期待していた一部の読者から失望の声があがっている模様ですが、トマス・ハリスとしてシリーズを再開する意味も、まして類似の物語を書く意味なんてなかろうと。であるが故に全く違うものを出してきたのは当然というか必然であった。またこうした作品を「羊たちの沈黙」と単純比較するのもどうかと思う。そりゃ「羊」は大傑作であった訳で、それ以上のものを当然のように期待するのは舌が肥えすぎというか無茶言うなと。

独立したサスペンス小説として一般の作品群と比較してどうかというところが冷静な判断だろうと思う。

そうしてみた時にこの小説はかなりよく出来ている。とても上質な内容になっていると思う。

物語の展開は序盤から読者の予想を裏切り続け、怪しげな伏線を仕込みまくりつつラストまで中だるむことなく突っ走る。 登場人物はキャラが立っていてストーリー展開を違和感ないものにしている。何よりカリの強かさ強靭さそして彼女の生い立ちは他に類似の者をしらず斬新で読者を引き寄せてやまないものがあると思う。

これは満を持してくりだしてきたトマス・ハリスの新しい旋風だと思う。話の内容から映画化されるのはちと難しいような気もするけれども、トマス・ハリスとしてはまだまだご健在で活躍する気満々であるとみましたよ。


トマス・ハリスの過去の作品のレビューはこちら>>


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三鬼 三島屋変調百物語四之続
宮部みゆき

2019/09/01:宮部みゆきの本久しぶりだなーと思ったら5年ぶりだった。え?えーっ!!ってなる。二度驚く。50代になってからだと思うけれどもこうしたことで鳩が豆鉄砲を食ったようにびっくりすることが度々ある。ここでも何度か書いていると思うけども、物事を忘れていくというよりも、出来事の前後関係がわからなくなる。仕事でも似たような事態になることが多々あるのだけれども結果それでどんな影響があるのかはっきりしないところがある。まー仕方ないよなで済ましてしまっているのだけれども実際にはいろいろな人に迷惑をかけているのかもしれない。とりあえず誤っておこう。すまん。

久しぶりにカミさんが勧めてくれたのがこちら「三島屋変調百物語四之続 三鬼」でありました。夏場の猛暑のなか汗だくで通勤している日々が続いていますがこんな時期は持ち歩く本も軽い方が助かる。 江戸神田に袋物の店を構える三島屋で働くおちかは川崎宿で旅籠屋の娘であった。彼女を巡って幼馴染の男が刃傷沙汰となり一人は命を落としてしまうという悲運に襲われてしまった。地元の目から逃れ心の傷を癒すために親戚であった三島屋に奉公することになったのだった。

三島屋の夫婦はおちかをたいそう可愛がり、彼女の心を癒すために奇想天外な企画を持ち出した。誰かに語りたくても語れない話を語り捨て聴き捨てることを約束し吐き出させてあげることで語り手の肩の荷を下ろしてあげる役割をおちかが引き受けるというものだった。口入屋の灯庵の案内で三島屋の奥座敷にある黒白の間へ招かれた人が語る不思議な話の数々。おちか同様、さらにはおちか以上に面妖な出来事に直面した人々の話を聴き、時によっては手助けをしていくことによって何者かを救い、おちか自身も救われその世界観をも変えていくのだった。

ところでこれ既に続四だな。僕はこのシリーズ何冊読んでいるんだ?だいぶ飛んだなー。カミさんが僕に勧めてこなかったのはそれなりに事情があるのだろう。信頼できる読書家の一人が選別してくれているおかげで僕の読書生活はさらに充実したものになっている。本当にありがたいことだ。僕のこの細々としたこのサイトの目的も正にそんなことができたらと思って始めたのでありました。誰かがこのサイトの記事を読んで参考になったりしたのなら本望というものでしょう。

本書に含まれている物語は、「迷いの旅籠」、「食客ひだる神」、「三鬼」、「おくらさま」の四話。

「迷いの旅籠」ではまだ幼さが残る少女がお客様。中原街道沿いにある農村からやってきたという。わざわざ江戸まで?ということだが、実は彼女は江戸にいる村の名主に事の顛末を報告するためにやってきていたのだった。名主様に上手に報告するために事前におちかの前で話をさせてみようということなったのだった。彼女の村で起こった話というのは亡くなった人たちが戻ってきたという話であった。

「食客ひだる神」三島屋がひいきにしているだるま屋のお弁当は絶品だった。毎年三島屋で働く人々にお休みをやり仕出しのお弁当を届けてお花見をするというのが恒例となっていた。その年のお弁当も本当にすばらしいものだった。このだるま屋夏場はお店を閉めて商売を全くしないというのが習わしになっていた。なぜこの季節にお店を閉めてしまうのだろうか。何か事情があるのではと踏んだおちかはだるま屋のご主人を黒白の間に招くことにした。

「三鬼」二度の日程変更を経てやってきたのは立ち居振る舞いが只者ではない風格を備えた武士であった。今は居候の身だというこの武士はかつて貧しさに苦しむ栗山藩の勘定を預かる下級藩士であったという。藩主の無策により貧しさから脱却できない藩は荒廃し治安が乱れていった。武士の妹はそんな世の中で若者の非道の被害をうけ彼はその復讐を果たした角でとある寒村へ左遷されていった。その寒村には恐ろしい鬼がいた。

「おくらさま」時間になっても現れない招待客の様子を伺いに一旦店先に出て部屋にもどるとそこには振袖姿の老婆が座っていた。彼女は芝の神明町で香具屋を営む美仙屋の三姉妹のひとりだったというこの老婆は自分の店で起こった話を語りはじめる。お店には代々この店の守り神だというおくらさまという神様がいたという。

それぞれの物語と平行して進むおちかの物語がゆるゆると進んでいくのがなんとも心地よい。猛暑の通勤時間をしのぐ一服の清涼剤のような一冊でありました。僕はこれのお陰で夏バテもなくどうにか8月を乗り切りました。

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柔軟的思考 困難を乗り越える独創的な脳
(Euclid's Window: The Story of
Geometry from Parallel Lines to Hyperspace)

レナード・ムロディナウ(Leonard Mlodinow)

2019/08/18:今年の夏季休暇は9連休もらってのんびり過ごしています。時間があると思うと記事の取りまとめは全然進まず最終日間際にあわあわしながら書いているという、これって子供の頃の習性のまんまだなー。夏休みの宿題もいつもこんな感じだったわ。

「リ・シンク」が全く頭に入らず、消化不良だったこともあって、似たようなジャンルから本を選んだ。レナード・ムロディナウの「柔軟的思考」。ムロディナウの本は三冊目。信頼できる書き手なので読んで失敗する心配はないと思った。

ムロディナウは思考には大きく三つあるとしている。と思う。一つは台本に沿ったもの。この台本というのは所謂本能に沿うもので、もしかしたらムロディナウ自身はこれを思考とは考えていないのかもしれないものだ。一般的にもこの台本に沿った行動は、「無意識」と呼ばれ、考えるよりも先に行動を起こすようなものを指している。

火事や事故など緊急事態が起こった場合、どうすべきか考えるよりも先に体が回避・逃走の行動に移るようなものだ。一般的には無意識とされているが、脳が命令を出しているという点では決して勝手に行動している訳ではないだろう。本能そのものだって脳のプログラムなんだろうし。

しかし、この本能だけでは高等動物は生きていくことが難しくなる。そこで備わってきたものが残りの二つだ。それが分析的思考と柔軟的思考である。

台本に則った情報処理モードが役に立たないような状況に備えて、進化は私たち人間や他の動物に、どのように反応すべきかを計算する手段をさらに二つ提供してくれている。一つは合理的・論理的・分析的な思考で、ここでは簡単に<分析的思考>(アナリティカルシンキング)と呼ぶことにする。これは、一つの考えから、事実や理屈に基づいて、それと関連した別の考えを進めていくという、段階的な方法論である。さらにもうひとつの手段が、柔軟的思考である。動物種によってその能力の程度は異なるが、もっとも発達しているのは哺乳類、とくに霊長類で、その中でもとりわけ人間がもっとも能力が高いと考えられる。

分析的思考は、物事を深く考える方法の一つとして、現代社会でもっとも価値がある。人生ででくわす単刀直入な問題を分析するのにもっとも適しているため、学校でもこの思考方法に焦点が当てられている。その能力はIQテストや大学の入試試験で数値化されるし、雇用主もその能力を持った人材を求める。しかし分析的思考はたしかに強力だが、台本に則った処理と同じく、直線的な形で進められる。意識的な心が支配する分析的思考では、考えやアイディアは、AからB、さらにCへと、順々に導かれる。そのそれぞれが、固定された一連の規則、すなわち論理法則に基づいて一つ前のものから導かれるようになっていておそらくコンピューターでも実行できるだろう。このため、分析的思考は台本に則った処理と同じく、まったく新たな難題や変化する状況には当てはまらないことが多い。

そうした難題にもっともふさわしいのが、柔軟的思考である。柔軟的思考のプロセスは、AからBへ、そしてCへ、というようにたどることはできない。柔軟的思考はおもに無意識の中でおこなわれ、複数の思考の連鎖が並行して進められる非直線的な処理モードである。ネットワークを構成する何十億ものニューロンの微細な相互作用を通じてボトムアップ式に結論が導かれ、そのプロセスはあまりにも複雑なため段階を追って示すことはできない。分析的思考と違ってトップダウン的なはっきりした方向性がなく、また感情に促されるという面が大きいために、多種多様な情報を統合し、難題を解決し、困難な問題に挑む新たなアプローチを見つけるのにふさわしい。また風変りな、さらには突飛なアイディアを考えるのに役立ち、創造性を引き上げてくれる。


リテラシーの低い僕が整理すると同じことを繰り返してしまうのが残念なんだけども、つまりは柔軟的思考というものは非線形的で明確で論理的な意識下で考えるものとは異なるものだという訳だ。

タイトルから想像していた柔軟性というものと著者が定義している「柔軟的思考」が大きく異なっているということに気づくのにしばらく時間がかかってしまった。

柔軟的思考をより具体的に定義している部分を引用するとこんな感じになる。

居心地の良い考え方を捨てて、思い通りにならないあいまいな状態に慣れ親しむ能力。型にはまった考え方を乗り越えて、問題を新たな枠組みで捉えなおす能力。染みついた思い込みを捨てて、新たなパラダイムに目を向ける能力。論理だけでなく想像力にも頼り、幅広い考えを生み出して一つのまとめる習性。失敗をものともせずに挑戦する意気込み。それぞれかなり趣の異なる才能だが、その根底にある脳活動が心理学者や神経科学者によって明らかになって、ある一貫した認知スタイルのさまざまな側面であることが分っている。その認知スタイルを私は、<柔軟的思考>(エラスティックシンキング)と呼んでいる。

柔軟的思考をすれば、まったく新しい問題を解決することができる。従来の秩序の向こう側を覆い隠している、神経学的および心理学的に障壁を乗り越えることができる。本書ではこの先、私たちの脳がどのようにして柔軟的思考をするのか、それを育むにはどうするばいいかに関する、近年の研究の大きな進展を探っていく。


平たく言えば非線形的思考というものがどんなもので、そのような思考方法をどうすれば育むことができるのかというもの。

あーまた結局言い換えにすらなってない気がする。

背伸びして自分なりの解釈をさせてもらえば、本能のような完全に無意識な<思考>とその正反対なところにある分析的思考。そのちょうど中間にあるのが柔軟的思考と言えるのではないだろうか。なんてな。しかし自分は柔軟的思考と云ったときに、どんなものを想定していたんだろうか。ムロディナウがあくまで結論に至るプロセスの事を指している訳だが、僕は結論そのものを想定していたように思う。

既成概念や固定観念に捕らわれずに新たな枠組みで課題を捉えなおして従来の考え方ではおよそ思いつかないような結論のことだ。

そうかなるほど、こうした結論にたどり着くためには分析的思考ではなく、柔軟的思考が必要な訳で、どうしたらこうした柔軟な結論を生み出すことができるのかといえば、柔軟的な思考が必要という訳な訳で、方法論に向かうムロディナウの思考プロセスは正に欧米的というか論理的、分析的思考アプローチとなっている訳だ。

日本人の、なんて書いてしまうと甚だ誰目線だということになってしまうのだけれども、日本人は兎角こうした方法論に向かう意識というのが決定的に欧米に劣っているんではないかと思う。

柔軟に考えろとか、ブレイクスルーするのだとか、圧倒的に他を凌駕するのだといった掛け声はよくよく見かけるのだけれども、それってつまりだからどうしたら良いのかについては、ただひたすらに「頑張るのだ」みたいな精神論的な掛け声で終わるというのが社会でも会社でもありがちな話なのではないだろうか。

どうしたら自分自身の、家族や仲間、同僚や会社の生産性や創造性を高めることができるのだろうか。つまりは柔軟的思考を個人や集団で高めていくことができる方法論というものがあるとしたならば、実践してみないという手があるのかという話な訳であります。

目次より
はじめに
第1部 変化に立ち向かう
第1章 変化の喜び
第2部 思考のしくみ
第2章 思考とは何か
第3章 思考するわけ
第4章 脳の中の世界
第3部 新たなアイデアはどこから出てくるのか
第5章 観点のパワー
第6章 考えていないときに考える
第7章 ひらめきの源
第4部 脳を解放する
第8章 思考が凝り固まる
第9章 心理的ブロックとアイデアフィルター
第10章 善人、狂人、奇人
第11章 解放
謝辞
訳者あとがき
原注

このようにムロディナウが主張している定義が明確になった途端本書の内容はその色合いを急激に変質させていく。

どうしたら柔軟的思考を行う能力を高めていくことができるのか。目的がはっきりしたことでその方法論の価値観が変わるのである。

薬物に頼って自我を解放するとか変人と呼ばれた偉人達の奇行みたいな話に目を奪われる部分も確かにあった。

しかし我々一般人が実践可能な具体的な方法論は見逃すことができないものがあります。

ポジティブ心理者が勧める活動の中でもっともよく知られているのが、感謝している三つの事柄を毎日書きだす、<感謝の練習>である。良い天気のこととか、自分の健康について嬉しかった事柄など、何でもかまわない。もう一つの方法は、他人に何かしてあげたことで得られる満足感に関する研究に基づいている。たとえば、自分自身よりも誰か他の人のためにお金を使った方が、気分が高まる。<思いやりの練習>と呼ばれるその方法は、感謝の練習とほぼ同じだが、人にしてあげた良いことを記録していくところが違う。そのほかにも<記録の練習>に関する研究は行われている。いずれにおいても、効果を発揮するための鍵は、自分自身に関するポジティブな情報に気を配ることにあるらしい。

さらに防御的な方法もある。心をむしばむネガティブな思考の悪循環を断ち切るための方法だ。最初のステップは、悪い思考を認めて、そりをすぐに抑えつけようとせずに受け入れること。受け入れれば影響は小さくなる。次にその考えを持っているのが自分ではなくて友人であるとイメージする。その友人にどんなアドバイスをしてあげるだろうか?たとえば仕事で一つ間違いを犯したのだとしたら、全般的には良い実績を上げているし、一度も間違いを犯さない人なんてどこにもいないと指摘してあげるかもしれない。そこで、そのアドバイスが自分自身にどのようにあてはまるかに意識を向ける。この防御的方法は強力で、うつ病の症状にさえ有効であることが分かっている。


代表的な例としてポジティブ心理学が勧める実践方法を引用させていただきましたが、どうでしょうかこれ。非常に説得力があるというか納得できる内容だと僕は思う。

会社で仕事をしているときのことを考えても、粘着質なやつなんかがクレーマー紛いな言動で割り込んできたりすると集団の生産性や創造性は著しく低下する。逆に穏便でお互いに気遣い合い、助け合って仕事ができる雰囲気だと生産性も創造性も高まる。

これは間違いないと思う。

また、企画立案みたいな仕事は合間に比較的単純で機械的な作業と交互にやった方が進む。人間ずっと同じことを考えていても出口が見つからなくなるものだ。息抜きをするにしてもなんもせずにぼーと休むよりも、体を動かす単純作業で草臥れるぐらいなことをやった方が気分転換になると思う。

本書の中にはなんとなく自分自身もその方が仕事が進むなーと思ってやっていたことを裏付けるようなものもあって、ついつい膝を打つような内容に溢れておりました。

「人類と科学の400万年史」のレビューはこちら>>

「柔軟的思考」のレビューはこちら>>

「ユークリッドの窓」のレビューはこちら>>

「たまたま」のレビューはこちら>>

「ホーキング、宇宙と人間を語る」のレビューはこちら>>



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RE:THINK(リ・シンク):答えは過去にある
(Rethink: the Surprising History of Ideas)

スティーヴン プール(Steven Poole)

2019/07/21:年度区切りで四半期単位にページを追加してレビューの記事を掲載するという作業をずっと続けてきていた訳ですが、この第二四半期仕事では切り替わったことが嫌でもわかるというかそれに沿って仕事をしていたのだけどもどうした訳かページを追加するのを忘れたまま7月も半分を経過してしまっていた。

コナリーの本の記事を書いてアップしている際もどうした訳かページを追加しなきゃいけないということに全く思いが及ばなかった。 思うに色々な事を詰め込み過ぎなんだろうな。

同世代の親父が休日どのように過ごしているのか正直全く興味もないし知らないのだけども、少なくとも僕みたいに常にせっせと何かしているというようなことは考え難いのではないかと思う。

仕事でも施策をいくつも同時並行して進めてて、結果一日朝から晩までずっと打合せみたいな日々になっている。

娘にそれをふと言ったら、びっくりしていた。

それなりの役職者なのでただ人の話を聞いているとかそんな悠長に構えた感じを想像したらしいけども実際にはシステム化だったり、BPRだったりの打合せなので喧々諤々の検討会なのよほとんど。 そして家でも自転車だINGRESSだ料理だ読書記事だと自ら課した作業を完了すべくバタバタとしている。その方が楽しいからなんだけども。あれしてこれしてと目まぐるし過ぎているのかなという朧げな自覚はある。

としたら果たして何か辞められることがあるのだろうか。

ないな。多分。

しかし少しペースは落とせるかな。いや少し落とすべきですね。


ビジネスやクリエイティブな現場で 時代をリードしたアイディアやイノベーションには、 一度は消え去り忘れられたものが「再考(リ・シンク)」され 脚光を浴びたケースが少なくない。


確かに僕もそんな思いをすることが度々あるよ。 新発見よりもアイディアを横展開して成功するケースも多々あることも。

となればこれは是非読んでおこう。ということで手にした次第です。てっきり「ビジネス書」として読もうという姿勢で臨みましたが、ページを進むとなんだか見当違いな場所にいる自分に気づいた。

哲学であったり神経科学であったりと話題は盛沢山なんだけども、一体全体どこに向かって進んでいこうとしているのか全然わからない。

しかも文章が難解。はっきり言って要領を得てなくて、読み進まない。断片的に例えば、地動説から現代宇宙論まで、人類は正しかった試しがない。みたいな、なるほどな記載に出会うことはあるものの、タイトルが示す「リ・シンク」の方法論が全く腑に堕ちない。

本書を通して、わたしたちは新旧のアイディアについて考えるための、さまざまな方法について論じてきた。そしてそれらの方法がうまくいくかどうかはどれも、信念の保留を維持できるかどうかにかかっている。そうすることによってひとつのアイディアを、もしかしたらもっと有意義かもしれない角度から眺める時間が生まれ、おそらくはその継続的な力を再発見することになる。アイディアを手に取り、それがブラック・ボックスでないかどうかを確かめよう(ラマルク主義)。アイディアの正誤は気にせずプラシーボ効果が働く可能性を考えてみてもいい(ウィリアム・ジェイムズの感情についての理論)。あるいは。もし間違っているとしても、それは必要な足掛かりではないだろうか(暗黒エネルギー)。アイディアが拒絶されたのはバカげているからではなく、パワーアップ・アイディアだからではないかと問いかけよう(多言語プログラム)。バカげている度合いが一番低い選択肢に真剣に目を向けよう(汎新論)。わたしたちが知らないと知っていることを明らかにして、好奇心を刺激するのもいい。常識を捨てて市場に逆張りしてみよう。簡単すぎてうまくいくように思えないことも、もう一度見直そう。”明日からの眺め”を取り入れて、啓発された視線から今の思考をみてみよう、信念の保量は発見の、そして再発見の強力なエンジンなのである。


最後の最後にまとめみたいな文章に行き当たるのだけども、言いたかったことはこれかもしれないけども、要約してもこんな下手くそかと、がっかりしました。著者本人はこうした技能を習得して使いこなしてるのかもしれないけど、これを読んで作者の勧める「リ・シンク」が実践できるようになる人ってあんまりいなさそうですよ。

そして繰り返しますがビジネス書ではないし、ビジネス・パーソン必読の書という宣伝文句はミスリードだと思う。

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