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脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか:
生き物の「動き」と「形」の40億年
(Restless Creatures: The Story of Life in Ten Movements)

マット ウィルキンソン(Matt Wilkinson)

2019/12/29:昨日仕事納めを無事済ませて、今日から年末年始のお休みに入りました。今回は9連休と長めのお休みです。全力疾走してきた緊張感から解放されて、やや自失茫然としております。

2019年最後の一冊はこちら「脚・ひれ・翼はなぜ進化してきたのか」であります。とここから筆が進まなくなってしまった。毎年12月は普段以上に忙しいのだけど、今年はブロードリンクという会社から神奈川県庁の情報が消されていないHDDが流出した事件で世間が大騒ぎになり、地続きで仕事をしている我々の会社にも問い合わせから、今後の仕事の進め方から何から押し寄せてきてメンバー共々大わらわになってしまいました。

幸いにも事件に巻き込まれることがなかったので、ここでこうしてぼさーっとしながら読んだ本の記事が書けないなどと幸せなことをほざいてる次第であります。

また、今月は毎年恒例のキャリアプランに関する面談を行う時期だった訳ですが、30名くらいいるメンバー全員と面談するといのはなかなかタフなイベントです。しんどいんだけど、普段踏み込めない価値観や考え方などを共有することができる貴重な機会で、ほんと集中して話を聴き、これに対して真摯に応え、必要に応じてアドバイスする、みたいな真剣勝負的な面談が延々と続く次第で、さすがに終わると脳神経が疲労困憊です。

そしてこのイベント当部にやってきて5年目ぐらいになるのだけど、かなり雰囲気が変わってきた。みんな言っている事が非常に大人というか、ほんと仕事の事をよく考えてくれてて、建設的な議論ができるようになってきました。ほんと涙が出るよ。 ありがとうみんな頑張ってくれて。

僕らもちょっとずつだけどきちんと進化しているのだよ。と無理無理テーマに戻らせていただきます。

この本を読みだした最初から違和感があったのはこのタイトル、脚・ひれ・翼のこの順番だった。なんでこの順番?進化の道筋を考えるにひれがまずあって、脚になったのだと思うけども、翼はどうなのか、脚というからには前肢が翼にということを言うこともできるかもしれないけども「脚」ったら後肢だよね。後肢が翼になったりした生物がいたのかどうなのか。とか。

そう思うのなら、最初から原題に目を向ければ良かったのだけど、僕はいつものようにタイトルに引きずられる形で自分で抱え込んだ謎を本から読み取ろうとしてしまった。

目次
1 人間はどのように歩き、走るか
2 人間の直立二足歩行の起源
3 鳥はどのように飛び始めたか
4 背骨は泳ぐために
5 ひれはいかにして肢になったか
6 なぜ動物の多くは左右対称なのか
7 脳と筋肉はどのように生まれたか
8 移動しない生物が進化した理由
9 最初の移動運動はどう始まったか
10 動物はなぜ動きたいと思うか

目次をご覧になっていたたければ解るように、本書はその「脚」から始まり「翼」そして「ひれ」に話題を移していくのだけれども、その発生順、連続性についてはなぜか薄く、話題はどんどんと転がっていく。

一つ一つの話はかなり専門的で深く、興味深く読ませていただきましたが、どうも文脈を踏み外したまま本を読み進めてしまった。

原題は"Restless Creatures: The Story of Life in Ten Movements"で休みなく動く生き物、生物史の10の出来事、とかいう意味でこれってつまり章と章の間には分断がある訳じゃん!!と訳で、この日本語タイトルはミスリードを招くダメなやつの代表ですね。僕はずっと次の章がどうしてここに位置しているのか必死に考えて読んでたわ。

しかし本書を通して感じたの、ダーウィンの進化論から想起される優位選択などとは違うもっと劇的な環境変化に対する熾烈な生存競争があったことだ。


シダ類の高さに頼った分散戦略は成功しているが、若干反社会的ではある。背の高い動物の陰になる、それほど高く成長できない植物は太陽の光をほとんど受けられない。これは光合成する植物にとっては大問題だ。引っ越しなどできるわけがないので、解決策は二つになる。光子の吸収率を上げるか、逆に自分の背を高くするか。これが地球の様相そのものを変えた植物館の熾烈な競争の温床となった。初期段階、比較的穏やかに事は進んでいた。というのも、そのころの陸上植物は構造的にそれほど垂直方向の長さを伸ばせる身体を持っていなかったからだ。すべてが変わってしまったのは、デボン紀の末期だった。植物が陸上を支配するずっと以前からその体内で進化してきた抗真菌性生物高分子であるリグニンが、十分な量を蓄えてずば抜けた強度を発揮し始めたのだ。このように過剰なリグニンを蓄えた植物の組織を「木質」と呼ぶ。木質が登場するやいなや木は地球上のあらゆる場所で急成長していった。

このときから、光をめぐる争いが、危険なものに変化した。生物の身体が腐ると、炭素の大半は大気中に戻る。しかしこの背比べ競争が最高潮に達したとき、リグニンを分解できる生物が存在しなかったため、何もかもが地中に埋まっていった。何百万年ものあいだ炭素は空気から地面にひたすら流れ込んで石炭を形成した。2000万年かけて、木は大気中の80%の二酸化炭素を奪い、地球の低温化を招いて大氷河期を引き起こした。ダメージはこれだけではなかった。地上で気味の悪いほど膨張した木を支えるために根も深く伸び、前代未聞の風化の原因を作った。これによって地球全体の水が冨栄養化し、藻類が大発生した。藻類の集団腐敗は、空気中の酸素濃度の急激な低下を招き、もし大気/地質モデルが正しければ酸素濃度は12%まで落ちたという。

この危機はその後、地球の植物が光合成の副産物として生成した酸素を空気中に放出するようになったおかげで回避された。じっさい、石炭紀の末期までには、酸素濃度のレベルはかつてないほど高い35%に上昇した。とはいえ、ダメージは残った。デボン紀の末期までに、すべての生物のうち75%もの種が絶滅したのだ。すべては植物が根を離れて動こうとしなかったせいなのだ。とはいうものの、事態はもっと悪化していたかもしれない。石炭紀の末期までに、菌類のなかでもいわゆるキノコに相当する集団がついにリグニンの分解方法を見つけ、二酸化炭素が際限なく地中に流れ込むのを止めさせることができた。こうして地球全体が冷蔵庫になってしまう事態が避けられた。この次キノコ類を食べる機会にはありがたみを噛みしめよう。


地球環境はこれまでもなんども寒冷化と温暖化を繰り返してきた。そして酸素や二酸化炭素の濃度も大きく変動してきた。その度に、つまりは土俵が変わることで動物たちは生き残りを賭けて身体や能力を環境に合わせて変更してきた。うまく適応できなかったもの、他の動物に劣ったものは容赦なく絶滅してきたのだ。

それは他の競争相手よりも足が速いとか、首がちょっと長いとか、勿論それが生死を分けていくことだってあるだろう。しかしこれは同じ動物同士だったり、食物連鎖の隣り合わせのものたちで起こることであった。そしてそれは従来の我々には比較的想像しやすいイメージがあった。

しかし、それとは別に地球環境の激変という強い競争圧を受ける場合があった。その積み重ねが動物たちの移動手段を進化させていた。より早くより有利な場所へ、場合によってはイチかバチかの賭けに出るような形で新しい環境へ踏み出していく、行かざるを得なかった動物たちが勝ち取った身体や能力を10のイベントにまとめたというのが本書の全体像であったのでありました。

難しいなこりゃ。

皆さま、今年一年大変お世話になりました。また来年もよろしくお願いいたします。


△▲△

人種と歴史/人種と文化
(RACE ET HISTOIRE, RACE ET CULTURE)

クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)

2019/11/30:レヴィ=ストロースの存在を知ったのは一体何時で何によってだったのだろうか。振り返って調べてみたけどもわからない。エバノートを検索してもそれらしい記事がない。自分のなかでは途轍もなく頭のいいひとで一度本を読んでみたいと思っていたのだけども、それがなんでだったのか思い出させないという残念な話。2009年に亡くなられた時に出たニュースをクリップしているのだから相当前から知っていた模様なんだが・・・。

見かけて飛びついたものの僕の脳裏ではこんな展開があった訳ですよ。しかしまー、これだけ長い間印象に残っている位なんだから余程のものがあったのだろう。

ご存知ない方、というか僕も今知ったのだけど、このクロード・レヴィ=ストロースはフランスの文化人類学者・思想家で現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとりなのだそうだ。この構造主義というのは、人類学におけるデータ分析の方法論で、主韻論などによる構造言語学に関するもののようだ。言語学、ということはチョムスキー繋がりだ。チョムスキーは構造言語学に対抗し成文法を提唱したのだそうだ。この成文法の本に僕は挑戦して冒頭から迷子になり手も足も出なかったのだった。そうだった。だからメモも何も残ってないのかー。

ということでレヴィ=ストロースの業績や彼の偉大さはちっとも理解できないまんまですが、そんな彼が1952年と1973年にユネスコからの依頼により書かれた小冊子が「人種と歴史」と「人種と文化」の二つでありました。

ユネスコの目的は人種差別、偏見と闘うことにあった。特に「人種と歴史」は第二次世界大戦終戦直後、ナチス・ドイツの人種理論の根絶という切迫した問題意識があったのだという。ホロコーストを知った人類の衝撃とユネスコの危機感というものは非常に重く深いものがあったろうと思う。しかし、その一方でナチズムは排斥されファシズムは後退、議会制民主主義と自由に湧く世界は未来を間違いなく明るいものとして捉えていた。

人類生活は、画一的で単調な体制のもとで発展するのではなく、社会と文明のきわめて多様な様式にしたがって発展するという面である。このような知的、感性的、社会学的多様性は、生物学的レベルで人間の集団のあいだに観察できる一定の特徴の多様性とは、因果関係によってはまったく結び付けられてはおらず、前者[文化的多様性]は後者[生物学的多様性]とは異なった領域でパラレルな関係にあるにすぎない。そればかりでなく、前者は二つの重要な性質によって後者から区別される。まず第一に、前者は後者と大きさを異にしている。人類の文化は数千のオーダーで数えられるのに対して、人種は一、二桁で数えられるのであって、前者は数の上で後者より桁違いに多い。同一の人種に属する人間たちによって作り出された二つの文化が、人種的に遠く隔たった集団に属する二つの文化と同じくらいか、あるいははるかに大きく異なっていることがありうる。第二に、人種の多様性が主に歴史的起源と空間的分布について関心の対象となるのと逆に、文化の多様性は人類にとって有益なのか不利益なのかという総体的な問題があり、さらにその問いは当然のことながら、他の多くの問題に枝分かれしてゆき、数多くの問題を提起するものなのである。


であるが故に「人種と歴史」は重たいテーマを扱いつつも実は今振り返ると楽観的すぎたかもと言える内容であったとも言える。それに反して1972年に書かれた「人種と文化」におけるレヴィ=ストロースの絶望。

大戦直後の人々が抱いた平和と和平に対する理想論めくが大に理解できる希望と、それから20年、30年、半世紀を経た世界の「ありよう」との間には大きな隔たりがある。だがレヴィ=ストロースの幻滅は、証拠の科学的管理という手段だけで人種主義の醜さと効果的に戦うことはできないという状況からも来ていたのではないだろうか?もしそうであれば、彼の見解は、今日ヴィクトル・ストチュコフスキのような人類学者が確固たる手法で表明している立場に行き当たることになる。近年のめざましい論文の中で、ストチュコフスキはこう強調して、科学者たちが広く共有しているひとつの偏見をやり玉に挙げている。「今日普通にみられる人種主義は、かつての学問的思考の名残ではない、非科学的な思考から新たに生み出されたものである。


戦後、ホロコーストの衝撃を霞ませるような数々のジェノサイドが起こり、人種主義、差別主義はその後更に深刻さと先鋭化は進み続けている今、これら二つの本に立ち返ることが人類にとって必要なことなのではないか。そんな問題意識に基づき新装版として僕らの前に現れたという訳なのでありました。

みんなちゃんと読もう。これ。

文化が何であるかはわかっているが、人種が何であるかはわかっていない。そして、今回の講演の標語に含まれる問題に答えるには、おそらく人種が何であるかを知る必要はないかもしれない。見かけは複雑かもしれないが、この問題は実際には、より素朴な形で言い表すのが早道かもしれない。文化間には差異がある。ある文化が、同類の文化よりー少なくとも予備知識なしにみてー別の文化と大きな差異をみせている場合、このような文化を持つ集団は、同類の身体的外観を持つ集団より、別の集団と比較した場合に差異が大きい。また、同類の文化との差異よりも、別の集団の文化との差異のほう大きいと感じている。このような身体的差異と文化的差異のあいだに、関連があるのだろうか。身体的差異を考慮せずに、文化的差異を説明し、証明できるだろうが。私にはおおよそこのような問題に答えるよう求められている。だが、すでに述べた理由にで、私には答えられない。


これが書かれた1972年、僕は世の中で進んでいるジェノサイドや民族主義や格差社会の拡大の事など夢にも思っていなかったと思う。しかし、自分が捉えていた世界観と現実には大きな乖離があった。そして時代は更に進み現在、世界情勢は何かの悪い冗談かのように醜悪に歪み、これ以上ないほどに先鋭化した格差社会の境界線上で激しい暴力が巻き起こる平和や自由とは程遠く、未来に対する期待や希望はこれまでになくしぼんだ状態にある。

その今、この文章を改めて読んで感じるのは、人種が何であるのかは相変わらずわからないままだが、一方で文化が何であるのか僕らは今これ自体に自信がなくなってきているように思う。暴君安倍晋三の政権下で「桜を見る会」に参加した名簿が共産党に指摘された直後に破棄されていて1万人を超える招待客がいたというのに誰が呼ばれたか解らないという政府の回答を誰が信じるのか。日本列島は世代や価値観や格差によって散り散りに分断され、日本人の共通の文化と呼べるものが一体何なのか答えられない状態にある。

人間は果てしなく分離と統合を繰り返していく生き物なのだろうか。細分化はこの先どんどんと微細な差異によって進み続けるしかないように見えるけれども、その一方で何等かの軸で統合合流していくのだろうか。日本人の姿というものが10年後、50年後どのような姿になっているのだろうか。


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贖罪の街(The Crossing)
マイクル・コナリー(Michael Conneliy)

2019/11/23:嬉しいことに久しく海外ミステリから遠ざかっていたカミさんが戻ってきた。コナリーの前作を読んで面白いと思ってくれたようだ。コナリーのシリーズはいよいよ円熟さを増し、これを読まずして何を読むのかというレベルだと思っているのだけど、第三者が面白いと言ってくれると更に嬉しいですね。

シリーズ28作目2015年の作品となる「贖罪の街」はボッシュとミッキー・ハラ―の両方が登場する豪華な展開だ。面白くない訳がない。しかし、これ冒頭からネタバレになっちゃうような展開じゃないか。

前作の終盤でとった行動がもとでロサンゼルス市警から停職されたボッシュは暗澹とした日々を送っていた。停職期間の関係で雇用延長される可能性は爪の先ほどもなく、このまま引退することを覚悟していたのだった。長い間ガレージで眠っていたハーレーをリストアすることを本気で考え始めている。そんなボッシュにハラ―は頼み事があるということで呼び出しをかけてきた。

ハラ―が抱えている殺人事件の捜査協力をしてくれないかという。刑事事件の弁護士に協力することはボッシュに限らず警察にいた人間にとっては超えてはならない一線だった。そしてその線は一度超えたら二度と引き返すことができないものと考えられていた。

ボッシュがこの線を超えたことが知れれば、復職はもちろんのこと、かつての仲間たちとの関係が断絶してしまう可能性もあった。ハラ―は、にも関わらずボッシュに協力を乞うのだった。 調査員のシスコが怪我で仕事ができずにおり、調査員の再委託という形でボッシュを雇う分には問題がないだろうと言うのだ。そして何より、この被疑者は絶対に無罪だからだという。事件を調べればそれはすぐにわかると。

対象となるのはレクシー・パークス事件。ボッシュは停職中でニュースから遠ざかっていたがこの事件は世間を大いに賑わせていた。夫は保安官で本人も行政に関わる仕事をしていた女性だったが、ある日、自宅に侵入してきたものにレイプされ激しく殴打されたあげくに絞殺されたのだった。彼女の死体はみるも惨たらしい状態であった。

現場から採取されたDNAから浮かび上がったのはかつてギャング団の一味として逮捕歴があるダグァン・フォスターという人物だった。その経歴から予測される人物像とは程遠く、逮捕直前の彼は出所後厚生に勤め結婚し妻子がおり、子どもたちに絵を教える静かな生活をしていたのだという。そして殺されたレクシーとは全く接点がなく、殺害現場となった彼女の自宅付近も近づいたこともないというのだった。

渋るボッシュにハラ―はつい本音を吐露する。「厚生や贖罪を信じていないということさ。人は変わり得るということを信じていないのは、『ひとたび犯罪者になればずっと犯罪者のままだ』と思っている」

どうしても嫌なら断ってくれて良いので事件ファイルに目を通してくれといわれ預かったボッシュは後ろ髪を引かれつつもファイルに目を通し始める。最初にボッシュのレーダーに反応したのは犬だった。

夫婦の家の玄関には猛犬注意のシールが貼られていたが、実際に犬は飼っていなかった。つまり防犯目的でシールを貼っていたのだろう。犯人はそれを見抜いていた。ということは下見をしていたに違いない。衝動的に行った犯行のように装われているのではないかという疑念が浮かぶのだった。となると逮捕拘束されているダグァンは罪を擦り付けられているということだ。そしてそれは誰に、なんのために、気づくとボッシュは事件捜査に没頭し始めていた。

超マッチョなどでかいエンジンを積んだスポーツカーのように物語は唸りをあげてラストに向けて加速していく。すげーな。まじで。読まずに死ねるかレベルの一冊でありました。

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民主主義を救え!
(The People vs. Democracy:
Why Our Freedom Is in Danger and How to Save It)

ヤシャ モンク(Yascha Mounk)

2019/11/10:安倍政権の暴走が目に余る下品さ醜悪さをまき散らすようになって久しい。先日も公金を使った花見の会を催しお友達を招待して宴に酔いしれてみたり、国会での野党の質問に品位のない暴言を吐いてみたりと、とても常識ある大人がすることではないようなことを平気で行って悪びれる風もない。

これはそんな事やっても罷免されもせず、次の選挙で負けることもないという自信の表れなのだろうと思う。それには野党が小さく異なる意見でばらばらになっていること、嫌韓や軍国主義、権威主義のような本来の政策とはかけ離れた思想信条で自民党に投票する蒙昧な人々が多いということが合わせ技となった結果なんだろうと思う。

僕自身も議会制民主主義は限界を超えたのか、とか選挙制度が民意を反映できていないのではないかと考えざるを得ないと感じることもしばしばとなってきた。

令和天皇が即位しましたが、従前、天皇の存在について否定的な感情はないものの、象徴でしかない存在である以上、何か期待も敬意も持ち合わせていなかった自分でしたが、この天皇の前で万歳三唱している愚かで無様な安倍の姿をみるに及んで、この男がどんなに暴走しても最後の一線を超える前に止めることができるのは、議会からも選挙制度からも切り離された天皇しかないのではないかと思うようになった。

先の大戦で大きな傷を負った日本の記憶を血族として有し、再びこの惨禍を繰り返さないと誓った天皇に望みがあるのであれば、天皇の存在に価値があると思ったのだけど如何なものだろうか。

日本語版に寄せて
序 章 失われていく幻想
 リベラリズムとデモクラシーの衝突
 リベラル・デモクラシー存続の条件/非常時に生きる
第1部 リベラル・デモクラシーの危機
 第1章 権利なきデモクラシー
  政治は簡単にできている(そしてそれに反対するものは当然噓つきだ)
  「私はあなた方の声」(そして私以外はみな裏切り者)
  人々こそが決める(そして何を決めても許される)
  ポピュリストの原動力
 第2章 デモクラシーなき権利
  選挙の制約/法を作る官僚機構/中央銀行/司法審査/国際条約と国際組織/議会を組み入れる/カネ/ミリュー/見えない出口
 第3章 民主主義の瓦解
  民主主義への恋に冷めた市民たち/市民は権威主義体制という代替案に惹かれている/民主的価値尊重の低下/若者には期待できない/衰退の先にある危険/「パフォーマンスの危機」
第2部 起 源
 第4章 ソーシャルメディア
  テクノ楽観主義者たち/テクノ悲観主義者の逆襲/落差を埋めるもの
第5章 経済の停滞
  生活水準の低下/将来不安
第6章 アイデンティティ
  多元主義への反旗/ルサンチマンの地理/人口的不安/段階を下る
第3部 何をなすべきか
 第7章 ナショナリズムを飼いならす
  排外主義的ナショナリズムの復活/ナショナリズム放棄の誘惑/包摂するナショナリズム
 第8章 経済を立て直す
  課税/住宅政策/生産性を高める/現代的な福祉国家/意味ある仕事/国家の意義
 第9章 市民的徳を刷新する
  政治の信頼を取り戻す/市民を育てる
最終章 信念のために戦うこと
 悲観と楽観/アグリッピヌスの忠告

それにしてもここまでなぜ民主主義はここまで棄損してしまったのだろうか。そして果たして僕らはこの民主主義を救うべきなのか。どうしたらここまで壊れた制度をまともなものに戻すことができるのか、そしてそんな事が僕らにできるのか。

著者のヤシャ・モンクはドイツ系アメリカ人の政治学者。両親はポーランド人でイギリス、フランス、イタリアを経てアメリカに移住した経歴を持っている。ヨーロッパで育った経験は戦後の民主主義に対する価値観に大きな影響を受けていることが読み取れる。

そして彼も議会制民主主義が棄損してきたことに大いに懸念を感じていたのでした。

私たちの体制がここまで非民主的になってしまったことの理由ーここでの理解でいえば、なぜ公衆の意見を政策に転換することが難しくなってしまったのかーは、過去数十年で政治的討議の場から多くの政策領域が外れていったからだ。本来であれば、立法府は増大する官僚制の力、拡大する中銀の役割、司法審査権の確立、重要性を増す国際条約・組織の力を借りて、民意を実行する能力を高めていくはずだった。しかし、非民主主義のパズルにかけているもう一つの大きなピースがあった。それは、立法府が実質的に機能を有している領域であっても、民意を政策に転換できる能力に欠けていることだ。人々の意思を反映させるために選出される議員たちが、民意から隔絶した場所にいるのだ。


議員たちが民意から隔絶した場所にいるのは日本も一緒だなと思う。それは自民党ばかりではなく、野党、共産党ですら消費税撤廃みたいな今更的外れな主張を繰り返している。一般企業が消費税対応にどんだけ労力を使っているというのを知らんのかと。

何が問題なのか。第一にモンクは民主主義を棄損させているものとしてデモクラシー、リベラルという言葉の定義が定まっていないことによるものがあると指摘する。

デモクラシーとは、民衆の考えを公共政策へと実質的に転換できる拘束的な選挙による制度/機関のことである。 リベラルな制度/機関は、すべての市民の表現、信仰、報道、結社の自由(民族的・宗教的少数派を含む)といった、個人の権利や法の支配を実質的に守るものである。 リベラル・デモクラシーとは、単にリベラルでデモクラティックな政治システムのことである。それは個人の権利を守る一方、民衆の考えを公共政策へと転換するものである。

この定義によって、私たちはリベラル・デモクラシーが逆進する二つの方向を占うことができる。まず、さまざまなデモクラシーは非リベラルになり得るということ。これは多くの人々が独立した機関を指導者の意思に従属させることを好んだり、嫌っている少数派を抑圧しようとしたいりするところで起きやすくなる。反対に、リベラルな諸制度は、定期的かつ競争的な選挙があっても非民主的になり得る。これは選挙があっても、民衆の考えが公共政策へと転換されないといった、エリート中心の政治システムで生じやすい。
これこそが、過去数十年間、世界の至る所で起きていることだと私は考える。私はリベラリズムとデモクラシーとは、技術的、経済、文化的前提から偶発的に結び合わされたものだと思っている。この結び目は急速に解けかかっている。そのため、リベラル・デモクラシー―北アメリカと西ヨーロッパのほとんどの統治体の特徴となった個人の権利と民衆支配というユニークな混在―が、分離するようになっている。その代わりに表れているのは、二つの新しい体制だ。一つは、非リベラルな民主主義あるいは権利なきデモクラシーであり、もう一つは非民主的なリベラリズム、あるいはデモクラシーなき権利である。実際、21世紀の歴史が書かれる時、このリベラル・デモクラシーの二つの要素への分解は、その記述の中心を占めることになるだろう。


そしてその隙を突くように跋扈してくるのがポピュリストなのだという。

他国の経験からは、大事な三つの教訓を引き出すことができるだろう。まず、対抗勢力が、ポピュリストの恫喝の奥底に潜む狡猾さに気づかず、過小評価してしまうことだ。チャベスは長らく権力を維持するほどの能力を持っていないだろうとしたベネズエラの上層階級から、ベルルスコーニは道化じみた詐欺師にすぎないと国民は気づくだろうとした教養あるイタリア人まで、高をくくっていた人々は一掃されてしまったのである。さらにこうしたポピュリスト政治家に対する軽蔑は、彼/彼女の支持者に対する態度でも共通していた。
次に、ポピュリストに抵抗しようとする者たちは、自分たちの無力さに気づくまで、力を合わせて協働しようとしない。多くの国々でポピュリストたちが権力を掌握できたのは、野党勢力が選挙協力で合意できなかったからに他ならない。権威主義的な脅威が立ち現れた時、一致団結は容易いものと思われるが、実際にはその反対であることが多い。苦痛と恐怖に駆られてポピュリストに対抗せんとする者たちは、政治に誠実さを求めるあまり、ポピュリストに背を向けたかつての味方にも踏み絵を踏ませようとしてしまう。
三つ目は、国にとってよりポジティブなイメージを提供することに失敗した。同胞市民に対して何が提供できるかを説くのではなく、敵の失敗を喧伝することに躍起になってしまうのだ。ポピュリストの嘘や偏見、悪趣味を言いつのれば、国は悪夢から目を覚まして新しいスタートを切ることができると考えているかのようだ。
しかしポピュリストの支持者の多くは、自分たちが盛り立てている相手が嘘つきで、憎しみに溢れ、がさつであることを十分承知している。彼らは既成政治家が無力であるからこそ、ポピュリスト政治家に惹かれるのだ。ポピュリストが非現実的な公約のわずかな部分でも実行してくれるかもしれない、と信じているのだ。そして最後には旧態依然とした政治家の偽善を一掃してくれると期待するのだ。
対抗勢力がポピュリストを追い払うのが簡単であった証はない。しかし以上の三つの教訓はどのような行動を採るべきかの指針を示すものだ。民主主義の守護者がポピュリストの脅威を深刻に受け止め、旧来のイデオロギー的分断を超えて協働し、そして生産的な選択肢を示すこときができれば、自分たちの精度を守ることのできるチャンスは確実に増すのだ。


かくして民主主義、リベラル・デモクラシーは隅に追いやられていく。これはロシアでも、EUでも、ポーランドでも、トランプ政権のアメリカ、そして日本でも進展してきている。

若者の政治不信や選挙や政策に対する興味の減退に始まり、議会制民主主義よりも寧ろ権威主義的な国家や軍国主義的な国家、独裁政権のような国を望む者すら現れる事態となっている。現実、権威主義や軍国主義を支持する人々の割合はこの10年間、世界中で不気味なほど増加しているのだという。

その理由の一つとして戦後の民主主義制度を命がけで勝ち取った世代から徐々に民主主義の世に生まれ、そのありがたさに実感のない世代が増えてきたこともあるのだそうだ。

何より思い当たるのは自分自身がリベラル・デモクラシーの実践が難しいのではないのか、とか、本当に必要な政策実行に議会制民主主義は限界があるのではないかと考えるようになってきたことがある。

民主主義が街で唯一のゲームとして成り立つのだとしたら、少なくとも三つの条件がそろっていなければならないと私は考える。これは多くの政治学者の同意を得られるもののはずだ。
・ほとんどの市民がリベラル・デモクラシーを強力に支持していること
・ほとんどの市民が、民主主義に代わるものとして権威主義を棄却していること
・現実に力を持っている政党や運動が、民主的なルールと価値が重要であると合意していること


年金問題や消費税増税、エネルギー問題、地球温暖化など困難な課題が目白押しとなっている現在、有効なそして最短距離で施策を実行するために、議会制民主主義を曲げる、捨て去るのではなく、民主主義のゲームのなかでそれを勝ち取る努力を重ねていくことが大事だということですね。

いはやはほんと勉強になりました。

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ユー・アー・ヒア: あなたの住む「地球」の科学
(You Are Here: A Brief Guide to the World)

ニコラス・クレイン(Nicholas Crane)

2019/10/20:台風19号は史上最大規模の勢力という触れ込みで日本列島を縦走、ここ新浦安は大きな被害はありませんでしたが、関東から東北にかけて広い範囲の河川が氾濫。甚大な被害を引き起こしました。今年は強烈な台風が二連発。現在沖縄の南には更に二つの台風が北上中、勢力はそれほどでもないとはいえ年間の降水量の1/4を持ち込んだ台風19号の後で更に雨が降ると地盤の緩い場所では何が起こるかわからないという不安な気配であります。被災された地域、の方々にはくれぐれもお見舞い申し上げます。

こうした荒ぶる天候が近年どんどんと発生する機会が増えてきていると思います。これも温暖化、気候変動によるものととらえるべきなのだろうと思う。

グレタ・トゥーンベリの国連の演説は強烈なインパクトがありましたが、これに対する反応特にネガティブな反応をしている大人たちの醜さは群を抜いていた。世の中にはいろいろな考え方があるとは思うものの、ここまで現実に対する解釈が割れてしまうものなのかという実態には何かこう救いのないと言えばいいのか、無力感のようなものを感じてしまう。

やはり人間は結局愚かに滅びていく運命にあるのだろうか。というようなことをついつい考えてしまうのでありました。

本書、「ユー・アー・ヒア」はイギリスの紀行家にして〈王立地理協会〉前会長の手による本で、つまりは我々がどんな世界にいるのか、ということを地理学的見地で切り込んでいくというもの。全体的には軽快で楽しく読めるものになっているのだけれども、今この時期に読むとどうしても温暖化に関する記述に目が行ってしまう。


北極圏でも同様に、毎年繰返される融解と氷結のサイクルに重大な変化が見られ始めた。長期にわたる相関関係を調査したアメリカの科学者チームは、さまざまな史料にもとづき、一か月の時間分解能で氷の分布状況を1850年まで遡って調べたところ、21世紀に入ってから前代未聞の規模で氷の質量が減少していることが明らかになった。

グリーンランドの人々にとって、これは周知の事実だった。イヌイット地域評議会の前会長で著作家のアッカルク・リンゲは、昔を振り返り、2017年にこのように述べている。「12月前後となると、よく氷上で犬ぞりを走らせていたものでした。しかしこの15年というもの、その氷がなくなったのです」北極圏の氷は1979年以降、10年間に10%の割合で毎夏着実に減少し続けている。北極から氷が消えるのはいつになるのか。現段階ではそのときはまだ不明だが、「氷がない状態」とみなされるのは、海氷面積が100万平方キロメートル以下になったときであるというのが、大方の見方になっている。

アメリカ海洋大気庁のジェームズ・オバーランドと王穆因は今世紀の前半にはそうなると予想し、これから10年ないしは20年以内に大規模な融解が進むだろうと発表している。それに対し、国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が2013年に発行した第五次評価報告書には、北極の氷原は今世紀後半まで残るだろうと一致した意見が示されている。さらに、英国南極研究所による、パリ協定(2015年に採択された、気候変動抑制に関する国際的な協定)の目標が達成できれば、北極圏が凍結しなくなる事態を回避する可能性がないわけではないとの見方もある。


そして温暖化が進み極地の氷が融解すれば当然のように海水面が上昇する。

海面が上昇すれば人間の生活にも影響が及ぶ。平均気温の上昇は海水の熱膨張を引き起こし、極地の氷床や氷河を融解させて、海水体積を大幅に上昇させた。海面水位は1870年から2010年のあいだに21センチメートル上昇している。地球システムのエネルギーが変化したことにより、海面の上昇は今後も続く、気象学者らは2100年までに30センチから1メートル上昇すると予測している。キリバス共和国は太平洋上にネックレスのように連なる低海抜の島々で構成させる国だが、このままいくと50年後には海に沈む危機にさらされている。アノテ・トン前大統領は、急速に領土を失う事態に備えて2000キロほど先のフィジーの島を購入し、気候変動の対応策として国民を移住させるという史上初めての計画を発表した。そのフィジーでも海面上昇に対応する経費として、向こう10年間で45億ドルが必要になると見込まれている。これは同国の国内総生産に等しい金額なのだ。海水面の上昇により甚大な被害がもたらされると想定されるのは、人口が密集している沿岸部の低海抜地域になる。ガンジス河のメガデルタ、ガンジス=ブラマプトラ地帯では、2050年までに300万人が海面上昇の被害を受けることになる。最悪の場合、バングラデシュは今世紀が終わるまでに陸地の四分の一を消失すると考えられる。2017年にボンで開催された国連気候変動会議は、ヨーロッパにも警鐘を鳴らした。なかでも危険にさらされているのは、ギリシャ、ベルギーとオランダである。イタリアのベネチアでは57基の防波堤を設置する計画が進められており、そのために予算55億ユーロが充てられている。


キリバスの人々は海水面上昇に備えて他の島へ移ることを目論んでいる訳だが、最近のこの異常気象と言ってもよいような強烈な気象が今後更に強まるとすれば、海水面の上昇で土地が失われる前に僕らの社会インフラや経済活動は破綻している可能性があるのではないかとすら思う。今回の台風による被害は試算によれば長野県単県で1300億円を超えるというニュースも出ている。

こんな台風が何度もきたり毎年のようにやってきたりするようになったら一体どうなるのだろう思いませんか?

国際連合は2017年に17項目からなる目標を設定し、これらを2030年までに達成すべき「持続可能な開発目標」に定めた。その内容は以下の通りである。

1.貧困をなくそう

2.飢餓をゼロに

3.すべての人に健康と福祉を

4.質の高い教育をみんなに

5.ジェンダー平等を実現しよう

6.安全な水とトイレを世界中に

7.エネルギーをみんなにそしてクリーンに

8.働きがいも経済成長も

9.産業と技術革新の基礎をつくろう

10.人や国の不平等をなくそう

11.住み続けられるまちづくりを

12.つくる責任つかう責任

13.気候変動に具体的な対策を

14.海の豊かさを守ろう

15.陸の豊かさも守ろう

16.平和と公正さをすべての人に

17.パートナーシップで目標を達成しよう



日本政府の動きは悪い。原子力行政に絡んで関西電力では贈収賄が長年行われていたとか、政治がらみで汚職と利権最優先の旧態依然の体質がはびこっているからそれは当然のことだろうと思う。

彼女がスピーチで述べたように僕らはこうした汚い大人たちを決して許してはならない。こうした人をバカにしたようなことをやっている連中にはっきりと怒りを表明し権力の座から引きずり下ろすべく行動する必要がある。安倍政権はその頂点にいる。しかしそれを許している野党もだらしない。外野にいる野党も含めてこんな政治では世の中は変えられない。

今僕らにできることは何だろう。真剣に考える必要があると思います。

△▲△

フィラデルフィアの精神:
グローバル市場に立ち向かう社会正義
(The Spirit of Philadelphia Social
Justice vs. the Total Market)

アラン・シュピオ(Alain Supiot)

2019/10/11:フランスの人が書いた本を読んでは解らん解らんを繰り返してて、んなら読まなきゃいいじゃないかとも思うのだが、気づくと手にしてしまうのは、とても気になるテーマを扱っている本が多いからなんじゃないかと思う。アメリカから政治や経済を扱ってまともな議論をしている本が減っている、特にトランプ政権になってからその傾向が顕著になった気がする。

トランプのような人物を大統領に祭り上げてしまった国の人からあるべき論を語られてもなというところもあるけれどもさ。

本書が取り扱っているのは1941年1月6日にルーズベルト大統領が一般教書演説において述べ、後の1944年、フィラデルフィアで開かれた ILO 第二六回総会で採択されたフィラデルフィア宣言に織り込まれた民主主義の原則。これを著者はフィラデルフィアの精神と呼んでいるのだった。

この民主主義の基本原則とは以下の四つだ。1. 言論・表現の自由2. 信教の自由3. 欠乏からの自由4. 恐怖からの自由だ。表現の自由では最近展覧会を巡って訳の分からない議論が沸騰していたけれども、この基本原則は、そんな近視眼的なものとは程遠い深淵な思想が含まれているのだという。

文章がながくてとても引用できる感じではない。一方で僕が要約するとなし崩し的に薄っぺらになってしまうのが残念なんだけども、特に重要なのは後の二つ、「欠乏からの自由」と「恐怖からの自由」であるとする。「欠乏(want)からの自由」について、wantは「必要」という意味であると同時に市場における需要という意味でもあるという。この考え方が「恐怖からの自由」と並列で語られれることで、社会正義と経済的繁栄を結び付けることで法秩序が核各個々人の人間に仕える制度であるとしている。

これは特定の宗教で信じられる神による啓示でもなければ、科学的な知見でもない。「人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするために、人権が法の支配によって保護されることが肝要である」

これは未曾有の悲惨な戦争という経験のなかで人間が自ら発見したものであり、このことを信じるのはある種の「信仰」だった。 そして人間をモノ化することによりもたらされる影響は致命的であるのが、先の経験により明らかになった以上、「人類という家族のすべての構成員に固有の尊厳が、世界における自由、正義および平和の基礎である」ことを認めなければならない。

このように理解される尊厳の原則によれば、自由の要請と保障の要請は結びつけられる必要がある「自由に語り、信じる」ためには、人間は「恐怖と欠乏から解き放たれ」るのに十分な肉体的な安全と「経済的保障」に浴していなければならない。つまり法秩序は「いっそう大きな自由の中で生活水準を向上」することに貢献しなければならないのだ。


確かに心が震えるような先見性と英知と希望に満ち満ちた宣言であったと言わざるを得ないではないか。 しかし、それは近年大きく後退してきた。

ウルトラリベラルと呼ばれる人々と自由市場に目覚めた共産主義だった国々の指導者層によってフィラデルフィアの精神に基づき積み重ねられてきた社会インフラは徹底的に解体破壊されてきた。

その筆頭は僕でも知っているフリードリヒ・ハイエクだ。

このような抵抗の社会遺産を「徹底的に解体」せよとの呼びかけは、ここ30年来ネオリベラルな理論家たちが、フィラデルフィアの精神の薫陶を受けたあらゆる文書に対して向けてきた、さらなる広範な批判からすると、驚くには値しない。とりわけこの批判を展開してみせたのが、現代の経済原理主義者の父のひとりたるフリードリヒ・ハイエクである。ノーベル経済学賞と呼ばれる賞の最初期の受賞者のひとりであるハイエクは、法学者としての教育を受け、著作の一部では、自らの経済理論が要請する[法権利]精度の改革を詳述している。彼によれば1948年の世界人権宣言に認められた経済的・社会的権利が「強制力のある方の中に書き加えられれば、伝統的市民権が目標とする自由秩序を必ず破壊することになる」。終戦後の規範的な成果物に対する辛辣な批評家であるハイエクはとりわけ、それが経済問題にまで影響力を及ばす「無際限の民主主義」を作り上げたといって批判する。「市場の自由秩序への介入を政治家たちにひとたび許せば、彼らは累積的プロセスを始動し、それに内在する理論が、経済に対する政治の支配の絶えざる拡大に行き着くことは不可避的である」。この批判から生まれたのがウルトラリベラル革命の第一目標である。つまり投票の力が市場の「自由秩序」に及ばないようにするという目標だ。そのためには労働および富の分布さらには貨幣が、政治の圏域からまるごと外れていなければならない。このような民主主義の制限は、無知な人民が、彼らの理解の及ばない経済法則に口を挟まないようにするために必要なのである。


どうして我々はこのような議論に飲み込まれて折れてしまったのだろうか。そしてガチガチの共産主義だった人達がどうしてハイエクの主張に同衾することがありえようか。現実にはそうなってしまっているのだからそれなりに理由があるのだろうとはおもっていたけれども。

現実の共産主義を学校にして育ち、<市場>の恩恵に鞍替えしたばかりの新加盟国の指導者層は、フィラデルフィアの精神にも、<法権利>の尊重にも、参加型民主主義という理想にも、ほとんど無頓着だった。そのかわりに彼らがウルトラリベラルな信条には苦も無く賛同することができたのは、そこに自分たちのかつての確信の多くを見出すことができたからだ。経済に内在する法則を無知な大衆に従わせる啓蒙的アヴァンギャルドを自らが公正するのだという思い込みや、こうした法則に実在法をすり合わせる必要性などである。プロレタリア独裁と市場独裁を取り換えるのは容易であるり、適法性についての理念の変更を加える必要もなかった。


だそうであります。残念で仕方がない。市井の大衆は結局は利用されて使い捨てにされているだけだということだ。

グレタ・トゥーンベリがはじめた活動が世界中で大きなうねりになり始めています。これに対しては普段意見が合うことがほとんどないトランプもプーチンも同じ反応をしていた。子供に何がわかるのか。そんなに世の中簡単にできてない、大人に対して意見するなんて失礼千万だというような感じだ。

日本のメディアでも同様の反応をしているものがいくつかあった。どれも似たような反応で、なかにはエコロジーの呼びかけはエコによる利権を狙ったものたちによる「陰謀」だというような議論。なんなんだその利権って。確かに再生可能エネルギーによる発電比率をあげるとか、二酸化炭素を固定化する施設を稼働させるということは莫大な費用が必要になろう。しかしそれはどこかの企業の利権のためではなく、我々自分自身の次世代の、地球全体の生態系を守るためにやることであって金儲けのためではない。

今の電力発電だって油田開発ですら本来は我々の必要のためのものであって、それを金儲けの道具にしてしまったのは誰なんだという話だ。

石油や電力などを支配することで既得権益にどっぷりつかって環境破壊をし、後戻りができない状況になっているというのに、エコロジーが利権だなんだといって非難するのは自分たちのことを棚に上げる常套手段だと思うしかない訳ですよ。 そしてこの石油や電力を支配してきた力もやはり人間をモノ化して支配してきたウルトラリベラルな市場原理主義に辿り着く。 我々はこうした勢力と真剣に闘い根絶やしにしなければならないのであります。


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