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シリアで猫を救う(The Last Sanctuary in Aleppo:
A remarkable true story of courage, hope and survival)

アラー・アルジャリール(Alaa Aljaleel) 
ダイアナ・ダーク (Diana Darke)

2021/03/27:シリアの内戦の話を「バナの戦争」で読んだのが2018年。バナは無事アレッポを脱出したのだが、シリアの内戦はその後も収まる気配はなく、寧ろ国際政治からの孤立度は深まっている気がする。そしてその中心地にあるアレッポの事態も引き続き壮絶という言葉が当てはまる状況であるようだ。

シリアの内戦は2012年7月に始まっているそうで、かれこれ9年間も続いている。最悪な状態がこれほど長期に渡って続き、国際社会として具体的な解決の糸口が見いだせないというのは一体どうした訳なのか。今どんどん事態が悪化しているミャンマーについても同じことが言えるのだが、無力さの下で犠牲になるのはいつも市井の一般人なのだ。

シリアの国としての歴史は意外に浅く、1946年にイギリス、フランスの植民地から独立して国家となった国でした。その後社会主義路線のバアス党が政権を握り、1970年にはバアス党による軍事クーデターが起こされ、ハフェズ・アサドによる独裁政権へと移行した。 アサドは秘密警察を使って相当冷酷無比な所業を重ねてシリアを独裁していた模様だ。なかでも1982年に発生したハマーの内戦鎮圧では1万から4万人と数も特定できていない大勢の市民が犠牲になったという。

大統領が自分の弟が率いる軍に命令を出し、治安と称して近代兵器で自国の市民に攻撃を加えていたということの意味を理解するのは難しいと思う。2000年6月に心臓麻痺でアサドが死ぬと息子のバッシャール・ハーフィズ・アル=アサドが政権を引き継いだ。バッシャールはもともと眼科医で政治には遠い人物と考えられていたが兄が交通事故死するなどの事情から後継者として政治の道についた人物だった。しかしこのバッシャールは父親以上に血も涙もない男だったのだ。

2010年にチェニジアで起こったデモを発端にエジプト、リビアなどへと中東で広がった大規模な反政府デモは「アラブの春」と呼ばれた。しかし、これはイメージ、期待されていたような春ではなく寧ろ過酷な国家弾圧を呼び起こすものでもあったようだ。

本書の語り手アルジャリールはシリア、アレッポで1975年に生まれた電気技師の男性だ。独学で配線などの技術を学び子供の頃から働いてお店を持ち、妻も子供もおり忙しく働く男であった。彼同様アレッポに暮らす多くの人々はこの「アラブの春」がシリア、アレッポに近づいてくる気配に警戒感を強めていたらしい。なぜならバッシャールの残虐さを彼らは肌で感じていたからだ。反政府活動のデモが起これば血が流れる事態となりバッシャールに譲歩の余地はないことを知っていたからだ。

しかし、戦争を知らない、世間を知らない学生たちは他国で進む事態をみて蜂起した。懸念していた通りアレッポに対する攻撃は文字通り容赦のないものとなっていった。当時デモ活動をしていた学生たちは平和維持軍や国連、メディアの力によって自分たちが暴力に晒されていたとしても最終的には救済されると思っていたらしい。

しかし現実には手を差し伸べられることはなかった。バッシャールら独裁政権側からすれば国際社会から非難はされてもそれ以上具体的な行動が起こらないことがわかった以上、躊躇する必要はなくなったのかもしれない。結果的にアレッポは反政府勢力側からも政権側からも、そして略奪目的で闇に潜む犯罪者集団からも攻撃目標となっていく。

店を続けられなくなった彼は自分の車を救急車として使い爆撃などが起こった現場に急行するとけが人などを病院に搬送するボランティアを始める。もともと父親が消防士で自分も消防士になりたかったということがあったようだが、危険を顧みず人助けをすることを内戦状態のアレッポの市街地でやるというのは「夢」ですませされる話ではないだろう。

動くものであればだれでも撃ってくる狙撃手や同じ場所へ時間をおいて二度爆撃をしてくる戦闘機の存在をかいくぐって現場に踏み込んでいく勇気はただならぬものがあると思う。それを毎日の仕事として彼は働き続けていくのだ。

そんなアルジャリールの目に留まったのは行き場を失った猫の存在であった。飼い主が捨てていった猫たちはケガをしたり腹を空かせたりした状態で廃墟となった街なかを彷徨っていた。モハンマドはそんな猫を連れ帰っては治療し餌をやって暮らす場所を用意してあげるのだった。ある日、そんなアルジャリールの活動を目にとめた海外メディアの報道により彼の存在が知るところとなり、支援の輪が広がっていく。

彼のもとには猫の餌だけではなく、その地域に暮らす逃げ遅れた人びとの暮らしを支える資金と支援物資までもが届き始める。それがまた、書くとネタバレになるので書きませんがこの本を手にしたときに想定した「本の内容」というか「着地点」のようなものがあった訳ですが、次々とその予想・予測をことごとく覆してくる本でした。

一方、27日ミャンマーでは度重なるデモと鎮圧部隊の衝突が激化し一日で114人が死亡する事態となったと報じられています。当初は報道関係者が拉致・殺害されていたものが今や一般市民、小さな子供まで殺害されており最早無差別と言っても良い状況だと思います。

クーデターで政権を拉致した軍は直前の選挙に不正があったと主張しています。国際社会では避難の声が上がっていますが、ロシアと中国はミャンマー政府を擁護しているようで、外国からミャンマーの事態を打破していくようなことが進む可能性は低いと思われます。

アメリカや日本のような国であれはなおさらなのかもしれませんが、政府が偏見と独自の価値観を持った連中にハイジャックされても海外の国が解決に乗り出す、助けに来るということはあり得ないということなんでしょうね。

世の政治家たちはそれを見越して行動していると考えたほうが良さそうだなと。一端権力を握ってしまえば何をやっても責任を取らずにやりたい放題できるというのは安倍政権でまざまざと見せつけられたことですが、それに反省するどころか菅政権はそれを模範として踏襲しているとしか思えない。

トランプを支持する暴徒が議事堂に乱入したのも選挙に不正があったと言っていたっけ。集計器に不正なプログラムが埋め込まれていたとか。現在、このメーカーはフォックスニュースに根拠のない情報をまき散らしたことによる名誉棄損と損害賠償で莫大な違約金を求める裁判が始まっているそうであります。

トランプが当選した際にも不正は訴えられており、その時はロシアがフェイクニュースをアメリカ国内に垂れ流していたとかいうものだったように思います。日本だって例外ではない。せいぜい30%程度しかない投票率で選ばれた政治家たちが繰り広げているのは国民のためというよりも自分たちの利権を大きくするために儲かる話に集まった連中が手を結んでいるとしか思えない事態が繰り返されている。

こうしてみると世の中は政治信条や価値観で割れているように見えるけれども、現実には利権を守るものとそれを奪い返そうとしているものの間の抗争に巻き込まれ命や財産を奪い続けられているというのが実情であり、それは正にナオミ・クラインが述べていた「ショック・ドクトリン」に他ならないと思う次第です。シリアやミャンマーで起こっている事態を遠い国の出来事だとか対岸の火事だとか思っている余裕は実はないというのが僕のこの本に対する感想です。油断しているといつ僕らがこんな日に暮らすことになってもおかしくない。

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マルクス 古き神々と新しき謎―失われた革命の理論を求めて(Old Gods, New Enigmas: Marx's Lost Theory )
マイク・デイヴィス (Mike Davis)

2021/03/21:マイク・ディヴィスの本はこれで4冊目だ。「要塞都市LA」、「自動車爆弾の歴史」、「スラムの惑星」振り返るとどれも世界観を根底から覆すような視点から腹をえぐるようなパンチを浴びせられるような読書体験をさせてくれるものばかりでありました。

久々に出た新刊なので内容を知らないまま手にしてみました。教職をおりて長く病んでいたようなことを言っていてどんな状況なのか気になるところだけれども、それ以上のことは一切語らず猛烈な勢いでまくし立ててくるスタイルは健在でした。

怒涛のように長いセンテンスを暴走機関車みたいにぶつけてくる訳なのだけど、これが本書は難しい。一段と難しい。著者は長い闘病生活で有り余った時間を使っておそらくは誰もちゃんと読んでない「マルクス」の本やその研究著書を読み漁り、その結果をこの本に著していると言っている。

これがなかなか頭に入ってこない最大の理由は読者である僕自身、「マルクス」を読んだこともなければ、マルクス主義も、その哲学も共産主義の歴史もまるで理解できていないからだろうと思う。

深く考えるまでもなく、日本の学校教育のカリキュラムからそれらは完全に抜け落ちていると思う。大学などで専攻でもしない限りこうした分野に精通する機会はないのではないだろうか。趣味でへんてこな分野の本を読み漁っている僕ですらこうした分野は、なんというのだろうか日本ではややタブー視されているとまでは言わないまでもネガティブなイメージがあるのは間違いないだろう。

それは米ソ間の長い冷戦時代があり、赤軍派による事件があったりして、自分の信条が「共産主義」だなんておいそれと言えないような時代に育ったからということもあるだろう。

しかし、議会制民主主義が激しく棄損し、自由市場経済主義が不幸を量産し、格差を拡大し、夥しい貧困層と環境破壊を生み出している現状を見る、そしてソ連も中国も今の姿を見るに、本来の共産主義・社会主義は解決策とは言わないまでも僕らに残された選択肢ではあるように見えるし、そう言える時代になってきたのではないかと思ったりする。

しかし、そうは言いつつも「共産主義」にどれほどの理解があるのかと問えば以前と変わらないまま無知な自分がいる訳なのだけど。

目次
序――〈チキン・シャック〉のマルクス
 マルクスを読め!
 全集サーフィンをおこなう
 章立て

第一章 古き神々、新しき謎――革命的主体についての覚え書き
 普遍的階級
 階級戦争の時代
 命題

第二章 マルクスの失われた理論――一八四八年のナショナリズムの政治
 国民なきナショナリズム
 マルクスに反するマルクス
 階級とナショナリズム
 利害の計算

第三章 来るべき砂漠――クロポトキン、火星、そしてアジアの 鼓動
 シベリアの探査
 アジアと火星の乾燥
 病的科学

第四章 誰が箱舟を作るのか?
 I 知識人の悲観論
 II 想像力の楽観論

訳者あとがき

解説(宇波彰)
 一 はじめに
 二 労働運動の意義、階級の問題
 三 国家の問題
 四 気象変動の問題
 五 地球温暖化の問題
 六 おわりに

著者はマルクスの言動やその著書、そしてマルクスを研究してきた研究家たちの論文を引き合いに出しながら、その核心的テーマであった階級闘争の歴史を改めて再構成しているように読める。それは決して世界史ではないし、共産圏の歴史でもない、世界に広がる労働者と資本家たちとの間の闘争の歴史であった。

その闘争は同時多発的で同時並行的にヨーロッパの国々に暮らす鉱山労働者であったり工場労働者であったり、鉄道員や農業従事者、そして兵隊などが結束して体制と戦ってきた歴史で、従来僕らが知っている世界史観とは全く噛み合わない世界観でありました。

この新しい世界観を踏まえて世界史を捉えなおそうとしても、それは更に難しい。

はっきり言えることは、これまでの世界史は国を主体として国際関係を語ることで都合よく、共産主義、労使闘争の世界的な広がりと、そこで進められた暴力と支配の歴史を包み隠してきていたということなのではないだろうか。

僕らは共産主義に対するネガティブイメージを植え付けられて、その裏側にある資本・国家サイドに都合の悪い歴史から意図的に遠ざけられていたのではないかとすら思う。

本書が後半で気候変動・気候危機を前に改めてこうした歴史を踏まえつつ、将来を暗示する方向へとシフトチェンジしていることもその表れだと思う。

我々の社会はこれから、夥しい数で今後当面更にその数を増やす勢いにある非正規労働者や貧困層、人として数えられることもない紛争地域やその周辺に暮らす難民の人々を含めて互いに手を取り合い、環境破壊を押しとどめて、地球温暖化を逆進させて幸せに暮らしていける世の中にするにはどのような手段が取り得るのか。

「マルクス 古き神々と新しき謎」のレビューはこちら >>

「スラムの惑星」のレビューはこちら >>

「自動車爆弾の歴史」のレビューはこちら >>

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エマニュエル・トッドの思考地図
(La Carte Intellectuelle d'Emmanuel Todd)

エマニュエル・トッド (Emmanuel Todd)

2021/02/28:本書は日本からのオファーを受けてトッドが書き下ろしたものなのだそうで、日本でしか出版されないものなのだという。オファーしたのは出版社の筑摩書房だということなのだろうか。そもそもなぜこのテーマなのか。これについてトッド自身は今の社会はどんどんアトム化がすすみ社会の現状を正しく理解することが難しくなってきている。これは社会というものの形そのものが失われつつあり、自分たちの社会の歴史の意味すら失われつつあるからだ。だからこそ、思考のプロセス、思考そのものについて考えることをテーマにしているのだと言っているのだと思います。

日本には今日もなお、伝統的にしっかりと組織された家族構造があります。直径家族と呼ばれる構造で、それは強い集団的な価値観や社会的な規律を伝達してきましたし、今もしっかりと存在しているでしょう。それは最近の新型コロナウィルス禍でも再確認されたことです。しかし、規律正しい社会であるにもかかわらず、そこには別の種類の「無」があるようなのです。それは共同プロジェクトの不在です。

精神的な観点から社会を考えてみましょう。するとまず国家の存在が浮かび上がります。そこにはナショナリズムも含め、それを超えたかたちの能動的な帰属意識のようなものがあり、それが集団に目的を与え、歴史の中で、未来に向かって進んでいるという感情を与えてれます。

一方で、集団の受動的な社会心理の原則というものもあります。こちらの原則に基づいた社会では、人々は共通した習慣を持っています。そしてある一定の期間においては、比較的効率よく社会が機能します。しかしそれだけでは個人間の関係を超えた部分で、人々が何か大きなプロジェクトに参加しているというような意識を持つことはできないのです。

今日の日本には、この受動的なかたちでの集団心理はあっても、前者の能動的な意識が欠けていると言えるのではないでしょうか。フランスのような社会にも政治的にもめちゃくちゃな国から日本へ行くと、そこは非常に秩序正しく、すべてがうまく回っているかのように見えます。しかし根本を見てみると、人口減少という問題が横たわっていて、これこそがまさに共同プロジェクトの不在を説明するものなのです。

要するに、日本そしてドイツのような国というのは非常に巧妙かつ特殊な集団の溶解という問題と向き合っているのだと思います。日本が特殊なのは、未来へ向かう集団意識の崩壊がある一方で、日本人としてどうあるべきかという態度も無傷のままそこにあるという点でしょう。しかし、思考するために何が必要なのかという問題に戻ると、やはりそれは能動的な意識の方なのです。

そうすると、結果的にはフランスも日本も、思考ということについて困難な状況に陥っていることが見えてくるのです。


トッド自身の思考プロセスや思考の進め方について踏み込んだ内容も書かれているのですが、ある意味、そこにすごい特殊な、独自な方法がある訳ではありませんでした。とはいいつつもこれを職業にしている訳なのでその実践力というものは我々凡人が真似してできるようなものではないと思います。

しかし、それよりもやはり驚かされるのは彼の着眼点というか切り口にあると思います。そしてどうしてそこに気がついたのか、という点でも地道にひたすらデータ・情報を蓄積し続けていくことで、ある日突然降ってくるというような感じで、それはご本人が隠したり謙遜している訳ではなくて本当の事なのだろうと思うのだけど、比類のない才能としか言いようのないもので、やっぱりこの本を読んでも得るものはない 感じでありました。

もちろん本書がツマラナイとかなんの役にも立たないなどというつもりはありません。非常に考えさせられるとても良い本でした。単にトッドの真似は読んだからといってできるものではないということが解ったという話です。

そして本書はむしろ思考プロセスや思考地図といった話よりもそのトッドが冒頭で語っていた社会が形を失って行っているその現象そのものを見つめる目線にこそ読みどころがあったと思います。

私は社会から集団的な枠組み(思考や信仰など)が消滅すると、経済活動や社会活動といった集団的活動がより困難になると考えています。これまで集団的枠組みというのは一種の制約であって、それが崩壊すると個人はより自由になるということがさんざん言われてきました。それに対して私は『経済幻想』のなかで、逆にそのことが個人を縮小してしまったと指摘したのでした。私はこの一人の個人というのは賛美されるような存在ではなく、か弱い存在であると考えています。集団的な構造が崩壊することで個人は混迷し、模倣しているだけのような存在となり、自分が置かれた環境のプレッシャーに押しつぶされてしまっているのです。

同時に、集合的な信条が崩壊することで起きた個人の縮小が、思考の能力低下を招いているのではないかとも考えています。というのも、一人で何の枠組みもない、つまり「無」のなかで思考するというのはナンセンスだからです。歴史に対して何一つビジョンを持っていない人が歴史を、そしてその延長線上にある現在や未来を思考するというのは、非常に難しいです。不可能だと言っても良いでしょう。


トッドの主張を繰り返してしまうようですが、日本も日本人としての文化を持ち続けている一方で「日本人」としての共通の価値観などはとうにどこかに失われてしまっていて、能動的な帰属意識などというものを失っていること自体にすら記憶がない状態にあると思う。

それは気候危機に対する真っ当な打ち手が打てない、福島第一原発は問題が解決するよりも寧ろ後退しているように見える、コロナ禍における非常事態の対応も口先ばかりで効果的な施策を実行できない日本政府があり、そこでリーダーとして率先すべき政治家たちは利権に踊り、時代錯誤の世界観で海外から嘲笑され、そしてなお自身の息子が務める会社が組織ぐるみで政府の高官たちを接待漬けにしていることが明らかになり、社長が辞任する事態となっているのに、官庁の高官は減給止まりでその親の菅は辞任する気配すらないというこの状況にあって僕ら納税者が帰属意識など持ちようがないだろうというものだ。

生理的に受け入れがたいほどの異物感がある人達と共通認識に立てる訳がない。そしてその結果現在や未来を思考するというのが難しくなっているのだというところまで考えが及ぶというのはやはり慧眼というかさすがとしか言いようがないところであります。

また、本書ではグループシンクという考え方にも触れられていました。

それは、同じような考えをもつ人々ばかりが集まり、その中だけで議論をしていくと、いつしかそれが現実世界とはまったく乖離したものになってしまうという現象でした。これは極端な例ですが、社会には多かれ少なかれ相違というものが存在します。ある社会に所属している人間は、限定された支店から社会を眺めているということです。 この話は特段あたらしいものでなく、私が大きな影響を受けてきたマルクス主義からきているものです。そしてルカーチによる社会のどこにかに属する一人の人間なのです。その哲学者は上流階級、中流階級、下流階級のどこかに所属している存在です。ある社会で皆が同じ場所から観察することはできないのです。山の頂上か中腹か麓にいるかによって、見える景色は違うのです。ですから、社会構造、あるいは社会生活や歴史を、自分の社会的な所属抜きで考えるのは非常に難しいのです。

マルクス主義には、社会やその構造に関する認識というのは対立する視点、あるいは自分が所属する場所によってゆがめられるものだという考え方があります。マクロンに投票した人々やジャーナリスト、自営業や上流管理職、知的専門職などの人々は自分たちのことを「勝ち組」と認識しています。他方でマリーヌ・ルペン率いる国民連合に投票する人々のことを、社会の下層にいる「負け組」だと認識しているのです。


自民党の政治家の人たちの激しい世間ずれは正にこれだと思うし、JOCの森の辞任を前後して登場してきた人たちもみな同じ穴のムジナみたいなものだった。これらに批判的なSNSなどの流れをたどると必ず行き当たるのは極右やヘイトを粘着質に続ける人たちの存在なのだが、彼らもしかりだ。とどめは愛知トリエンナーレに端を発する名古屋市長の辞任を求める著名偽造事件に関係する人物たちだ。

SNSで見かけるほど実は人数が多くないのだということは薄々解っていたけれども、極少人数でも意見を同一にする人たち同士で繋がり正しいと信じこんで発信を繰り返すことで大勢いるように見せかけている訳だ。彼らもグループシンクの罠にはまり込んでいるのだというように理解することができたというのも本書のお陰でした。

そしてコロナ禍について

これから明確になるだろうことは、このウィルスの影響が文化圏によって異なっているという点です。もちろん、その国の文化というのは、家族構成につながっています。たとえば、産業を自国に残した国、ドイツや日本、中国や韓国という国々は、グローバル化の流れで自国の産業を手放したフランスやイギリスなどの国々よりも、少なくとも現時点ではこの状況を比較的うまく切り抜けているように見えます。一方でフランスは、人工呼吸器、マスク、薬などの生産が追い付かず、後進国のようになってしまいました。

このウィルスが明らかにしたことの一つは、グローバル化というのは社会発展の単なるステップではなかったということです。つまり、それは卑劣な金融の思惑であり、西洋社会の一部を後進国状態にしていしまったのです。こうして自国に生産チェーンを保持した国々というのは、ドイツ、オーストラリア、日本、韓国、つまり直系家族の国々なのです。私にとってそれは悲しくもすばらしいことです。そしと最も被害が大きかった国々を見てみると、フランスというのはドイツよりもイタリアやスペインに近い状況です。また驚くべきことは、人口10万人あたりの死亡者数でイギリスがフランスを抜いてしまった点でしょう。アメリカについては、これからいろいろとわかってくると思います。


単に死者数などの推移をみれば西欧諸国に比べれば非常に少ないですが日本がコロナ禍に対して上手に対応している訳ではないというのは正直な感想です。日本がどうして少なかったのかという点についてはまだ誰も説明ができていませんが、フランスが大変大きな被害を受けた背景にはグローバル化があったというのは、これまたなるほどでありました。同様のことがおそらくイギリスでも起こっていたということなのでしょう。

そして人口動態について先日読んだジャレド・ダイヤモンドの「危機と人類」のなかでは著者は日本について人口減少が必ずしも悪いことではない、前向きに考えることもできるだろうという趣旨のことを書かれていて、なるほどそんな風に考えることもできるのかと若干そこには額面通り受け入れにくいところがあるなーと思っていたところでしたが、トッドはソ連の崩壊を予測した時と同様出生率の低下について非常に重要視していて日本の出生率低下に対して強い警戒感を示していました。

日本の合計特殊出生率2019年は1.36で人口減少の傾向は1974年から拡大傾向にあるにも関わらず日本はそれに対して有効な打ち手を打てていないというのか大きな問題だと述べていたのもとても印象深い話でした。子供や若者が育てられない社会や会社は滅びるしかないと常々自分でも思っていることだったので非常に腹落ちするところがありました。

「自由貿易は、民主主義を滅ぼす」のレビューはこちら>>

「デモクラシー以後」のレビューはこちら >>

「帝国以後」のレビューはこちら>>

「家族システムの起源こちら>>

「トッド 自身を語る」のレビューはこちら>>

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「パンデミック以後」のレビューはこちら>>

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生物はなぜ誕生したのか 生命の起源と進化の最新科学
(A New History of Life: The Radical New Discoveries About the Origins and Evolution of Life on Earth)

ピーター・ウォード (Peter Ward), ジョゼフ・カーシュヴィンク(Joe Kirschvink)

2021/02/13:本書は2016年に出版されたものでした。なんでこれを読み飛ばしてしまっていたのだろう。僕の低いアンテナの上を素通りしてしまってたようだ。近年徐々に読書量が減ってきている現在、読む本をしっかり選んでいかないと大事な本を読み逃す、それどころか下手をすると時間の浪費になってしまう。

過ごしてきた人生の長さからみてこの先の人生の長さがさほどでもないらしいということがありありと実感される歳になり真剣に残された時間の使い方を考えていく必要があると思う今日この頃であります。

生命がなぜどのように誕生したのか。という問いは僕の好奇心の中でもかなり中心にあるものだ。古生物学は太陽系の歴史など宇宙科学や地質学などの幅広い分野の進歩に後押しされて近年従来の理解を大きく変えてきている。45億年ほどと考えられている地球の歴史も驚くほど詳細に判明し、これまで考えられていたよりも大きな変化が何度も生じていたことが解ってきた。

特に近年明らかになった事実として驚くべき内容だったのは「スノーボールアース」と呼ばれる超氷河期の存在で、それは全球凍結と言われるほどの規模で赤道直下の海水ですら厚い氷に覆われた状態になっていたというのだ。

著者の一人ジョゼフ・カーシュヴィンクはそのスノーボールアースを発見した人なのだ。また彼は微生物が方向感覚を検知するために利用している磁性物質を発見し、そこから地軸の変動を推測する説を唱えてもいるのだそうだ。彼らの研究の様子は素人目にみてもまるで推理小説のようなスリリングな内容になっているように見える。

そしてもう一人の著者ピーター・ウォードは古生物者としての著書が何冊かある方で白亜紀-暁新世の絶滅事象に詳しく、地球生命は宇宙で唯一ではないものの非常に稀だという「レアアース仮説」や生命は自滅的な性質を内包しているという「メデア仮説」で知られる人だそうだ。 メデア仮説について本書から、

進化と絶滅の両方をもたらす大きな要因の一つが生命自身だ。著者らの一人のウォードの「メデア仮説」(ガイヤ仮説に対抗し、「生命は自滅的な性質を内包している」とする仮説。メデアは、ギリシャ神話に登場する子殺しの女性)は、二つの結論に基づいている。一つは、生命は自らの友であるより敵であることが多かったということ。もう一つは、様々な生態系とそこで暮らす生物は、長く続いたからといって適応度が高まって繁栄するわけではないということである。すでに見たように、大規模な大量絶滅において実際に動物の息の根を止めるのは、微生物が作り出す様々な有毒物質であることが多かった。したがって、地球に誕生したすべての種の中でメデア的性質がとりわけ多い生物、つまり私たち自陣の進化の未来を考えることは、本書の締め括りにふさわしいように思う。ヒトはこの先どのような進化していくのだろうか。


第1章 時を読む
第2章 地球の誕生──四六億年前〜四五億年前
第3章 生と死、そしてその中間に位置するもの
第4章 生命はどこでどのように生まれたのか──42億(?)年前〜35億年前
第5章 酸素の登場──35億年前〜20億年前
第6章 動物出現までの退屈な10億年──20億年前〜10億年前
第7章 凍りついた地球と動物の進化──8億5000万年前〜6億3500万年前
第8章 カンブリア爆発と真の極移動──6億年前〜5億年前
第9章 オルドビス紀とデボン紀における動物の発展──5億年前〜3億6000万年前
第10章 生物の陸上進出──4億7500万年前〜3億年前
第11章 節足動物の時代──3億5000万年前〜3億年前
第12章 大絶滅──酸素欠乏と硫化水素──2億5200万年前〜2億5000年前
第13章 三畳紀爆発──2億5200万年前〜2億年前
第14章 低酸素世界における恐竜の覇権──2億3000万年前〜1億8000万年前
第15章 温室化した海──2億年前〜6500万年前
第16章 恐竜の死──6500万年前
第17章 ようやく訪れた第三の哺乳類時代──6500万年前〜5000万年前
第18章 鳥類の時代──5000万年前〜250万年前
第19章 人類と10度目の絶滅──250万年前〜現在
第20章 地球生命の把握可能な未来
訳者あとがき/原 註

本書は幅広く深い話題がてんこ盛りで読み進むのが結構大変でした。例えば炭素循環の話がその一つ。炭素循環には短期的なものと長期的なものがあり、短期的なものというのは植物の生命現象によるもので、光合成により植物の組織に取り込まれて閉じ込められ、食べられたり、土に移動して土壌微生物に利用されたりするようなことを指す。

一方で長期的なものとは岩石と海洋・大気との間で進む循環で数百万年単位のサイクルで進む。炭素の量は海洋・生物圏・大気にあるすべてのものよりも岩石に含まれる量の方が多いのだという。そしてこれがバランスを崩して解放されたり多くを吸収したりすることで気象に大きな影響を与える。炭素が岩石を出入りする長期的な炭素循環による二酸化炭素の増減は過去1000%以上になるのだそうだ。それによる温室効果は途轍もないことになり実際地球はすさまじい気温変動を繰り返していたのだそうだ。

一度目のスノーボールアース現象(23億5000万年ほど前に開始)の引き金を引いたのは生物だったと見られる。シアノバクテリアが爆発的に増えた結果、大気中のメタンと二酸化炭素が減少して温室効果が弱まったのだ。二度目になる今回のスノーボールアースは、地球の長い歴史において現時点で最後の全球凍結である。この時代に関する近年の研究により、7億1700万年~6億3500万年前までのあいだに二度にわたって全球が凍結したらしいことがわかってきた。この一連のスノーボールアース現象が起きたのは、第一章でも説明したクライオジェニアン紀である。

クライオジェニアン紀に二度起きたスノーボールアース現象のせいで、海における有機物の生産量は激減した。海面の氷が日光を遮ってしまうからである。このため、地球に生息する生物の量は全球凍結の前後と比べてごくわずかになった。23億5000万年前~22億2000万年前の時期と、7億1700万年~6億3500万年前までの時期の両方に言えることだが、全球が凍結して超温室効果が終われば、その環境を生き延びて進化できる生物は非常に限定される。化石記録からはほとんど手がかりが得られないものの、前章でも触れたアクリターク(プランクトン様の小型生物)を調べると、その数と多様性が変動していることがわかる。


この長期的炭素循環の話は本書の中心テーマの一つとして非常に丁寧に説明されていました。またそれによって引き起こされた途轍もない事変の数々についても。それは従来の見識を大きく塗り替える新しい目線のものになっていました。

また、本書はそれ以外にも二つのテーマが中心に据えられていました。その一つは、同じく炭素は炭素でも、私たち生物が炭素を基本とした生物であること。元素の中でも生命の歴史に最も重要なものは酸素、二酸化炭素、硫化水素そして硫黄だ。これらの物質がいつどのようにかかわってきたのか。45億年のなかで激変を繰り返してきた地球環境と生命の歴史を照らし合わせた結果、彼らが導き出す生命の起源は驚くべきところにあった。

そしてもう一つは、生態系の進化という考え方について。いまの世の中で新しい種、属、そしてその上の科や目のレベルで新しい生命が誕生することは在りそうにない現象だと思われる。しかしカンブリア紀の大爆発のようにそうでなかった時期もあった。それは一体どのような進化圧が働いて起こったのだろうか。どのような状況が生物にストレスを与えて新機軸とも云える機能や能力を発展させていったのだろうかというものだ。あちらこちらに隠れた証拠を丹念に拾い上げて遥か昔の出来事を立体的に再現するその研究結果は素晴らしい仕事だと思う。うらやましい。

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地球が燃えている:
気候崩壊から人類を救うグリーン・ニューディールの提言
(On Fire: The (Burning) Case for a Green New Deal)

ナオミ・クライン (Naomi Klein)

2011/01/10:先日、アメリカの連邦議会議事堂では昨年11月の米大統領選挙の結果を正式確定するため、上下両院合同会議が開催されたが、その際、トランプがツイッターを使って自身の支持者を議事堂に向かうよう扇動。結果議事堂には暴徒と化した大勢の人々が乱入し、会議に参加していた議員たちは避難、暴徒と警備、警察との衝突で暴徒の一人は銃撃で死亡し、警察官一名を含む5名が亡くなる事態となった。

トランプのツイッターのアカウントは暴力を扇動したかどで永久凍結となり、政権の要職者の辞任や共和党内の支持が急速に低下、トランプ自身が自らの声で敗北を認め、バイデン政権への移行を約束する発言を行った。

漸く狂気の4年間に幕が下ろされるめどがたったのはこの時期にあって、非常に大きな良いニュースではないだろうか。しかし、その一方でそもそもトランプは就任前以来言動が異常性を増しており、こんな人物に大国アメリカの政権運営をさせてしまうような状況を生んでしまうということがあり得るというのは議会制民主主義の限界というか、信頼性を大いに揺るがす事態だったと思う。

日本でもN国の人が議席を取ったり、維新が大阪の市長と府長の席をとったり、野党は意見統一できないまま小さい集団に分裂を繰り返す一方で自民党の長期政権はどんどん長期化して妖怪のような老人が絶大な権力をふるって傍若無人の政策運営が進んでいる。トランプによって激しく揺れているアメリカをみると日本だって全然他人事じゃないなと思う。

この背景には今の情報の氾濫に乗じて嘘や誤解を招くような情報を意図的な垂れ流すようなことをする人々や、刹那的に面白半分でこうした状況に相乗りしてくる人々によって増長されていくことがあるように思う。

トランプ支持者のなかには明らかに事態を曲解し、盲目的な白人至上主義の価値観を頑迷に押し通そうとしている人や、キリスト教原理主義の教義を守るべく共和党、トランプを妄信的に支持している人、陰謀論に没入している人などが入り乱れているようにも見える。

すこし冷静になって調べればそんな事が出鱈目なのはすぐわかりそうな話に頑迷にしがみついて非科学的な言動をまき散らす人たちは一体全体どんな人なのだろうかというのが、今の僕の最大の疑問の一つなのだけど、本書にはつい膝を打つような見事な説明がありました。

気候変動に関する意見の劇的なシフトを説明しようとする社会科学者たちが、大いに注目しているひとつの現象を説明している。イェール大学の文化的認知プロジェクトに籍を置く研究者たちは、政治的ないし文化的な世界観が、「地球温暖化についての個人の意見を、他のどの個人的特徴よりも雄弁に」説明することを発見した。
「平等主義」や「共同体主義」の強い世界観を持つ人(集合的行動と社会正義を好み、不平等への懸念、企業権力への猜疑を特徴とする)は、圧倒的多数が気候変動に関する科学的コンセンサスを受け入れる。一方、「階級秩序的」で「個人主義」の強い世界観を持つ人(貧困層やマイノリティに対する政府支援に反対し、産業の発展を強く支持し、人の境遇は本人の努力の結果だという信念が特徴)は、圧倒的多数が、科学的コンセンサスを否定する。
たとえば、米国人の中で「階級秩序的」な見方をもっとも強く示すグループのうち、気候変動を「大きなリスク」と評価するのはたった11%だ。これに対して「平等主義」な見方を最も強く示すグループでは69%に達する。この研究の筆頭著者であるイェール大学の法学教授ダン・ケイハンは「世界観」と気候科学の受容との間の密接な相関関係を「文化的認知」に起因しているとしている。これは、政治的傾向に関係なく私たち全員が「良き社会のビジョンを好ましいもの」を守るようなかたちで、新しい情報をフィルタリングしているプロセスを指している。ケイハンが『ネイチャー』誌で説明したように、「人は、高貴に感じられる行為が社会にとっては有害であり、下劣と思われる行為が社会にとって有益であると信じることに当惑を覚える。というのも、そのような主張を受け入れるならば、自分と仲間の間に楔を打つことになりかねず、そんな考え方を拒絶したいという強い感情が起こるからだ」。言い換えれば、現実を否定する方が、じぶんの世界観が粉々に砕け散るのを見るよりも常に楽なのだ。これは、かつて粛清の嵐が吹き荒れるなかで頑強なスターリン主義者がとった態度であり、今日のリバタリアン気候学否定論者にも等しく当てはまる。
現実社会からの確固たる反証を突きつけられても、強力なイデオロギーを完全に消え去ることはめったにない。むしろ、それはカルトに近づき、周辺的な存在になる。少数の熱心な信者たちは常に残り、問題は当のイデオロギーにではなく、指導者が弱腰でルールを厳格に適応しなかったことにあることをお互いに確認する。この手の人々はスターリン主義の左翼にも存在するし、ネオナチの右翼にも存在する。現在の歴史の段階においては、市場原理主義者も同じように社会の片隅へと逃避して、人知れず『選択の自由』と『肩をすくめるアトラス』を慈しんで過ごすのがふさわしかったのだ。そのような運命から彼らが救われているのは、ひとえに、小さな政府について彼らの思想が、どれほど現実との齟齬が明白であったとしても、世界の億万長者たちにとってはいまも非常に実利があるため、チャールズとデヴィッドのコーク兄弟やエクソンモービルの同類たちが金と着物を与えてシンクタンクで飼っているからだ。


気候変動を否定している連中とトランプのような権威主義的で身勝手な連中が実は同じ世界観を持っている人たちで構成されているというのはほんとなるほどとしか言いようがない話だ。

本書はナオミ・クラインの最新の著作だが、内容はこの10年間ぐらいの間に様々な場面で書かれた、長編レポート、論考、一般向けの講演の原稿から選ばれたものだ。

序章──「私たちは山火事だ」
1 世界に開いた穴
2 資本主義と気候の対決
3 地球工学──観測気球を上げる
4 「政治革命だけが頼みの綱」と科学が言うとき
5 気候の時間軸 vs. 永遠の現在
6 自分だけで世界を救おうとしなくてもいい
7 ラディカルな教皇庁?
8 奴らは溺れさせておけ──温暖化する世界における他者化の暴力
9 「リープ」がめざす飛躍──「無限の資源という神話」を終わらせる
10 ホットな地球のホットテイク
11 煙の季節
12 この歴史的瞬間に懸かっているもの
13 気候対策の機運を殺いだのは「人間の本性」ではない
14 プエルトリコの災害に「自然」なものは何もない
15 社会運動がグリーン・ニューディールの運命を左右する
16 グリーン・ニューディールにおけるアートの役割
エピローグ──「グリーン・ニューディール」推進の要旨


クラインはこれらの文章を時系列順に並べたと述べている。ご本人の意図とは異なるけれども彼女の本を順次読んできて気候危機に対して多いに懸念を抱いてきた僕個人としても、当初の頑迷な否定や誹謗中傷にまみれていた地球温暖化の話は、同時にオーストラリアの未曾有の山火事やBP社による海洋汚染や日本の福島第二原発による放射能汚染と、それにも関わらず逆行的な日本のエネルギー政策や、毎年被害が拡大・深刻化する日本の風水害をはじめとする異常気象があって、気候危機に対する人類の動きはとても間に合わないのではないかと憂鬱な思いに繋がっていた。
しかし、近年ICPPの報告書の開示があり、トゥーンベリの登場があり、本書の中核となっている「グリーン・ニューディール」の考え方の拡散・浸透があり、日本でもNHKが気候変動までの対応期限があと10年に迫っていると明確に宣言する特集番組を組むまでに広がりをみせてきたことと同期し、本書は強く勇気づけてくれるものとなっていました。

ICPP報告書について

その報告書は、地球全体の温暖化を摂氏1.5度(華氏2.7度)未満に抑えることの影響を調査したものだった。すでに約1.7℃の温暖化が起きており、それによって自然災害が深刻化している現状から勘案すると、1.5℃の閾値を下回る幅に温暖化を食い止めるということは、人類がほんとうに破壊的な展開を回避する最良のチャンスであることがわかった、と報告書は述べている。
しかし、それを実行することは非常に困難だろう。国連世界気象機関によると、このまま行けば今世紀が終わるまでに世界全体で3~5℃の温暖化が進んでしまう。IPCCの報告書の執筆者たちの見立てでは、温暖化を1.5℃未満に食い止めるのに間に合うよう、経済活動を方向転換させるためには、わずか12年のうちに世界全体の排出量を半分に削減せねばならず、また2050年までには炭素排出量ネットゼロを達成する必要がある。これは一つの国だけの話ではなく、すべての主要経済国において達成する必要がある。


勿論、解決回避できるかどうかはこれからの動き次第で本当の闘いはこれからなのだが。2021年の新しい年を迎え、トランプが炎上して隕石のように墜落していくと同時に地球温暖化に対して闘いを挑んできた人々が鬨の声をあげているかのような本書からスタートできたというのは何よりすてきなタイミングでありました。2011年はコロナに打ち勝ち、気候変動に対して一歩でも二歩でも前進できる年になることを心から願う次第であります。

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