池上永一:本名=又吉真也。1970年5月24日沖縄県那覇市生まれ、3歳から石垣島に転居し、中学時代まで石垣在住。
早稲田大学人間科学部人間健康科学科催眠専攻。
早稲田在学中の平成6年「バガージマヌパナス」で日本ファンタジーノベル賞を受賞。「風車祭(カジマヤー)」は直木賞候補となる。
2017/12/10:池上永一の最新作「ヒストリア」であります。本作は2017年度第8回山田風太郎賞を受賞したそうで、池上作品最高傑作という鳴り物入りで登場してきました。
「パガージマパナス」以来大ファンで何度となく読み返してきた僕らにそう簡単に最高傑作とか言うか。「パガージマパナス」は日本ファンタジーノベル大賞だったし、「風車祭(カジマヤー)」は直木賞候補だぞ。
「ヒストリア」が野性時代に連載されていたのは薄々知っていたけど、まとめて一気に読みたい我々としては極力情報を排除してきた。
いよいよ単行本が出版されて飛びついた訳ですが、カミさんの食いつきはつれなくも悪い。先行で着手した僕も勢いの悪さに途中二冊も別な本を割り込ませてしまい、最後まで物語を空回りさせてしまいました。
v 第二次世界大戦末期の沖縄の地上戦に巻き込まれ、九死に一生を得たもののその際にマブイを落としてしまったヒロインの知花煉がその後南米に渡り波乱万丈の生涯を送る話らしい。表紙にはゲバラらしき人物の顔もみえる。
戦後沖縄から南米に移住した人々は大変な苦労をしたという話を聞いていたので、そんな移民たちの歴史を重ねた重ための話なのだろうか。
凄惨な沖縄戦の幕開けはそれを予感させるような重層な描写が続く。しかし、その後ギヤチェンジされいつもの池上ワールドが現れる。本作はまた更に磨きがかかった池上さんの小説技巧も随所に織り込まれていてサービス満点なのである。物語は予想通り南米の革命紛争の歴史を織り込みつつ歴史に翻弄されていく知花煉の姿を追っていく。分量からして大変な労作である訳だけれども、何故か走らない。
二つに離れ離れになってしまったマブイと身体のそれぞれの話が紛らわしくて分かり難いからかもしれない。どこまでが史実なのかわからない移民たちや南米の歴史に惑わされたのかもしれない。
歴史的事件を架空の人物が繋いでいく「フォレスト・ガンプ」的な小説構造の舞台が南米だった、この主人公が分離されそれぞれ別の個性で立ち回り入り乱れるのに読者がついていけてなかった、歴史的事件と池上ワールド全開のドタバタな展開の食い合わせが悪かった、などなど、いろいろと気になる部分ばかり目立ってしまいました。
思うに作品にいろいろな要素を持ち込み過ぎた、これは企画が、編集が悪かったんじゃないのかと思わずにはいられない。
こんなに逸脱して遠回りせずシンプルな構成にして短いものに仕上げたら、ずっとスピード感のある分かりやすい作品になったし、ずっと面白いものになったであろうとちょっと残念な気持ちであります。
しかしこんな事でずっとお世話になってきた池上さんから僕の心は離れたりはしない。次回作期待してますよ。
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「黙示録」
池上永一
2013/11/04:時は尚益王の治世。採れたての魚介や反物、日用品などを売る那覇ヌ市は喧騒に溢れていた。その一角で人垣が生まれる。板舞戯(イチヤマイウドウケ)というシーソーの要領で飛びあがって曲芸を見せる大道芸だ。呼子を勤める了泉が鐘を鳴らすと何故か人の集まりがよかった。
かつて了泉はニンブチャーの村で暮らしていた。ニンブチャー(念仏者)とは17世紀初頭に琉球に訪れた袋中上人(たいちゅうしょうにん)が伝えた浄土真宗に起源を持つ者たちで、薩摩が琉球入りし宗教弾圧が始まったことで被差別賎民となり、貧しい人たちの葬儀を執り行うことを生業とし行脚乞食とも呼ばれた人びとだった。
しかし母がクンチャー(ハンセン病)に罹ってしまったことからニンブチャーの村からも追い出されてしまった。行き場を失った了泉を拾ったのがこの大道芸の一座で了泉はその稼ぎで母と二人食べ物を分け合って生きていたのだった。
しかしある日花形の曲芸師が墜死してしまったことで一座は解体。了泉は市場でこそ泥をして糊口をしのぐまでに追い詰められてしまう。孤児を襲っている野犬を殺すが、この犬が実は王宮の飼い犬であったことから捕らえられ殺されかけるがこれを国司の蔡温(さいおん)が一命を救う。了泉が「月しろ」であることを見抜いたからだった。
蔡温は福州で学んだ朱子学や風水学を駆使しして琉球の復興を使命とするものであった。首里城の風水を正し、龍脈の穴に相応しい王を玉座につけ、更にこの王を助ける神、月しろを備えること。これによって薩摩と中国の二重支配のくびきから琉球を解き放ちかつての王国の隆盛を取り戻そうとしていたのだった。
そして武力を持たず大国に挟まれた小国に過ぎない琉球王朝が大国と肩を並べて生き残る為に残された手段は、文化芸能、神がかりな「踊り」の世界だった。
太陽(てだ)しろとして王子が龍脈から気を大きく孕んで力強く天に昇るため地を治めるためには、陰の世界で世の悲しみと苦しみを引き受けて生きる月しろが必要なのだという。
そして月しろは琉球王府の守り神として千年を生きる。
元始、琉球の大地は月に育まれると信じられてきた。月が刻む時のことを『月しきんじょうろ』と呼び神の世界とされた。人は『太陽(てだ)しろ』を生き、神は月しろを生きる。もし、月しろを知る人間がいるならば、その者は千年を生きる者である−−−
何も知らない了泉は王府で踊奉行を勤める石羅吾に拾われ月しろとして歩みだしていく。江戸、福州を跨いで広がる舞台狭しと魂をぶつけてローラー・コースターのように激しく上下とよじれながら突き進む了泉の人生はまるで龍。大きな哀しみや苦しみですら踊りの滋養としてその道を極めていくがその先に待っているものとは。
「黙示録」の黙示の原義は「覆いを取る」ことから転じて「隠されていたものが明らかにされる」という意味だという。これはつまり陰であった月しろの存在を描き出したことを指しているのだろう。
池上ワールド健在で何よりうれしい。
しかし驚くことに本書は、
尚益王(しょうえきおう、1678年12月7日(康煕17年10月25日) −1712年8月16日(康煕51年7月15日))没34歳。
尚敬王(しょうけいおう、1700年8月3日(康熙39年6月19日)−1752年3月14日(乾隆17年1月29日))没52歳。
玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん、1684年9月11日(康熙23年8月2日)−1734年3月1日(雍正12年1月26日))没50歳。
蔡温(さいおん、1682年10月25日(康熙21年9月25日)−1762年1月23日(乾隆26年12月29日))没80歳。
徐葆光(じょほこう、1670年(康煕9年)−1740年(乾隆5年))没70歳。
袋中上人 (たいちゅうしょうにん、1552年(天文12年)−1639年(寛永16年))没87歳。
など実在の人物を多数登場させ、玉城朝薫が踊念仏・能・狂言を取り入れて編み出したとされる「組踊」、の誕生という史実を踏まえた上で池上ワールドが破綻なく見事に練りこまれていることでありました。
組踊は言葉もわからないので難しく、遠めで眺めているばかりでありましたが、驚くべき広がりを持った芸能であることを本書ではじめて知りました。
朝薫の五番と呼ばれる『二童敵討(にどうてきうち)』、「鐘魔事」『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』、『銘苅子(めかるし)』、『孝行の巻(こうこうのまき)』、『女物狂(おんなものぐるい)』や漢文や琉球の神話世界なんかをしっかり押さえて再読したらもっともっと深く物語を味わうことができることでしょう。
また本書を読んでいる最中にTwitterで池上氏ご本人とコンタクトできたという天にも上るような幸せな事件があったことも忘れがたいでき事でありました。
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2011/07/10:トニー・ジャッドの「ヨーロッパ戦後史」の合間に「統ばる島」にとりかかる。「ヨーロッパ戦後史」上下二巻でページは二段組。それぞれ合わせて千ページを超え、内容も非常に濃厚で、上巻を読むだけちょっと草臥れてしまったという訳で。
なぜそう思っていたのかはわからないのだけど、「統ばる島」はエッセイ集だと思っていた。どっちから先に読むべき?なんてカミさんに聞いてたときもまだこっちはエッセイ集だと思っていたのでした。「王様は島にひとり」と島を統べるが繋がってみえてたような気もする。はなはだ勝手な解釈でした。
読み出す前になって「してどんな内容なん?」と聞いてはじめて短編集であったことがわかった。
<目次>
竹富島(タキドゥン)
波照間島(パティローマ)
小浜島(クモー)
新城島(パナリ)
西表島(イリウムティ)
黒島(フスマ)
与那国島(ドゥナン)
石垣島(イシャナギゥ)
それぞれタイトルが示す島を舞台にした物語なのでした。トロイメライもどうやらまだ先が続きそうな気配のなか、こちらも短編。それはそれでよいのだけど、短編を書くことで「テンペスト」や「風車祭(カジマヤー)」のような長編を手がける体力がなくなってしまったらちょっと困るなとつい思ってしまいました。
やはり池上永一には 満を持した渾身の一撃のような一大叙事詩的なものを期待してしまうよ。
結婚してまもなく僕達夫婦は沖縄にはまり何度も通いました。一つにはダイビングがしたかったということがあった訳だけど、装備も準備も重くて、泳ぎがそれほど得意ではない僕らにはやや不向きなことがわかってからは、もっぱらシュノーケラーとして島を巡った。
船着場にあるレンタルの自転車のカゴに、マスクとフィンをどかどかと突っ込んで、ダイビングブーツのまま自転車を踏む。そして適当な場所を見つけたらざぶざぶと水に入って遊ぶわけだ、そこには目の覚めるような美しい光景とちょっとした冒険への出会いがあった。
その拠点が石垣島であり、その日その日に予定を立てて巡った島々が黒島や竹富島だった。
本書はそのかつて通った島々にひとつひとつの物語が紡がれていた。物語を通して浮かび上がってくるのは見事なまでの「島」そのもの。訪れたときにみた風景が鮮烈に蘇るものがありました。物語は登場人物も出来事も「島」と同様に孤立独立しているわけだけども、集まって一つに、つまり統べられていく。
軽めの短編集の連発を懸念しておりましたが、杞憂でありました。見事な出来栄え。ありがとう。
離れていながらも強く繋がり支えあっていく離島の生活を作り出すもの。それは琉球文化そのものだ。
僕達は当時、沖縄の歴史や文化のことをもっと知るために地元の書籍を扱う書店からいろいろな本を買って読んでいた。そんな本のなかに又吉正治氏の「琉球文化の精神分析」という本があった。これは三巻あって、「@マブイとユタの世界」、「A先祖のたたりと御願(ウグワン)」、「Bトートーメーの継ぎ方」がある。この方は医学博士でいらっしゃる方なのだけど、沖縄に伝わる郷土信仰も精神医療を、いやいや琉球の文化をきちんと踏まえたうえで精神医療を行うことで効果を高めることができると主張されていた。この本を読んで驚いたのは、その琉球の祖先崇拝をはじめとする伝統文化の深い洞察と叡智だった。
「継降り(チヂウリ)」や「魂落とし(マブイウトゥシ)」、「御願不足(ウグワンブスク)」、「火の神(ヒヌカン)」や「トートーメー」といった概念にはじめて出会いそのあまりに理にかない、また現実にその思想が正しく起こっているということに思い当たりたまげた訳だったのでした。
そんな僕らの前に、池上永一はユタになれと神が枕元に夜毎現れ困惑する少女綾乃を主人公にした「バガージマヌパナス」を持って現れたという訳でした。池上ワールドは破天荒でジェットコースターのような展開が楽しい訳だが、その背景にはしっかりとした琉球文化と郷土信仰が「現実」と境目なく交じり合い一つのものになっている事こそがミラクルな世界観を作り出しているのであって、そしてそのミラクルなワールドは沖縄そのものでもあるわけだと僕は強く思う次第です。僕ら夫婦が池上永一を愛読しているわけはこの背景にある。こうした琉球文化は又吉氏も主張されている通り、沖縄にとどまらず、どこにでも通じる受け継いで守っていくべき大切な思想であると思うからです。
又吉正治さんの本を本棚から引っ張り出してみていたらカミさんも懐かしそうに手を出してきた。またネットで又吉さんを検索したらツィッターでご健在。なんとうれしい出会いだろう。早速フォローさせていただきました。どうぞよろしく。
そして池上さん。次回作を心待ちにしております。
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201/07/09:先日、赤坂ACTシアターで公演された舞台「テンペスト」を観て来た。舞台なんて、しかもカミさんと二人で鑑賞なんてはじめてのことであった訳ですが、なかなか新鮮でいい思い出になりました。今月17日からはBS放送でドラマもやるようで、今から楽しみです。
それに呼応するような形で本書「トロイメライ 唄う都は雨のち晴れ」と「統ばる島」が出版され、池上永一月間みたいなことになっており、往年のファンとしてはとてもうれしい思いをしているわけでありました。
カミさんはさくさくと読んで「面白かった〜」等と述べておりましたが、僕は読む本の都合がいろいろあってなかなか辿り着けずにおりました。カミさんにどっちから読むべき?と聞けば迷わず、「トロイメライ
唄う都は雨のち晴れ」。では仰せの通りにこちらから。
「トロイメライ 唄う都は雨のち晴れ」は申すまでもありませんが、「トロイメライ」の続編でありまして、琉球王朝時代、首里城のお膝元の那覇で筑佐治、江戸で言うところの岡っ引きの武太の成長譚。そしてこの物語はまた、「テンペスト」と地続きになっており、「テンペスト」の登場人物も折に触れて登場してくることで小粒ながらなかなか楽しい仕掛けに満ちた本になっております。
第一夜 間切倒
第二夜 職人の意地
第三夜 雨後の子守唄
第四夜 那覇ヌ市
第五夜 琉球の風水師
第六夜 芭蕉布に織られた恋
今回、武太は果たしてどんな活躍をするのか。部分美人三姉妹はどんな料理を繰り出してくるのか。はたまた黒マンサージは誰なのかがわかるのか。
読者のツボを押さえた6つの物語は読み進むのが惜しい、もったいない。池上永一がインタビューで答えていたように、おもちゃ箱、宝石箱、まるで「からくり仕掛け」のようにきりきりと音をたてて唄い踊り走り回るようなものを意図して書かれていると思います。
また物語のもう一つの主役ともいえる長虹堤。前回は触れることができませんでしたが、この長虹堤についてすこし。これは実在のもので、15世紀以前、那覇は沖縄本島から離れた浮島だった。15世紀半ばの第一尚氏の尚金福は、冊封使の来琉に備え浮島と首里を繋ぐ海中道路の建設を命じて造らせたものなのだそうだ。
冊封使は、中国王朝の皇帝が付庸国の国王に爵号を授けるために派遣してくる使節であり、琉球王朝とすればいわば国賓。国賓の宿泊施設を浮島に作っていた訳だ。今で云う迎賓館のようなものなのだろうか。そしてこの迎賓館から首里への往来はそれまで船を橋のように並べていたのだそうだ。
これではやはり不便だということから、長虹堤の建設が命じられたものだという。迎賓館を首里側に移すというのはいろいろ事情があって難しかったのだろう。
この長虹堤はおおよそこんな場所だったようだ。
より大きな地図で 長虹堤 を表示
地図の上の方にみえる泊埠頭近辺、そして長虹堤がまたぐ美栄橋から南にのびる川のあたりは15世紀には完全に海で、その西側が浮島として本島から切り離されていたのだ。
建築の指揮にあたったのは、国相の懐機。懐機は、深い海と荒れる波を前に、人の力だけでは無理だと考え三日間ひたすら神に祈り続けた。そしてこの祈りが届き海の水が引いた機を逃さず7日間で石橋を完成させたのだという。築橋は1452年のことなのだそうです。
長虹堤は約1キロの間に7から8つの橋を持ち「遠望すれば長虹のごとし」とたとえられ、のちになって「長虹堤」とよばれるようになった。その姿は葛飾北斎によって「長虹秋霽」と題する浮世絵に描かれてもいる。
その後、周辺の埋め立てがすすみ、浮島の気配は消えていく、最後にのこった橋が美栄橋で戦前までその姿を残していたのだそうだ。5百年以上前の橋が残っていた?ほんとかな。写真があったら是非みてみたいものです。
ところで「テンペスト」ですが、舞台もBSも真鶴/孫寧温を仲間由紀恵。舞台での琉球舞踊も見事でありました。舞台では生瀬勝久が演った聞得大君は高岡
早紀。西岡徳馬が演った徐丁垓はなんとGACKT。高岡 早紀が生瀬勝久のようにエキセントリックに暴れまわったりするんだろうか、NHKだしな。羽目はずすにしても限度あるしな。
何れにせよ楽しみであります。読んでから観るか。観てから読むか。「テンペスト」の世界観を是非堪能してみてはいかがでしょうか。
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2010/10/08:読書メーターによって人が読む本が可視化されたことによって、読んでいる本ってみんなこんなにばらばらなんだという事がよくわかるようになった。同じ本を読んでいる人は大勢いるが、読んでいる本がいくつも同じな人と云うのはなかなかいないものなんだね。
それなりの読書家である僕とカミさんも、読書履歴全体としては大きく食い違ったものになっている。これは僕が読んでいる本がちょっとクセのあるものが多いからという事もあるのだろう。そのなかで池上永一の本は夫婦で大ファンで、二人で全ての本を読んでいると云う稀有な作家だ。
池上永一とのお付き合いはデビュー作「パガージマパナス」以来、かれこれ15年以上になる。以降毎作二人で先を争うようにして読んで、あーだった、こーだったと感想の花を咲かせる、これもまた楽しみの一つだ。カミさんと結婚していなかったら、B’zのライブに通って大声を上げている自分がいるとは思えない。
勿論彼らの才能と努力は素晴らしい訳だが、家族で聴いているからこそ、ライブに通うことになった訳で、家族でライブに行っているからこそ、B’zの音楽を聴き続けてる部分があると僕は思う。池上永一を追っか続けるのもそんな感じなんじゃないかと思う。ずっとこんな関係が続けていけるといいなぁ。
野生時代を購読すれば小出しに作品に触れることができる事はわかっている。連載ものを月刊誌、週刊誌で追うよりも、待って待って単行本が出たところを一気に楽しむ事を選んでいる。
作品に関する情報も極力シャットダウンして、先入観も予備知識もできるだけ持たないようにして徐に小説世界へと一気にワープするのである。
それこそ、池上作品を堪能する道ともいえるものだと思う。なので、ここでも極力余計なことは書かないようにしたいと思うが、未読の方はこれから先は読まない方がよいと思います。
トロイメライ。ドイツ語では、「夢を見ること」、「夢想すること」だということが、裏表紙に書かれていた。アマゾンのサイトでは池上永一の動画がアップされていた。
トロイメライといえば、シューベルトだなんてちょっと脂がのってきた感じの池上永一がしゃべっている。
シューベルトの「トロイメライ」は、彼のピアノ曲の代表作の一つ『子供の情景』(こどものじょうけい、Kinderszenen)作品15の第7曲であり、特に名高い一曲だ。
池上永一は、本書をこのシューベルトの「トロイメライ」のような、おもちゃ箱のような、宝石箱のような煌くような作品だと述べている。
本書は、六編の短編からなっており、筑佐治と呼ばれる琉球王朝の岡っ引き、まだ駆け出しである青年武太が事件に体当たりでぶつかってくというものだ。
第一夜 筑佐治の武太
第二夜 黒マンサージ
第三夜 イベガマの祈り
第四夜 盛島開鐘の行方
第五夜 ナンジャジーファー
第六夜 唄の浜
ページを開くとそこでは「テンペスト」と地続きの世界観の下、覆面で謎の正義の味方黒マンサージや部分美人三姉妹の鍋(ナビー)、甕(カミー)、竈(カマドウ)等、魅力的な登場人物たちが、情緒豊かで色とりどり鮮やかで美しい琉球を舞台に、心地よい音楽と素晴らしい料理とともに元気よく飛び出してくる。
勿論「テンペスト」の登場人物たちも忘れてはならない。それはまるで仕掛け時計かオルゴール、いやいやこの場合は「からくり」と云うべきだろうか。これがもう全く読んでいて安心というか、鉄板の安定感、スピード感で駆け抜けていく。
ところで、本書に登場する長虹堤は実在のもので、北斎の絵に描かれているのも事実だ。これは大規模な治水施設だった模様で、ちゃんと時間をかけて調べてみたいものだが、如何せん現在自宅のパソコンが入院中で手段が限られているため手が届かない。いつかそのうちちゃんと調べて加筆したいと思う。
本を読んでいても日常生活は回り続ける、仕事も人生も進んでいく、いつでも順風漫歩というわけにはいかない。時には嫌な思いも、苦しい思いもするだろう。どんな日を送ってもこの本を開けばいつも、彼らはハレの状態で僕たちを迎えてくれるだろう。一家に一冊「トロイメライ」を。
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2010/01/30:約一年半ぶりの池上永一。ちょっと余りに渇いて一気飲みしたいのだけど、一気に飲んだら勿体ない、次にいつの飲めるのか、それこそ砂漠の死活問題のような悩ましさに思わず眉間に皺が寄るような感情である。本書はポプラ社が毎月発行している『asta*』と云う文芸雑誌の巻頭に掲載されていたエッセイを集めたものなのだそうだ。
僕はこの『asta*』って全然知らなかったんだけど、大きな書店では無料で貰えるものだが、お金を払えば定期購読も可能なものなのだそうだ。
この雑誌が創刊された時点から3年間続けていたと云うのだから僕の目の節穴度合いにはほんとがっかりするな〜。
本書はこの3年間で書かれたエッセイ全てと、「PHPスペシャル」の2007年10月号に掲載された、「疲れた心に「万能語」」、そして本書に向けて書かれたスペシャルエッセイ、「さよなら愛人ラーメン」38編が収められている。愛人ラーメン?なんだっけ。と思ったらこちらは、「やどかりとペットボトル」に収められていたエッセイの後日談でした。未読の方は是非、「やどかりとペットボトル」からどうぞ。
目次
「万国旗」
「路上の自己表現」
「アメリカの置き土産」
「良いバスと悪いバス」
「嗚呼、悲劇のHD」
「札幌の女――レラ」
「最後の浜辺」
「パンツ放浪記」
「疲れた心に「万能語」」
「ウサギの島」
「作家仲間」
「三十三年忌」
「団塊哀歌」
「初スクープ」
「涙」
「異種格闘技」
「取材の心得」
「鳴らない電話」
「カブトムシとストーカー」
「ケータイ小説って何?」
「好きなものは嫌い」
「亜熱帯のアホ犬」
「かりゆしウェア」
「王の都」
「優先的関係」
「ファミレス人生劇場」
「街のにおい」
「沖縄料理に物申す」
「愛しのろみひー」
「健康食品」
「カラオケ撲滅運動」
「ニチニチソウの咲く頃」
「見切りのつけ方」
「DVD VS. ブルーレイ」
「超高層ビルを眺める鎮守様」
「アメリカが愛したオキナワ」
「最終回の真相」
「さよなら愛人ラーメン」
毎月、締め切りに追われつつこのような話、はっきり言って大法螺を捻り出すのは相当大変だったろうなと。どれもこれも可笑しくって。声を上げて何度も笑ってしまいました。また、時に繰りだされるオキナワ論やケイタイ小説に対する分析など、ぴりっと鋭く、流石です。当たり前ですが、とても真似のできるものではないと思いました。
池上永一の小説世界が僕は大好きだ。破天荒なキャラクターと展開。あり得ないだろうと云うような強引な部分もすべて僕は好きだ。その物語やキャラクターを縦横無尽、自由奔放に操っているのは池上永一の人柄に触れる事がでぎるこれらのエッセイを読んでますます納得。
僕の中で、ライオンは百獣の王から格落ちし、これからは水牛になりました。
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「テンペスト」(2009/09/23)
「シャングリ・ラ」から約3年ぶりとなる池上永一の新作「テンペスト」である。野生時代に連載されていて、かなり好評だった事は知っていた。
定期購読しようかと考えた事もあったけど、じりじりしながらちょっとずつ読むと云うのがどうにも苦手。
やっぱり出てから一気読みしたいと云う事で、出来る限り「テンペスト」に関する情報には触れないように、触れないように注意して、そんなものは世の中にはないものとして、そう、相続問題で揉めた親戚みたいな扱いで生活を続けてきた訳よ。
出版される日を待ちに待って、出ると同時に購入。抱きかかえるようにして自宅に持ち帰った。
それはもう断食明けの食事のように池上ワールドに飢えていた僕たち夫婦であったが、そこは僕が大人になって、カミさんに「先に読んでいいよ。」と譲った。
怒濤のスピードで読了した、カミさんはやや頬を紅潮させて、「すごく面白かった〜。」と絶賛。
我慢に我慢して漸くみつけたトイレに人が入っていたような、更にせっぱ詰まった状況に自分を追い込んで、そしてそして、一気に読ませて頂きました。
舞台は、琉球王朝末期の首里。琉球第二尚氏王朝第18代、尚育王(しょういくおう)の時代。
1429年、後の尚巴志王(しょう はしおう)が三山を統一、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させてから400年。栄華を極めた琉球王朝も清や鎖国中の日本、そして西洋からの波に大きく翻弄されはじめていた。
そんなある嵐の夜、首里城下の赤田村へ龍が激しい落雷とともに落ちてきた。それと同時に生まれ落ちた命があった。
その家の主で子供の父である孫嗣志(そんしし)は50歳、正に待ちに待った子供であり、生まれてくる子供は孫家の跡継ぎとして男の子であるものと決めてかかり、孫寧温(そんねいおん)と云う名前も用意されていた。
難産の果てに母は命を落とし、しかも生まれたのが予想外の女の子。嗣志は落胆のあまり娘には三歳になるまで名前も付けてやることができなかった。漸く付けられた名前は「真鶴」。
仕方なく親戚から養子にもらった嗣勇を跡継ぎとし、彼を琉球王朝の役人にすべく勉強をさせる嗣志。
当時の琉球王朝は役人の登用を科試(こうし)と呼ばれる試験で選考していた。
科試は500倍と云う熾烈な競争率で、その質の高さは本場清の国を凌ぐものであった。
合格するには並外れた能力がなければならない。これは琉球王朝が、清の冊封を受けると同時に薩摩藩(日本)の付庸国となると云う、板挟み状態のなか王朝を存続させていく為の高度な行政能力が求められていたからだ。
しかし、残念ながら、嗣勇は勉強が苦手。父の激しい折檻をうけるばかりだ。
兄と慕う嗣勇の傷を介抱し、家出の幇助をする真鶴。
激高する父に向かって替わりに自分が科試を受験すると申し出る。当時は女性が科試を受ける事など論外だ。
驚く父に対して真鶴は宦官のふりをして試験を受ればいいと提案する。
宦官の名前は寧温。
こうして真鶴/寧温の物語がはじまる。
それは見事な琉球の織物のように、鮮やかで美しく驚くような計算高さで紡がれている。
琉球王朝の歴史は勿論の事、行政、外交に加えて、琉歌や候文とじっくり読むべき箇所満載であるにもかかわらず、息も付かせぬ展開は予想を遙かに超える程ギュルギュルにロールする。
しかもこんな目まぐるしい展開をみせるのにも関わらずキャラクターもみんな活きている。
どのキャラクターも捨てて置かれず、すべてがみんな活きている。活きているからこそ物語がロールしてくのだ。
この手腕・手練れ。ますます磨きがかかった池上ワールドは新しいレベルに到達していると思いました。
これを読まずにいるのはあまりに勿体ない。素晴らしかったです。ほんと。
作家とは如何に上手に嘘がくつけるかと云うものだと云う話しを聞いた事があるけれど、この池上永一のつく嘘は、正に天下一品だな。大嘘なのがわかっていても騙されてしまおうと云う気持ちになってしまう。
これは何故なんだろうか。
「んな訳ねーだろ!」と本来は突っ込んでしまうようなところでも、寧ろそーなってしまった方が楽しいとか、嬉しいと云った心地良い方向で騙されるからなのかもしれない。ますます読者をくすぐる腕に磨きをかけてきた事に驚きと喜びを感じます。それにしてもどうやって力量を上げているのだろう。
また、清や薩摩、そしてイギリスやアメリカまでもが登場する外交問題や王朝の財政再建に奔走する寧温の姿。
まるで現在の日本の政治の在り方を反面教師にして作ったかのような内容になっていて愉快でした。
今、日本は中国の躍進、アメリカの曲がり角など国際的にも大きな転換期にあると思います。
そのことからも本書が琉球王朝のこの時代を舞台に選んだのではないかと思います。
日本もバランス感覚をもって外交にあたらないと大変な事になるかも。
そして、そんな時に政治家だけの村のなかにばかり気を取られていると取り返しが付かない事態となってしまうと思います。
ニュースを観ていると時代劇に出てくる悪代官そのもののような政治家が現実にまだまだ沢山いる事を考えると、今国に本当に必要な人材は寧温か、桃太郎侍、はたまた水戸黄門かもしれないですね。
首里城
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真玉橋
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かなり前だが朝日新聞の夕刊に実話なのかエッセイなのかそれとも超ショート小説なのかわからないようなハチャメチャな短文が掲載されていて、これがとんでもなく面白かったと記憶している。
本にならないかななんてぼんやりと思っていた訳だが、気付いたら出版されていた。
おぉっ!これは嬉しい。11月に出版?
なんで知らなかったんだろう。一声かけて欲しかったぞ。
他人行儀じゃないか。(笑)
本屋さんにダッシュ。そして読みましたよ〜。大急ぎで大好きなご飯を食べるみたいな感じで読ませて貰いました。
内容はあのエッセイと同じベクトル。
本当か嘘なのか、いやいや嘘と本当の話がチャンプルーになったお話と云うべきものだと思う。たぶん。いやそんな、全部本当な訳ない。ありえないし。いやいやもしかしたら本当なのかも...なんてニヤニヤしながら、こんな風に書きたい。つい思わず嫉妬してしまうような本でしたよ。
堪能させていただきました。特に池上氏のお母さんには是非お目にかかってみたいものだ。
ぷはぁ〜っ。ごちそうさまっ!
しかし残念ながら期待の方が大きくて腹八分って感じだ。
それは思い出の連載記事そのものが載っていたのかどうか記憶が蘇らない。何しろ記事が最高に可笑しかったと云う記憶を凌駕するものが見あたらないと云う勝手な思いこみに勝てなかったのを本のせいにしても仕方ない。なんと言ってもどっちも池上永一の仕業であるからである。
いやいや、寧ろこの位の余韻があった方が、また食べに行こうとつい思わせるリピーター確保に丁度良いのかもしれませんね。ってこりゃ食べ物屋さんの話みたいだ。
ちょっと表現は失礼だが、高級な料理よりも寧ろ「これって体に悪いんじゃね〜ね〜の。」って位な料理の方が度々食べたくなるんだよね。
池上食堂の正に固定客として絡め取られている自分でありました。
次回作もとっても期待して正座して待っております。
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近未来、世界地球温暖化に対抗すべく二酸化炭素の収支そのものを経済とする炭素経済へ移行している。関東大震災によって首都東京が廃墟と化し、日本政府は首都の復興と炭素経済の両面から、「アトラス公社」を創設、東京湾を跨ぎ、地上二千メートルを越える巨大な建造物「アトラス」を建造する事を決定した。
旧首都圏地域を森林化し、炭素材の使用で建造物の強度と二酸化炭素削減の両面を実現。これによって都心の平均気温を5℃下げるのだ。
13階層で完成するアトラスはあまりに巨大で工期も掛かる為、着工から50年たっても完成には至っていない。首都圏の住民全てがアトラスへ移住できるはずだった。
しかし公社はこの約束を反故にし、首都機能と一部の裕福層及び新たに個人に設定されたアトラスランクの高い人間を優先させて移転しているのだった。その為土地を奪われた住民の多くは難民化した。
遺伝子を操作され成長力を強化された森林に囲まれながらも東京に残った人々は「ドゥオモ」と呼ばれる城塞へ終結し、反政府ゲリラ「メタル・エイジ」として政府と森を相手に戦う事を選んだ。
少女北条國子はその立ち居振る舞い、醸し出される気配には誰もが何か高貴なものを感じないではいられない人物。今日は女子少年院鑑別所の二年の刑期を終え出獄する日だ。
セーラー服で門をくぐる彼女を出迎えるのはナイスバディの美女と逞しい男の二人組みだ。一人はメタル・エイジの参謀。美女の方は実はニューハーフで「永遠の28歳」のモモコだ。
大排気量のガソリン車で政府の追跡をまき、向かう先はドゥオモ。國子の帰還はまるで王の凱旋だ。20万人を越える難民を抱え込むドゥオモの運営を統べる凪子は國子を出迎えるや、ドゥオモの指導者の地位を彼女に引き継ぐ事を申し伝えるのだった。
果たして若干17歳の少女に過ぎない國子にドゥオモを取り囲んで暴走する森林、炭素経済等と様々な問題に対処し、人々に安住の地を与える事ができるのか。そして多くの者の犠牲をものともせず突き進むアトラス公社と巨大建造物アトラスの真の目的とは何か。國子の活躍はやがて多くの者の運命を大きく変えていくのだった。
本書は、月刊誌「ニュータイプ」に16ヶ月に渡って連載された小説の単行本化。ファンタジーとSFを融合させたジャンルは「レキオス」と同じ流れを組むものだが、池上氏がはじめて沖縄とは無縁のテーマに挑んでいるのは見逃せないポイント。
ニューハーフのモモコは小説を飛び出し人生相談や他の作家との対談等もこなし、挙句には池上氏の秘密の生活を暴露したりするようなキャラに発展。知らないうちに何か盛り上がっていたみたいだ。
人生相談の回答はどれも、モモコのニューハーフキャラ全開で飛ばしている。特設サイトには膨大な数がアップされていて、全てを池上氏が書いてるのかどうかわからないけれど、これも新基軸という事なのだろうか?
ネタバレになるのであまり書けないが主要なキャラクターがこれまで以上に超人的であったり舞台が東京に移った事でこれまでの沖縄の信仰や宗教観から日本の神話に物語の底を置き換えた所は好みの分かれる所かもしれない。
しかし、1600枚という大変な長編、登場人物もその立場も多様。舞台も政治、経済からドゥオモの文化と幅広く壮大なスケールで展開する物語には破綻もなく、しかも月刊誌とはいえ連載もの。よくまあ料理できたものだとほんと感心しました。
また物語の急転直下乱高下で息もつかせない展開といい、胸を熱くするようなやり取りと下品なギャグと池上ワールド全開で物語世界に浸る心地よさは従来どおりで楽しめました。
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「ぼくのキャノン 」(2003/12/04)
村の高台に鎮座する帝国陸軍九六式15センチカノン砲。雄太はキヤノン様を遊び場に育ったワンパク坊主だ。このキヤノン様のご神託に拘束され振り回される一方、守られてもいる村人達。そしてまたこのキャノン様配下で成立している時代錯誤というか、かなりズレた価値観の村。おかしい。何かこの村には何かとてつもない秘密が隠されている。強引な状況設定とそれに負けないオバア。そんなオバアを理不尽だと感じながらも愛する雄太たち。そしてゆっくり流れるオキナワン・タイム。リゾート開発等押し寄せる近代化、都会の魔の手。そして村の秘密が暴かれるとき雄太達ワンパク少年達は...池上ワールドは健全なり。
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「夏化粧 」(2002/10)
シングルマザーの津奈美は愛する我が子の裕司を、神様にもやすやすと手がだせない程の呪力を備えた産婆のオバァの手で掛けられた呪いによって他人からは見えない存在にされてしまった。
2000人以上を取り上げたオバァはなんと、その全員に無茶苦茶な呪いをかけていたのだった。遺言書で全てが明らかになり騒然とする葬式の中、「このクソババア、よくも裕司を消してくれたわね」叫んだところ後の祭りだ。
しかし、唯一この呪いを解く方法が残っていた。それは、夏至の日までに明暗の逆転した世界へ抜け出し母が生まれてくる子供に掛けた7つの願いを集めて来る事。それは、沖縄の南の海に沈む遺跡に秘められた神、宇宙、そして明暗の逆転した世界を結ぶネットワークを活用した超古代文明の力を呼び覚ますものだった。
産婆のオバァが使った呪い「アンマー・クート、ターガン、ンーダン」は夜分に子供を外出させる際に使う魔除けの呪文だそうだ。
時代を超えて沖縄の女はあの世も仏も境目が曖昧でシームレス、そしてだからこそ母は強い。のか。
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短編集「復活へび女」の改訂版です。
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「レキオス 」(2000/05)
200年5月に出版された長編第三段だ。米軍の戦闘ヘリと逆さまな姿勢で移動する妖怪が対峙するところから幕を開けるという冒頭から、状況設定を今まで以上にパワーアップして池上ワールドが展開する。
苦しんで書いた「風車祭」から開放され、読んでいるこっちも楽しいと感じる程、自由気ままに書きたい事が書ける喜びの様なものに満ち溢れている。
主人公は那覇で暮らす女子高生デニス。って男の名じゃん。それは父親が生まれるより遥か以前の性別も判別出来ないうちに名付けたからだそうだ。彼女は外見上殆んど黒人だが、父親が黒人で母親は白人と日本人の混血というややこしい血筋の持ち主。英語とウチナーグチを自在に駆使し、180cmを超える長身を生かしセーラー服姿でYAMAHA V−Maxを軽々と操るという何もかもチャンプルーな日本人。
那覇に程近い海上に突如として現れた最新鋭の戦闘ヘリAH−64Dアパッチ・ロングボウと逆さまの状態で宙に浮く女。戦闘ヘリのミサイル攻撃を軽くかわした逆さまの女は、長い髪を戦闘ヘリのテールローターに投げ込み絡ませるとバットを振るう様に振り回し、いとも簡単に地面に叩き付けた。落ちたミサイルとヘリは何と巨大なペンタグラム(五芒星)を形作って炎を上げる。超人的な視力で遠くを見かざすデニスの視線の先には、ペンタグラムの中央で微笑む先の逆さまの女。女はデニスの視線に気づいて真っ直ぐ見返してきた。
米軍、CIA、島のユタやノロ、ハイテク、ローテク、実際はあるのかないのか、かなり怪しい神通力なんかが激しく入り乱れて、怒涛のスピードで駆け抜ける。そして、更に池上ワールド史上最強のキャラ、サマンサ・オルレンショーが表れる。ライズィングという表現の方が寧ろ相応しい(良くわかんないけど)金髪、超グラマー、若く美しく、しかもコスプレオタクの超変態天才科学者のオルレンショー博士は、コギャルで社会的には使い物にならない女子高生ヒロミをニューロコンピューター、ロミヒーへ勝手に改造する等、倫理を無視した怪しすぎる手段を用いてペンタグラムの謎に迫る。
レキオスとは、大航海時代のポルトガル語で「扇のかなめ」という主旨で琉球人を指した呼び名。しかしこの「かなめ」という言葉には秘められたもっと大きな意味が隠されていた。
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気が付くと、昨夜も彼女が来ていた。6畳一間の安アパートで目覚めた僕は、自分の寝ていたせんべい布団の隣で三日月形になって添い寝している人型を見つめた。それにしても知らぬ間に忍び込み、目覚める前に出て行く彼女は、一体誰なんだろう。都会での生活の寂しさを癒す謎の人型、名付けて「ソイネザウルス」。
表題「復活、へび女」を含む、これは「パガージマ・・」の後の1995年から「風車祭」以降1999年までに書かれた短編集である。沖縄と東京の都市を舞台にした以下の8編が収められている。
都市の物語では東京は立川あたりが舞台になっていて、池上氏の目線で語られる都会の情景は、同じよそ者として共感を覚えるところが随所にあって、楽しめる。考えてみれば、「風車祭」を書くために必死になって机に噛付いていたのは正にこの東京の何処かであった筈。つまり沖縄の物語を必死になって書いていながら、一歩外に出るとごみごみした街並みだった訳で、この短編の様に東京と沖縄を瞬間移動している感じだったのだろう。
随所で炸裂するギャグは、あとがきまで油断は禁物、池上ワールドは短編でも十二分に展開されていて、僕たちの期待を裏切らない。
収録作品は以下の通り
■マブイの行方
■サトウキビの森
■失踪する夜
■カジマイ
■復活、へび女
■前世迷宮
■宗教新聞
■木になる花
また、長編には長編の、短編には短編の難しさがあるとは思うが、池上氏の一気に駆け抜けるエネルギーは、短編の方により力を発揮するのではないかと感じるが、残念ながら激しい脱線もなければビックな破綻もない短編ではやや物足りないと思うのは、池上ワールドにどっぷりハマった人だからだろうか。
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期せずして(本人には失礼だが)大賞を受賞してしまったデビュー作から3年、満を持して著した本書は1997年下半期の直木賞候補に、一発屋、ビギナーズラック等の名を返上した。ご本人にとって書き上げるまでは、それこそ血を吐くほどの苦労があったようだが、内容は前作同様全編にギャグとやさしさが溢れるファンタジーである。すっかり池上ワールドにはまり込んだ僕ら夫婦は早速本書を二冊購入し一冊は門外不出の家宝に認定しました。
仲村渠(ナカンダカリ)フジの人生の目的はどんなことがあってもカジマヤーを迎える事。幼い頃からこれを人生の目的に据え、その達成の為には手段を選ばずに生きてきた。危ない橋は全て他人に渡らせ、ストレスがたまらないように、我が儘の限りを尽くし、並居るライバルを蹴倒してきた。そんなフジおばぁもあと一年で念願の風車祭(カジマヤー)を迎えることができる。残す事この一年何事もなく無事で過ごす事さえ出来れば。
この家に遊びに来ている孫の武志と、節(シチ)の日の儀式をしきたり通りに進めていると、怪しげな風が吹き付けてきた。これはマジムン(魔物)だとおののくオバァと、騒ぎに怯んだ正体不明の声。武志はその声の主を追って町はずれへ。現れたのは美しい盲目の女ピシャーマと六本足の豚ギーギー。ピシャーマは寂しげな顔で呟いた「お願いがあるの」。
琉球のしきたりである十三の祭事と共に進行するフジオバァのカジマヤーへの道はまだまだ波乱万丈。前作同様自然と魂と現世の人間が一つ処に住まう石垣島を舞台に展開する不思議な物語。
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1994年の第6回日本ファンタジーノベル大賞受賞作。池上永一は本書がデビュー作。この賞は「後宮小説」の酒見賢一や「リング」の鈴木光司等を選出している見逃せない賞なのだ。いきなりの大賞受賞も凄いが読んでみて更にびっくり。その時以来僕はこの作家が大好きになり、この本も、もう何回読んだか分からないくらいになってしまった。
石垣島で生まれ育った中曽根綾乃は19歳。高校を卒業しても島に残り、就職もせず毎日ぶらぶら。、これといった予定も立てず行き当たりばったりの毎日を過ごし、ひたすら怠け者であることはこの島のライフスタイルであり文化だと考えている。楽しみといえば唯一オージャーガンマーとユンタクすること。オージャーガンマーは86歳のかなりおちゃめな老婆だ。また彼女は綾乃の信じる石垣のライフスタイルを何十年も実践してきた筋金入りの島人にして彼女の大親友なのだ。
そんな将来展望も目的意識も希薄な綾乃の前に、ある晩神様が現れ「ユタになれ」とお告げを。「誰がなんでそんな面倒な事を」引き受けてたまるかとあの手この手で抵抗する綾乃、負けじと嫌がらせを仕掛ける神様。神様との攻防を通じて綾乃に見えてきたのは霊界と人間社会がシームレスに繋がって生き生きとした連携を実現している石垣の本当の姿だった。ぬけるように美しい石垣の海と空の下でゆっくり流れる綾乃とガンマーの時間。時として弾ける奇想天外な事件。日本を舞台にしてこんなに楽しいファンタジーが作れる事を証明する、どこまでもふっきれた疾走感あふれる一品だ。
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