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はしごを外せ―蹴落とされる発展途上国
(Kicking Away the Ladder:
Development Strategy in Historical Perspective)

ハジュン・チャン(Ha‐Joon Chang)

2014/09/28:月日はあっと言う間に過ぎるもので2014年上半期もあと数日。ますます慌しい日々が続いております。昨夜ふと再生した10年前の写真やビデオに映った子供達の幼さに仰天。前へ前へ、先へ先へと急ぐばかりで日々を駆け抜けている生き方は間違いで、もっと今この時を大事にしていくことが大切だななんて思う次第であります。週末は自転車で運動・気分転換をし、読んだ本の内容を整理し、そして家族と過ごす時間をもっともっと意識して大切に過ごしていかなきゃ。

さて、ハジュン・チャンの「はしごを外せ」であります。ハジュン・チャンは二冊目、一冊目の「世界経済を破綻させる23の嘘」はとっても素晴らしい本でしたが、出版されたのは本書「はしごを外せ」の方が先に出されていた本だった。

「世界経済を破綻させる23の嘘」は一般向けに書かれたものだったが、「はしごを外せ」はハジュン・チャンが書いた論文を発展的にまとめたものとなっており、かなり専門性が高い内容になっていました。チャンは本書を含む業績が認められ2005年にレオンチョフ賞を受賞したのだという。

チャンの凄いところというのが素人にはわかりにくいところで産業政策の有効性というものを単に地域ごとの発展という歴史的な視点からではなく(1)永続的な歴史の型の探索」(2)「それを説明する理論の構築」(3)「現代の問題へその理論の適応」に整理しなおしたところあたりにあるらしい。

つまり先進国が現在の地位を獲得してきた過程にはそれなりの型つまり政策があり、更にはそれを実行していく上での制度があった。これを理論的に説明し、更にはそれを現代の問題へと適応してみたらどうなるのかというお話だ。

第1章 序:富裕国は本当のところいかにして豊かになったか

1.1 はじめに
1.2 いくつかの方法論上の問題:歴史から教訓を得る
1.3 各章の構成
1.4 健康上の注意

第2章 経済発展のための政策:歴史からみた産業・貿易・技術政策

2.1 はじめに
2.2 キャッチアップ戦略
2.3 先頭国の引き離し戦略とキャッチアップ国の対応-イギリスとその追随者
2.4 工業発展のための政策:いくつかの歴史的神話と教訓

第3章 制度と経済発展:歴史的視点からみた「良いガバナンス」

3.1 はじめに
3.2 先進国における制度発展の歴史
3.3 過去と現在の発展途上国における制度発展

第4章 現在への教訓

4.1 はじめに
4.2 開発のための経済政策を再考する
4.3 制度の発展再考
4.4 ありそうな反対論
4.5 結び


保護主義の話だと思った。イギリスもドイツもフランスもアメリカ合衆国もそして忘れちゃいけないこの日本も先進国の仲間入りを果たすために保護主義を取った時期があった。

確かに総論的には想定したとおりでありましたが、現実はもっと深い。


 事実上すべての先進国(NDC)は、キャッチアップ期に幼稚産業の育成を目的とする介入主義的産業・貿易・技術(以下ITT)政策を積極的に実施した。後に説明するように、この点に関してはスイスやオランダなどの明らかな例外が存在したが、これらの国は、技術の先端、あるいはそれに非常に近い位置にいたため、当然ながら幼稚産業育成を必要としなかった。キャッチアップが見事に成功した後にも、いくつかの国は積極的にITT政策を実施した(19世紀初期のイギリス、20世紀初期のアメリカ合衆国)。関税による保護はNDCが利用したITT政策パッケージの中では、明らかに有力な政策手段であったが、後に示すように、それは決して唯一の手段でもなければ、必ずしも最重要手段とも限らなかった。


それは予想外だった。不意をつかれ暫し立ち止まるような思いを感じた。介入主義的産業・貿易・技術(以下ITT)政策・制度の広がりはなる程驚く程広範でその手段も多様でありました。それは例えば「特許」だったり、「金融制度」だったり、「社会福祉」や「労働法」であったり「政府の支援」であったりする。これをつまり「はしご」と呼んでいる訳だ。


 アメリカ合衆国政府の産業発展における役割が第二次世界大戦後においても重大であったことを、認識することは重要である。ことに国防に関連する大量調達と巨額の研究開発支出は、ばくだいな波及効果をもたらした。研究開発は総支出に占める連邦政府の比率は、1930年には16%であった。しかし、第二次世界大戦には2分の1から3分の2の間に増大した。アメリカ合衆国は、その総合的な技術のリーダーシップは衰退しているにもかかわらず、パソコン、飛行機、インターネットなどの産業においては、国際的優位をいまだに保持している。これらの産業は、連邦政府が提供した国防関連の研究資金がなければ、存在していなかったであろう。また、アメリカ合衆国政府の国立健康研究機関(以下NIH)が製薬とバイオ技術産業の研究開発を支援したことで、これらの産業でのアメリカ合衆国の優位が維持された。このNIHが果たした重要な役割にもふれておかなければならない。アメリカの製薬産業の業界団体が提供した情報によっても、製薬研究開発のうち産業自体による出資が43%のみであるのに対して、NIHによる資金提供は29%にのぼっている。


なる程そういうこともあるんだね。
勿論だからこそのレオンチョフ賞な訳だが。

昇りきったら今度はその保護主義を否定し禁ずることで後続の国が昇ってこれないようにはしごを外すという事も大事な戦略なのである。これを怠るといつの間にか優位性が損なわれることになってしまうからだ。

勿論ハジュン・チャンが保護主義やはしご外しを奨励している訳ではない。現代の問題に当てはめてこの「はしご外し」をどう解決していくべきかについて考えていこうとしているのである。問題なのは先進国がかつて自分達が保護主義をとっていたこと自体を忘れさっていることだ。自分達のやってきたことを棚に上げて一方的に禁じる、或いは児童労働が単にかわいそうだからという善意から反対することで、後進諸国ははしごを上れずいつまでもその地位に甘んじることになってしまう今のこの状況をどう抜け出していくのかが大切だというわけだ。

ハジュン・チャンのこの視線はとっても大切でとても共感を覚える内容になっている。しかし、その一方でこうしたことに理解を示さずにいる政治経済の専門家の方々も大勢いる訳でその頑迷さと停滞さはこの社会に凄まじいマイナスのインパクトを与えている。

科学や学問、そして技術は進化し続けているはずなのに現実に起こっていることに対する対応では無力さをさらけ出している。いつかこの広く深い溝が埋まる日がくるのだろうか。

彼のような視線を持った人たちがどうか主流派となり社会のコンセンサスを生んでいくような流れになっていくことを願いたいと思う。


「世界経済を破綻させる23の嘘」のレビューはこちら>>


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狼の群れと暮らした男
(The Man Who Lives with Wolves)

ショーン・エリス(Shaun Ellis)&ペニー・ジューノ(Penny Junor)

2014/09/23:著者のショーン・エリスはナショナル・ジオグラフィック・チャンネルの番組でも取り上げられ結構知られている人らしい。ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルの番組はたまに観ているけれども全然知らなかった。

野生の狼の群れに受け入れられ一緒に暮らした話らしい。動物もの、特に犬が大好きでこの手の本を見かけると手を出さずにはいられない。

著者は1964年生まれと僕と同世代。生まれはイングランドの片田舎でかなり苦労した子供時代が語られる。父を知らず、母は仕事で殆ど外にでっぱなし、祖父母に面倒をみてもらっていたのだが、暮らしぶりが前世紀のような質素な暮らしぶりだった。

一方で自然には恵まれた環境とここで生きる術を知り尽くした祖父からショーンから知恵と技術を受け継いでいく。

そんな彼がいつしか狼に魅せられ彼らの生態を独自に調査していく過程で、一般には凶暴でずる賢く人を受け入れることはないと考えられていた狼たちだが彼らなりの群れの掟や善悪の判断基準をしっかり持った生き物であり、その彼らの掟を守れることを見せることで群れに受けいけられることが可能であることを発見する。

但し実際に群れに受け入れられるためには相当の根気強さと接触の際に一つ間違えば命を落とす可能性に目をつぶっていかなければならない無茶な行為でもあった。


動物園の手伝いをしながら狼との接触を試みうまくいった経験を持って彼が目指すのは野生の狼達の群れに受け入れられることだった。

動物研究の専門家でもなければ、生計の糧が動物との仕事にある訳ではなく、軍隊に入り休暇を使って動物園の手伝いをし、食べるものも寝る所も満足にない生活を続けながら狼たちに受け入れられる日を只管めざすショーン。

テレビでみたかなんかしたアメリカの狼の研究施設に全財産をはたききって単身渡米。最終的には本書のタイトルともなっている野生の狼の住む土地へ単独で踏み込んでいく。狼たちの生態やその彼らの生活に近づいていく過程はほんとうに読ませる。面白い。凄いと思う。この過程についてはもっともっと詳しく書けばよかったのではないかと思う。

実際、荒野に入って狼に接触して帰ってきて本はおしまいでよかったと思う。

しかし本書はなぜかここでは終わらない。だらだらと後日譚が語られていくのだが、この後半は狼よりも寧ろ彼の破綻した生活が中心になっていく。狼に全身全霊をかけて生きたといえば聞こえは良いが、彼は定職らしいものもなくその日暮な一方、複数の女性との間で何人も子供までいるのである。

どうやって暮らしているのかよくわからない。子供達は満足に生活しているのかとか思うのだが、さっぱりそれは語られず、新しい彼女は「ゴージャスだ」とか言っている。人間社会における彼の暮らしぶりは殆ど破綻している感じだ。

ご本人は語りたかったんだろうけども、この壊れた自分の家庭を語りたい気持ちもさっぱりわからないし、そんな事僕にとってはどうでもいい話だ。子供達が気になる上に、入れ替わり立ち代っていく女性も誰が誰なのか。その人たちの心情もさっぱり伝わってこない。この後半はまったくもって独りよがりな話で文章もなんだかものすごくもつれている感じだ。想像だが共著者に名を連ねているペニー・ジュノー氏は作家らしいが後半部分では関与してないんじゃないだろうか。


もう少し客観的な目線でこの話が書ける人に最初から全部書き直ししてもらった方がいいね。


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地球温暖化論争-標的にされたホッケースティック曲線
(The Hockey Stick and the Climate Wars)

マイケル・E・マン(Michael E. Mann)

2014/09/21:地球温暖化説はデタラメだった。気候科学者達が手を組んで温暖化が進んでいるという誤った認識を我々に植え付けようとしていたことが明らかになった。

こんな触れ込みでニュースが伝播してきたと思う。なんでも仲間内で情報を操作しあたかも温暖化が進んでいるようなグラフを捻出していたとか。なんじゃそりゃ。だ。仮にそんなことをしていたとしてそれにどんな利益があるというのか。

だいたい研究所のメールをクラッキングして得た事実というところからして本来はニュースソースの方に問題があって胡散臭い訳なのだが、どうした訳かそれは糾弾されず悪いのは気候科学者たちだというように報道も世論も進んでいった。そしてそれはアル・ゴアも「不都合な真実」もそもそもの地球温暖化も真偽がつかないグレーな部分へと動かす程のインパクトがあったと思う。

「気候研究ユニット・メール流出事件」、「クライメートゲート事件」と呼ばれるこの事件は2009年11月、イギリスにあるイースト・アングリア大学(UEA)の気候研究ユニット(CRU:Climatic Research Unit)のメール文書が何者かによってクラッキングされた。

盗まれたメールの内容には、発表された地球温暖化が近年急激に進み、その線が上向きのホッケースティックのように上昇しているグラフは科学者達たちが共謀して数値を操作しているやりとりが含まれていたというものだった。

本書はこの時メールを傍受された渦中の中心にいた研究所の科学者ご本人マイケル・E・マンの手によって描かれた事件の顛末であります。盗まれたメールの共謀し温暖化を捏造していたかのような文章は盗んでいった者たちの都合のよいように捏造されたものだった。

現実には気候変動否定論者と呼ばれる一団の利益集団たちが気候科学者たちの地位を追い落とすために仕組んだ壮大な陰謀であり、クライメート事件はそのごく一部に過ぎなかった。つまり全ては仕組まれた地球温暖化否定のプロパガンダであった訳でそれは一定の成果を上げたという事なのだ。

目次
第1章 戦い前夜
第2章 気候科学時代の到来
第3章 ノイズに埋もれたシグナル
第4章 ホッケースティックの生い立ち
第5章 否定論の原点
第6章 知の闇を照らす灯
第7章 最前線に立つ
第8章 ホッケースティック,ワシントンへ
第9章 表紙を飾れば…
第10章 ウソだと言ってよ,ジョー
第11章 ふたつの報告書
第12章 ヒドラの頭
第13章 バルジ大作戦
第14章 クライメートゲートの真実
第15章 反撃

まずは地球温暖化について、
1990年代中頃までに、科学者たちは得られた情報をつなぎ合わせて、人間が気候に及ぼす影響を示せるようになった。
(一)主に化石燃料の燃焼によって、人間活動が大気中の二酸化炭素(Co2)濃度を上昇させてきたことがわかった。
(二)大気中の二酸化炭素(と、メタンなどの人間活動から生じる微量ガス)が増加すると地表面が温まる
(三)温度計による測温結果から、産業革命が始まって以降1990年半ば
までに、地球は約0.6℃以上暖まった。温暖化してきたのだ。
(四)1990年代中頃には、ある程度高度な地球温暖化モデルを使って、地球気候変化の背景にある因果関係を調べることができるようになった。

現在の温暖化の数値は産業革命以降の人間の活動を抜きに再現することができないという厳然とした結果があるのだ。


 炭素排出の結果、2011年現在、濃度はほとんど390ppmに達し、毎年2~3ppm上昇し続けている。平均的な米国人は様々な活動を通じ、毎年20トンの炭素を放出している(訳注:日本人は毎年9トン)。大型のオスのアフリカゾウ二頭の重さだ。世界全体では、人間はゾウ4億頭に相等する約85億トンの炭素を毎年放出している。450ppmに抑えるためには、次の10年以内に最大でも年間90億トン(ゾウ4億5千万頭)に留め、今世紀半ばまでには年間10億トン(ゾウ5千万頭)に削減し、今世紀末にはほとんどゼロにしなければならない。世界人業の増加が続き、中国やインドなどの開発途上国が引き続き発生量を増やし続け、米国のような工業国がこのまま変わらないとすれば、気の滅入る仕事になる。事態のとんでもない深刻さを思えば、気候変動など全く起きてはいないと簡単に否定したくなるのもうなずける。特に化石燃料中毒の文明からうまい汁を吸っている連中はそうだろう。


長い地球の歴史において、化石燃料の使用による二酸化炭素排出量が過去最大規模であって、その影響が何もないはずが無いというのは子供でもわかる道理だと思うのだが。

温暖化が問題だと思われると正に「不都合」が生じる方々がいる。彼らはそもそも無関心な人や、だって今年は冷夏だったろうとか近視眼的な人々、日和見で操作されやすい一般大衆の力を利用することにしたのである。

そして生み出されたものは六つの段階があるという。


気候変動否定論の六段階
(一)本当は二酸化炭素は増加していない
(二)そうであったとしても、温暖化しているという信頼に足る証拠がないので、気候への影響はない
(三)温暖化していたとしても自然現象だ
(四)温暖化が自然現象として説明できなくても、人間の影響は小さく、温室効果ガスの継続した増加の影響は軽微だ
(五)現在と将来予測される人間活動の気候に及ぼす影響が無視できないとしても、その変化は私たちにとっておおむねよいことだ
(六)その変化が私たちにとってよかろうが、そうでなかろうが、人間は変化に適応できる。それに加えて、変化を何とかするにはもう遅すぎる。あるいは、適応することが本当に必要になった時には、技術的な解決策も見つかる


最近では太陽の活動周期の話なんかもあるね。活動低下時期は地球が寒冷化するのだという。しかし実際は気温変化と太陽の活動の明確な因果関係は解明されていない。しかも近年の二酸化炭素排出量の増大による温室効果を相殺するほど太陽の活動が低下したりするという話では全然ない。

地球温暖化否定論者たちは、重箱の隅をつつき、どうでもいいような話をまるで鬼の首を取ったかのような重大事として騒ぎ立てて現実に進んでいる事態を覆い隠そうとする。


 気候科学など政策に関係する科学で何か発見が報告されると、たちまちウソや当てこすりがはびこる。そのようなことをするのは、アマチュアのニセ懐疑論者ネットワークや、それ専門のPR会社、そして彼らと政治的見解を共有するメディア社会のメンバーたちだ。物事の整理を査読プロセスに委ねて素朴に満足し知的な判断をするためには、政策関連科学を公正に評価しなければならないのに、正式な回答が出されるまでの間に、まことしやかな批判によって科学者と科学、そして社会全体の信頼が傷つけられてしまいかねない。ある場面を思い出す。私の科学研究が議会で有名な気象変動否定論者によって上院で糾弾されたことを。それは、ほんの数日前に発表した私の研究に足してい加えれた重大な欠陥のある批判に基づいていた。


ニュースや人の言うことを斜めに聞き、読んでうかうかと鵜呑みにしたりしていると何時の間にかこういう連中の口車に乗ってとんでもない考えを植えつけられてしまうので要注意だというか恐ろしい話だ。この連中、つまり地球温暖化がデタラメだという考え方を世に広めることにどんな意図があったのか。

 私たち(や他の気候科学者)の研究に向けられた攻撃が2003年の夏までに最高潮に達したのは、偶然ではなかった。仕掛けられた攻撃には明確な目標があった。気候変動に立ち向かうことを目的とした実効性のある法律を2003年までに何とか成立させようとする動きを阻止することだ。米国上院ではジョセフ・リーバーマン(民主党、コネチカット州)とジョン・マケイン(共和党、アリゾナ州)が気候管理責任法案を共同提案していた。法案は、環境保護庁が温室効果ガスを規制できるようにして、汚染者からの温室効果ガス排出を抑えるために市場ベースの排出量取引をはじめることまで定めていた。本章ですでに述べたことだけでは収まらず、今度はホッケースティックに直接焦点を絞ったさらなる攻撃が、上院の重要な採決日である10月30日の前に行われることになった。


つまり世論を操作し都合の悪い法案が通るのを邪魔しているのである。これはタイミングが全てであって、その場がしのげればどうでもいい。後になってそのデタラメがばれても、出所などは曖昧で誰も責任を問われることもない。

だってそう報道されてたし、私はそれを信じていた。または私も騙されていた。私こそ被害者だとかなんとか。京都議定書のときもそんな動きがあったらしい。

そうでしょう。温暖化なんてない。実はエネルギー問題で都合の悪い法案が通ると困るので邪魔してました。なんて言う人がいる訳がない。

地球温暖化否定論を信じてるし、否定論者たちが手を組んでタイミングを合わせて気候学者を攻撃したりなんてしている訳がない。たまたまそうなっただけだと言うのであろう。お互いに連絡を取り合ったり利益を供与したりなんてしてる訳がない。そんな証拠が簡単に出てくる程杜撰な人たちではない。

本書に登場してくるすてきな面々。

●科学者?
フレッド・シンガー(Fred Singer)
フレデリック・セイツ(Frederick Seitz)
パトリック・マイケルズ(Patrick Michaels)
ジョン・クリスティ(John Raymond Christy)
ロイ・スペンサー(Roy Warren Spencer)
ロバート・ジャストロウ(Robert Jastrow)
ニコラス・ニーレンバーグ(Nicolas Nierenberg)
ウィリアム・ニーレンバーグ(William Aaron Nierenberg )
リチャード・リンゼン(Richard Siegmund Lindzen)
ティム・ボール(Timothy Francis "Tim" Ball)
クリストファー・モンクトン(Christopher Monckton, 3rd Viscount Monckton of Brenchley)
サリー・バリウナス(Sallie Louise Baliunas)
ウィリー・スーン(Willie Wei-Hock Soon)
クリス・ドゥ・フレイタス(Chris de Freitas)
ウィル・ハッパー(William Happer)

●経済学者
ロス・マッキトリック(Ross McKitrick)

●ラジオ・パーソナリティ
ラッシュ・リンボー(Rush Hudson Limbaugh III)
グレン・ベック(Glenn Beck)
ショーン・ハニティ(Sean Patrick Hannity)

●ジャーナリスト・メディア関連
アントニオ・レガラド(Antonio Regalado)
オットー・キニー(Otto Kinne)

●コンサルタント・ロビイスト・弁護士等
フランク・ルンツ(Frank Luntz)
フィリップ・クーニー(Philip Cooney)
マイロン・イーベル(Myron Ebell)
スティーブン・マッキンタイア(Steve McIntyre)
ローラ・ブラーデン・ドゥルガッツ(Laura Braden Dlugacz)
マーク・モラノ(Marc Morano)

●財団
ケイトー研究所(Cato Institute)
コークファミリー財団(Koch family foundations)
スカイフ財団(Scaife Foundations)
George C. Marshall Institute(ジョージ・C・マーシャル研究所)

●政治家
ジョージ・w・ブッシュ(George W. Bush)
ディック・チェィニー(Richard Bruce "Dick" Cheney)
ジョセフ・リーバーマン(Joseph Isadore "Joe" Lieberman)
ジョン・マケイン(John Sidney McCain III)
ジョー・バートン(Joe Linus Barton)
ジム・センセンブレナー(Frank James "Jim" Sensenbrenner, Jr.)
ダナ・ローラバッカー(Dana Tyron Rohrabacher)

この人たちがどんな所業をしていたのかは是非本書を読んでいただきたい。僕はこうした人たちが本当はどんなことを考えているのかには最早全く興味がない。突き詰めると自分の事しか考えてないことは間違いないからだ。

中には本当に無邪気に否定論を信じている人もいるのかもしれない。しかしその一方で本物のサイコパスも紛れ込んでいる気がする。世論を操作して大勢の生活を破壊することを目論んでいる巷に稀に表れるシリアルキラーなんか足元にも及ばない本物の「大量殺戮者」だ。

そしてまたこれは温暖化に関する話ばかりではない。タバコの健康被害の問題も同様だったらしい。そして原子力発電所の問題や放射能汚染。東電の企業責任ではどうだろう。

進化論やこの温暖化説のような本物の科学を否定しようとする抵抗勢力の問題は近年本当に深刻な状態になりつつある。

僕らは企業や政治の世界からこうした悪意をもって事を成そうとする連中を排除し科学をもって真偽を図る理性と知性をもって意思決定する仕掛けが必要だと思う。決してこれは対岸の火事でも他人事でもないのである。


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政治の起源-人類以前からフランス革命まで
(The origins of political order:
from prehuman times to the French Revolution)

フランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama)

2014/09/15:フランシス・フクヤマである。いろいろ批判も多い人なのだけれども、今でも「歴史の終わり」の考え方そのものは的を射ているものだったと思う。

それはつまり政治制度としての自由民主主義というものが人間の集団統治の形態として最も妥当で矛盾の少ない、つまり集団に属する人々の気概を満たし、権利を尊重する最も平等なシステムだとするもので、この自由民主主義という形態が我々の社会の最終到達点なのだという考え方だ。

「歴史の終わり」は、政治システムの進化形態を整理した上で、必ずしも直線的に進むとかいう訳ではなく、諸々の事情により後戻りしたりすることはあっても、究極的に最終的には自由民主主義に収斂していくはずだという事。それを「歴史の終わり」だと述べていたのだと思う。

そしてだから僕も同感だと。

一方で、中東地域での度重なる民主化の失敗。そして夥しい暴力の連鎖を生み出している紛争地域の広がりと長期化。アメリカ政府に顕著な極端な政治宗教の信条に基づく特定集団の利益を優先させる政策の実行。

我々は進化論や地球温暖化の論争が白黒つけられず、憲法改正や原発再稼動でもどこに民意があるのかわからないような政策意思決定が推し進められていく。そして格差。日本でもこの10年の間に不気味な広がりが進んでいるというのに明確な打ち手がないままだ。

老人や大人を敬え。それは確かにそうなんだけど、いつから子供や若者を大切にしなくていいことになったのか。

自由民主主義の限界なのか、修正可能な機能上の障害なのか、このシステムを使う側としての人間の意志や意図の問題なのか。

つまり自由民主主義そのものにも問題はある訳だが、一方で民主化に失敗している国家があり、民主主義だとしながらも人権が軽視されていたり、自由度が異なっていたりする国があるようだ。

こうした違いはどこでどのようにして起こったのだろうか。

本書はこの問いに答えるべく、政治のその本質的な起源にまで遡ってみてみようというものだ。

第1部 国家以前
1 政治の必要性
2 自然状態
3 姻戚の暴政
4 部族社会における所有権、正義、戦争
5 リヴァイアサンの出現

第2部 国家建設
6 中国の部族主義
7 戦争と中国における国家の台頭
8 偉大な漢システム
9 政治秩序の崩壊と世襲制の政府の復活
10 インドの経験した回り道
11 ヴァルナとジャーティ
12 インドの政体の弱さ
13 奴隷制度とイスラム教徒の部族主義からの脱出
14 マムルークがイスラム教を守った
15 オスマン帝国の機能と衰退
16 家族関係の弱体化を招いたキリスト教

第3部 法の支配
17 法の支配の起源
18 教会が国家になる
19 国家が教会になる
20 東洋の専制国家
21 定住する盗賊
第4部 政府の説明責任
22 政治における説明責任の誕生
23 私益追求者たち
24 海を渡った家産制
25 エルベ川の東で
26 完全な絶対主義を目指して
27 課税と代表
28 なぜ説明責任なのか?なぜ絶対主義なのか?
第5部 政治制度の発展の理論を目指して
29 政治制度の発展と衰退
30 政治制度の発展の過去・未来

本書も上下巻の長大なものだが、フランス革命までのお話で現代の政治に辿りつくまでの全体では三部作になるらしい。

フクヤマは起源をたどるために民主主義の制度を三つの要素に分けている。すなわち①「国家」、②「法の支配」、③「説明責任」である。自由民主主義がうまく機能する為にはこの三つが揃わないとだめで、更にそれが均衡している必要があるのだという。

自由民主主義への移行や移行後に問題を抱えている国はこれら三つのどれかが欠けていたりバランスを欠いたりしているからだ。そしてそれが備わらない、バランスを欠いたその起源というものの歴史的背景を探るという訳だ。

例えばインドと中国。


 インドと中国との間の二つ目の大きな違いは宗教であつた。中国では、王や皇帝の正当性を保証するための儀式を執り行うための職業的な司祭職が発達した。しかし、先祖崇拝のレベルを超える国家宗教が中国に出現することはなかった。司祭たちは皇帝の祖先を祀る儀式を執り行ったが、彼らが国家全体に支配力を持つことはなかった。王朝の終わりに皇帝が正当性を失ったとき、もしくは王朝が倒れて国が分立し、正統な支配者が存在しないとき、制度として、司祭が誰に天命が下ったかを宣言するということもなかった。この意味で、正統性は、農民から兵士、官僚の誰にでも授けられることが可能なものであった。

 インドにおいて、宗教は中国の場合とはまったく異なる役割を果たした。インド・アーリア部族がもともと発達させた宗教は、中国と同じく、先祖崇拝を基礎とするものだった。しかし、紀元前2000年ごろ、ヴェーダ文献が編纂されたあたりで、インドの宗教は、形而上的により洗練されたものとなり、世界のすべての現象を目に見えないある卓越した存在によって説明するようになった。新しく生まれたバラモン教は、血の繋がった先祖や子孫から自然すべてを包含する宇宙システムへと強調点を移した。この超越的な世界との接点はバラモン階級が取り仕切り、バラモン階級の権威は、王の血統だけではなく、もっとも階級の低い農民の来世でのよう生活を守るためにも重要だとされた。

勿論インドでは複数の宗教がまだらに広がってはいるのだが、国家宗教と呼べるものが中国では存在しなかった。この違いが三つの鍵となる①「国家」、②「法の支配」、③「説明責任」が根付きに影響を与えているのだという。

なるほど。世界史がちょっと違って見えてくる。

これらの物語は国家を構成する「国家」、「上級貴族」、「地主階級」、「第三分身」そして「農民」という登場人物たちの働きと力関係によって紡ぎだされる。

ややこしいもう少し整理して書くことができたのではないかという気もしないではないが、目の付け所はやはり只者ではない。

この切り口と尺度を持って様々な国々の変遷の歴史を辿る。
ローマ帝国、イギリス、中世ヨーロッパ、ラテンアメリカ諸国、そしてロシア。


 ロシア連邦は、とりわけ2000年代初頭にウラジミール・プーチンが台頭してからというもの、「選挙による専制体制」と政治学者に呼ばれるようになった。政府は基本的に独裁的で、政治家、役人、企業権益の闇のネットワークが支配しているが、民主主義的な選挙を行うことで権力維持を正当化している。ロシアの民主主義の質は非常に低い。政府は実質上あらゆる主要報道機関を支配しており、体制批判を許さない。対立候補を脅迫して資格を剥奪する一方で、体制側の候補者や支持者には利益供与を行う。

 民主主義の質よりもひどいのは、法の支配が機能していないことである。役人の腐敗を暴き体制を批判するジャーナリストは遅かれ早かれ命を落とすが、真剣な犯人探しが行われることはない。体制内部の人間に敵対的買収を仕掛けられた企業は、政府官庁から身に覚えのない容疑をかけられて資産の明け渡しを強要されることもある。政府高官ともなれば、殺人を犯したとしても責任を問われることなく罰を逃れることができる。世界各国の腐敗の深刻度について体系的な調査を行っている非政府組織トランスペアレンシー・インターナショナルによれば、ロシアは180カ国中、147位で、バングラデシュ,リベリア、カザフスタン、フィリピンよりも深刻で、かろうじてシリアや中央アフリカより少しましなだけである。


ロシアはけちょんけちょんであります。じゃアメリカ政府はどうなのかということなのだが、本書はまだフランス革命以前なので登場は第三部あたりか。果たしてどんな書かれ方をするのか

難しい、ややこしい本来はもっとじっくりと読むべきものだと思いますが今の僕にはこれが精一杯であります。


「「歴史の終わり」の後で」のレビューはこちら>>

「アメリカの終わり」のレビューはこちら>>

「政治の起源」のレビューはこちら>>

「リベラリズムへの不満」のレビューはこちら>>

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あんじゅう
宮部みゆき

2014/08/31:長かったのか短かったのか今日で8月もおしまい。娘も明日からは学校でちょっと憂鬱だったりしているようです。うむうむわかるわかる。僕は急激に涼しくなってちょっと体調が思わしくない感じですよ。しかも来週からはいよいよ中間期末また慌しい日々が続きます。

カミさんに勧められるままに読む宮部みゆきは僕の読書生活のなかでも重要な息抜き的安息の地であります。特に時代小説。多芸な宮部みゆきですが、時代小説に登場する人々の血の通ったというか暖かいというか、活き活きとした様子は現代小説とはなぜか一味もふた味も違う気がする。

折しもNHKでは「おそろし」のテレビドラマが放映されていた。さっきカミさんと二人で鑑賞しました。おちかちゃんをはじめ三島屋の人々を演じているは皆上手に小説世界の雰囲気を醸し出しているなーと思いました。ドラマ自体もとても良くできていて面白かったですよ。

本書「あんじゅう」はこの続編にあたる。

三島屋は神田にある袋物屋。主人が若い頃から一代で築いたお店でそれこそいろいろ苦労があったが、その甲斐あってとても繁盛しているお店であった。

おちかはここの主人の姪だが、故あって実家の川崎にある旅籠屋から奉公にきていた。許婚の相手が幼馴染の男によって殺されたという事件があったらしい。失意と罪悪感に苦しむおちかを不憫に思った三島屋の主人が江戸で引き受けた形なのだろう。

三島屋には黒白の間という客間があった。本来は三島屋のご主人が囲碁を打つ道楽のための部屋であった。「おそろし」では黒白の間に招いた客からおちかが本来は他人にはそうそうと話せない心の奥にしまいこんである奇怪で不思議な話を聞き、その相手の業のようなものを解き放つような事があったらしい。

語った客にせよ、これを真摯に聞き入るおちかにせよ、語り聞くことで心のわだかまりを落とすことができるのではないかと考えた主人は、同様に奇怪で不思議な話を語りたいが語れずにいるような人を密かに招き聞き捨てることを条件に話をしていただくことになったのだった。

目標は百の物語を集める事。副題「三島屋変調百物語」はここからきているタイトルなのでありました。

僕は「おそろし」をまだ読んでいないし観ていないので、おちかの許婚が殺されるに至る経緯はまだよくわかっていない。しかしどうやら単なる事件ではなく、背後になにかやはり奇怪なものが関わってきているらしい。白黒の間に訪れる客はおちかの経験と共鳴するかのように自らの経験を語ったりする訳だが、やはり彼らと関わっていたのは人間ではない何者かであったりする話な訳だ。

一編一編のお話では、こうした客の語る過去の物語。やってきては語りそして去っていく客の物語、そしてゆったりと流れる三島屋の物語という三つのお話が交錯していく複雑な構造をもっている。

これらの時間軸の異なる物語をうまい具合に編み上げて一編の作品として出してくる宮部みゆきの手練手管というものには最早一種の職人芸のような味があると思う。そして何より作品全体に通じる。鋭い棘のない心地よい流れ。これはある意味「赦し」のようなものなのではないかと僕は最近思えてきた。

本編にしても他の宮部みゆきの作品にしても、人殺しも含めた何がしかの犯罪が題材になっているものが多く、それにはやはり私利私欲、嫉妬や私怨といったものが動機となっていることもある。しかし人の世はそうした本来許されぬ行為も全部ひっくるめて人の世であって、残念なことではあるのだけど悪い部分だけを取り除いたり消し去ってしまったりすることはできない。こうした闇の部分を「魔」の部分として受け入れる寛容さのようなものを感じるのだ。

序 変わり百物語

第一話 逃げ水

第二話 藪から千本

第三話 あんじゅう

第四話 吼える仏

社会は近年ますます複雑化し、利害関係が入り組んでややこしい。現代社会に「魔」を持ち込んだ小説はうそ臭くなってしまうが、時代小説の設定では何故か自然に受け入れてしまう僕らがいる。

物語の背後に浮かび上がる「魔」におちかと一緒に畏れを抱きつつも自分自身の内面を見つめなおすことでこの「魔」と折り合う、または遠ざけることこそ、現代人の我々が望んでいる事。物語を通じて宮部みゆきは我々の「魔」を払おうとしているのではないかなかとすら思えてくるのでありました。

お旱さん、あんじゅう等、なんとも身近でその力も強烈すぎない、荒々しさのない、だからこその僕らの現実世界に働きかける何ものかを持った世界観が広がっていると思うのであります。

百物語の成就を心より祈念しております。


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かもめのジョナサン(Jonathan Livingston Seagull)
リチャード・バック(Richard Bach)

2014/08/17:若い頃にリチャード・バックの「イリュージョン」に出遭って人生が変わったと思う。僕らの世代には同じような体験をしたと感じている人が大勢いるらしい。うすっぺらで挿絵なんかも大きく入ってあっという間に読み終えてしまうような小さな本によって夥しい人々が影響を受け、人生の軌跡を変えていくというのは凄いことだと思う。

スティーヴン・キングが言う「テレパシー」そのものだ。

勿論「かもめのジョナサン」も何度も読み返してきた。しかし、「イリュージョン」や「王様の空」とは異なる割り切りにくい部分が本書にはあった。

あとがきでは訳者の五木寛之自身が「違和感を覚える」と述べている。ベストセラーとなり映画化もされているような本を翻訳しておきつつ「違和感」というのもまた凄いスタンスなんだけど。

飛ぶことそのものに価値を見出したかもめのジョナサンは只管早く巧く飛ぶこと、自分の限界を超えんと、寝食を忘れて飛行訓練に明け暮れていく。

家族や仲間達の群れから異端者として追放されて尚、より高く早く飛ぶことを目指し夕暮れの空を飛ぶジョナサンの前に表れるのは「星の光のように清らかで、夜空の高みに優しく心をなごませるような輝きをはなつ高次元のかもめたちだった。

物語は静謐で抑揚もない。そして具体的な説明もない。

ジョナサンは死んだのか。高次元のかもめたちは何かの比喩なのか。

アメリカでは最初に西海岸のヒッピー達に受け入れられたという本書の生い立ちも、確かに五木寛之が指摘してるようにこの物語は確かに何か不可解なものがあった。

「王様の空」も大好きだ。翻訳者の中田耕治によるあとがき。


 ヘミングウェイの終わったところから継続させようとした「鍛錬」(ディシプリン)の文学なのだ。ヘミングウェイが大学に行かずに、戦争に行ったように、バックは大学を中退して空に行った。バックの場合は、空を飛ぶための鍛錬がきびしければきびしいほど、孤立して、ときには傲慢にさえ見える態度をとっている。

リチャード・バックの本は一貫して鍛錬・精進がテーマなのだ。

ジョナサンもドナルド・シモダも限界を超えんとして鍛錬・精進に努める者たちだった。そしてそれは「王様の空」で独りヨーロッパの夜を飛ぶクーリエ、サンダークリークを操縦するパイロットのリチャード・バックも同様なのだ。飛ぶことが好きで、巧く飛ぶために試行錯誤を繰り返し己の限界を超えていくことに喜びを見出している者なのだった。

パイロットがその腕を認められて新しい飛行機を任されるように、ジョナサンも新しい次元のかもめたちに出会うことでより高次元の飛行性能を自分のものにする。それまでいた次元の感覚では奇跡か魔法としか思えないスピードと運動性能で飛ぶジョナサン。しかし、その新しい体もやはり限界がある。かもめの次元には更に上位の次元が存在するらしいのだ。

五木寛之はあとがきで述べている。


 しかし、この物語が体質的に持っている一種独自の雰囲気がどうにも肌に合わないのだ。ここはうまく言えないけれども、高い場所から人々に何かを呼びかけるような響きがある。それは異端と叛逆を讃えているようで実はきわめて伝統的、良識的であり、冒険と自由を求めているようでいて逆に道徳と権威を重んずる感覚である。

この読解力には脱帽するしかない。先の中田耕治にしても五木寛之しても驚く程明晰に本を読んで理解している。だからこそ本を読む意味があろうというもので僕のようにぼさっと読んでいるというのはもしかしたら読んでいる時間が無駄だったりしないのだろうかと不安になる程だ。

しかし、「イリュージョン」を経て「かもめのジョナサン」を読んでいる僕としては、五木寛之が懸念する程、高いところから何かを訴えている訳ではないし、お説教だったり権威に阿る部分があったりするわけではないことが前提としてわかっている。

自分がやりたいと思った事、好きなことにとことん打ち込む。皆が今持っている限界は、何時かそれを破るものが現れて、限界というものが実は思い込みであったことが明らかになる。だから無理だ出来ない等と最初から諦めてはいけない。

強く願ってできると信じれば草原を泳ぎ壁を抜けることだってできる。という寓話。

湖を歩き草原で泳いだり、壁を抜けたりできると信じることは無理だとしても、身近な自分自身のやりたい事ができるようになると信じてみるというのは、とてもポジティブで人生を豊かで実りあるものにする一つのコツのようなものだと思う。

僕はリチャード・バックの一連の小説をこのように捉えている。

そして40年以上が経過した今になって追加されたチャプター4。当時の本はチャプター3で終わっているが、実はチャプター4は最初からあったが出版時はこれを省いた形で出版していたのだという。僕の本棚の奥に仕舞い込んでいた文庫本は1977年(昭和52年)のものだった。

「かもめのジョナサン」を読むのは十年ぶりぐらいだろう。

驚いた。こんな展開をみせるとは。

奇跡を行ったジョナサンは弟子達によって神格化され偶像化されていく。しかしそれは違うと。実はこの切り口は「イリュージョン」でも描かれている部分なのだが、「かもめのジョナサン」そのそれはずっとずっとシュールだ。

そして今。何故今になってこの部分を追加してきたのか。

本人が飛行機事故にあって危うく命を落とすところだったということもあったろう。しかし、僕はそれよりもアメリカ国内で広がってきているキリスト教原理主義的な思想・信条に対する警鐘なのではないかと読んだ。

神を信じて疑いを持たず、教会で祈りを捧げることにエネルギーを注ぎ込み、伝統的な世界観を守るために科学的な原理や思考に背を向ける人たちがいる。

世界がたかだか4千年前ぐらいに天地創造によって創られたなどということを頑迷に信じて教義や儀式に自らを拘束してがんじがらめになっている人たちの世界に「ノー」と言っているのだと。

40年前にこれを書いていたというリチャード・バックはやはり只者ではなかった。


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空白の天気図―核と災害1945・8・6/9・17
柳田邦男

2014/08/03:8月に入ろうという時期になると思いが向かうのは原爆であり、終戦であり、台風だなーと。そんな関連の本を探していていきあたったのが本書。

なんと三つ揃ってる。

柳田邦男の本は知っていながら、あまり読んでない。

しかもこれは彼がNHKを退社し本格的な作家活動を始めた最初期の本だった。

あとがきにはこんなことが書かれていた。


作品としてのノンフィクションとは、単なる取材の記録でもなければ、事実の羅列でもない、ノンフィクションにおける作品性とは、その歴史的真実の部分に関して、読者の心の中にどれだけ澱を残すことができるかにかかわっていると。


正に、だからこそ僕らはノンフィクションの本を読み漁ってきたのだ。何でこんなに重要な作品をスルーしてきてしまったのか。あまりにも重たい内容でありながら、読むのがやめられない。

メインの題材は枕崎台風だ。枕崎台風は1945年9月17日(昭和20年)に鹿児島から日本を大きく縦断した大型の台風で、室戸台風、伊勢湾台風と並ぶ昭和の三大台風のひとつ、上陸時の中心気圧は916.3hPa最大瞬間風速75.5mという正に記録的な大型台風であった。

特に広島では原爆投下(1945年8月6日)から僅か43日後で、予測も準備もないままに直撃されたことで
その被害は甚大なものとなった。

原爆投下前の広島の人口は約35万人程であったらしい。これが原爆によって2~4ヶ月の間で9万~16万6千人が死亡。放射線被爆による病気や爆風による熱傷や外傷者は夥しい数にのぼる。

広島は通信も交通物流も寸断され、薬や治療はおろか食料も水の支援も行き届かない。正に孤立した状態になってしまったのだ。

特に放射能症は当時なんの知識もなかったことから被爆は拡大し、治療もできず人々はただ苦しんで亡くなっていった。

あまりにも悲惨で正に地獄のような状況。

しかし、不思議なことにそこに怒りや憤りはない。

そういう時代であったということか。

枕崎台風は正にその渦中に襲い掛かってきた。

大戦末期の日本があり、気象観測にかける魂、精神があり、未曾有の事態に立ち向かう、我々のような市井の人々がいる。

気象台員たちは後日原爆投下時の風速計の記録を発見し、爆風の風速を計算してみる。
爆風は風速計の測定の限界を超えていた模様で実際の数値は不明としながらも、少なくともその風速は約700m。音速の二倍だったという。

何故、ドイツではなく、日本に、しかも広島はウラニウム型原爆、長崎はプルトニウム原爆という異なる爆弾を落としたのか。長崎の原爆は広島の1.5倍の破壊力があったらしいが、何故ここまで強力である必要性があったのか。

確かにそういう時代であったのかもしれない。いや時代を超えて戦争とはつまりそういうものなのだろう。
戦争に突入したという大きな過ちも含め日本人だからこそ、わかる戦争の悲惨さ愚かさというものがあると思う。

しかし日本でも、国際社会でも、今それが薄れつつあるのではないか。南京虐殺問題、慰安婦の問題等、戦争責任という考え方を断ち切ろうとしいている連中、憲法改正や集団的自衛権の名の下に暴力を拡大しようとしているのか、軍需で儲けようとしているのかわからないけど騒いでいる連中。その多くは既に本当の戦争を知らない世代となっている。

彼らは決めるだけで、実際に行って戦うのはずっとずっと若い世代の人々だ。具体的にそんな事が起こった頃には決めた連中は場外に退場して悠々自適に暮らしているのだろう。

長期的視野を持たないその場の損得で動く今の政治家にこのような意思決定をさせているとろくなことにならないというのは民主政治の一つの限界なのかもしれぬ。

2011年、文書で復刻された本書にはあとがきが更に追加されている。

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、東北・関東の太平洋沿岸部に巨大津波による大被害をもたらしただけでなく、東京電力福島第一原子力発電所の四つもの原子力発電プラントを壊滅的な状態に追い込んだのだ。そして放射能の危機にさらされた広範囲にわたる地域の住民は、家を捨て、家畜を捨て、田畑、山林を捨て、故郷を捨てたに等しい状態で避難を強いられることになった。

あの広島・長崎の原爆被災から66年、チェルノブイリ原発事故から25年、日本人はあらためて核の危機にさらされている。核兵器と原発は違う、核戦争と原発事故は違うと、様々な専門家は言う。だが、放射能の被害を受けた者の悲愴を見るなら、違うところなどない。生命を奪われ、生きる場を奪われるという点で、何の違いもない。


暴力の行使が際限なくエスカレーションしてしまうのは今のこの世界を眺めれば自明のことで、しかも我々は有史以来最強の破壊兵器を抱え込んでいる。暴力は無差別大量破壊兵器の使用に一直線に繋がっている。

そして原子力発電。狭く地震の多いこの日本はこれほど沢山の原発の面倒を見る能力がないことは東日本大震災の事態の展開を見れば明らかだ。

懸念されるのは天災だけではない、事故、事件、原因がなんであれ、ひとたび暴走しはじめたら、広範囲で多大なる影響が生まれるのだ。

それでもまだ前進しようとしている人たちは。世の中をどうみているのだろう。

今の政府や政治家たちの言動に憤らず、怒らず、行動に移さなければ、戦前・戦中の人々の命や受けた経験から何も学べなかったということになりはしないだろうか。


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エドワード・サイード 対話は続く
(EDWARD SAID Continuing the Coversation)

ホミ・バーバ (HOMI K. BHABHA)、
W・J・T・ミッチェル (W. J. T. MITCHELL)他

2014/07/27:ガザ地区のハマスとイスラエルの衝突が続き死者はガザ側だけでついに千人を超えた。今朝の報道をみると、人道的停戦の合意がなされた模様だ。武力もその被害も圧倒的不利にあるハマス側がイスラエルからの停戦協定をなんども蹴っている感じだ。その停戦協定の詳細は伝わらないのでわからないけれども、ハマス側が完全に我を忘れて憤っているとかでない限り、相当不利な条件を突きつけられていると考える方が普通だろう。

政治的にも人道的にも不気味に歪んだ不均衡がそこにはあると思う。単にガザ側の死者の数をみればイスラエルの攻撃がいかに非人道的であるかは明らかだと思うのだが、国連を含めた国際社会は無力だ。

日本政府もほぼ沈黙を続けている。北朝鮮が海にミサイルを発射して騒いでいる事と比較してもその扱いの不均等さには気味の悪いものがある。単にアメリカ政府の顔色をみながら反応しているだけでもなさそうなところがまたほんと気持ち悪い。

人が何を信じているのかという部分は、その人の前提となる訳だが、その信念の正しさというものは必ずしも科学的・理論的なものではない部分があって、そこが食い違っている場合双方が相容れることがいかに難しい事なのかということを強く実感するところだ。

エドワード・サイードが亡くなったのは2003年の9月の事だったそうだ。僕が彼の存在を知ったのはその死後だいぶたってからだった。ノーム・チョムスキーやサイードの存在を知り、その著書に触れることで浮かび上がってきたのは世界で推し進められている不均等・不平等の拡大であり、その先鋒を走り続けているアメリカ政府の姿だった。世の中が正に違って見える。これまでどうしてそうした事に全く気づかずに生きてきたのかというような驚き。

本書はサイードの死後、彼と長年親しくしていた人々に呼びかけて途絶してしまったサイードとの対話を続ける形で彼との議論や思い出を語ってもらうという主旨で編集されたものだ。

今この現状をみたサイードは果たしてどんなことを述べるのだろうか。そこまで期待するのは無理だとしても、晩年サイードがどんなことを考えていたのかに触れられるかもしれないというのは時節に合ったものである気がした。

目次

エドワード・サイード 対話は続く  W・J・T・ミッチェル(W. J. T. Mitchell)
アダージョ  ホミ・バーバ(Homi Bhabha)
政治、パレスチナ、そして友情について――エジプトからのエドワードへの手紙  ライラ・アブー・ルゴド(Lila Abu-Lughod)
区別を解釈する  アキール・ビルグラミ(Akeel Bilgrami)
対話を続けること  ポール・ボヴェ(Paul Bove)
決断  ティモシー・ブレナン(Timothy Brennan)
ホミ・バーバ、ノーム・チョムスキーと語る  ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)
転回  ランジット・グハ(Ranajit Guha)
種々の出来事が同時発生的に結びついてできあがった痕跡――サイードの「財産目録」  ハリー・ハルトゥーニアン (Harry Harootunian)
サイード、パレスチナ、そして解放の人文学  サリー・マクディーシー(Saree Makdisi)
世俗的神仙――エドワード・サイードのヒューマニズム  W・J・T・ミッチェル(W. J. T. Mitchell)
グローバルな比較主義  アーミル・R・ムフティー(Aamir R. Mufti)
エドワード・サイードとの対話  ロジャー・オーウェン(Roger Owen)
ボンベイのエドワード・サイード  ギャーン・プラカーシュ(Gyan Prakash)
遅れてやってきた占領、早められた軍国化――サイードによるオスロ合意批判再考  ダン・ラビノヴィッツ(Dan Rabinowitz)
シオニズムの問題――対話を続けること  ジャクリーン・ローズ(Jacqueline Rose)
エドワード・サイードについて考える――回想記から  ガーヤトリー・スピヴァク(Gayatri Spivak)
巨匠(マエストロ)  ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim)

ノーム・チョムスキー


 基本的に、PLOの戦略はばかげているということでした。もしあなたがちゃんとした人に対して道徳的に説明のつかないような行為を行うとしましょう。そうしたら、あなたはどんな支持も得られない。いかなる支持も得られるはずなどありません。それはまず道徳的に言語道断であり、それに政治的愚策なのです。わたしが言いたいのはこうです。イスラエルに国境地帯に進んでおり、ミズラヒム、つまりアラブ諸国出身のユダヤ人を国境地帯に押し出していました。貧しい労働者階級の人々です。PLOがテロを仕掛けた相手はこうした人たちだったのです。アラブ諸国からやってきた貧しいユダヤ人を攻撃するなんて、道徳的な問題は措くとしても、政治的になんという愚策なのでしょうか。それでどこかから支持を勝ち取れるというのでしょうか。

サリー・マクディーシー

 自己たるシオニストと他者たるパレスチナ人を対立関係に置くのは、はじめから政治的シオニズムにとって本質的なものであった。そして今日まで、それはイスラエルという国家の実践や政策のなかに制度化されたままであった。そうであるならば、土地なき民に民なき土地を見つけるというシオニストの空想が、パレスチナ人という民ある土地の(少々厄介で不都合ではあるが)厳然とした事実と衝突したときに、最初期のシオニストたちが非妥協的であったとしても、それはほとんど驚きではなかったはずだ。政治的シオニズムの父であるテオドール・ヘルツルはこう書いている「一文無しの原住民たち」は、ヨーロッパからやってくるユダヤ人移民のためのスペースを作るべく、ひたすら「たたき出され」なければならないのだと。


ダン・ラビノヴィッツ

 1980年代末と1990年代というのは、イスラエル/パレスチナ紛争の歴史において、もっとも運命的な局面のひとつとして際立っている。そしてまたもっとも適切に理解されていない局面のひとつでもある。1987年末のインティファーダ、つまり1967年以来のイスラエルによる西岸とガザ地区の占領に対するパレスチナ人の最初の重要な抵抗から始まるこの局面を最初に形づくったのは、(1988年の)アルジェでパレスチナ民族評議会(PNC)が行ったイスラエル/パレスチナの二国家案を採択するという決議であった。その当時エドワード・サイードはヤーセル・アラファトに近いアドヴァイザーであったが、PNCがこの歴史的な飛躍を行うにあたって決定的な役割を果たした。後にわかることだが、いろいろな意味で、この決議は主要な政治プロセスに影響を与えるサイードの力が絶頂にあったことを示している。

 第一次湾岸戦争とその後の1991年のマドリードにおける国際会議は、右派リクード政権下にあったイスラエルをヨルダン、シリア、レバノンとは公式に、そしてパレスチナ代表団とは間接的なかたちで交渉させることとなった。これはいまだ多くの人が恒久的な平和と結び付けているが、しかしその後、暴力によって潰え、さらにその暴力と混同・同一視されるようになってしまった10年間の始まりの合図となったのだ。この暴力とは、2000年9月以来この地域の特徴さされてきたものであるが。

(~中略~)

 サイードが生涯をかけて明らかにしようとした二つの泥沼に足を取られた現場の関係者によってなされたものであるが、その二つとは、ゆがんだかたちで網の目状に広がるアメリカの力と、中東に対するワシントンのアプローチがもつ呆れるほどの無知と無関心である。


本書ではサイードのヤーセル・アラファトのアドヴァイザーとして中東の和平に尽力をしつつも、アラファトの狡猾さやPLOの腐敗に失望し、更には和平そのものも暴力に暴力が積み重なることによってなしくずされていったことに対する深い喪失感がひしひしと伝わってくる。なるほどそうであったかと。

そしてまた、間に挟みこまれている文学や音楽に対する深い造詣。正に偉人そのものの。彼をして成しえなかったパレスチナ問題は果たして今後どのような展開をみせていくのでしょう。

最後にチョムスキーの一言をもう一つ。


 難民の問題、これについて言うと、わたしの意見はパレスチナ人の友人、親しい友人たちとは非常に違っていました。長年感じていたことですが、わたしはずっと彼らが聞きたがらないことを彼らに聞かせようとしてきました。つまり難民を前にして、偽りの希望を広げて見せてはだめだということです。レバノンの難民キャンプで悲惨な状況にある人々に、家に帰る希望があるなどと、ありもしないことを語るのは正直ではないし、不道徳です。だって、事実はそうではないのだから。第一に、それは国際的な支持がない。さらにあまり想像できませんが、国際的な支持を得られる状況が生まれたとしましょう。しかしそれを妨げるためなら、イスラエルは最終兵器を使うことでしょう。それが必然的に自分達の地域を破壊するような凶器の使用ということになったとしても、1950年代からすでにサムソン・コンプレックスと呼んでいたものですね。もしパレスチナ人の帰還を受け入れることを強いられたならば、彼らはそれを阻止するために可能なかぎりすべての手段を使うだろうということです。しかしそれ以前に、支持が生まれる様子はまったくないのですから、そんなことは起きそうにありません。いいですか。両者が同化するということ、それは無意味です。それはひたすら起きない。起きないということがわたしたちにはわかっています。二国のあいだでの進展を通じて、両方を統合して、連邦、そしてなにか新しい国家に移行することによって、それは実現することもあるでしょう。もしかすると実現することもありえはします。しかしそれは短期間の解決策の一部ではありえない。この点で、わたしは友人のほとんどすべてと意見が違うと言わなければなりません。


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アメリカの地下経済
(Off the Books:
The Underground Economy of the Urban Poor)

スディール・アラディ・ヴェン・カテッシュ
(Sudhir Alladi Venkatesh)


2014/07/21: 本書はシカゴのサウスサイドに内在するゲットー、通称「ブラック・メトロポリス」に取材し、そこに暮らす人々によって生み出されている経済活動のネットワーク。合法的で一般的な社会で営まれているものとは隔絶された生活様式を探り出したものだ。

シカゴの黒人は数を増すにつれて「ブラック・メトロポリス」を形成した。マーキーパークはサウスサイドの大きい黒人集住地区の一部となり、新しい住民もシカゴ生まれの黒人も、大都会の喧騒のなかで安らぎと機会と居場所を見出した。しかし、近隣の白人と白人政府による人種差別のせいで、黒人は概して市の大半の地域から締め出されていた。彼らは陳情し、抗議し、正等な待遇を求めて闘ったが、その反動もあってエネルギーを内に向ける者たちがいた。マーキーパークと近隣地域は都市のなかの平行世界になった。シカゴの機構とよく似た黒人住民のみのための機構が発達したため、シカゴの一部でありながら周囲から隔絶した別社会が生まれたのである。これが当時、都市のなかの都市と呼ばれたものだ。


著者のスディール・ヴェンカテッシュは1966年生まれのアメリカインディアンで、コロンビア大学の社会学の教授。シカゴの大学院生だった1990年代前半にシカゴのワーキングプアの人々の暮らしぶりを取材するために実際にその地に出入りし研究をするようになったのだという。

人々との交流を通じて、見えてくるのは一般的に云われている、理解されている単純なモデルではなく、聖職者から犯罪者まで本当にあらゆる人々が複雑多岐にネットワークで繋がった社会であった。

人種問題や貧困問題に対するシカゴ市の動きをはじめ、ストリート・ギャング達の企業化や抗争、非合法取引で暮らす人々の縄張り争い等。常に共鳴震動しつつも強かにしなやかに生きる人々の姿を浮かび上がってくる。

ワーキングプアと云えば、バーバラ・エーレンライクの「ニッケル・アンド・ダイムド」に描かれたような複数の仕事を掛け持ちでこなしてもまだ暮らしていくのが困難な状況にある人々の状況を思い描いていたのだけれども、このスディールの本で「ブラック・メトロポリス」に暮らす人々はまた様相が大きく異なっていた。


このような間近な将来についての展望は、地下経済に支えられたもっぱら現実的な考え方をもとにしている。家計を安定させるには、その手段を闇の商売に求めるしかない。女性たちはサービスの対価を労働で払い、地域の金貸しから借金し、洗濯用品や下着から家具や家電製品まで、物やサービスをストリートで購入する。サウスサイドの主な大通りには、そうした品物を売り歩く者が必ずといっていいほどいる。このようにして暮らす人々の日常を、外部の人間は「生きるための戦略」と呼びたがる。「やりくりする」ための無数の判断と工夫のことだ。しかし、生きることだけが目的ではない。マーリーンもバードもユーニスも、貧困と制約にふりまわされるだけで、人生に夢も希望もないなどとは思っていない。現在の苦しい環境は、社会移動の余地がある証拠だと考えているのだ。日々の生活ぶりを「ハスリング」「どうにか食べている」「その日暮らし」などと表現するが、ゲットーの「日常生活」を指すこのような決まり文句は、彼女たちがどんな人間で、とのように生きているかを的確に表してはいない。マーリーンらは計画を立て、選択肢をくらべて代案を考え出し、投資と蓄財の作戦を練り、倹約と犠牲について考える。彼女たちにとって、社会移動は必要と理想、切実さと夢から産まれるのである。現在の窮状を切り抜けようとして下す判断は、その苦労がすっかりなくなった将来を手に入れたいという渇望からきている。人生と家庭、差し迫った必要と望んでいる将来に対する彼女たちの心づもりがわかれば、毎日の暮らしをかたちづくる一つひとつの判断の裏にどんな思惑があるかが理解できる。

彼らはそもそも正規の経済活動の範疇の外側に居り、それは麻薬取引や売春を生業とする犯罪者ばかりではなく、食事や家電の販売から路上で車の修理を請け負う者のような商品・サービスの提供者、そして更にその顧客。顧客の多くはその対価を「物」や「労働」で払うのだ。


地下社会・闇取引


薄暗く・危険な気配が常に漂う響きだが、政府や自治体・警察からの援助や保護が行き届かず、金融機関からの信用も全く受けられない人々の暮らしでは、このような形態に頼らざるを得ない。ゲットーではそのような取引が日常的に行われている社会なのだった。


目次
プロローグ
第1章 地下経済に生きる
第2章 家庭生活
第3章 事業者
第4章 ストリートハスラー
第5章 聖職者
第6章 わが街のギャング
第7章 裏社会が変わるとき


これは貧困国の貧しさや中興国の大都市周辺に広がってきたメガ・スラムともまた様相の異なるもので、ゲットーがゲットーたる所以としてそこには根深い差別と格差が、外の世界との間に横たわっていた。
日本にはこのような面で広がる格差や貧困はまだ現実化していないと思う。しかしわからない。もしかしたらもうそんな場所があるのかもしれない。

現代社会にある貧困問題は大きな社会問題であるのにも関わらず、社会全体の問題意識として認識されにくいのは、それ自体が恥ずべきものとしてなかなか前面に出づらいという性格と当事者またはそれに近しい人々以外には気づきにくい、実感を持ちにくいという性質があると思う。

しかし、人類全体でみるとこの貧困問題は、直接地域的な格差の拡大そのものであり、スラムとよばれる社会インフラがないかほとんどない状態の街に数万人規模で暮らす人々の数がこの半世紀で爆発的に増大してきた。

マイク・デイヴィス「スラムの惑星」に描かれていたように、格差拡大はじわじわと国境を越えて国内に入り込んできており、先進国と呼ばれる国々の国民の間での格差も広がり続けており、それは日本でも例外ではない。

病気や怪我や失業などで収入の道を絶たれてしまうことで陥る貧困というストーリーではなく、極々一部のほんの一握りの人々が富の圧倒的大部分を占有してしまうことによって起こる貧困なのだ。

こうした同じ地域に暮らす人々の格差拡大によって、人間関係や都市の機能そのものが変化していくのだが、こうした変化はゆっくりと起こりその意味合いに気づくのはずっと後になってからだったりする。

なので社会がそのような形で変化していくことに我々の大半は気づかないのだ。

要塞都市LA」は1990年に書かれた本であったが、その都市の変化に対する先見性から「予言の書」と呼ばれた。掻い摘んで言ってしまえば富裕層は自宅を、そして自分達の住む区画を、政府は警察や裁判所などの公共施設を徐々に要塞化していくという話だ。信頼のおけない悪意を持った者が不法に侵入し、占拠し、破壊や窃盗を行うことから守るために守りを固めるのだという訳だ。

最近、脱法ハーブと呼ばれる合成麻薬を吸引や飲酒・泥酔状態で運転して起こす事故や事件が目立つようになってきた。事件や事故に巻き込まれてしまった人はかわいそうとしか言いようがない。加害者の罪は決して購えるものではないと思う。

ちゃんとした仕事に就いていないらしい彼らのような人たちの居場所。彼らの価値観や彼らの世界観というのは僕らには見えないところに広がってきているという事なのではないだろうか。

この貧困問題は日本という国をばらばらにしかねないと思う。僕らと僕らの子供達の将来のためにも、行き過ぎた格差を是正し、きちんと弱者を救済できる国を目指していかなければと考えます。


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二流小説家(The Serialist)
デイヴィッド・ゴードン(David Gordon)

2014/07/13:結論から言うとすごい好きなタイプの本でした。十二分に面白い。中盤ややなかだるむ部分もありましたが、なんだかんだやめられないとまらない。時折割り込んでくるB級小説の断片に心引かれるものがあるし、でてくる登場人物はおろか作者本人も今ひとつ信頼できないという設定も絶妙。そして期待通り読者を裏切り続ける手練手管に最後まで楽しく翻弄されました。

読書メーターに登録しに行って驚いたのは本書の読んだ人の数が2300を超えていたからだ。マイクル・コナリーの本だって200とか300だよ。トマス・ハリスの「羊たちの沈黙」が1600だ。羊がだよ!!

僕が読んでいる本で読書メーターが1000を超えてるのは「のぼうの城」とか宮部みゆきの本くらいで、あとは「聖☆おにいさん」とか「テルマエ・ロマエ」のようなコミックばっかだ。

「二流作家」の2300が突出していることはこれでおわかりだろうか。そしてそのレビュー。ざっと半分が「期待はずれ」とか「好みじゃない」みたいなことが書かれている。

なんじゃこりゃ。

そこで気づいたのは明らかに本がつまらないのではなくて、間違った場所にきちゃった人たちが大勢いるのだということだ。「二流小説家」どんなプロモーションをした結果なんだと。

実は僕はこの記事を書いている今この段階まで本書が映画化されていることを知らなかった。つまり今びっくりしながら書いている訳だが、なんと邦画で映画化されていたのでありました。

2013年に公開された『二流小説家 シリアリスト』は主役を上川隆也、連続殺人犯で死刑囚のダリアン・クレイに当たる役を武田真治が演じているのだ。

確かにタイトルが同じ。僕は全く繋がってなかったわ。どこまで驚かしてくれるのかこの本は。

予告編を観てみましたが、大筋は原作を踏襲しているようだけれども主人公も連続殺人犯もかなり美的な描かれ方をしており、原作の主人公はなよなよしていて頼りなく、書いている本はどれもどうしようもなく低俗、殺人犯は徹底した下種な男であるといった「毒」のある部分は丁寧に漉しとられている感じを受けました。

映画化されたことでどっと読者が流れ込んできて、しかもそれが上川隆也や武田真治なんかのファンの方であったりしたら、「こりゃ趣味にあわん」と、そりゃそーだろうな。そんな感じはよくわかる気がするよ。

しかもそこに挿し挟まってくるB級小説の低俗なエログロ。勝手な想像だけど上川隆也や武田真治なんかのファンの方々にとっては最も嫌いな角度じゃないかと。

楽しんで読んだ僕のような者ばかりかあらゆる読者を裏切るという点こそ本編の仕掛けの上手さなのではないかなと思う。

SFやバンパイアやものだったり、マッチョな黒人探偵の話だったりというB級小説から、連続殺人犯の残忍な独白までを見事に操るディヴィッド・ゴードンの文才は只者ではないと思う次第であります。

そしてふと主人公の口を借りてこんな事を言う。


もし作家を夢見て鉛筆を削っている者たちに対して僕が述べ伝えることのできる掟がひとつあるとしたら、これがそうだ---読者のいやがる場面を書くとき、いや、何より自分自身が不快に感じる場面を書くときこそ、作家はどこより力を入れるべきなのだ。


果たしてこのゴードンが不快に感じている部分とはどの部分を指しているのか。信頼できない作家と読者の危うい関係というのがわくわくするものだというところがわかるだろうか?

わかる人にはわかると思う。どうだろう本書の内容にはできる限り触れずに書いてみたけども伝わりますでしょうか。


「ミステリガール」のレビューはこちら>>

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超大国の自殺―アメリカは2025年まで生き延びるか?
(Suicide of a Superpower: Will America Survive to 2025? )

リパトリック・J・ブキャナン(Patrick Buchanan)

2014/07/06:読むべきかどうかでかなり躊躇した。なんといっても前著「病むアメリカ、滅びゆく西洋」には驚かされたからだ。もう10年も前に読んだ本なんだけど、その時に見えたこの本というか書いている人と僕の間に横たわる溝の大きさはいまでも忘れることができない程に深くて広いものがあったのでありました。

しかし、こうした人の考えていること、根底にある信条や価値観は同意できないとしても知っておく必要はある。更に、「病むアメリカ、滅びゆく西洋」を翻訳した宮崎哲弥という人はこのとんでもなく受け入れ難いブキャナンを「敵」として捉えているというようなのだが、この人もまた僕には生理的に受け付けられない人であったこと。つまり反ブキャナンが正しいとは限らないという話。また「病めるアメリカ・・・」から10年たってもパッと見アメリカはいまだに超大国であり続けていること。つまりここに描かれている危機感はどこまで本物なのかということ。気になる事がいつくもあって結局読み出してしまった。

今回の主題である「超大国の自殺」というタイトルを見てもわかる通り、相変わらずの白人社会がマジョリティを失い続けていることに対する危機感をパンパンに詰め込んだ一冊になっていることは容易に想像がつく訳だが、それって10年前と一緒じゃんな訳だが、実際に読んでみるとまるで「病めるアメリカ・・・」とその危機感も主張も全然変わってないのでありました。

相変わらずブキャナンはご健在なのでありました。めでたし。めでたし。

おっとっと。折角なのでもう少しだけ。

ブキャナンの危機感とはどんなものかについて。アメリカ合衆国という国は白人のキリスト教徒の国として建国された国であって、肌の色の違うものや異なる宗教を信じる者は部外者であった。

リンカーンなんかが当時述べていた平等の精神はあくまでこの白人のキリスト教徒の間でのみでのことを前提としていた。それが今や多様性を寧ろ加速させる方向で物事を推し進めようとしている連中によって、瓦解しつつある。

ということらしい。


 とはいえ、移民がどんなに大勢、どこから来ようが、アメリカ白人自体が危機に瀕している種なのである。2000年から2010年の期間、白人児童数は四百三十万、率にして10%、減少した。毎年四十三万となる。2020年までに、六十五歳以上の白人が十七歳以下の人口を上回るだろう。死亡が出生を上回る。白人人口は縮小をはじめ、いまの出生率がそのまま続くと、緩やかに消えてゆくのである。ヒスパニックはすでにニューメキシコ州で42%、カリフォルニアで37%、テキサスで38%となっている。アリゾナ州の二十歳以下の人口では半分以上となった。ピュー・ヒスパニック・センターの2008年の調査を引用して、マイケル・ガーソンは、2010年には「幼稚園から高校までの児童生徒のヒスパニックの割合は、アリゾナで40%、テキサスで44%、カリフォルニアで47%、ニューメキシコで54%となる」、と指摘した。2011年までに、テキサス教育局は、公立学校すべてでヒスパニックはすでに過半数、50,2%に達した、とつたえていた。


それが現実に起こっているとして、ではどうすればいいのかと。それに対する彼の意見らしい意見と言えば中絶の禁止くらいしか見当たらなくて、そんなことで白人の人口構成比の低下を押し戻して逆転させられるとかまさか考えてませんよね、などとほんとにどこもかしこも突っ込みどころ満載な訳なのでした。

正に自分たちの国。自分たちの権利を奪われてしまうという危機感に根ざした話の展開となっていく訳だが、そもそも他人の土地に踏み込んで原住民を蹴散らして奪った過去があるくせに、自分たちが逆の立場にいると思い込んでいるというのはどこか思考回路に重大な問題を抱えているのではないかと思う。

しかもブキャナンはその多様性を受け入れて「平等」になることについても、もの凄く違和感を覚えるような考え方を持っている事が明らかになってくる。


 ハワード大学で、LBJ(ジョンソン大統領)は、平等の意味を、到達可能---アフリカ系アメリカ人の隔離の終焉と法的な平等の権利の取得---なものからに、不可能なもの---社会主義的ユートピアの実現---に変えてしまった。「あらゆる人種の男女は同程度の能力を手にして生まれてくる」、というドグマは、社会主義の外側のどこにあるというのだろうか。これまで平等に生まれ出た男ないし女は二人といない、という方がずっと真実である。才能というものは、同じ民族のなかばかりでなく、家族のなかですら不平等に分配されている。同程度ではない成果に対して同等の報酬を与えることは、憲法上の目的---「公正の樹立」に反する。それは不正を以て公正に変えることとなる。

 自由市場、自由な組合、自由競争が平等な配分に失敗したとき、平等を達成する唯一の方法は国家権力を以て強制的に、所得、影響力、報酬、富を人々に分け与えることである。これを社会主義という。

一言で言ってしまうと個々の人間の能力が異なる以上、平等であらんとすることには無理がある。というのである。ははーん。と思う訳だが、その文脈のなかで「だから、白人とヒスパニックを平等に扱うな」という流れになっていて、これって個々の人の能力の話ではなくて人種の話になってますけどブキャナンさん。という感じに話が一気に拡大解釈してしまう。

アメリカという国はこれに共感を受けて実際に投票すらする人が少なからずいる国なんだということ。それ自体もひっくるめて多様性の時代であるというように理解すべきものなのだろう。

彼の考えには同意できる部分が殆どない訳だけど、アメリカの白人社会の減少というものは現実に進んでおり、マジョリティの地位が徐々に変わりつつあるし、これからはますますそのような形で国のありようは変化していくだろう。

肌の色も宗教も多様化した社会となるアメリカ。正に人類の縮図を押し込んだかのようなモザイク国家となったアメリカはどうなるのだろうか。ブキャナンの危機感は世界で起こっているナショナリズムによる紛争の火の手が国内で起こる事でもある。国が内部の多様性によって瓦解することを畏れているのだ。

そうなった時、警察や軍は誰を誰から守るのか。ブキャナンはあくまで人種や宗教で対立する絵を思い描いているらしい。ロスの暴動のような事態が全国で火を噴くとか。

中東や東欧のような社会での紛争の本当の原因はナショナリズムでもなければ、人種は宗教での対立でもない。それは結果であって原因ではないと僕は考える。

ボスニアでもそうであったように、格差や差別がそうした結果を生んだ。そこには根深い差別意識や権利や自由の不均等が存在し、虐げられたり、権利を奪われたりしたもの達が互いに身を守る術として人種や宗教があり、場合によってはそれが「利用」されているのだ。そして反旗を翻された側もまた人種や宗教に頼りまた「利用」している。と思えるのだ。

果たして同種の人種や宗教の人たちで「平等」を謳い、その外との境界を強固なものにすべきなのか。はたまた国の内部に多様性を抱え込んで世界の縮図を目指すべきなのか。排外主義的だったり、原理主義的だったりするような極端な思想を持った人たちをも包含して安定した社会を維持していくことが果たして可能なのかとか。これは日本にとっても大変重要な問題で、ブキャナンに反対することは容易だけれども、では解決策として何が本当により良い策なのかは非常に難しい問題なのだ。

恐らくアメリカの軍縮の足がかりとなるべくオバマ政権からの要請を受けた形なのだろうと僕は睨んでいるのだけど安倍政権は集団的自衛権なるものを憲法解釈を拡大することで無理無理捻り出してきた。「積極的平和」などという意味不明なことを呟く安倍は権利団体の木偶人形に過ぎないようなので彼がどうのと書いたところでどうなるものでもないと思う。しかし、米軍に追従するのか或いは役割を引き継いでどこかの紛争地帯に乗り込んでいくことがやがて起こるのではないかと思われる。

守るべきものと闘うべき相手との間での政治的信条や宗教的価値観の違いも理解できず、そもそも対立している理由すら漠然としたまま、戦地に赴き、武力行使をしようとしていることに果てしない懸念を覚える。向かう先はただただ暴力の連鎖を呼ぶだけではないかと思う。正に暗澹たる思いであります。




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