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2012年度第二クォーターに入りました。当サイトはお陰さまで9周年を迎えました。40路に入った記念として勢いで作ったサイトでしたが、どうにかこうにか続けてここまで来てしまいました。当然のことながら来年はいよいよ僕も50歳。カミさんから「50になったらサイトの名前はどうするの?」とふと訊かれ、そんなことは全く考えてなかったことに気がつきました。来年になったらどうするか、いまから考えておきます。

「チョムスキーの「アナキズム論」
(Chomsky on Anarchism)」
ノーム・チョムスキー
(Noam Chomsky)

2012/09/30:仕事で忙しいけど記事は更新するのだ。

日本の政治は東日本大震災で露呈した原子力行政の杜撰さと、同様の行き当たりばったりの箱物行政を続けてきたツケを消費税という形で国民に押し付けようとしている。にもかかわらず原子力発電所を稼動させよと迫る米国政府とその使い走りみたいな経団連に首根っこを押さえられ安全保障もオスプレイも決定権のない単なるいいなりであること露呈した。つまり日本政府は国内の統治力も、海外との交渉力もないという訳だ。

国のトップと称される首相に実質的になんの権限もなければ意志もないとするならば、ケンタッキーフライドチキンの店先に立つカーネルおじさんとか、道頓堀のくいだおれ人形と大差ない。カーネルおじさんの人形やくいだおれ人形に失礼かな。

我々国民は血税を払って木偶人形にスーツを着せて黒塗りのクルマに乗せ要人であるかの如く警護しており、今その人物が突然不在になっても国は全く支障なく米国や企業の思い通りにつつがなく物事を進めていくであろう。

政治家達は国民の前で中国との尖閣問題や、議員定数を減らすのだとか、これまでやってきたことを全部見直すとか、まったくもって空虚な茶番を演じ続けていますが、一方でそんなパフォーマンスに踊らされている人たちがいることに無力感というか、孤立感というか、閉塞感のようなものを感じてしまう自分がいる。

自民党の総裁選も民主党の代表選も民意とはかけ離れたまるで他所の国のできごとのようにしか響かず、自分だったら誰を選ぶのかと考えても答えはない。選択肢が狭すぎるのだ。つまり昼飯は何にしようかと食べたい料理を出す店に入るのと違い、国も政治家も選ぶ自由はないわけで。そこに座った僕らは出される料理がどんなにヘンテコだろうが、選択肢が少ないどころか一つしかなくて、更にその食材が魚の頭や大根のしっぽのような普通なら料理に使わない部分で出来ていたとしても、僕達は選挙権があり投票して選んだのだから喜んで食べるしかないのだろうか。それでも僕たちはそんな国の国民であり続けるしかない。これはもう何を言っても無駄なのだろうか。民主主義の限界を感じる今日この頃であります。

一方で明るい面もある、原発を止めろと霞ヶ関に集まった人々は警視庁をして過小な数を発表せざるを得ないほどの数に及んだ。原子力行政について政府はこれまでのようにこっそり事を進めたりいい加減な説明で誤魔化したりできなくなったことをすでに噛み締めているだろう。政治が出鱈目だということに気付いて行動を起こす人たちのマンパワーはネットによる情報共有のスピードも加わりこれまで以上に強力となった。

そして行動起こしている我々もその力に気付いた。自分達が行動起こすことで政府のやり方を僅かでも変えさせることができるのだということに。

これからはますます大手メディアに頼らず生の情報が広い範囲に拡散し、何かあれば具体的な抗議の活動につなげられるようになっていくだろう。それはとても素晴らしいことだと思う。国会に心療内科を開設しようという微笑ましいニュースが流れていたけれども、これが国会議員に対する我々からのプレッシャーによるものであると期待したいところだ。

国民の票を預かる公僕としての議員が常に命をかけて民意を汲んだ言動に終始しているかどうかをちゃんとウォッチし、国民の側にたった情報配信を進め、だめだしを重ねる。そしてこうした認識が大勢の人々のなかにもっともっと広がることで、政治は変えられるというささやかだけれども光明のようなものが見えてきたのはこの震災後の不幸中の幸いの一つであろう。そしてどこぞの都長や西の市長のように人の上に立っているなどと勘違いしてるヤツを政治家として飼う必要はさらさらないことに気付く人が増えてくればいいと思う。

そしてその考えを更に一歩すすめて我々の国は、政治体制はどうなっていくべきなのかについて考える。ダメだししているだけではやはりダメで。どうあるべきかについてもきちんと考えていかねばならない。チョムスキーの「アナキズム論」。しかし手強い、歯が立たない程に固い本でありました。

チョムスキーは述べる。


 概して、イデオロギーを構築するために権力と富に接近することを目的とするグループは、いかなるものであれ、公共の福祉の見地から事態を正当化する。そんなわけで、ダニエル・ベルの命題のように、知識人は権力の中枢に接近するか、さもなければ、少なくとも意思決定の構造に完全に取り込まれる。権力に接近するにつれ、社会の不公正に目が届かなくなり、現状があまり欠陥のないものに思われるようになり、そして秩序維持が並はずれて重要なことになる。事実、アメリカの知識人は、二重に特権的な地位をますます確実にしつつある。ひとつは、世界の国々に対するアメリカ市民としての特権、もうひとつは、アメリカ社会のなかでかれらがきわめて中心的な役割を果たすという特権である。ベルの予測が正鵠を射ていようがいまいが、そうなのである。


驚く無かれこれは1969年の発言だ。この時点でチョムスキーはアメリカ政府の先行きに警鐘を鳴らしていたのである。そしてその指摘はもっともっと遡る。


 そのとおりですね。専門性についてもうすこしはっきりさせましょう。あなたはペンタゴンを、よくいわれているように防衛組織といいましたね。1947年、国防法が制定されたとき、陸軍(ウォー)省---戦争に関するこの省はその時まで陸軍(ウォー)省と率直に呼ばれていたのです。---が国防総省(ペンタゴン)に名前を変更しました。当時私は学生で、世慣れていたわけではありませんでした。でも、この変更は、過去においてどの程度アメリカ軍が国防に関与したにせよ---部分的にはしました---今やその役割は終えたことを意味するんだと、私や他の誰もが理解したのです。国防総省と呼ばれるようになって以後それは侵略省に他ならなくなったのです。


同じく1969年「ベトナム戦争とスペイン革命」では、ニューヨーク大学の社会学者トマス・R・アダムの提言を取り上げていた。


 理解しなければならないことは、西側の利益を維持するためには、われわれが直接主導権を有する領土を越えた領域に、権力基盤を確立すること以外には合理的選択肢はないということである。われわれが「権力や影響力の行使をつうじて」アジア問題に参加しないかぎりは、アジアと西側諸国の間にある「歴史的つながり」を維持することはできない。われわれがアジアにおいて、「西洋指向の共同体を維持させるということを意味する、文化の生き残りのための深刻な戦いに従事しているということを」受け入れなければならない。われわれがアジアから手を引き、かれら自身に望むようにさせるという考え方はまったくの見当違いである。われわれの西洋文明は「文明の発達のなかでまだ新しい、少数派の運動」として理解されなければならない。またアジアがわれわれの営みに今後ずっと立ち入ってこないだろうなどと決め込んでいるわけにはいかないのだ」。「われわれの産業企業システム」を世界的に確立することに失敗したならば、「地球上あまねくわれわれの特権や利益を、優勢な武力によって持続的に、容赦なく、犠牲の大きな実力行使で防衛」しなければならないだろう。


我々日本という国はこのような考え方に基づくアメリカの国益を維持拡大するために講じられる安全保障の傘の下でアジアの分離に一定の役割を果たしてきた。そしてまたアメリカ政府が東欧・中東で繰り広げてきた蛮行を指示し「旗を見せる」ために自衛隊の派遣を行い、そして「思いやり予算」とかいう何か悪い冗談のような名の下に在日米軍駐留経費を負担し続けてきた。日本はアメリカの甲斐甲斐しい子分なのである。

チョムスキーはこのような新自由主義化・グローバル化が推し進められてきたアメリカにあって、スペイン革命に遡り、アナキストの思想のひとつアナルコ・サンディカリズムを標榜する。アナキズム、アナルコ・サンディカリズムとはどのような考え方なのだろうか。これがまた難しい。

アナキストと云えばどこか破壊的で反政府的な臭いのする言葉である訳だが、どうもこれはイメージ先行の誤った考え方であるらしい。そしてそのようなイメージを我々が抱いていること自体が権力者たちによる刷り込みのせいだとすらされている。

アナキストの思想は確かに危険視されたがそれはあくまで権力者たちの権利と利益を守る上でのことであったらしい。それを一般大衆の信条に敵対するものとしてイメージを植え付け衝突が起こったのがスペイン革命であったらしい。

このあたりの下りについて本書は断片的すぎて一度読んだだけでは理解できませんでした。この部分は特に重要なことを示唆していると思われますが他の体系的時系列的な内容になっている本を探すしかないようです。

アナルコ・サンディカリズムは、労働組合運動を重視する無政府主義のこと。アナルコは無政府主義、サンディカは労働組合のことなのだそうだ。当然ながら新保守主義のいうところの小さな政府を目指すというのとは本質的に異なるというか真逆なものなのに無政府主義であり社会主義的であるというところが僕にはなかなか理解しにくい。

社会主義者がアナキストであるわけではないがアナキストはみな社会主義者であるという。アナルコ・サンディカリズムの目指すコミュニティでは何をどのように行うかについて常に全てのメンバーが意見を出し合って合意形成をして事を進める。そして与えられる報酬は平等であるべきだともいう。

この考え方の根底には人間の自由という考え方が深く根ざしているらしい。逆説的に現代の政治体制は個人の自由を否定し、隷属と抑圧によってロボットのような人々を量産し、生産性を高めその上に君臨する権力者を生み出す構造になっているという訳だ。


 収奪的な資本主義は複雑な産業体系と進歩した技術を創り出しました。それはかなりな範囲で民主主義の実践を可能にし、リベラルな価値をある程度促進しました。しかしそれは今や抑圧にさらされ、克服しなければならないという程度のものです。それは20世紀半ばの時代に適合的なシステムではありません。それには総称においてのみ表現されうる人間の欲求に対応する力はありません。富みと権力を極大化させることだけを追い求め、市場関係、搾取、外的な権威に従属する競争的人間という概念は、まったくもって反人間的であり、受け入れがたいものです。専制国家を代用品として受け入れることはできません。かといってアメリカで発展した軍事的国家資本主義を、あるいは官僚化し中央集権化された福祉国家を、人間の実存上の目標として受け入れることはできません。抑圧的制度は物質的、文化的欠乏状況においてのみ正当化されます。歴史の特定の段階にあるこうした制度は、この欠乏を産み出し延命せしめ、人間の生存さえ脅かします。

 現代の科学と技術は、人間を分業化された単純な労働の必要から解放することができます。原理上それらは、われわれがそれを創造する意志を持てば、自由なアソシエーションと民主的な支配に基づく、合理的社会秩序の基盤を提供するはずです。


権力者たちはどうにかして我々一般人を従順で従属した関係こそ穏やかで安定かつ安心した人生がおくれる世界であるということを印象づけるために詭弁を弄する。こうした詭弁にながされてはならないのだ。


 詭弁を弄する政治家や知識人は、人の本質的で決定的な財産は自由であるという事実をなんとか曖昧にしようとします。「かれらは目の前の人間たちが我慢強く隷属に耐えているのを見て)人間たちには隷属に対する自然の傾向があると決めつける。かれらには、自由もまた純潔や美徳と同じだということ、つまりこの種のものは、みずから享受している限りにおいてしかそのありがたみが感じられないもので、一度失ったら最後、たちまちにしてその味は忘れ去られてしまうのだということを、考えてもみなかったのである」。その一方でルソーはレトリックを行使します。「自由とは人間の諸能力のなかでも高貴な能力なのであるから、このかけがえのない預かりものを無条件で放擲し、創造主がわれわれに禁じているあらゆる罪を犯すまでに身を落として、凶暴で理不尽な主人の意を迎えるなどということは、自然を堕落させ、本能の奴隷である禽獣の地位にまでみずからを引き下ろし、おのれの生命の創造者を冒涜することにならないであろうか」---この疑義の表明は、ここ数年徴兵を拒否する数多くのアメリカ人によって、そして二十世紀の西洋文明の崩壊から率先して立ち直ろうとする人々によって同じような言い回しで発せられています。


チョムスキーの目指す社会で複雑な工業製品を今よりも滞りなく効率的に生産供給することができるのだろうか。チョムスキーは可能だという。そしてそうした社会の実現こそひとりひとりの人間の存在を尊重し、より個人の自由を認めるものになるのだという。この現在の政治体制というか統治システムには指摘されるような問題点を多々含んでおり、それが故今この現実の問題が生じているという部分については実感を持ってよくわかるのだけれどもこのチョムスキーが標榜するアナルコ・サンディカリズムが現実に機能するのかどうかについてはちょっとピンとこないというか想像がつかないと思ってしまいました。

アナルコ・サンディカリズムは一つの解としてまだ十分さに欠けているのではないでしょうか。翻って政治を見つめてこれを変えていこうとしている我々はどうあるべきかにつてもっともっと具体的・現実的な解を模索していく必要があると思います。


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シオン修道会が明かす
レンヌ=ル=シャトーの真実

(Inside the Priory of Sion)」
ロバート・ハウエルズ (Robert Howells)

2012/09/16:最初に断っておきますが本書は百歩譲っても妄想の塊。何か重大なことが書かれているかも、などと期待して本書を手にしても得るものは何もありません。本書に書かれている情報自体には何ら価値はないと思います。

しかし、僕は最後まで読んだ。何故か。この本が書かれたこと。この著者がこうした本を書こうとしたこと。この彼の動機の一因となったレンヌ=ル=シャトーの謎。カタリ派。マグダラのマリア。そしてイエス・キリストへと連なる事実と虚構が何重・何層にも重なる歴史の眩暈を覚えるような姿に強く惹かれたからだ。

本書を書いたロバート・ハウエルズは1968年生まれのイギリス人。彼はヨーロッパ最古の秘教関係の書店の一つと言われているらしいロンドンのワトキンス書店で店長を務めた人なのだそうだ。なんなんだこの秘教関係の書店って。オカルトって事かな。

こんな書店に務めるくらいなのでその道がもともと好きな人だと思ってよいのだろうけども、仕事の傍らトランスパーソナル心理学、神聖幾何学、グノーシス主義、錬金術。錬金術だってよ。シオン修道会、フリーメイソン、聖ラザロ騎士団、新テンプル教団組織なんかの研究をしていたという。

でこの書店に出入りしている顧客の一人にシオン修道会の者だとされる人と出会う。この男はニコラス・ヘイウッドと名乗り本書に序文も寄せている。ハウエルズはこの人物を通じてシオン修道会が持っている情報に接し、ついには「血脈――ザ・ムービー」というドキュメンタリー映画を作るまでになったのだそうだ。それに更に本人が行った調査結果などを踏まえて書かれたのが本書なのだという。

もし仮にシオン修道会という秘密結社が実在したとしたならばこのような本屋さんに出入りするのだろうか。なんの本を探しに来るというのだ。というかこのニック・ヘイウッドは実在の人物なのだろうかということすら怪しかったりする。

ハウエルズの出す質問に対してニックは決して否定しない。そしてそれは確かに重要な秘密だけれども、それはシオン修道会が持っている秘密の極々一部にすぎないなどとほのめかすばかりで殆ど何ら情報を開示しないのだ。

読んでいると文脈もなんだかおかしいし。何が言いたいのかわからないところも多々ある。ついには訳者の方が脚注で記述の矛盾点について突っ込んでくるという香ばしさなのだ。ハウエルズは単に文章が下手なだけなのか。それとも思考回路に少々問題を抱えているのか。何もないところにパターンを見出してしまう思い込みの激しい人なのか。
一方で相対するニック・ヘイウッドは思い込みの激しすぎるこの著者をからかっているだけなのか。それとも自身シオン修道会のものだと思い込んでいるかなりアブナイ人なのか。それともその両方なのか。或いはひっくり返して全部実は本当だったとか。

この二人の間にはまずシオン修道会が実在するという前提がある。

目次
第1部 シオン修道会
シオン修道会
隠された歴史
歴代会員
表舞台への登場
第2部 謎
レンヌ=ル=シャトー フランスの謎
マグダラのマリア教会
風景
浮かび上がったテーマ
巡礼
『ル・セルパン・ルージュ(赤い蛇)』
神殿と墓
遺物の時代)
第3部 血脈
マグダラのマリア
異端と歴史
血脈と王の時代
芸術とシンボリズム
錬金術とグノーシス
第4部 結末
黙示録
最後に思うこと


シオン修道会は11世紀に遡る歴史を持つ秘密結社であるとされる組織。しかしこの名前が歴史の表舞台に出てきたというか、フランスで組織として政府に登録の届出がなされたのは1956年のことだった。この登録時の会長はアンドレ・ボノム(Andre Bonhomme)。事務局長はピエール・プランタール(Pierre Plantard)の二人の名があった。
しかし活動らしい活動もなく時は流れる。

1964年になってフランス国立図書館に『アンリ・ロビノーの秘密文書( Dossiers Secrets d'Henri Lobineau)』と題する文書が匿名者からの寄贈として登録された。これは一見意味不明の詩だが、この詩は暗号でシオン修道会にまつわる秘密を指したものだった。

この秘密文書にはメロヴィング朝フランク王国の王族の家系は秘かに継承され続けており、ダゴベルト2世の血筋を引く現在の末裔がプランタール一族、つまりシオン修道会の事務局長ピエール・プランタールこそ王の血筋をひくもの。つまりはフランスの真の王はプランタールなのだということが書かれていたのだ。

へー。

ついでにこのシオン修道会の歴代の歴代総長というものもあって、このリストにはレオナルド・ダ・ヴィンチとかヴィクトル・ユゴーとかジャン・コクトーとかマイケル・ジャクソン(嘘だよ)などの名前があがっているらしい。

しかし当然ながらこの文書はプランタール自身の捏造であり、本人が正気だったとすればその目的は良くても詐欺。だなどとすぐに身も蓋も無いことを言ってはいけない。この香ばしさを味わい愉しむことこそ陰謀論とのつきあい方なのだ。

図書館に納められていたこの秘密文書をある意味再発見したのはヘンリー・リンカーンだった。これを手引きしたのがプランタール本人なので再発見したもなにもないのだけれどさ。このヘンリー・リンカーンはテレビ作家で、番組作成の一環でレンヌ=ル=シャトーの謎を追いその調査結果を「隠された聖地」という一冊の本に著した人だ。どうやらプランタールはリンカーンに先んじてレンヌ=ル=シャトーの謎を知っており、シオン修道会の謎めいたイメージ作りの一つとして利用していたらしい。謎を追うリンカーンはまるで蜘蛛の巣のように謎に謎の糸の張り待ち構えていたプランタールの罠にかかった。ということなのだろうか。

リンカーンが追っていたレンヌ=ル=シャトーの謎とはどんなものか。

1885年、フランスはラングドック・ルシヨン地方ピレネー山脈の麓にある小さな村レンヌ・ル・シャトー(Rennes-le-Chateau)にある小さな教会に一人の神父が派遣されてきた。この神父の名はベランジェ・ソニエール(Francois Beranger Sauniere)。マリア教会と呼ばれるこの小さな教会はうらぶれて朽ちかけた状態でソーニエールは付近の人々に施しをうけるような暮らしぶりだったという。

細々と壊れた教会の改装に着手したソーニエールだったが、彼は教会の祭壇の柱の中の穴から暗号が書かれた羊皮紙を発見したと言われている。この羊皮紙は一見、新約聖書の一説が書かれたものだが、中途半端な改行や奇妙なスペルの間違い・余計な文字の挿入があるばかりか、意味不明の図が書き込まれているものだったのだ。この暗号の解読に成功したらしいソーニエールはこの後、教会の側廊、身廊や近隣の土地を掘り起こしたり、墓に刻まれた碑文を写し取ったりするようになったという。

そして彼はカルカソンヌ、またはバチカンへ向い、戻ってきたときには説明がつかない大金を所持していた。彼はその金を使って教会を大規模に改修し始める。改装されたこの教会もまた謎の塊ともいえる代物で、入り口では悪魔の像が出迎えていたり、向かい合って立つマリアとキリストの像はそれぞれ赤子を抱いていたりする。またキリストが十字架へ向かう場面を描いた道行きの留も不思議な仕草をする余計な人物が書き込まれているのだ。

羊皮紙と墓石からどんな謎を解いたのか村人達は噂しあった。アルビジョア派・異端カタリ派の隠し財宝を発見したとか、聖杯を発見したというものや、中には、マグダラのマリアの生地であるこの土地にイエスの直系がおり、その秘密をローマに伝えた褒美だという話まであった。一体ソーニエールは何を見つけたのだろう。

後年この不可解に改修されたマリア教会の存在とソーニエールの話をテレビに取り上げたのがリンカーンであり、その本が「隠された聖地」だったという訳だ。このマリア教会の不可思議さは異様であり、説明不能の大金を使って改修を行ったという話も史実だ。しかしソーニエールが何を見つけたのかはわからない。何か途轍もなく重大なものだったのではないかという推測が成り立つ訳だ。

このレンヌの土地はカタリ派と呼ばれる人々が住んでいた。カタリ派は1209年、教皇庁とフランス王フィリップ2世とによって異端と判断され、差し向けられたアルビジョア十字軍によって殲滅させられた。

カタリ派の人々の大部分は攻め込んで来た十字軍によって捕らえられ処刑されるか改宗させられた。しかし虐殺の目を掻い潜って地下潜った人たちもいたらしい。そしてその中には財宝を持って逃れた者もいた可能性があった。

ソーニエールが墓から碑文を写し取っていたのは正にそんな可能性のある人の一人。1781年1月17日に死んだドープール・ド・ブランシュフォール侯妃マリーの墓石であった。彼女はカタリ派の最後の生き残りの一人であったらしいのだ。そしてその彼女の墓石の碑文はよくみるとおかしな部分があり暗号のようだったのである。

これがカタリ派の隠された財宝であるとする説だ。

ところで1月17日というのはソーニエールが死んだ日でもあるらしい。この日付はニック・ヘイウッドもシオン修道会でも非常に重要視していると述べている。なんでも有名な錬金術師のニコラ・フラメルが最初の変容を起こした日であり聖大アントニオスとかテンプル騎士団の最後の一人が死んだ日でもあるのだそーだ。だからソーニエールは暗殺されたのだ、なんて事を言い出す訳だけど、どこから「だから」が出てくるのか意味がわからないよ。

話を戻すとカタリ派の教義がどんなものであったのか現在となっては不明だ。カトリック教会は、カタリ派が二元論的世界観に代表されるグノーシス主義的色彩が濃厚な特異な教義と組織を有していたため異端認定したと主張しているという。しかし、一方でレンヌ=ル=シャトーには古くからの言い伝えとしてマグダラのマリアに関するものがあった。

新約聖書には聖母マリアをはじめ複数のマリアが登場してきて誰が誰か完全には特定が出来ないのだけれどもこのマグダラのマリアはイエス・キリストが復活を遂げた後に最初に出会う女性だ。このマグダラのマリアについても諸説ある次第だが、娼婦であったがイエスに七つの悪霊を追い出してもらいイエスとともに行動するようになったという捉えかたが一般的なように思える。聖書外典ではこのマグダラのマリアは弟子の一人としてイエスと行動を共にしていたばかりか親密な関係にあったとかいう内容になっているものもあるらしい。

そしてレンヌ=ル=シャトーの言い伝えとはイエスとマリアは結婚して子供を儲け、子供をつれたマリアがこのレンヌの地に隠れ住んだというものだった。ソーニエールの教会の名前はマリア教会だった。

カタリ派はこのイエスの子孫を秘かに匿っていたのではないか。レンヌ=ル=シャトーはこんな謎が更に聖杯伝説と結びついた場所であったのだ。当然ながらこの言い伝えをまともに受け止めるためには復活したイエスの存在とその子供をつれたマグダラのマリアの存在を先ず事実として受け入れる必要がある訳だ。

どれとどれが事実でどれが虚構なのか。眩暈を覚えるようなぐるぐる感がありませんか?ぐるぐると謎の周りを回り続けることはできるけれども、その核心部分は決してわからない。どうやっても核心に近づくことができない。レンヌ=ル=シャトーの真実とは正にこの核心部分が謎のままでありつづけることそのものである訳でした。

そしてこの事実と虚構がないまぜとなった歴史観にどっぷりと浸ってから現在のこの現実を俯瞰してみよう。解散するとか言ったとか言ってないとか虚言を繰り返す野田首相に代表されるように今この僕達が生きているこの時代も全くもって事実と虚構がないまぜになって進んでいるのであります。ドン・デリーロの「アンダーワールド」の如く我々は事実半分推測半分、そして時には全くの思い込みで前進していくものなのだ。

そしてこうした我々の行動性向を読んでそれを利用しようとする輩がいることも。

例えばまさかの維新が大躍進して日本政府を乗っ取り日本が自爆していくとか。未来の人たちが今を振り返ったとき、どうしてそんなことが起こったのか全く意味が理解できないようなことになっているということも十分にありえると思うのでありました。

言いたかったのはこれかって。はいそーです。


「隠された聖地」のレビューはこちら>>

「マグダラのマリアと聖杯」のレビューは こちら>>




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誘拐
(Noticia de un secuestro)」
ガブリエル ガルシア=マルケス
(Gabriel Jose Garcia Marquez)

2012/09/09ガルシア・マルケス初挑戦ですよ。今更ですが。何から手を付けようかと悩んでいたのだけれども、パブロ・エスコバルが起こした誘拐事件のノンフィクションをマルケスが書いているということを知り、ではその本から切り込んでいくことにしてみたい。

パブロ・エスコバルはコロンビアのメデジン・カルテルの麻薬王と呼ばれた男で、400名とも云われる人を殺したとも言われるが、その所業は正に限界がなく、政治家を暗殺し、警察官を襲撃し、街中でテロを行い、旅客機に爆弾を仕掛けて墜落させるまでに及んだ男だ。

それでも捕まえられないエスコバルに業を煮やしたアメリカ政府は特殊部隊を差し向け現地で彼を追跡した。最終的には隠れ家を突き止め、なおも屋根伝いに逃走するエスコバルを射殺したのだった。このエスコバルの行状も凄まじいが、コロンビアでは彼以外にも麻薬取引に手を染める者が跳梁跋扈し街は正に血で血を洗う事態となったのだという。


コロンビアでは、1946年以降自由党派と保守党派の抗争によって引き起こされたラ・ビオレンシア、暴力の時代は1950年代まで続きこの間の死者は20万人になるとも推測されている。その後抗争の種は左翼ゲリラとの闘いへと移行しFARCやM-19などの左翼ゲリラとの間で内戦状態へと突入していく。実質的に政府は地方の統治能力を失った状態にあった。


空白地帯となった地方都市に生まれたのが麻薬ビジネスだったのだ。政府はエスコバルの組織の追跡・捕獲そして同時に投降を求めていくのだが、この政府の創出したエリート部隊や内戦時に暗躍した秘密警察の所業もまた極めて熾烈かつ衝動的で罪もない人々を拉致・拷問・処刑していた。突如として急速に規模を拡大したメデジン・カルテルの首謀者は、一方で地方の貧しい人々を救済する助け手でもあったのだった。


 コロンビアという国は、麻薬組織が自国の政治に---まずは日ましに強まる贈賄と買収の力によって、次いで、独自の政治的野心によって---裏口から踏み込んでくるまで、世界の麻薬流通において自国が占めている重要性について無自覚だった。パブロ・エスコバルは1982年にルイス・カルロス・ガランの新自由党に秘かに加わろうとしたことがあったが、ガランは彼の名を賛同者のリストからはずし、五千人が集まったメデジン市の集会でエスコバルの仮面をはいだ。エスコバルはそのしばらくのちに、自由党主流派の小派閥から補欠として下院議員になったが、以前の恨みを忘れることはなく、国家に対して、なかんずく新自由党に対して決死の戦争を開始した。「新自由党主義」を体現してベリサリオ・ベタンクール政権の法務大臣となったロドリーゴ・ラーラ・ボニーヤは、バイクに乗った殺し屋によってボゴタの路上で暗殺された。その後任のエンリケ・バレーホはやはり金で雇われた暗殺者にブタペストまで追われ、ピストルで顔面を撃たれたが生き延びた。1989年の8月19日にはルイス・カルロス・ガランが、大統領宮から十キロのところにあるソアチャの町の広場で、武装した十八名の護衛に守られていながら機関銃で撃たれて死ぬことになった。


エスコバルは政府との交渉を「引渡し予定者グループ」という匿名の集団を装って進めていた。組織の者をアメリカなどの国外引渡しをしない。生命を保証する。警察部隊に対する処罰、収監される刑務所の待遇などを巡ってその交渉は難航する。その最中、狡猾さに長けた「引渡し予定者グループ」はより有利な条件を引き出すため政府要人の血縁者の誘拐という手段に出るのだった。

1993年10月、映画振興のためにつくられた国営企業の取締役を務めるマルーハ・パチョンは帰宅途中の待ち伏せに合い、アシスタントを務める義理の妹ベアトリスと二人で拉致誘拐されてしまう。それはあっという間のできごとだった。八名からなる待ち伏せしていた男達はよく訓練され、サイレンサー付きのウージー短機関銃で武装していいた。ベンツとタクシーでマルーハの乗っていたルノー21の進退を阻み、運転手の頭を銃撃。後部座席にいた二人を引きずり出して連れ去ったのだった。

しかも誘拐されたのはこの二人だけではなかった。前大統領フリオ・セサル・トゥルバイの娘でジャーナリストのディアナと同行していた報道陣関係者5名が取材と称した罠に誘い込まれ。マリーナ・モントーヤは自ら経営するレストランを閉店帰宅しようとしているところを襲われた。彼女はビルヒリオ・パルコ大統領政権で大統領府官房長官だったドン・ヘルマン・モントーヤの妹だった。そしてエル・ティエンポ紙の編集長であったフランシスコ(通称・パチョ)・サントスはマルーハと同様の手口で道路での待ち伏せに合い誘拐され「引渡し予定者グループ」たちは9名の身柄を拘束し、取引のカードとして利用していくのだった。

誘拐された人々は街中の複数の一軒屋に監禁されるのだが、この家では家主が家族と生活をしており表向きは彼らが生活をしている家であった。被害者たちは組織から派遣されてくる監視の者たちと一緒に狭苦しい部屋の中で、気配を消し動くこともトイレの利用も自由にならないような生活を強いられる。そして硬軟織り交ぜた政府との交渉の状況や行き当たりばったりに派遣されてくる監視の者たちによって長期化していく軟禁生活は奇妙なものになり、監視者たちや家主との関係もまた不思議なものになっていく。

派遣されてくる若者たちもまたこの長く続いてきたコロンビアの暴力の被害者であったのだった。


 彼ら全員に共通しているのは、絶対的に宿命を信じていることだった。いずれも、自分が若くして死ぬことになるのを知っており、それを受け入れているため、現在を生きることにしか関心がなかった。忌まわしい仕事をしていることを自分自身に対して正当化する言い訳としては、家族を助けるため、いい服を買うため、バイクを手に入れるため、といったものの他に、自分の母親の幸福を願うためという理由があった。彼らは母親のことを誰よりも愛していて、彼女のためならいつでも死ぬ覚悟ができているのだった。彼らは人質たちと同じ聖人『ディビーノ・ニーニョ』や『救いのマリア』にすがって生きていた。その庇護と慈悲を求めて毎日、異常な熱意をこめて祈りを捧げ、自分らの犯罪の成功を手助けしてくれるようにと誓いを立てたり献身を約束したりした。


本書は拉致された人々と彼らの無事を願う家族や友人達、そして救出と政治的判断の間でゆれる大統領。そしてエスコバルの説得に命を賭けて出かける神父。更には麻薬薬ビジネスに身を投じる以外に選択肢が殆どなかったのではないかと思われる地方の若者達の心情を深く公正な目で追い立体的に描き出している。何よりこの夥しい暴力のなかにあって距離を置いて寡黙に物事を見つめるようなマルケスの視線がすばらしい。

メデジン・カルテルの誕生については以前読んだ「キング・オブ・コカイン」が、パブロ・エスコバルの捕獲を目論んだ特殊部隊の顛末については「パブロを殺せ」が詳しいので、興味がある方は是非そちらをどうぞ。


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帝国以後-アメリカ・システムの崩壊
(Apres L'Empire)」
エマ ニュエル・トッド(Emmanuel Todd)

2012/09/02:エマニュエル・トッドの「帝国以後」こちらの本は2002年に上梓され日本でも2003年には訳出されていたものだ。世界的なベストセラーとなったということでありますが、お恥ずかしい限りで僕はそんな状況だったことを全く知らなかった。トッドの本を初めて読んだのが今年だという次第です。今年になってトッドを見落としている自分に気付き、大慌てでその穴を埋めにかかっているという状況であります。

本書が注目された理由はソ連の崩壊をいち早く予見し、それが的中したことで預言者とまで呼ばれるようになったトッドが、アメリカ合衆国の覇権の崩壊が2050年までに起こると予見したという内容だったからだ。トッドの推測の根拠となっているものはソ連の時と同様に識字率と出産率の推移をもとにしているものを基礎としているというところからその内容と結論に大きな注目が集まったものだったようだ。


 識字化=革命=出産率低下というシークェンスは、全世界に普遍的とは言えないまでも、かなり標準的である。男性の識字化は、アンチル諸島を除いて世界中至る所で女性の識字化よりも早く進む。男たちの仕業である政治的不安定化はそれゆえ一般に、何よりも女性に依存する受胎調節の普及に先行する。フランスでは受胎調節は、1789年の大革命ののちに一般化し、ロシアでは出産率の大衆的低下は、ボルシェヴィキの政権奪取に続いて起こり、スターリン時代の全体をカヴァーした。


繰り返しなるが識字化=革命=出産率低下というシークェンスは、全世界に普遍的とは言えないまでも、かなり標準的であり、それ自体のみでアメリカの覇権が崩壊するという訳ではない。アメリカ合衆国がつまりアメリカ合衆国たる、帝国が帝国たる中核的な価値がこの人口動態の大きな流れの中で滅失してしまう。

一方でアメリカ合衆国自身は、世界から政治的・軍事的リーダーとしての公正さと実行力による信頼と依存があってこその存在であり、その血流となるものは何より金だ。信用と金が集まらなくなればアメリカ合衆国は国として存在すること自体が危うくなる。この二つのことからアメリカの覇権は立ち行かなくなるということを予想している。本書の読みどころは正にそこにある。

切り口が鋭すぎて血も出ない感じだ。しかしトッドの鋭敏さはもっともっと深いところにあった。

ソ連の崩壊によって、共産主義との闘いに勝利したアメリカ合衆国の国際社会における政治的・軍事的リーダーとしての存在意義は、本来勝利した時点で最早無用となったトッドは述べている。ベルリンの壁が倒れ、ソ連が崩壊し、冷戦が終了したことで世界はずっと平和で安定的なものになるとあの頃殆どの人がそう思ったと思う。しかし現実には中東や南米で紛争の火の手が上がり始めアメリカ合衆国の出番は続いた。

トッドの目線ではこの事態は全く違ったものに映っていたようだ。識字化=革命=出産率低下というシークェンスには「革命」が間にほぼほぼ確実に生じるのだという。国の歴史的・文化的背景によってその熾烈さや長さは様々な結果を生むがある意味避けられない事態なのだという。そしてこの識字化の流れは今世紀世界全体で起こっている。これは人類の歴史のなかでこのような事態は例をみない初めての事態なのである。


 人間が、より正確に言うなら、女性が読み書きを身につけると、受胎調節が始まる。現在の世界は人口学的移行の最終段階にあり、2030年に識字化の全般化が想定されている。1981年に世界全体の出産率指数は、まだ女性一人に対して子供3.7だった。このような高い出産率だと、地球の人口は急速に拡大することになり、低開発状態の継続という仮説は真実と考えられていた。ところが2001年に、世界出産率指数は女性一人に対して子供2.8に落ちたのである。人口の1対1の単純再生産を保証する出産率指数は2.1だが、それに極めて近づいたことになる。これらの数値からすればもはや明確に想定できる将来、おそらくは2050年には、世界の人口が安定化し、世界は均衡状態に入ることが予想できる。


おっと待った!2050年に世界の人口が安定的均衡状態になる!?僕は最近人口動態の過去と将来について気になってちょっと調べたりしはじめていたのだけれども、どれもいま一つ釈然としいなものばかりで困っていたところだ。しかし世界人口が安定的均衡状態になると明言しているものにははじめて出合った気がするぞ。

事実国連が発表している2010年版の「世界人口予想」では、2050年までに90億人、21世紀末までに100億人を突破すると予測されている。一方で日本の人口はすでに減少に転じており、100億の人口に対して1%に足りるか足りない日本として政治的・経済的優位をいかに維持していくかということが日本にとっても重大な課題となってきたという論法で話が進んでいるものがあった。世界人口が増え続けていく一方でどんどん減っていく日本としいうのもなんだか極端というか不自然なものがあると思っていたところなのでトッドの描く世界観の方が信憑性は高い気がします。

アメリカ合衆国でも白人人口が減りマジョリティーとしての危機がうたわれたりしていたっけ。更には先日のニュースでは、アメリカの異人種間の結婚率が1980年から倍増したという話が述べられていた。 世界人口が増え続けるのかそうはならないのか。このどちらの推測にたって物事に向かうかによってその結論と行動は自ずと全く異なるものになるだろう。

話をすこし戻すと識字化の進展によって起こった中東の革命にアメリカ合衆国は共産主義との闘いに変わって現れた次の舞台だと捉えている。ここに出張って闘うことこそが世界におけるアメリカ合衆国の役割であって、そうすることは責任であり義務でもあるという訳だ。

階級や宗教や民族の間で起こるイデオロギー的対立にどちらか一方が正しくてどちらが間違っているなんてことはあるのだろうか。或いはどちらか一方が劣っているとか。
ここまで雑に書くとさすがに反論もあろうかと思うけれども、解がないということには同意が得られるのではないかと思う。そしてこの解のない対立に決着を付けようとすればするほど独善的な部分が出てきてしまうということについても。

世界各国で民主主義が進み識字率が向上していくことで世界は安定化均衡化に向かう。その中でアメリカ合衆国が現在のように独善的で利己的な行動で世界を牛耳ろうとすればする程にその無用性は拡大していく。アメリカが活動するためには世界からの信用と金、財・サービスの流入が不可欠である訳だが、無用性が高まればそれも先細りとなっていくことは避けられないだろう。

問題はそうタイトルにある通り「帝国以後」なのだ。これだけの大国、多くの人口を抱え比類ない軍事力を備えた超大国をだれがどうやって統制し管理していけばよいのだろうかというところにある。

本書はフランシス・フクヤマやブレジンスキーなどの例を引きながら、こうした事態を踏まえつつもアメリカの覇権の生き残りを賭けて戦い続ける富裕層と政治的リーダーたちの思考回路の働きや言動を追っていく。そもそも第二次世界大戦を経て共産主義と闘ったアメリカ合衆国は、世界平和のため、民主主義のため、アメリカ合衆国の国益のためとその枠組みを縮小しつつも戦い続けてきている。そして現在。


 アメリカのユダヤ人自身が反ユダヤ主義者とみなしているキリスト教原理主義者たちは、政治的に共和党に同調している。ところでイスラエルへの支持は共和党支持層において最大となる。またブッシュを支持する宗教的なアメリカの右派勢力は最近、イスラエル国家への情熱に目覚めた。それはイスラム共同体とアラブ圏に対する憎しみの裏返しに他ならない。その一方でアメリカのユダヤ人の四分の三は依然として中道左派を志向しており、民主党に投票し、キリスト教原理主義者に不安を抱いていることを考慮するなら、ことはまさに逆説の極致ということになる。すなわちアメリカのユダヤ人と、アメリカの有権者のうちイスラエルを最も強く支持する部分との間には暗黙の敵対関係が存在するわけである。


まもなくアメリカ合衆国は大統領選挙です。ロムニー氏はこれまでの政治的スタンスを更に右傾化、かなり極端だという意見もあるほどにして大統領選挙に臨んでいる模様であります。果たして2050年どんな世界になっているのでしょうか。

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膨張宇宙の発見-ハッブルの影に消えた天文学者たち
(The Day We Found the Universe)」
マーシャ・バトゥーシャク(Marcia Bartusiak)

2012/08/25:今年の夏休みは帰省ついでに高原の温泉地で一泊骨休めしてきました。我が家の場合こうしたイベントではいつも決まって天気がよくない。一体誰が雨男(女)なのか。とにかく雨が降る。しかし今回はこれまでに経験したことがないような晴れ。

ついた時にはもう日暮れどきでしたが夜満天の星空に出会うことができました。宿や料理や温泉も素晴らしかったんですが、この星空に比べれば霞むほどの光景でした。僕ら夫婦も天の川が肉眼で見えるこの夜空は本当に久しぶり見た。何かとても心の深い部分で感動しました。

天の川は僕らがいる地球が属する銀河で、そのかなり外円部に位置する僕らは巨大なうずまき銀河の円盤を真横から見ている。銀河の直径は10万光年とも推定されている。天の川の光の帯が実際には奥行き10万光年近くに広がる円盤だということを想像してみよう。子供たちにこんな話をして「えーっ!」などとびっくりさせてみる。そりゃ驚くよね。僕もそう話しているとこの銀河の中心に向かって落っこって行きそうな気分がするものね。

この「えーっ!」と驚く仰天のパラダイムシフトは科学界ではそれこそ発見の数だけあるのだろうけれども、我々素人でもびっくりするもの、それも椅子から落っこちそうなくらい驚くものというとやはりその数は限られてくる。

それまでミジンコよりも小さい生き物はいないと考えられていたところに池の水を顕微鏡で覗いて微生物を発見したとか、実は地球が丸かったとか、太陽の周りを回っていたとか。勿論アインシュタインが予言したとおり光が曲がるなんてのもびっくりな訳だけども、それよりも何よりもびっくりなのはこの宇宙が今も膨張し続けているということなのではないかと僕は思う。

アンドロメダ星雲のように銀河と重力でつながり接近しているものを別とすれば互いの銀河は膨張する宇宙空間の波に乗ってすべての方向から遠ざかりつつある。眩暈を覚えるような現実だと思う。

これに気がついたというかこの事実を発見した時の驚きというのはどれほどのものだったのだろうか。そんなことを時折考えていた。
そこにこの本「膨張宇宙の発見」であります。まさに直球、ストレート。

膨張宇宙と云えばエドウィン・ハッブル。地球の衛星軌道上を回る宇宙望遠鏡に名前を付けられたばかりか、その望遠鏡によって捉えられた宇宙の誕生初期の姿をハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールドと呼ばれるまでになったハッブルとは一体どんな人物であったのか。

勿論ハッブルが単独で膨張宇宙を発見したわけではなかろう。すべての科学は前人たちの偉業の肩の上に乗って前進するものだ。しかしハッブルの件について云えば、想像以上に脚色され伝説化された姿があった。

アインシュタインが一般相対性理論を発表したのが1916年。エディントンらがプリンシペ島に遠征して皆既日食を観測したのが1919年。それでも当時はまだ宇宙の本当の大きさは全く分かっていなかった。

メシエが天体カタログを作成したのは1771年。望遠鏡の精度が向上するにつれてこのカタログに載っている天体の姿形が徐々に鮮明になってくる。星なのか雲のようなものなのか分からなかったものが実は渦を巻いていることが分かったのは1845年。第三代ロス卿ウィリアム・パーソンズと助手のジョンストン・ストーニーは自らの城に作った90センチの反射望遠鏡によってうずまき銀河のその姿をはじめて確認した。写真のない時代だったから彼らはその姿をスケッチして報告したのだった。

その後発見された銀河の数は急激に増大しアインシュタインが相対論を生み出していた頃には100万個をくだらないだろうと推測されるまでになっていた。しかし、これらの銀河が我々のいる銀河系の構造の内側にあるのか、外側にあるものなのかについては議論が分かれていた。そもそも僕らの銀河系における太陽の位置がその中心にあるのかどうかについてもよく分からなかったのだ。

この宇宙に銀河は一つであって太陽がその中心にあり、この銀河の周辺構造にうずまき星雲が点在している。うずまき構造はあくまで星雲つまりガスであってその大きさはそれほど大きなものではない。こんな考え方に立っている人たちも大勢いたのだった。

この得体の知れないうずまき構造は一体どんなものなのか。いつもながらブレイクスルーは思いがけないところからやってくる。


 1859年までに、物理学者のグスタフ・キルヒホフと化学者のロバート・ブンゼン(伝説的なブンゼン・バーナーの製作者)が、これらの暗線と輝線の意味をついに明らかにした。ブンゼンが改良した明るく熱い炎を出す機器を使うと、過去の研究者を悩ませてきた紛らわしい不純物が混じることなく、熱して分光器で見たそれぞれの化学元素の色の線が特定のパターンを現すことを、同僚の二人のドイツ人は最終的に証明したのであった。各元素の発するスペクトルは完全な虹ではなく、その中の二、三色だけだった。さらに重要なのは、のパターンが指紋のように一定で識別可能なものだったことである。周期表の個々の元素は、それぞれ一組の固有の輝線を持っていた。ある晩、研究室の窓からライン平原越しのはるか遠くに見える、マンハイムの港町の火事を分光器で覗いていたキルヒホフとブンゼンは、燃えさかる炎の中にバリウムとストロンチウムのスペクトルの特徴を見つけ戦慄が走った。宇宙空間を通る光に距離は関係ない。


どんなに遠くにある物質も僕らの身近にある元素と同じものでできている以上、同じスペクトルを放つ。宇宙の果てで集めた材料を使って作ったマッチを擦っても燃え上がる炎は今僕らが見ているものと全く同じだということだ。地球型の惑星に浮かぶ雲の形はどの星であっても同じ様子なのだというのは何かとても安心させられる事実ではないだろうか。

そして赤方偏移。救急車のサイレンがドップラー効果で音の高さを変えるようにスペクトルも近づいているのか遠ざかっているのかによってずれが生じる。星や星雲から発せられる光をスペクトル分析することで対象物が自分達から遠ざかっているのか近づいているのかを測ることができるのだ。1895年ジェームズ・キーラーは土星の輪をスペクトル分析の結果から輪が土星の周りを回転していることを発見する。

しかし、暗く小さな星雲にフォーカスをしてスペクトル分析が行えるようになるまでには数々の技術的・工学的なハードルを越えるのを待つ必要があった。


ハーヴァード大学天文台にはコンピューターと呼ばれる女性達が働いていた。彼女らは男性の天文学者らが撮った天体写真やスペクトル分析の結果から恒星の分類分析を行う作業に従事していたのだった。ここに働いていたヘンリエッタ・リーヴィットは恒星のなかには稀にその明るさを周期的に変えているものがあることに気付いた。

これらの変光星は実は太陽よりも5倍から20倍の質量をもつ恒星がその進化の最終過程に膨張と収縮を繰り返すことで明るさを変えることが分かってきた。1912年、リーヴィットはこのケファイド変光星を注意深く探しだし、更にはそれらの星たちの光度と周期には一定の法則があることを発見する。

つまり周期がわかれば光度が特定できるという訳だ。これらの変光星は宇宙に点在しているので地球から見える見かけ上の光度には当然差がある。しかしこの尺度を使うことで見かけ上の明るさの差によって星の遠さが違うことが分かるのだ。あとはどれでもいい一つケファイド変光星との実際の距離さえわかればすべての変光星との距離を割り出すことができる。

なんという慧眼だろう。

そしていよいよハッブル。まさにライジングだ。

1923年。エドウィン・ハッブルはウィルソン山天文台で当時世界最大の2.5メートル反射望遠鏡、フッカー望遠鏡を使ってアンドロメダ星雲とさんかく座星雲の周辺部にケファイド変光星が存在することを発見する。


 その信号は、私たちの銀河、銀河系が唯一の銀河でないことを明らかにしていた。アンドロメダ星雲とさんかく座星雲が、私たちの銀河の周辺部よりはるか遠くに位置することを、セファイド変光星はハッブルに教えていた。宇宙における私たちの住みかは突然ちっぽけになり、深遠な宇宙に存在するおびただしい銀河のたった一つになってしまったのである。可視的宇宙は一挙に、これまでの数兆倍という思ってもみなかった大きさに拡大された。もっとありふれた言い方をするなら、それは、それまで私たちが1ヤード四方の地表に閉じ込められていたのに、突然ひとかけらの土地の先に、これまで知りもせず想像もしていなかった広々とした海や大陸、都市や村、山や砂漠が存在することに気づいたようなものだった。


宇宙の大きさはこれまで考えられていたものとは正に桁違いに大きかったことが分かった訳だ。これまで地球・太陽を中心とした世界観が大きく崩れ去った瞬間だと思う。僕らの地球は広大な宇宙の辺境に存在する極々小さなものなのだというこのビジョンには畏怖を覚えるものがあると思う。

しかしまだまだ驚くのは早かった。銀河に関する発見からちょうど5年後の1929年。ハッブルとその同僚ミルトン・ヒューメーソンは、宇宙が膨張し続けており、すべての銀河がこの膨張の波に乗ってお互いに遠ざかっているという重大な証拠を手に入れるのである。

銀河が互いに遠ざかっている。それも猛烈な速度で遠ざかっている。更には遠くにある銀河ほど遠ざかる速度が早くなる。そしてその距離はアンドロメダ星雲のような一部の例外を除けば我々との距離に一律比例していることから宇宙の膨張が明らかなのだという。

確かにハッブルは大事な時に大事な場所にいた。そして重大な発見をしているのであるのだけれども、僕が思っていたように宇宙の膨張の証拠を発見しても驚くとか畏怖を覚えるとかいうことは殆どなかったらしい。あくまで見かけ上そういうデータが取れたということのみで本当に宇宙が膨張しているかどうかを論証するのは自分の仕事ではないとすら思っていたらしい。

本書はこのハッブルをはじめ、数々の天文に取り付かれた人々のエピソードを丹念に拾い上げていく。それも途轍もなく人間くさいエピソードを。彼らは新たな発見を目指して抜きん出るためにテクニックやアイディアを磨き、そして最新鋭の機器を奪い合う。なかでも鼻持ちならない人物の筆頭がハッブルだったりするのだ。

こんなにいやなヤツだとは思わなかったよ。

最新の宇宙論によれば、観測可能な宇宙は半径約460億光年の球状の範囲でこの観測可能な宇宙に存在する銀河の数は約1000億個と言われている。赤方偏移した星たちの観測も進み現在では光速を超えて遠ざかっている天体がすでに千個程確認されているという。


近年科学の世界は僕達の想像を超える速度でこの世界観を変えてきたと思うのだけれども、その速度をもってしても遠く及ばない広がりをこの世界は持っていることをその度に世界は我々に見せ付けてきた。

この次のブレイクスルーは何時どんな形でやってくるのだろう。そしてそのブレイクスルーを遂げたときにこの世界はまたどんな貌をみせてくれるのだろうか。




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バターン死の行進
(Tears in the Darkness:
The Story of the Bataan Death March and Its Aftermath)」
マイケル・ノーマン (Michael Norman)
エリザベス・M・ノーマン(Elizabeth Norman)

2012/08/18:先週から時間をみつけてはちくちくと記事をひねくり回しているのだけども、どうにもなかなか纏まらない。なぜだが書いていると何か心が乱れて、文章がもつれてしまう。

広島・長崎の原爆の日や終戦記念日を過ぎたからだろうか。日本軍の愚かな戦いが長びけば陸軍飛行兵学校に入っていた父も出陣し帰らぬ人となり、そして当然僕が生まれることもなかったかもしれないというようなことをついつい考えてしまうからなのだろうか。

「バターン死の行進」と呼ばれる事件のことを知ったのは、デイモン・ゴースの「敵中漂流」という本だった。この「バターン死の行進」は、1942年、前年の真珠湾攻撃に引き続きフィリピンのバターン半島でダグラス・マッカーサーが司令部を置くコレヒドール島攻略に向けて日本軍が侵攻したことに始まる。
迎え撃つアメリカ軍は、マッカーサー司令官を神のように崇めたて大切にしていた。事実マッカーサーは第一次世界大戦で多くの戦歴を残した歴戦の勇士であった。そしてこのマッカーサーは日本が本気で攻めてくるということに懐疑的であり、また日本軍の実力を完全に舐めていた。このマッカーサーの意見に対し軍内部もアメリカ政府も反論して押し戻す力はなかった。

なかば奇襲的に侵攻した日本軍は相手の隙を突いた。しかしそもそもそこに配備されていたアメリカ軍とフィリピン兵は訓練と経験が不足した状態であった。圧倒的な物量による抵抗で日本軍は多くの損害を出しつつもじりじりと前進、コレヒドールの要塞に篭城していたマッカーサーに、"I shall return" の台詞を言わしめ敗走させた。

事前の状態から見ればその結果は明らかなものがあったがマッカーサーにしてみればそれこそ大変な屈辱的敗北であった。

アメリカ政府もマッカーサー同様日本軍の実力を完全に舐めてかかっていたことは一緒だった。日本を国際社会から孤立させることで日本が牙を向くように仕向ける外交戦略をとってきたのはアメリカだった。日本が反撃することで攻撃する口実ができるのを待っていた訳だ。攻撃してきたら一ひねりにするつもりだった訳だ。しかし、真珠湾にせよ、フィリピン、マレーにせよ日本軍の侵攻の激しさはアメリカ政府の予想を超える事態と規模で広がった。そして現地に派遣された兵士達は見捨てられた。

援軍も支援物資も途絶えたバターン半島での戦闘はマッカーサーが執拗に戦う姿勢を見せていたこともあり、熾烈を極めていく。援軍も救援もない袋小路の半島に8万人近い兵士達は孤立した状態で見捨てられたのだ。


 1941年の秋、杉山(杉山元 陸軍参謀総長)は本間(本間雅晴 帝国陸軍第14軍司令官)と他の二人の中将、山下泰文と今村均を本部に呼んだ、参謀本部が太平洋における西洋諸国の既知を攻撃すると決め、杉山が日本軍の幹部に任務を伝えるときがきたのだ。山下はシンガポールとマレー半島でイギリスへの攻撃を指揮し、今村は蘭印のオランダを攻め、本間は第14軍の作戦を指揮してフィリピンをアメリカから奪う、と杉山は言った。それから、と彼は本間に向かって警告を付け加えた。陸軍のほとんどが中国で泥沼にはまりこんでいるため、参謀本部は南西太平洋の作戦に20万人の兵力しか投入していなかった。領土を迅速に奪い、小規模な守備隊を残してその領土を守らせ、戦闘部隊を次の戦いへ進ませる計画だった。参謀本部の決定では、本間がフィリピンの攻略に与えられるのは50日間だけで、そのあと部隊の大半は今村の蘭印攻略に移されると杉山は言った。

 今村と山下は新しい指令の「名誉」受け入れてうなずいたが、本間は---上官への盲従ではなく鋭敏な知性で軍の上層部へと昇進してきた彼は---懸念を抱き、杉山に質問を浴びせた。

 「50日以内と言われるが、それはどうやって算出された日数でありますか」と本間は言った。敵の兵力がどれくらいかわかっているのか。マニラ攻略は二個師団で十分だと誰が決めたのか。参謀本部のどんな天才が、たった七週間でマニラを攻略できると考えているのか。

 杉山は怒りをあらわにし、山下と今村は衝撃を受けた。本間は上官の命令に無条件に従うという大日本帝国の軍のしきたりに背いていた。それどころか、参謀本部の能力に疑義をさしはさみ、進攻計画に欠陥があるとほのめかしているようなものだった。そして、これほどずけずけと、辛辣かつ率直にものを言うのは、日本人の人間関係を支配する厳しい礼儀に反することだった。本間の質問とその意味するところは参謀本部に恥をかかせ、山下と今村に気まずい思いをさせた。


一方日本軍には日本軍の事情があった。戦争への道を強引に推し進めようとする参謀本部の意図とその作戦は何もかも「負けない」前提で作られた、云ってみれば杜撰なものであったが、物申すものは暗殺も辞さない手段で消されていた。

この帝国陸軍第14軍司令官本間雅晴も、戦争には否定的な姿勢を持った一人だった。彼は駐英武官としてイギリスに渡った経験を持った親英派で東条英機と敵対する関係にすらあったのだった。その本間に言い渡されたのが50日間でフィリピンを攻略せよという、根拠の薄い無茶な命令であった訳だ。

先に書いたとおり第14軍はコレヒドールを奪還するのだが、50日を遥かに越える日数がかかってしまったことで参謀本部からは激しく非難されてまでいたのだった。

この支援の薄い日本軍が飢えながらも戦い抜いたその目の前に現れたのが8万人という未曾有の捕虜だった。これほどまでの捕虜を生んだのは歴史的にもはじめてのことだった模様だ。そしてこの事態はそれこそ誰もが想定していなかった事態だったのだ。

この捕虜の移送がバターン死の行進と呼ばれる事件へと発展していく。圧倒的な捕虜の数と計画のなさが数々の問題を引き起こし、それらの問題はすべて弱者の捕虜に過酷な状況を生み出してく。そして長く大きな犠牲を払いながら戦った日本兵の憎しみが捕虜たちに向けられ更に陰惨な虐待・虐殺をも引き起こしていった。そこでの死者は7千とも1万とも言われている。また幸運にも生き残った人々であっても極端な栄養不足と現地病に加え肉体的精神的虐待によって数々の疾病傷害を受けたのだという。

先の「敵中漂流」のサイモン・ゴーズは早期の段階でこの行進から脱走し、日本兵の間を危機また危機の連続を乗り越えてはるばるオーストラリアまで逃げ延びていく脱出行であった。なので実はこの本では行進そのものの悲惨さはあまり詳しくわからない。

本書はこの場に居合わせた日米の大勢の生存者たちにインタビューを重ねて生み出されたものだそうだ。また本書はバターンの事件にとどまらず、そこを生き延びた捕虜たちが輸送船に詰め込まれ(ここでも多数の死者を出しながら)、日本にやってきて鉱山で奴隷のように働かされていく様子までをも描いていることだった。

こうした史実が本となって出てきたことははじめてのことになるのだろう。僕ら日本人はみなこうした事実を知る義務があるのだと思います。

アメリカ兵の捕虜が日本にきて労働をしていたということを僕ははじめて知りました。インタビューをされた人たちの一人であるベン・スティールはこうして日本までの長い長い熾烈極める移動を生き延びた一人だった。

今年は戦後67周年。たった67年前日本人はここまで残酷なことができたのだということには慄きを覚える。曰く農耕民族は狩猟民族に比べて残酷になりがちだと。そんなことをついつい鵜呑みにしてしまいそうだ。しかし、それ以前に8万の兵を切って捨て、広島・長崎に原子爆弾を落としたアメリカ政府はどうなのだろう。ヴェトナム戦争で行った虐殺事件は?ボスニアやアフガニスタンで繰り広げられる数すら数えられることもなく消えていっている命はどうなのだと思わずにはいられない。

バターンの事件は日本人として恥ずべき過去だとは思うものの、この責任がすべて日本にあるとするのはやはり拙速だと思う。勿論本書もそんな論調ではなかったけれども、真摯にこの事態が教訓を引き出すのはなかなか難しい。

もっと切り込んで欲しかった部分に辻正信のことがあった。


 超保守派の軍隊組織にあって、辻はきわめて悪賢く立ち回り、よく計略をめぐらし、どうやら限度を知らないようだった。日本は民族戦争を戦っていると信じ、白人を憎み(枢軸国であるドイツとイタリアの民族は例外だった)、白人と同盟するアジア人を嫌った。「西洋人に対しては少しも仮借することなく、我が正当な要求を貫徹することが必要である」という彼の論は、陸軍内で広く読まれていた。1942年4月上旬、本間が第二次バターン半島総攻撃を開始する数日前に、辻は予告もなくマニラにあらわれ、本間の参謀たちには大本営との「連絡役」として来たと称し、自動車でバターン半島各地の野戦司令部を訪ねては、師団や連隊の指揮官に会い、荒唐無稽な、背筋の寒くなるような命令を下した。

 和知の証言によれば、辻は、戦場の連隊長に対して捕虜を「情け容赦なく扱う」よう指示し、従うように脅したのだという。

問---「情け容赦なく扱う」とはどういう意味ですか?
答---殺すという意味です。

この人物こそ弁護団の探していた悪漢であり、真の戦争犯罪人だった。辻は、東京の大本営から真の目的を隠してあらわれ、本間のもとで働く指揮官に、非武装のアメリカ人捕虜、すなわち「毛唐」という毛深い、肌の白い獣をいじめ殺すよう命じていた。


どうやらこの辻は参謀本部からの肝いりで本間が仕切っているはずのバターンで野戦司令部を勝手に回ってアメリカ人捕虜に対する虐待・虐殺を後押しし限界をこえて極端化するよう働きかけていたようなのだ。

しかもこの男は敗戦後、行方不明となっていたことから戦争裁判にかけられることなく、ほとぼりが冷めた頃になってあらわれ逃亡していた頃の本を書いて財をなし、政治家になったりしたヤツなのだ。この男のやったこと、そしてこの男の命令によって引き起こされたことこそ、白日のもとに引きずり出すべきものであり、こうした人物が権力をにぎり我が物顔で組織を牛耳ることのないように牽制することこそ、この戦争に学ぶ最も重要なことではいなかとすら思うのだ。

こんな人物の逃亡劇の本を喜んで読んでた人がいるというのも全くもって残念な話だと思う。一方で戦争裁判にかけられた本間の運命。我々の生きているこの世界こそ公正で公平で正しく進むことばかりではないことがなんともやりきれない思いを抱かせるのでありました。

この本にあるのは、そう圧倒的な報われなさなのだ。


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シンメトリーの地図帳
(Symmetry)」
マーカス・デュ・ソートイ(Marcus P.F. du Sautoy)

2012/08/05:「シンメトリーの地図帳」。シンメトリーの地図帳とはどういう意味だろうか。地図がシンメトリーになっているという意味かと思ったらそうではない。

シンメトリーの素数を網羅する地図帳だという。対称性を網羅する?ますますわからない。数学音痴の僕としては全く想像がつかない。著者のマーカス・デュ・ソートイ(Marcus P.F. du Sautoy)はリチャード・ドーキンスのあとを受けて「科学啓蒙のためのシモニー教授職」にもあるオックスフォード大学数学研究所教授だという。

シモニー教授職の立場で科学啓蒙のために書かれた本であれば、僕のような数学音痴であっても読めば幾ばくかのことがわかるかもしれない。


8月26日正午、シナイ砂漠にて

その日はわたしの40回目の誕生日だった。気温は40度。わたし、強力な日焼け止めクリームを塗りたくり、紅海の岸にある掘っ立て小屋の陰に隠れていた。青い水の向こうには、アラビア半島の影がちらちらしている。沖合いの、珊瑚でできた岩棚が海底へと落ち込むあたりでは波が白く砕け、わたしの後ろには、シナイ半島の山々がそびえていた。


こんな書き出しではじまる本書。この先どんな展開が待っているのだろうか。僕は先がまったく見えないまま気がつくとこの本にのめり込むようにして読み始めていた。

平面の敷き詰めシンメトリーは17種類しかないということが証明されているのだそうだ。ムーア人たちによってアルハンブラ宮殿が建てられたのは、そんな証明が生み出されるよりもずっと前のことなのだが、この宮殿にあるモザイク模様は17種類すべてを網羅しているのだという。

数学者・群論を志すものとしてアルハンブラ宮殿ですべてのシンメトリーを発見するのはひとつの冒険になっているらしい。ほんとかな。

少なくともソートイはむずかる子供トーマーをなだめながら宮殿内を探索し、果ては早朝ホテルを抜け出し、立入り禁止の部屋に忍び込みシンメトリーの種類を探して彷徨う。このアルハンブラ宮殿にはエッシャーも訪れ感化されたのだという。

エッシャーはこの宮殿の二度目の訪問の後、「メタモルフォーシスⅠ」を生み出したのだ。

相変わらず周囲の皆さんは「また、変わった本を」という顔をしていたけれども、この本は格別に面白い。文章も構成も展開も素晴らしい。

ピタゴラスからガウス、ガロア、そして現代の群論に連なる2千5百年以上に渡る数学史。アルハンブラ宮殿を巡りシンメトリーを捜し求めるソートイと息子のトーマーの旅。

そして虚数、3次元を楽々と超えて広がるシンメトリーの世界。そしてその先に現れるのは19万6883次元に存在するシンメトリー体。その名もモンスター。

この時空に浮かぶこのモンスターの形は目で見ることも思い描くことも不可能だけれども、確かに存在しているのだという。このシンメトリーの存在をすべて網羅した地図帳を作ろうと思い立った数学者たちの姿。何より数学音痴の僕でもわかった気になるような平易な説明がありがたい。

実際のモンスターに近づきたいかたはこちらに進む。

Atlas of Finite Groups: Maximal Subgroups and Ordinary Characters for Simple Groups

僕はまったく歯が立たないことがわかっているので遠くから応援させていただきます。週末の作業で本書の群論にかかる部分を纏めるのは僕の能力の及ぶ範囲を全く超えております。ということで今回は簡潔に済まさせて頂きます。


本書は先に述べたエッシャーをはじめ、ボルヘスの文学やバッハの音楽など芸術・文化に深く根ざしたシンメトリーにひきつけられる我々人間の心を幅広いジャンルで浮き彫りにしていく。その最先端を走るものがシンメトリーに心を奪われた数学者なのだろう。

シンメトリーがこの世界の基本原理に深く根ざしたものなのか。我々人類が生み出したものであるが故数学には繰り返しシンメトリーが浮かび上がってくるのか。凡人の僕には知る芳もないことではありますが、この数学の世界の果てしない広がりのほんの気配だけでも触れることができた気がします。目まぐるしく舞台を変える構成も読者を飽きさせず夢中になって読める本になっておりました。そして良く眠れる。

「数字の国のミステリー」のレビューはこちら>>


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自爆する若者たち―人口学が警告する驚愕の未来
(Soehne und Weltmacht)」
グナル・ハ インゾーン(Gunnar Heinsohn)

2012/007/22:梅雨が明けました。というか今年の首都圏は梅雨のじめじめ感はなく台風ですごい豪雨が何度も通り過ぎていった感じです。そして7月も下旬。仕事も再び目まぐるしくなってばたばたとしております。

先日読んだブライアン・フェイガン「水と人類の一万年」のレビューではこんなことを書いた。

我々が生きていくうえで必要となる飲料や農業に利用可能な淡水は地球にある水の僅か3%に満たない。しかもそのだい部分が氷河や地下水という形で手の届きにくい場所にある。一方で世界人口は70億を超え、近い将来100億を突破するであろうとの予測が出ている。過去を振り返ってみると確実なものではないが人口が1億を超えたのはわずか2~3千年たらずも前のことなのだ。

人口が1億を超えたのはわずか2~3千年たらずも前のことなのだ。なんて書いているけれども、書くために調べて僕も知ったというのが現実。そして驚いた。
諸説あるようだけれども2千年前の人類の人口はせいぜい3億人くらいだったらしいのだ。

それが2千年弱で20倍以上に増えた勘定だ。しかもこの増加傾向は近年になるに従い加速度合いが激しい。どんなに大人しくしていても地球環境になんの影響もないなんてことはあり得ない数字だと思う。

更に近い将来人類は100億を超える日がくるという予測もある。一方で我々人類は永続可能な社会になっているとは言い難いといわれ続けている。とすればこの上限とはどの位であってそれは一体何時頃迎えることになりそうなのだろうか。

それに対して日本はというと、2010年の総務省の国勢調査の結果によれば、1970年以降で初めて減少し、いよいよ本格的に日本人の人口は減少に向かうという分析がなされている。日本人の15歳未満の子供の数もまた減少を続けており、2012年1665万人で2011年から2012年を比較すると28万人程減った勘定になるのだ
そうだ。

人口動態についてすこし調べておきたいと思って物色しているところで出会ったのが本書「自爆する若者たち―人口学が警告する驚愕の未来」。エマニュエル・トッドが人口動態を詳しく調べることで国家の衰退を予測したりしていることからみて、国力や未来像を人口動態の面からきちんと捉えるというようなことをこれまでの人たちはあまりやってきていなかったのではないかという気がしていた。戦後の経済成長が実はベビー・ブーマーが動かしていたというのは後になって見ればわかったことなのだ。

ここでであったのは「ユース・バルジ」という言葉。訳者の猪俣和夫氏によるはしがきにはこんなことが書かれていた。


著者のグナル・ハイゾーン氏は社会・経済学者。1943年生まれで、ベルリン自由大学で社会学、歴史学、心理学、経済学、宗教学を修めた、と略歴にある。1984年にドイツのブレーメン大学に終身教授として招聘され、1993年からは同大学でヨーロッパ初の「ジェノサイド研究所」を主宰。いわば集団殺害問題の第一人者である。

そのジェノサイド研究の第一人者が、世界各国で頻発するテロの原因として、人口統計に見える「ユース・バルジ」(youth bulge)という現象に着目した。

大方の人にはまだ耳慣れない用語かもしれないが、「ユース・バルジ」の「バルジ」とは、年代別の人口をグラフに表した人口ピラミッドの「外側に異様に膨らんだ部分」を指す言葉である。したがって「ユース・バルジ」を強いて訳せば「過剰なまでに多い若者世代」とでもなるだろうか。たとえば最近のアフガニスタンの人口ピラミッドを見てみると、15歳未満の若者人口が多いため、きれいなピラミッドというよりは、末広がりになっていることがわかる。


この「ユース・バルジ」が閾値を超えると世代や民族や宗教の違うものたちの間で対立が生じてくるということを言いたいらしいのだ。ちとこちらが目論んでいたテーマからは外れるもののとても気になったので手にしてみました。

15歳未満の子どもたちの人口構成がどうなっているのかというと。
本書の数字を表にしてみたのがこちら。→ご参考まで
その国々の事情によってその構成比にばらつきがあるのは当然なのだけど、これほどまでに開きがあるものだというのはすごい驚きだ。

しかし、考えてみれば僕の父や祖父たちは6人とか8人兄弟だったりして、同じ世代の人たちのなかでは決して突出している訳でもないらしいということからみると、やはり日本の年齢別構成はそれこそ急速に老人が増えて子供が減ってきていることが分かる。こうした年齢構成の変動は社会・経済そして生活文化に深く広く影響を与えることになるのだろうということは想像に難くない。

本書は日本の例も含め、ローマ時代にまで遡り、世界各国の人口動態とその結果どのような事態が起こってきたのかを振り返っていく。
「居場所探し」戦後のベビー・ブーマーよりももっと急激に子供が増大していくと、成長後の自分達の居場所を確保するために、激しい競争がはじまる。その社会が大人になってくる子供達の居場所を確保できなくなってくると、彼らは自分達の居場所を作るために海や国境を越えていきはじめる。

若者たちが突如流入してくる側の社会の文明レベルや人口規模の違いによって、その後の展開は様々になっていくものと思われるが、1500年代のポルトガル、スペインなどの史実はユース・バルジの圧力によるものだと本書は述べている。

しかし、まあ読みにくい。それに加えてこの中世の時代にあってその年齢別の人口動態というものがどこまでホントなのかがよくわからない。


そして話題が現代に及ぶと、いよいよ著者の書きっぷりがどんどんと怪しくなってくる。


 ビル・クリントンが大統領に就任してから、この勢力は「ユース・バルジ」と呼ばれるようになった。この呼称の意味するところは、15歳から25歳までの青年人口の割合が平均以上に高いことである。米国防総省情報局のパトリック・M・ヒューズ中将が、1997年2月5日に、アメリカが抱く懸念をこう素描している。(世界的な脅威にして合衆国ならびに合衆国の国益を損なおうと挑みかかってくるものに『ユース・バルジ現象』があり、それは歴史的にみても不安定要因たりうる大きさとなっている。」当時中将は、自分の国がわずか5年後に、アフガニスタンで「43カ国」の出身者から成るタリバンやアルカイダ(「基地」の意)の若者を相手に生死を賭けた戦いをしなければならないことになるとは知る由もなかった。


アメリカ合衆国の共産主義の次の敵は「ユース・バルジ」であって、このユース・バルジは合衆国に挑みかかってくる脅威であり、合衆国政府としてはこのアドレスを持たない敵たちに国益を賭けて戦う必要があるということを云っているように読める。
なんなんだこの違和感は。国が他国の若者を標的にする?そして攻撃することが紛争を呼ぶという意味だろうか?

ひとつふたつ気になる文章に出会った場合、気がつかず読み過ごしている部分とか、これから読む部分にも多々そんなものが見つかることが多い。まるでゴキブリみたいに。
一続きの文章のなかで否定を否定して更に否定してみたり、ほのめかすような意味ありげな言葉で結ばれていたりする。しかしそれらの文章は全体で何が言いたいのかさっぱりわからないし、何をほのめかされているのかもわからないものが多かった。

例えば


 そもそも大国というのは、弱点を自覚したならば真っ先にそれを前向きに捉え直そうとするものだろう。重要なフィールド---有価物、政治形態、人口、軍事、宇宙、経済---すべてで「全域支配」維持のための全世界の情勢分析が恒常的になされている。おそらくアメリカが表舞台から退場して初めて、かつて自分とは直接何の関係もないところで、それもあちこちで、せめてジェノサイドが再発しないように防止に努めた国があったと知って不思議に思う者が出てくるかもしれない。いや、リベラルな強国を回想して感動する者さえいるかもしれない。


アメリカが退場した後で、この国がどんなにジェノサイドの再発防止に努めていたかを想起して感動する者が出てくるだろうと言っている?書き手はこの将来感動する人がいることを肯定的に捉えているのだろうか?つまりは合衆国の現在進めている他国への軍事も含めた介入が正しい行為だとでも?


 すべての面で絶対的な力を持つとはいえ、アメリカのナンバー・ワンとしての地位は相対的に下がっていくと言わざるをえない。ただ、この国の人口の「置き換わる」力はまだ失われていないので、米国の覇権はもう数十年は持ちこたえるだろう。2002年度の人口1000人あたりの出生率は、中国は13しかないが米国は15である。人口が集中する大都市(最も少ない都市で205万)の数にしても、2002年には175あるうち21都市が米国とカナダにある。


中国やインドなどを念頭にしたと思われる文章ですが、向こう数十年アメリカの覇権は揺るがないというのが彼のスタンスのようです。それにしてもその際にどうしてアメリカとカナダの数字を足して使っているのか。

というように見ていくと、著しいアメリカに対する「よいしょ」発言がちりばめられていることがわかってきます。


 アメリカが東アジアの可能性と野心を精緻に知っていることは、改めて言うまでもない。だから、中国と張り合いながらも、世界が穏やかに進んでいくよう大きな車輪を回しているのである。この大国どうしの分業に沿って、「野蛮で残酷」という誤った受け止められ方をしているアジアについては、中国が必要な介入を行うべきであり、地球上の残りの地域はアメリカがしっかりと維持しなくてはならない。大陸ヨーロッパと日本の安全保障の問題は、しばらくは視界から消えることになる。2001年9月11日以降、新疆ウイグル自治区の大殺戮に対する西側の沈黙は、そこに暗黙の盟約が結ばれていることをはからずも語っていると言っていいだろう。ムスリムのウイグル人が暮らす150万平方キロメートルの石油の豊かな土地は、人民共和国の地下資源の75%と総面積の6分の1を占めるが、人口800万のこのローカルな民族は漢民族の入植によって約45%の少数派となった。同時にテュルク系民族は1980年代の終わりごろから、古来の名士に服従を拒む自身のユース・バルジと戦わなくてはならなくなる。中国化政策の強要に反発するウイグル人の若者のテロ行為に対し、中国側は1990年に大虐殺というかたちではじめて反応した。1997年2月に漢民族の部隊がグルジャで一度に数百人の若者を火炎放射器と機関銃で殲滅してからは、イスラム主義者との接し方に中国の手法が現れたと言える。分離独立を唱えるウイグルのエリートを国家反逆罪の廉で何千人も大量処刑したのもそのひとつだ。たから、総体的に組織化のうまくいかないイスラム世界は、同じ12億という人口をかかえる中国人の勢力圏へ自分達が足を踏み入れたなら、果たしてどういうことになるだろうという思いをずっと抱いている。


アメリカと中国が世界を穏やかに治めていくべきだと。「野蛮で残酷」なアジアは中国の分担ねと。中国はこのアジアにもっと介入せよとまで書いています。ウイグル地区の虐殺を西洋が黙認したことはつまり中国にアジアを一任した証だということらしい。しかしこの文章は後半何を言っているのかさっぱりわからなくなる。訳者の人自身意味が理解できているとは思えない。それでも相当酷い偏見を持ってこの本を書いていることは明らかだと思うけども。

ジェノサイド研究所を主宰とか言うことらしいけども、やりたいことはジェノサイドの防止ではなくて促進なんではないかとすら思える。


 このようなオペレーションをアメリカ以外どこが引き受けられるというのか。おそらく、せいぜいが、わずかにイギリスとか台湾とかイスラエルの編隊ぐらいのものだ。もしアメリカがこのような時に打ち損じてしくじるようなことがあったら、その後で収拾を付けられるところはひとつもない。良くも悪くも、ヨーロッパはかつてチャーチルの大英帝国やヒトラーの第三帝国があったおかげで、つまりは1945年以前の話だが、全世界に干渉していけるだけの力を持っていた。中国は----単独行動は別として---、いつの日か民主主義的の指導的強国の役割を担えるまでに成長したとしても、技術的にはまだまだはるかにアメリカに及ばず、その代わりを務めるなど到底無理だろう。

大陸ヨーロッパの場合、とくにジェノサイドを起こした独裁者に対してアメリカが独断先行で行動に出ると、不安がったり、憤激の声を上げたりするが、戦略家はむしろ心配顔でこんなふうに言う。これ以上進展することはありえない。アメリカにだってそうするだけの力はないし、そのつもりもないから、と。攻撃的な帝国が新しく生まれ育つことぐらいは阻止できるという希望を抱くようなら、その心理の底には、ひょっとすると、大民主主義の慢心が潜んでいるのかもしれない。歴史はほんとうにじっとしていられるだろうか。たしかに1927年のパリ条約以降、領土の征服は国際犯罪となった。しかし、大量破壊兵器を保有することで条文以上のものを手にしたとなれば、その保有者が攻撃者に転じないように監視するのは誰がやればよいのか。米国の大統領は、国際法の保護という試みを続けていくにあたって、大量破壊兵器を使った攻撃も受け止めなくてはならず、そういう意味では最後の世界の保安官になるのかもしれない。そうなったら、「America is Finished」という嘆きの叫びは、それ以上に勝鬨の雄叫びとして末永く語り継がれることになるだろう。


これも後半意味不明な文章にもつれにもつれて本人の意図が見えなくなっていくものですが、「ユース・バルジ」が爆発して内乱や他国との紛争に陥る前につぶすべきでこんな所業がきちんとやれるのはアメリカ、イギリス、台湾イスラエルだと言っているように読める。

揉め事が起こる前に特定の国の「ユース・バルジ」の若者達を減らすために大量破壊兵器を使うということ?これもやはり後半の文章の乱れから何を示唆しているのか、肯定的なのか否定的なのかよくわからなくなっていく。

スペインやポルトガル、イギリスの海外進出の背景に「ユース・バルジ」があったのかもしれない。ルワンダのジェノサイドの背景にも長年差別され続けていたツチ族の「ユース・バルジ」の不満の爆発があったのかもしれない。しかし、今世界で起こっている紛争、ガザ地区を頂点に世界に広がるイスラム圏との紛争に彼らの「ユース・バルジ」があるというのはどうにも飲み込めない話だ。不満を爆発させる前にはつまり「不満」そのものがある訳で、理不尽なことを押し付けた側にこそ原因を求めるべきであるにも関わらず、この原因を無視して「ユース・バルジ」に対抗しようとは厚顔無恥、傲慢で慢心にもほどがあるというものだろう。

どうにも気色悪い。こいつはどんてもないくわせものだよ。




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発達史地形学
貝塚爽平

2012/07/16:先日読んだ「プレートテクトニクスの拒絶と受容」に端を発して全体日本の地質学と原子力発電所の開発計画というものはいったいどのように進められてきたのかという大きな疑問にぶつかり自分なりに少し調べてみようという気持ちがだんだんと大きくなってきてしまった。

教科書的なものにはどのように書かれているのだろうか。
この「発達史地形学」は1998年に東京大学出版会から出されている貝塚爽平氏の本だ。貝塚爽平氏は東京都立大学地理学教室の教授を1968年から務め、地形発達史研究や、活断層研究などが専門である。戦後の日本における第四紀学、地形学の指導的な役割を果たした方なのだそうです。

本書の出版年である1998年にお亡くなりになられていることからみて、都立大学退職後の本であることもあり本書を使ってご自身が授業をされたということは残念ながらないようですが、大学での授業を念頭に書かれている本だと思います。

また、氏の経歴をみますと日本第四紀学会会長職を1991年から93年まで務められていることがわかります。日本第四紀学会?第四紀ってなんだろう。


日本第四紀学会

学会の紹介として以下の内容が書かれていました。


 日本第四紀学会は、国際第四紀学連合(INQUA)の日本支部を母体にして1956年に設立された。地球史の現代といえる時代(約260万年前から現在にいたる第四紀)の自然、環境、人類の研究を通して,現在と近未来の環境を理解するべく,それに関わるさまざまな分野の専門家で構成されている.最近数年間の会員数は1650~1850名である.多くの会員の関心は第四紀学の諸分野にまたがっているが,あえて各会員の出身と中心的な専門分野でわけると,次のように多様である(%は2006年度の概数).地質学(40%)、地理学(28%)、考古学(12%)、古生物学(7%)、植物学(3%)、土壌学(2%)、地球物理学(2%)、地球化学(2%)、工学(2%),人類学(1%)、動物学(1%).本学会の大会は,複数分野の部会に分かれずに,一会場で行ってきた,この伝統は本会の特色の一つを象徴するものと考えられる.


ここにあるように第四紀とは約260万年前から現在を差すのだそうだ。ほんと世の中にはまだまだ知らないことばかりであります。

更にウィキペディアの助けを借りると第四紀学(quaternary research)はこの約260万年前から現在に至る期間に関する気象学、地質学、地球物理学、自然地理学、考古学、環境学、人類学などの自然科学の総合的学問分野であるらしい。なぜ第四紀にこだわるのかと云えばそれは人類の登場した時期だからという訳だ。

でこの第四紀学会の歴代の会長の名前などを調べると、
1956~1960 矢部長克氏
1961~1964 多田文男氏
1965~1966 山本荘毅氏
1967~1972 湊正雄氏
1973~1976 吉川虎雄氏
などの名前があがっていました。

この初代会長の矢部氏は1918年に糸魚川静岡構造線を提唱した方。また多田氏が師事した山崎直方氏はウェゲナーの大陸移動説を率先して評価し日本に導入しようとした重要な人物の一人だという。本書の著者貝塚氏もまた多田氏に師事していたらしい。

何が知りたいかというと地団研の影があるかどうかということになるわけですが、当たり前ですがちょっと見たくらいではわかりません。
しかし逆に言えば明らかな地団研の影はない。

こんな事を調べるのは僕の仕事なのかという気がしないでもないけれども。

また、貝塚氏の活動の経緯をみていくと「活断層研究会」という研究会にも関係されていたようだ。

この「活断層研究会」は東京大学出版会より刊行された『日本の活断層』(1980年)『新編日本の活断層』(1991年)の著者を中心に組織された研究会。
更にこの発足の経緯をみるとこんなことが書かれていました。

活断層研究会


 1970年代原子力発電所の計画や建設が進む中,その安全性を巡る議論のなかに活断層はしばしば登場し、防災上考慮すべき 必須のものとして活断層が知られるようになりました。折しも1974年には伊豆半島地震が起こり、地形調査によって予めその存在が知られていましたその活 断層が動き、大地震をおこし,狩野川を荒廃させるなど大きな災害をもたらしました。このような活断層による災害は当時大きく報道され市民に伝えられました。折しも当時地震予知を熱心に進めておりました地球物理学研連の地震予知小委員会から呼びかけもあり、当時の活断層研究者は一堂に集まって活断層研究会をつくりました。それが現在の活断層研究会であります。1975年8月のことでありました。場所はここからほど遠からぬ新橋虎ノ門の虎の門会館でありました。その後余り間をおかずに貝塚爽平先生を代表者として自然災害特別研究という科研費をいだだき、発足5年後にはそれまでの成果をまとめて「日本の 活断層」、いわゆる“日活”を出版しました。そのさらに5年後、つまり10年後の1985年には御存知の学術誌「活断層研究」を創刊し、以来20有余年、 幸い多くのご支持をいただきまして年々発展し現在に至っております。(文責:松田会長)


日本の活断層の存在がきちんと体系的調べられたのはこの時期あたりが初めてだというように解釈してよいようだということが分かります。
1980年。はっきりはしないけどではここで線を引こう。
この時点で稼動していた原子力発電所はどこか。

1966年 東海発電所
1970年 敦賀発電所
      美浜発電所
1971年 福島第一原子力発電所
1975年 高浜発電所
      玄海原子力発電所
1976年 浜岡原子力発電所
1978年 東海第二発電所
1979年 大飯発電所
      ふげん

でもう一度先日の原発付近の活断層の存在の可能性についてのニュースを振り返ると敦賀原発、大飯原発、美浜、高浜原発などは上記の活断層の調査が進む前に建てちゃったものなので、再調査とか書いているけれども、建設前に調査できたのかどうかは甚だ疑問だということになる。

さらにこの活断層研究会のバックナンバーなども読んでみるわけですが、この手の研究会の地道さというかアーカイブの力にはほんと頭が下がります。第一回が1985年。

ここには「『活断層研究』の発刊にあたって」として貝塚爽平氏の文章がありました。

またこの会報をつらつらと辿っていきますと、浅田敏氏の文章につきあたる。この浅田敏氏は地震予知連絡会などに名前が連なる人です。

第9号1991年に「活断層に関する 2 ~ 3 の問題」と題された浅田敏氏の文章。


 わが国では濃尾平野の有名な断層の写真が流布していたにもかかわらず,断層模型の理論が完成するまで,断層は地震が発生に関連した現象の 1 つにすぎないと考える人もいた。断層面の形成が地震の発生そのものであると考えた人は 1 人もいなかったと言っても言い過ぎではない。 この期間は数十年にもおよんでいる。

 この間アメリカの地震学者は毎日サンアンドレアス断層を見て暮らしていたので,断層こそ地震の原因だと考えていた様である。ところで,活断層と言う言葉は大正時代から用いられていたらしいが,日本の地質学者はその間地震の発生と活断層の関係で,どのように考えて来たのであろうか。これが筆者の知りたい第一の問題である。


これ1991年の文章ですよ。
原子力発電所を建てている時点で何をもとに安全だとか言っていたのかということをじっと考える必要があると思いませんか?
「責任者でてこーいっ!」レベルの話ですよね。これ。あれこの台詞をきめにしていた芸人さんってなんて人だったっけ。懐かしいなー。

とまあこんなことを調べているとどんどん時間がなくなっていくよ。


 プレートテクトニクスの確立に際しては、海洋底大地形が、地震と発振機構の分布、海底の地磁気異常の縞模様(古地磁気の記録)などとともに役立った。大地形としては、中央海嶺とそれからはなれるに従って深くなる地形、そして大陸縁に分布する海溝と島弧、および断裂帯の地形(トランスフォーム断層の軌跡とわかったもの)、海山の列(ホットスポットの軌跡とわかったもの)がとくにプレートテクトニクスの概念形成に役立った。


本書はもちろんプレートテクトニクスをはじめ海進や後退、河川などによる侵食等様々な要因から地形がどのように形成されてきたのかについて深く学問する内容になっている一冊となっていました。そしてその対象範囲は地球を超えて月や他の惑星までも取り込もうという野心的なものです。

ふんだんな図版やグラフなども用いて展開していく地形の詳細な分析に僕は目を奪われてしまいました。第四紀学。地形学。これは面白い。また新しい扉がひらいた気がします。




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バナナの世界史-
歴史を変えた果物の数奇な運命
(Banana: The Fate of the Fruit that Changed the World)

ダン・コッペル(Dan Koeppel)

2012/07/15: 普段から「何の本を読んでいるのか?」とか「どうしてその本を読んでいるのか?」といった質問には慣れているのだけれども、本書に対する世間の反応は他の本よりも強めでした。しかも単なる質問というよりも「何の本なのこれ(笑)?」とか「なんでこんな本を読んでんの(笑)?」みたいなノリでくる人が多かったのには驚いた。

バナナのどこがそんなに可笑しいのか。いやいやバナナそのものが常々そんな扱いなのかもねぇ。

Chiquita Banana The Original Commercial



勿論ここで色々説明しても良いのだけれど、アメリカ合衆国の南米に対する植民地政策で数万から数十万の人々が虐待・虐殺されてきたことの歴史の話しだなんてのは、相手の気持ちからみてあまりに場違いで口にすることはできませんでした。

僕はここしばらく近代史の本をいろいろな角度で読んできた。近代史は歴史のなかでは一幕の狭い分野だが、それこそ気になる、興味の沸く話題がつきることはない。なかでも特に気になっているテーマの一つは中南米。どれも似通った経緯を辿ってきた中南米諸国の近代史だ。

中南米の国々は遡るとヨーロッパの植民地としてその国が始まりやがて独立国となった国が多い。それらの国々ではまた時を同じくして反共と粛清の嵐が吹き荒れ政治が腐敗したり政権が転覆したりして結果的に情勢が不安定化してきた。そして今。こられの国はどこもおしなべて貧しい国として肩を並べているような感じだ。

天然資源や豊かな自然環境を抱えていながら後進国として名を連ねているのは明らかにこの近年の政治情勢の不安定さに起因しているように見える。なぜこれら中南米の国々は同時多発的に政情不安に陥ったのか。こんなことを調べだすとすぐに行き当たるのはアメリカの影であり、そして必ずそこにいるのはユナイテッド・フルーツ社だ。

南米諸国はこの会社との取引を通じてアメリカ合衆国と関係を持ち、その関係のなかで歴史的転換点を迎えているように見えるのだ。本書はこうした僕の疑問に真正面から答えてくれるものになっていました。

Yes! We Have No Bananas


 グアテマラの農村部では、バナナ会社が作った政権を後ろ盾とする暗殺者集団が現れた。彼らは左翼と疑わしき人間は誰でも見境なく殺した。言い換えれば、バナナ・プランテーションで働く労働者やその家族なら誰もが殺戮の被害者になりうる、ということだ。それは、この国のバナナ・プランテーションに”正義”をもたらそうとしたハコボ・アルベンス元大統領とその努力を打ち砕いたユナイテッド・フルーツの思惑を、論理的に拡張させた末の行為である。十万人を超えるマヤ族の人々がグアテマラ軍によって殺害され、何万という市民が国外に脱出した。


労働条件に不満を持つ現地の人々をすべてひとくくりにして共産主義者のレッテルを貼り、合衆国国内では反共キャンペーンを大々的に展開して世論を捏造。国民感情を踏み台にして中南米の国々でやりたい放題のことをしていたという見方はやはり正しかった。と思う。

創設期のユナイテッド・フルーツ社がそんな野望を持っていたとか中南米諸国に害を齎すような悪意があった訳では決してないと思うが、バナナの通商が大きくなっていくに従いそれはいつしか国益として捉えるべき大きさになってしまった。そしてこの国益を守るという大義名分が、現地の事情や感情を無視し、やがては虐待や虐殺・暗殺も厭わない無法な行為へとエスカレーションしていく。


 ユナイテッド・フルーツ社がラテンアメリカの国土に与えたダメージは想像を絶するもので、キャベンディッシュに生産が切り替わってからも、回復にはほど遠い状況だった。ユナイテッド・フルーツがグアテマラとホンジュラスに据えた独裁政権はそれぞれの国を何十年にもわたって支配し、虐待や暗殺、はては集団虐殺までもが幾度となく繰り返された。


本書はユナイテッド・フルーツ社の前身であるボストン・フルーツや、スタンダード・フルーツや輸送に携わった会社の歴史に加えそれらの事業、そして上記のような事態を作り出した、或いは巻き込まれて犠牲となっていった人々の歴史にも踏み込まれており、大変辛口でハードな部分をがっしりと持った一冊となっていました。

こうした歴史があることをアメリカ人の殆どは知らない。同じように日本人もこうした歴史があったことを殆どの人は知らない。チョムスキーが繰り返し書いている、言っている通りこうしたことを殆どの人が知らないのは、知らないでいる人が悪いのではなく、知らされないようにしていることに問題があるのだ。都合の悪い歴史は巧妙に取り繕って人々の目になるべく触れられないようにしていく必要があると考える人たちのよってその情報を操作されているからなのだ。

僕は何も陰謀論みたいなことをぶつつもりはありませんけども。よく考えて頂ければ自明のことかと。


 ありふれた食べ物でありながらバナナは間違いなく世界でもっとも複雑な植物である。バナナの木とは言うものの、これは樹木ではない。世界最大の草本である。果実も厳密には巨大な液果に分類される。アメリカ人の大半はたった一種類の”キャベンディッシュ”という品種のバナナしか食べていないが、世界には千種を超えるバナナが存在する。そのなかには数十の野生種があり、多くが小指ほどの大きさにしかならず、種は歯がかけるほど硬い。原種のバナナはアジアからアフリカに渡り、やがてアメリカ人の朝食のテーブルに載るようになったが、その移動の軌跡には、この果物の進化と同様、既知のことと未知のことが複雑に混じり合っている。


バナナが草本だったというのは初耳でありました。バショウ科に属しているというのも随分違和感がありますね。ウィキペディアによれば2009年の全世界での年間生産量は生食用バナナが9581万トン、料理用バナナが3581万トン、総計では1億3262万トンにのぼるということでした。農林水産省「海外統計情報」より、「FAOSTAT」の2006年統計によると米は6億1000万トン、小麦6億0595万トン、トウモロコシ6億9523万トン)ということからバナナが重要な農作物の一つであることが知れよう。

近所のスーパーに並んでいるものをみると、フィリピン産や台湾産のものなど複数の国々から送られてきているものがありましたが、高地栽培、有機栽培となっているものはすこし値段が高めになっていました。しかしこのバナナの品種が何かはみただけではわからない。店頭に並んでいるバナナはどれも同じように見える。

バナナは野生のものも含めると確認されている範囲で千種類以上あるらしいけれども食用になるバナナはもとを辿ると、東南アジアからニューギニアにかけての地域で栽培化されていた数種のバナナがもとになっているのだという。普通は歯が欠けるほど硬い種が先天的にないバナナにめぐり合いこれを育てる技術を得たマレー・ポリネシア系の人々とともに太平洋の島々、インド、アフリカへ広がった。アメリカ大陸への伝播も同様で大陸の発見、移民へと繋がるながれに乗ってバナナは三度海を渡る。

バナナは農耕民族の熱帯地域へ拡散と切っても切れない関係にあったという訳だ。そしてこの種がない食べられるバナナの品種は簡単には増やせないことから世界中で栽培されているバナナはどれも似通った品種になってしまうのだ。

しかし、このバナナは今重大な危機に陥っているのだという。それはバナナの木を根こそぎ枯らす病原体によるものだった。バナナの病気は入植から大規模プランテーションの展開の当初からあったもののようだが、根絶することができない上にさらに新たな病原体も現れてきているのだという。

品種が単一に近いバナナではこれらの病気に対する耐性が等しいため、一度広がるとパンデミックのような様相を呈し、プランテーションや国の単位でバナナの栽培が全滅する事態を招く。

土壌菌フザリウムによって引き起こされる通称パナマ病によってグロスミッチェルと呼ばれていた品種は1960年代までの数十年間で絶滅に追い込まれた。当時アメリカ合衆国へ輸出されているすべてのバナナはこのグロスミッチェルだったのだそうだ。

当時南米では辛くもこのパナマ病に耐性を持つキャベンディッシュという品種を作り出すことに成功しバナナのプランテーションはビジネスを再開させることができた。現在アメリカで食べられているバナナはやはりすべてキャベンディッシュなのだという。

近所のスーパーを振り返るとフィリピン産のバナナはどうやらキャベンディッシュらしい。

そして危機のお話だが、今このバナナはシラトカ病、バンチートップ(BBTVD)、バナナキサントモナス萎縮症(BXW)などの病原体の脅威にさらされている。新しい病気に対して戦う手段としては勿論伝播させない地道な努力が一番な訳だけれども、これらの病気に耐性を持つ品種改良も待ったなしのレースとなってしまっている。もし敗北すれば、1億トン近い食糧需給に重大な支障を生み世界は激震することになるだろうというものだ。

ということで本書は「バナナの歴史?(笑)何それ(笑)!」的な方も含めて是非手にして欲しいと思う一冊でありました。




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プレートテクトニクスの拒絶と受容
-戦後日本の地球科学史

泊次郎

2012/07/07:活断層について調べているうちに目についたのがこの本「プレートテクトニクスの拒絶と受容」でした。プレートテクトニクスの拒絶?副題は「戦後日本の地球科学史」とある。日本の地質学界はプレートテクトニクスを拒絶していた?なんでもその拒絶が10年も続き地質学の進展に重大な遅延をもたらしたというではないか。それって一体いつの話かと思えば1970年代だというではないですか。

僕はこのタイトルをしばらく呆然と眺めていたに違いない。1970年代の日本がプレートテクトニクスを拒絶していた。そんなバカな。

1970年代あらゆるものに興味津々の少年だった僕の記憶では、学校でも科学誌でもよく遊びに行っていた科学館の展示でもプレートテクトニクスが前提となっていたものばかりだったではないか。それに何より70年代と云えば「日本沈没」があったぢゃないか。あれこそ正にプレートテクトニクスが前提となった物語だった。

しかし、どうやら地質学会ではこうした世間の一般常識とはかなりズレた研究を大真面目にやっていたのだという。

 北海道大学、京都大学、東北大学などの地質学鉱物学科では、1970年代にはPT(プレートテクトニクス)を主題とした講義は行われなかった。高校の教科書ではPTが教えられるのに、大学には「PTが誤りである」と教える教授がいたのである。学生たちがPTに関する論文や本を自主的に勉強しているのが教授たちに知れるとしかられたので、教授たちが帰宅した夜間になって読書会を開くのが常だった、と伝えられる。


著者の泊次郎は1967年に東京大学理学部を卒業した人で、在学中は地球物理学者の竹内均氏から直接教授されたこともあるという。その後朝日新聞へ就職し、科学記者を務めたのち、「朝日科学」の副編集長を歴任。学生時代に得たプレートテクトニクス論を中核に地震や大陸移動説などの解説記事を書いていたのだそうです。こうした記事を書くたびに地質学界の重鎮たちから度重なる抗議や批判を受けていたのだという。以上のような経験から日本の地質学の歴史を振り返ることを試みたものが本書だ

また、戦後の地質学史の向こう側には、明治維新によって突如開かれ流入してくる海外の知識文化に洗われ、二度の戦争、そして復興。また資本主義と社会共産主義に揺れる日本の社会の鳴動があり、大学の調査研究もこうした社会的背景の波を大きく被りながら進められてきたことが見えてくる。見た目の地味さからは想像できないような深い内容が含まれておりました。

その意味でも本書は駆け足ながら激動する日本の姿を見事にスケッチしておりました。


 1920年代から30年代にかけて、日本の地質学は新しい時代を迎える。前節で述べたように、東京帝国大学以外の大学にも地質学科が誕生したことは、東京帝国大学「専制支配」に近かった地質学界に、競争の意識を呼び起こした。東京帝国大学では、それまで30年以上も教授の席に座り続けていた小藤文次郎、横山又二郎、神保小虎の3人が1921年から24年にかけて定年などで相次いで退官し、世代交代が進んだ。


 1945年8月15日、日本人だけで約300万人、東アジア・太平洋地域では約2000万人の死者を出した戦争は終わった。東京など大都市の多くは、米軍の空襲で見る影もなく変わり果てていたが、人々の表情には一種の開放感もうかがわれた。国民を抑圧し、戦争に駆り立てた軍事警察国家もまた破壊されたからである。戦前からの価値がことごとく否定される状況に虚脱感に陥る人もあったが、多くの人々にとっては人生をもう一度つくり直すチャンスであった。敗戦後の数年間は活力にみちた時期でもあった。


 1955年から56年にかけては戦後日本の転換点でもあった。1955年には、左右両派の社会党が統一。これに対抗して自由、民主の保守二党も合同して自由民主党が結成された。いわゆる1955年体制の始まりである。一人あたりの実質国民所得は1955年には戦前の最高だった39年の水準に回復。56年に発行された「経済白書」は
「もはや戦後ではない」と述べた。


 1960年の日米安保条約の改定という熱い政治の季節を乗り切った政府・自民党は、その後は所得倍増計画を掲げ、経済第一主義の方針をより鮮明にした。経済の高度成長は続き、1964年には日本もOECD(経済協力開発機構)に加盟、先進国の仲間入りを果たした。それを内外に鮮明に印象付けたのが、オリンピック東京大会である。経済成長の恩恵にあずかった国民の多くは「私生活優先主義」に傾き、レジャーブームが到来した。


このプレートテクトニクスの拒絶に大きく影響を及ぼしたのは地学団体研究会、略称地団研と呼ばれる組織だ。この地団研は1947年に戦前からの流れで硬直した縦社会にあった地質学会に叛旗を翻し若手の地質学者中心に集まって組織されたものであった。

この地団研は徐々に影響力を強め同時に会員数も増やしていった。発足当時は百人程度だった地団研は1961年に千人、1968年には二千人、1974年には三千人を超え、日本地質学会の会員のほとんどが、地団研の会員だったのではないかと考えられるほどの規模に膨れ上がった。

日本の社会情勢が過去の反動で左右に大きく変動を繰り返していくことに歩調を合わせて地団研は連動する。この時期のトレンドは左傾化であった。しかも地団研は創設の意に反していつの間にか創設メンバーを皇帝のように祀る組織へと変貌していってしまうのだった。

本書に対して日本地球惑星科学連合ニュースレターの2009年5月版では東京大学名誉教授・日本学士院会員上田誠也が好意的な書評を掲載している。

http://www.jpgu.org/publication/jgl/JGL-Vol5-2.pdf

上田誠也氏はPTを早くから容認し地団研の頑迷な姿勢を批判し続けていた人たちの一人だったようだ。
これに対して、

2010年1月版では地学団体研究会全国運営委員会より「書評『プレートテクトニクスの拒絶と受容-戦後日本の地球科学史』」の中の事実誤認についてという反論が載せられる事態となっている。ところでこのニュースレターは発効日が間違っていますよと。

http://www.jpgu.org/publication/jgl/JGL-Vol6-1.pdf

でこの反論というものも読んでみたりするわけだけども、代表者に対する個人崇拝や研究テーマに対する自由度について、そんなことはなかった、事実誤認だということを述べているに過ぎず、本書の全体のトーンである日本の地質学界においてプレートテクトニクスの受容に大きく遅れが生じたことについてはなんら反論できていない。

やはり当時の大学では地向斜造山運動と呼ばれる日本独自の解釈による科学研究が中心となっており、プレートテクトニクスは海外の新しいまだ真偽が定かでないものであるかのような取り扱いをしており、そもそもこうした海外からの研究成果を真摯に受ける柔軟さが欠けていたと言われても仕方のない状態であったようだ。

ここでやはり当時を少年時代として過ごした自分として「日本沈没」のような本や映画が世間を賑わせているなかでどうしてこんな事態が続いたのかということに激しく疑問を覚える。小松左京が「日本沈没」を執筆したのは1964年。映画化されたのは1973年だ。10歳だった僕はこの映画の息詰まるようなシーンの連続に椅子にしがみつく思いで観ていた。

こうしたマントル対流を基礎とした大陸移動説を学会として拒絶し、地球規模の構造に対する理解が誤っていたということから突如として気になってくるのは原子力発電所の立地問題だ。

福島の原発が東日本大震災で大きな津波による被害をこうむり炉心融解という事態となったことに対し、政府も電力会社も「想定外」であったことを繰り返した。しかし、昔を振り返るとこの三陸沖では過去何度も地震と津波により甚大な被害を受けてきた地域であった。原子力発電所の立地はどのような条件で選定されてきたのだろうか。

先日、ニュースでは全原発、活断層の可能性を再点検する方向で話が進んでいるということが報じられていた。日本原電・敦賀原発で原子炉の真下を走る断層が活断層である可能性があることを指摘されているほか、大飯原発や美浜、高浜原発、高速増殖炉、「もんじゅ」、東通原発についても断層が存在する可能性があるのだという。

なんで今更活断層なんだよと思っていた訳だけども、本書を踏まえるとそもそもの建設計画を立てていた頃に「活断層」という概念自体が存在しなかった可能性すらあるのではないかということに思い当たる。

そもそも日本の原子力発電所はどこにあるのだろう。そしてそれは何頃からあるのだろう。冷静に考えると僕はそんなこともぼんやりとしか知らない。
ということで取り急ぎ、原子力発電所の一覧を整理してグーグルマップで場所をマークしてみた。建設予定の原子力発電所については相当大まかな場所になってしまっているのでご注意ください。


原子力発電所一覧


そんでもってこっちがマップ




より大きな地図で 原子力発電所 を表示


こうして原子力発電所の場所を俯瞰するとこんなにあるのねと改めて驚きませんか?これで日本の電力のほんの一部しか賄えていない。原子力発電所の運転期間は40年だとか。この先仮にすべての電力を原子力発電所に頼るとなるとどんだけの原子力発電所と廃炉・解体された跡地を日本は抱える必要があるのだろう。日本は人間と原発の墓地ばかりの土地になってもまだ足りないなんてことになりはしないのだろうか。

この原子力発電所と活断層のマップをレイヤーにしたらどんな風に見えるのだろう。しかし、活断層も大きなものでもかなりの数になるので、ちょっとやってみました的な作業で片付くものではない感じだ。残念誰かやってみてくれ。あとは頼んだ。

ところでこれを見れば日本で最初の商業用原子炉は駿河原発でありこの原発の着工日1966年年4月22日、営業運転開始日は1970年3月14日であることがわかる。、この着工時期はまさにプレートテクトニクスが海外で漸く誕生した頃であり、この駿河原発の建設計画はそのずっと前に決まっていた訳だ。

驚いたことにかなりの原子力発電所がプレートテクトニクスを考慮できるようになる前に建設されていることがわかる。では一体どうやって建設予定地を選んだのだろう。


原子力白書を振り返ってみた。

http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/ugoki/geppou/geppou.html

原子力委員会の作成した月報は、とても時代を感じさせる表紙から1956年、昭和31年の第一回からその内容が閲覧できるようになっておりました。
これってなかなかすごいことだよね。でこの月報をつらつらめくっていくと建設計画に関与していた当時の人たちの名前なんかが見えてきたりする。

全部見直す時間なんて僕にはないけれども、ざっと探したところそもそもこの原子力委員会の上層部に地質学者の人が参加している感じがしない。呼ばれてないということなんてありえるのだろうか?こんな危険な設備を建てるのに、地質学者がいない?原子力物理学者と業界の人で立地を検討したり、現地を視察したりしているのだ。少なくとも初期の原子力委員会には地質学者っぽい人は見当たりませんでした。残念ながら今の僕にはその時間も体力もありません。この線でもっともっと調べていけば、いろいろなことが分かってきそうなのだけども、こちらについても是非詳しいことが知りたいと思う次第だが、誰か調べてくれませんかねー。




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