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2012年度も下期に入りました。僕の参加しているプロジェクトは期末・期初は関係なくてこの10月末が大詰め。足掛け5年掛かりの大仕事の手仕舞いに向けて焼き切れるような勢いで仕事をしております。かといって11月に入ったからといって暇になることはないのでありますが、元気一杯仕事をしていきたいと思います。

われらが背きし者
(OUR KIND OF TRAITOR)

ジョン・ル・カレ(John le Carre)

2012/12/31:いよいよ2012年も大晦日です。我が家ではカミさんも息子もお仕事で外出。僕は慣れない家事やなんやらに奮闘中。普段如何にカミさんにまかせっきりになっているかを実感する日々であります。なんで役所や銀行の手続はこんなに分かりにくいのかとか。家のゴミだしはなんで出したはずなのに止め処もなく出てくるのかとか。

今年このページの最後を飾るのはジョン・ル・カレの「我らが背きし者」です。ずっと楽しみにしていた一冊。ほんとは年末年始のお休みにじっくり読もうと思っていたのだけど、仕事納めまでに読み終わってしまいました。

本書の具体的な内容に触れるのは最小限にとどめます。どこをどう切り出してもこれから読む方の読書の妨げになると思うからです。まして要約など。本書の要約くらい困難で無意味なことはないでしょう。

ル・カレは本書もすばらしかった。1931年生まれなので僕の父より一つ下ということになるのだけど、老いてますます鋭さを増すこの人の文才、一体どうやって日々磨いているのでしょう。しかも次回作はもう既に書きあがっているという。"A Delicate Truth"出版は2013年の5月の予定だそうです。
これまで書かれた本は最新作を含めて23冊になる。

1「死者にかかってきた電話」"Call for the Dead"(1961)
2「高貴なる殺人」"A Murder of Quality"(1962)
3「寒い国から帰ってきたスパイ」"The Spy Who Came in from the Cold"(1963)
4「鏡の国の戦争」"The Looking-Glass War"(1965)
5「ドイツの小さな町」"A Small Town in Germany"(1968)
6 "The Naive and Sentimental Lover"(1971)
7「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」"Tinker, Tailor, Soldier, Spy"(1974)
8「スクールボーイ閣下」"The Honourable Schoolboy "(1977)
9「スマイリーと仲間たち」"Smiley's People"(1979)
10「リトル・ドラマー・ガール」"The Little Drummer Girl"(1983)
11「パーフェクト・スパイ」"A Perfect Spy"(1986)
12「ロシア・ハウス」"The Russian House"(1989)
13「影の巡礼者」"The Secret Pilgrim"(1990)
14「われらのゲーム」"Our Game"(1996)
15「パナマの仕立屋」"The Tailor of Panama"(1997)
16「ナイト・マネジャー」"The Night Manager"(1993)
17「シングル&シングル」"Single and Single"(1999)
18「ナイロビの蜂」"The Constant Gardner"(2001)
19「サラマンダーは炎のなかに」"Absolute Friends"(2003)
20「ミッション・ソング」"The Mission Song"(2006)
21 "A Most Wanted Man"(2008)
22「われらが背きし者」"Our Kind Of Traitor"(2010)

未約の本が3冊。僕は「ロシア・ハウス」から「シングル&シングル」までを読み飛ばしてしまったがそれ以外は全部読んできた。それにしても驚くべきは冷戦時代の諜報戦が幕を下ろした後の世界の変貌であろう。

冷戦終了が世界に明るい未来へ、争いのない未来へと前進する大きな一歩であると、恐らくあの当時世界中の多くの人がそう信じていたと思う。ベルリンの壁を打ち壊し歓喜の雄叫びを上げていた若者達の姿は僕らの自由、平等、平和の象徴であったハズだった。

ソ連の崩壊によって共産主義との闘いは間違いなく終焉したが、しかしそれがすなわち自由や平等、平和に結びつくものではなかった事に気づいている世の中の人はまだ少ないらしい。

中国の民主化が決して日本の安全に結びつかないということも。

最近、人類は全体としてサイコパスだと考えるのが妥当なのではないかと思う。というかそれを前提にして世の中を眺めた方が理解しやすいとすら思う。
なんでこれから原発を新設するのだとか。なんのためにオスプレイを導入するのだとか。


 「コロンビアの政府はやりたい放題です。言うまでもなく、アメリカ政府が支援しているからです。村落は焼かれる。住民は輪姦され、拷問にかけられ、体をズタズタに切り裂かれる。みんな殺され、どうにか生き延びた者が、その出来事を伝えるのです。」

 「そうか僕ら二人とも、世界を見てきたってわけだ」


消滅した国境と統制の隙を突いて殺到したのは、利己的で強欲な資本主義者の亡者たちであった。彼らのなりふり構わない、善悪の基準もない、人の命の価値を毛ほども認めない餓鬼のような者どもの手によって世界は不自由で不平等で紛争に満ち溢れた世界へと踏み出してしまったのだ。


 「そして、そこから汚れた金が出てくる。人びとの痛みから利益が生まれる。僕らはそれを見てきた。コロンビアだけで数百億ドル。君はそれを見た。君が追いかけていた男はどれだけの金を動かしていたことか」


ル・カレの作品はこうした世界の現実の姿を暴き出してきた。


 「コンゴでも数百億。アフガニスタンでも数百億。世界経済の八分の一だ。真っ黒い金。われわれにはわかっている」


ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」を読んでみたまえ。チョムスキーはある国に共産党政権が樹立しそうになったどうなると思うかと自問した。どうなるか。先ず海外資本が一斉に引き上げられ、それでも止まらなかった場合はクーデターが起こるだろうと言っている。

日本では安倍が政権を握った途端に円安・株高に走りました。選挙前の日本と後の日本のどこが違ったというのか。想像を絶する超富裕層の規模と手段を選ばない経済戦によって社会は荒廃しかねない事態を迎えつつある。

来年は良い年になりますように願ってやみません。


「シルバービュー荘にて」のレビューはこちら>>

「スパイはいまも謀略の地に」のレビューはこちら>>

「スパイたちの遺産」のレビューはこちら>>

「地下道の鳩」のレビューはこちら>>

「繊細な真実」のレビューはこちら>>

「誰よりも狙われた男」のレビューはこちら>>

「われらが背きし者」のレビューはこちら>>

「ミッション・ソング」のレビューはこちら>>

「サラマンダーは炎のなかに」のレビューはこちら>>

「ナイロビの蜂」のレビューはこちら>>

「シングル&シングル」のレビューはこちら>>

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「死者にかかってきた電話」のレビューはこちら>>

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サイコパスを探せ!-
「狂気」をめぐる冒険
(The Psychopath Test:
A Journey Through the Madness Industry)

ジョン・ロンソン(Jon Ronson)

2012/12/30:本棚を遠目で見ただけで眼に飛び込んでくるような本がたまにある。

取立てて色が派手だとかデザインが奇抜なわけではないので不思議だけど、本の方が「ここ!ここ!」と手招きしている感じがする。そんな本は必ず読む前から面白いハズだという予知のようなものがある。そして実際に面白い。不思議だ。

ジョン・ロンソン。イギリスのジャーナリストで、コラムニストやラジオ番組のホストとしても活躍している人なのだそうだ。邦訳には「実録・アメリカ超能力部隊」があり、この本は「ヤギと男と男と壁と」というタイトルで映画化されジョージ・クルーニーが主演していた。どうやらもとからかなりアブない人に突撃インタビューしてきた人らしいのである。ユーモラスな語り口でぐいぐい読める。しかしやがて僕らは背筋が凍るような現実に向き合うことになるのだ。


 「あるとき彼女はサイコパスにインタビューしていた。おびえた表情をした顔の写真を見せて、この人の感情を説明してくださいと彼に言った。すると彼は、感情ってのがどんなものかは知らないが、これは人を殺しているときに相手が死ぬ直前に浮かべる表情だと答えたそうだ。」


恐ろしい言葉だと思う。

長い間実態が不明だったサイコパス。どうやら彼らは先天的に脳機能にある異常を抱えているらしい。恐怖を予知して扁桃体が中枢神経系に流すシグナルが機能していないか弱いこと。大脳辺縁系の機能がうまく働かず感情を脳内で処理できない、感情が自覚できないため、他人の感情も理解できないらしいのだ。

色盲の人が色を見分けられないのと同じように感情を感じることができないというような意味だろうか。

感情が欠落しているというのはすごい話だ。どす黒い深い穴を覗き込むような恐ろしさを感じる。

サイコパスとはどんな人たちなのだろうか。

1934年カナダ生まれのボブ・ヘア(Robert D. Hare)はウェスタンオンタリオ大学、ブリティッシュ・コロンビア大学で犯罪心理学と精神病質を長年研究した人物で、FBIの連続殺人事件捜査やイギリス・アメリカの刑務所の運営に協力しているようだ。そしてその成果をPCL-Rと呼ばれる精神病質チェックリストに纏めた。

PCL-Rチェックリスト

項目01 口達者/うわべの魅力
項目02 自己価値に対する誇大な感覚
項目03 刺激を必要とする/退屈しやすい
項目04 病的な嘘つき
項目05 狡猾/人を操る
項目06 良心の呵責あるいは罪悪感の欠如
項目07 浅薄な感情
項目08 冷淡/共感性の欠如
項目09 寄生的な生き方
項目10 行動を十分に抑制できない
項目11 相手を選ばない乱れた性行動
項目12 幼少期からの行動上の問題
項目13 現実的な長期目標を持てない
項目14 衝動的
項目15 無責任
項目16 自分の行動に対して責任を取ろうとしない
項目17 何度も結婚するが長続きしない
項目18 少年犯罪
項目19 仮釈放の取消
項目20 多様な犯罪歴


コロンバイン高校で起こった銃乱射事件の首謀者の一人は完全なサイコパスであったらしい。共犯者の男は影響をうけやすく、マインドコントロールされやすい気質を持った男で、主犯格の男に半ば洗脳されていた形跡があるという。

カリスマ性を発揮したり、恫喝したりすることで相手をマインドコントロールする技に長けているのもこのサイコパスの特徴なのだ。

このリストを眺めていて筆頭に思い浮かんだのが尼崎の殺人事件だ。

この事件では死者と行方不明者は合わせて9人にものぼる。狙いをつけた家族に取り入り彼らの財産を奪い家庭をめちゃめちゃにした挙句に保険金をかけて殺していたらしい。この事件の主犯格は64歳になる女で逮捕されるや彼女は拘置所の中で自分自身の首を絞めて自殺した。

事件そのものが世間をあっと言わせたものだったが、彼女の死に様にはほんとうにびっくりした。そんなことが出来るものなのだろうか。「悪いのは全部自分だ」ということを言っていたらしいが、深く反省して自殺したというよりも、この先生きていても意味がないというような感じだった。どこまでも身勝手なのである。

いくら読んでも人間関係がわからない複雑な関係の集団で生活し、その集団内で激しい虐待や殺人を繰り返してきたらしい。中学の頃から鑑別所の常連だったというこの女の生き様を振り返りつつこのチェックリストをみると背筋が凍る。


 サイコパスは「魅力や巧妙な手口、威嚇、セックス、そして暴力を用いて他人を支配し、自らの利己的な要求を満たす捕食者である。彼らは良心や共感といった感情を欠き、自分が欲しいと思うものを手に入れ、好きなように振る舞い、罪の意識も後悔もなく社会規範を破り、期待を裏切る。言い換えれば、彼らに欠けているものは、人間が社会の調和のなかで生きていくために必要とする特質なのである。」


三人の不審死で死刑判決をうけた木嶋早苗もその犯罪歴や言動はどうだろうか。

こんな話が紹介されている。

刑務所人口の約25%がサイコパスだとされている。刑務所内で起こる凶悪犯罪の70~80%は何らかの形でサイコパスの連中が関与していることがわかったそうだ。彼らは刑務所内で混乱を引き起こして楽しんでいるのだというのだ。

サイコパスは勿論育ちや環境も大きく影響するのだろうがそもそも先天的なものであり治療不能なのだという。こうしたサイコパスの人は人口のおよそ1%の確立で存在するのだそうだ。

1%!そんなにいるのか。

そして彼らは都会に集まってくる。なぜなら彼らは退屈を嫌い刺激を求めているからなのだそうだ。

彼らはどこにいるのか。


 「連続殺人犯は家族をめちゃくちゃにするが」ボブは肩をすくめた。「企業や、政治や、宗教の世界にいるサイコパスは経済をめちゃくちゃにする。社会をめちゃくちゃにするのだ。」


驚いたことに大企業にサイコパスは紛れ込んでいるのだという。


 これは、あらゆる謎のなかで最大級の謎、「世界はなぜこれほど不公平なのか?」に対するストレートな答えだ、とボブは言う。過酷な経済不公平、数々の残忍な戦争、日常的に見られる企業の無慈悲な手口---それらに対する答え、それがサイコパスなのだ。正常に機能しないサイコパスの脳のせいなのだ。エスカレーターに乗っているとき、あなたは反対側のエスカレーターに乗っている人々とすれ違う。もし彼らの脳の中に入り込むことができるなら、あなたは、私たちがみんな同じではないことを知るだろう。

 まわりにいるのは、善い行いをしようとしている善人ばかりとは限らない。私たちの何人かはサイコパスだ。そして、この残忍で歪んだ社会ができたのは、サイコパスのせいなのだ。彼らは静かな池に投げ込まれた石なのだ。


工場を閉鎖や大規模なリストラを敢行し、組織を破壊し、人の人生を踏みにじり、家庭を破壊し、街を荒廃させている企業の行動の裏に、利益追求の大義名分の元に実際には社会を混乱させ人を苦しめることに楽しみを覚えているサイコパスの存在があるというのか。

まさかね。

しかし読めば読むほどに口角は下がり、微笑みは消え去る。腑に落ちるのである。具体的には書けないけれども思い当たる節があるのである。

根深い対立によって止むことのない紛争も、僕らの社会や会社で下される不可解な意思決定も手引きをしている輩が見え隠れするのは同じだ。

そして次に心配になるのは自分自身だ。僕は大丈夫なのだろうか。

サイコパスの人は色つきの夢を見ないらしい。そして自分がサイコパスであることを決して認めないらしい。色つきの夢を見た気がしていて、自分がサイコパスである可能性に怯える僕はサイコパスではないのだろうか。自分自身でさえ欺く可能性のあるサイコパスに自分は騙されずにいられるのだろうか。

口達者で自己評価が高めで退屈するのが嫌いで時として上手に嘘もつく。どうやら一般的な人に比べると共感性の低い僕は限りなく怪しいのではないのだろうか。

滑り出しは軽快でありながらじっとりとそんな思いに沈んでいく本書は正に読書の冒険。

自分自身に潜む深い穴を覗き込み、逃げ出さずにサイコパスを探せ。

うちの娘も一目みて「わー、何これ」とか言って今読み始めています。




△▲△

どうして僕はこんなところに
(What Am I Doing Here?)

ブルース・チャトウィン(Bruce Chatwin)

2012/12/24:本書の前書きにはこんなことわりが書かれている。
前書き
 怠け者の例に漏れず、もの書きになりたいと願いながら、始めのうちは失敗の連続だった。「いかにして作家になりしか?」などという告白で読者を退屈させるつもりはない。今日にいたるまで、私は多くの人々の世話になってきた。処女作が出版されるまで私に援助の手を差し伸べてくれた、デボラ・ロジャース、フランシス・ウィンダム、トム マシュー、そしてギロン・エトキンに謝意を表したい。

 本書に収められた断章、物語、人物素描、紀行談は<ガンディー夫人に関するもの>を除くすべてが、<私の着想>によるものである。本文の日付が参考になるだろう。後に私は改訂を加えた。重複を除き、単調な文章を省き、論説調の棘を含んだ批評を書き直した。<物語>という言葉を使ったのは、中身がいかに事実に即していようと、架空の設定で書かれたものであることをお断りしておきたかったからである。


先ず本書はチャトウィンが病に倒れ死を覚悟した後に書かれたものなのでもあることを肝に命じて読む必要がある。書かれていることは全て創作であって事実ではないこと、そしてなぜか「いかにして作家になりしか?」などの話をするつもりはないとも云う。そして本文の日付が参考になるはずだという。

チャトウィンが発病したのが1986年。「ソングライン」を書き終えたのが1987年、 亡くなったのが1989年1月だ。では日付とともに本書の目次を眺めてみよう。

1 友人たちと家族のために
  アスンタ-物語(1988)
  アスンタ2-物語(1988)
  お父さんの目はこんなに青かったのねえ(1988)

2 不思議な出会い
  クーデター-物語(1984)
  ライマン・ファミリー-物語(1988)
  血がきれいになったら-物語(1977)
  中国の風水師(1985)

3 友人たち
  ジョージ・オーティス(1988)
  ケヴィン・ヴォランズ(1988)
  ハワード・ホジキン(1982)
  ダイアナ・ヴリーランドとの夕食(1982)

4 出会い
  ナジェージダ・マンデリシュターム-ある訪問(1978)
  マドレーヌ・ヴィオネ(1973)
  マリア・ライへ-パンパの謎(1975)
  建築家コンスタンチン・メーリニコフ(1988)
  アンドレ・マルロー(1974)
  ヴェルナー・ヘルツォーク・イン・ガーナ(1988)

5 ロシア
  ゲオルギー・コスタキ-ソ連の美術蒐集家(1973)
  ヴォルガ川(1984)

6 中国
  天馬(1973)
  ロックの世界(1986)
  遊牧民の侵入(1972)
  
7 人々
  狼っ子シャムデフ(1978)
  サラ・ブグリンの哀しい物語(1974)
  ドナルド・エヴァンズ(1981)

8 旅
  雪男の足跡(1983)
  アフガニスタン哀歌(1980)

9 さらに二人の人々
  エルンスト・ユンガー、戦う美の追及者(1981)
  ガンディー夫人との旅(1978)

10コーダ
  アホウドリ(1988)
  チロエ島 (1988)

11美術界
  M-公爵(1988)
  ベイ(1988)
  蠅(1988)
  私のモディ(1988)

本書のなかでチャトウィンは正に世界をまたにかけ、南米、マレーシア、ソ連、中国、アフガニスタンと旅してきた様子を駆け抜けていく。
香港では風水師にインタビューし、中国の奥地ではシャングリア・西洋のチベットへの望郷の念を植えつけることとなったジョセフ・ロックの足跡を訪ねる。
南米ではマリア・ライへと共にナスカの地上絵の測定をし、イリヤ・レービンが「ヴォルガの舟曳き」を描き、チェーホフも下ったというヴォルガ川を船で旅する。そしてチャトウィンが紀行文学を書く切欠となったロバート・パイロンの「アフガニスタン哀歌(The road to Oxiana)」の描かれた光景に実際に触れるためにアフガニスタンを彷徨う。

そして「ソングライン」


 1986年の夏、私は苦しい状況で『ソングライン』を完成させた。中国で、ある種の菌が骨髄を冒す奇病をわずらったためである。死を覚悟した私は、原稿を書き上げあとは医者の手にゆだねようと決意した。そこまでやり遂げれば、思い残すことはない。原稿の三分の一は、論旨を裏付けるための夥しい引用と小文から成っていた。私は猛暑のさなか、肩掛けにくるまり、キッチンのレンジの前で寒さに震えながら、この部分をまとめあげた。時間との闘いだった。

 『ソングライン』は、オーストラリアのアボリジニが「先祖の足跡」もしくは「法の道」と呼ぶ、迷路のようにはりめぐらされた眼に見えぬ道の謎を探る旅から始まる。ヨーロッパの人間は、その道を「歌の道」あるいは「夢の道」という。
アボリジニの信仰では、各種族のトーテムとなる祖先は、原初の泉の泥から自らを創り出した。彼は一歩進み出て己の名を歌い、それが歌の出だしになった。二歩で最初の言葉に説明を加え、対句ができあがった。それから彼は全土をめぐる旅に出て、一歩一歩あゆみつつ、歌うことで世界を創造した。岩や断崖、砂丘、ゴムの木なども歌によって生み出した。
 私はこの驚異的な世界観を足がかりとして、絶えずさすらい続けずにいられない人間の性を追求してみたかった。


ソングラインでチャトウィンは人間には放浪性が生来の気質としてそもそも持っているものであることを強く確信し、自分の生き様を「歌の道」になぞらえた。それはチャトウィンの一歩一歩は彼自身の世界、人生を創造していることに他ならなかったからだ。


この「どうして僕はこんなところに」一見、不可思議な構成となっているように見える本書だが、実際にはチャトウィンの計算されつくされた内容になっている。

なぜチャトウィンがチャトウィンと成りえたのか。それは「いかにして作家になりしか?」などという退屈な問いよりとは全く違う深遠で味わい深い、唯一無二の彼だけの「歌の道」なのだ。


ソングラインを書き終えることができたら何も思い残すことはないとしながらも、チャトウィンにはもう一つ成し遂げることがあった。それは自分自身のソングラインを遡る旅だった。本当にそこに居合わせたのか、本当にそんなことが合ったのか、本当にその人はそんな事を言ったのだろうか。と思うことしばしだが、冒頭、チャトウィンは本書が創作であると宣言していたではないかということに思い当たる。しかしではすべてが作り話なのかと云えばそんなハズは全くない訳で。噛めば噛むほどにチャトウィンが浸みだしてくる。

首都圏に暮らす僕はいつまでたっても余所者で、僕は見知らぬ土地を彷徨っているのだ。というようなことを思っていた訳だけれども、所詮小さな島国で箱庭のような東京の小さな運河をながめては半日で帰巣しているにすぎない訳で、10日間600キロの川下りなんて云う規模を小さな一つの旅の単位で数えるチャトウィンの歩幅の広さと行動力の前に瞠目し腰を抜かすしかないわけであります。


「パタゴニア」のレビューはこちら>>

「パタゴニアふたたび」のレビューはこちら>>

「ソングライン」のレビューはこちら>>

「ウィダーの副王」のレビューはこちら>>


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世界史のなかの中国――文革・琉球・チベット
汪 暉(Wang Hui)

2012/12/15:明日は選挙です。自民党が大躍進するとかいう一方で有権者の半数はまだ態度を保留しているのだとかいう報道もある。北朝鮮はこんなタイミングでミサイル、ミサイルなのかロケットなのか、そのへんのところはよく分からないけども、を発射した。衛星が軌道上に上がったが、機能している気配がないとか。何れにせよ日米政府は態度を硬化させている。

こんなタイミングで選挙したら結果がますます右傾化するじゃないかと。北朝鮮はどこの回し者なんだと。

右・左の基準自体がもはや古びれているということの表れなのかもしれない。

汪 暉の「世界史のなかの中国」。汪 暉は1959年、中国江蘇省に生まれ。清華大学人文社会科学学院教授。もともとは魯迅の研究者であったが天安門事件で弾圧をうけた経験もあるという。ハーバード大学、エジンバラ、ボローニャ(イタリア)、スタンフォード大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、バークレー校、ワシントン大学等で客員教授を務めるリベラリスト。つまり中国の右派なのだ。

中華人民共和国という国が今後どうなっていくとしても、中国、超弩級の大きさの中国は未来永劫、日本の隣国であり続ける。海を挟んでいるとはいえその存在感は圧倒的であり、日本はおろか全世界に対する影響力は良いものも悪いものもすべてこれからはますます大きくなっていくことも間違いないと思う。

日本人のなかにはどうしてか中国人を毛嫌いする人がいて、彼らは根強い偏見や差別意識を抱えているらしい。彼らは確かに大陸の方を指差してはいるけれども、その方向はなぜか曖昧で中心がないようにも思える。

こうした日本人が見下しているのは朝鮮半島の人々のことなのだろうか、それとも中華人民共和国の国民?台湾の人はいいけど、漢民族が嫌い?中華人民共和国には約13億の人がいるとされているが、そこにはまだ数にいれられていない人々が実際には存在しその総数ははっきりしていない。13億のうち94%は漢民族だが、モンゴルやチベット等、公証55の少数民族を包含する多民族国家だ。

我々日本人はあたかも単一民族国家であるかの体でいる訳だが、琉球王朝やアイヌ民族の例ばかりではなく、そもそも大半の人々が大陸からの渡来人であったわけで、その出自を遡れば大陸に暮らすどこかの民族の血を引いていると考えるのは理に適っていると思う。

しかし、戦国時代を経て日本を平定した我々は何らかの形で自分達をひとくくりにしてアイデンティティを創り出す必要があった。国民に帰属意識を持たせて一体感を植え付け、国体を創り出して維持していく、正に国として自律していく上で必要なことであったろう。日本人としての自律と誇りと優位性はナショナリズムを高揚し、結果第二次世界大戦へと向かわせるという過ちをも我々に経験させた。

過度な帰属意識や一体感は害を生むこともあるが、全くないままで国を維持することもやはり難しいだろう。

そしてそれは中国も一緒だ。西欧の人たちからみればひとくくりに同じアジア人じゃないかと云う類のものなのかもしれないが、55もある色濃い民族を束ねていく統一性を如何に保っていくのか。


 中国社会に結びついてくる諸々の糸口について言えば、儒家文化によって清朝の政治的領域文化的領域との統一を表すことはできない。まさしく上述の皇帝権力の多面性と同様、清代政治文化は多重文化の相互作用の中で生まれたものである。この角度から言うと、システムを跨いだ社会及び、それが文化に対して行う画定自体が、文化と政治の境界の統一を導いている。システムを跨いだ社会の中で、文化は必然的に政治的である。儒家にしてみれば、政治とは礼教の活動と過程であり、その理想的な機能とは一つの共同の世界を創造することであった。

 システムを跨いだ社会は政治機構に関わらずをえない。カントは国家について言及したときこう言った。

 国家とは一つの人類の社会であり、それ自身以外には如何なる他者も国家に対して号令を下したり処置を加えることができない。それ自身が樹幹のように自身の根茎があるのである。

 しかしカントの国家概念と国民国家には重複した部分が存在する。もしもこの論断を中国史の中に置いてみると、一つの人類の社会としての国家とはシステムを跨いだ政治機構を持っているのであり、その統一性とシステムを跨ぐ性格とが相互に重なりあったときにはじめて、この国家を「一つの人類社会」と呼ぶことができるようになるのである。


民族や文化を跨いだシステム。システムを跨いだ国家を目指すのだ。そんな論調が織り込まれているのだが、この本はとてつもなく読みにくい。

前例のない規模で国を維持しようとしている中華人民共和国の動向は、アメリカやEUを凌駕して全世界に大きな影響を及ぼすことが間違いないにも関わらず、彼らが何を考えてどうしようとしているのか。常にそこには底知れないものを感じるのではないだろうか。

チベット僧侶の焼身自殺のニュースが後を絶たない。ウィグル地区では激しい弾圧と虐殺があった歴史が隠蔽されているという。日本との間では尖閣諸島の一件が外交問題発展しているが、中国にしてみればそれは問題の一つに過ぎず、彼らは南シナ海・東シナ海における中国の領海問題のなかでできる限り過去の歴史を拡大解釈し権利を主張したいと思っているのだろう。内モンゴルには世界最大のウラン鉱床が眠っているらしい、シナ海の権利を主張しているのも海底資源が狙いなのではないかと思われるとか。


中華人民共和国は中国共産党の一党支配が続いている一方で既にWTOの要求にすべて答えたと主張している。つまりは完全に自由市場のシステムに移行しているというのである。温家宝は一族で27億ドル(約2100億円)もの巨額な蓄財をしたと云う報道もある。ここ数年一族郎党で日本に観光旅行にやってきては散財をしていく中国人の人たちは、こうした市場の自由化の波に乗った中国政府の官僚の子息たちであって、二束三文で売りに出される国の制度・インフラを買い占めては莫大な利益を上げている一方、少数民族をはじめ貧困層の格差は拡大の一途を辿り、一説にはジニ指数が0.4を超えたらしい。

なんてことを書いていたら、先週のニュースでは2010年に0.61となっていたという驚くべき内容が報道されていた。

少数民族の独立運動と格差の拡大を結びつけた報道はなかなか見当たらないけれども、いろいろな情報にあたっていくと中国の市場システムのフリーランチ化は旧ソ連体制崩壊後のロシアよりも徹底した独占と搾取が極めて短期間に進められたのではないかと思われる。

つまりは貧困層がただ貧しいだけではなく、その数が夥しいこと。そして極一部の人間に富が極端に集中してきたことを表している訳だ。


漢民族がどれほど優秀で徹底していたとしても自由市場主義はうまくいかない。決して。必ず失敗する。そしてアメリカの例に倣えば、国内の不平不満、世代・民族の対立を誤魔化すためにも国際関係で帝国主義的侵攻に踏み出しやすくなっていくのである。

また、更には中国が右傾化したからといって日米との対立が解消するわけではなかったということもよくよく考えるとびっくりなことじゃないだろうか。

僕はこれまでの共産主義であった中国よりもこれからの中国の方に脅威を感じる。

そして僕らのとるべき道。中国の右傾化に呼応する形で我々はもっともっと右に進むべきなのだろうか。どう考えてもその先はますます細り、尖ったところに辿り着いてしまうようだ。そして最後にはその鉾をぶつけ合うしかないのだろうか。

それは中身が違うにせよ、いつか通った道であり、間違った道であったはずだ。
繰り返し過ちを犯す愚かな選択をするのか。もっと違う別の道を行くのか。

先ずはみんなで選挙に行こう。必ず投票することが誤った道を正す。我々が自分自身でできる事なのだ。




△▲△

こうして世界は誤解する―
ジャーナリズムの現場で私が考えたこと

(People like us: Misrepresenting the Middle East)」
ヨリス・ライエンダイク(Joris Luyendijk)

2012/12/02:忙しかった2012年もとうとう12月にはいりました。本番稼動後のサポートはこれまでの仕事の進めかたとは全く違う、条件反射的な対応に終始しております。どれも急ぎで期限があって、しかも大量に押し寄せてくる課題を捌くために、朝から晩まで息つく暇もない感じでありました。さすがに草臥れてきたみたいで今朝は目が覚めたら10時過ぎておりました。ここ数年でこんなに寝過ごしたのは記録的であります。

こんな状態なのでニュースは追いきれず、世の中で一体何が進んでいるのかよくわからなくなってきてしまう。

一方で猛烈に流れ去るニュースを一歩退き俯瞰するにこれまた不思議な光景が浮かんでくる。今回の野田政権がマニフェストに書かれていることを一切やらず、書いてもいなかったことを無理やり進め、マニフェストも政策も政党政治も選挙もつまりは議会制民主主義の根幹に関わるおよそすべてことに反する行為を行い、政治どころか選挙制度というシステム全体の信頼性を地に落としたというか地中深くの墓に埋めたと僕は思ったのだけれども、世の中は次の選挙に向けて動き出しており、各政党は何事もなかったかのようにマニフェスト、政策ということをぶち上げており、メディアもそれを当たり前のように報道している。

みんな忘れたのか忘れたことにしているのか。一体なんだ。

更にメディアは橋下とか石原とか、はたまたどうでもいいような良い大同小異の意見ばかりを取り上げ、共産党や社民党といった政党の意見は分析されるどころか持ち出されることも殆ど無い。まるで選択肢のなかにそれらは含まれてすらいないみたいに。

メディアのこの偏り方はひどいと思う。嘘つきの片棒を担ぎ続けていると言っても良い。知識人のなかには野田をして国民と敵だと呼んだ人がいた訳だがメディアもどうやら国民を欺く敵対勢力なのだ。

昔僕らの親たちはよくテレビばっか見てるとバカになるよ。と言っていたものだがそれは実は本当のことだったのだ。


アメリカ大統領選挙が落着すると花火のように上がるのがイスラエルのガザに対する攻撃なのは最早恒例だが。あ、あと北朝鮮のミサイルも。でもこっちは飛ばないこともあるので今はまだ恒例とは言わない。それが何故なのか。どうゆう力関係が働いているのか。僕はずっと気になっているのだが、今回も、オバマが就任した時と同様に激しい攻撃をごり押ししているイスラエルに対する報道もやはり世間のニュースのなかでは取り扱いが低く目立たないようにただただ流れている。まるで交通事故の統計のような無評価の事実の羅列に背筋が凍る思いを抱く。

少なくともはっきりしていることとしてテレビや新聞でニュースを追うだけではダメだということだ。

ヨリス・ライエンダイクの「こうして世界は誤解する」。ヨリス・ライエンダイクは学生時代、エジプトのカイロ大学で学んだオランダのジャーナリスト。フォークスクラント紙、NRCハンデルスブラット紙の中東特派員として1998年から2003年の間エジプト・レバノン・パレスチナに滞在した。彼はこの時に経験した独裁政権下で歪められる報道。欧米にアラブ社会について報道する上で浮かび上がる基本原則に孕んだ矛盾といったものに真正面からぶつかっていったのが本書だ。


 問題は大手メディアの基本原則にあった。人がテレビを見たり、ラジオを聞いたり、新聞を読んだりするのは、世界についてより多くを理解したいからだ。そうした人々が読んだり見たりする内容は正しくなければならない。だから、正しい姓と名、論争の双方の言い分、適切な確認と再確認---裏付けのある情報---が必要になる。ニューヨークタイムズ紙は一面に高らかに謳っている。”印刷するに値するすべてのニュースを掲載します。”民主主義体制ではこれは最高に有用ですばらしい原則だ。しかし、独裁政権下では、印刷に値する、裏付けの取れる事実は、現実の中のきわめて小さな一部分に過ぎない。


プロローグ みなさん、こんにちは!
1.ジャーナリズムの初歩
2.ニュースにならない真実
3.ドナー・ダーリン、ヒトラー・ミックス
4.ハミハ・ハラミハ
5.印刷に値するすべてのニュースを
6.911と独裁政治の空白
7.新世界
8.ハサミの法則
9.“罪もないユダヤ人が殺されている”
10.血なまぐさい占領
11.板ばさみ
12.不合理で奇怪
13.新しい人形に古いひも
14.旗の中に金がある


 コミュニストやシオニスト、カトリック教徒などとまったく同じように、イスラム原理主義者のあいだにも根底に対立があり、意見や解釈には幅があり、少なからず多様性もある。ただ、イスラム原理主義者がわかと違うのは率直に話をする自由がないことだ。教典は禁書となり、ウェブサイトは閉鎖され、指導者は裁判にかけられたり殺されたりする。ローマ法王庁や世界シオニスト機構が持っているような、決議を伝えたり拘束力のある決定事項を表明したりする機関が特定のエリアにあるわけでもなければ、国際的な連盟もない。非暴力のイスラム原理主義者たちがほんとうはなにを求めているのか知るためには、誰と話せばいいのか。


テレビであれ、新聞であれ報道には情報量の制約があり、その枠内に納めるためには情報の圧縮が必要になる。情報を圧縮するためにはどうしても物事を単純化・簡略化せざるを得ない。しかしアラブ社会の出来事を単純化・簡略化する際に欧米の民主主義政権化の社会で起きていることで創り出されたモデルを用いると間違った解釈が生まれるのである。

これは何もメディアだけが陥る過ちではない。国際関係における政策決定においても同様の単純化・簡略化に基づいた解釈を基礎とすることで間違った選択肢のなかで、見当違いの意思決定がなされ、無意味であるばかりか大いに弊害を孕んだ計画が実行されている。

本書はメディアの内部での優先順位や意思決定の成され方がどのように進んでいくのかについて具体的な事例とともに紹介されておりとても理解しやすい内容になっている。読み物としてもとても興味深い内容になっていました。


しかし、ようやくと思う。ここに辿り着くのにこんなに時間がかかるものなのかと。

彼の最初の経験が語られるのはスーダンの爆撃の話なのだが、このスーダンの爆撃の話は1998年8月20日にアメリカが行った話だ。これはそれに先立つ1998年8月にケニアとタンザニアのアメリカ大使館で爆破テロが起こり、その報復として行われたものなのだが、攻撃対象となったのは当時のアメリカの発表では神経ガスを生産している兵器工場であるというものだったのだが、現実には医薬品を生産している工場で、この爆撃と工場のインフラが破壊されたことで医療品やミルクの供給が途絶えたことからどれだけの人が亡くなったり、被害を受けたりしたのかについては、いまだにちゃんと調査もされていないという事件のことなのだ。

この事件についてはウィキペディアにも記載されているし、ロバート・ポーリンの「失墜するアメリカ経済」やハワード・ジンの「テロリズムと戦争」やノーム・チョムスキーの「9・11―アメリカに報復する資格はない!」を読むことで知ることはできるのだけれども、当時も今も報道として流れてくることは勿論ない。


ジョナサン・ベルケ
「命を救う機械(破壊された工場)の生産が途絶え、スーダンの死亡者の数が静かに上昇を続けている・・・・・・こうして、何万人もの人々---その多くは子供である---がマラリア、結核、その他の治療可能な病気に罹り、死んだ。[アル-シーファは]人のために、手の届く金額の薬を、家畜のために、スーダンの現地で得られるすべての家畜用の薬を供給していた。スーダンの主要な薬品の90%を生産していた・・・・・・スーダンに対する制裁措置のため、工場の破壊によって生じた深刻な穴を埋めるのに必要な薬品を輸入することができない・・・・・・1998年8月20日、米国政府が取った作戦行動はいまだにスーダンの人々から必要な薬品を奪い続けている。何百万人もの人々が、ハーグにある国際司法裁判所は今度の設立記念日をどのように祝うつもりか、訝しく思っている。」

ヴェルナー・ダウム-ドイツの駐スーダン大使
「アル-シーファ工場の破壊の結果、この貧しいアフリカの国で何人の人が死んだか正確に定めるのは困難である。しかし、数万人というのは納得できる推定に思われる。」


ついでに言えばこのミサイル攻撃の直前、スーダンはアメリカ大使館を爆破した容疑者を拘束し米国政府に通報もしていたのだが、アメリカ政府はこの申し出を拒否し爆撃に踏み切っていた。スーダン政府はこの爆撃の後この容疑者を「怒って釈放」したが、この容疑者はビンラディンと関与していた者であり、きちんと捜査をしていたら911は回避できた可能性すらあるのだという。

チョムスキーはこれに対し、IRAのテロに対して西ベルファストを爆撃したり、資金援助をしているからといってボストンを攻撃したりしないだろう。オクラホマ・シティの連邦ビル爆破事件に対して、アイダホやモンタナを攻撃しようという声が上がらなかったのに、何故スーダンを爆撃したのかと言っている。

ははは、笑えるよね。

でも本当の話なのだよ。

そしてもう一つさらりと書かれているのがサブラー・シャティーラ事件。

 私が手がけたドキュメンタリーでは、元軍人のアリエル・シャロンがイスラエルの政治に復帰したことに対して、パレスチナ人がどういう反応を示しているかを追うことになっていた。シャロンは20年前のレバノン侵攻を背後で指揮した軍事ブレインで、このときイスラエル軍はサブラとシャキィーラの難民キャンプを制圧し、キリスト教徒のレバノン人民兵ひとりが千二百人の難民を虐殺した。この民兵はイスラエルによって訓練され、武器と資金を提供されており、イスラエル軍の照明のもと二日二晩にわたる虐殺行為を許されていた。この虐殺事件でサブラとシャキィーラは世界的にも有名になり、シャロンは政界を追われるのだが、その彼が戻ってきたのである。パレスチナ人のアイスクリーム売りのことばを借りればこうなる---「旧ユーゴでは戦争犯罪者は監獄に閉じ込められる。イスラエルでは首相になる」


ガザ地区が砲撃されても犠牲者の数はいつもおぼろげだ。そしてその動機も意図も全くよく分からないように報道されている。しかしそれは欧米社会の価値観と視野で物事を見ているからにすぎないのである。

メディアには作為があり限界もある、どんなに頑張っても公正には成りえないということだと思う。僕らは今インターネットがあり独裁政権下でもない限り自由に好きなだけ情報にアクセスすることができるようになってきたと思いがちだ、しかし、こんな便利な世の中にあってそもそもの情報が偏っていたりすることを自覚しておかないと間違った知識や欠落した情報に基づき見当違いの判断や意思決定を下してしまう可能性が常にある。これはメディアでも政策でも個人的な思想であっても同じなのだ。

情報が増えれば増えるほど僕らは自分自身の感覚を研ぎ澄ませて物事を判断できる視野と見識がますます大事になってきているのだ。




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のぼうの城」和田 竜

2012/11/25:「のぼうの城」であります。ふと本の兵站をしくじり手元に読む本を切らしてしまったところで、この本を貸してくれるという方が現れたのでした。読む本がないまま通勤電車に乗るぐらい嫌なものがない僕にとっては本当にありがたい話で、渡りに船とばかりに飛びつきました。

本を読むのがあまり早くないということもあるのだけど、読みたい本の山はどんどんうず高くなっていく。どんなに頑張っても読みたいと思った本をすべて読むのは無理なことがわかっている訳なので、どの本を読むのか、或いは切り捨てるのかという選択は些細なことだけれどもなかなか難しい。

「のぼうの城」面白そうだなとは思っていたけれども、こんな機会がなかったら読んでなかったかもしれない。しかし、面白い。歴史に疎い僕はこの忍城のことなんてまったく知らなかった。これが実話に基づく物語だというから驚きだ。驚きの面白さなのだったのだ。

西日本を統一した豊臣秀吉は名胡桃城事件を大義名分に小田原征伐に立ち上がる。秀吉はこの気に後北条氏の地盤を切り崩し関東平定、更には東日本の統合を目指していたのだった。かつてない精緻な兵站を基礎として産み出される圧倒的な工兵・兵力に向かう相手は次々と一たまりも無く粉砕されていく。

秀吉の軍勢がせまりつつあることを察した北条家は支持する地方の支族たちに援軍を送るよう指示を飛ばし兵力の蓄積を図った。現在の埼玉県行田市に忍城を構えていた成田家もこの指示を受けたひとつであった。

忍城は14世紀後半に成田家がこの地の豪族であった忍一族を滅ぼし築城された城で忍の浮き城、亀城等とも呼ばれていた。1559年、上杉謙信が関東に遠征してくると成田家は敵対していた北条氏に恭順し、小田原城の戦いでは城主の成田長泰も参加してともに戦う間柄となった。

成田家としては成り行きから言って当然北条家の支援に馳せ参じるべき立場にあった。しかし、成田家はすぐに動き出すことはなかった。これは城主の氏長が秀吉の軍勢の優位さを見越したものがあったからだった。

かつては上杉謙信の軍勢を押し戻した忍城には召抱えられた一癖も二癖もある猛者たち。そして氏長の娘で「東国無双の美人」と評され武芸にも抜きん出た力を持つ甲斐姫がいた。

血気盛んで士気も旺盛な忍城であったが城主の氏長は豊臣家にも秘かにネットワークを持ち寝返ることを事前に連絡した上で小田原城の篭城に出兵していくのだった。上杉謙信、織田氏らと後北条家の間の力関係で、日和見な態度を繰り替えしてきた成田家は今回も同様の手段に出ようとしているわけなのであった。そしてこの留守を氏長の叔父・泰季がとることとなった。しかしこの泰季は開戦の気配に著しく体調を崩していく。

忍城の一大事にあってその指揮を取るべきものとなってくるのが泰季の嫡男長親であった。この長親、家来をはじめ城下の農民たちにまで「のぼう様」と呼ばれていた男であった。「のぼう様」、これは「でくのぼう」に申し訳として様をつけて呼んでいるのであった。事実長親は武芸もだめ、手先も不器用で何をやらせてもうまくできた試しもなく、場違いな発言を繰り返すことで大半の人物から見下されているような男なのだった。

物語はこの「のぼう様」の言動により人々の思惑とは全く違った方向へと転がり出して行くのでありました。


どこまでが史実でどこからが創作なのか。甲斐姫の武勇伝も一部は創作だとされている伝承があるらしい。こんな身近に豊潤な伝承世界の物語が広がっていることに嬉しい驚きを感じます。他の多くの登場人物たちの活き活きとしたキャラクターも物語を快調に走らせて見事なつくりでありました。

しかし、最後までわからないのが主人公「のぼう様」なのでありました。彼は果たして天才か本物のでくのぼうであったのか。正にあのときあの場所にいなかったら彼はどんな人生を歩んだのだろうか。そして本物の成田長親は果たしてどんな人物であったのだろうか。

果てしなく好奇心が呼び覚まされる一冊なのでありました。




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「多様な意見」はなぜ正しいのか
衆愚が集合知に変わるとき

(The Difference:
How the Power of Diversity Creates Better Groups,
Firms, Schools, and Societies)」
スコット・ ペイジ(Scott E. Page)

2012/11/18:あちこちに書き散らしてしまっているのだが、この5年間僕は会社のシステムの刷新にかかわるプロジェクトに参加してきた。そのシステムも漸く完成、先週から動き始めたところだ。本来はこれで一仕事を終えて一段落、ほっ一息といきたいところだけれども、システムを利用する現場の方々にしてみれば不慣れで不案内な手続・操作になってしまうわけなので僕らはその支援。あちこちで起こるいろいろな事態に対処すべく、それこそ息つく暇もないような一週間でありました。

システム開発をしている。なんて云っても僕はプログラムを書ける訳でもなければインフラの設計ができる訳でもない。何か専門分野がある訳でもない。業務の設計が中心だったと云えばいいのかもしれないけれども個人的にはそこで起こる様々な問題を解決する「なんでも屋」だと思っています。じゃどんな問題でも解決できるのかと云うと、勿論そんなこともある訳がなくて自分が解決できなくても、誰と誰を呼んでくればいいか、どうやって決めればいいのかというようなところを読み取って走っていってその連中を引っ張ってくる。そんなところなんじゃなかろうかと思う。

考えてみればこのプロジェクトの前のプロジェクトもその前のものもそんな役割だった。つまり僕はこの10年くらいずっとこんなことを続けてきた訳だ。我が家の子供達にも「会社で何やってんの」と良く聞かれるのだけど、こんな次第でなかなかうまく説明ができず「鼻ほじってる」とかめっちゃいい加減な説明してきてたが、実際は社内でも偶に会うような人には「今何やってんの」と訊かれることがあって、やっぱりうまく答えられず「まー、いろいろですわ」みたいななんか誤魔化したみたいなやりとりになってしまっていたのでありました。

僕の会社はそんなに大きな会社ではないけれども、それでもいろいろな部署があって、そのなかで進められている業務というものはそれこそ多肢に渡っており、会社の業務をすべて知っている人はいない。みんな部分的にしか知らない。そこに何か問題があって解決しなければならないということになった場合、影響の及ぶ関係部門はその問題によって異なってくる。なのでまずはその問題がどんな部門・業務に影響が及ぶ可能性があるのか、これを漏れなく調査することからはじまる。これが漏れると解決したはずの問題が別の問題として浮上してくる。

よりよい解決方法をより早く実現するにはどうしたらいいだろう。或いは関係者というかその道に詳しそうな人を探してひっぱってくるという行為はなんで問題解決に繋がるのだろうか。

この本を読んで僕は自分のやっていることが漸くわかった。

とある問題に対して特定の業務について専門性の高いメンバーだけで、つまりは内輪で解決しようとしても出口がみつからない場合、もっと違う分野で経験を積んだ専門性を持っているメンバーを検討チームに入れるとふと、「なんだ、こんなことならこうすれば」的な突破口が見つかり閉塞感を抱えているメンバーの意見も加わりそれまで誰も思いつかなかったような解決策がみつかることがある。もちろんいつもうまく行く訳ではない。


多様性が恩恵をもたらし(認識的に多様な社会、都市、チームはより一様な集団より良い出来を示す)、基本的好みの多様性が問題を生み(公共財の供給が減り、人々は仲が悪くなる)、多様な認識的ツールボックスと多様な基本的好みを持つ人々の集まりの出来はばらつきが大きい(より良い結果を見出すとともに、より多くの衝突を生み出す)。アイデンティティーの多様な人々の集まりには両方のタイプの多様性が含まれることが多いので、一様なグループに比べて出来が良くも悪くもなる。違う見方をすれば、アイデンティティーが多様なチーム、都市、社会は、より良い出来を示すこともあるが、失敗することも多いのだ。これらの事実はすべてモデルと一致する。違う風に考えるのは良いことだ。しかし違う風に求めるのは、必ずしも良いことではない。


本書の著者スコット・ペイジは複雑系を専門とするミシガン大学の教授でサンタフェ・インスティチュート外部研究員という人物。彼はこのような問題解決を数学的モデルに置き換えることに成功しその奥に潜んでいた原理を発見した。

「多様な意見」が正しい。いやもっと正確に言うなら「多様な意見の方がより価値の高い解決策を見つけることができる」というものだ。そしてこれは長い目でみた場合には必ず正しい。なんでか。それが本書の核だ。

気安い雰囲気で進む文章だが、その核の部分はとても難解だ。しかし会社で起こる様々な問題解決では実感としてそれは「真実」だと思う。多様なメンバーを集めて議論した結果の方がよりよい解決方法が見つかるし、早いのである。

しかし一方でもっと難しい問題、我々の社会や国の政策決定や環境問題のような問題についてこのような数学モデルを利用して解を見つけ出すということについてはなにやら不安というか恐れのようなものを感じてしまう。

そしてまた本書が指摘している「好み」のような問題。コーヒーの濃さとミルクの量と温度について最適解を求める。とこのような場合これを飲む側として見るのと、供給する側から見るのとでは意味が違ってくる。提供する側からすれば売り上げと利益が最大になるものが最適解である訳だが、飲む側にとっては必ずしも最適とはいえないコーヒーが市場を凌駕してしまうということが起こってしまうわけだ。多くの人が理解できないような解決策で我々は押し流されてしまうのだろうか。

ましてこのような「好み」の問題は政策決定や選挙制にも当てはまり、しかも選択肢が三つ以上で人々が多様な意見を持っている限り、どんな決定規則でも操作可能なのだという。これは非常に不気味な話ではないだろうか。この先の部分を僕らはもう少しちゃんと理解しておく必要があると思う。

投票する側ではなく立候補する側としてこの問題を考えた時、まともな意見を磨くよりも選択肢を増やして話をわかりにくくしたり、投票率を下げるような言動をしたりした方が勝てると考える政治家もいる。勿論もうすでにそんな事をやらかしているヤツがいる。離党問題もこのような見方で考えた場合もしかすると個人プレーではなく、戦略に基づくチームプレーである可能性だってある訳だ。

だとしたら我々はどうしたらいいだろう。専門家を呼びますか。






要塞都市LA
(City of Quartz:
Excavating the Future in Los Angeles)」
マイク・デイヴィス(Mike Davis)

2011/11/04:マイク・デイヴィスの本はこれまで「スラムの惑星」、「自動車爆弾の歴史」に続いて三冊目です。「スラムの惑星」を読んだ段階でできたらこの人の本は全部読もうと思った。そのマイク・デイヴィスの「要塞都市LA」は恐らく彼の原点であり、核心部分なんだろうと遠めから感じていた。それ故心構えをしっかり持ってじっくりあたる必要があるだろうことも。

「スラムの惑星」にせよ、「自動車爆弾の歴史」にせよ、読み手の僕らが思いもしなかった切り口で現在の暗部を照らし出し、驚いたりしてる間もなくぐいぐいと論旨を進めて行くデイヴィスの武骨さに惚れていた。

マジ、ハードボイルドでカッコイイと。

しかし僕は甘かった。「要塞都市LA」はその二冊を遥かに凌駕していた。

最早粗暴とか、殴りこみみたいな表現すら思い浮かぶような勢いで「要塞都市LA」は全編を駆け抜けていく。そしてまたその幅広い知識と情報量たるや、半端ない濃厚さ。僕はなんども本の論旨から転げ落ちてはおろおろと追いかけては、また落ちるような目に合いました。デイヴィスはそんなノロマな読者なんて鼻にかけることもなく、ひたすらアクセルを踏む。怒涛のような疾走感もまた本書は他の作品の追従を許さない。

1 陽光か、ノワールか?
2 パワーライン
3 家からの革命
4 要塞都市LA
5 ハンマーとロック
6 新・告白録
7 夢のゴミ捨て場


原題の「水晶都市」とはかつて筆者が所属していたSDS(Students for a Democratic Society)---1960年代の新左翼学生運動組織の一つ---の同僚が作った詩に由来する。その詩では政治闘争が固くて鋭い水晶にたとえられていたのだが、デイヴィスは水晶は「ダイヤモンドに見えるけれど安物で、透明に見えるけれど実際には何も見えない」ところがロサンゼルスのようなのだという。

本書はLAの生い立ちから度重ねられた移民達の流入により衝突した民族・宗教・文化の歴史を照らし出す。そこには権力者・王族のような富裕層と市民がおり、マジョリティとマイノリティの壁があり、人種や宗教による差別が根深く広がっていた。デイヴィスはLAの市長や警察本部長、政治指導者、大企業の経営者のような有力者たちの信条と実践された計画・施策の変遷、つまり社会の移り変わり捉え、そのなかで生きた市井の人々の暮らしの歴史をみごとに浮かび上がらせていく。

この本が書かれた1990年頃はまだ極端な格差やその拡大であったり、政治権力と人々との間の距離感であったりについて中流と呼ばれる人々の間では実感の伴わない部分があったのだろう。しかし、その後中流層という存在があれよあれよと蒸発して概念上のものになり果て、自分達の社会があまりに無機質で非人道的であることに人々は気付き始めた。そして一般市民の我々は実は武装警官やビデオの監視装置や建築物自体に埋め込まれたセキュリティシステムによって守られているのではなく防衛されていること気付くのだ。いつしか本書は「予言の書」と云われるようになったのだそうだ。


 ポストリベラルのロサンゼルスにようこそ、ここはぜいたくなライフスタイルの擁護が、空間と移動における新たな抑圧---遍在する「武装警備員対応中」の看板によってそれは支えられている---の拡散へと翻訳されるところである。物理的なセキュリティシステム---およびそれに見合ったかたちでの建築物による社会的境界の維持---に対する強迫観念は、都市開発の時代精神、1990年代に新たに出現した建築環境の支配的物語となっている。


増補新版を前にデイヴィスはこんなことを書いていた。


 もし熱意と希望の急進派政治に格好の時期があるとすればそれは今だ。ダウンタウンを作り上げてきた山のような金にもかかわらず、生活上の怒り、貧困、環境危機、資本逃避などが積み重なって爆発する危険がロサンゼルスにはある。それは1990年初頭を大恐慌以来最悪の時期にしたのと同じ状況なのだ。もちろんロサンゼルスが海に呑み込まれることはないだろうが、1990年代初頭からはじまり急速にすすんだ衰退がもう一度はじまってもおかしくない。高賃金の仕事、熟練労働者、財政資源はゆっくりと流出していく。最近のニューオリンズをのぞけば、これからの30年間で、これほどまでに下降線をたどりそうなアメリカの大都市はほかにない。

 なぜ私はここまで悲観的であり続けるのか?1990年を基準として、もとの『要塞都市LA』の「危機的複合状況」に続く、この30年間のもっとも重要な構造上の傾向と社会変化の一部を考えてみよう。

1.地域の(非)流動化
2.支社の都市
3.製造業の衰退
4.新たなる格差
5.末期症状の郊外
6.ないがしろにされる調停者たち
7.オルグたちの都市?

 これらを要約してみようとしたけれどもデイヴィスの文章を纏めるのはなかなか難しい。ので抜粋。

1.地域の(非)流動化

 1990年ロサンゼルス郡交通局による地下鉄および軽鉄道工事の野心的な計画では、人口の流動化と減少が見込まれていた。しかし2006年における来るべき未来は途方もない非流動化と目がくらむほどの混雑である。

2.支社の都市

今や忘れ去られた「ロサンゼルス2000」計画の推進者たちは、ロサンゼルスはまもなくカリフォルニアと環太平洋経済のコマンド・センター、「二一世紀の司令部」になるのだと主張していた。それどころか1990年代初頭の景気後退期において、さっさとダウンタウンから手を引くことができなかった日本資本は巨大な損失を被った。

3.製造業の衰退

 1990年までに、ロサンゼルスは「フォーディズム」を実践する産業の大半を失った。かつてはそのおかげでロサンゼルスは全国で二番目に大きな自動車・タイヤ製造の中心地だったわけだが、非防衛産業の14の大きな工場のうち、フォンタナのカイザー・スチールとサウスゲートのGMを含む12が操業停止し、工作機械は中国へ輸出された。

4.新たなる格差

 ロサンゼルス都市圏における貧困の差はラテンアメリカ諸国同然である。

5.末期症状の郊外
 不動産価格の上昇とは、湾岸地域における裕福な高年齢層の住宅所有者や土地を所有している企業という社会のごく一部が、残りの社会全体、とりわけ若年層の貧しい家庭、に対してとりたてる税金である。

6.ないがしろにされる調停者たち

 見境のない刑罰や超法規的拘禁は社会が産み出した災いである。何万人という若者を、暴力が跋扈し、お上によるお墨付きの人種戦争が支配し、教育も、更正も、希望も微塵もない監獄に閉じ込めること。実際のところ、監獄制度の新の機能とは、地域社会を保護することではなく、憎しみが街に戻ってくる日に備えて、憎しみを倉庫にしまっておくことなのだ。

7.オルグたちの都市?

 つまるところ、いかなる社会についても人間性の尺度は子供達の生活と幸福である。私たちが住む豊かな社会には貧しい子供達がある。そしてそれは許容してはならない。

僕ら日本人が日本で暮らしている範囲では、この本に描かれているような激しい抗争に明け暮れるストリートギャングの存在も、人種的な対立も、宗教的な対立も縁遠い。カトリックかプロテスタントかで街が二分されるとか、治世者がどちらの宗派かで揺れるなどというのは、なるほどアメリカではそのように事態は進むものなのだという思いすらうける。政教分離の意味合い自体がここでは異なっているように思う。

しかし、日本でも確実に格差は拡大してきている。それに加えて先日の東日本大震災の余波のなかでは、東京電力の行状に怒った市民に対して警察はこの東京電力の会長宅をまるで雇われた警備員のように警護した。

また反原発で霞ヶ関に集結した市民に対しても警察は同様の行動を起こし国会議事堂や首相官邸をガードした。二重三重に警護されたその中心で歴史的な愚さを露呈し続けている野田は「外がなにやら騒がしい」と言ったとか。

我々の税金で組織されている警察が実は敵対する連中を守るために使われているというロジックがあらわになった瞬間であったと思う次第だ。しかしもっと肝心なことは政治家が国民のために政治をしてきた訳ではないこと、税金は集めてるけど、国民のために使ってる訳ではないことが露になったことだと思う。投票するのも税金を払うのも僕達個人としてはなんの意味もないけど、それでも政治は進むし納税は避けられないという仕掛けになっている訳だ。

日本人は従順で我慢強いのでこの程度のことで政府や社会がひっくりかえることもないだろう。しかし一体誰のための政府であり自治であるのか。誰の国、誰の社会なのかについて深く考えさせられる事態であったことは間違いない。この事態を目撃する前に本書を読んでもきっとあまりピンとこなかったに違いない。本書は日本においても「予言の書」であった訳だ。

アメリカの大統領選挙は11月6日まで残すところあと僅かとなりました。日本では野田は解散するのかしないのか煙幕を出し続けている間に民主党自体が蒸発して、第三勢力には見苦しい連中が浮上するなど希望のない状況が更に悪化した感がありますが、一体我々の世界はどこまで漂流していくのでしょう。

原理主義に凝り固まって頑迷なことを言い張ったり権力闘争に明け暮れたりしている暇なんかないんだよね。


「マルクス 古き神々と新しき謎」のレビューはこちら >>
「スラムの惑星」のレビューはこちら >>
「自動車爆弾の歴史」のレビューはこちら >>
「要塞都市LA」のレビューはこちら >>


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世界の99%を貧困にする経済
(The Price of Inequality:
How Today's Divided Society Endangers Our Future)」
ジョ セフ・E・スティグリッツ
(Joseph Eugene Stiglitz)

2012/10/21:いろいろあるけど、今正に読むべき本があるとするならこの本は少なくともその一冊に含まれているべきだ。まだ読んでいない人は是非手に取って読んでみて欲しい。この本は日本にいる僕らのそして僕らの子供達の将来に対する重大な脅威、そしてアメリカにいる人たちにとっては既に現実のものとなり大変な苦難を産み出していることについて書かれている本なのだ。

あなたが他のひとも羨む富裕層ではなく、現在の政治や経済、そして雇用や生活、就職・結婚・家庭をもつというような現在・将来、そして老後に不安を覚えることがあるのなら、是非この本を開いて欲しい。

この社会には狡猾にも自分達の利益のみを追求するために、大勢の人々、時には国民全体を欺いてまで既得権を拡大維持しようとしている人たちがいます。彼らは権力を持っているため、政治であれ経済であれそのルールそのものを都合よく変更することができる立場にいます。

そしてそのルールを自分たちの利益が大きくなるように調整するのと同時に日常生活に忙しく、細かい部分や全体像を知ることができない僕らに偏った情報を植え付けて民意を捏造し誘導していくことで上前それも大変な金額を引っさらっていくというようなことが平然と行われています。


 企業がしばしば、自社の行動の結果をすべて賠償することからうまく逃れてきたのは、企業が経済のゲームのルールを自分たちに都合がいいように形成してきたことの一例だ。企業の責任範囲を制限する法律が制定された帰結として、原子力発電所と海底油田掘削設備会社は、爆発を起こしても、そのコストをすべて負担する義務を負わない。その結果、そういう法律がなかった場合に予想される数よりも多くの原子力発電所や海底油田掘削設備会社が存在している。実のところ、政府の補助金がずらりとそろっていなければ、そもそも原子力発電所があったかどうかも疑わしい。

 ときには、企業が他人に押し付けたコストはすぐにはあきらかにならない。企業は大きなリスクをとることが多いが、何年ものあいだすべてがうまくいくかもしれない。しかし、何かがうまくいかなくなると(日本の東京電力の原子力発電所や、インドのボパールにあった<ユニオン・カーバイド>社の化学工場のように)何千、何万もの人が被害を受ける。死傷者に対して補償するよう企業に強要したとしても、損害を完全に元に戻すことはできない。危険な労働条件が原因で死んだ者の家族が補償を受けたとしても、その人は生き返らない。だからこそ、インセンティブだけに頼るわけにはいかない。


東日本大震災で被災した東京電力の原子力発電所がよい例です。彼らは本来これほどの数の原子力発電所など必要がなかったにも関わらず建て、想定外の天災によって生じた世界規模の放射能の漏洩に対しても、移転を余儀なくされた地域住民に対しても、全て補償することもなかったばかりか、その賠償費用を鉄面皮にも電力の利用者に請求書を回してきたわけでした。しかもこの電力料金は企業に有利で個人は高い料金を払わせられていたというのにも関わらず。


人の家に入って物を取れば泥棒と呼ばれますが、こうした企業は罰せられることもなく、妖怪のような会長は押しかける抗議の人々から警察権力を使って保護されるという奇妙奇天烈な光景を我々の前にあらわにしました。

これこそ、僕らの住んでいる現実の世界だったということです。

僕らはこうした現実に怒りをもって当たる必要があります。怒って当然のことが堂々とまかり通っている摩訶不思議な現実を変えていかなければなりません。
その第一歩につくためには先ず覚醒が必要です。一体今この世の中で何が起こっているのか。どんなことが推し進められているのかについてもっと多くの人が知らなければなりません。

その為にはこのような本を読む必要があります。僕らのそして子供達の将来のためにも。
そして先ずは何より現在のくだらない政治家達を舞台から引き摺り下ろすためにも。


 世界では三つのテーマが共鳴している。第一は、市場が本来の機能を果たさず、あきらかに効率性と安定性を欠いている点。第二は、政治制度が市場の失敗を是正してこなかった点。第三は、政治・経済制度が基本的に不公正である点だ。


序 困窮から抜け出せないシステム
第1章 1%の上位が99%の下位から富を吸い上げる
第2章 レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方
第3章 政治と私欲がゆがめた市場
第4章 アメリカ経済は長期低迷する
第5章 危機にさらされる民主主義
第6章 大衆の認識はどのように操作されるか
第7章 お金を払える人々のための“正義”
第8章 緊縮財政という名の神話
第9章 上位1%による上位1%のためのマクロ経済政策と中央銀行
第10章 ゆがみのない世界への指針


先週有楽町の国際フォーラムではIMF・世銀年次総会が開催されました。僕の通勤ルートは丁度この国際フォーラムを通りぬけているのだけど、この開催期間中は物々しい警備に加えて国際フォーラムの敷地への立入りが厳しく制限されていました。建物に通じる連絡通路はすべて封鎖。建物の周囲を回る歩道も通行禁止。えらい遠回りをさせられることになりましたがその道々にも警護の警察官がぞろぞろいるような状態でした。ガラスをふんだんに使った建物ですが、中が覗けないように衝立でめぐらされてもいました。

この中でどんな会議が行われていたのか全然知らないのだけれど、夜NHKで「岐路に立つグローバル経済」という番組が流れていた。クリスティーヌ・ラガルド(IMF専務理事)世界経済フォーラムの創設者のクラウス・シュワブ教授、城島光力(日本国財務大臣)、川村隆(株式会社日立製作所 取締役会長)、エレン・ジョンソン・サーリーフ(リベリア共和国大統領)などが参加したパネルディスカッションでした。遅くまで仕事をしてお酒も飲んでしまったので、うつらうつらとしつつも話を聞いた。

グローバル経済が立ち行かなくなってきたことに対する反省と方針変更のようなものが僅かでもあるのかと思ってしまったのだけれども、ラガルドにせよ、シュワブにせよ世界経済の成長目標にはちょっと足りなかったけども、という程度の認識しかなくてどこが岐路なんだかというあきれた危機感のなさでありました。ただ二人とも雇用の創出と
いうような表現を何度も繰り返してはいた。果たしてどうやって創出するつもりなのかは知らないけれども、この組織から何か生産的で希望の生まれる策が繰り出されてくるということはやはり当面期待できそうにないと思った。そしてじゃまなのでもう二度と有楽町で会議しないでほしいと思う。

スティグリッツはIMFに対してなんと言っているだろう。


 拙著「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」で、IMFとの激しい戦いと、発展途上国と新興市場のさまざまな舞台における戦い---について述べた。経済が下降局面にある国々にIMFが緊縮政策を押し付けてきたことを説明し、IMFの”構造調整”政策---すなわち民営化と自由化の強制がしばしば、成長の代わりに苦難を、とりわけ貧しい人々にもたらしたことを説明した。

 その本を書いた当時、IMFは、特に西欧ではこれらの問題の権威とみなされていた。発展途上世界の多くの人々は懐疑的だった。IMFに強要された政策が多くの場合失敗に終わったのを見てきたからだ。発展途上国の人々はIMFを、世界の金融セクターの利益と先進工業国の企業利益を増大させる存在ととらえていた。しかし、いつもながら、自分達にはIMFの縛りに従うほか道はないと感じていた。IMFの資金を必要としていたからだ。わたしはIMFが裸の王様であることを示そうとした。IMFのお気に入りの政策は最もすぐれた経済学にもとづいているわけではなく、逆にIMFが強要した教義の多くは、過去四半世紀にわたる経済学の研究調査によってまったく信用に値しないとされたことを示そうとしたのだ。

私はさらに、知的矛盾の一部と統制の失敗の両方を暴こうと試みた。この間、IMFはますます”統制”に注力したが、IMF自身の統制には遺憾な点が多かった。金融セクターの影響力が大きすぎ、途上国には力がなさずきた。金融セクターが行き過ぎた影響力を持っていたからこそ、IMFは緊縮財政に傾倒したのだ。IMFの最優先課題は西欧の債権者が貸付金の返済を受けられるようにすることであり、それはつまり、途上国は支出を削減して借金を返済するための金をより多く残さなければならないことを意味していた。また、金融セクターが行き過ぎた影響力を持っていたからこそ、IMFは資本市場の自由化を、つまり海外との資金(特に短期の投機資金)のやりとりに悪影響を及ぼす規制の排除を支持したのだった。資本市場の自由化が成長速度を速めるという証拠はほとんどなかったが、不安定性を増すという証拠ならたっぷりあった。しかし、先進工業国の観点から見ると、それでも自由化は望ましいものだった。なぜなら、西欧の金融機関が発展途上国に進出してより多くの利益をあげる余地を広げてくれたからだ。

 あきらかにIMFは、イデオロギーと利害という、IMF自身を強化してくれる組み合わせにとらわれてきたのである。


本書には、スティグリッツの働きかけもあって成長期間の長さと、所得分配の平等性のあいだに、強い関連性があることを漸く認めたのがIMFの前任のドミニク・ストロス=カーンであったことが書かれています。そして彼はどうなったか。ホテルの従業員だという女性に対する性的暴行容疑という極めて疑わしい容疑で辞任に追い込まれた訳だ。彼自身の素行にもいろいろ問題はあったのかもしれないけれど、弱みをつかれた形で彼の政治生命は事実上抹殺された形だ。こんな事件を起こすことも彼らにかかればちょろいものなのだろう。

こうした臆面もなくますます大胆不敵な手段で我々の利益や権利を剥奪し格差の拡大を推し進めている連中の仕業によって世界の格差はとんでもなく拡大しアメリカでは最早中間層という存在が理屈上のもので実際にはいない人たちを指すまでになってきているようだ。


ジニ係数

 不平等の標準的な尺度に、ジニ係数というものがある。所得が人口に応じて分配されるなら、下位10%層は所得のおよそ10%を、下位20%は所得の20%を手にする。
このように不平等が全く存在しないとき、ジニ係数はゼロになる。逆に、所得第一位の人がすべてを独り占めにすれば、”完璧な”不平等ができあがり、ジニ係数は1になる。ジニ係数が0.3以下の国は、かなり平等性が高いとみなしてよく、スウェーデンやノルウェーやドイツがここに含まれる。対照的に、不平等が最高水準にある国は、ジニ係数が0.5以上になる。ここにふくまれるのは、アフリカ諸国(グロテスクな人種差別の歴史を持つ南アフリカに代表される国々)とラテンアメリカ諸国(昔から社会組織や政治組織の分断化が著しく、しばしば機能不全を起こしているとさえ言われている国々)の一部だ。アメリカは、”まだ”これらの”エリート”たちに及ばないが、仲間入りは時間の問題と言っていい。1980年に0.4だった数値は、現在のところ0.47まで上昇している。国連のデータによると、アメリカの不平等の水準は、イランとトルコを少しだけ上回り、アメリカの平等の水準は、EUの全加盟国を大きく下回る。


もうすぐアメリカ大統領選挙。熾烈な選挙戦が戦われているような報道が繰り返されているけれども、オバマかロムニーかであって、その選択肢の幅は著しく狭いのだ。

僕らが出来るだけ早くそして一人でも多くこうした事態に目覚めて抗議の声を上げることで社会は変えられる。よりよい社会よりよい国へと変えることができると僕は信じている。ただし時間は限られている。いそがなければならない。


「世界を不幸にするアメリカの戦争経済 イラク戦費3兆ドルの衝撃」のレビューはこちら>>

「世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠」のレビューはこちら>>

「 ユーロから始まる世界経済の大崩壊 こちら>>

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ばんば憑き
宮部みゆき

2012/10/14:カミさんから勧められて読み出した宮部みゆきの本は気付くと12冊を超え、二人で読んだ共通の本のなかでも大きな位置を占めるようになってきました。

カミさんは僕に劣らず読書家で読むスピードなんかは僕よりもずっと早いのである。二人で本を読んでいるのに好みというか読んでいる本は結構まちまちで、というか僕が読んでいる本の読者層がそもそも薄いものが多いというのもあるのだろうけども、共通の本を読んでいるというと結構限られてくる。

学生時代、同じ学校に通っていた僕と将来自分のカミさんになる彼女を含め当時の友達とトマス・ハリスの「レッド・ドラゴン」や「羊たちの沈黙」。ロバート・ラドラムの「暗殺者」あたりから始まって、これってすげー面白いんだよー。なんって言って話をしてたっけ。

それ以来、僕らの間で面白い本というと「羊」や「暗殺者」比べてどうなんだというかなり厳しいハードルができた。
勿論この二冊を超える本というのはそうそうないわけなんだけども。

それでももちろん「暗殺者」ほどではないにせよ的でこれはという本をお互いに薦めあっては読んできた。
ドン・ウィンズロウのニール・ケアリーシリーズとか伊藤遊、内田幹樹、そして勿論、池上永一。

これらの本は時折二人の会話のテーブル上に持ち出しては眺めて語り合うことができる正に宝物なのでありました。
今や宮部みゆきの本がこれに加わって僕達の宝箱はまた一層味わい深い煌めき深いものになってきました。

そして先日何も言わずにすっと一冊差し出してきたのが「ばんば憑き」でありました。

僕は宮部みゆきの動向も新書の予定も一切調べない。新しい本がでればカミさんが反応するだろうし、本を愉しむには中身を何も知らずに徐に取り掛かった方が絶対に面白い。短編の場合は特に。いや絶対と言ってもいい。

「じっくり。ゆっくり読んで」
「100%了解」

宮部みゆきの力量とカミさんの読書眼をただ信じればよいのである。
読む本を選ぶ場合にこんな楽でステキなことがあるか。面白い本が向こうからやってくるのだから。

「坊主の壺」
「お文の影」
「博打眼」
「討債鬼」
「ばんば憑き」
「野槌の墓」

と云うことで中身には一切触れません。
ただ一言だけ、読み終わった日の晩餐は二人でひときわこの本の話題で盛り上がってついつい沢山飲んでご機嫌な夜になりましたよ。

信じる者は救われるのだ。


「黒武御神火御殿」のレビューはこちら>>

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最悪のシナリオ-
巨大リスクにどこまで備えるのか

(Worst-Case Scenarios)」
キャス・サンスティーン(Cass Sunstein)

2012/10/14:最悪のシナリオ、副題は巨大リスクにどこまで備えるのか。気になるタイトル。


 〈本書は、社会が直面する最も難しい問題をあつかった優れた成果であり、このような問題には簡単な解決策が存在しないことを明らかにしている。社会的な意思決定の担い手が本書の洞察を十分に理解すれば、社会は正しく対応できるだろう〉――M. H. ベイザーマン(ハーバード・ビジネススクール教授、『予測できた危機をなぜ防げなかったのか?』著者)


こんなコピーがつけられていた。そして著者のキャス・サンスティーンはシカゴ大学のロー・スクールで教鞭を執っていた人だという。

出版社はみすず書房。であるにもかかわらず激しく怪しい。大丈夫なのかこの本は。真っ向から否定せざるを得ない内容になっていら面倒なことになるので嫌だなと。

本書はどのようなアプローチを取るのだろうか。いかに最悪のシナリオを想定するのか。その手法について書かれているのだろうか。想定される最悪のシナリオに対してどう備えるのかを語るものなのだろうか。

僕は寧ろこのあたりについて書かれているものを期待していたのだが、本書のスコープはここにはない。

世の中にはいろいろなリスクがある。気象変動・天変地異・伝染病・廃棄物汚染・戦争・テロ。こうした様々なリスク要因のそれぞれに考え得る最悪のシナリオに対する予防策にどうリソースを分配して対峙していくべきなのかという極めて方法論的な話になっていた。

本書の目標は3つ。まず、最悪のシナリオに対して人間の心理はどのように振る舞いがちなのかを分析する。特に過剰反応と完全な無視という極端に振れる心理傾向がリスクへの対処にどのように影響するのかを論じる。第2に、個人と政府は最悪のシナリオについてどうしたらより賢明に考えられるかを、予防原則を精緻化しながら検討する。第3に巨大リスクにおける費用便益分析の可能性と限界を追求する。

つまり市井の人々はともかく政策担当者にあっては人間心理をきちんと理解し、根拠の無い過剰反応も無視も排除しつつ適正にリソースを配分していく論理性を求められるとし、そのリソース配分にあたっての方法論として予防原則と費用便益分析の用い方について述べようとしているものだと思う。

予防原則。聞きなれない言葉だ。ウィキペディアによれば、化学物質や遺伝子組換えなどの新技術が、仮説上であっても重大な影響がある場合は、規制措置をすべきとする考え方のことなのだという。この予防原則、予防措置という考え方が登場したのはオゾンホールの拡大が顕著になってきたところあたりだったらしい。

本書はこの予防措置に則り進められたモントリオール議定書がある意味成功裏にすすんだ一方で京都議定書が頓挫している理由についても踏み込んでいく。

京都議定書とモントリオール議定書をめぐって


 これらの数字から考えると、京都議定書はアメリカにとって有利な取引ではない。120億ドルという予想便益は取るに足りないとは言い難いが、3250億ドルの予想費用と比べればかすんで見える。京都議定書を尊守するためにアメリカが単独で重大な措置をとれば、便益がまったく得られないと思われる。単独で排出量削減に取り組むなら、単なる推測にもとづく便益のためにきわめて高費用の措置をとることになる。少なくとも当時の有力な関係者は、状況をそのように理解していた。


僕にはこの話はオゾン層を破壊する原因とされたフロンガスなどを製造している当事者企業が比較的明確であり、代替品に積極的に切替ていくことで、勿論オゾン層の保護・維持ができるばかりか切り替えを進めることで企業自身が利益を得ることが可能な枠組みを創り出せたことだったと読める。

それに反する京都議定書はアメリカ政府がこれに倣うことが自国の企業にとって不利で利益のないものだからだと。

環境を破壊する行為と企業の利益を天秤にかけて結論を出しているとするならばアメリカ政府はあまねく私企業同等の利益団体と同じ目線・考え方にたっていると言えるのではないかと思う。国が企業のように考えるとどうなるのかと言えばそれはアメリカのようになるということなのかもしれない。

著者は言う、というか言っているように読めるのは京都議定書をアメリカに飲ませたいなら費用よりも便益が上回るような案を出せと。

そして勿論ここでは予防原則は完全に無視されている。京都議定書ではあっさりと無視しているように見える予防原則であるものの、著者はこんなことを書いていた。


予防原則
 重大な損害のリスクに対しては、予防原則を行使することが一般的になっている。チェイニー副大統領の「1%ドクトリン」はそれ自体が予防原則ではあり、テロ関連の重大な損害が実際に生じる確立がきわめて低くても、それを防ぐために特別な措置をとるべきだと訴えている。実際にアメリカは9.11のテロの結果として、実現しそうにないリスクに対応するために、ある種の予防原則に従っている。イラク戦争は、予防原則を引き合いに出して公然と擁護された。サダム・フセインが大量破壊兵器を保有しているか、あるいはそれを使うつもりかどうか、われわれにはよくわからなくても、イラク戦争はその脅威を排除する手段として正当化することができた(サダム・フセインを相手にあえて危険を冒す必要があるだろうか?)。最悪のシナリオについて私があとで述べる内容を理解できるように、まずは少し視野を広げて、予防原則についてもっと全般的に検討しておく必要がある。


予防原則をテロ攻撃に備える考え方に適応している。地震や気象変動やはたまた隕石の落下のような天変地異と同様に薬害やテロ攻撃を同列に語っていることにもぎょっとする考え方だと思った。そしてこれについても漏れなく費用と便益がついてくる。

どう考えてもテロ攻撃や遺伝子操作によるリスクの確率などは極めて不正確で、そんなものを基に費用便益的な分析を行って、まして対策を打っても巧くいくとは思えないのだが。

予防原則に則り、自国に不利益な活動を進めている可能性のある悪意を持っていると思われる反米組織に対してはその可能性があるというだけで対策を打つ価値があればそうするべきで実際に先制攻撃をする権利すらあると考えてしまったアメリカ政府は人間心理が過剰反応してしまった結果だといいたいのだろうか。そんなのは大嘘だろう。僕にはアメリカがイラクなりどこぞの国に予防措置を講じているのは企業の利益が優先されているからだと単純に理解している。企業の利益を守るか拡大する余地があるからこそ、国民の危機感を煽り、民意を醸成して侵攻に踏み出したんだろうと。

それに対するブローバックとしての国内で起こるテロ攻撃の予防対策は費用と便益でバランスされる。もちろんその費用は国民持ちなのだ。
こんな理屈で納得させられるアメリカ国民が憐れだな。

マキシミン原則、理由不十分の原則、不可逆的損害の予防原則とか、プロスペクト理論、オプション理論とかプリコミットメント価値だとかこの人の造語なのか、調べても他所ではでてこないような原則とか理論とか名前をつけてはいるものの、なんかあんまり説得力がないものを次々繰り出しては結論に辿り着くのだけれども、それはどれもあっちの例、こっちの例を引き出しては結論を出す帰納的な考え方でばかりで、そもそも各論ごとに飲み込めない。例示されているものがすべて網羅性を担保されてるようにも見えない。ひょっとしてこういう考え方の違いの根っこは成文法主義か不文法主義かというようなものに由来するのかもしれないなどと思ったりする。何れにせよ僕にはとても相容れることのできない考え方の違いを痛感しました。

学ぼうと思っていたものとは全く違う部分でとても勉強になった一冊でありました。




△▲△

見えざる宇宙のかたち-
ひも理論に秘められた次元の幾何学

(The Shape of Inner Space: String Theory
and the Geometry of the Universe's Hidden Dimensions)」
シン=トゥン・ヤウ(Shing-Tung Yau)&
スティーヴ・ネイディス(Steve Nadis)

2012/10/08:映画でもテレビでもアニメでも異次元の世界というものは、自由に行き来することはできないけれどもそこは何かやはり空間があって時間も流れているものであるかのように描かれることが多いと思う。子供の頃、異次元の世界へひょっこり入り込み異形の生命体に遭遇するみたいな話に何かぞわっとする思いを覚えつつも正座して見てた。

異次元というか4次元の世界なんて表現を使っていたこともあったんじゃないかと思う。

しかし、実は僕らのこの今生きている世界が4次元の時空であるという考え方があらわれ、子供の頃の既成概念がぺしゃんこになってしまった。この4次元時空、僕らは確かにこのなかの存在で、ここから抜け出すことは決してできないようだ。

どのようにしてこの宇宙が誕生したのか。この4次元の時空が有限なのか無限なのか。我々人類の行く末がいかに紆余曲折したとしても結局はこの宇宙の行く末から逸脱することはない。

この宇宙の寿命は果たしてどのくらいなのだろうか。いろいろな説があるけれども、そのいずれを取ったとしても人類がその宇宙の終局に立ち会うことがあるとは考えにくい。それよりもずっとずっと以前に太陽系の寿命が果ててしまっているからだ。

最近僕はそんな誰も決して体験することのない果てしない未来に何が起こるかについて懸命に考えることとは、むしろ信仰心に似ているのではないかと思うようになってきた。最新の量子物理学・宇宙論が描き出すプランク長の長さや時間での量子のふるまいや宇宙誕生の瞬間の様子はどうやら検証・実証が不可能で、その証明自体はまるで秘蹟のように極々限られた科学者たちにしか理解できない数式によって表されているのだからだ。

僕達はその数式と取り扱っている科学者、そして彼らが我々に理解できるような言葉やイメージで語っている世界観を信じるのだ。

 物理学者のディヴィッド・グロスは、その手の人間原理的論法を、根絶すべきウィルスに喩えている。そして、「一度感染すると駆除できない」と、ある宇宙論の学会で不満を訴えた。スタンフォード大学の物理学者バートン・リヒターは、同じ大学の同僚、レオナルド・サスキンドなどランドスケープ信者を批判して、『ニューヨークタイムズ』に次のように寄稿した。「彼らは白旗を揚げた。彼らにとって、物理学をここまで牽引してきた還元論者の旅路は終わった。そう信じているのなら、なぜ別のこと、たとえばマクラメ編みを始めないのか、私には理解できない」サスキンドは、そのような言葉を甘んじて受け入れはしない。そして、ひも理論の解が複数存在するという状況を回避する方法はないのだから、ランドスケープは確かに存在する、と主張している。このような状況なので、折り合いをつけ、何か役に立つことを学べるかどうかを見極めるべきだ。サスキンドは著書「宇宙のランドスケープ」の中で、次のように書いている。「物理学という分野には、あきらめ時を知らなかった頑固な老人の屍が散乱している。[自分も]最後の最後まで闘う気難しい頑固じじいかもしれない」。


勿論その世界観は今だ統一には程遠く諸説ある訳で、どれを信じどれを疑うかは我々個人に任されている。

最新の宇宙論で有力だとされて久しいものに「ひも理論」がある。ひも理論が僕ら一般人の目に触れるようになって既に20年以上経つ。ひも理論が大統一理論を確立し物理学は終焉するとか騒がれたりもしたが、その後ずっと足踏みを続けているような感じだ。

なにやらひも理論が求めるこの世界の次元は10次元かまたは11次元であるらしい。この余剰次元と呼ばれる新しい次元は、この世界と離れた場所にあるのではなく、僕らのこの世界の超微細な空間のなかにたたみ込まれているのだという。

プランク長の格子構造の内側で余剰次元はカラビ=ヤウ多様体の形でたたみ込まれているらしい。

なんなんだこのカラビ=ヤウ多様体って。

このカラビ=ヤウ多様体の生みの親であるシン=トゥン・ヤウ本人の手による本がついに出た。

僕はこの本をとっても楽しみにしていた。少年時代は家禽業者になりかけたというヤウ本人って一体どんな人でそしてその本人が語るカラビ=ヤウ多様体とは一体どんな姿なのか。

しかし、しかしである。本書は残念なことにこのヤウ本人の生い立ちについてはほんの僅かであり、本書を読んでも彼の人柄はあまりよくわからないばかりか、カラビ=ヤウ多様体に関する説明は専門用語が連発でずぶの素人の僕にはとても理解できるような内容になってはいなかったのでありました。

ケーラー計量とかケーラー多様体だとかなんとかいわれてもちんぷんかんぷんでありました。そしてそれはとっても残念なことでありました。

それでもカラビ=ヤウ多様体はひも理論の中核に位置づけられており、そこから様々なもの、新しい概念が生まれたり、別々のものであると考えれていた数論を結びつける証明が産み出されたりということが日々続いているのだという。

そしてこうした努力がいつか大きなブレークスルーを産み出す日がくることを楽しみにしていきたいと思います。




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