2015/12/31:今年2015年もいよいよ大晦日となりました。この一年振り返るとほんといろいろありました。一言で言うと只管忙しかった。マジで。仕事も50を超えると少し落ち着いた感じで仕事ができるようになるのではないかなんて思っていましたが、現実は違った。目まぐるしい一年でしたが、どうやらしばらくこんな仕事が続きそうです。
さてこの一年をしめくくる一冊はチョムスキーの「複雑化する世界 単純化する欲望」であります。本書はラリー・ポーク(Laray Polk)という芸術家であると同時に放射能汚染に関して鋭い発言をしている方との間の対談形式となっているものです。
目次
第1章 破滅に向かう環境世界
第2章 大学と異議申し立て
第3章 戦争の毒性
第4章 核の脅威
第5章 中国とグリーン革命
第6章 研究と宗教
第7章 驚異的な人々
第8章 相互確証信頼
チョムスキーも最早かなりの高齢となってきたこともあり、一冊の本を書くというよりもこうした対談形式でまとめるが楽なのかもしれない。
それでも彼の情報収集と分析力の確かさには全く老いを感じさせない、というか一般人には到底たどり着かないものがあります。彼がいなくなったら僕らはどうやって確かな情報を得ることができるのか。ホントぞっとする思いです。
先日、第21回気候変動枠組条約締約国会議(COP21)が開催され、報道では成功裏に会議が進んだかのような雰囲気が伝えられていた。一体どんな合意がなされたのか。
これは2020年に失効する京都議定書の先を新たな枠組みで取り決めようとするもので、196ヵ国が参加しパリ協定が定められた。喜んでいる人たちはこの協定の合意を祝っていたというわけだ。
外務省のサイトには以下の概略が載っていました。
世界共通の長期目標として2℃目標のみならず1.5℃への言及
主要排出国を含むすべての国が削減目標を5年ごとに提出・更新すること,共通かつ柔軟な方法でその実施状況を報告し,レビューを受けること
JCMを含む市場メカニズムの活用が位置づけられたこと
森林等の吸収源の保全・強化の重要性,途上国の森林減少・劣化からの排出を抑制する仕組み
適応の長期目標の設定及び各国の適応計画プロセスと行動の実施
先進国が引き続き資金を提供することと並んで途上国も自主的に資金を提供すること
イノベーションの重要性が位置づけられたこと
5年ごとに世界全体の状況を把握する仕組み
協定の発効要件に国数及び排出量を用いるとしたこと
「仙台防災枠組」への言及(COP決定)
京都議定書を蹴っ飛ばしていたアメリカが合意したらしいことはめでたいお話なんだなーと思っていましたが、この削減目標って合意国共通なのではなくて各国ばらばら。
日本の削減目標は2013年を基準に2030年までに26%削減することを目標としているのだけど、例えばアメリカは2005年を基準に2025年までに26~28%削減することが目標となっている。基準とする年も達成年度も異なるので単純比較ができないようにしている感じだ。EUはなんと1990年を基準に2030年までに40%なのだそうだ。
緩くないか。これ。
どこに危機感があるのかわからん感じだ。
という報道がなされた直後にオバマが発表したのは石油輸出の解禁だ。オバマはこのパリ協定の合意との交換条件でこの輸出を認めることにしたのだとか。
アメリカが石油輸出を始める?
2012年にはバレル120ドルを超えていた原油価格だが、このニュースを受け12月4日にはバレル35ドルまで下落した。この背景にはアメリカの石油業界がシェールオイルからの原油精製技術が進み産出量を増大させ生産量がサウジアラビアを越えたりしてきたことがあるという。
アメリカはいまや世界最大の石油産出国となったのだそうだ。なんと。
石油資源の奪い合いで中東を踏みつけていたと思っていたのだけども、輸出に回せるほど生産量が上がってくると方針もまた様変わりしてくるのだろうな。
それにしても温暖化対策よりも目先の利益なのだというこのオバマのコンセンサスというのはほんと右よりで財界よりなスタンスで大統領選で戦っていたときには全然わからなかったねこの人柄。
オバマはとりわけ、合衆国がディエゴ・ガルシア島に有している攻撃能力を強力に増進させてきました。合衆国が中東と中央アジアを爆撃するために使っている主要な軍事基地がある島です。2009年12月、米海軍はディエゴ・ガルシアに原子力潜水母艦を派遣しました。おそらく、すでにそこで待機していたのですが、これはその能力を拡大するためであり、米海軍はイランを核兵器で攻撃する能力を確実に持っているのです。また、オバマは大型貫通爆弾の開発を急激に促進させましたが、この計画はブッシュ政権下ではずっと棚上げにされていました。オバマは、政権の座に着くやいなやその計画に拍車をかけ、数百もの大型貫通爆弾をディエゴ・ガルシアに配備すると─アメリカでは報道されていないと思いますが─控えめに告知したのでした。すべてイランを標的にしたものでした。
というかブッシュがダメすぎだったということか。
今また大統領選挙ではトランプ氏が大暴れしているが、あれは誰かが金で雇った陽動作戦なんじゃないかと思う。だってあれだけ破廉恥な言動を繰り返している人が真正面でうろうろしてたら後ろの人はまともに見えるじゃないか。
トランプ氏が大統領になることはないだろう。多分。しかし結局選ばれた人も大体が庶民的には何の役にもたたない人なんだろうなきっと。
なんて事を考えていたわけですが、チョムスキーは本書でこんなことを書いていました。
実際に、テキサス州のやり方は興味深いでしょう。その歴史をご存知でしょうが、1958年頃にアイゼンハワー政権は合衆国がテキサスの石油に依存するという取り決めを交わしたのです。つまり、ずっとやすいサウジアラビアの石油資源を使う代わりに、国内石油資源を使い果たす。それがテキサスの石油生産者の利益のためである、ということです。次の14年間、アメリカは主にテキサスの石油に依存しました。つまり、国内資源を採りつくし、後に地中に穴を掘り、戦略的貯蓄のために石油を戻すということです。このことは、単純に安全保障の観点からさえ、かなり鋭い批判がなされました。マサチューセッツ工科大学の教授であるM・A・エイデルマンは、経済学者で石油の専門家ですが、議会でこのことについて証言しました。しかし、問題にされなかったのです。テキサスの石油生産者のための利益が、海外の石油への依存のような安全保障の基本策を凌駕するのです。
チョムスキーはアメリカ人としてアメリカの安全保障の観点でも石油採掘を避けるべきだと言っているようです。何れ枯渇する石油を温存すべきだと述べている訳です。
輸入に頼っている日本としてはこれに返す言葉はありませんが、安全保障よりも石油生産者の利益を優先しているのは愚かだという切り口は正しいと思われます。しかし石油生産者が政策決定件を握っているのであればそんな愚かな判断もまかり通ってしまうというのが政治の世界だという訳です。
ブッシュはもろ石油生産者でしたからね。バンバン石油が消費されると幸せになる訳です。個人というか一族として。仮にアメリカ合衆国とか世界経済がぶっ壊れても、有り余る財産を抱えている人は最後まで生き残れるでしょう。彼らが抱いている基本原則はあれもこれも自分のものにできるものはし、他人には分け与えないというものだと思う。
そのために世界がどうなろうと知ったことではない というまるで映画やコミックに登場する悪の化身そのもののような発想だと思うのだけど、本人達はそんな類似性に気づく気配もなく当たり前に過ごしているということには不気味さを通り越してまるで冗談のような話になっていると思う。
そしてその冗談みたいな状況は日本においても全く同じだ。
先日のニュースではあの東電が、東京電力福島第1原発事故に伴う除染の費用負担の2013年末以降の計画分を負担する気がないらしいことが伝えられていた。
環境省の請求に応じないのだそうだ。
一般の会社で国からの請求をぶっちぎるというのは普通、潰れる直前とかブラックな会社なんじゃないかと思うのだけど、東京電力ともなるとそんなこともできるらしい。その金額はなんと200億円超。確か経常利益が過去最高とかなんとかいう決算をしたばかりの会社が国からの請求を無視するのかと思えば、この判断について経済産業省は東電を支持までしているのだという。
この期に及んで東電を支持する側に回る経済産業省の事情が全くわかりませんが、まー一言で言えばグルな訳ですね。ほぼ人災と言われる放射能汚染の加害者にして1人も責任を取らずに結局一般人の懐から金を奪って被災者の補償をし、復旧のための費用負担も逃げ切れるのならこんな会社を経営するのは子供でもできるだろうけども、役員連中は相当の報酬も受け取っているハズ。これを冗談と呼ばずになんと言うのか。
じゃ環境省はしっかりしてんのかと思えば、森林は二次災害が起こるなどとして除染をしないという方針を打ち出してきた。つーことはつまり地域全体を除染することなんて初めから無理で、こんなの初めからわかっていたハズなのに後だししてきた感じが満載だ。
しかしこんなニュースが流れても暴動が起こる訳でもなければ、デモが出る訳でもない。
意図的なものであれ意図しないものであれ、放射性物質の放出という問題を隠蔽することは、放射性物質それ自体と同等の危険を引き起こすことでしょうか?
おそらくそうでしょうね。しかし、最大の脅威は、もし恐ろしい犯罪に対して本当に関心があったとしても、既知の事柄ないし容易に知りうることから目を背けたり、抑圧することです。もちろん誰かが有罪のときは大きな苦悶がありますが、決定的な場合というのは、常に、私たちが加害者の時です。
我々が今日本で行っているのは正に「この目を背けている」ということなんだろうと思う。世界に他に例をみない核兵器による被爆経験者でありながら、こんなにも放射能被害に対するセンスがなく危機感もない我々はまた核拡散防止条約に非加盟のインドに対して技術供与するというのである。
石油輸出を開始したオバマと、原子力発電技術を輸出するという安倍、どっちがより笑える冗談に聞こえますか?
来年はすこしはまともな年になることを祈っております。
「壊れゆく世界の標」のレビューは
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「誰が世界を支配しているのか?」のレビューは
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「複雑化する世界単純化する欲望」のレビューは
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「我々はどのような生き物なのか」のレビューは
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「チョムスキーが語る戦争のからくり」のレビューは
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「現代世界で起こったこと」のレビューは
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「グローバリズムは世界を破壊する」のレビューは
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「すばらしきアメリカ帝国」のレビューは
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「メディアとプロパガンダ」のレビューは
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「破綻するアメリカ 壊れゆく世界」のレビューは
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「チョムスキー、アメリカを叱る」のレビューは
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「9・11―アメリカに報復する資格はない!」のレビューは
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「「チョムスキーの「アナキズム論」」のレビューは
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△▲△
2015/12/31:しかし随分時間かかっちゃいました。本書は500ページほどだけども普段のペースの倍ぐらい時間がかかってしまった気がする。もたもたしてしまった最大の要因は果たしてこの人はどっちサイドの人なのかがなかなか解らないという点にあった。途中怪しすぎて辞めようかとまで思ったよ。
ギアがようやく入ったのはアダム・スミスに言及している部分にたどり着いたところでした。
スミスが残したほんとうに重要な遺産は、社会を結び付けるものは共感であるという思想と、中立な観察者という概念の二つである。今日では、見えざる手によって経済社会がうまく運営されている、というようなことをスミスが言ったとされているが、実際には彼自身はこの言葉を三回しか使っていない。主著である二冊の著作で一回ずつ、そして『天文学』で一回である。したがって、なぜ見えざる手がこれほどの熱狂を巻き起こしたのか、まったく解せない。
これは直前チョムスキーが述べていたことと全く重なる。現代の経済学の誤謬、いや作為的に曲解している部分を鋭く突いている訳でつまりは今の経済学という学問がインチキだと思っている側の人間であるということが解ったのでした。
これで安心して読み進めるという訳だ。
目次
序章 経済学の物語─詩から学問へ
第1部 古代から近代へ
第1章 ギルガメシュ叙事詩
第2章 旧約聖書
第3章 古代ギリシャ
第4章 キリスト教
第5章 デカルトと機械論
第6章 バーナード・マンデヴィル─蜂の悪徳
第7章 アダム・スミス─経済学の父
第2部 無礼な思想
第8章 強欲の必要性─欲望の歴史
第9章 進歩、ニューアダム、安息日の経済学
第10章 善悪軸と経済学のバイブル
第11章 市場の見えざる手とホモ・エコノミクスの歴史
第12章 アニマルスピリットの歴史
第13章 メタ数学
第14章 真理の探究─科学、神話、信仰
終章 ここに龍あり
トーマス・セドラチェクは1977年生まれ。40代っつーことですね。若い。若いのに自国チェコで大統領の経済アドバイザーを勤めていたのはもっと若くて24歳のときなんだそうだ。
こうした若い世代の人が書いている本だということを改めて振り返ってみるとこの内容には舌を巻くしかない。
経済学が倫理哲学の一分野であったはずのものがいつの間にか倫理感をどこかに忘れてしまったこと。スミスの例にあるように過去の学者たちの主張を自分達の都合のよいように曲解し、「効用の最大化を追い求める人間」という現実にはなんの意味もないモデルを弄んでいる経済学を元の鞘に収め、永続的に持続可能な社会へと方向転換するためにも、まずはブレーキを踏め。と大鉈を振り下ろしているのであります。
並み居る御大は勿論、財界から政治家などのツワモノどもを向こうに回して怯むこともない。なにせ彼は経済学・経済学史ばかりか、宗教・人類史についても強固な知識基盤を持っているのである。
しかしそれでも僕はやっぱりもたもたと読み続けていた。走らない。走れない。
なんでか。
善は報われるのか。経済活動における効用の極大化や効率化。
こうした課題は一体誰のものなのか。
一読者として当然それは自分の問題として読むわけだけれども、自分自身の善が報われるかどうかという問題が果たしてこの世界、社会とどんな関係があるのか。効用の最大化云々も個人的な問題なんだろうか。
いま社会が直面している問題は個人の問題でも勿論あるけれども、この枠組みは国であったり企業であったりその集合体である世界経済のレベルで解決すべき問題だ。
ブレーキを踏めと言われても実際に踏まなければいけないのは日本の政府、安倍政権の暴走、例えば核不拡散条約に加盟していないインドへの核技術の輸出だったり、アメリカの石油輸出解禁だったりする訳で、個人の財布の中身の範囲で効用の最大化や善を積む話とは全然次元の違う話なのである。
こうした行為は短期的な利益を優先して中長期的なリスクを増大させるものな訳だが、国や企業の倫理観が歪んでいる場合にどうしたら是正できるのかという問題
そしてもう一つは規模の違い、我々市井の個人に対する一方で桁外れに裕福な富裕層がおり、吹けば飛ぶような小国もいれば、超大国もある。そして企業も零細な個人企業もあれば一国の規模を超えるような大きな企業もいる。こうした規模が著しく異なるものが利害を一致させることなどそもそもが不可能なのではないだろうかという問題。
どうしたらアメリカ政府のような国の倫理観を外部から牽制して是正することができるのだろうか。国連ですら彼らは鼻にもかけていないというのに。
本書を読んでいるといつの間にか本題から離れて思いが外に向かっていってしまっているということ暫し。そんな訳で本書は大変示唆に富んでいるもののなかなか前に進んでいかない本でありました。
△▲△
2015/12/06:誰か会ってみたい人に会わせてもらえるなら誰をご指名しますか。そうなったら僕もいろいろ悩むだろうけども筆頭株の一人はこの方ノーム・チョムスキーだ。ということで本書の存在を知ったときにはいろいろな意味でショックだった。
だってチョムスキーが日本に来て講演していたなんて。一般人が申し込める催しだったのだろうか。イベントの存在も来日した事実も気づけず本が出て初めて知るというこの残念感といったらない。もはやかなりの高齢の域に達しているチョムスキーと同じ時間に同じ場所に居られたかもしれないと思うと「悔しい」とすら感じる。
僕もその場に居て質問の一つもしてみたかったよ。
ということで本書は上智大学の公開講演(2014/03/05~2014/03/06)ソフィア・レクチャーズでのチョムスキーの講演とそれに引き続いて行われた質疑応答の模様そしてその後のインタビューで構成されております。
<目次>
ソフィア・レクチャーズ 第1講演
言語の構成原理再考
ソフィア・レクチャーズ 第2講演
資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか
チョムスキー氏との対話(インタビューアー:福井直樹・辻子美保子)
ノーム・チョムスキーの思想について(福井直樹・辻子美保子)
チョムスキーは二人いるとよく言われていることだがそれは、言語学者としてのチョムスキーと政治活動を行っているチョムスキーのことだ。政治活動を中心とした著作も最初は何を言っているのか皆目わからない天地がひっくり返るような目にあうわけだけども、何冊も読んでいると勘所というか視点が同期してきて彼の訴えていることの意味がわかってきたりするものだ。しかし言語学の本はそうはいかない。正直まるで歯が立たないくらい難しい。基礎がある人が読むことを前提としているのだろうとは思うのだけど、なんでこんなに難解なのかと思うような内容なのである。
とても同じ人が書いているとは思えない。ということでチョムスキーは二人いるのではないかという話。しかし講演ではかなり平易に語られており、読んでなるほどな内容で安心しました。
しかし実のところ言語の場合、言語とは何かを明確に決定づけるべきさらに根本的な理由が存在するのです。その理由とは、我々がどのような生き物かという、より一般的な問いに極めて直接的に関係するものです。「下等動物が人間と異なっているのは、ひとえに人間がまさに千差万別な音と観念を結び付けるほとんど無限の能力を持っていることにある」という結論に至ったのはチャールズ・ダーウィンが最初ではありませんが、人間の進化に関する萌芽的説明の枠組みにおいて、この伝説的な概念を表明したのはダーウィンが最初でした。
コンピューター言語というかプログラムを使ったコンピューターの計算では計算はするけれどもその意味を理解している訳ではない。当然だけども。戻り値のコードはコードであってその意味や概念は関係がない。
「2001年宇宙の旅」でミスはしない、したこともないと言い張るハルに対して人間らしい反応をしているだけだと述べるボーマン船長は正にハルの反応は単なるコードの戻り値だと切り捨てていたのだ。
これはスマホの出会い系アプリ(やったことないけど)なんかで「好きです」とか帰ってくるのもやっぱり戻り値であって、感情や概念が伴っている訳ではない。ということを忘れている人がいるような気がする最近は不気味だが。
ダーウィンが、とチョムスキーが述べているのは正にこの言葉と概念を結び付ける能力こそ、人間に備わった無限の力であると同時に他の動物と一線を画する部分であると述べているのでありました。
これは聾唖の方や盲目の方であっても言葉と概念を結び付ける能力がそもそも生来的に備わっており、人間本来の基本設計のなかに埋め込まれているものであるというようなことを言っていました。
他の動物では鯨など一部の動物で情報を交換しあっている例が認められているとしつつも人間のように概念と言葉を結び付けることが出来ているものはいないのだという。
面白い。こうしたお話ならもっともっと聞きたい。聞かせて欲しい。
そして第二講「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」こちらは期待通りのチョムスキー節炸裂であります。日本でしかも極々最近の来日で語る訳ですので、安倍政権について、福島の原発について、TPPについて辛らつで核心を突く発言をされているところはこの講演としても正に聞き所でありました。
そしてでは我々はこれにどう対処していけばいいのか。
ここは是非実際に本を手にとって読んでいただきたい部分であります。
正に姿勢を正して聞くべきものがありました。
最後にいろいろあるなかで一つだけ。アダム・スミスについてチョムスキーが語っている部分をご紹介します。アダム・スミスは国富論のなかで分業の弊害を強く語っており、今現在一般的に捉えられているイメージとは真逆で反ネオリベラリズムであり、反グローバリゼーションであることが解るという。国富論で述べられているが殆ど取り上げられていることがない面を紹介しつつ、チョムスキーは次のように述べています。
スミスはおそらく、上で述べたような人道的な政策を取ることはさほど困難ではないはずだと感じていたのでしょう。もう一つの主要著作である『道徳感情論』を、彼は次のような所見を述べることよって始めています。「いかに人間が利己的であるように見えようとも、人間の本質の一部として、他の人の運命に関心をいだき、そして他の人の幸福を自分にとってもかけがえのないものと感じる何らかの原理が明らかに存在している。たとえ自分が得るものが何もなくとも、他の人の幸福を見るだけで嬉しいと感じる何かがあるのである」。スミスは、人間の本質が持つこのような側面を基礎にして自分の思想を組み立てました。そして、彼が「人類の支配者たちの卑しい格言」と呼ぶ「全ては自分たちのために、他の人たちには何一つ渡さない」という考え方と、人間の本質が示すいま述べた側面とを対比させています。人間が本来持つ心優しい部分が、人類の支配者たちの病理を克服することを可能にするのではないかとスミスは明らかに願っていました。
「神の見えざる手」という表現も含め、統治者や権力者、富裕層の人々はアダム・スミスの見解を歪めて広め、今ではスミスがここで反対している「卑しい格言」をあたかもスミスが述べた金科玉条のように掲げて世間をプロパガンダしているというわけでありました。
憲法改正も消費税も老人福祉や経済の三本の矢もセット販売されて選挙にかけられれば政策単位での価値観の違いだけではない結果を得ることができる訳で何と何をセット販売すれば売れるのかを考える選挙対策をしてくる政府や政権に対して、一票しか手持ちの弾がない我々ではそもそも勝負にならないというかこれはもう民意なんか関係がない結果が出ているのは間違いない訳で、政治家や富裕層にしてみればこんなに楽な仕掛けはないというところで、これを変えるためにはどんだけ人が動けば変わるのかというとそれはもう相当の体力がいるのは間違いがないのだけれども、これまでもずっと人類は自由のために戦ってきたわけで、これまでの暴力や人権蹂躙の時代に比べれば今の時代に戦うのなんて全然平気じゃないの。何を甘えたことを言っているのだお前らはというのがチョムスキーが暗に語っている部分であったと思う次第でありました。
しかしほんとお目にかかりたかったですよ。心から。
「壊れゆく世界の標」のレビューは
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「9・11―アメリカに報復する資格はない!」のレビューは
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2015/11/23:この方の本は二冊目だったことに最後まで気がつかなかった。5年ほど前に読んだ「土の文明史」がそれだった。当時の僕の記事を読むとそれなりに感慨深い面があったようだが、なんだか駆け足で通り過ぎている印象もある。実際ご本人の事はすっかり忘れていたというか。本書の解説でも何も触れられてない・・・。
著者のディヴィッド・R・モンゴメリー氏はワシントン大学で地形学を専門とする教授で本書を読むと非常にバランスが取れた常識的な考えをもっている方だということが見受けられました。
本書は副題にある通り「ノアの洪水」を巡る本だ。
「ノアの洪水」と言えばまず僕はウィリアム・ライアンとウォルター・ピットマンが書いた「ノアの洪水」が頭に浮かぶ。こちらの本は15年も前に読んだ本なのだけど、その面白さは未だに忘れられないほどのものがある。
今の黒海はその昔低地であって、谷底に淡水の湖が広がる場所であったらしい。そこには湖を囲むように大勢の人々が暮らしていた。しかしあるときボスポラス海峡が決壊し海水が怒涛のようにこの地になだれ込んできた。
大洪水である。しかも塩水。
湖の生物は塩化により死に絶え、牧草地も壊滅。人々はヨーロッパの周辺へと離散。逃げ延びたというのだ。これが洪水伝説となっていろいろな民族の神話や宗教に折りこまれていった。
旧約聖書に描かれているノアの洪水はこの沢山ある洪水伝説のヴァリエーションの一つだったのだ。
「ノアの洪水」は概ねこんな展開の本だった。
同じくノアの洪水をテーマにしている本書となると僕としては当然比べたくなる。「ノアの洪水」と比較してどうなのよと。さらには既に読んで知っている僕が本書を読んで面白いのかと。
しかしそれは杞憂でありました。訴求点が違った。「ノアの洪水」があくまで地質学的年代史であったが、こちら「岩は嘘をつかない」は、ノアの洪水が本当にあったと信じていた、信じている人々と科学の進歩により葛藤し悩み苦しみ妥協したり戦ったりといったことを重ねてきた西洋史を駆け抜けてみるというような感じだ。
レオナルド自身は遠征はしなかったが、当時のヨーロッパ人は探検する先々でユダヤ系には見えない人々に出会った。キリスト教の真理を弁護する護教論者は、アメリカ先住民はイスラエルの失われた部族の子孫だとか、ヴァイキングの遠征隊の末裔だとか、太古に大陸間をつないでいた陸橋を通って新大陸に渡った人たちの子孫だとか説明したが、こうした安易な説明は問題を解決するどころか、かえってこじらせた。その陸橋とやらは、今はどこにあるのか。ギリシャ・ローマ時代の彫刻を見るかぎり、ギリシャ人やイタリア人はこの2000年の間、容姿が変わってないのに、ノアの子孫はわずか数千年で容姿が変わり、ピグミーやヴァイキングやアボリジニのような外見になってしまったのか?人間の変化する速度がギリシャ人やイタリア人のように遅いのならば、ノアの洪水の後で万華鏡のように多様な民族がどうやって生まれたのだろうか?いずれにしても、聖書に記された地球史観は不完全である。
僕が思っているよりもずっと深く西洋の人々はノアの洪水の実在性を信じてきた。今でもそれを信じている人もいるというところにどうにもまごついてしまうところがあるのだけれども、歴史的背景をみてみると、西洋社会は寧ろずーっと信じ続けている時代があって、いまもどっちかというとまだそうであって、近年一部の人が「それは不合理だ」ということに気づいたに過ぎないということがわかった。
創世記に記されている年齢を合計した結果、天地創造からノアの洪水まで2261年が経過していることがわかった。次にユリウスは、ノアの子孫の年齢を計算し、さらに聖書以外の資料も参照して、モーセに率いられたユダヤ人のエジプト脱出(出エジプト)やエルサレムの神殿破壊などの歴史的出来事の年代を特定した。このようにしてユリウスは、キリストが生まれたのは神が世界を創造してから5500年後だという結論に達した。
西洋社会では長く天地は神によって創造され、ノアの洪水によって罪深い者たちは滅ぼされ、キリストは僕らの罪を背負って死刑になりまた復活を遂げたということがまったくリアルな世界観として受け止められてきたのである。
近年科学的な証拠はこれとは全く異なる世界観を作り出してきたのだけれども、宗教的信条や伝統的な生き方を急に手放してしまうことに対する畏れや、社会がこうした信条を捨て去ることで俗悪化・低俗化してしまうという危惧を抱いている人たちもおり、宇宙論や地球物理学が描き出す世界観がいくら正しいとしてもこれを受け入れようとしない人々もいる。
先にも書いたけれども、西洋社会では科学的知見と宗教的価値観というか、聖書の教えとの間のコンフリクトをどう解消していくかというところで、ぶつかり合い、時として血を流し、時として妥協しあいながら進んできたのである。
本書ではこうした衝突とブレイクスルーを繰り返してきた人類史のエポックなタイミングを余さず捉えて描き出していく。
人々は新しい知見に出会い、まごつき狼狽えながらも、何かしらを選びとってきた。何を守り何を放棄するのか。苦しみ悩みながらも最終的には、より合理的だと考えられる方の道を選んできたように思える。
僕らの社会は科学と同じぐらい いや比較するのは難しいのだけれども宗教も非常に重要な役割を果たしてはきたからこその今がある。
一方がファンダメンタリズムに走れば、科学は無神論に向かって強く進もうとするだろう。
宗教的信条や価値観を貶めるようなプロパガンダを展開してもお互いに頑迷に対立を深めるだけではないのか。
現代社会にとって受け入れやすい妥協点というものがどこかにあるような気がするし、これに向かって歩み寄るために人々をリードすることのできる人だっているのではないだろうか。
我々が今待ち望んでいる人はこんな人なのかもしれない。
「土の文明史」のレビューは
こちら>>
△▲△
2015/11/08:しかし、忙しい。週末はかなりくたくたです。それでも仕事に負けたくない僕としては、自転車に乗り。ingressで遊び、本のレビューも書き続けていきたい。今週はベランダの鉢植えたちのせいりなんかもあって、まー、忙しい、忙しい。
何か少し辞めるものも必要な気もするものの、空いたところにまた何か入ってくるに違いないということを思うに、辞める努力は意味がない、ととりあえず断定しておこう。
ということで今週はスティグリッツの新作であります。先日カミさんの誕生日で、長年勤めた仕事の引退記念ということもあって、少しというかなり奮発したお買い物をする機会があった。
要はブランドショップに柄でもなく入って品物を買った訳ですが、その時僕はこの本を小脇に抱えたままお店に入っていってしまっていた。
あらま、これほど不似合いな取り合わせもないわ、なんて思っていたら、お店をでる際に店員の女性から「難しそうな本を読んでらっしゃいますね」と笑顔で言われ、返す言葉が浮かばず愛想笑いをするのが精一杯でした。
本書の主たるテーマは「格差」と「不平等」。世界には、特にアメリカには極端な格差と不平等が生じている。これは大変由々しき問題で、日本でもこれを追うような事態が進んでおり、この先どのように対処していくべきか、なんていう事を考えているような姿勢をみせている自分だけど、実態は結構いい収入をもらっている訳で、だからこそこんなお店でちょっとお買い物なんて好き勝手なことができている。
つまりアメリカのような経済─は、長い目で見れば繁栄をつづけられる可能性は低い。理由はいくつか挙げられる。
第一に、不平等拡大は機会縮小と表裏一体の関係にある。機会均等が崩壊することは、最も貴重な資産である人材を、最も生産的な方法で活用できないことを意味する。
第二に、不平等をもたらす歪みの多くーたとえば、市場の独占力や利権集団に対する優遇税制─は、経済の効率性を毀損する。拡大した不平等は新たな歪みを創り出し、効率性はさらに低下を余儀なくされる。たとえば、アメリカで最も有能な若手エリートたちは、天文学的な報酬をまのあたりにして、次から次へと金融セクターに流れ込んできた。本来なら、もっと生産的かつ健康的な分野で、経済の発展に貢献していたはずなのに。
第三に、現代経済は、″集団行動″″を必要とする。言葉を換えれば、征服がインフラと教育と技術に投資しなければならないのだ。アメリカと世界は、インターネットや先進諸の公衆衛生学など、政府か後援する研究から莫大な恩恵を受けてきた。しかし、かなり前から、インフラと、基礎研究と、初等から高等までの教育に対して、充分な投資を行っていない。これらの分野では将来、さらなる投資縮小が待ち受けているだろう。
自分の今の生活を捨てる勇気なんて微塵もないのに格差だ、不平等だということは、あまりにも無責任で、身勝手なんじゃないのか。
だらだらと余計な事ばかりすみません。気を取り直して。
今のアメリカはちょっと病んでいるというレベルを飛び越え、瀕死の状態へと向かう歩みを止めることができずにいる。アメリカ合衆国が崩壊したとしたら僕らの世界はどんな風になってしまうのだろうか。彼らの跡を追うかのように歩みを進めている日本は果たしてどうなるのか。
今世の中広がっている「格差」や「不平等」はかつてない激しさ、極端さとなっている。しかし、その一方でそれは気づきにくい。極々少数の人々が世界の富の過半数に迫る規模の富を独占しているという不自然な状態、これは僕らのようや庶民が普通に暮らしいるなかで実感する機会なんてないのだ。
まずそれがどれほどのものなのか。それを知るにはまずは本書のような本を読んでみて欲しい。
僕があの店で何も言えなくなっていた時に頭のなかを駆け巡っていたのはだいたいこんな感じのことだった。
たぶん・・・。
忙しいんだったらもう少し要領よく書きゃいいんじゃないのと思われることでしょう。僕もそう思うよ。
近年、経済学という学問は「死んだ」と決め付けている僕ですが、それでもスティグリッツやピケティは個人として信頼することにしている。本書ではピケティについても何度か言及される局面があり、これも一つの読みどころではないかと思う。しかし本書は金融危機が具体化される前から直近まで著者が複数の紙面に書き下ろした記事をまとめたものであるからか、ピケティに対する評価が記事によって若干ブレている感じだ。概ねスティグリッツはピケティを「自分達の側にいる心強い味方」と見なしているようではあるが。
かたや元物理学者でノーベル賞受賞しているスティグリッツとパリの高等師範学校 (ENS)を出て、MITに職がつくようなピケティの言っていることの違いが僕らに理解できたとしてもその是非を語れるわけもなく・・・。この二人に揉められても我々としてはどうしようもないのではないかと思う。
経済学が「死んだ」という言い方はあまりにもなものがあろう。しかし息詰まっているのは間違いがなく、その要因の一つはこの諸説のばらつきにあると思う。つまり学者の数だけ意見があるようなところだ。ちょっと違うような意見も多々あって、さらには正反対の事を声高に唱える人もいて、部外者にとってはちっとも訳がわからない状況なのである
地球温暖化の問題も似た様相を見せているけれども、これはこの問題に取り組んでいる者のなかに経済学者が含まれているという問題(笑)と、企業や政府の利権に関わる問題であるからであると僕は睨んでいる。
経済や政治の施策や選択肢を作るのにも金がかかる訳で、この金を出している人たちの影響なしにこれらの施策や選択肢がつくりだされている訳がない。僕らに提示される時点でこれらの施策や選択肢やその理屈にはすでに一定のバイアスがかかっているのだ。
どうせ作るなら金を出している自分達に都合がいいルールや規制を行う方が楽だし得だ。賭博と一緒でルールを作っている側の方が得するに決まっている訳だ。結果支配者層と富裕層は一体化し、こうした人々の行動を規制できないと格差はどんどん拡大していく。
『1%の1%による1%のための政治』は、なぜ不平等の拡大を懸念しなければならないかという問いには焦点を定めていない。価値観と倫理観はもちろん、経済学、アメリカ社会の性質、国家のアイデンティティがかかわっていたからだ。さらに言うと、もっと幅広い戦略上の利益を勘案する必要もあった。アメリカ歯世界一の軍事大国であり続け、軍事費のほぼ半分を世界中で使っていたが、イラクとアフガニスタンでの長い戦争は、米軍の力の限界を露呈してしまった。アメリカよりはるかに、はるかに弱い国々の狭い地域でさえ、完全な支配下に置くことができなかったのだから。もともとアメリカの強みは″ソフトパワー″にあった。最も顕著なのは、倫理面と経済面での影響だ。経済制度と政治制度を含め、アメリカの考え方はこれまで手本として他国似影響を及ぼしてきた。
残念ながら不平等の拡大によって、アメリカ型経済モデルは大部分の人々に利益をもたらさなくなってしまった。
なんの不思議もない話だ。
[目次]
はじめに
Prelude 亀裂の予兆
世界大不況と格差の深いつながり
ブッシュ氏の経済学の成績
資本家は欺く
ある殺人事件の考察―誰がアメリカ経済を殺したのか?
金融危機から脱出する方法
第1部 アメリカの“偽りの資本主義”
えせ資本主義から抜け出すために
1%の1%による1%のための政治
1%の問題
低成長と不平等は政治決断の結果でありわたしたちは別の道を選択できる
不平等のグローバル化
21世紀の民主主義
偽りの資本主義
第2部 成長の黄金期をふり返る(個人的回想)
わたしには夢があった
キング師がわたしの研究に与えた影響
アメリカの黄金時代という神話
第3部 巨大格差社会の深い闇
底辺から浮かび上がれない暮らし
機会均等、アメリカの神話
学生ローンとアメリカンドリームの失墜
一部のための正義
残された解決策はひとつ―大規模な住宅ローンの組み換え
不平等とアメリカの子供
エボラと不平等
第4部 アメリカを最悪の不平等国にしたもの
税金を払わないのは誰なのか?
富裕層のためのアメリカ型社会主義
99%に不利な税制
グローバル化は収益だけでなく税金にも影響をあたえる
ロムにー理論の誤謬
第5部 信頼の失われた社会
フェアプレー精神は衰退した
デトロイト破綻からの間違った教訓
我ら誰も信じざる
第6部 繁栄を共有するための経済政策
謝ったグローバル化が人々を苦しめる
政策が巨大経済格差を形成するしくみ
ラリー・サマーズではなくジャネット・イエレンがFRBを率いるべき理由
常軌を逸したアメリカの食糧政策
グローバル化のマイナス面
自由貿易という言葉遊び
知的財産権が不平等を拡大するしくみ
特許をあたえないインドの英断
極度の不平等を是正する―2015-2030年期の持続可能な開発目標
危機後の危機
不平等は必然ではない
第7部 世界は変えられる
成長する国々をめぐる旅
モーリシャスの奇跡
不平等なアメリカが学ぶべきシンガポールの教訓
日本を反面教師ではなく手本とすべし
中国の国家と市場のバランスを改革する
街へと導く光
地球の裏側から見るアメリカの幻影
スコットランドの独立
第8部 成長のための構造変革
”雇用なきイノベーション経済”を改革する
アメリカに本来の機能を取り戻させる方法
回復の足をひっぱる不平等
雇用(ジョブ)記
潤沢な時代の稀少
成長のための左傾化
イノベーションの謎
余波 すべての人に成功の基盤を
おわりにー新しい未来を手に入れるために
Q&A
記事は選び抜かれており、多少の重複はあるもののどれも読み応えのあるものばかりだ。いろいろご紹介したいところだが、やはりこれは本書を実際に読んでいただくのが何よりだろう。
最後にひとつだけ。
スティグリッツが安倍政権について述べているくだりがあった。
昨年12月に就任した安倍首相は、三本の矢―金融政策、財政政策、成長戦略―によって、アメリカの長年の宿題を完遂してしまった。成長戦略はまだ全容が見えてきていないが、人材の活用強化、特に女性の活用をめざした施策が盛り込まれるはずだ。大勢の健康な高齢者の雇用促進も含まれていることを願う。移民の推進も提案されている。これらは過去にアメリカが成功した分野であり、成長と平等を両立させるためには日本が避けて通れない道である。
日本は長年、教育機会の男女均等に高い優先順位を与えてきた―女子のほうが男子より科学の点数が高く、数学でもアメリカの女子ほどに男子に劣っていない―が、いまだに女性の就労率はアメリカよりも低い(世界銀行によれば、日本は49%でアメリカは58%)、女性管理職の割合も驚く程低く、7%という統計もある。
僕は安倍政権のことを最低の評価しかしていないのだけれどもスティグリッツは褒めているじゃないですか。なんと。しかしこれは就任直後のことであること。もう一つはアメリカの有識者を主たる読者として書かれた記事であることがあろう。
実際の三本の矢は、金融政策・財政政策は金メッキされたぺらぺなものだったし、成長戦略にいたってはカジノなのか東京オリンピックのことなのか中身はさっぱりわからず、しかもそれらは汚職の匂いがぷんぷんとするものばかりだ。
スティグリッツの分析は鋭く僕には非常に正鵠を得たものであるように読める。しかし世の中を彼の意見に沿って進めていくのはなかなか難しい、というよりも不可能であるかのように見える。
だから最後にもう一度言おう。経済学は多分もう死んでいる。
「世界を不幸にするアメリカの戦争経済」のレビューは
こちら>>
「世界の99%を貧困にする経済」のレビューは
こちら>>
「 ユーロから始まる世界経済の大崩壊
こちら>>
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2015/11/03:カミさんが走ってきて僕に勧めてくれたのがこれ「わらの女」。すごい面白かったと。それもなんか有名なヤツらしいよと。しかし僕は知らなかった。
ちょうど息切れしてるところだったので、現実逃避できるやつがほしいと思っていたところであります。
今月ちょっと仕事のポジションが変わって、いわゆる責任というヤツがどぉーんと押し寄せてきて、アップアップしてるところでした。
知ってか知らずか、なんてタイミング。ほんとありがたい限りです。
「わらの女」は1956年に書かれた本で、長く傑作のと呼ばれ続けてきた本なのだそうで、知らなかった僕の目はただの節穴です。
著者のカトリーヌ・アルレーの事もまったくレーダーにかからなかった。本書は彼女の第二作だけれどその後も精力的に執筆を続け、1990年まで沢山本を書いている人なのでした。
しかしなんで僕全然目にしてないんだろう。
爆撃で家族をはじめ全てを失ったヒルデガルデは天涯孤独、ハンブルクで翻訳の仕事を細々とこなし、慎ましく生活をおくっていた。
彼女の趣味は週刊の新聞に載る出会い欄。探しているのは失った彼女に相応しい生活を取り戻せるような相手だった。
そんな都合のいい相手がいるのだろうか。彼女はしかし、裕福であれば相手がどんな性格や事情を抱えていようともお構いなしなのだ。
誰でもいい。失われた自分の生活が少しでも安定し心配事がなくなるのであれば、多少の事には目をつぶる覚悟があった。第一彼女にはもう失うものは何もなかったのだから。
そんな彼女の目に止まった一つの記事。「莫大な資産あり」、非常に裕福な男がハンブルク出身の独身女性を求めているというのだ。
ヒルデガルデは熟考して書き上げた手紙を送る。
手紙を出したことすら忘れてしまった頃になって彼女のところに返事の手紙が届く。
コートダジュールのホテルを取ったので会いに来て欲しいという。当然のことだが新聞の記事には手紙が殺到し選別に時間がかかってしまったのだ。そして届いた手紙の中から選び抜かれ、「面接」の機会を作ったという訳だ。勿論費用はすべて全額相手持ちである。
外国はおろかハンブルクからでたこともないヒルデガルデの冒険が始まる。
しかし勿論そんな旨い話はない訳で、コートダジュールで彼女を迎えた初老の男は件の莫大な資産を持っている男の代理人と称しつつも、思い掛けない提案を持ちかけてきた。
その提案とは。そして彼女の運命は。
なんと言っても動機付けが肝な訳だが、不自然で無理があるような話でも、ヒルデガルデの生い立ちがそれを凌駕してしまう。
いやいやそっち行ったらアカンやろ!と思ってもヒルデガルデの価値観がそれを乗り越えてしまう。
彼女の設定・背景が、彼女の儚さが、燃料となりエンジンとなって、本書はロケットのように飛び出してどこに向かうのか、制御不能の弾道を駆け抜けるのである。
何これこの焦れったさ。読むのをやめられない。何もかも忘れて没頭です。
これは素晴らしい。体制シフトの最も大変な時期はこれで見事に気晴らしできました。
△▲△
2015/10/25:ちょっと薄めの本だけれどもこの手の本は見た目で侮ってはいけない。チョムスキーの本でそれなりに経験を積んでいる僕としては「けっこう危険」的なシグナルを嗅ぎ取った。身構えてかからないと果たして鬼がでるか蛇がでるか。首まで泥濘にはまりこむか。或いはまたは本を床に投げつけて激昂するか。
著者、ジャン=ポール・フィトゥシとエロワ・ローランの二人はフランスの経済学者で、共にフランス経済研究所(OFCE)に勤めている人らしい、フィトゥシは所長でローランはシニア・エコノミスト。おそらくはめっちゃ頭の良い二人なんだろう。
しかし僕は近年経済学者という人種に殆ど信頼を寄せていない。ついでにフランス人の知識階級にも。
だいたい彼らは小難しい話を必要以上に回りくどく話すのだ。
僕はそんなに暇じゃないのだ。
今週もカミさん引退を記念して二人で横浜へドライブしたり映画を観たり、普段一人でしていた自転車に乗るのも合間を作って続けたいし、週末はやることパンパンなのだ。
本書では知的三角測量を試みる。つまり、左右対称的にたちはだかっている障害の間に、新たな道筋を描き出そうとする試みである。
環境問題は、それらの〔コインの裏表のような〕障害を前にして、イデオロギーを帯びた論争になってしまう傾向がある。すなわち、経済活動の減速や進歩の断念という警鐘に心を動かされやすい〔進歩主義者〕が存在する一方で、市場や技術革新を活用すれば万事乗り切れるとする考えにいとも簡単に同調する〔保守主義者〕が存在する。
前者は環境問題を経済問題として扱い、後者はそれをテクノロジーの問題に帰す。両者とも、最も単純かつ即座に判読可能な対立の構図には同意する。しかし、両者に共通するのは、民主的な要求に対して背を向ける態度だ。前者は、経済的な格差を現在の状態に固定させることを主張し(資源の共有化、すなわち共産主義という想定しづらいケースは除く)、後者は、あらゆる討議形式や政治的選択を経済学のなかに落とし込む(市場の「見えざる手」が想定する世界観)。
やっぱり。知的三角測量とか初めて聞く言葉だけれども要は環境問題で対立するイデオロギーの中道を模索しようということを経済学の見地から試みようとしているということらしい。
環境問題のような問題に経済学が解決策を提示できるという話自体がどーだかなーと思うのは僕がただの凡人だからなんだろうか。
【目次】
序 章 繁栄の呪縛
第1章 マルサスの罠
第2章 二つの時間の矢
第3章 社会正義の分配
終 章 「文明病」を超えて
補論1 経済発展と自由
補論2 中国とインド
日本語版解説 環境危機と金融危機
環境問題を現実の問題として捉え、地球温暖化はワットが蒸気機関を発明した以降蓄積し加速的に進んでいることも彼らは疑いのないものとして捉えているという点で極めて理性的な二人であることがわかる。
そして当然のことながら経済学でできることは限られていること。僕は結果を推し量ることは分析的にできても予測することはできないと考えているという点で彼らは傲慢だと敢えて言おう。
経済学者の予測など、いや経済学の予測ほどあてにならないものはないと。
彼らは地球温暖化が後戻りできない程進んでしまう時間軸と、これを解決させられる知識・技術を生み出す人類の時間軸の二つの時間軸の競争だと言っている。それは確かにそうかもしれない。未知の知識や技術が「未知」である以上、間に合うか間に合わないかは絶対に解らないからだ。だから彼らには結果論的な推測しかできないと思うのだけれども彼ら自身も、経済学者をあてにしている人たちもそのことに思い当たらないのは残念でならない。
そんなのは理論でもなんでもなくてただの神頼みと一緒だろうとすら思うのだけど・・・・。
しかしながら経済分析は、生活スタイルにおよぼす気候変動の中期的および長期的な影響を測定するために利用するモデルが最適であるか否かを、経済学的な視点から判断することはできる。また、経済分析は、定められた環境目標を達成するために計画された誘導システムが、どのくらい効果的に機能するかを語ることはできる。しかし、経済学は提案することはできても、実行に移すのは政治である。
こんな一文が飛び出してきてさらに僕は仰天しました。勿論実行に移す力なんてものがただの「経済学者」にある訳がない。
で彼らの提案が一体どんなものなのか僕はこの本から全く、全く読み取れなかった。つまり何か言いたいのか。まさかこの二本の時間の矢が何かのアイディアだと彼らは思っているのだろうか・・・。
フランス経済研究所って知らんけど国の機関なんだよね。きっと。ちゃんと仕事させた方がいいと思うけど。
△▲△
2015/10/18:カミさんが金曜日で11年勤めた勤務先を引退してきました。実家の事情もあるし子供達の子育ても一段落してきたことから実家方面に軸足を移していくことにしたという次第です。11年長い間お疲れ様でした。お陰でどうにか二人を育て上げることができました。ほんとうに感謝しています。
ということでこの週末からちょっとの間はカミさん休養を満喫モードで今日は二人で羽田空港へ飛行機鑑賞。翌日仕事がないとこうも元気かね。なんだかんだ半日空港で過ごしましたよ。
ということで僕は本のまとめの時間がいつもより全然少ない。いろいろ調べようとしたのだけど、これってスウェーデンの事件で情報がスウェーデンの言葉で書かれているためか自動翻訳しても訳がわからん。わからんなりに調べた結果も踏まえていかにまとめてみました。
かなり自由に外部と接触できる状態で、ジャーナリストとも取材と称していろいろな情報を取り交わしている対象者に、誘導尋問して取った発言を自白として扱い、全く物証もないまま有罪判決を出してしまっているという、警察・司法のとんでもないスキャンダル。
しかも真犯人を取り逃がしている訳だ。その数なんと三一人もの被害者。そしてその家族や友人。
トマス・クイックことストゥーレ・ベルグワールがこのように次々と殺害を自白しはじめたのは、最初は短絡的な思いつきによるベルグワールの演技だった。収監されている医療刑務所から薬物を自由に貰うためだったのだ。
あらゆるところから手に入れた情報を小出しにつつ曖昧で思わせぶりの発言をし、おそらくは過去の辛い記憶が蘇る際の発作を演じて薬をほしいままに手に入れる。薬漬けになり、薬のためにはどんな結果になろうともお構いなしに行動をするようになっていったようだ。
一方の警察・医療スタッフたちはベルグワールの自白を手に入れるために無制限に薬を投与しつつ、どうしても思い出せないところを誘導しはじめ、ベルグワールは相手の言動を鋭く観察して期待されている答えを見つけ出していく。最終的には全員が事態を制御できなくなってしまったという医療面でのスキャンダル。
過剰摂取によりありもしない過去を作り出していった事で未曽有の連続殺人犯となっていくベルグワールはさらに幼少期に両親から虐待されていたという妄想も生み出していく。
徹底的に壊れてしまうベルグワールの家族たち。
現地では大変な事件として報道されていたはずだ。リアルタイムでこれらの事件に触れていた人たちであれば本書の読みどころというものがきちんと見えているのかもしれない。しかし恐らくは大抵の日本の人と同じくこの事件のことを本書ではじめて知る人にとってはとても読みにくい上に、あちこち情報が欠落していて経緯や結果がわからない。時間軸もなんだか不思議に入り組んでいて前後関係がわからなくなる。通してこの件はどういう順番で起こったのか。冤罪だった偽証だったことがわかった後一件でもこれらの殺人事件は解決できたのかどうなのか。ベルグワールはその後無罪となり釈放されたが、彼は実態として何者であったのか。
謎に執拗に掘り下げられている部分があるかと思えば触れられもしないような部分もあって摩訶不思議な本と言ってもいいくらいな感じでありました。素材が素材だけにいくらでもやりようがあったのではないかと思います。著者は病魔と闘いつつ本書を執筆完成直後に亡くなっているそうで、そのような事情も何かあったのかもしれません。残念です。
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2014/10/12:ボタニカル・アートっていいなと思っていたのだけど、実際にそれを探すとなると途端にどこをどう探せばいいのか、茫漠として目標を見失う。
そもそもボタニカル・アートって何だ。Wikiの記事は何か問題があって現在は削除されていました。ネットに書かれてる事をつまみ食いすると、まずは博物画であると同時に芸術的であること、のようなものであるらしい。個人的には博物画が芸術的でないなんて誰が言ったと思う。本書を読んで自分自身は何をもって「ボタニカル・アート」と呼んでいたのかというとそれは「博物画」であるという点に集約されていることがわかった。
博物画とはその対象物の種類を特定・同定する特徴を図示することを目的として描かれたもの。つまりは図鑑の絵そのものだ。それ故、背景、他の種類のものを一緒に描かない。一つの絵のなかに全体像とともに花弁や葉脈、根や実など特徴のある部分を一緒に描きこまれることもある。
現在でも「ボタニカル・アート」という範疇で花の絵などを描かれている方は大勢いらっしゃって、それはそれでステキな趣味だと思うのですが、残念ながら僕が欲しいと思うような絵ではない。背景は廃され単一の種類の植物を描かれてはいても、博物的な要素が足らない、と思うからなのでありました。それは僕が植物音痴だから全体像だけではわからんという問題もある。植物音痴のお前が言うな。と。
しかし、敢えて植物音痴であるが故に言わせてもらえばこの博物的要素は非常に重要で、こうした知識というかものがないと、描かれている植物が一体なんなのか、いやいや逆だ。目の前にある植物が一体何なのかを調べるための絵にならないからに他ならない。
ボタニカル・アートは実践的に目の前の植物を同定するための図鑑的な目的として描かれているべきもので、実際本書を読むとこの植物図譜というものがそのような目的とともに発展してきたことがわかる。
十五世紀初期から中期にかけてのフランスの写本類の中に、時として花の縁飾りが見られる。それらは装飾的ではあるが、植物学的正確さもいくらか表しているようだ。しかし、こうした描き方は例外であって、その時代の好みは、アイヴィー(セイヨウキヅタ)の葉の、昔からある渦巻き模様や様式化された花模様にあったのである。
それはヨーロッパが経済的に発展し外の世界に目を向けるようになり、プラント・ハンターのような人々が未知の植物を求めて世界を巡るようになっていった。そして世界中の珍しい草花がヨーロッパに集められ、庭園で育てられるようになっていくに従い植物として知られる種類は爆発的に増大していったようだ。
リンネはこんな時代に登場してくるわけだ。彼は葉の形やできかた、雄しべや雌しべの形や数といった特徴を捉えることで夥しい数の植物を仲間とそれ以外に区別することでその種類を特定していった。
リンネは自著『植物哲学』の中で、ヘッセルがアメリカで1707年に植物の拓本を制作し、のちに(1728-57年)エルフルトでクニフォフ教授が(ヘッセルの試みを参考にして)書籍商フンケと共同してこの目的のための印刷所を設立したと述べている。クニフォフは『植物拓本集』と題した著作を出したが、これはフォリオ版12巻本で千二百もの図版が入った類稀な著作で、さまざまな植物を大量に処理しなければならず、どうしても専用の印刷所が必要となったのである。これらの拓本は、印刷インクの代わりにランプの煤を、印刷機の代わりに表面の滑らかな骨を使って仕上げれた。しかし当時新しい方法も採用された。それは拓本に自然のままに手彩色で色付けすることであったが、そうすることで確かに美しさと迫真性は増したけれども、しばしば不明瞭さをまねき、また時には植物のデリケートな構造やみごとな葉脈や繊維の跡をすっかり消してしまうという欠点もあった。当時でも多くの人々がこのような印刷法による不明瞭さと果実の描写がないことに不満を抱いた。しかし種の違いを明らかにする上では充分であるというのがリンネの頑固たる意見であった。
博物学的知識とは対象物の詳細な構造を捉えるだけではなく、他の種類のものとの違いを見分けられる特徴を押さえていることで俄仕込みで得られるものではない。
また同時に印刷技術の発展というものがあった。文字だけでなく図版も折りこんで大量に製本して広げることができるようになっていくことというのは、今の世でインターネットがない時代と比較するような感じで、そんなことを考えることもできなかった時代とは全く違う世の中になったのではないだろうか。
図版の印刷は当初木版であったものが、エッチングそしてエングレービングへともっと精密にリアルに描くことができるように進歩していき、印刷に使われるインクも半透明・光沢のあるインクなどの発明により、植物の持つ本来の色に忠実な印刷を実現することができるようになっていく。
時代を下るにつれ素朴で単純な絵がどんどんと精密で生き生きとした図譜へと進化していくその様は正に圧巻。これぞアートと言わずになんと言う。ボタニカル・アートは印刷物として使うことを目的として、下絵を描く人、エッチングなどを彫る人、印刷をする人など大勢の人々の職人的技巧の粋を集めた結晶のような作品群であったのでした。
何よりボタニカル・アートを支えた多くの人々の存在を知れたのは大変貴重でありました。
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2014/10/04:さて2015年度第三四半期に入りました。今の職場に異動して2年が経過してきて随分と整理整頓が進みましたが、忙しさの度合いは減るどころかさらに高まり慌しい日々が続いています。毎日が飛ぶように過ぎていく感じですが日々が充実しているということも事実で「あ 僕ってこういう仕事好きだったんだな」ということにあらためて気づきました。定年してやることがなくなったらどうしたらいいんだろうなんて心配していましたが、時間を持て余すことは多分なくて何か必ず見つけて忙しく動いている自分がいるはずと思うようになりました。きっと本当に老いて動けなくなるまで動き続けるんだろうと思います。
当サイトの更新もまたその一つ。引き続きよろしくお願いいたします。
「パラノイア合衆国」。陰謀論ですね。陰謀論に関する話は僕の好物の一つでありまして、素通りすることができません。しかも陰謀論で読み解くアメリカ史ときたらもうこれはですね。何をさておきという感じであります。
陰謀論というのは新しい言葉なんだそうでまだ広辞苑に載っていないそうであります。一般的には何かの事柄、事件や事故や協定の締結のようなものも含めた時事のその背景になんらかの陰謀があり、表面的な説明とは違う意味合いが本来はあるとか、事件や事故が実は存在しないとか、事故だというけど実は人為的なものだとかというような事を唱えるものだ。
陰謀論にはジョン・F・ケネディの暗殺にまつわる数々の真犯人説からエリア51のUFO目撃談のような話が派生的に広がる合衆国政府は既に地球外生命体とのコンタクトをとっているとか支配されているとかいうような話まで多々あって、程度問題はあるにせよ、あり得ないと思いつつも絶対的にこれを否定するような証拠がなかったりして完全に否定するのが難しい。
海野弘は陰謀論について「まさかね」とか言いつつも感情的になって否定するというよりも笑って楽しむものの類だというようなことを述べていました。僕もその線に基本的には沿っていて、何かの陰謀論が実は本当なんだとかいうようなことを信じている訳ではないし、ここでそんなことを主張するつもりもありません。寧ろ例えば9.11の事件が実は政府の作戦だったとかペンタゴンに突入したのは旅客機じゃなくてミサイルだったみたいな話をどうして真に受けてしまう人がいるのかというようなところにこそ興味があるのであります。また陰謀論で唱えられているものが夥しくて、うっかり自分が実はそう思い込んでいたなんてことになりはしないかという心配もある。
これから数章にわたって、アメリカの陰謀伝説の基調をなす初期の神話を、五種類に分類して説明していく。「神話」という言葉を使うが、その物語が真実ではないということを示そうというわけではない。そうではなく、アメリカ人同士が話をするときに繰り返し現れる、文化的に相通じる考え方を意味している。つまり、真実か否かを問わず、あらゆる疑惑を取り込んで、おなじみの形式に整えられる原型となるものだ。その第一は「外からの敵」で、コミュニティの門の外側で悪事を企む。次が「内なる敵」で、友人と容易には見分けがつかないよこしまな隣人から成る。さらには、社会階層の上部に身を隠す「上層の敵」に、底辺に潜む「下層の敵」がいる。そして最後が、そもそも敵ではなく、人びとの生活を改善しようと陰で密かに力を振るう「慈善の陰謀団」だ。
本書は陰謀論を上記の5つに分類してその起源を辿ろうというものでかなり野心的な目論見をもったものだ。この目線でアメリカ史を読み直したらどんな光景が見えてくるのだろうか。
しかしでてくるはでてくるは、これでもかという陰謀論の数々。陰謀論という言葉は新しい言葉だが、アメリカにおける陰謀論はアメリカ政府創設の黎明期から綿々と生み出されてきているものだった。
9.11やケネディの暗殺事件は史実だが、その裏に陰謀があったのかなかったのか、あったとしたら誰の仕業なのか。こうした疑念の輪は波のように広がっていく訳だが、これに「私は見た」的な感じで相乗りをしてくる人がおり、どこか他の陰謀論と結び付けて新しい陰謀論を生み出していく人がおり、さらにはこうした人々を利用しようと火に油を注ぐようなことをする人たちがいて、陰謀論は時として盛大に燃え上がるのである。
ケネディの暗殺事件で背後にいると勘ぐられたのは共産主義者、ソ連、副大統領から白人至上主義者まで右も左もあまねく津々浦々で、つまり陰謀論の広がりは事象を中心に事実と噂が半々になって現実世界に投げ込まれた石のように波紋を広げていく。9.11の際も政府の仕業だとしている人たちが考えた敵はやはりあれもこれもの何でもありのパターンだった。
更にこの二つの事件に共通するものとして背後にあるとされる組織の権力と構造があるという。陰謀論の多くは陰謀を企む組織がアメリカ政府や軍と同様に中央集権的でリーダーが強い統率力と権力を持っている組織であると人々が考えている点にあるという。しかし現実にはケネディの暗殺犯は単独犯で誰からも命令は受けていなかったし、9.11の事件もアルカイダ・ビン・ラディンと繋がってはいたがアルカイダ自身がアメリカ政府のような中央集権的な組織や集団ではなく、ビン・ラディンが軍の司令官や大統領のような地位にある訳でもなかったというのである。このような勝手な思い込みはアメリカ政府の黎明期から繰り返されてきたパターンなのだという。
この思い込みというのは見知らぬ相手の背景には自分達と同じような行動様式を持っているというような形で捉えられ、作者はこれを文化の投影と呼んでいる。
このような文化の投影がなされたのは、宗教の分野ばかりではなかった。入植者たちは自らの社会構造を先住民にも当てはめて考えがちで、分散型のネットワークを中央集権型の連合国家と、穏やかな同盟を連合帝国と、有力なインディアンを陰謀団の強大な指導者と誤解した。1675年に勃発した戦いは「フィリップ王戦争」と呼ばれるが、実際のところフィリップは「族長」の一人にすぎず、王ではなかった。ヨーロッパ人は、自分たちの社会に族長に匹敵する立場がなかったため、族長の地位にある者が、外部はおろか、自分の集落内でも絶対的な権威に類するものを有していないという事実を必ずしも理解していなかった。ドレイクの主張によると、入植者たちは「組織化されたインディアンによる陰謀を恐れていた」ために、「状況が示す以上に、ワンパノアグ族が強く結束していると思い込んだ。『フィリップ王戦争』という呼び名自体、この闘争を実行した組織と構造があることを示唆するが、そのような証拠はない」。黒幕と目されていたフィリップは、「1675年には支配権を失っていた可能性が極めて高い」とドレイクは続ける。
陰謀論の根底には「不安感」や「怖れ」があると思う。宇宙人、ロボットから、悪魔や幽霊、怪物、動物、外国人、そして老人から子供まで、とにかく自分以外のものから付け狙われ、襲われ、奪われるのではないかという思い。これを著者は事実かどうかに関わらずパラノイア的であると述べている。こうした不安感や疑いからある事象の裏には何かの陰謀が仕組まれているのではないかという考えに捕らわれてしまうというのだ。
一般的に日本人がこれほどまでに政府や隣人を疑いながら暮らしているということはないのではないかと思う。根本的なこの不安感というものはアメリカに特に顕著で、これが先住民を蹴散らして入り込んだ結果周りを包囲されるようにして暮らしていたからなのか、黒人奴隷を全く信用していないにも関わらず使用人として同じ家のなかで暮らしていたからなのか、それともヨーロッパで国や政府がナチスドイツの蛮行に成すすべもなく瓦解して逃げ惑った第二次世界大戦の記憶を抱えて渡って来た人々によるものなのかわかりませんが、日本人にはあまり見なれない特質だと思う。
僕としては本書にこのあたりをもっと踏み込んでいってくれるものと期待しておりましたが、残念ながら深堀はされず、どんどん映画の話が中心になっていく感じです。ドン・シーゲルの「ボディ・スナッチャー」からアラン・J・パクラの「パララックス・ビュー」、「コンドル」そして「カプリコン1」などという往年の大好きな映画や「X-ファイル」なんて話題が登場してきて、それはそれで大変楽しめたのでありました。この人と映画の話で是非飲みたいと思う。きっと一晩中盛り上がること請け合いであります。
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