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  2008年度第4クール。年は2009年に入りました。水門や橋を目指して走るうちに結構な距離が稼げるようになってきました。そして読書だサイトの更新だと忙しい・楽しい休日を過ごしています。今年も健康で仕事も遊びも精一杯頑張っていきたいと思います。


ザ・ロード(The Road)」
コーマック・マッカーシー (Cormac McCarthy)

2009/03/29:いよいよ2008年度最後のレビューとなりました。2008年度は57冊レビューを書いた勘定だ。この一年も随分とがんばった自分。こんなサイトに訪れてくださり、ちょっとでも読んでくださった方々には本当にお礼を申し上げます。来てくれてありがとう。

ところで「エル・スール」と2冊続けて南を目指す本になってしまったのは、何か僕の願望が反映しているのだろうか。休みと云えば北の仙台を目指して帰省するばかりになってしまったからかもしれん。

さてその最後を飾るのはコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」である。本書はピュリッツァー賞を受賞し評判もすこぶる高い。随分と手にするのがおそくなってしまった。是非読みたいと思っていたのだが、これを手にする前にマッカーシーのそれ以前の本を全部読んでおきたかったのだ。

国境三部作と呼ばれる「すべての美しい馬」、「越境」、「平原の町」、そして「血と暴力の国」。どれも捨てがたいおもしろさである。

「すべての美しい馬」をはじめて読んだとき、時代背景がもっとずっと以前の物語だと思った。大西部時代の物語だと言われても違和感がない程文明から遠く離れた環境で牧童として生きる男たちの物語なのである。

それが「越境」、「平原の町」では徐々に文明の気配がひしひしと近づいてくる。主人公たちの牧場は軍による核実験基地の開設の為に接収されそうになったりするのである。そして「平原の町」では、全くの現代社会に辿り着く。

「血と暴力の国」では、いよいよ現代劇として話が進むのである。舞台が完全に現代文明のなかに移った事も驚きであったが、物語が全くのクライムノヴェルの様相となっている事には本当にたまげた。そして本書「ザ・ロード」は驚くなかれ近未来なのである。

あらためてこれらの作品群を俯瞰した時に何が見えるのだろう。それは因果応報と云うか寧ろ因果律について語られていると思う。僕らが自分のもの、自分に権利があると思っているものですら、実はそうではない。

もともと自分のものであったものなんてひとつもないのだと云う事なのではないか。それを奪われ取り戻そうとしたり、更にもっと多くを得ようとしたりしても、いつかその因果律はやってきて奪っていくのだとでも云うように。

例えば国境三部作では、文明から隔絶した環境のなか主人公たちは自分たちの生き方や大切なものを守ろうと戦うが、立ち向かえば立ち向かう程により多くの何かを失い続けてしまう。許されたもの以上に多くを得ようすれば、いつか絶対にやってくるその支払いの日に現れるのはきっと、徹頭徹尾無慈悲で無感情な因果律そのものであり、もしその姿が見えるとするらなばそれは「血と暴力の国」に登場するシュガーのような姿をしているのであろう。

「ザ・ロード」では、人類が築いてきた文明と名の付くものが殆ど全て灰燼と化し、そればかりか人間以外の生物の存在すら皆無となってもまだ因果律が取り立てを続けているような過酷な環境下で、飢えと寒さをしのぐためにほんの僅かな全財産をショッピングカートに積みひたすら南を目指していく父と子の物語なのである。

荒涼として生きるものの気配のない黙示録的な世界。奪って奪いつづけた人間に因果律は確実に返済を求めているのである。それは核戦争なのか、或いはもっと別の大量破壊兵器なのか。直接の原因は明らかにされる事はないが、もとよりそれは人類の暴挙に対する「因果律」によるものである事だけで十分なのだ。

コーマック・マッカーシーの価値観は、反物質主義的で禁欲的なもの。そして反戦主義なのは間違いない。そんな立ち位置から主張している因果律な訳で享楽的、利己的、物質文明を追う、好戦的な行為はいつしか必ずその報いを受けるべきものであると云うものだろう。

抑圧されていると勝手に恐れ続け、より強力な武器を求めついには核兵器を手にする事で全地球レベルで人類の運命を左右する力を手中にしたアメリカの最後。

仮に結果と云うものを無視したとしても必ず結果は訪れるのであると云う事だ。しかも「ザ・ロード」ではその因果律の存在そのものを語るものすらいないのである。


コーマック・マッカーシーは60歳を超えてから授かった息子にこの本を捧げている。お前にならわかるはずだと。そして「火を運ぶ者」は君だよと。

アメリカ文学における「鱒」のキーワードが使われているところも非常に重要である。何も持たず生まれてきたものである人間だが、生かされる、生きていくのに必要なものは必ず与えられるはずなのであるから。


「血と暴力の国」のレビューはこちら>>>


「平原の町」のレビューはこちら>>>


「越境」のレビューはこちら>>>


「すべての美しい馬」のレビューはこちら>>>


「ブラッド・メリディアン」のレビューはこちら>>

「チャイルド・オブ・ゴッドこちら>>

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エル・スール (El Sur )」
アデライダ・ガルシア=モラレス (Adelaida Garc´ia Morale)

2009/3/29:映画「エル・スール」を観たのは1986年僕が会社に入社した年の事だった。東京で生まれて初めての一人暮らしをはじめたばかり。その一人暮らしの生活は予想に反して非常に短いものになったのだが、社会人一年生にして、見知らぬ街ではじめての一人暮らしという何から何まで心細い状態であった。

そんななかある週末、銀座にあった小さな映画館でこの映画を観た。「ミツバチのささやき」とこの「エル・スール」の二本立て。すこぶる評判は良かったものの仙台にはやってこなかった映画のリバイバル上映だったと思う。

二本ともに映画が本物の「映画」であった頃のマジックタイムに充ち満ちたものでありそれは予想以上に素晴らしいものだった。あっと云う間に僕はスペインの村の、草原の風と匂いを、光と影の織りなす世界に引き込まれた。見終わって外に出ると辺りは既に暮れはじめた都会の喧噪であり、寂しさがぐっと込み上げてきたのを昨日の事のように思い出す。この二本の映画はどちらも素晴らしい。好きな映画を挙げろと云われればそれはそれは沢山あるのだが、そんな思い出も加わったこの二本は特別なのだ。

あれから22年。ほんと思いもよらない日々でした。人生ってわからないものなんだなとつい当たり前の事を言ってしまう。

このアデライダ・ガルシア=モラレスの「エル・スール」は映画の原作。原作がある事自体知らなかった。原作者のアデライダ・ガルシア=モラレスは映画「エル・スール」の監督ヴィクトール・エリセの夫人でクレジットには脚本家として名前も上がっていた。「当時」とあるのでもう別れてしまったのかもしれぬ。

野谷文昭氏の訳者解説によると本はスペインでも映画が公開された時点では、完成していながらまだ出版はされていなかったそうだ。生年もはっきりとしないアデライダ・ガルシア=モラレスだが、本書はかなり評価された事から本格的に文筆活動を続けその他にも沢山本を書いているようだ。残念ながら現時点で日本で出版されているのは本書だけだ。

物語の舞台となっているのはスペイン北部の寒村、時代は1950年代。15歳になった主人公のアドリアナの父は突然の自殺を遂げてしまう。思い出の中で生き続ける父を慕いつつも、一人の人間として子供時代には知り得なかった内面とその過去を知り、その足取りをおってアドリアナは南を目指すのである。

映画とは、父の職業や登場人物やどこかギクシャクして陰のある家庭であったりなどかなりあちこちの設定が違っており、小説ではこの父の自殺によって「家族」や「家」は文字通り崩壊してしまう。

最も大きな違いは映画では、この南を目指して旅立つアドリアナの子供から大人への成長を感じさせることで幕を閉じるが、原作では南、セビリアの父の生家を訪れ思いがけない出会を果たすアドリアナの旅が描かれている事だ。

映画が娘、アドリアナの成長に軸足があるのに対し、原作では物語の主旋律が娘の一人称で語られる父の人生にあるのである。父の苦悩、自殺に追い込まれてしまう一人の男の人生を、スペイン内戦が残した深い傷跡を娘のアドリアナと一緒に知る過去の扉を開ける旅なのである。それは良い意味で読者としての僕を驚かせる。そして自分自身のスペインの歴史と文化についての無知さ加減にも。

スペイン文学はおろか、ラテンアメリカ文学は全く手が出せていない。この本をきっかけにちょっと読んでみるべきだなと。もっとラテンアメリカの歴史も勉強しないといけないなと強く感じた次第。あらためて、先日映画も観た。本書と併せて観る事でより深い余韻を引くますます素晴らしいものになる事間違いなしなのだ。


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予想どおりに不合理
行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」
(Predictably Irrational:
The Hidden Forces That Shape Our Decisions))」
ダン・アリエリー(Dan Ariely)

2009/03/23:著者は行動経済学または、判断・意思決定科学と呼ばれる分野の専門家にして、MITの客員教授であるダン・アリエリーだ。行動経済学の本は最近いろいろと出版されているがなかでも本書はかなり目を引くタイトルだ。

つい読んでみたくなるようなタイトルじゃない?

行動経済学とは、経済人を対象とするのではなく、もっと一般的な大衆がどのような選択・行動をとるか、そしてどのような結果が生まれるかを研究するものなのだそうで、より実体経済に予測を近づけるものになるようだ。なかでもアリエリーは実験に基づく研究方法がユニークで2008年にはイグ・ノーベル賞を受賞している。

本書で紹介される実験や実例なんかは、確かに、確かにの連続で思わず笑ってしまうようなものが続々と続く。僕もコンビニでは本当に必要なものだけを買ってでてくる事は殆どないし、特売の靴下を見つけるとついつい買ってしまったりするのだ。

アリエリーの説明によれば、

わたしたちはふつうの経済理論が想定するより、はるかに合理性を欠いている。そのうえ、わたしたちの不合理な行動はでたらめでも無分別でもない。規則性があって、何度も繰り返してしまうため、予想もできる。だとすれば、ふつうの経済学を修正し、未検証の心理学という状態(理由づけや、内省や、何より重要な実験による精査という検証をしていないことが多い)から抜け出すのが賢明ではないだろうか。これこそまさに行動経済学という新しい分野であり、その小さな一端を担う本書の目指すところだ。

ここにあるとおり、本書の目指すところは経済学の修正なのであるのだが、読み手としての僕にはこの本が売り手、企業側のものなのか、買い手、一般人としての消費者のものなのかと云うとやはりこれは売り手、企業側のものとして読めてしまう。

つまり消費者は不合理だがその行動原理は予測可能なので、ちゃんとそれに合わせて経済学を修正すれば・・・もっと儲かると言っているようだ。

子供じみた反応かもしれないけど、これって僕はずるいんじゃないか感じる。

僕個人がスターバックスのコーヒーとベローチェのコーヒー、それぞれ値段が違うものの価値を比較する事は意外に難しい。ここで言う価値と云うのは消費者としてコーヒー一杯幾ら払うかという意味においての価値であり、原価なんかは関係ない。
これは状況によると思う。

一方で全く同じ値段だったらどうなんだろうか。スターバックスのコーヒーとベローチェのコーヒー。それも同じといってもスタバの値段だったら?近い方の店がベローチェだったら?

これも状況によるが、消費者の選択としては買わないと云う選択もある。
買う買わないは消費者が常に持っているオプションで、これをいつどのように使うかは個人の全くの自由なのである。
そうではなく買うとしたらどれを選ぶか、先ほど書いたように実際の価値を判断しようとするとそれはなかなか難しい。
意思決定を簡単にする事で日常生活は過ごしやすくなるし物事が単純になる。

何より我々は原価率やコストパフォーマンスなんかとはほど遠い、雰囲気とか好き嫌いで物事を判断してしまいがちだ。
そう云う意味において安くて近いベローチェか、遠くて高いスタバかを我々は難なく選択して買い物をしていると云う側面もある訳だ。

売り手、企業側がこの消費者心理をちゃんと掴んで商品のラインを揃えたり、値段を付けたりする事は当然の事であり買い手にとって寧ろ好ましい事でもあるハズだ。

2004年アメリカの従業員の職場での盗みや詐欺は年間6000億ドルにもなるのだそうだ。この数字は同じ年の強盗、窃盗、車の盗難を合わせた被害額よりもずっと大きいのだそうだ。

保険会社も実際の被害が水増しされて請求されるため毎年240億ドル余計に保険金を払っているとか、納税額は過少申告され3500億ドル程の税金がとれずにいるという。

こうしたちゃんとした会社に勤めて仕事をしている人たちがどうしてこんなにもごまかしを行うのだろうか。
日本でも産地偽装をはじめ、ほんとありとあらゆる種類のごまかしがバレて頭を下げている人たちのニュースが毎日のように流れていた。
ごまかしは何もアメリカの特産品でもなんでもなくて日本もいっぱいやっているのである。
どうしてちゃんとした大人がバカみたいなごまかしをして懐に入れてしまうのだろうか。

こんなところにも行動経済学または、判断・意思決定科学が入り込むべき余地があると云う。
確かに平常時にはしごくまともな判断をする人であっても、感情的になったり、酔っぱらったり、危機的状況に追い込まれたりすれば判断も誤るし、不合理さはより拡大するのが当然であろう。
この不合理さを前向きに受け止めて事前に策を講じておく事で損失を最低限に抑える事ができるとすればそれはまた結構な事なのである。

更には、
政治情勢で混沌とした世界に対し、この行動経済学または、判断・意思決定科学は解決の一助となる可能性が示唆されている。

わたしはイスラエル人で、このような暴力の悪循環についてはよく知っている。暴力はめずらしいことではない。あまりにたびたび起こるため、立ちどまって理由を自問することはまずない。何なぜ暴力は起きるのだろう。歴史や民族や政治が原因なのだろうか。それとも、わたしたちのなかに争いをけしかけるような何か根本的に不合理なもの、つまり同じできごとを見ても、それぞれの見方によってまったくちがった解釈をさせる何かがあるのだろうか。

先入観や予備知識を取りさることが不可能な場合でも、少なくともだれでもみんなかたよっているのだと認めることはできるだろう。わたしたちが自分の観点にとらわれていて、そのために真実が部分的にしか見えていないのだと自覚すれば、ほとんどの争いは中立的な第三者−−わたしたちの期待に影響されていないだれか−−に約束ごとや決めてもらう必要があるということを受け入れられるかもしれない。もちろん、第三者のことばを受け入れるのは簡単ではないし、いつも可能とはかぎらない。しかし可能なときは、大きな効果をもたらすこともある。その理由ひとつだけをとっても、わたしたちはあきらめずに努力しつづけなければならない。

行動経済学または、判断・意思決定科学が人の心理をくみ取り、SOX法や情報セキュリティみたいなルールでガチガチに縛って運用するのに非常に苦労するような事ではなくもっと楽に安心してできるような解決策を生み出してくれることを期待したいと思った。


「ずる」のレビューはこちら>>


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熱狂、恐慌、崩壊―金融恐慌の歴史
(Manias, Panics, and Crashes:
A History of Financial Crises)」
チャールズ・P. キンドルバーガー
(Charles P. Kindleberger)

2009/03/23:いつもちゃんとまとめておこうと思いつつも中途半端に終わってしまうのだが、読んでいる本のなかに登場する本の事だ。

お気に入りの著者が引用している本の場合もあれば、否定する為に引き合いに出されるものもある。小説のなかで登場してくる本も印象的な使い方をされているものが多い。どんな本のなかにどんな本が使われていたか、ちゃんとメモしとこうと思いつつもいつも大抵忘れてしまう。

本書「熱狂、恐慌、崩壊」も最近読んだどれかの本で紹介されていたものだが、メモ帳を読み返してもどれだったか分からなくなってしまった。

現在、世界経済は100年に一度と言われているが本当のところどうなのかは誰にもわからないハズである一方、間違いない未曾有の経済危機にあって、今正に読むべき本として他に何を挙げられるというのかと云う程インパクトのあるタイトル。どうしても読んでみたいと思った訳だ。

ここで手にしている本書は2000年に改訂版として出版された第4版だ。第1版は1978年に出版され、その後、1989年、1996年と改版を重ねてきた。

初版は18世紀の南海バブル事件、ミシシッピ・バブルから第二次大戦以前の金融危機までを扱っていたが、その後の版では以降に発生した1987年のブラックマンデーや日本やアジアの経済危機と同時に1600年代にまで遡って事例研究したものが織り込まれている大変な労作なのだ。

キンドルバーガーは、1910年生まれで、経済学者であると同時に、連邦準備制度理事会、連邦準備銀行、国際決済銀行、アメリカ国務省などを歴任した人物なのだが、2003年7月7日鬼籍に入られた方だ。もし仮に今も元気であったなら第5版として現在の経済危機を本書に織り込んでいたろう。

この第4版の冒頭にピーター・バーンスタイン(PETER L.BERNSTEIN)による推薦の辞が寄せられていた。バーンスタインはアメリカの投資社会では「賢人」と呼ばれているような人なのだそうで、その著書「ゴールド−金と人間の文明史」はかなり面白かった事が記憶に新しい

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しかもこの2人の二冊の本は同じ年に出版されており、そのアプローチはとっても似通っている。本棚から引っ張り出してみると、「ゴールド」の謝辞のなかにはやっぱりキンドルバーガーの名前が。なんとこの2人は第二次世界大戦でも一緒に戦った知古の間柄なのである。本文中にも何度も登場していてその敬意の思いは並々ならぬものがある模様だ。

バーンスタインは1919年生まれでまだご健在のようだが、大変な高齢。80歳でこんな本書いてたんだね〜。改めてびっくりした。

この二冊の本に共通した考えを簡単にまとめてみたい。

人間の行動は必ずしも合理性に基づくものばかりではない。時として人は不合理な選択もするし、なかには悪意を持って行動しているひとたちもいる。
経済システムはそんな全ての人々を洩れなく包含して機能している。システムはより合理的、より洗練されたものにしようと常に調整されるが、完璧なものにはならず必ずどこかにほころびがある。要するに経済システムは常に不備や不具合を調整しながら変貌を遂げ続けていく運命にある。

システムの上で日々貨幣や物の価値が変動している。ある程度までは誰の介入も必要とせず自由市場として機能するが、本来の価値ではなく、価値があると云う思惑によっても変動し、いつしかどこかでそれが高まり過ぎてしまう事が起こる。

海の波で云うところの三角波みたいなものかもしれない。これを我々はバブルと呼んでいる。歴史的には繰り返し繰り返しバブルが生じそれが崩壊してきた。
その都度多くの人がその厄災に巻き込まれてきた訳である。キンドルバーガーはこの様々な対象に人々が殺到し、バブルが生じ崩壊した歴史を丹念に追っていく。

しかし、この経済システムの問題が手に負えない程ひどいものになり、システム自体が耐えられなくなると貨幣制度そのものを新しいものに変えなければならなくなるのである。
これは石や貝殻を貨幣としてきた時代から銀、そして金へ移行し、最後は現在の管理通貨制度へと辿り着いた。金を通じて貨幣制度や金と人間が係わってきた歴史を辿ってきたのが、バーンスタインの「ゴールド」なのである。読みやすさから云えば、バーンスタインの方に軍配があがろう。

一方でキンドルバーガーが歴史から引き出してきた経済危機の一覧はそれだけでも非常に参考になるもので、これを俯瞰しただけでも我々が如何にこの経済システムを都合良く機能させるためにどれほどいろいろな手を打ってきたのかが伺い知れるものになっている。それは会社の株式であったり手形や債権の割賦であったりする。

こうした新しい金融手法が通貨の膨張を生み、その流れ込む先として選ばれたものがバブルとなって加熱していく。今回の経済状況の引き金になったのは言うまでもなくアメリカのサブプライムローンだ。これは低所得者層に対する住宅ローン債権を証券化したものだが、ここには複雑な金融手法が用いられておりこれが結果的に住宅バブルを生み出したもので、それが遂にはじけたと云う訳だ。

日本経済は1990年不動産、株式のバブルが崩壊したが、この際には政治家の不配慮な発言のせいもあって政府の介入が大幅に遅れその損害を拡大したと云われている。

アメリカ政府はこのサブプライム問題では、日本政府の当時の行動を反面教師として学ぶことで早期の立ち直りを目指しているなどと報じられている。

経済システムが恐慌をきたして崩壊しかねない状況になった時、キンドルバーガーはどうすればよいと言っているのだろう。
それは、「最後の貸手」の登場である。断固とした決意を持ったこの最後の貸手が、遅すぎず、早すぎず、少なすぎない資金を手に現れるかどうかにかかっていると云う。


金融機関がお互いに疑心暗鬼になり、大企業が購買を絞って金の流れがあちこちで止まって、派遣切りで雇用が収縮しあちこちで窒息しかけていると云うのに週末の高速道路を割り引いたり、給付金だとか日本の政治家は献金問題などと云うおよそ庶民感覚が欠落した状態でつまらない手をいたずらに打つばかりで全く持って頼りない。
頼りにならない、助けがこないかもしれないと云う状況では経済が好転せず、前回のように不況が長期化する恐れもある。

まとめを書いていてちょっと前に読んだ本の場面を思い出した。

ある程度までの嵐に対して大型の船舶はびくともせず悠々と航海をしていくのに対し、小型船舶は木の葉のようにきりきり舞いさせられてしまう。小型船舶が波を乗り越えるために必死になっている最中大型船舶は何事もないように進んでいってしまうのである。

しかし、先ほど書いたような超大型の嵐や三角波に襲われた時、大型船舶は船体を二つに折って沈没してしまったりする。こんな時小型船舶は無事なのである。確かに大きく翻弄されはするが沈没したりする事はないのだそうだ。

僕たちが今乗っている船は大型だろうか、小型だろうか。
これって何の本だっけ。



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ハチはなぜ大量死したのか
(Fruitless Fall:The Collapse of the Honey Bee
and the Coming Agricultural Crisis)」
ローワン・ジェイコブセン(Rowan Jacobsen)

2009/03/15:かなり以前からおやっと思うニュースはすかさずコピーして保存している。なかでも強く印象に残ったものの一つはこれでした。

2007年の5月5日の産経新聞

米農作物、収穫ピンチ 受粉時期…ミツバチ失踪拡大

【ワシントン=山本秀也】米国でミツバチが集団で失踪する怪現象は、被害地域が全米27州に拡大し、他の欧米諸国でも発生が伝えられ始めた。
果実など受粉をハチに依存する農作物の開花期を迎え、農業専門家は「食物生産にとり最大の脅威だ」(ハケット米農務省養蜂受粉計画主任)と警告した。

 蜜を集める働きバチが巣箱から一夜にしていなくなる「蜂群崩壊症候群(CCD)」は、昨年秋の発生確認からこれまでのほぼ半年で、全米で飼われるハチのほぼ4分の1が失われる深刻な事態となった。怪現象の拡大前には約240万群が全米で飼われていた。

アーモンドやリンゴなど、農作物の3分の1がハチを主体とする昆虫の受粉に依存しており、全米では年間140億ドル以上がハチ頼りだ。

 原因の究明について、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のデリシ博士は、怪現象の起きた巣箱でハチに感染する「ノゼマ病」の原因となる原虫の胞子を検出した。
「ノゼマ病」は原虫がハチの腸内で増殖し、重い便秘の状態でハチが飛べなくなる感染症だ。

 ただ、デリシ博士は「これで原因究明というつもりはない」と慎重な構えだ。原因については、「携帯電話の電磁波がミツバチの方向感覚を狂わせる」とするドイツ人学者の説も一時浮上したが否定されている。

農作物とミツバチの関係が僕にはピンと来なかったのだが、中段でアーモンドやリンゴ、農作物の3分の1が昆虫によって受粉している事、養蜂は単にハチミツを集めるためだけのものではなく、農作物を受粉させるためにも行われているという事がこの短い文章で読み取れるものであり、記事としてのクオリティもすごく良いと思った。

本書はこのニュースで報じられている、「蜂群崩壊症候群(CCD)」の謎に迫るものだ。
文字通り飛びつきました。はい。

「蜂群崩壊症候群(Colony Collapse Disorder:CCD)」は蜂たちがある日突然なんの痕跡もなく失踪してしまうもので、アメリカ、ヨーロッパと広い範囲で同様の現象が伝播するように広がっているものだ。

群れの多くの蜂が失踪してしまうため、蜂や蟻などの社会性が失われてしまう事によりコロニーそのものが壊滅してしまう現象だ。
この社会性の喪失は群れのメンバーが失踪したために起こるのか、個々の蜂の組織だった行動がなんらかの原因で失われた事による集団失踪なのか、蜂たちが痕跡もなく消え去ってしまうため原因の特定が難航しているというものである。

蜂や蟻の高度に発達した分業制をもつ冷徹なまでの社会性は、目を瞠るものがある。名著としてメーテルリンクの「白蟻の生活」があります。
興味のあるかたは是非併読をお勧めします。>>>>レビューをみる

こうした社会性を持つものは、一定の範囲内での個々の死に対しては対応力を持っているがシステムの一部が壊れると全体が機能しなくなってしまうのだ。
ましてこのCCDが拡大すれば、ニュースにある通り農作物には甚大な影響が生じ、それは僕らの食べ物が足りなくなるという問題に直結しているのである。

本書は養蜂家の仕事や飼われている蜜蜂たちの働きぶり、アメリカの蜜蜂たちの一年の生活ぶりといった農業を支える養蜂に関する一般的なお話から、CCDの実態から携帯電話の電波からダニ、そしてウィルスなど原因と疑われる蜜蜂たちの生活を脅かす様々な問題と読みどころは沢山ある。

主題はCCDの犯人特定となる訳だが、これが予想以上に怪しいものが沢山出てくる。どれもCCDの真犯人とするには証拠不十分なのだが、その一つ一つが蜂にとって大きな脅威となっているのだ。CCDも問題だが、これら容疑者たちもそれはそれで十分大問題な訳である。

更にこのような脅威にさらされているのは蜂だけではなく、牛などの畜産も同様の脅威にさらされている状況という。

どうしてこのような様々なストレスが生物全体にかかりはじめているのだろうか。いろいろな容疑者の向こう側に目をこらすと、そこにいるのは人間社会なのである。

養蜂も含めて農業は効率化を重視し、中国などの安い農産物との競合を強いられ非常に厳しい状況に追い込まれている事がやがて浮き彫りになってくる。
競争優位を保つためには中長期的なメリットよりも短期的なメリットの方が優先されてしまうのである。こうした短期的な利益追求のために行われる強引な行動が、生物をとりまく環境を大きく変えてしまっている訳である。


我々は蜜蜂をはじめとする農作物の成長に必要な自然にある様々なものによって生かされている訳だが、それらの関係性は非常に巧妙で微妙なバランスの上に成り立っている。
何かちょっとした事でこのバランスが崩れれば大きく世界が変わってしまう事もあると云う危うさも孕んでいるのである。
これはつまり蜂のCCDにおける脅威と人間社会における農業の弱体化は極めて類似的な問題である訳である。

我々は長い間自然のいろいろなものを利用する事で自分たち以上の力を発揮して発展をしてきた訳だが、その力をすべて自分たちのものであるかのように勘違いしがちだ。
そしてシステムに問題が生じても、何か対策を打つことでこれを解決する事ができると。
しかし、蜂が絶滅したら、再度それを生み出す事なんて出来はしないのである。
我々は自分たちと同等にこうした生きものたちや地球環境そのものを永続可能なものとして大切にし次代に引き継ぐ責任があるのだ。

そう云う意味で本書はどこまでも「なるほど、なるほど」なのである。

前半の蜂に関する丁寧な調査と犯人捜しから後半のやや唐突な路線変更はタイトルから想定される方向性からはの突然の逸脱として感じられてしまうのがちょっと残念でした。
突然の駆け足という感じです。犯人捜しをもう少し早めに切り上げておけばバランスも良かったのではないかと思います。


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史上最悪のウイルス
―そいつは、中国奥地から世界に広がる
(China Syndrome:
The True Story of the 21st Century's First Great Epidemic)」
カール・タロウ・グリーンフェルド
(Karl Taro Greenfeld)

2009/03/14:気がついたら「SARS」が連呼され、空港なんかが物々しい状態になっていたのは2003年の事でした。

香港では大きなアパートがまさかの隔離。当時はその病原も治療法もはっきりしないまま、蔓延を防ごうとまさに見えない敵と戦うような状況に追い込まれていた。

救いを求めるような目で柵の向こうに佇んでいる人たちのニュースが底抜けに怖ろしいニュースだった。そのSARS、重症急性呼吸器症候群が2002年広東省の街でひっそりと人間社会へと侵入してくる。
その展開を追ったノンフィクションとくればこれは読まない手はない。

本は、この事態を遡れるだけ遡って時間の進行どおりに辿り直していく。描かれている状況の背後でさらにひっそりと感染者と死者の数が増えていくのが不気味さを引き立てている。

しかし、あれ?事実が追い切れないぞ。
登場人物が多いという問題もあるのだが、時間軸に沿って現れる患者や関係者がその後どうなったのか。時間の進行通りに描こうとするあまり事実と事実がちりぢりに分断されてしまい。流れが全く作れてないのだ。

加えて登場する作者本人の状況。このカール・グリーン・タロウは当時タイムアジアの編集者として香港に在住、リアルタイムでこの事態を現地で向かえた訳だが、正直本書に織り込むほどの何か大変な事態が起こった訳でもないのにへんな形で割り込んでくるのでじゃまくさい。

そして何より踏み込み不足だ。SARSの原因となるウィルスをタイトルに掲げながらその正体は本書を読んでも殆ど解らない。


淘大花園 アモイガーデン



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このSARSでは、8,069人が感染し、775人が死亡したそうで、その多くを医療関係者が占めている。

院内感染がすさまじいスピードで拡大し、病院そのものが機能不全に陥ったところもあった模様だが、そうした状況も先の時間軸にこだわるあまり薄く薄くなってしまった。

なかでも感染の畏れを知りつつも敢然と治療に立ち向かいテレビでドキュメンタリーが作られたカルロ・ウルバーニ医師の話しや、アモイガーデンでの感染拡大経路、中国政府の欺瞞や、正体特定をめぐる攻防も描きどころはものすごく沢山あったと思うのだがどれも肩すかし仄めかしで終わる。

構成を切り直すだけでもかなり良くなるような気もするが。

どうやら途中まで書いた原稿が盗まれたりした経緯があるらしいが、もう少し整理したものを読ませて欲しかったですね。


广州呼吸疾病研究所?



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多くの消化不良をかかえたまま本書は幕を閉じてしまうが、殆どの病院・地名・登場人物が実名で登場しているのでこの本を踏み台にいろいろ調べて教訓を得るには役立つものと思われる。
SARSは決して過去のものになった訳ではないし、何よりこのように突如として猛威を振るうウィルスの登場はこれが最期では決してないのだから。


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イラク―米軍脱走兵、真実の告発
(The Deserter's Tale:The Story of an Ordinary Soldier
Who Walked Away from the War in Iraq)」
ジョシュア・キー (Joshua Key)
ローレンス・ヒル(Lawrence Hill)

2009/03/08:これは、アメリカの片田舎で貧しくも純朴に暮らす一人の男が経済的に追いつめられ陸軍に入隊し、イラクでどんな事を経験し、そして脱走するに至ったかを描いたものだ。
そしてその内容は、僕の予測を尽く飛び越えて本当に過酷な現実を突きつけてくる。

巻末に付けられている訳者でNHKディレクター/プロデューサーでもある井手 真也の解説では、「すべての「謎」が解ける本である。」と書かれている。
まさにその通り。

ノーム・チョムスキーが鋭く指摘する、アメリカ政府の欺瞞も。一般のアメリカ人たちの理解も、格差も、健康保険の問題も。そしてイラクの戦場の真実も。すべて。ああそうなのかと。


生い立ち

ジョシュア・キーは1978年、アメリカ・オクラホマ・ガスリーに生まれた。ジョシュアは母ジュディ・ポーターの実父、つまり祖父エルマー・ポーター、祖母ドリスの小さな農場の敷地内に扉もろくに閉まらず、夏は暑く、冬は凍えるトレーラーハウスでトラック運転手の男、J・W・バーカーの3人で暮らしていた。

このJ・Wは母に激しい暴力を振るう粗野な男なのだった。

ジョシュアの夢は、子供たちが遊べる数エーカーの土地に馬1,2頭と豚数匹を飼い、鶏小屋にはたくさんのニワトリがいる暮らし。溶接工になることにあこがれていたと云う。

祖父も母も銃を持ち、特にJ・Wは更に沢山の銃を所持していた。ジョシュアにとって銃は身近な物でいつしか取り扱いに慣れ、射撃の腕前を磨いた。
また、祖父とJ・Wは黒人とアジア人にひどい偏見を持っており、ガスリーの町の人たちはよく、そのうち北部と南部の間でまた戦争がはじまるだろうと話していたと云う。

80年代の話しなんだよね。これ。北部と南部?ガスリーって一体どんな土地なんだろう。

余談だが、先日日光に当たると皮膚の痛みなどを起こすため外出時に黒ずきんをかぶるポルフィリン症の男子高校生に、鳥取県警米子署員が「変な格好したやつ止まれ。お前はタリバンか」と暴言を浴びせていたことが分かった。

ガスリーまで行くまでもなく、日本にも同じように無知で世間離れした土地はあるのだな。


ガスリー


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ジョシュアの家はあまりにも貧しく、学校の先生が心配するほどだったようだ。しかし本人は気にする事もなかった。それは自分よりも貧乏な家がいくつもあったからだ。そして18歳になるとブランディと出会う。ブランディは3歳のとき、母親が父親に殺されたのだそうだ。

世間知らずでアメリカの実情が実感できない僕にとってジョシュアの育った環境はまるで別な時代の話しに聞こえる。

彼女とぼくの境遇はあまりにも似ていたので、お互いにほとんど説明は要らなかった。ぼくたちは2人とも貧乏で、暴力だらけの家庭で育ち、この最悪な人生をなんとか脱出したいと願っていた。
非暴力を信条とするジョシュアに信頼をよせ愛し合うようになる2人。ジョシュアの時給は7〜8ドルがせいぜいであり預金が50ドルを超える事はない。

彼らは床にも窓にも穴が空き、トイレの水も出ないようなアパートに暮らしていた。

1996年長男ザッカリー誕生。
1999年アーカンサスの治安判事の前でブランディとささやかな結婚式を挙げる
1999年10月次男のアダム誕生。

第三子の妊娠により生活が厳しくなっていく2人だが、そんな時にジョシュアには腎臓結石が。ブランディと子供は健康保険証を持っていたが、ジョシュアは持っていなかった事からいよいよ追いつめられていく。健康を損なった事で家庭崩壊が急増しているとチョムスキーは書いていたが、まさにそれを地で行く状態だったのである。


入隊
いよいよせっぱつまったジョシュアは、軍隊に入隊することにした。

アメリカ陸軍新兵募集センターへ出かけた時、所持金は10ドルしかなく、ブランディが持っている40ドルを合わせればその時の蓄えのすべてだった。

3人目が生まれそうだと言うと、それは誰にも言うな。聞いたら入隊を認められなくなると云う。
海外や戦闘をするような部隊に配属されるのをひどく心配するジョシュアに採用担当者は橋梁建設を主な仕事とする部隊に配属するから大丈夫だと云う。

入隊して出会った男は入隊したら韓国旅行をプレゼントすると言われていたそうだ。騙されていたのだ。


2002年4月13日アメリカ陸軍入隊。
ミズーリ州、フォート・レナードウッド基地。新兵訓練。「一に軍隊、二に神、三が家族」。つまりイスラムが聖戦と呼んでいるのと同じようにアメリカも神の名において戦っているのである。

ここでジョシュアはアメリカ人でないやつらは、「テロリスト」や「つり目野郎」であり、イスラム教徒はすべてテロリストで敵。アフガニスタンの人びとは「テロリストのくそ野郎で、全員死に値する」。そして自分が愛国心に満ちた無敵で完璧な殺人マシーンだと教え込まれていくのである。
勿論そのすべては嘘っぱちなのだ。

2002年5月三男フィリップ

2003年3月20日イラク戦争開戦。
2003年4月10日、ジョシュア・キーはクウェートのイリノイ駐屯地へ。
出発前夜、祖母に電話すると窓にビニールを貼っていると言う。何故そんなことをしているのかと聞くと、化学兵器で攻撃されたときに備えていると云う。ガスリーに住んでいる人の半分は同じことをしていると云う。

クウェートでは、テレビでテレタビーズがアラビア語で話し、街中をフェラーリなどの高級車が走り回っているのをみて驚く。

2003年4月27日、イラク、ラマディ入り。
2003年5月1日ブッシュUの『戦闘終結宣言』

「イラクにおける戦いにおいて、アメリカ合衆国と同盟国は勝利しました」
銃撃や爆発の音を聞きながら、それが本当であったらと思っていた。
彼が戦場へ送り出された直後ブッシュUは「戦闘終結宣言」をしているのだが、ジョシュア・キーをふくむ、イラクの米兵たちにとっては絵空事であった。そしてジョシュアの戦争はまさにこれから始まろうとしていたのである。


ラマディ


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2003年6月初旬、ラマディからファルージャへ。
2003年7月初旬、再度ラマディへ。


ファルージャ


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ファルージャの様子が激変している。
2003年7月下旬、アル・ハッバニーヤへ

アル・ハッバニーヤ


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2003年9月中旬、グリーンゾーン
この間ジョシュアは繰り返しテロリストが潜伏していると目される家の家宅捜索に参加させられるが、その大抵の家はどこもジョシュアの家よりもずっと裕福なのだ。
そして出てくるものと云えばカラシニコフや拳銃が一丁程度。ジョシュアの家には何丁も銃があった訳で、これらは自分たちの護身用の武器であって、テロリストとはほど遠いのである。ジョシュアは余りにも矛盾に満ちた戦争の現実に目覚めていく。
そして、子供をふくむ一般人を巻き込み、人を人として扱う事すらしない米軍の暴虐の数々。

イラク戦争で心的外傷後ストレス障害(PTSD(Post-traumatic stress disorder))になったと云う話しを聞いていたが、心に加えられた衝撃的な傷の原因は、激しい戦闘によるものかと思っていたが、ここでも僕の予想は裏切られる。自分と等身大の生身の人間としてのジョシュアの経験はあまりにもショッキングなものなのだ。
こんな事のためにアメリカの貧しい若者たちは戦地へ向かわせられているのである。
2003年10月、グリーンゾーンからアル・カーイムへ

アル・カイーム


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2003年11月中旬、2週間の休暇を認められ、帰国。

帰国してもジョシュアは衝撃を受ける。イラクの現実を誰一人知るものはいないのである。その余りにも嘘で塗り固められた戦争に加担し、暴力を振るわせられる事に耐えられないと感じるのである。

2003年12月、脱走を決意し家族と友人の6人で逃亡生活へ。僕はこの勇気に涙が出た。
逃げろ。どこまでも。

2008年2月末時点でイラク駐留米軍は約14万2000人。そのすべてとは云わないがジョシュアと似た境遇の若者が相当の数含まれていると考えて良いだろう。

ジョシュアはぎりぎりのところで人間性を保ち、元来の素朴さ、実直さを保つために、故郷と親族そして国を捨てた。
一方で入隊でもしなければ生活が成り立たないような底辺の生活を送っている人たちがアメリカには非常に多い。

対外的な脅威を植え付け、底辺の人びとに愛国心を呼びかけ軍事力に投入していくのはならず者国家の常套でもある。
アメリカの貧しい人びとの持てる選択肢は想像以上に小さい。

殆どその言動が描かれる事はないがジョシュアの奥さんもすごいと思う。
よくもここまで一途にジョシュアを信じてカナダへと渡ったものだ。
2005年第4子アンナ誕生。彼らには是非とも子供たちと平和に暮らして欲しい。

ほんとこの一冊ですべての「謎」が解けた気がするよ。

2009年3月時点でジョシュアとその家族はカナダに難民申請中だが、正式な認定はされていない。


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17人のわたし―ある多重人格女性の記録
(Switching Time: A Doctor's Harrowing
Story of Treating a Woman with 17 Personalities)」
リチャード・ベア(Richard Baer)

2009/02/28:1989年1月11日シカゴのダウンタウンで精神科の医院を開業している著者リチャード・ベアのところに一人の女性が受診に訪れる。

既婚で2児の母でもある彼女は29歳で名前はカレンと云った。肥満体型で年齢よりも老けた印象な彼女は、精神的にも重苦しく覇気のない状態なのであった。

鬱で自殺願望を抱えた彼女はどうやら夫のDVに苦しんでいるらしい。リチャード・ベアはそんな彼女を見守り根気よく診療を重ねていくうちに次第に信頼を得ていく。

しかし、彼女は単なる鬱の患者ではなかった。信頼を得るとともに次第に明かされる彼女の実態はベアの予想を遙かに超え、なんと17人という人格に分離してしまっていたのでである。

カレンは他の人格が表に出ている時には、時間を失っていた。記憶にない友人・知人、そして彼らと交わされた会話や約束、行動の体裁を取り繕い、周囲の人にあわせる事で誤魔化しつつ、それが全く別の人格が勝手に行動している事によるものである事を全く知らずに暮らしてきていたのである。

ベアの前に序々に現れてくる別な人格。そしてその一人一人が語りだす驚愕の過去。彼女は幼児の頃から実父や祖父による激しい虐待の結果、人格を分離してきたのであった。

圧倒的な暴力のもとで心を守るために生み出した別の人格と記憶の封印。17人の人格の役割も、彼らが生きるカレンの脳内世界の構造にも眼を見張るものがある。

ホールドン・・・・34歳(男)常識
キャサリン・・・・34歳(女)秩序
カレン・ブー・・・・2歳(女)幼年期
シドニー・・・・・・・5歳(男)ユーモア
ジュリアン・・・・・・5歳(女)記録係
シーア・・・・・・・・・6歳(女)医学の知識
クレア・・・・・・・・・7歳(女)女性性
マイルズ・・・・・・・8歳(男)強さといかり
イリーズ・・・・・・・8歳(女)先導役
カール・・・・・・・10歳(男)苦痛の除去
ジェンセン・・・・11歳(男)芸術鑑賞
ジュリー・・・・・・13歳(女)健康問題
アン・・・・・・・・・16歳(女)宗教・信仰心
サンディ・・・・・・18歳(女)完璧な娘
カレン1・・・・・・・10歳(女)普通の子ども
カレン2・・・・・・・21歳(女)普通の大人
カレン3・・・・・・・30歳(女)憂鬱

一方であまりに過酷で悲惨な虐待。こんな話は聞いた事がない。父や祖父はカレンがこの秘密を漏らせば、それを聞いた者も含めてみんな殺してやると脅していたと云う。


更にその背後には何やら不気味なカルト集団の存在。カレンは成人して精神科の医師にすら長い間それを話す事ができずにいたのだ。

本書がこうして出版されていると云う事は一体どんな事を意味するのだろうか。また医師に信頼をよせ治癒に向けて必死に努力しようとしているカレンの周囲では、両親や夫などが様々な形で障害として阻んでくる。この本は最後どこに着地するのだろうか。すさまじいサスペンスを孕む一方淡々と治療が進められていく。

その治療は誰の予想もを遙かにこえた長期間に及んだものとなっていく。本書の印象を一言で述べれば「吐き気を催すような怒り」だ。こんな事が許されるハズがない。

しかしカレンは恵まれていると云う事もできるかもしれない。何故ならちゃんと病院に行けて治療を受けられたからである。同じような境遇で医者にも行けず苦しんでいる人びとがもっと沢山いるのではないかと云う気がしてならない。アメリカってホント一体どんな国なのか。


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破綻するアメリカ 壊れゆく世界
(FAILED STATES)」
ノーム・チョムスキー (Noam Chomsky)

2009/02/28:本日で2月もお終いである。仕事に本に忙しい日々だ。

人びとの幸福な生活と人権を守っていくうえで、まず解決すべき問題はなんだろうか。
この問いには、もちろんさまざまな答えが考えられよう。だが、人類の生存に直接かかわってくるために、どうしても解決しなければならない問題がいくつかある。そのなかにふくまれるのは、少なくとも、次の三つだ。核戦争、環境破壊、そしてこの二つの大惨事を現実化させるような行動を世界の大国と呼ばれる国の政府が、あえてとっているという事実である。

海外との関係においては世界最大規模の軍備を備え相手が仮に国連であってすら、都合の悪いときには無視するか拒否をしてでも自分たちの我を貫き通し続けている事である。その目的とはアメリカにとって国益の最大化であって、世界平和でも、支援でも援助でもない。彼らが手をさしのべているように見えるのは、そう見えるように仕掛けているだけなのだ。

自分たちと利害が衝突している国々に対しては「ならず者」などと呼び徹底的な妨害と圧力を掛け続ける。そして彼らからの反撃はすべてテロと呼ばれる。

一方で自分たちの都合の良いものたちを利用する場合には「神聖な輝き」をもつ「崇高な段階」に至ったアメリカ政府による正義のレジュームチェンジとか、先制攻撃と呼ぶのである。

イラクへの侵攻によってならず者国家であったサダム・フセイン政権はめでたく打倒されたが、これは湾岸戦争の後でアメリカが強力に圧力をかけてつくり出した国連制裁の結果、イラクの国民たちの経済は完全に崩壊し、人びとの収入は1990年と比較して5分の1に減少し、不衛生な水、電力の供給停止などに伴い通常飢饉でしか起こりえない症状により死亡率は3倍に上昇した事で数十万人とも試算される「歴史上すべてのいわゆる大量破壊兵器」より多くの死者をもたらした可能性が示唆されている。そしてこの事実はほとんど完全に無視されているのだ。そのような状況がイラクの人びとを信頼がおけない崩壊寸前となったフセインの独裁政権への支持へと追い込んでいたのだという。

昨日オバマ大統領は2010年8月末までに約14万人に上るイラク駐留米軍の主要な戦闘部隊を撤退させる計画を表明した。彼らは撤退してどこに向かうのだろうか。

アフガニスタンだろうか。驚いたことにその理由とは「イラク自身が一定の責任を果すべき時だ」と簡単に述べただけであり、アメリカに頼ってようやく維持している傀儡政権の行方も、メチャクチャになったバグダットの都市の再生も、大量の一般市民を巻き込み殺した戦争に対する補償も哀悼の念も何もないのである。一方で国防費は010会計年度(09年10月〜10年9月)4%増の5337億ドル(約52兆円)だ。要するにオバマも同じ穴の狢であったという事だろう。

アメリカの圧力の最も深刻な問題はイスラエルへの異常なまでに偏った肩入れであろう。アメリカとイスラエルは手を結び合いってパレスチナ国家の実現を阻み続けている。またガザ地区では分離壁の構築や水の支配を強引な形で進める事でパレスチナの人びとから略奪し、屈辱を与えている。こうした圧力が抵抗を生んでいる事は常に触れられることなく単に自爆テロだけが報じられているのである。

こうした人びとの目に触れないように巧妙に隠蔽された政府と報道を支配している一部のエリートによって行われる圧力は、キューバ、ハイチ、インドネシア、ベネズエラ、エルサルバドル、ウズベキスタン、グアテマラ、ニカラグアなど多くの国々に対して実行され、その暴挙の例は枚挙にいとまがない。これはもう本書を読んでもらうしかない。

アメリカ政府はこれらの国々に対し国連はおろか国際法をも時に無視した形で介入し、血と暴力によって問題を解決する傾向が強いのだ。繰り返すがここで云う問題とは、アメリカ政府の国益に反する問題である。

 穏やかなヨーロッパ人は、刑事裁判や法といった古い概念を信じている。強いアメリカ人は西部劇のようにただ前進してやるべきことをやる。コメンテーターが知っていながら言及を巧みに避けたとおり、強いアメリカ人がテロリストに対処するとき、刑事裁判や法にはほとんど注意をはらわないのは事実である。それどころか、主要なテロリストには大統領の特赦が与えられている(オーランド・ボッシュの場合)。
 司法省は国家の安全のためにテロリストを国外追放すべきだと主張したが、大統領は同省の猛反対を押し切って特赦を与えたのだ。また主要なテロリストは、さらに過激なテロ活動をおこなうように送り出されている(ルイス・ポサーダ・カリレスの場合)。あるいは、繰り返される引き渡し要求から保護されている。引き渡し要求は単に無視される(ハイチの大量殺人犯、エマヌエル・コンスタンの場合)か、法廷に却下される(ポサーダの場合)のである。これらは、「尊いテロリズム」に従事する者のほんの数例にすぎない。

またアメリカ政府はその国内に対しても、医療、教育、そして防災などの広く一般的に必要とされる公共事業を徹底的に荒廃させつつ、一方でその富を一部のエリートたちに集中し続けてきた。1978年、年間20万件であった破産申請は、2005年には180万件に達する可能性があると推測され、その圧倒的多数が個人のものでその凡そ半分近くが医療費を原因としているものなのだそうだ。

失業や医療問題が家庭崩壊の原因になっているのだ。にもかかわらずブッシュUは富裕層に有利な増税を繰り返し国民皆保険の導入を見送り続けた。それは国民の過半数がその導入は減税よりも重要と考えていたにもかかわらずなのである。

またハリケーン・カトリーナによってニューオリンズは甚大な被害を受けたが、この大規模なハリケーンは従来から予測されていた大惨事であり、その対策が講じられてきていたが、ブッシュ政権の優先順位に従って骨抜きにされてしまった。実際にカトリーナがやってきたときには必要なインフラやスタッフがなくなってしまっていた事が、あのような被害を生んだというのである。

加えてすごいのは、受刑者の増加と云う情報だ。犯罪率はヨーロッパと遜色がないのに受刑率だけが過去25年間に5倍から10倍に急増していると云うのだ。

また仮釈放の可能性のない年少者が12人収監されているが、アムネスティ・インターナショナルによれば年少者がこのような形で収監されているのは、アメリカ以外では南アフリカ、イスラエル、タンザニアだけなのだ。そしてこのような刑は、国連の「児童の権利に関する条約」に違反している。

つまりアメリカ政府が取り続けている行動原理には国内外の区別はないと見てもよいようだ。この政府のスタンスは一貫して、国家の国益も勿論おしなべて一部のエリートのものであり、そのエリートたちは何でもやりたいようにやって良いらしく、つまりアメリカ政府の政策は、アメリカの有権者たちの意見すら反映したものになっていないのである。

破綻国家は最も狭く解釈しても以下のような特徴を持つ−−自国民に安全を提供せず、国の内外でその権利を保障せず、(形式だけでなく)きちんと機能する民主主義制度を維持していないと いう特徴を。また「破綻国家」の概念には「無法国家」もふくまれるはずだ。「無法国家」は、国際秩序のルールとその法制度−−アメリカの圧倒的な主導のもとで長い年月をかけて慎重に築かれたもの−−を侮辱的に退ける。

この定義に照らした時にアメリカ政府を除いて破綻国家とか無法国家と呼ぶにふさわしい国は少ない。そしてイラクがこれから復興するまでの道のりと同様にアメリカ政府が正気を取り戻し、国情が正常化するまでにはそれ相当の歳月が必要になるであろう。

北朝鮮はテポドンの発射準備を着々と進め、アメリカ政府に揺さぶりをかけてきている。しかしこれも一歩引いて見れば、パレスチナやイラクと同様の圧力を常に掛け続けてきたアメリカ政府の行為自体の結果であると見るべき部分があるハズだ。

そしてアメリカ政府にはEU同様、アジア経済圏の連合を阻止しておきたいと云う意図が働いているハズなのである。クリントン国務長官の最初の歴訪地に選ばれた事で「どーも、どーも」お礼を言っているのは本当は情けない話なのである。


「壊れゆく世界の標」のレビューはこちら>>

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(THE POINT)」
チャールズ・ダンブロジオ (Charles D'Ambrosio)

2009/02/21:小難しい本が続いて肩も凝る。そうは云っても何を読もう。どうしても明るい本に手が出ない。ドン・デリーロやトマス・ピンチョンみたいな作家ばかりに目がいくかどれも超重量級。何より電車ではちと重い。

こんな時には鮮やかなノンフィクションものか、短編集か。そんな時に見つけたのがこのチャールズ・ダンブロジオ。

見返しには、ジム・ハリスンが「チャールズ・ダンブロジオ」は驚くべき作家だ。まちがいなく彼は、われらの時代の文学において、重大な関心事を知らしめるべく運命づけられている。」なんて事を書いている。そしてエスクァィアの「ジョン・チーヴァーやレイモンド・カーヴァーの可能性を受け継ぐもの」なんてレビューが。ジム・ハリスンもレイモンド・カーヴァーも大好きだ。
これは読まない手はないだろう。


「岬(The Point)」

13歳になるカート・ピットマンがベットで眠れずにいるところへ母親がやってくる。家では近所の人が集まって酒宴が開かれていたのだ。客人のひとりが飲み過ぎてしまったため、自宅まで送り届けてほしいという。そんな母親もかなり酔っている。

3年前に父親が自殺をしてしまってからこんな風に酔っぱらってしまう母にも、正体を失った客人を送り届けるのも、もう慣れっこになっているカートか手際よく身支度をする。

今回の相手はガーニーさんと云う中年の女性である。ガーニーさんも酩酊しているばかりでなく何か家庭の事情を抱えこんでいるようだ。

ガーニーさんの靄に霞む意識の合間から質問とも独白ともとれる断片的な言葉が虚ろでむなしい。カートは自宅に飲みに来る客たちは誰もがそれぞれいろいろな事情を抱えている事をすでに承知しており、そうした問題には敢えて立ち入らないようにする事も学んでいるのだ。

大人が子供を子供扱いするように子供も大人を大人として一線を引き第三者的な目で見ているという事はなかったろうか。そんな風に一線を引く事で子供は子供の世界の中で安泰でいられる。人生に不満を抱えていたり、問題にぶつかり挫折をしたり、まして死と云う最悪の事態を迎える事すらある大人の世界。カートは守られるばかりの世界から、ふと気付くとその外に押し出されてしまっているのである。

サラトガ通り


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「彼女の名(Her Real Name)」

海軍を除隊したジョーンズは1967年式のヴェルヴェディアを手に入れるとひたすら西を目指して走り続けている。イリノイの南部の寂れたガソリンスタンドで出会った赤毛の少女は衝動的にジョーンズと一緒に旅する事になる。

そして西へ西へ。


そしてインディアンと騎兵隊の戦いにちなんで名づけられた町ややみくもな期待と名だたる歴史的事件を偲んでつけられた町や、開拓者たちが信念を持ち、恐怖を感じていたことを裏づける名前を持つ町の、その密集した青い光のなかを漂うように通り過ぎていった。アウトルック(眺望)、サヴェッジ(野蛮)、プレンティウッド(豊富な森)、西に行くにつれて町の名前は変化し、楽園を求めようとする想いの託された名前になった。ホープ(希望)とエンドヴィル(終わりよし)、ウィズダム(英知)とインディペンデンス(独立)とラヴランド(愛の地)。道路標識がまたたく間に通りすぎるたびに、ジョーンズは自分が忘れられた寓話のなかを旅しているような気がした。

しかし彼女は実は重大な秘密を抱えていた。このふとした出会いは二人の人生を大きく形作る出来事であったのだ。

他に

「ウシガエル(American Bullfrog)」
「ジェイシンタ(Jacinta)」
「発車します(All Aboard)」
「リリシズム(Lyricism)」
「オープン・ハウス(Open House)」

の全7編。
ワシントン州、シアトルを近辺を舞台にしたこれらの短編は人生の岐路とも云うべきポイントをそれと知るよしもなく超えてしまう人々の物語である。誰だって思い通りの人生なんてあり得ない。いまこうしてこの文章を書いている僕だって。今これまでの人生もそれは思いもよらないものだったし、これから先だってきっとそうなのだろう。そして僕も知らず知らずにポイントを通りすぎて行くのだろうね。


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愛犬ボーイの生活と意見 (A Dog's Life )」
ピーター・メイル (Peter Mayle)

2009/02/11:多少の異論はあろうが多くの人々は大抵犬派か猫派に分けられる。僕は間違いなく犬派である。勿論猫が嫌いだとか言っている訳ではない。しかしどちらかを飼うのなら絶対に犬である。

ジョン・グローガンの「「マーリー―世界一おバカな犬が教えてくれたこと」が映画化されましたね。会社で犬の話題にのぼった時に同僚の女性がこの本の事を教えてくれた。

ピーター・メイル。懐かしい。カミさんが好きで「南仏プロヴァンスの12か月」とか何冊かは家にもあって僕も読んだ。重い本が続いていてちょっと草臥れ気味だった事もあったのでご好意に預かり貸していただいた。

粗暴な飼い主に捨てられ宿無しとなったが、ふとした出会いで拾われ「ボーイ」と名付けられた犬の一人称で語られるプロヴァンスの生活だ。

このボーイが暮らすような素晴らしい環境でのびのびと犬と暮らす事が出来たら素敵ですね〜。羨ましい限りでした。

更に異論のある面として犬には心があるのかという問題である。犬を飼った事のある僕の周囲の人で反対する人に会ったことはないけれど犬にはちゃんとした心があると僕は思う。犬の思考に文脈があるとは思えないが筋道を立てて類推する思考力は勿論感情も意見も持っていると云う事に疑いは全くない。

我が家で飼っていたシェットランド・シープドックはどのように僕たち人間の生活が見えていたのか。残念ながらそれを知るよしはないものの。

本書で描かれてるボーイほど独立心を持ち自立はしていなかったなぁ。僕の事を親だと思っているフシもあった彼女は最後まで僕に甘えていた。

そして無条件な愛情と信頼。自分と過ごせる時間が出来るまでずっとずっと何時までも待ち続けていた。

僕のバイクの音を聞き分け、表の道路に近づくとすぐ分かっていたっけ。就職したり、結婚、そして育児と随分と寂しい思いをさせてしまったなと。

本書は懐かしい日々を蘇らせる機会となりました。そして今日は母の命日。


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最底辺の10億人
最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か?
(The Bottom Billion:
Why the Poorest Countries Are Failing and What Can Be Done About It)」
ポール・コリアー(Paul Collier)

2009/02/11:本書で指摘されている「最底辺の10億人」とは、著者が主張する紛争の罠、天然資源の罠、劣悪な隣国に囲まれている内陸国の罠、そして小国における悪いガバナンス(立法、司法、行政 に及ぶ広義の統治)の罠と云う4種類の罠に一つ以上はまり込んでしまっている国約58カ国を指している。

従来発展途上国と呼ぶ場合、豊かな国に暮らす10億人に対してそれ以外の国に 住む50億の人が住んでいる国を指していたが、そのうちの上位40億の人々の暮らす大部分の国は成長し豊かになりつつある。一方でこの最底辺の10億人の暮らす国々はこの罠にはまり込んでいるが故、数十年と云う長期間に渡って停滞か後退を続けていると云う。

この58カ国の具体的な国は大部分が明らかにされてはいないが、アフリカ+ハイチ、ボリビア、中央アジア諸国、ラオス、カンボジア、イエメン、ミャンマー、北朝鮮のような場所を指している。

これらの国々は先に挙げた4つの罠にはまり込んでおり、何らかの手をさしのべてやらない限り自国が単独自力でここから脱する事は困難であろうと云う。

この4つの罠を簡単に説明すると以下のようなものになる。

紛争の罠とは、貧しい国に限らずどんな社会にあっても紛争は存在するが、この紛争が暴力的で、武力衝突が内戦やクーデターといった形で具現化し、またこれが繰り返される。

天然資源の罠とは、余りあるほどの天然資源に恵まれている少数の国を除けば、天然資源の発見が国の経済力を奪ってしまう場合がある。またこの天然資源をめぐって、政治の安定化が損なわれ、時には紛争に発展してしまう場合もある。

劣悪な隣国に囲まれている内陸国の罠とは、特にアフリカの内陸国において、隣国が何らかの罠に捕らえられていると流通に著しい支障が生じたり、難民の流入といった様々な影響を受けてしまう。こうした足枷が結果的にその国を蝕んでしまう。

小国における悪いガバナンス(立法、司法、行政に及ぶ広義の統治)の罠とは、文字通り悪いガバナンスが長期的に政権に居座ることによってもたらされるものである。海外の援助や支援もこうした国々では必要とする人々の手に届かないかそもそも受け入れそのものを拒否してしまう。

本書はこのような国々で起こった実際の事例を次々と紹介していくが、この地政学的な分析は鋭く明晰でありました。確かにこの4つの罠にはまり込んだ国々がこの状況から脱するのは非常に難しい。

従来の豊かな10億人の暮らす国々は経済的な見返りを優先してより効果の期待できる国々に厚く援助や支援を続けてきたことから、この最底辺の国々には殆どなんの手もさしのべてきていないのである。彼ら最底辺の10億人を救済する事は人道的な見地だけでなく、それ以外である50億人の人々の疫病の伝播等のリスク軽減や自国の政情安定のためにも必要な事であるとしている。

ここまではなんら異論ない。確かにこの最底辺の人々を見殺しにするべきではない。しかし、問題はここからである。ではどうしたら良いのだろうか。

コリアーはこの4つの罠から抜け出す方策として二つの手段を持ち出す。グローバル化と軍事介入だ。勿論本人も過激な意見である事は承知の上だと思われる。

本を読むときは常に書き手がどんな人物かを探ってみる必要がある。ポール・コリアーは元世界銀行の開発研究グループ・ディレクター。あのジョセフ・E・スティグリッツとも同僚であったそうだ。ジョセフ・E・スティグリッツはノーベル経済学賞の受賞者。先日「世界を不幸にするアメリカの戦争経済 イラク戦費3兆ドルの衝撃」を読んだが、反グローバル主義の人であった。

世銀出身者がグローバル主義者ばかりではないのだな。しかし、このポール・コリアーは右。本書の主張を本気で考えていると取ればタカ派である訳だ。

援助をめぐってこれほど激しい政治的対立が起きるのはなぜだろうか。この対立は左派と右派の最悪な部分を引き出すように見える。左派は援助を植民地主義に対する一種の償いとみなそうとする。言葉を換えれば援助は開発のためではなく、西側諸国の贖罪である。こうした見地に立てば底辺の10億人の国には犠牲者としての役割しかない。彼らはみな私たちの犯した罪悪に苦しんでいると左派は主張するのである。一方の右派は援助を生活保護に対するたかりと同じように考える。換言すれば援助は無能な者への施しだから、問題を広げるだけだと主張する。しかし、この二つの援助に対する考え方の中間に、「開発援助」という名の穏やかな智恵が存在する。私たちも彼らと同じように貧しい時期があり、現在の水準に達するまでには200年かかった。しかしこれらの国のためには、よりスピードアップしなければならない。

右派か左派で争いあっていないで先ず何かしないとと云う訳である。しかし、僕は少しここで立ち止まる。右派と左派の考え方の根本がこのようなロジカルさのない単なる信条のようなものに文字通り左右されているのだろうか。

グローバルについてコリアーはこんな事を書いている。

国際貿易は数千年続いているが、その規模と内容が劇的に変化したのは、この25年間のことである。この時期に開発途上国は史上初めて、一次産品ではない商品とサービスの分野で市場に参入したのだ。1980年頃までは、開発途上国の役割は原材料を輸出することだったが、現在では開発途上国の80%が製品であり、サービスの輸出も急激に増加している。一次産品の生産は基本的には土地を利用するものであり、一次産品の輸出はその土地の所有者に利益をもたらす。時にはその土地を小作農民が所有する場合もあるが、ほとんどは鉱山会社や大地主が最大の受益者である。このため一次産品に基づく貿易は大きな所得の格差を生み出す可能性がある。その規模は市場の大きさによって決まり、また輸出量が増えれば価格は下落して輸出者にとって不利になる。これに対して製品とサービスの場合はより均衡がとれた急速な発展が期待できる。これらは土地よりも労働力を利用する。このため輸出機会が増せば労働需要が高まる。開発途上国の典型的な特徴は多くの生産に携わっていない労働力を持っていることであり、これらの製品やサービスの世界的市場は広大であり、当初は豊かな国が支配していたが、今後は開発途上国に拡大する可能性が非常に大きい。

無条件なグローバル化の推進が、貧困国の国内経済を荒廃させ格差を拡大し人権を無視した女性や子供たちを過酷な労働環境に追いやった例をこれまで沢山読んできた僕にとって、この主張は全く受け入れる事ができない。更に僕はこの極端なグローバル化の推進がここ半年間で起こった未曾有の経済状況を生み出した一端となっていると考えている。

コリアーが主張するように最底辺の国々が製造業やサービス業の労働力を提供できるようになったら、日本やアメリカの国内の労働力は大部分が不要になってしまう計算になるハズだ。グローバル化は富裕国の国内の格差も同時並行的に生み出していると考えているからだ。

劣悪なガバナンスによって貧困にあえぐ国々に軍事介入する。確かに虐待され飢えにあえぐ人々を救済する事は一見正しいようにも見える。しかし軍事介入の正当性はどうすれば証明でき、維持する事ができるのだろうか。

アフリカの人々が西洋諸国が勝手に引いた国境線のなかで民族や宗教をめぐって争い在っている事をして劣悪な国だと云う事をどう受け取れば良いのだろう。

多数の少数民族が自分たちの主権や宗教をめぐって争い在っている場合我々はそのどれかを選択的に支援できるのだろうか。

天然資源を有利な条件で手に入れるために金や武器を渡し、場合によっては政府を転覆させる等思い通りに操ろうとしていたのは誰だったろう。こうした西洋の偏った介入がルワンダの悲劇を生んでいるのではなかったのか。

4つの罠。罠とはよく言ったものだ。罠とは意図を持った何者かによって仕掛けられるものだからだ。翻ってでは僕たちはこの最底辺の10億の人たちに対して何ができるのだろう。本書は少なくとも真剣に考えるきっかけとなる事は間違いない。


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メディアとプロパガンダ
(Letters from Lexington: Reflections on Propagand)」
ノーム・チョムスキー (Noam Chomsky)

2009/02/08:本書は1990年1月から1994年12月の間に出版された"Lies of Our Tims"と云うメディア批判をテーマとする月刊誌にチョムスキーが寄稿した20編の論考を一冊に纏めたものだ。いささ か時間が経ったと思っていたが、読み始めてみると全くそんな事はなかった。今こうして記事を書いている現在刻々と流れてくる時事のニュースに直結した内容になっている事には、悲しい面、嘆かわしい面すら漂う。

チョムスキーの本は小振りだ。小さくて無害っぽい。しかし内容は激辛だ。本書でもチョムスキーは怒っている。いやいや先般読んだ「すばらしきアメリカ帝国」を書いたのはこのずっと後である事を考えれば、歳を重ねたチョムスキーが丸くなっていたという事なのかもしれぬ。或いは失望しかけているのか。

本書でのチョムスキーは過激に怒っている。そしてこれを読んだ僕にもその怒りの火は燃え移った。本書は読む者に次々と延焼していく可燃性の高い読み物なのだ。これをこれから手にするものは心してかかるべし。

まずもってチョムスキーはメディア批判をどんな切り口で切り込んでくるかと云えば、メディアそのものの組織や内部構造がどのようになっているか。社会のなかの位置づけはどのようになっているか。更にはその他の権力を持つシステムとどのような関係にあるかを注意深く見ていく必要があると云うものだ。それは人脈や資本関係、取引先などのステークホルダーを洗う事をさしているのだろう。重要顧客や大株主に都合が悪い情報はメディアとして取り上げにくくなることもあるだろう。まして積極的に手を結んでいる場合は尚更だろう。

そしてメディアが企業として商売をしていると考えたとき、メディアが売っているものはなんだろう。チョムスキーはこれは読者であり、視聴者であると云う。

「ニューヨーク・タイムズ」は企業であり企業としてひとつの製品を売っているのだが、その製品とは読者・視聴者である。人が新聞を買ってもこの企業は儲からない。だからただで世界中で読めるウェブサイトに記事をそのまま載せている。人が新聞を買えばたぶん計算上、企業は逆に金を失うだろう。読者・視聴者が製品であるわけだが、その製品とはつまり特権層の人々であって、新聞を書いているのも同様の人々、社会の頂点にあって決定を下している人たちだ。製品は市場に売りに出さなくてはならず、その市場とはもちろん広告主である。テレビだろうが新聞だろうがメディアとは視聴者と読者を売るビジネスなのだ。企業が他の企業に視聴者を売るのであり、エリートメディアの場合はそれが大企業ということになる。

このメディアが何を読者や視聴者に伝えたかではなく、彼らが互いに、または権力を持つシステムとの間で交わしてきたやりとりに注目すると興味深い事がわかるという。

それは、

そうすると彼らはだいたいにおいて一般大衆が「無知で小うるさい邪魔者だ」と言っていることがわかる。やつらはあまりに愚かなので公共の場から締めだしておくことが必要で、やつらが公的なことに口を出すとろくなことにならない。やつらの仕事は「観客」でいることで「参加者」になることではない、というわけだ。

こうした前提に基づき、一般大衆を観客席におとなしく座らせるために過去70年か80年ほどで政治学の一分野となってきたコミュニケーションと情報を扱う政治学学問分野が発展してきた。
これがプロパガンダと呼ばれるものだ。

高度に組織だった国家的プロパガンダが登場したのは第一次大戦の時の事だった。それはイギリス情報省がアメリカの参戦を促すために活動したものだと云う。

イギリス情報省は「フン族」の暴虐についてのニセ情報を含むプロパガンダを大量に垂れ流し、アメリカの知識人たちを信じ込ませ参戦させる事に成功したのだ。平和主義者であったアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンがなぜ熱狂的反ドイツ主義に染まってしまったのか、これは国内に作られた国家プロパガンダ機関クリール委員会による排外的な愛国心を生み出すプロパガンダ活動にあったと云う。

クリール委員会は、エドワード・バーネイズ(Edward Bernays)、ウォルター・リップマン(Walter Lippmann)、ハロルド・ラズウェル(Harold Dwight Lasswell)といったメンバーで構成されているが 、バーネイズはこの手腕からPRの教祖のような存在となった人物なのである。バーネイズの著書には正に「プロパガンダを「大衆と、大企業や政治思想や社会グループとの関係に影響を及ぼす出来事を作り出すために行なわれる、首尾一貫した活動のこと」と定義し、大衆心理学と大衆社会学に精通した少数の知的エリートがプロパガンダを通じて大衆をコントロールすることによって社会は進歩・発達する」と云った不気味な主張がなされそれは今も名著として読み継がれているものなのである。

またウォルター・リップマンはアメリカのジャーナリストのなかで最も尊敬される人物とされているが、彼は合意を捏造することによって、形式上多くの人々が選挙権を持つという事実を克服し、適正に機能する民主主義を作り出すことができると考えていたと云うのだ。

こうした教化と云うまるで子守歌で一般大衆が安らかに眠り続けている夜に政治は動いている。先般イスラエルがガザに侵攻し白リン弾を含む大量破壊兵器によってガザの非戦闘員が暮らす地域で虐殺を続けた事に対する安保理でアメリカは拒否権を発動し、オバマが大統領に就任する直前まで続いた。

大統領就任までに徹底的に攻撃を加えておきながら、オバマが就任した途端に「アメリカには変化がやってきた」だからもう大丈夫なのである。さあ。安心しておやすみと云う訳である。ガザで死んだものが生き返る訳ではないだろうに。イスラエルの罪が許される訳はないだろうに。

うすうす知ってはいたけれど、アメリカが安保理で拒否権を発動したのはものすごい回数になってる。それも最多。1970年代から1990年代で発動された拒否権の回数は88回。そのうちで、80回が西洋諸国によるもので、そのうち73回が国連の守護者とされているアメリカ・イギリス両国によるもの、アメリカは通算62回も発動しているのだ。

自国内の世論を押さえつつ彼らが強引に推し進めようとしている前提となる考え方には以下のようなものがあるという。

アメリカ合衆国が自らの目的を達成する権利をすべからく保持しており、手段はどうであろうと平和的方策がうまくいかなければ暴力も正当化されるということだ。この原則に適用範囲は広い。パンナム機を破壊したテロリストにはすぐ喚起されて、その一周年の日にも非難が集中するが、それと同じ日のパナマ侵略は容認される。テロリストたちだって平和的手段が尽きたからと言うかもしれないのに。この教理の重要な点は暴力行為に訴える権利がアメリカ合衆国だけに許されているということなのである。

更に加えればこの前提は実は中道右派・左派に区別なく共通に持っているものであるらしい事をちゃんと認識する必要があると云う。右派と左派が激しく議論をしている事を見せられている我々もいつしか議論の振幅の幅、つまり許される選択は国際的テロリズムと全面侵略とのあいだに限定されてしまう事に注意すべきだと云う。

この前提におけるアメリカの暴挙については枚挙のいとまがない。そして僕は自分の無知さに呆れてしまうのである。僕はきっと皆さん以上に熟睡させられていたのだろう。チョムスキーも起こってしまった事にやりなおしがきかないことは勿論、メディアを通じたプロパガンダによって大衆が欺かれてしまう事が完全に払拭できるとは思っていない。しかしもう少し注意深く物事を見聞きし、考える事を続けることで在る程度牽制していく事は可能だろうと考えている。

目覚めよ人類。そして僕。

現代人必読の一冊であります。

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失墜するアメリカ経済―ネオリベラル政策とその代替策
(Contours of Descent:
U.S. Economic Fractures and the Landscape of Global Austerity)」
ロバート・ポーリン (Robert Pollin)

2009/02/08:本書が初版が上梓されたのは2003年。そのもととなったのは2001年に書かれた論文。その時研究していたのは、北米とヨーロッパの中道左派政党が政権をとるとなぜか中道右派に親和的になってしまう事に関するものだったそうだ。

昨年サブプライム問題に端を発して予想を超える規模とスピードで世界経済が正にダムが決壊したかの如く崩れ去ってしまった訳だが、思い起こせば北京オリンピックが終わったら株価が下がるとか不況がやってくるとかいった事に関しては度々話題にはなっていた。しかし、こんな形でこんな場所から決壊するとは。少なくとも僕は全く思いもよらなかった。

そしてすっかり水が流れ出てダムの底が見えてきてみれば、これまでの景気はマエストロ、グリーンスパンのまるで「ファンタジア」のような幻想であった事が明らかになってきた。

勿論、大衆を欺き中東の「悪の枢軸」に対する戦争行為へと突入したブッシュU(本書の著者ロバート・ポーリンに倣ってジョージ・W・ブッシュをブッシュU、オヤジの方をブッシュTと呼ぶ事にした。これからずっと)の責任であろう。

次期大統領として争ったマケインとオバマであったが、世の中をここまで悪化させアメリカを世界の嫌われ者にしてしまったブッシュUと同じ共和党であるマケインに勝ち目はあるのかと、僕には見えた。結果は予想通り民主党候補であったバラク・オバマの勝利であった訳だが、だからと言ってすべての問題が解決する訳ではない。

大統領就任式がまるでお祭りのように盛り上がって舞い上がっているアメリカの市民の映像を見ると「どうしてこんなに単純なんだろう」と思わずにはいられない。

このような事態をこれだけの規模で招いたのはなにもブッシュU只一人のせいだなんてあり得ないだろう。加えて、民主党と共和党が白黒正反対な事を主張している訳でもなく、民主党に責任や問題がなかった訳でもないだろうに。それはここ最近の本の数々から得られた情報からもますます明らかだ。短期間でアメリカが悪辣なならずもの国家となった訳では決してなく、ブッシュUの前の大統領クリントンはオバマと同じ民主党なのだ。

要するに今のこのアメリカ合衆国の在りようを決定づけているのはブッシュUのその前から積み重ねられてきた所業故のものであり、その一端は確実に民主党も握っている訳だ。そしてアメリカ合衆国大統領としてのオバマがそんなに特別な存在ではないという事だ。何より政府が行う膨大な政策は政治家その人ではなく取り巻く政策スタッフによって計画・実施されている訳で、国家元首や与党が入れ替わってもスタッフの多くは残るのである。

例えばダボス会議には分科会の司会者としてデビッド・イグナシウス(David Ignatius)なんかが参加していて、しっかりイスラエルの肩を持ったりしているのだ。

オバマはそのクリントン元大統領の奥さんであるヒラリー・クリントンを国務長官に任命した。今回の選挙戦で大統領候補として選挙戦を戦っている最中にロバート・ケネディが暗殺されたエピソードに言及してオバマが暗殺されるかもみたいなとんでもない発言をしている人なのにだ。これでオバマに何かあればジョン・F・ケネディとリンドン・ジョンソンみたいな話しになってしまうんじゃないだろうか。

いやいやこれは本筋ではない。


そもそも共和党と民主党の違いってどんなものなのだろうか。冒頭の一文に振り返ろう、中道左派も中道右派も結局は親和的に似たような政策を採り始めてしまうと言うような事だろうか。

確かにブッシュUが取り続けた政策原理は共和党と云うよりも寧ろ民主党の主義に近いものであるように見える。では、このブッシュUの政権を見限って、民主党を選択したアメリカは一体何を掴んだと云う事になるのだろうか。

しっかしこの共和党・民主党の絵はまるまんま日本に持ってきても勘違いして読んでしまう程似通った状況なのが呆れる。麻生太郎の支持率は今年に入って20%を切り下降の一途を辿っているが、自らだめ押しするかのように郵政民営化はそもそも反対だったなんて発言している。

今の経済状況はもとより現在のこの日本の在りようをすべてこの麻生太郎に帰結する事が出来ないのは明らかであり、このような事態を招いたのは、その前任の「あなたとは違うんです」福田どころかもっとその前に遡るものだろう。

ぱっと思い及ぶのは小泉純一郎だったりする訳だが、当時の議論は村社会と化した政党政治や保守的で既得権を抱え続ける省庁を解体する事だった。その象徴と言えるのが郵政民営化だ。麻生太郎は自民党の党首でありながら自己否定みたいな事を突然言い出してしまうような人物なのである。

一方で行きすぎたグローバル化がもたらした結果が何をもたらしたかは現在のこの未曾有の経済状況をみれば明らかだろう。さらに自民党ではダメだからと云って民主党かといえばそれは余りに単純すぎるだろう。

日本もアメリカも民主党は中道左派である事も申し添える必要があるだろう。100年に一度の経済状況と云われているが、これは本当に避けられないもの。何をやっても結果生じるものなのだろうか。僕たちの世界はこのようなことをこれからもずっと繰り返していくと云うのだろうか。

本書では正にこのような中道右派と左派の揺らぎの中核へ迫るものだ。

もし自由市場資本主義が富を創造する力強い機構であるならば、なぜネオリベラル的政策アプローチは−−クリントン、ブッシュ、IMFのいずれが追求しても−−不公平と金融不安といった過酷な困難をつくりだし、次には市場機構の経済成長促進能力を低下させてしまうのだろうか。この問題は、自由市場システムが生み出す三つの基本問題として考察するのが有益だろう。三つの問題を私は「マルクス問題」、「ケインズ問題」、「ボラニー問題」と名づけている。

では、簡単にこの3つの問題を整理してみる。


マルクス問題

一般的に自由市場経済では、労働者の交渉力は雇用主よりも弱い。多国籍企業による国際的な貿易と投資への障壁の引き下げにより、高賃金の国の労働者の交渉力は弱まる。
他方貧しい国では輸入食料の関税引き下げなどにより、農業から労働者が流出し続け輸出指向型工場によって労働力が吸収されていく。輸出指向型工場にとっては常に生産予備軍がいるためここでも労働者の交渉力は弱い。グローバルな労働市場の統合は労働者の雇用条件を悪化させ生活条件を低落し続けるだろう。

ケインズ問題

民間投資活動に伴うリスクを管理するために必要な金融市場は投機的な意図による投資家の参入を阻むことができない。金融市場は民間投資の本来的なリスクによる不安定さと投機的な意図による不安定さを常に孕んでいる。ネオリベラル政策により金融市場の規制緩和や政府介入の低下はこの不安定さを拡大する。

ボラニー問題

市場経済は物欲と競争の二つの駆動力によって拡大するが、この市場経済がほどほどの公平性を備えて機能するためには、広く受け入れられる共通財という概念を有効に奨励する社会規範と社会制度のなかに埋め込まれなければならない。さもなければ物欲と競争が文化的力として圧倒的な支配を固めて、資本主義の下での生活をホッブス的な「万人の万人に対する闘い」にしてしまう。この社会的規範や社会制度とは、完全雇用をもたらす経済の総需要の維持、投資資金の効果的な分配を促す金融市場環境の創出、そして投資過程で得られた富の平等な分配である。平等主義的な分配をするためには労働法などによる労働市場への介入と累進課税や社会保障などによる福祉国家政策である。ネオリベラル政策はこの介入を低下させるため物欲と競争を激化させるだろう。


冒頭に戻り、なぜ中道左派は政権をとるやいなや中道右派よりの政策へ転換しはじめるのだろうか。これはWTOの基で完全自由貿易を推し進めている国外との関係において避けがたいものになっているからではないかと僕は感じる。一度解き放ってしまった龍を元に戻すことはもやは不可能なのではないだろうか。

これらの問題はつまりブッシュUがどうとか、クリントンがとか、民主党か共和党かと云う問題の向こう側に共通する一つのものとしてそもそも在ったと云う事なのだ。アメリカは裕福層に対する減税とアメリカ以外のNATO諸国、ロシア、イスラエルを含む中東および北アフリカ諸国すぺての軍事費の合計額を上回る規模で軍事予算を使ってきた。一方その代償として医療や教育の支出を削減し続けてきた。

本書における重要な示唆の一つはテロを減少させるためとして貧困からの救済がある訳であるが、果たして今この世界にはその体力があるのだろうか。


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ブランドなんか、いらない―搾取で巨大化する大企業の非情
(No Logo: Taking Aim at the Brand Bullies)」
ナオミ・クライン(Naomi Klein)

2009/01/31:綿密な調査に基づく莫大な情報量とその目を剥くような事実の数々。しかし「読書メーター」では☆☆☆★★と平凡な点をつけてしまった。

本書が上梓されたのは2000年。日本語版は2001年。指摘されている問題はどれも当時とすれば斬新でかつ核心をつく鋭いものであった事は間違いない。

それはその後大きく取り上げられ広がりいろいろな場所でいろいろな人に繰り返されてきている為に、今この本を読んでも既視感がある。つまり読むのが遅すぎたのだ。

ナイキ、リーバイ・ストラウス、ヘインズ、ギャップ、GMなど誰もが知っている超多国籍企業によって引き起こされるその労働の流動化は翻って自国の経済を停滞させ貧困層の更なる貧困化 を招く。

2008年年11月。GMは、フォードやクライスラーとともに、連邦政府による金融支援を求めたが、金融支援をうけるのに必要な経営再建策がないことなどを理由として採決せず、自家用ジェットで訪れた社長らを非難した。一体幾ら必要なのかはっきりしない上にのうのうと自家用ジェットでやってきた経営者に対する議会の攻撃はなかなかすさまじかったが、当然と言えば当然だろう。

加えて報道では、GMの北米工場のなかの様子を撮していたが、驚いたことに従業員は皆私服だった。私服にスニーカーで車を組み立てていたのだ。何年も前の映像かと思ってしまったよ。作業をしている人々はまだ残った工場での働き口があって運がよい方だったと言う事もできるだろう。

偶然にも同時並行して読んでいる仕事本はアルフレッド・D・チャンドラー.Jrの「組織は戦略に従う」だ。この本は経営学の古典的名著とか、経営書の金字塔と呼ばれるものだ。こちらもかなりのボリュームでなかなか読むのは大変なんだけど、要はどのような課題を解決する為に組織構造の改訂を行ったかという事を過去の事例を紐解いていく訳だがこの対象となっている会社の一つがGMなのだ。フォードに圧倒的に水をあけられ、複数の会社を合弁しながら追従せんとするGMは製造、調達から財務までの機能を円滑におこなう為に大胆に組織改革していたのだ。


一方本書では、リーバイ・ストラウスなどと並んで90年代に入り積極的な工場閉鎖とリストラを繰り返している事を指し、

ゼネラル・モータースは、91年からアメリカで約8万2千人を削減し、2003年までにさらに4万人をリストラする予定である。生産はマキドラと世界中のそのクローンに移動するという。その昔 「ゼネラル・モータースにとってよいことは、アメリカにとってもよいことです」と自慢げに言っていたあのGMは、どこへ行ってしまったのか。

と云うような事を書かれている。

それがこれを読んでいる今GMは年度決算が3兆円の赤字が見込まれているばかりか、年金・退職者医療の等債務超過の額は6兆円になるのだそうだ。

ナオミ・クラインもきっと驚いていることだろう。しかし、一方でこのような事態に陥ったのは果たして経営を誤ったからと一言で片付けて良いのだろうか?

どうして経営の合理化につき進んでいたハズの巨大企業がかくもあっけなく頓挫してあっと言う間に瀕死の状態に陥ってしまうのか。

先出ししちゃえば、「失墜するアメリカ経済」でロバート・ポーリンはグリーンスパンが1997年に既に労働者が雇用の不安から小幅な賃上げを甘受している事を指して「労働者のトラウマ」と呼んでいたという事を紹介していた。つまり海外への工場移転などの手段をもつ企業に対して労働者は賃金などの雇用条件面抵抗できなくなっており、この賃金の抑制が企業の収益力の一因となっていた事の可能性を示唆していると云う訳だ。

企業はこうした選択肢をちらつかせることで国内の生産工場の人件費を圧縮するか、または現実に海外に工場を移転しもっと安い人件費で製造をおこなってきた。

本書に話を戻すと、アメリカ国内では、マクドナルドのマックジョブやスターバックスのスターレイバー等、企業の都合に最適化された切れ切れの労働を強いらる就業形態が紹介されていた。日本でも派遣労働法がいつの間にかひっそりと通過し、既に現実の大きな問題となっている。

そして実態に更に切り込んでいく。

先進国から途上国へ移ってきた仕事が同じものだと誰もが考えているようですが、それは違います。企業の「製造」は太平洋をわたる途中で「注文」に変わり、それが下請けのものに届くと、フルタイムの雇用は「契約」に変わった。アジアの人々にとって気の毒なのは、西洋やアジアの多国籍企業がアジアで新しく生み出した雇用は、一時的な雇用だということです。

大規模雇用主としての伝統的な役割を企業が守れなかったことのもっても悲惨な結果は、こういった女性の生殖に対する攻撃である。今日の労働者との「ニューデール」は、契約ですらない。マーケティングのプロに変身したかつての製造業者は、断固すべての責任を避け、子供をもたない女性の労働者集団を生み、自由気ままな工場が自由気ままな労働者を雇うというシステムを作った。

そもそも国内にあった生産拠点が他の国にまるまる移っている訳ではなく、「製造」と云う仕事はバラバラに解体され、組織的でかつ計画的な搾取工場や家内作業との「契約」になり、そうした場所では、女性や子供たちが人権を奪われたまま過酷な状況で使い捨てになっているというのだ。

それはまるで世界文学から抜け出してきたかのような前時代的な状況なのだ。そしてそれは現実の事なのだ。この搾取工場の様子には本当に胸が悪くなる。

そんな工場が造り出されてきたものが僕たちの身の回りにある。悪夢のような状況をつくり出している事に僕たち自身が加担している。なんて事なんだろう。

また、学校について。本書では学校に企業が入り込んできている事に警鐘を鳴らしている。学校教材としてのテレビ番組制作しているチャンネル・ワンと云うテレビ局ではこんな事が起こったそうだ。

10年間前、、これらの学校専用のテレビ局は、北米の学校に、ある提案とともに近づいた。10代向けの12分の教育番組の合間に、1日に2分間だけ広告を流させてほしい、と彼らは申し出た。多くの学校がこれに同意し、放送はほどなくはじまった。この楽しげな早口のコマーシャルを見ないことは許されない。生徒がそれを見ることを強要されることはもちろんのこと、教師も、とくにコマーシャルの間はボリュームを変えられない。そのかわり学校が局から受け取るのは、金ではなく、授業に使う垂涎のAV機器や「無料」のコンピューターだった。

また学校の食堂に入り込んだ企業は、

そして多くの学校で、さらに多くの広告が登場するのが食堂のメニューだ。1997年、20世紀FOXが、アメリカの40の小学校で、カフェテリアのメニューに入り込むことに成功した。映画「アナスタシア」の登場キャラクターの名前をあしらったメニューをつくったのだ。こうして生徒たちは「バルトーク・パンのラスプーチン・リブのせ」や「テ゜ィミトリのピーナッツバター・ファッジ」を食べることになった。ディズニーとケロッグもスクール・マーケティング社を通して、同じようなランチメニュー・プロモーションをおこなっている。スクール・マーケティング社は自らを「学校昼食広告会社」と称している。

2001年1月ブッシュU(ロバート・ポーリンに倣ってジョージ・W・ブッシをブッシュUと呼ぶ事にする)の大統領就任演説では

国民の中には、問題のある学校のため、隠された偏見のため、あるいは生まれてきた周囲の環境のために、自分の希望を十分に遂げることが出来ないものもある。われわれは、無知と無関心がさらに多くの若い命を奪う前に、力を合わせてアメリカの学校を再生させる。政府には、市民の安全、公衆衛生、公民権、そして公立学校を確保する重大な責任がある。

と学校に対する危機意識を覗かせていた。
では、2009年1月のバラク・オバマはなんと言っただろう。

学校は、あまりに多くの人の期待を裏切っている。

何か重大な問題がアメリカの学校では起こり続けており、しかもこれが10年も続いているのだ。最近読んだ本に基づきこの問題を翻訳すると、軍備に金を捻出するために学校などの公共事業の予算を削りつづけることで、学校はを弱体化を続け、企業が巧妙に入り込んで子供を洗脳している上に、更には宗教的信条が入り込み進化論すらまともに教える事ができなくなっている。

こうして世間知らずで自ら考える能力を奪われた大衆が占める社会が完成する。愚かで御しやすい大衆を生み出した方が効率よく世論を操作できるという訳だ。

子供の行事で小中学校には度々出入りしているが日本の学校ではこんな話しは聞いた事がない。いやいやもしかしたらNHKをもっと疑ってかかるべきかもしれん。子供が育てられない国や社会は自らの衰退を回避できないだろう。これは激しく不気味な事態である。

本書を読んでいる間繰り返し思い出されたのはマクドナルドのハッピーセットのおまけだ。ディズニーのキャラクターなんかが乗った車なんかのおもちゃ。

砂場に遊びに行くときに沢山持っていったっけ。息子が乱暴に扱っても全く壊れることのない頑丈な作りになっていた。しかも普通の工具では分解できないようなボルトで締められ安全に配慮されているものだった。

マックとしても訴えられるのが嫌なのだろうが、この徹底さに感心すると同時にこれらのおもちゃが中国製であり、こうしたおもちゃを作っている工場ってどんな場所にあってどんな人が作っているのだろうかと思っていた事だ。

勝手な想像だが、このおもちゃを作っている人達は恐らくこのディズニーのアニメ映画なんて観たこともないのではないだろうか。キャラクターの意味づけが不明なままこうしたキレイではあるがヘンテコな肌の色をしている生きものがのっかったこれまたヘンテコな車を受け取る子供たちが一体どこの国でどんな暮らしをしていると思ってたのだろうか。息子が砂場で車を無心に走らせている脇で僕はそんなことを考えていたのだった。

そして世の中にはこんな場所もあるのかとびっくりしたのが、ここセレブレーション。ここはディズニーが作った街なのである。


セレブレーションは、未来主義よりも敬意を尊重している。ショッピング・モール、大型小売店、高速道路、遊園地、マス商業主義が出現する以前の、昔ながらの理想的なアメリカの町をここに再現した。意外なことに、セレブレーションはミッキーマウス商品の販売装置ですらない。ここは現代用語で言うと、ほとんど「ノー・ディズニー」な町であり、アメリカに残された最後の場所である。シナジー化され、完全に閉ざされた世界についに到達したとき、ディズニーは「ディズニー化」される以前の世界をつくることを選んだ。その静けさは、高速道路の向こうにあるディズニーワールドの商売がかった漫画の世界とは、好対照をなしている。

アメリカ中にできた数々の閉ざされた社会のように、広告看板もなく、静かで緑いっぱいのセレブレーションの住民は、現代社会の刺激や醜さとは無縁だ。リーバイ・ストラウスが新しいダブダブ・パンツを売るために大通りの店先をすべて買い取ることもなければ、落書きアーティストが広告を書き換えにくることもない。ウォルマートが町に陣取って引っかき回すことも、それに反対するデモが起こることもない。工場閉鎖で税金や福祉負担が急騰したり、議論好きの連中が悪態をつきにやってくることもない。しかし、北米の郊外型コミュニティと比べたとき、明らかに違うのは、セレブレーションの共同施設、公園、広場などの公共空間の広さだ。ある意味で、ディズニーのブランド化の新機軸は、ブランド化されないことへの賛辞とも言える。その公共空間とは、この企業がこれまでブランドを広げるために、巧みに奪いつづけてきた場所だ。

もちろんこれは幻想である。セレブレーションを自分の故郷とすることを選んだ家族は、初のブランド生活を送っている。社会歴史家のディーター・ハッセンフラグは述べている。「通りがディズニーの支配下にあるので、私有地も公共の場のように見えてしまうのだ。」つまりセレブレーションとは、トクヴィルの予言の手の込んだ「裏返し」、ニセモノの創始者により特別に改装された「本物」のバンカーである。


ここではなぜかストリードビューもお行儀よく、大通りを流しただけで側道には踏み込んでいかない。お金持ちはちゃんとプライヴァシーというものが守られるものらしい。ル・カレの怒りにかなり共感できてきたように感じる今日この頃である。

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WTO徹底批判! (Remettre l'OMC a sa place)」
スーザン・ジョージ (Susan George)

2009/01/18:ル・カレご推薦の読書は続く。本書は2001年スーザン・ジョージの手による「WTO徹底批判!」である。

本書は自由貿易の名の下に実は超国家的企業に著しく有利な条件を織り込む事で、世界のほんの一握りの人間に富が集中してしまうような世界に向かっている事に対する危機感によるものなのだ。

WTOは1995年それまでGATTと呼ばれていた合意に基づき設立された機関。GATTは協定であったがWTOは機関である事が根本的な違いだ。
WTOの基本原則は

自由(関税の低減、数量制限の原則禁止)
無差別(最恵国待遇、内国民待遇)
多角的通商体制

とされ、その貿易の対象とされているものは物品貿易だけでなく金融、情報通信、知的財産権やサービスも含まれている。WTOはこの国際貿易に関するすべてのルールを規定し、紛争問題も解決する司法の役割ももっているのである。


WTO協定は「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)および附属書に含まれる各種協定の総称である。WTO加盟国となるためには附属書1〜3の全てにも受諾しなければならない。

どこに問題があるというのだろうか。

国際貿易には規則が必要だと考えている。どんなシステムも規則を必要とするものであり、誰も弱肉強食の掟を望んでなどいないだろう。1930年代の貿易戦争の不幸な時代に逆戻りすることは問題外である。

貿易はけっこう、規則もけっこう、なのだ。しかし、それは絶対に、現在のWTOの規則であってはならない。何故なら現在のWTOの規則は、何よりも”超国家的企業”の利益を優先するもの であり、市民と民主主義にとって巨大な危険を孕んだものだからである。WTOが想定しているさまざまな協定は、次のような結果をもたらすだろう。

(1)公共サービスを弱体化させるか、もしくは破壊する。
(2)小規模農業の従事者を破滅に追い込む。
(3)社会的既得権をおびやかす。
(4)すでに定着している国際法を破る。
(5)すでに不利な状況におかれている国々を、よりいっそう不利な状況におくことになる。
(6)文化を同質化する。
(7)環境を荒廃させる。
(8)実質賃金や労働基準を低下させる。
(9)市民を保護する政府の能力や、政府に保護を求める市民の能力を格段に低下させる。

要するに、現在のWTOに反対している人々は、WTOがあらゆる人間的価値を犠牲にして貿易を君臨させようとしていることを非難しているのである。文化・健康・社会福祉サービス・教育・ 公共サービス・公共市場・知的所有権・食糧安全保障など、すべてがターゲットとされ、またこれだけにとどまらず、このほかにもさらに多くのものが狙われているのである。

スーザン・ジョージが述べているWTOの大原則は以下の通り

(1)例外の否定−−WTO加盟国となるためには附属書1〜3の全てにも受諾しなければならない。
(2)目的は完全なる自由貿易の達成である−−関税障壁も非関税障壁もすべて排除される。
(3)透明性を保つ義務−−すなわちWTOに対し国々は何も隠し立てはできない。
(4)同種性の原則−−衛生問題や環境問題に対する取り組みの違いは無視される。
(5)内国民優遇−−加盟国は他の加盟国と国内の生産物を同等に扱わなければならない。
(6)市場へのアクセス、数量的制限の排除−−つまり輸入も輸出にも何の制限も加えられない
(7)ダンピングの禁止−−国内産業を維持する為の補償課税は適用させない。

こうした包括的な大原則により
(1)物品貿易に止まらず金融やサービスなど全てに拡大していこうとしている事を踏まえれば、学費や国策会社に対する国の補助はすべて排除されてしまう。
(2)同種性の原則により、比較できるのは単に価格のみとなり、生産物の選択する際に生産過程や方法は考慮できなくなる。
(3)他国が要求するものは何でも売らなければならない。

と云うわけである。

これらの原則は反WTO派のいうように、「底なしの競争」を鼓舞するものにほかならない。労働者や自然を過剰に搾取しながら、つねに隣人よりも安上がりに生産しなければならない。妥当な給与や社会的手当などを製品の最終価格に組み込んだり、環境の保護や回復をはかったりしていたら、製品の「競争力」が落ちてしまう。社会的・エコロジー的な原則によるいっさいの区別がアプリオリに「保護主義」とみなされるこのようなシステムのなかでは、万人の万人に対する競争が生じ、あらゆる種類の規則や規範において下に向かってかかる圧力がますます強まり、耐えがたいものになっていくしかない。

133条委員会やTRIPS協定の問題など様々な不透明さとその向こう側で暗躍しているらしい超国家的企業の目論みには背筋が凍る。

心配になってくるのは農業の事である訳だがこちらはアメリカを中心としたケアンズ・グループの主にアグリビジネスと大規模農業の経営者の利害を代表するものと、日本・EUなどの農業の「多面的機能」を重視するグループで激しく対立をしているという。

一方でここまで自分が自分たちを囲むこの世界に対して無知で無関心で生きてきたのかという事にも驚いてしまう。

いやいや無知・無関心というよりも寧ろ情報リテラシーの欠如とみるべきだろうか。

先日のニュースで過去40年で最低・最悪と評されたと報じられたジョージ・ウォーカー・ブッシュだが、一方で彼の弟はちょっと前までフロリダ州知事でその父であり元大統領であったジョージ・H・W・ブッシュも弟本人もいつか大統領に就任したいと言っているという事だ。

最悪だと評されている一方で弟は大統領になれると思っているらしいところがそもそもよく解らない。
彼らにとっては世論なんてどうにでもなるものとして捉えられているのだろうか。

ノーモア・ブッシュ。

僕自身も含めて情報リテラシーの向上に向けて日々努力を続けていかないと本当に世の中大変な事になると思う。

また本書ではロバート・ゼーリックについても一言言及されていた。2001年ドーハの閣僚会議でアメリカ通商代表部の特別代表にブッシュ大統領が指名したのが、ロバート・ゼーリックだと云う。こんにちは。ゼーリックここでもお会いできるとは、ご活躍な事だ。本書ではブッシュ大統領の大親友にして、超国家的企業に全面的に支配されたアメリカ政府に任命された人物だと書いてある。自慢していいよ。

更に加えて読みどころは、末尾に加えられている佐久間智子氏による解説にもある。

現在、私たち日本人の多くが享受しているような生活水準が、地球上のすべての人類にもたらされるとすれば、2050年には地球が8個も必要になってしまうという。実際には、森林・化石資源・水資源の多くが30年前後で枯渇すると予測されている。

このような予測がありながらアメリカは京都議定書に署名のみと云う消極的な姿勢を続けている。何故ならWTOが目指す世界観と真逆なところにあるからであろう。また一方で憂鬱な話しであるが、そもそもすべてみんなの分は最初からないと云う事が前提となっているように感じられるのである。

また日本企業はこれまで、本来西欧起源の会社の形を日本的文な文脈、会社は社員のものであり、株主は金をだしているだけという形で解釈をし、その運営をしてきたがWTOによって利潤追求を唯一の目的とした本来の会社へと変質させてしまったと書いている。

これもまた非常に重要なポイントである。

このような文脈で過去の政策を振り返れば一目瞭然、労働派遣法の改定がありそして次は郵政民営化であった。あとがきではこんな話しもあった。

また2001年小泉内閣では時の行革担当相の石原伸晃はヨーロッパを視察していたが、この目的は世界最大の”水”会社ヴィヴェンティの訪問であったらしい。推測されるのは当然ながら”水”の民営化と事業の海外進出であろう。

こうした企業優先の政府による企業優先の政策には益々目を光らせそのような言動を続けている輩を舞台から引きずり下ろす為に、出来ることを続けていく必要があるということだ。

まさに一読に値する一冊でした。


「これは誰の危機か、未来は誰のものか」のレビューはこちら>>

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わたしの愛したインド
(The Cost of Living)」
アルンダティ・ロイ(Arundhati Roy)

2009/01/18:再びジョン・ル・カレが挙げた著者の作品に戻ろう。アルンダティ・ロイの「わたしの愛したインド」だ。

アルンダティ・ロイは「小さきものたちの神」でブッカー賞を受賞したインドの女性作家。「小さきものたちの神」はインドの社会問題をえぐる小説であったが、本書「わたしの愛したインド」は小説ではない。

本書には二つのルポルタージュからなっている。一つはインドを流れる5番目に大きな川ナルマダ川に大小3200個ものダムを建造しようとする計画に対する告発「公益の名の下に」。もう一つは「想像力の終わり」インドとパキスタンの核実験競争についての本なのである。

先ずはナルマダ川から。

このナルマダ川流域計画は1940年代にジャワハルラル・ネルー首相の時代に構想に遡るものだが、正式なプロジェクトが発動したのは1984年で世界銀行、日本政府がこのプロジェクトに融資をしている。

しかし、地域間の利害関係をはじめ、先住民族「アディヴァシ」の大量な立ち退きや生態系の破壊、そして計画そのものの経済性など様々な問題が具現化し、インド内外で反対運動が行われた。1993年には世界銀行、日本政府の融資が凍結し、プロジェクトは頓挫したかにみえたが、インド政府は独力で計画を推進中というものである。

プロジェクトの全体地図
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/db/Location_Plan_of_projects_in_Narmada_basin_.jpg

ナルマダ・プロジェクトで最初に完成したのは1990年バーギ・ダムであった。このダムは予算の10倍がかかり、想定していた三倍の土地が水没した。当初立ち退きが必要な人は7万人と推定されていたが、実際にダムに水が溜まりだすと、11万4000人が住んでいた土地を追われた。しかもその殆どの人は何の補償も与えられなかったという。

アーンドラー・プラデーシュ第二灌漑計画は、6万3000人が立ち退きにあうとされていた。完成すると15万人が立ち退かされた。グジャラート第二中規模灌漑計画では、6万3600人ではなく、14万人が立ち退きにあった。カルナータカのクリシュナ上流灌漑事業による立ち退き数の試算は24万人に改訂されたが、当初はたったの2万人と主張されていた。

アマルカンタク高原



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バーギ・ダム



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サルダル・サロバル・ダム



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更に指摘は続く。

サルダル・サロバル・ダムのような多目的ダムで重要なのは、その「目的」(灌漑、発電、洪水調節)が互いに矛盾するということだ。灌漑は発電のために必要な水を使い果たしてしまう。
洪水調節のためには雨期の間貯水池を空にしておいて、予測される増水に対応する必要がある。増水がなければダムは空っぽのままだ。こうなると灌漑という目的、つまり雨期の水を蓄えることは達成されない。


つまりダムの目的自体がそもそも胡散臭いという訳だ、ナルマダ川流域に古来から住んでいる人々は農耕を中心とした生活をしている。

表向きダムは治水による地域全体の農業用水や飲料水としても活用されるという説明だったが、実際には下流に広がる工業地帯の為に上流の先住民たちの土地を違法に奪い去るものであった訳である。

数千万にのぼるインドの立ち退き者は、戦争とは認識されない戦争の難民に他ならない。そして私たちは、白いアメリカや仏領カナダやヒトラー政権下のドイツの市民のように、目をそらすことでそれを許している。なぜか?それはより大きな公共の利益のために行われていると、進歩の名において、国益(もちろんこれが最優先事項だ)の名において行われていると言われているからだ。それゆえに嬉々として、疑問を抱くことなく、感謝せんばかりに、私たちは言われたことを信じる。私たちは信じることが利益になるものを信じるのだ。


国を豊かにすると云う偽善的な衣を纏った融資は結果的に借りた金以上の返済が必要になる。より豊かになっているのは寧ろ世界銀行の方だと云う訳だ。そして世界銀行にはポール・ウォルフォウィッツをはじめとして、およそ民主主義を嫌っているような人物の影がちらつく組織なのであった。

なんと。なんと。

では次に「想像力の終わり」である。多くの人が貧しく飢えているにもかかわらずどうしてインドとパキスタンは衝突し、核兵器でまでちらつかせて対峙する必要があるのだろう。

そもそも人工的な線で囲い込まれる事で生まれたインドは一つの国や文化や国家的アイデンティティを持った事がこれまでにはなかったと云う。

首相がアメリカ大統領に宛てた手紙のキーワードは「苦しむ」と「被害」であった。これが要点だ。これが私たちの喜びなのだ。私たちは被害者意識を持つ必要があるのだ。包囲されたように感じる必要があるのだ。インドには敵が必要なのだ。私たちは一つの国としての意識に乏しく、それゆえに絶えず敵を探し求め、それを背景に自分たちの姿をはっきりさらようとする。

アルンダティ・ロイはこの根源はマハトマ・ガンジーにまで遡ると指摘する。ガンジーが人間的政治とイギリスとの独立闘争にこの被害者意識を植え込んだ事から火がつき、確かに自由を勝ち取ったが、それはごうごうと激しく燃え続け分裂による殺戮そして、ヒンドゥーの核爆弾までをも勝ち取ってしまったのだという。

なんと被害者意識?どこの誰がインドから何を奪おうと思っていると言うのか。

それはつまり不寛容な宗教的信条そのものが実は宗教そのものではなく操作され演出されて生み出されたものであるという事だ。そしてこの文章のインドはまるまるアメリカに、そしてそれ以外の様々な国の名前に置き換えても全く差し支えないではないか。

よその国に攻め込んでもその豊かさをはじめ得られるものがないどころか寧ろ失ってしまう事は歴史を振り返ればすぐにわかるハズなのに。

「帝国を壊すために」のレビューはこちら>>

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しゃばけ」畠中 恵

2009/01/12:固い本が続き読むのも整理するのもちと疲れる。たまには息抜きも必要である。んな訳で「しゃばけ」である。本書は2001年の第13回日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞を受賞した本である。

お江戸日本橋の大店で薬種問屋である長崎屋の一人息子一太郎が夜一人で今のお茶の水あたり歩いてると人殺しに遭遇してしまう。

見られた事を察した犯人に一太郎は追われてしまう。一太郎はそもそも外出もままならないほど生来病弱であり、遠出は禁じられていた。その夜は家人の目を盗んでの外出であった。

必死で追ってくる犯人から逃げ切るのは体力的にも無理なのだ。一太郎が必死に呼び出したのはなんと湯島聖堂の近くの稲荷に住まう鈴彦姫と云う妖。間一髪助けに現れた鈴彦姫の技によって犯人を遠ざけ難を逃れた一太郎。

長崎屋まで二人で戻ったところを向かえるのは手代である仁吉と佐助。勝手に外出した事を咎め、鈴彦姫から事情を聞いて怒り出す二人はまたの名を白沢と犬神といい、一太郎を守る事こそ唯一の使命とするこれまた妖なのだった。

祖父が連れてきたこの白沢と犬神。幼い頃から妖に囲まれ守られて育ってきた一太郎であった訳だが、その彼が家人はおろか、この二人の妖にまで内緒で出かけた事には何か深い事情があるらしい。

一夜明けて発見された被害者は首が切り落とされている。一太郎が見たときに被害者は既に死んではいたが首はつながっていたはずなのに。犯人は少なくとも薬種問屋の行燈をその目で見ており目撃者の一太郎を消すために刺客となって追ってくる可能性があった。やがて事件は第二、第三の殺人へと発展していく。

そもそも息抜きで選んだ一冊気軽に読める、楽しめると云う点では十分満足である。昌平橋や湯島聖堂あたりの描写もすてきである。何より橋好きですので。



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欲を言えば、一太郎のベット・ディディクティブなのか、ファンタジックで且つ主人公の成長を描く冒険譚なのか軸をもう少しはっきりさせたかった。後者に専念すればこそ、もっと物語が走ったのではないだろうかと思う。

シリーズ化され既に7編が出版されている。


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信仰が人を殺すとき -
過激な宗教は何を生み出してきたのか
(Under the Banner of Heaven:
A Story of Violent Faith)」
ジョン・クラカワー(Jon Krakauer)

2009/01/12:ジョンクラカワー。はてどこかで見た名だと思ってた。「荒野へ」が書店に並んでいるときに思ってたが、それもそのはず、「空へ―エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか」既読でした。うっかりしてた。この本は1996年エヴェレストで日本人の難波康子さんをふくむ12人の死者を出す遭難事故に関するノンフィクション、クラカワーは実際にその遭難した登山隊に参加し生還した人物なのであった。

この「空へ」はとてつもなくシリアスな本で強烈な印象を残すものだったが、僕のなかでクラカワーは完全に登山家、ノンフィクション・ライターだとは思ってなかったよ。

この人ご本人の生き方自体が凄いと思う。「荒野へ」を読もうかどうしようかと迷っていたけど、先ずは「信仰が人を殺すとき」から。

さて、この「信仰が人を殺すとき」は上下二段組みの約450ページと云う相当なボリューム。だが読ませる。この構成力には脱帽である。ノンフィクションに非常に巧い構成が仕込まれているため読者はぐいぐいと核心へと引きずり込まれていく。

1984年7月24日アメリカユタ州にある小さな町アメリカン・フォークで24歳になる女性ブレンダと1歳3ヶ月になるその娘エリカが殺害された。ほどなく容疑者として浮上してくるのは、義理の兄であるロン・ラファティとダン・ラファティであった。

この二人は一体何故自分の弟の妻と幼い子供を殺すと云う凶行に及んだのであろうか。

逮捕された二人は「神のお告げ」によってこの殺人を実行したらしい。良心の呵責はおろか悪いとさえ思っていない。

仮に死刑になったとしても、「神のために、喜んで命を捧げる」とまで言い切るのである。彼らは精神異常者なのだろうか。この二人はモルモン教原理主義者であったらしい。

モルモン教原理主義にも様々な分派があり、小さいものではその家族だけで独自な教義を抱えているものもあるらしく、ロンとダンは最終的には非常に小さいたった二人だけの個人的な信仰を抱いていたらしい。

殺されたブレンダと夫のアレンは敬虔な末日聖徒イエス・キリスト教会の信者であり、この宗教の違いが凶行に向かったのだろうか。

この末日聖徒イエス・キリスト教会とモルモン教原理主義者はその根源をモルモン教としながらもいまや互いに全く関係がないと云う。

そもそもこのモルモン教っていったいどんなものなのだろうか。

実はこの殺人事件の原因の一つは1830年にジョセフ・スミス・ジュニアによって創始されたモルモン教の教義に根ざしていた。

そしてこの教義が原因で人が命を落としたのはこれが初めてではいと云う。

本書はその根源を明らかにすべく創始前のジョセフ・スミス・ジュニアへとフォーカスし、事件と平行して描いていくのである。

どうやら本書に対して末日聖徒イエス・キリスト教会から反論が上がっており、クラカワーが更にこれに反論したりしている事があるようだ。

創始期の出来事が事実と違うとかどうのと云うものらしい。しかし、ここではその話しは掘り下げない。そうする必要も感じない。

どうか勘違いしないで欲しい。本書は特定の宗教を否定しようとしているものではない。もっともっとずっと深い問題を提起しようとしているのだ。

人類が神を信じるようになってこの方、人々は神の名において非道な事をおこなってきた。

暴力行為を容認するために教えを利用された預言者は、なにもマホメットに限らない。キリスト教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、シーク教徒にも、また経典が罪のない人々を殺害する動機にもなってきた仏教徒にだって、その歴史がないわけではないのだ。

時として迫害され、抵抗する事で多くの人が命を落としてきた。モルモン教は比較的最近に創始された事からその時の出来事がたどれる。恐らく新しい宗教が生まれた時には同じような出来事がおこったのではないだろうか。クラカワーがこの殺人事件と創始時代のモルモン教をテーマに選んだのはそんな動機なのだ。

ロン・ラファティは殺害に関する事だけではなく、何度も何度も神のお告げを受けていた。驚く事に周囲の人物もそれを受け入れる。信じてしまうのだ。

そしてこれはどうやら、現代のアメリカであってもどうやらものすごく特別な事ではないらしい。このまるで西部開拓時代から抜け出してきたかのような時代錯誤なこの感覚を持った人達には、なんとも言えない違和感を覚える。

繰り返すが、それもモルモン教徒に限った話しでは全くないのである。

ブレンダとエリカの殺害事件。確かに痛ましい事件である。しかしロン・ラファティはたった二人を殺しただけなのである。これまでに宗教によって殺された人々はそれこそ夥しい数に上る。そしてそれはこれからもどんどんと積み上げられていく予定だ。

ブッシュ大統領は自らが神の使者であると信じ、国際関係を善と悪の力の聖書的な衝突と見なしているのである。
国の最高の法務官である司法長官ジョン・アシュクロフトは、根本主義宗派−−ペンテコステ派のアセンブリー・オブ・ゴッド教団の筋金入りの信者である。司法省では、毎日側近たちの敬虔な祈祷会から一日がはじまり、彼自身は定期的に聖油を塗って自らを清めているし、終末論的な世界観を本気で支持している。

と云う。

僕にはこの短い文章を額面通りそのまま受け入れるのが難しい。

どうしてブッシュが自らが神の使者である事を信じている事を他人が知っているのだろうか。本人がこれを公言し、それを受け入れた上で支持している人達がいる。隣人が「自分は神の使者だ」と言い始めたらどうだろう。すごく居心地が悪くないだろうか。それが核兵器のボタンに指のかかった人物であった場合はどうだろうか。

これがノーム・チョムスキーが述べていた、アメリカのまるで開発途上国のような人々の強い宗教的経験や昇天や奇跡そして悪魔の存在に関する認識なのである。そしてこうした過激で不寛容な宗教的信条に基づく行動はもの凄い勢いで世界を覆い始めているのである。

イスラエルのガザに対する攻撃が止まらない。国連安全保障理事会の停戦決議採択も受け付けないと云う異常な行動だ。

1月10日のニュースではイスラエルのユダヤ系住民の94%以上がイスラム原理主義組織「ハマス」への軍事作戦を支持、反対はごくわずかだと言っているそうだ。ほぼ全員が賛同している場合には「疑う」のが常識である。これは明らかに「嘘」だ。

ガザの死者は800名を数えうち女性や子供等が相当数含まれている模様だ。どうやらイスラエルは10倍返しでもまだ足らないらしい。

これが一般人二人のやりとりであるならイスラエルの行為は明らかに過剰防衛で有罪になる事間違いないハズだ。

これを止められない国連。ここまで事態を悪化させたアメリカはこの採択にも「棄権」した。ここまで人類は無力だったのだろうか。

子供がいる学校にも攻撃しているイスラエルの信条とは一体どんなものなのだろう。

テレビでみて凄い人だなぁと思ったのがイスラエルの首相代行(副首相)兼外務大臣だと云うツィポラ・マルカ・“ツィッピー”リヴニと云う女性だ。結婚して子供もいると云うのに一方で大勢の子供を殺しているこの人は元モサドなんだそうだ。この人の信条とは一体どんなものなのだろう。

ガザに侵攻しているイスラエル兵の信条はどんなものなのだろう。彼らの危機感や恐れとは一体どこからやって来たものなのだろう。圧倒的な軍事力を持っているのはイスラエルの方なのに。

どんな神であろうと人が人を殺したり傷つけたりする事を良しとする訳がないと僕は思う。

終末論。結構な事だ。

それを信じ、それに向けた行動を起こすことで自らの手で世界を滅ぼし、「ほら神がいただろう。」と云うヤツがいたなら確かにその男こそ神に他ならないと云う訳だ。

一握りの人間が自らが神や神の使いである事を証明するというような妄想を現実に移すために世界は滅びなければならないのだろうか。

僕はイスラエルのガザ侵攻に反対します。アメリカ政府の姿勢に反対します。

信じることが実現に繋がるのであれば、僕は人類の良心を信じたい。

そしてこの圧倒的な構成力でこのような問題提起を持ち出してくるクラカワーの筆致はすごい。


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世界を不幸にするアメリカの戦争経済
イラク戦費3兆ドルの衝撃
(The Three Trillion Dollar War:
The True Cost of the Iraq Conflict )」
ジョセフ・E・スティグリッツ(Joseph E. Stiglitz)&
リンダ・ビルムズ(Linda J. Bilmes)

2009/01/02:「サラマンダーは炎のなかに」はソ連の推し進める全体主義的な共産化に対し、自由主義・民主主義を守るために命を懸けて諜報活動を行ってきた主人公が、今やその自分たちが守ったはずの西側諸国そのものの根本が全体主義に侵され始めている事、人びとが気がつかないうちに密かに忍び寄ってきている事に対する怒りを描いていたものであった訳だが、そのジョン・ル・カレがその著書の中で薦めていた著者の一人であったジョセフ・E・スティグリッツの著作から一冊。

本書の内容は「世界を不幸にするアメリカの戦争経済 イラク戦費3兆ドルの衝撃」に全て集約されている訳で、具体的にはその3兆円はどのような費用をどう計算しているかの根拠、また計算には入っていないがアメリカ以外の諸外国が負担、または今後負担する事になる費用、そしてもし仮にそれを他の投資に回すことが出来ていたらどうだったか。更には今後どのような影響が生じ、アメリカはどんな選択肢があるのかという事である。

現時点でまだ進行形であるイラク戦争の戦費をどう見るかであるが、本書では二つのシナリオが用意されてそれぞれ計算を行っている。

”最良シナリオ”と”現実よりの保守的シナリオ”である。”最良シナリオ”ではイラクとアフガニスタンに配置されているアメリカ兵の数が2008年に18万人、2010年に7万5千人に減少するというもの、”現実よりの保守的シナリオ”では、2012年に漸く7万5千人になるという前提で計算をしようというものである。

2008年12月末のアメリカの駐留兵の数はイラクに約14万2500人、アフガニスタンに約3万人である。ニュースでは近くアメリカはアフガニスタンに2万人規模の増派を計画していると云う。

バラク・オバマは向こう10年間で原油の調達を中東に頼らないものにすると言っている。
果たして、今後この駐留兵の数はどのように推移していくのだろう。

次にそのコストであるが、アメリカ政府が公式に公表している戦費には、あまりにも多くの費用が”意図的に”計上されていないと云う。

本書では大まかに以下のものをコストとして取り上げている。

総運用費(今日までの支出)、将来の運用費、将来の退役軍人のコスト(医療+障害補償+社会保障)、その他の軍事費/調整(隠された国防費+将来の国防リセット比+解隊、飛行禁止区域削減による節約の削減)に加えて、原油高の影響、支出転換の影響である。

支出転換とは、あるものに支出する事で他の支出ができなくなる。所謂しわ寄せによる効果を考慮しようとするものだ。イラク戦争への支出の場合、他の公共事業に対する支出の減少と云う形でしわ寄せが行く。その結果としてGDPが本来上がるべきものがあがらなかったものをコストと見なすという事である。

もう一つ補足すべきものとして原油価格をどう見積もるかという問題がある。イラク開戦に伴い原油価格が押し上げられるたその影響をコストとして見ているからだ。

去年の夏頃原油価格はバレル当たり147.27ドル。ハイオクのガソリンが200円/Lを超えるかと云うところまで上がったが、2008年12月にバレル30ドル台前半。ハイオクは110円程度である。

本書では開戦前のバレルあたりの価格を20ドルとし、それよりも価格が上昇した金額の半分をイラク戦争による損失として捉えている。

その額を5ドル〜10ドルとして5年なのか7年なのかと云う議論である。147ドルになった時点でその半分60ドルとして考えても1年分に相当するコストが実際に生じていた事がわかるだろう。

こうして算出されたコストの総額は3兆ドルなのである。


これはこれまでに掛かった金額ではない、将来死傷する可能性もある兵士の保障や医療費なども含めてなのである。こうした費用は、戦争が終結したとしても辞める事が出来ない費用なのである。

何故なら

戦争を善とするか悪とするかにかかわらず、あるいはイラク戦争を成功と考えるか失敗と考えるかにかかわらず、ほとんどのアメリカ人は、国のために命を懸けた人びとに適切な医療と障害手当を提供するのが道徳上の義務であることに同意している。それを実施するには多額の費用がかかるため、政府は充分な資金を調達しなければならない。

からである。

戦争期間が長引けば当然死傷者の数も等比級数的に積み重なっていく。
円ドルレートを90.77円とした場合、3兆米ドル=272.331155兆円。

では、日本のコスト負担は幾らと試算されているか。

3070億米ドルである。同じく円ドルレート90.77円として27.823兆円なのである。

勿論日本以外の国々でも相当の負担を強いられている訳で本書ではそうした事も明らかになっていく。

しかし、それでもなおかつ、人の命に値段は付けられないけれど、派兵して死亡していくアメリカ兵の命は、アメリカ国内で交通事故に遭って死亡する人に比べると著しく低い保証金しか支払われていないと云う。

更にこの試算にはイラクやアフガニスタンにいて、戦争で亡くなる戦闘員・非戦闘員の人びとはコストに一切含まれていないのだ。

もう一つ非常に重要なのは”アメリカ観”だろう。

イラク戦争は他国のアメリカ観を変えた。従来、世界の人びとの多くは、アメリカに対して複雑な感情を抱いていた。経済的成功や民主主義の繁栄にたいする称賛と、強大な権力の濫用に対する怨嗟や憤怒は、相なかばしていた。しかし、現在ではこのバランスがすっかり崩れ、アメリカの一極支配を憎む気持ちだけがふくらんでいる。グアンタナモ収容所とアブグレイブ刑務所の不祥事によって、アメリカにたいする世界の好意は吹き飛んでしまった。民主主義と人権擁護の国であったアメリカは今、偽善とダブルスタンダードの国であるとみなされているのだ。

こうした独善的で傲慢な行為によって失われた信頼感の価値は如何ほどのものであり、そうしたツケを我々はどのように負担していく事になるのだろう。

アメリカ会計検査院長のディヴィッド・ウォーカーは現在のアメリカが滅亡直前のローマ帝国と”驚くほど似ている”と指摘しているそうだ。”遠い異国の地まで戦いに赴く自信過剰気味の軍隊や、無責任な財政運営に明け暮れる中央政府”など多くの共通点があるというのだ。

バラク・オバマは非常に困難な道のりであるが、アメリカのこれまでの政策の失敗を認めて改革を行う事を"Yes we can"と云う力強いメッセージを掲げて大統領に就任する。財政を立て直す事がどの位困難な話しなのかはこの本を読むと非常によく解る。

果たしてアメリカは立て直しを実現できるのだろうか。そして世界各国から信頼をよせられる国として再生できるのか。日本はどんな役割を果たしていけるのか。

正に衝撃の一冊でありました。

「世界の99%を貧困にする経済」のレビューはこちら>>

「世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠」のレビューはこちら>>

「 ユーロから始まる世界経済の大崩壊 こちら>>

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すばらしきアメリカ帝国(Imperial Ambitions)」
ノーム・チョムスキー ( Noam Chomsky)

2009/01/01:ジョン・ル・カレの「サラマンダーは炎のなかで」において触れられている民主主義の崩壊に対する危機感を共有する為に読むべき本として取り上げられていた一人がこのノーム・チョムスキーであった。早速その教えに従い、手にしたものがこの「すばらしきアメリカ帝国」である。

200ページに満たない小振りな本なので、パラパラと読めるのではないかと思っていたが読み始めてみると、

ジョージ・ブッシュ大統領は一年も経たないうちに、アメリカをひどく恐れられ、嫌われ、憎まれさえする国に変えることに成功しました。


といった内容ではじまるこの本は一文一文、一語一語が非常に重い現実を鋭くえぐり出してくる。そのため読み通すのには予想以上に時間がかかりました。

本書は、ディヴィッド・バーサミアン(David Barsamian)がノーム・チョムスキーに実際にインタビューした際のコメントから原稿を起こしたものなのだそうだ。しかもご本人には事前に質問を知らせたりはせずぶっつけでやっているという事だ。

インタビューであるが故に非常に纏めづらい。本書の話題の中心はイラク侵攻に際してアメリカ政府が帝国主義に基づく犯罪行為によって今や地球上で最も危険な「ならず者国家」になったと云う事である。その論証をチョムスキーは様々な情報を読者の前で紐解くことで明らかにしていく。

日頃ニュースを見聞きしていて、なんか変な話しだとか、嘘くさい話しだと思う事はいろいろあると思うが、チョムスキーのその鋭い思考に照射されるとそうした胡散臭い話しは全て分解され、その本質が明らかになってしまうのだ。

チョムスキーはこんな事を言う。

デイヴィッド・ヒュームに立ち返らなくとも理解できるはずですが、彼は次のような正しい洞察を行っています。「力は、いつでも統治される側にあるから、統治者には世論のほかに支えはない。よって政治の基礎となるのは世論のみである。そしてこの原則は最も自由で民意を反映している政府から、最も独裁的な軍事政権にまで及ぶ。」言い換えますと、民主主義であれ全体主義であれ、どんな国家においても、指導者は民意に依存しているのです。自分たちが支配している人々が、実は力を手にしていることを理解しないよう、注意しなければならない。それが統治に関する根本原理です。

アメリカの国家を統治している指導者はこの根本原理を理解し、世論をコントロールしている。

アメリカは9.11とイラク、イラクと大量破壊兵器など嘘くさい話しから戦争に突入してしまった訳だが、これは誤った情報に基づいて行動を起こしてしまったかのような言い訳をしつつ、中止するどころかはじめてしまった以上は和平まで責任を取るとやり続けた。

実は最初から本当の意図を隠蔽する為に9.11はイラク侵攻を実行する為に巧妙に利用したのである。

中東に和平をもたらすなんてそもそもアメリカ政府にはそんなつもりは毛頭ないとも言う。人口の過半数を占めるシーア派が主権を持った民主的な政府が樹立する事をアメリカが許すはずがないのは明らかだと云う訳だ。

そもそも石油供給のコントロールをアメリカ自身が握る為に派兵したのであれば、当然そんな選択肢はもともとない。そりゃそうだ。一方でアメリカが意のままに操れる傀儡政権を立ち上げても、兵を引き上げれば途端に転覆させられる事は明らかだとすれば、和平がもたらされた上での撤退があり得ない構図である事がわかる。こんなものは一分も考えれば解ると云うのだ。


アメリカの歴史には自分たちが抑圧されていると云う考えが一貫して存在すると云う、ちょっと驚くような指摘をしている。

アメリカ人が抑圧されている?

それはまず、「無慈悲なインディアンの野蛮人」によって撲滅寸前に追い込まれたアメリカ人にはじまり、黒人そして中国移民。国内ではマイノリティに抑圧され、国外では共産主義だったりした訳だ。

リンドン・ジョンソンはヴェトナム駐留兵に対しこんな事を言ったそうだ。

「世界には三十億の人間がおり、我々はそのうちの二億人にすぎない。十五対一で、圧倒されているのだ。力は正義という状況を許せば、彼らはアメリカに襲来し、すべてを奪い去るだろう。我々には、彼らの欲しいものがあるのだから」と悲しげに訴えた。帝国主義のもとで繰り返される決まり文句です。軍靴で踏みつけている相手の方が、自分たちを滅ぼしにかかっているというのです。

ではイラクの場合はどうだったのだろう。

全く同じなのである。

9.11でアメリカ本土が未曾有のテロ攻撃にあった。このままではアメリカは撲滅されてしまう。だから立ち上がるしかないと云う訳なのだ。こうした情報の操作による世論のコントロールは日常的に行われていると言う。

何故か。

「流行を追う消費行動のような、人生における表面的な事柄」へ関心を集中させる、「不毛の哲学」の導入によってそうするのです。公共の領域とは無縁であるべき大衆を、物事の進行を任されている者たちに介入させるな、というわけです。
この考え方をもとに、広告会社から大学までに及ぶ巨大な産業が育ちました。いずれも、態度や意見をコントロールしなければ人々は危険すぎるという強信念に基づいています。

本当の力は世論にある訳だが、一方で世論を構成する一人一人の人間は大抵の場合愚かで危険である。人間はそもそも獰猛で信頼できない危険な生きものである。なので、一部のエリート集団が国家を運営しなければならない。そうでないと世界は破滅してしまうからだろう。そのエリート集団が権力を握って実際にその力を行使していく為には、やはり根本原理に従って世論の後ろ盾が必要なのだと云うのである。

そう言われてみればと思い当たる妙なニュースは掃いて捨てるほど沢山あった。

なかでもピンと来たのはイラク戦争の死傷者数の話しだ米兵の死傷者は発表されるが、イラクの人々の死傷者は不明だと云うか数えようとしている気配がない。

ファルージャ制圧では初期に一般病院を占拠しています。重大な戦争犯罪です。「誇張された市民の死傷者数」を発表する、「同盟国軍へのプロパガンダ拠点」だったという理由が挙げられています。まず、どうして誇張されているとわかるのか?私たちの敬愛する指導者が、そう言ったからです。また、死傷者数を公表しているから病院を占拠するという発想には、胸が悪くなります。

国際法違反、侵略戦争、凶悪犯罪、人権侵害といったどのような原則によって「ならず者国家」を定義づけたとしても、アメリカは完全に該当します。

さらりとこんな事を言う。ちょっとインターネットで検索すれば確かにこれは日本でもニュースになっていた。僕も間違いなくこのニュースを読んでいると思う。しかし、見ても忘れてしまっている。見たときだって犠牲者数を隠蔽する為に病院を占拠しているとは考えなかったろう。

これも夥しい死傷者が出ている事がニュースになると都合が悪いからなのだ。

こうした政府の側に立って報道する事ほエンベデット(組み込まれた)・ジャーナリストと云うのだそうだ。従来のジャーナリズムとは違い、政府のプロパガンダをニュース報道の形で流していると云う訳だ。

これは第二次世界大戦後期にあっても日本の国内では、勝っているかのような報道を続けてきたのと全く同じだ。報道だけではない、このプロパガンダは企業や教育、娯楽の世界に密かに差し挟まれ人々はもう既に気付くことなくその水を飲んでしまっているのだ。

余りにも不気味な話しだ。人々は隠された意図によって創り出されたニュースを聞き感情や言動をコントロールされている。

アメリカが悪の枢軸と呼んだ北朝鮮をはじめとする幾つかの国よりも今のアメリカは非常に危険な存在となってしまったとチョムスキーは警告を発している。

もう一つ非常に気がかりな話題。それはアメリカの過激な宗教的信条の発露についてである。

アメリカで一般的に遭遇するような度合での過激な宗教的信条や不合理なコミットメントは、他の工業先進国には見られません。進化論を教えることを回避したり、教えている事実を隠したりしなければならないという発想は、先進国では特異なケースです。

統計の数字には驚かされます。アメリカでは人口の約半分が、世界が数千年前に創造されたと考えており、四分の一くらいの相当な割合の人々が、信仰を新にするほどの強い宗教的経験があるというのです。多くの人が「昇天」と呼ばれるものを信じ、大多数が奇跡や悪魔の存在といったものに確信を持っているのです。

こういったことは、アメリカ史において古くからありましたが、近年、社会的、政治的生活に、かつてないほど影響するようになっています。たとえば、ジミー・カーター以前は、アメリカの大統領は熱狂的な信仰心を装う必要などありませんでした。彼以降は一人残らずそうしたふりをしています。これは一九七〇年以後の民主主義をほんとうに蝕んできました。

アメリカはその起源から非常に信心深い国でした。ニューイングランドを開拓した過激な宗教原理主義者たちは、自分たちはイスラエル(神の選民)の子孫であり、彼らがアマレク人(古代パレスチナの遊牧民)の土地を掃討した際に崇拝していた軍神の命令に従っていると信じていました。ピークォット族(アメリカ先住民)の虐殺などの描写を読むと、聖書の最もジェノサイド的な章を抜き出してきたかのようです。

開拓者たちは実際に、そうした表現を頻繁に引用していました。西部への拡大は、聖書に起源を持つように見せかけた宗教原理主義者によって推進されていました。スペイン領は、異端信仰を破壊せよというスローガンのもとで征服されたのです。一般的に、過激な宗教的信条と産業化との間には、逆行する相関関係があります。近代化が進んでいるほど、宗教的過激主義へのコミットメントは少ないのです。とろこが、アメリカでは、この相関関係が完全に崩れています。こうした意味では開発途上国のようです。

ほんとうは「信心深い」という言葉は使いたくありません。組織化された宗教は神聖を汚す、と考えるからです。


チョムスキーはどこまでも淡々としている。顕現や啓示を大勢の人が経験していると主張していると云うのは一体どういう事なのだろう。上述の抑圧されていると云うレトリックとこの過激な宗教的信条の組み合わせはアメリカを暴走させかねない非常に危険なものであると感じる。

では、どうすれば良いのだろう。

民主主義社会の市民は「操作と支配から身を守るために、知的自己防衛の道を歩むべきだ」知的自己防衛とは単に、当たり前の質問を投げかける訓練をするというだけのことです。答えが瞬時に明らかになるときもありますし、少しばかり努力しなければ見つからない場合もあるでしょう。話題が何であれ、意見を寄せた者の百パーセントが賛成しているのを目にしたら、ただちに疑問を持つべきです。

与えられた事柄を、普通の常識で疑い、調べようとするだけでいいのです。

年金問題や道路行政。世論の操作は何もアメリカだけのお家芸ではない事が簡単にわかる。本書を読んでいて思い起こされるのは日本の驚くほどの類似だ。年金基金はどうして一方でちゃんと収支が管理されていないのに、将来の不足が明らかなのか。

日本の人口はまもなくピークを越えて減少に転じるのにまだまだ沢山道路が必要なのか。労働者派遣法がこんな形に改定されたのは一体何故で、この不況期の年末に足切りにあった派遣社員は寝る場所まで奪われているのかとか。政府はどうして弱者よりも大企業を守ろうとしているように見えるのだろうかとか。やっぱりちょっと変だと思う事には裏があるものだ。

普通の常識で疑い、ちゃんと調べる。確かに。

チョムスキーはこうした圧力と戦うには根気よくあたるしかないと述べている。一度意見を表明したりデモに参加したくらいで世界が変わる事はないと。根気よく反対の意見を表明し続けると云う事が大切だということですね。

ジョン・ル・カレが「サラマンダーは炎のなかに」で怒っているのはこうした圧力と欺瞞に満ちた、政府と企業に対するものなのだった。

歳を取って怒りっぽくなったみたいな解釈をしている人が雑誌に書評を載せていたけど、勘違いも甚だしい。

ル・カレが怒っているのはアメリカの政府や企業が密かに進めようとしている民主主義的でない、全体主義的なもの。かつて無いほど程巧妙に仕組まれた陰謀に対する怒りなのだ。

そしてそのル・カレが読め!と突きつけてきたのがこのチョムスキーなのであった。なんか引用だらけになってしまったけれど、いきなり質問されてこうした事をさらりと答えてしまうチョムスキーは凄い人だ。読み終わると世界が違って見えてくるようなこの本は是非とも読むべき一冊であります。

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ワールド・オブ・ライズ(BODY OF LIES)」
デイヴィッド イグネイシアス (David Ignatius)


2009/01/01:リドリー・スコットの映画「ワールド・オブ・ライズ」が公開中である。テレビでも頻繁に宣伝が流れている。

リドリー・スコットは「ブレード・ランナー」や「エイリアン」など大好きなものもあるけど、やや胡散臭いものも多々ある。胡散臭い。そう正にその表現が当てはまる時期と内容。「ワールド・オブ・ライズ」のように。

一体どんな内容なんだろう。気になる。なんて思っていたら原作がある事に気付いた。デイヴィッド イグネイシアス。「ウォール・ストリート・ジャーナル」や「ワシントン・ポスト」紙に務めていた事がある人らしい。また何冊か本を出しているようだがその評判すら聞いた気がしない。凄く胡散臭い。余りに胡散臭いので読んでみることにした。

冒頭の著者覚書。

本書で描かれている戦争は、まぎれもない現実である。しかしながら、本書はフィクションであり、登場人物、事件、公共機関は空想の産物だ。

もうホント超胡散臭い。なんだよこれ。

物語は映画ではレオナルド・ディカプリオが演じている主人公ロジャー・フェリスの発案でCIAの工作員に偽装した死体を用意しようとしているところからはじまる。

これまた映画では、ラッセル・クロウ演じる上司のエド・ホフマンはナポリの休暇中にウィンドサーフィン中に事故で溺死した男性の死体を棺から盗み出し、この死体をCAI工作員ハリー・ミーカーと云う実在の人物であったかのようにメールをしたり、チケットの予約をした形跡や携帯電話等の持ち物から着る物までにもこと細かに配慮して偽装しようとしている。

アンマン支局のロジャー・フェリスはヨルダンの情報機関GIDがベルリンで行おうしているある作戦に同行している。GIDの長官であるハニ・サラームのたっての要請であり、実行にはこの長官が直々に参加しようというものだ。

彼らはうらぶれたアパートに踏み込み、アルカイダとも接触があるとされている一人の男を拘束する。ハニは用意周到な手段を用いて、この男をあっという間に懐柔してしまう。

ヨルダンのGIDはこの男を使って追いつめようとしている相手がいるようなのだが、フェリスには教えてくれない。しかし、わざわざベルリンにまでフェリスを呼び寄せたことから、フェリスが追っている相手と同じである可能性があると感じる。

それはフェリスの片足を不自由にしたスレイマンと呼ばれる男なのだった。

イラク・バラドはフェリスの最初の海外赴任地であった。ここでフェリスは最初にスレイマンの名前を知った。

たまたまフェリスの運転手をしていたイラク人のもとに旧友であり、アルカイダのメンバーである人物が助けを求めてきたと云うのだ。その男はニザールといった。

注意深くニザールに接触し、情報を引き出すと紛れもなく本物のアルカイダであった事がわかった。ニザールはある日幹部から最近頻繁に起きている自動車爆単を運ぶ殉教作戦を命じられたが、恐れをなして逃げ出してきたと云う。

この爆破事件の作戦を指揮している幹部と云うのが「スレイマン」なのだった。フェリスは何とかしてニザールを保護しようとするが、CIA本部にいるホフマンの判断は「泳がせろ」。

仕方なく、フェリスは報酬を払い、アメリカに移送するが準備が整うのまで少し待つようにと言い含めてニザールを帰す。しかし、翌日ニザールは死体となって発見される。ニザールの隠れ家に向かうフェリスだったが、そこには待ち伏せしている者たちがいた。不穏な気配を感じその場を脱出しようとするフェリスだったが、相手はRPGで攻撃してきた。

間一髪生き延びたフェリスだったが、彼の片足は一生もとには戻らない深い傷が残されたのだった。

フェリスは「スレイマン」を追ってアンマンに向かい、そして冒頭の偽装した死体を作戦に投入しようとしてるらしいのだ。

この先ももう少し、全体の1/3位まではなかなか読ませる。

しかし、物語は以降急速に立ち止まってしまう。フェリスの奥さんとのごたごたを初め読者としての僕の好奇心とは全く関係がない描写が延々と続きスピード感がないまま失速していってしまうのだ。映画はどうなのか知らないけど、本書はストーリーとしてもまるでダメでした。

そもそも「スレイマン」をジョン・ル・カレの「カーラ」のような人物であると云うような厚かましいにも程がある書き方をしている。何度か車爆弾を仕掛けた事があるらしいテロリストとカーラが同じだとしているこの「同じ」って一体どう言う意味だろう。最初から最後までスレイマンは薄っぺらなキャラなのよ。正に虎の威を借る狐である。

どう読んでも大物には見えないスレイマンなのだが、それに対するCAIは嘘の死体ばかりかプレデターで捜索してるわ。同盟国をも欺くわ。挙げ句には自分の基地に爆弾を仕掛けるはと、なりふり構わぬ愚かな行為に走っていく。

また、作者は途中でエド・ホフマンにこんな事を言わせる。

「アメリカは、この国に多額の投資をしている。だから、こちらの好きなようにしてもいいはずだ。」


更には、フェリスの奥さんであるグレチェンも必要以上に俗物的で傲慢さの権化的キャラクターとして登場する。しかし、それはフェリスの行動を正当化させる為の意味合いにしか感じられない。映画ではどうか知らないけど、このフェリスだってなんだかんだ云ってアメリカの国益の為には外国人の命を「仕方ない」と切って捨てているようなヤツなのだ。

何か下手くそな嘘を聞かされているような気分なのである。

それにしてもこのデイヴィッド イグネイシアスってどんな人物なんだろうと調べてみたら、ウィキペディアにちゃんと記事が載っていた。まずもってこの人の父親はポール・ロバート・イグネイシアス(Paul Robert Ignatius)であり、彼は、1967年〜1969年米国海軍長官、ジョンソン政権下では副国防長官を務めた人物である。

そして、デイヴィッド イグネイシアスご本人だが、1950年生まれで冒頭にも書いたが、ウォール・ストリート・ジャーナルやワシントン・ポストでコラムを書いたりしていた人なんだそうだ。

そしてなんと同時並行して読んでいた、ノーム・チョムスキーの「すばらしきアメリカ帝国」にも彼の事が載っていたので紹介しよう。

大量破壊兵器、アルカイダとイラクとのつながり、イラクと9.11との関連といったイラク侵略の前提が崩れた今、ブッシュのスピーチライターたちには新しい思いつきが求められていました。そこで、中東へ民主主義をもたらすという救世主的ヴィジョンを捻り出したのです。ブッシュがスピーチで新たなヴィジョンを持ち出すと、『ワシントン・ポスト』紙の主要コメンテーターであり、編集記者としても評判の高いデイヴィッド・イグナティウスはすっかり畏敬の念に打たれてしまいました。

彼によればイラク戦争はおそらく、『現代における最も理想主義的な戦争』であり、「大量破壊兵器やアルカイダのテロリストにまつわる紛らわしい誇大宣伝にもかかわらず、その首尾一貫した唯一の理論的根拠は、独裁者を倒し、民主的な未来の可能性を創出することにあった」のです。イグナティウスによると「民主主義的将来」のヴィジョンは「主任理想主義者」ポール・ウォルフォウィッツが先導しています。彼はおそらく政権のなかで最も極端な民主主義嫌いの経歴を持つ人物。

なのだと云う。カナ表記が違っているけれど経歴から見て同一人物である事は間違いない。

勘違いしないように追記するとポール・ウォルフォウイッツ(Paul Wolfowitz)は時の国防長官のドナルド・ヘンリー・ラムズフェルド(Donald Henry Rumsfeld)とともに「中東民主化」と云うでたらめな大義名分の下、イラク戦争を強行に推し進めた男だ。

つまりとても民主主義とはほど遠い考えに基づき、実現するつもりは毛頭ない中東の民主化と和平と云う大義名分で他国へ侵略し、抵抗勢力はすべてテロリスト呼び、予防戦争と云うこれまた自由主義に真っ向から対立する、つまり考えているだけでも危険で許されないので攻撃しちゃうアメリカ。そしてアメリカが正しいとする事以外はすべて間違っていると云う独善的な考えを隠蔽する事によって利益を得ている体制に乗っかっているヤツだと云う事だ。

早い話がろくなヤツじゃないのだ。

「すばらしきアメリカ帝国」でノーム・チョムスキーはエンベデット(組み込まれた)・ジャーナリストについて言及している。このエンベデット・ジャーナリストとは米軍の完全統制下で活動する報道関係者の事で、政府のプロパガンダ要員である事と同義であるというのだ。


このエンベデット・ジャーナリストが今度はエンターテイメントの世界にひっそりと忍び込んできていると云う訳だ。

正にワールド・オブ・ライズ。信じられるものはどんどん少なくなってきているのだ。アメリカの後を追い続ける日本。同様のことがもう既に始まっていたとしても全く不思議はないでしょう。

心あるもの努々油断するなかれ。

余談だが、訳者あとがきの

本作のように、アラブやイスラム教徒を非難するものは少ない。嫌うどころか、ロジャー・フェリスはアラブ世界を愛しているのだから。

の一文は何度読んでも意味不明でした。愛しているからこそ非難しているとでも云うつもりなんでしょうか?アメリカ政府が愛しているアラブはアメリカの言いなりになるアラブだと思うけど。

ついでに言うと恐らく"Thumd Drive"を「親指ドライブ」と翻訳されてました。これはUSBメモリとかフラッシュメモリだよね。あと「真珠を撮る」とか。

サブプライムに端を発した急激な不況とアメリカの凋落ぶりは去年のお正月には想像する事すら難しい程である。

2009年の年始めに象徴的な意味も込めて本書からスタートである。


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