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誰よりも狙われた男(A Most Wanted Man)」
ジョン・ル・カレ(John le Carre)

2013/12/31:今朝はカミさんの送迎と買い物を済ませて11時漸く自宅に戻ってパソコンに向かっております。いよいよ2013年も大晦日です。ってどこかで書いたなーと思ったら去年の大晦日もル・カレの本で年を越していた。読み返すと今年もまったく同じ状況。年末・年始にごろっとなって読もうと思って買った本を我慢できなくて読み切ってしまっているところまで同じだ。

これってつまり全くもって平穏無事で幸せな事ですね。
ところでその前の「ミッションソング」も12月だった。ル・カレは冬の読み物なのかしらん。最新作の"A Delicate Truth"の訳出出版が待ち遠しい訳だが、来年の12月まで待たせる気じゃないよね。

映画「裏切りのサーカス」は好評で、その続編企画も進行中らしい。文庫本では「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」、「スクールボーイ閣下」そして「スマイリーと仲間たち」が新訳で出版されるなどオールドファンにとってもこの盛り上がりには期待したいところであります。これらの本や映画を今の若い人が読んだり観たりしてわかるのかという一抹の不安はあります。ル・カレに挑戦される方はいきなり昔の本に取り付くよりもこちらの本ような新しい方の本から入られるのがよろしいかと思いますよ。

ところで冷戦時代のスマイリーものはすべて早川だった訳だけど、「パナマの仕立屋」、「シングル&シングル」、「ナイロビの蜂」で集英社が入ってきて、近年は光文社、岩波書店も入ってきて混戦となっている感じだ。

本作、「誰よりも狙われた男」は久々の早川ということなのだけど、本作が出たのは2008年、2010年に出た「われらが背きし者」が去年訳出されているので岩波に先を越された感じになっている。

出版界でどんな戦い?が繰り広げられているのかも気になるところだけども、読者として出遅れてしまったこの「誰よりも狙われた男」はどんな作品だと解釈されているのかがとっても気になろうというものである。
作品の内容自体に出来るだけ触れないように頑張っているとついついこんな事にも目がいくようになってしまうのでありますよ。

ということで「誰よりも狙われた男」であります。何時いつもながらネタバレはありませんが、未読で今後読む予定のある方はこの先は読まない方がいいですよ。

舞台は9.11後のハンブルグ。ハンブルグは二つ目のグランドゼロだという。それは9.11の実行犯を見逃したからだ。そのため現地の情報機関の信頼は文字通り瓦解し、瓦礫の山となったのだった。

勿論ドイツ政府もその裏に潜む情報機関も9.11事件には何の関与もしていなかったが、アメリカ合衆国がイスラム過激派に攻撃される事態に陥ったことにも本来的には無関係だった。

しかし、ハンブルグは実行犯を見逃し、ドイツには過激派たちのターゲットとなり得る合衆国の軍事基地がある。つまり大変微妙な立場に追いやられたのだった。そして否応なしにこの事態になんらかの姿勢と対応が必要となったのであった。


そんなハンブルグにある実際には法的権限の外側にある情報機関の支局のレーダーにかかったのはイッサと名乗る一人の若者だった。

満身創痍の身を黒いコートで包んだ長身痩躯のこの男は、街で出会ったトルコ人の家庭に拾われるようにして保護されたのだった。

イスタンブールの刑務所に居たというイッサがぽつりぽつりと語ることには、コンテナ船でコペンハーゲンに行こうとしたところ船がヨーテボリに着いてしまい、そこからトラックに乗ってハンブルグに密入国してきたというのだ。イッサの願いは神様のご加護の下で医者になること。

しかし彼はチェチェン人だった。しかも飛び切り複雑な過去を持っている男だった。

豊穣な背景を持って浮かび上がってくる登場人物たちのすばらしいこと。イッサ、そして彼を保護するトルコ人のメリク、その母レイラは勿論、プライヴェートバンカーのブルー、弁護士のアナベル、そしてハンブルグの情報機関の者たちですら一個の人間として実在を感じさせるほど深い人格を持って動き出していく。
近年のル・カレの本同様僕たちはこの登場人物一人一人をつい愛さずにはいられないだろう。その意味で本書は愛すべき登場人物最多だ。

僕らは彼らが交錯していく人間関係に浸り、おろおろと右往左往し、イッサの無垢な言動についつい涙を流したりしてしまうのだ。

しかし僕はもう知っている。この時、ル・カレはぎりぎりと弓を引き絞っているのであるということを。そして最後に放たれる矢は勿論とても痛いところを突いてくるつもりなのだということを。

僕らの世界を一変させたのは9.11の事件を起こしたイスラム過激派か。イスラム過激派をしてあのような行為に走る事態に追い込んだアメリカ合衆国か。中東情勢はますます混迷の輪が拡大複雑化していくなかで、僕ら認識はイスラム圏と非イスラム圏とに二極化されたものへと単純化されつつあるようにも見える。

この世界で生きていく以上僕らもどこかで必ず白か黒かどちらかに色分けして線を引き、黒いものを遠ざけ排除する方向で行動するしかないのだろうか。いつから僕らの世界はそんな頑迷で容赦のない場所になってしまったのだろう。

ブルーは言う、「5パーセント悪くない人間がいるなら教えてほしい」と。

物語はフィクションだがここに提示された問題は紛れもなく現実のものだ。強烈な余韻を残す本書は勿論2013年のベストでありました。

ということで来年もよろしく。


「シルバービュー荘にて」のレビューはこちら>>

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東京 下町山の手 1867-1923
(Low city, high city: Tokyo from Edo to the earthquake)」
エドワード・サイデンステッカー
(Edward George Seidensticker)

2013/12/28:今年は50歳の大台にのり、結婚25周年で息子が20歳になるという節目づくしの年でありました。いつものことではありますが、駆け抜けてきたこの一年もいよいよ残すところあと、三日。慌しかった師走も昨日で仕事納めとなり、今朝は腑抜けとなって呆然としております。

さて、エドワード・サイデンステッカーの「東京 下町 山の手」であります。この本で僕はサイデンステッカーという方の事をはじめて知りました。

エドワード・ジョージ・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker)は1921年2月11日、コロラド生まれ。海軍日本語学校で日本語を学び、第二次世界大戦の際に海兵隊員として日本に進駐した。帰国後さらに日本語を学び、連合軍最高司令官付外交部局の一員として再来日。その時に東京大学で日本文学を学び、数々の日本文学の英訳を行った。

川端康成の「雪国」がノーベル文学賞を受賞したのはこのサイデンさんの働きが大きかったのだそうで、実際、川端康成はサイデンさんに賞金を半分渡したという。

2006年には日本に移り住むものの、翌2007年、不忍池で散歩中に転倒したことがもとで亡くなっていたのでありました。

いつか読もうと思っていたドナルド・キーンだが、その先駆者的な方でもあったというのだからただもうびっくりであります。キーンさんは度々メディアで目にするがこのサイデンさんはあまりお見かけした記憶がない。しかし、この方はとんでもなく凄い方であったのでした。まったく自分の無知を思い知らされる日々です。
今はどうかわからないけども僕らの時代の日本史の学校教育というものは江戸期に入ったあたりから急にうやむやな感じで終わってしまう感じでとっても消化不良だった。現在の在り様を理解するためにも近代史をきちんと学ぶことは絶対に必要なことのはずなのにこれは非常に中途半端というか。大問題だと思う訳だ。で今更だけどちゃんと知りたいと思って内外の近代史の本を読んできた。


 江戸は、そもそも「東京」に改名されてなどいないと主張する学者もいる。極端な議論には違いないが、江戸は今でも江戸であって、慶応四年七月の詔書の主旨は、「江戸を称して東京とし、京都を称して西京とせん」というところにある---つまり西京京都に対して、東京江戸と称すべきだというのである。さらに問題をややこしくするのはその読み方で、「東京」は「トウケイ」とも読める。明治の初期には、現に両方の読み方が使われていた。

本書を読んで先ず驚かされるのは江戸末期から明治大正へと進む日本の文化価値観に関するサイデンさんの造詣の深さだった。まるで見ていたかのような深い理解。外国人でしかもその時代の人ですらないことがまるで信じられません。

 いずれにしても江戸に残った町人たちは、はたして天皇が東京に住まうことになるのかどうかわからなかった。経済活動が麻痺してしまっている以上、娯楽もまた、当然のことながら事実上活動を停止していた。慶応四年の初め、劇場は閉鎖され、吉原に通う人もほとんどなかった。官軍は江戸を目指して東上の途次にある。維新とはいいながら、これはやはり革命であり、この革命軍が旧体制の首都に対してどんな処置を取ろうとするのか、まだ誰にも知る由もない。江戸は、この新しい世界を誕生させるについてはなんの力も貸してはいなかったし、進軍してくる官軍のほうでもまた、江戸がこの西南諸藩軍の趣味や作法について、侮蔑の念しか抱いていないことはよく承知していた。江戸の町には、憂鬱な不安が立ち込めていた。

そうそう、これだ。こういう激動の時代の真っ只中にいた江戸の人々の様子が知りたかったのだ。そして何がどうして江戸時代を終わらせ、明治・大正へと進んでいったのかをもっと具体的に詳しく知りたい。当時の人々はどんな光景の中でどんな気持ちや思いを抱きいていたのか。今この自分が暮らしている場所でどんな出来事が起こったのか。

いつしかそんな興味が、会社帰りや週末の自転車であっちこっちと彷徨い目にしたもの、自分の足で踏みしめた場所と歴史が結びついてく喜びへと昇華してきた。

本書はそんな僕の興味のそのさらにずっと先にある世界をこれでもかとばかりに繰り出してくる。明治維新、大震災、そして度重なる大火災によって古き江戸は引き剥がされるかのように奪い取られてきた。一方でこうした強引で有無を言わせぬ破壊が新しい時代を切り開いてきたことも事実だった。

こうした時代変遷を丹念に追い、そこで失われ、または新たに生まれてきた文化・風俗、価値観や思想、そして建築。サイデンさんに抜かりはない模様です。僕はこの本で得た知識をぼろぼろと落としながらまた自転車で走り回ることになりそうです。

 日本銀業の建物は、明治の建築史上新しい時代の始まりを画したものとさせる。これを皮切りに、日本人建築家が外国人の援助をまったく借りず、ヨーロッパの古典主義様式に倣って設計し、建築し始めたのである。たしかに一般的にはそう言ってもまちがいはないと思うけれども、実は小さな例外がないわけではない。日本銀業竣工の5年前、永田町の参謀本部の敷地内に小さな建物が建った。日本最初の石造の建築とさせるもので、およそ記念碑的な壮大とはほど遠い建物ではあるが、古典主義様式であることは紛れもない。僅か二間四方の建築物で、中に水準原点の標石を納めている。この原点は大震災の後、86ミリも下がったといわれる。

一体どうやったらこんなに広く深く物事を調べることができて、それを更に理解することができるのだろうか。これほどまでに地誌学的な情報の海にどっぷり浸かることのできる本はそうそうお目にかかれるものではないと思います。

もともと好きだった自転車とフィールドワークが結びつくことで頻度も距離も伸びて体力も増進、健康検査値も改善。お陰で元気でストレスもなく仕事をしております。お陰で家族も無事安泰。まったくの偶然に辿りついた道だけれどもこれは本当に自分向きの活動でした。週末の自転車を踏む時間は人生の宝なのかもしれません。


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米州救出(Saving the Americas:
The Dangerous Decline of Latin America
and What the U.S. Must Do)」
アンドレス・オッペンハイマー(Andres Oppenheimer)

年末も押し迫っているなか二冊つづけてババを踏み、あげくにページのデータが壊れて四苦八苦するとは。とほほな週末であります。

貧困との闘いにおける良いニュース

 詳細に入る前に、グローバリゼーションが世界の貧困を増加させたとの多くの反グローバリゼーション派の黙示録的な見方に反して、逆が真実であると記録として残すために述べておこう。世界の貧困---いまだ受容できない高い水準にあるが---は、過去数年間にラテンアメリカを除くほとんどどこにおいても大幅に減少した。

グローバリゼーションは、世界における貧しい人々の割合を増加させるためのものでは決してなく、貧困を劇的に削減することを助けたのである。過去20年間に極貧---1日1ドル以下---の中に住む世界の人口の割合は、40%から19%に下落した。一般的に世界の貧困---1位2ドル以下で生活する人々の割合---もこれほどではないが削減された。貧困は1981年における世界の人口の67%近くから2002年には、50%に下落した。言い換えれば、世界は私たちが望むほど速くではないものの、より良い場所になりつつある。


へー。だ。この本は2007年に書かれた本で、紀元前2000年の頃の話をしている訳でも他の惑星の話をしている訳でもない。他ならぬこの地球の今この現在の話をしているのである。

2000年度『人間開発報告書』によれば1日1ドル以下で生活している絶対的貧困層は、1995年の10億人から12億人に増加。世界人口の約半分にあたる30億人は1日2ドル未満で暮らしているという。

そもそもこの絶対貧困層というものの定義自体も批判が多く、現実に生活に援助が必要な人々の数はこれを上回る数に上っていることは一般常識だと思うのだが。

最近の貧困層とその人口分布に興味がある人は自分で調べましょう。定義が1ドルなのか1.25ドルなのか2ドルなのか、或いはもっと他の定義を導入すべきなのかで意見は割れているものの、全体で減ったなどというデータはまず見つからないと思うよ。

<目次>

日本語版のための序文

第1章 アジアの挑戦
第2章 中国の資本主義熱
第3章 アイルランドの奇跡
第4章 新しいヨーロッパ
第5章 決してなかった「基本的な約束」
第6章 アルゼンチンのマラドーナ症候群
第7章 ブラジル―南の巨人
第8章 チャベスのナルシシスト・レーニン主義革命
第9章 メキシコの政治的麻痺
第10章 新世紀のラテン・アメリカ

このおっさんはマイアミ・ヘラルド紙の有名なコラムニストで隔週に発行されるオッペンハイマー・レポートはアメリカ・ラテンアメリカの主要60紙に掲載されているのだという。

どこを読んでもえらそーに書かれている本書からうかがい知れるそのコラムをありがたく読んでいる人が貧困層にあたる人でないことは間違いないだろう。

ラテン・アメリカはアメリカの過去の歴史を水に流して手を結び、市場を自由化し国内の既得権益を多国籍企業に明け渡すべきだ。そうすることで国は豊かになるのだ。

過去の歴史にこだわったり、既得権益を護るために市場を閉ざしている支配層こそが誤った考え方をしているのだ。

つまりはこんな感じの事を繰り返しているようだ。

これらの内容を鵜呑みにしている人がいるということも薄ら恐ろしい話である。ラテン・アメリカでも読まれているというのは不気味としか言いようがないが、これを読んでアメリカに対して怒りを掻き立てるためにみんなで読んでいるのかもね。

辛抱して最後まで読みきりましたが、あまりにも狭量で頑迷。現実がまるで見えなくなっている人ってこんな感じなんだなーと大変お勉強になりました。

完全に履き違えて手にした自分が間違っておりました。責めるべきは己のおろかさのみであります。

昨日、ヒストリーチャンネルでは「麻薬戦争」に絡むドキュメントが放送されていました。観てて驚いたのはメキシコでは麻薬戦争が激化し、それがアメリカの国境を越えてきているという話なのだ。

国境付近で牧場を営むアメリカ人の父親がインタビューに答えている。

「眠れない」

「生活がめちゃくちゃになった」

つまりいつメキシコから悪意を持った人々が襲ってくるかわからないという訳だ。

同地区の州警察の警官はメキシコとの国境は一つの川であって、乾季には歩いて渡れる場所であることを指摘し、こんな事が放置されていいはずがないと言う。そして付近の人々に武装することを勧めているというのである。

勿論メキシコが生産する麻薬の殆どをアメリカ国内が消費していることについても問題提起しているのではあるけれども、この隣国に対して「別れたくても別れられない夫婦」と例えるアメリカ人の歴史認識には重大な欠陥があると思うのだけど、いかがだろうか。

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清掃魔(THE CLEANER)」
ポール・クリーヴ(Paul Cleave)

何度も書くけど、すこし遠ざかっていたミステリー分野にもう一度浸ろうということで、積極的に本を漁りはじめました。が、しかしである。漁るとか探すという前に選択肢が少ない。全体的にスカスカな感じだ。もしかして僕が探している場所が悪いのだろうか。

選ぶのに苦労しながらでてきたのが、これ「清掃魔」。ニュージーランドの作家が書いたスリラーだという。ドイツなんかではベストセラーになったりもしたようです。相当胡散臭い気配なんだけども読み始めてみました。

主人公ジョーはクライストチャーチを震撼させているシリアルキラー。サイコパスな彼は普段は知的障碍者を装い、警察署の清掃員を務めているのだが、夜になると服を着替え、ナイフと拳銃を忍ばせたブリーフケースを片手に車を盗み、獲物を見つけては殺していた。

これまでに少なくとも7人が殺されているということで警察は躍起になって捜査を行っているが、犯人のプロフィールも有力な証拠も得られていない。犯人が単独犯なのか複数犯なのかすら掴めていないのだった。

しかもその捜査状況は清掃員となって署内をうろつくジョーに筒抜けだった。

そしてこの捜査対象となっている事件のなかに一つジョーの手によるものではない犯行が含まれていた。明らかに連続殺人を装っている事件。

俺に罪をなすりつけようとしている奴がいる。

ジョーは捜査資料を盗み出し、犯行現場に立ち入り真犯人を探すことにする。

良し悪しはともかくこの設定は斬新なものがあったと思う。しかし、物語の推進力が決定的に欠けていた。真犯人を探すとしながら自ら犯行を重ねてもいく主人公に誰が感情移入して読むのか。そもそも相手はサイコパスだし。

どうしても一歩引いたところから物語を俯瞰していくことになる訳だけど、犯人を特定できない警察に潜入しているジョーが真犯人を絞り込むことができるのかどうかとか。次から次へと登場するこれまたぶっ壊れたキャラクターにクライストチャーチというところは一体どういうところなんだとか。

珍しい国の本を読むときに付随的に表れるのが異国の文化や景観や風俗だったりするのだけれども、このジョーは一人称で自分の思っていることしか語らないのでクライストチャーチが舞台であることも殆ど関係がない感じだ。

次々に起こる出来事は予想外という以外にないけども、それを笑って読む本だったという印象です。
このポール・クリーヴにはスティーヴン・キングの「書くことについて」をじっくり読むことを強くお勧めします。


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オバマの戦争
(Obama's Wars:
about the Obama administration's handling
of the wars in Iraq and Afghanistan)」
ボブ・ウッドワード(Bob Woodward)

唯でさえ師走の忙しいところに風邪をもらい体調不良の週末であります。このことをプログに書きましたが、そのあまりの取りとめのなさに愕然。この調子で本のレビューなんて書けるんだろうか。ほったらかして寝てしまいたい気持ちで一杯ですが、しぶとく頑張るよ。

ボブ・ウッドワードといえば、ウォーターゲート事件で一躍有名となったジャーナリストであります。この事件を映画化したものが『大統領の陰謀』で、ボブ・ウッドワードの役を演じたのはロバート・レッドフォードでした。

この時訴えられていた「報道の自由」はとても輝かしくて一点の曇りもなく、公正で誰からみても「正しい」価値観が信じられていたと思う。僕もそう信じていたさ。

そんなボブ・ウッドワードの本はこれまで沢山出されているけれども僕は全然読んだことがなかった。日本では安倍政権が秘密保持法を数の力でごり押しして行こうとしている最中、「オバマの戦争」は時節にあった本かもしれないと思い手にとってみた次第でした。

本書はオバマ大統領が就任する直前の2008年11月にブッシュⅡの前政権から引き継いだ中東・特にアフガニスタンとパキスタンの国境地域の不安定な情勢という最優先課題に対する取り組みを描いたものだ。

就任直前、イラクとアフガニスタンに従軍している米兵は19万9千人。しかし戦況はパキスタン国境を跨ぐ形でひろがる部族支配地域に移っていた。

この地域は、2006年9月に、パキスタンがタリバンと結びつきの強い族長に売り渡したことで無政府状態に陥り、ウサーマ・ビン・ラーディン、アルカイダ組織網、反政府勢力タリバンの過激派が跋扈する無法地帯と化していたのだった。


 現地の状況をつぶさに調べたルートは、およそ10種類もの別個の戦争が重なり合って進行していることを知った。まず、NATO戦域軍を指揮するカナダ軍の将校が執り行っている通常の戦争、つぎに、CIAが行っている秘密の軍補助工作員による戦争、また、陸軍特殊部隊と統合特殊作戦集団も、最重要ターゲットを捜索するというそれぞれの戦争をやっている。さらに訓練・補給部隊も、それぞれの作戦を進めている。アフガニスタン国軍、アフガニスタン国家警察、CIAが支援する情報機関であるアフガニスタン国家治安本部も、それぞれ異なる戦いをくりひろげている。

パキスタンはインド国境、インドは中国国境でもキナ臭い煙を立てており、中国は尖閣諸島などで日本やアメリカに対して傲岸不遜な態度を見せており、それぞれの利害衝突は個別のものだが、全体では一枚に繋がった絵として理解すべきものなのではないかと思う。

しかし何よりも重要なのはアフガニスタンに対する歴史認識だろう。ソ連が共産化と無宗教な社会システムを導入せんとしてアフガニスタンに侵攻してきたのは1973年。クーデターにより大統領に就任したムハンマド・ダーウードと手を組みイスラム主義者達を弾圧しはじめたところから始めるべきだろう。

中東の共産化に対する危機感を募らせた欧米はイスラム主義者たちの支援を開始し、ムジャーヒディーンたちを目覚めさせた。ソ連軍が寺院を破壊し宗教の自由を奪おうとしているところを突いたのである。

加えてこのソ連に抵抗する者たちに麻薬の栽培と精製方法を伝授したのも欧米だった。ソ連軍の戦闘能力を内部から瓦解させるための作戦の一環だった。

結果アフガニスタン情勢は泥沼化し、1989年のソ連撤退を実現した。しかし、結果そこに残ったものは、氏族間で争いあうイスラム原理主義者たちの荒野であった。

自分たちが武器を与え、闘い方を指導してきたイスラム主義者たちはいまや欧米に対しても反旗を翻し過激なタリバンやアルカイダのようなテロ組織として生まれ変わり、頑迷なイスラム原理主義者として刃向かってきているというのにこの荒野は正に手付かずのまま放置された形であった。

このアフガニスタン:パキスタン国境地帯にオバマ政権はどのような手を打っていくのか。本書はオバマ大統領とオーバルオフィス集まる政府中枢の人々の姿を克明に描き出していく。

大統領選をイラク・アフガニスタンからの米軍の早期撤退実現をスローガンにし、どうした訳か何かする前に「ノーベル平和賞」を与えられたオバマ大統領にしてみれば青天の霹靂であり、出口戦略のないアフガニスタンへの増派は自己矛盾の最たるものであった。

あくまで有限期間内で和平・撤退を前提とするオバマだったが、パキスタンもアフガニスタンも政府が徹底的に腐敗しているという実態があった。

しかし出口戦略を求める相手を国防省にしか見出せず、急峻な土地柄を生かしてソ連と対峙し敗退に追い込んだアフガニスタンの戦況に対して明確な返事を出すことができない軍幹部たち。

政権首脳たちぱかりかオバマ自身も従軍経験がなく、皆弁護士ばかりで、また現地に対する知識も経験も欠けていた。

まして現地政権の腐敗を解決するのは軍の仕事ではなく抜本的な打ち手も見えないまま検討は暗礁に乗り上げていく。

まるでその場に居合わせたかのような臨場感のあるやり取りを再現するのはボブ・ウッドワードの従来の手法を踏襲したものになっているようだ。これらの情報源は常に伏せられているものの、本書に限って言えば、海兵隊大将で国家安全保障問題担当大統領補佐官を勤めたジェームズ・ジョーンズではないかと見られているらしい。

確かに生身の人間として逡巡するオバマの姿は一見の価値はあろう。しかし、ただ只管長い。これで全米No1のベストセラーだというけども、これを買っている人たちは本書から一体何を読み取っているのだろうか。

上に書いたようなアフガニスタンの歴史的背景がつまびらかにされる訳ではない。アフガニスタンにせよ、パキスタンにせよ、信頼に足る政府機関・政治家そして社会を生み出すためにはどんな努力が必要なのかについても語られることがない。増派することだけを議論していたわけではなかろうが、それについてもやはり語られることがない。

まして本書に決定的に欠けているもの、それはアフガニスタンに増派するためのそのアメリカの動機そのものだ。

オバマ政権は、ソ連が抜けた穴を埋めるべくして埋めるために出て行くのだろうか。地域の情勢の不安定化を招いた責任を取ろうとしているのだろうか。それとも頑迷で凶暴なテロリスト集団を生み育ててしまったことに対する責任を取ろうとしているのだろうか。

勿論書けない部分もあったろうと思うのだが、この決定的に動機付けが希薄なまま進む議論に僕は正直辟易してしまった。

ましてどうすればよいのかという部分にこのような一部の人間、しかもどう見ても偏った専門性しかもち得ない人が集まって意思決定をしているところに恐ろしいほどの違和感を持った。

イスラム教の教えと歴史に深く根ざして現地を統制している氏族社会の価値観や歴史観にも全く踏み込めていないというのも杜撰な思考だと思う。

2011年5月にオバマ政権はパキスタン領内に潜んでいた、ウサーマ・ビン・ラーディンの隠れ家を急襲し、処刑とも取れるやり方で殺害した。

事後オバマは記者会見で「正義はなされた」と述べたが、先のウォーターゲート事件の頃のような曇りのなさからはほど遠い空虚な響きしかなかったと感じた者は多かったのではないだろうか。そして大半の想像通り中東における和平はこの事件の後も遠のくことも近づくこともなかった。

果たして世界は今後どちらの方向へ進んでいくのだろうか。その舵取りに大きな影響力を持っているアメリカの中枢の「会議の進め方」があんまり上手じゃなかったということは僕らの不安をただ大きくしただけであって、やはりここでも「報道の自由」のあり方について考えてしまうのでありました。

ましてこの程度の議論をしているのかしていないのかわからない日本政府の秘密ってどんな秘密なんだとお粗末な事態をひた隠すだけの手段になってしまうのじゃないかとつい思っちゃいますけども。


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ヒプノタイジング・マリア
(HYPNOTIZING MARIA:A Story)」
リチャード・バック(Richard Bach)

僕にとってリチャード・バックの「イリュージョン」は最も大切な一冊だ。出会わなかったら確実に今の自分とは違う人生を歩んでいたとすら思う。随分と後になって気づいたのが僕らの世代でこの本に影響を受けている人が実は大勢いたらしい。それは正にスティーヴン・キングが言う作者のテレパシーを受信した読者がさざなみのように同期・共鳴していったのだと思う。その様子を鳥瞰したられこそ奇跡そのものだったろう。

バックは世間の人々が自分の書いた本によって人生の軌跡を変え、バック本人をドナルド・シモダであるかように崇拝したり、突如銀行口座がパンクするほどのお金が流れ込んできたりすることで、テレパシーの広がりを強く自覚したのではないだろうか。

結果、やや居心地が悪くなってしまうようなスピリチュアルな思想に傾倒し読者であるところの僕らをまごつかせてしまった。

「イリュージョン」に感銘を受けた読者、少なくとも僕は、本当に信じれば、雲を消せるとか、レンガの壁をすり抜けたり、草原を泳いだり、湖の上に立ったりすることは無理でも、もっと身近な目的とか目標ならできると信じて臨めばきっと出来るという考えに共感したのだった。そして信じて出来るようになるためにはやはり、訓練とか練習が必要なのだということも。

やりたい、できるようになりたいと望むことと、きっとできると信じることが大切なのだと、「イリュージョン」は繰り返し僕たちにメッセージを放っていた。

そのメッセージは上手く飛べるようになる。誰もが成しえなかったような飛行をすることができるようになると信じて、努力を続けることで黄金に輝くかもめたちの仲間入りする「かもめのジョナサン」でも、州空軍パイロットがヨーロッパを一人横断するクーリエの旅、「王様の空」でも同様だったのだ。

そうリチャード・バックの小説の根底にあるものは「鍛錬(ディシプリン)」である訳なのだ。

何かをはじめる前に、自分が右も左もわからずおり、何をすればいいのか、人生にどんな目的があるのかなんて風に途方にくれるばかりであった僕に、先ずはやればできると信じて始める事。直向に粘り強く続ける事の大切さを教え、いつしか自分の地歩をしっかりしたものにしてくれたのが「イリュージョン」であったという訳なのでした。

そんなリチャード・バックは2012年、自分の操縦する飛行機を送電線に接触して重傷を負った。水上フロートをつけた小型機で友人のところへ単独飛行している最中だったようで、どうやらこのフロートを電線にひっかけてしまったらしい。辛くも一命をとりとめたバックは現在リハビリを続けながら執筆活動も再開しているらしい。


僕はそんなニュースを遠くからおろおろと眺めているばかりでありました。

そして漸く出版されたのがこちら「ヒプノタイジング・マリア」。この本は事故の前の2009年に書き起こされた小説でした。

また居心地の悪いスピリチュアルな本だったらやだなと思っていた。

ぱらりとめくるとよしもとばななが序文を寄せておりました。

高いところを飛ぶということは、だれにとっても命がむきだしになり、肉体の死に一歩近づくということだと思う。そしてより真実に近づくことだ。

あのリチャード・バックが戻ってきた!!

僕にはそれだけで十分だ。

ありがとうリチャード・バック。戻ってきてとてもうれしいよ。ほんと。涙が出たよ。



hypnotize
音節hyp・no・tize 発音記号/hipn?t??z/音声を聞く
【動詞】【他動詞】
1a〈…に〉催眠術をかける.
b(催眠術をかけたように)〈…を〉動けなくする.
2〈…を〉魅する,うっとりとさせる.
用例
We were hypnotized by her beauty. 我々は彼女の美しさにうっとりとした.
hypnotizer 【名詞】



それとMorcheeba。 新しいアルバム"Head Up High" には"Hypnotized"という曲が収められていた。この曲がまた途轍もなく中毒性が高くてハマッておった訳ですが、この曲があったことも本棚に手が伸びた大きな要因であったと思います。Morcheebaにも深く感謝です。



そして僕もこれからもしぶとく頑張っていくのだ。超えられない山はない。なんなら壁も抜けてやらぁと。


「かもめのジョナサン」のレビューはこちら>>

「イリュージョン」のレビューはこちら>>

「大様の空」のレビューはこちら>>

「翼にのったソウルメイト」のレビューはこちら>>

「フェレットの冒険」のレビューはこちら>>


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意識は傍観者である-脳の知られざる営み
(Incognito: The Secret Lives of the Brain)」
ディヴィッド・イーグルマン(David Eagleman)

欧米では、宗教的・文化的背景もあって犬や猫のような動物は「意識」というものがないという考えがいまでも広く信じられているらしい。

どうやら根底には意識は魂で、魂は特別な存在である人間にのみ与えられたもので、生前に正しい行いをした魂だけが天国に行ける。人間より下等な動物は魂がないので天国に行けないというような考え方に立っているらしい。

犬や猫とでも一緒に暮らせば、そんなことはないことが一目瞭然だと思うのだけど、動物と接している人でも、動物が見せる行動は、「本能的」なものであって「機械的」で「自動的」なもので、意識があるかのような行動であってもあくまで単にそのように見えているだけだという根深く頑迷な考え方になってしまうのだという。

「2001年宇宙の旅」に登場する木星探査に向かうディスカバリー号に搭載されたコンピューターのHALは航行と乗員の管理を全面的に執り行う人工知能だった。HALは乗員たちと会話したりチェスでゲームしたりするが、乗員たちはHALに意識があるように見える、そう見えるように作られていると言う。

コミュニケーションがとれる相手であってもその相手が本当に「意識」があるのかどうかは簡単に見極めることができない、というか、わからないというのである。

道で行き会う人や通勤時間に隣にいる人が僕と同じような「意識」をちゃんと持ち合わせているかどうかなんて確かめようがないし、「絶対にある」とは言い切れない。

一方で、一緒に暮らしているカミさんや子供たちに僕と同じような意識があることは疑う余地もない。

HALが正しい行いをしたからといって天国に行くことはないと考えるように「意識」と「魂」を同義的に捉えている人とそうでない人との間で「意識」の定義が異なるのだろうか。

天国の存在そのものに懐疑的な僕としては、意識が大抵の哺乳動物に備わっていると考えることに殆どなんの抵抗も感じないし、寧ろそう考える方が自然だ。一方でシリアルキラーなどに代表されるサイコパスのように人でありながら意識に問題を抱えているというか不完全な心を持っていると言わざるを得ない人も存在すると思う。

サルからヒトへの進化の跳躍は「意識」の発生だろうか。僕にはそうは思えない。一体意識とはどんなもので、それが備わっているのは生き物のなかのどの範囲で、それはどのように発達してきたのだろうか。

先日読んだニック・レーンの「生命の跳躍」に登場する意識の話は非常に腹落ちする内容だった。ダーウィンが「眼」が種によって複雑さ、視力や色の識別などの能力に違いがあると述べているのと同様に意識もいろいろな段階のものを持つ生き物がいると考えるべきだとしていたのだ。

意識とはどんな構成要素をもっているのだろう。ウィキペディアによると意識(いしき、Consciousness)とは、一般に、「起きている状態にあること(覚醒)」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを正確に認識できている状態のこと」を指すとある。周囲の状況を自覚して感情と思考を持つことという意味だろうか。動物だって考えるだろう。ただ人間と大きく異なるのは言葉を持って思考を組み立てることができないという点なんだろうけども。

感情。ウィキペディアには感情の一覧というものがあった。そこには安心、不安、感謝、驚愕、興奮、好奇心、性的好奇心、冷静、焦燥 (焦り)、不思議 (困惑)、幸福、幸運、リラックス、緊張、名誉、責任、尊敬、親近感 (親しみ)、憧憬 (憧れ)、欲望 (意欲)、恐怖、勇気、快、快感 (善行・徳に関して)、後悔、満足、不満、無念、嫌悪、恥、軽蔑、嫉妬、罪悪感、殺意、シャーデンフロイデ、サウダージ、期待、優越感、劣等感、怨み、苦しみ、悲しみ、切なさ、怒り、諦念 (諦め)、絶望、憎悪(愛憎)、愛しさ、空虚というものがあった。

僕にはこれが全部ちゃんと揃っているのかな。また人によって強く感じる部分とそうでない部分があったりするのは当然のことのように思える。

意識の構成要素には他にどんなものがあるのだろう。どうやらこのあたりについては最新の知見でもあまりはっきりしていないみたいだ。様々な学問が意識について取り組んでいるのだけれど、それぞれの立場で定義や範囲もばらばらになってしまっているみたいだ。

ましてその発生起源についてはまだ全くわかっていないという感じだ。僕はこのあたりに興味があるのだけど、はっきりとここに踏み込んでいる本には出会ったことがない。

種毎の有無を調べてみるというのも面白いのではないだろうか。恐らく多くの段階があって種の広い範囲にグラデーションを描くように広がっているのではないだろうか。

思考・感情の有無や特性の違いによって、行動や意思決定或いは価値観などに差が出てくるのだろう。何がどのように異なっているのか詳細がわかってくる日がくるのだろうか。

漸く本書「意識は傍観者である」に辿りついた。本書は人間が優れているのは意識の問題ではなく、本能が優れているからだというウィリアム・ジェームズの論点に立脚しているらしい。

 本能は昔から論理的思考や学習の対極と考えられている。あなたが大部分の人と同類であるなら、イヌはおもに本能で動いているが、人間は本能とはちがうもの、理性のようなもので動いていると考えているだろう。19世紀の偉大な心理学者ウィリアム・ジェームズは、この説に初めて疑いを抱いた人物である。しかも単に疑っただけではない。まったくのまちがいと考えたのだ。人間の行動がほかの動物よりも柔軟に合理的なのは、人間のほうが動物よりももっている本能が多いからであって、少ないからではない。本能は道具箱のなかの道具であり、多ければ多いほどあなたは柔軟になれる。


タイトルにもある通り、自分自身として考える場合、その中心には意識がある訳だが、現実に行動している自分自身の大部分は「無意識」や「本能」によって行われているというのである。

それはチェスやテニスのプレーヤーの戦略的思考であったり、運動であったり、はたまた自転車や自動車の運転などからもわかるという話で、読めばなるほど納得の内容でありました。新しいことに挑戦する場合僕たちは、慣れるまでの間、意識を使って意思決定をしたり、行動を論理的に制御したりするけれども、
慣れてくると、つまり無意識な行動として自動的にこなせるようにプログラムができてくると意識は不要となる。要するに本能に新たにプログラムを生成しメモリすることで新しい局面を自動的に乗り越えてくことを可能としているのである。
ジェームズの考え方に沿って振り返ると、動物たちは、この後天的にプログラムを作ったり、修正したりする本能の部分が弱いため、柔軟な対応ができないという意味だろうか。


<目次>
第一章 僕の頭のなかに誰かがいる、でもそれは僕じゃない
ものすごい魔法
王座を退くことのメリット
広大な内面世界を最初にかいま見た人々
私、私自身、そして氷山
第二章 五感の証言---経験とは本当はどんなふうなのか
経験の分解
目を開く
どうして岩が位置を変えずに上昇するのか?
見ることを学ぶ
脳で見る
内からの活動
どれくらい遠い過去に生きているのか?
第三章 脳と心の隙間に注目
車線変更
ヒヨコ雌雄鑑別師と対空監視員の謎
自分が差別主義者だと知る方法
どんなにあなたを愛しているか、Jを数えてみましょう
意識の水面下にある脳をくすぐる
虫の知らせ
ウィンブルドンで勝ったロボット
迅速かつ効率的な脳のマントラ---課題を回路に焼きつけろ
第四章 考えられる考えの種類
環世界---薄片上の生活
進化する脳のマントラ---本当に優れたプログラムはDNAにまで焼きつけろ
美しさ---誰の目にも明らかに永遠に愛されるためにある
不倫の遺伝子?
第五章 脳はライバルからなるチーム
本物のメル・ギブソンさん、起立してください
僕は大きくて、ぼくのなかには大勢がいる
心の民主制
二大政党制---理性と感情
命の損得勘定
なぜ悪魔はいまの名声とひきかえに、あとで魂を手に入れるのか?
現在の未来のオデュッセウス
たくさんの心
たゆまぬ再考案
多党制の強靭性
連合を維持する---脳の民主王国における内乱
多を持って一を成す
いったいなぜ私たちには意識があるのか?
大勢
C3POはどこ?
第六章 非難に値するかどうかを問うことが、なぜ的外れなのか
タワーの男が投げかけた疑問
脳が変わると人が変わる---予想外の小児性愛、万引き、ギャンブル
来し方行く末
自由意志の問題と、答えが重要でない理由
非難から生物学への転換
断層線---なぜ非難に値するかと問うのはまちがいなのか
これからどうするか---脳に適した前向きな法制度
前部前頭葉トレーニング
人間は平等という神話
修正可能性に基づく判決

第七章 君主制後の世界
権威失墜から民主制へ
汝自身を知れ
物理的パーツで構成されるとは、どういう意味でいって、どういう意味ではないか
パスポートの色から創発特性まで

付録
謝辞



 脳は解決すべき課題を見つけると、その課題をいちばん効率的になし遂げられるまで、自身の回路の配線をやり直す。課題がメカニズムに焼き付けられるのだ。この巧妙な戦略によって、生き残るために最も重要な二つのことを実現できる。

それはスピードと効率化だという。迅速な意思決定に意識が割り込んでくるとじゃまになるのだという。確かに突っ込んできたクルマをよけるのにいちいちロジカルシンキングしている暇なんてない。そして現代のスーパーコンピューターも霞む演算能力を持っている脳の消費電力は途轍もなく省エネなのである。この省エネを支えている機能が回路の配線のやり直しによる自動化なのだ。

本書ではさらに意識の役割として「多党制の強靭性」葛藤することの意義を取り上げていた。つまり自動的に白黒つけるだけではなく、多様な意見を取り入れ、意思決定をする際にそれらを天稟にかけて判断することによって意思決定の質を向上させるという仕掛けをシステムに取り込むための機能として意識が存在するのだというようなことを述べているのだと思う。


脳は---ラットのものも人間のものも---葛藤するパーツでつくられたマシンだ。内部分裂しているマシンをつくるという話が奇妙に聞こえるなら、ちょっと考えてほしい。私たちはすでにこの種の社会的機構をつくっている。裁判の陪審員団はどうだろう。さまざまな意見をもつ12人の見知らぬ者どうしが、合意に達するという一つの使命を課される。陪審員たちは議論し、説得し、影響し、折れる---そして最終的な陪審員団はまとまって一つの結論に達する。異なる意見があることは、陪審員制度にとっての障害ではなく基本的特性である。

つまり意識は傍観者であるばかりか、本能の必要に応じて副次的に生み出しているものであるらしいのである。

本書はエイリアン・サブルーチンとか、ゾンビシステム等はっとさせられるようなパラダイムで読書の喜びに満ちた本でありました。極めつけは「ラジオ理論」。著者がこれをどこまで真剣に捉えているのかは不明だが、びっくりして椅子から落っこちてしまうような話が飛び出してきます。ほんと意識の話はとても深くて面白いなー。


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数字の国のミステリー
(The Number Mysteries)」
マーカス・デュ・ソートイ
(Marcus P.F. du Sautoy)

ソートイの二冊目。「シンメトリーの地図帳」は数学音痴の僕でもわからないなりに楽しめるものになっていました。何より重層的な本の構成がとても見事で引き込まれるように読み進んでしまう強い力がある本だったと思います。ソートイの人柄溢れる文章も素敵でした。

このソートイはリチャード・ドーキンスが勤めていた「科学啓蒙のためのシモニー教授職」に就いている人物であり、その職名の通り科学啓蒙のために本を書いている訳で、「シンメトリーの地図帳」は正にそんな目的にかなうものとなってたのでありました。

ということで期待して取り掛かったのがこの「数字の国のミステリー」は数学における難問。クレイ数学研究所が一つ解く事ができたら100万ドルの懸賞金をつけた「ミレニアム懸賞問題」と呼ばれているものをとりあげようというものだ。

ソートイはこれらの問題一つ一つを紹介していくとしている。

はじめに
参考になるウェブサイトについて
第一章 果てしない素数の奇妙な出来事
第二章 とらえどころのない形の物語
第三章 連勝の秘訣
第四章 解けない暗号事件
第五章 未来を予言するために
謝辞
訳者あとがき

ところがこのミレニアム懸賞問題は全部で七つあるのに章は5章まで。

・P≠NP予想 (P versus NP)

・ホッジ予想 (The Hodge Conjecture)

・ポアンカレ予想(The Poincare Conjecture)※解決済
・リーマン予想 (The Riemann Hypothesis)
・ヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題 (Yang-Mills Existence and Mass Gap)
・ナビエ-ストークス方程式の解の存在と滑らかさ (Navier-Stokes Existence and Smoothness)
・バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想(BSD予想) (The Birch and Swinnerton-Dyer Conjecture)

第二章の『とらえどころのない形の物語』ではこの宇宙の形としてポアンカレ予想をとりあげていた。しかし他の問題はどの章で取り上げていたのだろうか。読み終わって振り返っている僕にはよくわからない。つまり導入部分から躓かされている感じだ。付きあわせてみることも考えたけれどもちょっと週末の体力では手に余りそうだ。すまんだれか頼んだ。

このミレニアム懸賞問題のタイトルを読んでも何が問題なのかわからない時点で読んでいるこっち側に大いに問題があるのはわかっているのだけれども、本書は複数の問題に各章で脈絡なくアプローチしていくことになるため、その難易度はいやが上でも高まる。

再び第二章、『とらえどころのない形の物語』(ところでどうしてページの下にある章の表記を英語したんでしょう。ますます迷子になるやんか)ではパリの新名所ラ・グランダルシュ「 la Grande Arche de la Fraternite 」(友愛の大アーチ)についての記述があった。

このラ・グランダルシュはカルーゼル凱旋門とエトワール凱旋門の2つの門が形成するパリの歴史軸の延長線に建てられた新凱旋門で、設計者ヨハン・オットー・フォン・スプレッケルセンと建築技師エリック・ライツェルは四次元空間から三次元の世界が見渡せるような巨大な門というイメージで設計されたのだという。

この建物を日々目にしているパリ市民のなかでも、フォン・スプレッケルセンが首都のど真ん中に四次元の立方体を作ったことを知っている人はそう多くいないはずだ。


 そうはいっても、わたしたちが暮らすこの宇宙は三次元だから、四次元の立方体そのものを作ることはできない。そこで建築家は、三次元の物の形を二次元のキャンパスに描くという課題に直面したルネサンスの芸術家と同じやり方で、四次元立方体の三次元に映る影を作った。画家たちは三次元の立方体を描くにあたって、大きな四角の中に小さな四角を書いてその角を結び、二次元のキャンパスを見ている人間に三次元の立方体を見ているような錯覚を起こさせる。むろんこれは本物の立方体ではないが、これだけでも見る側に必要な情報はきちんと伝わる。すべての綾が見えているから、立方体を思い描くことができるのだ。フォン・スプレッケルセンも同様に、大きな立方体のなかに小さな立方体があって、大きな立方体の頂点と小さな立方体の頂点が綾でつながっている立体を作り、四次元立方体の三次元パリへの投影図とした。ラ・グランダルシュの前に立って注意深く勘定すると、先ほどデカルトの座標に基づいて確認した32本の綾がすべて見えるはずだ。

三次元を二次元に収めるためにルネッサンスの芸術家は四角のなかの四角の角を線で繋いだ。だから四次元を三次元に収めるために、立方体のなかの立方体の角を線で繋いだという意味だと思うのだけど、実際にこのグランダルシュの画を見ても残念ながらイメージをつかむことができない。消化不良感が積もるばかりでありました。

また本書ではロックバンド「コールドプレイ」のジャケットについての話が登場するのだけどこれは「シンメトリーの地図帳」でも紹介されていた話。それもまるまんま内容が一緒。ドーキンスの本を読んでいて、こんなに目立った形で同じ話が取り上げられていた記憶はないよ。もう一冊ある「素数の音楽」は読んだ人の評価がかなり高いようで興味があるけれども、彼らは「シンメトリーの地図帳」を読んでいるのだろうか。

三冊全部読んだ人、両方読んでいる人と、片方しか読んでいない人の比率はどのくらいなんだろうか。またどの順番で読んでいる人が多いのかとか。読後のがっかり感というものをつくづく味わう一冊でありました。

本書はちゃんと構成から見直してから出すべき本だった感じがします。ユダヤ人でイスエラル人の奥さんがいる事とシモニー教授職で科学啓蒙を行うことと宗教や政治信条とをどう折り合いをつけているのかも気になるところです。


「シンメトリーの地図帳」のレビューはこちら>>

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ホロコーストからガザへ-パレスチナの政治経済学
サラ・ロイ(Sara Roy)

サラ・ロイ。彼女はアメリカの政治経済学者で現在はハーバード大学中東研究所上級研究員だという。ユダヤ人で両親は奇跡的にホロコーストの収容所で生き延びた。父の腕には番号の刺青があったし、母は姉妹でガス室送りを辛くも免れたのだという。そんな両親を持つ人物がイスラエルの政治的・経済的な攻撃により民族・人権の存在を否定され続けているガザ地区の実態に鋭い批判の声を上げている。

序章 ガザ地区とパレスチナの概要およびサラ・ロイの仕事(早尾貴紀)
第1部
第1章 もしガザが陥落すれば……(サラ・ロイ)
第2章 ガザ以前、ガザ以後:イスラエル―パレスチナ問題の新たな現実を検証する(サラ・ロイ)
第3章 「対テロ戦争」と二つの回廊(小田切拓)
第2部
第1章 ホロコーストからパレスチナ―イスラエル問題へ(サラ・ロイ)
第2章 〈新しい普遍性〉を求めて:ポスト・ホロコースト世代とポスト・コロニアル世代の対話(サラ・ロイ×徐京植)

目次にもあるとおり、本書はサラ・ロイの自著は部分的なもので、あとがきを読むと2009年に来日した際に行われた、講演、対談、インタビューをまとめたものだという。

彼女が注目されたのは『ガザ回廊-反開発の政治経済学』という研究書によるもので、これがパレスチナとイスラエルの間でどんな事態が進んでいこうとしているのか世の人が殆ど気づいてもいない1985年あたりから着手されていたという先見性にあった。


 パレスチナのガザ地区と呼ばれる地域は、現在イスラエルによる占領下におかれている、パレスチナの狭い土地である。幅が10キロメートル前後、長さが約40キロメールの細長い長方形をしているため、英語で、「ガザ・ストリップ」と一般に呼ばれる。
   序章 ガザ地区とパレスチナの概要およびサラ・ロイの仕事(早尾貴紀)より


本書の巻頭にはモザイク模様に塗り分けられているガザ地区の地図が収められていた。この地図を見て驚くのはこのガザ地区とは現実には小さな飛び地の集まりで、行政権・治安権がイスラエルのものとなっている地域に点在する形で、行政権のみパレスチナがもっている地域、行政権と治安権をパレスチナが握っている場所が存在する。つまりガザ地区が孤立しているだけではなく、そこに広がる飛び地の一つ一つが個々に孤立しているのだ。

慌ててウィキペディアで確認するとやはりそれと同等の地図がすぐに見つかる。こういう本を読んでいつも思うのは、僕らは知ろうとしていないだけで自らの目と耳を塞いでしまうことができることだ。目の前に色を塗り分けられた地図があっても、「地区」と読んだ時点で一塊な場所を指していると思い込んでしまっているのだ。

 このような制度化されたパレスチナの断片化によって、西岸地区は少なくとも11のブロックと小ブロックに細分化されてしました。この断片化を保障しているのは、パレスチナ人の移動を妨げる、93の有人検問所と537の無人障壁ー土嚢、道路封鎖やその他の障壁ーから成る、あわせて630もの物理的障害物のシステムです。さらに、西岸のなかでももっとも人口の多い18の地域に通じる幹線ルートの約62.5パーセント(72のルートのうち45)が、軍事検問所によって封鎖されるか管理されるかしています。まさしく、パレスチナ人がさらされている最大の喪失とは、この社会秩序の断片化という事態なのです。


つまり行政権も治安権も握っている地域でも飛び地の間ではまともに交流することすら許されていない状態なのである。

イスラエルの「ガザ地区からの撤退」ですら、それはパレスチナの人びとをさらに効率的に弱体化・分裂化を推し進めるための罠のようなものであったとするのである。

そしてハマス政権の転覆と内戦についても、

 06年3月に誕生したハーマス政権を、オスロ合意を守ろうとせず、イスラエルを承認しないということで、国際社会はハーマスに対する制裁を始めた。まずEUが、自治政府の給与に充てられていた援助を中止した。その恩恵に預かっていたファタハ系の自治政府職員は、EUではなくハーマスを強く批判した。住民の手に入る現金が減るため、経済がより逼迫するため、一般市民のハーマス離れも加速する、と睨んでの措置であろう。続いて、銀行を通じた送金も時期によって異なるが、停止または大幅に制限されることになった。

続いて、アメリカから兵器を供給されたファタハが、ハーマスと武力抗争を始めた。これが「内戦」の実態であった。

ファタハが、オスロ以降の国際的合意の遵守を条件に「正当」化された一方、イスラエルが和平に踏み出す条件として訴える「テロ」の撲滅を迫られてきたのは、この時にはじまったことではない。が内戦にも例えられる状況は、それまでないものだった。これによって、ファタハが国際社会に変わって、「テロ組織」への徹底した制圧を実行するという構図が完成した。

パレスチナの泥沼化のいわゆる蓋然性を高めるような政治的・経済的圧力を加え、反撃に出たところを「テロ」と断定してぶん殴るというのはこれアメリカのお家芸をチューンナップした形になっているという訳だ。

日本政府は一般市民にわかるような説明責任を果たすつもりがないのか、そもそも説明なんてできるくらいの情報なんて持っていないのかもしれないけれども、盲目的にアメリカ政府に追従して金を払い続けている。

日本政府はどんな価値観と倫理観をもってこの世界情勢に対峙しているのだろうか。なかには公然とイスラエル政府を擁護・支援している政治家もいるらしい。この人たちの政治信条とはいったいどんなものなのだろうか。

そんな彼らとて悪意を持って臨んでいる訳ではなく、中東情勢の安定のためをそれなりに考えた結果ということなのだろうが、それらの支援で何か事態が改善されたのかどうか図るすべもないまま、中東の情勢もガザ地区の過酷な状況もイスラエルの入植も一進一退という状態がずっと続いている。

僕ら一般人の認識は未だ、パレスチナとイスラエルをはじめとする他国との紛争や内部の抗争などが入り乱れて正直何が何やら、何について争っているのか、だれが言っていることが正しくて、どうすることが正しいのかもわからないというところなのではなないかと思う。

こうした事態にどうして陥ったのか。これについてサラ・ロイは一環してイスラエルによるパレスチナの分断政策が狡猾・巧妙に仕組まれてきたことによるものだと糾弾している。そして交渉が決裂し、長期化すればするほどパレスチナの解体と弱体化が進みむという計算が働いているとすら述べているのである。

PLOのアラファトが突如、腹黒い人物のような報道を浴びて話が訳わからなくなっていたというようなこともこれに平行して進んでいたのが記憶に新しいではありませんか。

そして先日このアラファトは暗殺であったことがスイスの研究機関の調査によって明らかになった。アラファトの遺骨から毒性の強い放射性物質ポロニウム210が検出されたのだという。

そんなニュースに我々はどう反応してよいのかもわからない。そこにきてイスラエルは2万戸の入植計画を明らかにしたというニュースが平行して流れてきた。11月13日の時事通信のニュースでは、イスラエル住宅省が占領地ヨルダン川西岸に新たに約2万戸のユダヤ人入植住宅の建設を進めていることが明らかになったと伝えている。当然だがパレスチナ側は「撤回しなければ、交渉プロセスは終わる」と猛反発し再開したばかりの中東和平交渉が頓挫する恐れがあるという。

普通に考えればアラファト暗殺のニュースもイスラエルの交渉にとっては悪材料なはずなのだが、そんなら交渉が難航しても全然結構というか、そもそも不公平な取引になってる交渉で失うものなどは何もないという意味なのかもしれない。

いよいよ僕らはぼさっとテレビやネットに出てくるニュースを見ているだけではますます事態が悪い方向へ進んでしまうことを停められないことを自覚して自分たちで動き出さなければならないところまできてしまったのかもしれないと思う次第であります。


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黙示録
池上永一

時は尚益王の治世。採れたての魚介や反物、日用品などを売る那覇ヌ市は喧騒に溢れていた。その一角で人垣が生まれる。板舞戯(イチヤマイウドウケ)というシーソーの要領で飛びあがって曲芸を見せる大道芸だ。呼子を勤める了泉が鐘を鳴らすと何故か人の集まりがよかった。

かつて了泉はニンブチャーの村で暮らしていた。ニンブチャー(念仏者)とは17世紀初頭に琉球に訪れた袋中上人(たいちゅうしょうにん)が伝えた浄土真宗に起源を持つ者たちで、薩摩が琉球入りし宗教弾圧が始まったことで被差別賎民となり、貧しい人たちの葬儀を執り行うことを生業とし行脚乞食とも呼ばれた人びとだった。

しかし母がクンチャー(ハンセン病)に罹ってしまったことからニンブチャーの村からも追い出されてしまった。行き場を失った了泉を拾ったのがこの大道芸の一座で了泉はその稼ぎで母と二人食べ物を分け合って生きていたのだった。

しかしある日花形の曲芸師が墜死してしまったことで一座は解体。了泉は市場でこそ泥をして糊口をしのぐまでに追い詰められてしまう。孤児を襲っている野犬を殺すが、この犬が実は王宮の飼い犬であったことから捕らえられ殺されかけるがこれを国司の蔡温(さいおん)が一命を救う。了泉が「月しろ」であることを見抜いたからだった。

蔡温は福州で学んだ朱子学や風水学を駆使しして琉球の復興を使命とするものであった。首里城の風水を正し、龍脈の穴に相応しい王を玉座につけ、更にこの王を助ける神、月しろを備えること。これによって薩摩と中国の二重支配のくびきから琉球を解き放ちかつての王国の隆盛を取り戻そうとしていたのだった。

そして武力を持たず大国に挟まれた小国に過ぎない琉球王朝が大国と肩を並べて生き残る為に残された手段は、文化芸能、神がかりな「踊り」の世界だった。

太陽(てだ)しろとして王子が龍脈から気を大きく孕んで力強く天に昇るため地を治めるためには、陰の世界で世の悲しみと苦しみを引き受けて生きる月しろが必要なのだという。

そして月しろは琉球王府の守り神として千年を生きる。

元始、琉球の大地は月に育まれると信じられてきた。月が刻む時のことを『月しきんじょうろ』と呼び神の世界とされた。人は『太陽(てだ)しろ』を生き、神は月しろを生きる。もし、月しろを知る人間がいるならば、その者は千年を生きる者である---

何も知らない了泉は王府で踊奉行を勤める石羅吾に拾われ月しろとして歩みだしていく。江戸、福州を跨いで広がる舞台狭しと魂をぶつけてローラー・コースターのように激しく上下とよじれながら突き進む了泉の人生はまるで龍。大きな哀しみや苦しみですら踊りの滋養としてその道を極めていくがその先に待っているものとは。



「黙示録」の黙示の原義は「覆いを取る」ことから転じて「隠されていたものが明らかにされる」という意味だという。これはつまり陰であった月しろの存在を描き出したことを指しているのだろう。

池上ワールド健在で何よりうれしい。

しかし驚くことに本書は、

尚益王(しょうえきおう、1678年12月7日(康煕17年10月25日) -1712年8月16日(康煕51年7月15日))没34歳。

尚敬王(しょうけいおう、1700年8月3日(康熙39年6月19日)-1752年3月14日(乾隆17年1月29日))没52歳。

玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん、1684年9月11日(康熙23年8月2日)-1734年3月1日(雍正12年1月26日))没50歳。

蔡温(さいおん、1682年10月25日(康熙21年9月25日)-1762年1月23日(乾隆26年12月29日))没80歳。

徐葆光(じょほこう、1670年(康煕9年)-1740年(乾隆5年))没70歳。

袋中上人 (たいちゅうしょうにん、1552年(天文12年)-1639年(寛永16年))没87歳。

など実在の人物を多数登場させ、玉城朝薫が踊念仏・能・狂言を取り入れて編み出したとされる「組踊」、の誕生という史実を踏まえた上で池上ワールドが破綻なく見事に練りこまれていることでありました。

組踊は言葉もわからないので難しく、遠めで眺めているばかりでありましたが、驚くべき広がりを持った芸能であることを本書ではじめて知りました。

朝薫の五番と呼ばれる『二童敵討(にどうてきうち)』、「鐘魔事」『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』、『銘苅子(めかるし)』、『孝行の巻(こうこうのまき)』、『女物狂(おんなものぐるい)』や漢文や琉球の神話世界なんかをしっかり押さえて再読したらもっともっと深く物語を味わうことができることでしょう。


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記者魂(Rogue Island)」
ブルース・ダシルヴァ(Bruce DeSilva)

読書量におけるミステリー・サスペンス・ハードボイルドなジャンルの濃度を上げようということで選んだ次なる本はブルース・ダシルヴァ の「記者魂」。ページを開くと新聞記者だった著者のもとに寄せられた一通の手紙が紹介されていた。


1994年の秋に届けられたという手紙には、ダシルヴァの記事がとてもすばらしかったということと、記事で取り上げた事件が小説の下書きに使えるハズだという事が書かれており、差出人はエヴァン・ハンター。つまりエド・マクベインだった。マクベインが人をほめることは殆どない事なのだそうだ。

API通信の記者、コロンビア大学で論文指導教官を40年以上務めたダシルヴァは漸く重い腰を上げミステリ作家として初めて書き上げたのがこの「記者魂」なのだ。そして本書は2011年度のエドガー賞処女長編賞を受賞した。

もう内容はこれ以上知る必要はない。読むのだ。

ロードアイランド州、プロビデンス市は第一次世界大戦以前に紡績工場を中心に発達した街だったが、今ではみるものもない寂れた地方都市のひとつで、他の同様の街と比べるものは何もないという。
南部に位置するマウントホープでは連続放火事件が起こっていた。

炎上する建物の前に駆けつけたのは地方紙の新聞記者を務めているリアム・マリガン。彼は目の前で燃え盛る建物のなかで五歳になる双子の兄弟が焼け死んだことを知る。

怒りに燃えポンプ車の横腹を殴りつけている消防隊長はロージー・モレッリ。彼女はマリガンの幼馴染みだった。三ヶ月で9件。犠牲者は5人。無能な警察は事件現場から手がかりらしいものも見出すことができず捜査は初動から行き詰っていた。

手をこまねいたマリガンが自力で調査を開始した矢先にまたもや放火と思われる火災。消防活動に当たっていた隊員の一人の足元が崩落した。

隊員の名はトニー。マリガンとロージーの同級生で、トニーの結婚式でマリガンは新郎の付添い人を勤めた旧知の友人だった。懸命な救助と手当ての甲斐もなく、トニーは息を引き取る。

マリガンは個人的な怒りを燃料としてこの連続放火事件の調査にのめりこんでいく。放火犯の目的や正体をつかむことができずにいるマリガンをあざ笑うかのように放火はその頻度を高め、事件は異様な様相を顕わにする。

ノミ屋を営む74歳のドミニク・ゼリッリ、新聞社のオーナーの御曹司で現場で記者になることを憧れるハンフリー・ボガートかぶれのエドワード・アントニー・メイソン四世など、硬軟織り交ぜたキャラクターが物語りに華を添えつつ軽快なスピードで走る本書は快作でありました。

ところで2011年のエドガー賞処女長編賞の候補は他に
ニック・ピゾラット 「逃亡のガルヴェストン」
ジェイムズ・トンプソン「極夜 カーモス」
ポール・ドイロン 「森へ消えた男」
デイヴィッド・ゴードン「二流小説家」があった。

何れも訳出されており、「逃亡のガルヴェストン」にあたっては2011年の冬に読んでいた。
この「逃亡のガルヴェストン」は僕の肌に全く合わず、レビュー記事すら書いていない。しかしこの本はツボる人はツボるようで、人それぞれなんだなーということを改めて痛感させられる一作でありました。
「二流小説家」はちょっと気になるけどもあとはまーいーかなーという感じであります。

ちなみに同年の長編賞はスティーヴ・ハミルトンの「解錠師」。あれ、ヤングアダルトもの?エドガー賞も10年、20年と遡って受賞作・候補作のリストを眺めてみるとやはりジャンルとしてのパワーがかなり弱まってきていると言わざるを得ない様相がありありと出ていると思います。時代に生きる人びとが求めているものが変わってきたということなのかもしれませんねー。僕はやっぱり硬派でストレートに突っ走る「記者魂」のような作品が好きですよ。作家さんも本屋さんも頑張って欲しいものであります。次は何読もうかなー。


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レイモンド・カーヴァー-作家としての人生
(Raymond Carver: A Writer's Life)」
キャロル・スクレナカ(Carol Sklenicka)

レイモンド・カーヴァーの本をはじめて読んだのは30年前の大学生の頃、以来ずっと読み続けてきた。カーヴァーの書くお話は、ふとした行き違いで登場人物の関係が意表をつく形にねじれていく事が多い。顕わになってくるのは、理解していると思っていた相手が全く違う貌を持っていたりすることだ。共有しているはずだった価値観や夢や希望が勝手な思い込みだったり、身近な人が、赤の他人のような見知らぬ一面を持っていたりするという突き放される思い。

台風の最中にちょっと玄関を開けて外の様子を見た時のような、平穏だった空気が一瞬にして暴風域に陥るような恐ろしさとでも言えばいいのだろうか。そして激しい寂寥感。

ぞっとする恐ろしさだが、なぜか僕はここに戻って来てしまう。ワーキングプアと呼ばれる人びとの実体を透かし見て問題意識を追認するためだろうか。自分自身の生活が安泰であることを再確認して安堵するためだろうか。ただはっきりいえるのは、カーヴァーの物語は普段あまり動くことのない情動の根っこの部分をがつんと震わせる。僕はその瞬間に戻って来たくなるのである。

「ドック・ストーリー」は最近の作品だった。これはアルという何もかもがうまくいかない不運な男が、家族が飼っている犬を捨てようとする物語だ。その犬はカーペットにおしっこをしたり、汚れものの服の中に鼻をつっこんで股の部分をかみちがったりする(この犬は、サクラメント時代に飼っていたミッツィがモデルになっている)。だが、犬がいなくなったと娘が泣くのを見て、男は一度捨てた犬をまた探しに行く。物語が始まるとき、アルは考える。「犬を捨てることは、救済の第一歩、この急降下の人生を立て直す第一歩となるはずだ」と。だが翌日には、こう思う。「(犬を)なくしたことは、転落への最後の一歩だった」
 この短編の最初のバージョンは、子供たちとの生活を、いらだちと感傷のあいだの不安定な綱渡りとして描いている。語り手のアルは(1969年当時のカーヴァーと同じ)31歳で、二人の幼い子供がいる。子供たちの母親は、ふだんは平静を保っているが、ときどきヒステリーを起こして子供たちをののしり、頬を打つのだとアルは言う。アルをとりまく状況は、レイがジョンソンに話した「形而上学的な穴」に似ているように思える。彼は毎日早起きして仕事にいくことにうんざりしながら、レイオフの対象になるのではないかと脅え、いつも酒を飲み過ぎていて、家賃が高すぎる家に引っ越したことで妻をうらんでいる。そして、バーで出会った女と浮気してパッとしない関係を続けていることについて罪悪感をもっている。彼は自分の短所を知りながら、変わることができずにいる。「彼は風見鶏のような人間だった。<中略>目の前の状況にふりまわされている。<中略>それは彼の最大の短所だった。<中略>それでありながら、なぜか彼の唯一の長所でもあるのだった」自分には道徳的な中核のようなものがないと彼は自覚している。ようやく犬を見つけたとき、彼は犬が歩き去るのをただ見送る。アル自身が決断できないことを犬が決めたのだ。


それにしてもカーヴァーはどうやってこんな物語を生み出していたのだろうと長年不思議だった。その答えがあった。

彼は壊れた家族の下で育ち、自らも妻や子供たちと上手に家族という関係を構築することができなかった。彼は家族の壊れた人間関係を描くことで世間の注目を引きはじめる訳だが、それは部分的に実話であった。勿論あちこち誇張され、事実と異なる着地になっている訳だが、本に自分たちの事を書かれる、しかも予想もしない形で描き出されることで信頼関係がますます縺れてしまう。しかもその事が彼に新たな作品についてのアイディアを供給していくのだった。

加えてアルコールと妻との間で繋がる絶ちがたい依存関係。カーヴァーは妻メアリアンと互いに足を引っ張り合いながらアルコール依存の深い穴に落ちていく。そして勿論それによって引き起こされる問題も作品の題材として利用されてく。

カーヴァーが自分の家族の物語を書く事は、家族の関係をばらばらに引き裂いてしまうような行為でもあった。つまり自分たち自身を壊すことで作品を生み出していたのである。彼は人生の終わり近くで大きく成功する。そのことを彼は「雷に打たれる」と表現していたそうだ。自分は「雷に打たれた者」であると。


 「だが、それは、一生懸命に努力して、書くという行為が人生のほとんどすべてのものより重要で、呼吸すること、衣食住、愛と神に並ぶほど大事だと思っている人にしか起こらないことだ」

僕にはこの価値観が理解できない。それは恐らくカーヴァーの家族たちも同様なのではないかと思う。カーヴァーは人との繋がりを欲していながら、それを壊しても「書くという行為」に勝るものはないと考えていたのである。

ところでレイモンド・カーヴァーは1938年5月25日生まれ。ほぼ同じぐらいの間同じように読み続けているもう一人の作家、リチャード・ブローティガンは1935年生まれだった。

僕はこの二人の作品を読み続けていながら二人の事を比較したことがなかった。ほぼ同世代、どちらも激しい貧困に苦しみ、壊れた家族関係の下に育ち、だいたい同じ時期にサンフランシスコにやってきている。

しかし二人の人生は交錯することもないし、それぞれの作品はそもそも比較することが難しいくらいかけ離れたものになっている。


 この頃、(1963年から1973年頃)街や政治の舞台やガリ版刷りの雑誌では、詩人が活躍していた。アレン・キングズバーグは各地の大学を回り、ゲーリー・スナイダーは何年も日本で禅を学んだのちにサンフランシスコに戻ってきていた。リチャード・プローティガンは、カーヴァーと同様にワシントン州のワーキングクラスの家庭で育った作家だったが、ビート・ジェネレーションが台頭した時代の終わりごろからサンフランシスコで暮らしていた。彼のごく短い、風変わりな物語をまとめた1967年の『アメリカの鱒釣り』が一世を風靡した。

 ある意味では、カーヴァーがこのような時代の波に乗らなかったことは、それ自体が彼を定義していた。彼は革新者や実験者を横目で見ながら、時代にそぐわないダークな家庭の物語を書きつづけた。

ブローティガンは西海岸を西洋人のアメリカ上陸から西部開拓史の果てにたどり着いた最果ての地にしてあわびとコンブの永遠のドヤ街と呼び。鄙びて乾き荒れ果てた地を歩きつつもあくまで内省的に自分の過去と向き合い続けているのに対し、カーヴァーは都市に暮らし他人との関係を模索し悩み苦しむという人との間の関係性に向き合っている。

一方で、ブローティガンがビート・ジェネレーションの波に乗った連中を、あいつらは好きであんな風采をしているけれども、僕らは金がないからこんな格好をしているだけで好かんと言っていたように、カーヴァーも複数回にわたる破産を余儀なくされる程困窮しており、ビート・ジェネレーションのような時代の波に乗った連中とは縁遠いところにいたところは同じなのだった。

暮らし向きに関してはあのティーヴン・キングも同様であった。彼は高校の教師をし、奥さんも働いていたにも関わらず、ミルク代を捻出するために四苦八苦していたのだった。キングは1947年生まれだそうだ。

キングはカーヴァーについて長い長い記事を書いていた。キングは第一級の書き手であると同時に読み手でもあるのだった。「書くことについて」に補記されていたブックリストにもカーヴァーの本があった。

記事ではカーヴァーの墓石に「Gravy」の詩とともに刻まれている文字を紹介していた。

LATE FRAGMENT

And did you get what
you wanted from this life, even so?
I did.
And what did you want?
To call myself beloved, to feel myself
beloved on the earth.

キングはカーヴァーの墓前に立ったのだろうか。立って頭を垂れたに違いない。永遠に残る文章を書くためには家族を犠牲にしてもよいとは思っていないと思うけども。キングはまた「リッシュのような編集者に出会わなかったことは幸運だった」とも述べていました。

僕ら日本人にとって戦後の非常に暮らし向きが苦しい日々を乗り越え、高度成長期の真っ只中にある頃、何を標榜していたのかというと、テレビドラマに登場するアメリカの生活であったのではなかったろうか。しかし、同じ頃を生きていた彼らの姿を僕らはどう理解すればいいのだろうか。

カーヴァーとその作品を知る上では欠かせない大変な労作でありました。


「象・滝への新しい小径」のレビューはこちら>>
「ビギナーズ」のレビューはこちら>>

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強さと脆さ-ブラック・スワンにどう備えるか(ON ROBUSTNESS AND FRAGILITY)」
ナシーム・ニコラス・タレブ(Nassim Nicholas Taleb)


先ずはブラック・スワンとは何か。
むかし西洋では、白鳥と言えば白いものと決まっていた。そのことを疑う者など一人もいなかった。ところがオーストラリア大陸の発見によって、かの地には黒い白鳥がいることがわかった。白鳥は白いという常識は、この新しい発見によって覆ってしまった。


『ブラック・スワン』は、この逸話に由来する。つまり、ほとんどありえない事象、誰も予想しなかった事象の意味である。

僕がこの本を読んだのは2011年8月。東日本大震災の後のことだった。三陸沖の大地震による津波被害も福島の原発のメルトスルーも振り返れば、その可能性に気がつかないなんてと思うけども、誰しも事前には夢にも思い浮かばない事柄だった。まさにブラック・スワンが舞い降りてきたのである。

とても面白く読んだのだが、かなり難しい部分もあった。文章の随所に込められたユーモアも、あちらこちらへの脱線も楽しい。しかし、本当に彼が言いたいことは高度に数学的な事柄であり、それはとっても難しい。

本書は『ブラック・スワン』出版の三年後の2004年に第二版で追加された部分を切り出したもの。出版後タレブが感じたのは、『ブラック・スワン』を安易に解釈したり、全く誤解したまま飲み込んだりしている人が沢山いたことだった。

中にはまともに読んでもいないのに知ったかぶりしてしいる専門家なんて輩も珍しくなかったし、無理解なまま議論を吹っかけてくるような人もいたようだ。

そんな連中との議論はうんざりするものがあったろう。追加された部分には、こうした誤解を少しでもほぐそうとしている意図と、きちんとちゃんと内容を読んで欲しいという思いが込められている。『ブラック・スワン』に対する典型的な誤った解釈とは以下の通り。
(1)黒い白鳥を論理的な問題だと誤解する

(2)地図なしでやっていくぐらいならありあわせの地図でも使ったほうがましだと言う。

(3)黒い白鳥は誰が見ても黒い白鳥だと思い込んでいる。

(4)否定形のアドバイスの価値がわからず、何か「前向き」な「どうすべきか」みたいなことを教えろと言う。

(5)害があるかもしれないことをするよりも、何もしないほうがずっといいことがあるのがわからない。

(6)スーパーマーケットの棚あたりからとってくるみたいに、私のアイディアをラベルだけ見て拾い集め、昔ながらの不十分な研究にはめ込む。

(7)『ブラック・スワン』はベル型カーブを使ったときに起こる間違いについて書いた本だ、あそこに書いてあることなんて誰でも知っている、数字をマンデルブロの世界から引っ張ってきたやつに置き換えれば簡単に解決できると思い込む

(8)2008年ごろ、私の考えについて「こんなの誰でも知っているよ」、「新しいことは何にも書いてない」とかいいつつ、その年の危機の間に吹き飛ぶ。

(9)私の考えをポパーの反証のことだと思い込む。あるいは私の考えのどれかを取り上げて、自分がよくわかっている気になっている出来合いの分類にはめ込む

(10)確率を気温や妹の身長と同じように計測可能なものとして扱う

(11)存在論的ランダム性と認識論的ランダム性、つまり真のランダム性と不完全情報によって起こるランダム性の違いに必死にしがみつく。月並みの国と果ての国の違いという、もっと影響の大きい違いのほうにはあまりこだわらない。

(12)私は「誤差が大きいところで予測するみたいな不毛なことはやめよう」、「第四事象でモデルを使うのはやめよう」と言っているのに、「予測するな」、「モデルを捨てろ」と言っているのだと思い込む。

(13)「あそこにウ×コが落ちている」って言っているのに、「ウ×コを踏むぞ」と言っていると思い込む。

僕は(3)に該当する感じ。

つまり、

 「ブルックリンへあまり行ったことがなく、世慣れたずる賢さに欠けていて、誰かさんはカモだと気づかない連中が該当する。」のだそうだ。

確かに世慣れたずる賢さは僕にとって縁遠いかも。しかも『ブラック・スワン』を読んでいるときに念頭にあったのは東日本大震災だった。

結果『ブラック・スワン』はみんなが見落としている「未曾有の事態」であるという単純な認識に立ってしまった。自然界・世界は一見平穏だが、桁違いのエネルギーを秘めており、どこにブラック・スワンが潜んでいるかわからないという考え方に共鳴しつつ、この理屈を市場経済に当てはようとするのには違和感があった。

それは市場経済のルールは自分たちの手で変えられる。ブラック・スワンが現れるようなことがない範囲で市場をコントロールすべきなんじゃないかと。

要するにつまりあれだ、ブラック・スワンは誰にとってもブラック・スワンで、そのブラック・スワンが市場経済のなかにいるのなら飼い慣らせばいいじゃないかということを考えていたという訳なのだ。企業や個人の資産の規模を制限するとかというやり方で。

タレブはルールを設けて変動を抑制することを否定している訳ではなかったが、『ブラック・スワン』ではもっとずっと根源的なことに言及していた。それは個人や集団の両方でそれぞれの持っている知識や情報が異なる以上、異なった予測が生まれ、立ち位置によっては見えないリスクがあり、それが突如ブラック・スワンとなって落ちてくる場合があることは避けられないと言っているのである。その衝撃・影響力が途轍もなく大きな場合、我々の知識は経済的にも論理的にも役に立たない、使い物にならなくなってしまうということを述べていたのでありました。

タレブは「ブラック・スワン」という概念を哲学の認識論と意思決定論に問題として捉えている。しかも『ブラック・スワン』はこれまでの思想の歴史が単なる不毛な頭の体操であり、前戯にずきず、私たちが知らないことが私たちに害をなす領域の見取り図を描き、脆い知識に体系的な限界を設定するという点で、歴史上はじめての試みであるとまで言い切っているのでした。

これまでの思想がこの限界を超えられなかった原因は考える際に一つ重大な次元を見落としていたからだ。そのため我々の知識は一握りの例外を除いて教室の中ではうまく機能するのに現実の世界に当てはめようとすると単純すぎて使い物にならなくなるものばかりだった。

失われていた三つ目の次元とは、もちろん、命題が真であった場合に及ぼされる影響の大きさであり、偽であった場合の深刻さであり、期待値である。言い換えると、判断がもたらすペイオフ、つまりそういう判断の結果が与える衝撃や影響の深さである。

私たちが知らないことが私たちに害をなす領域の見取り図とは。


 

 単純な
ペイオフ

 複雑な
ペイオフ

月並みな国

第一象限

並外れて安全

第三象限

(いくらか)安全

果ての国

第二象限

安全

第四象限

黒い白鳥の領域

 


第一象限

月並みな国で起こる、二つに一つの単純なペイオフである。予測は安全で人生は平穏、モデルは機能し、みんなハッピーだ。残念ながら、こういう状況は現実の日常よりも実験室やゲームでよく見られる。

第二象限

月並みな国で起こる複雑なペイオフである。統計的手法でまあまあうまくいくかもしれないが、いくらかリスクもある。たしかに、前漸近的な特性があったり、変数が独立でなかったり、モデル誤差があったりするために、月並みの国のモデルは万能ではないかもしれない。

第三象限

果ての国で起こる単純なペイオフである。間違ってもあまり害はない。極端な事象が起きても、それでペイオフが左右されることはない。黒い白鳥なんてあんまり気にしなくていい。

第四象限

果ての国で起こる複雑なペイオフである。問題が待ち構えているのはここだ。チャンスがあるのもここである。遠くかけ離れたペイオフを予測するのは避けないといけないが、通常の事象を予測するのはそうでもない。分布の端の事象は中心近辺の事象よりも予測が難しい。

実は 第四象限はさらに二つの部分に分かれる。よい黒い白鳥へのエクスポージャーの部分と、悪い黒い白鳥へのエクスポージャーの部分だ。ここでは悪い黒い白鳥のほうに焦点をあてる(どうすればよい黒い白鳥を利用できるかは明らかだ)

言い換えれば、第四象限は、証拠がないことと、ない証拠があることの違いが顕著になるところである。
これこそ、現代哲学の歴史における(たぶん)一番役に立つ問題だというのである。

この世界地図を元に先に進んでいくことで「悪い黒い白鳥」を注意深く避け大きな犠牲を払うことなく世の中を進んでいけるようになるのではないか。

そんなことをタレブは考えているようなので、この研究は漸く端緒にたどり着いたところで、本格的な研究はこれからだという。

つまりタレブはこの先この地図を元に「否定形のアドバイス」、つまり大昔から言われている「いらんことするな」的な後ろ向きのアドバイスを科学一般に拡張して適応することで「悪い黒い白鳥」を遠くに追いやることができるのではないかと考えているようだ。この先についてはこれから更に踏み込んで研究をしていこうとしているらしい。

世界が向かっているグローバリゼーションやIMFや世界銀行による新たな規制や制限が、三つ目の次元を欠いたままの理論や計算に基づき予測され計画されている以上、やがていつか黒い白鳥が舞い降りてくることが確実であるように思える。

タレブの今後の活躍に期待したいと思います。


「身銭を切れ」のレビューはこちら>>
「反脆弱性 」のレビューはこちら>>
「強さと脆さ」のレビューはこちら>>
「ブラック・スワン」のレビューはこちら>>


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ゲリラと森を行く
(walking with the comrades)」
アルンダティ・ロイ(Arundhati Roy)

アルンダティ・ロイの本は彼女の存在を知った2009年以来読み続けてきた。2011年3月10日、彼女は公演のため来日していたが、東日本大震災が起こったことから実現しなかった。

僕が港区の職場で大きな揺れに動揺していた頃、彼女は眼と鼻の先の六本木で同じ揺れを経験していた。アルンダティ・ロイは非常に尊敬する人物の一人だったが、この経験によってもっと何か近しい人のように思えるようにもなった気がする。

2011年のイベントは事前に気付くことができなかった。知っていたらもしかしたらあの時職場ではなくもっと別の場所で地震を経験することになったのかもしれない。

また日本での公演はいつの日か実現するといいなと思う。そしてその時はぜひその会場に足を運び、同じ場所・同じ時間に居合わせたいと思う。

そんな彼女の新しい本は「ゲリラと森を行く」である。彼女はどこで何をしようとしているのかと思えば、インド中央部の森に潜む反政府勢力である毛沢東主義のゲリラ部隊に合流するお話なのだ。お話と書いたがこれはルポルタージュであり、すべて実話だ。

毛派のゲリラはインド政府によって「無意味に暴力的」で血に飢えた反政府勢力と呼ばれ、その掃敵の為に、政府は最新鋭の戦闘ヘリや特殊部隊を投入しているのだった。

裕福な国民が絶対に安全でいられるよう、政府はこうした危険な人びとに対して宣戦布告した。戦争に勝利するにはこの先三年から五年かかるかもしれない、と政府は言う。「対話」や「交渉」などがささやかれることなどない。でもおかしくないだろうか。政府はあの11月26日のムンバイ攻撃(2008年ムンバイで、ホテルや鉄道の駅などが爆破、銃撃された事件)のあとですら、パキスタンとの話し合いに応じたというのに。中国とも対話する気でいるのに。貧しい者に対する戦争となれば、強硬姿勢をとるというわけだ。

このように政府が強硬手段に出ている反政府勢力のゲリラ部隊と合流して森を行く?そりゃいくらなんでも無茶すぎやしないか。

勿論合流するには危険が伴う。身分を隠し、秘密の目印として赤い粉のティラカを額に付け小さなココ椰子を抱えて約束の寺院に出向くアルンダティ。彼女をピックアップする人物はヒンディー語のアウトルック誌とバナナを持ってやってくるという。合言葉は「ナマスカル・グルジ」。待ち合わせ場所に着くと、小さな少年が近づいてきた。
 ヒンディー語版『アウトルック』もバナナも持っていない。「いっしょに来る人ですか」と聞いてきた。「ナマスカル・グルジ」も言わない。どう答えればいいのかわからない。少年はポケットから湿ったメモを取り出して、わたしに見せた「アウトルックは見つからなかった」

「バナナはどうしたの」

「たべちゃった」と彼。「おなかが減っていたんだ」

この子こそまさしく治安の脅威だ。

彼のリュックには「チャーリー・ブラウン---並みのうすのろじゃない」とある。名前はマングトゥといった。


まさしくアルンダティ・ロイのまなざしがここにある。彼女はこうして少年に連れられ村を離れ森に入り百人規模で森の中を移動しながら暮らす毛派のゲリラ部隊に合流していく。この政府が恐れおののく毛派のゲリラとは何者なのか。

 現在、インド中央部で活動する毛沢東主義派ゲリラの大半は、絶望的な貧しさに苦しむ先住民である。この人びとは、わたしたちがサハラ以南アフリカと結びつけて考えるような飢饉に近い、慢性的な飢餓状態のなかで生きている。インドが「独立」して60年も経つというのに、彼らは教育や医療や法的な補償を受けることができない。何十年ものあいだに無常に搾取され、小企業家や金貸しに騙され続けてきた。女性たちは、警察や森林局の役人に当然の権利であるかのように強姦されてきた。かれらが尊厳に近いものを取り戻したとすれば、数十年にわたりともに生活し、活動し、闘ってきた毛派幹部のおかげであるところが大きい。

インド政府は企業と結託し開発の名の下に、先住民の権利を蹂躙しその足元に眠る資産を搾取し続けている。こうした政府に抵抗する者たちをひとくくりに反政府勢力とか、テロリストとか呼び、分離主義的な対立を煽ることで世論を操作しようとしており、その手段はアメリカのやり口を真似たものだという。

弱者に向けるやさしいまなざしとこうした悪を糾弾する際に見せる鋭さや激しい怒りも彼女の本に共通するものだ。

インドでは中国を追うように目覚しい経済成長、新興企業、都市開発などのニュースが流れてくるようになってきたが、同時に周辺諸国との緊張や国内の情勢や治安に不安を覚えるようなニュースもまた似通った傾向を見せているように思える。

そしてその向こう側には必死に抵抗している人びとがいる。

頑迷な原理主義者たち。怒りに燃える狂信者。血も涙もない反政府勢力。なんと解りやすいイメージだったのだろう。僕らは事件の原因をこんな言葉で理解したつもりになってしまう。どこかで観た映画の悪役そのものを思い浮かべてしまったりもしている気がする。

しかし、世の中はそんなに単純ではないし、そんなに単純にただ「悪をなそう」とする人なんてそうそういないし、それが徒党を組んで作戦を実行するなんてことも起こりにくい。つまり蓋然性が低い事なのに、僕らはうっかりわかりやすいが故にそんな他愛もないイメージを飲み込んでしまうのである。

迂闊に流れてくるニュースを額面どおり鵜呑みにしてばかりにするとあっという間に僕らは間違った、単純化された世界観を植えつけられてしまうのだ。少なくとも毛派と呼ばれるゲリラ部隊と呼ばれる森をさまよう先住民たちは自分たちの存在そのものを守るために闘っていた。

先住民が武器をとるのは、これまで暴力行為をはたらくか無関心でいただけの政府が、こんどはかれらに残された最後のもの---土地までも奪い去ろうとするからだ。政府がこの地域を「開発」したいだけだと言ったところで、信じられるはずもない。国営鉱物開発会社がダンテワダの森に飛行機の滑走路のごとく広く平らな道路を建設したところで、子どもたちの通学路になるなどと、当然だれも信じない。土地のために闘わなければ、絶滅させられてしまう。だからこそ、彼らは武器をとる。

理不尽で熾烈な闘争に命を賭けている少数民族たちと同じ時間に同じ星の下に僕らがいることをはっきりと自覚したい。そしてそんなことを推し進めようとしている国や企業の行動に眼を光らせ、はっきりと「ノー」と言えるようになっていかなければならない。


「民主主義のあとに生き残るものは」のレビューはこちら>>

「小さきものたちの神」のレビューはこちら>>

「わたしの愛したインド」のレビューはこちら>>

「帝国を壊すために―戦争と正義をめぐるエッセイ」のレビューはこちら>>


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