This Contents


2006年度に入り当サイトも早いもので3年が経過しようとしています。スティーブン・キングの「何者かにならんと欲するなら日々精進せよ。」との教えに従い、先は見えないままに文章を書く事を続けてきましたが、どうだろう少しはマシになったかな。僕の文章は。確実に上達したのはキーボードの入力スピードとブラインドタッチ位で、つまらない文章は変わったない?訪れてくださる方々が読むに耐えうる文章を目指して、これからも努力を続けたいと思います。今年度も宜しくお願いいたします。

ここでは2006.04〜2006.06に読んだ本をご紹介しています。



もうひとつの愛を哲学する
−ステイタスの不安
(STATUS ANXIETY)」
アラン・ド・ポトン
(Alain de Botton)

2006/06/25:アラン・ド・ポトンの本だったので迷うことなく手にして、そもそも「もうひとつの愛」って何?それすら把握しないまま読み出した訳だが、もうあっと言う間に引き込まれてしまった。

原題の「STATUS ANXIETY」はそのままステイタスの不安となるが、日本語のタイトルの方が作者の語りたい事をそのまま反映している感じ、なかなかいいタイトルだ。

ここで言うもうひとつの愛とは、そのステイタス、地位とか身分と云った概念を越えてより具体的な自分自身がその地位とか身分になる事・いる事に対する愛なのだ。

成人の人生はすべて、二つの大きなラブ・ストーリーによって決まる。そう言うことができるかもしれない。第一のラブ・ストーリーは、性的な愛の探求の物語で、周知のものであり、十分に計画もされたものであって、音楽や文学の主要な主題となり、社会的に認められ、祝福もされる。

第二のラブ・ストーリーは、世間からの愛を探し求める物語で、もっと内密で恥多い話しになる。うっかり口に出すと、辛辣な嘲笑にみちた言葉を誘い出しがちで、興味を示すのは主として嫉妬深い欠陥のある精神だということになり、でなけれぱ、ステイタスへの探求を経済的な意味だけで解釈される羽目になってしまう。

とはいえ、この第二のラブ、ストーリーは、第一のラブ・ストーリーに比べて、けっして強烈さに欠けるわけでも複雑さに劣るわけでもなくて、その愛の挫折もまた苦しみに満ちたものなのだ。ここには失恋の心の痛みもあるのだが、それも世間が無名の存在と判定した人々の多くに見られる、焦点の定まらない諦めの眼差によって、それと知られるだけである。
なんとも、自分の本心を直撃するような辛辣な事実に心を打たれる。これを哲学しようと云うのだから一体どんな展開を目論んでいるのか。気持ちが逸るぞ。

本書の導入部分は的を得ている上にわかりやすく書かれていてどんどん進むがやがて議論は徐々にたかまり、読了する頃には見事な哲学論が展開されていると云う本の構成としても見事な出来栄えであった。

そして何より肝心な点として、その主題としてのステイタスの不安に関する哲学の驚くべき深い思慮。このステイタスに対する作者の見解は、簡単に一言で言うと次のような感じになる。

ちゃんとした暮らしや身なりをしている人はちゃんとした人であるという信仰。

信仰だと云うのだ。これは単なる比喩ではなく「そう信じられている(だけ)」という位の意味で使われている。どの位マジかと云うと、

ステイタス・シンボルという見方は、高価な物質は所有者に尊敬をもたらすということに他ならず、広く信じられ、ありえないこととは言えない考え方の上に−−最も高価な品物を入手するためには、必ず人の持つ美徳のなかでも最大のものが求められたに違いないという妄想の上に−−腰を下ろしている。
判ってもらえるだろうか。

ちゃんとした身なりでちゃんとした暮らしをしている人が必ずも「まとも」ではない事は、我々が常々見たり聞いたり感じたりしている通りだ。突き詰めて考えるまでもなくそうだ。

なぜそんな「まとも」ではないようなヤツが高いステイタスを持ち、どう考えても「まとも」な誰某(もしくは自分)がそうではないのだろうか。それは再び一言で云えば「運」という事になる。

アラン・デ・ポトンは能力を超える運次第の要素を5つあげている。

1.不安定な才能しだいという問題
2.運しだいという問題
3.雇い主しだいという問題
4.雇い主の金回りしだいという問題
5.世界経済の成り行きしだいという問題
僕だって会社が倒産するとか、仕事で大失敗をするとか、病気になる等様々な目に逢う可能性があるが、現在の僕の状況だって僕の親や親戚、家族達の家計や健康に左右された可能性だってあった訳だ。

僕自身が経済的な後ろ盾を失う事はそれ以上に子供達の将来のステイタスをも左右する事になる。これを不安に思わない人って、それ相当の資産家であって尚どこか「まとも」じゃない人なのかもね。

しかし、一方で失業中であったり、極端に貧乏そうな人に対してはやはり、ちょっと先入観を持って見てしまう自分がいる事も確かなのである。そして思わず呟いてしまうのだ「ああはなりたくないよな。」と。

これぞ正にステイタスの不安という事だ。

本書のテーマは、そんな現代社会に生きる人であれば普通誰しもが胸に抱えるステイタスの不安というものこの定義、その原因を明らかにしていく事。そして、そのステイタスの不安に対し、どんなイヤな感じも奇跡のように拭い去る、というわけにはいかないものの
少なくとも問題にアプローチする最良の方法について、役に立つ数多くのことを教えることができる。迫害されている感じや、混乱している感じを、急激にへらすことができる。

と云う意図に基づき著されている。

また、ステイタスという信仰は、昔から今までずっと「信仰」と呼ばれてきたものはみなすべてそうだったように、支配的な層やマジョリティにとって都合の良い性質を持つものが高いステイタスだとされて来ているだけであり、それは世の中が変れば移ろっていくものだからだ。

こうした移ろい易い世の中の価値観にあって、ステイタスを得る・守ろうとする事で心をすり減らし、追い求めるばかりではなく心に平静を与え、慰めをえるにはどうしたらいいのだろうかと考えた時、

もっと野心的に考えるなら、理解することは、或る社会の理想を動かそう、あるいは引き倒そうとする試みの第一歩になるかもしれない。独断的に、疑いを差し挟むこともできないまま、いまなお御立ち台の上の人たちに尊敬や名誉が向けられている辺境に、いくらかでもまともな文明の風をもたらす助けになるかもしれないのである。
そう、アラン・デ・ポトンはあわよくば世の人々を啓蒙しようとしているのだ。なんと、なんと。この目論みとこの叡智には敬服させられる。何より彼の提示している哲学が何より心に心地よい。

わたしたちは自分は重要じゃないという感じを、自分自身をもっと重要な人物にすることではなくても、万人の相対的な非・重要性を認識することで克服できる。誰がわたしたちより二、三ミリ背が高いかという関心は、わたしたちより10億倍も巨大な存在への畏怖の前には−−わたしたちが思わず無限とか永遠とか、あるいは単純に、しかし最も有益な名前である、神と呼びたくなる力の前には−−道を譲ってしまうのである。
結局、今この瞬間に生きている僕たちは、この世界のなかで十分すぎるほどちっぽけな存在であり、悠久の時間の流れの中ではどんな出来事も取るに足りない。

神の存在を信じ、日常の雑事に動じない心を持つことも信仰なら、宇宙の大きさや、時間の流れの永遠さに畏怖を憶える事によって魂が救われる人も居ていいという事かな。

「魂の救済」という言葉の意味がなんとなく解ったような気がするこの数日である。最初から最期までどこもかしこも示唆に富んでおり刺激的な本でした。極めつけの良書である事に太鼓判を押します。

<目次>
第1部  ステイタスの不安―なぜ、わたしたちは不安なのか
第一章 もうひとつのラヴ・ストーリー
     ステイタスへの欲求
     愛の重さ
第二章 俗物主義が神経を逆撫でする
 
第三章 期待は果てしなく膨らむけれど
     物質的進歩
     平等−−期待と羨望
第四章 実力社会(メリトクラシー)のウソとマコト ほか)
     負け組みに役立つ昔ながらの三つの物語
     勝ち組の不安を打ち消す新しい三つの物語
第五章 時代状況が個人を圧倒する
     能力を超える運次第の要素
第2部 ド・ボトン先生の哲学クリニック―どうすれば、不安からぬけだせるのか
第六章 哲学からの回答―人間嫌いの逆説
     名誉と傷つきやすさと
     哲学と心の鎧と
     知的な人間嫌いの生き方

第七章 芸術からの批評―人間性のステイタス
     はじめに
     芸術と欲物主義と
     悲劇の効用
     喜劇の毒
第八章 政治からの提案―社会もステイタスも
     理想的人間像−−ステイタスの条件
     現代のステイタスの不安を政治的に読み替えると
     政治的改革
第九章 俗なるステイタス、聖なるステイタス−−死ヲ忘レルナ
     メメント・モリ
     キリスト教徒の共同体
     双子の都市
第十章 ステイタスからの自由−−ボヘミアンの生き方

そしてド・ポトン先生のウェブサイトはこちらから>>

また当サイトの「哲学のなぐさめ」のレビューも是非ご覧下さい

「旅する哲学」のレビューはこちらからご覧頂けます>>


△▲△


ゴールド−金と人間の文明史
(THE POWER OF THE GOLD
THE HISTORY OF AN OBSESSION)」
ピーター・バーンスタイン
(PETER L.BERNSTEIN)

2006/06/18:文庫版で618ページ。読みきるのになんだかんだと1ヶ月近くかかってしまった。仕事も家事も忙しかったという事もあるが、一番はやはりかなり難解。数年前に読んだ「リスク」はこれ程読み難くなかったなぁ。

ピーター・L・バーンスタインは、ハーヴァード大を卒業、ニューヨーク連銀、ニューヨーク共同銀行に勤務、現在はピーター・L・バーンスタイン社を起こし、コンサルティング活動を続ける傍ら多数の著作を著し、アメリカの投資社会では「賢人」と呼ばれるような人である。

前著「リスク」が画期的であったのは、かつて人類は、未来は過去の鏡であるとか、未来は神によって支配され、ままならないものとして考えられていた。

しかしやがてリスクを理解、測定し、ウェイト付けを行い自らすすんで選択するものであるとする考え方を持つようになった。

この観点で人類はそれ以前とは一線を画しており、このリスク・マネジメント能力と共に進歩してきたと云うアプローチにあった。

この「リスク」は以上のような観点で数千年前から現代までの人類の歴史を辿っていく。

一方で今回ご紹介する「ゴールド−金と人間の文明史」は、どのようなアプローチをとっているのだろうか。

1511年、スペインのフェルナンドU世の言葉、「万難を排して金を手に入れよ」に代表されるとおり有史以来人類は金に価値を見出し、金を巡って人類の歴史は大きく左右されてきた。

当初、金は装飾品、財宝という形で価値を認められていた。しかし金貨として流通するようになり、金の価値は万人に関わるものとなった。

19世紀末には国際的に「金本位制」となったが、1971年8月15日のニクソン・ショック以降、米ドルの兌換が停止され世界は金本位を捨て管理通貨制度へと移行してきた。

本書は歴史におけるこの「金」にまつわる歴史の出来事を語りつつ、実は「貨幣」、「経済」そして、そもそも「価値」とは一体何なのかについて語られているのだ。

1903年にウィリアム・ヘンリー・ファーネスV世がヤップ島を訪れた際に書いた文章には、当時ヤップ島の通貨について記述がある。それはフェイと呼ばれる大きな車輪のような石だった。この石は皿ぐらいのものから直径数メートルに及ぶものまで様々で、当然大きいほど価値があるとされていた。

大きな石は動かす事が困難なので、所有者がかわった事が確認されるだけで、場所がかわる事はなかったそうだ。

なかでも裕福な家族は巨大なフェイを所有しているというが、それは誰も見た事がないと云う。そのフェイはその昔その家族の祖先が筏で運んでいた時に嵐に巻き込まれて海に沈んだままになっているのだと云うのだ。

それに続く、ファーネスの1898年にヤップ島をスペインから買い取ったドイツ政府と島民の逸話。

ドイツ政府はでこぼこの珊瑚の道のかわりに現代的な輸送路をつくらせようとしたが、島民はそんなことに時間を費やす気はなく、ドイツ側がもっと急げと何度も要求したがどこ吹く風だった。
ドイツ人の役人は島をまわり、最も価値の高いフェイに黒い×印をつけて政府の所有権を主張した。
ファーネスによると「これは魔法のようにたちまち効き目をあらわした。かわいそうに、貧乏になった島民たちは道路の補修にとりかかり・・・・公園の道路のように美しく仕上げた。」
そこで政府は、フェイにつけた×印を消してまわった。「そら!これで罰金は返還された。資本ストックが戻って、島民はまた裕福になった。」
時期と場所が変れば、こうした措置は課税と政府支出と呼ばれるようになる。
著者が1940年ニューヨーク連邦準備銀行で勤務していた頃、建物の地下には膨大な量の金塊が厳重な警備の基に保管されていた。

それは合衆国の所有物ではなく、世界各国のものであった。連邦銀行は保管している金のイヤーマークを付け替える事で管理していたのだ。

仮にイギリスがフランスに金を支払うとしたら、連邦準備銀行の守衛が手押し車をイギリスの戸棚のところにもっていって金塊を乗せ、それからフランスの棚のところまでころがしてイヤーマークをつけかえ、帳簿に記入すれぱいいのである。
棚から棚までわずか数メートル移動するだけで、国家間の富の大きな転換を反映することもしばしばで、経済の安定に影響することもある。
貨幣の原始的とされる使い方と現代的な使い方がよく似ているのは、ヤップ島の海岸と連邦準備銀行の地下金庫ばかりではなかった。


カジノでプラステッィクのチップの山の高さで一喜一憂するギャンブラーも、個人が買い物の決裁をカードで済ましているのも考え方は一緒だ。

僕はどちらかと言えばカード派で、あまり現金を持ち歩いていない。今日タクシーでもカードが使えるので現金がなくても、そんなに困る事はない。

こんな時、実際の貨幣は動かず完全にコンピューター・マネー、数字が動いているだけなんだろうな〜。確かにかつてのヤップ島の住民達となんら変るところがないのだ。

冒頭、バーンスタインは述べている。

この物語は、金の完全な歴史でもなければ、経済や文化における金の役割を統計的に分析したものでもない。
貨幣や銀行業の詳細な歴史を記したものはほかにいくらでもある。そうではなく、私の目から見て魅力的な金にまつわる事件や物語を捜していきたい。

本書が上梓されたのは2000年。正にユーロが通貨として導入された頃である。あの頃、世界の通貨すべて統一されたら、一体どうなるのだろうかとおそらくみんなが考えたのではないだろうか。

そんなタイミングでバーンスタインは「金」の歴史についての本を書いたという事だ。

貨幣として金が流通されたのも、金本位制が導入されたのも、或いは放棄されたのも、すべては目まぐるしく変動する物の価値とその「物」を交換する為の制度との鬩ぎ合いによるものだった。

社会の枠組みや取引の形態によって制度が疲弊し使い物にならなくなって来た事で「金」の立場も変化してきたという訳だ。

次々と紹介される新しいアプローチで語られる、歴史の出来事は非常に面白い。しかし、バーンスタインが本当に言いたい事が表面に現れてこない。

意図は何なのか。

これは本当に最後まで読まないと解らない。

本書のエピローグでバーンスタインは重大な問題提起をしているのだが、ここでそれを書いてしまうのは無粋と云うものだ。

正に「賢人」たる鋭い切り口。かなり手強い一冊ではあるが、是非読んでおくべき一冊である事は間違いない。

2006年6月17日時点の円ドルレートは115.17円。日銀は3月5年半ぶりに量的緩和政策を解除しゼロ金利の解除を宣言した。118円程度であった円ドルレートはじりじりと下げはじめ、6月に入ってから急落した。

今月は株式市場は、アメリカ株価のインフレ懸念による下落から生じた世界同時株安となった。

一方、金の価格は米ドル/トロイオンスレートは578.4ドル。普段気にした事なかったけど、やはりやや下落してた。とは言うものの、1973年97.22ドルだったので、6倍近い!

ここで感じるのは、現在の通貨管理制度がもし限界に来た時、われわれはどんな制度を作って乗り換えていくのだろうかという事だ。
或いは、ラスキンの船客のように、金を抱えて海底に沈んでいく運命にあるのだろうか。

目次

プロローグ−−至上のものを所有すること
 つねに貴ばれてきた金属
第1章 万難を排して金を手に入れよ
第2章 ミダス王の願いごとと偶然の産物
第3章 ダレイオスの浴槽とガチョウの鳴き声
第4章 象徴と信仰
第5章 黄金、塩、祝福された町
第6章 エオバ、バッバ、ウッドの遺産 
第7章 大いなる連鎖反応
第8章 崩壊の時代と王の身代金
第9章 聖なる渇望
 勝利への道
第10章 生命を奪う毒と私的通貨
第11章 アジアの墓場と憲宗の偶然の発明
第12章 大改鋳と最後の魔術師
第13章 正しい教義と大きな弊害
第14章 新しい女王と呪われた発見
第15章 名誉のしるし
第16章 途方もない陰謀と無限の連鎖
 栄光からの転落
第17章 ノーマン・コンクェスト
第18章 一時代の終わり
第19章 超越的な価値
第20章 第8次世界大戦と30オンスの金
エピローグ−−至上のものの所有?

△▲△


荒ぶる血
(Under the Skin)」
ジェイムズ・カルロス・ブレイク
(James Carlos Blake)

2006/05/21:大型連休を挟んだ事、山平 重樹の「ヤクザに学ぶ組織論」はブログのみで終らせた事もあって一月近く更新を飛ばしてしまっていた。自分でもびっくり、最近益々月日の経つスピードが速くなっているように感じる。

前著、「無頼の掟」のレビューの書き出しをあらためて読み返すと、

本書は物語がシンプルなのであらすじが非常に書きにくい。かといって粗いと言っている訳ではない。武骨で太いキャラクターが最初から最後までただまっすぐ前に突き進んでいくのだ。ここには迷いも無く、懺悔の念もない。

と、云うような事を書いていた。

本書「荒ぶる血」も全く同様。ただ只管クライマックスに向かって突進していくのだ。それは恰も、クライマックスを向かえる事だけが目的であるような感じなのだ。

それこそ、「衝動」。それは登場人物達の行動規範が衝動的である事によるものなのだろうか。この衝動に突き動かされているような展開はそればかりではない何かが背後に流れているような気がするのだが、なんなのかわからない。

主人公のジミー・ヤングブラッドは、メキシコ革命のさなか、パンチョ・ビリャ率いる革命軍の参謀、それも"肉食獣"と渾名される冷酷無比な殺し屋ロドルフォ・フィエロと一夜の出会いを遂げた娼婦アバの間に生まれた子供である。

このロドルフォ・フィエロとアバの二人の物語、ジミーの生い立ち。またこのロドルフォ・フィエロと度重なる対決をしている大農園主ドン・セサール。彼はパンチョ・ビリャを生涯の敵として対峙しその執念と怒りによってのみ人格が形成されているかのような人物だ。

これらを伏線としてガルヴェストンを牛耳るマセオ兄弟の手下"ローズの亡霊"の一人として働くジミーの物語が語られる。

マセオ兄弟はガルヴェストンのクラブやカジノを経営し、同時に客や街の安全を維持する為に"ローズの亡霊"を派遣する。その働きは地元の警察を凌いで迅速・正確且つ徹底的であった。

十数名とも言われる"ローズの亡霊"の中でもマセオ兄弟から絶大な信頼を受けているのが主人公のジミーなのだ。

そんなジミーの前にある日メキシコから逃れてきた女が現れる。

登場人物が血で血を洗う戦いを繰り広げる様が物語の大部分を占めている本書は前作以上に前半の時間軸が入組んでおりあらすじを要約しにくい。作者は登場人物の行動規範は全て過去の柵によって決定されていると言いたいのかもしれない。
これ以上書くとこれから読まれる方の読書の妨げになるだろう。

西部劇以降でギャング以前という時代背景と云い、その戦いぶりと云いスタイリッシュ。カッコいいじゃねーの。全体としては「ワイルド・バンチ」であり、「ガルシアの首」。ペキンパーも草葉の陰で足を踏み鳴らして喜ぶような武骨な展開である。

このガルヴェストンのマセオ兄弟は、前作「無頼の掟」でもチラっと登場してくるキャラクターである。また、大きな存在感を持って現れるロドルフォ・フィエロは未訳の第二長編"The Friends of Pancho Villa"の主人公だと云う。

共通の世界観を持った物語なら是非訳出して欲しいものだが、、作者の今後の活躍も期待したいところだ。

「無頼の掟」のレビューはこちら>>

「掠奪の群れ」のレビューを追加しました。レビューはこちらからどうぞ>>

△▲△


なぜ、それを考えつかなかったのか?
―最高の結果を生む聡明な思考法
(WHY DIDN'T I THINK OF THAT?)」
チャールズ・W. マッコイ.Jr
(Charles W. McCoy.Jr)

2006/04/29:組織改定・人事異動でやや方向感を見失いそうになったオヤジは、こんな時適当な本を選んで読むのだ。「精神集中して徐に本を開けば、そこに必ず答えがある。」ドナルド・シモダの教えを心の底から信じている私に迷いはないのだ。

そんな僕が無意識に選んで手にしたのが、本書「なぜ、それを考えつかなかったのか?」であった。自分自身、そう感じる事って確かにあって、それは凄く悔しかったりしてた。

しかし、なぜ今この本なんだろうか。自問しながら本書を読みすすむ。

そして、ドシンと心を捉えたのは、「治療しようとする前に診断に集中する」であった。

方向性を見失ったりしてどうすればいいのか焦ったとしても、いきなり何かしはじめてもダメだという事だ。まず、診断からはじめよ。本当に必要な事は何か。考えるよりも更にもっと前に、調べろと本書は云うのだ。

巧くやっている過去の事例や同業他社。先ずは調べて自分たちとの差異を把握し、診断する事からはじめろという訳だ。

そこで焦ってはならない。まして仕事を進めてはいけないというのだ。

なるほど、結果を出す事に焦って成果物の質については二の次にしている今の現状が問題だったという事だな。

ありがとう、ドナルド・シモダよ。今回もあなたが正しかった。言うまでもなく、ドナルド・シモダはリチャード・バックの「イリュージョン」に登場する救世主である。「イリュージョン」は人生に迷う僕の個人的バイブルなのだ。

折りしも、この「イリュージョン」が翻訳しなおされて、新刊として出版され、また新たな信者がひろがることだろう。僕のページもアクセスが急増、良い事ですね。ドナルド・シモダに貰ったあの「救世主入門」はご覧の通り常に真実を語る、かもしれないものなのさ。


目次

第1章 なぜ、それを見抜けなかったのか?―知覚を鋭敏にして考える
◎見えたり見えなかったり
◎事実をありのままの姿で見つめる
◎知覚したことをダブルチェックする
◎重要な事実に集中する
◎的を射た質問をしなさい
◎森と木の両方をみるようにする
◎まず頭で考える(感情よりも理性が先)
第2章 なぜ、それに集中しなかったのか?―慎重に考える
◎熟考する
◎自分が考えたこととその結果に責任を持つようにする
◎判断を下す前に理解する
◎治療しようとする前に診断に集中する
第3章 なぜ、それを見過ごしたのか?―思考の品質管理をする
ソクラテスの問答法
◎それは明確か?
◎それは正確か?
◎それは包括的か?
◎それは道理にかなっているか?
他人の考えが道理に合っているかどうかをチェックする方法。

・自分の理論の妥当性をチェックするのに何をしましたか?
・他にどういった論理的アプローチを適用してみましたか?
・その到達した結論にはどういった仮定や推論が含まれていますか?
・その意見はどういった事実をもとにして構築されましたか?
・その論理の弱点は何ですか?
・その結論に反する論理の中で、ベストなものを教えてください。
◎それは知的に高潔か?

あなたも自分自身の知的高潔さをチェックする

・私はある特定の問題に取り組むのを避けていないか?
・私の考えはそれに欠点とか弱点とかがある可能性を腹蔵なく認めているか?
・この考えに矛盾を見つけているか?
・論理的に説明するというよりは正当化しているだけではないか?
・自分が望んでいる結論は高潔な考え方から離れたものになっていないか?
・私は事実の代わりに推測を用いていないか?
・私の論理は本当は問題を避けようとしているのに問題に取り組んでいるふりをしているだけではないか?
・まだまだ知らなければならないことがあるのではないか?
・私は自分が他人に要求するのと同じ厳しい基準を自分にも適用しているか?
第4章 なぜ、それに気づかなかったのか?―システマティックに考える
◎すべての傑作の裏にあるメソッド
◎システマティック・メソッド
1.真実だとわかっているところからはじめる
2.それらを関連づける
3.賛否両論を比較検討する
4.可能性を考える
5.クリティカル・パスをたどる
第5章 なぜ、それを思いつかなかったのか?―想像力を駆使する
◎勇敢に想像する
◎逆境、挫折、そして失敗を切り抜けていく方法を想像する
◎型にはまった常識にとらわれない
◎ベストな解決方法を想像する
第6章 なぜ、それを感知できなかったのか?―心の声に耳を傾ける
◎理性だけではできないことを、直観にしてもらう
1.直観は問題を感知する
2.直観は未知を飛び越える
3.直観は見たこともないパターンや関係を看破する
4.直観は創造性を促す
5.直観は賢いリスクを冒すことを可能にする
6.直観は、それがなければ考えるのを止めてしまったかもしれないときも、考え続けさせてくれる
自分の直観をどのように利用しているか具体例を挙げる。
・問題があると感じ取るとき
・未知の世界へ心理的に飛び越えるとき
・それまで知られていないパターンや関係を発見するとき
・創造的に考えるとき
・リスクを冒すとき
・考えるのを止めようかと思ったときに考え続けるとき
◎直観の「感触」を学ぶ
◎自分の直観を信頼する
練習して完璧にマスターする
 直観の四段階
1.没頭
2.孵化
3.洞察
4.有効性の確認
◎ニセモノの直観に気をつける
第7章 なぜ、それが理解できなかったのか?―共感をもって考える
◎他の人が何を考え何を感じているかを考える
◎裏に潜んだ動機を明らかにする(そう考え、感じ、行動するように仕向けているのは何か?)
◎他の人があなたの言動をどう考えどう解釈しているかを学ぶ
第8章 なぜ、それを予期できなかったのか?―飛ぶ前に見る
◎考えもしないことまで考える
◎予期せぬことを予期する
◎結果の重要性と起こる可能性を考える
◎辛らつな批判を求め、それを大切にする

「イリュージョン」のページにも行っとく?>>


△▲△


つくも神
伊藤遊

2006/04/29:深夜けたたましく非常ベルがなり響いく古びれたマンションの一室で目を覚ましたほのかは小学生のおんなの子だ。窓から敷地を見下ろすとゴミ置き場から火の手があがっている。

ほんものの火事だ。

起きだすと、お母さんも外の様子を見に行こうとしているところだった。お父さんは出張中、中学生のお兄ちゃんは外出から戻っていない。お母さんは、火事の様子とともにお兄ちゃんも探しに行こうとしていたのだった。

中学に入ると評判の悪い友達と付き合いだし夜中まで遊び歩いているようだ。そこへ、お兄ちゃんが帰ってきた。叱ろうとするお母さんの言葉も聞かず、無言で自分の部屋に入ると鍵をかけてしまった。

翌日、学校から帰ってきたほのかがエレベーターに乗ろうとするとなかには、恐い顔をした小さな石像が乗っていた。

石像に向き合う形で、恐々と乗りつつ4階に上がり後ろ足でエレベータを降り玄関に辿り着きくとお兄ちゃんが外出しようとしているところに居合わせた。

中からお母さんが怒っている声が聞こえる。今日は学校に行かなかったのだった。

「ねぇねぇエレベータに変なものがあるの」

お兄ちゃんをエレベーターに連れて行ってドアを開けるとそのまま4階に止まっていたハズのエレベーターの中には何も居ない。

一所懸命に説明するほのかの話しを暫く聞いていたお兄ちゃんだったが、最後は「バーカ」と言うとそのエレベーターで降りていってしまった。

今のはなんだったんだろうか。

呆然と立ち尽くすほのか。そこへエレベーターは再び上がってきた。エレベーターはごとごとと4階を通過していく。

ほのかはそのエレベーターの中に先程の石像が乗っているのを見たのだった。

悪い友達と付き合いだしている中学生のお兄ちゃん。放火だったらしいゴミ置き場の火事。階段の踊場に落ちていたタバコの吸殻。老朽化がすすんだマンションに住む住民たちの関係。

そして、隣のお化け屋敷と陰口を言われている古い一軒家に住むおばあちゃん。
ほのかの周りでやがて次々とおきる不思議な出来事。

伊藤遊の描く物語の世界観はどこまでも血が通っている。

これは生き生きと実体があるかのような登場人物に負う所が大きい。これは主人公ばかりでなくすべての登場人物がまるでどこかで会った事があるようなリアルさで、彼らの言動が少しも不自然さがないのだ。

なるほど、そうするだろうと思わせるやりとりによって物語が動き出すところは見事としか言いようがない。なのにファンタジーである訳だ。だからこそ物語にのめりこんで没頭できるのだ。

「えんの松原」も「鬼の橋」も同様である。昔の話しである設定であるのにも関わらずまるで見てきたかのような自然さによって物語が支えられている。

どうやってこんな物語を思いつけるのだろうか。
僕には想像もつかないぞ。ある種嫉妬すら感じるぞ。


以下のレビューも是非ご一読を

えんの松原

鬼の橋

ユウキ


△▲△


秘密結社の世界史
海野弘

2006/04/23:「スパイの世界史」、「陰謀の世界史」に続き、今回は「秘密結社の世界史」である。読んでいくと中国の秘密結社に関しては「ドラゴンの系譜―中国の秘密結社」を読めという。ななな。

で、調べてみたら海野氏の本には「カフェの文化史」、「酒場の文化史―ドリンカーたちの華麗な足跡」、「書斎の文化史」「百貨店の博物史」、「宝飾の文化史―プラチナ宝飾の華麗な世界」「華術師の伝説―いけばなの文化史」そして、「ホモセクシャルの世界史」なんてのもあるではないか。いやはや奥が深い。でも最後のは、電車じゃ、ちょっと読めねーな。

本書はどちらかと云うと、「スパイの世界史」、「陰謀の世界史」の入口的な位置づけで、読んで面白ければお先へどうぞという感じだろうか。

「陰謀の世界史」は秘密結社ばかりでなく、政府や私企業、そして個人が企てたとする陰謀の数々とそれを前提とした陰謀史観に焦点が絞られている。

そして「スパイの世界史」は実際に起こった情報機関のスパイ活動のなかでも失敗し、暴露され、事実が白日にさらされた事件について書かれたものだ。成功した任務・作戦は人に知られる事がなく、闇から闇へ消えていく。残るのは疑惑や推測。そしてそれは陰謀史観へと戻っていき、その背後には秘密結社の存在が浮かび上がってくるのだ。

海野弘の狙いは、正にこのぐるぐると回る関係を焙り出す事にあった訳で、僕は本を読んでいるうちにいつの間にか本文から離れて過去の事件や史実に思いを巡らせ、「もしかしたら...」なんて、眩暈を起こすような迷宮に陥っていったのだった。

迷宮への入口。そう、それは単純な入口ですらないのさ。

ところで、なぜ今、秘密結社なのだろうか。それは、

秘密結社は共通の認識への危機からあらわれる。常識は分裂し、バラバラになり、分離する。私たちは社会へのつながりを失って、小さなグループに逃避する。現代社会において、<秘密>はどのようになっているのだろうか。現代の二つの傾向が<秘密>を形成していると思われる。一つはヴィジュアル・カルチャー(視覚文化)であり、もう一つはインターネットである。この二つによって現代の<秘密>はとめどなく巨大になりつつある。私たちは世界中を見ることができるのだが、しかし限りなく世界の一部しか見られなくなり、見える部分が大きくなっているようで、実はその何倍もの見えない部分がその背後に広がりつつあるのだ。
中略

私たちはテレビやインターネットや新聞・雑誌で、世界中をほとんど同時的に見ている。しかしそれらはある意図の下に切り取られ、操作された表面であり、一部である。私たちは見れば見るほど、その背後になにがあるのだ、という隠されたもの<秘密>をのぞきたいという衝動にかき立てられるのだ。その時、この世は、隠された世界政府、世界的秘密結社の陰謀によって操られているのではないか、という疑いにとらわれる。
つまり、以下に示す本書の目次は、インターネットの広大な、訳のわからない、本当か嘘なのかもわからない世界への入口にもなっているのだ。嘘だと思うのであれば下に紹介している目次に記されているどのキーワードでも良い。一つ検索してみればわかる。

それらは何を語りかけてくるのか。書いているのは一体どんな人物なのか。彼らは何時の時間に生きているのか。秘密結社を足がかりにインターネットをエクスプロールする行為は、それが古代宗教であろうが、中世の伝説であろうが、タリバンの話であろうが、現代社会が生み出したものであり、現代社会そのものでもある訳だ。

目次

プロローグ―秘密結社の世界
秘密結社とはなにか/秘密結社の分類/秘密結社の時代/秘密結社の今
第1章 古代
■古代密儀宗教
エレウシスの密儀/ヘレニズムの密儀/エジプトの密儀/ピタゴラスの結社/ミトラス密儀/未開社会の秘密結社/仮面と秘密結社
第2章 中世
■イスラムの暗殺教団"アサシン"
近代秘密結社の原型
■死海文書とナグ・ハマディ文書
死海文書とクムラン宗団/ナグ・ハマディ文書とグノーシス派/カタリ派/テンプル騎士団
■ルネサンス
ダンテと秘密結社/講社とギルド/錬金術師の秘密結社/パラケラスス/アカデミー
第3章 近代
■薔薇十字団
実在か幻想か/ヨハン・ヴァランティン・アンドレーエ/F・イェイツ「薔薇十字の覚醒」/その後の薔薇十字団
■フリーメーソン
メーソン論の二つの方向/知られている歴史/フランスのフリーメーソン/ローマとフリーメーソン/「魔笛」とフリーメーソン/
フリーメーソンがアメリカを作った/メーソンとフランス革命/ユダヤとフリーメーソン
第4章 十九世紀
■イルミナティ
歴史から幻想へ/カルボナリ
■薔薇十字の復活
世紀末とオカルティズム/黄金の夜明け/「黄金の夜明け」と「薔薇十字」/神智学とブラヴァッキー夫人/フランスの薔薇十字
■アメリカの秘密結社
結社の国アメリカ/アメリカの結社の位階/演劇と秘密結社/友愛儀礼を重視する結社/クー・クラックス・クラン
第5章 二十世紀
■秘密結社の復活
グリフィスの「国民の創生」/アイレスター・クローリー"秘密結社メーカー"/ヒトラーとオカルティズム
■イルミナティ・パラノイア
イルミナティのその後/フリーメーソンとユダヤ人/イルミナティとエイリアン/現代のイルミナティ・ネットワーク
■スカル・アンド・ボーンズ
あらゆるクラブは秘密結社かもしれない/スカル・アンド・ボーンズ
■カルトの時代
現代カルトの条件
■テロリスト・グループ
テロリストの結社
■犯罪秘密結社マフィア
シチリアからアメリカへ/マフィアとフリーメーソン
■中国の秘密結社
教から会へ/第6章 秘密結社の現代
■なぜ今、秘密結社なのか
秘密結社本の流行
トランスペアレンシーとコンスピラシー
■秘密結社ファンタジー
ウンベルト・エーコ「フーコーの振り子」/ダン・ブラウン「ダ・ヴィンチ・コード」
■ネットの中の秘密結社
暗黒同盟の噂/サイバースペースの秘密結社/タリパンでさえインターネットを使う
エピローグ

「めまいの街―サンフランシスコ60年代」のレビューはこちら>>

「癒しとカルトの大地―神秘のカリフォルニア」のレビューはこちら>>

「スパイの世界史」のレビューはこちら>>

「陰謀の世界史」のレビューはこちら>>

「秘密結社の世界史」のレビューはこちら>>

「陰謀と幻想の大アジア」のレビューはこちら>>

「新編 東京の盛り場」のレビューはこちら>>

「海野弘 本を旅する」のレビューはこちら>>

「書斎の博物誌―作家のいる風景」のレビューは こちら>>

「武蔵野を歩く」のレビューは こちら>>

「海賊の世界史」のレビューはこちら>>

「ビーチと肉体」のレビューはこちら>>

△▲△


星野道夫と見た風景
星野道夫/星野直子

2006/04/15:本を読む悦びの一つに《あっ、そうなのか!》という「気づき」があると思う。些細な気づきもあれば、人生に大きな影響を与えるような深い「気づき」もあるだろう。

先日読んだ柳田邦男の「砂漠でみつけた一冊の絵本」で僕は「自己の人生をありのまま受け入れる」という言葉の意味にある種の気づきを得たと感じている。

そしてその意味は僕の既知の情報に深く浸透し、それらの意味や価値も塗り替えていくのを目の当たりにした。それはよく言う180度変るというほどではなかったにせよ、「人生観」が変わったと言っていい程のものだった。

この本で知った星野道夫の「クマよ」を読みたくて、本屋に駆け込んだのだが、残念ながら在庫切れ。諦めきれない私は代わりを捜して手に入れたのが、本書「星野道夫と見た風景」であった。しかしこの本との出会いは僕に「自己の人生をありのまま受け入れる」という言葉の意味を更に強く確信させるものでした。

星野道夫は1952年千葉県市川市に生まれ、76年に慶応大学を卒業後はアラスカに魅せられ撮影・執筆活動を精力的に行った。

1993年直子夫人と結婚。
1996年7月22日からTBSテレビ番組取材に同行してロシア・カムチャッカ半島クリル湖へ。8月8日ヒグマに襲われ急逝した。

当時、事故は大きく取り上げられたので僕も知ってはいた。

星野道夫はオフィシャルサイトのプロフィールを見ても判るとおり、元々冒険、探検家の素地を持っており、自身の知的好奇心を充足させるべく各地を探索しながら写真を撮っていたのだ。

そうして景色や、動物、そして人々との出会いで感じたこと、考えたことを書き記した本によって、彼の人柄に触れることができるのだ。

本書は、事故後夫人の直子さんの目線で夫妻で過ごした5年半を追想した文章を主旋律として星野氏の写真や遺されたメモによって構成されている。

「ナオコはクマを許すことができたのか?」
私は、

「クマを許せないと思ったことはない」

と答えました。なぜなら、カムチャッカに迎えにいったときの道夫さんの表情には、苦痛の影が少しもなかったから......とても静かな顔でまるで眠っているようだったから。

ここにあるのは単なる赦しだけではない。
愛し合った二人の人生に対する受容がある。

すごいじゃないか。




「ノーザンライツ」のレビューはこちら>>


△▲△

砂漠でみつけた一冊の絵本
柳田 邦男

2006/04/15:柳田邦男の本だったので予備知識なしにいきなり読み始めてとても驚いた。タイトルから紀行文、文字通り、どこかの砂漠にでかけて遊牧民かなんかの子供が読んでいる絵本の話題だと思っていたのでした。

ところが、ここで云う砂漠とは愛息を亡くすという事件後の自身の心象を指している言葉だったのだ。息子の死を受け入れきれず、気力を失い、離人状態となってしまった作者がふと手にした絵本によって再生されたお話なのである。

冒頭は、末期ガンに冒されているチェリスト徳永兼一郎氏が、ホスピスで開いた演奏会の話だ。死期迫る事を自ら自覚した徳永氏の「もう一度だけでも、聴衆の前で演奏したい。」という願いによって実現したこの演奏会で、氏は堂々とそして満足げに演奏し、振り返ることなく会場を後にしたという話が紹介される。

朝の通勤電車でいきなりこの話に出会ってしまって、正直思わず号泣しそうになりました。

おぉ〜。あぶなかった〜。

徳永兼一郎氏が演奏を終えたあと、一緒に演奏した弟の二男氏と握手を交わした時に流した涙。この涙の意味を柳田は深く考察していく。

そして、その話に続く絵本の話は「フランダースの犬」である。

ご存知の通り「フランダースの犬」はアニメになった事で日本人の涙腺全開にする条件反射を植えつける程のインパクトのある物語である訳だが、柳田邦男が注目したのはネルロがルーベンスの絵を最後に見て「とうとう見たんだ!」とさけんだあとに続く、それは、「ああ、神さま、これで、じゅうぶんでございます。」という言葉だ。
この言葉は、私の記憶から消えていたものだった。私は《あっ》と思った。この言葉を読んだ時、私はこの物語の本当の意味−−女性の作家ウィーダがこの物語で語ろうとしたテーマ−−を、はじめてつかむことができたのだ。それは、《自らの人生への納得》とでも呼ぶべきものだ。

衝撃は続く。

司馬遼太郎氏に送った息子洋二郎の死の対する追悼記である「犠牲」に対する返礼として届いた悔やみ状。

・・・御胸中の万分の一ほ察し入りつつ、人間のいのちが両親や他の人にいたわられつつ辛うじて存在していること、いたわりが千万倍ふえようとも、掌の中の露の玉のように指の間から落ちていくこと、そのはかなさ、それは内村鑑三のことばを強いてあげれば「勇ましく高尚」なものであるかと存じます。吉田松陰は洋二郎さんより、二、三歳上でもって生涯を終えました。「人は、たとえ六十、七十であろうと、二十五、六であろうと、春夏秋冬というのがあるのだ。悔ゆることはない」と死の直前に書きました。われわれは馬齢であります。二十五歳は宝石であります。まことにまことに。
そこで語られる「救い」とは、所謂癒しとは一味ちがい、それは自己の人生をありのまま受け入れる事なのだ。柳田邦男は「絵本の力」によって、魂の救済を得たと言えるかもしれない。そして、他にも同じ様に救われた人が大勢いる事に気づいたのだった。

全く知らなかったのだが、柳田邦男は最近河合隼雄らと「絵本の力」という本を書いたり自ら絵本の翻訳をしたりしていたようだ。僕的には、リスク・マネジメントの仕事がしたいと思っていた時期もあって積極的に読んでいたしカミさん的には半ば航空機オタクという面から大好きという事で固い本は随分と読んでいたのだが脇が甘かったようだ。


「スーホの白い馬」「ちいさなちいさな王様」「わすれられないおくりもの」等、紹介される本はどれも瞠目の内容である。そしてそんな素晴らしい「絵本」によって起こった感動の物語の数々。

なかでも、本当に驚いたのは星野道夫の「森よ」「クマよ」であった。あまりの驚きは僕を書店に走らせた程だ。

本書は、おとなにも気づきを与える力を持つ絵本の紹介に止まらず、その作者や、支援者等との出会いにも触れられている。また、「今、おとなこそ、絵本を」というキャッチフレーズで展開したキャンペーンに対する反響や同様の活動を行っている様々な人や団体との出会い。

何度も涙を堪えてなんとか、読了。これは良い本でした。

ところで、この本の中で語られているエピソードで気になった部分がもう一つある。それは、

ある時、絵本をめぐるフォーラムに出席したところ、一人の児童文学者から、「柳田さんのような絵本の読み方は、子どもたちに読みきかせをしている人たちを困惑させるから困る。だいいち「フランダースの犬」なんてセンチメンタリズムに過ぎないし、「わすれられないおくりもの」も私が編集者なら出版しない。」と聴衆の前で20分にわたって批判された。

私はていねいに「おとなとしての絵本」「私が再認識した絵本」「生と死を考える意味」について語ったが、対話は平行線のままだった。子どもの本の専門家が私のような読み方を排除しようとすることを、私は残念に思った。子供だって「悲しみ」と向き合うことは、生きる力をつけるうえでとても大事なことではないか。

というくだりだ。柳田邦男はあくまで、絵本を大人が大人の目線で読む事であって、子どもに対する押し付けをしようとしてる訳ではない。僕も本書を通して何がしかの気づきを得たように思う。それが、何か「困る」とか「不要」であるとは、一体何を主張しているのだろう。

本書では、これ以上このエピソードに触れられておらず、それ以上の事はわからない。

しかし、誰だろう。こんな事を言っているのは。この誰かわからない児童文学者と柳田邦男は何か深く重大なところで食い違っているようだが僕にはその違いが解っていないように思えてならない。物事を深く考える事が少なくなってきているのだろうか。

そんな事をつらつらと考えていて思い出したのは、なぜか灰谷健次郎の「おおかみがじゃがいもたべて」という本の事だった。

この本は、「ジャリン子チエ」の作家であるはるき悦巳と灰谷健次郎氏の対談記事を本にしたもので、もはや家にはない本だ。記憶を辿って書くと、このなかで灰谷健次郎はおおかみがじゃがいもたべることによって、みんなが仲良く暮らしたというどうぶつたちの話に対して肉食動物がじゃがいもたべて問題解決とはなんだ。というような主旨で批判していたように思う。

どこか変だと思いつつ、どうぶつを主人公にした寓話も難なく吸収してきた自分に自己矛盾も微かに覚えつつ、しかしずっと僕はその話を深く考える事もなくきた。

しかし、今回柳田邦男の本を読んで僕は気づいた。

物事に多くの面があるように、絵本や寓話にも同じく多くの面がありどう解釈するか、どう感じるかは個人的な事柄である。

それに対し意味や解釈はたまた感じ方までを決め付ける、押し付けるのは暴力的な行為である。一方で、当たり前の事だが、誰がが言った言葉を深く考える事もなく鵜呑みにする事は自分を殺す、自分の人生を生きない事である。


「想定外」の罠」のレビューはこちら>>

「『人生の答』の出し方」のレビューはこちら>>


△▲△

海底宮殿―沈んだ琉球古陸と“失われたムー大陸”」
木村政昭

2006/04/02:沖縄熱に浮かされ数年間、毎年のように通った時期がある。仕事は正に沖縄に行くお金を稼ぐためだけにあったようなものだ。

あの、クストーの様にサンゴ礁の海に潜る事を夢見てライセンスを取りに行った事もあった。しかし、ライセンスを維持するには沖縄で潜るだけでは年間の本数が足らない。かといって他で潜るための旅行に出たら沖縄に行けなくなる。

無人島カヤマ島のたった一人の住人にして親切なスタッフであった方のアドバイスもあって僕らが取った選択肢は、体験ダイバー、シュノーケラーとして沖縄に通う事だった。

しかし、その後子供が生まれたり親の病気等で、沖縄へ思いは理想とか夢のような存在となってしまった。与那国島で発見された海底宮殿のニュースが度々取り上げられていたのは、そんな目の回る日々を送っていた90年代だった。

与那国島。日本の最西端。東京からなんと19百Kmもある。

沖縄に通っていた当時も日程を短縮するかホテルのランクを落とさないと予算が厳しいと断念していた所だったので、そんなニュースを見ても「うーむ」と唸るしかなかった事をよく覚えている。

その発見された海底神殿とは、与那国島の南端にある新川鼻沖水深約25m程の海底に数百mに渡って広がる神殿遺跡なのだ。

この神殿はおよそ1万年前頃に築かれたと思われ例えばストーンヘンジやモアイ像などに通じる巨石文明の雰囲気ムンムンなのだ。

この時期、地球は丁度最終氷河期が終わり(約2.2〜1.45万年前)、急激な温暖化(約1.45〜1.25万年前)、これによって極地の氷河が大量に溶け出した事で海流が停止し、急激な寒冷化し(約1.25〜1.15万年前)再び急激な温暖化(約1.15万年前)という荒々しい気象条件が続いた。

この間、海水面、海岸線は激しく前後進して現在の海水面に落ち着いた。この海底神殿は、この最後の寒冷期ヤンガー・ドライアス期に築かれ、その後温暖化と折りしも起こった地殻変動によって海に沈んだものと思われる。

交通の便が良いとはお世辞にも言えない与那国島である訳だが、ここに古代文明が栄えていた。どんな人々だったのだろうか。シュメール文明にも通じる象形文字の刻まれた石版も発見されており、象だと思われる大型動物の骨なども出でいるのだ。現在の様子からは想像も出来ない話ではないか。


百聞は一見にしかず。

木村政昭教授のWebサイトはこちら
http://www.cc.u-ryukyu.ac.jp/~kimura/kimura.html

この遺跡の発見者にして、本書の調査潜水にも深く係わった新嵩喜八郎による与那国海底遺跡博物館はこちら
http://www.yonaguni.jp/yum.htm

これらの写真を見てもこれが人の手によって作られたものである事は疑いようがないだろう。

本書はそんな海底神殿を琉球大学理学部物質地球化学科の教授である著者が海底調査団を率いて自らも調査潜水を行った結果を報告しているものだ。

そして、この海にはジャック・マイヨールも潜りに来たという。

ジャック・マイヨール。

僕にとって特別の響きを持つ名前である。あのマイヨールが愛した海。一度でもいいから同じ海に潜ってみたい。みんなそう思わないかい。

石舞台袖にある人面岩の目はそのマイヨールを惹きつけたそうだ。その人面岩が実は表紙の写真だったという事には仰け反った。

つーか思わず本から手を離しそうになったぞ。かなり気持ち悪い。これを初めて海底で発見した人の驚きは想像を絶する。僕なら吐いてたかもだ。


というように本書はこれが面白くなかろうがないって程の素材の素質十分なのだが、今ひとつ飛ばない。学者肌の調査記録的記述で数々の発見の過程が語られるのは、ある程度「あり」だろう。何せ本人もぶったまげたハズだろうからだ。

しかし、ここに何故かグラハム・ハンコックがダイブしに来て、そして何故かここは「ムー大陸」かもしれないという話。

「ムー大陸」?

とこれがどうも未整理で、ないまぜになったまま投げ出されくるのだ。

これはかなり辛かった。特にノストラダムスだなんだとかなり踊らされた世代としては特にきっついぞ。

せめて過程と仮定は別けてくれよ〜。

でないと、本書のスタンスが不明瞭になるだろうが。

しかし本書は観光業界や与那国の行政も巻き込んだプロジェクトと化し芸能人をも巻き込んで明らかにいかがわしくなっていってる感じがするのだ。

結局、何が言いたいのだ?

本来の素材自体はかなりの物である事が間違いない事から、僕はちと、悩んだりしてしまいましたぞ。

△▲△

マグダラのマリアと聖杯
(Mary Magdalen and Holy Grail)」
マーガレット・スターバード
(Margaret Starbird)

2006/04/02:噛めば噛むほど味が出るスルメみたいな本である。本書は、「レンヌ=ル=シャトーの謎―イエスの血脈と聖杯伝説」マイケル ベイジェント (Michael Baigent),ヘンリー リンカーン (Henry Lincoln),リチャード リー(Richard Leigh)にインスパイアされ、「ダ・ヴィンチ・コード」に代表される一つのムーヴメントを作り出した原動力となった一冊だ。

超簡略化してこれらの背景となっている物語を語れば、マグダラのマリアはイエスと結ばれておりイエス・キリストが十字架にかけられて受難した後、南フランスに聖杯を持って逃れたという伝説にある。

このマグダラのマリアの生地だとされるのがラングドック・ルシヨン地方ピレネー山脈の麓にある小さな村レンヌ・ル・シャトー(Rennes-le-Chateau)なのだ。

この村には1059年に立てられたというマリア教会が建っているのだが、1885年、この小さな貧しい村に立つ寂れた教会の神父ベランジェ・ソーニエール(Francois Beranger Sauniere)は教会の修復の際に柱の隠し穴から新約聖書の一説が書かれた羊皮紙を発見した。


この羊皮紙には謎めいた記述が含まれておりどうも何かの暗号らしいのだ。ここレンヌ・ル・シャトーは村やその周囲に得体の知れない暗号が掘り込まれた道標や墓石などが多数発見されている異端カタリ派の本拠地なのだ。

ソーニエールはこれらの謎を解いたらしい。というのも神父が出所不明の大金によって教会を大改修し始めたからだ。

これは何処かに埋蔵されていた異端カタリ派の隠し財宝だ。いやいやテンプル騎士団の財産だ。はたまた、聖杯を発見しバチカンが買い取ったたのだという説もある。極めつけなのがこの聖杯というのが実はマグダラのマリア本人のことを指し、この杯に注がれたものこそ、イエスの血。つまりイエスの子供だという訳だ。その秘密を守るためにバチカンは金を出したのだろうか。

どうだろう、世の中が違って見える程強烈な謎である。

レンヌ=ル=シャトーとソーニエールの発見した「謎」。また大改修されたマリア教会も不可解な像や絵が掲げられているのだと云う。これに迫っているのが「レンヌ=ル=シャトーの謎―イエスの血脈と聖杯伝説」。ヘンリー・リンカーンが再び調査を進めレイライン等古代宗教と結びつけた巨大陰謀史観に発展していくのが「隠された聖地−マグダラのマリアの生地を巡る謎を解く」。
そして本書のスタンスは少し長いが引用すると、

私には聖杯にまつわる異端信仰の教義が本当なのかどうか−−イエスが結婚していたかどうかや、マグダラのマリアがイエスの血を引く子を産んでいたかどうかを証明することはできない。

また、雪花石膏(アラバスタ)の壷を持ってきてイエスに油を注いだベタニアの女性とマグダラのマリアが同一人物だったかも立証はできない。だが、中世期を通してキリスト教に関する異端の見解がヨーロッパで広く信じられていたこと、異端派の遺物が数々の美術・文学作品から見つかっていること、国教として確立されたローマ教会の聖職者集団によって異端の教えが激しい攻撃を受けていたこと、異端派が容赦ない迫害を生き抜いたことなら証明できる。

イエスの生涯に関するもうひとつの物語を存続させてきた異端派は、容赦なく追い詰められ、裁判にかけられ、断罪され、消滅していった。だが「神聖なる花婿/イスラエルの王」の物語の広がりは、異端審問の力を持ってしても止めることはできなかった。地中にしっかりと根を張り、やがて地表に顔をのぞかせる逞しいつる植物のように、この物語は何回もみ消されてもまた浮上した。

ヨーロッパの民話や美術、文学など、異端審問や体制派が根絶できないような領域に姿を現したのである。外からはわからないように隠され、シンボルで符号化されていることも多かったが、この信仰はどこでも息づいていた。こうして「ぶどうの木」と呼ばれるダビデ王家の血筋復権への希望は生き続けたのである。

イエスの結婚を肯定するこの異端説についても様々な可能性が考えられる。もしかしたらこの説は事実で、信徒がこれを信じ、かつ真実であったことを知っていたからこそ今日まで残ったのかもしれない。(ことによると信憑性のある文書や芸術品の形をとって、例えば、かの有名な「テンプル騎士団の秘宝」のような複数の証拠を通して残った可能性もある。)あるいは、均衡が崩れて男性優位になっていたキリスト教教義に、長く消滅していた女性原理を復活させようとして、この説が広められたのかもしれない。
つまり伝説の真偽そのものよりも、その伝説、伝承によって引き起こされた大きな歴史うねりが本書のテーマである。ヨーロッパの歴史に深く埋め込まれたキリスト教の文化的側面からマグダラのマリアへ迫るものなのだ。という事でかなり大真面目で少し難しい。心して挑戦されたし。

ダビデ王の血脈、イエス・キリストの子供という二重の意味を持つこの重大な秘密。

紀元66年に起こったユダヤ人の反乱に対するローマ軍の破壊行為によりイスラエルと共に原始キリスト教、エルサレムのキリスト教徒共同体は崩壊したが、この後を引き継いだキリスト教団・教徒達と彼らからエルサレムを奪還した十字軍のキリスト教徒達は全く系統の違う人々であった。

エルサレムへ入場し聖墳墓の守護者(アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ)に任ぜられたゴドフロワ・ド・ブイヨンは、メロヴィング家の一族であり、このメロヴィング家こそ南フランスに生まれた古い血筋を持ちそれはマグダラのマリアの血筋だという説もあるという。

十字軍の遠征はつまり

ダビデ家の血筋をひく世継ぎをエルサレムに再びつけようとする試みだったのかもしれない。
というのだ。こんな話初めて聴いたぞ。どこまでが真実で、どこからが嘘なのだろうか。

それはよく解らない。

なぜならやがて、テンプル騎士団が凋落し、南フランスのカタリ派の教徒達は異端の烙印を押され激しく迫害されていくからである。


聖杯伝説は舞台や登場人物を変え多くの物語となって語り伝えられ、象徴はその対象とする秘密を失っても、繰り返し繰り返し多くの人々によって積み重ねられ芸術や建築等の様々なデザインにサインとして取り込まれてきた。

本書が示唆する通り、伝説がほんとうかどうかはわからないがそれを信じて生きた人々がいた事は紛れもない真実である訳だ。そして異端とされた宗教は地下へと潜り込み、陰謀史観の大きな幹として現代に大きな影をおろしている。そう現実とは、真偽が入り混じった玉虫色をしているものなのかもしれない。

本書で紹介されている謎の多い絵画の一部

サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)
ボッティチェッリが晩年聖杯を奉じる秘密結社シオン修道会の総長を務めていたのではないかとの説がある。晩年の作品には隠し絵のように赤い「X」が書き込まれているという。

書物の聖母(Muttergottes lehrt das Jesuskind)」
聖母マリアのドレスの胸に描かれた赤い「X」

ざくろの聖母(Madonna della Melagrana)」
天使たちの胸には赤い「X」が認められる。

マニフィカトの聖母(Madonna del Magnificat)」
赤子のイエスは手にしているのはざくろ。赤い種がふんだんに入っているざくろは、古代から物理的、性的な意味での繁殖力を象徴しているという。

バルディ・マドンナ(Bardi-Altar, Thronende Madonna)」
数々の謎が埋め込まれているという「バルディ・マドンナ」の一部。

同じ「バルディ・マドンナ」で聖母マリアの左に立つ洗礼者ヨハネ
ヨハネの手に握られた杖に付いたリボンに記された文字「Ecce Agnus Dei」は「見よ神の子羊だ。」これは神の為に、ダビデの血筋の為に犠牲となる事を示唆しているようにも読める。

デレリクタ(Die Verstosene)」
この見捨てられたものこそ、城壁の見張りに衣を剥ぎ取られて打たれたあの「雅歌」の花嫁だという。

フラ・アンジェリコ(Fra Angelico)
ノリ・メ・タンゲレ(Noli me tangere)」
つまり、「わたしにすがりつくのはよしなさい」は復活したイエスにマグダラのマリアが出会った所を描いたものだが、差し出されたマリアの手はイエスというより寧ろ足元に描かれた小さな赤い3っの「X」のように見える。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour)が描いたマグダラのマリアはなんと懐妊中なのだ。こちらはネットで検索されたし。

バーバラ・スィーリングが「イエスのミステリー(死海文書で謎を解く)」書いたように、史的イエスは実在の人物だが、聖書はぺシェルと呼ばれる変換技術によって歴史的事実を記載したものとする考えに強く魅かれる。

そしてだとすれば、マグダラのマリアとイエスの子孫の存在は在り得る話と感じるのだが、如何なものでしょうか。

参考過去レビューはこちら

イエスのミステリー(死海文書で謎を解く)」バーバラ・スィーリング

隠された聖地−マグダラのマリアの生地を巡る謎を解く」ヘンリー リンカーン

「レンヌ=ル=シャトーの真実」のレビューはこちら>>


△▲△

HOME
WEB LOG
Twitter
 2024年度(1Q)
 2023年度(4Q) 
 2023年度(4Q) 
 2023年度(3Q) 
 2023年度(2Q) 
2023年度(1Q) 
2022年度(4Q) 
2022年度(3Q) 
2022年度(2Q) 
2022年度(1Q)
2021年度(4Q)
2021年度(3Q)
2021年度(2Q)
2021年度(1Q)
2020年度(4Q)
2020年度(3Q)
2020年度(2Q)
2020年度(1Q)
2019年度(4Q)
2019年度(3Q)
2019年度(2Q)
2019年度(1Q)
2018年度(4Q)
2018年度(3Q)
2018年度(2Q)
2018年度(1Q)
2017年度(4Q)
2017年度(3Q)
2017年度(2Q)
2017年度(1Q)
2016年度(4Q)
2016年度(3Q)
2016年度(2Q)
2016年度(1Q)
2015年度(4Q)
2015年度(3Q)
2015年度(2Q)
2015年度(1Q)
2014年度(4Q)
2014年度(3Q)
2014年度(2Q)
2014年度(1Q)
2013年度(4Q)
2013年度(3Q)
2013年度(2Q)
2013年度(1Q)
2012年度(4Q)
2012年度(3Q)
2012年度(2Q)
2012年度(1Q)
2011年度(4Q)
2011年度(3Q)
2011年度(2Q)
2011年度(1Q)
2010年度(4Q)
2010年度(3Q)
2010年度(2Q)
2010年度(1Q)
2009年度(4Q)
2009年度(3Q)
2009年度(2Q)
2009年度(1Q)
2008年度(4Q)
2008年度(3Q)
2008年度(2Q)
2008年度(1Q)
2007年度(4Q)
2007年度(3Q)
2007年度(2Q)
2007年度(1Q)
2006年度(4Q)
2006年度(3Q)
2006年度(2Q)
2006年度(1Q)
2005年度(4Q)
2005年度(3Q)
2005年度(2Q)
2005年度(1Q)
2004年度(4Q)
2004年度(3Q)
2004年度(2Q)
2004年度(1Q)
2003年度
ILLUSIONS
晴れの日もミステリ
池上永一ファン
あらまたねっと
Jim Thompson   The Savage
 he's Works
 Time Line
The Killer Inside Me
Savage Night
Nothing Man
After Dark
Wild Town
The Griffter
Pop.1280
Ironside
A Hell of a Woman
子供部屋
子供部屋2
出来事
プロフィール
ペン回しの穴
inserted by FC2 system