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9月末あたりから、プロジェクトの節目に向かってぐっと忙しくなってきた。去年あたりからじわじわと距離を伸ばしてきたサイクリングのお陰で僕の体重は第一四半期の3ヶ月でなんとまさかの5㎏減。益々気力・体力を充実させてぐっと前傾姿勢で行きたい。

大腸菌~進化のカギを握るミクロな生命体
(Microcosm: E. coli and the New Science of Life)」
カール・ジンマー(Carl Zimmer)

2009/12/30:2009年の最後を飾る一冊がこの「大腸菌」。狙った訳ではないのだけど。最後なだけに。(笑)

年末年始のお休みに入り、僕自身はややのんびりした気分ではあるのだけど、カミさんは間欠的に出勤。娘はノロウィルスにやられたようでか体調不良。僕は諸々の些事の処理でドタバタと慌ただしい。

ノロウィルスは、ウィルスであって生物分類の外側にあるものだ。そういう意味でウィルスは生物ではない。ウイルスは生きている訳ではないのだろうか?一方本書の主人公である大腸菌は、立派な生物。しかし、人間は真核生物、大腸菌は真正細菌と云うドメインに分類されており、ドメインから違う遠くかけ離れた生き物なのである。ドメインとは生物分類上一番上の区分であり、現在は生物全体は、真核生物、真正細菌、古細菌に分けられている。人間は真核生物であり、この真核生物のなかには、界として、原生生物、菌、植物、動物生物を持っている。真核生物と、真正細菌、古細菌はそれぞれ細胞膜の素材が違う上に、真核生物は文字通り、細胞核を持っている事で他のドメインとは違う構造をしている事から、それぞれの由来は全く別なものなのかもしれない訳だ。

生命はどこで生まれたのだろうか。僕の読書体験を推し進める一つの問題が、僕たちは一体どこからやってきたのかという謎である訳で、これら三つのドメインの存在は考えれば考える程不思議なものだ。当然ながら生命の不思議、謎をとくために科学者たちは日夜研究を重ねてきている訳で、本書はこの大腸菌(E・コリ)を培養し分子生物学や更に微細なレベルで捉えた事で現れてきた、更なる驚異の生態について紹介するものだ。

E・コリは猛烈な勢いで分裂してその個体数を増大させていくが、この分裂の過程でその環境に適した特定の特質を短時間で獲得する事ができる。この特性は遺伝子複写のゆらぎの大きさもさることながら、分裂の際に他の個体と遺伝子の授受も行っているのだそうだ。通常の細胞分裂ではありえない概念なのだ。こうして環境のなかでより有利な遺伝子を持つ個体を短時間で増やす事で気まぐれに変動する環境下を何億年も生き抜いてきた訳だ。

E・コリはまた、毎秒250回転するモーターで長いべん毛を回転させる事で推進するのだが、このモーターの原動力はなんとプロトン。陽電子で作動するモーターを持っているのである。そのモーターをどう動かすかによってE・コリは居場所を変えていく訳だが、これも気まぐれに動いている訳ではない。

 E・コリは、細胞膜に刺し込んで膜の外側に口を開く潜望鏡のようなセンサーを用意している。先端部分にはこのセンサーが何千と集まっていて、「舌」のような働きをしている。センサーは五種類あり、それぞれが特定の種類の分子をつかまえる。分子にはE・コリにとって有益なものとそうでないものがある。アミノ酸のセリンなど、食物の存在を示す分子は細菌内部で一連の化学反応を引き起こし、よろめきとよろめきの間隔を長くしてくれる。つまり、セリン濃度が上昇していることをセンサーが感知しているあいだは長くまっすぐ泳ぐのだ。よろめいた拍子にセリン濃度の低い場所に方向転換してしまうと、泳ぎは短くなる。よろめきの頻度が多いと進む速度は遅くなるが、セリンを探すのにはこのほうがありがたい。そしてセリン濃度が高い場所に入るや、E・コリは目的なくさまよう泳法にスイッチを切り替えて、その場所にとどまる。

ジンマーはこの「舌」のような器官は様々な物質の濃度を検出した上で最終的にどう自分が動くべきかを判断する脳のような働きをしていると云う事ができるのではないかという。E・コリが自身の体内の物質の濃度を厳格に統制しながら捕食をしている事を考えると内部の状況も含めて意思決定している可能性だってあるかもしれない。

ジンマーの描くE・コリの生態はまるでひとつの小宇宙をみるようで、その美しさはある意味神々しいとさえ言える。

E・コリはまた、個体と集団、われわれ真核生物と真正細菌、そしてウィルスとの関係など、様々な境界線を朧気なものとし、生物と無生物の境界線、つまり生きているという事は一体どのような事をさすのかという根源的な問題へと沈降していく。

そして、我々生物が出来する以前にはもしかするとRNAワールド。つまりRNAによって複製と代謝を行っていたものが世界を支配していた可能性があるのだという。このRNAワールドでは現在の生物の概念を超えたものが闊歩していたのかもしれない。生きているってどういう事なのだろう。ますます謎は深まるばかりだ。

今年一年、お付き合いくださりありがとうございました。皆様がよいお年をお迎えになることを祈念致します。また来年もどうぞよろしくお願いいたします。


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民主主義の憎悪
(La haine de la democratie)」
ジャック・ランシエール(Jacques Ranciere)

2009/12/30:先ず最初に一言言わせて頂くが、どうしてこんなに読みにくいのか。本の厚さと字の大きさとは裏腹なこの読みにくさは、一体何が原因なんだろうか。一つとして文章が長い。だらだらと長い。

そして二つ目は、その文章の構成。主題となる内容を修飾する文が前にある。長い長い修飾が一体何を語ろうとしているのか、最後の方まで読まないと読み手は受け取れないような書き方になっている。更にそのあとに続く、「すなわち」とか「つまり」の後の文章も似たような展開なので、すごく振り回された感じを受ける。

本書はフランス語から訳出されているもののようで、原文に忠実であるがゆえにこうなのか、訳者のクセなのか。訳者による本書の解説文なんかを読むと僕はこの人自身に相当その傾向を感じる。思い起こすとフランスやイタリアの本、特に哲学関係の本にこうした傾向が強いように思える。つまり、持って回った言い回しを使う人がこの分野の人に多いのだろうと考える事は決して的外れではないだろう。この手の本にどっぷり浸かった方々には楽々読める本なのかもしれませんが。正直疲れる。こうした芸風はいたずらに敷居を高くして読者を寄せ付けにくくしていると思う。狭い領域に集まったほんの一部の人間の自己満足を守るために言葉の城壁を築いているかのようだ。

ゴチャゴチャと絡みつく文脈を掻き分け、掻き分け、ノロノロとした足取りにイライラしつつも奥へ、奥へと進んでみた。ひょっとして僕はコロンブスのように辿り着いたアメリカ大陸をインドだと勘違いしている可能性は勿論あるけど。

ランシエールによれば民主主義に対する歴史的な批判には主要なものが二つあると云う。一つ民主主義は一部のエリートが自らの権力と富を守るために機能していると云うもの。もう一つは民主主義的な立法や行政は無知な群集を統制するための見せかけのものに過ぎないものだ云うもの。そして、本書はこのこれまでの批判とは一線を画した別な問題から生じる批判、つまりその問題が生み出す憎悪を描こうとするものだと云う。

では、それはどんなものかと云うと、民主主義が善きものであるとし、おしなべて何処の国であってもその国の政治が民主主義的であるべきであると考えているにもかかわらず、自国の立法や行政において民主主義が行き過ぎてしまう事について反対の立場をとる人々の価値観。考え方の事だ。つまりこれは人々の感情であって批判ではない。だから民主主義の憎悪なのである。この感情は民主主義を後退させる。つまり自由と平等に対抗する力となりえる考え方だ。民主主義的政府は、こうした考え方を持つ人々をどう取り扱えばいいのだろうか。

イラクへの侵攻によってフセイン政権は崩壊し、狂気にかられた独裁政治のもとで蹂躙され続けてきたと云うイラクの人々には自由と平等が約束された民主主義がもたらされたとアメリカとこの行為に賛同している連中は主張している。しかし、その後現実にイラクで起こったことは、混乱と無秩序。そして犯罪や略奪行為の多発であったという。これに対してランシエールは、

 アメリカの国防長官が出した声明を思い起こしてみよう。彼が語ったのは要するに、われわれはイラク人民に自由をもたらした、しかし自由とは悪事の自由でもある、ということだった。

イラクには、そもそも宗教的価値観や歴史的背景が違う人々が大勢おり、こうした人々を一纏めにした上での民主主義的政治の実行ができるものなのか、という訳である。

ジャン=クロード・ミルネールは、その著書「民主主義的ヨーロッパの犯罪的傾向」で、現在のヨーロッパの民主主義の実現は結果論的にナチス・ドイツによるユダヤ人排除、もっと強い言葉で言えばジェノサイドによってもたらされたものであり、そのヨーロッパが更に、イスラエルーパレスチナ紛争の平和的解決、つまりイスラエルの破壊を要求する事は、このナチスのとった罪深い選択肢の同一延長線上にあるものであると云うような、ランシエールが云うところの簡潔でラディカルな主張をしているそうだ。

ヨーロッパを一つのものとして統一した近代民主主義をもたらす上でユダヤ人は阻害要因となっていたと云う訳だ。その原因は、血統や遺伝に拠って立つユダヤ人と云う存在そのものであり、こうした制約をもつ集団の排除を行わない限り近代民主主義は成り立たなかったハズだと云うような事を言っているようだ。

近代国家は、古い制度・制約を廃し新しいもの、より全体に行き渡り、より平等でより自由な社会を確立するために、この過去からの呪縛に捉えられた人々を中東と云う「荒野」に追いやってしまったのであろうか。

暫し立ち止まろう。政府が二枚舌を使っている事に憤りを感じ、自由や平等を主張している我々が本当に望んでいるものとは一体どんなものなのだろうか。これがまして今の日本以上に人種や宗教、歴史的背景が様々な人々を包含する国であれば尚更である。

自分が随分と綺麗事を言っていた事に戸惑う。そして更に僕を戸惑わせるものが、これまでのところ、民主主義的国家の成立には、阻害要因となる人々を排除する以外に解決策がどうやらないのではないかといっているように見えるところである。

多数決をとって意見が真っ二つになった時僕たちはどうやって意思決定する事ができるのだろうか。それでもどっちにするかクジで決めるか、それとも別々の道を行くか。

本書の示唆する問題の重さと大切さを考えるにこの本の読みにくさはつくづく残念な限りでありました。

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監獄の誕生―監視と処罰
(Surveiller et punir, naissance de la prison)」
ミシェル・フーコー(Michel Foucault)

2009/12/23:今回、フーコーの本をはじめて手にした。ミシェル・フーコーの存在は認識していながらもその実態は何も知らなかった。ある種近づきがたい敷居の高さを感じてはっきり言ってしまえば敬遠し続けてきたと云う感じかもしれない。先般、光市母子殺害事件の本を読み、死刑か無期かなどと云うものよりもその犯した罪の重さ自体に目が向き、果たして刑罰とはなんだろう。なんてことをつらつらと考えている僕の目に飛び込んできたのがこのフーコーの「監獄の歴史」だった訳だ。

監獄の歴史と云うことは当然ながらその起源があると云うことで、そう考えると今度は一体何故、社会は監獄を生み出す必要があったのだろうか。なんてことが頭に浮かび、これはやはりこのタイミングで読んでみるしかないと云う事となった次第だ。

冒頭、ルイ15世に対する殺害未遂事件を起こし逮捕されたロバート=フランソワ・ダミアンの刑罰についての描写が唐突にはじまる。1575年、ダミアンはその犯した罪によって、八つ裂きの刑となるのだが、その実行の前に公衆の前で辱めを受け、罪を謝罪し、更に熱したやっとこで体のあちこちの肉を引きちぎられ、その傷に溶かした鉛や煮えたぎる油を注がれると云う凄惨な責めを受けている。その上で馬に引かせて八つ裂きにするのであるが、不慣れで準備が不十分であったためこの実行には大変手間取ったと云う。この時点でダミアンはまだ生きていたと云うのだから、残酷この上ない話だ。この話は死刑執行人の手記が残されていた事から事実がかなり正確に判っている事例としても有名な話なのだそうだ。

これまでに判っている最古の拘禁施設は、1596年アムステルダムの研磨の獄舎と云うものらしい。ここでは「乞食や未成年の犯罪者」の収容を原則とした施設だったと云う。このような監禁施設が生まれる前、犯罪に対する刑罰は体罰かその延長にある死刑か追放などの措置しかなかったと云う事だ。しかもその刑罰は熾烈で公の場所で実行されるのが通常だったのだ。


東京拘置所


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しかし刑罰は徐々にその烈しさが衰え、公開から非公開へ、ひっそりと闇に消えていく。これは何故だろうか。

 十七世紀の犯罪は「疲れきり、食べ物に窮し、その場かぎりの、かっと腹を立てる人々、収穫期に先立つ夏場の犯罪者」であるが、十八世紀の犯罪者は「計算のうえで立廻る、ずるく、悪賢く、狡猾な連中」であって、「社会の周辺部の人々」の犯罪行為となる。最後に、犯罪の内的な組織が変わってきている。すなわち、大規模な徒党をくむ悪人(武装した小単位からなる強盗団、徴税吏に発泡する密輸団、群れをなして放浪する、解雇されるか脱走するかした兵卒たち)は、解散する傾向がある。したがって、追求の手をうまく逃れたにちがいない、しかも気づかれないようにするため一段と少人数に生らざるをえなかった---大抵は、小人数のいくつかの集団ということもほとんどなく---、その徒党は、派手に暴力をふるったり虐殺の危険をおかしたりが少なくなって、人の目を忍んで悪事を働くことに甘んじるのである。


宮城刑務所


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つまり刑罰の変化は犯罪の傾向が変わった事によるものであり、この犯罪の傾向が変わったと云うのは、社会そのものが変わってきたからだろうと云うのがフーコーの視線だ。逆に言えば、社会そのものが、不安定で反社会的と云うか反体制派が徒党を組んで犯罪を犯して回るような社会から徐々に統制のとれたものへとゆっくりと移行してきたと云う訳だ。なるほど、慧眼。

しかし、フーコーの視線はその更に先を見通す。犯罪に対する刑罰は、果たして贖罪を伴なう矯正か、被害者になり代わって実行される報復なのか、社会からの追放・隔離なのかと云う問題だ。有期刑、無期刑、死刑それぞれの刑罰とは一体どんなものなのだろうか。フーコーは、現代において死刑囚は執行前に精神安定剤を投与され限りなく無痛でその執行を受けている事をさし、これは司法制度が犯罪者の身体ではなく、その精神を罰する事ができると考えている論証でありそんなものは空中の楼閣だと厳しく批判をしているのだと僕は読んだ。この発想とこの目線にフーコーのすごさがあると思う。フーコーは本書の目的として、こんな事を書いていた。


網走刑務所


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 この書物の目的は以下の通りだ。近代精神と新しい裁判権との相関的な歴史。処罰権がその根拠を入手し、その正当性と諸規則を受け取り、その影響を及ぼし、その途方もない奇怪さに仮面をかぶせている。こうした現今の科学的で司法的な複合体の系譜調べ。

 だが、どこを出発点にすれば、裁判を行う近代精神のこうした歴史をつくりあげることができるだろうか。その範囲を法規則の、あるいは刑事訴訟手続の進展だけに限定する場合、われわれは集団的な感受性における一つの変化やヒューマニズムの進歩や人間諸科学の発展が、どっしりした、外的な、惰性的で原初的な事柄として浮かび上がるのをそのまま放置する恐れがある。


アルカトラズ連邦刑務所


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アッティカ刑務所


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アブグレイブ刑務所


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犯罪の反対側には権力がある。権力が定義する犯罪。それには社会とはかくあるべきとする暗黙のデザインが含まれている。つまり、社会に構成される人々をいかに統制し、規律正しく動かす為の規格化と云う恣意があると云う訳だ。間違って読んでいるのかもしれないが、フーコーは、近代においての刑罰はつまり、矯正でも贖罪でも報復でもなく、規格化を進める一つの手段である事を仮面を被せて隠していると言っているようだ。ここには権力者による意思が働いているのみであり、被害者の権利が入る余地がないのは道理な訳だ。なるほどここには大変な捻れが存在していた。この「監獄の歴史」でフーコーが解剖していく権力を握る側による統制の姿はまだまだ先があるのだが、その概略化は残念ながら僕の能力を超えている。興味ある方は実際に読んで頂くしかない。それにしても、読みにくい、読解しずらい大変手強い本でありますので、それなりの覚悟は必要である事は申添させて頂きます。

本書の口絵で紹介される古くからヨーロッパに見られる監禁施設のデザインの系統を踏んでいるように見えるのが実は小菅の拘置所であった事に僕は驚いた。

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なぜ君は絶望と闘えたのか-本村洋の3300日」
門田隆将

2009/12/13:この本を読む行為自体が非常に辛い体験になる事は覚悟していた。それでも突然に妻子を殺害された本村氏本人、さらには殺されてしまった弥生さん、夕夏ちゃんの痛みや苦しみとは比べるべくもない事であり、これはどこまでも現実に起こった事であって、僕たちはそれを知り、その事についてちゃんと考える義務があり、その為にもいつかこの本をちゃんと読むべきだと思っていた。

光市母子殺害事件。

この事件についての詳細は他に譲らせて頂くが、僕は本書は、単に18歳1ヶ月の少年であった犯人を最高裁まで持ち込み、最終的には死刑判決を得るまでの闘いを描いたものだと思っていたのだが、実際にはそれだけではなかった。本村氏は被害者やその関係者のプライバシーや諸々の権利について、司法、報道が抱えている相場主義的な思考停止に絶望しつつもこれと闘っていたのだ。

犯人が少年であった事から、その名前も自供内容も知らされない遺族。一方で殺害された側の名前や暮らしぶりや殺された時の状況はなんの断りもなくどんどんと報道されていく。そして裁判では遺族の傍聴や遺影の持ち込みすら当たり前ではなく、更には「泣き止ませるために首に蝶結びをしたら死んでしまった。」などと云う開いた口が塞がらないような弁護を繰り返す。

事件自体決して許されるものではないのだが、この被害にあった本村氏に対する司法、報道、そして犯人を守ろうとする弁護団の言動に対しまさに断腸、腸がえぐられるような、湧き上がる怒りを強く感じた。

だいぶ前から本書を読みたいと思っていたのだが、なかなか機会を作れずにいたものが今回ここに来たのは、10月に、この犯人の実名を上げた本が出版間際で、死刑囚本人の申立により停止処分となったと云う報道が流れたからだ。

死刑が確定しているのにまだ匿名なんだ。と。

松戸では千葉大学の女子大生が殺害され、放火されると云う事件が起こった。怨恨かとも思われる殺されようからこの被害者の女性はその殺害の状況から暮らしぶり、アルバイト先の仕事などが続々と報じられた。先日犯人が逮捕されたが、これは別件で、そもそも強盗強姦のような犯罪で刑務所に入り出た途端に同様の犯行を繰り返していたらしく、松戸の女性はその被害者のひとりであったと云う事らしい。報道はなにか突然記憶喪失にでもなったかのように鳴りを潜め、犯人の名前やその行状についてはほとんど流されてこない。

一体このアンバランスはどうした訳だろうか。そもそも常習性のある男を世に放った司法はこの責任をどのように考えているのだろうか。

また、新宿では小太りの女が、結婚詐欺と云うかひっかかった男を何人も殺していたらしいと云う事で逮捕され、島根でもほとんど同じような手口で人を殺していた女が逮捕された。この二つの事件でも騙されて殺された人たちの名前や暮らしぶりは報道されているのに、捕まった当の本人は依然として匿名。何も名前を出せと云う事を言っている訳ではないが犯人は何故か保護される仕組みになっていると云うことだ。

本村氏が闘ったのはまさにこうした現実であった訳だが、残念な事にこれは全く改善されているようには見えない。何よりも優先すべきことは、その真相を正しく突き止め、被害者の権利を守る事であるハズだ思う。そしてこの光市母子殺害事件の犯人は結局のところ本当に改心し反省する事ができているのかどうかと云う事も。

個人的な見解をここで述べさせて頂くと社会的な仕組みとして死刑制度は残念ながら必要なものだと思う。そして万が一家族がこのような凶行に巻き込まれるような事があれば、死刑云々以前に僕も迷うことなくその犯人を追いそして殺すだろう。


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皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則
(The Emperor's New Mind:
Concerning Computers, Minds, and The Laws of Physics)」
ロジャー・ペンローズ(Roger Penrose)

2009/12/13:「ゲーデル、エッシャー、バッハ - あるいは不思議の環」が出版されたのは1985年。当時早速挑戦したものの、途中で深い森の中にさまよいこんでしまって、最後まで文字は追ったものの一体何処に辿り着いたのやらさっぱりわからなくなってしまった。以降僕の記憶では2度程再挑戦したが、やはりどこか途中で迷ってしまうという悔しい思いをしている。

本書「皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則」はGEBの9年後の1994年に出版され、GEBを超える、とか、GEBの先を行く、とか云う謳い文句を添えられて書店に並んだのではなかったろうか。既にGEBで挫折感を味わった僕としてはコテンパンに負けるのがわかっているのに喧嘩に出かけるみたいで、とても手を出す気にはなれなかったものだ。しかし、ずっとずっと気になっていた本なのだ。

と云うような事情を抱えつつ、この「皇帝の新しい心」にチャレンジしてみた訳です。そしてさまよった。どうにか最後まで文字を追い、森を抜け出すことが出来たが、この森は明らかにGEBで迷い込んだ森とは違う森であって、抜け出してきた場所もやはりどうも違う場所らしい。

GEBではTNT導出によるゲーデル数などと云う文脈から意味合いを受け取れず、気づけば迷宮だったのであるのだが、「皇帝の新しい心」は章立て自体の意味が解らないところがある。こんな章立てで何を語ろうとしているのかが解らない。

ほんとうに大きな大筋においてペンローズは、コンピューターとその上でよく出来たアルゴリズムが動くことで人工知能(AI)を生み出すことが出来るのかと云う問題に対して否定的であり、そしてどうやら我々の心の存在が量子論的世界に隠されている別の次元にあると云うような事を示唆しようとしているようなのであるが。

 私のこの議論では「物理的装置」と見なされている人間の脳が、驚嘆すべきほど微妙そして緻密に設計されているとともに、複雑極まる装置であるにもかかわらず、それ自体、量子力学の魔術を利用しているということはありうるのだろうか。

つまり人間の意識や心は一体どこに存在しているのか。ということ。この問題に対して本書が辿る思索の道は残念ながらとてもついていけるものではなかったが、プログラムやそれを実行するニューロンの働きをいくら調べても心の存在には決して辿り着けないと言っている事は理解できる。ペンローズは、量子論をも飲み込む統一理論を構築すれば、心を理解する事ができると云うように考えてもいるようだ。

犬や猫に心はあるのだろうか。魚や昆虫は魂を持っているのだろうか。光市母子殺害事件や松戸の女子大生殺害事件など残忍凶悪な犯人たちには心があるのだろうか。これらの問題に対する意見は分かれるところだろうが、自分自身の心の存在を疑う人はいないだろう。


子供の頃から、アトムやドラえもんの存在に慣れ親しんできた自分ではあるのだけれど、実際問題人工知能(AI)の創出には全くもって懐疑的だ。そして、統一理論が構築出来たら心を理解する事ができると考えているペンローズの考え方が理解できない。何を根拠にそんな事が可能だと考えているのだろう。僕はこの辺でどうやら道に迷ってしまったらしい。

何れにせよ僕は、仮に統一理論が完成したとしても、それが即ち心を理解できるようなるとは全く思えない。僕がそう思う理由は至極簡単なものだ。それは、心はどこに在るのか。自我はどこかで生まれたハズだが、それは何処から何処に生まれたのだろうかと云う問いに答えられない限り作り出す事ができる訳がないと思うからだ。同様に生命も、生命、いのち、生きていると云う事自体が、何故在って、それはどこで実現されているものなのかが解らない限り人工で生み出すなんて事はできないハズだ、とも思う。

どんなに微細な世界を覗いても、違う次元の世界が見えるようになっても、心や命がどんなものかを理解できない限りそのもの探し出す事はできないと思うのだ。

それでも僕たち、そして犬も猫も、微生物も、生きて、命を生み出し続けている。僕が驚嘆するのは、進化論に沿って考えれば、生命はどこかの時点で自我や心を生み出したハズであろう事。そしてその自我や心を進化させてきたハズであろう事だ。明るさや、音、匂いなどの感覚器官を発達させ、その情報を処理するために長い長い歳月を重ねて進化してきた脳神経が、どこかの時点で自我を持った。最初に目覚めた生き物がいたであろう事だ。

また、道に迷う事にも慣れてくれば、それなりに何ものかが見えてきたりする事もあるものだ。迷うことを恐れず散策を続ける事が大事ですね。

「宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのかこちら>>

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壊れゆくアメリカ
(Dark Age Ahead)」
ジェイン・ジェイコブズ(Jane Jacobs)

2009/12/06:本書は、2006年4月25日、89歳で亡くなった、ジェイン・ジェイコブズの遺作。大変失礼だが、八十を過ぎたおばあちゃんが書いた本とは思えない硬質で研ぎ澄まされた知性にあふれた文章に僕はまず仰天してしまった。

不勉強な事に僕は彼女の事を全く知らなかったのだが、コロンビア大学で地質学・動物学・法学・政治科学・経済学を学び、記者になり、その後、都市計画に参加したり、思想家として世界的に知られた方だったそうで、「アメリカ大都市の死と生」(1961年)で、「都市の経済学」は古典的名著の呼び声が高いという。

ジェイン・ジェイコブズの事を何かの本で読んで知ったのだが、それがなんの本だったかわからなくなってしまった。ちょっと脱線するが、本の中に登場する本はいつも気になってチェックしているのだが、この出典と本をリンクさせるような形で整理したいと思いつつ、うまい方法が見つけられないまま、判らなくなってしまうことを繰返している。本と本のつながりには面白い関係があると思う。いつかそのうちやってみたいとずっと思っているテーマだ。

その判らなくなってしまった出典の方の本では、確か都市における古き良きコミュニティの崩壊は、街頭での人々の接点が失われた事によるものだというような事を書いていた。本書「壊れゆくアメリカ」も、アメリカと云う文明が崩壊しはじめている事に強く警鐘を鳴らす事を目的として書かれたものとなっている。

ジェイン・ジェイコブズは、今アメリカが直面しているこの文明の崩壊は、イスラム原理主義者やインディアンが襲ってくるような事で起こる訳ではなく、これまで世界中で幾多も繰り返されてきた暗黒時代による集団的記憶喪失症によるものだという。そして暗黒時代による集団的記憶喪失症は不気味で、一度起これば、文明は根本的で徹底した形で崩壊する。

言うまでもなく、文化や文明は使われなくなれば廃れてしまう。こうしたものは、形のあるものとして伝わると云うよりは寧ろ人から人へと直接手取り足取り教えあう事によって次代へと持込されていく。一度廃れてしまった文化や文明は再び同じ形で生み出されることはなく、一度失われればそれは永遠に消え去ってしまうもので、人々は消え去ってしまったもの自体も忘れてしまう。こうした事態をジェイン・ジェイコブズは集団的記憶喪失症と呼ぶ。

では、暗黒時代とはどういうものでそれはなぜ起こるのだろうか。それは、外部からの侵略などによって起こる場合もあれば、内部から生じる政治的な腐敗や疫病。また新しい技術や思想によって文明が被る激しい衝撃を指している。彼女はジャレット・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」を引き合いに出しつつもその一歩先を進もうとしているのである。

人材や費用やそれを利用するメリットの減少などが急激に減少する事で回復不能になるような衝撃を受けると、文化や文明は適切に順応する事ができずに、的外れとなって脱落していく。脱落していく過程で、知識は失われ、集団的記憶喪失症が起こると云う。こうして有史以来多くの文明がその記憶からも消し去られてきた。

 文明は、揺り戻し機能が崩壊すると回復不能になる。これぞわたしが、わたしたちの文明について危惧することであり、まだ修正する時間が残っているものと期待しながら、この警告の書を書いた。ひとつのことを修正すれば別の問題にも役に立ち、文明内部の様々な関係は相互に有利に補完しあうようになる。
本書の五つの章ではそれぞれ、わたしたちが地に足をつけて立つために必要なわたしたちの文明の五本柱を示した。そしてその柱が倒壊する不気味な予兆と思えるものを検討する。五つの柱は相互に関連性がなくなり、記憶から失われ、文明的に無用になる危険がある。

 倒壊の危険にさせされている五本の柱とは、
・コミュニティと家族(これらは密接に関連しており、個別に論じることはできない)
・高等教育
・科学および科学にもとづくテクノロジーの効果的な実践(これも相互に深く関わっており、別々に検証することはできない)
・税と政府の力(必要性と可能性について議論を要する)
・知的プロフェッショナル(法学、医学、神学)による自己規制

アメリカをはじめとし、イギリス、カナダなどではネオコンによる私企業優先の政策によって、こうした柱が根元から切り倒されつつあると云う。

 トロントの一般的な貧困は人工的に作り出されたものであり、ネオコンと呼ばれる政策によるものである。この同じイデオロギーはアメリカでは再び政策に取り入れられワシントンのコンセンサスとなっている。またイギリスではサッチャーリズム(サッチャー首相の政策で、私企業重視、公共支出の抑制)という名前で通用している。さらに国際的にはこのイデオロギーと政策は、「IMFが要求する経済改革」として認識されている。

 現在形成されている西洋文明の知的現象の中核には、公共事業や公共施設は自給自足のために充分の直接収入をあげるべきだという道徳主義的な信念が存在する。そしてそれぞれの学校は自立できるだけの収入をあげるよう求められる。そのためには学校は各種の授業料や料金を徴収したり、校内でソフトドリンクやスナック菓子を販売する独占権を企業に売却するなど利潤追求に積極的に取り組むことになる。こうした対応は「官民パートナーシップ」と呼ばれ、ネオコンや商工会議所が奨励している。

スーザン・ジョージはアメリカの公立学校は荒廃し、公共の交通機関はないも同然に陥っているとし、その原因はネオコンのとった経済政策にあったとはっきり言い切っている。にも関わらずこの文章は今の日本に置き換えてもそのまま違和感なく読み進めるものになっていないだろうか。仕分けだと言って公共施設を収益で計り、マイナスなものは切り捨てようとしているのは愚かな行為だと僕は思う。

オバマ大統領に日本の新幹線が環境に良いとして売り込んでいる反対の手で、高速道路を無料すれば二酸化炭素の排出量が減るなどと云う矛盾した事を平気で進めているのはどうしてなのだろう。ジェイン・ジェイコブズはアメリカではネオコンたちは企業が車やガソリンやタイヤを売るために公共交通機関を攻撃した結果だとしているのである。鉄道やフェリーや航空路線は一度廃れれば、そう簡単に蘇らせることは出来ない事は明らかなのに僕たちそれが目の前で萎れていくことに為す術も無く黙ってみている事しかできないのだろうか。

兄弟で親からそれぞれ毎月千五百万円も小遣いを、それも政治家になるような歳になってもまだ貰い続けているような人に、我慢だ辛抱だ、福祉だ補助だと言われても全く説得力がない。しかもそれが脱税だったとするなら、盗人猛々しいとはまさにことの事。そんなに税収が厳しいなら、タバコの増税なんてチョロイこと言ってないで、彼らのような金持ちからキッチり出させりゃいいだろう。政治家から足を洗い、世間一般並な資産以外をどどんと寄付でもしたら、よっぽど世のためになって役に立つと云うものだ。

日本だって、うかうかしていれば崩壊するのである。耳をすませばきっともうその足音が聞こえているハズなのである。


「アメリカ大都市の死と生」のレビューはこちら>>


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考える寄生体―戦略・進化・選択
(Riddled with Life: Friendly Worms, Ladybug Sex,
and the Parasites That Make Us Who We Are)」
マーリーン・ズック(Marlene Zuk)

2009/11/29:健康である事は何よりありがたいものである。すこぶる健康な時にそのような事はついつい忘れてしまっているものだが、いざ、怪我をしたり病気になったりすると、その本当のありがたさを思い出すものだ。個人的なレベルでは怪我や病気はしないにこしたことはない事は言うまでもない事だ。しかし、それを根絶する事は出来ないだろう。本書の冒頭でマーリーン・ズックも同様の事を述べている。病気や怪我が我々生物と共にあり、それによって我々は進化してきた面は無視できないものなのだ。病気は寧ろ自然なものだと。

新型インフルエンザが、世界中で感染を拡大しているが、亡くなられた方は相当数になっているものの、幸いにも弱毒性である事から被害状況はまだ限定的であると云える。インフルエンザは将来必ず強毒性のものが生まれ、動物から人、そして人から人への感染が発生するだろうと予測されている。ウィルスに対しては甚だ微妙な表現だが、インフルエンザウィルスにも生き残り戦略があって、抗生物質に対する耐性を備え感染を拡大しようとしている訳である。人間とインフルエンザウィルスだけではなく、病気とはこの先もずっとイタチごっこの戦いを続けていく定めな訳だ。

寄生虫をはじめ、病原体や共生生物などの戦略、ライフサイクルには仰天するようなものがうじゃうじゃいて、どうしてこんなヘンテコな事ができるのかと、さらにはどうしてこんな事が思いつけたのかとつい考えてしまう。しかし、これらのウィルスにせよ、虫であるにせよ、自分たちが考えている訳ではなくて、それは長い長い歳月をかけて自然淘汰を繰り返してきた結果であって、誰かが考えて計画して実行している訳ではない。

インフルエンザウィルスが生き残る為にはどんな姿形で、どんな症状を発症させる事が効果的かなんて考えている訳ではないのである。

「考える寄生体」と云うこの本はきっとそんな本なんだろうなと思っていた。しかし、どうした訳か本書はどこにも進んでいかない。寄生体のその生態の気色の悪い話しがちょろちょろと出てくるものの、その進化論的意味合いには踏み込まず、寄生体と云う様々な生物界・ウィルスの形態もあるハズなのだが、そっちにも行かない。しかも冒頭で、病気は寧ろ自然なものだと書いていながらどうやら彼女はこれらの事象をやっぱり単に気色悪いと思っているだけなのではないかと云う感じだ。しかもちらほら繰りだされるジョークもイマイチで、良くて失笑レベルだ。僕がタイトルにあまりに引きずられているのかもしれないけど、一体全体どんな意図で何を僕たちに伝えたいのか。僕にはくみ取ることが出来ませんでした。


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事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?
(Hard Facts, Dangerous Half-Truths, and Total Nonsense: Profiting from Evidence-based Management)」
ジェフリー・フェファー (Jeffrey Pfeffer)&ロバート・I・サットン(Robert I. Sutton)

2009/11/29:ここ数年の経済状況の停滞、11月に入るとドバイショックにより、ドル円の為替レートは85円を切るような事態となり、底を打ったかに見えた株価も再び下降線を辿り、政府は税収が、24年ぶりに40兆円を切るとの見通しを発表した。こんな時、僕らは、会社は、日本は生き残りをかけた戦いに勝ち残っていく事ができるのだろうか。その為には今どんな事をしたらいいのだろうか。

企業は様々な思惑で、企画や計画を色々なレベルで立ち上げ、制度や運用、現場の人々の仕事のやり方や考え方を変えようとあの手この手を考える。しかし、本部の考える事はえてして現場の事情を知らなすぎで、云われた通りにやろうとしても巧く行かなかったり、必ずしも実行が伴ったものになっているような感じはあまりしない。変わらないのは現場の危機感が足りないのか、それとも戦略の練り方が不十分なのか、いやいや、両方に問題があるのだ。とか。

中期計画や戦略はおろか、当該年度の行動計画ですらその実行は危うい。これまで報告する時期が来て慌てて見直している上司の姿を何度見かけたろう。まして中長期の計画なんて、結果が出る前に上が変わる。本人の任期切れや定年退職より先の計画を作っている事自体、その責任って誰にあるのかなと。

下は自らを変革するよりも、ひたすら何もせず上が面子として変わるのを待っているだけだなんて事も実態としては当たり前にある話しである訳で、そこで、果たしてこれまでどこでどんな事をしてきたのか知らん新たに上に立ったヤツが、唐突に、変革だイノベーションだ、事業戦略だ、ビジネス・モデルだと、なんだか小難しい事をならべても、誰の心にも響かないと云うのは寧ろ当然のことだろう。

じゃ一体どうすればいいのか。いやそれ以前にそもそも自分たちは何がしたいんだと。

巷にはビジネス書や生き方や考え方に対する指南書などが溢れているが、一体全体どれが正しい選択なのだろう。僕は仕事柄コンサルタントと云われる方々と何年も仕事一緒にしてきた。僕の読書メーター見てもらえば解るのと思うのだが、ここでレビューを上げている本以外にも所謂ビジネス書も結構読んでいる。優秀なコンサルタントの方々やミンツバークやワインバーグ、トム・デマルコなどなどの仕事ぶりや考え方は実際ものすごく参考になって随分と学ばせて頂いたと思う。

僭越ではあるがそんな仕事と読書の経験から本書は低迷する経済環境の中、迷えるビジネスマン間違いなく必読の一冊だと自信を持ってお奨めさせて頂く。逆説的な事を言うが、一方で本書には、目新しい事は何も書いていない。当たり前で、寧ろそれは既に知っている事だった事だと言い切ってもいいかもしれない。しかし、僕は読んで驚いた。それはうっかり忘れていたり、重要ではないとして勝手に脇に置いてしまっていたりしたものが沢山あったからだ。

曰く、新しいアイディアや、イノベーションなんて、そんな滅多に起こるものではない。そしてそれを起こしているのは、いつも念入りで小さな仕事の積み重ねである。

曰く、新しい試みはたいていの場合失敗するが、多くの人はその失敗の可能性を過小評価し、成功の可能性を過大評価してしまう。

曰く、インセンティブシステムは、成績が客観的に測定でき、個人の努力だけで結果がだせる仕事以外では、悪い結果しか出ない。

 ちょっとした協力が不可欠な仕事の場では、報酬格差はほとんどいつもマイナスの影響を与える。大学教員の調査では、学部内の給料の格差は、仕事の満足度の低下、協力の低下、研究の生産性の低下につながっているという結果が出た。上場企業67社の調査では、経営層の中で給料格差が大きい会社ほど、株主利益で見た会社の業績が低いことがわかっている。給料格差のマイナス効果が最も大きいのは、複雑で日々変わる競争環境下で、密な協働やチームワークの求められるハイテク企業である。102の部門の調査では、トップと一般社員の格差が大きいほど、製品の品質が低いという結果が出ている。

インセンティブシステムが導入された段階で、協働と云う意識は激しく摩耗してあっと言う間に消えてなくなってきている職場は少なくないのではないだろうか。給与格差なんて、あると言っても極々僅かなものであるにも関わらず、上司と部下、先輩と後輩の関係は妙にギクシャクしたものになってはいないだろうか。

部下の成長が止まり、先輩・上司に対する敬意も信頼も消え、そこには評価と云う名の疑心暗鬼があるなんて云う事はないだろうか。こんなにも職場がおかしくなっているのは、単にこのインセンティブシステムの導入が原因だったりする訳で、それは大抵の人にとっては自明の事なのに最早経営層にはそれを辞める勇気すらない。なんて事はないだろうか。

戦略や計画の結果が出る前に、その分析やそもそもその計画立案時の事を翻って考える事もなく、新しい計画を作りだしていないだろうか。効率化や顧客が期待する商品やサービスは概念的なものよりもより現実的で実際に利用する全てのシーンでその細部に現れるものなのに、現場の、細部の、詳細な部分に行けば行くほど、雑な仕事になっていないだろうか。

自分たちが試してやる以前にも統計分析や、他社の動向でその成否は明らかなのに自分たちは上手く行くハズだと云う根拠のない確信を抱いて物事を進めていないだろうか。
こうした事に自分の会社が全く思い当たらないのであれば、あなたの会社はもの凄い業績を上げておられる事だろう。であれば、本書をわざわざ手にする必要はない。

思い当たらないのに、業績が芳しくないのであれば、次の一文はどうだろう。

 思想信条というものは、事実に基づいた経営にとって最も広範囲にわたる、強力で難しい障害である。経営に関する明らかな事実があっても、自分の政治的信条や過去の経験と食い違うと、無視してしまう事は多い。

PDCAは必須だが、計画は事実に基づいたもので、確実に実行可能なものでなければならないと云う事。当たり前な事が当たり前に出来るようになる事を先ずは目指していきますか。



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忘れられない脳 記憶の檻に閉じ込められた私
(The Woman Who Can't Forget: The Extraordinary Story of Living with the Most Remarkable Memory Known to Science--A Memoir)」
ジル・プライス(Jill Price)&バート・デービス(Bart Davis)

2009/11/29:強く感情を揺り動かされるような出来事は記憶に残りやすいらしい。こうした記憶は、自伝的記憶の一種で、パーソナル・イベント・メモリーと云うのだそうだ。

 ドラマチックで重要な個人的なできごとの記憶には、強い感情を伴うことが多いといわれている。だが、強い感情を伴う記憶といっても、実際にそれを体感したときとは比べものにならないほど、感情の起伏は微弱になるのがふつうだそうだ。ところが、私の記憶は感情も感覚もビビッドに再現されるので、記憶のなかのことであっても私は感情の振幅に激しく揺り動かされることになる。

ジル・プライスは、8歳頃から今までの何年何月何日が何曜日で、その日はどんな日で、どんな事をしていたのかを全て記憶していると云う。”超記憶症候群”第1号症例となった彼女にとって以前の事を思い出せるのは当たり前の事であったのだが、周囲の人はどうやらそうではないらしい。彼女は自分が人と違う事がちゃんと理解できるまでにも大変な歳月が必要だったのである。

相手のやったこと、言ったことの記憶違いを指摘して訂正しては、気まずい雰囲気になり、ふと流れてきた音楽や匂いが引き金となって、ある日ある時の出来事の思い出の世界へと引き込まれていってしまう。しかも彼女は単に出来事が思い出せるだけではなく、その時の感情が薄まることなくそのまま蘇ってくる。

人生、楽しい事ばかりではなく辛く、悲しい事もある。こうした出来事も僕たちは徐々に忘れていってしまう。だからそこ、どうにかやって行けていると云う部分もあるだろう。しかし、それがいつまでいってもビビッドに蘇ってくるとしたら、それはかなり苦しい事だろう。自分にはとても耐えられないのではないだろうか。

自分は人と違うのではないかと思い悩み続けていた彼女の人生。昨日の事も定かではない僕にとっては、想像もつかないものだった訳だが、読んでみてこれは、自分と云うか当たり前に昔の事をどんどんと忘れていってしまう人たちと彼女の人生は、全く違ったものである事がわかる。

僕が覚えている恐らく最も幼い時の記憶は、弟が生まれた日の事だ。目が覚めると、隣に住んでいた二人の叔母が微笑みながら僕の事を覗き込んでいた。なんで二人が僕を見ているのか。どうして微笑んでいるのだろうと、目を覚ました僕は思ったものだ。そして母や父はどうしたんだろうと。

その日、母と父は弟が生まれそうになった事で寝ている僕を叔母に任せて病院へ行ったのである。僕にはそれ以前の記憶も、生まれたばかりの弟の事も、入院している母に会いに毎日通っていたらしい事も全く記憶にない。病院に行くと母のために出された牛乳を僕が毎日飲んでいたなんて事も、あとから繰り返しみんなに聞かされて知っているだけで、全く覚えていないのである。

個人差はかなりあるらしいが、早い人は3歳以前から徐々に自伝的記憶が蓄積されていくらしい。そう考えると僕はもの凄く断片的な記憶しかないので、かなり遅い方で茫漠とした幼少時代を過ごしていたのではないだろうか。

また、さらにハッとされらたのは、思い違いだ。忘れているよりある意味たちが悪い。思い出しているつもりになっている事だ。本書の中には、ダニエル・シャクターの「なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか」にある、人がものごとを記憶する場合の、現実をゆがめてしまう7つの基本的パターンによる記憶の不完全さについて紹介されていた。

この7つの基本パターンは、次のようなものだ。

最初のSin(「罪」または「過失」、「エラー」)とは、"transience"(誤帰属、混乱)
第二のSin"absentmindedness"(うわの空、不注意)
第三のSin"blocking"(妨害)
第四のSin"misattribution"(誤帰属、混乱)
第五のSin"suggestibillity"(被暗示性)
第六のSin"bias"(バイアス、歪曲、偏向、書き換え)
①"consistency bias"(コンシステンシー・バイアス、一貫性を保とうとするために起きる書き換え)
②"change bias"(チェンジ・バイアス、変化の書き換え)
③"hindsight bias"(ハインドサイト・バイアス、後知恵の書き換え)
④"stereotypical bias"(ステレオティピカル・バイアス、固定観念)
⑤"egocentric bias"(エゴセントリック・バイアス、自己中心的書き換え)
第七のSin"persistence"(つきまとい、執拗さ)

僕にはどれも日常茶飯事である。混乱、うわの空など自覚しているものはまだしも、被暗示性やバイアスによる思い違いは自分ではずっと気づかずにいる事もあるのではないだろうか。恐ろしい事だ。ちゃんと仕事出来ているんだろうか。僕。

そしてジル・プライスはよればこれらはどれも自分には当てはまらないのだそうだ。

 自分のしたこと、考えたこと、感じたことが消えてしまう人生があることが、とても信じられなかった。そして正直なところ、私はこう思ったものだ。「これまでの人生で、私の記憶が私の人生にいろいろと問題をつきつけてきたのは事実だけど、かといって大切な記憶を失ってしまうよりはましだわ。だって、私という人間は過去の積み重ねによって築かれているのだから」

彼女をは自分のその持つ記憶に支配され翻弄される事で、人とはかなり違った人生を歩む事になる訳だが、その一つ一つをまた決して忘れる事が出来ずに生きていくしかない。それが、どのような体験であるのかは、決して普通の人に理解できるものではないだろう。僕は彼女には幸多い人生が送れる事を祈るばかりだ。


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倒壊する巨塔―アルカイダと「9・11」への道
(The Looming Tower: Al-Qaeda and the Road to 9/11)」
ローレンス・ライト(Lawrence Wright)>

2009/11/1こちらは、「戦場の掟」と違って、2007年度”General Nonfiction”を受賞した”The Looming Tower: Al-Qaeda and the Road to 9/11”の全訳だ。前評判もまずまずだったので大変楽しみにしていたのだが、読み始めてしばらくすると非常に違和感を覚えた、それこそ、第二次大戦直後にまで遡ってイスラム原理主義者たちが自分たちの信条に目覚めるところに迫り、ビンラディンの出生に迫り、と大変丁寧な取材を行わなければ書けない情報がここにはある。そして文章も上手く非常に読ませるものがある。


しかし、ここには、アメリカの影がないのだ。グルブディン・ヘクマチアルの存在は唐突で朧気。ズビグネフ・ブレジンスキーはおろかカーター大統領も登場してこないのである。イスラム原理主義者たちは、ソ連でモスクが次々と破壊され、エジプトの刑務所でその尊厳を著しく踏みにじられた事で生まれたと云う訳だ。俺たちは関係ないと。ほらほらこの本にそう書いてあるでしょう。しかもこの本はピューリッツアー賞も受賞している大変ありがたい本なんですよ。と云う訳だ。

しかもこの著者はジャーナリストではなく映画脚本家なのである。そりゃ上手いシナリオが書けるハズだ。僕はこの本のタイトルが指し示している「巨塔」とはアメリカの事かと思っていたのだが、途中まで読んでこのローレンス・ライトと云うヤツはそんな事を言いたい訳がなく、もっと何か別の事を言おうとしているのだなと云う事が解った。

本書がどんな落ちを持ってこようとしているのかを知る前に僕はこの本から手を放す事にした。何故なら1996年8月。ビィンラディンは時の国防長官ウィリアム・ペリーを名指しして、「君に伝えよう、ウィリアム。これらの若者はきみたちが生きることを愛するように、死を愛していると。・・・・これらの若者はきみに説明を求める気はない。彼らは大声で唱えるだろう。われわれのあいだに説明が必要なものは何もなく、ただ殺傷あるのみと」と言った事の背景が描かれているハズがないからである。

僕に言える事はどんなに立派な塔を建てても、それが嘘の上に建っていてるのならそれは必ず倒れるものだと言う事だけだ。


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戦場の掟
(Big Boy Rules: America's Mercenaries Fighting in Iraq)」
スティーヴ・ファイナル(Steve Fainaru)

2009/11/15:アマゾンの商品説明、本の帯には、『2008年度ピューリッツァー賞受賞作品!血が流れ、肉片が焦げ、飛び散る……刮目せよ。これが超弩級・戦争ノンフィクションだ!!正規軍ではない“民間警備会社”という名の傭兵たちのリアルな戦争!』となっていて、とある書評には、この警備会社の存在がなければ、基地の兵站が成り立たなくなっているような実態があるらしい、と云うような事が書かれていた。ブラックウォーターのような民間警備会社の存在は何かと悪評が流れており、曰く、テロリストの尋問を請け負っていたとか、地元の民兵や場合によっては反政府勢力の志願者たちの訓練をやっているとか、なんとか・・・。こうした実態はなかなか表面化してこないので、もしかしたらこの本で少しは解るかもと云う期待があった。だれが金をだしているのか、そしてどこが儲けているのかとか。

しかし、残念ながら本書は全く期待はずれでありました。民間警備会社の存在は"Xe Services LLC"とか"Triple Canopy, Inc."だとかその存在は多少知れるものの、そこに深く踏み込むことはない。

また『血が流れ、肉片が焦げ、飛び散る……刮目せよ。これが超弩級・戦争ノンフィクションだ!!』と書かれている部分についてだが、僕にはこの表現にあたるものが本書のどこを指して言っているのか解らない。どこが超弩級なんだよと。

そしてさらに、『2008年度ピューリッツァー賞受賞作品!』。ピューリッツアー賞のサイトで確認すると、スティーヴ・ファイナルはワシントン・ポストの記者であり、彼が2007年現地からの報告として書いた9本の記事が”International Reporting”部門で受賞している訳で本書が受賞している訳ではないのである。。記事になった事件やエピソードを元にしているとはいえ、その後の調査や個人的な事柄などが加わって出来たものがこの本となっているらしい。

また記事も含めて、そもそも立ち位置が微妙なのだ。つまり、我が物顔で自分たちに都合の良い好き勝手なルールで横暴な行為を重ねているらしい、民間警備会社を糾弾する訳でもなく、こうした会社に大金をはたいている政府のやり方に懸念や問題提起しようとしている訳でもない。一度、拉致されたり、戦闘で行方不明となった場合、正規の兵士に比べて民間警備会社の傭兵たちの取り扱いには著しい格差があるとしながらも、現地の人々の取り扱いとは雲泥の差があるにも関わらず、そこに目を向ける事もないのだ。

今日は人を殺したいとして、単なる思いつきで追走しているタクシーを銃撃したらしい警備会社の男の所業は単なるエピソードであって、老人だったらしい銃撃を受けたタクシーの運転手の身元や行方は追いもせず、杜撰な作戦で大金を稼いでいた傭兵が拉致された事に一大事とばかりその行方や家族へのインタビューを重ねている事に著しいバランスの狂いがあると思うのだが、そうした事に思い及ぶ事はついぞないのである。

こうした、よその国の人々の痛みや苦しみに対する想像力の欠如の現れこそ、本来本書で読み取るべき部分なのかもしれない。


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論理思考力トレーニング法―気がつかなかった数字の罠
(The Power of Logical Thinking:
Easy Lessons in the Art of Reasoning…
and Hard Facts about Its Absence in Our Lives)」
マリリン・ヴォス・サヴァント(Marilyn Vos Savant)

2009/11/07扉か三つあって一つのドアの背後には車。そしてあとの二つの後ろにはヤギがいる。あなたはどれか一つを選ぶことができる。一つを選ぶと、後ろに何があるか予め知っている司会者が、あなたが選んだ扉ではない外れのドアを一つ開く。そして、「選択したドアを変えますか?」とあなたに聞く。あなたは扉を変えるべきだろうか。

こんなクイズ番組があったんだそうだ。

マリリン・ヴォス・サヴァントはIQが228あるとしてギネスブックに登録されている女性だが、彼女が受け持つパレード誌のコラム「マリリンに聞け」と云うコーナーでこのクイズでドアを変えるべきかどうかどうかと云う投稿に対し彼女は「変えるべきだ」と答えた事が名だたる数学者も大勢巻き込んだ一大論争を巻き起こしたのだそうだ。

さて、変える方が得なのか損なのか。もちろん欲しいのは車だと仮定してだが。

この問題を「モンティ・ホール・ジレンマ」と云う。

僕はこの事をレナード・ムロディナウの「たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する」で読んで初めて知った。残念ながらどうして変えるべきかこの本ではよく解らなかった。そしたらご本人の本があるじゃないですか。本書ではこのモンティ・ホール・ジレンマの事の顛末から、実際問題何が正しくて、それはどのように考える事で得られるのかについてかなり詳しく解説されている。モンティ・ホール・ジレンマは勿論、確率論の話なのだが、難しい計算が必要な訳ではない。問題をどのように切り分けるかなのであって、それは解ってしまうと、あぁ、なるほどと云う感じのものなのでありました。個人的にはこれだけでもうすっきりって感じなんだけど。

本書はさらに同様のこの「マリリンに聞け」に投稿されてきた、いろいろな数字に止まらずに誤解しやすい問題についても取り上げられていて、なかなかハードな脳の運動になる内容になっている。

なかにはこんなものもあった。

 ある男性が、壁に飾った顔写真を見て言いました。「私には、兄弟姉妹はいない。だが、この男の父は私の父の息子だ」。この男性は、誰の顔写真を見ているのでしょう。

そしてもう一つ。

 あなたが年収1万ドルだったとします。上司が昇級の方法として次のうちのどちらかを選ぶように言っています。一つは、毎年の終わりに1000ドル昇級するというもの。もう一つは6ヶ月が終わるごとに300ドルずつ昇級するというものです。どちらを選びますか?

マリリンは上に対しては「この男の息子の写真だ」と答え、昇級の問題には半年で300ドル昇級する方を選ぶと答えた。果たしてマリリンは正しいのだろうか。因みにモンティ・ホール・ジレンマについても、この二つの問題についてもマリリンは正しい。え~。なんで?と思われるなら本書を読むべきだろう。

こうした問題における過ちをマリリンは誤謬によるものだと云う。

 誤謬は、直感(および反直感)を揺るがす。なぜなら、誤謬は論理展開の間違いであるだけではなく、「一見正しく見える理屈における間違い」だからだ。早くから論理について厳しい勉強をはじめれば、あるいは勉強をもっと長くし続ければ、いまほど直感が誤謬によってもてあそばれることはないはずだ。正しい答えを得る方法よりも、間違った答えを得る方法のほうがずっとたくさんある。

としている。僕の場合はもう手遅れかもしれないけども。

特に注意する必要があるものとしているのが、誤謬と統計。

誤謬には、使われる言葉の曖昧さから生じる言語的誤謬、主張をあらわすのに使われる形式(構成)から生じる形式的誤謬、論証に使われる資料から生じる資料的誤謬があるとし、言語的誤謬は更に語義、文意の曖昧さや、アクセント・語形によるもの、統合・分離による誤謬がある。形式的誤謬には、後件肯定、前件否定、四個概念、媒概念不周延、大概念不当周延による誤謬。同様に資料的誤謬には、論点相違、先決問題要求、循環論証、ポスト・ホック、背理法、多問の誤謬があるという。こちらも論理学の解説は読んでもさっぱりなのだが、本書では分かりやすい例文によって説明されている。下手なビジネスハウツー本などを読むよりは本書が示唆する誤謬を避ける訓練を行う事の方がよっぽど仕事にも役立ちそうな感じがする。

それにしても、この誤謬に関する例題はダーウィンや進化論が誤謬によって間違っているとする主張をしているものが多いのは何故だろうか。例えば

 地球上のすべての生物は、現在ある形のとおりに一度に作られた。なぜなら聖書にそう書いてある。

もちろんマリリンの宗教観や信条は解らない。まさかキリスト教原理主義者ではなさそうだが、進化論を間違ったものとして捉えているのかどうかははっきりしないのである。

マリリンは統計が本質的に人を惑わしやすい誤解を生みやすい性質を持っているとし、見る側としてデータを鵜呑みにせずちゃんと自分で調べると云う姿勢が必要だとしている。まあ。確かに、ちゃんと調べる事は大切ですね。時間があればね。

そして、政治の問題。1992年のブッシュⅠ、クリントン、ロス・ペローの大統領選挙における各候補者の主張についてマリリンが解説している。貧者の犠牲の上に裕福な人を助けているとか、4000万人のアメリカ人が健康保険に入っていないとか云う他の候補者のみならず、報道機関のブッシュⅠに対する批判に対しても統計と誤謬があると反論している。勿論注意深く読めば、マリリンがブッシュⅠだけに責任がある訳ではないとする等、理性的な事を言っている訳だが、マリリンは他のどの候補よりもブッシュⅠ寄りのスタンスでいる。

今これを読んでいる我々は明らかに後知恵な訳だが、大統領がすべてをコントロールしている訳ではなく、レーガン政権からアメリカの政府は道を徐々に外れ大きな過ちを犯し続けてきた事が解っている訳で、IQ228のマリリンでもこの本質はまだ見破れていないのでありました。


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ババ・ホ・テップ(Bubba Ho-Tep)」
ジョー・R・ランズデール(Joe R. Lansdale)

20009/11/07:ランズデールは大好き。ハップとレナードのシリーズ大大大好きだ。だがしかし最初に断っておくがあまりに下品なので万人にお勧めできる代物ではない。ミステリ小説で面白かったヤツは仙台にいる僕のおやじに送ってあげているのだが、ハップとレナードのシリーズは全部手元にある。好きだからと云うのもあるのだが、こんだけ下品だと。もらった側がどう思うかと考えるとちょっと躊躇してしまうのである。

この二人はテキサスの片田舎に住む男で、ハップは白人でベトナムで狙撃手であった帰還兵。レナードは曲がったことが大嫌いな黒人でゲイ。そして共に貧乏だ。その二人が何かと事件に巻き込まれていくのだが、彼らの信条と志向と云うか行動原理が分かり切った事なのだが、事態を余計ややこしくしていってしまうのである。そして合間に挟まってくる登場人物たちの超くだらなくて下品な会話。わはは。なんて声を出して笑ってしまいつつも物語に引き込まれてしまうクセになる面白さなのである。
このハップとレナードのシリーズだが、現時点でのランズデールのオフィシャルサイトによれば全9作。シリーズ第1作目は未約。"Vanilla Ride"が8年ぶりに上梓された(こりゃめでたい)。そして何故か出版は10年後くらいねと前置きされた9作目がタイトルだけ掲載されている。

"Savage Season" (1990)

「ムーチョ・モージョ(Mucho Mojo)」 (1994)

「罪深き誘惑のマンボ(Two-Bear Mambo)」 (1995)

「バット・チリ(Bad Chili)」 (1997)

「人にはススメられない仕事(Rumble Tumble)」 (1998)

「ヴェイルの訪問(Veil's Visit)」 本書 (1999)アンドリュー・ヴァクスと共著

「テキサスの懲りない面々(Captains Outrageous)」 (2001)

"Vanilla Ride" (2009)

"Blue to the Bone" ←出版はどうやら10年くらい先になりそうだとさ。

一方で本書には、以下の12編の作品が収められている。


 「親心(Walks)」

 「デス・バイ・チリ(Death by Chili)」

 「ヴェイルの訪問(Veil's Visit)」 written with Andrew Vachss

 「ステッピン・アウト、一九六八年の夏(Steppin' Out, Summer '68)」

 「草刈り機を持つ男(Mister Weed-Eater)」

 「ハーレクィン・ロマンスに挟まっていたヌード・ピンナップ(The Events Concerning aNude Fold-Out Found in a Harlequin Romance)」

 「審判の日(The Big Blow)」

 「恐竜ボブのディズニーランドめぐり(Bob the Dinosaur Goes to Disneyland)」

 「案山子(The Companion)」

 「ゴジラの十二段階矯正プログラム(Godzilla's Twelve Step Program)」

 「ババ・ホ・テップ(プレスリーVSミイラ男)(Bubba Ho-Tep)」

 「オリータ、思い出のかけら(O'Reta,Snapshot Memories)」

ランズデールのサイトが適当なのか、ふざけているのかよく解らないけど、本書に収まっている短編とサイトの作品リストはあちこち不整合だ。シリーズとしてリストに上がっている「ヴェイルの訪問」とリストにない「デス・バイ・チリ」の二作品がハップ・レナード物として収められている他、「ゴジラの十二段階矯正プログラム」や映画にもなった「ババ・ホ・テップ(プレスリーVSミイラ男)」そして母親の思いでを語る「オリータ、思い出のかけら」まで幅広いジャンルを横断、縦横無尽なランズデールの作風を味わう事が可能な構成となっている。

「ババ・ホ・テップ」は映画化されDVDにもなっている作品。有楽町のビックカメラで買おうかどうしようか散々悩んだヤツだ。どう考えても家族受けしないので断念しちゃったんだけどさ。また僕は「審判の日」が実は大変な力作であった事に驚き、「ハーレクィン・ロマンスに挟まっていたヌード・ピンナップ」の三人組が好きになり、 「ステッピン・アウト、一九六八年の夏」出たよ。ランズデールの悪意全開。笑っちゃイケナイのは解っているのだが、つい笑ってしまった。

そして何より「デス・バイ・チリ」チャーリー・ブランクが登場してきた事に僕は思わず目頭が熱くなったよ。

まるで夢の中にいるような朧気な雰囲気のなかで三人が交わすのは盗まれたチリのレシピの話。シリーズのどこかでこの盗んだチリのレシピを使ってチリのコンテストで優勝しちゃったらしいとか云うヤツがいたと思う。先日から探しているのに見つからない。この話はそしてまた夢のようにふっと眠りにつくように消えていく。

ま。欲を言えば鎌田三平さんの翻訳で読みたかったけどねぇ。蛇足だが「ヴェイルの訪問」はアンドリュー・ヴァクスと共著。「案山子」は彼の二人の子供であるキース・ランズデールとケイシー・ジョン・ランズデールとの共著だ。

「ダークライン」のレビューはこちら>>

「ロスト・エコー」のレビューはこちら>>

ハップ・コリンズとレーナート゜・パインの作品のレビューはこちら>>


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粉飾戦争―ブッシュ政権と幻の大量破壊兵器
(Weapons of Mass Deception:
The Uses of Propaganda in Bush's War on Iraq)」
ジョン・ストーバー(John Stauber)&シェルドン・ランプトン(Sheldon Rampton)

2009/11/02:どうやら近々ブッシュⅡが来日するらしい。どの面下げて来んだよと。そんでもって小泉元首相と会うとかなんとか。ブッシュⅡがどんな意図でやってくるのか、そして二人は会ってどんな話しを するんだろうか。

この現在の経済状況の低迷と、世界各地で噴出している紛争について、諸悪の根源とは言わないが、火を大きくしてしまった事についてどう感じているのだろう。郵政民営化 だってこんなに迷走しているのは、そもそもアメリカの言われるままに進めた結果じゃないのか。その上さっさと引退してちゃっかり自分の息子を擁立してるし。

民主党政権がスタートして、26日には鳩山首相の所信表明演説が行われた。その内容はともかく自民党の野次の低次元さは、政治生命に対する自殺願望を持ってしまったかのような自滅的なもので、こんなレベルだったのかと仰天するような程度の低さを国民に晒した。 そして麻生と森の二人はニヤニヤしてこれを眺めていたと云う。更に演説後、谷垣禎一総裁は鳩山首相の演説を「ヒトラーユーゲント(ナチスのヒトラー青年団)がヒトラーの演説に賛成しているような印象を受けましたがね」と発言した。国会議員である以上、彼らの報酬は税金から出ている。それを出している国民が見ている事すら彼らには関係がなくなっているのではないかと思う。

話しが長くなったが、ジョン・ストーバー&シェルドン・ランプトンの「粉飾戦争」だ。チョムスキーに示された黄色いレンガの道は長い迷路のような道だが、繰り返し出てくる顔は大体同じ顔だ。ジョン・ストーバーとシェルドン・ランプトンはメディアや消費者問題を監視する民間の機関、メディア民主センター(Center for Media and Democracy)を運営する傍ら本書や狂牛病の牛の食肉の流通などに関する問題を提起するような本を書いている人たちだ。

メディア民主センター(Center for Media and Democracy)のサイトはこちら>>

彼らが今回取り組んだのは、ブッシュⅠやブッシュⅡ政権のアメリカ政府が政策実行にPR工作を専門とする民間企業を使い、情報を操作し民意を操る事で自分たちの都合がよい政策を思い通り進めてきた実態に迫るものだ。

[目次]
第1章 解放記念日
第2章 アメリカをブランド化せよ!
第3章 戦争を売れ
第4章 究極の嘘
第5章 二重言語
第6章 恐怖の活用
第7章 電波戦争
第8章 アメリカはどう見られているか

彼らの出鱈目ぶりは個人的には随分調べてきたので、大分明らかになっていると言えるが、それでも今回ほっくり返した石の下から出てきたのは、ジョン・W・レンドン(John w Rendon)と彼が率いるレンドン・グループだ。

 「私は国家安全保障の戦略家でもなければ、軍事の戦略家でもありません。私はコミュニケーションというツールを使って、政府や企業が意図する目的を達成するための手助けをする、言ってみれば政治家のようなものです。実際私がやっていることはと言えば、情報を使って戦うことであり、同時にイメージを操作することでもあります。」
 ここでレンドンは空軍の士官学校生たちに、湾岸戦争で勝利に沸き立つ米軍兵士たちがクウェートに進軍したとき、小さな星条旗を振る何百ものクウェート市民がこれを迎えた時のことを引き合いに出している。世界中に配信されたこの時の映像は、アメリカの海兵隊がクウェートの市民たちに解放の英雄として歓迎されているというメッセージを乗せて、世界を駆けめぐった。
 「ところでみなさんは、七ヶ月にわたり辛く苦しい占領から解放されたばかりのクウェートの市民が、なぜその時、棒の付いた星条旗などというものを持っていたか、不思議には思いませんでしたか」
 レンドンはこう問いかけると、しばらく間を置いたうえで、続けた。
 「答えはわかったでしょう。そう、それも私の仕事の一つなのです。」

レンドン・グループは1991年の湾岸戦争をはじめ、PR工作だけではなく、アメリカの作戦さえサポートするような会社であり、イラク以外でもアルゼンチン、コロンビア、ハイチ、コソボ、パナマ、ジンバブエなどで政治の仕事を請け負っており、フセイン政権打倒にあたっては反フセイン工作の企画に止まらず、アーメド・チャラビがINCの代表に就く際にはその後見人にいたのが、このジョン・W・レンドンなのだそうだ。勿論巨額の受注をもとに企業として請け負っていると云うから驚きじゃないですか?

フセイン像の引き倒しや、上記の星条旗の件、そしてあんまり頭に来て先出ししちゃったけど、ブッシュⅡの空母上からの演説もこうした徹底した演出、まるでスーパーボウルの様な演出を行う事で、国民に物事の本質から目をそらさせ格好いいとか、誇らしげであったりするイメージで押し通してしまおうと云うものだったりする訳だ。

こうした政府として大変好ましくない行為に対して、ナオミ・クライン(Naomi Klein)は次のように語っている。

 アメリカが標的とする国々の人々と真剣に対話を持とうとしない本当の理由は、ピアーズのブランディング戦略そのものと関係があるのではないかと指摘している。クラインはこう語る。
 「企業の世界では、ブランドのアイデンティティが決定したら、企業内ではそれがあたかも軍事的な作戦に匹敵するほどの精巧さで、徹底的に遂行されなければならないとされています。ブランディングというものは、核心部分では厳格的に管理された一方通行のメッセージでなければならないのです。企業にとって最も都合のいいメッセージが一方通行で送り出され、それを社会的な対話に変えようとする動きは極力排除する。それこそがブランディングの意味するところなのです。」
しかし、クラインはこの手法は企業では通用するかもしれないが、政府機関ではうまくいかないとも指摘する。
 「企業のブランドがグローバルなイメージとして確立されれば、その企業は業界における定番企業として国際的な認知を得ることができます。しかし、もし一国の政府がこれと同じことを行えば、その国は明白に権威主義的に見えてしまうでしょう。自らのブランド化にご執心な権威主義的政治家が「民主主義」だの「多様性」だのといった言葉を毛嫌いするのは決して偶然のことではありません。彼らが行う「情報の中央統制」や「メディアの国家統制」「思考の再教育」「反対派の迫害」などなど、これらは歴史的にみても、ブランドを意識する政治家の負の側面と言えるものなのです。」

しかし、残念ながらこうした二枚舌を使った群衆の扇動はジュリアス・シーザーの時代から繰り返し戦いに利用されてきた。本書では谷垣禎一総裁が引き合いに出しているナチスドイツの大戦犯ゲーリングの逸話を紹介していた。第二次世界大戦戦後、刑務所に収監されているゲーリングの元に、心理学者のグスターヴ・ギルバートと云う人物が訪れ、一般市民が戦争や破壊をもたらした指導者たちに対しありがたみを感じていないとは思わないかと聞いたそうだ。これに対してゲーリングは肩をすくめ、こう答えたという。

 「そりゃもちろん、一般市民は戦争を望んでいませんよ。そこら辺のあわれな農夫の身になれば、戦争から得られる最良の結果といえば、自分の農場に五体満足のままで帰ってくることくらいのものですから。わさわざ自分の命を危険に晒したいとは考えなくても当然でしょう。当然普通の市民は戦争が嫌いです。それはロシアでもイギリスでもアメリカでも、そしてドイツでも同じことです。それはわかっています。しかし、結局政策を決定するのは国の指導者たちであり、国民をそれに巻き込むのは、民主主義であろうと、ファシスト的独裁制であろうと、議会制だろうと共産主義の独裁制であろうと、常にたやすいことなのです。」

これを洗練させてきたのが近代の政治でありその最先鋒と云うべきがアメリカ政府なのである。つまりはテレビと云うか映像に演出を加えて放送する事だ。この演出は巧妙に計算され周到に準備されて撮影されている。映画やドラマが作り物である事は大抵の人は予め解って見ているが大統領の登場シーンや演説する場所が作り物だとは思わないかもしれない。

それに議会があるし、選挙で選ばれた人たちが集まっている訳なので、勝手な事は出来ないだろうと、それなりの人が集まって進める以上そんな無茶苦茶な事をやる事は出来ないだろうと僕は高を括っていた。正直ほっといても大丈夫だろうぐらいに考え、政治や政策に対して無関心とさえ云える状態になってしまっていた。

しかし、違うのだ。本書やチョムスキーの本で繰り返し語られているメッセージは、正反対だ。大衆の無関心さを着いたり、或いはまた大衆の関心や興味をそらす事で我々は簡単に操作されてしまいやすいのだ。用意周到に巧妙に計算され粉飾された情報によって我々は容易に誤った選択をしてしまうのである。

グスターヴ・ギルバートはゲーリングの言葉を聞き、アメリカは議会による民主制をとっているから、そんなに思い通りに行くことはないだろうと返したが、ゲーリングはこう言ったそうだ。

 「意見を言おうと言うまいと、国民は常に指導者たちの意のままになるものです。簡単なことですよ。単に、自分たちが外国から攻撃されていると説明すればいい。平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に晒す人々だとして、糾弾すればいいだけのことです。そうすれば、どんな国家だろうが、同じようにうまくいきますよ。」

イラクに生物化学兵器を含む大量破壊兵器があって、このままではアメリカを含む国々はテロ攻撃の標的になっちゃうよと。大変な事態なんだよ。と大嘘をついたのは誰だっけ。しかもそれは、確かにかつてはイラクに存在し、それを渡したのがアメリカであって、もうそれはなくなっている事が解っていたにもかかわらずである。

そしてナイラ。

ナイラと云う難民の女の子がイラクの病院でイラク兵たちが保育器に入っている赤ん坊を虐殺していたのを見たと証言し、民衆の怒りが沸騰した。しかし、なんとこの女の子は演技指導を施されたクウェート駐米大使サウド・ナジール・アル・サバの娘であり、彼女はその時期イラクにもいなかった。証言は事実無根であったのだ。しかし、怒りに我を忘れ、偏った報道に操作された国民はイラク戦争に大多数が賛成し最早止める事ができない状態へと突き進んでいったのである。

さて、クイズです。イラク戦争の時、正にナチスドイツのような手法を使って非道な侵攻と大量虐殺を行った政府にしっぽを振ってじゃれる子犬のようになっていたアジアの島国の当時の政権はどこが握っていたでしょう。

そしてもう一つ、ちゃんと監視が必要なものはメディアである。テレビやラジオや新聞の報道内容がちゃんと公正で公平なものなのかどうか。ただ漫然と報道を鵜呑みにしていると大変な方向へミスリードされてしまう可能性がある。報道する側の姿勢もさることながら、視聴する側の姿勢も問題なのだ。本書を読んでハッとさせられたのが、ジェームズ・E・ルカゼウスキー(James E lukaszewski)の言葉だ。この人もPRコンサルタントでアメリカ軍の仕事を引き受けている人のようだが、1987年に行った分析結果として、以下のような事を述べたそうだ。

 「メディア報道とテロリズムは心の友であり、事実上、一心同体だ。両者は互いの肥やしになっている。片方は政治的またはイデオロギー的目的から、もう片方は商業的成功を得るために、一緒になって死の踊りを演出しているのだ」

 「テロ行為は世間の注目を集め、視聴率を稼ぐ、ニュースメディアは、読者や視聴者を引きつけるテロの報道はできるだけ長く引っ張りたい。結果として、テロリストとメディアの結婚は避けられない。それは、起こるべくして起きた。そして多くの場合、必要から生じたおぞましい死の踊りなのだ。」

ナオミ・クラインの言葉と合わせて考えるに、なんらかの信条に基づく人間のプロパガンダの一環として、この一方的に流れてくるコミュニケーション・アプローチが利用される事を許せば、世の中は大きく歪んだ形に見え始めてしまうだろう。歪んだ価値観や情報に基づき意志決定や判断をすれば、真っ直ぐ進むよりも道を外れる方が簡単なのは誰の目にも明らかだろう。


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たまたま-日常に潜む「偶然」を科学する
(The Drunkard's Walk: How Randomness Rules our Lives)」
レナード・ムロディナウ(Leonard Mlodinow )

2009/10/31:レナード・ムロディナウの二冊目「たまたま」この人の本はとっても読みやすくて、何より解ったような気にさせてくれる大変ありがたい本だ。それにしてもこのタイトル、表紙はインパクト抜群だな。本書は、我々が日々暮らしていく中で、実際には単なる偶然、つまり「たまたま」そうなっただけなのだが、それに理由があるようについ錯覚してしまうのはどうしてなのかと云う事がテーマになっている。

レナード・ムロディナウによれば、

 われわれは過去を再構成する際、もっとも生き生きとした記憶、それゆえもっとも回想しやすい記憶に、保証のない重要性を授けてしまうのだ。

このような事を可用性バイアスと云うそうだ。

 可用性バイアスの好ましくないところは、過去の出来事や周囲の状況に対するわれわれの認識をゆがめることで、いつのまにか世の中の見方をゆがめてしまうことだ。たとえば、われわれは精神病のホームレスの割合を過大に評価する傾向がある。というのはわれわれは、振る舞いがごく普通のホームレスに出くわしたとき、そのことにとくに注意を向け。たまたま出くわしたホームレスについてすぺての友人に話すようなことはしないが、足を踏みならし「聖者が街にやってくる」を歌いながら目に見えない仲間に手を振っているホームレスに出くわすと、その出来事を記憶に留める傾向がある。

 あるいは、スーパーの会計にできている5つの列。もっとも時間のかかる列を選んでしまう確率はどれほどだろうか。黒魔術師に呪われてでもいなければ、答えはおよそ五分の一だ。そうだとすれば、なぜわれわれは過去を思い起こしては、自分には最長時間の列を選ぶ超能力がある、などと感じるなのだろうか。
それは、ものごとがうまく運ぶときは、注目すべき重要なことがあってもそれは気を留めず、カートにたった一つだけ品物を入れた前の婦人が、肉売場での値札には1ドル49セントと書いてあったのになぜその鶏肉が1ドル50セントなのかで口論をはじめると、そのことが印象に残ってしまうからだ。

そうそう、僕もスーパーのレジの列や、高速道路の料金所の列に並ぶときに一番トロい列に並ぶ才能を持っているとカミさんによく言われる。そして自分でもそう思う時もある。ふとしたシチュエーションや会話、仕草によって過去の嫌な思い出がどっと噴出してとまどってしまう事ってないだろうか。今日は妙に手や足にギプスをしている人に行き会う日だと思う事はないだろうか。我々が過去の経験からなんて何かを語る時には可用性バイアスにとらわれて歪められた過去を語ってしまっている蓋然性が高いと云う事か。仕事で課題解決をするべく打ち合わせをしているとついつい、ヒートアップしてあーなんだ。こーなんだと激論になる事があるけれど、相手の言う事を聴く以前に自分の考えが可用性バイアスでどの程度歪んでいるのかを冷静に考える必要がありそうだな。

 与えられたディテールと、頭の中で描く何かが合致すると、シナリオのディテールが多いほどシナリオはリアルに思え、その結果、われわれはそれがより蓋然的である(つまり、ありそうである)と考えてしまう。しかしその一方で、ある推測に不確かなディテールを付加することは、どんな場合でも、その推測の蓋然性を下げてしまう。

 確率の論理と、不確かな事象に対する人間の評価とのこうした矛盾に、(ダニエル)カーネマンと(エイモス)トヴァスキーは興味を抱いた。なぜなら、それが実生活において不当な評価、誤った評価をもたらす可能性があるからだ。

 たとえば、「被告は死体を発見したあと、犯行現場を去った」と、「被告は死体を発見したあと、そのおぞましい殺人事件で起訴されるのを恐れ、犯行現場を去った」では、どちらがありそうか。「大統領は教育に対する連邦補助を増やすだろう」と「大統領は、全州に対する他の補助を削減することで浮く金を使って、教育に対する連邦補助を増やすだろう」とでは、どちらが蓋然的か。「会社は来年売り上げを伸ばすだろう」と「経済が全体に当たり年だったから、会社は来年売り上げを伸ばすだろう」とでは、どちらがありそうか。

 これらのいずれの場合も、後者は前者より蓋然性が低いにもかかわらず、よりありそうに聞こえるかもしれない。カーネマンとトヴァスキーの言葉を借りれば、「よくできた話しは、不満足な説明より蓋然性が低いことがよくある」。

そして「確証バイアス」。

 われわれが錯覚にとらわれているとき---そしてそのことで言うなら、何か新しい考えを抱いたときはいつでも---われわれはたいてい、その考えが間違いであることを証明する方法を考えるのではなく、それが正しいことを証明しようとする。心理学者はこれを「確証バイアス」と呼ぶ。確証バイアスは、ランダムネスに対する誤解から逃れようとするわれわれの能力の大きな障碍となっている。

この可用性バイアスと確証バイアス。結果的にこれらのバイアスに捕らえられやすいと云う話である訳だが、これを誰かがこれを逆手に取って利用しているととしたらどうです?これは非常に好ましくない話しだと思いませんか?

本書に続き読んだ「粉飾戦争」でも取り上げられていたが、2003年5月1日にブッシュⅡは空母エイブラハム・リンカーンにジェット戦闘機から降り立ちイラク戦争の勝利宣言をしたが、この演出には100万ドルもかけられており、ブッシュⅡが記録的に短い飛行距離で着陸出来るように空母はサンディエゴの海岸ギリギリまで接近したのだそうだ。勿論撮影では街並が映らないように空母が向きを変え、風の影響を受けないように風向きと強さに合わせて移動していたんだそうだ。この演説の聴いた人の思いは様々だろうが、演説の映像を見た人がはるばるどこかの海上に浮かぶ空母までブッシュⅡがジェット戦闘機に乗ってやって来たと思い込むよう周到に計算されて作られているのである。つまり可用性バイアスを狡猾に利用している訳だ。

こいつらとんでもない事をやってんな。ほんと。

本書はこうした我々が間違いに陥りやすい確率における思いこみや錯覚の話しと平行して、紀元前のギリシャにはじまる確率論の発展を外観するものだ。本書も大変読みやすく解りやすいものなのであるのだが、若干僕は物足りなさを感じた。確率論の発展は踏み込みが足りないし、ランダムネスや可用性・確証バイアスの件は非常に面白いテーマなのだが、こちらも実際の例示と云うかエピソードが限られておりこちらも物足りない。テーマが面白い分ちょっと残念でありました。もう少しページ増やしてもよかったんじゃないかと思うな。

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帝国を壊すために―戦争と正義をめぐるエッセイ
(Complete Essays)」
アルンダティ・ロイ(Arundhati Roy)

2009/10/25:今月も早くも25日。最近、日々の過ぎ去る速さにはおののくばかりだ。アルンダティ・ロイの2冊目はこの「帝国を壊すために」。この本は、2001年のあの9.11事件の直後から、彼女が様々なメディアを通して語ったエッセイ、8編が収められている。

・「無限の正義」という名の算術

・戦争とは平和のことである

・戦争のお話 ――核爆弾で楽しむ夏の家族ゲーム

・民主主義の女神 ――彼女はたしかにこの地にいるはず、でも誰も彼女のことを知らない

・来たれ、九月よ

・<帝国>に抗して

・民衆のための<帝国>ガイド

・帝国製インスタント民主主義 ――ひとつ買うと、もうひとつただで貰えるインスタント食品はいかが?

一番目の『「無限の正義」という名の算術』は2001年9月28日。ドイツの新聞に掲載された。以下時間軸に沿って、2002年5月。グジャラートの暴動事件を踏まえて書かれた『民主主義の女神』。2003年4月、イラク開戦直後の『民衆のための<帝国>ガイド』。そしてブッシュⅡによる勝利宣言がなされた直後の2003年5月の『帝国製インスタント民主主義』等々である。

 アメリカが「テロと戦う国際同盟」の先頭に立つ前に、アメリカがそのほとんど神がかった任務にはほかの国を招き入れる(とともに強制する)前に、いくつかはっきりさせておくべきことがある。(ちなみに、この作戦をアメリカは「無限の正義作戦」と名づけたが、アラーだけが無限の正義をなし得ると信じているイスラム教徒への侮辱だ、と受け取られかねないとの指摘で取り下げ、「不朽の自由作戦」と再命名したいきさつがある。)たとえば、「無限の正義」とか「不朽の自由」とかいうのは、いったい誰のためなの?
 このアメリカの戦争は、アメリカで起きたテロと戦うのか、それともテロリズム一般に対する戦いなのか?いったい何に復讐しようというのか?それは一時は7千人と言われた人命の悲劇的損失(実際には約3千人)にか、マンハッタンの1500万平方フィートのオフィス空間が焼失したことにか、ペンタゴンの一部が破壊されたことにか、何万もの職が失われたことにか、航空会社のいくつかが破産の危機に見舞われそうなことにか、はたまたニューヨークの株式市場の暴落にか?それとも何かそれ以上のものに対してなのか?

そうそう、「旗を見せろ」みたいな事をいってきた事に対して、なんだ一体何を言ってんだこのおっさんは、みたいな感じで僕も関係ねーだろー位な気持ちでいたのだが、日本政府はホイホイと給油船を出すわ、金も出すわみたいな反応で、あれよあれよと云う間に実現してしまったんだっけ。この時僕が思ったのは単なる「派兵」とか云う以前にこの問題に首を突っ込む事自体が全然次元の違う問題なのになと云う事だ。、勿論有識者の間からは反対意見がでなかった訳ではない。しかし、なんだかんだと押し通されてしまった。こう考えるとどんな愚行であっても巧妙に進めれば実現させる事が可能だと云う事の証明だと取ることもできるのだね。

 2001年のこと、わたしも多くの人と同じく、こうした9月11日以降の二次的レトリックを、馬鹿らしく傲慢だからと端から相手にしない、という間違いを犯した。その後わたしは、これがぜんぜん馬鹿げてなどいないことを悟るようになる。事実それは、誤謬にみちた危険な戦争への巧妙な募集方法なのだ。アフガニスタンに対する戦争に反対することは、テロリズムへの応援で、タリバンへの投票と同じだ、と多くの人が信じているのを、私は毎日のように知らされて仰天した。戦争の当初の目的---オサマ・ビンラディンを(「生きていようが死んでいようが」)捕まえること---が、どうもうまくいかなくなってしまった今、ゴールポストも移動しましょう。戦争そのものの目的は、タリバン政権の転覆であり、アフガン女性をブルカから解き放つことでした、というわけ。アメリカ合衆国海兵隊が、実のところ女性解放の使命を帯びていることを信じてください、とわたしたちは言われているのです。(もしそうなら、海兵隊の次の目的地はアメリカの同盟国であるサウジアラビアでしょうね?)

時勢からいってもアメリカの愚行に関する話題がどうしても多くなってしまう。まぁ、これはそんだけ愚行を重ねに重ねているアメリカの方に問題がある訳だけど。本書のタイトルにある帝国とは、必ずしもアメリカばかりを意味しない。2002年5月にインドのグジャラート州でムスリムのテロリストによってサバルマーティー急行列車が焼き討ちにあったことに端を発して、大規模な暴動が発生。復讐をさけぶヒンドゥー教徒たちによって大勢のムスリムたちが襲われた。公式発表による死者は800人だが、実際には2千人以上のムスリムが虐殺され、15万人以上が住処を追われたと云う。しかもこれはヒンドゥー教原理主義者たちによって計画的に実行されてた可能性すら示唆されているのだ。

インドのテロについては断片的に伝わってきているものの、正確にそこで何か行われているかはよくわからない。少数の人間の意図によって情報を操作し、群衆を統制しつつ事を進めることそのものを帝国的なものとして彼女は断固として反対しているのである。デモクラシー・ナウでは2008年、ムンバイで起こった襲撃事件について彼女はニューデリーから震えるような声で伝えている。こうした一連の事件は9.11直後から度々起こり始めた。最初に起きたのはカシミール会議襲撃。犯人だとされ最終的に有罪となったのは1人。この男も結局はテロ組織と関与している証拠がみつからないまま、最高裁では「社会全体を満足させるために死刑を宣告」されたと云う。インド政府もメディアも9.11の事件を利用しているようで、このムンバイの事件にしてもメディアの取り扱いはFOXテレビも左翼的に見えるほど偏っているとし、犯人や事件そして真相がもみ消されつつも事態だけが進行していくことに危惧を抱いているのである。
ここには明らかにヒンドゥーとムスリムの間に紛争を生じさせようとしている意図が働いているようだ。

 サング・パリワールには、どんな場合でも適応できる頭が備わっている。あらゆる時間にふさわしい、手慣れたレトリックと言葉の持ち主。暴徒を奮い立たせる強硬派のラル・クリシュナ・アドヴァーニーが国務。やわらかいタッチのジャスウォント・シンが外務。滑らかな口調で英語も達者な法律家アルーン・ジャイトリーがテレビ討論専門。冷血漢ナレンドラ・モディが知事。パジュラング・ダルとVHPの草の根活動家が、肉体労働を受け持って、虐殺部門を担当。最後に、この多頭の怪物には、トカゲのしっぽがあって、都合が悪くなるといつでも切り落とされ、また後で生えてくる---国防大臣の服装をしたエセ社会主義者で、なにか事が起こると被害を最小限に収めるために派遣される男。戦争でも、サイクロンでも、虐殺でも。どれが正しいボタンか、何が適当なきざしか、こいつに聞けば間違いないという手合い。

これらの情報も彼女の言葉を辿ると芋づる式にヘンテコな事態が進んでいる事が解るのに、新聞やネットのニュースを漫然と見ているだけでは把握できない。チョムスキーもそうだったが、アルンダティ・ロイもこの9.11の直後に書かれたものとしては、呆気にとられる程冷静で状況を正確に把握している事に驚く。僕だって当時ちゃんと新聞だってネットのニュースだっていろいろ読んでいたのにも関わらず、彼女が指摘しているような事実に辿り着くまでに何年もかかってしまった。この情報の格差は一体どこから生まれているのだろう。僕らは単に目を見開いて映し出される光景にばかり目を奪われていてばかりはいられない世の中に住んでいるようだ。


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陰謀と幻想の大アジア
海野弘

2009/10/25:海野弘の本を読むのは、正に読書の悦楽である。また、同時に海野弘はすばらしい読書家でもある。僕も本は読むのと同じくらいの労力をかけて本を探している。人生は短い、読める本の数も自ずと限られている。だから必死で自分の好奇心に答えてくれる本を探すのだ。でも海野弘が探し出してくるものには全く敵わない。海野弘の本の中で紹介される夥しい本は僕の前に全く知らない新しい扉を開いてくれる。僕にとって海野弘は知識の暗い海を照らす灯台なのである。僕はその灯台の照らし出す細い光の筋を頼りに書物の海を進む。

インターネットは、かつてない広がりと深さを持つ情報へのアクセスを可能にしたが、海野弘が果たす灯台のような存在なしに、闇雲に漕ぎ出して何かが得られる程生やさしいものではないのである。

アメリカ政府が嘘八百で陰謀にまみれた政治を行ってきていた事が紛れもなく現実のものだと知って驚いたのはつい最近の事だ。これだって、然るべきところへ行き、ちゃんと文字を追えばなんの事はなく、ずっと以前から書かれて誰かに読まれるのをずっとただ待っていた訳で、それは秘密でもなんでもなかった。なのに殆ど誰も知らないのだ。アメリカの陰謀については、てっきり知らないのは僕だけだったのかと焦りまくった訳だが、白昼堂々とはちゃめちゃな事をやっているのに、いまだに国民のなかには気づいてもいない幸せな人々が大勢いるのである。

振り返って日本はどうなのかと。大丈夫なのか日本と。あらためて見つめ直す必要があるのではないかと。先日、日本がキリスト教原理主義者によって乗っ取られるような事態は考えにくいなんて事を書いたが、思い起こせば、1995年3月、地下鉄サリン事件、それに続いて、國松孝次警察庁長官が狙撃される事件が起こった。この時僕は日本って国は本当におかしくなってしまったんだろうかと本気で不安になったものだ。

この不安は9.11の事件で抱いた不安と共通の感覚なんじゃないだろうか。サリンも警察庁長官狙撃事件も後の捜査によって解ったのはこの一連の事件はなんだかんだいって、至極少数のカルト集団によって引き起こされていたのであって、これはほんの一握りの人間がその気になれば、社会を不安と疑心暗鬼に陥れる事が可能だと云う事を実演したということだ。そしてこれは安定して安心できる社会と云うのが如何に脆弱なものであるかを知らしめてくれた。

海野弘は本書のなかでこんな事を書いている。

 これまでの歴史学は陰謀史観を無視してきたために、歴史を一元的な正史に固定してきた。しかしそんな一本道の正史が解体してしまうと、歴史はさまざまな読み方ができるようになり、突然おもしろくなってきたのではないだろうか。

陰謀史観をもって正史を見直す。確かに。現在のアメリカやイスラエルの正史は50年、100年経ったらどんな風に書かれているのだろう。プッシュ親子やケネディ暗殺はどう描かれるのだろう。そしてヴェトナム、アフガニスタンやティモール、メキシコ、広島・長崎の原爆について教科書にどのような歴史が書かれるのだろう。

同じように日本の政府や社会にだって陰謀は密かに埋め込まれているハズだ。そもそも学校教育、特に日本史には言いたくない事は言わずに避けて通っていると云う陰謀があるのではないかと僕は常々思っている。

まずは皇室。日本史に脈々と寄り添う形で連なってきた皇室の歴史については何も語られない。日本の古代史は皇族との関係なしに語れないハズなのに、そっくりそれが省略されているのである。教科書を読んでも彼らが何を巡って争い合っているのかわからない時があったりするが、これは皇族との関係を奪い合っていたりする訳だね。

そして、もう一つは戦争。僕の父や祖父の周辺には満州から帰ってきたとか、シベリアに抑留されていたなんて人がちらほらいて、父自身も予科練に行っていた訳で太平洋戦争は他人事ではない身近な問題であったのだが、僕たちの学校教育で習う日本史は全くそのような事情に触れない。

日本がパールハーバーを攻撃したのは、アメリカが日本に中国への干渉をやめさせるよう強力な経済制裁を加えてきた事が引き金になっている。そして、アメリカがそのような態度に出てきたのは日本が中国へ干渉していたからだ。日本政府はその時どのような価値観と意志を持っていたのだろう。

縄文時代とか平安時代については詳しく語るのに、近代に近づくにつれてその口調はどこか早口で、曖昧なものになり、春休みを前に最後は唐突に終わるのだ。普通に考えれば、千年前よりも500年前、500年前よりも50年前の事の方が詳しく解っているし、より具体的な話ができると云うものなのに、何故か日本史はそうなっていない。僕はこれに非常に不満があった。なんで戦争をしたのかについて全く説明がないと云うのはおかしいと思いませんか?これじゃあ反省のしようもないじゃないか。

ここには明らかな断絶がある。僕たちは日本の歴史や世界との関わりについて、どこか欠けたままの認識を抱かされているのである。

 (エドガー)スノーと平野義太郎の戦時のアジア論を比べるとある哀しみに打たれる。スノーの言葉は今にとどくが、平野の言葉はとどかない。歴史家としてのこの差はどこからくるのだろうか。スノーは今の私たちに過去へのパースペクティブを開いてくれるが、平野の戦時のことばは断絶し、時局だけのための孤立した陰謀のセオリーとなっている。そして戦時のことばが断絶していることは、戦後のことばもまた断絶していることを示しているのだ。

海野弘はこの断絶を埋めるものとして、戦前の歴史に陰謀論と云う切り口で迫っていく。あとがきにはこんな言葉があった。

 そこには私が漠然と関心を持っているいくつかのテーマが集中している。それぞれについて資料を集めていくと、十個の山ができた。さらに、十の山は、互いにつながっていて、一つの山脈となっているようであった。十の陰謀の山をつないで、一つの大陰謀山脈をつくり、それによって日本の近代史、<モダン日本>がユーラシア大陸へと投げかけた夢を語ってみたいと、私は思った。

つまりその十の山とはこんな山だ。

第1章満州国
第2章ウラル・アルタイ民族
第3章日本人・日本語の起源
第4章騎馬民族説
第5章大アジア主義
第6章ユダヤと反ユダヤ
第7章回教コネクション
第8章モンゴル
第9章シルクロード
第10章大東亜共栄圏

その地平にゆるゆると姿を現す怪しい月のような事件がノモンハン事件だ。

 1939年、日本軍はハルハ河付近で軍事行動を起こした。モンゴルではハルハ河の戦い、日本ではノモンハン事件といわれる。モンゴル・ソ連によって日本軍は撃破される。
 辻政信などの陰謀であったといわれるノモンハン事件は謎が多い。北川四郎「ノモンハン元満州国外交官の証言」などを読むと、明瞭な目標もなく、いいかげんな情報による、むなしい戦いなのである。しかし、この事件の結果は大きな意味を持った。ソ連にたたきのめされた日本は1941年4月、日ソ中立条約を結ばなければならなかった。ソ連は満州国の国境を尊重する代わりに日本はモンゴルの国境を尊重することになる。
 6月にはドイツがソ連に侵入するのであるから、日独の協力関係からすればなんともチグハグだ。もしノモンハンで日本が勝っていたとしたら、12月の真珠湾攻撃による対米宣戦はあったろうか。ともかくノモンハン事件は、日本の南進政策への転機となっている。



大きな地図で見る

海野弘も書いているようにノモンハン事件もそれを境に歴史の断絶を生んでいる。何故ノモンハン事件が起こったのか。それには謎が多いという。

本書を読むと正にユーラシア大陸に跨る、読んだら椅子からおっこちてしまうような陰謀があった事がわかる。それはあまりに奇想天外で面白すぎるので、ここでは書かない。是非本書を手にして読んでたまげて欲しい。それを信じて大陸で命を賭け散った人々、人生を狂わされた人、蹂躙されて露と消えた人々。こうした人々の存在が息づく歴史はなんと活き活きとして、人間臭いのだろうか。これこそ本物の歴史であり、だからこそ、この本は読んで面白いのである。そして努々、陰謀論が遠いよその国の出来事だなんて思ってはいけない。油断怠るなかれ。我々だっていつどこで巻き込まれるかわからない。或いはもう既に巻き込まれているかもしれないのである。


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火車
宮部みゆき

2009/10/18:忙しい、忙しいといいつつも本を読む時間はどうにか作っている。そしてレビューも長々と書いている事から結局実はそんなに大変じゃないんじゃないかと思われる?いやいや無理無理時間を作って本を読んで週末に早起きして書いているんですよ。何故なら好きだから。自分で確信を持ってそう言い切れる事を見つけて続けて来れている事に感謝したい。

と云う訳で宮部みゆきですよ。「火車」ですよ。「模倣犯」か「火車」か、はたまた「理由」かなんて百花斉放。僕はまだ宮部作品のほんの一部しか読んでいないのでとてもそんな論議に割って入れる立場ではなく。ただただ堪能させて頂く身である訳です。

1992年1月。本間は逮捕の際に犯人に膝を拳銃で撃たれ重傷を負い休職中の警視庁の刑事だ。彼の元に疎遠がちだった遠縁の男、栗坂和也が訪ねてくる。栗坂は亡くなった本間の妻千鶴子の親戚で29歳。東京の銀行に勤めていた。彼は本間にあるお願いを持ってきた。

栗坂はある女性と婚約を結んだのだが、その女性が突如として失踪してしまい、彼女を捜して欲しいと 云う。彼女の名は関根彰子。28歳。家柄の問題で栗坂の両親は結婚に反対していたが二人はこの反対を押し切って婚約を結んでいた。そして新居の準備を進めている最中の失踪。喧嘩をした訳でもないと云う。

きっかけと思われるのはクレジットカード。彰子はクレジットカードを持っていなかった。本間に勧められてカードを作る手続きをしたところ、彼女がブラックリストに載っている事が解った。仰天した栗坂が更に調べると彼女には自己破産した経歴があったのである。本人に間違いない事をしつこく確認した上で、彰子へこのことを尋ねたところ、彼女は何も答えずそのまま失踪してしまったと云うのである。

一体彼女にはどんな事情があったと云うのだろう。どんな事があっても彼女の消息が知りたいと云う栗坂の気持ちを踏んで本間は彼女の足どりを追い始める。やがてそこに浮かび上がってくる彰子の人生とその人生を狂わす消費者金融の暗部。いやいや一気読みですわ。車で云えば超マッチョなアメ車。白煙を上げアスファルトにブラックサインを太々と残して地平へと消える。誠に見事な加速ぶりでありました。

水元公園


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この主人公の本間が住んでいるところは水元公園の南側の公団の団地だと云う設定になっている。先日僕はここにある閘門橋を見に行ってきた。閘門橋は東京で唯一の煉瓦造りのアーチ橋なんだよ。勿論本間が住んでいると云う団地は架空だが、ここ周辺の雰囲気は上手に使われていると思う。


閘門橋

送信者 水門と橋その2


そう、宮部の現代ものの作品に共通するものは、首都圏だ。このとんでもない数の人がひしめいて生きている都会。そこに住む人々の大部分は僕たちと同じごくごく普通の人な訳だが、やはり善人もいれば悪人もいる。この全く素性も信条も価値観も違う人たちと肩をぶつけ合いながらも暮らしている。果たして電車で隣に座った人物がどんな人でどんな暮らしをしているのか。「火車」からふと目を上げるとそんな疑念と不安を覚える。

本書が上梓されたのは物語とほぼリアルタイムの1992年。栗坂和也、関根彰子と僕は同年代だ。今ではカード決済は当たり前だけど、振り返ると僕が入社した当時はクレジットカードなんて持っていないし、持っている人なんて周囲にも居なかった。初めて持ったのは確かこの頃だったと思う。

本書は僕の社会人人生をそのままなぞる形で想起させるものでもあった。結婚前の新居の買い物はやはり信販で後払いにしたんだっけなぁ。お店の手違いで物が届く前に引き落としになって苦情を言ったなんて事もあったっけ。当時はお店で信販を使う場合は電話で信用会社に紹介したりするような事をやっていた。信用会社は信用会社で小さい端末にカナで名前を入力して紹介していたのだ。

個人信用情報やそれに基づくカード決済の仕組みはITによって、隔世の進化を遂げたが、その抜け道を巧妙に利用する手口もきっと進んできた。一方で消費者金融もこの20年位の間で浮沈を繰り返している。サラ金なんて云われて非常に印象が悪くなって、かなり体質改善をした時期もあったものの、最近では再びかなり印象の悪いニュースが流れてくるようになった。そしてこれを利用する我々側は全く成長しているとは言えず、繰り返されているのは多重債務などによる転落。「火車」で描かれているカード社会は一昔前の姿だけれど、今また同じような悲劇が繰り返されている感じだ。そんな意味でこの「火車」の世界は古くて新しい世界観を生み出している訳なのだ。

僕は宮部みゆき作品に対して周回遅れでしかも勝手な周り方をしている。そんな訳で今の時点で宮部の作風云々についても述べる事はできないが、「模倣犯」のような場面や視線を変えて物語の奥行きを作り、その先の展開をじらしながら進めるような手練れや、本書のように無駄を省いて直線的に進む作品を使い分けていると云う点でもこの二つは少なくとも全く別な書かれ方をしていると思う。社会の暗部をぐりっと抉り出している点でこの「火車」は見事だが、読み物として「模倣犯」の瞠目すべき構造は右に出るものがないと思う。

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つきあい方の科学―バクテリアから国際関係まで
(The Evolution of Cooperation)」
ロバート・アクセルロッド(Robert Axelrod)

2009/10/18:現在、携わっているプロジェクトはフェーズ終了に向けて正に大気圏に突入したみたいに、赤く燃えあがりながらも尚加速中で相当タフな状況が続いている。10月になったと思ったら、あっと云う間に半ば過ぎだよまじかよほんと。

と云いつつも、第三クォーター4冊目は、ロバート・アクセルロッドの「つきあい方の科学―バクテリアから国際関係まで」だ。本書は「囚人のジレンマ」として知られるゲーム理論から導き出される、文字通り国際関係からバクテリアに到る様々な関係における関係において、どのような戦略を持つことがより有利かについて述べたものである。

ロバート・アクセルロッドは、1980年、囚人のジレンマの状況下でどのような戦略が有利かについて様々な分野の専門家が作ったコンピューター・プログラムを募集し実際に対戦させるコンテストを行った。ここから得られた知見から書かれたものが本書なのである。原著は1981年に出版され、2006年に改版されている。日本でも86年から会社を変えて2度出版されている。松田裕之氏の「新装版にあたって」にもある通り、衰勢著しい科学の読み物のなか、このように息の長い改版を繰り返されている本書は紛れもない名著である証でしょう。

まずは、囚人のジレンマ。これは共犯で捕まった囚人が相手に不利な証言をする事で、自分の罪を軽減する取引に応じるべきか、それとも黙秘を通して互いにそれなりの刑を受けるかと云う選択における利害の対立の事だ。自分だけが裏切れば利益を得らが、相手がどう出るかは解らない。互いが裏切った場合、共に何の利益も得られないし、相手に一方的に裏切られれば自分だけが損をする。信頼か裏切りか。

これを様々な戦略を取るように作られたコンピューター・プログラムによって対戦させた。基本的なルールは一緒。細かいルールは省くが、二つのプログラムが協調か裏切りかを選択する事で得点を競うもので一方的に裏切った場合が最も得点が高く、次が両者が協調した場合、次に両方が裏切った場合、そして一方的に裏切られた場合の順で得点が低くなると云うものだ。そして対戦ではこの勝負が何度繰り返されるかは解らないようにしたのである。何故何回やるか予め解らないようにしたか。最後の勝負はそれと解っていれば対戦者は裏切る選択を取る方が明らかに得だからだ。

このコンテストには様々な戦略を持つプログラムが集まってきた。複雑な統計分析を行いながら次の手を選択するものもあれば、ひたすら裏切り続けるものもあったようだ。果たして対戦結果はどのような戦略を持ったプログラムが高い得点を上げただろうか。

何度も反復される囚人のジレンマに対応する戦略で成功を収めたのはトロント大学のアナトール・ラボボール教授の考案した「しっぺ返し」と呼ばれる戦略であった。この「しっぺ返し」プログラムは最初、協調するが、常に相手が前の手で取った手を踏襲すると云うものだ。このプログラムはコンテスト中最も短いものでありながら最高の結果を残した。この事は何を意味するのだろう。

囚人のジレンマ。その事から導き出されるものは、ちょっと残念な事ではあるが、やられたらやり返すと云う事だ。それもすかさず、そして同等の力を持って仕返しする事が最善の道だと云う。

 継続して行われる反復囚人のジレンマでうまくやる方法について、ここで単純な教訓を述べておく。
①目先の相手を羨まないこと
②自分の方から先に裏切らないこと
③相手の出方が協調的であれ、裏切りであれ、その通りにお返しをすること
④策に溺れないこと

果たして現実世界における囚人のジレンマが通用するのはどこまでなのだろう。どうやら動物のなわばり争いや、生物進化の過程ではこの囚人のジレンマに対する「しっぺ返し」戦略によって勝ち抜いてきたと思われるものが沢山あるらしい。コンテストでは一対一であった訳だし、その力も対等。そして対戦が繰り返される回数も不明。これはつまり負けが込んで、片方がゲームオーバーにはならない。そして協調も裏切りもおしなべて答えがはっきりしている議論の余地のない選択肢となっている。

一方現実の国際関係は決して一対一ではないし、力関係も桁違いとなるケースもある。また協調も裏切りもその手段と手段の組み合わせは無数にある。そして時として負ければ国家や個人は崩壊するかまたは死ぬ。その時点で負けた側のゲームは永遠に終了してしまうのだ。アクセルロッドのコンテストは最終回が不明だが、現実世界ではどうやら最後の勝負になりそうだと云う事が当事者にある程度予測が可能な状況があり得る。本書が国際関係や安全保障に「しっぺ返し」戦略を持ち込んでいる事にはすごく違和感を持った。

 今日、国と国がつきあうときには、間に立つべき中央の権力など存在しない。だから、協調関係が出現するために何が必要かという問題は、国際政治の中心課題と深く関わっている。その中でも特にたいせつな問題は、安全保障のジレンマである。すなわち、国家はよく自国の安全を守るために他国のそれを侵害することがある。これは、地域紛争の激化や軍拡競争という形でよく問題となる。同盟国間の内輪もめ、関税交渉、キプロスで起きたような自治をめぐる紛争もこれに関連があり、やはり国際関係において生じた問題である。
 1979年に勃発したソ連のアフガニスタン侵攻は、典型的な選択のジレンマの中にアメリカを追い込んだ。アメリカがソ連と今まで通り取引を続けると、ソ連は図に乗って、さらに非協力的な行動をとってくるかもしれない。かといって、アメリカが協調的態度をひるがえし、報復行動に転ずると、ますます冷たい関係に陥り、互いの敵対行動が容易には収拾がつかなくなる恐れがある。外交政策に関する国内の論争の多くは、まさにこうしたジレンマに深く関わっている。そのため、かなり難しい選択を迫られているわけである。

どうやらアクセルロッドはソ連かアフガニスタンに侵攻した際に何らかの圧力が存在した事は知らなかったらしい。「非聖戦」によれば、この時ソ連側にはズビグニュー・ブレジンスキーの言うところの蓋然性を高める為のアメリカ側からの工作が実際には存在していた。だからソ連が侵攻したのである。日本がパールハーバーへの攻撃に到るまでには、アメリカは日本が中国に干渉しないように強力な経済制裁を加えていた事はこの本にもある通りである。何も僕は日本の行為を正当化しようなんて意図はない。しかし国際関係における対立は武力によるものばかりではなく、様々な手段によって行われる。目に見えない、ニュースにならないような圧力が加わった結果、突如として武力衝突が表面化するのである。

ガザ地区ではしっぺ返しの単位は1:10位のレートで行われているが、それでもハマスが細々とミサイル攻撃を行う理由はなんだろう。これは北朝鮮であっても、ソマリアの海賊行為でも、似たような背景がありはしないだろうか。彼らの信条を踏みにじり、常に存亡の危機に追い込んでいる。つまり裏切り戦略を取っているのは誰でそれはどんな手段を使っているのかについて目を向けるべきなのではないかと思う訳だ。

 政治の指導者というものは、えてして対抗勢力との協調関係を追求すべきでないという発想をもっている。相手を破綻させた方がもっとよいと考えているのである。これは、相手との正常な協調関係を歯止めなく破壊し、相手を立ち直れないくらいに弱体化させるまで闘争をエスカレートさせる、きわめて危険な企てである。

しっぺ返し戦略は時として報復の応酬を際限なく繰り返させてしまう可能性を孕んだものだ。そしてゲームは無限に続くわけではない。囚人のジレンマにおいて導き出される解として、最後の勝負で取るべき戦略は「裏切り」なのだ。僕の頭はこの安全保障の問題と囚人のジレンマの話しについてぐるぐると堂々巡りを繰り返している。

つまり違和感はあるが「しっぺ返し」戦略が正しい事は否定できないからだ。ここではどうやら排除すべき問題は力関係の差だ。対等な力関係を持たせる事が解決に繋がる。力を小さい方でバランスを取らせる事しかないように思えてきた。同等の大きさと力を持った集団になることで、囚人のジレンマが必然的に発生し互いに牽制し合うことで対立を避け協調し合う関係が構築できるのではないかと。子供たちが大人なった時に今よりももっと平和でマシな社会になっている事を祈ろう。


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リンカーン弁護士 (The Lincoln Lawyer )」
マイクル・コナリー (Michael Connelly)

2009/10/17:随分とやきもきしていましたが、漸く読む機会に恵まれました。ありがたや。なんせ終結者からほぼ2年ですからね。

ちょいと愚痴らせてもらえば、この「終結者」は本国と2年遅れ。更にこの「リンカーン弁護士」は4年遅れ。この計算でいくと本国では2006年に出版されている「エコーパーク」は2014年位になる勘定でしょうか?今月出るらしい最新刊も含め既に滞留しているのが5冊もあると云うのは、ちょっとどうにかして欲しいぞ。生きてる内に全部読めなくなっちまうじゃねーか。

因みにその未約の5冊の内訳は、

"Nine Dragons" (2009)
"The Scarecrow" (2009)
"The Brass Verdict" (2008)
"The Overlook" (2007)
" Echo Park" (2006)

ジャック・マカヴォイものが一冊。"The Scarecrow" 、ハリーボッシュシリーズが3冊、マイクル・ハラーが一冊、"The Brass Verdict"しかしこれにはハリーも重要な役所で登場したりするらしい。繰り返すけど、とっとと出版してくれ。


それは兎も角、「リンカーン弁護士」だ。マイクル・ハラーはロサンジェルス郡の刑事弁護士だ。ハラーは地元で起こる暴行や麻薬などの事件で陪審審理まで行かずに刑が確定するような簡単な裁判の弁護をパートタイムで引き受けているような弁護士である。当然報酬もそれなりで、生活するためには沢山の訴訟事件を抱え、公判から公判へ、裁判所から裁判所へと次々と移動しては仕事をこなす必要があった。そのため彼の事務所は移動に使う車の後部座席であり、正式なオフィスは構えていない。このような弁護士の事をリンカーン弁護士と呼ぶらしい。

ハラーは、事件の捜査方法や当事者の証言から、検察や警察のあらを探し、被告人が厚生するチャンスや判事の温情に訴え利用可能な厚生プログラムを受ける事を条件とするなどして、検察側の要求を最大限に減刑させたり、裁判そのものを無効にしたりする腕に長けていた。そのため、検察・警察からは忌み嫌われている一方、繰り返し逮捕されるような人々からは一定の信頼を得ていた。ハラーにとって司法制度は生きていく為により大きな獲物を探して狩る場所なのだ。

 イエローページに最初に載せた広告は、「どんな事件でもいつでもどこでも」だったが、数年後に、それを変えた。法曹協会がそれに異議を唱えたからではなく、わたし自身がそれに異議を唱えたからだ。より専門化した。ロサンジェルス郡は、砂漠地帯から太平洋にいたるまでの1万平方キロを覆う皺くちゃの毛布である。その毛布の上で居場所を求めている人間が1千万人以上おり、その少なからぬ人数が生きていく上での選択として犯罪活動に従事している。最新の犯罪統計によると、この郡で、年間におよそ10万件の凶悪事件が発生している。昨年、14万件の重罪の逮捕があり、さらに麻薬や性的暴行による5万件の悪質な軽犯罪逮捕がなされている。酩酊状態での運転を加えると、昨年、潜在的依頼人でローズボウルを二度いっぱいにすることができる。覚えておくべきなのは、安い座席の依頼人はほしくないということだ。50ヤード・ラインに座っている裕福な依頼人が欲しい。ポケットにたんまり金をつめこんでいる連中が欲しいのた。

ヴァンナイス


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裁判への対応で目まぐるしい日々をおくるハラーの元に、大金が稼げる可能性のある事件がころがりこんできた。それはビバリーヒルズで金持ち相手に不動産の斡旋をしている男が、重傷害と強姦未遂容疑で逮捕されたと云う。この男は刑事弁護士としてハラーに依頼したいと言っているらしい。新聞に載った事件で弁護士としてのハラーの名前が載っていた事を彼は覚えていたと云うのである。

自分の紹介を保釈保証人に裏金を掴ませることで依頼しているハラーは、ひょうたんからコマがでるがごとくの今回の名指しでの依頼は何か法曹界の仕掛けてきたペテンなのではないかと警戒する。しかし実際に依頼人たちと面会すると男とその母親は顧問弁護士を脇に控えさせているような紛れもないポケットに金がたんまり入った富裕層だった。この男ルイス・ロス・ルーレイは自分は無実で完全にハメられたと訴えている事から、陪審審理、ことによれば、控訴審へと莫大な弁護士費用をハラーにもたらしてくれるフランチャイズ依頼人となる可能性がある顧客だったのである。

 犯罪者がつかまったとき、連中は漏斗を通るように司法システムのなかに流し込まれる。このシステムは、<バーガーキング>のチェーン店よろしく、いつでも犯罪者に対応---皿に載せて給仕するかのように---できるよう、郡全体に広がっている40以上の裁判所を有している。そうした石の要塞は、法律の獅子たちが狩りをし、餌を食べに来る水飲み場なのだ。そして賢い狩人たちはもっと餌の豊富な場所がどこか、金払いのよい依頼人が草をはんでいる場所がどこか、すぐさま学ぶ。その狩りは、目を眩ませるものになりがちだ。そけぞれの裁判所に来る依頼人の層は、周囲の環境の社会的経済的構造を必ずしも反映していない。コンプトンやダウニー、東ロサンゼルスの裁判所は、わたしにとって金払いのよい依頼人を継続的に生み出してくれてきた。そうした依頼人はたいてい麻薬の売人として告発をされていたが、彼らの金もビバリーヒルズで株の違法取引をしている連中とおなじ緑色をしている。金に変わりはない。

ハラーが提示した弁護士費用に異が唱えられることもなく商談は成立、彼はルーレイの刑事弁護士となることになった。しかし、この事件を追う事は、ハラーが過去に犯した過ちを呼び覚まし、まったく別の形相をみせてくる。

前半は、ハラーの担当する事件と事件を描く事で裁判の進み方やハラーの価値観や生活などから関係者との繋がりなどを一巡し、後半はルーレイ事件の公判やそれに伴って起こる新たな事件の展開へと集中して一気に収束へと向かう。このギアが切り替わったかのような加速感はすばらしい。そしてマイクル・コナリーの最早安定しているとも言えるようなその見事な手練れは心地良いほどの切れ味でありました。

先日テレビでアメリカの受刑数の割合についての報道があった。アメリカではなんと100人に1人が受刑者なのだと云う。全体で受刑者数は230万人に登ると云う数字もある。日本ではどうかと云うと、7万人。比較にならない位の差がある。この差は一体どのような原因に基づき、それがどのような実態を生んでいるのか、全くもって想像の範囲を超えていると思いませんか。

ハラーは、ロサンジェルス郡で年間10万件の凶悪事件が発生していると言っているが、ロバート・ブレイクの裁判の話しが出てきていると云う事からおそらくこの物語は2003年位らしい。アメリカの犯罪件数や受刑者数は急カーブで上昇してきているらしいので、ここ最近はもっと悪い状態になっているのではないだろうか。

この5月にアメリカでは失業率が 8.9%になったという報道もある。またアメリカ軍は144万人。この数もハンパな数じゃない。桁違いなのだ。しかもそのうちの15万人近くが中東に派兵されている。中東から兵を引き上げ、軍縮を行えば失業率は更に悪化するだろう。そうなれば、ハラーがと云うよりコナリーが云うように、生きていく上での選択として犯罪活動に従事するしかない人々の数も増えるのは間違いない。アメリカの暗闇はまだまだ続くのである。そしていつも被害を受けるのは市井の人々なのである。

ところでロバート・ブレイクの「グライド・イン・ブルー 」はかなり良かったね。名画だと思う。映画俳優のロバート・ブレイク(Robert Blake)は、2001年5月、彼の二番目の奥さんが頭部を撃たれて死亡した事件で、殺人罪で起訴された。どうやら子供の親権を巡って争っていたらしいと云うのがその動機だと云う。彼は自分のボディガードに殺害を依頼したとかしないとか。何れにせよ動機の点から見ればブレイクが何らかの関与をしていることが明らかだったが陪審審理では無罪評決が降りたのである。この事件はO・J・シンプソンの事件のようなスキャンダルになり大々的に報道されていたっけ。こんな事件になっちまってびっくりしたもんだ。


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そして戦争は終わらない~「テロとの戦い」の現場から
(The Forever War)」
デクスター・フィルキンス(Dexter Filkins)

2009/10/11:本書は、ニューヨーク・タイムズの海外特派員であるデクスター・フィルキンスが2003年から2006年にかけてバグダットへ駐在した時の体験について語ったノンフィクションである。それも第一級に優れたリポートである。近代兵器によって戦われる現代の戦場は果たしてどのようなものなのか。そして内戦につぐ内戦によってもたらされた苦痛。その悲惨な現状を余す事なく伝えるものと思う。

 助けて、と彼らは言った。
助けて。一人の女が姿を見せた。女だと思ったが、ブルカをかぶっているので断定はできない。「12年間、教師をしています。」と彼女は言った。それをマントラのように、まるで仕事をくれとでも言うように繰り返す。
顔の見えない女性と話をするのは初めての経験だ。声はブルカの空気穴からもれ聞こえている。彼女が息をし、話すたびに布がひらめくが、顔はわからない。口も見えない。「12年間、教師をしています」名前はシャー・フフ、50歳で5人の子供の母親だという。彼女は手の指を一本と、片脚をなくしていた。ブルカをぐいと引き上げて、それを見せてくれる。
「ここで暮らしはじめて、5年になります。」空気穴から聞こえる声。

 このときも思ったし、今でも不思議に思うことがある。アフガン人たちは、どうやってあれほどの苦痛に耐えているのかということだ。彼らには本当に沢山の痛みがあった。瓦礫の中に住むことも、夫をなくしたた女が、9本の指と、片脚で5人の子供を育てることもそうだ。たしかに、いくら痛いと泣いても、誰かがシャー・フフのような女性を助けてくれるわけではない。首都には4万人の死者がいて、電気は通じていない。2歳の子供が義足をつけ、人々は悲鳴を上げている。町は不満の声で満ちている。頭を撃たれた北部同盟の兵士を、ロバの背に乗せ12時間かけて病院に行っても、そこには薬がない。不満を言うのが当たり前だ。でも、兵士は低いうなり声を上げるだけだ。時々、これが私の妄想なのではないかと思うことがある。私にはこの苦痛を理解できないし、それに耐えうるために必要な精神力が想像できない。また、長い戦争のせいで、精神がやられてしまい、原因と結果の間に、なにか根本的な取り違えが起きてしまったのではないかとも思う。苦痛に対して無感覚なのはおおむね理解できるし、必要でさえあるが、殺戮が終わらないのは、それが原因の一端になっているような気がするのだ。

フィルキンスはバグダットの闇社会のブローカーのような人物たちともパイプを持ち、ゲリラ側の要人やアフマド・チャラビ(Ahmed Abdel Hadi Chalabi)のような人物にも果敢に会いに行くのである。チャラビはイラクで生まれMIT及びシカゴ大学出身で、ポール・ウォルフォウィッツと繋がるネオコンだとされながらシーア派で、もうこの段階で僕にはこの人が一体どんな人でどんな思想なのか全く理解不能なのだが、アメリカによるイラクの傀儡政権の閣僚入りすると目されていた男で、このなんとも傲慢不遜な男にもフィルキンスは物怖じせずに質問をぶつけていく。

また通りすがりの一般人であろうが兵士だろうが捕まって処刑される間際の捕虜にまで臆する事なく接触し、彼らの話しを聞いて回っている。彼らの名前、そして何所で生まれ、家族は、そして何故ここにいるのか。更には米軍に随行して戦闘地域にも入り込んでいくのである。

彼らの話から浮かび上がってくるのは、中東の職業軍人たちの朧気な影だ。彼らは日和見的で、常に寝返り、原理主義者といれば原理主義者のように振る舞い、米軍と居れば世俗的に振る舞い、そして反対勢力と戦うのだ。戦うと言ってもそれは手近にいる一般人かそれと大差のない兵士に銃を渡し、これは神の命令だとか、または拷問による死などを仄めかしたりする事で攻撃へ追いつめやらせているようなのだ。そして捕虜は躊躇なく激しく拷問して尋問したら無惨に殺す。これは勿論命令に背けばこうなると言わんばかりなのである。

そうした日和見的な男たちは、大勢の大衆に紛れてなかなかその実態を表さない。一方で命令される側は、命ぜられるまま死ぬまで戦うか、ここで殺されるかであり、その選択肢は極限までに狭められている。つまりどっちみち死ぬのは事情もろくに知らない現場の兵士か一般人が殆どなのだ。凄惨な戦闘の後に残される夥しい死体は対外このような選択肢がなく行き場のなくなった者たちのものなのではないだろうか。


クンドゥズ


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 クレーターの中に足を踏み入れると、建物の残骸が見られた。崩れた屋根、折れた梁、倒れた壁に紙屑やがらくた類。中を引っ掻き回すと、底が溶けたシューズや緑色の上着、銃弾付きのベルトが出てきた。ニューヨーク市の電話帳ぐらいの、焼け焦げたペーパーバックを拾い上げる。アラビア語で書かれた、アルカイダの訓練マニュアルだった。テロリストの軍事行動に関する手引き書で、旅客機を撃ち落とす方法や、橋を爆破するやり方、ライフル銃の清掃方法などが図入りで説明させている。さらに瓦礫の中を探すと、一冊のノートを見つけた。手書きのウイグル語で書かれている。ノートは隙間がないほどきれいな字で埋め尽くされ、様々な計算や完璧な直線が引かれていた---持ち主はよほど真面目な生徒だったのだろう。ノートには英語で「TNT・・・・」と読める図解が描かれている。表紙の内側に、自分への訓示らしきものが走り書きされている。「授業の終わり頃に質問するな」「つねに正直に」

中東の戦場はアメリカ軍の兵士にも同様の不幸がもたらされている。どこからともなく放たれる狙撃手からの弾丸。そして車爆弾。路上では子供たちがRPGの標的となる米軍の車列が来たら合図を送るためサッカーをして遊びながら待っている。近代兵器をすべて動員し、銃身が焼けてダメになる程大量な銃弾を撃って反撃しても、彼らはひっそりと自転車でその場を立ち去る。
アメリカ軍の側でも死ぬのは大抵、キーズルタウン、パンクサトーニー、ペアランドとか云う内陸部の聞いたこともない町からやって来た子供のような若者なのである。

こうしたアメリカの若者も大半が単に生活する為の合法的な選択肢が入隊以外には見当たらないような貧しい家庭の出であり、事情もろくに理解されていないまま、訓練されて送り込まれてきたのである。

そして一度戦場に出れば誰でも容赦のない死と隣り合わせの激しい戦闘から逃れる術はない。フィルキンスは時として非常に危険な目に合いながらも。戦闘地域をパトロールする歩兵部隊に随行し、戦闘に巻き込まれたり、味方のAC-130ガンシップに誤認され、その機関砲によって部隊諸共殲滅されそうになったりするのである。正に間一髪。死にかけた事も一度や二度ではない。本書は正にメロンのようにでかい肝っ玉をもっていなければとても書ける内容ではない。

 通りを歩いていると、炎が何本も上空に伸びているのが見えた。最初に思ったのは、第三世界に戻ってきたのではないかということだ。アメリカ国民は、きっと未曾有の事件だ、文明の終焉だと騒いでいるのだろう。しかし、第三世界では、この手の災害は毎日のように起きている。大地震、飢饉、天災。インドの東海岸にあるオリッサでは、サイクロンが通り過ぎたあと、死体が山のように積まれ、その状態が長く続いたために犬さえ食欲を失った。犬たちは食欲が戻るまで、互いにけだるい目で見つめ合いながら、じっと横になっていたという。その天災では1万5千人が死んだ。トルコの大地震では1万7千人が亡くなり、アフガニスタンの地震の死者は4千人。この有様は、明らかに大量虐殺だ。何者かの悪意としか思えない。私もこの目で見てきた。カブールの死者は4万人。私と同じ思いの人々は暗い未来を思い描いているだろう。世界貿易センター付近のストリートで商売をしていた人々。色々な国からやってきて、ファラフェルやシュワルマを売っていた人々は、きっと飛行機の音を耳にし、ビルを見ただろう。そのとき、彼らは私と同じ思いをしたはずだ。もしかして、俺たちは故郷に戻ってきたのだろうかと。

政治的、宗教的信条にとらわれない目線でしかも、練り上げられた構成と文章によって中東の戦場をあるがままに描いてこの本の右に出るものを僕は知らない。そしてこの世界と僕たちが今いる世界は間違いなく地続きでなのであり、絵空事でも空想や妄想ではない地獄のような惨状が見渡す限りに広がる地域がそこにはあるのである。

平和な世界を築き上げる為に本当にオバマ大統領が平和賞の名に恥じない働きをし、アメリカ合衆国が彼の云うところのように本当に変わる事を願おう。


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非聖戦―CIAに育てられた反ソ連ゲリラは
いかにしてアメリカに牙をむいたか
(UNHOLY WARS)」
ジョン・K・クーリー(John K. Cooley)

2009/10/11:第三四半期に入った2009年の10月の第1冊目はジョン・K・クーリーは「非聖戦」。原題は、”UNHOLY WARS”聖ならざる戦争といったところだろうか。読書メーターでは☆☆☆★★と云う平凡な評価を下してしまったが、つまらないとか云う訳でない、出版から時間がたってしまった関係でかなり既出の事実が紛れてしまっている分を割り引いたからだ。

☆☆☆☆☆に評価見直し。アメリカからこの本。この著者を越えるジャーナリズムはもう期待できないかもしれない。

綿密な調査に基づくこのような公正なジャーナリストであったジョン・K・クーリーのご冥福を祈る。このような本当の記者が他にもまだこの世の中に生き残っている事を願ってやまない。

オバマ大統領にノーベル平和賞が贈られることになったと云うニュースが流れている。核廃絶を訴えるオバマ大統領の姿勢を評価したものだと云う。広島や長崎、中国政府、そして国家樹立を望むパレスチナ等各種方面から歓迎する意向が伝えられる一方、ロシア極右勢力からは、「辞退すべきだ」、タリバンのスポークスマンは「ばかげている」、等と云うコメントが上がっている。そしてイスラエルは、イスラエルの利益に反する展開を警戒しているらしい。

核廃絶が進むのであれば勿論それに越した事はない。しかし個人的な感想を言えば、どうして受賞?と云う感じだ。核廃絶はまだ言っただけにしか見えず、どれほど実績があったと云うのかさっぱりわからない。人の国をさしてならず者と呼び、他人の国へ重武装して勝手に踏み込み戦闘員のみならず、そこで暮らす一般市民を虐殺するような行為をような事を平気でやり続けている国の大統領に平和賞とはなんとも不釣り合いなものを感じる。

今回の受賞は平和賞の意味そのものを変質させてしまったのではないかと思う。つまり目指している「平和」な状態のレベルの違いだ。そもそもダイナマイトの発明は戦場を一変させたのであり、ひょっとしたらノーベルは今回、やっぱり爆弾はニトロでないとねと云う事を言っているのかもしれぬ。みたいな。オバマ大統領が言うように、世界が少しでも平和で、核兵器のない世界に近づくよう期待しよう。

「犬の力」で、主人公のアート・ケラーは自らの犯した原罪を購うべく、麻薬戦争にとどめを刺す戦いに身を投じるが、本当の原罪は彼の手には及ばないところにあるのである。では、その原罪とは一体どこにあるのか。

原罪は第二次世界大戦が終結した段階で生まれていたのである。

 第二次世界大戦は、ドイツ・イタリア。日本の枢軸諸国を打ち破った連合国の分裂という形で終わった。1946年アメリカのハリー・トルーマン大統領は、ソ連をアメリカの利益に反する脅威と感じていた。以後半世紀にわたり、歴代のアメリカ政府は、ソ連の覇権を推し進める独裁者ヨシフ・スターリンに具現された「国際共産主義」を最大の敵と見ていた。西ヨーロッパの指導者たちも、1949年以降、アメリカがまとめ上げたNATOの盾のもとに、大体同じような考え方だった。ソ連への対抗手段を模索していた新しいアメリカ中央情報局(CIA)は、宗教を、無神論的な共産主義に対する、ただ一つのとは言えないまでも重要な敵であると認めていた。フランスやギリシャ、とりわけイタリアで、CIAは多くの場合キリスト教系の右翼政党に大規模な資金援助を行い、共産主義者の敗北を可能にした。

この共産主義が無神論的であり、それに対抗する為に宗教を持ち出す考え方は、中東にも適応された。それも密かに、あらゆる方面で、さりげなく持ち込まれ出し、やがてあからさまで直接的で、更には攻撃的なものになっていくのである。

1979年のクリスマスに突如、ソ連軍はカブールに侵攻を開始し、占拠、時の大統領ハフィズラー・アミンを殺害した。この突然の事態に世界は驚嘆した訳だが、これは現在まで止むことなく連なる内戦の幕開けに過ぎなかった事は気づいてもいなかった。しかし、この侵攻は一部の人間にとっては予測され、そのような事が起こるように巧妙に誘導された事態でもあったのである。

ポーランド出身でカーター政権で国家安全保障担当補佐官を務めたズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew Kazimierz Brzezi?ski)は共産主義を骨の髄まで及ぶ程の深さで憎んでいる男だが、この男が、1998年1月にフランスの雑誌のインタビューで抱いていた秘密の一つを明かした。

 アフガニスタンの抵抗勢力に対するCIAの秘密の援助は、ソ連軍の介入より6ヶ月も早く、カブールの共産主義政権がこの国の支配能力を失いつつある状況を踏まえ、1979年の7月には許可が出ていたことを認めている。コーガンによれば、カーター大統領は、1979年7月、アフガニスタンの抵抗勢力に「宣伝や医療活動の面で秘密の協力を始める大統領令にサインした」。

この秘密の大統領令によってカブールで当時生まれかけていた反ソ抵抗勢力ムジャヒディンへの支援が開始された。彼らは、この支援に基づきカブール市内で反乱を起こし、市の東南にあるバラヒサール古要塞を占拠した。この古要塞からは市内の大半の要所を大砲の射程内におさめることが出来たのである。この足下からの圧力がソ連の侵攻を誘発したのだ。


カブール バラヒサール古要塞付近


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 ソ連との戦争を挑発したと言っているわけではないと、ブレジンスキーは、ショックを受けた記者に説明する。「我々が、ソ連を軍事介入に追い込んだのではありません。しかし、意図的に力を加え、ソ連がそう出てくる蓋然性を高めていったのです。」彼はこの決定について全く後悔などしていない。「この秘密作戦は、傑出したアイディアでした。ロシア人たちをアフガニスタンのワナに引っ張り込む効果を生みました。私に後悔しろと言いたいんですか?」。

これは代理戦争と呼ばれ、1960年のキューバ侵攻の失敗に学んび、ラオスで実践し洗練してきた手法であった。アメリカの軍人たちは顧問などと云った形で投入され、直接的な戦闘に加わる事はなく、参加者たちへの動機付けや訓練、作戦の立案に携わるのである。

そしてその訓練は大規模で組織的に実行されていく。

キャンプ・ピアリーはバージニア州ウィリアムズパーク北西部にある広さ25平方マイルの土地で、情報関係者たちからは「ザ・ファーム」と呼ばれる場所である。ここでは、パキスタンやアフガニスタンから反ソ抵抗勢力の候補者たちの訓練を行う場所であった。こうした場所はアメリカ本土に複数設けられ、ここに送られてきた男たちは、爆発物の使用と発見、偵察と偵察対抗行動、CIA方式の活動報告の書き方、各種武器の撃ち方、テロや麻薬撲滅工作、それに準軍事的活動などについて、実践と理論の両面で学び、軍事活動のプロとして送り返されていったのである。

もう一つの原罪は麻薬である。レーガン政権下のアメリカとフランスは1981年、アフガニスタンのソ連の脅威に対抗すべく共同作戦の実行計画の検討に入った。

オペラシオン・ムスティック。

蚊を放って熊を弱らせる。ここで云う蚊とは麻薬の事なのだ。DEAが押収した麻薬をアフガニスタンに持ち込み、ソ連軍の兵士が手に入りやすい状況でばらまくというのだ。こうして放たれた蚊によって、ソ連軍の士気を低下させ戦闘能力を奪おうというのである。

勿論作戦はただちに実行に移された。その後更にはアフガニスタンとパキスタン国境にはアヘンやケシ畑が広大な範囲で開拓され、それを精製する為の技術者が西側から送り込まれるに及んで、大規模な麻薬ビジネスとネットワークが構築されていくのだ。

反共の為に生み出し育てた、原理主義者と麻薬ビジネスはやがてアメリカの手に負えるものではなくなり、ついにはその牙を剥いたのである。ああそういう事だったか。間違っているかもしれない。勘違いしているところもあるだろう。それでも漸く僕は中東問題やテロの背景にあるものについて大筋で理解出来たと言えるところまで辿り着いた気がした。

 1997年11月17日、武装したエジプトのイスラム主義者アハメド・ムハンマド・アブドラハマンが他の5人を率いて、上エジプトのルクソールのナイル川のわとりで観光客を襲撃、58人の観光客と少なくとも4人のエジプト人を虐殺した。エジプトの治安当局によれば、アハメドはアフガニスタンのゲリラキャンプで訓練を受けいていたという。彼らはさらに20人以上を傷つけて、全員が逃走中、追跡した警官との撃ち合いや怒り狂った観光ガイドや地元の人々のリンチによって死亡した。
前例のないその残虐さと衝撃によって、少なくとも1年の間、エジプトの観光産業は事実上、壊滅した。


ハトシェプスト女王葬祭殿


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宗教と麻薬。共産主義に対抗する為にとられた同様の工作は、世界各地で行われていたのである。東南アジアで、アフリカで、東欧旧ソ連で、そして中南米で起こっている事の根底にはすべて同じ要因が差し込まれている。

これがこの本で扱う原罪である。戦争なのでどこの国かがただ単に一方的に悪いなんてことは言う事ができない。しかし、宗教や麻薬を持ち込んだ罪は消えない。勿論当時このアイディアを出したブレジンスキーやそれに同意したカーターやレーガン政権下の政策立案者たちがこうした事態を予測していたり期待していた訳でないだろう。ましてこれら狭量で頑迷なイスラム原理主義者の台頭は、キリスト教原理主義者たちを目覚めさせ、まるで鏡像関係にあるような原理主義者同士の衝突と云う形で世界を歪め始めているのである。この原罪を犯したとも言えるやつらは、この今の状況を見てどう思っているのか、本当の気持ちを聞いてみたいと思う。


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