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緑の帝国―世界銀行とグリーン・ネオリベラリズム
(Imperial Nature: The World Bank and Struggles for Social Justice in the Age of Globalization)

マイケル ゴールドマン(Michael Goldman)

2016/12/31:世界銀行とIMFどちらも全く信用できない、それどころか後進諸国の政治経済を著しく毀損し、極端な格差社会を作り出す基礎を築いたという点で破壊的であり壊滅的な規模で人命と地球環境を死に追いやる悪魔的な組織であると断言したい。

日本もこの組織の一員であり、我々も結果的に一枚噛んでいる、そしてその恩恵を受けてしまっていることは忘れてはならない。

何を言っているのだと思った方は是非本書を手にとってみて欲しい。僕がでたらめなことを書いている訳ではないことがきっとわかるだろう。

不思議だったのはどうしてこんな組織が生み出され、権威を獲得し、猛威を奮うようになっていったのか。どうして誰も止められないままここまで被害が拡大してしまったのか。
世銀の最新の開発体制であるグリーン・ネオリベラリズムは、1990年代初頭から台頭するようになった。当時、分野を問わず多くの人々が声を上げた異議申し立てによって、世銀の行うプロジェクトは環境と社会に対して悪影響があることを世銀自身認めざるを得なくなった。しかしながら、反世銀の活動家たちは、世銀がネオリベラリズムを踏襲したアジェンダを社会的、環境的要素を含むように再構成したうえでさらに拡大させるであろうとは予想だにしなかった。これは以前では決して許されなかったようなやり方で、より広汎な地理的テリトリーと生活世界への介入を促進するものであった。このプロセスは、開発機関、環境保護団体、学術機関そして国家組織から構成される市民社会アクターを巻き込んだ、環境問題に関わる新しい体制の確立へと導いた。それは商品化されていないあるいは新しい資本市場で十分利用されていない自然と社会の関係を再編し資本化するという目標を追加することで、世界のネオリベラリズム・アジェンダの明確な特徴を根本から変えた。


ロバート・マクナマラが果たした役割はどんなものだったのか。高い知性を持っているとされながらも、正しいことよりも、誤ったことをやった方が多い気がする。世界、人々を救うべき立場にいながら、破壊や死を生み出すことの方に才能があったかのようなこの男はサイコパスという表現がそぐわないのであれば、もっと何か邪悪な新しい言葉を割り当てるべきなのではないかとすら思う。

結果的に東京の空襲を効率化し一般市民に対する無差別攻撃を常態化した。ベトナム戦争が泥沼化していくなか虐殺のレベルを数値化することでその悲劇を埋没させた。朝鮮戦争ではアメリカ政府をミスリードし、自国の軍隊を孤立化させた。結果悲惨な戦闘を引き起こし夥しい犠牲者をだした。そして政治経済の世界で実権を握るや格差社会と環境破壊を拡大させ、村や集落を消滅させ、原住民の生活文化を奪った。

他に並ぶものがあるとするなら自然災害のような規模なんじゃないかと思う。

インドシナ半島でのアメリカによる戦争により、ベトナム、ラオス、カンボジアは荒らされ、世界経済におけるアメリカの支配的な地位は蝕まれた。その戦争は、世銀に重大かつ生産的な効果をもたらした。世界全体の国内総生産(GNP)に占めるアメリカのシェアが、1950年代初期の35%から1970年代初期の26%へと急激に低下していった。世界の政治経済におけるアメリカのヘゲモニーの衰退に伴い、世銀は自身の限られた権力を行使する新たな機会を得た。

ひどい敗戦で苦境に陥っていたジョンソン大統領は、マクナマラ国防長官を解雇せざるを得なかった。しかし、大統領は、マクナマラの顔を立てるやり方で、解雇することを望んでいた。彼はマクナマラに、世銀を運営するという決して魅力的とは思われない仕事を与えた。その地位を承諾するとすぐに、「マクナマラの戦争」に対して世界中から批判が沸き起こっている中で、マクナマラにはオフィスに引きこもって異常なまでに数字と図表に没頭し、二週間後に、世銀再建のための二つの目標を持って人前に再び姿を表した。個人的な覚書の中で書いているように、彼の戦略はまず、「新たな資金源を開発することであった。具体的には、各国の中央銀行による世銀債の購入を促進することであり、ヨーロッパの年金信託市場に進出することであった。さらにカリフォルニア大学とハーバード・ビジネス・スクールを出た若き総裁のいるクウェート・ファンドから、毎年約五千万ドルを得ることだった」。彼の第二の戦略は、資金調達リスクに対して世銀を守るための新たなメカニズムを開発することであった。「合衆国政治かみ1969年の会計年度において多額の借入を断った際に、世銀はスタンドバイ・クレジットを民間金融機関と開発した」


彼の言動は結果と正反対の方向を指しており、多くの人々はその言動を信じリーダーとして担ぎ出していたことだ。おそらく未だにそう信じている人たちも多いのはないだろうか。彼自身も自分自身の事を世のため人のためと考えていたのかもしれない。僕はそうは思わないけど。実際の彼はレトリックを駆使して少なくとも金と権力を我が物にすることにあったのであって、目標の達成やまして環境保護や貧困層の救済なんて手段でしかなかったと思う。

最悪なのはこのレトリックを操る手練がうますぎること。

本当の目的の概ね真逆の目標や価値観を掲げて人々を欺くのである。世銀の場合は環境保護、「永続的な環境開発」だ。

そんな男に創り出されたモンスターのような組織は果たして想像以上に悪い仕掛けで暴走していた。未だ創設者の影をまとい人類と地球環境に悪影響を与えるような計画をやり続けていたのだった。

日本語版への序文
謝辞
第1章 
世界銀行を理解する
グリーン・ヘゲモニーの興隆,世銀スタイル
開発学における緊張関係
第三の道——「巡り合わせの領域」の分析論
脆弱なヘゲモニー

第2章
世界銀行の台頭
幸先の良いスタート
マクナマラの時代
世銀の権力の種をまく
負債と構造調整
グリーンとネオリベラルの緊張関係
結論

第3章
知識の生産——世界銀行のグリーン・サイエンス
研究課題と組織的制約
環境研究とプロジェクト・サイクル
職員の環境アセスメント研修
環境モニタリングは至難の業
知識のヒエラルキー
ナルキッソスの回帰?
ピラミッド型支配構造の維持
経済学者の中の人類学者
合意形成
組織の内部制約と対外的圧力の狭間で
結論

第4章
あたらしい学問の誕生——環境知識の生産
ラオスにおける環境知識の生産
グリーン・ネオリベラリズムの主観性
結論

第5章
エコ統治性と環境国家の生成
ラオスを緑化する
新たな法,機関,プロジェクト
ハイブリッドな国家主体の生成
不均衡開発
結論

第6章
水の民営化,市民社会のネオリベラル化——越境する政策ネットワークの権力
越境する政策ネットワークの台頭
水をめぐる新たな世界的課題とネットワーキング
水の民営化という言説空間とその拡張
水改革に関する国際合意
水の民営化の強要   
パイプの亀裂   
矛盾あふれる「非」市民社会の台頭か?   
結論

第7章 
それは閉鎖できるか?   
政治活動家からの反応   
マイケル:ハイチ中央電力労働組合オルガナイザー   
ジェイムズ:債務と開発を考えるジンバブエ連合のオルガナイザー
[監訳者解題]拡がる「緑」のヘゲモニー 参考文献 索引


チョムスキーは「現代社会で起こっていること」のなかでこんなエピソードを紹介していた。


つまり、外国の政府を転覆させるためにその国の軍隊に軍事援助するという方法です。簡単に想像がつくように、これはごく標準的な手法です。ある政府を転覆させたい場合、誰ならその仕事を任せられるでしょうか。答えは現地の軍隊です。彼らなら政府を倒すことができます。そもそもアメリカが世界中で軍事援助や訓練を行う理由はそこにあって、現地で事を起こせる連中、すなわち軍部との関係を維持するのが目的なのです。 実際、アメリカの秘密文書にはそれがかなり露骨に書かれています。たとえば1965年、[国防長官]ロバート・マクナマラと[国家安全保障担当・大統領特別補佐官]マクジョージ・バンディの間で交わされたラテンアメリカについての詳細な文書が、いまでは機密扱いをとかれて読むことができます。そこで語られているのは、ラテンアメリカ社会で文民政治が「国家の繁栄」を追求していないと判断された場合、いかに軍が政府を転覆する役割を担ってきたかという事実です。この場合の「国家の繁栄」とはすなわち、アメリカの多国籍企業の繁栄のことでした。


機密文書のなかのマクナマラはザッツ・アメリカ政府そのもの。要はつまり口ではいろいろ言っているけれども実態は自分達の利益のためにのみ動いている連中であって、しかも尚、この場合の「自分達」はアメリカ国民の中にあっても予想をはるかに超えた狭さなのである。同じ船に乗っているなんて思ってる政府の人々も恐らく口車に乗っているだけでいわば捨て駒。それは非常に限定的な範囲なのであって、まして世銀に金を出しているから同じ側にいると思い込んでいる日本政府などというものは利用するだけ利用するために存在する相手だと思われていると考える必要がある相手なのだ。


世銀は設立から最初の数十年は影響力が小さかったが、その後精力的に活動して世銀は唯一無二の機関であるという社会・政治的環境を作り出し、1980年代には、開発という世界の実権を握ることとなった。それにも関わらず、累積債務危機を管理する二つの多国籍機関、すなわち世銀とIMFに、祝杯を挙げる十分な時間はなかった。経済が崩壊し、人々が街頭で抗議をするにつれて、二つの機関は軽蔑、怒り、そしてフラストレーションの標的となった。もはや世銀は、各国政治から少し距離を置いて技術的助言をする公平な専門家と見られることはなかった。それどころか世銀は、公共支出の削減、大量失業、通貨危機、そして食料、燃料、その他の商品の値上げ、さらには賃金と輸出価格の減少についての原因とされていた。世銀が自らを支配的な立場に置いたちょうどその時期に、そのクライアントである借入国の多くは、崩壊の瀬戸際にいた。
自由化、民主化、民営化、環境保護などもちろんそのすべてではないが、耳あたりが良く、直感的に正しい、良いことのように聞こえるスローガンを掲げて活動している団体が実は僕らの事を前提の段階で切り捨てていたり、与えるよりも奪い取ることを虎視眈々と目論んでいる事を認識しておくのは非常に重要な事だ。

その意味で本書を読んでおくというのはとても大切な事。まだこうした事態に気づいていない人たちが少しでも減っていく事を願って止まない。2016年もいよいよ残すところあと数日。

2017年は良い年になりますように。皆様も良いお年をお迎えください。

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食糧と人類 ―飢餓を克服した大増産の文明史
(The Big Ratchet:
How Humanity Thrives in the Face of Natural Crisis)

ルース・ドフリース (Ruth DeFries)

2016/12/12:本書は著者がアマゾンの熱帯雨林が暴力的ともいえる強引な開発によって大規模に失われていくところを目の当たりにして思わず涙したというエピソードから幕を開ける。

著者はコロンビア大学の経済・進化・環境生物学部の教授。専門は持続可能な開発なんだそうで、正直微妙にどっち側の人なんだろうという印象もある。

怪しい世銀の息の届くところにいるような人だったりしないのだろうか。

今は無理でも永続的に持続可能な環境開発が可能になるはずだという前提を持っているというのは、少なくとも楽観的であるということはできるだろう。


ヒトはこれまでどのように食糧をまかなってきたのか─本書ではこれを長期的な視点から見つめ、いまという時代をとらえたいと思う。創意工夫を積み重ねて繁栄の歯車がまわる・行く手に手斧が振り下ろされる危機が訪れる・解決法を編み出して方向転換するというサイクルを繰り返してきた何千年という人類史をたどってみると、2つのことが明らかになる。

第一に、人類の文明がある限り、このサイクルは何度も繰り返されるだろう。問題の解決策は新たな問題を作り出し、さらに新しい解決策が生まれるだろう。第二に、いまわたしたちは前例のない状況を生きている。自然に大規模に手を加えて食料を大増産し、人類の大半は自ら食料を作らずに都市で暮らすようになった。まさに人類の大躍進であり、繁栄の頂点に達した。農耕生活から都市生活への移行はヒトのみならず地球にとっても一大転換点である。この変化のなかでどう生きるのか、わたしたちはまだ学んでいる最中だ。


案の定。僕が個人的に心配しているのは産業革命以降に急ピッチで拡大した二酸化炭素の放出を、今後収束させ、更に過去の分を取り戻したりすることができるのかという問題だったりしていて、これは科学技術そのものに加えて、エネルギーの帳尻を合わせられるのかという事であって、つまり僕は悲観的。残念ながら著者とは立ち位置が真逆だ。

人類の躍進は食糧問題を組織的にかつ大規模に解決してきたことで実現されてきたことは間違いない。これを否定するものなどいないだろう。そして人類はこれからも問題解決を積み重ねていくだろうし、この能力には限りがない事も間違いないだろう。

何時しか光合成のような効率のよいエネルギー転換を人工的に実現するだろうということも期待したい。しかし、仮にそれが実現したとして、植物が地球規模で数億年かけて実現してきた二酸化炭素固定を、どれだけ短期間で人類が再現できるのかというと、そこにはエネルギーの問題があって、如何に技術革新が進もうとも、乗り越える事のできない限界はある。

また、もう一方で人類の大躍進はつまり人口増加である訳なのだけど、これから先新たなる問題解決によって人類が更に増加していくという絵は実感がない。人類の人口規模はむしろピークを迎えつつあり、将来的には減少する人口で過去の遺産を引き継いでいくことに問題解決能力が発揮されていくような気がするよ。

つまり、賭博に走って大きな借金を背負った親を持つ一人息子みたいな状況なんではないかという事だ。水も電気もなんの苦労もなく手に入れている僕もまたこの「親」の一部な訳ですけどね。

もちろん画期的な問題解決でなんとか切り抜けて行って欲しいと願っているよ。


2007年5月、ヒトが画期的なポイントを通過した。この運命的な日を境に都市居住者が多数派を占めるようになったのだ。過半数が農業を営む状態から、都市暮らしへと逆転が起きた。この進化は、私たちの暮らしを根本的に変えた─食生活、健康、家族形態、居住場所と仕事、自然との距離感、さらに地球の未来まで。それは一万年前に狩猟採集生活から農耕牧畜生活へと移行したことに匹敵する大転換だった。


都市居住者が過半数を超えたというのは考えれば途轍もない事だと思う。果たしてこの比率はどこまで上がっていくのだろう。都市の定義は若干気になるけども、社会的な生き物である人類としては集約型で生活した方が効率は良いと思う。

残念だけどこれからの日本では小規模な集落は徐々に消えていく運命にあるのだろう。

少子高齢化、過疎化、食糧自給率など日本が抱えてる問題は人類全体の未来問題でもあると思う。日本が今後これらの課題をどのように乗り越えていくのか、はたまた失敗するのか。どちらにせよとても重要なケーススタディとなるだろう。

もう一段先の歯車へガチャッとはまるような問題解決を日本が示せると素敵だな。みんな頑張って知恵を絞っていきましょうねー。


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貧困と格差 -ピケティとマルクスの対話
奥山忠信

2016/12/04:ピケティの『21世紀の資本』は正に社会現象だった。大騒ぎされ書店には本が山積みになりテレビでも繰り返し取り上げられたが、本質的な議論にはならず、身の回りで実際読んだという人にはほぼ出会わず、これを契機に何が改善されたりする気配もないまま、まるで記憶喪失になったかのようにすっきり忘れ去られた感じだ。

僕は頑張って読んだぞ。

昨日は恥を知らない自民党と維新の会が結託してカジノ法案を強行採決した。

強行採決はもはや安倍政権のお家芸である。また、原発行政も東京オリンピックもどこからそんな費用が出てくるのかとか、金銭感覚がぶっ壊れている妖怪のような政治家たちのやりたい放題が続いている。

沖縄の普天間基地の問題だって、トランプが大統領になるっちゅーのに足踏みすらせずに前進していく日本の政府というのは何かこう行動に確認とか、意識というものが感じられなくなってきている。決まったことだから、もう何も考えず実行しているみたいなのである。

ピケティが発見した格差社会の変動。上位10%が所得の半分をもっていっている、というような話である。それが世界的に拡大傾向にあるのである。

我々の想像を超える一握りの超富裕層の人たち。一体どこに居るのか。どんな暮らしをしてんだ彼らは。

まるで石をひっくり返したら出てくる虫みたいに、居るのは解っていたけど、ぞろぞろ現れるとやっぱりびっくりしてしまうような話だが、その反対側におびただしく広がる貧困層の世界。よくよく考えれば当たり前の話を難しく語っている感じもする。

ピケティ現象はこんな当たり前の話であっても今の経済学ではきちんと整理もできていない。

日本の経済学者の人たちはこれをどう受け止めているのだろうと思っていたのだけど、埼玉学園大学の経済経営学部教授の方が書いた本である。しかも宮城県の人だ。どんな思いが込められているのだろう。とても興味を持って読ませていただきました。


ピケティの今日の経済学の状況に対する批判は、痛烈である。どうでもいいような問題を難しい数学を使って解いているだけで、肝心なことは何もわかっていない、と言う。経済学は目下評判が悪い。ノーベル経済学賞も、本当に社会のためになっているのか、格差の拡大を助長してきただけではないか、と評されている。ピケティの学説は現代の経済学に対する批判の流れに沿っている。その軸となる主張が、経済学の中心課題を古典派の分配論に戻そうという主張である。


辛辣な言葉である。こうも自己否定されてしまうのは当事者としてとてもつらいことで、著者はこれを真っ向から受け止めている感じだ。経済学者が気にしてないとか、ピケティ全否定みたいな人ばかりでなくて少し安心したよ。

本書はこのピケティの主張する分配論とその本来の古典派の分配論の代表格としてのマルクスとを比較していこうとするものだ。

注意深くピケティの主張をみていくと、やはりマルクスの古典的な分配論とは随所に差異がある。著者はピケティが本当にマルクスを読んでないんじゃないかと語っていた。

しかし、まぁマルクスが必ずしも正しい訳でもなく、ましてピケティがホントに読んでないのか、読んでいるのかなんて事はどうでも良い話で、ここは今どちらが現実に近いのかというところなのではないかと思うのだけど、やはり経済学者の立場ではこだわりたい部分なんだろうねー。軽はずみにピケティの方が正しいだなんて簡単には言えないのだろうし。

肝心なのは格差の拡大だ。


19世紀にマルクスが信じていたように、私的な資本蓄積の力学により、富はますます少数者の手に集中してしまうのが歴史の必然なのだろうか? この一文は、マルクスに語らせてはいるが、ピケティの本の主題である。そして、ピケティの自著での答えは、何もしなければそうなる、である。


はっきりは名言していないのだけど、著者もこのピケティの主張を受け入れていると思う。そしてピケティばかりでなくヨーロッパの人たちが理解不能だとみる今の日本の財政問題、アベノミクスについても等しく深く憂慮していた。

少し長いが。


アベノミクス 第一の矢の帰結 アベノミクスの中心となる第一の矢、異次元の量的緩和政策の導入から二年が経つ。二年は成果を出すための期限であった。 2015年4月で「2年間で貨幣量を2倍にして物価を2%上げる」と公約されて二年が過ぎた。貨幣量を増やしたのに物価は上がらない。貨幣数量説では説明できない事態である。 日本経済の現実は、経済学の主流派の「通説」を打ち砕いてしまったのである。

貨幣量を増やす方法は、日本銀行が国債を買うことによる。 民間金融機関から日本銀行が国債を買うと、金融機関が持つ国債が日本銀行に渡される。日本銀行は銀行の銀行であり、民間金融機関は日本銀行の中にそれぞれ口座を持っている。この口座に国債の代金が振り込まれる。これが、日本銀行が民間に貨幣を供給する方法である。

この経済政策の最大の利点は、費用がゼロということにある。本当に日本銀行券を印刷して銀行に渡しているわけではない。日本銀行にある民間金融機関の口座の残高の数字が変わるだけである。 この結果をみてみよう。日本銀行の国債保有残高は、2015年4月末で約280兆円である。アベノミクスの開始時期に近い2013年4月末で見ると、国債保有残高は約134兆円である。 つまり二年で146兆円、109%の増加である。貨幣量は、予定の2倍を超えたが、物価は上がらなかったのである。理由は単純である。2013年4月末の当座預金残高は66兆円。2015年4月末の当座預金残高は210兆円である。144兆円の増加である。詳細は必ずしも分からないが、この数字からすると、貨幣は日本銀行から出ていかなかったことになる。なお、3年後の2016年4月10日現在の日本銀行の国債保有残高は約354兆円、当座預金残高277兆円である。しかし、国債の購入による金融政策の効果は、依然として現れない。


辛辣であります。そしてこの意見に僕は激しく同意します。

安倍政権はでたらめだ。トランプが当選するや世界最速で駆けつけたのもバカみたいだったし、その状況で彼にTPPの参加を求めようとしてたり、ロシアのプーチン に北方領土問題で大した交渉材料もないのに歩み寄ろうとしてたりというのはあまりにも世間知らずでみっともない。恥ずかしい。

そしてカジノだそうだ。 これが成長戦略だなんて、弱小な暴力団組織の中期計画でもまだきっともっと立派なんじゃないのかと思ったりするよ。

財政問題のこうした事態はメディアがほとんど取り上げない。取り上げたとしても反対意見とか見識の違う人たちが入り乱れて発言して、訳が分からなくなって終わってたりしてる。そもそも広めようとしていないどころか、国民の目を背けさせる努力をしているとすら思う。

メディアはその方が都合がいい連中の手先となっているのだ。嘘だと思うのならTPPのニュースを読み返してみればいい。公平な報道とは程遠い、TPP推進前提のスタンスが明らかだろう。


ピケティ現象の裏で、笑えない話が飛び交っている。ピケティの最も重要な分析手法は、上位10%を富裕層とみなし、彼らの国民所得や資産に対する所有の割合を見ることである。これが彼の格差論の最も重要な手法となっている。

WTIDのデータでは、日本の上位10%の富裕層の下限が577万円である。物議をかもしているのは、年収577万円は富裕層か、という問題である。2010年の為替レートを1ドル=90円で計算すると、アメリカは上位10%とは1035万円、上位1%とは年収3330万円以上である。日本とアメリカでは富裕層に格差がある。

これで富裕層と言えるのか。アメリカは日本の二倍なので富裕層と聞けば納得もできるが、日本の上位10%はあまりにも貧しい。ということである。しかし、577万円は、ピケティの間違いではない。


一方で相対的貧困線の世帯所得は122万円で日本は現在16.1%つまり6人に一人がこの線のしたにいる。

世帯単位で考えるともっと大勢の人たちがこの線の下で苦しんでいるのである。

巨額な財政赤字にもこうした 貧困層の広がりにも目を背けて知らんぷりして暮らしていっても結果から逃れることはできない。

本書の後半であらわになる日本の今の実情には思わずうなり声をあげてしまうほどで、こうした知見に基づき世間を見るとなるほどこの10年大きく日本が変容してきたことに改めて気付かされる。

安倍政権はその最期のとどめを刺すことになるのか、その寿命をさらに大きく切り詰めていることは間違いない。

僕らは子供たち、次世代の人たちの為に何が出来るのか。真剣に考えていくべきだ。もう遅いかもしれないけど。

みんなせめてこっちだけでも読もうよ


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沖縄返還の代償 核と基地 密使・若泉敬の苦悩
「NHKスペシャル」取材班

2016/11/13:なんとトランプが次期大統領になった。まさかいくらなんでもそんな事にはならないだろうと思ってた。

排外主義、差別 主義丸出しの粗野な男に 評価が集まるとは。希に勢いで レスラーが 議員になることがあるという話はあるけど、 それが大統領になるとは。アメリカもここまで壊れてしまったかという思いだ。

これに対してマイケル・ムーアは当選を予想していたと述べてたし、エマニュエル・トッドも同様だ。勿論二人とも賛成してるわけではないよ。トッドの言葉は今日の朝日新聞に掲載されていた。それは こんな内容だった。

「当然の結果」、「生活水準が落ち、余命が短くなる。自由貿易による競争激化で不平等が募っているからだ。そう思う人が増えている白人層は有権者の4分3。で、その人たちが自由貿易と移民を問題にした候補に票を投じた」

「問題は、なぜ指導層やメディア、学者には、そんな社会の現実が見えないのかという点だ」

トランプは選挙戦の演説のなかでアメリカの地方の都市の街並みを「まるで第三世界の街のようだ」と語っていた。こんなになってしまったのは金持ちたちと移民のせいであり、中東やアジアのために人も金を出しているせいだと云う訳だ。

他にもトランプは選挙戦でいろんな事を言ってきた訳だが、 中東から軍を引き上げ、移民を排除し、沖縄の基地も今以上の費用負担を日本がしないなら撤退するとか。

沖縄の場合、アジアの安全保障にアメリカがこれ以上犠牲や金を出すのはもう辞めるというような理屈らしい。

トランプが当選に対して骨髄反射的に能天気な祝辞を送った安倍政権には呆れたが、その一方でTPPの法案をごり押し、しないしないと言っていた強行採決だそれも、をやって、更にはアメリカに行きトランプにTPPの継続検討を依頼するつもりらしい。

これに何か交渉材料があるとは思えず、今更言われても困るからただ頼みに行く感じなのが情けなさすぎる。つか、みっともない。

トランプはまるでアジアの安全保障の為に犠牲を払ってきたかのような完全に自分本位の誤った歴史認識にある訳だけど、腐ってもアメリカ。

外交交渉は今でも一枚も二枚も上手。日本はアメリカの庇護の元、安穏と過ごしてきた結果、外交交渉能力はむしろ退化していると考えるべきなのである。

こんな丸腰でカード切ったら負けるに決まっている。

非情な外交の世界とはどんなものなのか。期せずしてそんな事を垣間見せてくれる一冊でありました。


男の名は、若泉敬。日本が戦後の荒廃から立ち直り、高度経済成長 へと突き進んだ1960年代から70年代にかけ、京都産業大学という新興の私立大学で教授を務めるかたわら、新聞や雑誌、テレビなど論壇を闊歩した。さらには、吉田茂、岸信介、佐藤栄作、福田赳生という戦後政治を担った歴代の総理大臣とも交わりを持ち、当時、「保守派の論客」「新進気鋭の国際政治学者」と脚光を浴びた。

ところが、若泉は50歳となった1980年を境に、忽然と表舞台から消え去り、故郷・福井県の鯖江に移り住んで世間との交わりも絶った。

その存在が忘れ去られようとしていた、1994年、久方ぶりに中央政界、ジャーナリズムの世界に「若泉敬」の名がとどろく。著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の出版。上下二段の600ページを超える大著だった。若泉は、その中で佐藤栄作首相の「密使」として沖縄返還交渉にかかわり、「核兵器の再持ち込み」と「繊維」という、交渉上の2つの争点において密約を交わしたという衝撃の告白をしたのである。


沖縄返還の裏に密約があったのかなかったのか。こんなニュースが巷を騒がせていたことをおぼろげながら覚えている。実際に耳に届いた、メディアに取り上げられてるのを見たのはおそらく1995年以降、長男がまだよちよちで母が闘病中ということでほとんど気もそぞろな時期である。

真面目にニュースを読んでいる暇なんて、今もあんまりないけども、当時はもっと薄かった。 何故沖縄返還から20年以上も経てこんな話がでてくるのかというと、アメリカでは機密文書の機密扱いには期限があって、期限が切れると公開されたりしてくる。

故に、それ以前は秘密にされていた事実が突如明らかになることがある。

アメリカの司法制度というのはこういうところが面白いというかしっかりしていると思う。

それに対して日本政府はそんな事実はなかったとか記録がないとかのらりくらりしていて どうにも見苦しい。

そもそも沖縄の返還交渉そのものがどんな場であったのか。当事者としての実感も歴史認識も薄い僕のような人間には想像しがたいものがあった。

本書を読む機会を得られて本当に良かったと思う。事の重大さ、本書の指し示すもの特にこの密使を引き受けた若泉敬氏の思いの深さと広がりを知ることができたことはとても大切なことだと思う。

先日普天間基地の移設問題で座り込みを続ける人々に対し警備にあたっていた警察官、 当事者は大阪府警の機動隊員だった模様だが、「はなせ ぼけこの土人」的な発言というか怒鳴り声を上げた。しかし怒鳴った相手は単なる一般の座り込みの人ではなく、作家の目取真俊であった。当然取り巻きというか関係者もそばにいてこの言動がメディアに取り上げられる事態となり警察も詫びたというか、新聞を読むと座り込んでる人も「そうとう性質悪いことを機動隊員に言っているし」みたいなことを大阪府警のえらい人が言ってたりしてた。

それにしても土人はないだろう。どじんって最初漢字変換もしなかったぐらいの死語だよ。

それがとっさに飛び出す大阪の人というのは・・・なんて思っていたのだけれども 土人はともかく、沖縄へ派遣された一個人としての彼に沖縄返還から綿々と続く沖縄の犠牲というものに対する歴史認識を期待するのはやっぱり難しいだろう。


岡田外相が日米の密約調査を表明したとき、鳩山政権はもう一つの日米間に横たわる問題と向き合っていた。沖縄県宜野湾市にあるアメリカ軍基地「普天間飛行場」の移設問題だ。

「最低でも県外移設が期待される」

2009年8月17日。東京・千代田区で行われた日本記者クラブ主催の主要6政党の党首討論集会会。2週間後の衆議院での政権交代が現実味を帯びていたこの日、当時、民主党の代表だった鳩山は、普天間基地の移設について見解を問われた。すると鳩山は、はっきりとした口調で、これまでの自民党を中心とする歴代の政権の間で進められていた計画の見直しに言及した。そのひと月前は、選挙応援で入った沖縄で、基地の県外移設をアメリカに提案する考えを示し、マニフェストには「米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」と掲げていた。

そもそも普天間基地は、1996年に当時の橋本龍太郎首相とビル・クリントン大統領の間で、全面返還が合意された。しかし、当初「五年から七年で全面返還」とした期限はとうに過ぎ、地元との調整は難航を極めた。そして、合意から十年が経った2006年、ようやく、普天間基地の代替施設を沖縄県名護市辺野古に移設するという「現行計画案」を柱とした、在日アメリカ軍再編のロードマップ(工程表)が、日米両政府の間でまとめられた。

沖縄は、普天間の危険性を取り除くためならばと、基地の移設受け入れという苦渋の選択をした。返還の目標とした2014年に向け、ロードマップに従って淡々と計画は進められるはずだった。

鳩山が「最低でも県外移設」を打ち出すまでは。



土人はともかく、歴史認識や当事者意識という点では残念だが。大半の僕らはこの大阪府警の機動隊員の方にむしろ近い場所にいるのだということを改めて認識する必要がある。

若泉敬氏は日米交渉の橋渡しとて密使を務めた訳だが、結果的には両国の政府に都合よく利用されてしまった。

その広い人脈を生かしてアメリカ政府のキーマンに切り込んでいたつもりだったが、相手は裏でみな連携をとっており、有利な条件を引き出そうと駆け引きをしていたことがわかったのだった。

なかには永年親友と思っていた相手も含まれていた。二人の友情に嘘はなかったのかもしれないが、相手はあくまで自分の国の国益を優先していたのであった。

日本政府もまたできるだけ有利な条件を引き出そうと外務省と密使を使い分けていたし、 肝心の密約そのものは一私人である密使が取り持ったもので「公文書」ではなかった。いざばれたときにしっぽ切りができることを想定していたのだろうか。

日本政府は沖縄の返還と繊維業界の保護を目的にアメリカと交渉していた。 時の首相佐藤栄作は沖縄返還に非常に強いこだわりを持っていたそうだ。 しかし、ここに何等かのビジョンがあったのか、返還後のピックピクチャーはどんなものだったのかというところは、見えてこない。

もともと僕らのもんなんだから いいかげん返してもらおうぜ まじで

みたいな。

一方でアメリカ政府はこの返還交渉をてこにした極東アジア戦略があった。取りに行っているもんが全然違うのである。

その交渉材料に使われていたのが「核兵器」であった。

経験的にも現代以上に核に対する嫌悪感が強かったと思われる日本政府は目の前にある「核兵器」の扱いに目を奪われてまんまと交渉に負けていったことがアメリカの情報公開によってわかってきた、それが返還後20年たってから

沖縄のため、日本政府のために身を削り出来る限り最良の結果を生んだとおそらくは自負し密約であるが故にだれにも漏らさず50歳にして隠居同等の生活をしていた若泉に降りかかってきたものはまさにそんな青天の霹靂のような事実だったのである。

20年が経過した後に突き落とされた若泉の孤立感と苦悩。沖縄の現在進行形の実態と日本政府の不甲斐なさはそれに追い討ちをかける。

本人が今のこの状況を知ったらどんなことを言うのだろうか。自民党の政治家は死んだら三途の川で待ち受けていた若泉氏にぶん殴られているのかもしれん。そうだったらいいのにと思う。


△▲△

ありふれた祈り (Ordinary Grace)
ウィリアム・ケント・クルーガー (William Kent Krueger)

2016/11/06:舞台は1961年当時少年だったフランクのお話を40年後の自分が語るという語り口で物語は進んでいく。

まずは何よりこの語り口が素晴らしい。

同級生といっても授業についてこれず教室の後ろで粘土細工を1日やっているような男の子がある日線路で列車に跳ねられて亡くなる。

事故なのか事件なのか。フランクは初めての身近な「死」に直面し戸惑うばかりだが、40年後の自分はこの後に続く一連の死について何か深い洞察を得ているような事を語る。

物語はこのあとどのように展開していくのだろうか。フランクの後を必死についてくる弟ジェイクは、二人でいるときは普通に話すが人前ではひどい吃音で何かといじめられていた。

父はこの街の唯一の教会の牧師で隣町2つの教会の牧師も掛け持ちしていた。彼は将校として戦場に行き、精神的に酷い後遺症と後悔を抱えている男だった。

男の子の葬儀の準備にあわただしくなっていく父の目をかいくぐって、フランクとジェイクは彼が亡くなった町外れの線路沿いへと向かう。

そこで出会ったのは「旅の人」の死体と脇に佇むインディアンの男だった。

物語は一見なんの関係もない出来事がゆるゆると進みながら、徐々に登場人物たちが舞台へとあがってくる。

フランクとジェイクのやや向こう見ずな行動の後を追う物語を縦糸にして、牧師の父の過去、家では平気でタバコをくゆらす母。そして姉のアリエル。家族を取り巻く街の人々。それぞれの人たちの人柄、関係が徐々に明らかになっていく。

何よりこの二人の兄弟が良い。愛すべきキャラクターに切なさがにじみ出てくる。

彼が語る事件とは一体どんなものなのか。何らか悲劇的な話であることは間違いない訳で、否が応でも不安は高まり、彼らのおぼつかない足取りを読者も必死で追うことになるのである。

ネタバレなしを信条としております当サイトとしましては、これでも既に書きすぎた感があります。

小説としての構造も見事で読む者の心を掴んで離さない、素晴らしい牽引力。そして深い感動をもたらす読後感。文句なしの一冊でありました。


△▲△

幕長戦争
三宅紹宣

2016/10/30:幕末の時代について書かれた本を読みかじっているのだけど、何かこうすっきりと解った気にならない。

尊皇か尊王か。攘夷か否か。さらにはそのどれを優先するのかで入り乱れて手を組んだり、造反したりで争いあったという実態があったらしい。先般、野口武彦氏の「不平氏族ものがたり」を読んでこんな事が解った。

特に攘夷を強く訴えていたのは長州藩で幕府はこの攘夷派と争いやがて本書のテーマである幕長戦争へと向かっていく。

これを読めばまた少し当時の事情が見えてくるのではないか。

結論から先に書いちゃうと、本書は歴史書というよりかむしろ、戦史・戦記といった体で、どこそこの村で誰と誰がどのように闘ってかというところにやたら詳しく、背景は知ってて当然であるかの如く、脇に追いやられておりました。

土地勘も上記の通り歴史的背景も不案内な僕はもう完全に迷子ですよ。

しかしながら手がかりは少しつかんだ。

七卿落ちから話をはじめよう。七卿落ちとは、1863年8月18日、尊王攘夷派7人が薩摩・会津の仕掛けた政変によって失脚したという出来事だ。この7人が落ち延びた先が長州であった。当然ながら長州は長州の事情があった。それは貿易開始に伴う物価高騰。長州の民衆は激しく困窮、幕府に陳情したりしたものの、袖にされていたのだった。

ついに堪えきれなくなった長州は外国船を打ち払うという行動にでた。

その矢先の七卿落ちであったのだった。

長州はこの事態を受け更に尖鋭化し、ついに反乱を起こす。禁門の変である。

古文書に残る禁門の変へと向かった長州藩の主張が残っている。

アヘン戦争(1840~42)以来、対外的危機が起こっている。弘化三年(1846)には対外防備を整えるようにと勅令がだされた。嘉永六年(1853)、ペリー来航以降、西洋列強の圧力はさらに強まり、とくに貿易が開始されて、物価高騰が起こり、日用品が欠乏し、民衆は困窮している。それを救うため、文久三年(1863)、長州藩は外国船を打ち払う行動を実行した。ところが8月18日政変によって京都から政治勢力を追われた。今は早急に攘夷の国是を確立すべきである。


しかし、この変で長州藩が宮中に向けて発砲する形となったことが征長軍派遣への流れを作り出してしまう。

長州藩は尊王でも尊皇でもなく攘夷だけだったのだろうか。

長州藩は攘夷を唱えることで地元の強力な支持と協力を得、征長軍と対峙し各地でしぶとく戦闘を繰り返していく。

この戦いが一筋縄で行かなかったのは地元の支援に加え征長軍が徴用した地元の軍夫たちへの理不尽な扱いがあったが、何より政府軍を凌駕する最新鋭の西洋式武装と戦闘様式にあった。

戦国武将の戦い方と装備を色濃く残した政府軍はゲリラ的に最新鋭の銃で攻撃をしてくる長州藩に敗走していくのだった。

戦闘に赴いた政府軍の武将たちは昔ながらの派手な甲冑に身を包んでいたため長州藩の格好の的になっていたなんていう事があったらしい。

一方で両軍とも手柄は敵の首級で奪い合うように首を集めていたなんてこともあったようだ。

ここで疑問なのはどうして攘夷派の方がより西洋的なんだという事。ここ肝心なとこじゃないかと思うのだが。地元民たちも恐らくはめちゃ斬新な様相に見えたはずの長州藩をなんで支持したのだろうか。

後日談として長州藩が幕府を負かした後に起こった百姓一揆を長州藩はあっさり鎮圧したりしてるようで必ずしも民意に沿っていた訳ではないらしい。

密貿易によって仕入れた西洋式武器で攘夷を唱えて戦った長州藩の政治思想について、本書はほとんど何も答えてはくれないのだけど、そればかりではなく例えば、西郷隆盛。

彼は政府側から長州藩を説得する役割で現地に赴くのだけど、いつの間にか長州藩に迎合していく。この時にどんな事があったのか、どんな意識の変化があったのか。とか。

坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、大久保利通といった面々が入り乱れて表れるのだけど彼らは一体何を政治信条として行動してるんだろうかといったことが見えてこない。

そしてその奥から見えてきたのは孝明天皇。

幕府と外国勢、足元の内紛の狭間で揺れる宮中は急速に求心力を失っていき、征長軍敗退を前に崩御する。

一節には暗殺であったという話もあるらしい。ちょっと調べたぐらいで実態が明らかにならないこの時期の出来事は、一言で言ってあまりにも不可解。

こんなにも最近の出来事なのに。あるいはであるが故になのか。何か有耶無耶にされているところがあちこちにある。これは本書が、ではなく、この時期に関する史料が、実態を明らかにしきれていないからなのではないかと思う。明らかにすると不都合があるからなのではないかとすら思う。

ここで得られた疑問をしばらく追っかけてみようと思った次第であります。


△▲△

イラク戦争は民主主義をもたらしたのか
(Iraq: From War to a New Authoritarianism)

トビー・ドッジ (Toby Dodge)

2016/10/22:タイトルを一目みて「何をバカな」と思った。戦争が民主主義をもたらすだと。ましてあのイラク戦争が民主主義を?どこにだ?イラクに?

しかしちょっと立ち止まって考えると、これは戦後の事を意味しているのだということに気づく。

イラク戦争を起こした動機や原因や戦争そのものがもたらした破壊と暴力は、さておき(無神経に強引にだが)、それが終わった後のイラクに民主主義が成立したのかどうか。

イギリス人で政府のシンクタンクのようなところで働いている人にそれがどんな風に映っているのか。

むむむ、なんか読んでおいた方がいいような気がしてきた。

ということで、とんでもなく右傾化したバカ話だったら、とっとと撤退するつもりで読み始めました。

あの、ありもしない大量破壊兵器があるとでっち上げて、テレビ局を送り込んだ上に、ニュースの時間に合わせてバクダードに攻め込み、政府を崩壊し、手に負えない程の内戦を勃発させたアメリカに尻尾を全力で振って追従したイギリスにこんな事を語る権利があるのか、どーなのかについては目をつぶってたが。


各地の内戦の原因と終結を考察する研究では、三つの大きな問題に焦点を絞る。ひとつ目は暴力的な紛争を引き起こす社会文化的要因、ふたつ目は暴力拡大を許す間隙をつくりだすに至った行政機関と警察・軍事機関の脆弱性、そして三つ目は憲法的枠組みの性格なのだが、この枠組みにより、政治の機能のあり方や、誰が権力へのアクセスを有するのか、権力をどのように分配するかが決まる。イラクで増大している暴力の分析にも、この三つは重要な役割を果たす。内戦を引き起こしたこれらの主要な要因について、アメリカのサージとイラク政府はどの程度の対策を講じたのか。安定した未来の成否は、この点にも左右される。


都合よく内戦が起こったイラク侵攻の根本原因についてはホップ・ステップ・ジャンプしてるのがどうしても鼻につくのだが、無理やり進もう。

バアス党支配が起こったのは、イギリスの植民地支配が終焉したことに遡る。イラクは石油会社を国有化しこの収益を使って権力を集中化する一方、税金を課されない国民たちとの間で政治的距離が開いていった。

経済成長と軍備強化を平行して力をつけていくイラクは、中東地域における宗派バランスにおいて断層的な位置にいた。そしてイランとの戦争、クェート侵攻と、国際社会と対立し、中東の最大の不安定化要因となっていった。

経済制裁など様々な顛末を経て、理由はともかく体制転換というアメリカのお家芸とも言えるイラク侵攻による国家崩壊が行われていった次第が詳しく語られていく。

そしてまたこの国家崩壊がそれまで非常に強い力で抑えつけてきた、様々な集団の蜂起を呼び覚まし、手に負えない泥沼の内戦状態へと突入していった事情が浮かび上がってくる。


暴動のふたつの流れ、すなわちイスラーム主義とナショナリズムが合流して米軍への抵抗を繰り広げた場所が、ファッルージャである。バクダードの西方50キロメートルの場所にあるファッルージャは、体制転換以前は保守的なスンニ派が多いことで知られ、「モスクの街」と呼ばれていた。他方で近隣のラマーディーと同様に、サッダームの影響が最もおよびにくい逸脱的な土地柄ともいわれていた。この街で、米軍に対し陳情活動を行っていた17人が米兵に殺害されるという事件が起きた。2003年4月のとこである。これをきっかけに、反乱の火蓋が切られたのだった。暴力と報復の循環が生まれ、イラク北西部の情勢が不安定となった。04年3月にアメリカの民間警備会社に勤める4人が殺害されると海兵隊がファッルージャに対する攻撃を開始、10月には米軍が空と陸から大規模な攻撃を加えた。 この攻撃によりファッルージャは灰燼に帰し、30万人の住民が避難民となった。


なるほどそういう事が起こってたのか。新聞報道などを読んだだけでは知り得ない、地域的な宗派の違いによる衝突や対立がそこにはあった。

そして新たに樹立されたイラク政府とアメリカの対立。みるみるうちに独裁色を強めていくイラク政府になんとアメリカは譲歩していく。


2007年1月10日、ジョージ・W・ブッシュ米大統領はテレビを通じて国民に語りかけた。異なる共同体同士の紛争がイラクの中部および南部で連鎖反応を起こしている事態を受け、アメリカ政府は大規模な戦略的敗北を避けるべく政策を抜本的に転換せねばならないとの認識に達した、と。演説の眼目は、いわゆる「サージ」(surge)だった。イラクに駐留させる米軍の兵力を一時的に増強し、紛争当事者の間に配備するという内容である。増派は「すでに掃討した地区を確保するのに必要な水準に兵力を引き上げるためである」と述べ、ブッシュは正当化を試みた。「掃討(clear)、確保(hold)、建設(build)」のレトリックをはっきりイラクの新戦略の柱に据えることで、対暴動(counter-insurgency)ドクトリンのイラクへの適用を明確に支持し、政権の新方針を実地に移す責任者にデーヴィッド・ペトレイアス大将を任命して自身の発言に実質をもたせた。ペトレイアスこそは、米軍内で対暴動ドクトリンの必然的を唱えてきた人物だったのである。


そこには膨れ上がった費用とアメリカ国内世論、大統領選挙という複雑な事情があった。

勿論イラク戦争は西側社会の大失敗プロジェクトで、なんとかなると思っていた最初の考えは、いわゆる自信の錯覚だった。

オバマがあっという間にイラク駐留軍を引き上げたのは、イラク政府の強硬な条件を鵜呑みにした結果だったのである。

これは驚いた。そういうことだったのか。 しかし本書の主眼はそこにはない。

そして再び経済と権力を集中し始めているイラク政府。イラク戦争は民主主義をもたらしたのか?なるほどタイトルはそういう意味だったのでした。


△▲△

量子力学で生命の謎を解く 量子生物学への招待
(Life on the Edge: The Coming of Age of Quantum Biology)

ジム・アル-カリーリ (Jim Al-Khalili ),
ジョンジョー・マクファデン(Johnjoe McFadden)

2016/10/09:サイトの移転を強いられどたばたしてしまいました。ようやく引越しは完了しましたけど、いろいろと修正しないといけないところが出てきて四苦八苦しております。

量子力学で生命の謎を解くとな。本気かそれ。読むべきか跨いで通るか。かなり悩んだ。目次を見ると意識の話もでてくる感じでますます怪しい。

そもそも生命が「生きている」というのがどいいう状態を指すのか自体をきちんと定義できてないのにそんな事できるんかと。

「生きている」状態とはさまざまな代謝が自律的にコントロールされた状態を維持している事みたいな感じなんだろうけども、何をもって自律的というのかとか、コントロールしているというのがどういう状態を指すのかとか、一歩下がると何もはっきりしてないというのが正直なところ。

どうやって我々は子孫にこの状態を受け渡しているのか、それはエンジンかけるみたいに始動するのか、それとも自分の状態を分け与えているのか。

そして我々が死ぬときこの統制は失われるが、何がこの統制を司っていたのか、何が失われたのか。

このあたりに量子力学が何等かの解を持っていると言いたいのだろうか。

分子レベル以上で働いている我々の身体のコントロールや統制をそれ以下の微細なレベルが担っているというのは無理のある話だと思うが、しかし。

光合成が量子力学の驚くべき技巧を用いて光からエネルギーを得ているのか、「植物が出現し、気候を変えた」では最近の知見を詳しく延べでいた。生命は量子力学を使いこなしているのである。

現代社会がようやくたどり着いた知識を植物は有史以前に実現していた。そしてこれを僕らはまだ真似することもできてないのである。

本書ではこればかりではなく、コマドリなどが持っている磁気受容体による方向感覚が実は量子レベルの働きを利用していることなどを次々と突きつけてくる。

コマドリのコンパスはなぜ振動磁場にあれほど敏感なのか?あるいは、遊離基はどのようにして長時間にわたってもつれ状態を維持し、生物学的な違いを生じさせるのか。2011年にオックスフォード大学のヴラトゥコ・ヴェドラルの研究室が、提唱されている遊離基ペアコンパスの量子理論計算を行い、重ね合わせ状態ともつれ状態は少なくとも数十マイクロ秒維持されるはずだということを示した。同種の人工的な分子システムの多くをはるかに上回る長さだし、コマドリが飛ぶべき方向を知るにも十分な長さだろう。こうした優れた研究によって磁気受容に対する関心が爆発的に広がり、いまではさまざまな種の鳥、イセエビ、アカエイ、サメ、ナガスクジラ、イルカ、ハチ、さらには微生物といった幅広い生物で磁気受容が見つかっている。

しかしこれらはまだはっきりと証明されたとは言い難いものが入り乱れており、本としては読ませる内容になってはいるけど、どこまでを信じればいいのか、よくわからなくなっていく。

第1章 はしがき
第2章 生命とは何か?
第3章 生命のエンジン
第4章 量子のうなり
第5章 ニモの家を探せ
第6章 チョウ、ショウジョウバエ、量子のコマドリ
第7章 量子の遺伝子
第8章 心
第9章 生命の起源
第10章 量子生物学:嵐の縁の生命

光合成の例を振り返れば生命が量子力学的な働きを利用している事が他にもいろいろあって不思議はない。我々がやろうとしている、理解して工夫して使おうというのではなく、長い歳月の間の試行錯誤の結果として利用できるようなものが生み出せたのだということだ。

そう考えると物性物理の根底に量子力学があるとするなら、ありとあらゆるものはその根底に量子力学がある訳で、驚く方がおかしい気もしてくる。

そして意識。神経細胞の働きを最新の知見で深掘りしていくとイオンの動きは量子力学的な力で制御されていることが分かってきたという。

なるほど。

しかし本書はそこで止まらず、意識の働きに量子力学的な力が大きく関与している可能性を示唆してくる。

やっぱりここまで踏み込んでくると違和感というか疑わしい印象を拭い去ることが出来ない。

根底にあるというのと、ちょっと意味が違うところに向かっていると思うのだ。

更に彼らは過去の偉人こ言葉を引き合いに、作ることができなければ、わかったことにはならない。などと言うのである。

生命や意識を創り出す事についてこんなことを言われると冷や水を浴びた気持ちになるよ。先走り過ぎてる上に傲慢な感じも漂う。上手に書かれているけれどもその本性はという複雑な仕上がりとなっておりました。


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