振り返れば8月末で当サイトもまる5年を経過しました。日頃のご愛顧感謝いたします。皆様が読書をする上で少しでも参考になるような情報が配信できるサイト作りを目指して、これからもますます精進してまいります。どうかよろしくお願いいたします。
2008年度第2クール。今年は新年度早々突然新たなプロジェクトに投入され、びっくりしたまんま仕事をしていて気付いたら7月になっていた。これはまるで拉致かアブダクト。予想以上に波乱含みの今年度。まだまだどんな年になるのか予想ができません。
「ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト―
最新科学が明らかにする人体進化35億年の旅
(YOUR INNER FISH)」
ニール・シュービン(Neil Shubin)
2008/09/28:2004年の秋、カナダ ヌナヴト準州のエルズミア島(Ellesmere Island)で発見された化石は、3億75百万年前のもので、魚類に共通する鱗と鰭を持ちながら、ワニのような扁平な頭部、その頂部に両眼、そして頸がある。
鰭の内部構造には陸生動物の持つ腕や手首に対応する骨や関節が備わっていた。
この動物は浅瀬に潜み、鰭を使って腕立て伏せのように体を上下させ海面から目を出して獲物を探していたものと思われる。
つまり陸上の獲物を探していたらしい。これは魚類と陸生動物の間をつなぐ中間種でティクターリクと名付けられた。
鰭の構造が変化して現在の僕たちの腕となっている訳だが、こうした構造上の変更。拡張は骨格のあらゆる所に認める事が出来る。
一方で基本的な構造、ボディ・プランはティクターリクよりも遙か昔に遡って共通なのである。
本書は、古生物学者にして解剖学者でもありこのティクターリクを実際に発掘したご本人の手による生物進化に関するものです。
ティクターリクの発掘した時のお話から、手首そしてボディプランに話題を広げ、後半では、嗅覚、視覚、聴覚といった現在人間が獲得している能力がそれぞれいつ頃どのように獲得されてきたのかを最新知識を交えて紹介していく。
この手の本は大好きなので、楽しんで読みました。とっても読みやすいし解りやすい。しかし、残念ながら目新しさはあまりない。もう少しテーマを絞り込んで書いた方が面白い読み物になったように思いました。
ティクターリク。非常に奇天烈で興味深い生き物でしたが、まだまだ謎が多い。何より気になるのは陸上を見て待ちかまえていたに違いない生態。これって現在のワニみたいな状態と云うかワニそのものだろう。だとすると獲物になった生き物ってどんな奴?そいつは既に陸に上がっていたと云う事じゃないのかと思うが、如何でしょうか?
「ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト」のレビューは
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「進化の技法」のレビューは
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カナダ ヌナヴト準州エルズミア島(Ellesmere Island)
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「ブルー・ヘヴン(BLUE HEAVEN)」
C・J・ボックス(C.J.Box)
2008/09/26:ノース・アイダホ、サンドポイントと云う小さな町は別名ブルー・ヘヴンと呼ばれている。これは、ロサンゼルスで永年勤続した警察官が引退後の余生を過ごすためにこの土地に移り住みはじめ、やがて元警察官の住民が増えて来た。その移住した彼らがこの土地をブルー・ヘヴンと呼び始めたからなのだそうだ。
サンドポイント(SandPoint)
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ここに暮らす二人の姉弟、アニーは12歳。弟のウィリアムと母のモニカの三人暮らし。その日の朝の出来事がきっかけで、逃れるように家を出た二人はやった事もない釣りをしようとサンド・クリークを遡って行った。
ところが通りがかったキャンプ場で二人は見知らぬ男達が一人の男を射殺しているところを目撃してしまうのだった。二人の存在に気付き追ってくる男達、弟の手を掴んで必死に逃げるアニー。
サンドポイントを目指してくる男は名前をエデュアルド・ヴィアトロと云った。カリフォルニア州アルカディアの元刑事。目指した場所はブルー・ヘヴンだが移住が目的な訳ではなかった。
彼はサンタアニタパーク競馬場(Santa Anita Park and Racetrach)で8年前に起こり未解決となった現金強奪事件を引退後も追い続けていた。糸のように細い手がかりを辿って辿り着いた場所がこのブルー・ヘヴンなのだった。
サンタアニタパーク競馬場(Santa Anita Park and Racetrach)
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サンドポイントの町外れにある牧場の主ジェス・ロウリンズは厳しい選択を強いられていた。牧場の経営が追い込まれているのだった。先日は13年以上一緒に働いてくれていたたった一人の男を解雇しなければならなかったばかりだ。
このままでは早晩銀行のローンの返済ができなくなってしまう。地元の不動産業者は宅地への転換をすべく良い条件で買い取ろうと申し出てきていた。
しかし、ジェスには全くその気はなかった。祖父の代から受け継いたこの牧場を心から愛していたし、ここで暮らす自分の生き方が自分自身そのものなのだ。
通りがかった車に助けを求めた二人だったが、なんと運転していた男は追っ手の一味なのだった。男が仲間に電話をかけている隙を突いて逃げ出す二人。
深い森に逃げ込んだ二人の姉弟はそのまま行方不明に。帰らない二人の事を心配し憔悴していくモニカ。
保安官の元は捜査に協力しようと申し出てきた元警察官が集まってくる。
小さな町に戦慄が走る。それぞれの人生が交錯しはじめる時、物語は一気に収束に向かって走り出す。
実直で寡黙。鋼のように強いジェスのキャラクターが素晴らしい。男が惚れる男でした。そして、地元の銀行家ジム・ハーンとの友情。
物語の展開はある意味ありがちなものではありましたが、ジェスのキャラクターに加えて、この作者の伏線の張り方、真相を明かすタイミングの良さが良い意味で読者を欺き、飽きさせる事がありません。
C・J・ボックスの本は初めてでしたが、なかなか読ませる書き手でした。それこそ夢中になって一気読みしました。
実は、C.J.ボックスってC.J.ポロックだと思ってたんよ。C.J.ポロックは嫌いじゃないけど、やや大味な印象。そんな訳でちょいと敬遠してしまっていましたが、当然の事ながら全然別人デス。
どうやら映画化の話が進んでいる模様。いやいやしかし、この作品は読んだ方が面白いとみた。
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「翼にのったソウルメイト
(The Bridge Across Forever: A Love Story )」
リチャード・バック( Richard Bach)
2008/09/15:「イリュージョン」が刊行されたのは1977年、日本では1981年、僕は当時18歳でした。
「イリュージョン」に出逢った僕は確実にその後の人生が変わるような、それこそ天地がひっくり返るようなパラダイム・シフトを得た。
この後暫く、僕はもうそれこそどっぷりその世界観に浸った状態で生活をしていた。
当時はインターネットなんて想像もつかない時代で、リチャード・バックなる人がどんな人物なのか殆どわからなかった。
「かもめのジョナサン」を書いたそうだ。とか、西海岸のヒッピーに熱狂的に受け入れられたらしい。とか。
しかし、僕にとって特別だったのは「イリュージョン」と云う本であって、リチャード・バックではなかった。
暫くして幸運にも手に入れた「空の王様」はリチャード・バックその人そのものを語る物語であり、ひたむきに飛ぶこと、飛ぶ技術を得るために厳しい鍛錬を重ねるリチャード・バックの姿に僕は強くリスペクトしたのだった。
そうそう、僕は高いところが苦手なので大好き(身近な)で二輪に乗る事に鍛錬しよう。と。
「翼にのったソウルメイト」が日本で出版されたのは1993年。本来原書が出版されたのは1984年だと云うから随分と寝かされていたものだ。
これに対する当時の批評はプラス・マイナスゼロをやや下回るようなものだったと記憶している。そして「イリュージョン」の続編に相当するものである事も。
僕にとって「イリュージョン」と「王様の空」の二冊はとても大切なもので、「イリュージョン」は単に一冊の本を超えて何か特別なもので、これ以上何も足したり引いたりする必要のないものでもあった。
当時の僕の下した結論は、「見送り」、「無いものとして取り扱うべし」と云うものだ。
大切にしている自分の世界観をわざわざぶちこわす必要はないだろうとこの本に手を出すのを見送ってきたのでした。
なんとも大げさな書き方をしてしまったが、「イリュージョン」の与えてくれたものはそれくらい大切なものだったのよ。
そんな訳ですっかりとその存在を忘れていた僕の前にこの「翼にのったソウルメイト」現れた。
そろそろ時効かもな。これも何かの縁だしと云う事で手に取ってみた次第でした。
本書は、「イリュージョン」の語り手であった、リチャードがやっぱりリチャード・バック本人で、河原の土手でドンが別な世界へ行ってしまい、その時の本を「イリュージョン」と云う一冊の本に纏めた人物としての後日談として始まる。
リチャードは、あのドンとの最後の日の群衆の混乱に乗じて「救世主入門」を藪に捨てて逃げ出していた。
そしてその顛末を一冊の本に纏めて出版するかたわらそれまで同様のジプシー飛行として町から町へと複葉機を飛ばす生活をしていた。
ドナルドがいなくなってぽっかりと空いた穴は埋まることはなく、かと云って代わりになるような人物が現れる事を期待するなんてどだい無理な話だ。
リチャードは一緒に飛ぶ仲間ではなく、人生の伴侶とすべきソウルメイトを探す事にするのだった。
この広い世の中には絶対に自分を待っているソウルメイトがいるハズなのだ。
飛行機を売ってソウルメイトを探す旅に出よう等と考えている頃、出版された「イリュージョン」は爆発的なヒットを記録し信じられないような金額がリチャードのものになっているのだが、本人は知るよしもないのだった。
インタビューの申し込みも殺到しリチャードのマネージャーは連絡を取ろうと右往左往するが、何しろあてもなくジプシー飛行をしているので連絡手段がないのだ。
しかしほどなくひょんな出来事からリチャードをつかまえる事ができるのだった。そしてそのリチャードはそれこそ生活が激変してしまうのだった。
リチャード・バックは1970年に最初の奥さんと離婚、1977年に本書で登場するソウルメイトであるレスリー・パリッシュと再婚。
本書のなかでモチーフとして使われている映画「SATR WARS」も1977年公開でした。ウーキーと云うのはチューバッカの事ですね。正に自伝、それもかなり個人的な小説と言って良いと思いますね。
後半は、出逢ったソウルメイトと共に精神世界のあらたな扉を開く「鍛錬」を重ねて行く様子が描かれている。
これは精神的修養によって新しいビジョンをえる事ができるのだと云うようなスピリチュアル体験の事だ。
幽体離脱や輪廻転生のようなスピリチュアル体験って僕たち日本人にとってそれほど目新しくもなくて否定もしないけど、何か特別のものだったり、新たな発見のような書き方をされると、チベットの人達はずっと昔からそれを知ってたしとか反論したくなってしまうな。
読んでいて思い出されるのは、シャーリー・マクレーンのアウト・オン・ア・リム(Out on a Limb)でした。未読ですが幽体離脱したりする様子が非常に東洋的だったような話しだと紹介されていた事を覚えている。
これが出たのが1984年だったそうだ。アメリカでは本書と同時だったと云う事だ。
有名女優のややぶっ飛んだ発言と云うか著書に世間がかなり引き気味に見ていた事が思い出される。そう云えば「リーインカーネーション」なんて本や映画もあって読んだり観たりしてたな〜。
そこに来て「カモメのジョナサン」と「イリュージョン」のリチャード・バックが使い道に困るほどの大金を得た生活。そしてそこで出逢ったソウルメイト。
更にはスピリチュアル体験。なるほど出版があれだけ遅れた事情もわかる気がする。
この二人結局1999年に離婚しちゃってるんだよね。本書は既に別な読みものとして読める本になってしまっている感じだ。
それも含めて今だからかなり冷静に読めた。
恐らく、リチャード・バックが「カモメのジョナサン」や「イリュージョン」を書いた時には本当に神がかっていたのだろうな。
一方この時期の彼は、お金と美しい女性にのぼせ上がっていたに違いないのだ。
リアルタイムで本書を手にしていたら失望のあまりもう一遍人生が変わってしまうところだったよ。
うわー。あぶなかった〜。ほんとセーフって感じだよ。
「かもめのジョナサン」のレビューは
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「イリュージョン」のレビューは
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「大様の空」のレビューは
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「ヒプノタイジング・マリア」のレビューは
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「フェレットの冒険」のレビューは
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「海に眠る船 コロンブス大航海の謎
(Die letzte Reise. Der Fall Christoph Columbus)」
クラウス・ブリングボイマー (Klaus Brinkbaumer)
クレメンス・ヘーゲス (Clemens Hoges)
2008/09/07:ノンブレデディオスと云う町はパナマ共和国の首都パナマから土埃の舞うでこぼこ道を車で約3時間の入り江にある小さな町だ。このノンブレデディオスの海から難破船が発見された。
誰が最初に発見したのかはよく解らない。地元の人にとっては魚が集まる格好の漁場の一つでもあったからだ。
この沈んでいる船に興味を持ったダイバーが調べてみるとそれは非常に古いものである事が解った。それは船のバラストとして石を積んでおり竜骨船ではないからだ。
ノンブレデディオス(Nombre de Dios)
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2003年、この船から取り出された木片を炭素14年代測定にかけたところ、コロンブスの第4航海の際に沈んだとされているビスカイナ号である可能性が示唆されたのだ。
僕はタイトルや、上記のような冒頭から、この沈んでいた船に関する調査結果から明らかになった事が中心になっているものだとばかり思っていた。
しかし、事実は違って、この船の調査は全く進まない。
これは最後の方になって漸く解った事だが調査計画は尽く完全に膠着してしまったらしいのだ。
これってネタバレとも言えると思うが敢えて書かせていただく。
と云うのも、ノンブレデディオスの沈船がどうやらビスカイナ号であるらしいと解った段階でパナマ共和国から待ったがかかった。
このパナマ共和国の主張として興味深いのは、コロンブスの遺跡として全世界の注目を浴びたくないらしいと云うスタンスがあるらしいという事だ。
それは、コロンブスはスペイン・アメリカをはじめヨーロッパ諸国では英雄視されているものの、ここパナマをはじめとする発見されてしまった側からみるとそれは、蹂躙であり侵略。更にはジェノサイドの歴史であるからなのだ。
ビスカイナ号が発掘されノンブレデディオスが観光地化すれば彼を英雄視する人々がこぞってパナマに押しかけてきてしまう。
観光収入としては期待できるものなのかもしれないけれど、これは地元の人たちの感情として耐えられるものではない事かもしれない訳だ。
なので、タイトルにある沈んだ船は象徴的なものではあるけれど、本では殆どその内容に触れられる事がない。
本書は、コロンブスの4回に渡る壮絶過酷な航海の模様と、彼の生涯・その背景にあるものまで最新の調査結果によって得られた知識によって再構成したものなのだ。
つまりコロンブスと云う人物って一体どんな人だったのだろうかと云う内容になっていると思って読んだ方が読みやすいと思う訳だ。
コロンブスを英雄とみるか、暴君として捉えるかはその人の立場によって違うと云う考え方は決して新しいものではない。日本人の立場で彼の事を単純な英雄として捉えている人は少ないのではないだろうか。
それでも、航海と新大陸の発見に対する彼の激情とも云える強い意志の裏側にあるものが一体何かと云う事は本書を読んでよく解った。
また、彼は航海術に関しては他に及ぶ者のない手練れを持っており、だからそこ航海を続ける事ができた訳だが、
辿り着いた新しい土地の人々も、船に乗り込んでいたメンバーも同じように統率する事ができない。
統治能力のなさが結果として不必要な虐殺に発展していってしまっていたと云う事も本書によって初めて知った事だ。
残念な事には本書の構成がややふらふらしている。読みにくい。そして最後の最後は見方によって色々だと云う話しの持って行き方から本書の落としどころとして何が言いたいのか的がぼやけてしまった事だ。
お店を広げるだけ広げて、終盤慌てて店じまいしている感じがする。
面白いな〜と思ったのは、コロンブスは発見するのは得意だったが、発見したものをどう扱うかに関しては愚鈍だったと云う話しがでてくるのだが、本書も素材はとっても良いのに扱い方は必ずしもスマートではなかったなと云う事だ。
そして僕も同じ穴に落ちてるかも。
第一航海の航路をウィキペディアで見る
第二航海の航路をウィキペディアで見る
第三航海の航路をウィキペディアで見る
第四航海の航路をウィキペディアで見る
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「潜入捜査官(UNDER AND ALONE)」
ウィリアム・クウィーン(William Queen)
2008/08/31:これは実話である。それもかなりすさまじい。略称 ATFと呼ばれるアルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局(The Bureau
of Alcohol, Tobacco, Firearms and Explosives)に勤務する著者が、無法の限りを尽くしているとされるモンゴルズ・モーターサイクル・クラブ(The
Mongols Motorcycle Club)へ単身潜入し囮捜査を行ったその全記録。
モンゴルズは、1970年代初期に結成されたモーターサイクル・クラブでその歴史は、ヘルズ・エンジェルズの後とはいえ古参のMCでもあるのだ。
モンゴルズは結成直後からヘルズ・エンジェルズと激しい闘争を続けてきた。最も激しかったのは背中に掲げるパッチに「カリフォルニア」の文字を入れることを認めるかどうかと云う事でなんと17年間も戦い続け、数で勝るヘルズ・エンジェルズに対しモンゴルズは最終的に勝利を収めたのだそうだ。
こんな逸話からも窺い知れる通りモンゴルズはMCのなかで最も凶悪とされる集団だ。
シンボルマークの入ったTシャツやマグカップなんかを売ったりしてある程度合法的な商売もしているヘルズに対して、モンゴルズはそんな気はさらさらない。
また彼らはチョップしたハーレーに乗ってはいるものの、必ずしもバイク好きと云う訳でもなく違法な薬物や銃のそして盗品の取引などで生計を立てているひたすらアウトローなのだ。
ATFではそんな彼らに目を付けていたのだが、1998年2月彼らに紹介しても良いと云っている女がいると云う千載一遇のチャンスが巡ってきた。
今回の相手は常に銃やナイフを持ち歩き、キレれば暴力の歯止めがきかないモンゴルズ。正体がバレれば即殺される事間違いない。
そんな連中に近づき、見習いとして寝食を共にするなんてとんでもなく太い肝っ玉を持ってなければ絶対に無理だ。
そこで白羽の矢が刺さったのが、このウィリアム・クウィーンなのだった。
彼はベトナム戦争に従軍し、ノース・カロライナの市警に務めた後AFTに入局した男。ATFでの彼は特別対応チームの一員として何度も潜入捜査を実行してきた男だ。
ビリー・セント・ジョンと云う架空の人物になりすまし、モンゴルズのたむろするバーへ向かうクウィーン。
身分こそ用意周到に準備され、バックアップチームが控えているとは云え、後は自分一人で出たとこ勝負で臨機応変に対処するしかない。
しかも、頼りの綱はもしかしたら衝動的な行動を取っているだけかもしれない薬物中毒の女一人。
危ういファーストコンタクトをどうにか乗り切り、顔見知りとなり、やがて見習いとして仲間入りする事にどうにか成功したものの、見習いになると云う事は昼夜の境も土日もない呼び出されればどんな時でも駆け付けなければならない。
モンゴルズへの潜入捜査は私生活をすべて捨てる事でもあった。
やがてクウィーンの持ち前の機転と運によって徐々にメンバー達の信頼を得、何人かのメンバーからは家族以上の愛情をもって迎えられるようになっていく。
一方で本当の子供達には逢いたくても逢えない事からどんどん離れていってしまう苦しみ。
経験豊富な彼でも今回の潜入捜査が前例のない2年半と云う長期のものになり、それがモンゴルズとATFの狭間でクウィーン自身も深いジレンマに陥っていくとは予想だにしないものだったのだ。
モンゴルズの凶悪さに単身対峙するクウィーンの正に薄氷を踏む日々スリリングさ。
またクウィーンに対しメンバーが仲間として愛情と云うべき気持ちを示すまでの関係になっていくに従いジレンマ。これぞ実話なればこその内容でぐいぐい惹き付けられて読みました。これは一読の価値ありの一冊ですよ。
ラルフ・"サニー"・バージャー,キース・ツィンママン&ケント・ツィンママン
「
ヘルズ・エンジェル−サニー・バージャーとヘルズ・エンジェル・モーターサイクル・クラブの時代 」
モンゴルズの公式サイト
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「狂犬は眠らない(MAD DOGS)」
ジェイムズ・グレイディ(James Grady)
2008/08/24:僕の大好きな映画の一つに「コンドル」と云う映画がある。1975年の映画で。この映画はCIAの職員でミステリ小説を読んで分析するという仕事をしているセクションに務める男、ロバート・レッドフォード演じるジョー・ターナーが、ある日昼食を買いに出かけて支部に戻ると支部は何者かに襲撃されセクションのメンバー全員は射殺されていた。
転がるように支部を抜け出しCIA本部に緊急事態の連絡を入れるが、彼の後を追っ手が迫ってくる。
支部を全滅させた目的は何か、彼を追うものは一体何者なのか。ターナーはCIA本部ですら信用ならない孤立無援の状態で逃避行をするハメになる。
このターナーのコードネームがコンドル、その3日間の逃避行を描いたものだ。
この時のロバート・レッドフォードが滅茶苦茶かっこよかったし、彼を追う殺し屋のマックス・フォンシドーも渋い。何よりディブ・グルーシンの音楽が最高にクールでとっても面白くて夢中になって観た映画だった。
この情報化社会における冷徹な諜報機関と云う雰囲気は映画にもってこいのものだし、この「コンドル」は相当のヒット作した事もあってアメリカの間諜小説の流れを造った一本だと云っても過言ではないと思う。
この映画の原作となっているのが、ジェイムズ・グレイディの「コンドルの六日間(Six Days of the Condor)」だ。
映画「コンドル」は原題が"Three Days of The Condor"となっていて、3日間に短縮されたものだったようで結末もどうやら違うものになっているらしい。
原作の方は残念ながら本の方は未読だ。何度も手にしたけど、タイミングを逃してしまった一冊なのだ。今は既に絶版。
本書「狂犬は眠れない」はそのジェイムズ・グレイディ久々の新作だと云う。しかも2007年10月9日に亡くなられた三川基好氏の遺訳だ。
訳者あとがきの後に添えられた田口俊樹氏の解説を読むとこの訳者あとがきは三川氏が亡くなる最後の日まで推敲をしていた文章なのだそうだ。
おいおい、待ってくれよ三川さん。ジム・トンプスンの残りは誰が引き受けるのさ。ホントに楽しみにしてたよ。
その三川さんがあの「コンドル」を凌ぐ傑作だと云う。これが面白くないハズがない。
メイン州ウォーターバーグと云う辺鄙な寂れた交差点には、ガソリンスタンドが一軒、モーテルが一軒、民家が二・三件そして道路から引っ込んだ奥にはRAVANSと表札がかかった赤煉瓦のずんぐりした建物がひっそりと建っているだけだ。
このRAVANSは表向き疫学調査の団体の施設と云う事になっているのだが、実はCIAの最も厳重な機密扱いとなっている基地なのだ。
ここに入る為の資格は単にCIAの職員なだけではダメで、将校か高級官僚等の要職かはたまた工作員か諜報員である必要があり、更に狂っていなければならない。
つまりここはCIAの作戦行動上の戦闘や事故によって精神に異常をきたした者を収容している場所だ。
ここの病棟は、エイブル、ブラボー、クレイジーヴィルに別けられており、社会復帰が永久に困難だと判断された者達が入っているのがクレイジーヴィルであり、その者とはラッセル、ゼイン、ヘイリー、エリックそしておれ(ヴィク)の5人の男女だ。
ラッセルはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の最中、セルビア人勢力に傭兵を装い潜入していた全身ロックンローラー。ゼインはベトナム戦争時の特殊工作の専門家で髪は一本残らず真っ白な男だ。ヘイリーはナイジェリアで秘密裏に行われているヘロインとプルトニュウムの取引を阻止べく武器の闇市場へ潜入した女性工作員。エリックはクェート侵攻前夜のイラクへ外国人労働者を装い潜入していた諜報員だ。そしておれ(ヴィク)は決して公になることのないある功績により勲章を見せるだけで渡さない形で授与された諜報部員だ。
彼らとグループセッションを重ねてきた精神科医のフリードマンは、彼ら5人が治癒に向かった努力を全くせず、力を合わせて精神科医を煙に巻き続け、収容者である立場を利用して完全にこの施設を乗っ取っていると結論づけた。
そして即刻、彼らをここから出られるように新しい治療法を使った積極的な治療活動を開始すべきだと云う報告書を書くと言う。
久しく経験する事のなかった率直な意見と目的と意思を持った活動の提案。それも治癒と云う目的。
しかしその報告書は書かれる事がなかった。
何故ならその直後フリードマン医師は何者かによって殺されてしまったからだ。それも閉鎖されたクレイジーヴィルの内側で。
彼ら5人のうちの誰かが手を下した訳ではない。何故フリードマンは殺されたのか。このまま事件が発覚すれば間違いなく自分たちのせいにされ、これまで以上に薬漬けで厳重で単調な生活。
5人が下した結論はこの施設からの逃亡。CIAとフリードマン殺害の犯人の追っ手をかわし、捕まる前に真相を究明する事。
彼らの逃避行はロックンローラーのラッセルが大音量で流す音楽をお供に過去に負った精神的な傷のその出来事にフラッシュバックしたり、そのハンデによって想定外の場面で勝手に危機に陥り、メンバーが持ち前の技能と機転で力を合わせて解決しつつも犯人の糸口を辿っていく。
これは完全にロード・ムービーの小説版ですね。ロード・ムービー大好きだ。これも是非映画化して欲しいな。イヤ無理か。
過去の体験の暗さと重さ、現在進行形で進む逃避行の明るさと軽さが降り注ぐ見事な構成。小説でこそ実現できているおもしろさが詰まっている。これぞ正しく傑作でありました。
三川基好さん。素晴らしい仕事をありがとう。
ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。
「コンドルの六日間」のレビューはこちら
>>>
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「知られざる宇宙―海の中のタイムトラベル
(Nachrichten aus einem unbekannten Universum:
Eine Zeitreise durch die Meere)」
フランク・シェッツィング(Frank Schatzing)
2008/08/17:フランク・シェッツィング。はてはてどこかで見た名前だ。誰だっけ?掟破りだが鹿沼博史氏の訳者あとがきに目を通す。
著者は「シュヴァルム」と云う本でベストセラー作家となった人物で、この「シュヴァルム」を書くための取材で得られた知識をもとに本書を書いたらしい。
「シュヴァルム」は深海を舞台としたSF小説だと云う。登場してくる怪物の名はイルル。
おぉっそれは「深海のYrr」ですね。最近書店で平積みになってたなぁ〜。
「ダヴィンチ・コード」を超えるベストセラーになったとか。どうやら映画化の話も進んでいるとか。
ひねくれ者のおやじとしてはこうした直球の宣伝文句は鵜呑みにできないのだ。SF小説は殆ど読まない事もあるけど。3巻。相当の分量、手を出しにくい感じだよな。
しかしドイツの作家でベストセラーになった人の本と云うのは気になる。
しかも、小説を書くために集めた情報を科学読み物に纏めたもの、更には「海」ものだとなればこれは読まない手はないでしょー。
って事でこちらも小説に劣らず600ページを超える大著ですがどっぷり読ませていただきました。
地球や海の成り立ちと生命の誕生。度重なる絶滅の危機を乗り越え多様性と進化を遂げてきた生物の歴史。そしてこれから。なるほどこの内容を一冊に纏めようと思えば、それなりの分量になりますわな。それも大変読みやすい。
紹介される数々の深海生物等をはじめ地質学や海洋科学の最新技術まで、一切図版を用いず文章だけで解りやすく書くと云うのは相当困難な仕事だったのではないかと思います。
個人的には図版の入った本が好きなので、ちょっとは絵が欲しかった感はありますが。作者のフランク・シェッツィングの技量は間違いなく第一級でした。またこれを翻訳するもの大変な作業だった事でしょう。
一方で若干物足りなかったのは、最新の情報と云いつつも驚くような目新しさが殆どなかった事でした。
かなりの話題が既に本で読んだ内容ばかりでした。
僕のサイトでこれまでご紹介してきた本を振り返ってみると
地球全球凍結について書かれたガブリエル・ウォーカーの 「スノーボール・アース」 。
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30億年と云う永きにわたって進化繁栄を続け、現在の地球環境に途轍もない影響を及ぼしている藻類についての本、井上 勲の 「藻類30億年の自然史」。
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従来はあり得ないと思われていたような過酷な環境下でもしっかり生命が根ざしている事がわかってきたと云う話、D.A. ワートンの 「極限環境の生命―生物のすみかのひろがり」。
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しかも現在の地球の大気を生み出したのは他ならずこれらの極限生物の営みであったりする訳だ。
そして、K/T境界と呼ばれる地質上の層が実は巨大隕石の衝突の痕跡であった事から白亜紀の恐竜絶滅の謎にせまるジェームズ・ローレンス・パウエルの
「白亜紀に夜がくる―恐竜の絶滅と現代地質学」 。
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カンブリア紀の爆発的進化の様子を新たな目線で浮き彫りにするアンドリュー・パーカーの 「眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く」 。
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そして、氷河期には海水面下がりジブラルタル海峡よりも海水面が下がり地中海が巨大な盆地だったと云う話、ウィリアム・ライアン&ウォルター・ピットマン
「ノアの洪水」。
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約500万年前には、ジブラルタル海峡すらもふさがり地中海全体が干上がっていたと云う話。ケネス・J・シューの「地中海は沙漠だった―グロマーチャレンジャー号の航海」
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等がありました。どれもとっても面白い本でしたよ。
これらの本からの仮説も含んだ最新の情報を識る喜びも勿論ですが、研究者の新しい発見やパラダイムに触れてワクワクしてみると云うのは、とっても心地良いものだと僕は思います。
また、目新しい話題としては以下のようなものがありました。
まずはホヤの仲間だと云う「サルパ」と云う動物プランクトン。クラゲのようなゼラチン質の体を持ち複数の個体が繋がったりして海を流れているのだそうだ。まだまだ謎の多い生き物だと云うサルパ。手頃な本が見つかれば是非読んでみたいと思う。
そしてフリーク波。巨大タンカーを転覆させる程の大波が突如発生する。海難事故の中にはこうしたフリーク波によるものも相当数含まれているらしい。突如高さ30メートル、その速度はなんと時速100kmを超えるような巨大な波が生まれる事があるのだそうだ。近年こうした波の存在とその生成のプロセスが徐々に明らかになってきたと云う。
こうした話題については読者の興味をかきたてるに十分な描き方をされている訳ですが、本書のみで満足するにはかなり不十分な面がある事は致し方ないものです。
「知られざる宇宙」を入り口に興味のある分野へ深掘りして行ってみると云うのが読書として正しい、楽しい進み方ではないかと思います。
本書は広大な海と共にあり長い長い歳月によって育まれてきた生物との切っても切れない深い関係を様々な切り口で紹介しながらも、明日そして遠い将来もこの関係を維持していく為に人類ができる事は何かと云う大きな問いを投げかけてきます。
作者が提言している重要なものをここにご紹介させて頂く。
第一に、生きるため、そして生き延びるために必要なものは、何であれ食べることが許される。
第二に、生き延びるために絶対に必要なものでなくとも味わうことは許される。
第三は、いかなる生き物であれ、食べるために、不必要な苦しみを与えてはならない。
第四に、生物の総量に対して分を超えた収奪をし、回復不能な損害を生じさせてはならない。
第五に、高等な生物と下等な生物の間にはある種の境界線がある。
第五の提言はちょっと解りにくいが、これはある種の動物は自意識を持っており心を持っているものがいる。しかしそれでも人間にしかないものがあるだろう。
著者はそれを「同情」の念だと言っている。この同情の念があるのは人間だけで、それがあるが故に責任を自覚した行為を取る責任があると云うような事を書いている。
この「同情の念」が人間にしかないと云う考え方にはちょっと違和感があるけれど、生物進化の頂点にいると云う点で我々は地球とそこに住む全ての生き物に対する責任があるとする考え方はとても正しいと僕は思います。
決して軽薄なものや行き当たりばったりなもの、その真逆にある過剰すぎるものでもなく、地質学的な規模での長期間に渡って永続していく為に本当に必要で有効な事は何かを考える。
それは自意識と高度に発達したコミュニケーション能力を持って世代・地域を越えて知恵を合わせる事のできると云う特別な生き物である人間に科せられた責任だと思う訳です。
最新の情報は常に更新されていくものです。我々はまだまだ知らないことが沢山ある。書かれるべき本、読むべき本に尽きることはない。そしてその責任の一翼を担うこと。だから読書はやめられません。
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「ロスト・エコー(LOST ECHOES)」
ジョー・R・ランズデール(Joe R. Lansdale)
2008/08/03:冒頭、マッドクリークにある眺望のよさからデートスポットとなっている崖の下にある藪の中から崖から落ちたと思われる車とそのなかに男女二人の死体が発見されたと云うニュース記事が引用される。
多くの若者がその崖を訪れていたが、いつからその車があったのか誰も知らない。更になかで死んでいた二人は銃創があり、明らかに射殺された上で崖から車ごと落とされていたらしい。
テキサス州マッドクリーク。ハロルド・ウィルクスはとっても貧しいが優しい父母の元に育てられている男の子だ。
故障して音のでないテレビで観るアニメも、道路の向こう側のドライブインシアターで上演されている映画も母のビリーが説明してくれているので何も問題がなかった。裏庭の先にある廃車置き場とその先にある森も眺めていて飽くことがなかった。
正にワンダーランド。幸せな日々。
そんなハリーはある日、高熱を出して病院へ担ぎ込まれる。おたふく風邪のような症状だが感染症によって右耳に異常が起きてしまう。
この出来事を境にハリーにはある特殊な能力が備わる。それは、物が起こす音がその場所で起きた過去の痛みを伴う出来事を呼び覚まし、ハリーに追体験させてしまうと云うものだ。
はっきり気付いたのは12歳になった時、一人で裏庭の先にある廃車場の車に乗り込みドアを閉めた時だ。
その音がきっかけとなって、その車が起こしたらしい最後の事故の瞬間がハリーの体を突き抜けていった。
13歳になったハリーは幼なじみのジョーイとケイラは前年、家からほど近いところで起きた殺人事件の現場に忍び込んでみる事にした。
それはロージーズ・ロードハウスと云うバーで女性オーナーが惨殺され、未解決のままになっている事件だった。夜遅く集合した三人は肝試しに廃墟になったお店に恐る恐る入っていく。
女性オーナーが殺された場所の脇にあるジュークボックスに触った事で発した音が引き金となってハリーは正にその女主人が殺害される現場が見える。殺した犯人の顔までもはっきりと見えるのだ。
気を失って倒れたハリーを友人達は夢でも見たのだろうと取り合わない。しかし暫く後にこの事件の犯人が逮捕されたニュースを新聞で見たハリーは自分があの店で見た顔に間違いなく、自分の思いこみではなく本物の能力である事をはっきりと自覚するのだった。
幼なじみのケイトの引っ越しや父親の突然の死等ほろ苦い思い出を重ねながら大きくなっていくハリーの姿がなんとも切なくて良いです。
月日は巡り、大学生となったハリーは部屋の壁に段ボールを張り付けかつて誰がが苦痛を感じた事のある場所を避け、金があれば他人のものであるハズの苦痛から遠ざかるために酒を飲むような日々をおくっていた。
そんなある日ハリーは元武道家で現在はただの酔っぱらいに過ぎないタッドに出逢う。彼は心の傷から立ち直れず自暴自棄の生活を送っていた。
ハリーが大人になっていく時間線を辿って物語が進行していくが、冒頭の発見された車の死体の話しが一体どの時間に起きた事かは語られないままだ。
更にもう一つ圧倒的な暴力。暴力を振るう事そのものが目的となってしまっている二人組の男。彼らは出会い頭の女性を襲い単に楽しみの為にだけで殺害する。どうやら何人もこの二人によって殺されているらしい。この二人もまたどの時間軸で動いているのか不明だ。
また、少年時代の数々の出来事を伏線として抱えつつ物語は動き出してくる。目の覚めるような鮮やかさはないものの、子供の頃には見えなかった出来事のベールがはがれててくことや、特殊な能力に苦しめられながらもその能力を前向きに使う事で克服しようとしていくハリーの姿が爽やかです。
全編を通じて飛び出してくるヴァイオレンスとのコントラストがなかなか斬新な読み味を与えてくれていると思いました。
暑い夏の夜にぴったりの一冊です。ランズデールの大好き。誰かはやく、ハップ・コリンズとレーナート゜・パインの続編を出してくれ〜。
ハップ・コリンズとレーナート゜・パインの作品を
こちらでご紹介しています。
「ダークライン」のレビューは
こちらへどうぞ。
「ババ・ホ・テップ」のレビューは
こちら>>
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「本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源
(Basic Instinct)」
マーク・S. ブランバーグ (Mark S. Blumberg)
2008/07/27:本能ってなんだろう?
本書の冒頭では以下の例が紹介されている。
母親はふらふらと車の前に出て行った子供を助けに夢中で飛び出していく。サケは上流にのぼって産卵する。カモの子はよちよちと母親のあとについて庭を横切り池に向かう。
ビーバーはダムをつくる。
大辞泉によれば、
ほん‐のう【本能】
動物個体が、学習・条件反射や経験によらず、生得的にもつ行動様式。帰巣本能・防御本能・生殖本能など。
大辞林ではもう少し詳しくて
ほんのう 【本能】
[1] 生まれつきもっている性質や能力。特に、性質や能力のうち、非理性的で感覚的なものをいう。
[2] 動物のそれぞれの種に固有の生得的行動。学習された行動に対していう。個体の生存と種族の維持に関係する基本的欲求・衝動と密接に結びついている。
下等動物ほど本能に基づく行動が多く、昆虫の造巣行動のようにきわめて巧妙なものもある。
下等動物に限らず、生まれたばかりの赤ん坊が母親の乳を必死に飲んでいる姿や不快や不満がある場合に一所懸命に泣く姿。孵化したばかりのウミガメが海を目指して走り出したり、鳥が種によって特徴的な巣を作る事など。こうした例に行き当たると、つい「本能」と云う言葉を使ってしまっている自分がいる。
そして更には、こうした行動、つまり進化の過程で最適化された行動は生まれる前の段階でどこかにプログラムされているものだとかと云う考えを持ってしまっている自分に気付く。
まるで機械やおもちゃのようにある一定の行動がプログラムされている?一体どこに?「遺伝子」だろうか、「DNA」だろうか?それとも「脳」だろうか。
心臓や呼吸のように考えたり意識する必要がない一連の活動と同じように、古い時代に形成された脳に鳥が巣を作ったり、ビーバーがダムを造ったりする行為がコーディングされているとでも云うのだろうか。
だとすれば、何故か下等な動物ほど、より高度な行為がコーディングされている事になってしまう。まるで第三者である何者かがその動物に対してプログラムしたみたいに。
蜂や蟻が分業化し高度な社会を創り出している事は間違いないがこれはすべて「本能」の赴くままに行動する事で成り立っているのだろうか。どうしてサケは自分の生まれた川を目指すのか。
「本能」って何だろう。と云う事をすこし考えてみると、むしろおかしいのは「本能」と云う言葉の概念の方だという事がわかる。
つまり何故こうした動物たちは親や周囲からそうするように教えられたりしている訳でもないのにちゃんと同じような行動に走っていく事ができるのだろうかと云う問いに対して「本能」と云う言葉が簡単に答えすぎているからなのだ。
近代に入り「本能」、「生得的(先天的)」、「遺伝」、「遺伝子」、「学習」、「遺伝子決定」といった概念は、あらゆる動物の行動の本質をめぐって、すさまじい論争を引き起こしてきた。
これらの論争の背景には、科学の枠組みを飛び越し、意識的にも無意識的にも宗教観やごまかしやまやかしまでもが入り込んだ事があるらしい。
最も重大なポイントの一つには動物に意識があるのか、心や魂があるのか。意識や心がないものは機械的に動いているに違いないと云う考えだ。
こうして書くとかなり強引な考え方だが、西洋社会ではななり根強い考え方である事なのだ。心や意識がないなら、学習したり後天的であったり、まして心理学的なものがあると考える事は難しいのだ。
更に生まれか育ちか、二元論の考え方はこうした思いに陥りやすい。動物や物にまで擬人化して心があると考える事がある日本人であっても、二元論的な発送は根強いものがあるのだそうだ。
確かに。
動物 対 人間
本能 対 理性
学習されない 対 学習される
先天的 対 後天的
遺伝 対 環境
生物学的 対 心理学的
本書はこうした安易な考えに様々な実例をあげて反証していく。
一見生得的獲得されているようにみえる行為も詳しく分析をしていくと、環境や学習など様々な後天的な要因も加わって形成されている事がわかってくる。
つまり先天的か後天的の境界線を明確に引くことが困難な複雑な行為である事がわかってくるのだ。
例えばワニや一部のカメやトカゲは性染色体をもっておらず、孵化する時の温度で性別が決定するのだそうだ。
温度によって性別が確定するスイッチのみがおそらく遺伝的にセットされていると云う事なのだろうか。
これらの議論はタマネギの皮のように一皮むくとすぐに次の課題がみえてくる。つまり、ではどうしてそれらはそのように形成されているのだろうか?外的環境と生物の特性はやはり境界線を失いぐるぐるとお互いの間を回り始める。
つまり本能って何なのだろう?
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「多世界宇宙の探検 ほかの宇宙を探し求めて
(Many Worlds in One: The Search for Other Universes)」
アレックス・ビレンケン
2008/07/21:解りにくいぞ。これに比べたら倍の厚さがあった「宇宙のランドスケープ」の方が数段読みやすいし解りやすかったです。
これは、著者の考えるインフレーション宇宙や多世界宇宙の概念と、この考え方をまとめるまでの長い長い経緯と、意見を同じくする、或いは異なる説に加えてそれらが生み出された経緯、いわば宇宙論史的な記述が、ごたごたにおりまざって構成されている事に他ならない。
どうして学者が書く本には自分の考えが如何に世間に認められたかと云う経緯と結果を混ぜ込まれたものが多いのだろうか。
読者としてはこれは別けて書いてもらった方が理解しやすいと思うのだが。
何故、物理学的特性は現在の値をとっているのか、どうして宇宙は絶妙なバランスをとった状態にあるように見えるのか。
こうした問いに対する一つの回答がランドスケープであり多世界宇宙といった考え方で、我々が暮らすこの宇宙の外に、この宇宙とは違った物理学特性をもった世界が取り得る可能性の数だけ存在していると云ったものだと思う。間違っているかもしれないけど。
ベースは永久インフレーションと呼ばれる考え方で、宇宙の始まりにビックバンからインフレーションが始まったとする考え方ではなく、我々の住んでいる領域を閉じられた島宇宙、宇宙全体ではこうした島宇宙を沢山包含していると捉える。
島宇宙と島宇宙の間の「無」の領域は永遠にインフレーション状態を続け拡大しているのだ。
そしてこの「無」の領域から新たな島宇宙が生まれ、島宇宙自体もインフレーションを起こして膨張していく。
永久インフレーションはこのような「無」の領域の拡大とそこから「島宇宙」が際限なく永遠に生まれ続けると云うものだ。
この島宇宙は無限の数だけ存在し、その取り得る歴史はなかに存在できる物質が有限である事から有限の可能性をすべて網羅する
。
つまり、僕たちと全く同じ存在も、ちょっとだけ違う世界も、ほんの僅かでも可能性のある歴史や世界も必ず存在していると云う事なのだ。それも無限の数だけ。
おっとと、ちょい待ち。我々の世界、自分と全く同じ存在が無限個存在する?
全く同じ歴史を辿る無限個の世界。この世界と世界の間には絶対にこえる事のできない時間的・空間的隔たりがあり、同時に存在していると云う訳ではない。
無限に続く時間の間に繰り返されていくと云う事なのだ。ここから提示される新しい世界観は、「宇宙のランドスケープ」とはまたひと味違ったものだ。
更にこの新しい世界観に基づく新しい哲学と云うものが生まれてくる事になるのかもしれない。
題材がとっても良い割にとっときの悪さがすごく足をひっぱっているちと残念な出来でした。
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「イラク博物館の秘宝を追え―海兵隊大佐の特殊任務
(Thieves of Baghdad) 」
マシュー・ボクダノス
(Matthew Bogdanos, William Patrick )
2008/07/21:イラク戦争の現場の状況はニュースを観てもわからない事が多い。
当時のリアルタイムの報道を追っていた頃を思い出しても報道が同行していない。同行していても作戦上の秘密だという理由から殆ど伏せられていると云う感触があった。
作者のマシュー・ボクダノスはアメリカの海兵隊を核にFBIやICEなど10を超える連邦機関が統合し、テロリストへの資金や武器の流れを捜査するチームのリーダーとして、イラク戦争のさなかバグダット市街で捜査活動をし、その際に略奪にあった国立博物館の調査にあたった際の話しなのだ。
本書はひょっとすると現地の模様を少し埋めてくれるような情報を提供してくれるかもしれない。
そんな思いで手にした。
しかし、どうやら本書には隠された意図があるようで、冒頭から怪しげな臭いがプンプンとしてくるではないですか。
彼はニューヨークで生まれ育ち、海兵隊に志願。兵役を終え検察官として働いている時にアメリカ同時多発テロ事件に遭遇する。
当時彼はワールド・トレード・センターから1ブロックのところに住んでいた。
実際に彼が体験した事は僕の想像の域を超えているようで、実感が掴めた感じがしない。「まるで映画のような」状況とでも言えばいいのか。
「イーリアス」を引き合いに出して、登場人物達といちいち自分の行動をそれに重ねる。緊急時に。それも家族で危機的状況下だ。
そうする事で冷静になれるのならそれはそれで立派だし、有効な手段かもしれない。
が、それを書くか。
理解し難い比喩で綴られる自己満足的な記述を読まされている自分に理由が見当たらない。
パールハーバーだと思ったようだが、少なくともあの時の攻撃は海軍基地に対するものだったハズだ。それを言うなら、東京の空襲や広島・長崎に対する原爆投下はどうなのさ。ひょっとして知らない?
そもそもどうして同時多発テロ攻撃を受ける事になってしまったのか。
ついでに言えば奥さんがクローディアで飼い犬がコーデリアなのだが、コーデリアが何者なのかわからなくなって混乱した。
随分無口な女性だと思っていたらペットの犬でしたか。
イラクの国立博物館に向けてタスク・フォース1の戦車が120ミリの主砲で砲撃したのは、この博物館の建物なかからRPG攻撃を受けたからであり、交戦規則上全く問題がない行為であったと云う事らしい。
現場の兵士の判断としてはそうなのだろう。進んで攻撃を受けっぱなしになる奴はいない。
本書は、妙に凝った時間移動があちこちにあり、出来事の前後関係がどんどんややこしくなって行く。
その割には9.11の当日の出来事や行く前の準備や組織の組成の背景がだらだらと続いて話しがちっとも進まない。
とうとう本書の後半では、一体何か起こってどう整理されているのか僕には全然わからなくなってしまった。
本書が言いたい事はつまり博物館の略奪はアメリカ兵が関与していたのではないかと云う一部の報道にたいする反論でありイラク戦争に対して全く反省のない自己正当化なのだ。
それも余りにも厚かましく、ひたすらそれを押しつけてくる。人を見下した目線。この人全く好きになれない。何かあってもこの人には側に来て欲しくない感じだ。
中東の一般市民がアメリカの攻撃を指して、テロとどこが違うのかと云うような事を繰り返し言っている事が報道されていたけど、これはどうなの?
サダム・フセインの独裁政治は問題があった。多くの人々がその圧政の下で酷い目に遭っていた事は事実だろう。
しかし、イラクに大量破壊兵器があると云う話は全くのでたらめだった。同時多発テロの首謀者やアルカイダを支援している証拠も希薄だ。
更に地球規模でイラク戦争前後を比べてみた時に、「良くなった」ようには全く見えないと思う。
わざわざ海を越えてイラクの地に土足でズカズカ踏み込んでいった事は完全に脇に置かれたまんまだ。
著者はモガディシオ侵攻の際に派遣されたデルタフォースのメンバーにも近いところにいる模様だが、となればアメリカの大統領は神が選ぶのだとかと公言するような人物であるウィリアム・ボイキンにも近い相当の右翼ネオコンなのかもしれない。
彼のあだ名は「ピットブル」なのだそうだ。
時として強硬な手段も用意する必要がある政府として必要な人材である事は確かだろうが、海兵隊や検察官など法を執行する立場の人間達の間でも実は煙たがられている存在である事を期待したい。
このような本をまるでインディージョーンズの冒険譚になぞらえて日本に紹介している出版社や書店って無責任なんじゃないかな。
読む必要のない本を掴んでしまいました。世の中にはこんな人もいるし、それに共感する人たちも大勢いると云う事で社会勉強にはなりました。
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「その数学が戦略を決める
(Super Crunchers)」
イアン・エアーズ
(Ian Ayres)
2008/07/13:今思い起こすととんでもなく前時代的な話だが、僕が会社に入った頃、配属された支店に導入された端末に表計算ソフトがセットされていた。
先輩諸氏に尋ねても使い方どころか、どんな使い道があるのかも不明だった。マニュアルを読んだりして漸く簡単な表を作ったりしたものでした。
それも慣れてくると超便利。あんな事やこんな事が出来ないかと試行錯誤したもののやがて限界が訪れた。
表計算の行数が256行しかなかったのだ。「外部計算」なんてのを無理矢理活用してなんとか使っていたっけ。
数年後その表計算ソフトがヴァージョンアップして行数が6千行に拡張された時はとっても喜んだものでした。
それがいまやエクセルは65,536行。アクセスを使えば10万行を超えるレコードの集計も自分の机や自宅で出来てしまう時代になった。
無い状態が想像できない程の革新と云うのが正にこの状態を指すのだろう。
この背景にあるのはコンピューターの計算速度の急進があるのは勿論だが、その他にあるものとして記憶媒体の容量の拡大があげられるだろう。昔の話ばかりで恐縮だが入社当時に使っていた記憶媒体は1MBで8インチのフロッピーディスクだった。
それ自体すごい発明であった訳だが、登場したのは1972年で最初は400キロバイトだったそうだ。これが約35年後の今やギガやテラバイト級のデータが扱えるようになった。その規模はなんと12万倍になるのだそうだ。
因みに小学校6年になる僕の娘が持ち歩いているiPod shuffleは殆どちょっと大きめのバッチくらいの大きさだが、その容量は1GBだ。
恐らくレコードに触ったことがない娘は自宅のパソコンからお小遣いで楽曲を購入しiPod shuffleに好みの曲を取り込んで聴く事を一人で全部出来てしまう。取り扱っているデータ量は僕が普段会社で扱っているものと遜色がない規模だ。
そしてもう一つ忘れてならないものはインターネットの普及だ。これも入社当時は想像も付かない「もの」であった訳だが、電話回線を使って細々と通信していたものが、今や自宅でも100MBを超えるような通信環境を作る事が可能になったのだ。
そして本当に驚くべき事はこのインターネットを使ってアクセスする事ができる膨大な情報量の拡大にある。ありとあらゆる経済指標や人口動勢、その気になれば伝染病や犯罪の発生数、降水量やベストセラー等、枚挙する事が不可能だ。
ちょっと前までは従来では考えられない程の規模のデータを使って統計分析手法を活用する事によってこれまでは気付けなかった、正確に行うことが不可能だった将来予測を正確に行う事が可能となったと云う訳なのだった。
本書は、この背景を基に今何が起きている、起ころうとしているかについて語った本だ。
1980年代のはじめに計量経済学の権威であるオーリー・アッシェンフェルターはワイン好きが高じて、ボルドーのヴィンテージワインの競売価格に相関する方程式を導き出した。
この方程式は生産年の降雨量や気温などによってそのワインがヴィンテージとなった時の価値をはじき出せると云うのだ。
これに対するボルドーワイン業界関係者達の反応は「激怒から爆笑の間ぐらい」と云うものだった。著名なワイン批評家達は経済学者に何がわかるかと、まして簡単な数式によってワインの価値がわかる訳がないと。それもしかも作っている段階でそれがわかるなんてとんでもないと。
しかし、この予測は結果が出始めると驚くほど正確に将来を予測している事がわかったのだ。
こうした直感や経験に基づく専門性の高い分野は今や次々とデータ分析に打ち負かされている。現在、企業や政府は、意思決定を大規模なデータベースと計量分析に頼るようになってきているのだ。
絶対計算とはなんだろう。
絶対計算とは、現実世界の意思決定を左右する統計分析だ。絶対計算による予測は、通常は規模、速度、影響力を兼ね備えている。
データ集合の規模はとんでもなくでかい。観測数の点でも変数の点でも。分析の速度も加速している。
データが出てきた瞬間に、リアルタイムで定量計算されることが多い。そして影響力もすさまじいことがある。
<目次>
序章 絶対計算者たちの台頭
第1章 あなたに変わって考えてくれるのは?
第2章 コイン投げで独自データを作ろう
第3章 確率に頼る政府
第4章 医師は「根拠に基づく医療」にどう対応すべきか
第5章 専門家vs.絶対計算
第6章 なぜいま絶対計算の波が起こっているのか?
第7章 それってこわくない?
第8章 直感と専門性の未来
今や金融業界では融資担当者の判断に頼るより、大規模な統計分析に基づくスコアリングの方がより正確な意思決定ができる事を知り役割分担を人間からコンピューターへの入れ替えが進んできている。
個人に対するクレジット信用与信判断の殆どは個人情報に基づくスコアリング判定によって瞬時に行われているのだ。
こうした革新は様々な業界に広がっている。
「根拠に基づいた医療」もその一つだ。患者に現れる様々な症状や変化からその病名や原因、それに対する適切な対処方法は一人の医師がすべての分野を網羅する事は困難だ。日進月歩する医療技術や薬について熟知する事も難しい。
しかし、こうした症状を入力する事によって最新のデータに基づき可能性のある原因や病名を分析する事ができるデータベースが整備できる環境が整いつつあるのだ。
これが完備されれば、目の前の医者の技量に左右されず的確な判断と最新最良の医学知見に基づく治療を受ける事が誰にでも可能となる訳だ。
一人の優秀な医師を育てるよりもずっと広範で効果的・効率的に命を守る事ができるようになるだろう。
また性犯罪者再犯率急速リスク評価(RRASOR)と云う絶対計算で作られたアルゴリズムによって特定の囚人を釈放するか引き続き措置入院させるべきかを決定する動きがある。
性犯罪者再犯率急速リスク評価(RRASOR)の判定が4点以上の場合、その囚人を釈放した場合、10年以内に性犯罪を再び起こす確立が55%だと云う事になるのだそうだ。
その判定要因を見てみるとそれは驚くほど簡潔なものなのだ。
1)性犯罪歴
なし: 0点
●罪状確定1回または起訴1〜2回:1点
●罪状確定2〜3回または起訴3〜5回:2点
●罪状確定4回以上または起訴6回以上:3点
2)釈放時年齢
●25歳超 :0点
●25歳未満:1点
3)被害者の性別
●女性のみ:0点
●男性も含む:1点
4)被害者との関係
●親族:0点
●親族関係なし:1点
出所:Jhon Monahan & Laurens Walker"Social Science in Law:Cases and
Materials"
9.11の時にブッシュ大統領は小学校で授業の見学をしていた模様が報道されていたが、この時見学していた授業は、ダイレクト・インストラクション(DI)と云う手法で絶対計算に基づきシナリオが完全に決められたる非常に効率の高い授業なのだそうだ。
この授業によって文章理解や成績がクラス全体で向上する事が認められており、先生はシナリオにそって授業をするだけ。先生の技量や技能が入り込む余地は殆どないのだ。
これも実現すれば、優秀な先生を育てるよりもずっと広範で効率的な教育が実施できるようになるだろう。
この絶対計算の適応によるパラダイムシフトは、映画のシナリオから興業収益を予測するような、ちょっと想像を超える「まさかそこまで」と云うような世界に広がってきているのだと云う。
では、専門性や経験に基づく知恵が不要になるのだろうか。
本書は絶対計算のその先にある、我々の未来をも提示してくるのだ。
コンピューターとインターネットのある世界。これを活用する事によって今、僕たちはこうした膨大なデータにアクセスしこのデータを使って気の遠くなるような面倒な計算を気付かないうちに出来てしまう時代に生きている。
それってこわくない?
コンピューターや統計分析に知識や経験が簡単に負ける訳がないと思う方も大勢いると思う。まして自分の専門分野の事について言われた時には尚更の事だ。
しかし、冷静に立ち止まって文章の最初に戻ろう。僕たちは計量経済学者を激怒と爆笑の間の反応によってあしらうべきなのだろうか。
真摯に耳を傾け新しい世界が本格的に到来する前に何か打つべき手を打ち始める必要があるのではないだろうか。
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