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中間期末も押し迫った9月の末、我が家のパソコンが突如故障、使用不能の状態に陥りました。即入院、最短でも二週間程の闘病生活です。その為、サイトの更新もままならない状況です。何より週末の手持ちぶさたで自分がボケやしないか心配です。2010年度も半分過ぎて振り返ると経済も政争も一向に収束した感もなく、今年の夏はもの凄い猛暑で体力も財力も疲弊し切った感じです。まぁ、ほんとに今年の夏は終わるのかとも思いましたが、それでもやっぱり秋がきて涼しいというか一気に寒いくらいになった訳ですので、必ずこの状況も抜け出せる時がくるでしょう。それまで歯を食いしばって、踏ん張って、がんばって行きましょう。

特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ-米軍兵士が見た沖縄特攻戦の真実(Danger's Hour: The Story of the USS Bunker Hill and the Kamikaze Pilot Who Crippled Her)」
マクスウェル・テイラー・ケネディ(Maxwell Taylor Kennedy)

2010/12/29:今はもう手元にはなくなってしまったが、かつて河出書房新社の『死者が語る戦争』と云う写真集を持っていた。今は新装されたものが出ているようだ。僕が持っていたのは、1983年版のやつだ。この本はタイトルそのもの、戦争による死者の写真集と云う非常に強烈なもので、思わず目を背けるような内容の連続。おいそれと他人に見せられるような内容ではなかった。本書に対して眉をひそめる人もおろうが、これこそ本当の、現実の戦争の悲惨さ、残酷さを語るものであると思う。

この写真集のなかで強烈な印象を残すものの一枚に、空母に特攻攻撃を行った日本人飛行士の姿を写したものがあった。空母の飛行甲板に仰向けに横たわっている彼は胸から下が引きちぎれてなくなっているのである。その傷口はむごたらしい状態なのだが、顔には傷ひとつなく、この上なく安らかな表情をしていた。

僕の父は15歳の時に、陸軍少年飛行兵へと自ら志願した。この時期の事をあまり詳しく聞いた事はないのだけど、志願したのはちゃんとご飯が食べられると思ったからだそうで、父の場合はグライダーのロープをジープで引いたりしているのを手伝ったりしている間に終戦になったようだ。

なんとものんきな話しにしか聞こえない訳だが、終戦が遅れれば生きて帰って来れなかった可能性は高く、そうなったら当然僕の存在もない訳で、例の写真に写っている特攻攻撃で亡くなった方と自分の父、そして僕という存在は鮮烈な対比として僕の心のなかに形作られたのである。

またこのような事情から強く想起されるのは特攻攻撃を行った人々の本当の気持ちが一体どんなものだったのだろうかという事だ。一体どんな環境、状況のなかで、彼らは自ら散る事を自分の生き様として、そして死に場所として駆けていったのだろうか。切迫した食糧事情がどんなものだったのか、飽食の時代に生きる僕らにはなかなか想像ができるものではないのだけれど、飛行兵に対する憧れのようなものももちろんあったと思う訳だが、ちゃんと飯が食えるらしいという事が直接の動機となって、飛行兵に志願する事と、特攻攻撃に志願し、更には実際に特攻を行うという事は全く次元の違う話なのではないだろうか。

本書、「特攻」が空母に対する特攻攻撃に関するノンフィクションだと知って思い起こしたのはこんな事であった。バンカーヒルはアメリカ海軍のエセックス級航空母艦。空母が本格的な戦闘にに導入されたのは第二次世界大戦が最初だが、登場するや空母は戦争の勝敗を左右する最重要な武力である事を示した。

空母の席捲、バンカーヒルの航跡は、そのまま日本海軍の敗走の歴史となる。1941年9月に進水したバンカーヒルは、、1943年11月、空母エセックス、インディペンデンスらとラバウルを空襲。12月にはニューアイルランド島カビエン攻撃で航空支援。1944年1月からはマーシャル諸島、トラック島、マリアナ諸島、パラオ諸島、マリアナ沖海戦、フィリピン攻略、レイテ沖海戦、そして1945年に入ると沖縄戦にも参戦し日本軍に大打撃を与えたのである。

また1945年4月7日には戦艦大和を爆沈させた攻撃にもバンカーヒルは参加しているのだ。


 戦艦大和の運命は、この戦争を象徴していた。その建造は大日本帝国の潜在能力を、その派遣は日本の絶望を、そして、その沈没は日本の荒廃、さらにはアメリカの国力、主導権が空母に移ったという事実を示していた。

 日本海軍の指導者たちは、この「不沈」戦艦を特攻に使う計画を立てていた。しかし大和は、何らかの攻撃に打って出るよりも先に、アメリカの空母によって撃沈されるのである。

 大和に与えられた指令は、あえて自ら座礁し、固定砲台として、上陸したアメリカ軍に巨大な砲弾を撃ち込むというものであった。その後、生き残った乗員は泳いで上陸し、陸戦隊として陸軍とともに戦うことになっていた。搭載されていた燃料は片道分だけ。3000名の乗員が乗り込んでいた。


この爆沈した軍艦を宇宙に飛ばすというもはや妄想のようなものが映画になったりしているみたいだけど、、海からも揚げられないのに海底で宇宙船に改造して宇宙へなんて、無理だっつーの。あ、脱線しました。

この空母と云う新しい戦争形体によって日本軍が切るカードは次々と破られ、後がない状態へと追いつめられていく。日本軍は戦闘機、軍艦、燃料、そして人材などあらゆる面で激しい勢いで消耗していくのである。

こうした背景から、やむを得ず生み出されたのが特攻だった。本書では、特攻を行う事を避けられないものとしてパイロット達にその志願を求める場面が描かれている。それはとても断れるような状況ではなかった。そして断ったとしても、結局は追い込まれてしまうのである。志願など本当に形だけのものだったのだ。

本書は日本の敗戦を辿る戦いを描いた一級のノンフィクションであり、同時に特攻へと追い込まれていく日本の若者達の最期の姿を見事に蘇らせていると思う。また後半は特攻により、発生した火災から死にものぐるいで脱出しようとする人々、バンカーヒル内部で拡大する被害を食い止めようと奮闘する人々を丹念に追っていく。600頁を越える大作でありながら中だるみする事もなく最後まで読ませる、読み物としてもなかなかのできでありました。

しかし、特攻と云う特殊な行為に日本人が走った背景として、天皇のため、国のために自らの命を捨てるという武士道精神があったと云うような事が書かれていたが、僕はこうした考えには同意できない。彼らは明治維新によって近代化を遂げた後の大正・昭和の日本人なのであって、その多くは武家ではなく農家や商家といった、ごく普通の家柄の人だったハズだからだ。或いは当時の教育勅語などによる教化がこうした精神的背景を培ったという事はある得るのだろうか。少なくとも、僕の父や祖父が天皇の為に我が命を捧げんとすると云う事は全く考えにくいという事だけは間違いない。

追いつめられた戦況を打破するため、後から追う仲間たちの為に攻撃の隙を作るため、そして自分たちの家族を鬼畜米兵から守るため、或いは軍神として散るため、何れにせよ彼らは圧倒的な火力によって張り巡らされた弾幕の間隙を縫って敵戦艦に特攻を行っていく。

バンカーヒルはこの特攻攻撃を受け、船体火災が発生、更には搭載した航空機や弾薬の遊爆によって乗組員は2600名のうち、戦死者346名、行方不明43名、負傷者264名と甚大な被害を受ける。バンカーヒルに搭乗していたこの2600名の大半もまた、アメリカの各地から呼び寄せられたいわばごく普通の人々であった。バンカーヒルは辛くも沈没を免れるのだが、それは仲間を救うために、命を犠牲にしつつも自らの使命を果たす事を選んだ人々の存在があったからなのだった。

著者は本書の冒頭で、特攻と近年立て続けに行われている自爆テロを比較し、自らの身を賭する文化の力というものがある事を理解すべきだと云うような事を書いていた。要するに、自分を犠牲にしてまでも守りとうそうとするものが文化の力によるものだ云っているようだ。この考え方にも僕は違和感を持つ。

僕には、この特攻へ向かった若者たちも、炎上する空母の底で、浸水と炎と有毒ガスのなかでボイラーを守りながら死んでいった人々も、思いもよらない事ではありながら、突如自分たちに与えられた使命を受け入れ、立ち向かっていったという点では同じなのではないかと思えて仕方がない。

特攻を行う事になった人も、そして自爆テロを行った人も、その文化的背景に何か非常に歪んだ特殊なものがある訳ではないと僕は思う。歪んでいるのは寧ろ、彼らをそこまで追いつめていった現実にこそ背景があるのだ。そして著者の書き方には、それほどまでに相手を追いつめておきながら、相手の立場に立って考える事ができないという文化的背景があるのではないかとすら感じてしまう。僕の読み違いなのかもしれないが、考えれば考える程この部分のズレはどうにも埋めきれない深い溝であるような気がしてならなくなってきた。

彼が書いているように相手の文化的背景を探る事で自爆テロは阻止する事ができるようになるだろうか。僕はそんな事にはならないと思う。自爆テロを阻止したければ、自分たちが彼らに加え続けている過剰な圧力を止めるしかないハズだからだ。力で相手の行動が変えられる訳ではないという事にいい加減気づくべきだと。彼らをそのような状況に追い込んでいったのは他ならぬ戦争そのものであり、それは一握りの人間たちのつまらぬエゴやプライドに辿り着く事を思えば、かくも空しいものはない事にも。

「死者が語る戦争」に掲載されていた一枚の写真は、本が手元にないので確認はできないけれど、バンカーヒルへの特攻攻撃を行った小川清ご本人のものであったのではないかと僕は今思うのでありました。

どうやら2010年の最後を飾る一冊がこちらりそうです。こんなささやかなサイトに訪問していただきました事に深く感謝しております。2011年も引き続き精進して行きたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。また、皆様によい年が訪れますように祈念しております。


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キリスト教成立の謎を解く―改竄された新約聖書
(Jesus, Interrupted)」
バート・D. アーマン (Bart D. Ehrman)

2010/12/23:クリスマスに向かう12月のこの時期に本書を読み、レビューを書いている自分はなんてへそ曲がりなのだろうとつくづく思う訳だが、決してわざとやっている訳ではなく、たまたま時期が重なっただけだと一言申し添えさせていただきます。

僕が通っていた中高一貫校はプロテスタントの学校で、僕はこの学校へ6年間通い毎朝礼拝に参加した。当時も今もキリスト教徒であったことはないのだけれど、居眠りしたり、落書きしたりして暇を潰していたりする事もなく比較的真面目に参加していた。

礼拝では、どのような基準で選ばれているのかは不明だけれど、毎回聖書から一節、朗読が行われる。聖書を手にするのも読むのも初めてだった僕はその朗読された部分の前後関係が気になって、後で読んだりする事もあった。

学校ではまた聖書に関する授業もあって、そこでは新旧の聖書について学ぶ訳で、授業の内容はもちろん登場人物たちや記載されている主な出来事も勉強する事にはなるのだけど、宗教色は思いの外低く、旧の聖書の成り立ちや構成、その意味合いといったものに軸足が置かれていた。

聖書の授業というのもまた目新しさもあって結構真面目に受講していたと思う。しかし、不思議な事に聖書の内容に近づけば近づく程、なんだか良く分からなくなっていくものがあった。

新約聖書にはイエス・キリストの物語と云うべき福音書が収められている。福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと云う作者らしい人の名前が冠されており、ヨハネによる福音書を除く三つの福音書は特に共観福音書と呼ばれている。共観福音書とは要するにかなり共通した内容になっていると考えてもらえばいい。

当然ながらイエスと云う一人の人物に関する物語なので、内容が同じくなるのは当然の事であるハズなのだが、礼拝で、授業で、そして興味本位での斜め読みをしていくと、あちらこちらで辻褄の合わない記述に出会う。出来事の前後関係が大きく違っていたり、居合わせた人たちの組み合わせが違っていたり、本人が言ったとされる言葉も違う、なんて事があるのだ。

文化的背景や時代が違う事もあろうが、福音書に限った事ではなく、新旧の聖書の記述は全体的にどこか茫漠とした部分があって意味不明、不可解な部分が沢山あるのだ。

そもそもイエスは復活したというが、その後どうなったのだろうか。復活して年老いて死んでいったのか、だとしたらその墓はどこにあるのか。復活し顕現した後で天に召されたのか。だとしたら墓から消えた肉体はどこへいったのか。福音書はこの肝心なんじゃないかと思われる部分に対する記述がどれもはっきりしない。

僕の疑問はさらに拡大し、これを読んでいるキリスト教信者の方々は何をどのように「信じている」のか、正直さっぱりわからなくなってしまったのだ。


著者のバート・D. アーマンは、かつては原理主義的なキリスト教信者であったと云う。プリンストン神学校へ進学し、歴史的、批判的手法を学び、聖書に含まれる数々の誤謬に気づいたと云う。それに伴い原理主義的スタンスから離れたものの、あくまでキリスト教信者として、信仰心を保ちつつも聖書の成り立ちを歴史学的スタンスから分析したものが本書だ。

このなかでは、聖書に含まれる僕には気づけなかったもっと沢山のそして重大な矛盾点がこれでもかと云う程明らかになってくる。こうした矛盾は何故生じたのだろう。本書はさらに、改竄され、自らの姿そのものも変えてきたキリスト教の変遷を遡り、原始キリスト教徒たちの姿を浮かび上がらせようと試みる。そこには黙示録的価値観や反ユダヤ主義、はたまたグノーシス思想など多岐にわたる主義主張、価値観を持った小集団たちの存在が見えてくる。


 同時代の黙示録思想家同様、イエスは、世界を二元論的に捉えており、世界は、善と悪の勢力に分けられていると考えていた。そして、彼によれば、現在はね悪魔や悪霊、病気、災害、死などの悪の支配下にある。しかし、まもなく神が、悪の勢力を駆逐すべくこの邪悪な時代に介入し、善なる王国、すなわち神の国を打ち立てるのである。神の国では、もはや痛みも苦痛も苦悩も存在しない。イエスの信者は、この王国の到来が間近に迫っていることを期待してもよいのだった。しかもなんと彼らが生きているうちに到来することを。王国は、(旧約聖書の『ダニエル書』7章13節から14節を暗に示唆して)イエスが「人の子」と呼ぶ、地上の宇宙的審判者によってもたらされる。人の子がやって来ると、地上で審判が下され、邪な輩は滅ぼされ、正しき者が報われる。苦痛と辛苦に苦しむ人びとは高められ、反対に悪に味方し、その結果、現在栄えている者は貶められる。したがって、民は自らの悪行を悔い改め、来るべき人のこと彼が目覚めた後に訪れる神の国に備えなければならない。なぜなら、その時は目前に迫っているのだから。


イエスが言った、もうすぐ、目前に迫った神の国の到来が現れず、弟子達やその孫弟子までもが亡くなる事態となって信者達は、イエスにまつわる言い伝えを再解釈せざるを得ない状況になっていった。福音書も含めた聖書は、イエスが生きた時代より後に、時代、時代の信者達や文化的価値観に合わせて書き換えられ、書き加えられてきたものだからなのだ。


 今日のキリスト教世界の一部、とりわけ、私がある時期関わっていたキリスト教社会では、宗教とは、すなわち死後の世界だけに関わるものだと考えられている。人々は、非常に個人的な見地からすると、天国での喜びを心底願い、地獄の猛火に焼かれることを極度に恐れている。私が出会った信者の多くは、死んだら、魂がどこかへ行くと信じている。

 イエスに始まる最初期のキリスト教徒は、天国や地獄が、死後に魂が行く場所だとは考えていなかった。つまり、このような天国や地獄の観念も、後世の産物なのである。


本書のなかで著者は原理主義的な信者であった頃を振り返り、彼も周囲の人も聖書こそ、神聖なもの、その全てが神の言葉だと信じているとしていながら実は聖書をちゃんと読んでいる人は少なかったと言っている。

原理主義者と云うのは、イスラム教でもキリスト教でも、聖典とされる内容を全て額面通り受けとめ、その教えに忠実たらんとすると云う考え方だと思っていたのだが、原理主義者が聖典を読んでないと云うのは一体どうゆう事なんだろうか。確かにちゃんと読んだらあちこち矛盾があるのはすぐにわかりそうなものなのにな。

思い返せば、僕はコーランもバガヴァッド・ギーターも経典も読んだ事がない。僕が死ねばほぼ間違いなく仏教のお寺に入るハズなのに経典そのものには触った事もないのだ。僕が持っている生死観は本当に仏教の考え方に沿ったものなのだろうか。僕が信じているものって一体何だろうか。


アーマンはそれでも、キリスト教に対する信仰は可能であり、自らも信者であると言う。もちろん都合よく改竄されてきたのは何も新訳聖書に限った話しではないだろうと思うし、だからキリスト教だけが信じるに足りないなんて事は決してないとは思う。

しかし僕は、このように根拠や証拠のないものを拠り所として、かくも永きに渡って啀み合い、血と暴力を生み出してきたものを信じると云う意味が解らない。世界を創り出し、人間を生み出した神がいるなら、このように憎しみ合い血を流し合う事を望んでいるなんておかしな事だと思う。こんな風に考えるのは不信心で罰当たりな考え方なのだろうか。この綿々と続く暴力は止む気配すらなくこの2010年も暮れていこうとしている。

僕に何か信じるものがあるとすれば、それはいつか僕たちは多様な価値観を持つ隣人達の存在をありのまま受け入れ折り合いながら生きていく事を学ぶことができるハズだという事だ。メリー・クリスマス。

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土の文明史
(Dirt: The Erosion of Civilizations)」
デイビッド・モントゴメリー (David R. Montgomery)

2010/12/12:僕の父の生家には裏山があり、境もなにもないその山はそのまま奥羽山脈に通じ、人は住んでいないような場所だった。そんな環境に生まれ育った父は山の動植物や環境に通じており、川では魚を獲り、山菜やキノコを見極めて、火をおこして食べて生きていける正にネイチャーライフな人だった。車椅子生活になってしまった今でも、行きたい場所の最高位は実家の山なのだ。

そんな父に育てられた僕は、よく一緒に山菜やキノコを獲りに行ったり、ワカサギ、ドジョウを捕まえに行ったり、山スキーみたいなことに連れて行ってもらった。運動は人並みでも、僕は山の生活に馴染めなかった。まず虫が苦手なのだ。触るのも嫌。その上、山菜やキノコの判定眼は最早音痴と云うべき状態で、いくら教わっても覚えられなかった。そして極めつけは、激しい杉花粉症。季節に山に入るとクシャミや目の痒みが耐えられない状態になってしまうのだ。山菜やキノコの群生地は親や兄弟にも内緒の秘密の場所。そこでドリフターズのコントのようなクシャミを連発する僕を父は、息子としては容認できても弟子としては破門するしかなかった訳で、無理無理連れていこうとはしなくなっていった。そんな訳で、僕はネイチャーライフとはかなり縁遠い場所で生きていくのが自分にも合っていると思っている。

唯一自然に触れあう機会と云えば、カミさんがベランダで育てる草花の手入れに付き合う事ぐらいだ。名前はわからないが、カミさんが選んだ草花の植え替え、特に鉢植えの土の入れ替えのような重労働系は大抵僕の役割だ。ひとシーズンキレイな花をベランダで咲かせてくれた鉢の土は目に見えて衰えており、新しい土と混ぜて使うことも憚られる程の疲弊ぶりで、素人の僕らには手の施しようがないように思える。

こうした古い土はゴミに出すしかない。土をゴミに出すと云う行為には激しい違和感を覚えるものがあるが団地暮らしの僕らとしては他に方法がないのではないだろうか。底石を引き、買ってきた土に化学肥料を混ぜ込み、鉢に移す。しゃがんでする作業は不慣れなので、長時間やると翌日から腰やお尻が筋肉痛になる。


近所のDIYセンターで袋詰めになって土は買ってきた時には黒々としてまたしっとりしてふかふかで活き活きとした、そう父の実家の裏山の森の木の下に広がる地面と同じ感触を持っていたのに、シーズンを越えた土は、ゴロゴロとした石が目立つ、灰色の乾いた河原のジャリのような質感になってしまっている。

どうして鉢植えの土は衰退してしまうのに、地面の土地はそうならないのだろうか。一つには毎日の水やりで、細かな土の粒子は絶え間なく流出していく。当然ながらベランダの側溝にはうっすらと土が溜まってしまう。そしてもう一点、鉢植えの土には植えられた植物以外の生き物がいないからだ。ミミズも微生物もいない土は植物に養分を奪われるだけで補填がない。だから一定期間が経過するとからからな感じに衰退して回復不能な状態になってしまうのだ。

これはあくまで小さい規模で隔離した状態で素人がお遊びで土いじりをしているからなのだろうななんてことも感じていた。ちゃんとした地面で、農業を生業に土地や土を守っていることに長けたひとがやればこんなお粗末なことにはならないハズだ。なんせ日本では代々受け継がれた土地を守って農作を続けてきた人びとが大勢いるではないか。

しかし、人類の歴史を土の面から見直してみると農作を発明した黎明期からこれまで、われわれ人類は決して土地も土も大切に扱ってきたとはお世辞にも言えない状況であることが明らかになる。寧ろわれわれ人類は技術と知識の不足から農地を荒廃させ、土壌を浸蝕と疲弊に陥らせては移動するということを繰り返し、耕作可能な場所を小さくしてきたとも言えるのだ。

そして、この土地の浸蝕と疲弊によってもたらされる栄養不足が奪い合いや競争を生み人類の歴史を形作ってきたと云う事すらできるのだ。しかもそれは大昔の話しではない。今でもそうなのだ。


 人類はすでに地球上の持続的に耕作できる土地をほとんど耕作しているので、地球温暖化が農業システムに影響を及ぼす可能性が気にかかる。気温上昇の直接の影響だけでも十分に心配である。『米国アカデミー紀要』に掲載された最近の研究は、生育期の平均日最低気温がわずか1℃上昇すれば、コメの収量が10パーセント減少すると報告している。類似の予測がコムギとオオムギにも出ている。収量への直接的影響にとどまらず、今後1世紀で1℃から5℃の気温上昇を予測した地球温暖化シナリオは、さらに大きな危険性をはらんでいる。


本書では、アメリカ国内で1790年代から奴隷制度を伴って西に拡大していったのは、タバコや綿花による単作農業による土地の荒廃が背景にあったことを明らかにする。使いものにならなくなった土地を棄て、西に拡大する以外に手はなかったのだ。そして西への拡大には労働力が必要だった。

リンカーンが奴隷制拡大に反対した時、南部では奴隷制によるプランテーションではなく、奴隷そのものの繁殖が生業となっており、個人資産の約半分が奴隷そのものになってしまっていたという。奴隷制度の廃止は資産の半減を意味するものだった。

土地の生産性を上げるため工夫としてグアノの投入が発見されたのは、こんな時期だったようだ。グアノとは、海鳥の死骸・糞・エサの魚・卵の殻などが長期間(数千年~数万年)堆積して化石化したもので、ペルーの離島チンチャ諸島で大量に堆積していることが発見されアメリカに持ち込まれた。

これを土壌にすきこんでやることで痩せた土地は力を戻し生産性が大幅に向上した。アメリカ農業はこのグアノの導入を積極的に行うことになっていくのだが、結果、ペルーのチンチャ島の徹底的な掘削により、値段の高騰、そして掘り尽くしてしまうまでに至っていく。

このグアノを求めてアメリカ合衆国は、人の手に落ちていない海外の離島を占有すべきグアノ法という法律を打ち立てて、捕鯨記録を漁り、100以上の離島を自分のものだと宣言していったのである。

こうしたお祭り騒ぎも化学肥料の登場により、新しいパラダイムを向かえる。人工的に合成した窒素やリンの効果的な投入によって人類の農業生産性はかつてない程に高まった。著者が云う栄養の消費者への一方通行である。土には何も戻らず与える必要もないまま欲しいものを獲っているという訳だ。

欲を言えばもう少し話しを纏めて書いて貰えると読みやすかったんだけど、話しがあっちこっちへ飛ぶのでなかなか集中できない本ではありましたが、示唆していることは大変重要なことなのでありました。

地球の表面の耕作可能な土地は非常に小さい。こうした土地で永続的に持続可能な生き物の数は一体どのくらいの数なのだうろか。僕はこの本を読んでいる間、繰り返しベランダで生気を失ってしまった土の手触りや光景が浮かんできた。DIYで売られているあの土はどこからやってきたのだろうか。僕たちの地球がこの鉢植えのような状態になってしまうのではないかと考えるのはあまりに過剰な心配なのだろうか。


我々は何かを犠牲にしなければ生きていけない生き物である訳だが、だからと云って欲しいものを欲しいだけ手に入れることはできない。子供たちやその孫たちも生きていくに十分な環境をを残すことは我々の義務なのだ。


「岩は嘘をつかないこちら>>

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ベスト&ブライテスト-栄光と興奮に憑かれて
(the Best and the Brightest)」
デイヴィッド ハルバースタム(David Halberstam)

2010/12/05:似たようなことを何度も書いてしまうが、9.11の事件後様々な情報を収集していく過程で、アメリカ合衆国という国がいつの間にか大きく変質してしまっていたことに大きな衝撃を受けた。

1963年生まれの僕らの世代は日本の高度成長に合わせて大きくなった。子供の頃テレビドラマでも映画でもアメリカの暮らしぶりがどこもかしこも素晴らしく、それに比べて日本の暮らしぶりのどこまでも垢抜けない不格好さを覚えずにいられないものがあった。

それに何より、格好いい、モダンであるばかりか、アメリカ合衆国の発するものには何より公正さと正義といったものがあったと思っていたのである。

そのアメリカを向こうに回して戦争を起こした悪い日本。しかし、学校の歴史教育では、日本が戦争に突入した理由も事情も全く触れることなく幕を引く。
なんて不正直な行為なのだろう。ベトナム戦争に反対するアメリカ国民感情の高まりと、日本の歴史教育は同時進行で僕の前を通りすぎ、だから日本はダメなんだよな。等とわかったような口をきいていたものだ。

ちゃんと近代史を辿り直す必要があると思ったのは、この9.11の事件がきっかけになった訳だが、いろいろな本を読んでいくうちにだんだんとわかってきたことは、正義と公正さに満ちあふ れているとばかり思っていたアメリカ合衆国は実は自らがそう見られるために生み出した幻想に過ぎず、今も昔も変わらず、綿々と一つの価値基準に沿って頑なに行動し続けている国なのであって、その価値基準とは、世界のためでも、合衆国国民のためでもない、極一部のエリート層にとって最も都合のよい、富と権力を集中化させるために行う必要のあることを行うというものなのであって、極端なことを言えば、「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」的な行動基準に沿ったものなのだということだ。そしてその目的を達成するためには、手段を選ばす、他 人はおろか、政府機関や、国民を欺いてでも実行する必要があることは断固としてやるのである。

過去をなぞる読書の旅は、許される時間が限られていることから、自ずと大づかみになってしまう訳だが、その中でなんとしても読みたいと思う本の中には、ハルバースタムの本が二冊、朝鮮 戦争とベトナム戦争をテーマにしたものがあった。

どうせ読むなら現実の時間軸に沿って読んでみたいと思ったのだ。4月に「ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争」を読んで、漸く今「ベスト& ブライテスト」を閉じることができた。

ベトナム戦争に関する本はこれまでも何冊か本を読んでいたのだが、今念頭にある僕の思いは、なんでこれをいままでほったらかしにしていたのか意味がわからないというものだ。

最初からこの本を読んでおれば、こんなに遠回りすることはなかったのではないか。そんな気分だ。単にベトナム戦争に限ったものではない。これを読まずしてあの時代の何を知ったと言える のかとすら言えるものがある。

ケネディ政権の時代、国民は皆、今アメリカは神々の栄光に輝く偉大な時代に入りつつあると云うような大きな期待感に包まれていたとハルバースタムは言う。正義と公正さに満ち、最高の 英知と頭脳が集められ、世界をリードする偉大なアメリカ。アメリカ国民であることは誇りなのだった。

しかし、彼らは道を誤る。それは、支援し続けていたフランスのベトナム植民地戦争が泥沼化していったことを、反共のフィルターをかけて見てしまったことに端を発する。この背景には中国の 共産化によってもたらされた衝撃があったという。アメリカ人は中国を愛していた。何故なら、悪い日本人が蹂躙したことの裏返しであった。

悪いやつにやられている者は助けるべきで、その相手は弱く、そして正しい。アメリカは中国に愛と善意を持って助けに駆け付けた訳だが、あろうことか中国は共産化してしまった。


 中国の崩壊、マッカーシーの台頭、朝鮮戦争の勃発という三つの事件は一つの大きな流れとなって、アメリカの国や政治に、そしてやがて対外政策に深刻な影響を及ぼしていくのである。

 国の如何を問わず、それが共産主義化することのアメリカに与える影響は次第に大きくなっていく。新政権が生まれるたびに、アメリカは反共を唱える小さな独裁政権からも脅しをかけられて いくのであった。トルーマン・ドクトリンに見られる反共主義のレトリックは、1947年でも、さほど抵抗なく受け入れられたが、いまやそれは熱狂的な反応を引き起こしていた。そして歴代のアメ リカ政府は自らそのレトリックの虜となっていった。アメリカの世界観は、そのために微妙な変化を見せていた。とくにインドネシアの場合がそうであった。


ベトナムが共産の毒に犯されるのを何としてでも防ぐ必要がある。中国の二の舞はごめんだ。アメリカ政府はそのような目線でベトナムを解釈してしまった。実際に北ベトナムは共産主義的というよりは、むしろ民族主義的であった訳で、ホー・チ・ミンは利害や損得、権力や金を目的とした政治家ではなく、真に民族独立を目指す革命家であった。

この解釈がずれたまま、フランスの肩代わりとしてアメリカはベトナムに侵出していってしまうのである。北に対峙している南ベトナムのジェム政権やマダム・ヌーが如何に腐敗しているか、ジェム自身がカトリック教徒でフランス語を話すおよそ仏教徒の国であるベトナム国民の信頼を得られる人物ではなかったことは完全に無視されたのである。


関係略年表

1941/ 5/19 ベトナム独立同盟(ベトミン)創立
1945/ 2/ 4 ヤルタ会談
      9/ 2 ホー・チ・ミン首席、ベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立宣言
      9/23 仏軍、サイゴン制圧
1950/ 6/29 米、サイゴンに軍事援助顧問団を設置
      7/ 6 ディエンビエンフーで仏軍降伏
      7/21 サイゴンにゴー・ジン・ジェム政権(南ベトナム)樹立
      9/ 8 ジュネーブ協定調印(カンボジアとラオスの独立、仏軍撤退)
1955/10/26 ベトナム共和国宣言、ジェム初代大統領就任
1960/11/ 8 ジョン・F・ケネディ、第35代大統領に当選
     12/20 南ベトナム民族解放戦線(いわゆるベトコン)結成の宣言
1961/ 1/20 ケネディ大統領に就任
      2/15 南ベトナム人民解放戦線発足
      4/17 キューバ侵攻作戦失敗(ビッグス湾事件)
1962/ 2/ 8 米、南ベトナム援助軍司令部設置
     10/22 キューバミサイル危機
1963/11/ 1 南ベトナムで軍事クーデター(ズオン・ヴァン・ミン将軍中心)
     11/22 ケネディ大統領、ダラスで暗殺される。ジョンソン大統領就任 
1964/ 8/ 2 米駆逐艦、北ベトナム哨戒艇と交戦(トンキン湾事件)
      8/ 4 ジョンソン、北への報復爆撃命令(米軍のベトナム介入)
1965/ 1/22 サイゴンで反米デモ
      2/ 7 米機、北ベトナムのドンホイを爆撃(北爆開始)
      3/ 2 米機の恒常的北爆開始(ローリング・サンダー作戦)
     10/15 米国内のベトナム反戦運動が始まる
1966/ 4/ 1 南ベトナム各地で反政府デモ激化
1967/ 8/ 8 東南アジア諸国連合(ASEAN)結成
     11/29 マクナマラ国防長官更迭
1968/ 1/30 北・解放戦線がテト攻勢開始、南部主要都市を一斉攻撃
      3/16 南ベトナムのソンミで米軍による村民大虐殺事件起こる(ソンミ事件)
      3/31 ジョンソン大統領、テレビ演説で大統領選挙不出馬を表明
     11/ 6 ニクソン、大統領選挙で当選
1975/ 4/30 南ベトナム、ミン政権、無条件降伏、北ベトナム軍、サイゴンへ無血入城、ベトナム戦争の終結




JFK、マーティン・ルーサー・キング、そしてロバート・ケネディが暗殺され、反共の狼煙があがり、アポロが月を目ざした。大きく国が揺れ動いたアメリカ。

その爆心地がベトナムとの戦争だったのである。この衝撃は、国内の人種間のみならず、世代間の対立をも激化させ、アメリカと云う大国に醜い大きな傷跡を残すことなった。

そしてさらに実はこの戦争の突入に際して、合衆国政府は大統領に対し、宣戦布告なき地域限定戦争の権限や、議会を通さない隠密作戦の実行にに対する白紙委任状を渡してしまったのである。

議会も国民も知らないところで、誰にも邪魔されずに迅速に物事を進めていく。大丈夫。俺らに任せろ。そしてアホはすっこんどれ。と云う訳だ。


 何年か後、「ペンタゴン・ペーパーズ」として知られる当時の歴史文書を精読した、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハンが、とりわけ強い印象を受けたのは、政府の中に、いま一つ、奥の 院的政府がある。これは、「何よりも強力な中央集権的国家であり、その敵は、ひとり共産主義者にとどまらず、アメリカの報道機関、アメリカの司法、行政機関、かつまた友好諸国に及ぶ、 これらはすべて潜在的敵対者とされる。この奥の院は、政府の他部門と報道機関に対しては、反共主義を武器として、その生命を維持し強化している。この閉ざされた内なる政府は、必ずし もアメリカ国家のために機能しているのではなく、それ自身のために、己れの存続と強化のために機能している。そこで用いられている信号は、一般の信号ではなく暗号である。秘密主義が 保身の道となる。その保身とは、外国政府の脅威からではなく、彼らの能力と英知を疑う公衆の目から、身を守ることなのである。」

 政権が交代するたびに、新政権は前政権の弱点を暴露しないよう気を配る、とシーハンは言う。結局のところ、本質的には同じ種類の人間が政府を動かしているのであり、そこには連綿たる 継続性がある。次々と生まれる政府は、同じ相手を敵としているのだ。かくして、安全保障政策の機構は、この連続性を維持し、去りゆく大統領は新しい大統領のために人びとを結集しようと する。

 このような状況の中で、陰密工作を意に介さない態度が生まれるのは当然であった。共産主義を相手とする以上、これは、時代が要求するところである、というのである。国民や議会が知ら されていない、ということは、そして重要な問題ではなかった。むしろ、知らされていない方が都合が良かった。そうであれば、民主体制の特権と優越性を十二分に享受できる。スティーブンソ ンが国連で嘘をつくもの、やむを得ないではないか。その方が結局は国民のためになるし、論説主幹の都合にも合うだろう。高等学校の卒業式で記念講演をする人の都合にも合う。彼らは、 アメリカが他の体制と違うことを謳うのだ。それでよい。ワシントンで働くわれわれ選ばれた少数が、汚い仕事を引き受けよう。これこそ公衆に対する奉仕なのだ。


僕は少なくともアメリカはベトナム戦争の結果に真摯に向き合い何らかの形で反省をしていた時期があったのだろうと思っていた。しかし、近年の事件を振り返るに合衆国はこのベトナムの経 験を生かし、反省したとすれば、もっと巧妙に行動すると云う意味でのみであったこと。中南米や中近東、アフリカで起こっている国際情勢をみれば明らかなように傲慢な選民思想のさらに上 に立つエリート層による隠密活動によって世界を動かそうとしてきたことには、一時停止も減速もなく拡大し続けてきたのである。

ハルバースタムの本の右に出る本はない。これぞジャーナリズムだ。しかし、そのあまりの無力さを考えるにこれ以上肝の冷える話しもないのではないかと思うのでありました。


「ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争」のレビューはこちら>>


「輝ける嘘」のレビューはこちら>>


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東京水路をゆく ―艪付きボートから見上げるTOKYO風景
石坂善久

2010/11/28:パソコンには2008年5月1日運動不足解消のため、ふとデジカメを持って自転車で出かけた時の写真がある。前後の写真をみると舞浜を回りこみ旧江戸川に沿って行徳の外周を走り、妙典から河口へ向かい湾岸道路を走って帰ってきたようだ。25㎞前後は走っている勘定だ。積もりに積もった運動不足のため身も心もへとへとになったものでしたが、見るものすべて物珍しくあっちこっちの写真を撮って歩くというのはものすごく楽しかった。

この時撮った写真のなかには、とても不思議な建造物があった。それが水門だったのだ。調べてみて出会ったのは、Floodgates[水門] や「行徳雑学館」と云った素敵なサイトでした。そこでわかったのは、自分が暮らしている東京の西側というのは、運河が縦横に走り、橋や水門が密集しているということだった。首都圏に暮らして10年にもなるのに、こうした事に全く目が向いていなかった。街を車で走っている時も橋のことなんて改めて考える事もなくすごしていた訳だ。


送信者 水門と橋その2


Floodgates[水門]は「恋する水門」と云う写真集を出版されているプロの写真家の方のサイト。ご本人が丹念に訪ね歩いた水門が紹介されているという直球の内容です。本格的に水門の存在を認識し学ばせていただいた、走る際に目指すべき目標がこんなにも沢山ある事に気がついたという恩人のようなサイトです。

http://www.kohan-studio.com/fg/


「行徳雑学館」は行徳在住の方による葛西・江戸川地域のサイクリングの実際について、これまた非常に丁寧に紹介してくださっているサイトで、こちらで得た情報を活用して出かけた事も一度ならずありました。

http://gyotoku-z.la.coocan.jp/index.htm


そもそも二輪好きだった事もあって、こうした川や運河を自転車で行き、水門や橋巡ってみるというのはなんともワクワクする事なんじゃないだろうか。これは一つの発見、大発見でありました。そして実際に走ってみて出会ったのは想像以上に仰天・瞠目するような光景だったのでした。

暇を作っては走る自転車の旅は、距離を稼ぐために地図でルートを必死で考え、自転車の乗り方、踏み方を一から学び直す機会を作りました。そのお陰で今、50㎞程度なら午前中にひとっ走りしてくる事が可能な体と、行きたいと思った場所にはほぼ地図なしで走る地理感覚を与えてくれました。

またもっと重要な事として、川・運河そして江戸の歴史、治水の知恵から都市計画といったこれまで全く知らなかった知見に出会うきっかけともなりました。それらの知見は僕らが江戸の歴史によって生み出され維持されてきた基本的なインフラの上で暮らしている事を教えてくれた。これは正に人生を変えたと云っても過言ではない出会いであったと思います。

行きたいところは沢山あるが、自転車で走れる距離には当たり前だが限界がある。輪行するなんて云う手段を使うとか、水路を船で巡るのはまた一段違った心躍る行為なんだろうななんて頭をよぎらない訳がない。水門は通ってこそ本来の使い方な訳で、僕はあくまで傍観者なのだ。なかでも「水路をゆく」は自転車ではけっして見ることのできない光景をずんずん行ってしまうので、ハンカチを噛んで悔しい思いをしながら拝見していたブログでありました。

「水路をゆく・第二運河」

http://suiro.blog27.fc2.com/

いっそ船の免許を取ってしまおうかなんて事も思ったりした事もあったのだが、今は自転車に的を絞る事にした。たとえ手段を変えて範囲を拡大しても、水門や橋をすべて回る事は不可能だからだ。所詮全うする事が不可能なのであれば、自転車で自宅から自力で行く場所をストイックに広げていく事にこそ価値があると思ったからだ。

本書は随分とお世話になってきた「水路をゆく」の筆者、石坂善久氏の本だ。これに飛びかずにどうする。貪るように読んだ。石坂氏はなかで、「自分の艇で行ける」事こそ重要だと仰っておりました。やっぱりな。そうだよな。それは正しいと激しく頷きました。先を焦って何でもありな手段に出るのはやはり邪道だと。僕は自分の力で自分の道を行きましょう。

本書は艇で運河を巡ろうと考えている方のガイドにもなるような書き方をされており、澪筋など航行の知識のない門外漢の僕にはピンと来ない部分もありましたが、橋や水門をランドマークとして走っているのは自転車も一緒。そのワクワク感と楽しさも深く共感するものがありました。また船から目線ならでは運河や、蒸気船、橋の歴史など新しい視野を与えてくれるものも沢山ありました。

特に運河はその名称すらおぼつかないものがありましたが、本書のお陰でかなり詳細を把握する事ができました。
早速、グーグルマップに落としてみました。



より大きな地図で 川と運河マップ を表示


運河や川の名称が明確になった事で、これからの旅はまたひと味も二味も違う出会いを生んでくれることでしょう。なんかもっとワクワクしてきちゃいましたよ。


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捕食者なき世界
(Where the Wild Things Were)」
ウィリアム・ソウルゼンバーグ(William Stolzenburg)

2010/11/21:読み終えた段階で既に消化不良だったがメモを整理して、更にネットで背景を調べてみて大きく膨らんでくるのはあくまでも混沌と混乱だ。

本書は、食物連鎖の自立した安定的・長期的継続には、キーストーン種、或いはトッププレデータとか呼ばれる特定の種の存在が欠かせず、このキーストーン種がなんらかの形で駆逐されてしまうと、その場所の食物連鎖は当然ながら崩壊してしまうという事について、その概念そのものと、実例。そしてそれを発見した経緯が書かれているのだが、同時進行で全部書いているので、読み手としては何が進んでいるのかなかなかよく解らない。

その上に、このHSSとか、トッププレデターをはじめ、食物環、栄養カスケードと云った言葉が踊るが、どれも定義が曖昧。この本でしか使われないようなものは寧ろ単なる造語で言葉の遊びではないのかと言いたくもなる。


 この世界の陸地が緑なのは---つまり、大部分が植物に覆われているのは---、草食動物がすべての植物を食べ尽くすことがないからだ。そして草食動物がこの世界を土だけの世界にかえてしまわないようにしているのは捕食者だ、というのがHSSの見方である。


 「栄養の複雑さと群集の安定性についての覚書」という謙虚なタイトルで、そのなかでペインはヒトデのような重要な種---つまり比較的、少数でありながら、それを補って余りある影響力をもつ種---を表現する言葉を作った。「キーストーン種」である。キーストーン(要石)とは、石造りのアーチを築く際に、最後に頂点へ打ち込む楔形の石のことで、周囲の建材が崩れないように締める役割がある。つまり、キーストーン種を生物からなるアーチから取り除くと全体構造が崩れるほど、その影響力は大きいのだ。この言葉ができたことによって、群集生態学の用語集には強力な概念が新たに組み込まれた。ペインが海で見つけたきらきら光る星は、まさにその概念を体現していた。


こうした文章の前後を目を皿のように読んでも、定義そのものには辿り着けない。キーストーン種については、キーストーン種の定義ではなく、キーストーン(要石)の説明をしてたりしてる。と云うか辿り着けないように書いているとしか思えない。

また、本書はネルソン・G・ヘアストン、フレデリック・E・スミス、ローレンス・B・スロボトキンが書いた論文「群集構造・個体群制御および競争」が核となっているハズなのだが、この三人の情報を辿る事すら困難なのだ。本としての不親切さについては余りに残念だ。


本来、真摯に受け取るべきテーマで在るはずなのに、こうした言葉の選び方や背景や定義が不明瞭なため、かえっていたずらに不安を煽るような書き方をしているのではないかと云うような気すらしてくる。大変重要なテーマならもっとちゃんと整理して料理してから出すべきなんじゃないかと思ったら、この本は「ハチはなぜ大量死したか」と同じ出版社なんだそうだ。

なるほど、全く同じトーンだこの二冊。人の目をひく現象を事実関係がはっきり解る前に適当に纏めて我先に本出しちゃう人たちだったという訳だ。
二冊に共通しているのは後半になるとグダグタ感を増し、最後には何を言っているのかよく解らなくなってしまう点だ。

ちゃんと知りたきゃ、別の本を読まれる事をお勧めします。


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豊かさの向こうに―グローバリゼーションの暴力
(The True Cost of Low Prices: The Violence of Globalization)」
ヴィンセント・A. ギャラガー(Vincent A. Gallagher)

2010/11/14:本書はヴィンセント・A. ギャラガーと云う方が書いた本だというが、どうした訳か本にもネットでも著者の略歴が殆ど書かれていない。信条や主義主張が見通せない本書をやや腰が退けた状態で読み始めた。最近とんでもないデタラメが紛れているのでこれまで以上に注意が必要になってきたように思う。

訳者あとがきによれば、ヴィンセント・A. ギャラガーは、ニュージャージー州カムデンにあるロメロ・センターでグローバリゼーションと暴力についての講義を長年務めた人だという。ロメロ・センターは、1980年にエルサルバドルで暗殺された大司教オスカル・ロメロに因んで名付けられたものだ。

もう少し云うと、ロメロは政党や教義の枠を越えて内戦における人権侵害に立ち向かい、アメリカ合衆国にもエルサルバドルの政権を支持する事をやめるよう進言もしていた人だ。彼はミサの最中に狙撃されると云う余りにも非道な手段によって暗殺されたが、この暗殺を実行していた犯人たちは、アメリカ合衆国で訓練・指導を受けていた者たちだったのだ。ドン・ウィンズロウの「犬の力」では、このロメロを彷彿とさせるようなファン・パラーダという牧師を登場させたりしていた。このロメロの事件について調べてみたいと思っているのだけれど、なかなか適当な本が見当たらない。ロメロの事は日本ではあまり知られていないのではないだろうか。


第1章 隠された暴力に目を向ける
第2章 ネオコロニアズム---より低賃金の労働者を求めて
第3章 発展の道具か、暴力の道具か?---国際金融機関
第4章 貧しい人はいま
第5章 世界銀行とIMF
第6章 不正義の構造
第7章 グローバル経済下の奴隷
第8章 食糧危機を招いているもの
第9章 女性と子どものこの実態
第10章 ラテンアメリカ労働者への暴力---エルサルバドルで、アメリカで
第11章 人々を解放する神学を
第12章 苦しみの現実への目覚め
第13章 私たちにできること
エピローグ あなたが知ってさえいたら


また、ヴィンセント・A. ギャラガーは労働災害や健康障害を防ぐ仕事や、世界銀行やWTO等の依頼に基づき調査を行うような仕事もしていたらしい。本文中には国務省の依頼に基づきエルサルバドルの労働環境について調査をした際に、労働者を構造的に保護する仕掛けがない事を指摘したところ、二度と依頼がこなくなったと冷笑的に述べていました。

また、こうした合衆国の南米諸国に対する調査やプロジェクトの背後にはCIA等の組織が入り込んで、合衆国の息が掛かった思い通りにしやすい社会や政府を作ろうとしていた事にだんだん気がついてきたというような事も述べられていました。


 植民地時代、イギリス、フランス、イタリア、スペインその他のヨーロッパ列強は、アジア、アフリカそして南北アメリカに兵士を送りました。資源、労働と食糧を支配し、搾取するためです。また銃と奴隷制度を利用して、以後植民地になる国々を政治的、経済的、軍事的に支配する土台を築きました。今日、力を持った同じ国々が、当時と同じように政治的、経済的に弱い国々を支配しています。この新たな時代は、ネオコロニアム(新植民地主義)と称されることもあり、G8という最も強力な八カ国、つまりアメリカ、イギリス、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本とロシアによって動かされています。


 新植民地主義は、富も権力もある国々に支配されている巨大な国際金融機関によって支えられています。その代表例は、国際通貨基金(IMF)、世界銀行(WTO)です。世界銀行はお金を出し、IMFとWTOは規則を定めています。新植民地主義の根底には、新自由主義という思想があります。つまり、グローバル企業は政府による制約を受けることなく活動できるという考え方です。国際金融機関は発展途上国との間で資金的。法的な取り決めを結び、多国籍企業が安全で安定した投資を行うことが出来るよう、基盤づくりをします。その結果、より多くの製品や食糧が裕福な国々に輸出され、発展途上国の中でも格差が生まれ、借金が増えました。中には、借金の一年分の利息だけを払うために、税収の40パーセントを充てている国すらあります。


学生たちに講義をしていた内容が基礎になっているという事があるのかもしれませんが、非常に読みやすく、分かりやすい内容になっています。


 世界銀行が説明する貧困とは何かを考えるとき、私たちは貧困がどう定義されているかに気をつけねばなりません。世界銀行は貧困のラインを一日一ドル、年収370ドルと勝手に定めています。そのため一日一ドルと10セント稼ぐ人は、世界銀行によると「貧しくない」とされるのです。一日一ドルという基準では、全世界の人口のうち「貧しい」に分類されるのはわずか19パーセ ントにとどまります。

 実は、貧困国の生活必需品の価格は、アメリカや西ヨーロッパ諸国とそう変わりません。通貨の切り上げと「自由貿易」により、今や多くの第三世界の都市における生活費はアメリカよりも高 くなっているのです。私の経験で言っても、ラテンアメリカやハイチでは肉や魚、野菜の価格はアメリカと同じくらいです。みなさんには、一日一ドルで食べていくことを想像できるでしょうか。一 日一ドル10セントの生活費がある---食べ物、衣服、家すべてあわせて---からという理由で「貧しい」と認められなくなってしまうことを想像できるでしょぅか。


そして私たちが当たり前だと思っているこの豊かな社会の向こうがわに実は悲惨で希望のない日々を送り、そして多くの死を生み出している社会がある。そしてその社会と僕らの社会がどのようにつながっており、我々の社会が進む事でその悲劇が拡大していく事がひしひしと伝わってくるものになっているのだ。


 ラルフ・ネーダーが代表をつとめる非営利の消費者団体、パブリックシチズンは、1994年から2004年におけるNAFTAによる影響を調査しました。その結果、メキシコからアメリカへの不法 移民の数が1990年から2000年の間に2倍になったことがわかりました。またその他にもNAFTAは、以下のような多くの悪影響をメキシコ経済におよぼしたことがわかりました。

▲アメリカ政府の補助金を受けて栽培されたトウモロコシが大量にメキシコに輸出されたため、メキシコ国内では百五十万人以上の農民が生活手段(小農園)を失った。
▲メキシコ人の平均的な購買力が低下した。
▲工場労働者の賃金が25パーセント削減された。
▲母子世帯の貧困率が50パーセント上昇した。
▲ウォルマートなど大規模小売業者の自由な出店を認めるNAFTAの条項により、メキシコの国内のおよそ二万八千もの中小企業が倒産した。
▲NAFTAの締結以降、アメリカでは三万八千人以上の小規模農業経営者が破産・廃業した。
▲アメリカ国内の繊維アパレル産業では、七十八万人分の雇用が失われた。

NAFTAによって勝者と敗者が生まれました。アメリカでもメキシコでも、世界的企業で働くエリートは勝者となりました。でも労働者とその家族は勝者とはなりませんでした。


それは決して他人事ではない。いつかは僕たちの社会もそのような慈悲のない社会へと変質してしまうかもしれない。いや、もしかしたらもう既にそうなっていいると思うべきかもしれない。
そしてその時、支援はやってきても遅すぎるか少なすぎるのだ。今、彼らが直面しているように。

ギャラガーは、しかし、信仰や慈悲の心によってこうした事態を打破できると信じているように思う。だが、残念だが僕はそれは期待できないと思う。何故なら、こうした事態を人々の気持ちだ けで解決できないし、そうした事を変える力がある多国籍企業や政府が神を信じたり、慈悲を見せるのは、与えた以上の利益がある場合に限っての事だと思うからだ。
しかし少なくとも我々が出来る事はこうした事に目を向け、この現実を生み出している政策を推し進めている政府や、多国籍企業の行為に対してはっきりとノーと云う事だ。根気よく抗議をし、 不買を続け、反対票を投じる事で世の中は変えられるかもしれない。

実際、ここ数年の間でこうした本は確実に増え、読んで知る人も徐々に増えてきていると思う。まずは何が行われているのかを知る事。それに本書はうってつけの一冊でありました。
本書で紹介されていた本も是非訳出して頂きたいものです。





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天啓を受けた者ども
(Los Iluminados)」
マルコス・アギニス(Marcos Aguinis)

2010/11/07:マルコス・アギニス初挑戦。開いたらちょっと腰が退けた。何せ500ページ上下二段組。前評判や内容を殆ど知らずに突入するのはやや無謀かもしれないと思いました。

ダミアン・リンチはブエノスアイレス大学の社会科学部で講義をしている時に雷に打たれたような気持ちになった。受講者のなかに素晴らしい女性モニカがいたからだ。一目でダミアンは恋に落ち、この出会いが二人をある大事件に巻き込まれる事態を呼んだのだと云う。

ダミアンの独白が過去形で語られるプロローグでは、当時彼がアルゼンチンが軍事政権とクーデターを繰り返したなかで行われた国家的犯罪行為の調査研究である事。ダミアンの両親はこの内紛の最中に行方不明となった事が調査に没頭するダミアンの動機となっている事が語られる。


 ぼくは、自分や他の大勢の人々の家族に対しておこなわれた犯罪が処罰されずに済むという事態に甘んじる気持ちはこれっぽっちもなかった。世界が指標を失って暗雲一色に染まり、ホースで水をまき散らすようにして苦しみを与えつづけるごろつき連中を覆い隠すなんてことはあってはならない。それはよく人が軽い気持ちで断言するような病的な恨みではなく、むしろ正義への渇望だった。往年の犯罪者、もしくは現役で活動中のその後継者たちが、新世紀の始まりに、あたかも地球が退廃のカーニバルの会場であるかのごとく、あざ笑いながらぼくらを押しやる。すべては取るに足りないもの。とりわけ正義や生命なんぞ何の価値もないという信条を抱かせながら。やつらこそ、天国の到来を声高に告げながら地獄を生み出している、天啓を受けた者どもだ。


罪を犯しながら罰せられる事もなく今だ地獄を生み出し続けるこの「天啓を受けた者ども」がダミアンの調査研究対象である訳だ。

時代は飛び1950年代、ビル・ヒューズはアメリカ合衆国コロラド州プエブロの中流家庭に育ったごく15歳のごく普通の少年だった。ある日彼ははしかから脳炎を発症し昏睡状態に陥ってしまう。心配する両親、医者に加えて牧師も呼ばれ手を尽くすが昏睡から醒める気配がないまま10日が過ぎ、誰もが諦めかけた頃漸くビルは覚醒する。

覚醒したビルは以前のビルとは人格が微妙に変わってしまっていた。またビルは昏睡中に予言者エリシャが現れ、彼に啓示を行った事、自分が昏睡から醒めたのは予言者エリシャの導きによるものだと信じ、ついにはイスラエルのカルメル山を目指して家出をしてしまう。


そしてビルは行き当たりばったりにヒッチハイクをして辿り着いたニューメキシコ州のわびしい集落にテントを張って「クリスチャンズ・オブ・イスラエル」と云う名前で宗教活動をしている牧師の助手として働く事になる。これも勿論神のお導きだと全く信じこんだままで。


 ”原理主義”という言葉は、今日イスラム社会が世界に知らしめる以前からあったものだ、元はといえば、聖書に記述された文字どおりの意味に忠実でありつづけるべく、それらの批判的解釈を忌み嫌い、神の言葉は人間たちによる改変に屈するものではないという姿勢を貫く者たちを指す。つい先程得た情報によると、”原理主義”という名称が公式の場に出現したのは今から百年以上も前の1895年、ナイアガラ北米聖書会議で、その後、陰謀的な傾向をかき立てる方向へ向かったらしい。
 当初宗教的な立場だった原理主義が政治の分野に移行し、一般人への攻撃まで加味されるようになったのだ。


プエブロに住むもう一人の男。ウィルソン・カストロ。1940年生まれ。彼はハバナ生まれで若くして入隊したが共産主義の革命軍によって政権が崩壊した時に合衆国へ落ち延びた。合衆国でもベトナムをはじめ数々の戦闘に参加し、パナマではアメリカ学校の指導教官として辣腕をふるったが、今は義父母が残したプエブロの町で自殺願望を抱えつつ隠退生活を送っていた。そんな彼の元にやってきたのはアルゼンチン政府からの極秘の要請だった。物語は彼の過去とアルゼンチンへ渡った後の話へと広がっていく。


 そのような”原理主義”への回帰は、原点に戻るという本来の意味を失って聖書の文面を都合よく歪曲するほうに向かい、ネオナチや白人至上主義者、医師殺害をもいとわない妊娠中絶反対論者、連邦政府の定めた法律の違反者、KKKの後継者、武器の際限なき使用を主張する過激派集団といった者たちとの歩み寄りを見せていく。自分たちは神のため、アメリカ合衆国の統治のため、あるいは憲法のために戦っているのだと唱えているが、実際には人種差別主義者で、寛容さのかけらもない攻撃的な人間だ。愛を実践する代わりに、さらなる憎悪の炎へと人々を押しやるのだ。


このビル・ヒューズとウィルソン・カストロの話しはどうやらダミアンの調査結果そのものらしい。それも原理主義のカルト集団が行った犯罪行為と、反共の名の下に社会を牛耳り、不当で圧倒的な利益を搾り取ると同時に、残虐な行為を繰り返した者たちを追跡しているようなのだ。こうした調査が結果冒頭の大事件へと繋がっている模様だ。それにしてもこれほど詳細な過去を調べきれたのは一体どんな調査をしたのだろうか。そして向かえる大事件とは一体どんなものなのか。更にダミアンとモニカのたどたどしい出会いから始まる物語が絡み長大な本にもかかわらず快調なスピード感でどんどん進んでいく。面白い。まるでジョン・ル・カレの本のような格調と深さと構成、そして正に「正義への渇望」がある。

ル・カレの「サラマンダーは炎のなかで」にある怒りと同質の感情がここには込められていると思う。


ジョン・クラカワーの「信仰が人を殺すとき - 過激な宗教は何を生み出してきたのか」は1984年7月24日にアメリカユタ州アメリカン・フォークで実際に起こった24歳の女性ブレンダと1歳3ヶ月になる娘が義理の兄らに殺害された事件を追ったものだった。彼らは兄がみたというお告げによって二人を殺したが、神のためなら死刑になっても構わないとさえ考えていたのだ。

チャールズ・ダンブロジオ「」に納められている短編、「彼女の名(Her Real Name)」では海兵隊を除隊した男が中古自動車を手に入れひたすら北米大陸を西に旅する話しだが、旅の途中で半ば拾ったように同行することになった少女はキリスト教原理主義者によって育てられていたところを逃げ出してきていた。しかも彼女は重篤な病気を病んでおり必要な医療を受けさせてもらえずにいたのだった。


スーザン・ジョージ は「アメリカは、キリスト教原理主義・新保守主義に、いかに乗っ取られたのか?」のなかで、アメリカ政府はキリスト教原理主義者によって乗っ取られたと主張している。またキリスト教原理主義者たちは、現在激しく紛争を続けているイスラム原理主義者たちと一つの共通的な特徴を持っているという。


 どちらの集団も、自分たちの宗教が支配的にならなければならず、さもなくば世俗主義の邪悪な勢力によって支配されることになる、あるいは---もっと悪いことには---他の宗教によって支配されることになると信じている。自分たちの宗教だけが「真の」宗教なのである。


ノーム・チョムスキーは、「素晴らしきアメリカ帝国」のなかでこんな事を言っていた。


 アメリカで一般的に遭遇するような度合での過激な宗教的信条や不合理なコミットメントは、他の工業先進国には見られません。進化論を教えることを回避したり、教えている事実を隠したりしなければならないという発想は、先進国では特異なケースです。

 統計の数字には驚かされます。アメリカでは人口の約半分が、世界が数千年前に創造されたと考えており、四分の一くらいの相当な割合の人々が、信仰を新にするほどの強い宗教的経験があるというのです。多くの人が「昇天」と呼ばれるものを信じ、大多数が奇跡や悪魔の存在といったものに確信を持っているのです。

 こういったことは、アメリカ史において古くからありましたが、近年、社会的、政治的生活に、かつてないほど影響するようになっています。たとえば、ジミー・カーター以前は、アメリカの大統領は熱狂的な信仰心を装う必要などありませんでした。彼以降は一人残らずそうしたふりをしています。これは一九七〇年以後の民主主義をほんとうに蝕んできました。


アメリカ合衆国では今このようなまるで西部開拓時代から抜け出してきたかのような宗教的信条を持った人たちの存在が決して特異な事ではなくなってしまっているのだ。

顕現を体験している。自分のものだけではなく、他人の宗教的体験を鵜呑みに信じてしまうのだ。”原理主義”は新しい言葉かもしれないが、そもそもが人種差別的で、異教徒たちを殺すことは神の御名において正しいと信じて疑わない人々によって行われた夥しいジェノサイドの歴史を振り返れば、彼らは原理主義の言葉と共に出現してきた訳ではなく、現代まで取り残された人々なのだ。

こうした本が世に出て、しかもベストセラーになってきたと云う事は、なんとも喜ばしい事ではないか。本書を読んでこうした実態に目が向き、現在も止むことなく続いている紛争の根底にある不寛容な原理主義的で非人道的な価値観の横行に一人でも多くが目覚めていく事が、世の中を少しでも良くする事に繋がると信じている。

今、政府と多国籍企業とメディアが手を組み、我々の目は世界を覆いかつてない規模と激しさで進んでいる紛争と暴力の実態からそらされてしまっている。不幸は決して遠い星で行われている事ではなく、我々の住んでいる場所と地続きで思いがけないほどすぐ近くで行われているのだ。


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グローバリズムは世界を破壊する
(Propaganda and the Public Mind)」
ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)

2010/10/31:今日で10月もお終い。猛暑から一転冬の季節がやってきて、寒い日々が続いております。先日、有楽町でユニセフが開催した「ユニセフの新戦略:ミレニアム開発目標達成のために~格差の是正が近道」と云うシンポジウムに参加してきた。そこで配布された資料、「世界子供白書2008」から、

毎日、平均26,000人を越える5歳未満の子供たちが予防可能な原因で命を失っている。このうち3分の1以上の子供が生後1ヶ月以内に亡くなる。5歳未満児の子供たちの死因の50%は成長と発達に必要な栄養不良と不衛生な環境だという。

こうした実態をうけユニセフはミレニアム開発目を掲げその実現に向けた施策を打とうとしている。

ミレニアム開発目は、
1.極度の貧困と飢餓の撲滅
2.普遍的初等教育の達成
3.ジェンダーの平等の推進と女性の地位向上
4.乳幼児死亡率の削減
5.妊産婦の健康の改善
6.HIV/エイズ、マラリアその他の疾病の蔓延防止
7.環境の持続可能性の確保
8.開発のための グローバル・パートナーシップの推進

というもので、これには更に詳細な目標と具体的な数値目標がセットされている。今回の目標の大きな特徴は、公平性:原則として正しいことではなく、実践上正しい事を行うというもので、支援の必要性が甚大な紛争地域や天災の被災地に重点的に支援を実施していくというものなのだそうだ。このとりわけ支援を必要とする地域への支援は危険で費用も工数も非常にかかるが、結果的に従来の施策による成果よりも死亡率を60%も多く防ぐことができるという。なにせ短時間の説明なので駆け足駆け足、一方話しは広範で、それぞれに非常に深刻な問題なので全部受け取る事は難しい。綿密なシミュレーションと実践に基づきこの数値改善が明らかである事がはっきりした事から、このミレニアム開発目標が作られたという事のようだ。

また、アグネス・チャン氏や国際ジャーナリストの後藤健二氏、ユニセフのソマリア事務所から國井修氏などが実際に行って目にしたソマリアの凄まじい現状を聞くことができた。ニュースなどの映像では伝わらない生々しい被害・悲劇は胸に迫るものが違う。しかし、この開発目標にも現地のレポートにも欠けている情報がある。それは何故紛争が起こっているのかという事だ。中立を保つユニセフの立ち位置からこの紛争の原因そのものに立ち入る事は出来ないのだろう。

後半のパネルディスカッションでは、聴衆からの質問を受け付けて行われたが、紛争が起こっている理由は何かという質問が飛んだ。この質問に対して「水や豊かな土地ですかね」。彼らはまともな回答が出来なかったのには驚いた。どんな準備をしてこの場に来たのか。日本ユニセフの副会長の東郷良尚氏は「9.11のテロがたまたまアメリカで起こった」と云うような事も言っていた。「たまたま起こった」ってどうゆう事?単なる言葉の綾なのか、それとも本気で何も知らずにそこに座っていたのか、僕には見分けられなかった。これも時間のなさからくるものなのかもしれないが、質問と回答がちぐはぐでディスカッションとしてはちょっと残念な結果でありました。

僕は知らなかったが、日本はユニセフに対して官民合わせて最大の出資国になるのだそうで、この出資額は過去一度も減ることなく増額を続けているという。紛争を消し去ることが当面困難である以上、支援を必要とする人々がいなくなることはない。組織としてのユニセフは極めて信頼性が高いので、事情がわかっていようがいまいが、お金の出せるところから資金を集めて、必要な場所に投入して命を救おうという事なのだろう。確かに計画は非常によく出来ていると思うので是非頑張って欲しいと思う。


そんなイベントと平行して読んでいたのが、ノーム・チョムスキーの「グローバリズムは世界を破壊する」だ。チョムスキーの本は6冊目。こちらもデイヴィッド・バーサミアンのインタビューによって作られたものだ。

1.活動主義の勝利          1998/05/10
2.アメリカ合衆国から世界へ    1999/02/01
3.国家の大儀のために       1999/02/02
4.危機にある東チモール      1999/09/08 
5.シアトルの意味           2000/02/23
6.正義主義からの解放       2000/04/10


と、9.11以前のまだ何も知らない時期。そんな時期にチョムスキーとバーサミアンはどんな会話をしていたのだろうか。


 「アメリカ人」という言葉はアメリカ人を指しているのではないともおっしゃっていますね。

 そう考えざるを得ないのです。アメリカ人というのは北・南米大陸に住む人間すべて指すべきですが、合衆国がその言葉を横取りしてしまった。ラテン・アメリカでは「北アメリカ人(北米人)」という言葉を使っています。「アメリカ人」という言葉は常に合衆国の国民を指すために使われています。


 3千9百万人の老人や障害者がメディケアに登録されています。最近連邦の諮問委員会が、メディケアの運営に、民間の健康保険会社により大きな役割を与えるようにという勧告を出しました。テッド・ケネディは、これはメディケアを民営化しようという脅しだと言っています。

 これも同じです。民営化が行われると、民間部門のものと同じになります。民間機関の目的は一つ、利益を最大化し、人間の条件を最小化する、そうすれば利益が最大になるからです。彼らが追求しているのはそのことです。ほかのものを追求することはできません。そのシステムがほとんど競争的なものでなくても、そうしなくてはならない。それが制度の本性だからです。


 公的なサービスを民営化しようと思ったら、最初にやるのはそれを機能しないようにすることです。すると人々は言います。そんなものはなくしてしまえ、うまく行かないじゃないか、と。ロッキードにくれてやれ。ですから最初に、システムを機能させないようにします。そうすれば、それを企業部門に引き渡すのに人々の支持が得られます。

 ですから、公教育は非常に予算を減らされました。教師は十分な給与をもらっていません。体制は整っていません。一般に、設備に使う予算も非常に減らされています。これがカーター政権の後半とレーガン時代のやり方で、学校教育はその一環です。実際、学校についての一般の不安は増大しています。


 日本では、1990年代の初めに政府が年金基金の一部を東京株式市場に投資しました。その後市場が暴落し、支給額がカットされ負担が増えることになりました。

 どんなやり方にしろ、年金を株式市場に連動させたら、老後がどうなるかはいつ退職するかに左右されます。株式市場は変動するからです。時がたつにつれて上がるかもしれない。しかし、市場が下がっているときに退職する人にとって、百年後に上がっていても助けにはなりません。日本の株式は非常にすばやく下がりました。しかし、合衆国でも株価の下がった時期はたくさんあります。今すぐ回数は言えませんが、もし年金を株式市場の利益から得なくてはならなかったとすれば大打撃を受けていたはずの時期が二十世紀中に何度もあったことがわかっています。人々が本当に直面しているのはこうした問題なのです。


 合衆国だけでなく世界中の格差の問題は、今おっしゃったように、無視できない問題です。「フィナンシャル・タイムズ」でさえ、最近「十九世紀の初めには、世界一豊かな国と貧しい国の一人当たり実収入の比率は三対一だった。1900年には十対一になり、2000年には、六十対一まで上がった」と書いています。

 それはひどく誤解を招く書き方です。今起きていることの何分の一も言い表していません。本当の著しい格差は、国同士の格差ではなく、人々の間の格差で、それは違う尺度で測られるものです。その格差は急激に開き、一つの国の中での格差が急激に開いていることを意味しています。過去十年くらいで八十対一から一二〇対一になっていると思います。これは大まかな数字です。正確な数字は言えませんが、非常に急激に大きくなっています。世界の住民の1パーセントがおそらく、底辺の60パーセントの収入と同じだけの収入を得ています。60パーセントというのは約30億人です。こうなったのは、このような結果を期待して特別な決定、制度的な取り決め、計画を実行してきたからです。そして期待どおりの結果を得ました。時がたてば平均化されるはずだという経済の原理があります。抽象的なモデルではそうなるのかもしれませんが、現実の世界は非常に異なっています。


 「ニューヨーク・タイムズ」はほぼ年に一度「アラブ世界はイスラエルへの二重基準を非難」というような見出しをつけた記事を載せます。そして記事の中では、さまざまな知識人や政治指導者がこんなふうに言います。そう、合衆国は二重基準を持っているかもしれない、と。あなたが国内や世界中のあちこちの国で、合衆国は国連安保理の決議に従っているという話しをしたら、人々はどんなふうに反応しますか?

 わたしはそんなふうには見ていません。わたしは二重基準があるとは思いません。合衆国の態度に矛盾があるとは思っていません。基準はひとつだけで、一貫してそれに従っていると思っています。合衆国内の権力、すなわち国家企業集合体の認める利益にそって形作られた政策があります。その政策が一貫して追及されている。二重基準はないのです。それは法や道徳や人類の福祉とは何の関係もありません。それはある種の利益を最大にすることに関係があるのです。


チョムスキーとバーサミアンはまるで気楽な話題をかわしているかのようなやりとりで、国際情勢に対する合衆国の行動、福祉、医療、教育といった国内の問題にも広範に触れていく、そしてその現状と問題点の認識は愕然とさせられる程適確なのだ。


 何故合衆国とイギリスはイラクを爆撃し続け、制裁の続行を主張するのか?ということです。そうすれば百パーセント近く同じ答えが大声で返ってくるのを見ることになります。トニー・ブレアからも、マドレーン・オルブライトからも、新聞の論説委員からも、評論家からも。その答えというのは、サダム・フセインはまったくの怪物だから、というものです。フセインは「究極的な」残虐行為まで犯した、つまり、自国の国民をガスで殺した。あのような生き物を生かしておくことはできない、と。わたしはかなりの量の新聞記事を調べました。これが、評論家、知的な新聞その他がほぼ異口同音に口にしている制裁の理由です。

 何かが異口同音に近い形で主張されるとき、それは目的です。世の中にそんなふうに明快なものなど存在しません。ですから、何かが異口同音に近い形で主張されたら、自分に問いかけてみなければならない。それは正しいのか?と。この場合には、それをテストする簡単な方法があります。考えることさえできれば誰にでも、考える能力を叩きつぶされていない人なら誰にでも、すぐに思い浮かぶことです。その明確な質問とは、サダム・フセインがその「究極の」残虐行為を行ったとき、1988年3月にハラブジャというクルド人の街を毒ガスで攻撃したとき、合衆国とイギリスはどう反応したのか?というものです。それは記録に残っています。二度目の毒ガス攻撃は8月でした。イランとの戦争でイランが基本的に降伏し、停戦になった5日後です。合衆国とイギリスはどう反応したか?答えは簡単です。彼らはサダム・フセインを強力に支持し続け、実際、支援を強めたのです。それで即座にわかることがあります。これが理由になるはずがない。フセインの描写は正しい。彼は「究極の」残虐行為の一つを犯した怪物である。そして、合衆国とイギリスはそれをいいことだと考えたのです。彼らはそのままフセインを支持しました。だからそのことが、いま彼を破滅させようという理由になるはずがない。こう考えるのに、おそらく一分しかかからないでしょう。


 「ニューヨーク・タイムズ」は、テロ対策を担当しているリチャード・クラークについて大きな記事を載せています。合衆国をテロから守るために年に百十億ドルの作戦を指揮しているタフガイです。その記事は面白いのです。彼がどうやって実際のテロ行為から合衆国を守るのかという例は一つも書かれていません。むしろ、合衆国のテロ行為の例を挙げている。とくに、リビアに対するテロ行為の例です。彼は1986年リビア攻撃の計画に関与していたことがわかっていますが、面白いことにそれには触れられていません。1986年にリビアを対象にした大きなテロ行為がありました。すなわち、合衆国がリビアを爆撃し、カダフィの幼い娘を含む数十人を殺したことです。彼らはいくつかの理由をつけて二つの都市を爆撃しました。理由に挙げたことが正しいとしても爆撃を正当化することはできませんが、それが正しかったと信じられる根拠はまったくないのです。これは実際には戦争犯罪です。


このリチャード・クラーク(Richard A. Clarke)は2004年3月、911同時多発テロ調査委員会の公聴会に出席、あくまで個人としてだが政府と自分の失敗を認め謝罪を行い、当時の政府を告発するような内容の本を出しているようだ。

チョムスキーは、この時期この時点で既にアメリカ政府の行っているプロパガンダによって欺かれ民意が捏造された結果、国民たちは海外から見たアメリカ合衆国がどのように映っているのかを把握する能力が既に失われている事に警告を発している。こうした想像力、相手の立場に立ってものを考える機会を失っていく事が非常に危険だという訳だ。

本書のインタビューから既に10年以上の歳月が流れているというのに、我々に認識は全く前進しているようには見えない。

9.11の事件があの日、あの時間に起こった事。あのビルが標的となった事は「たまたま」だったという事もできるかもしれない。しかし、アメリカで起こった事は決して「たまたま」ではない。アメリカだからこそ起こったのだ。

紛争が続くこの世界の中で我々ができることはなんだろうか。チョムスキーは言う。国の暴走に目を光らせ、国がそれを行う事、そうした事を行う国を自分たちの国が支援したり支持したりする事を反対する事だという。

そういえば、カダフィもメディアでは訳の解らない言動ばかり目立つ人物だが、2009年ニューヨークの国連総会に出席した際、ホテルには入らず郊外にテントを張って泊まっていたっけ。子供を殺された親の立場として意思表明をしていたものなのかもしれない。

中国政府が首長会談をキャンセルしてドタバタが起こっているが、あれは明らかにクリントンが日米安保理に抵触していると発言した事が引き金になっていると思う。日本が頼んで言ってもらったのか、何かの取引があったのかはわからないが、中国が一方的に何かしているという流れは明らかにこの事実を無視した報道だ。

同じように先日、イランのアフマディネジャド大統領がアメリカ政府を相手に悪魔の手先だみたいな激怒した発言をしたと云うニュースが流れてきたが、この時も何に怒っているのかはさっぱり伝わってこなかった。しかし、その数日前のニュースでは、イランの原発がひどいサイバーテロにあったと云うニュースが報道されていた。これには、「スタックスネット」と呼ばれるコンピューターヴィルスが使用された模様だが、この攻撃はイラン南部ブシェールにある原子力発電所のシステムに対して行われ6万台以上のコンピューターが感染したらしい。

こうしたサイバーテロは単なる趣味で個人がいたずらで仕掛けたものではなく、どこぞの政府が軍事攻撃の一環として行ったものらしいというものだ。これがどこの政府によって行われたかを問う意味はあまりない。実際にどの国がどの程度手を染めていたとしても、みんな同じ連中だからだ。

イランでは発電所のインフラが紛争で壊滅状態になってしまった事から原子力発電所の導入をしていると主張している訳だが、この電力供給のためのインフラに対して外国政府からサイバー攻撃を行うというのは、爆撃しているのと同じ効果が得られるだろう。先のアフマディネジャド大統領があれだけ怒りまくっているのにはそれなりに理由があると思うのだが。そして我々はアメリカ合衆国に支援され援助を行い、彼らの意図に則りアジア圏での行動を行っている訳だが、果たしてそれは正しい道なのだろうか。

長々と書いてしまったが、状況・事態は寧ろ悪化してきているのではないかと思う。自分たちの子供たちの将来のためにも、そして海の向こう側で悲惨な状況に暮らす人々のためにも、正しい現状認識をもたらし、反対の意思表明を明確にし、踏みとどまり反対の方向へ向かう努力をしなければならないと思う。


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レックス・ムンディ
荒俣宏

2010/10/30:読書メーターにこのサイトを立ち上げた時点からの内容を反映してあるのだけれど、それをみると2003年の8月から668冊の本を読んだ事になるらしい。一日平均66ページ、決して早いとは云えない僕の読書だけれど、長く続けていけばそれなりのものになってくるものだ。

勿論本が好きでやっている事なのだけど、毎日本を読むにはそれなりに工夫と努力は必要だ。まずは読書する時間を作る事。僕の場合、平日は朝晩の通勤時間。朝は電車がまだ空いている少し早い時間に出発するようにしている。また毎日本を読むためには、読む本が必要な訳でこれを切らさないように兵站問題も大切だ。本はただあればよい訳ではなく、興味の湧く質の高い本を切らさないように確保し続けなければダメだ。面白い本を発掘する嗅覚みたいなものが大切なのだ。こうした本の選択は本棚を端から眺めてあたりをつけるのもいいが、ここは大御所と呼ばれる方々の読書を参考にさせて頂く事も大切だ。

先ずは何よりノーム・チョムスキーだ。彼の本自体驚愕なのだが、その彼が読んでいる本もまた凄い。正に世の中が違って見えるような世界情勢の実態、それは新聞にもテレビにも書かれていない実態だ。そのおぞましい姿には愕然とする以外ない。我々はこうした事実を意図的に知らされないように情報が操作されているという不気味な世界に暮らしているのだという事も明らかになってくるのだ。興味があるならどれでもいい。チョムスキーの本を読んでみてください。そこには何よりも重大な事、今世界で何が行われているかその本当の姿が書かれているハズだ。僕は今チョムスキーが提供してくれる情報を辿って本を探している事が多いと思う。

こうした本を本から情報を得て辿ると云うような事を随分と昔からやってきた。古くは海外ミステリーの分野で植草甚一。植草さんには本当にお世話になった。そして椎名誠。椎名さんが繰りだしてくる面白本にはハズレがない。また海野弘。海野さんの見ている先には必ず面白いものがある。そして荒俣宏。荒俣先生はそもそも本を集めて本の本を書いてしまうような人なので、本に対する目利きは只者ではない。なので荒俣が勧めてくる本は読めば必ずびっくりするような事が書いてあるのだ。

その荒俣先生が読んで仰天したという本が、ヘンリー・リンカーンが書いた「隠された聖地―マグダラのマリアの生地を巡る謎を解」と云う本だ。これは一言で云えばラングドック・ルシヨン地方ピレネー山脈の麓にある小さな村レンヌ・ル・シャトーにある摩訶不思議な教会に聖杯が持ち込まれたのではないかと云うお話だ。

聖杯とは一般的にはイエスが最後の晩餐で使った杯を指すのだが、聖杯伝説では十字架に架けられたイエスの死を確認するために槍で突いた脇腹から流れ出た血を受けた杯だと云う事になっており、本書では聖杯は杯ではなく、イエスの血筋を継ぐものの存在そのものではないかというビックリして椅子からおっこちてしまうような展開をしていく。この話しは正に事実は小説よりも奇な話しなのである。これは話題はその後映画「ダヴィンチ・コード」で利用されたのでご存じの方も多いのではないだろうか。

これにはまた別にマーガレット・スターバードの「マグダラのマリアと聖杯」と云うこれまた面白い本があって、レンヌ・ル・シャトーの教会が奇天烈なのと同じように、どう見ても不自然な描かれ方をした宗教絵画がいくつもあって、これはほんとに何か途轍もなく重要なものを隠しているに違いないと考えた方が自然な感じになってしまうような事実が明らかになってくるのだ。

荒俣先生のフィールドは広く、もう一つの話題はレイラインだ。レイラインと云う言葉を知ったのは確か「風水先生」が初めてだったのではないかと思う。レイラインとはストーンヘンジなどの古代遺跡がある規則性のある直線に沿って配置されているのではないかという説なのだが、風水に造詣の深い荒俣先生はこれに風水的解釈を持って臨む事で興味深い解釈を生み出したりしていた。

ニューグランジやストーンヘンジは5千年前、先史時代のものであり、この先史時代の何らかの信仰に基づき構築されたと考えられているが、こうした場所がレイラインと重なることから、単に作っただけではなく、地球規模の視線で慎重に場所が選ばれて建てられたのではないかという推測されている訳だ。

レンヌ・ル・シャトーの謎も、聖杯の行方も、古代遺跡の建てられた理由も、そしてレイラインの存在そのものも、こうした強烈な謎は現時点ではどれも謎のままだ。いやきっとずっと謎のままなような気がする。だからこそ、我々はそこに強く惹かれる。解けるハズもない謎に心を奪われて、繰り返し繰り返しそれを考えるのだ。

こうした数々の謎に荒俣先生も強く惹かれ、もしかしたらうんうんと唸りながらこの謎に挑んだのではないだろうか。そしてある仮説を生み出したのだ。勿論それは仮説であって、確かめようも勿論ない訳だが、これを単に仮説として出しても仕方がない。だって証拠は何もない訳だからだ。なので小説として書いた。

それがこの「レックス・ムンディ」なのでありました。考古学の異端児にしてレイハンターである青山譲は「N43-シオンの使徒」と云う怪しげなカルト教団からの依頼を受ける。青山は数年前にレンヌ・ル・シャトーの発掘を行っている最中に発掘現場を勝手に爆破した門でフランスの刑務所に服役していた男でもある。青山に法外な報酬を持って持ちかけてきた依頼は、そのレンヌ・ル・シャトーに再び潜入して、もう一度発掘を行えというものだった。荒俣先生の仮説は面白いのだ。非常に面白い。そして古代遺跡やレイライン、レンヌ・ル・シャトーの謎についても非常に詳しく語られておりこれも面白い。しかし、残念ながらストーリー自体は最初から全く走らない。登場人物の言動がどこもギクシャクしていて不自然なのだ。衛生観念とか、情動とかいった部分が激しくずれている感じがする。

皮膚が蛍光に光る人が近づいてきたら、触られる前に逃げ出すだろ普通。とか。そしてこうしたズレはまた本編のストーリーとはあんまり関係がなかったりする。伏線かとおもったら切れていたりもするのだ。一体なんでこんな余計なシーンを挿入したんだろう。みたいな。

荒俣先生大好きであるが故に残念です。もうちょっと編集が介入するなりして磨けばもっともっと面白い話しになったハズなんだけどなぁ。ほんともったいないなぁ。


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暗記力
齋藤孝

2010/10/24:この10年ふとした縁から社内業務のシステム企画的な仕事を続けている。そもそも営業畑でこんなことをすることになるとは夢想だにしなかった今の仕事。
人生ってわからないものです。こうした机仕事や関係者と検討したり議論したりするような仕事における仕事力って何だろうと考えてみる。

文章や図や表、データに向かった時の理解力、リテラシー、読む速さ、理解する早さ、反対側にそうした文章や図や表に整理する力とその速さ、そしてもう一つがそうしたことをしっかり頭に入れておくメモリーの大きさということではないかと思う。

文章や図や表を読む、作る。これは簡単なことではなく、日々悪戦苦闘している訳だが、色々な仕事、大勢の人たちと一緒に仕事をしていると学ぶ機会も沢山あって努力の仕方はなんとなくでも足掛かりを掴めるのだが、メモリーの大きさについては課題があることははっきりと認識できるのに、どうすりゃいいのか正直わからない。

更には加齢とともにこのメモリーは容量だけではなく書き込む事も今まで通りにはいかなくなってきた感じだ。
今入っているとても大きなプロジェクトでは、テーマ毎に会議体がいくつも作られ、各々週一・二の頻度で検討が進んでいく。つまり先週の議論の続きが始まる訳だが、この直前の議論を一週間後に引き出すのがもの凄く大変。「何の話でしたっけ」という感じになってしまう事もしばしばなのだ。

そこで「暗記力」。記憶力を少なくともこれ以上劣化させないためにも何かしなけりゃマズいと思った訳だ。


第一章 暗記力で「アウトプットの技術」を育てよう!
単語の暗記だけでは「ソンをする」
エピソード記憶で「暗記力」を強化させよう
「他人に語ること」は「愛着を増すこと」にもなる
耳で聞いて腑に落ちるプロセスも重要である
学生時代には「食わずギライ」をなくしておこう
暗記力で、他人に「へぇ、そうなんだ!」をプレゼントしよう
暗記力は、指数関数的に成長してゆく
丸暗記は、知的教養の「現ナマ」を獲得すること
「使い捨て」ではない言葉の暗記に意味がある
『聖書』は、なぜ、世界最大のベストセラーか
本を読む人の長所は「イメージ喚起力」である
「未知の世界に関わる積極性」が暗記力をつくる
読書体験も、リアルな「体験」である
他人に説明できてはじめて「ほんとうの知識」である

第二章 暗記力で「上達の技術」を育てよう
暗記力は「引用の技術」につながる
引用力は、充分な理解の証拠である
「ノートを取る技術」は訓練で獲得するもの
『試験に出る英単語』から教わった記憶術
漢字の記憶が、会話の語彙を決めている
暗記は、言語能力の「型」を訓練すること
「数学は暗記だ」のほんとうの意味は……?

第三章 暗記力で「心のタフさ」を育てよう
「暗唱」は底力を持っている
暗記に「才能」「技術」は不要である
オトナも「暗唱」に挑戦するべきだ
血で書かれた言葉は、そらんじられることを欲する
「書き写し」で育てられた志があった
暗唱するときは、ゴキゲンでやってみよう!
「にほんごであそぼ」の目的は「暗唱で心を育てること」
暗記力は「情操教育」にもつながる


本書は、最近テレビなどでも露出頻度が上がっている齋藤孝氏の本だ。噂はかねがね聞いているのだが、齋藤氏の本は初挑戦だ。
本書は「記憶力」そのものを拡大させる具体的な手法の本ではない。しかし、大変読みやすくて、分かりやすい。書き方が直球で非常に飲み込みやすい内容になっていると思う。ほぼ一日で読み切ってしまった。

残念ながら、記憶力は加齢とともに低下してしまうもので、幼いうちにこの力をつける事が肝心だという解ってはいたけど衝撃的な事実を突きつけられる。僕らが学生の頃は、大人たちの間では暗記中心の教育に対して批判的な声が上がっており、教えられる側としての僕たちは、やっぱりこんな辛いだけで大人になってから使う事もなさそうな鎌倉幕府の成立年号なんて覚えたって仕方ないんじゃねーの等とそんな批判の尻馬に乗った形で適当にやってた。

しかし、それは大間違いだという。点と点の知識が線となり面となる。こうした基礎となる知識を広く持っている事が、情報の引き出しの速さと処理・分析・理解力の差となって現れるからだ。そりゃそうだ。仕事をしてみりゃ、自明の話しだ。

ゲーテの話しが紹介される。ゲーテは若きエッカーマンに対して「重要なことは、けっして使いつくすことのない資本をつくることだ」と教えを垂れたそうだ。


 ゲーテ自身は、十歳のころにはギリシャ語ができ、次にヘブライ語をマスターし、英語も読めるし、イタリア語も訳せるとマルチなのだが、エッカーマンは、その時点でドイツ語しか話せない。そこでゲーテは、「今できる範囲で君の仕事にとって大きな財産となるようなこと。それはイギリス文学だ。いらない仕事を全部排除し、英語をしっかり身につけてイギリス文学を勉強したまえ」と教えられる。


年取ってからマルチに外国語を獲得する事は難しい。幼いうちに獲得してしまえばそれは一生使い果たす事がない資本となる。うーむ。もっと早く教えて欲しかったなー。


しかし、光明はある。大人になってしまったからと云って打ち手がない訳ではないのだ。記憶力には、丸暗記に相当する意味記録と、対象となる情報の背景や意義といったものも含めて記憶するエピソード記憶というものがある。子供は意味記録が得意で大人になるとこの能力が衰えていくが、エピソード記憶の力は寧ろ大人になってからの方が能力が上がるのだそうだ。

大人になってしまった我々は頑張ってエピソード記憶の力を伸ばすようにする事で努力する余地が残されているのだそうだ。このエピソード記憶を強化するには、一所懸命覚えた事を他人に説明する事なのだそうだ。覚えた事を他人に繰り返しする事でこのエピソード記憶は定着していく。なるほど。

 そしてこの暗記力と云うものは最初は苦労するけれども、二乗で成長するのだそうだ。


取りあえず信じましょう。嘘でも信じたい。今からでも遅くない。僕も少し真剣に頑張ってみようかな。


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一万年の進化爆発 文明が進化を加速した
(The 10,000YEAR EXPLOSION:
How Civilization Accelerated Human Evolution)」
グレゴリー・コクラン (Gregory Cochran)&
ヘンリー・ハーペンディング (Henry Harpending)

2010/10/23:進化論に関する本が続いていますが、今回は「一万年の進化爆発」だ。本書は、近年人間の進化が安定期に入ってほぼ停滞しているという一般的な考え方に真っ向から反論するもので、この一万年の間、進化は止まるどころか加速しているという主張をしている。

本書では詳しく述べられていないが、この進化の停滞を招いているのは、捕食者の存在がないなど選択圧・淘汰圧が低くなった事が変化を生む機会を低くしているのではないかというような考え方があるようだ。

原題では、「進化爆発」なんて云う表現を取っている訳ではないが、この進化爆発って一体どんな状況を指すのだろうか。作為的に一旦、「進化」と云う言葉を変化と捉え直して考えてみる。変化が爆発的に起こったというのであれば、それは多様性が拡大している。変化するスピードが加速しているというような事を指すと考える事ができるだろう。

イーストサイドストーリーと云われる人類の拡散の歴史を振り返ると、人類の祖先の旅は、拡散と同時に多様性の拡大を推し進めたが近年、人類は均一化に向けて激しく混じり合ってきたと云う事が言えるハズだ。

つまり本書は、一万年の間にこの均一化、特定の遺伝子のセットが世界規模で拡散するスピードが爆発的であったという事を表していたのだ。

目次
:第1章 概観ー世の中で一般に信じられていること
第2章 ネアンデルタール人の血
第3章 農耕の開始による大きな変化
第4章 農業のもたらしたもの
第5章 遺伝子の流れ
第6章 拡散
第7章 中世の進化ーアシュケナージ系ユダヤ人の知能の高さはどこから来ているか?


本書は、積極的に遺伝子の働きが知性にも影響を与えていると示唆した上で、こうした生きる上で効率的であったり、有利であったりした遺伝子のセットがこの一万年の間に結果的・選択的に世界に爆発的に広がったという事を表している。

遺伝子の拡散は、ジャレド・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」でも紹介されていたように、他の民族を蹂躙し、互いの国や都を滅ぼし合う形で無慈悲で残虐的な形で断続的・重層的にそれこそ地球全土を何周もする形で実行されてきた。

結果我々は病気に強く、農産物の消化吸収に適応した遺伝子のセットを持っているものが大半となった。
現在、僕たちと地球の反対側で暮らす人間との遺伝子のセットの差は、同じ森で暮らすゴリラの集団間の遺伝子セットの差よりも小さくなってしまったという説ある。こうした差異の縮小は遺伝子の爆発的な拡散によるものだと云うことが出来るだろう。

遺伝子が生物のボディプランの設計図となっているとしても、その設計図にどこまで依存しているのか。
形質、身長等の体型、性格、学力のようなものについてはどうなのだろうか。

個人的には、進化論で、ドーキンスとグールドが所謂「氏か育ちか」で揉めている事の本質的な部分が非常に解りにくく、うろうろとしていた訳だが、ドーキンスは遺伝子より高次のレベルでの適応、適応主義については懐疑的とするかなりラディカルなスタンスを取っている。つまりドーキンスは遺伝子以外で形質が世代を越えて伝わる手段はないと云っているらしい。

最新の科学の進歩によって特定の遺伝子が目の色や体質、ある特定の病気を引き起こしたりする事が解ってきた。

シープドックや猟犬など犬でも種類によって性質や学習能力に大きな差がある事はよく知られている事だ。僕たち親子は容姿に止まらず、時としてびっくりさせられるようなことまで似ている部分がある。

一方で息子と娘は似ていない部分も随分とある。性格だって全然違う。これは我が家が特別な訳でもなく、ご近所の子供たちの友人らのご家庭でもごく普通の光景ではないだろうか。受け継がれていく形質が遺伝子によるものだということは理屈では理解できても、すべて遺伝子によるものだと云うのは、なかなか割り切れない話しだ。形質を伝えるのは遺伝子だが、個々の生体が発現する形質にはやはり育ちが関与するものだと理解すればいいのだろうか。

適応、形質、遺伝子、遺伝情報これらの用語はややこしい。本書を読んでもやっぱりよくわからない。
そして残念ながら「銃・病原菌・鉄」のような鮮やかな切れ味はありませんでした。


△▲△

フランキー・マシーンの冬
(The Winter of Frankie Machine)」
ドン・ウィンズロウ(Don Winslow)

2010/10/23:東江さん。ありがとう。至福の時間をありがとう。待っていた「フランキー・マーシーンの冬」。ドン・ウィンズロウはまたしても見事に読者を欺き、予想外で絶妙な角度でボールを放ってきましたね。いやはやこんなお話だったとはねー。

「犬の力」では、なかり政治色強いメッセージを放つ重く濃厚な物語でありましたが、こちらは「ボビーZ」。おっとこれ以上は書かない。これでも書きすぎなぐらいですね。すみません。

何も情報を入れず、一気読みすべき本がここにあります。どうしたらこんなに走るストーリー、キャラクターを生み出すことができるのでしょうか。

何より見事なのは伝説の殺し屋と呼ばれた、フランキー・マシーンの過去と現在を行き来していくその見せ方にある。こうしていくことで何故フランキー・マシーンなのか、伝説の殺し屋なのか、そして現在進行形の出来事の全貌が見えてくる訳だ。読者はジラされつつもしっかり読まされる。これほど加速力・推進力を持った本は他にあまり思い浮かばない程のパワーで走りきっていく本でした。読み出したら止まらない止められないという訳ですよ。お客さん。

ウィンズロウの活躍は目覚ましい。新作"Savages"はエルロイから絶賛されたコメントが寄せられている。ウィンズロウの活躍には目が離せなくなってきた感じですね。

しかし、オフィシヤルサイトでは何故かニール・ケアリーシリーズや「歓喜の島」が紹介されいない。契約の関係かなんかがあるのかもしれないけど、ニール・ケアリーシリーズから追っかけ続けている古株のファンとしては少し寂しい。ニール・ケアリー、面白いんですよ。どれも皆。是非こちらもご一読をお勧めします。




更にウィキペディアの記載では、

2008: The Dawn Patrol
2009: The Gentlemen's Hour
2010: Savages
2011: About Tommy Flynn

なんてオフィシャルサイトにはない作品についても書かれていた。なんだこの"The Gentlemen's Hour"って・・・・・・。気になりますねー。すごく気になる。


本書は、ロバート・デニーロが映画化権を買ったらしい。マイケル・マンも絡んで映画化が実現するかもしれないようですね。


「キング・オブ・クール」のレビューはこちら>>

「犬の力」のレビューはこちら>>

ニール・ケアリーシリーズのレビューはこちら>>

「サトリ」のレビューはこちら>>

「夜明けのパトロール」のレビューはこちら>>

「野蛮なやつら」のレビューはこちら>>

「紳士の黙約」のレビューはこちら>>

「ザ・カルテルこちら>>

「報復」のレビューはこちら>>
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進化の運命-孤独な宇宙の必然としての人間
(Life's Solution: Inevitable humans in a Lonely Universe)」
サイモン・コンウェイ=モリス(Simon Conway Morris)

2010/10/10:生命がどのように誕生したのか。これは大変重要な謎である訳だが、一旦これを脇に置き生命を原始の地球の環境で約40億年、進化の過程を再度辿らせたとしたら、どのようになるのだろうか。40億年前の地球と全く同じ環境の星に原始的な単細胞生物をひとつまみ送りこみ、40億年そっとしておいてからそっと蓋を開けたらどうなるのかということだ。

その星に降り立った我々を迎え出る生き物は果たしてどんな姿形と多様性を持っているのだろうか。僕らと寸分違わぬ姿と知性と文明を持った人が迎えに出てくるのだろうか。それとも想像を超えた形の知的生命体が現れるのだろうか。

地質年代的な時間での地球環境の激しい変動とその原因を作ったと考えられるたび重なる隕石の衝突を思い起こすに、まるで料理を作るように、同じレシピで同じ方法をとったからと云って、全く同じ生き物が生まれる事があり得ないということはちょっと考えれば解る事だろう。加えてスティーヴン・ジェイ・グールドらは、人類のような知的生命体の誕生について、これが他の場所で出現する可能性は絶望的に低い、と云うかあり得ないと主張した。

生物進化の過程には、様々な道筋がある可能性があるが、知性の誕生は唯一無二だということに本書は異議を唱える。更に知性だけではなく、生物の持つ様々な特性は物理的・化学的な制約の基で成立していることから、地球に似たような星にもし生物がいたら、泳ぐものがいれば魚に、飛ぶものがいれば鳥に、とても似通った特性を持っており、十分な環境が整えば知的生命体の誕生もあり得る、と云うか寧ろ知性の誕生は必然ですらあるハズだというのが本書のスタンスなのである。

ひょっとして創造主義?と一瞬思ったが、どうやらそうではないらしい。


 現実に進化が起こったことを否定し、意図的に科学的証拠をねじ曲げてファンダメンタリスト<キリスト教原理主義者>の教義を支持するようなでたらめを言うことは許されない


とサイモン・コンウェイ=モリスは主張している。

サイモン・コンウェイ=モリスもスティーヴン・ジェイ・グールドも、リチャード・ドーキンスも同じく進化論を唱え、ダーウィンの思想を継ぐものである訳だが、彼らの主張は噛み合わず激しい論争と云うか、時として感情を発露させた悪口の応酬を重ねているのだが、その主張の違いは非常にわかりにくい。

最もダーウィン的であるとされているのが、ドーキンスで進化の中核を担っているものは遺伝子そのものであるとし、遺伝子より高次のレベルでの適応、適応主義については懐疑的である。つまりは氏か育ちかという点で、グールドと袂を分けている。

ドーキンスを正統派ダーウィニズムと呼ぶなら、グールドは修正ダーウィニズムと呼ばれており、彼は断続平衡説を唱えた。断続平衡説は進化が日々起こる訳ではなく、比較的長い安定期を経て、ある時点で突如変化・分岐を起こすことを繰り返したと考える。この変化の引き金になるものは遺伝子的な跳躍ではなく、環境だということだ。簡単に言えば育ち重視かと。

これに加えて、グールドは宗教と科学の両立される道を模索したのに対して、ドーキンスは人類は宗教を捨てるべきだとかなり極端な意見をもって対峙した。そして、この二人のどちらにも与していないのがサイモン・コンウェイ=モリスだ。本書では収斂進化を取り扱うが、収斂進化とは、種やドメイン等の閾にかかわらず、同様の特性を獲得した生物は、結果的に似たような特徴を持つようになるとするものだ。

この収斂の生物の例は夥しく、言われてみればなるほどというものが次々と紹介されていく。地球環境で利用できる原子、分子は当然有限で、その組み合わせは莫大なものだが、生命の部品として利用可能なものは限られており、骨格、筋肉、神経といったものを全く違うマテリアルで生成することは寧ろ難しいという。

つまり、生物進化のテープを巻き戻して、最初から繰り返したとしても全く身体的特徴や素材が違う生き物が生まれる可能性は低く、地球に近い環境にもし生物がいたとしたら、我々の星と非常に似たような形、似た素材によってできた生き物になっている可能性が高いという訳だ。

また更にサイモン・コンウェイ=モリスはこの収斂進化を分子レベルの素材にまで拡張することで、この宇宙に生物がいるなら、その素材と形質にはある程度のパターンがあるハズでその向かう先には知性があるとしており、創造主義ではないにしても、神の見えざる手の存在を前提としたような考え方に立っているような気がする。

ここらあたりの主張は非常に微妙だが、酸素を利用して生きていく以上、これを利用するための化学変化は当然定まってくる訳だし、骨格として使える元素や、はたまた遺伝暗号に使えるタンパクの形質はなんでも良いと云う訳ではなく、寧ろ今の我々が使っているもの以外を捜し出すことは非常に困難だというのは見すごすことのできない事実だ。

個人的には、遠く銀河の反対側にある遠い星に生きる生き物が、魚のような形で海を泳ぎ、鳥のような姿で飛んでいるかもしれないということを素晴らしいと思う。確かに泳ぐためのデザインや飛ぶためのデザインは、その環境から大きな制約を受けるため、似通った素材で似通ったデザインに収斂していくだろう。その光景が美しいように、この地球の生き物たちもやはり美しく素晴らしいものだということに改めて深い感慨を覚える。

これが宇宙創造の時点から予め設計されていた生命のデザインだ等と云うのであればそれは創造主義的と呼ばれても仕方ないものなのかもしれないが、一般人の見識としてこうした事実に神々しいものを感じ取ってしまうことまでを創造主義的とするのは行き過ぎなのかもしれない。ここで云う神々しいとは、特定の宗教や神をさしている訳ではなく、人間の存在に比べて自然界の広がりと深さに対する畏怖の念というようなものだと僕は思う。

この宇宙では何度生命が誕生したのだろうか。宇宙のあちこちで、この地球と同じような景色の下を鳥や魚が泳いでいる星があって、そしていつか僕らが互いに挨拶を交わす日がくるかもしれないと考えるのは非常に素敵で楽観的な考え方ではないだろうか。僕はそんな日がやってくることを信じたいと思う。そして、自分たちの想像によって生み出した神の存在を勝手に信じこんで、互いの神を批難してその果てには殺し合ったりしている場合ではないと思う訳だ。


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マキャベリアンのサル(Macachiavellian Intelligence)」
ダリオ・マエストロピエリ(Dario Maestripieri)

2010/10/08:尖閣諸島がそもそも誰のものなのか僕はよく知らない。と云うか誰のものなのかは誰が決める事ができるのだろうか。そもそも長く無人島の状態でありながら領土だと互いに主張しあうのにはそれなりに理由がある訳で。

勿論資源という問題もあるし、中国としては日本海の南側に台湾までネックレスのように広がる南西諸島群を通らない限り外洋に出にくいという事情もある。ここにきてロシアのメドベージェフ大統領が北方領土を訪問するということで、日本国内では反対する声が上がっている。

メドベージェフ大統領は柔そうな外見とは裏腹にかなりの強硬派であり、国内でも強権発動を辞さない強い姿勢を見せることが多い人物だ。ロシアと中国が領土問題で同じような圧力を日本に加えてきているのは単なる偶然だろうか。それとも日本の政権が不甲斐無いことに漬け込んでごり押ししてきたのだろうか。

僕個人としては、彼らにとっては日本の政権なんて二の次で、今回彼らが動き出したのはオバマ政権の弱体化につけ込んできたものではないかと感じる。

ブッシュⅡが保守党でありながら、まるで共和党の先頭を切るような形で政府の弱体化・縮小化を進め、キリスト教原理主義者とネオコンたちによって、国益と称する、身勝手な行為へと暴走してしまったことを、共和党でありながら国民皆保険の導入や福祉・教育、石油確保の為の軍の出動などを回避するまるで保守のような政策を掲げて大統領に就任したオバマという大変なねじれを生んだアメリカであった訳だが、ここにきて、共和党が二つに割れているという。それは本来のハイエク、シカゴボーイズたちが標榜した小さな政府の実現をあくまで追う人々と、そうでない人たちによって分裂しているのだろう。

ニュースでは、国民皆保険の導入に向けて演説する大統領に前代未聞の「うそつき」とやじを飛ばした共和党のジョー・ウィルソン(Joe Wilson)などと云うような人が支持を集めてオバマ大統領の足元をすくおうとしているのだ。

つまりアメリカが内政でどたばたしている間に、ちゃっかり動き出していると僕は見る。北朝鮮の後継者問題がこの時期にぐくっと進んでしまったことも勿論偶然ではないだろう。多くの少数民族を抱えた大国でありながら、その権力と富をほんのわずかな人たちが独占し、世界の覇権を奪い合う形で向き合うアメリカと中国は、これまでにないほど似通った国になってきたと思う。

国際政治の話をだらだらと書いてしまったが、この現在の国際政治の根底に流れるある定石というか、原理原則は古くから実は全く変わっていない、国家は昔からその属する国民にとっても、隣国に対しても無慈悲で利己的なものであり、権力者によってどうにでもなるものであり、事実そうされ続けていた訳であり、権力者はその権力を拡大するためとこれを維持するために権力をふるうのだということだ。

これを総じてマキャベリ的というのではないだろうか。

アメリカが中東やアジアでの対立を生むような選択をし続けるのは、アメリカ、その中でも更に一部の権力者たちにその権力と富をより集中化させるためである訳だし、それは中国でもやっていることは反対でも、目的は同じ事だ。

こうしたことがマキャベリ的であるといわれるのは「君主論」を書いたニッコロ・マキャベリがそこで述べた政治論・統治論に由来する訳だが、これは彼が発明した訳でも発見した訳でもない。
彼の時代の君主らが取っている行動から読み取って書いたのであって、統治する側の権力者にとっては寧ろ当然のことだったはずなのだ。、

本書は、実はこのマキャベリ的な行動性向は実はマカク属のサル、ニホンザルをはじめとするアカゲザルたちの社会においても非常に強い類似性をもった行動性向が認められるというものなのだ。

それは集団内の階級、他の集団との戦い、オスとメスの駆け引き、そして母子の関係など、さまざまな観察事例から、彼らの計算高い意思と、それらの行動によって支えられ、長い間引き継いできた種の連携。

彼らの行動、選択は結果的に自分に近い遺伝子を持つ子孫をできるだけ多く残そうとする事そのものだったのだ。

エネルギー、食料、水、そして領土問題ははやりわれわれの生存を支える第一のものであるわけで、こうしたものをできる限り自分たちのものとすることで自分たちにより近い祖先をより多く残そうとすることは、霊長類としての本能である訳だろう。わたしたちの社会も手段はより大規模でより徹底したものになったがサルたちと本質的には同じ理由で戦っているのだ。

残念ながら本書は、マキャベリ的とするその定義も踏み込み不足であり、サルたちの行動性向についてももう少し整理が必要な感じでありました。

また大型の霊長類と人間、アカゲザルとを比較して人間の社会がなぜ遺伝的には遠いはずのアカゲザルたちの社会に似ているのかという点でも、謎が埋まらない歯がゆいところの多い本でありました。


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死者の舞踏場(Dance Hall of the Dead)」
トニイ・ヒラーマン(Tony Hillerman)

2010/10/08:先日、我が家のパソコンが突如意識不明に陥りました。少し前から若干挙動がおかしかったのだが、朝パソコンの画面が目の前でいきなり落ちて真っ黒になった。すごくびっくりしたというか、ショックでした。HDDのデータはどうなっちゃうんだろうかとか、もっとマメにバックアップしとけばよかった、最後にやったのは何時だったっけとか、ただただオロオロするばかりでありました。

以前親戚の家が火事になって、その際勿論資産としての家を失ったこと、それに加えて本やアルバムや自分たちの思い出の一部を喪失した、ついては自分たちの心身の一部を失った思いだということを目の当たりにした事があった。うかうかしているとパソコンのデータ喪失はそれに近い損害を生じさせる可能性がある事に思い当たり呆然としました。

カミさんからは、「パソコン依存症」と呟かれ、確かにそれはその通りなんだけど、写真やビデオのデータから、各種サイトのブックマークから、ログインID、ソフトウェアのライセンスなどなど、単にハードウェアの喪失ではすまされない情報資産の喪失の危機にあって、これが冷静でいられますかというのも致し方ない状況ではないかと思う訳ですよ。

幸いにも今回の障害の原因はまさかのマザーボード。HDDは無事だったということで胸をなでおろしておりますが、修理代金はなんと五万。大変痛い出費でありました。

そんな心穏やかではいられない事態にあって、なかなか読書にも集中できない。じくじく思い悩んでも仕方がない訳なので、ここは一つ肩の力を抜き、夢中で読めるような一冊に逃げ込むことにしようと、引っ張り出してきたのが本書「死者の舞踏場」でありました。

トニイ・ヒラーマンの本はどれも面白いのだけど、残念ながら今手元に残っているのは数冊だけ。その一冊がこの本だ。早川のミステリアス・プレス文庫1995年7月の初版本。彼はドイツ系アメリカ人の出なのだが、親が反戦主義者であったことから、幼い頃からナヴァホ居留地で育ったという特異な経歴の持ち主だ。

そしてナヴァホの文化・思想に触れて育った経験を生かして書かれたのが、ナヴァホ警察の刑事、ジョー・リープホーンを主人公としたシリーズなのだ。本書「死者の舞踏場」はシリーズ三作目にあたる。リープホーンのシリーズは後半、若手警察官のジム・チーが主役級に加わり、二人が交錯する形の物語やリープホーンが殆ど登場しない作品もあったりとあるものの、全体ではジム・チーのの成長譚とそれを見守るリープホーンという話しが大きな幹となっている。彼らが登場する作品は確認できる範囲で17作あってなかなか長大なものになっている。

しかし、残念ながら訳出されている本は虫食いでなぜかその順番もバラバラ。読んだ本はどれも全て、美しい自然を背景に、ナヴァホ居留地の人々の文化や価値観に触れることができるばかりか、ミステリーとして上質な二転三転予想のできない仕掛けも用意されていて大変面白いものであるだけに残念で仕方がない。

エルネスト・カータはズニ族の少年であった。彼はズニ族の秘祭のある重要な役割に抜擢された。その秘祭では大変な体力と集中力が求められる。
彼はその役割を全うするためにペインテッド・デザートでのランニングのトレーニングに余念がなかった。
彼に付き添っているのはジョージ・ボウレックスというナヴァホ族の少年であった。彼はナヴァホ族でありながら、強くズニ族に憧れ、絶対に無理なのに、いつかはズニ族として受け入れられることを望んでいた。

ジョージがしつこくズニ族の秘祭について質問してくることはエルネストにとって友人であるがゆえに困ったことであった。

邪念を振り払うようにラストスパートをしかけ、ジョージと自転車が待つ地点へと走りこんだエルネストを待ち受けていたのは頭に大きな嘴がついた鳥の仮面を被った男であった。

ジョー・リープホーンは呼び出しを受けてズニの警察本部へ出かけていった。少年が二人行方不明となったからだ。ひとりはズニ族の、そしてもう一人はナヴァホの少年。
彼らが最後にいたと思われる場所の地面には大量の血のあとが残されていた。二人を探さなければならない。そして自転車も。

リープホーンがジョージの弟セシルと話をすると、彼ら二人は付近でフォルサム文化の遺構発掘を行っている大学の研究室のキャンプに出入りをしていたらしいこと。そしてどうやらそこから何かを盗んでしまい、そのことで神の怒りを買ってしまったことを大変に恐れていたらしいことを聞きつける。

教えられたキャンプに行くと、そこではやや歳のいった研究員テッド・アイザックスが一人で砂漠の砂を掘り、篩にかけて遺物を探す地道な作業を行っていた。テッドによれば、確かにエルネストとジョージは何度かここに遊びに来たことがあったという。しかし、テッドもテッドの上司にあたる人類学の教授であるチェスター・レイノルズもこの場所から出土した遺物は厳格に管理されており、なくなったらそれはすぐわかるし、これまでになくなったものは絶対にないという。

また、リープホーンはセシルに教わったもう一つの場所へ向かう。そこは白人のヒッピーたちが暮らすキャンプだった。ジョージはそこにたびたび学校をサボって遊びに行っていたらしい。そこで暮らすスザンヌと云う少女はジョージと友達だったらしい。

彼女と話をしてみると、行方不明となった後に、なんとジョージは一人でこのキャンプへやってきたという。ジョージはズニの禁をやぶってしまったことから赦免を求める必要があるというようなことを繰り返し、ひどく急いでこの場を立ち去っていき、しかも何かに追われてるようでもあったという。

そんな中、エルネストの死体が発見される。捜査にはFBIに加えて、身分を伏せただがどうやら麻薬取締局の捜査官も加わって、ジョージの足取りを追うことになる。なぜ、こんな事件に麻薬取締局が首を突っ込んでくるのだろうか。いぶかるリープホーンだったが、そこに第二の殺人事件が発生する。

そして事件はさらに予想を超えた展開を見せ始める。ジョージの足取りをあくまで地道に追い続けるリープホーン。リープホーンは果たしてジョージをみつけだすことができるのだろうか。そして事件の真相は。

残念ながらズニ族とナヴァホ族との微妙らしい関係、ブエプロ、そしてフォルサム文化との繋がりはこちらの知識不足で細かい機微が読み取れない。しかし、こうした文化的、歴史的背景を元に物語は非常に説得力のある結末へ向けて進んでいく。
うまい。さすがであります。


「黒い風」のレビューはこちら>>
「魔力」のレビューはこちら>>
「話す神」のレビューはこちら>>
「時を盗む者」のレビューはこちら
「死者の舞踏場」のレビューはこちら>>
「コヨーテは待つ」のレビューはこちら>> 「聖なる道化師」のレビューはこちら>>

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江戸知識人と地図
上杉和央

2010/10/08:延享5年(1748)伊勢国松坂の小津栄貞と云う17歳になる青年が描いたと云う地図が紹介される。一軒一軒の家の主の名が書き込まれた精緻な地図なのだが、この地図、場所も書きこまれている人々も土地の当主をはじめ全て架空のものなのだという。

更にこの地図の背後には、書き込まれている架空の人々の階級・地位が階層的に整理されたかなり詳細な組織図があり、それに基づき屋敷の広さや配置が決められているという。この小津栄貞と云う青年はなぜこのような地図を描いたのだろうか。

なぜ弱冠二十歳前後の青年が、このような極めてユニークな地図を作製し、また、いくつもの地図を収集していたのだろうか。
この問いに対する研究視角としては、ひとまず次の二つがあるだろう。一つには個人に着目する視角であり、栄貞がどのような人物で、どのような知的関心、とりわけ地理的関心を抱いていた人物なのかを調べ、地図作製ないし収集の動機や経緯、その影響に迫る方法である。

もう一つは、より広い視野で当時の社会的・文化的状況に着目し、その中でこのような地図の作製・収集がなされた背景・文脈を明らかにする方法である。これら二つの接近方法は、具体的な視点と全体的な視点という相補的なものであり、言わば「木」と「森」の関係にある。

これら以外に方法はいくらでもあるだろうが、個別具体的な事例の検討を積み重ねると同時に、コンテクストを加味してその時代の一般性を探ることは、何にもまして不可欠な作業であり、この二つの研究視角によって何らかの見通しをつけることが重要かつ有効であろう。

彼は他の人たちから地図を借り受け模写することで地図を収集し、更には複数の地図から得た情報を基に新しい地図を作るようなことまでしていたのだ。地図を描く、収集することは当時の流行の一つだったりしたのだろうか。

小津栄貞はのちに国学者として名を残す本居宣長(もとおり のりなが、1730年6月21日(享保15年5月7日) - 1801年11月5日(享和元年9月29日)その人だという。本居宣長は江戸時代日本の国学者・文献学者・医師という大変多才な人物であったようだ。僕は、国学も本居宣長も恥ずかしながら知らなかった。

彼が抜きん出た才能を持っていたことは間違いないのだが、突然変異、または突如彗星のように現れたという訳ではないらしい。彼の行為の背景には同じようなことをしている人々いて、それはあたかも知識の森のように林立していたこと、そうした知識人たちのネットワークが形成されていたことからこそ本居宣長の知が開花できたというようなことはないのだろうか。

こんな問いからはじまる本書は、本居宣長の地図の貸し借りをしていた人々や、「異物あつめ」と云う異国の珍品を集めていたコレクターの人々とのネットワークを丹念に調べることで、本居宣長を取り巻く時代の知識人たちの、濃厚なネットワークを蘇らせ、そしてまたそうしたネットワークによってもたらされる新たな知の地平線を目指した彼らの、ある意味貪欲ともいえる知識に対する願望が浮かび上がってくる。それは、地理と歴史を合体させた歴史アトラスと著者が呼ぶ、史・誌を含んだ地図なのであった。

地図を本格的に作製し始めた寛延二年の段階には、「志」(「書」)と「図」を相補的な資料としてとらえ、両者を不可分な関係としてとらえるようになっていた。この時点の幸安は「図書」作者、もしくはとトポグラファー兼カルトグラファーという表現がふさわしいような態度で地誌と地図に向き合っていたのである。

本居宣長が目指したものは、著者が呼ぶ「歴史アトラス」の作成だった。つまりそれは地理と歴史の融合で、自分たちの暮らす国・世界の成り立ちを根拠付けるものであり、歴史を踏まえてはじめて、現在の在りようがあって、だからこそ将来が見えるという極めて当然といえば当然の視線・視野なのであった。素晴らしいじゃないか。こんな生き方。好奇心を失ったらいかんですよね。いくつになっても。

と読んでいて気がついたのだが、郷土史と地図が合わさったガイドブックを収集して、実際にそれをもってフィールドに出て、訪ね歩くという事が楽しいというのは、最近の僕の行動性向でありました。
本居宣長が実践していたのは地図が完全ではない時代にあって、自らその情報を収集して作製することが目的だった訳だ。それってすごい慧眼ですね。さすが名を残す人の考えることはすごい。
でもきっとそれは楽しいことでもあったに違いないと僕は思ったりする訳です。

こうした活動を共に進め互いに支え合う知識人たちの森のようなネットワーク。博物学の先駆者的存在である貝原 益軒(かいばら えきけん、1630年12月17日(寛永7年11月14日) - 1714年10月5日(正徳4年8月27日))、「雨月物語」の作者でもある上田 秋成(うえだ あきなり、享保19年6月25日(1734年7月25日) - 1809年8月8日(文化6年6月27日)、初めて緯線・経線が記された日本地図を描いたという森 幸安(もり こうあん)(1701(元禄14年) - ?  )、そして江戸時代中期の知の巨人とされる木村 蒹葭堂(きむら けんかどう、1736年12月29日(元文元年11月28日) - 1802年2月27日(享和2年1月25日)、等、このネットワークはまだ日本地全図を幕府も作製されていない頃にあって、地域や商人やお侍などの地位を超え情報交換することで日本地図を作り上げていったのだ。

一人ひとりみな非常に魅力的で、彼らがどんな世界観を持ってどんなことを考え、どんな暮らしをしていたのだろうかと、僕の思考はしばし本から遊離していった。

現代人のそれと比べても全く遜色のない、というか一般人のレベルで言えば足元にも及ばない知識・英知に対する貪欲さと敬虔さがここにはあるのではないだろうか。
繰り返しになるが、僕は本居宣長のことを殆ど知らない。しかし本書を通して本居宣長の清さというか、直向な知識に対する姿勢に打たれる。

素晴らしいじゃないか。こんな生き方。好奇心を失ったらいかんですよね。いくつになっても。


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