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追跡・沖縄の枯れ葉剤 
埋もれた戦争犯罪を掘り起こす

ジョン・ミッチェル(jon mitchell)

2014/12/31:忙しかった2014年もいよいよ暮れようとしている。ほんと今年はいろいろありました。大雪、肩の負傷、飛び石でクルマのヘッドライトが割れ、義母と実父の入退院などなど、正に波乱万丈な年でありました。

年賀状の発送も家の大掃除も終え、お年越しの準備も着々と進み、どうにか家族みんな笑顔で年の瀬を迎えられそうなのは何よりのことであります。

今年最後の記事になるのはこちら「追跡・沖縄の枯れ葉剤」という本であります。作者ジョン・ミッチェル氏は、1974年ウェールズ生まれの日本在住のジャーナリスト。明治学院大学国際平和研究所研究員でもある方のようです。

この枯れ葉剤に関する報道を元に琉球朝日放送は2012年、「枯れ葉剤を浴びた島:ヴェトナムと沖縄・元米軍人の証言」というテレビドキュメンタリーを製作、本作は日本民間放送連盟賞 テレビ報道番組 優秀賞を受賞したそうであります。

ヴェトナム戦争の事もその前の沖縄の地上戦の事もいろいろと読みかじってきた自分としては「なるほど」とは思いつつ、「沖縄に枯れ葉剤?」ヴェトナム戦争における北爆であれだけ大量に枯れ葉剤を撒き散らしたアメリカ軍の重要な中継地点であった沖縄に枯れ葉剤があった事になんの不思議もないのではないかと僕は思った。

本書でも触れられてるが、沖縄ではこれまで数々の由々しき事態が起こってる。その筆頭は核弾頭を搭載したジェット戦闘機が空母から海に落ちて回収不能となっている話。僕はこれをドウス昌代の「トップ・ガンの死」で読んで詳しく知っている。

 化学物質の事故に加えて、核兵器に関連する事故も枚挙にいとまがない。1965年、沖縄近海130キロの場所で、米海軍の空母USSタイコンデロガの甲板からジェット機が落下しコックピットの操縦士もろとも水没した。その機体には一メガトン、広島に投下されたものの八十倍の核爆弾が搭載されていた。米国防省がこの事件を認めたのは1981年になってからのことで、水没した核兵器の回収すら、いまだに行われていない。1968年8月には、沖縄のさらに沿岸近くで核汚染が起こった。放射性物質コバルト60が那覇港で検知され、それは那覇港に頻繁に寄港していた米原潜から排出されたものであることが発覚した。この種の事件が報道されれば沖縄住民から不安の声が上がるだろう。しかし、私が調べた範囲だけでも、同種の事件は米軍によって隠蔽され、メディアに公表されていないものが多い。例えば1959年、ナイキ・ミサイルが那覇空軍基地から誤って発射され、南シナ海に落ちた。ロケットエンジンの後方噴射で近くにいた兵士二名が死亡し、生存者が「ミサイルには核弾頭が装填されていた」と証言した。空母USSタイコンデロガの核爆弾水没事件と同様に、このときのミサイルはいまだに発見されていない。


加えて最近読んだ、ティム・ワイナーの「CIA秘録」には、CIAが日本の自衛隊の基地内で北朝鮮のスパイと目される人物に対し「ウルトラ」と呼ばれる薬物、当時はまだ実験段階のものを使って尋問・拷問を行っていたなんて話もある。

アメリカ政府のやり方を殆ど信用していない僕としては沖縄に核兵器や生物化学兵器があったといわれてもびっくりしない。「ある」と言えないから「ない」と言っているだけにしか思えない。残念だけど。

そんな状況で枯れ葉剤がどうだというのか。僕が気になっていたのはこの先の部分だ。なぜアメリカ政府や軍は沖縄に「枯れ葉剤」はないといい続けているのか。核兵器の持込みは日本政府に対する建前があって「ない」と言っている訳だが、枯れ葉剤の場合は事情が異なる。本書を読み進んでいくとこのアメリカ軍、アメリカ政府のおぞましい意図が明らかになってくる。

もくじ
プロローグ
第Ⅰ章 エージェント・オレンジ:半世紀の嘘
第Ⅱ章 ヴェトナム戦争と沖縄
第Ⅲ章 元米兵が語り始める
第Ⅳ章 沖縄住民への影響
第Ⅴ章 文書に残された足跡
第Ⅵ章 沖縄、エージェント・オレンジ、レッド・ハット作戦
第Ⅶ章 海兵隊普天間飛行場:汚された沖縄の未来
第Ⅷ章 決定的証拠の行方
エピローグ

軍用の枯れ葉剤は6種類あり、それぞれを区別するために容器の縞の色で識別されていた。その色は白、オレンジ、紫、ピンク、緑、青でそれぞれ、エージェント・ホワイト、エージェント・オレンジ等と呼ばれていた。

エージェント・ブルーにはヒ素化合物とカコジル酸化合物、エージェント・ホワイトにはHCB(ヘキサクロロベンゼン)、ニトロソアミンという発がん性物質が含まれていた。

残りのパープル、グリーン、ピンクはそれぞれ配合が異なるがどれもエージェント・オレンジと同等かまたはそれ以上の、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) と 2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸 (2,4,5-T)を含んでいた。この2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) と 2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸 (2,4,5-T)は一般の除草剤にも使用される化学物質だが、軍用として使用された枯れ葉剤では安全使用許可の何百倍にも濃縮されていたこと、そして更には短時間で生成するために副産物として高濃度のダイオキシンが混入していたという。

エージェント・オレンジに混入していたダイオキシンはPCDDと呼ばれる種類の中でも特に毒性の高い2,3,7,8-TCDDであった。2,3,7,8-TCDDによる症状は、そのままウィキペディアから引用させてもらいます。

 2,3,7,8-TCDDに暴露したヒトや実験動物の事例よりダイオキシン類に暴露すると急性・亜急性に次の現象・症状が現れると考えられている。
体重減少(消耗性症候群)、
胸腺萎縮
肝臓代謝障害
心筋障害
性ホルモンや甲状腺ホルモン代謝
コレステロール等脂質代謝
皮膚症状(クロロアクネ)
学習能力の低下をはじめとする中枢神経症状

 ダイオキシン類の残留濃度が高い場合、糖尿病を発症するリスクが上がることが国外の研究や、厚生労働省による研究で分かった。
 台湾におけるPCDFの事例からは子供の成長遅延、知力の不足、頭蓋骨の石灰沈着異常、舟底踵、歯肉の肥厚、異物性結膜炎の水腫様の眼症状等が認められている。

段々と胸が悪くなってきましたが、話を元に戻してどうしてアメリカ政府は沖縄に枯れ葉剤はなかったといい続けているのかというところ。

沖縄に枯れ葉剤があったと認めると、退役後障害を発現した兵士たちに対する補償というツケが回ってくるからなのだ。沖縄に枯れ葉剤があったとしたら当然、それを移動させる過程で薬剤に接触している可能性が生じ、癌や障害を持って生まれた子供達との因果関係を問われることになる。

だから、そんなものは「ない」と「知らん」という訳なのだ。しかもその責任を回避するためには、沖縄にいる人たちの障害も環境汚染も勿論知らんという訳だ。

化学兵器を戦場で使用することは「戦争犯罪」なのかもしれないが、使う前に自国の兵士たちに害を及ぼしていながら知らんぷりを決め込むのはどんな罪なんだろうか。

本書では著者が執念でこの事件を追い、退役軍人たちの被害の報告や政府の所業が徐々に明らかになっていく過程が描かれている。正に地を這う調査だ。これまでなぜこうした事実がなかなか明らかにならずにいたのかと云えば退役軍人省による報復措置を恐れて皆口をつぐんでいるというような状況があるらしい。年金や補償を取り上げてしまうようなことを実際にやるような組織なのだという。

組織ぐるみで都合の悪い事実を隠蔽するのはアメリカ政府のお家芸であることは先のフィリップ・シノンの「ケネディ暗殺」を読んでも明らかだ。よってたかってある事ない事をばら撒き白黒つかない訳のわからない事態に物事を持ち込むのもまた得意分野だ。


 米国政府の姿勢は、自国の被爆兵士たちへの仕打ちに表れている。米兵たちは任務中に負傷すれば、つまり被弾や砲撃のショック、毒害などいずれでも、医療費の補償を受ける資格がある。アメリカの医療費の高さはつとに知られているところで、補償は文字通り、彼らの命にかかわる。この受給資格を決定する権限を所掌している政府機関が、退役軍人省である。

 1978年、退役軍人省はすべての支部医療機関に対して機密書簡を送り、除草剤被曝のヴェトナム退役兵に対する補償金を認定しないように通達した。病に冒された退役兵たちの申し立ては滞り、作成した書類は行方不明になり、探せと指示される在りもしない記録探索は徒労に終わった。病気の兵士を支援してくれるはずの政府機関が、政府の隠し事で主要な役割を果たしていた。

 このような不誠実な対応に不満を抱いた元米兵が1979年、モンサント社やダウ・ケミカル社など、軍用除草剤を製造した複数の製造会社を相手取って集団訴訟を起こした。集団訴訟は、会社や政府によって被害を受けた多数の個人が集団で行う訴訟で、これまでもタバコ会社や漏洩事故を引き起こした石油会社などの責任を追求する手段となってきた。

 エージェント・オレンジ訴訟において、製造会社は、法廷闘争に持ち込んだ兵士たちはそのうち亡くなるか、あきらめるだろうと見込んで、五年をかけて手続きを遅延させた。1984年までに、製造会社の敗訴が確実になると、会社は法廷外での結着を提案した。退役兵の代理人弁護士たちは、当事者たちの意見を汲むことなく、一億八千万ドルという雀の涙のような金額で、和解に合意してしまった。被曝による障害を完全認定されたものが受け取ったのは十年間で一万二千ドルというわずかな金額だった。しかもこの賠償金を理由として、彼らの多くが医療補償金を受領できなくなり、結果として一層の窮乏状態に見舞われる者も現れた。


また沖縄ではどれほどの人々に健康被害があり、環境はどこまで汚染されているのか。まだまだこの実態は明らかになっていない。この背景には基地に依存した経済活動を営んでいる人たちや、土壌汚染が明らかになることで不利益を蒙るような人たちの存在なんかもあるようだ。

沖縄の枯れ葉剤問題には埋もれていた深い闇があった。そこにはアメリカに踏まれた日本に踏まれるという沖縄の構図も浮かび上がってくる。僕はこのあたりでどうにも考えがまとまらなくなってきた。

この記事の後半部分はもう三日もいじくりまわしているのに全然纏まらない。

それは先の総選挙では自民党が圧勝したが、沖縄だけが違ったという話。僕はこれに拍手喝采した。

とか。

しかし果たしてこの結果で基地返還へと大きく舵が切られることになるのだろうか。確かに普天間基地の問題では少し前進もあるかもしれない。しかし沖縄から基地がなくなることは当面ありそうもないとも思う。

とか。

沖縄が基地経済なしにやっていけるのか。未成熟でアメリカに依存した日本の政府はアメリカの駐留なし隣国と外交を進め安全保障を維持できるのか。日本が単独で外交や安全保障を訴えだしたらアジアはどうなっていくのか。夫婦で定年後は移住しようと真剣に検討していたこともあるほど通いつめて惚れていた沖縄。あんなに美しい場所に何してくれてるんだアメリカは。

とか。とか。とか。

などと思いは千々に乱れていくのでありました。

そもそも沖縄は誰のものなのか。という問いさえ人間の傲慢さを想起させるものであることに改めて気づかされる一冊でありました。

本書の裾野は広く深く広がっている。

やや強引ではありますが、このへんで失礼させていただきます。
皆様よいお年を迎えください。
新年はよりよい年になりますように。

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ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言
(A CRUEL AND SHOCKING ACT
The Secret History of the Kennedy Assassination)

フィリップ・シノン(Philip Shenon)

2014/12/28:上下二巻、最後までなかだるみなく読み終えました。じわじわとくる読後感の衝撃は深く長い余韻を残すものでありました。読者の心を読んだ計算された構成。素晴らしい構成。

しかし僕はここでどこまで書けるのか。何を書いてもネタバレになってしまう。未読の人の読書の妨げになるようなことは廃することを信条とするわがサイト。その意味で本書はどこもかしこも歯が立たない感じなのでありました。

本書に対する読者の興味といえば何と言っても、ケネディ暗殺の真犯人は誰なのかであろう。

オズワルドは本当に直接の狙撃手だったのか。

勿論本書はこの部分に対して明確な回答を持っている。しかし、その結果を書いてしまうのはネタバレそのもの。書くわけにはいかない。

この真犯人を核としてこの暗殺事件にはまるでたまねぎの皮のように様々な謎がまとわりついている訳だが、本書はこれらほぼすべてに対する答えを持っている。しかしこれについて言及すると真犯人が透けてしまうのでやはりこれも書けない。

狙撃手は一人だったのか複数だったのか。複数だったとしたらどこから撃っていたのか。果たして何発銃撃されていたのか。またオズワルドやジャック・ルビーは何らかの組織に雇われていたのか。

ケネディの暗殺事件はまた、この数々の謎を取り囲むようにいろいろな風説が流れ現代の陰謀論のいわば爆心地的な存在となっている訳なのだが、この風説・陰謀論がなぜかくも広く長く流布し僕らを幻惑し続けているのか。

ソ連やキューバ、はたまたジョンソン副大統領やチームスターなんかがこの暗殺に関与していたのか。

驚くことに本書はこれについても、「あぁなるほどそうであったか」という真相を明らかにしていく。そして当然のことながらこのことについても言及すれば、ネタがばれてしまうので書けないのでありました。

もどかしい。

しかも本書はその先を行く。地元の警察、FBI、シークレット・サービス、CIAといった組織やそこに属する個人がどの様に行動していたのか。ウォーレン委員会とはどんな組織で他の組織とはどんな関係であったのか。


 ウォーレンの承認を受け、ランキンとウィレンズは調査を六つのエリアに分けることにした。エリア1は大統領が11月21日の木曜日にホワイトハウスを出発してテキサスの旅をはじめた瞬間から、彼の遺体が11月23日の土曜日の夜明け前にホワイトハウスに戻って安置された瞬間までにあったことすべてのスケジュール表を再構成する。エリア2は、大統領の暗殺者、たぶんオズワルドの正体を─願わくは疑いの余地なく─確証する証拠を集める。エリア3はオズワルドの人生を再構成する。エリア4は想定されているようにソ連とキューバに焦点を当てて、外国の陰謀だった可能性を調べる。エリア5はジャック・ルビーの経歴を調べ上げ、彼とオズワルドのあいだにつながりがあった可能性を探す。エリア6はシークレット・サービスがケネディ大統領に提供していた警護の質と、大統領を危害から守ってきたそれ以外の法執行機関の努力の歴史を調査する。


また、ジャクリーン・ケネディやオズワルドはどの様にこの世の中をみていたのか。


 《ライフ》は教科書倉庫前のエルム通りをゆっくりと走りだした大統領のリムジンの写真ではじまる三十齣を掲載していた。白黒で公表されたそれぞれの齣は、大統領があきらかに首に銃弾を受け、それから妻の膝に倒れ込む姿を捉えていた。のちの齣では、大統領夫人が、雑誌の編集者がキャプションで描写したように「痛ましくも助けを求めて」、車のトランクによじ登ろうとする姿が映っていた。

 その号では《ライフ》は、読者に省いたことを説明しなかった─二十六秒のフィルム全体ははるかにおぞましいものであることと、フィルムはカラーであることを。同誌はとくに銃弾が大統領の頭部に命中し、ピンクがかった血しぶきの輪とともに、脳の右側の大半を吹き飛ばした瞬間を捉えた齣を公表しないことを選んだ。「そのぞっとする写真を公表すれば、ケネディ家と大統領の思い出を不必要に傷つけることになるとわれわれは感じた」と《ライフ》の記者リチャード・ストーリーは回想している。彼は雑誌のためにザプルーダーからフィルムを買い取った。


不手際などにより、食い違う事実関係の重箱の隅をつつき回しては、妄想を発展させ、陰謀論を何重にも増幅させてしまう人たちと、狡猾にもこれを利用していく連中。

これまで伏せられていた事実、更には組織の力関係によって追われる事のなかった線を辿りなおす事で、当時の出来事が起こってしまった原因や動機といったものがまざまざと蘇ってくるのでありました。

50年目にして顕わになった「ケネディ暗殺」をめぐる大きく長い一連の出来事の全容。そこにあるのは、既に見慣れた既視感すら漂う、金メッキがはがれたアメリカ政府の本当の姿なのでありました。

こうして一通りの謎が解け、それに振り回されてきたこの50年というものを冷静に振り返るに、アメリカ政府はその保身、自らの権威を守るために形振り構わずやりたいようにやってきたこと。僕らはその金ぴかのメッキに目を奪われ、日和見で醜くそして不正直な本当の姿に気づくのが遅すぎた事である。

メッキがはがれたのは何よりブッシュⅡがバカ過ぎてその実態を隠しきれなかったということもあるけれども、一番の理由はこれまでの悪行のツケが回ってきたというものだろう。

そして嫌でも気づかされるのは、この現代の白黒つかない現実。9.11しかり、マレーシア航空の消息や、STAP細胞があるのかないのか、福島第一原子力発電所の放射能被害、量子加速器の危険性、地球温暖化説や進化論の真偽などなどそれこそ枚挙に暇がない。

つまりケネディの暗殺事件は人びとが情報に翻弄されて白黒つかない状況に簡単に陥ってしまい、これを利用することで誰も責任を問われずにやり過ごすこともできることを経験則にしてしまった事件でもあったという事なのでありました。

学ぶべきものの非常に多い一冊でありました。


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命がけで南極に住んでみた
(Antarctica:
An Intimate Portrait of a Mysterious Continent)

ゲイブリエル・ウォーカー(Gabrielle Walker)

2014/12/14:「スノーボール・アース」を読んだのは十年ほど前でした。全球完全凍結。仮説とはいえ起こった確率が高い、いやおそらくは実際に起こったらしい。従来の想像を遥かに超えた衝撃的な仮説。その光景・イメージは圧倒的で目が回る。

科学ではありがちというか、これまでも数え切れないほど繰り返されてきた事だが、科学技術の進歩によって新たに得られた証拠を積み重ねて検証した結果として浮かび上がってくる仰天の事実。僕らは従来よりもずっと精緻に過去の出来事を類推することができるようになってきた。それは深宇宙を覗き込む宇宙望遠鏡や電波望遠鏡と同じように過去を覗き込む新たな目なのでありました。

果たして僕らの世界はどこまで奇想天外なのだろう。しかもそれはただ単に僕らが知らなかっただけ。つまり僕らはこの世界の事をほんと一部しか知らない。なのになぜかその一方で僕らはこの世界をどうにか自分たちの力で変えられるなどと思い込んでしまう。巨視的な途轍もない出来事、人間のちっぽけな存在と到底力を及ぼすことのできない超巨視的な世界観を垣間見ることはとてもスリリングでエキサイティングで人間の傲慢さ軽率さといった居ずまいをただしくさせるものがあると思う。そう「スノーボール・アース」は鮮烈な印象を残す素敵な一冊だった。

本書「命がけで南極に住んでみた」がこの「スノーボール・アース」の作者の手によるものだということはすぐに解った。いちもにもなく読むよと。しかし著者の写真をみてびっくり。女性だったんですね。前著の内容・文章はかなりハードだったので女性だったなんて思ってもみませんでした。

その彼女が果敢にも地球でもっとも火星近いとさえ云われる極地へ挑む。南極。地図の端にあって茫漠とした南極大陸はどれほどの大きさと厳しさを持った場所なのだろう。

大まかに現在地球には7つの大陸がある。大きさでは、①アジア大陸、②アフリカ大陸、③北アメリカ大陸、④南アメリカ大陸、⑤南極大陸、⑥ヨーロッパ大陸、⑦オーストラリア大陸の順で、南極大陸はオーストラリア大陸の約2倍もあるのだ。この広大な南極大陸は地球上のどこよりも過酷な環境にある。


南極にあるアメリカ・マクマード基地の管轄区域にあるドライヴァレーは、地球上でおそらく最も火星の風景に近い場所だといえるだろう。岩だらけの荒野が、氷床の端に沿って海岸に至るまで、帯状に続いている。水分が少なくドライなため、氷もない。全体が、白黒のモノクロームに近い。ギザギザの山脈にさえぎられた渓谷は、チョコレート色の輝緑岩(ドレライト)と白っぽい砂岩の地層が、レイヤーケーキのように重なり合っている。ここは地球の光景とは思えず、昼の陽光を浴びているときは、恐ろしげな雰囲気を醸し出す。夏の夜は陽が沈まず、地平線に近いところでさ迷っているから、影は長く尾を引き、山の頂は丸っぽく見え、輝緑岩は宝石でもあるかのように輝き、オートミールのように見える砂岩も、金色に光って見える。


文明から遠く離れあまりにも激しい気候に閉ざされた南極大陸は、密かに口をあける深いクレパスのみならず、ふとした事が大きな事故に繋がる。そう火星で暮らすくらい危険と紙一重の場所だ。開拓前の冒険家のみならずこれまでも数多くの人がこの酷寒の地で命を落としてきた。

冬のまっただなかでも、ツインオッターの一機、あるいは2001年に患者の緊急搬送が行われたときのように、二機を呼ぶことはいまでも不可能ではない。だが、ロセーラの滑走路が使用可能だとしても、カナダからロセーラまで飛ぶには、準備期間を含めて少なくとも二週間はかかり、それに南極での良好な気象状況を待つためにロセーラでさらに一週間か二週間は待機が必要になる。しかも燃料や搭乗人員の限界があって、ツインオッター機は二人か三人しか乗せられない。したがって、基地の全員を避難させる方法はない。状況にもよるが、ハーキュリーズ輸送機に上空から食料や燃料を投下してもらうことは可能だろう。だが基地が火事になれば、ほとんどの人にとって絶望的に行き場がなくなる。


知れば知るほど僕らが当初思っていたのとは違う意味で「命がけ」な南極の暮らし。

それにしても本書の構成は絶妙だ。彼女の行けるとこならまでどこまでもという南極への挑戦の旅で出会う様々な分野の研究者やスタッフ、そして興味深い生き物たちといった現在進行形で進む物語。


ウェッデルアザラシがこのような環境に適合して生存できた最大の工夫が、「急速授乳」だという。まず、母親は脂肪の形でエネルギーをたっぷり蓄える。だから皮膚が張り裂けそうなほどまるまると太っている。それを急いで大量に子供に分け与える。育児の時期には、血液にもかなり脂肪が含まれていて、ミルクセーキのように濃くてクリームのようになっている。ミルクも暖められたロウのような状態だ。出産から離乳までの四十日たらずの間に、母親の体重は半分ほどに減る。ボブは妊娠中のアザラシを指差しながら、こうたとえる。
「いま母親は燃料脂肪の塊のように見えるが、授乳が終わるころには、細長い葉巻みたいになる。」
それに反比例して、子供は生まれたてのときには三十二キロほどだが、ひと月のうちに体重が五倍にもなる。


こんなお話と平行して語られるのは南極点到達の為に過酷な冒険の旅をした数々の冒険家たちの艱難辛苦の歴史や宇宙や地球内部の観測。そして隕石や氷床コアなどの分析によって明らかになってきた、地質年代学的過去の気温や大気の組成といったお話。

氷そのものにも、読み方さえ分かれば、過去の気温が記されている。氷は雪からできたもので、もともと海から吸い上げられた水蒸気が大気に含まれ、雪として降ったあとに堆積した。したがって固形の氷は、酸素原子一つと水素原子二つでてきた水の分子の網状組織だ。研究者たちは、過去の温度をこれらの分子のなかから解読できる。酸素と水素はともに、アイソトープと呼ばれる同位元素があり、やや重い仲間がある。最も重い分子は海から空に上がるのが難しいため、気温が高くて上昇させるエネルギーが十分にない限り、雨(ないし雪)になることはめったにない。寒いときは、基本的に軽いほうの分子が、きわめて上空の高いところまで上がり、上空で凍ってふたたび地球に降ってくる。


それこそ縦横無尽なのでありました。そんなお話の向こう側から浮かび上がってくるのは本当の南極の広大さ奥深さであり、その更にまたその向こう側から立ち上ってくるのは、この広大な南極の環境を揺るがし、一つの州ほどもある氷棚を爆発的に割り崩すような力を孕んだ温暖化の波の途轍もない大きさとその力なのでありました。この力を解放しているのは正に我々自分自身でそれは制御不能の竜、モンスターであってひとたび解き放たれてしまえば僕らの力で治めることはできない程強大なものになりつつある。

温暖化の問題は無視したり、後からどうにかできるとかできる問題ではない。まして己の短期的な利益を優先させているような輩を放置してはならないのであります。

本書はとてもすばらしい仕上がりになっている一冊でありました。


「スノーボール・アース」のレビューはこちら>>


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警視庁捜査一課刑事
飯田 裕久

2014/11/30:ふと興味が湧いて手にとってみた、「警視庁捜査一課」。書いている人は引退しテレビに出てたりしてるので、見た顔の人かなと。おや同い年。引退するにはまだ早いな。千葉県出身。退職して刑事ドラマの監修。早期退社ですね。とここでフリーズ。2010年にお亡くなりになっているではありませんか。

写真を拝見しましたが、メディアでお見かけした記憶はなく、踊る大走査線等の監修をされていた方だったようです。

20年近く前、営業をしていた最後の時期、警視庁を5年程担当させていただいておりました。それまで官庁・自治体・企業と様々な組織に出入りしてきましたが、警視庁ほど独特で興味深い相手はありませんでした。

まだ幼かった長男は「踊る大走査線」の大ファンで、警視庁でワクさんとか室井管理官とすれ違ったとか言うと信じて目を輝かせていたのも楽しい思い出であります。

あの頃は丁度オウム真理教がサリン事件等、反社会的活動を繰り返していた時期で警視庁も随分と騒がしい状況だった。

本書は正にその頃を駆け抜けた一人の捜査官の生き様をまとめたものになっていました。オウムの事件やトリカブト殺人事件など世間を騒がせた大きな事件をはじめに数々の痛ましい殺人事件の先鋒で地道に粘り強い捜査の様子。それを支える家族や友人。また警察の組織や階級、本部と警察署との関係などとても人間くさい臨場感のある内容になっておりました。

商売上、出入りしていたのは情報システム関連の部署が中心でしたが、免許センターや刑事課、公安なんていう部署にもお邪魔していました。

浅原が逮捕拘留されていた時は門前で入れろ入れないで揉めている教団の人たちを尻目に門をくぐったり、会う約束をしていた方がオウムの施設の強制捜査に入ることになったのでごめんと入って防弾チョッキを着て出かけていってしまったりなんてこともあった。

普段、机を前に座っている温厚で普通のおじさんが防弾チョッキを着て目を吊り上げて慌しく出て行った。てっきり事務方の人だと思ってた。またお茶出ししてくれるのは若い男性だったことが多かったけれども、あの人たちはいわば部署の当番や若手の人で庶務や雑用もこなしてたということなんですね。

また、全日空857便ハイジャック事件。1995年6月21日に函館空港で全日空機がハイジャックされた事件の際には契約事務の打ち合わせで立ち寄った部署の傍らの小さな応接室で、「情報が漏れると困るのでごめん」。そんな感じで約三時間、出してもらえなくなったというのも強烈に印象に残っています。

机の上の書類を全部どけて、地図や図面を広げて、額をつき合わせて打ち合わせをしている人たちもまた、普段出入りしているときとはまるで別人のような様子なのでありました。

つくづく警察ってほんと凄い仕事してんだなと本当に感心したというか、敬服したものでした。本書をつうじてあの頃は想像の範囲であった彼らの仕事ぶりが垣間見れた感じです。ほんとエライは。

平行して僕らの世代が経験した希有なものとして、IT化の波があったと思います。飯田氏の本ではご本人がNECに出向してワープロの研修を受けた話が出てきます。

警視庁にはNECのワープロのびっくりするくらい大ファンな方がたくさんいらっしゃいましたが、こうした背景があったからなんですねー。

僕らが新入社員で会社に入った頃は、漸く部署に各1台端末が導入され始めたところで、コンピューターって何?って感じだった。インターネットやメールが導入されたのはそれからまた更にずっと後。

そんな中で見よう見まね創意工夫しつつもあくまでたどたどしくITを仕事に使いだして今の職場環境の土台を作ってきたのはそう僕達の世代だったというわけですね。

先日、学生時代からの友人と久々に東京駅で一杯飲む機会に恵まれました。高校生の時からの付き合いなのでかれこれ35年。10年。20年前の話をまるで昨日の事のように言うのは年寄りのすることらしいけれども、気づけば僕らはすっかりそっち側の人の言動になっている次第なのでありました。

就職。結婚。子育て。など仕事の面だけではなく、いろいろなイベントも重なり予想以上に自分の人生がオーバーラップしてきてあれやこれやと思いでも蘇る過去へ旅するような一冊でありました。既に駆け抜けて行ってしまった飯田氏の後姿をみて僕らが走ってきた距離の長さに改めて愕然としてしまう自分がおります。飯田さんすてきな本をありがとう。


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アメリカとともに沈みゆく自由世界
(America's Tragedy and the Blind Free World)

カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel van Wolferen)

2014/11/23:カレル・ヴァン・ウォルフレン、相当後発となりますが初挑戦であります。「日本/権力構造の謎」からはじまり、とても売れた「人間を幸福にしない日本というシステム」や「誰が小沢一郎を殺すのか?」もタイミングを逃してスルーしてきてしまった。

新刊ででたときに書店の棚に並んでいるのを見た記憶も確かだが、なんとなく手を出しそびれたのはタイミングだけでなくて、正直に言えばその信憑性がいまひとつ弱いように思えていたからだ。

オランダ人のジャーナリストがなぜ故日本の政治情勢に通じこのような本が書けるのか。ウォルフレンの経歴を見てもざっくりしすぎていて、全くその理由が浮かんでこない。

また世論というか世間一般的に報道されている内容とかなりかけ離れた部分がある。小沢一郎の本なんかは「陰謀論?」という線を踏み越えているような印象をどうしても持ってしまう雰囲気があったからだ。

ウィキペディアのプロフィールを見に行っても「オランダ・ロッテルダム出身のジャーナリスト、政治学者。現在はアムステルダム大学比較政治・比較経済担当教授」で「高校卒業後、中近東各国とアジア各国を旅し、オランダの新聞『NRCハンデルスブラット(NRC Handelsblad)』の極東特派員」でその次はもう本を出版した話になっているなんとも素っ気無い内容なのだ。

またウォルフレンの本は海外の本を和訳して出版しているのか、それとも日本向けに書かれた本を和訳して出しているだけで、海外では出版されていないのか、そもそもウォルフレンは何語で本を書いているのか、とかいうところもどうもぼんやりしている。

とは言うものの内容を知りもせず。という状態でだ。

これは一度ちゃんと読んでみないとイカンなと。ふと思った次第です。

陰謀論について。

 9・11同時多発テロをめぐる未解決の謎、そして公式の「9・11委員会」の報告書(委員長も副委員長も、自分たちもウソをつかれ、委員会は失敗するように仕向けられたと記している)には、明らかに重要な事柄を隠そうとしている姿勢がうかがえたことから、人々の間では陰謀があったのではないかという憶測が一斉に飛び交った。疑惑など抱くはずがないと思われる人々でさえもそうした反応を示した。ところが、そうした憶測をあざけり、罵倒する声はあっても、もっともらしく理路整然とした反論がなされることはなかった。そして公式に伝えられる事件についての報告はウソだったのではないか、とおおやけに発言することはタブー視されるようになった。そんなことをすれば政治家としてのキャリアをつぶしかねなかった。この話題をあざけりを込めて扱った書籍や記事、その他の軽い読み物のなかでは、明らかに怪しい説が、陰謀の可能性を示す状況証拠とともに、十把一絡げに論じられるようになった。つまり怪しげな意見としての陰謀説と、許すまじき行為を暴く意味としてのこの概念を隔てる区別がなくなってしまったのである。

アメリカのメディアが毒されているのと同様に日本のメディアも毒されており、陰謀論と真実を報道するジャーナリストの区別はやはり失われていた。この人はちゃんとわかっている。ウォルフレンは少なくとも昔かたぎの真のジャーナリストであることがこれで読み取れたと思う。

本書、「アメリカとともに沈みゆく自由世界」だが、英語版のウィキのプロフィールなどを比較してみた限り、2010年に日本でのみ出版された本らしい。

冒頭ウォルフレンはこの本のなかで近年起こった4つの危機が世界を激変させたと述べている。
その四つの危機とは次の通り。


 最初の危機とは、旧ソ連の崩壊、そして冷戦時代の終焉である。その後の経済状況の悪化で被害をこうむった多くのロシア人を除いて、世界のほぼすべての人々は当時、冷戦が終結したことで世界はよくなると考えていた。つまり望ましい変化と見なされたわけだが、その後の展開を決した転機という意味で、冷戦の終焉はやはり危機ととらえるべきだろう。次なる危機はそれから10年後、テロリストが歴史に登場した9.11同時多発テロである。テロリストたちの攻撃によって、世界最強のアメリカが戦争をはじめるという、第三の危機が生じた。アメリカはこれを戦争と称するが、テロを相手にする以上、勝利を得、平和条約を締結する可能性はない。つまり正確には、終わりなき交戦状態に突入したと言うべきだろう。そして第四が、健全な経済の大黒柱としての資本主義を支えてきた、巨大金融機関に対する信頼が大きく揺るがされた金融危機である。


この四つの危機はどのように世界を変えたのか。そしてそこから生じる影響というものはどんなものがあるのか。

目次
第1章 世界のリーダー・アメリカという幻想
 連鎖する四つの危機
 変革への期待
 世界のリーダー・アメリカという幻想
 オバマの説く「リーダーシップ」の根拠
 受け入れ難い政策の承認
 失われたまっとうな政治
 幻想の崩壊がもたらしたモラルの危機
第2章 画策された陰謀と画策者なき陰謀
 意図せぬ結果
 隠された目的
 人為的に作られた現実
 失敗した救世主
 陰謀をめぐる議論
 画策者なき陰謀
 画策者なき日本の権力システム
 権力が抜け落ちた社会理論
 銀行家たちによる陰謀
 オバマ失敗の理由を探る
 ブランドになったオバマ
 とらえどころのない権力
 アメリカ政治の非政治化
 非政治化されたオバマ
第3章 暴走する国家
安全保障国家アメリカ
 「ならず者国家」入りしたアメリカ
 比類なき超国家の軍事的暴走
 いつもこうではなかった
 エンターテインメントとしての恐怖
 アメリカ政治はコミック漫画と化した
 出世主義が決するアフガニスタンの命運
 アメリカ・ロマンティズムの破壊的要因
 除菌済みの戦争
無力化した政治とコーポラティズムの猛攻
 機能しなくなった二大政党
 資本主義からギャンブルへ
 消えゆく大手起業家
 邪魔だてする者なきネオリベラリズムの時代
 新エリートとしてのマネジャーの社会学
コーポラティズムの勝利
 産業界に牛耳られるアメリカ
 ロマンティシズムと国家
 市場という神は死んだ
 アメリカはコーポラティズムの国になった
 エンロン事件と日本のバブル
 公益の消滅と政治的舵取りの崩壊
放置される行すぎたふるまい
 壊れた自己修復機能
 企業に支配されたメディア
 コーポラティズムに陥った民主党
 誤ったポピュリズムの勝利
第4章 嘆かわしい歴史の下書き
ウソつき機構と化した右派勢力
正常と分別という罠
9.11後に心理的ローラーコースターを味わったアメリカ人
「テロに対する戦い」という大ウソ
アメリカのフィルターを経て伝えられる世界のニュース
民主主義を転覆させたメディア
ジャーナリズムの官僚化
「個人の知識」と「ジャーナリスティックな知識」の違い
ウソをつくメディア
有権者たち
メタファー、市場、そして蔓延する弊害
消えゆくワイズ・カウンシル
擬似化学への逃避
第5章 銃砲が告げる真実
アメリカを堕落させるもの
独善的な妄想
「アメリカの信念」を妄信する人々
逆転したマルクス主義
状況の囚人
隷属状態に置かれる日本
不安定なヨーロッパ統合
ヨーロッパが失った機会
冷戦信仰と時代認識
NATOはもはや妄想にすぎない
ヨーロッパの平和主義とオバマのノーベル賞受賞
新たな国際的ダブル・スタンダード
同義的必然性という政治
「西側の価値観」というまやかし
罪のないウソ、たちの悪い大ウソの識別
最後に考えておきたいこと

浮かび上がってくるのは、アメリカに依存することで生きてきた戦後のヨーロッパと日本は、どんなにアメリカが変容したからといってこの依存関係からの脱却ができずにいること。そしてどこの国も押し並べて政治化・政府が企業利権に縛り付けられた結果民主主義が機能不全に陥っている現代社会の姿があった。

「テロに対する戦い」という大ウソによって軍産複合企業を巨大なモンスターに育ててしまったアメリカはその力を行使することで自分自身も含めた世界を激しく変容させてしまった。

オバマ大統領の登場はこうした世界からの脱却を強く有権者たちから期待されたタイミングであったもののその後のがっかりな行動というものをどう解釈すればいいのかと思っていたのだが、ウォルフレンは見事に状況を喝破しておりました。

それはコンセンサス民主主義という。


 日本で「コンセンサス民主主義」という言葉をしょっちゅう耳にしていたおかげで、私はこれに関してすでに免疫ができていた。対テロ戦争と同様、このようなものは存在し得ない。きわめて小さな共同体レベルでならいざ知らず、それ以上の規模を有する社会で、永続的なコンセンサスを得ることなど絵空事に等しい。本来、政治的な指針というものは、本質的な問題について議論し、政治闘争を繰り広げてようやく生み出されるものだ。コンセンサスなどこうしたプロセスのすり替えにすぎないのである。コンセンサスは対立する政治力の存在を覆い隠す。しかもこれによって、根の深い対立の解決に必要な根本的な判断はなされぬまま、素通りされてしまう。あらゆる関係者が合意に達するとは、すなわち無益な妥協である。これは政治的な創造性を殺してしまう。そしてなんの説明もなされぬままに、権力構造に屈服することを余儀なくさせる。つまりコンセンサスは民主主義的ではないということになる。


この日本でこのコンセンサス民主主義という言葉を見聞きした記憶はないのだけれども、つまりオバマは対立する業界団体の間でのコンセンサスを取り付けることに奔走していた訳で、例の国民皆保険の制度導入についても、本当にそれを望んでいた貧困する一般市民の立場で物事を進めているように見えていたのは単なる錯覚というか思い違いに過ぎなかったというわけなのだった。

なるほど

今のアメリカを牽引している非常に強力な被害者意識。まわりは敵に囲まれ、アメリカの自由と平和を奪おうと虎視眈々と狙っている悪魔のような存在に対して徹底的に戦おうというその信条というものを僕は長い間、西部開拓史時代からのもので、そもそも原住民から土地を奪った人たちの考え方として酷く矛盾した考え方だと思っていたのだけれども、実はそんな単純なものではなく、現代社会をリードしているアメリカの政治的リーダー達の多くは移民。第二次世界大戦によってヨーロッパから逃げ延びた経験を持っている人たちであることに気づかされた。

彼らはドイツの暴走とそれによって自分達の世界がそれこそ灰燼に帰したことを目の当たりにし、二度とその徹を踏まないためにできることはすべてやっているということなのだった。

そしてそれは結局行き過ぎた。自由で平等で平和を目指したはずの西側諸国はこうして沈みゆく途上にいるという訳だ。

こういうことを言う人は大切にしないといけないよ。なにしろ近年ますますこうした人材は希少になってきているのだから。


△▲△

地球46億年全史(Earth: An Intimate History)
リチャード・フォーティ(Richard Fortey)

2014/11/09:読み切るのにかなりの時間と根気が必要な本でありました。こんなに苦心するとは思いがけなかった。

何が問題なのか。つきつめれば僕の読解力と無知ということになるのだろう。

まずタイトルと内容がかなり乖離している。全史なんてどっからだよ。しかも順番が時間軸に沿ってない

時間軸というと本書にはもうそれこそいろいろな時間軸が登場する。

地質年代学的時間軸。地質学自体の時間軸。そして書き手の個人的な時間軸。などなど。これが入り乱れてひとつひとつの文章に入ってくるので、読者はこれについて行くのが大変なのだ。

入り乱れているという意味では、更にこの人の趣味というか博識ぶりというか、ナンなのかわからないけども、ギリシャ神話だったり、クラシック音楽だったりとたとえ話だったり比喩だったり、単なる脱線だったりするものがこれまたひとつひとつの文章に紛れ込んでくるため、集中力が持続できない。

内容に集中できないから、話がみえなくなってしまうのだ。

要所・要所の地質をめぐる話題には興味も尽きず、面白い、知らなかった話もたくさんあってもっとちゃんと読みたいと思える本何だけど、いつの間にか、何処の何時の誰の話なのかわからなくなっている自分に出会う。

こんな残念な事はないのではないだろうか。

例えばアルプス山脈の造山運動にはナップと呼ばれるプロセスが働いていたという。


 現在では、山岳地帯で巨大な地殻の塊が、小さな角度で長い距離を移動しうることがわかっている。これがアルプス山脈の謎を解く鍵だった。グラールスから世界を解く鍵といってもいい。山脈は、同じプロセスが繰り返され、薄い層が何層も次々と積み重なって高くなったものと考えることができる。こうして地殻は縮みながら厚みを増したのだ。その薄い層はフランス語でナップと呼ばれる。テーブルクロスを意味する言葉で、誰が最初に使ったのかははっきりしないが、今ではすっかり定着している。科学史家のモット・グリーンはこの名称にふさわしい比喩を用いてアルプスの成り立ちを説明した。高くなる前のアルプスの地層を、すべすべのテーブルに掛けられた豪奢な模様入りのテーブルクロスと表現した。「テーブルクロスの上に手をついて前に押していくと、クロスは盛り上がって折り重なる。もっと押すと、折り重なりは前へ倒れ、後からできた重なりがその前の重なりの上にどんどん積み重なって、何層にもなっていく」


こんな面白い話がまるで金や宝石のように、手ごわい砂岩のなかに埋もれているのだ。上手いな俺。

実際地形の形成にかかわる地下深くのプレートテクニクスから地表に出現した後の気象、それも海進やスノーボールアースのような大局的・地質年代学的時間ですすむ変化から、岩石や鉱物の組成にかかわる元素や分子構造の話まで中心的な話題だけでもものすごいてんこ盛りなのでした。

よくよく考えるとフォーティー自身がとてつもなく長い年月を経て生み出された地形や地層の成り立ちを全て調べるとか書き記すのは複雑すぎて無理だというような事を何度も書いていたっけ。

どうしてそんな複雑な話にさらに拍車をかけるような書き方をしてしまったのか。

ということで、読者に出すならちゃんと発掘して精錬してからにしてほしいと思う訳です。そしたら本書はおそらく三分の一くらいのとても読みやすくて面白い本になったと思う次第であります。  
 
フォーティーは地域の文化が実はその足元に深く広がる地質に大きく影響を受けていると述べております。なる程慧眼というか物の理というものだと思う。
そしてだからこそ、地質学の歴史をきちんと認識していくことは、現代社会のありようを理解する上でもとても重要な事だと思う。

その文書に続く代表的な地域はどこか。

フォーティーは日本の事を書いていました。


 今の日本は、少なくとも表向きは西側資本主義の様式を採用している。耐震技術のおかげで東京にも世界各国の首都に見られるような型にはなったモダンな建物が立ち並んでいる。しかし、巨大な沈み込み地帯のがたがたと揺れ動く辺縁部に暮らしているのだから、本当をいえば昔ながらの紙と木の構造の方が適しているはずだ。ひょっとすると、八百万の神を信仰する神道は、落ち着かない地球をなだめる方法を人々に教えていたのかもしれない。


これだけ度々地震に襲われてきた日本はその地質から受けているものが単なる文化的な影響だけではない。日本の場合歴史自体も地震によって突き動かされてきたのだ。

ところが現実には経済的な事情とかで原発を再稼働させようとしている連中がいるみたいではありませんか。

「経済的な理由だと?」

経済ってそんな風に他の問題から切り離せると考えてる事自体驚くべき事であり、浅はかというか、バカなんじゃないのと思う。

どうやら安全性の確認を行うべき委員会に地質学者のような人がほとんどいない。しかも立地計画の段階では日本の地質学者の大半はプレートテクニクスというものを認めてもいなかったらしいなんて話もあるようだ。

つまり日本の地質学は世界から遅れをとっていた訳で、政府機関も事原子力発電所の計画推進にあたっては全く重きを置いてきていなかったという感じな訳だ。

この扱いの軽さといったらどうなのだろうか。そしてこの扱いに日本の地質学者は怒ってる様子すらないみたいじゃないですか。

その結果、将来何の問題もないなんて事があったとしたら、それは目隠ししてローラースケートをすべってたチャップリンみたいな喜劇だと思うのであります。

無視して結果は変わらない。神風を頼るなんて時代錯誤も甚だしい話なのだ。


△▲△

ミステリガール(mystery girl)
デイヴィッド・ゴードン(David Gordon)

2014/10/19:先日の三連休、風邪で完全に寝込んでおりました訳ですが、今年の風邪はしぶとくて一週間経ってもまだ咳が抜けません。どうにか平日は仕事をしてきましたが、本日土曜日は再び自宅療養状態であります。半分朦朧、腑抜けなときには面倒くさい本は嫌なので、海外ミステリーのお気楽なヤツを何か一つということで掘り出したのはディヴィッド・ゴードンの「ミステリガール」。

ユッシ・エーズラ・オールスンの「キジ殺し」とどっちにするか激しく悩んだ。前作、「二流小説家」がえらい面白かった。いい意味で後に残るものがない。というところで風邪にはこっち。と思った次第。

主人公はサム・コーンバーグ、売れない小説家だ。それも実験小説で出版された本はゼロ。つまりは無職の自称「小説家」なのだった。

そんな彼に問題がない訳がなく、高級ブティックで働く美貌のメキシコ系の妻ララからは離婚を申し出られていた。愛してはいるけれどもこれ以上は一緒に暮らせない。せめて何か仕事をして欲しい。

こんなことを言い残してララは出て行ってしまった。

喪失感に打ちひしがれる彼は、一縷の望みを託して猛然と職探しを始める。

しかし、どこに応募しても手ごたえは皆無。絶望の果てに辿りついたのは私立探偵の助手の募集だった。韓国人街の奥にある自宅を訪ねると尋常ではない巨体を持て余した探偵ロンスキーがいた。

シャーロック・ホームズばりの推理能力を見せる彼はその巨漢から外出もままならず、実地調査をするための助手を募集していたのだった。

彼の指示はひとつ、「ミステリガール」と呼ばれる女を監視しろ。

滑り出しはまずまず。狙い通りの軽薄さ軽妙さ。キャラクターはどれも一癖もふた癖もある奴らばかり。饒舌に、寧ろ長々と自分自身を語りすぎなのだけど奥行きがない。一気に語りきってしまうとその先がない、そして彼ら自身の背景とその後の言動が噛み合ってない。

更に深刻なのはストーリーが走らないとかいう以前に筋道が「ない」。そもそもの謎というか話を走らせる動機付けが見当たらないのである。

これは一体どうしたことなのか。投げ出しても良かった。無駄な時間を過ごさないためにはつまらないと思った本や映画は途中できっぱりやめるものだと云う人もいる。

しかし僕の場合はなぜそうなのかを突き詰めていきたくなるのだ。突き詰められるかどうかはわからないけれども、原因を探るには少なくとも全部読まなくてはだめだろう。

ということでどうにか読みきってわかったこと。

出たとこ勝負で話の展開を作ってますね。読者の予想を裏切る形で章を切り替えるという手法が何度も繰り返しているけれども、その場のアイディアで唐突な事態や事実を書いちゃって説明を後付している。繰り返していくうちに作者自身も全く考えていない方向に話が逸れていっていったみたいな印象だ。

それはそれで「有り」だとは思う。やりすぎだけど。しかしここで大事なのはやはりその説得力というか、リアリティ。本書ではあちこちこの説得力のなさが露呈している。ディヴィッド・ゴードンはきっと器用で物語をひねり出したりすることも得意なんだろう。だけどその器用さが軽々しさに繋がり物語全体の説得力というものを失わせている。

なんで次々と美女が文無しのダメ男を好きになるのか。とか。ロンスキーは探偵といいつつ、調査の依頼は自分自身。しかもそれがどうしてなのかがさっぱりわからない。そしてそれはエンディングの全ての謎が解けた形になった後でも、それにしてもどうしてこーなった?が解消されないのだ。

きっとゴードンはどこかでそれをちゃんと書いていて、僕はそれを読み飛ばしているのだろう。

わかった。ここまで長い作品にする意味がなかったのだ。彼に対する発注が間違っているというのが正解だ。きっと。

好きな映画はかなりかぶっているようなのでこの人のセンス自体はとても好きなんだけど残念な仕上がりの一冊でありました。


「二流小説家」のレビューはこちら>>


△▲△


ビューティフル・マインド―天才数学者の絶望と奇跡
(A Beautiful Mind: a Biography of John Forbes Nash)

シルヴィア・ナサー( Sylvia Nasar)

201410/13:僕の隠れた特技の一つが週末に「体調を崩す」というものがある。体調を崩すのが特技な訳ではない。だれでも体調を崩す場合があるのだけれどもこのタイミングを週末に持ってくるというところがポイントなのである。月曜日から体調崩して休むなどもってのほかで、週末に向けて体調不良となりお休みの間まるまる寝床に伏せって、週明けにはちゃんと会社に行く。

10月の三連休、期末・期首の慌しい日々が少し一段落したあたりに丁度よくやってくるこの三連休に合わせて体調を崩すこのタイミングの良さ。これを特技と呼ばずしてなんと言おう。

ということで病床からお送りする2014年度第三クォーターの第一冊目は「ビューティフル・マインド」であります。新潮文庫からサイエンス&ヒストリーコレクションと銘打って出されているこのシリーズはマーカス デュ・ソートイの「素数の音楽」やサイモン・シンの「暗号解読」等なかなか渋い選択に成長しつつある感じだ。

本書はジョン・ナッシュ(John Forbes Nash, Jr.)というノーベル賞を受賞した天才数学者の生涯を追ったもので、僕は観ていないのだけれどロン・ハワードによって映画化されていてなかなかの感動作になっているらしい。

また本書は通り一編の自伝的小説ではない。そもそも主人公のナッシュは僕がこの記事を書いている今この時点でも存命中の人物。存命中の人物なのに自伝的な本が出されしかもそれが映画化されているなんてあまり聞いたことがない。

それはナッシュの天分のみならずあまりにも希有な足取りを辿ったからだ。具体的にはゲーム理論の「ナッシュ均衡」を生み出すことで数学者にしてノーベル賞を受賞する一方で、心の癌とも呼ばれる統合失調症にかかり研究も家庭も崩壊するも、奇跡的な回復を遂げるという物語だ。波乱に満ちたナッシュの人生。とても興味深いではないですか。文庫本900ページを超える分量にややおののきつつも読み始めてみました。

やはりちょっと長かったけれども、全般的に飽きることもなく最後まで読み進めることができました。それはナッシュの人知を超えた才能によって成し遂げられる数々の偉業であり、予期せぬサイクルで回復と悪化を繰り返す統合失調症の物語であり、そんな彼に振り回され、傷つきつつも見守ろうとする人々との人間模様であったり、ノーベル賞を与えるべきか否かで緊張を高めていく委員たちの姿であったりと盛りだくさんの物語がちりばめられているからなのであろう。

まずはゲーム理論が革新的な進化を遂げたのは1944年にジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンが出した『ゲームの理論と経済行動“Theory of Games and Economic Behavior”』であった。この本で表されたものは十分に難解で画期的なものであった。


 『ゲームの理論と経済行動』は、あらゆる点で革新的な著作だった。モルゲンシュテルンの目論見通り、この本は従来の経済学界を支配していたパラダイムや、オリュンポスの神々のように超然としているケインズ学派-個人の動機や行動がしばしば理論に組み込まれ、個人心理学に立脚して理論づけようとしている-に対する「強烈な打撃」となった。これはまた、科学的論理の共通言語としての数学を、とりわけ集合論と組み合わせ論を活用することで、社会理論を再構築する試みでもあった。ふたりの著者は、この新学説に過去の科学的革命の装いを持たせてニュートンの『自然哲学の数学的原理』を引き合いに出して、ニュートンが自ら発見した微積分法を用いて物理学を数学的に精緻にしたのと同様に、この本も経済学を数学的に精緻にしたのだと匂わせた。レオニード・フルウィクスは「この種の本がさらに10冊も出れば、経済学の将来は安泰である」と述べている。


しかしナッシュはこれを一読して穴があることを見切ってしまったのだという。


 この理論の最もすぐれた点は二人ゼロ和ゲームに関して本書全体の三分の一を割いたことだが、それは完全な対立ゲームであるがために、社会科学にはほとんど妥当性をもたない。三人以上のプレイヤーによるゲーム理論にもそれなりのページは費やしているが、極めて不十分だ。きっと、こうしたゲームすべてに解があることをフォン・ノイマンは証明できなかったのだろう。たしかに、最後の80ページは非ゼロ和ゲームに費やされてはいるが、これらのゲームも、過剰消費をして赤字を生み出す架空のプレイヤーを導入したために、事実上ゼロ和ゲームに変形してしまっている。ナッシュはそう見て取ったのだ。

つまりは思考する上でのモデルとしては有用だが、現実に適応できない中途半端な内容であるとばっさり切ってしまった訳だ。それを見切ったばかりか、実際に現実に適応できる解を見出したというからナッシュの才能の凄さは計り知れないものがあろう。

ナッシュは生涯このように未解決の問いに対して自分が果たせる役割をかなり強く明確に意識しており、常にこうした問題を探し、捕まえては解決することに全身全霊をかけていたと思う。

一方で自己の才能を信じきり、数学があらゆる問題を解決できると思い込んだ全能感のようなものが、不器用なナッシュの日常生活との間で矛盾を孕んでいったことがじわじわと彼の神経を病んでいったのではないだろうか。

やがて誕生日や電話番号などにも意味を見出さずにはいれられなくなってゆくナッシュは統合失調症を発症する。


 統合失調症とは手に負えないほどの気分の移り変わりや、熱にうなされた譫妄(錯乱状態)という誤った見方が広くゆきわたっているが、そうではない。この病に冒されたものは、たとえば脳挫傷を負った人間やアルツハイマー患者のように四六時中時間や空間に対する正しい認識能力、すなわち見当識を失っているわけではない。おそらくは、いや実際に、現実のある局面についてははっきりと把握しているのだ。ナッシュは発病の最中にヨーロッパ各国や国内旅行を行い、弁護士と相談し、コンピューター・プログラムの高度な組み方を学んでいる。またこの病は、昔よく混同された躁鬱病、今日でいう双極性障害ともまったく異なる。

 統合失調症にかかると、さまざまなできごとを必要以上に勘ぐるようになる。発病初期には特にその傾向が強い。二十世紀のはじめ以来、この病に関するすぐれた研究者たちは、患者のなかには高い知性を備えたものがいることに注目してきたがしばしば(常に、というわけではないにせよ)鋭敏で、高度で、複雑な思考のひらめきをもたらすことがあるというのだ。エミール・クレペリンは1896年にこの状態を、理性が破壊されたのではなく、「感情と意思の障害」ととらえ、「早期性痴呆」と名づけた。


統合失調症については現在でもよくわかっていない点も多く、ナッシュが完全に回復したことについてもきちんと説明することができないらしい。数学に対する理解や驚くべき計算能力と人間の感情や情動について共感能力の欠如のようなものが脳内に矛盾を生み、その矛盾を無理に筋道づけしようとすることでおかしな解釈や言動が出てきてしまうというのはなんとなく納得できる気がします。

あまりにも飛びぬけた才能を持って生まれるというのも大変な話だなと。

そしてゲーム理論。これまでもいくつか他の本も読んできたのだけれども、どれも難解。しかしそのモデルは単純なものであればあるほどその理論の前提は互角であるということがある。と僕は思う

しかし現実には競合他社と自分達が互角であることは殆どない。というか絶対にない。寧ろ極端に体力や生産性が異なる場合の方があり得ると思う。何度負けたら死ぬのか個々の体力が異なっていて、勝負が永遠に続く場合はどんな勝負をしても最後に残るのは最初から体力のある奴になるのは当たり前の話だと思う。

とした時に、マクロ経済学にどのようにこれを応用しているのかこのあたりがとても気になっていろいろと資料を漁ってはみるものの、凡人の僕にもわかるような読み物はなかなか見つからない。残念ながら本書もまたそれについての解説は踏み込み不足な感じでありました。

面白くは読んだんだけれども本書は多肢に渡る話題てんこもりの900ページは全体的にはちょっと散漫で、どこで感動すればよかったのか、結局僕には全然わかりませんでした。


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