2021/06/27:昔は海外ミステリーどっぶりな時期がありましたが、最近は固いものばかりになってきています。たまにはと思って書店をまわっても作家がすっかり入れ替わっていて知らない人ばかりで見当識を得られずなかなか手が出せない。
オバマ元大統領の夏の読書リストに選出!
国家、家族、そして愛──本当の使命とは何か。史実を元に黒人女性スパイの半生を描く傑作長篇
単なるスパイスリラーを大きく超え、家族、愛、国家の結びつきがすべて含まれている──バラク・オバマ
他に類を見ない作品──マーロン・ジェイムズ(ブッカー賞受賞作家)
巧妙で力強く、ダークなユーモアがあり、本当に、本当に秀作だ──タナハシ・コーツ(全米図書賞受賞作家)
ブッカー賞取った本読んであまりいい印象はないんだけど・・・。なんちゅうか、物語よりもコンセプト優先になっている感じなんだよね。
しかし何か拠り所がないと読む本が選べない現状からは抜け出せない。
1992年コネティカットに幼い双子の男の子と犬と暮らしている女性の自宅に深夜賊が侵入。目的は彼女を殺害するためだ。気配を察した女性は反撃にで、男を返り討ちにする。その女性、マリーは元FBIの捜査官であった。
子供たちと犬を連れてマリーは、かつてミスター・アリがしぶしぶ用意してくれたという偽名のパスポートを使って、カリブ海にうかぶ島でフランスの海外県であるマルティニークへと渡る。マルティニークは母アガトの故郷。昔、父と別れた際、母は故郷の島に戻り独り暮らしになったのだった。
アガトとマリーは長い間疎遠であったようだ。アガトはあざだらけのマリーの顔をみても踏み込んだ質問もせず受け入れ、孫を引き渡したマリーは安堵から11時間も死んだように眠りに入るのだった。
物語は1962年、マリーの子供時代、姉のエリーヌと父・母とのお話。1986年にFBIに入ってからのお話。そして現在進行形の1992年と三つの時代を行き来しながら進んでいく。
アガトの父親は白人だったことから幼少時代「白人」として認知されていたらしい。しかし渡米後は黒人の暮らす地域で育ち、色の濃い黒人であったビルと結婚した。マリーの父、アガトの夫はニューヨークの警察官でひらの巡査から副本部長まで昇進したたたき上げの人物であった。
ビルの友人であった、ミスター・アリはFBIの特別捜査官であった。マリーが幼い頃には理解する術もなかったが、ミスター・アリはFBIのなかでコインテルプロに関与していた人物だった。コインテルプロ(Counter Intelligence Program])とは、ジョン・エドガー・フーヴァーによって進められた極秘のプログラムで、1956年から1971年までの間、アメリカ共産党]、左翼、市民権運動の活動家、ブラック・パワー、フェミニスト主義団体 などの国内の抗議グループや政治反体制団を混乱させることが目的とされたものだった。
FBIが違法かつ横暴な行為を重ねていたことは1976年にチャーチ委員会による調査で明らかになったが、その結果は大いにFBIの信頼性を貶めた。黒人の捜査官として粛々とその使命を果たしていたミスター・アリは組織の中で不可侵かつタブー視されてもいて、ある意味空気のような、つまり飼い殺しのような存在となってしまっていた。
男性優位の職場に入り込んだものの潜在的な高い能力を発揮する場も与えられず、単に女性であることだけで嘲笑のネタにされる場面も歯を食いしばって飲み込み職場での活躍の場を待ち続けるマリー。そんな彼女に意外な提案が舞い込む。それはCIAからの臨時契約という仕事だった。
つまりはスパイ。
スパイの仕事こそ、姉のエリーヌが夢中になってなりたがっていた職業であった。妹としてエリーヌに盲目的な憧れを描いていたマリーは彼女にならって本来の自分を奥にしまい込み、別人格で行動する術を学んできていたのだった。マリーに求められたミッションとは、ブルキナファソで絶大な信望を集めている大統領、トーマス・サンカラがアメリカにやってくる機会に乗じて、サンカラに接近し情報を収集せよというものだった。
サンカラは識字率を向上させ、産業を成長させ国の貧困率を低下させる偉業を成し遂げつつあるが社会主義的で独裁制を強めてもいるという面でアメリカの国策と不一致である可能性が示唆されていたのだった。サンカラ政権の情報を収集することは必要に応じて政府を転覆するアメリカの帝国主義に手を貸すことになる。ミッションとしては極めて意に反するものなのだが、マリーにとってこのオファーを受けることが密かに追っていた謎に近づく手段となることから承諾するのだった。
国内では公民権運動や黒人差別や共産主義の影と戦い、国外では帝国主義を覆い隠して南米諸国に横暴を迫っていたアメリカの時代背景に個人の出生や生い立ち、組織や国家への忠誠との間で揺れ動く感情を丁寧に描き出していく。さすがブッカー賞、コンセプトは第一級でその仕上がりは見事でありました。
てっきり僕はル・カレ的な世界観と展開を大いに期待してしまった訳ですが、著者のローレン・ウィルキンソンはまだまだ若く本作は長編デビュー作。同等を期待する方が悪いというか可哀そうな話でありました。ネタバレになるので書きませんが、後半、伏線が繋がりだすと同時に物語は推進力を失い失速していってしまうのでありました。
見せ方、読ませ方もある。実在の人物を主要な登場人物に充ててしまったということもある。一言で言って手練手管ということでしょうか。頑張れ。次が出たら読むよきっと。
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2021/06/20:「アント・ワールド」文字通りアリの本であります。昆虫をはじめ生き物が大好きで子供の頃からフィールドワークを繰り返し調査・探索の腕を磨き、成長してアリが専門の研究者になったのだそうです。一言でアリというけれども、アリが誕生したのは1億5000万年前と推定されており、知られている範囲でも2500~30000種があり、今地球上に棲息しているアリは1京匹以上、全人類の体重を超えていると思われているそうで、その広がりと大きさは意表を突くぐらいのものなのだ。
大きさも形も生活様式も大きく異なるアリたちの世界。本書は著者の生い立ちから多様性に富むアリたちの姿を駆け抜けるように描いた一冊でとても面白く楽しく読ませていただきました。
中でも興味があったのは"Haidomyrmex"これは9900万年前ほどに棲息していたと思われる絶滅種のアリなのだけど、このアリの完全な形が琥珀の中から発見され、この形態を詳しく調べたところわかったのはその顎が縦に開閉する形になっていたことがわかったという話。今知られている昆虫の開く形の顎は基本的に横に開くもので縦に開くやつはないように思う。この絶滅した種のアリは縦。他にも縦に開く顎を持った昆虫がかつてはいたということなのか、アリの一部が独自に進化したものなのか。どのように登場しどのように退場していったのかまだまだ謎だらけなのだけど、この形態は瞠目する話ではないでしょうか。
他にも牧畜のようなことをしているアリやアリの脚にまるで靴のような役目で寄生したり、カウボーイよろしくアリの背中に乗ったりして暮らす寄生生物たちとの共生社会など眩暈を覚えるような複雑な世界が広がっていました。
読後、内容を整理していてちょっと立ち止まってしまっている部分があります。読んでいた時に違和感があったのだけど読み飛ばしてしまっていたところでした。それは「真社会性」という言葉でした。
地球上の生命の歴史の中で、真社会性は少なくとも17回起きている。そのうち3回はテッポウエビ科に属するものだ。これらは海の浅瀬で、生きた海綿に穴をあけ、巣をつくる習性が知られている。ほかにも二つの独立した系統をもつ真社会性の動物がいる。スズメバチとアシナガバチだ。さらに別の二つの独立した系統が、キクイムシの中で発見されている。また、アフリカの地中に生息するハダカデバネズミの中にも二つの系統が存在する。さらにほかの系統には、アザミウマ、アブラムシ、ミツバチ、コハナバチなどがある。それから、人間も真社会性に近い動物だという話をしよう。おばあちゃんが孫に優しくすることや、最先端の仕事をこなせるようになること。現役の軍務や、禁欲的な宗教の宗派なんど、これらは利他的で高度な協力体制に基づいたものだ。こういったものが人間の生活でよく見られることからも、人間は真社会性に近いといえそうだ。
人間が「真社会性に近い」つまり真社会性ではないという意味か。「真社会性」ってどういう意味なんだろう。本書にはその説明らしいことが何も書かれていなかった。wikiによれば
定義
真社会性の定義は、その動物が以下のような性質を持つことである。
共同して子の保護が行われる
繁殖の分業、特に不妊の個体が繁殖個体を助けること
少なくとも親子二世代が共存、子の世代が巣内の労働をする程度に成長するまで共存する
不妊のカーストの存在を特徴とするこの「真社会性」という言葉こそ、著者のウィルソンが提言したことに端を発している概念であるらしい。著者はこの概念の第一人者であったのでした。この発想は更に広がり「社会生物学」という新しいジャンルの学問が生まれたらしい。社会生物学とは、生物の社会行動が自然選択の元でどのように進化してきたか、行動の進化的機能を扱う生物学の一分野なのだそうだ。
ドーキンスがかつて「利己的な遺伝子」という考え方により生物学会で一大論争を巻き起こした訳だけど、ウィルソンはドーンキスと同じような立場にいて、論争に巻き込まれてえらい大変な目にあっていたらしい。
この論争の対立軸がどこにあるのかという点をなかなかちゃんと理解することができずにいます。ドーキンスが唱えていたことというのはただ単に自然選択の単位が遺伝子であることを表しているに過ぎず、遺伝子が何か個体の意思決定に働きかけをしているとかいう意味ではないはずだ。
よく見かける表現として「氏か育ちか」というものがあるけれども、踏み込んで調べるとこの表現も必ずしも当てはまらない感じがしている。意識的か無意識的か、はたまた本能か自由選択なのか。みたいなところで揉めていたと思う。
スティーヴン・ジェイ・グールドとドーキンスが対立していたのもグールドが遺伝子に行動が支配されていると考えることに激しく違和感を唱えていたところに根っこがあると思っている。僕の勘違いかもしれないけども。
動物が巣作りしたり天敵から身を守ったりする術を誰に教わるでもなくきちんとこなすことをして「本能」と呼ぶことに違和感はないと思う。しかしながらこれがどのように子孫に伝達されているのかという点はまだまだ不明なところが多いが、遺伝子に組み込まれているというと考えるのは行き過ぎだろう。体を作り上げるための設計図・作る上でのプログラムが埋め込まれているとはいえ、その行動自体をプログラムによって制御しているというのは行き過ぎだと思う。
しかし、その一方で自我に目覚めたり、感情を持ったり、それによって自律的に行動をするという能力は間違いなく遺伝子によって作り出された身体に備わっており、遺伝子なくしてその能力の獲得は不可能であるようにも思える。
つまり何が言いたいのかというと、意識的か無意識なのか、本能なのか自由選択なのかという線引きと遺伝子の関与の有無を切り離して白か黒かということを議論することに意味があるのかと思ってしまうということだ。
日本人は文化的に犬や猫や鳥や虫たちに意識や感情や思考が存在することに違和感がない。逆に言えばキリスト教西洋社会ではなかなかそれが認めにくい、受け入れがたいものがあるらしい。このような背景が人間とその他の動物に一定の線引きをしたいという動機になっており、この論争も根っこの部分にはそのような考えがあるのではないかと思う。
先日『オクトパスの神秘: 海の賢者は語る』(My Octopus Teacher)を観ました。とても素晴らしい映画でした。感動した。しかし、その一方でタコの知性や意識・情動について我が家ではほとんど驚きはなかった。全然普通にそんなことあるだろうと思うのだ。
一周回ってそのような部分で他の動物と線を引いている西洋の人たちがまだまだ大勢いて、そんな価値観を持っていてる人たちとの間に横たわる溝のようなものに改めて驚くべきなのかもしれないなと思いました。激しく脱線しました。
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2021/06/13:トランプが大統領になった時も政権でデタラメなことを並べ立てていた時も、安倍が首相になったときも、菅がその後を引き継ぎ安倍よりも役立たずであった事があきらかになった時も、議会制民主主義はどうも制度疲労して機能不全に陥った。最早この制度の中で正しい政策運営を続けていくことに無理があるのではないかと繰り返し思った。そして今でも時として暗澹たる思いとともにそう嘆いてしまうことが毎日のように起こっている。最新の出来事は平井デジタル庁大臣が特定の企業を「干せ」などとまるで暴力団紛いな発言を行っていたというものだ。
なんでこんな程度の低い人物が大臣に就任しているんだろう。情報通信の技術革新を司ると思われるデジタル庁で、時代遅れの権威主義で話がまともに進む訳がない。一見して彼らは何か生産的な事をするよりも問題を起こす方が多くて、何かしでかしても責任を取る訳でもないままその座に座り続け、結局なんの成果もあげられないまま無為に日々を浪費している。
コロナ禍もそう、オリンピックもそう、高齢化や出生率の低下、人口減少についてもそう、福島の原発の廃炉も汚染水もそう、地球温暖化についてもエネルギー問題についても後手どころか具体的に何かしてんの?という感じだ。
閉塞感。同じような思いをしている方は少なくないはずと思う。先進国における民主主義は限界にきているのだろうか。現政権も民主主義も膝でへし折ってゴミ箱に投げ捨てるのが良いのではないかとつい口走ってしまう。確かに自民党はシュレッダーにかけて廃棄処分した方がいいとは思うが、民主主義を捨てるという考え方は思い浮かぶもののやはりそれは間違っている気がしていた。民主主義を捨て去るなら僕らはどんな社会制度へ移行していけばいいのだろうか。
そんな考えを持っていた僕は本書を読んで自分が大きく間違っていたことに気づかされた。民主主義の危機はトランプが大統領に就任した時ではなかった。トランプに対する政権移譲が寧ろ平和裏に進められたことは民主主義が正常に機能していることの証なのだという。
本当の民主主義の危機はトランプが大統領選に敗北したのに負けを認めず政権に留まろうとした時だった。トランプ支持を唱える連中が暴徒化して議事堂に侵入、死者が出る事態となったが、あれが成功しバイデンへの政権移譲が行われなかった時、アメリカの民主主義が壊れたと言われることになったというのだ。ミャンマーは選挙に不正があるとし、軍がクーデターによって政権を奪取したがそれは正に民主主義が崩壊したという意味だったのだ。
この事態を受けて西洋諸国から一斉に非難の声があがったがロシアや中国は擁護に回り意見が割れ外部からは何も具体的な対応がなされないまま静観状態が続いている。軍はそれに乗じてメディアを牽制しつつ反政府勢力を駆逐、強硬な姿勢はより強化された。国際社会は指をくわえて暴力を遠目でみているしかないというのもショックな出来事であった。
他に道があっただろうか?狭義の民主主義によれば、選挙で負けた者は敗北を認めなければならない。敗者は暴力に依存することなく、政権を移譲する。言い換えれば、不平を言わずに受け入れるのである。それが起きた時、民主主義が成立したと言える。二度目には、民主主義が定着したと言える。アメリカでは、時として不安定な状態になったものの(良く知られているのは、1876年と2000年の大統領選挙で、一般投票の敗者が大統領になった。トランプもそうである)、大統領選では57回、敗者が選挙結果を受け入れてきた。そのうち21回は、政権が一方の政党から別の政党へ平和的に移行した。
一度だけ、アメリカの民主主義はこの禁を破った。それは1861年に南部諸州がエイブラハム・リンカーンを正当な大統領と認めず、四年にわたる南北戦争が勃発した時である。
政治学者の立ち位置ってそこか。ちょっとびっくりしてしまった。しかし、それだと政策決定や意思決定が正しくなされるかどうかは二の次ということなのか。真面目に真剣にそんなことは二の次なのだそうだ。
現代民主主義の魅力は大きく二つある。第一は、尊厳を与えることだ。民主主義国では、政治家は国民の意見を聞かなければならない。人々には意見を述べる機会が与えられ、沈黙させられようとしても発言する権利は守られる。民主主義は個人の権利を尊重するのである。第二は、長期的利益を享受することである。安全な民主主義国で暮らすことで、人々は安定した暮らし、繁栄、平和という大きな利点があった。どれも人を惹きつける要素であり、実際、それらがまとめて与えられるというのは驚くべきことである。
尊厳は、常に長期的利益に優先する。まず獲得されるべきは投票の自由、選挙権である。民主主義になったばかりの国で、制度が作られるより先にと投票所に長い列ができるのはそのためだ。成果が出るまでには時間がかかる。民主主義における尊厳は、個人に帰属するものであり、だからこそ長期的利益が広く行きわたるのである。
成果がでるまで時間がかかる?このままこの状態を放置していていつか成果が生まれるのか。事態は悪化の一途を辿っているようにしか見えないのだけど。いつか成果がでてくるのを期待してこのまま待つしかないというのか。ついついムキになって反論したくなる。
結果が気に入らないからといってクーデターで政権を転覆させることが民主主義よりもマシなことなのかと言えば、現実に進んでいるミャンマの情勢を見るにとてもそんなことを考えることはできない。でなければ、金や権力におもねるばかりの俗な人物ではなく、もっと能力や知識や常識のある人物を議員として選ぶべきなのではないのか。しかし本書は僕の考えを読むかのように丁寧に反論してくる。読み手の真理を読んで構成しているみたいだ。
民主主義は愚かで無知な人が統治することを求めているというのは公平でない。民主主義の支持者は、愚かさと無知が美徳であるとは決して言っていない。しかし、民主主義が知識の程度に応じた区別をしていないのも事実である。難しい問題について知的に考える能力は二の次にされている。一人ひとりが成果に関与しているかが最優先にされるのだ。民主主義は、有権者が自らの過ちの責めを負うことを求めているのだ。
本書は非常に示唆に富んでいて理解しやすい内容になっていたと思います。なるほど扱いずらし歯がゆく必ずしも正解にたどり着ける訳ではないが、特定個人の暴走によって誤った道に国全体が突き進んでいかないようにするためには民主主義を辛抱強く守っていく必要があるということなんだろう。なかなか完全に腹落ちするのは難しい考え方ではあるけれども。民主主義の歩むスピードでコロナ禍を乗り越え、地球温暖化に対する効果的な打ち手が打ててそれが間に合うようになることを心から祈りましょう。
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2021/05/30:本書はフランスの女性ジャーナリスト、アンドレ・ヴィオリスが1932年(昭和7年)おそらく3月17日から6月8日の間に日本を訪れ取材した内容に基づき書き下ろされたルポルタージュです。
ヴィオリスは1870年、フランス南部のブルジョワ階級に生まれた人物。パリやイギリスで学ぶ過程で社会主義やフェミニズムに傾倒した。成人・結婚を経て歴史小説などを著す小説家として活躍するようになる。アンドレ・ヴィオリスは小説を書く際に使ったペンネームのようだ。
やがて第一次世界大戦がはじまりヴィオリスは病院船看護婦として赴き、前線間近の野戦病院での看護にあたると同時に、現地の様子を新聞に寄稿し女性レポーターの手によるルポルタージュの先駆者的存在となった。
1929年には叛乱に揺れるアフガニスタンへ、1931年には印度支那へ飛び現地で精力的な取材を行った。印度支那は当時フランスの植民地であったが、視察団と別行動をとり刑務所や革命家たちの取材を重ねるうちにフランスの現地人に対する不当な扱いに目を開かされるという経験をした。
折しも上海事変が起こり、ヴィオリスは印度支那から直接上海、そしてその震源地であった日本へ足を延ばしてきたのであった。
まさに第二次世界大戦突入前夜の日本ではどんなことが起こっていたのか。世界をまたにかけて取材をしてきた女性の目には何がみえたのだろうか。
近年日本はじわじわと右傾化が進んでいると感じています。憲法改正に対する圧力も強まるばかりだ。即戦争・開戦に雪崩れ込むとは思いませんが、地球温暖化、エネルギー、天然資源などの問題が悪く重なれば奪い合いになる可能性はあり、資源に乏しい日本においては軍備にお金を使うよりはもっと他にお金を回す方が長い目で見て有用なはだが、価値観や信条は千々に分裂し合意することがますます難しくなっている。
更に現在はコロナ禍の長いトンネルを抜け出せず、経済は疲弊し十分な支援ができていない。一方で政府は東京オリンピック開催に向けて頑迷な姿勢を崩さす、この矛盾した対応に人々の不信感は広がるばかりという状況ではないだろうか。
個人的には今のこの状況と開戦前夜の日本との類似点・相違点を知りたいと思った。そんな興味で本書を読みましたが、これがまた非常に読みやすくてまるで推理小説のような展開でとても面白かった。そして非常に示唆に富んだ内容となっていました。
日本の第二次世界大戦突入の背景には右傾化と軍部の暴走があった。しかし、単にそれだけで戦争に突入した訳ではないし学徒動員など一般市民がこれに同調していく勢いなどは到底得られなかったろう。果たして当時の原動力というものはどんなところにあったのだろうか。
私に助言できることがあるとしたら、それは、手ばなすことだけです。横浜に到着する前に、伝説や紋切り型の寄せ集めを捨て去ることですよ。こうしたものによって、もうずっと前から世界に対して日本のほんとうの顔が隠されてきたのです。日本人は、イギリス人がいうところの『ウィンドウ・ドレッシング』、つまり『ショーウィンドウの飾りつけ』術にたけています。最初の『ショーウィンドウの飾りつけ係』として、運よくあの愛想のよいほら吹き、ラフカディオ・ハーンがみつかり、その誌的な発露を日本人は極めて巧みに利用し、広めたのです。こうして、絵葉書にとっても旅行代理店にとっても都合のよい『神秘的な日本』、桜の花、紫色や金色の寺院、砂糖をまぶしたような山、金銀の派手な絹の着物をきたゲイシャ、笑顔のかわいらしいムスメが飾られるようになったのです。こうした人工的な装飾は、すべて入念に手入れされ、たしかにまだ存在していますが、しかし過酷な悲しい現実をカモフラージュしているのです。
船旅で一緒になったスイス人はこんな言葉をつぶやいていた。
1932年ヴィオリスを出迎えた日本は予想以上に複雑に分裂していた。国粋主義者、軍国主義者、ファシズム、社会主義者、共産主義者たちがそれぞれの信条を同じくする者たちと集い合い相反する者たちとの闘いを繰り広げていた。日本政府は強硬策の実施を迫る軍部と国際社会の板挟みに加え暗躍する共産主義者たちを牽制するのが精一杯で身動きできずにおり、業を煮やした軍の息のかかるものたちによって脅迫、暗殺の影におびえてもいた。
そしてその背景には駆け足で工業化近代化を推し進めた日本に世界恐慌の影響が大きく影を落としていた。財閥も小規模卸売企業も農家もみな極端な物価上昇と不況に息もできない状態にあった。ヴィオリスはこうした様々な立場の人たちの声を丁寧に拾っていく。
「日本の民族精神に影響を及ぼすことのなかった仏教にとってかわるために、また衰弱した古来の神道を活性化させるために打ち立てられた、新しい宗教ですね。」
「おっしゃるとおり崇拝ですな。太陽神の子孫で、祖国を象徴・具現化している天皇への崇拝です。これは、この国のきわめて古い伝統にすでに存在し、むかしのあらゆる武士の心に存在していたものであって、たんに新しい名前がつけられ、厳密な道徳律に形を変えたにすぎませんが、この掟に背けば、いかなる日本人でも必ず傷がつきます。」
「我々は軍を支持しておりますが、めざしているのは、あくまでも極東での秩序の維持と平和であり、決して領土を欲しているわけではありません。我々の提唱している『日本主義』とは、国粋主義、ファシズム、共産主義のすべての利点をあわせたものですが、しかし日本の基盤でもあり力ともなっている原則、すなわち天皇陛下り至高の権力と神としての性格を、片時もわすれたことはありません。」
日本では共産党が合法的な存在ではなく、非合法だったとしても、また結社や刊行物が禁止されていて、党員数も不明だったとしても、それでもやはり共産党は存在しているということ、そして相当な影響力を持っているということを確信することができた。とくに、学生、弁護士、高校教師、大学器教授のあいだでは、奇妙なことに、組織としての共産党というのは、つねに知識人に対して妙な不信感を示すものだが、しかし多くの国において、闘争や危険と隣り合わせの英雄的な時期に、責任も弾圧も顧みず、ためらいもなく真っ先に共産主義の冒険に飛び込んでゆくのは、知識人なのだ。
いまや、なにかの間違いで、あるいは欧米が主導して、といってもかまいませんが、孤立から抜け出さねばならなくなり、現代文明の利器と呼ばれるものを急いで、ほんとうに大急ぎで飲み込んだわけですが、いまや海と山に挟まれた狭い平野で息苦しくなっています。これまで以上に、近くにある広大な隣国、支那に目を付け、物欲しげに見るようになってさえいるのは、当然のなりゆきではありませんか。支那は組織もまとまりもなく、たえまない内戦は一時的なものかもしれませんが、疑いのないところであって、いわば無防備な餌食となっているのではないでしょうか。それに、日本人はずっとこの領土を手に入れようと考えてきましたし、それは何世紀も前に、昔の大名たちが夢見たことでした。
「こうして、生糸が壊滅状態になったわけです。」
「これは1923年(大正12年)の地震とおなじぐらい深刻な、国家的災難であるとみなされています。日本は軽率にも、きまぐれな流行に左右される贅沢品である生糸を過剰に生産してしまったのです。まだ歴史が浅い人絹も絹を圧迫しつつあり、これもますます考慮にいれる必要に迫られています。
現在の日本と同じように複雑に分断された当時の日本。その日本に襲い掛かった未曾有の経済危機のなかをヴィオリスは縦横無尽に取材を続けていく、やがて彼女の前に浮かび上がってくるのはまさにこの戦争へと盲目的に突き進んでいく日本人の信条・動機であった。
まさに推理小説のような展開で最後まで飽きさせられることなく進む本書は必ずしも公平で必ずしも正しい訳ではないにしても一級品の歴史資料となっていると思いますし、我々は同じ過ちを繰り返さないためにも当時と今を比較して備えることは非常に重要なことだと感じました。
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2021/05/09:本書は通読するのにえらい難儀しました。読後「難しい」と一言つぶやいている人がいましたが、難解なのかと思っていたらそうではなくて読解できない難しさでありました。そっちかよ。と。
「脳」は,私たち人間にとってとても大切な器官です。では,脳とは何なのでしょうか? この質問に答えるのは,最先端の研究者でもそう簡単ではありません。
本書は,脳研究によって何が明らかにされていて,何がわかっていないかを,歴史的な経緯を踏まえながら解説します。現代の医学や科学の発展に鑑みると,脳の理解もさぞ進んでいることだろうと思う方も多いでしょう。しかし驚くなかれ,脳に関しては「わからないことだらけ」なのです。しかし、その最新の知見について科学的な考え方だけでなく哲学的な観点を含めさまざまな観点で解説するとありました。
はじめに
第1章 電気と脳
第2章 脳をつくる
第3章 進化する脳
第4章 脳の画像化
第5章 脳の工学
第6章 セキュリティーと脳
第7章 脳を治療する
第8章 社会化する脳
あとがき「決定版ではありません」
第1章電気と脳では、脳が生み出している意識や体の反応・代謝の指示命令は神経回路における電気信号なのか化学伝達物質によるものなのか科学の進化に応じて我々の理解がどのように進んできたのかについて触れられていました。しかしでは結局どうだったのか。今はどう考えられているのか。という点になると急に靄がかかって話が拡散していくように見える。
脳は生命体を支える基本的な構造を持っていると同時に、ある環境や状況下で作動するものでもあるのです。たとえば、現実には私たちの脳は水槽のなかにある訳ではありませんが、もし水槽の中にあったとしたら、その水槽こそが考えるべき状況となるのです。
この一文で章が閉じられているのだけど、考えるべき対象ではなく状況と言っている意味もわからない。本書の全体のトーンとして生物が有している能力や機能は基本的に脳が司っていると考えられているが現実に「脳細胞」に閉じて機能が発出している訳ではなく、皮膚や五感のようなもの全身と繋がって一体となっているからこそ発揮されていると言いたいみたいなのだけど、だからそれでどうなのかという点についてはなんだか歯切れがとっても悪いというか悪すぎる。
脳オルガノイドは、脳の属性の一部を真似る細胞系です。脳オルガノイドの素晴らしいところは、適切な環境にある場合、細胞が自発的に組織化(自己組織化)し、皮膚などの組織となったり、人間に特徴的な細胞種や、前駆細胞領域を作り出したりすることです。幹細胞生物学の発展のおかげで、オルガノイドはどんな器官に対しても作り出すことができます。しかし、神経発達と脳機能をより深く知ると、とりわけ面白いことがわかるのです。特に外側放射状グリアは、最近まで直接近くで観察することがほぼ不可能でした。オルガノイドは小頭症に関連する因子やミエリンおよび神経細胞とグリア細胞間の相互作用に異常を示す統合失調症などの疾患のために研究されてきました。シナプス刈込みと呼ばれる、思春期に終わりを迎える正常な発達過程は、精神疾患を抱える人の多くのではうまくいきません。このオルガノイドによりモデル化できる可能性があるのです。
脳オルガノイドは倫理的な部分で最近非常に注目されているもの、のようなのだけど、説明がない。この文章の後半ででてくる「とりわけ面白いことがわかる」と書かれている部分の後ろを注意深く読みましたが、どこか面白い話なのかちっともわからない。
極めて素人ながら言いたいことを僕なりに解釈するに、この脳オルガノイドは人工的に小さな脳細胞を作り出すことができるようになったというもので事故や病気で欠損した脳細胞の再生を可能とするものになるのではないかと考えている一方で、この作り出した脳細胞に意識が宿っている可能性があるということで医療倫理に反するのではないかという議論を呼んでいるもの のようなのだ。
だから「一部を真似る細胞」だと書いている訳ね。
シナプス刈込みについても全然説明がない。公益社団法人日本生化学会のホームページにはこんな説明がありました。
生後発達期の神経系において,出生直後にいったん過剰にシナプスが形成された後,環境や経験に依存して必要なシナプスは強められて残り,不要なシナプスは除去されることが知られている.この現象は「シナプス刈り込み」と呼ばれており,機能的でむだの少ない神経回路を作るための基本的過程であると考えられている。
オルガノイドを使ってこの刈込み現象をモデル化することで神経疾患の人がうまくいかない理由や原因を探ることができるのではないかということを言いたいのかもしれない。
他の章というか本書は全編こんな感じで行間を読む力がよっぽどある方でないと読んでも理解できないのではないかと思います。専門知識があったとしてもこんな書き方じゃ解からないと思うが如何でしょうか。
百万年以上もの間、新しい生物学的な化学伝達物質が現れては多様化し、それらの遺伝子コードが書き換えられ、複製されてきました。大型動物と同様、化学伝達物質という種も、現れては絶滅していったのです。そのうち、原生生物やバクテリア、菌類、無脊椎動物などは、生命の起源に遡る古い歴史を持っています。チャールズ・ダーウィンが注目したように、進化においてはさまざまな生物で臓器や器官が保持され再利用される傾向にあります。まったく同じことがエンドルフィンやインスリン、チロキシン、エストロゲン、ドーパミンにもいえます。成長ホルモンを放出するゴナドトロピンのような分子は、無顎類が現れたと同じ頃と同じくらい古くから存在し、見た目もさまざまです。オキシトシンも古い分子群の中の一つで、対象と近づいたり触れ合ったりすることで分泌されるので「抱擁物質」とも呼ばれています。生物学的な進化において、このようなホルモンが有性生殖のために再利用されてきた理由はほとんど明らかでしょう。すべての生き物において同様に、進化は同じ分子をほかの役割に再利用したがるのです。生物学者たちの言葉を借りれば、オキシトシンは生殖の追求に加え、友情や子育てにおける乳の分泌などのプラトニックな目的にも「借りだされ」ます。どの器官のどこに発現するかによって、用途に違いが出るのです。
文句ばっかり書いてしまったけれども本書の情報量はかなりなもので、初めて接する言葉が沢山ありました。脳や意識の問題はわからいなことがたくさんある。それが故にもっともっといろいろな本を読み勉強すべきところがあることを改めて感じました。
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2021/04/18:本を読んではメモをとり、気になった情報はネットで調べて記事にまとめる。こんな作業もまもなく20年ぐらいになる。なんの役に立っているのか、実感はない。けれども少なくともキーボードをブラインドで打てるとか、情報収集して簡潔にまとめるのが早いとかは仕事でも活かせている気がする。
何かの為の読書か。それは仕事に役立つスキルを磨くためとかではなくて、興味がある好奇心があること知る愉しみ。読書は僕の世界観を大きく変え、僕の人生は確実に豊かになった。それは間違いない。これからもできる限り限り続けていきたいと思っております。
さて、本書はカラビ予想という難解な問題を解決したことで知られるシン=トゥン・ヤウ氏の自伝であります。読了後いつも通りメモを纏めていて気付いたのは、2012年10月に彼と共著者のスティーブ・ネイディスの二人が書いた本「見えざる宇宙のかたち-超弦理論に秘められた次元の幾何学」を読んでいたということだった。9年前とは言え読んだ本を忘れているというのはちょっとしたショックでしたが。
そしてその時にまとめた記事では、ヤウ本人の生い立ちに興味があったのに全然触れられておらず、彼が生み出したカラビ・ヤウ多様体に関する解説で終始している。そしてその内容が難解すぎて自分には理解できないと書いていた。
今回読んだ「宇宙の隠れた形を解き明かした数学者」は逆にヤウの人生を丁寧にたどるものとなっていて、彼の遂げた業績のなかみについては大きく割愛された形になっていました。前著は2012年、本書は2019年に出されたもので二つは出版社も違い対になっている訳ではないらしい。
存命中の数学者の自伝的な本が二冊も出版されるというのはあまり聞いたことがない。それだけヤウ氏の偉業がどれだけのものだったのかを示すものだと思う。
中国の非常に貧しい家に生まれ育ったヤウが、努力を重ねそしてまた幸運にも恵まれて頭角を現しその世界の権威となっていく物語はとても面白く集中力を失うこともなく読み進めることができました。
そもそも僕が超弦理論の話に興味を持ち続けてきていて、そこに度々登場するヤウも気になる存在であったことがあった。ヤウはもともと純粋数学の世界の人で専門は幾何学やトポロジーであった。多分。しかしそれなのにどうしてカラビ・ヤウ多様体という超弦理論の中核となる折りたたまれた次元の姿という物理の真理に迫る問題に迫ることとなったのかということだ。
超弦理論について少しだけ。極小の世界では物質が粒子と波の両方の性格を帯びていることがわかり物理学は大きな壁に直面することとなった。重力は距離の二乗に反比例するということから距離が0である状態を認めると重力は無限大となってしまうため理論が破綻してしまう。純粋数学における線は厚さのないものとして扱われているが正にこの状態を実際の世界に当てはめるとうまくいかないことがあるということだろう。超弦理論は物質の最小単位を無限小の点ではなく、一次元の広がりを持つ弦であるという考え方を拡張してきた考え方だ。
振動する大きさをもつ一次元の弦が世界の最小単位だというのは斬新な考え方だと思う。そして驚くべきことに超弦理論ではこの弦のなかに折りたたまれた余剰次元が存在し世界は10次元かまたは11次元なのだという。カラビ・ヤウ多様体とはこの弦の内側に存在する余剰次元の形を表す方程式なのだ。多分だけど。
本書によればヤウがそのような研究に携わることになったきっかけはチャールズ・モリ―という教師について微分方程式を学んだ時だと言っていました。彼の授業を受けたことを契機に偏微分方程式をつなぐ糸として幾何学とトポロジーをつなげるというぼんやりとしたアイディアを持ったようだ。具体的には非線形偏微分方程式を利用したところ、それが一般相対性理論に基づくアインシュタイン方程式、つまりは宇宙の曲率をあらわすことに繋がっていったようなのだ。
偏微分方程式が何を表しているのかちっともわからないのが残念だけど。幾何学分野の学者たちは他の領域とを跨いで研究するとか他の分野の方法論を応用するということに対して強い抵抗感があったようなのだが、ヤウ自身は直観を信じてどんどん外の世界とつながりを広げていく。そしてその道が超弦理論を大きく前進させる発見に繋がっていったのでした。
また本書にはもう一つ大きなポイントがありました。それは副題にもなっているポアンカレ予想に関するお話。ここではポアンカレ予想に踏み込みませんが、クレイ数学研究所によって懸賞金がかけられた7つの問題、ミレニアム懸賞問題の一つで唯一解決済みとなったものです。解決したのはロシアの数学者グリゴリー・ペレルマン。彼が果たして証明を果たしたのか否かという点で学会が大きく揺れているなかでヤウがこれに反対妨害したという話がニューヨーカー誌で記事になったということがあったそうだ。ヤウは当時もこれを全否定していたそうなのだが、本書でもその顛末についてかなり詳しく述べていました。
ポアンカレ予想に限らず研究活動は競争相手に先んじて結果を出す熾烈な戦いでありヤウ本人は上述のように他領域の考え方を柔軟に取り込むことで数々の偉業を成し遂げ、数学界を大きく前進させてきた。結果、競争相手との間では多くの確執を生み、縁故や人脈を重視する中国の学界重鎮たちとの間では時に激しい対立を生じさせ、その模様が赤裸々に語られていました。なんかちょっとすっきりした読書でありました。
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