- 「動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか 」フランス・ドゥ・ヴァール
- 「暴君誕生 」マット・タイービ
- 「シエラレオネの真実 」アミナッタ・フォルナ
- 「魔力」トニイ・ヒラーマン
- 「宇宙を旅する生命 」チャンドラ・ウィックラマシンゲ
2018/12/31:
実際には既にお年越ししちゃった時間に記事を書いています。いろいろと忙しくて届きませんでした。2018年の最後を飾る一冊は「動物の賢さが解るほど人間は賢いのか」です。
年取っていくに従い落ち着いた日々を過ごすようになるのだろうと思っていましたが、僕の場合は性分もあるんだろうと思うけども、全然そんなことはなくて寧ろ忙しくなっているようにすら思う。
仕事でも朝から晩まで集中の途切れる間がないような一日を過ごし、休日も自転車だIngressだ料理だなんだと慌ただしく過ごしていまます。通勤時間を使って読んでいる本の量は近年徐々に減ってきている感じで、これは目が悪くなってきたからというのもあるけども、どっちかと言うと詰め込みすぎで手が回らなくなってきているというのが本当のところだと思う。
年の変わる夜のこの時間に独りパソコンに向かって記事を書こうとしている時点でそれは明らかではないかと思う。それでも好きでやっていることはやった方がいいというのが僕の信条であります。2019年に入りましたが人生を無駄に過ごすことのないように頑張っていきたいと思います。皆様旧年中は大変お世話になりました。また新年も引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
さて本書の話であります。
どの場合にも、私たちは人間を基準として動物の知能を比較対照したがる。とはいえ、それは時代遅れの評価方法であることを肝に銘じておくといい。比較すべきは人間と動物ではなく、動物の一つの種(私たち)とそれ以外の非常にお多くの種だ。便宜上、このあとはほとんどの場合、「動物」という言葉で後者を指すつもりだが、人間も動物であることは否定しようがない。したがって私たちは、知能の二つの別々のカテゴリーを比べているのではなく、単一のグラフがカテゴリー内の違いを考察しているのだ。人間の認知は動物の認知の一種であると私は見ている。それぞれに神経が通って独立した動きをする八本の腕の一本一本に行きわたったタコの認知機能や、自分の発する甲高い鳴き声の反響を感じ取り、動き回る獲物を捕まえることを可能にするコウモリの認知機能を比べると、私たち人間の認知だけが特別だなどとはたして言えるだろうか?
冒頭にある一文ですが、本書の内容はこの一文に集約されている感じだなー。ここで著者は「認知」という言葉を使っている。人間は確かに非常に賢い生物だけども、他の動物たちがどの程度「劣っている」のかという点では激しく意見が異なっている。様々な種の動物たちは生き残りを賭けて能力を磨いてきているが、認知という点でも同様でそれぞれの種における戦略・立ち位置に応じた認知能力が磨きこまれていて、その優劣は単純に外見から比較できるものではない。というようなことなのではないかと思う。
かつて西洋人たちがアフリカなどで未開人を「再発見」した際に彼らを自分たちよりも著しく劣っていると考えた訳だが、それは自分たちが持っているものを持っていないからそう考えたらしい。しかし実際には食べられる草木の特定など生きるために必要な知識を豊かに備えた人々であって一つの同じ能力の有無で比較すること自体がナンセンスだった。
動物たちと人間を比較する場合でも同じことをやってしまっているし、それ自体が間違っていることは明らかであろうという主張には激しく同意するところであります。
意識や自我や認知、感情、心といったものはどのように創り出されているのか。それぞれの生物にどれがどの程度備わっているのか。未だ確定的な科学的な説明はできておらず、おそらく一般の人の考え方も千差万別なんだろうと思う。
日本人は比較的鷹揚で、無生物にまで何かそれが備わっているかのような考えや行動をとっていて、寧ろ深く考えていない部分すらあるのではないかと思われる部分がある。その一方で大型の動物にすら心や感情といったものの存在を受け付けられない狭量な捉え方を持っている人もいる。そうした人たちは人間が特別な存在であることが前提であり否定しがたい強い思いを抱いているようにも見える。どちらも根拠に薄い以上感情論であって科学的ではなく、議論することは難しい。
しかし動物と実際に触れあい心が通じ合う瞬間を経験したものにとって後者のスタンスは明らかに頑迷であると言わざるを得ないと思う。この議論を打開できない科学はまだまだ遅れていて今後に期待したいところでありますが、心や意識が生み出されている仕組みが解るようになるのかという点で僕はやや悲観的でかなり長い時間が必要というか、できないのではないかとすら思ったりしています。
人工知能や量子コンピューターといった技術は今後ますます進歩していくと思いますが、だからといって近年心や意識の仕組みがわかったり人工的にそれを生み出したりすることができるようになるとは思えないのであります。やはりそれができるようになるためには人間自身がもっともっと賢くなる必要があるという事かと思いました。
2019年も引き続きよろしくお願いいたします。
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2018/12/09:タイトルも表紙に使われた写真も電車で読むにはかなり気が引けるものがありましたが、今この世界で起こっている最も不可解なものとしてトランプが大統領になったということを超えるものはないのではないだろうか。
まさかと思っていたけどもなぜか大統領選を勝ち抜いてあっけにとられる世界を置き去りにしてトランプはアメリカ合衆国大統領に就任した。 何か悪い冗談のような話で仮になったらどこかの国と戦争に突入するのではないかとか、国内で大暴動が起こって内戦状態になるのではないかとか、最終的にはビンラーディンのように特殊部隊がホワイトハウスに突入してトランプを射殺して終わるとか、ろくでもない想像をしたりしていた。そんなド派手な展開こそなかったものの、政治は停滞し、小規模ではあったが白人至上主義者の集会に抗議した人たちとのあいだで小競り合いが発生、白人至上主義者が暴走させたクルマに轢かれて亡くなったという事件が起こった。
トランプはこの時、極右の人間を擁護したばかりか喧嘩両成敗みたいなことを言い大ブーイングを巻き起こした。これ以外にもトランプは暴言・失言を繰り返しているけれども、大統領の座から引きずり落されることもなく。
メキシコ国境でも封鎖と武装した軍隊の投入により緊迫した状態が続いていて、病気になったり、命を落としたり、した人が少なからずいることは容易に想像できる。
日本でも安倍とか麻生とかが似たような状態にある訳でアメリカのことを指さす資格は既に僕らにはないのではあるけれども、それにしてもこの事態は一体全体どうしたことなのか。アメリカ国民たちは何がしたいのか。
本書はローリングストーン誌のコラムニストである著者がトランプの大統領選を追って目撃したことを纏めたものだ。それも適宜誌面に載せたものだと思われる。であるが故に本人もこの先どうなっていくのか知らない。そもそもトランプが大統領になるなんてそんなバカな話があるのかと思っていた。自信満々で。しかしそれは事態が進んでいくに従い狼狽に変わっていく。
それは僕らがニュースを見てみていた時と同じ感覚といえるものだ。 しかし振り返ればアメリカの大統領選はブッシュⅡの時だって相当怪しかった。
ブッシュとゴアが争った2000年の大統領選挙の結果が、フロリダ州の投票機の調子に左右されたことで、アメリカ国民は選挙そのものを疑うようになってきていた。2004年のフロリダ州の世論調査では、有権者の約25%が選挙結果に疑いを持っていることを示していたが、2000年の調査ではその割合が5%に過ぎなかった。
2006年に行われたゾクビーの調査では、2004年のブッシュが勝利した大統領選挙では、選挙が公正なものだったと信じるアメリカ人は、全体45%しかいなかった。
最も怪しかったのがフロリダ州の選挙結果であった訳だが、その州知事をしていたのが実の弟のジェフ・ブッシュであって、その弟はそんな事件があったにも関わらず何れ自分も大統領になれると考えているらしいことに驚いた次第だけど、実際に立候補してきたのだった。そんなジェフを阻止したのは誰あろうトランプだった。
トランプはジェフの奥さんがメキシコ人だから移民政策に後ろ向きだと攻め、更には母親のことを侮辱する発言をした。これにジェフは母を強くて偉大な人物だと返したがトランプは「だったら母親が立候補すればよかっただろう」と一言であしらった。育ちの良いジェフはこれに対してまともな反論もできず選挙戦から離脱していったのだそうだ。ガキの喧嘩か。
しかしそんなことは普通のニュースを読んでいてもわからない。本書はこうした僕らが知らない実際に起こったことのオンパレードなのだ。 本書の読みどころの一つは正にそこにあった。そんなはずがないことが起こってしまったという驚き。そしてそれはどうして起こってしまったのか。
順序がちと怪しいけれども、共和党内の大統領候補を次々となぎ倒していったわけだが、トランプの主張というものがそもそも共和党のコンセンサスとは全然かみ合ってなかったのに勝った。というか他の候補者が負けた。どれもまともな議論とか政策の有効性や合理性でもなくて口汚い口喧嘩に負けた。そしてトランプ支持者たちはその状況に単に熱狂していた感じだ。
いや熱狂する人がいても良いとは思う。しかしそんな非合理的で感情的な話で選挙に勝てるはずがないと思っていたのに勝ち進んでしまった。そしてそれは共和党と民主党の一騎打ちとなった後も同様だった。 トランプは度々というか定期的というか回帰的に暴言・失言を重ねていくが、これが自殺点にはならず躍進していってしまうのだ。
これは結果的にメディアが片棒を担いだ結果だった。メディアも一部ほとんどだれも読んでいる人がいない極右の新聞なんかを除けばトランプが大統領になるとは思っていなかったし認めてもいなかった。
ニュースと言えば殺人だのといった暴力ネタか、パンダの出産のような話題性のある楽しいネタのオンパレードだった。メディアはソファに寝そべってテレビを観るカウチポテト族の要求に応えるために、数多くのネタを用意しなければならなかった。いきおい一つのニュースは40秒から30秒、そして20秒へと、どんどん短くなっていった。
従来の大統領選ではメディアが認めない候補者が選挙戦を戦うこと自体があり得ないことだった。トランプはメディアを敵に回した時点で選挙戦にでることができなくなるはずだった。しかしあろうことかトランプはメディアを敵に回してしかも負けなかった。
何故ならトランプはその頓狂な言動で視聴率が稼げたからだった。メディアとトランプを拒否しつつも視聴率が稼げるトランプを無視できなかった。そしてトランプはそのメディアに登場して当のメディアをフェイクだとかなんだとか言ってその地位を地に落としていった。他の候補者も同様に実際にはありもしない事実で攻撃して打ち負かしていく。
トランプを支持する人々はこうした権威に対して挑戦しぶっ壊していく姿に熱狂していったのだった。トランプは見事にその力を生かして選挙戦を戦っていった。
実際には私利私欲と権力欲、自分自身を満足させるためだけに大統領を目指しているこの身勝手な人物を、深く考える時事に疎い政治に興味を持たない国民を育ててきたアメリカは一時の感情に流された人々によって選んでしまうのだ。
これはアメリカの政治の終わりのはじまりだ。トランプがどんな形で退陣していくのは知る由もないが、その後任となる人がどんな人であってもこの時期に生まれた深い分断と怒り。そして政治とメディアと富裕層に対する不信感が払拭されることは決してないだろう。
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2018/11/25:フランシス・フクヤマの「政治の衰退」を読み始めたのだけど、下巻が出版されていないじゃないですか。これ。難しくて集中するのがなかなか大変な本を間延びして読んだらますますわからなくなってしまうだろうに。
仕方ないので別な本に取り掛かることにしました。
それがこちら「シエラレオネの真実」。長く続く悲惨な内戦によって平均寿命が世界で一番短くなってしまった国。
イシメール・ベアの「戦場から生きのびて」は子どもたちで遊びに出かけている間に革命統一戦線(RUF)により村が殲滅され、さらには捕まり少年兵として凄惨な戦闘へと駆り出されていった男の子のノンフィクションだった。どうしてこんなことになってしまったのか。もっと知るべきことがあるはず。そんな隙間を埋めてくれることを期待してみました。
しかしてっきり内戦の中の話かと思っていたら違った。著者のアミナッタ・フォルナは1964年生まれで僕とほぼ同世代。彼女が10歳の時に起った父の死に関する話でした。およそ40年以上の前の話だ。
僕はこの話の歴史観がないまま読み進めてしまったのだけど、どう考えてもちゃんと経緯が解った上で読んだ方が良いと思う。
あとがきにはかなり詳しい経緯が整理されていたので引用させていただきます。
あとがき
アミナッタの父モハメド・フォルナはシェラレオネ北部の貧しい農村の出身であった。偶然のきっかけから奨学金を得てエリート校のポー・スクールで学び、さらに、スコットランドのアバディーン大学で医学を修めた。留学中にスコットランド人のモーリーンと出逢い、モーリーンの父の反対を押し切って結婚。アミナッタはモハメドとモーリーンの第三子として、1964年にスコットランドのベルズヒルで生まれた。
フォルナ一家はアミナッタが生後6か月のときにシエラレオネに戻り、父は首都の病院で短期間医者として勤務した後、東部のダイヤモンドの町コイドゥで開業した。父の夢は「家族経営の診療所のネットワーク」を作って、誰もが医療サービスを受けられるようにすることだった。医者としてできることの限界を感じていたとき、野党の全人民会議(APC)の強い誘いを受けて、1997年の国政選挙に立候補し、圧倒的多数の票を得て国会議員に選出されただけでなく、APCの勝利に大きく貢献した。
選挙直後、軍事クーデターが起き、新政権はギニアへの亡命を余儀なくされたが、1968年に復権し、シアカ・スティーブンスが首相となり、フォルナは財務大臣に任命された。しかし、政権が誕生して三年足らずの間に、首相とフォルナの間で政策や政治信条の違いが顕著になり、フォルナは政権を去る理由を克明に記した辞表を提出した。「私は行動規範を犠牲にして地位に留まることはできない。いつも言っているように、私の審判は歴史に委ねよう」と辞表は結ばれていた。
フォルナは、ともに閣僚を辞任したイブラヒム・タキらと統一民主党(UDP)を結成した。多くの支持者を得たが、非常事態宣言が発令され、次の総選挙での議席獲得を目指して集会を続けてきたUDP幹部はただちに逮捕された。フォルナとタキが刑務所から解放されたのは3年後だった。
フォルナは政治から身を引き、ビジネスの世界に身を転じるが、スティーブンスは、フォルナやタキを完全に排除するために政府転覆未遂事件をでっち上げ、「関係者」を逮捕した。拷問が繰り返され、証人たちは犯罪調査部(CID)が作成した供述調書に署名させられ、証言を暗記させられて、見返りの約束を信じて法廷で虚偽の証言をした。1975年7月19日の未明にフォルナとタキが処刑された。八名の遺体が入った棺は、蓋を開いて刑務所の前で公開された後、集団墓地に捨てられ、酸をかけて痕跡が消し去られた。
つまり長く悲惨な内戦へと突入する前夜的な事件として発生したのがこの政府転覆未遂事件のでっち上げであったのだった。これによってシアカ・スティーブンスの独裁が強まり、利権の独占化が進み、政治や経済が停滞、反政府勢力の隆盛を招き、最終的には無政府状態の内戦という他に例を見ない凄惨な紛争状態を生んだのだった。
これも振り返れば、長きに続いた英国の植民地時代があり、クレオールのエリート化が進んだ。シエラレオネにおけるクレオールは地元民との混血という意味ではなく、イギリスやその他の国が連れてきた解放奴隷たちの子孫であった。
読み替えると西洋で解放した奴隷をよその国に体よく追っ払った形だと言えなくもない。シエラレオネの人々はその意味で二重に踏みにじられていた訳だ。
そうした状態から地元民たちの復権という声が上がってきたのは当然のことで、シアカ・スティーブンスと手を結んだアミナッタの父モハメド・フォルナは高い教育と英国で暮らした経験から高い理想を抱いていた模様だ。しかし、理想と現実は違った。徐々に偏執的になり利権を我が物にせんとするスティーブンスと意見が不一致していったのだった。
本書はアミナッタの子供のころの記憶とジャーナリストとなったのちにこの事件を調査し、多くの関係者と直接会ってインタビューを重ねて判明してきた父の最後の足取りを蘇らせる内容となっていました。
この事件自体非常に重く、無念の思いを抱かざるを得ないものがあるのだけれども、その前後に連なる罪深い歴史の重さはもっともっと途轍もないものがあります。そしてそのような事態が起こっていたこと、それが続いていることを僕らのような市井の人が知るまでにどんなに時間が必要なのかということもとても残念でならないことだと思います。
それにしてもなぜそうなってしまうのか。フランシス・フクヤマの本によれば自由民主主義がうまく機能する為には①「国家」、②「法の支配」、③「説明責任」の三つがきちんと機能する必要があってその一つでも欠けていてはうまくいかないのだといいう。
そしてこれら一つ一つは冷蔵庫やエアコンみたいにどこからか持ってきてスイッチをいれれば動き出すという類のものではない。
クルマや飛行機のように操縦するには技術や経験が必要なばかりか組織だって動ける人員がいる。そして何より構成される人民の合意が必要なのだ。当然ながら。「シエラレオネの真実」を読んで痛感するのは主権を我が物にしようという熱意はあるけれども、国家運営をどのように進めればよいのかちゃんと解っている人がほとんどいないということだ。そしていつの間にか私欲を肥やすことに走り始めてしまうのだ。
アミナッタの父は清廉でそのようなことに手を染めることはなかったようだが、雪崩を打ったように私利私欲に走る人々をとどめる力は残念ながらなかった。そのようにして法の支配も、説明責任も果たせない国家から人心が離れていくのは当然のことだろう。
このような知見がなかったのも英国の植民地政策とクレオールの特権化などが背景にあるのは間違いない。またその一方で私利私欲に走ってしまう人間の性。民主化に失敗しているほとんどの国々がこの問題を抱えていることは間違いない。しかしトランプ政権のアメリカはどうなのか。消費税増税や憲法改正に走る安倍政権も相同な面があるのではないのか。逮捕されたゴーン会長は?そして毎日のように起こる殺人事件の動機の多くはどうなのか。平常時はともかく危機にあるとき、それもすこぶる重大な危機に瀕したときに、果たして自分も理性的でいられるのか。
法が、経済が、国家が崩壊とまではいなかいまでも、停滞が始まった途端に買い占めに走ってしまう光景は大震災のときに繰り返し目にしていたではないか。他人事ではないなと深く考えさせられた次第であります。
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2018/10/20:夢中になって読める本があるというのは幸せなことであります。期末・期初のドタバタのさなかに重たい固い本はしんどいのでこんな時こそ、とっておきのトニイ・ヒラーマンを引っ張り出してカバンに突っ込んで出勤。なんてすばらしいことでしょう。
「魔力」はシリーズ8作目。リープホーンとチーが直接接点を持って捜査が進む大変読みどころの多い一冊でした。 トレイラーハウスに暮らすジム・チーは最近近くに現れた猫と顔見知りになってきていた。白人のペットだったと思われるその猫はなんらかの事情で野良となり荒野にたくましくなじみ生き抜くすべを身に着けているようだった。野生動物との接触を避けるナヴァホの伝統を守るチーだったが、猫を狙うコヨーテの存在からトレイラーに猫用のくぐり戸を作った。やがて猫はひっそりとトレイラーに出入りするようになってきた。
その猫が夜中に入ってきた気配にチーは目覚める。猫は何かに警戒して安全なトレイラーに逃げ込んできたらしい。何から逃げてきたのか。ベッドから抜け出し外の気配をうかがっていると外からチーが寝ていた場所に向けてショットガンが撃ち込まれてきた。
リープホーンは多忙な日々を送っていた。持ち込まれる様々な依頼や苦情。苦情のなかにはチーに関するものがあった。クリニックを営む傍ら水晶占いを行っている医師イエローホースからのもので、チーは彼のことをいかさまだと言いふらしているのだという。
その上リープホーンは未解決の殺人事件を三つも抱え込んでいた。運転中にライフルで狙撃されて死んだ社会福祉部の女。自分のホーガンの裏手で肉切り包丁によって刺殺された男。もう一人は野良作業の最中にシャベルで殴り殺されていた。
それぞれの事件は離れた場所で起こっており、被害者たちには接点らしいものが見当たらなかった。社会福祉部の女は嫌われ者で、関係者には誰しも動機があると言われるほどであった。しかし二人の男はひっそりと暮らしていた老人で人に恨まれるようなことをする人物ではなかった模様だった。
チーはFBIの捜査官に同行してそのうちの一つ、肉切り包丁の殺人事件の犯人と目される人物を逮捕しにいく。その人物の車が事件直後に現場にあったのを見た、また被害者を殺しに行くと言っていたことを聞いたという証言が得られたからだった。しかし捕まえてみるとその人物は被害者をライフルで撃ったのだという。男が持っていたライフルは社会福祉部の女を撃ったものとも違い。またチーを狙ったショットガンとも違うものなのだった。
鹿玉を撃ち込まれていたトレイラーを調べにやってきたリープホーンは初対面のチーがなかなか賢い男であることを見抜き好感を持つ。当時の状況や狙われるようなことに思い当たることがないか話し合っているうちに骨でできたビーズのようなものを発見する。
ナヴァホの言い伝えでは魔術師は呪いをかける相手に骨を埋め込む。呪いを返すにはその骨を魔術師の体に返す必要があった。チーを魔術師だと捉えている何者かの仕業なのだろうか。やがて肉切り包丁で殺された男の傷口にも同様の骨でできたピーズがあったことがわかる。事件はやがて急展開を迎えチーとリープホーンを危険な状況へと追い込んでいくのだった。
1 『祟り』The Blessing Way (1970) (1)
2 The Fly on the Wall (1971)
■The Boy Who Made Dragonfly (1972)
3『死者の舞踏場』The Dance Hall of the Dead (1973) (8)
■The Great Taos Bank Robbery (1973)
■New Mexico (1974)
■Rio Grande (1975)
■Indian Country (1977)
4 Listening Woman (1978)
5 People of Darkness (1980)
6『黒い風』The Dark Wind (1982) (4)
7 The Ghostway (1984)
8『魔力』Skinwalkers (1986) (2)
9『時を盗む者』A Thief of Time (1988) (3)
10『話す神』 Talking God (1989) (5)
11『コヨーテは待つ』Coyote Waits (1990) (6)
■ Hillerman Country (1991)
12『聖なる道化師』 Sacred Clowns (1993) (7)
■ Finding Moon (1995)
13『転落者』The Fallen Man (1996) (9)
14 The First Eagle (1998)
15 Hunting Badger (1999)
16 Wailing Wind(2002)
17 Sinister Pig (2003)
ヒラーマンは作品のプロットを作らずに書いているらしいということですが、本書の展開をなぞりなおすとどうしてもそれが信じられない。本書は事件を追う丁寧なパターンとチーの物語、そしてリープホーンと病にある妻のエマとの物語が交互に進むことでリズム感と深い読後感を生み出しているからだ。
こんな見事な物語をプロットなしに描けるものなのだろうか。しかも何度も繰り返して読めるものが。
「黒い風」のレビューはこちら>>
「魔力」のレビューはこちら>>
「話す神」のレビューはこちら>>
「時を盗む者」のレビューはこちら
「死者の舞踏場」のレビューはこちら>>
「コヨーテは待つ」のレビューはこちら>>
「聖なる道化師」のレビューはこちら>>
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2018/10/08:フレッド・ホイルの名前は度々目にしていたと思うのだがはてどんな人だったろうか。一方で著者のチャンドラ・ウィックラマシンゲという人については全く記憶がない。二人で共同研究してきた自伝的な本のようだ。生命の起源を宇宙に求めるという考え方は個人的にはあまり違和感がない。仮に地球のような環境があればある程度の確率で生命が生まれるのであれば、星の数ほどある地球型の惑星で生命は誕生しているはずだし、それらの生命が何等かの原因によって惑星を飛び出し宇宙空間に存在している。とか。それが別の惑星に降り注ぎ繁殖していくということだって可能性としてはあり得ると思う。
実際、バクテリアのような生命はおよそ地球上では経験したことのないような紫外線や放射線、高温や低温、高圧といった過酷な環境でも生き抜いていけるものがいることは確認されており、そうした生命体は過去どこかの時点でそのような環境にいたことがある可能性が示唆されているという話をきいたことがある。
比較的開いた発想を持っていると自負している僕ですが、冒頭の文章を読んでやや立ち止まってしまった。ここにある二人というのは著者とフレッド・ホイルのことだ。
二人の最初の異論は、星間微粒子が氷でも無機化合物でも無生物的有機化合物でもなく、主に生物及びその分解生成物(たとえば石灰のような)であるという提唱である。1980年代に入り、著者が可視光線の屈折率のよる想定から「生物モデル」の中心は凍結乾燥した細菌であると仮定した。
二つ目の異論は、宇宙から彗星に乗って細菌やウィルスのような微生物が飛来してくるという提唱である。この前提には、最初の異論である、生物が宇宙に存在するという仮説がある。この考えは、まず著者が提唱し、後にフレッド・ホイルが同調したという経緯がある。英国で発生したインフルエンザ(1978年と1989年)の詳細な調査を通じて、この考えは確固たるものになった。一般に考えられているウィルスの「水平感染」による伝播ではなく、緯度40度から60度の地域で冬季に発生する成層圏からの下降気流によって、そこに溜まっていた彗星由来のウィルスが天空から降り注ぐ「天降感染」による伝播であるという大胆な提唱を綿密な疫学調査を実施した上で行った。
三つ目の異論は、ダーウィン進化説は地球を閉鎖系としてみる場合はあり得ないという指摘である。地球が宇宙に対し開かれていて、生命が宇宙から継続的に降り注がない限りダーウィン進化説は成立しないとしている。
四つ目の異論は、ビックバン宇宙論に対する定常宇宙論である。これは、基本的に二人の共同研究というより、フレッド・ホイルとボンディとゴールドルドによる研究である。「ビッグバン」とは、英国のあるラジオ番組でフレッド・ホイルが、ジョージ・ガモフが唱えた宇宙創造の仮設を揶揄して、華々しい登場を形容して名付けたものである。フレッド・ホイルはこの論に対し、宇宙には始まりも終わりもないとする定常宇宙論を提唱した。
ははーん、フレッド・ホイルは「ビックバン」宇宙に激しく懐疑的で結果的に広く知られるその名前の名付け親になった人でした。しかしそれは1950年代の話であって、今この現代において定常宇宙論を持ち出してくるとは。しかも本人は未だに定常宇宙論を提唱し続けているというではないか。一体どんな根拠でビックバン宇宙論に異を唱えているのだろう。
本書の読み方としては激しく著者の意図に背いたものになってしまうのだけれど、逆にとても興味を覚えて放り出さずにそのまま進むことにしてみました。
一通り読んだうえで、また最後に収められている監修者松井孝典氏のあとがき、そしてWIKIにあるフレッド・ホイルの記事などなどを行ったり来たりした結果見えてきたものとして、フレッド・ホイルは赤外線天文学の幕開けに居合わせ、新たに見えてきたこの世界観から従来考えられていた天文学や生物学の枠組みを超えた視線で物事を再構成しようとしていたらしい。
その中で星間物質が氷やケイ酸といった物質ではなく炭素しかも有機物、乾燥凍結したバクテリアであるという仮説を提唱し、パンスペルミア説、つまり地球の生物起源を宇宙におく考えにのめりこんでいく。
しかしどうやらその研究の進め方にかなり難があった模様だ。彼らは自分たちの仮説に合致することを強調して取り上げる一方、それに反する事実を無視したりするような態度をとっていたようだ。彼らの研究姿勢はやがて学会や「ネイチャー」誌との対立を生みやがては埋めることのできない溝へと発展していった。
インフルエンザウィルスの天降説など奇想天外なアイディアをもとに次々と論文を発表するもののそれらは世間に認められることはなくなり、無視されたりすることに確執を覚えた二人はますます暴走していくといった悪循環があったようだ。そして決定的だったのは1980年代の恒星内部での元素合成に関するものだ。ホイルはヘリウム原子核3つから炭素を生成するトリプルアルファ反応と呼ばれる核反応に注目し、炭素原子核があるエネルギー準位を持つというアイディアを出した。のちにこれが実験で確かめられたがこの研究でノーベル賞を受賞したのは他の研究者でホイルは無視された形となった。
これによって学会との関係は冷え切り孤高の研究者となっていった。子弟関係にある著者は最後までホイルを慕い一緒に研究を進めていくのだけれども、これまたこの定常宇宙論やパンスペルミア説にこだわったスタンスでの研究は孤立さを深め頑迷な変わり者扱いをされてしまっていた模様だ。
記載にはないがホイルにとって膨張宇宙はどうしても受け入れがたいものがあったようだ。その一方で恒星の核反応によって潤沢に生産されていく炭素原子を材料に生命が生み出されていく宇宙という確固たるイメージからも離れられずにいたのだろう。松井氏は彼らをあまりにも時代を先んじていた。功を焦りすぎたのかもしれないと書いていました。定常宇宙もインフルエンザ天降説も荒唐無稽だったかもしれないが、星間物質に生命起源がある可能性については真剣に考えるべきものだと感じます。
地球に存在する生命がたった一つの起源から発展したとは考えにくい。生命は複数回、つまり何度も発生しているに違いない。そしてそれらが複雑に相互作用していくことで生命は多様性と複雑性そして高度化してきたとのだろうとも思う。そしてそれは必ずしも地球上でしか起こらないと考える理由もない。松井氏は今いよいよその研究に向かう手段が整いつつあると述べていた。
まるで玉ねぎの皮のように次々と新しい顔をみせてきた僕らの世界。次にどんな顔をみせてくれるのか楽しみです。意外な内容の本でありました。
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