旧年中は、読書も自転車もその量にやや力点を置きすぎた感がある。2010年はもっと質の向上に目を向けて精進して行きたいと考えています。結果ここからの情報が少しでも皆様の読書の参考になれば何よりです。
「イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策Ⅰ・Ⅱ
(The Israel Lobby and U.S. Foreign Policy)」
ジョン・J・ミアシャイマー (John J. Mearsheimer)&
スティーヴン・M・ウォルト(Stephen M. Walt)
2010/03/22一部ではM&M事件などと云われる程の衝撃を与えた論文がもととなっているのが本書だ。2006年に発表されたその論文は激しい論争を呼び、それは感情的なものにまで発展した。
それは、アメリカの政策決定に<イスラエル・ロビー>が大きく関与し本来のアメリカの国益を大きく損なうような選択をし続けており、またこの<イスラエル・ロビー>はコンドリーザ・ライスやコリン・パウエル、そしてブッシュⅡの意志決定自体を骨抜きにして腰砕けにさせる程の圧力を持っており、その背後にはイスラエルの影があると云うような内容だったからだ。
このサイトでは、ノーム・チョムスキーや、スーザン・ジョージ、エドワード・W・サイード、そしてジョン・K・クーリーなどの本を読んで紹介してきた。こうした本をいくつか読んできた事、そして今がこの論文が書かれた2006年ではなく2010年である事から、本書を読んでも驚くべきところはあまりない。
今日はアメリカで国民皆保険の法案が下院で可決されたと云うニュースが流れてきている。積年の課題であり、なんども試みられてきたがその都度潰されてきたものだ。オバマ大統領の一つの成果と言って良いのだろう。アメリカでは無保険者の数が3200万人もいると云うのだから、もの凄い数で、こうした人たちの殆どはうっかり怪我や病気になれば生活がたちまち立ちいかなくなる状態になる程の貧困層の人たちだ。財源やら法整備などまだまだちゃんとこの行く末を見ていく必要はあるものの、ここまで問題が放置されてきたことも異常な事態だと思う。そしてこれにかかる費用は10年で9400億ドルになるのだそうだ。
その一方でアメリカはこれまで平均で毎年30億ドルと云う金額をイスラエルに支援してきたのだそうだ。このイスラエルに対する支援は大部分の国民にとって殆ど何ら関係のないものだ。にもかかわらず支援は年々大きな金額となってきたのである。
本書を読むと、建国当初のイスラエルに対してアメリカは賛同はしても、あまり積極的に関わるつもりはなかったようだ。何故ならイスラエルと云う宗教色も強い国に対して肩入れをすれば中東問題で他の国々との関係を損なってしまう可能性があるからと云う至極最もな判断があったらしい。
しかし、ケネディ政権以降、冷戦の激化と云う後押しもあって、ソ連とその配下に治まっていたエジプト、シリアなどの国に対抗するための徐々にイスラエルとの関係が密接になっていった模様だ。それが近年アメリカの政府要人たちはイスラエルの政策について批判的な発言が全く出来ないような風潮にどっぷり浸かってしまっていたと云うのである。
何故か。それはイスラエル・ロビーの強力な圧力によるものだという。
私たちは<イスラエル・ロビー>という言葉を、「米国の外交政策を”親イスラエル”にするために、積極的に働きかけを行う個人と団体の緩やかな連合体」を表す簡潔明瞭な用語として使っている。しかし、ここで言う”ロビー”とは、中央指導部を持つ、統一された一つの運動体ではない。この広がりのある連合体を構成している個人や集団には、ときどき特定の政策課題について意見の不一致が見られる。また、それは秘密結社や陰謀集団の類でもない。反対に、このロビーを構成する組織や個人は、開かれたやり方、他の利益集団と同じ方法で活動を行っている。
この緩やかな連合体にいる数多くの個人といくつかのグループは、公式にロビー活動、つまり議員に働きかけを行う直接的な活動を行ってはいない。このため<イスラエル・ロビー>という用語を使うこと自体が、幾分か誤解を招く。むしろ、このロビーを構成する様々な部門は、他の利益集団と同じように多用な方法で米国の政策に影響を与えようと活動している。”親イスラエル”の人々の集まり”あるいは”イスラエルを助ける運動”とでも呼んだ方が正確かもしれない。なぜなら、様々なグループが行っている活動の幅は”ロビー活動”でくくれる範囲を超えているからだ。それでも私たちがここで<イスラエル・ロビー>という語を用いるのは、次のような理由からだ。一つは、主要なグループの多くがロビー活動を行っているからだ。また”農業ロビー”保険ロビー”銃ロビー”あるいは他の”民族ロビー”等の呼び方とともに、<イスラエル・ロビー>という語が慣習的に用いられているためだ。
9.11事件以降、急速にネオコンとキリスト教原理主義者たちが合流して<イスラエル・ロビー>となって政策決定に大きな影響力を発揮してきたと云うのが本書の大まかなあらましである。
しかし、この<イスラエル・ロビー>と呼ばれる人々は一体どんな人たちなのだろうか。恐らく本書だけではそれは理解出来ないだろう。なんとなく凄い金持ちが金を出しているような感じに見えてしまうが、実際にはネオコンとキリスト教原理主義者たちが、教会やコミュニティーを通じて支持や献金を集めていたり、宗教・信条が共通する人を登用するなどと云うデタラメを重ねる事で政府機関などの組織を乗っ取っていたと云うのが現実なのであって、それはスーザン・ジョージの「アメリカは、キリスト教原理主義・新保守主義に、いかに乗っ取られたのか?」を読んでみるとはっきり解る。つまりロビー活動だけではないのである。
今この時点で本書を読んで非常に不満を感じる事としては、ブッシュ政権はイスラエル・ロビーの前に膝を屈した、はねのけようと努力はしたがダメだったかのような事を主張している事だ。ブッシュⅡは自分と信条が一致している原理主義者たちから終身資格である裁判官の指名を何人も行うなど積極的に取り返しのつかないような手を打っていたのであって、被害者では決してない。
そして更にこの背後にイスラエルの傲慢で狡猾な情報操作があったとしているが、今や万人の知るところであるガザ地区でどれほどの非人道的な虐殺行為が繰り返し起こっている事についてこれを積極的に支持し、世論を操作していたのはアメリカ自身であった訳で、誤報である事も解っていながらイラクへ侵攻していったのは他ならぬブッシュⅡの政権自身であって人のせいにしている場合であったり、それで済むような話しではないのだ。
流れから本書の事を悪く言う部分ばかりになってしまった。しかし、本書は間違いなくアメリカの有識者たちに一石を投じたのであって、その意義は非常に大きかった。そして現在わずかばかりではあるのだが風向きは変わりつつあるのである。
この週末のニュースでは、東エルサレムでのユダヤ人入植計画についてアメリカは中止するようかなり強い調子でイスラエルを批判した事に対して、ネタニヤフ首相はまさかの居直り。
閣議では「われわれの政策は、過去42年の政府と同じで変わりがない」と発言したばかりか「イスラエルと米国には共通する国益があるが、われわれはイスラエルの重要な国益に従って行動する」とうるせー、こっちは自分の好き勝手やると言ってきた訳だ。
一発のミサイルに対する報復として街全体が崩壊するほどの爆撃を行い、一般市民に対しても狙撃やクラスター爆弾や白リン弾までも使用しているイスラエルと云う国に対して僕は吐き気を覚える。そして未だにそんな国ときっぱり手が切れないアメリカにも。
中東問題は簡単に和解に向かうような解決策はないのだろう。いやもしかしたらあの地域に関して言えばそもそも解決策なんてものはないのかもしれない。どれほどの血が流され、どれほどの痛みと苦しみと悲しみが生み出され、これからどれだけのものが必要となるのだろう。これが神と呼ばれる存在が本当に望んでいる事では決してないと僕は信じたい。
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「ダ・ヴィンチ物語(Le roman de Leonard de Vinci)」
ドミートリー・メレシコフスキー(Dimitri Merejkovski)
2010/03/21:本書も天から降ってきた類のもので、僕はどうしてこの本に辿り着いたのか忘れてしまった。うーむ。今度こそちゃんとメモしとこう。この本はドミートリー・メレシコフスキーが1900年に発表された本だ。
ご本人は1866年帝政ロシアのペテルブルグの貴族の家に生まれた人なのだそうだ。若い頃から文学的才能があった模様で、本人も熱心に試作に励んでいたようだ。
彼は15歳の時、自身の詩を持ってドストエフスキーのところへ直接訪問して実際に会って貰った事があるのだそうだ。ロシア革命以降、帝政とロシア正教会を支持していたメレシコフスキーはパリへ亡命し、ここで残りの生涯を過ごすこととなった。
本書はロシア時代に彼が綿密な時代考証を重ねて書かれたもので、長く忘れ去られてしまっていたものだが近年20世紀を代表する作家の一人として再発見されその作品が再び日の目を見る事となったものだ。
実際この本は2004年にフランスの出版社が冗長な部分をカットして原本の半分ほどの長さにして出版したものを元に日本語訳をしているもののようだ。
現代訳となっている事も合わせて非常に読みやすく、ダ・ヴィンチをはじめ関係する芸術作品などの図版が要所要所に添えられているのも目に嬉しい。
「芸術家の魂というものは、鏡のようにあらゆる物、あらゆる動き、あらゆる色を映し出しながら、常に変わることなく純粋なまま輝き続けるようでなければならない・・・・・・」
間違った時代に生まれたのか、いやひょっとしたら一人未来からタイムスリップしてしまったのではないかと思わずにいられない芸術・科学に対する知性と理解力と技術を持ちあわせたダ・ヴィンチ。ダ・ヴィンチの活き活きとした姿ばかりか、1490年代と云う時代における権力者やその取り巻きたちも、そうか、こうであったかと目に浮かぶほどリアルに描かれ、当時の常識や通念が詳しく語られれば語られる程、ダ・ヴィンチの孤高さがより鮮明になっていくと云うこの見事さ。
この時代、ローマ教皇アレクサンデル6世 (Alexander VI)は身内贔屓に賄賂、ありもしない罪を着せてはその者を処刑し財産を没収しては我がものにする等欲にまみれ、その治世は乱れ地に落ちつつあった。ジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo
Savonarola)はフィレンツェの修道教会でこの乱れきった世にはきっと終末が訪れると憑かれたような説教を行っている。
コロンブスがいる。コロンブスのアメリカ大陸発見の知らせにダ・ヴィンチは葛藤する。
一人になったレオナルドは、コロンブスが北極星の運行に関して行った計算というものをチェックしてみた。するとそこには、目を疑いたくなるようなお粗末な誤りが、いくつも見受けられた。
「無学も甚だしい!」
彼は呆れながらそう思った。
「新世界だって、偶然に発見できたようなものだ。真っ暗闇の中を歩いている内に、何かにぶつかったようなものじゃないか。それに、コロンブスは目が見えないのか?自分の発見したものが分からないと来ている。中国だとか、ソロモン王のオフィル国だとか、はたまた地上の楽園だ、などと言っているんだからな。結局、彼も、何も知らないまま死んで行くのだろう」
レオナルドは、コロンブスの手紙を読んでみた。1493年4月29日に、自らの発見をヨーロッパに最初に伝えた手紙である。
レオナルドはその夜、一晩寝ないで、計算をしたり、地図を調べたりして過ごした。時々、テラスに出ては星を眺め、コロンブスのことを考えた。新たな地と新たな天の開拓者、子供のような心と頭を持った、一風変わった空想家コロンブスに思いを馳せながら、無意識のうちに彼の運命を自分の運命に重ねてみるのであった。
「彼はほとんど学もないのに、何という偉大なことを成し遂げたのだろう!私はと言えば、知識はあるくせに動こうとしない。これでは、あの麻痺したグイード・ベラルディと同じではないか。ずっと未知の世界に憧れていながら、一歩たりとも足を踏み出していない。「信仰さえあれば」と人は言うが、完璧な信仰と、完璧な知識とは、同じものなのではないのか?私の目は、あの目の見えない予言者コロンブスの目よりも、先が見えていないのだろうか?それとも人間は、知る時には目を開いていても、行動する時には目を閉じているような運命なのだろうか?」
人々はコロンブスのこの発見に喝采を送る一方で、ダ・ヴィンチの唱える高い山もかつては海であったと云う説には腹を抱えて笑うのであった。
そして、マキャベリ(Niccolo Machiavelli)がいる。自らの才能に確信しながらも思うように登用されず、日々の暮らしにも事欠くことの多かったマキャベリとダ・ヴィンチは出会い、考え方や価値観の違いは決定的であるもののその知性に惹かれたダ・ヴィンチは折に触れ彼を助ける。
父であるアレクサンデル6世に引き立てられ若くして高い地位に就いたチェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)は反教皇の動きを芽のうちから根こそぎにすべく策謀と武力を総動員し無慈悲な軍神となって人々に恐れられている。ロマーニャの反乱を抑え込むその手口を間近で見たマキャベリは興奮してダ・ヴィンチにまくし立てる。
「チェーザレ公のような君主の行動について、その動機を推察するのは難しく、ほとんど不可能ですよ」
マキャヴェッリは答えた。
「けれども、私がどのように考えているのか知りたいとお望みなら、喜んで話しましょう。公が征服するまで、数々の暴君によって治められたロマーニャは、暴動、略奪、そして圧政の餌食になっていました。チェーザレ公はこの状態に終止符を打つために、自分に忠実で賢明なる友人のドン・ラミロ・デル・ロルカを行政長官に任命しました。ドン・ラミロは残忍な処罰を処すことで、統治に役立つ恐怖を引き起こし、短期間のうちにこの地に治安を回復させたのです。公は目的が達せられたと見ると、今度はあれだけ有効だった暴力という切り札を捨てて、行政長官を権力乱用のかどで捕らえ、斬首し、広場に首なし死体として晒したのです。この事件は人々を満足させたと同時に、真実から目を背けさせました。公爵は思慮深いこれら一連の行動によって、三つの利益を得ることになりました。一つ目は、当初、この地を治めていた暴君たちによって植え付けられた争いの種を全て取り除いたこと。二つ目は、ドン・ラミロによる圧政は公の預かり知らない所で行われたと人々に信じ込ませ、自分は手を洗って、責任を全て自分の任命した行政長官に押しつけ、公自身の命令で動いた行政長官の素晴らしい成果だけを利用できたこと。三つ目は、人々の前で腹心の部下を犠牲にしたことで、自分は最も高潔で、公明正大な正義の味方だと演出したこと・・・・・・」
マキャベリはこのチェーザレ・ボルジアのやり方こそ政治であると。
そして、他にもミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)が、ラファエロ・サンティ(Raffaello
Santi)がいる。
類い希なその観察力と洞察力を駆使して知識を追い求めるダ・ヴィンチは「真実」を信仰していた。その考え方は宗教観を飛び越えたあまりにその時代にそぐわないものであった訳だが、異端だとか、黒魔術であるといった誹りをかわし、趨勢の激しい権力者たちから恩寵を受けることでどうにか研究や作品の製作を続けていった。ダ・ヴィンチはこうした時代に生きていたのか。正になるほどの一冊でありました。
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2010/03/13:本書は新潮ケータイ小説で24万アクセスと云う記録を作った本なのだそうだ。僕はこのケータイ小説と云うものがよくわからない。携帯電話にダウンロードして読んだと云う事なんだろうか。出版されたのは2004年。この2004年は出版された時期なのか携帯でアクセスができるようになった時期なのかよく分からない。本自体は上下2段組で400ページを越える分量だ。これをみんな携帯で読み切ったと云うのだろうか?携帯電話のディスプレイでこれだけの分量を読むと云う行為もまたなんとなく想像がつかない。
この本は愛知テレビでドラマ化され、主人公の昇平、草太を関ジャニ∞の安田章大、丸山隆平が演じたと云う。しかし僕はこのドラマの存在も知らなかったし、この関ジャニ∞って実際どう読めばいいのかわからない。
僕は本から本へと何か引き寄せられるように見えない道を辿りながら読書をしている。大抵読んでいる本の中に何か呼び水になるものがあり、それが次の本へと通じる道になる。この呼び水がどの本のどこにどのように書かれていたのか。いつもその何かをちゃんと記録しておこうと思いつついるのだが、ついつい分からなくなってしまう。この本へ辿り着いたのも間違いなくどれか何かの本に何か啓示のような感じで「これは読んだほうがいいかもね」と天から降ってくるように何かが書かれていたハズで、しかもこの啓示はしかも大抵間違いないものなのだが、今回も一体それは何だったのかどうしても思い出せない。
本書は、南房総のある町で、4歳で同い年の昇平、草太がよたよたと乗り始めた自転車によって出会い、自転車を通じて成長していくなんとも心に浸みる清々しい物語だ。時代はいつなんだろうか。仮面ライダーV3だとか、ゴテゴテとデコレーションされたリトラクタブルヘッドライトやフラッシャー・ウインカーが登場してくるあたりはほぼほぼ僕と同世代なのではないだろうか。僕よりちょっと下の世代の子供がよくこのフラッシャー・ウィンカーの自転車に乗ってたよ。単一の電池を何本も積んでて重かったんだよなこれ。今考えるととっても不思議な流行でしたね~。作者の竹内真氏のプロフィールを見ると1971年生まれで僕よりも8歳下。仮面ライダーV3の放映は1973年、小学校一年になって坂道を下る特訓をしている彼らが叫ぶのは宇宙戦艦ヤマトのテーマソングで、こちらの放映は1974年。竹内氏は自分よりも5歳くらい上の世代を主人公にしていると云う事になるのだろう。
彼らは近所の坂道を攻略する事を目論み、無事これを克服すると、海を目ざし、そして更に地平線の向こう側から見えてくる新たな目標に向かってどんどんとペダルを踏み、ずんずんと進み、やがて目もくらむような疾走感で青春を駆け抜けていくのだ。
うちの息子にも娘にも自転車を教えてあげたっけな。あの日の事は今でも瞼に浮かぶ。よろよろと走り出した息子の小さな自転車の後を「行け~!」と叫びながら一緒に走ったっけ。少し慣れてきた娘に油断していたら、敷地のゴミ収集所の小屋に突っ込んでいってしまったっけ。
若い人たちが本書を読むとき、昇平や草太、そして幼なじみの奏に感情移入しているのだろうが、僕のようなおやじがこれを読むと完全に親目線だ。二人がおぼつかないテクニックで坂を下り海を目ざし、ロングライドに出かけていく時、僕は車と事故に遭いはしないかとか、転んで怪我したりしないかと、ハラハラし通しだったのである。
400ページのなかで、彼らはどんどんと大きくなって行く、もうそれはもうもの凄いスピードであれよあれよと大人になっていき、おやじの僕の心配を余所に、主人公たちの親ももう少し心配するとかしてもいいんじゃないか感じるほど、やや影が薄かったりするのだが、どんどんと大きな事を成し遂げていく。
現在僕の長男は高校1年生、娘は中学一年生。彼らもすごいスピードで大人になってきた。そんなに急がなくてもいいのにと思うくらいだ。彼らはこのままきっとこの小説の登場人物たちのようにどんどんと大人になっていってしまうのだろうな。そしてやがて親の元から巣立っていくのだろう。丁度今の僕たちのように。
僕の場合、高校生になった時点で自転車からバイクに切り替えて、学校や部活の合間を縫って、一人県境や海を目指して走っていた。父親は随分と心配していた。そんな事勿論分かっていた。わかっていたつもりだったけど、乗りたいものは乗りたい。随分無謀な走り方もしたし、当然ながら危険な目にもあった。しかし、親がどんなに心配しているかなんて、自分が親になってみないと絶対に分からないものだったのだ。心配するのは親の務めなのだろう。きっと。だからちゃんと僕たちが心配しているから、お前ら子供たちは安心して羽ばたいて試してみてこいと。何といっても踏み出さない事には前に進んでいかない訳なのだから。失敗したって帰ってくる家はあるのだから。
また、ここ最近自分たちの暮らしている場所と地続きな本を読む楽しさに目覚めてきた。知っている街並みから時間的・空間的に地続きな本はものすごく面白い。本書もまた、房総から浦安、東京、そして仙台とあちこち僕らの行動半径と重なり合いながらお話が進み。彼らが見た光景がまるで見えるような錯覚を覚えながら一気に読ませて頂きました。
そして今僕はまた自転車に乗り始めている。バイクの代わりで健康管理のために取りあえず乗り始めた自転車。自転車なんてガキの頃から乗っており、二輪の経験は通算40年以上あるわけで、自転車なんてテクニックも何もないだろうと高をくくっていた僕であったが、それはとんでもない素人の浅はかさであり、サドルのセッティングも引き足などのペダリングテクニックなど、全く知らなかったのであって、それは知れば知るほど奥の深い乗り物で、この自転車と云う乗り物はまた非常に魅力的な乗り物である事に今更ながら気がついた訳であります。昇平、草太のように幼い頃からその魅力に気がついていたら僕も、今よりももっともっと遠くへ走って行っていたに違いないだろうなぁ。もうすぐ本格的に春になってくる。今年はどこまで走れるかなぁ。
なんだかワクワクしてきたぞ。
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2010/03/07:慢性的な運動不足・健康管理の為に会社帰りに歩き始めたのだが、それだけではどうにも不十分。最近子供も大きくなり自分の時間ができてきたので、週末に自転車に乗りはじめた。そうそう元々僕は大の二輪好き。バイクでも自転車でも乗ること自体が好きなのだ。運動の為に嫌々自分の足で走るより好きな自転車に乗るという選択は元々、至極自然であったわけだが、それに自分でなかなか気づく事ができなかったのだ。
最初は家の近所をブラブラとポダリングの真似事のような事をしていたのだけど、海縁・川縁を走っているとどうしてもその先が識りたくなり、気がつくと片道20~30kmと云うそこそこの距離を走れるようになってきた。あちらの川こちらの川と川を遡上していると水門や排水機場と云った仙台ではお目にかかったことのないような不思議な施設が目に付く。これらの施設はどんな目的でどうしてこうした場所に建てられているのだろうか。
排水機場は河川の雨や高潮による水位の増減を動力を使って調整する船のような機能を持つ施設だ。また水門、河口付近の水門は高潮対策、上流では山間部からの洪水対策の為に建てられているものがある。更には船だまりの船を守る為に特化された水門もあれば、堀割の出入り口に設置して水位を管理しているもの。水位が違う河川で船の航行を可能にする閘門と云うものもある。治水と水運の為に水門と排水機場はセットとなって設置されているのである。こうした施設の目的が解ってくると俄然、川の散策が面白くなってくる!あれ?なりませんか?
迷わず続けよう、あの大きな荒川が人工のものだと知った時には本当に驚いた。首都圏の河川はその殆どが水運や治水を目的として計画的に造り出され管理されているもので、その流れは複雑に合流・分岐しているばかりか、交差、しかも立体交差しているものすらある。仙台を流れる広瀬川しか知らない僕にとってこうした光景はどれも初めて見るものだ。
より大きな地図で 水門と橋 を表示
いつしか僕は自転車で走り出したそもそもの目的などは忘れ、ひたすらペダルを踏み川や橋や水門、排水機場の名前をチェックし写真を撮り自宅に戻るとその概要や由来を調べる。こんな事を繰り返していた。河川の治水や水運が見えてくると更にその背景には都市計画があった。人工の川や堀、治水施設や橋の由来を調べていくと、河川の設計と管理は都市計画のごく一部、壮大な都市計画のなかに繰り入れられる形で作り出されている事が浮上してくる。その余りにも壮大で眩暈を起こしそうな都市計画に基づき生み出された場所に自分がいて、設計者の意図を読み解くべく嗅覚を働かせてその道を走っている。設計者の意図や思いの断片の名残と思われるようなものを見つけたとき多分僕は笑っているだろう。
先日、興味本位で始めたツィッターでお知り合いになった方から、この鈴木理生氏の存在を教えていただいた。川だ橋だ水門だとよたよたと自転車を踏んで回っている僕の脳裏に浮かんでいた疑問にあまりにジャストミートな内容。
現在の中央区北東部の東日本橋二丁目から墨田区両国にかかる両国橋は、その名の通り武蔵国と下総国の二つの国の境になっていた浅草川(現在の隅田川)に架けられた橋であった。
これから述べるように、慶長八(1603)年に徳川幕府が開かれた後の江戸の発達・拡大は著しく、浅草川で区切られていた武蔵と下総という「国別」があることが不自然になってきた時期の貞享三(1686)年三月に、浅草川左岸(現在の江東地区)から利根川までの低地帯(現在の江戸川に相当する河川の流域)を武蔵国に編成替えしている。したがって、その時期以降、正確にはこの橋は「両国」橋ではなくなったが、最初の名がそのまま現在まで続いているのである。
多分電車で僕は笑いながら読んでいたのではないだろうか。それぐらい面白かった。それは何か。自分が抱いていたものと同じような疑問・興味を持ってしかも、鈴木氏や氏をご紹介下さった方のように僕の遙か先へ行っている方がおり、その更に先、百年後・二百年後にいる我々をしてそんな興味を抱かせるような所謂偉業を成し遂げながらもあまりにも寡黙な大江戸の都市開発計画者たちの存在にはっきりと迫るものであったからである。
本書は、江戸四橋と呼ばれる、大川橋(吾妻橋)、両国橋、新大橋、永代橋の架橋が大江戸発展に伴うと云うか、大江戸としての体を成すために必要不可欠なものとして行われていた事を裏付けるものであり、これは氏が古文書や版画を目を皿のようにして調べられた渾身の一冊なのであって、その努力と根気と博識に思わず拍手したくなる程の内容のものだ。
更に本書は、この江戸の都市計画に止まらず、律令制度時代のヤマト政権が渡来人たちをこの関東平野に移住させ都市開発の労働力に使っていたらしい事。そして更にはこうした都市開発の土台となるこの関東の波蝕台地は縄文時代、地質年代学的には更新世に最終氷期が終わり海水面が上昇してきた事によって形作られたものであり、これら歴史上の生活者たちは急激に上昇してきた海水面に対抗しつつ土地の特徴を活かして暮らしていた事にも言及していく。小集団で暮らしていたハズの縄文時代から綿々と続いてきたこれらの人々集団はやがて大きくなって集落や村となり、都市となってきた。先人たちは積み重ねられた集団知を使って効率的に都市開発できるような計画を作っていたのである。鈴木氏のこの過去を見通すこの明晰な視線は素晴らしく澄んでいる。
こうした過去を見通す視力で江戸の橋を眺める時、そこには流れる川の水だけではなく、太古から悠々と流れてきた長い僕たちの歴史も見えてくるのでありました。この本を教えてくださった方には本当に感謝しております。本当にありがとうございました。課題であった体重もお陰でぐっと減り健康値も改善されると云う結果になったのでした。しかし、僕の川巡りは当面終わりそうもない、行ってみたい、調べたい、眺めてみたい場所は尽きることがないのである。
「江戸の川・東京の川」のレビューは
こちら>>
「江戸はこうして造られた」のレビューは
こちら>>
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2010/02/28:運動不足解消・ダイエットそして健康管理が重大な課題となってきた僕はプールへ通ったり、近所を走ったりしたのだが、どうにも続かない。
そもそも血圧がとか、脂肪肝がとか、体重がと会社の健康管理センターでチクチクと言われて仕方なく走ったりしていると云う時点でモチベーションなんて端からない訳で、土日くらい自分の好きなことをやらせろや、位な感じで運動する時間はどんどんとプライオリティが下がって、それに呼応する形で体重はじりじりと増加。そして健康管理値は改善なんてせず、看護婦さんからは冷ややかな目で見つめられると云う事を繰り返していた。プライオリティがいよいよ下がりきった時、仕方ないので帰り道、電車に乗らずに少し歩いてみる事にした。
首都圏で仕事をするようになって、15年以上が経過しているのに都内の道って実は全然知らない。仕事でも私用でも用事がある場所を点と点とで解っているだけで、仙台からやってきた当時に比べれば勿論随分解ってきたとは云うものの、依然として余所者の門外漢なままである事になんら変わりがなかったのである。
恐る恐る、地図を事前に調べた上で会社のある田町から浜松町、新橋、そして有楽町へ。確か一番最初は線路に沿ってできるだけ歩くコースを取ったんじゃなかったろうか。迷っても、挫折しても大丈夫なように。
距離感が全く掴めない上に、積み重なった運動不足に足は痛くなるは疲れるはであった訳だが、これがすごく面白かったのである。
一人ニコニコして夜歩いている中年のおっさんがいたらそれはきっと僕だ。
知らない街を眺めながら歩く。そして角を曲がる度に変わる景観、そして「あぁ、この道がここと繋がってる訳だ!」点と点が頭の中で繋がる瞬間の喜び。僕は更に先の八丁堀を目指して最も短時間で辿り着けるコースを模索してコースを変えながら何度も歩いた。
やがていつしか点と点が線となり線と線が面となっていく。そんななかで頭の中でポイントされてくるのがランドマーク的な建物であったり橋であったりした。橋の話は、次回の「江戸の橋」にゆずる事にして、建物の話を今回はしよう。
歩いているといろいろな建物が目に入るが、中でも斬新で新しい建物や、いかにも古い歴史を感じさせる建物は印象に残るものだ。いつしか僕は単に時間を競うためではなく道を識る、建物を眺める為に歩いた事のない道を選んで歩くようになっていった。
更に最近は大好きで読んでいる本と街がシンクロしてきた。物語の舞台や事件や歴史が動いたその現場に自分が立っている!ちょっと足を伸ばせば更にその対象は途轍もなく多くなる事に気がついた僕は会社帰りに帰路とは関係ない場所にまで足を伸ばして歩くようになってきた。
そして目指す建物も銀座の和光や東銀座の歌舞伎座や、築地の本願寺なんてメジャーなものからマイナーなものまで対象は拡大。眺めている対象も建物だけではなく、都市の景観と云うものへも視野が拡張されてきた感じだ。
荷風は赤レンガ建築が嫌いだった…あるべき“景観”とは何か。本書の宣伝文句にはこんな文句が踊っていた。江戸から明治へと時代が変わり急速に西洋に傾倒していった日本は、兎に角西洋に追いつけ、追い越せと、向こうのものを何でも真似て取り入れようとし、実際にそうした訳だ。
現在都内を歩いて目にとまる古い建物と云えば大抵は明治以降の建物だ。大震災や空襲のせいも勿論あるが、江戸時代でもたび重なる火事で当時の建物は殆ど残っていない。こうした明治時代の建物をみてまわっているとだんだんと不思議な事が見えてくる。
同じ時代に造られているものであるにも関わらず、そのデザインがバラバラなのだ。ゴシック調のものがあったかと思えば、アールヌーヴォー風であったり、築地本願寺に至ってはインド仏教式。
中には正面だけそれらしく取り繕っているけど、それ以外は手抜きもいいところと云うようなものもあってご愛敬なのである。更に昔の写真でしか見られないが、第一国立銀行や警視庁、両国国技館などを更に引き出してみると、ほんとバラバラなのである。一体全体どこの国なのか。
1860年(安政7年)三月に水戸藩士が大老井伊直弼を殺害した桜田門外の変以降、尊王攘夷運動が高まった。「お上」の権限は弱まり、それに乗じて浪士が暴徒化。庶民も凶作に伴う米価高騰に抵抗して打ち壊しに出るなど、次第に江戸は無法地帯になっていった。江戸入城後には、官軍の兵士の中で占拠と破壊を繰り返す暴徒が出た。もともと喧嘩と火事は江戸の華といわれるほどに、今日でいう治安と防火対策が遅れており、それだけに荒廃のスピードは速かった。武士は地方に下って農民となり、取引先を失った商人たちもそれに倣うほかなかった。山手の大名屋敷は広大な庭園と邸宅、使用人の住居もろとも廃墟化していった。世界有数の規模であった百万都市の人口は、いったん60万にまで減少したといわれる。
明治政府は戊辰戦争後、戦場となった上野などの復興に加えて、官庁街をはじめ、東京の再開発に着手した。海外の要人を招待して恥ずかしくない大通りや都市の景観を整備しようとしていた訳だ。しかし折からの財政難によって相当の安普請とならざるを得なかった模様だ。
市川に住んでいた作家だという点でもいつか読んでみようかなと思っていたのだが残念ながら僕は永井荷風の本を読んだ事がない。本書の著者である南明日香氏は相模女子大学の学芸学部の教授。荷風の文章を丹念に読み込み、当時の都市計画と都市の景観とを比較する事で荷風の見て感じた事に切り込んでいくこのアプローチは素晴らしい。
例えば「冷笑」と云う作品から。
舗装が不十分で並木もまだ成長せず、造りも雑な銀行本店のビル。自身が勤務した横浜正金銀行のある、ニューヨークのウォール街と比べていたかはわからない。しかし引用文の前半は、外観はなんとなく取り繕っている風だが足下はまだまだ危うい、そのような日本の経済状態をも暗に伝えているとすら読める。実際日露戦争後の好況期の揺り戻しで不況期に入っていた。ニューヨークでメトロポリタン劇場に通った荷風は、資本主義の国にあって経済の発展と文化の発展は切り離せず。経済や文化の大組織の収まる銀行や劇場といった建築物は、両者の融合の結果であることがわかっていただろう。
荷風はこうした付け焼き刃的な開発によっては品位が保てないとかなり批判的であったと云う訳だ。永井荷風は、1879年(明治12年)に生まれ、1903年から父親の勧めで5年間アメリカ、フランスへ居住し見聞を広めてきたのだそうで、この父親、永井久一郎はアメリカほの留学経験もあるエリート官僚で公衆衛生、東京都の水道事業に足跡を残した方なのだそうだ。
僕なんかは、この時代に既に海外留学経験のある父親の存在自体に驚いてしまう訳なのであるが、こうした海外生活、どうやら大使館や銀行などで仕事もしていた模様で、欧米の大都市での生活については紛れもない実体験としてインプットして戻ってきた訳で、戻ってみたら猿まねに近い西洋風の生活をおぼつかない足どりで、しかも安普請でみてくればかりの都市で行っている明治の人々に激しい違和感を感じたと云う事なのだろう。
荷風の建物や都市の景観を見る審美眼はなるほど確かなものである訳で、更に本書を読むと彼は、決して気取らず、庶民的なものを愛し川や橋、そして淫祠などにも穏やかで優しい目線を注いでいる事がわかる。
より大きな地図で 水門と橋 を表示
「三田文学」に連載した随筆「大窪だより」によれば荷風のお気に入りの橋からの眺めは、小名木川の扇橋の欄干である。ここは堀割が十文字になっていて、扇橋と猿江橋と新高橋の三つの橋が三方に架かり、荷船の間を銚子の方に向かう蒸気船が通っていく。さらに木場の方に行くと、久永町に大栄橋があり、ここから真っ直ぐに堀割が続いて葛飾の境までが望まれる。材木を浮かべた静かな水、川から濠、濠から池へと水流が広がる。岸には樹木、堤には水草、水門のほとりに芦や簿が風にそよいでいる。
こうした記述に出会っても、その場所が目に浮かぶようになってきた自分がいる。小名木川を蒸気船が通っていると云うその状況には驚きだが、生活に密着した形で利用されていた川は今よりもずっと活き活きとしていたことだろう。本書はもっともっと踏み込んでいける領域がまだまだ先にあったと思う。いや南さんは多分幾らでもこの先を書けたのだろうとも思う。残念ながらちょっと物足りなさを感じました。それ以前に荷風の本を僕も読んでみなくちゃ。
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2010/02/28:坂本龍馬とか世間では騒がしい訳だが正直僕はこの明治維新と云うものがさっぱりわからない。264年続いたと云う江戸時代は如何にして倒れ、明治の時代は何故やってこなければならなかったのだろうか。この倒幕を働きかけた薩長のメンバーは一体どんな世の中を目指して戦ったと云うのだろう。そもそも江戸時代だってそれ以前と同様天皇制を維持し続けてきた訳なのに尊皇攘夷運動で倒幕と云う流れが理解できない。
僕の生活のなかで一番楽しい時間は家族と一緒に食べる夕食の時間だ。僕の場合夕食を食べると云うかカミさんと二人で酒盛りをしていると云った方が正しい感じなのだが、晩ご飯のおかずをつまみに、酒を飲みながら語り合う。そんな時間が一番大切な一時だ。大抵はほんとくだらない話しでゲラゲラ笑ったりしているのだが、時として歴史や政治の話なんかもして、またたまには更にその意見が合わずケンカになってしまう事もある。いやいや、今はそんな話しではない。いつものように酒を飲みながらカミさんとその明治維新って何だかよく分からないよね。なんて話しをしたら僕よりもずっと日本史に明るいカミさんも明治維新についてはあまりよく知らないと云う。明治維新、余所の家ではみんなもっと分かっているのだろうか。
江戸時代から明治に入って唐突に衣食住をはじめあらゆる面で西洋かぶれが進んでいったのは、確かに鎖国から開国した訳で何もかも目新しかったのだろうと思う反面、それまで長いあいだ慣れ親しんできた日本の、いやいや江戸の文化をまるで掃いて捨てるかのように脇に追いやっていったのは何やら極端すぎやしないかとまで見えるのは何故なのだろうか。先日読んだ「血塗られた慈悲、笞打つ帝国。」に書かれていた事だが、何故清国が阿片戦争で西洋に跪いたのをはじめ欧米にアジアが次々と不平等条約を結び不利な取引をし、更には植民地となってその頭を靴で踏みつけられていったにも関わらず、日本はこれをかわしたばかりか自らが侵略者となって大陸へ侵出していく事になったのは何故なのだろうか。
また塩見鮮一郎の「浅草弾左衛門」では、黒船だ、世直しだ、倒幕だと上の方ではしきりに騒がしいが、江戸の庶民たちは、寧ろ地震だ火事だ飢饉だと云った、より現実的な危機に見舞われているのであって、どんな人がどんな思想で権力を握ろうとそんな事には殆ど関係はなく関心も薄い、権力者たちはとっとと揉め事を終結させて、庶民を守る為に本来やるべき事をやれと考えていたという様子があぶり出されていた。
一方で、海野弘の「陰謀と幻想の大アジア」では、明治に入った途端に何故か日本人が大陸に自分たちのルーツを見出し、唐突に同胞を守ると云う勝手な思いこみのなかで拡大路線へ突っ走りだすのである。このぐっと向きが変わった日本人の目的意識と云うかポジションの変更はある陰謀論的思想によるものであったと海野氏は鋭く指摘している。皇国ニッポンの、全体主義・帝国主義的な激情を抱いて進んでいくその後の日本人像とこの江戸町民の姿というものにも、またえらくギャップがあるのである。
勿論帝国主義的思想に基づき他国を侵略し残虐な行為を行い、多くの外国人を殺害し資源を奪った事、結果多くの兵士たちを死に追いやったばかりか、沖縄や東京、そして広島、長崎において膨大な数の一般市民を無差別なジェノサイドによって死に至らしめる事態については猛省なのは言うまでもない。
この戦争へと突き進んでいく時の日本のあの熱にうかされたようで頑なな意志と云うものもまた、今僕の周りにいる人たちを見るとその片鱗すら感じられないと僕は思う。凡そ150年の間、日本人の歩んできた道を改めて振り返ると随分とブレ幅の大きな日本人像が浮かんでこないだろうか。日本の今を理解する為には、ニッポンの近代史をきちんと理解しないと解らない。そしてこの近代史は数々のタブーもあって実はよく分からないように意図的に有耶無耶にされているのではないだろうかと僕は感じている。
何か手頃な本がないかと探していたところ、NHKのテレビにこの半藤さんが出演されインタビュー形式でこの維新の頃のお話をされているのを見る機会があった。訥々と語られる維新の中で駆け回る勝海舟や西郷隆盛の姿は活き活きとして大変面白いお話でした。調べてみるとこの半藤さんは「幕末史」を書かれている方で、だからあれほど詳しかったのかと納得した次第です。
これは探していたものにピッタリだろうと言う事で読ませて頂いたと云う訳です。本書は2008年、慶應丸ノ内シティキャンパスの特別講座として、半藤さんが講演された内容を文章に起こしたもの。なので文章も恐らく半藤さんがお話になったまんまに近い形の口語体で書かれている。ちょっと不思議な読み味だが、大変読みやすい。面白い。
何より、幕末に向けて長州、薩摩、徳川幕府、孝明天皇を召し抱える朝廷の動きばかりか主要な当事者たちがどのような価値観、考えを持っていたのかについてかなり丁寧に解説されている。なるほどと思ったのは、鎖国か開国か、日本の主権者を天皇とするか幕府に置くかと云う二つの考え方が組み合わさり、4つの方針の間をそれぞれの立場の人々があちこちと揺れ動きながら進んでいた事だ。これは京都の公家たちや徳川家の跡目争いに加えてペリーの強引な駆け引きなどによって右往左往していた事に加えて、テロや粛正によって関係者がバンバン死んでしまう事によって加速していく様子がありありと浮かんでくるのである。
昭和の日本に、満州事変を起こした石原莞爾というたいへんな軍人がいます。東京裁判の証人に選ばれてこう言いました。「俺は証人ではない、満州事変を俺が起こしたんだから、被告である。」と。さらに続けます。「ついでにペリーも呼んでこい。あいつが日本を今日にあらしめた最大の責任者だから」。どこのペリーかと思えば自分のところのペリーだというんでアメリカ人はおったまげたそうです。さように近代日本の開幕はペリーの来航によってもたらされ、またそこにはペリーの日本人観察、どう扱えばこちらの言うこときくかといった研究の成果がありました。そして開国を迫り、見事に「十二分のものを達成し得た」と本人が威張る結果になったのです。
こんな文章に出会って僕はどっきりしてしまった。半藤さんはさらにマッカーシーはペリーのやった事、勉強した事を踏襲して日本に対峙してきたのではないかと云うような推測もされていた。開国を急ぐべきだとする推進派の人々は実際に欧米諸国の経済力だけではなく、阿片戦争でもその実力を示した軍事力に対する脅威があった訳で、開国思想は富国強兵に直結していた。このままのほほんと鎖国を続け井の中の蛙のごとくぬるま湯に浸かっていたら、いつか欧米諸国の列強に捻り潰されてしまうだろうと云う明らかな危機感。それを現実のものにしたのがペリーであった訳だ。
しかし、現実にそんな危機感が共有できていたのは極一部、実際に軍艦をみたり海外の様子を見聞していた極一部の人々であり、それ以外の人々にとっては、朝廷か幕府か自分たちの利権の維持を前提にどっちに付く方が有利かと云う極めて狭い視野での利己的なものでしかなかったのである。海外の様子を全く知らずにいた人々にとって、開国する事が一体どんな選択なのか理解する事は不可能なのは当然で、我々日本人は正に荒れ狂う大海への船出であった事に後から気がついていくだろう。
この幕末の出来事はもっともっと掘り下げて知りたい事が沢山で、この一冊で解ったなどと云えるものではない。一方でアメリカはモンロー主義を主張し南北アメリカ大陸からヨーロッパを牽制し、手始めにメキシコへ侵出し土地や資源を奪いつつ、ヨーロッパと競い合ってアジアへと向かってきた。こんな歴史観のもとでアジアの近代史を読み直す事でこれまで見えていなかった事が見えてきたりはしないだろうか。この先、明治からどんどんと突き進んでいく日本の足どりも追うべきテーマではないかと強く感じる。幕末で活躍した人々には沢山魅力的な人がいてどなたも捨てがたい事は勿論なのだが、僕は先ず時代を先に進ませていただく事にしたいと思う。
「昭和史」のレビューは
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「ノモンハンの夏」のレビューは
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「重力の再発見―アインシュタインの相対論を超えて
(Reinventing Gravity)」
ジョン・W・モファット(John W. Moffat)
2010/02/21:「重力の再発見」と云うタイトルはなんだかとっつき憎くて一体全体何を意味しているのか今ひとつピンと来ない。表紙も新刊とは思えない地味臭さと古くささを感じるのは僕だけでしょうか?紹介文などを読んでみるとどうやらこの本は宇宙の加速膨張に対する本らしい事が分かる。
ビックバンによって生じた我々の宇宙はその瞬間以降猛烈な勢いで膨張して来た。誕生直後はインフレーションと云って、光の速さを超えるスピードで膨張したらしいと云う話しもある。宇宙が膨張し続けている事を発見したのはエドウィン・ハッブルだが、この事実に気がついた時の驚きを想像するともう正に腰を抜かすような事態であったろうと僕は思う。
我々の宇宙が膨張し続けているとしたら、この膨張は永遠に続くのだろうか。それともいつか縮小に転じもとの大きさゼロのビッククランチを迎えるのだろうか。こうした見地は様々な憶測、イメージをかきたて、縮小に転じた時点で時間が逆転し、死者が蘇るのではないかと云うような奇想天外な発想すら生まれた。
仮に縮小に転じたとしても時間が逆転することはない訳だが、永遠に膨張し続けるのか、それとも縮小に転じるのか、果てしない程先のお話ではあるのだが、この違いはこの宇宙にとっての大問題である事は間違いない。そしてその分かれ目は宇宙の全質量に寄ることが明らかになっている。必要十分な質量をこの宇宙が持っていればやがて縮小に転じるが、軽かった場合にはこの膨張する力を止める事ができず、永遠に膨張を続けていく事になる。どっちになるとしても憂鬱な未来が待っていると云う点では変わりはないのだけれど。
ずぶの素人がかいつまんで書いてますので割り引いて読んでいただきたいのだが、宇宙が開いているか閉じているのかを確認する為にいろいろな方法で銀河や銀河団と云った宇宙の大規模構造の質量を図る方法をいろいろと試してみてきた訳だが、どうにも見えてる物質の質量だけでは説明が付かない構造になっている事がだんだんと解ってきた。
これは見えない物質がどうやら存在するのではないかと云うことでダークマターとか云うものが考え出されてきた。
一方で極めて平坦で均一であるとされているこの宇宙に大量のダークマターが存在しているとすれば、我々が住んでいるこの太陽系内にそうした気配がないのは明らかに変だ。そして更にはこうした研究を通してこの宇宙が加速膨張しているらしい事が明らかになってきた。
定常宇宙やそれ以前の天動説を信じていた人が聞いたら、呆れかえって絶対に信用しないだろうと思えるようなパラダイムシフトだと思う。なんで加速するのか。この事実は凄く人を不安にさせるものだと思う。それは生理的に違和感を感じる事に近いというか、一般常識から考えて明らかにおかしい事に見える。これに対して現代の宇宙論学者たちはダークエネルギーだとか云うものを考え出して帳尻を合わせようとしたりしている訳だが、と云うか帳尻って書いちゃったけど、要は辻褄合わせしているだけなんじゃねーのかと云う形で謂わば殴り込みをかけてきたのがVSL(Varying
speed of light cosmology 光速変動理論)と云うものだ。
このVSLって、あれ、これは随分前に読んだぞと思ったらこれは、ジョアオ・マケイジョの「光速より速い光-アインシュタインに挑む若き科学者の物語」と基本的には同じ話しであった。言われてみればマケイジョの本にも確かに登場しており、マケイジョが四苦八苦してこの奇想天外とも云える論文を専門誌に掲載させた途端にその前にほぼ同じ構想で論文を書いていた人がいた事を知って愕然としていたと云う記述があったなぁ。
この先行していたと云う人物がこのジョン・W・モファットなのである。
マケイジョは2003年、「光速より速い光」という一般向けの科学書を出した。その本には、マケイジョとアルブレヒトが異端な理論が物理学会にばれるのを二年間恐れつつVSL理論を編み出し、大変な苦労をして<フィジカル・レビューD>誌に掲載を認めさせた矢先に、私が6年前にそっくりな説を発表していたことを知って呆然とした経緯が描かれている。ジョアオ曰く、「他の物理学者かそこへ到達していたのを知ったときの、私のショックを想像してみてほしい。月面に着陸したところ、そこには旗がひらめいていたのだ。」
モファットはちょっと誇らしげに書いていますがね。確かにVSLは地平線問題や平坦性問題を回避しつつこの宇宙を巧く記述する事ができるかもしれない。大変興味深い発想である事は間違いない。
そう考えると本書はこのモファットの論文から10年以上が経過し今この考えがどの程度進展しているのか、最新の宇宙論がどのようになっているのかと云ったところに当然興味が湧くところである訳だが、宇宙論の発達史やこれまので数々の大発見の経緯などが並んでおり、なかなか本論に入らない。そして入ったかと思えば残念ながらあんまり進んでいないのである。
こうして振り返ると、気づかれずにマケイジョに論文を書かれてしまい、そしてこの本のタイトル、表紙のデザイン、そして何で今このタイミングでこの本なのかと、モファットはどこまでも地味でタイミングの悪い不運な人なんじゃないかと感じてしまうのである。いつかスポットライトを浴びて高く評価される日がくればいいなと本気で応援致します。
レオナルド・サスキンドの「宇宙のランドスケープ 宇宙の謎にひも理論が答えを出す」のレビューは
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ジョアオ・マゲイジョの「光速より速い光-アインシュタインに挑む若き科学者の物語 」のレビューは
こちら>>
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「ブラッド・メリディアン
(Blood Meridian, Or the Evening Redness in the West)」
コーマック・マッカーシー(Cormac McCarthy)
2010/02/14:本書は、1985年に出版されたもので、出版当時の評価はそれ程高いものではなかったようだ。コーマック・マッカーシー自身も当時はまだ無名でかなりの貧困生活を送っていたようだ。詳しい経緯は不明だが、その後書かれた国境三部作が高い評価を受け、徐々に認知度が上がり、2006年にニューヨークタイムズで過去四半世紀のベスト・アメリカン・ノベヴェルズに選出されるまでになった模様だ。
国境三部作で時代を下り、「血と暴力の国」では現代劇となり、「ザ・ロード」では未来を描いたコーマック・マッカーシーは本書も筋を通すかのように黎明期のアメリカを舞台にしていた。
少年が生まれたのは1833年の夏、獅子座流星群が素晴らしく降る夜だった。少年は父と二人で貧しい暮らしをしつつ育つが14歳になると、ふっと家出をする。少年が家出をする動機もどこへ向かおうとしているのかも決して語られる事はなく、少年は過去を振り返る事すらない。
着の身着のまま荒れはてた荒野を行く少年はある夜、人の暮らす気配を察して近づいていき一人の年老いた隠者に出会う。
あんたは道を見失ったみたいだな、と隠者は言った。
いや、ここを目指してきたんだ。
隠者はすばやく手を振った。そうじゃなくて、ここへ来たということは道に迷ったってことだろうと言うんだ。砂嵐に遭ったのか。夜中に進んでいるうちに道からはずれてしまったのか。追い剥ぎどもに追われたのか。
少年は考えた。ああ、と答えた。どっかで道からはずれたんだろうな。
そうだと思ってたよ。
隠者はまるで少年のこれまでの行動と素性を察しているかのような話しをし出す。
あんたは闇のなかで道を見失った、と隠者は言った。火をかきたてながら灰のなかから細い尖った骨を掘り出して立てた。
隠者は頭を前後に揺らした。はみ出し者は生きにくいものさ。神はこの世界を創ったが誰にでも合うようには創らなかった。そうじゃないか。
神さまは俺のことをあんまり考えてなかったみたいだ。
そのとおり、と隠者は言った。しかし人間はいろんな考えをどこで手に入れるんだ。こんな世界だったらいいのにと思うその世界はどこで見たんだ。
俺はこんな場所がいいとかこういうのがいいってのを想像できるよ。
それを現実のものにできるか。
いや。
できないだろう。それは神秘だ。人間が自分の頭の働き方を知ることができないのは知るための道具が自分の頭のしかないからだ。心を知ることはできるがそっちは知りたいとは思っていない。当然だ。そこは覗きこまないほうがいいからな。神が定めた道に縛られるのは生き物の心じゃない。残酷さはどんなちっぽけな生き物にもあるが神が人間を創ったときには悪魔がそばにいた。人間はなんでもできる生き物だ。機械をつくったり、機械をつくる機械をつくったり。放っておいても千年のあいだ勝手に動きつづける邪悪なものをつくったり。というようなことを信じるかね。
さあ。
信じるんだ。
少年はやがてインディアン征伐隊に参加させられ、凄まじい暴力と殺戮の激流のような旅へと向かっていく事となる。ここでは最早登場人物たちの動機や心情はすべて削ぎ落とされ、言葉もなく、音もなく、そのように動く事が予め決定されているかのようなある意味優雅さすら漂うような手順で戦い合い、殺し合っていく者たちが描かれる。まるでその殺すか殺されるかのその瞬間にのみ生があるかのようだ。
コーマック・マッカーシーはまた、登場人物の一人をさして、こんな事を書く、彼は後に逆さに吊され頭の皮を剥がれ、腹を割かれて内臓を引き出されて死ぬのだと。そしてそれを少年は見ると。つまりこの先死ぬことが決定づけられた人物によって殺される人びとが累々と重なっていくのである。
けたたましい音を立てて矢の大群が隊列を通過し兵士たちがぐらりと揺れて落馬した。馬が棒立ちになり駆け出すと蒙古人種の群れは側面へと回りこんで馬の向きを変え槍を構えて突進した。
非正規軍部隊が進行を停めて銃を撃ちはじめ灰色の硝煙が砂埃に混じり渦巻くなか野蛮人の槍騎兵が隊列を切り裂きにかかる。少年の体の下で馬が長い吐息とともに沈みこんだ。すでに馬上でライフルを撃っていた少年は今度は地面に座って弾薬袋をまさぐった。近くに座っている男は首に矢が刺さりまるで祈っているように軽く前に身を傾けている。少年は血に濡れた平たい矢尻のほうへ手を伸ばしかけたがよく見ると胸にも一本の矢が羽根のところまで突き刺さり男はもう死んでいた。至るところで馬が倒れ男たちが這いずり回りある男は座ってライフルに弾を込めながら両耳から血をだらだら流し別の男たちは拳銃を分解して弾薬を装填した弾倉を取りつけようとしある男は膝立ちの姿勢で前に上体を倒して地面の自分の影を抱きしめ何人もの男たちが槍で刺し貫かれ髪をつかまれて頭の皮を剥がれ野蛮人の軍馬が倒れた男たちを踏みにじり薄闇のなかから白い顔の片目が濁った馬がいきなり現れて犬のように少年に噛みつこうとしてまた姿を消した。
時間の流れを前後に大きく飛んで戻ったかと思えば、戦闘シーンでは超ハイスピードカメラの目線で描かれた映像のような表現になっていく。
そして判事がいる。彼は禿頭で2メートルを超える大男だ。この男がインディアン征伐隊の行動を司っており、彼の目的はただ一つ奪えるものは全て奪う事だ。彼の存在は、後のマッカーシーの本を既に読んでいる我々にとっては「血と暴力の国」に登場するシュガーのような存在にも見えるが、実際には全く違う。シュガーには損得勘定と云うものは全くなく、ただ決定論的な結果を具現化する為に行動しているのであるが、この判事は金目のものも、権利も、命も奪うために奪うのだ。
インディアンの逆襲に遭い、仲間も着る物も武器も失い手元にあるのは鞄に詰め込んだ金だけと云う状態にあって彼は、相手の拳銃を売れと迫る。もし逆の立場にあったなら、躊躇なく引き金を引き金を奪うに違いない状況で臆面もなく取引を申し出てくるのだ。
本書は、修正主義西部劇と呼ばれるものなのだそうで、従来の脳天気な西部劇ではなく、史実や当時の残虐な行為に正しく向き合う内容になっているものを指すようだ。事実このインディアン征伐隊のモデルとなっているのはグラントン・ギャングと云う実在のアウトローなのだそうだ。頭目はジョン・ジョエル・グラントン(John
Joel Glanton 1819-1850)アウトローなのにUSアーミーの肩書きも見える。彼らはリンカーン大統領が奴隷解放を訴えている西側でインディアンやメキシコ人たちを蹂躙して土地を奪い続けていたと云う訳だ。
こうして見ると判事の存在が何を暗示しているかは明確でそれはアメリカ政府そのものな訳だ。一方で少年。名前もなく、その行動に対する動機が圧倒的に欠落したこの者はいったい何者なのかと云えばそれは一般人の影をすべて重ね合わせたものである訳だと僕は思う。彼は茫漠たる思いだけで西を目ざし、命ぜられるまま、戦闘に参加し、人も殺すが、激しい差別意識も憎しみも悪意もないのである。
傑作である。コーマック・マッカーシーの天才性がここにある。
翻って出版当時のアメリカでこの本が評価されると云うか理解される事自体が難しかったのではないかと思う。ここ最近になってアメリカの、と云うかアメリカ政府の化けの皮が剥がれてきた時本書を読んではじめて何か描かれていたのかを理解できるようになったと云う事ではないか。
ハワード・ジンの「学校では教えてくれないアメリカの歴史」には同時代の事がかなり詳しく書かれているが、そのなかから。
1848年2月、メキシコとアメリカ合衆国は、グアダルーペ・イダルゴ条約を結ぶ。この条約で、アメリカはメキシコから、南西部全体とカリフォルニアを譲渡されることになった。また、二国間の国境線がリオグランデ川であることも承認された。引き換えにアメリカは、1500万ドルをメキシコに支払うことにした。このためアメリカ人は、新領土は暴力で奪い取ってきたのではなく、購入したのだ、といえるようになったのだ。あるアメリカの新聞はこう報じている。<われわれは征服によって、なに一つ奪わなかった。まったく喜ばしい結果ではないか。>
一般市民は常に現地で実際に行われている殺戮の現状について全く知らされないと云うのが世の常なのである。
「すべての美しい馬」のレビューは
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「越境」のレビューは
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「平原の町」のレビューは
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「血と暴力の国」のレビューは
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「ザ・ロード」のレビューは
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「チャイルド・オブ・ゴッド
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「進化の存在証明
(The Greatest Show on Earth: The Evidence for Evolution)」
リチャード・ドーキンス (Richard Dawkins)
2010/02/11:ドーキンスに出会ったのは「利己的な遺伝子」で、1994年第13版のこの本は僕の一つの宝物であり、これは肉体を乗り物として使い捨てる利己的な遺伝子の振る舞いと云う激しく幻惑を覚えるようなパラダイム・シフトに僕はもうびっくり仰天してしまったからだ。本を読む喜び。進化論の本については、スティーヴン・ジェイ・グールドかリチャード・ドーキンスか。なんてつらつらと考える。個人的な好みから云えばドーキンスに軍配を上げたりして。
その後もドーキンスの本は何冊か読んできたが、このサイトでドーキンスの本について具体的に書くのは今回が初めて。
これまでに書いてきた本をふりかえったとき、進化を支持する証拠そのものについてはっきりと論じたところがどこにもなく、それは、埋めなければならない重大な空白であるということに、私は気がついた。ダーウィン誕生の200周年、および「種の起源」出版150周年にあたるこの2009年こそ、それを実行するにふさわしい時だと思えた。
ドーキンスは冒頭でこんな事を書いていた。これは何を言っているかと云うと、アメリカではキリスト教原理主義者たちが中心となって、教会やコミュニティで、「種の起源」やダーウィンの進化論についてその地位を貶めるような執拗な攻撃を加え続けてきた結果、進化論はおろか人類をはじめとする多彩な生命はこの1万年位前に、ハッキリ行ってしまえば神によって創造されたと信じている人が40%を越えるような事態となってしまったのである。
信仰と科学がごちゃ混ぜになって語られ、頑迷で非寛容な宗教家たちは、子供たちに科学を教える事すら憲法に違反するなどと言うたわ言を曰い、公共の裁判や学校教育の場は、彼らの存在やその主張は無視されるどころか中西部では過半数を超える謂わばジョーシキとなっているのである。
科学が宗教に敗北する?それは地動説が負け、地球が平らでこの宇宙の中心であると云う事を認めるような話でまさか負ける訳がないような議論なのだが、あろうことか旗色は決してよくない。チョムスキーはアメリカにはまるで開発途上国の人びとと見紛うばかりのような強い宗教的経験を持つ人びとがもの凄く沢山いるのには驚かされると云うような事を書いていた。彼らはまるで、建国当時の時代から抜け出してきたかのような価値観を持っていると云う訳だ。
先日、ニュースでアフガンで戦闘している米兵が持つライフル銃の照準器には「JN8:12」と云う型番のようなものが刻印されていたが、これは新約聖書のヨハネの福音書8章12節『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです』を符合化したものだったと云うような事が報じられ騒動が持ち上がった。これを作っていたのはミシガンにあるトリジコン(Trijicon)と云う会社であった。
第二次世界大戦は史上初のイデオロギー上の問題による戦いであったと云うような事を読んだ記憶があるが、いまや世界は、宗教戦争の火の手にかこまれており、その火を着けて回っている黒幕たちはその裏でエネルギーなどの天然資源を奪うために人びとをけしかけると云う二枚舌を使っている事が明らかであり、黒幕たちにとっては無垢で純粋で神の御名をかけて喜んで命がけで戦う人びとは多ければ多いほど良いわけで、科学が宗教の前で負けが込んでいるのはこうした陰謀があるからではないかと僕は思う。
つまりはイデオロギー上の戦いなんてものもそもそも権力者の作りだした幻影でしかなく。人類はおしなべて全く進歩して来た訳ではなく、昔のまんまなのではないかと感じるのだが。如何なものだろうか。
繰り返しになるがドーキンスがダーウィン誕生200周年、「種の起源」出版150周年を迎えるにあたり、書き下ろした渾身(勝手な想像だが)の一冊であるこの本の脇を素通りする事はできない。スティーヴン・ジェイ・グールド亡き後、この戦いに先頭を切って立ち向かえる人がいるとすれば、このドーキンス以外をおいて他にないだろう。
ガツンていってもーたれドーキンス。ぐうの音も出ないような証拠を突きつけて勝ち鬨の声を上げよ。
しかし、しかしである。本書は600ページ近い。ちょっと長いすぎでないの。確かに原理主義者たちがこうした本を読んで目からバサバサと分厚いウロコを落として、初めて見るこの世界の美しさに号泣したりする事は絶対に無いはずで、この本を手にする人たちは少なからず進化論に好意的である人が大半を占めるだろう。例えば僕のような。
例えば僕のように進化論の本を何冊が読んでいる人にとってこの本はあちらこちらどこかで何度か読み知った話になってしまいがちで、進化論の確かさを信じている自分にとってこの証明は今ひとつ原理主義者たちをぎゃふんと言わすには切れ味が鈍く冗長ですらあるのだ。
本としては、読み物としては勿論ちゃんと面白い。この手の本にあまり馴染みのない人なのであれば、読んでみる価値がある事は間違いない。面白いだけに残念だ。
ヒルズの系統樹はこちら
>>
スティーヴン・ジェイ・グールド の 「神と科学は共存できるか?」のレビューは
こちら>>
「ドーキンス博士が教える「世界の秘密」のレビューは
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「魂に息づく科学」のレビューは
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「スーパーリッチとスーパープアの国、
アメリカ―格差社会アメリカのとんでもない現実
(This Land is Their Land: Reports From a Divided Nation)」
バーバラ・エーレンライク(Barbara Ehrenreich)
2010/02/07:エーレンライクの最新作「スーパーリッチとスーパープアの国、アメリカ―格差社会アメリカのとんでもない現実」です。本書は、ニューヨーク・タイムズ紙をはじめいろいろな雑誌やご自身のブログなどに掲載された記事を一冊に纏めたものです。そういう意味で、全体を貫く論旨がある訳ではなく、その時その時の状況に沿ったエッセイなのですが、書かれた時期や何に掲載されたのかといった情報がなく、慌てて寄せ集めた感じがどうしてもしてしまうような作りになってしまっているのがちょっとなんとも残念ではありました。
とはいうものの、これらの文章が書かれたのはブッシュⅡが退場し、オバマが大変な期待を背負って壇上にあがり、どこまでアメリカを変えることができるのか、やっぱりダメなのか、悲喜こもごもといった時期である事は間違いない。
その意味で本書は、レーガン政権以降、休むことなく進み続けてきた格差社会の拡大という今となっては大変な問題に対して、どうしてそうなったのか。何が悪いのか。そして我々はどうするべきなのか、ということを様々な角度から訴えているという点で一つのまとまりとなっているのだ。
僕が今いる場所は2010年の2月。オバマ大統領になってから、今この時点で何が言えるかを考えるに、何かやる前にノーベル平和賞を貰ったりしている割にあまり具体的な成果が出せている感じはしないという事だ。オバマは国民皆保険の導入に一歩前進したとか、金融機関に対する辛口な攻撃をしているとか随分と戦っているらしいが、その戦いぶりも残念ながらよくわからない。
ニュースによれば、アメリカ経済が上向いた気は全くしないのにもかかわらず、更には自身が政府管理下で経営再建中であるAIGが、巨額損失の原因となった金融商品取引関連部門の従業員に対し、総額約1億ドル(約90億円)の賞与を支払う事になったとか、38社の大手金融機関の2009年の報酬総額が前年比18%増の13兆2000億円になるらしいなんて云う天文学的な数値が報じられている。
因みにヒラリー・クリントンは医療保険業界から最も高額な献金を受けている議員なのだそうだ。国民皆保険の導入に反対しているのは国民ではなく明らかに企業なのであり、このような人びとの実情と乖離した政策を選択する議会政治からとっとと脱却する必要があるハズなのだが、鳩山にせよ、小沢にせよちょっとびっくりするような企業献金によって要は操られている訳で、これは日本も状況は全く同じなのだ。
3月は年間で最も自殺者が増える時期なのだそうだ。失業や貧困から抜け出す為の支援策こそ最優先の課題の一つであるハズなのに、政治家は不明瞭な献金や会計の問題に踊らされ、車を持っていなければなんの影響もない、しかも開けてみれば殆ど通行量がないような高速道路の無料化みたいな目くらましを使っている場合ではないと思うが。
エーレンライクは恥による支配と云う事について述べている。
いまの経済に重くのしかかっているのは恥である。最近にレイオフされた恥、慢性的な貧困におちいっている恥、恥のない生活をしている賢明な人びとにとって、恥に思わなくともいい、と口でいうのは簡単である。レイオフの対象になったのはあなたのせいではないとか、その職種の最高賃金が時給およそ8ドルなのはあなたのせいではないとか・・・・・・。いや、私がいいたいのは、責めるならば不景気、あるいは企業経営者を責めたほうがいいということだ。自分を責めてはいけないのである。
失業したり、減俸、降格されれば、それは自分にとって恥だと感じてしまうのは当然であろう。自分を責めて、体調を崩したり、最悪の場合自殺に追い込まれてしまう人が現実にいる訳だ。しかし、立ち止まって考えよう。どうしてこのような事態に陥ってしまったのか。
恥は優れた武器にもなるが、虐げられ、傷ついた相手に使ってはならない。むしろ、虐げるほうの人びとに向けるのがいい。SUV事業に全力投入したあとで数千人をレイオフしたフォードとGMには、恥を知れといおう。それから、自分は8桁の収入を得ていながら従業員を安月給で働かせ、フードバンクに送りこんだCEOにも。さらに、レイオフされた人びとの3分の1強だけが対象になる失業保険プログラムをわれわれに押しつけた議会にもだ。
それ以外の人びとは、堂々と胸を張っていいのである。
本書を読み終えて閉じた時、アメリカと云う国は果たして正気にかえり、まともな状態へと回復する事はできないのではないかと云う重くて固い現実にガツンとぶつかったような実感を覚えた。そしてアメリカの狂気は世界の狂気でもある訳で、長く連なる列車のように一度脱線すれば、後続の車両たちは数珠繋ぎに崖から落ちるしかない。早く止まる事ができなければ、全部落ちてしまうのだ。
メキシコ国境にフェンスを作っていると云う話しは何度も耳にしていたのだが、現実にアメリカ・メキシコ国境地帯をフェンスで塞ぐなんていくら何でも荒唐無稽だろうと思っていた。しかし、現実にそれは出来てきており、今後も拡張し続ける事になっているらしい。この光景ほどアメリカの過剰反応、狂気を具現化している姿はないと僕は思う。
まあ、いつかこれを入れなくするためではなく、出られなくするために使えるかもしれない。ひょっとしてアメリカは自分の国を監獄のようにしたいのかもしれないので、やりたきゃやらせとく手もあるなと考える事は可能だとも思うが。
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2010/02/06:弾左衛門と云う人物の事を聞いた事があるでしょうか?僕はこの人の存在を、極々つい最近になって知った。弾左衛門は戦国時代から明治にかけてなんと13代も受け継がれた名前であり、実在の人物たちなのだ。
初期の弾左衛門は有力者といっても鎌倉あたりのローカルな権力者であったらしい。しかし江戸時代に入ると徳川家の重用を受け、28座、長吏、非人、猿飼、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻盲、鉢叩、弦指、石切、土器師、放下師、笠縫、渡守、山守、青屋坪立、筆結、墨師、関守、鉦打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋の支配を許され、穢多頭となったのだという。
穢多・非人と云うのは当時も今も紛う事なき差別用語である訳だが、宮城県仙台市で世間知らずのまま生まれ育った僕は、この言葉は聞いた事があったとしても、何か差別に繋がるような事が身近にあった記憶が全くない。会社に入ってはじめて同和問題と云うものを知った時も全く実感が湧かなかった。つまり日本における差別問題についてはまるで無知であった訳だ。
先日、ダニエル・V・ボツマンの「血塗られた慈悲、笞打つ帝国。」を読んで驚いたのは、ここ東京に穢多・非人たちが大勢暮らし、彼らの存在は疎まれながらも、なくてはならない役割を持ってしっかりと社会に組み込まれていたと云う事が活き活きと描かれていたからだ。ここ東京で差別が実際に行われていた歴史があったとは。
このサイトの記事でも何度か同じような事を書いたが学校の日本史の授業は、何故か近代に近づくにつれ駆け足になっていく。そして江戸時代のどこかで年度末を迎え、ふっと授業が終わってしまい、もの凄く消化不良なもどかしい思いをした。一方で日本における差別の歴史はタブー化されるが故に、暗い場所へと隠されてその歴史には容易に近づけないようになっているような気がする。
「血塗られた慈悲、笞打つ帝国。」には今まで見たこともない江戸の様子が描かれていた。本当の江戸を理解する為には、あまり日の目があたらない弾左衛門の歴史を知る必要があると僕は思った。江戸時代を知る事は、今の東京、そして日本を理解する事に繋がらないだろうか。そして差別問題。差別は決して許されるものではない事は言うまでもないが、それをなくすためにはきちんとその問題に向き合い深く理解する事こそが重要で、都合の悪い過去を隠したり消し去ろうとすべきではないのである。
俄然、弾左衛門の事に興味が湧いた僕の前に浮上してきたのが、本書「浅草弾左衛門」だ。松岡正剛氏も「
千夜千冊・遊蕩篇」で紹介されており、 傑作だと云う。これこを読まずしてどうする。本書は、最後の弾左衛門となった第13代弾左衛門直樹のお話で、彼は1823年摂津国菟原郡住吉村中ノ町に生まれ、17歳で先代から跡継ぎとして選ばれ江戸入りする頃から幕を上げる。弾左衛門は代々、直系以外から才能のある人物を選ぶのがしきたりなのである。
日が落ち、暗くなるにつれて、一行の歩みは早くなった。臑の痛みを忘れるほど、しだいに緊張が高まってくる。弾左衛門におのれがどう見られるかが気になった。すぐにも住吉村に追い返されるかもしれない。
屋根の先に金龍山浅草寺の五重塔が黒くつきだしている。追い抜いていく駕籠が三つ、四つとあり、粋な形の遊客がふえた。春の宵を楽しむ風情がある。
こんもりと緑にかこまれた聖天山【待乳山】をすぎて橋に出た。橋のしたは幅六間【11メートル】ほどの掘りで、右手すぐ近くの大川から猪牙船が幾艘もはいりこんできている。
「山谷堀よ。こっちの土手が日本堤で吉原に行く道。この橋が今戸橋。堀のむこうの、わら板塀がござろう、あれが新町でござる。長い旅であった。」
橋を渡るまえに彦一が別れでも告げるようにしんみりといった。船宿の提灯がゆれていた。山谷堀に一部を接して、いかめしくどこまでもつづく板塀が見えていた。それが新町という。小さい門があり、石段が掘りにむけておりている。そこに船を着けてそのまま中へはいれる寸法で。
今戸橋を渡った左手は慶養寺と読めた。そこをすぎて左へおれると、さきの板塀につづく瓦屋根の長屋が現れた。その中央が武家屋敷のような長屋門であった。正面の大戸も、左右の潜戸も開かれ、サルかだれかが到着を告げたのだろう。迎えに駆けてくる下人たちがあわただしかった。門の両側には、箱根のお関所の大門と同じく、六尺棒を持った男が立っていた。
旧今戸橋付近
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ここにある通り弾左衛門の屋敷は今戸橋を渡ったところにあって、それはかなり大きなものであったらしい。弾左衛門は、支配していた28座から収められる上納金を原資に、支配下の地域の司法・立法・行政を司っており、座の数は江戸末期に向けて徐々に欠け落ちて弱まっていったものの、最後の頃でも穢多45万人、非人8万人と云う膨大な人々のリーダーであったのだ。しかも弾左衛門は月代をし、帯刀をも許されていたと云うのだからこれはもうびっくりである。
伝馬町牢屋敷跡
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弱冠17歳にしてこの巨大な組織のリーダーとなった第13代弾左衛門は、たび重なる江戸の大火事、飢饉、そして地震に加え、紊乱進む江戸城下に迫る黒船、倒幕と云う大いなる時代の流れが押し寄せていく。弾左衛門の抱く最大の願望は、彼の率いる人々全員の身分引上げなのだ。
穢多・非人と呼ばれ疎まれるようになった由来は殆どわかっていない。弾左衛門も色々と調査するのだが、どこからやって来たのか、どうしてこのような仕事を穢多・非人たちが専業とする事となったのか過去を遡っても茫漠たる闇に飲み込まれてしまいわからない。弾左衛門はこのような理不尽な差別を撤廃し人として認めてもらう為に命がけの出兵をも決断していくのである。もう僕は心が震えて仕方がなかった。こんな歴史が日本に、しかもほんの200年足らず前の時代にあったとは。
かなりの長編である訳だが、物語としても第一級の仕上がり。幼なじみの余を重層的な江戸の街を縦横無尽に走らせ、狂言回しに物語を走らせるその手練手管に惚れました。正に読まずに死ねるか級の作品です。著者の塩見鮮一郎氏は河出書房の編集者であった方なのだそうだが、弾左衛門の事を調べる事にも、センセーショナルな話題であるが故に出版するための問題解決にもそれこそ相当な苦労と努力をされてきた事は想像に難くない。こんな素晴らしい本を書いてくれた塩見鮮一郎氏には感謝。感謝であります。
「賤民の場所 江戸の城と川」のレビューは
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「マールのドア----大自然で暮らしたぼくと犬
(Merle's Door: Lessons from a Freethinking Dog)」
テッド・ケラソテ(Ted Kerasote)
2010/01/16:ユタ州サンファン川をクレイ・ヒルズまでカヤックで下ろうと仲間たちと登ってきた著者のテッド・ケラソテは一匹の迷い犬に出会う。
闇を照らすヘッドライトの光に、ふいに黄金色の大きな犬が浮かびあがった。犬はまるでダンスでもするように、不安げに前足をばたつかせていた。背後には、四月の花盛りを迎えた背の高いハコヤナギの木立。その奥には、雪解けで増水した川の濁流が勢いよく流れていた。
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子犬と云うには大きくなり過ぎだが、大人にはまだなりきっていないこの犬は、かつて誰かに飼われていた経験があるらしく行儀が良かった。どこでどうして生まれ、育てられ、そしてこんな山奥で迷い犬になってしまったのだろうか。おそるおそる近寄ってきたこの犬はテッドの匂いを嗅ぎ、目を覗き込んで「あんたは犬を欲しがっている。それはボクだ」と。
そのままカヤックでサンファン川を一緒に下り。ワイオミングのケリーでテッドと共に暮らす事になる。テッドはこの犬をマールと呼ぶことにし、犬も「いいね。それは気に入った」と言った。
犬を飼った経験も豊富で犬の生態にも詳しい著者であったが、これほど自立してい感情表現の豊かな犬ははじめてであった。彼はマールの自己主張を尊重し、パートナーとして協力し合って暮らす関係へと自分の考え方をかえてしまうのである。飼い慣らす事を早々に断念し、ドアに犬用のドアをつけて、マールが自由に家の出入りができるようにした。
マールはテッドの事を愛し、何よりも一緒にいる事を楽しむ事に加えて、近隣の犬や人々との関係のなかで自分の生活を作りだしていく。
テッド・ケラソテは、ネイチャー・ライターで自ら自然と共に生きる人であり、自立して生きる術を迷い犬時代に獲得していたマールはお互いを最高に信頼しあえるパートナーとして協力して狩りをし、一緒に食べ、共に遊び共に眠った。この関係は正に犬、ペット、従属するものなんかではなく、一個の独立・自立した生き物として共に生き、信頼し愛し合う二つの命なのである。
前にも何遍か書いたが、僕はその昔、シェットランド・シープドッグを飼っていた。彼女は名前をロンと言った。ロンは自力で自分の柵から出て、散歩用の首輪に首をつっこんで掛け、自分で外す事ができた。いつも行く広瀬川の河川敷までの道路は首輪をしないといけない事を理解していたのだ。河川敷に来るとスッと首輪を自分で外して河原におりてあちこちの匂いを嗅ぎ、近所の犬たちと駆け回って遊んだ。帰る時間になると僕が持っている首輪に頭を入れて一緒に帰った。
川沿いの堤防を二人で走った時期もあった。その時、僕は自転車でロンは首輪で繋いでいた訳だが、ちゃんとスピードを合わせて自転車と併走してくれたので、相当早いペースで走る事が出来た。あの頃のロンは体力的に全盛期で、河原で走り回る他の犬で彼女に追いつける犬はいなかった。そして彼女は明らかにそれが自慢であった。他の犬を引き離し、飼い主たちから感嘆の声が上がると明らかに彼女は得意満面であった。
僕の父のライフワークであった山菜やきのこ採りにも随分と同行し、共に山を登り谷を下ってきたらしい。もちろんそんな山奥では首輪なんかなしだ。いなくなる心配なんて全くなかったのである。
知らない人や犬がいても走って行って近づかない。吠えない。子犬のころに僕はそれを教え、ロンはちゃんとそれを理解してそれを守った。と思っていた。しかし、本書を読んでみると、僕が教えたからと云うよりも、自立した自由があり、社会のなかで自由に生きる為に守るべき制約は不用意に近づかない、やたら吠えない事である事を彼女自身が自然と学んだだけだったんだなぁと解った。
そうロンは都会の犬にしては相当自由な暮らしをしていた訳だが、マールには到底敵わない。僕自身とてもテッドのような暮らしは無理だ。マールのように暮らす、生きる事が幸せだとすれば、窮屈で自由のない都会で飼われるペットの犬はなんと哀れな事だろうか。本書の最後にはカヌーイストの野田知佑氏の解説が添えられていた。野田氏とカヌー犬ガクはテッドとマールとの関係と全く一緒で、非常に近い考え方をされている。
犬と共に生きるためには、どこまで彼らに歩み寄っていけるか、その覚悟が必要で、自分たちが変わることができれば、もっともっと素晴らしい時間を一緒に過ごせる事は間違いない。犬たちもきっとそんな風に人間が変わってくれる事を待ち望んでいるに違いない。
テッド・ケラソテとマールの
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「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史
(A Young People's History of the United States)」
ハワード・ジン(Howard Zinn),レベッカ・ステフォフ(Rebecca Stefoff)
2010/01/16:本書は、ハワード・ジンによる「民衆のアメリカ史」をレベッカ・ステフォフが若い人向けに大幅に編集し直したものだ。
どの位の年齢層を意識しているのだろうか。高校生くらいか。上巻では1492年~1901年まで、下巻では1901年から2006年までの歴史を非支配層、特に少数民族や差別されてきた黒人や女性の目線でみたアメリカの歴史を描いたものだ。
アメリカの歴史なのに、1492年から始まるのはコロンブスのお話から始まるアメリカがアメリカになるまでの歴史をも含んでいるからである。「民衆のアメリカ史」は1980年に書かれたものだが、今回の編纂にあたって、2006年までの歴史を新たに加えられているところも見逃せない。
アメリカの歴史を批判するのは容易い。特に最近は。アメリカの変質、歪み、豹変、といった表現を自分も使ってしまうことがあるのだが、本書を読んで改めて考えてみれば、アメリカはアメリカになる以前から、そしてコロンブスも、インディオやインディアンをだまし、蹂躙し、メキシコからは土地を奪ってはじめて成立した訳で、およそ民主的でも平和的でも平等でもない場所に立っている訳だ。そして黒人奴隷ばかりか白人の貧困層を下敷きにして今が成り立っている。
植民地の発展につれて、支配階級はあらたな統制方法を見だした。きわめて富める層とひどく貧しい層とともに、アメリカ社会には、白人の中産階級が成長してきていた。それは小規模な農園主、独立した自営農民、都市や町の職人からなる集団だった。この中産階級の者たちを、上流階級である裕福な商人や大農園主の味方にできれば、彼らは辺境(フロンティア)のインディアンや黒人奴隷、貧しい白人に対するしっかりとした盾になるだろう。と支配者たちは考えたのだ。
ただし、上流階級としては、中産階級に忠誠を誓わせなければならない。そのためには、中産階級を引きつけるようなものをさし出す必要があるわけだが、自分たちの富や権力をそこなうことなく、そうする方法はあるだろうか?1760年代から70年代にかけて、支配者たちはまさにぴったりな道具を見つけ出した。それは<自由と平等>という合言葉だった。この言葉が、イギリスに反旗をひるがえすのに充分なだけの、上流階級と中産階級の白人を団結させていくことになる---しかも、奴隷制も社会的不平等もおわらせることなく。
アメリカ政府がこれまで、自由だ平等だと声高に世界に叫んでいる姿は、このかつて踏みにじられた少数の人々に一体どのように映っていたのだろうか。そしてそんなアメリカを賞賛し、賛同する国際社会に対してどんな思いを抱いていたのだろうか。僕たちは、恐ろしいまでに想像力が欠如していたのだろうか。それとも情報が統制され想像する事すら困難な状況におかれていたのだろうか。
チョムスキーは、「チョムスキー、アメリカを叱る(What We Say Goes)」のなかで、ハワード・ジンに対してこんなコメントを書いている。
ハワード・ジンは全く正しいと思います。権力への従順さと服従は、この国にとどまらず、あらゆる国にとって重大な問題です。ただ、この国が非常に強大なので、ルクセンブルグなどの小国に比べると、はるかに重大そうに思えますが、問題は同じです。
グーグルが中国から撤退しそうだと云うニュースが流れてきている。これはグーグルが中国政府の検閲規制や、当地での人権活動家らのメールに対するサイバー攻撃等が自由なインターネットという普遍的な権利を脅かすもので、こうした事態が続くようなら撤退するしかないと云う態度を示したものなのだそうだ。このグーグルの姿勢にアメリカ政府は後押しする形で外交問題に発展しつつあると云うのが今の状況だ。
言うまでもなく中国は多くの少数民族を抱え込んだ大国であり、ウイグルやチベットでは政府によって相当過酷で残虐な弾圧行為が行われている事は間違いない。これは中国が中国であり続ける為に必要だと考えられている天然資源がこうした少数民族たちが住む場所にあるからであり、誤解を恐れずに言えば、本当に欲しいのは領土であって、そこに住む、変な服装で変な言葉を喋って、変な神様を拝んでいる奴らの事はやっかいで邪魔な存在だとでも思っているのだろう。
多くのアメリカ人は、ドイツ占領下のヨーロッパでのユダヤ人大虐殺をやめさせるために、自分たちの国は枢軸国と戦っているのだ、と考えていた。
しかし、ローズベルトは、その点にはさして関心を持っていなかった。ユダヤ人が強制収容所へ入れられ、ドイツが着々と600万人のユダヤ人、更には数百万人の少数民族や反対者の抹殺を実行に移していたとき---のちにこれは”ホロコースト”と呼ばれる---、ローズベルトは悲運の人々を救おうとしなかった。全てを国務省に一任し、任された国務省は手をこまねいていたのである。
ジャン=クロード・ミルネールのヨーロッパがユダヤ人を追っ払った事によって統一を遂げたと云う驚くべき洞察。これを横展開すれば中国の完全なる自由で平等な統一化には一体何が必要なのかは明らかで、実際中国政府はそれを実践していると云う訳だ。
中国が平和的に少数民族毎の小国の集まりに自然に分離する訳がない以上、この自由なインターネットという普遍的な権利とは一体誰のためのものなのだろうかと云う事も現実的に考える必要があると僕は感じる。
民族主義や宗教的対立が顕著になれば、中国は中国の形を維持できなくなり、ソ連がそうだったように、或いは中東諸国がそうであるように、国境周辺の諸国を巻き込んだ紛争が起こって爆縮的に瓦解する可能性のある国だ。中国政府が情報統制に力を入れているのにはそれなりの事情がある訳で、グーグルとアメリカ政府はこれを理解した上である事は勿論で、しかもそんな事情は土俵に載るわけもなく、黙殺して斧を打ち込んでいると云う訳だろう。これは、共産主義が宗教的価値観と相容れない関係である事につけ込み東欧の少数民族やイスラム圏の人々に原理主義の火種を着けて回っていたアメリカのやり口をそのまま踏襲しているものとみる事も可能だ。
統一化、平等性の拡大と云う事態を中国内部に当てはめて考えるとその動きは、全くもってアメリカに似ている。と云うより見習い合っていると言ってもよいだろう。
統一化、平等性の拡大はどうやらどこかにシワがよるものらしい。
そのシワの際にあるのが、イスラエルとガザ地区の問題だ。入植と云う名でじわじわと領土を拡大していくイスラエルは、ガザの人々を蹂躙して蹴散らし、この地から追い出す事を明確に意図してあからさまな行動を取っている訳だが、これは後ろから、つまり、各国からやってくる新しい入植者たちの存在がある訳で、彼らを送りこんでいる国々もそれを容認しているのだ。
そんなにユダヤ的な生活を送りたいならここじゃなく、あちら本場イスラエルでどうぞと云う訳だ。彼らが立ち去れば、後には、つまりアメリカやヨーロッパではユダヤ人の問題がなくなっていく。つまりガザ地区は正に波が打ち寄せている場所であって、その波は大洋から続く潮流に押されているから波打つのだ。僕はへそ曲がりすぎだろうか。
そして当然ながら、権力への従順さと服従がずっと昔から日本でも重大な問題だった訳で、それは中国がいつから中国なのかと云う問題と同じく、日本は一体いつから日本なのだろうかと云う疑問を僕に抱かせる。
日本の成立を考える場合、支配者層とは一体誰で、彼は一見他の国に比べて一見奥ゆかしく慎ましくくひっそりとした存在になっているが、どのようにして血統と正統性をここまでゆるぎなく盤石で圧倒的なものに成し得たのかと云う事にもっと目を向ける必要があるようだ。ハワード・ジンの目で「民衆の日本史」を描いたらどんな姿が明らかになるのだろうか。
「テロリズムと戦争」のレビューは
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「爆撃」のレビューは
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「血塗られた慈悲、笞打つ帝国。
-江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか?
(Punishment and Power in the Making of Modern Japan )」
ダニエル・V・ボツマン(Daniel V.Botsman)
2010/01/10:冒頭で一冊の本が紹介される。1893年に藤原新太郎が編集した、「徳川幕府刑事図譜」という図譜だ。ここには60枚あまりの絵が収められており、なかには江戸時代の犯罪やそれを犯した者たちが罰を受ける。それも過酷な磔や火炙りによって処刑されている様子などが描かれているものもある。ページを繰ると徐々に時代が移り、人々の服装がかわり、刑罰や裁判の様子が様変わりしていく。本書の最後を飾っている一枚は絞首刑台なのである。
この本は神田の古本屋さんでみつけることができるそうだが、ネットでも明治大学博物館によって公開されている。
徳川幕府刑事図譜 明治大学博物館
この図譜は一枚一枚なかなか味があって興味深い内容なのだが、ボツマンはこの本はどのような目的で描かれたのかと云う問いを発する。そもそもどのような読者を想定して編集されたのだろうかと。この図譜の目的は記録や懐古ではなく、近代化、文明化した事に対する誇りのようなものを表しているのではないかと云う。
日本は明治維新によってより文明的に、進歩したのだろうか?確かに明治維新を契機に日本は大きく変わったかもしれない。しかし、長い鎖国を艦砲外交によって無理やり門戸を開かざるを得なかった日本は何故他のアジア諸国のように植民地化される事なく、更にはアメリカやヨーロッパを向こうに回し戦争に突入するような帝国主義的な国に変質していったのだろうか?
こうした大きな潮流は改めてみると欧米文化を単に見習っただけでは実現できるものではない。欧米の治外法権をはじめとする重い不平等条約を押し付けは、他のアジア諸国と日本に大きな違いはなかったのである。
本書の主な目的は、刑罰とその改革を例に取り、「国家」の歴史に外から加えられた力が国家形成に重要な役割を果たした事実を、改めて大まかに理解してもらうことにある。言い換えれば、一国の歴史を整然と区切る閉鎖的な境界を打ち破り、帝国主義との出会いを、欧米による侵略の脅威を受けて日本が積極的な反応を取ったという視点からのみとらえるのではなく、この出会いそのものが近代日本の成立に欠かせない要素だったと考えようというのだ。そのためには、刑罰史を取り上げるのが、いろいろな点で最善だ。『図譜』からも分かるように、明治維新以後の数十年に起きた変化は、抜本的な質的変化であった。事実、1890年代当時の人々は、自分たちは江戸時代の刑罰や裁判のあり方と完全に決別したと信じて疑っていなかった。さらに、こうして決別したことが、不平等条約の改正問題はもちろん、不平等条約を正当化するのに利用された新たな文明の概念とも密接な関係があることにも、疑問を抱いていなかった。
さらに本書の目的は、ミシェル・フーコーが「監獄の誕生」で明らかにした、刑罰を社会秩序を維持し権力を行使するためのものとする方法論的洞察などを基礎としながら、更にその先を目指す。つまりそれは、この刑罰による統治イデオロギーが向かう矯正と統制が帝国主義を生んだのではないかと云う事を検証しようとするものなのだ。
そのためにはまず江戸時代の刑罰へと遡る必要があると云う。なぜなら刑罰の形態による社会秩序の構築はすでに江戸時代に完成されていたものであり、これによって育った社会文化が欧米文化と融合した事が日本を他のアジア諸国と一線を画した歴史を生み出したからだと云う訳だ。
刑場であった鈴ヶ森は、江戸への入り口でもあった。海外からの使節団や西からやって来て江戸へ入場するにはこの場所の脇を抜ける必要があったのである。そしてこの刑場では、処刑され試し斬りに使われバラバラになった遺骸が放置されていると云うおぞましい場所でもあったのだ。
先日、僕は会社帰りにここへ行ってきた。本書を読み進む上でどうしても一目見ておきたくなったのだ。大森海岸駅から国道一号線を北上すると、道沿いにその遺跡跡はあった。僕が着いた時間は最早夜で、国道脇ながらその場所は真っ暗で、近づくのも恐ろしい雰囲気のところでありました。そこには磔や火炙りをするための基礎石が残されており当時の情景を思い浮かべるに充分な迫力でありました。この場所では220年間で10万から20万人の人が処刑されたのだそうだ。合掌。
また日本橋の袂には晒し場があり、首や罪人たちがおかれ、江戸城下の町では約週に一回のペースで罪人の引廻し行列が通ったという。
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こうした行為は、幕府が被支配者たちに対し、お上に逆らうとどうなるか、犯罪を犯せばどんな目にあうのかを知らしめる機会として巧妙且つ確信的に利用されていた。更にこの法執行にあたっては、穢多と呼ばれる被差別民たちが深く関与していたというのである。社会秩序の維持にはこの穢多の人々の役割が不可欠であったのだそうだ。この重層的な社会構造も幕府の意図が深く織り込まれたものである事は言うまでもない。幕府はこうした階層構造に属する人々を統制し秩序を作り出す事にすでに長けていたという訳だ。
見たことも聞いたこともなかった江戸の姿がここにはある。
そして日本は欧米文化と迎合して倒幕、そして帝国主義的国家の成立へと向かっていく。なんと壮大にして緻密。この本によって僕の新たな読書フィールドが開かれた感じがしました。
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2010/01/04:年末年始は正直嫌いだ。年が改まり、気持ちを新たにすると云うのは大切な事だと思うけれど、「おめでたい」とはあまり思えず、なのに世間は皆おめでとうの連発で、かなりへそ曲がり僕はテレビで芸人さんなんかが、「めでたい!」、「めでたい」と連発すればする程、醒めていってしまうのが常なのだ。カミさんの仕事が、特に年末年始忙しいと云う事もあって、僕は帰省もせず、ここ浦安でのんびり、じっくり面白い本を読んで過ごす事にしたと云う訳です。そして選んだ一冊は、カミさんも一押しの「弧宿の人」でした。
いやいや、参りました。降参です。なんと広く、深い物語、人物造形。眼を瞠る展開。ページを繰る喜び。正に本読みの愉しみがここにある。そして最後は涙、涙。この上なく幸せな時間を過ごす事ができました。この本にまだ接していない方は、是非何も情報を入れず、徐に本を開かれたし。ネタバレはしてませんが、この先も読んじゃダメね。
で既読の皆様向けに。
カミさんは、ほうちゃんに完全になりきって読んでいたそうでありますが、おやじの僕は渡部一馬か井上啓一郎あたりの目線でただオロオロと物語の展開を傍観している感じでありましたよ。皆様は如何でしたでしょうか。
物語は、漁師、紅貝染めの塔屋筋のおんな、引手などといった複数の立場の市井の人々がしっかりと描き込まれており、物語の奥行きを与えていると同時に、丸海藩の都市としての生き生きとした姿を僕たちに見せてくれましたね。この市井の人々は、宮部みゆきの他の物語以上に欠かせない存在として描き込まれており、物語もまた彼らの心情によって大きく動いていく訳ですが、この人々の向こう側には、人混みと混乱に乗じて、悪をなそうと謀る者どもの存在がある。この構図はまことに見事なものでしたね。
藩としての存続を憂う匙家の舷洲や砥部、荒れ寺の英心和尚、その反対側では悪事をなす者どもは、深く事情を知らない市井の人々が、漏れ聞こえる僅かな情報や噂を自分たちの信条に照らし信じやすい話しを信じ、一度動き出せば誰もそれを簡単に止める事はできないものだと云う前提で謀る。そして更に加賀殿思慮深さ。僕はただこうした謀の読みの深さにただ単に仰天しました。
きっと宮部みゆきは大勢の人々の思いや動きを鳥瞰する目線を持っているのだろう。こうした事は何も時代劇に限った事では全くなく、今も現実に政治の世界でも、社会でも、そして会社でも同じような事が行われている事であるのだと云う事に強く心を奪われた訳です。今も我々は、断片的な情報に基づき、信じやすいものを受け入れて迷いもなく流されてしまいがちだ。安直な噂や虚言に迷わされたりしているのを見て、流した人も、それを盲信している人にも同じような憤りを感じたりする事もあるが、ふと気がつくと自分だってうっかり根拠もない話を鵜呑みにしている事があるのである。
舷州は、後半こんな事を言っていた。「どんなに固く伏せられている事どもでも、誰かそれを見ている者がいる。何処かには、知っている者がいる。正しく道をたどって探り出すならば、それをつかむことができるのだ」と。政治でも経済でも大きく揺れるこの今の時こそ、人々の流言に心迷わせず正しい道を辿り行く事こそ大切な事なのだと、僕は読みました。
今年もよろしくお願い申し上げます。
「黒武御神火御殿」のレビューは
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