- 「ソバとシジミチョウ」宮下 直
- 「唾棄すべき男」マイ・シューヴァル, ペール・ヴァールー
- 「リベラリズムへの不満」フランシス・フクヤマ
- 「サボイ・ホテルの殺人」マイ・シューヴァル, ペール・ヴァールー
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2024/04/29:マルティン・ベックシリーズ第7作。本編は1976年スウェーデンで映画化されている。幸運にもテレビで放送されたのを観る機会があった。原作に忠実な内容でかなり秀逸な仕上がりであったと記憶している。
映画を観ていたこともあり、比較的記憶に残っている作品でしたが改めて読んでみるとその深さと重さは当時の僕の理解・リテラシーを超えていた。50年経っても全く色褪せていない本シリーズのレベルの高さを改めて実感しました。
1971年4月3日、深夜日付がかわるや男は決然と行動を開始した、細長い銃剣を取り出して整備し収めたホルスターを腰につけて部屋を出る。
向った先はマウント・サバス病院の入院病棟であった。
病室ではモルヒネが切れて痛みを耐えながら眠れぬ夜をすごしている男がいた。忍び寄る気配に誰何するも一瞬の内に喉を切り裂かれて絶命する。
病室の異変に気付いた看護婦の通報で事件の知らせが届いたのは凶行の直後のことだった。
第一報を受け現場に急行するのはすでに17時間も働きづめのエイナール・ルン。またレストランで娘と二人で食事をして帰宅したマルティン・ベックにも至急現場へ向かうようにと連絡が入るのだった。
病室で殺された男はスティーグ・ニーマン主任警部。彼は原因不明の胃の不調により休職して入院中だった。
ほとんど首は切り落とされ、腹部も大きく切り裂かれ、体中の血液が流れ出ており病室は凄惨な状況であった。
捜査陣に加わったコルベリが意外な事を言い始める。ニーマンは警察組織の面汚しだったというのである。
個人的に接点がなかったベックにとっては寝耳に水の話だったがコルベリは兵役についた際の教官がニーマンで、その後警察に入った際にも何度が同じ部署になった経験があったのだった。
コルベリ曰く、不当逮捕、不当暴力を繰り返し、部下たちを支配して偽証させることで罪を逃れているのだという。数々の所業によりニーマンは警察組織の内外に恨みを買っていたのだった。
ただでさえ精力と求心力が生まれる警察官殺しの事件はここにきてあたらな要素が加わった。
ニーマン率いる一派、警察組織に対する殺意を孕んだ恨み。捜査陣が覚えたのは犯人による犯行の繰り返しであった。
ニーマンに対する恨みを持つものという線で捜査を進めていくがでてくるのは夥しい訴え。やがて捜査線上に浮かび上がる一人の男。
そして捜査陣の不安は予想を超える形で現実のものとなっていく。
ストックホルムの中心街は大きな変化を遂げていた。従来の建物は9割がた姿を消し、高速道路が整備され街の景観の一部となっていた古いアパートは近代化されたオフィスビルへと置き換えられていった。
また警察組織もこの間大きく様変わりしていた、各地域の警察が国家警察に統合され、これまでに進んできた軍隊的発想の後退、民主的な気風の盛り上がりは頓挫してしまったのだ。
広がる格差、分断が進む価値観、互恵的互助的なコミュニティの後退が進むストックホルムの街の下で疎外され居場所を失う人々は透明化し他人の目に触れにくいところにいる。
そんな世相を鋭く切り抜きつつその上に事件や物語を重ねていく彼らの筆致は本当にすばらしい。
正に後世に読み継ぐべき作品群であると思いました。
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2024/04/21:薄いし字も比較的大き目でさらっと読めそうだと、中身も知らないまま読み始めてしまいましたが、そこはさすがのフランシス・フクヤマ、内容は濃密でどっしり論旨が詰まっていてかなり難易度の高い本でありました。
そもそもタイトル、リベラリズムへの不満?フクヤマが思う不満なのかと思ったりもしましたが、そうではなくてリベラリズムに寄せられている不満に関する話でありました。
目次
第1章 古典的リベラリズムとは何か
第2章 リベラリズムからネオリベラリズムへ
第3章 利己的な個人
第4章 主権者としての自己
第5章 リベラリズムが自らに牙をむく
第6章 合理性批判
第7章 テクノロジー、プライバシー、言論の自由
第8章 代替案はあるのか?
第9章 国民意識
第10章 自由主義社会の原則
フランシス・フクヤマが信条とするリベラリズムとは、17世紀後半にはじめて登場した思想で、法律や究極的には憲法によって政府の権力を制限し、政府の管理下にある個人の権利を守る制度を作ることを主張するもので、いわば中道右派的なスタンスであり、右派のポビュリズム、左派のアイデンティティ、そしてジョン・ロールに代表される現代アメリカのリベラリズムとも異なるものになっているのだという。
この古典的リベラリズムは、多様な政治的見解を包含する大きな傘のようなものでありつつも、平等な個人の権利、法、自由が基本的に重要であると考えるというのがポイントであるのだという。
これがなかなかな難しい。
リベラリズムは、行政府の権力を制限する公的なルールによる制度のことであって、民主主義とはまた別のものであるのだ。つまり選挙で勝った人物が好き勝手に法律や制度を作ったり変えられない、管理下にある個人の自由や権利を侵せない公的なルール、制度を指すのだという。リベラルな制度は行政権を制限することで民主主義プロセスを守るものなのだ。
アメリカの議会制民主主義に対する脅威はトランプが大統領になったことではなく、再選で敗北した際に選挙結果を受け入れずに大統領の座に留まろうとした時だったという。
また古典的リベラリズムは、多元的な社会における多様性を平和的に管理する。リベラリズムが掲げる最も基本的な原則は「寛容」だ。最も重要な事柄について同胞と合意する必要はなく、各個人が他者や国家に干渉されずに何が重要か決められることが大事なのだという。
掘り下げるのはなかなか大変だがこうした信条がフクシマの理想とするものであり、社会の制度としてこの古典的リベラリズムを基礎として作られるべきだとするものだ。
リベラルな社会を正当化するものとして
①実践的な合理性
②道義性
③財産権と取引の自由を守る
があげられる
そして過去、リベラルな社会による思想の自由な市場が、最終的には良い思想が悪い思想を駆逐してきたという点にある。
とても重要な点として我々の社会が、リベラルな社会が経験的に正しい選択をしてきたこと。
だからこそ、このリベラルこそがの政治的信条、右派のポビュリズムや左派のアイデンティティ政治、権威的独裁政治などよりも優れているのだという訳だ。
なるほど僕個人としてこの考えに異論も違和感もないと思うのだが、やはり難しい。わかったような気もするのだけれども、時間がたつとなんだかわからなくなってしまうような考え方だ。
しかし、権威主義的な政権が司法を私物化していくとか、特定の宗教や人種に主眼をおき、異なる人々を弾圧排除するような事が起こらないようにするためにも、この古典的リベラリズムを軸足に社会制度を作り守っていくことが重要なことは理解できる。
しかし今、この古典的リベラリズムは右派からも左派からも不満をぶつけられ攻撃され切り崩されようとしている。そしてその攻撃に負けるということは中国やロシアのような権威主義的な社会であったり、インドのような特定の宗教に主眼をおいた国や社会になってしまう可能性がある。こうした国や社会は個人の自由や権利が奪われ、長期的な視点では正しい選択ができずに誤った選択により失敗する可能性が高まるということだ。
古典的リベラリズムに対し、どこからどのような不満をぶつけられ揺らいでいるのか。
自民党政権が国民のためなどとは1mmも思わず利権、私利私欲のために政策し、国費を使っていてるらしいこと、似たようなことは諸外国でも進んでいて、なかでもトランプを大統領候補として担ぎ出してくる共和党の破廉恥さといったものは一体どうしたことなのかと思う。
一方で根強い自民党やアメリカの共和党支持者たちも、不支持、反対勢力の人々に対して不信感や違和感、怒りや憎しみのような感情を抱いているに違いない。
支持不支持の人々の心情を察するに、半島大陸の人々に対する差別意識であったり、敬虔なキリスト教信者とそれ以外、ジェンダーに賛成不賛成等等といった特定の思想や宗教に軸足を置いた人たちが自分たちの考えに反する人たちと対立し、自分たちと意見を共通する政府・政権による政策運営を期待しているところにあると思われる。
人事権を傘に司法・立法を牛耳り、停波することもあり得るとメディアを脅し、差別主義者を擁護するどころか議員に祭り上げ、カルト宗教団体の応援により票を集める自民党がリベラルな社会を毀損していることは間違いないと思いませんか?
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2024/04/07:マルティン・ベックシリーズ第6作目。最初から分かっていたことだけど柳沢由実子さんの訳本は5作目でとまってしまった。そこで本作以降は昔の高見浩さんの本で進めていこうと思う。
スウェーデンに精通して原著から直接翻訳してくれた柳沢さんの本はとても読みやすくてよかったんだけど、
高見さんの本は新作ででたときに読み、その後何回か読み返していたとても懐かしいものだ。
一方でシリーズ全体のなかでこの「サボイ・ホテルの殺人」と「密室」はなんというか地味というか印象の薄い先品だったと記憶していました。
しかし、読んでびっくりこれがまた面白い。若いというかまだ中学、高校ぐらいだった自分のリテラシーに問題があったということですね。多少なりとも成長している自分がいることが解ったという点でもよい機会でありました。
1969年7月。蒸し暑く泳いだ後のようなけだるさに包まれたマルメの街にあるサボイ・ホテルの食堂では料理や酒が所せましと並んだテーブルを囲んで小規模な晩餐会が開かれていた。
一人の男性が立ち上がり挨拶をはじめた。しかし背後から近寄ってきた男に拳銃で後頭部を撃たれてしまう。撃った男は食堂のバルコニーの柵を飛び越えていくのだった。
同席していた面々もホテルのスタッフも一瞬の出来事に事態が把握できない。
現場に駆け付けたのはマルメ警察警部のペール・モーンソンであった。彼はストックホルムのバスで起きた銃乱射事件の際にマルティン・ベックの捜査の支援にあたった人物だ。
一緒に行動している部下はベニー・スカッケ。彼はストックホルム警察にいたがコルベリに大けがをさせてしまったことからマルメに異動を希望したのだった。
撃たれた人物はヴィクトール・パルムグレンという男で財界の大物と呼ばれた人物。複数の国にいくつもの企業を所有し様々な物を輸出入する仕事をしていたが、なかには武器取引に関与しているらしいとの噂があった。救急搬送された病院でまだ生きていた。
テーブルを囲んでいたのは彼の夫人と彼の会社のメンバーだった。しかし隣に座っていた夫人も含め犯人の容姿は曖昧でこれといった物証もなかった。
モーンソンは僅かな目撃情報を基に逃走した犯人の足取りを追う。すると深夜ストックホルムに到着した飛行機に特徴の似た人物がいることを掴む。ストックホルム警察に男の身柄を拘束するよう要請するのだが、指令を受けたパトロール警官の怠慢によりこれを取り逃がしてしまうのだった。パトロールカーに乗っていたのは他でもないクリスチャンソンとクヴァントであった。
犯人拘束の機会を逸した捜査は初動から暗礁に乗り上げてしまった。この事件の捜査の応援に駆り出されていくのがマルティン・ベックなのだった。
ベックは最近、部屋を借りて一人暮らしを始めていた。最初は反対していた妻も今では可愛がっている息子と二人暮らしを楽しんでいるらしかった。ベックも以前に比べて体調が良くなっていることを自覚していた。
ベックの上司マルムには政府の高官から早期の事件解決を求める強いプレッシャーがかかっていた。殺人事件捜査に関しては全くの素人であるマルムはプレッシャーをそのままベックに伝えることしかできない。一方のベックだが、慌てたり焦ったりする様子もなく、定石と思われる方法と手段で捜査を進めていく。
彼らの前に現れてくるのは巨額の遺産を手にすることとなる夫人を始め、パルムグレンを殺す動機を持っていてもおかしくない連中であった。
一方でマルムからは政府筋の情報として国際犯罪組織絡みの殺人である可能性が示唆され、マルメにはスウェーデンや他国の情報機関の人物と目される人々が集まり始めていく。
しかし事件は予想外の展開を遂げていく。
ミステリー小説としても見事な仕上がりとなっている。人間臭いベックをはじめとする登場人物たちの生活も丹念に描かれた一級の警察小説でもある訳だが、何より見事なのは、古臭い貴族意識が消せないグンヴァルド・ラーソンの妹のような人々、新たに富を手にした利己的な富裕層、隅に追いやられていくばかりの貧困層の人々などが交錯するスウェーデンの社会を切り取るその目線の鋭さだ。
先日読んだロバート・D・パットナムの「上昇」であぶりだされた1960年代に急速に進んだ、個人主義、利己的で協調性が低くい価値観の拡大はアメリカだけではなく、スウェーデンでも日本でもほぼ同時に進行していたのである。それをいち早く感知していたマイ・シューヴァル, ペール・ヴァールーの洞察の深さにはただただ驚くばかりでありました。
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