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  2008年度第1クール。年度はじめのどさくさで更新がままならず、やきもきした状態でおりましたが、ゴールデン・ウィークに入って漸く作業ができました。今年は一体どんな年になりますでしょうか。いやいや、先が思いやられるわ。

タンゴステップ
(Danslararens aterkomst,
The Return of the Dancing Master )」
ヘニング・マンケル(Henning Mankell)



2008/06/29:1945年12月12日、ロンドンを飛び立った飛行機が乗せた一人だけの寡黙な乗客はドイツの戦犯を絞首刑に処する為に派遣された刑の専門家であった。

彼は詳細なデーターを集めて周到な準備を整え機械のような正確さで刑の執行を行う事で特に優秀とされる男だった。男は翌日ドイツのビュッケブルグで12名の男女の刑を執行した。

彼は処刑後、ドイツの収容所を管理しているイギリス軍の者達から、処刑された者達はそうされて当然の極悪非道な者たちであった事、しかしまだ逃げおおせている者達がいると云う話を聞かされるのだった。

1999年10月19日スウェーデン、ヘリェダーレンの人里離れた山奥に一人ひっそりと暮らす老人。彼はヘルベルト・モリーン云う76歳になる男だ。

彼はボロース署で刑事を務めていたが定年退職し、ここヘリェダーレンに隠遁生活している。

彼には秘密があった。54年前に起こしたある事から、人目を避け影に怯え、眠れない夜を54年間過ごしてきた。そして今夜も眠れない長い夜を過ごしていた。

唯一の相棒ともいえる犬のシャカが吠えている。何かに警戒する吠え方である。

彼は猟銃を手にして立ち上がると、窓から家の中に催涙弾が打ち込まれてきた。なすすべもなく取り押さえられたヘルベルト・モリーン。

彼は必死で相手の顔を見ようとするが、がっちり抑えられてしまって相手の顔が見えない。ヘルベルト・モリーンは顔の見えない相手によって鞭打ちによる長く激しい死を向かえる。

ステファン・リンドマンはボロース署の刑事だった。彼はある日舌に妙なしこりが出来ている事に気付き医者に相談をしたところ、舌癌である事がわかった。

病院の待合室でふと手にした新聞には、ヘルベルト・モリーンの殺害事件のニュースが載っていた。骨が露出する程激しく鞭打たれた事による死。虐殺といってよいような殺され方であった。ヘルベルト・モリーンはステファンが研修生としてやってきた時にいろいろな事を教えてくれた先輩刑事であった。

放射線治療を開始するまで好きにすごすといいと医者に勧められる。

突然目の前に立ちはだかってきた死の影に対する怒りと恐れに圧倒されるステファン。治療開始まで鬱々とその事にばかり思い悩まされるのは辛い。

リゾート施設のある島にでも旅行に行くかヘリェダーレンへ行くか。

悩んだ末にステファンは、ヘリェダーレンへ向かう事にした。



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ヘルベルト・モリーンは現職中も人付き合いが全くなく、個人的な事は何も知らない相手ではあったが、ステファンの記憶の中のヘルベルト・モリーンは仕事中にも何かに怯えているような感じがしていた。

一体彼は何に怯えていたのだろう。そして何者が彼をそれほどまでに過酷な殺し方をしたのだろうか。


本書は、現代のスウェーデンを舞台にした警察小説でありながらクルト・ヴェランダーは登場しない物語だ。しかし、登場人物の一部はヴェランダーシリーズと地続きとなっており共通の世界観のもとに展開している。

物語は舌癌を申告され、治療前の休職中の刑事ステファンが、元同僚・先輩刑事であったヘルベルト・モリーン殺害の事件現場であるヘリェダーレンへ向かい、現地の警察と協力しながら捜査を進めていく形で展開していく。

ヘルベルト・モリーンはスウェーデン警察の刑事を引退する身であったが、実は戦後名前も名字も書き換えており、その前身はスウェーデン国民でありながら、ナチスドイツのスウェーデン入城を強く望み自らドイツ軍に志願して戦った男であった。彼はその戦時中のなんらかの出来事から名前を変え、身を隠したらしい事などが序々にわかってくる。

やがて、ヘルベルト・モリーンがナチスドイツの信条を今なお確信を持って胸に抱き、その信条に基づき行動を起こしている人達と彼らが水面下でネットワークを張り連携を取り合って活動をしているらしい事等が浮き上がってくる。

更にそこに第二の殺人が発生し、事態は混迷の度合いを増しはじめていく。

舞台設定、事件展開、舌癌との戦いをひかえて恐れを必死にこらえつつも捜査、事件の深みに巻き込まれていくステファン。

どれはとってもこれはとっても良い出来です。後々何度も繰り返し読むに耐えうる本にはなかなか出会えませんが、この「タンゴステップ」は間違いなくその一冊に加えられるべき本でした。


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グラスホッパー」 伊坂 幸太郎

2008/06/15:藤沢金剛町の地下鉄駅の出口近くに止められた車に薬で意識を失った男女二人を押し込んでいる男女二人組。男の方は名前を鈴木と云い場違いで不慣れな行為に戸惑いを隠せないでいた。女の方は慣れた手際と罪悪感の欠片もない。彼らはフロイラインと云う「会社」に所属しているらしい。

フロイラインは違法薬物から臓器の売買など相当にいかがわしい闇商売を専門とする組織だった。女はその組織でも古株で、位も高いらしい。そして鈴木は試用期間中の新米なのだった。

鈴木は2年前に妻を交通事故で亡くしている。彼女を轢いた車に乗っていたのが闇社会でも悪評が高いフロイラインの社長の息子であったらしい。

明確な計画は持ち合わせていないものの、この会社に入ったのは社長の息子に密かに近づく為だったのは事実だ。

しかし、一緒にいる女は、会社は既に鈴木が何か目的をもって接触してきたものと疑っているのだと云う。

そんな事はないと否定する鈴木だが、女はその証明の為に後部座席に押し込んだ二人を殺してみろと迫ってくる。

狙った人物を自殺に追い込むことで殺す事を専門とする自殺屋の鯨、彼は最近殺した人たちが亡霊となってつきまとってくる事に悩まされはじめている。無慈悲な通り魔的な虐殺を装ってターゲットを殺す蝉。蝉は女子供をも含めて殺す事に何の罪悪感も持っていない。

そして、闇社会でも伝説なのか実在なのかが掴みきれずにいる押し屋。

鈴木の無計画な行動が闇社会に蠢く凶暴な奴らを引き寄せはじめるのだ。

また本書は伊坂ワールドを読み解く上で重要なポイントがある。鯨が根城としている公園で彼の前に現れたホームレスの男は田中と云い足の悪い男であった。

これは、「オーデュポンの祈り」で荻島にいた男と重なるキャラクターなのだが、続いて彼は最近読んだ本に「しゃべる案山子」の事が書かれていたと言う。

他の作品にも同じ名前同じような容姿をした人物が複数登場しているが、彼らが伊坂ワールドのなかで果たして同一人物なのか、フェィクなのか、それとも何か別の狙いがあるのかはまだ不明だが「オーデュポンの祈り」と「グラスホッパー」は地続きではない別の世界だと云う事らしい。

これはなかなか面白かった。自殺させた過去の被害者が霊となって現れ自殺屋の鯨と会話をするアイディアはとっても良い。

とってもシュール。鈴木の人の良さとあまりの無計画さに呆れてしまうが、これはご愛敬で飲み込める範囲だ。
「オーデュポンの祈り」の時のように読者として路頭に迷うような事はありませんでした。次々登場してくる闇社会の人物はどれも個性的で一癖も二癖もあり物語の展開に対するエモーションを強く支えている。伊坂ワールド初体験の方でも外れなしの一冊だと思います。


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オーデュボンの祈り」 伊坂 幸太郎

2008/06/15:見知らぬ部屋で目を覚ました男。彼は伊藤といい今年28歳になる。彼は5年務めた仙台市内にあるソフトウェア会社を、先日退職したばかりだ。

コンピューターのディスプレイを見つめ続けてきた事で、目がぼろぼろになった。と云うのが退職の理由だ。しかし、会社を辞めたホントの理由はどうやら別にあるらしい。

最初、彼は自分がどこに居るのかわからなくなっている。覚えているのは城山と云う警察官から逃げ出した事。その警察官に殴られた事。

どうして彼は警察から逃げ出しているのか。どうして警察官である相手の名前を知っているのか。そしてどうして見知らぬ部屋で目を覚ましたのか。

部屋のドアをノックするものがいる。恐る恐る開けてみると、これまた見知らぬ男が立っていた。その男は日比野と名乗った。「轟のおっさんにたのまれた」と云う。これまた知らない名だ。

島を案内しろと。島?島だって?

日比野によればその場所は、宮城県の牡鹿半島の先にある「荻島」と云う小さな島だと云う。伊藤は城山の運転するパトカーから逃げ出した後に轟と云う男に助けられてこの島にやってきたらしいのだ。

伊藤はこの時の記憶が朧気で思い出せない。

日比野の話しは驚くべきものだった。

それは、この島の事を本土では知るものがおらず、完全に孤立した状態にありここ150年ほどの間外から人がやってきた事がない。そしてまた、島には優午(ゆうご)と云うしゃべる案山子がいると云うのだ。

案山子?しゃべる案山子?

最後の最後まで読んではじめてバラバラに思い思いの方向に進んでいる人たちの動きがストンとまとまる見事さはなかなか気持ちが良い。なるほどそう云う事でしたか。カミさんはとっても楽しんだと言っていた。

しかし、僕にはちょっと相性が良くなかったようだ。

これは僕が物語が投げかけてくる「謎」を掴み損ねているからなのだろう。出てくる人たちがバラバラでどこへ行こうとしているのか解らない。主人公である伊藤は自分自身の役割や目的を掴みきれずにいるのと同様、読み手の僕も途方に暮れがちだった。

150年隔離されていた萩島の存在も喋る案山子も、「何でっ?!」、「どうゆう事?!」と悩んで受け入れきれないと云う面では伊藤よりも後ろに置いて行かれていた状態と言えるだろう。主人公も物語の展開も一見目指すところがない為、ストーリーとして求心力がないと思うのだが如何だろうか。こうした受け入れがたい状況が気になってしまって話しの展開上では寧ろ阻害要因になってしまったと思う。

僕の頭が硬すぎなのか。

僕の後から読まれる方に一言。少なくとも島と案山子の存在自体に疑問を呈さず、一旦脇に置いて前に進むべし。


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ワイルドファイア (Wild Fire)」 ネルソン・デミル(Nelson DeMille)

2008/06/07:ニューヨーク。2002年10月11日金曜日。
連邦統合テロリスト対策特別機動隊も平穏でごく普通ではあるものの、月曜日もお休みの三連休を前にやや浮き足だった週末の夕方である。

元ニューヨーク市警察の刑事であるジョン・コーリーは同じく同胞・同僚のハリー・ミューラー同僚と談笑している。

ATTF(Anti-Terrorist Task Force)は警察とFBIの混成部隊なのだ。そしてどうやらCIAも紛れ込んでいるらしい。コーリーは月曜日出勤して仕事だと告げる。ところがハリーの方は突如週末に仕事を割り振られてしまったらしい。

その仕事はイラクとの開戦が避けられず、あとは何時なのかだと云う瀬戸際にいると云うこの時期にしては、何やら腑に落ちない内容のものだ。

二人は中東担当であり、主な仕事は「要注意人物」とされるアラブ人のコミュニティーを監視する事だった。それが今回はニューヨーク州北部にあるアデロンダック自然公園に隣接するクラブに侵入し、そこにいるらしい右翼勢力のメンバーの動向をさぐれと云うものだったからだ。

何で中東セクション担当の人間にそのような仕事が割り振られたかもさる事ながら、何でそんな事をATTFがするのだろうか。

しかも、それを月曜日の朝に上司であるトム・ウォルシュに報告する必要があると云う。

ATTF総責任者でありFBI主任捜査官であるトム・ウォルシュはハリーに上層部に対して仕事をしているフリをする為にも書類を積み上げる必要があるのだとかなんとか。

トム・ウォルシュは9.11事件の時にワールド・トレードセンタービルで死んだジャック・ケーニグの後任である。

どうもなんだか不自然な理由を並べているように感じる。しかも連休中の月曜の朝に報告しろと云うのもへんな話だ。

コーリーはその話に胡散臭さを感じて調べてみるが個人の所有らしい当該のクラブは「カスターヒル・クラブ」と云う名前だけで、何も詳しい事が解らない。

監視用の機材を抱え込んで出かけていくハリーを見送り、コーリーは妻にして自分の上司、FBI捜査官で弁護士でもあるケイト・メイフィールドと二人で週末の小旅行に出かけていく。行き先はコーリーの故郷ノースフォークである。

こちらも突如ケイトが言い出した旅行であり、なんでノースフォークでワインティスティングで宿泊はB&Bなのか。
コーリーにとってワインはどれも同じ味だし、B&B(Bed(宿泊)とBreakfast)(朝食)を提供する宿)に泊まるなんて。

ハリーは命令に従い、一路アディロンダック自然公園へキャンピングカーで出かけていく。アディロンダック自然公園は、東京都の四倍とか、四国がすっぽり入る程の広大な場所。


アディロンダック自然公園 Adirondack Park



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Adirondack Regional Airport


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この大半が国有地で公園として保護されている。このなかに個人所有を認めた場所が若干あり、目標の「カスター・クラブ」は広大な公園のなかに囲まれ極めて孤立した状態にあり、プライバシーがやや過剰なほど保護された場所だ。

高いフェンスに囲まれ、点々と監視カメラが設置されている念の入った警備。またこんな人里離れた場所なのにもかかわらず、携帯電話の電波が都会の真ん中なみに良好な状態にあった。

ちぐはぐで場違いな取り合わせがとっても怪しい感じの敷地だ。ハリーはそのフェンスを破って慎重に敷地内に足を踏み入れていく。そこには目的不明な大きな建造物。そして軍隊並の武装をした警備員達の存在があった。

このクラブの正体に何か不気味なものを感じると共に、一体この任務の目的はどこにあるのかと訝り、慎重に調査を進めながら母屋に接近していくハリーだったが、やがて武装した警備員達に身柄を拘束されてしまう。

ハリーはクラブのオーナーだと云う石油会社のオーナーであるペイン・マドックスの前に引き出されるが、驚いた事に彼の傍らには、国家安全保障問題担当大統領顧問や軍の統合参謀本部のメンバーである大将、国防副長官そしてCIAの男がいた。彼らはクラブのメンバーだと云うのだ。

ペインはクラブの由来や右翼的な信条を説明し出すが、やがて彼らが現在進行中だと云う恐るべき計画を語り出すのだった。

物語の前半は、このペインが持っている計画をべらべらとハリーに語って聞かせる事に費やされる。

聞いてはならない話を延々と聞かされるハリーの命は最早風前の灯火。

何も知らないコーリーはノースフォークへの旅で減らず口をたたきまくっている。

冒頭と言っても良いような最初の段階でヒールと目される人物にその計画のすべてを語らせると云う設定がなんとも意表を突いている。

しかも計画に参加しているメンバーは所謂国家の中枢にいる人物たちでもあるのだ。そして、彼らが計画を実行することを望んでいるかのような政府機関の存在。

背後には何やら9.11の事件の際に死んだハズのテッド・ナッシュの影がちらついてもくるのだった。

一体このあと物語はどんな展開をみせるのだろうか。

浜辺でケイトといちゃついたりしているコーリーは果たしてこのハルマゲドンに向かう道を阻止する事ができるのだろうか。

ネルソン・デミルは、「プラム・アイランド」で初登場したジョン・コーリーの物語が今回で4作目になる。果たして「ナイト・フォール」で仄めかされた謎が少しでも明らかになる事があるのか。

前作、「ナイト・フォール」の続編という想いが強いまま読み進んでしまったのだが、裏の裏をかくネルソン・デミルの事、TWA800便の墜落や9.11等の史実と陰謀論説を巧みに匂わせながらも絶妙な距離感で読者を翻弄していく。

後半に入っても修まる事のないコーリーの減らず口の数々には一人電車で吹き出してしまったよ。全く。

ネタバレになるのでこれ以上は書けませんが、一言だけ、読む前以上に悶々となる結末が....。

次回作は、「ゴールド・コースト」の続編だそうだ。

どこまでも読者を翻弄する人だ。

ところでネルソン・デミルは、本書で描かれている「ワイルドファイア」のような作戦計画があるかもしれないし、あった方が良いと思うと断言していた。

9.11を契機にアメリカの安全保障は新しい局面を迎えてしまったという事は事実だと思うが、個人的な信条を言わせてもらえば、国と国の間での関係で語れない中東のテロ組織に対して核兵器が抑止力となると考える事には正直違和感を感じる。

また、テロリズムが許されるものではないと思うと同時に、アメリカが国益、国内の経済を安定化させる為に他国の石油の安定供給を実行させる為に武力を使う事や、テロ集団を排除する為に使用しているスマート爆弾もクラスター爆弾もスマートなクラスター爆弾も起動すれば無差別に人を殺す。

そして更に狙いは外れる、不発弾も出る訳で、これに一般人が巻き添えになる場合、自動車爆弾によるテロとなんら変わらない。つまりどちらも死ぬかそれ以上に酷い目に遭う事になる。故に全く同じく許されるものではないと僕は思う。

人類はいつか集団同士での暴力を排除し武器を捨てることができる日がくると思うし。人類はそれを可能とする知恵と勇気を持っている事と信じたいし願うばかりだ。

「ナイトフォール」のレビューはこちら>>


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目くらましの道(Villospar, Sidetracked)」
ヘニング・マンケル(Henning Mankell)

2008/05/25:前作「笑う男」で冷水をぶっかぶってしまった感じがぬぐえない僕でしたが、しぶとく、この「目くらましの道」に挑戦する事にした。

それはなんと云っても本書は巷の評価が高い。

第1位「第1回PLAYBOYミステリー大賞」海外部門(『PLAYBOY日本版』2008年1月号)
第6位『ミステリが読みたい!2008年版』/海外部門
第6位CSミステリチャンネル「闘うベストテン2007」/海外部門
第9位『このミステリーがすごい!2008年版』/海外編

のだ。

また、2001年度のCWA(英国推理作家協会)のゴールドダガー賞を受賞しているのだ。ゴールドダガーはMWA(アメリカ探偵作家クラブ)の最優秀長編賞に相当する賞だ。(現在はダンカン・ローリー・ダガー(THE DUNCAN LAWRIE DAGGER)に改名されている)個人的にはどちらかと言えば読んでまず外れなしなと感じるのはMWAの方なのだが、CWAだって受賞となれば大変なものである事は間違いない。

1981年の「ゴーリキー・パーク(GORKY PARK)」マーティン・クルーズ・スミス(Martin Cruz Smith)や、1977年の「スクールボーイ閣下(THE HONOURABLE SCHOOLBOY)」ジョン・ル・カレ(John le Carre)なんかはとっても面白かったな〜。

権威に弱い私としては、迷うより手を出してしまおうと云う事で読ませていただく事にした。

冒頭、1978年ドミニカ。32歳になるペドロ・サンタナの妻ドロレスは娘を出産後亡くなってしまう。愛してやまない美しい妻を亡くしたペドロは僅かな財産を持って遠く離れた都市に出向き、大きな教会で娘に洗礼をうけさせ、ドロレス・マリア・サンタナと名付けられた。

1994年6月21日、引退して一人静かに暮らす元法務大臣のグスタフ・ヴェッテルステッドは、海岸を散歩中に何者かに襲われる。

相手は顔に塗り物を施した異様な出で立ちの男であった。人の気配に振り向いた時には既に斧が振り下ろされるところであり、ヴェッテルステッドは背骨を一刀両断され、地面に倒れる前に命を落とした。

夏休みを前にどことなく心ここにない様子のイースタ署の面々。

ビュルク署長はマルメの出入国管理局のトップへ栄転が決まった。半年前に空港で大立ち回りを演じたヴェランダーは、ビュルク署長への祝辞に四苦八苦。また夏休みをバイパと共にスケーエンへ出かける約束を取り付ける事に成功している。

自宅の菜の花畑に人が入り込んだと云う通報が入り、他に回せる人がいなかった事からヴェランダーが現場へ向かう事になる。

通報通り、確かに菜の花畑の真ん中に立ちすくんでいるものがいる。何をしているのか。女性らしい。遠くから声をかけながら近づくヴェランダーに気付いた女性はやおらガソリンをかぶるとライターで火を付け焼身自殺を遂げてしまう。

彼女が一体誰で、どこからやってきたのか。何故あんな事をしなければならなかったのか。現場から見つかった、金のマリア像がついた小さなペンダントにはDMSの文字が彫り込まれていた。


あまりの出来事に呆然とするヴェランダー。そこへヴェッテルステッドの殺害事件の一報。引退してかなり経つ人物とは云え元政府要人に対する殺人事件である。しかも彼の死体は頭皮を剥がされていたのだった。イースタ署は俄に緊張感が高まる。

数日後、再び同一人物による犯行と思われる殺人事件が発生。連続殺人事件の様相を表しはじめる。

殺されたのはかなりの成功を収めた画商の老人。アルネ・カールマン。この二人に共通する線が見つからず捜査は難航していく。

果たして、この犯人の目的は何か。焼身自殺した女性は誰で。一体何が起きたのか。加えて、ヴェランダーはちゃんと夏休みが取れて、パイパと旅行にいけるのか等々。本書は様々な謎を引きずりながら、物語がなかなかスリリングな展開をみせてくれる。

やや無理の目立つ大立ち回りや、身の丈にあわない巨悪と戦うヴェランダーよりもずっとシリアスで説得力のある設定も大変良いと思いました。

ペドロ・サンタナの姿も感動的でしたし、いよいよアルツハイマーである事はっきりしたヴェランダーの父が一緒にイタリアへ旅行したいと言われたり、リンダとの関係も落ち着きをみせてきているところも本書の読みどころとなっています。


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笑う男(Mannen som log, The Man who Smiled)」
ヘニング・マンケル(Henning Mankell)

2008/05/25:クルト・ヴェランダーシリーズ第4作。前作「白い雌ライオン」の事件を追う過程で犯人を殺してしまい、それによって深い心の傷を負ったヴェランダーは休職。

娘のリンダや、旅先で知り合った老薬剤師の助けでどうにか踏みとどまったものの酒に溺れアルコール中毒の一歩手前まで行ってしまう。

贖罪と同時に自分自身を守る為にも現実から逃避して向かった先は、デンマークの人気の少ないユトランド半島のスケーエンの海岸だった。

休職も1年半に及びヴェランダーは辞職を決意した3度目のスケーエンの海岸の旅先。唯一毎日の日課としている海岸の散歩をしているころへ一人の男が訪れる。


Danmark Jylland Skagen


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彼の旅行先を知っているものはごく限れており、訪問者など予想外の事だったが、その相手も目的は更に予想外のものだった。

やってきたのはステン・トーステンソンと云うイースタの弁護士。ヴェランダーとほぼ同年配仕事上の付き合いは長いものの友人と呼べるほど近い間柄とは言えない相手だ。

ステン・トーステンソンは一緒に弁護士事務所で仕事をしていた父、グスタフ・トーステンソンが10日くらい前に亡くなった事を告げる。彼の父は一人夜の峠道を運転していたところ、自動車が転覆しなかで死亡しているのを発見される。

警察は自損事故として処理。しかし極度に慎重な運転をしている父の車が横転するとは、ステンはどうしても信じられない、父は殺された可能性があると云うのだ。彼はヴェランダーに事件の捜査をして欲しいと懇願しにきたのだ。

ヴェランダーはステンの気持ちはわかるとしながらも、自分自身の警察人生が既に終わっており手伝ってあげる事は出来ないと断るのだった。そしてその一週間後の1993年11月1日、ヴェランダーは辞職を正式なものにする為にイースタ署に出向いた。

そこで彼を待っていたのは、スタン・トーステンソン殺害事件の報告であった。

ヴェランダーがスケーエンで逢った2日後、事務所で何者かによって銃撃されて死んでいるのが発見されたと云うのだ。

この瞬間ヴェランダーはこの事件を追うために辞職を翻意するのだった。

ここからは、まっさらな状態で本書に取りかかろうと云う方は以下の内容は読まない方がいいと思います。

予めお断りしておきます。



サスペンスを盛り上げる為には、守るべきポイントがある。それは読者の心理から生まれる必然的なもので、これを破ってしまうと読者の気持ちは離れてしまうものだ。どう見も本書はこの大切なポイントを踏み外していると僕は思う。

物語の導入部分は上記のような形でヴェランダーは事件を追い始めていく訳だが、冒頭、グスタフ・トーステンソンが死ぬ場面が描かれている。それは殺人であって事故ではない事、そしてその犯人もほぼ読者には明らかにされている。

犯人が明らかな状態でストーリーが展開する場合、追う側と追われる側の2軸で物語を進めないとサスペンスが高まらない。

結末がほぼ見えた状態で捜査が進んでいく経過を辿るだけではダメなのだ。よくある展開では、追いつ追われつでストーリーや登場人物が錯綜したり、読者を裏切るどんでん返しの仕掛けが用意されているものは、最初に犯人を明かしておくことでサスペンスを盛り上げる手法を使っている訳だ。

前作、「白い雌ライオン」では、途中から暗殺者の目線や、彼を雇う組織のメンバーの動きが交互に語られ物語のテンションを高めていたが本書ではそれがどうした訳か欠けた状態のまま進んでいく。この物語の構造上の不備が大きく陰を作っており僕は全く集中できなかった。

これは作者の想像する読者心理の読み違えはではないかと僕は思う。当然のように物語は全くサスペンスが盛り上がらず思わせぶりばかりで走らない。どこかで完全に読み違えをしている可能性もあるけどね。

また、ヴェランダーは捜査線上に浮上した桁外れの富豪を怪しいとにらみ捜査を集中しようとするのだが、読者目線でその選択は妥当。だって冒頭から読んで知っているからなのだが、しかし小説世界の中でのヴェランダーの主張は物証に乏しく説得力のないものに見える。

これに対し他の登場人物達は予定調和的にこれを同意して話しが進んでしまうのだ。ここらの流れも悪い方向で僕を裏切り続けていく。

しかも最後に明らかになる犯人像は最早茶番。一体何が目的で行動していたのか全く理解出来ないへんちくりんな奴らなのだ。こんなオチですかいっ!!

本書から新に登場した新人女性刑事アン=ブリット・フーグルンドの存在や、ヘルパーの女性と結婚したヴェランダーの父の迷走ぶりそして、リガにいるバイパとの交流は何やら本格的な感じになりつつあるなどシリーズの展開は新しい局面に入りつつある。

本作でもヴェランダーが一人孤軍奮闘、とんでもない活躍を見せるところは読みどころとしてはなかなか良い部分がある。

少なくとも冒頭の情報開示を避けて、物語の展開をストレートにした方がずっと良くなったのではないかと思う。つくづく残念な一冊であった。


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白い雌ライオン(Den vita lejoninnan, The White Lioness) 」
ヘニング・マンケル(Henning Mankell)

2008/05/05:クルト・ヴェランダー・シリーズ第三作の「白い雌ライオン」。

南アフリカ。1652年にはじまったオランダからの移民と領地拡大だったが、2度に渡るイギリスとの戦争に敗れ、南アフリカはオランダからイギリスに譲渡され1910年には大英帝国内の主権国家として南アフリカ連邦が樹立された。

イギリスの影響力が強まるに従ってオランダからの移民達の子孫、所謂ボーア人達は次第に差別されるようになっていった。1918年、イギリスの台頭に危機感を持った一部のボーア人達が立ち上がり「アフリカーナー兄弟同盟」(Afrikaner Broderband)と云う団体を結成される。

冒頭物語はこの「アフリカーナー兄弟同盟」(Afrikaner Broderband)の創設者とされる、ヘニング・クロッパー(Henning Klopper)とその友人達の会話によってこの団体結成前夜を描きだす。これは1994年の制度撤廃以降の現在もまだその傷跡を大きく引きずり「人類に対する犯罪」といわれるアパルトヘイトのはじまりなのだ。

前作「リガの犬たち」からおおよそ1年後の1992年4月。イースタで小さな不動産業を夫と二人で営むルイースは、家を売りたいという老人の申し出を受け、郊外の一軒家を下見に出かける。

彼女は美しい森と湖に囲まれた小道を進んで売りに出そうとしている家に向かうが途中で道に迷ってしまう。

道を尋ねる為に通りかかった一軒の家に立ち寄る。ノックしても反応がない家から振り返ると拳銃を手にした男が立っていた。

ヴェランダーは一人暮らしの父の家に行った際に、父から結婚するつもりだと告げられた事から口論になってしまう。

父はまだらぼけかとも思われる症状が出ている80歳になる老人なのだ。暇を見つけて父を見舞うヴェランダーだが、逢っても度々口論となってしまう。

しかもなんと彼が自宅に帰ると空き巣が入って、買い集めていたレコードやCD、カメラや時計などがすっかり盗まれていた。

気が滅入るにも程があるような事態である。そんな憂鬱な状態で仕事に出たヴェランダーの前に現れたのは、三日前から妻との連絡が取れず憔悴しきった状態のルイースの夫であった。

失踪か、事件・事故か全く手がかりがない。彼女の足取りを追って下見にいったと思われる地域の捜査を行っていると付近にある一軒の家が突然爆発炎上。その焼け跡からは、ロシア製の通信装置と南アフリカ製の銃器、そして黒人のものと思われる一本の指が見つかる。

やがて付近の廃家の井戸からは眉間を打ち抜かれたルイースの死体、湖に沈められていた彼女の車が発見される。

ルイースの失踪はついに最悪の事態となり、それはまたもや国際犯罪の陰がちらつきはじめるのだった。

捜査の糸をたぐるヴェランダーの前には、南アフリカ、ロシアとの繋がりを示唆する遺留品。そして爆発炎上した家を法外な値段で借りだしていた外国訛りの男が浮上してくる。細い糸は序々に絡み合いヴェランダーをストックホルムへと向かわせる事になる。

しかし、事件は、南アフリカでフレデリック・ウィレム・デクラーク(Frederik Willem de Klerk )大統領が行った、ネルソン・ロリハラハラ・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela )の釈放、そしてアパルトヘイト法の廃止を宣言した事によって事態が動き始めたのだった。

これはこの大統領の行動に強い危機感を持つ者達、、「アフリカーナー兄弟同盟」の流れをくむもののなかでも極めて過激な信条をもって望む秘密の集団が、政変を目論んで国民を扇動する為に立てたある計画に繋がっていく。


ヨハネスブルグ


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ソウェト


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グリーンポイント・スタジアムとシグナル・ヒル


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ところで主人公ヴェランダーは今回もまた、予想もしない形で事件に深く巻き込まれてしまう上に、たいへんな活躍をするハメになってしまう訳だが、作者であるヘニング・マンケルはヴェランダーをうだつの上がらない中年男として描き続けている。

元KGBであったり、政変を目論むものに雇われる暗殺者などを向こうに回してしまう割にはこのキャラクター設定を続ける事にはどうしても矛盾を感じてしまう場面がやはりちょっと気になる。

この肝心な場面でツボを外した行動を取ってしまうあたりを、愛読者としては「こら〜。そっち行っちゃダメだって言ってんのに〜」などと歯ぎしりしながら読むべき部分なのかもしれん。

ここらが計算なのか、どうなのか、一方でそんなダメ男にぐっとしっぽを握られてしまう敵役達は本当に優秀なのかどうなのかと、ついつい考えてしまうのだ。

いやいや、しかし物語としては第一級。これまでの3作中個人的には最も出来が良かったと思う。
片田舎のイースタで起きた女性の失踪事件がやがて遙か遠い国である南アフリカの政変を目論む陰謀にヴェランダーを巻き込んでいくという展開は、前作にも通じる流れではあるが、読者の予想を良い意味で裏切り驚きの連続である。

また、被害者の家族や、南アフリカから送り込まれてきた男、ヴィクトール・マバシャをはじめとして登場人物の人物造形は深みを増し非常に読み応えのある内容になっている。

度々引き合いに出してしまう「マルティン・ベック・シリーズ」が繰り返し読むに耐える内容になっているのは登場人物達の深い人物造形にあると僕は思う。本書は作者も意識しているのか正にそれを彷彿とさせるような書き方になっており、じっくり堪能させていただきました。

また本書がご当地スウェーデンで出版されたのは1993年。マンデラ氏が釈放されたのは1990年。アパルトヘイトの制度撤廃が宣言されたのは1991年の事である。

最終的に制度がすべて廃止されたのは1994年まで待たねばならない。物語は出版当時ほぼリアルタイムで書き下ろされているのだ。

スウェーデンとモザンビークに半々で住んでいるという、ヘニング・マンケルは大のアフリカ好きで、南アフリカの政治情勢や人種差別問題にも相当の知識を持っていたらしい。それがヴェランダーの物語と融合する事で希有な作品ができあがったと云う事だろう。

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リガの犬たち(Hundarna i Riga, The Dogs of Riga) )」
ヘニング・マンケル
(Henning Mankell)

2008/05/05:クルト・ヴェランダー・シリーズ第二作の「リガの犬たち」。前作「殺人者の顔」の事件は1990年の秋に発生。解決した翌年の8月から約半年が過ぎた1991年2月。

雪のちらつくバルト海では旧東ドイツのヒッデンゼー島の西にある寂れた港へ電化製品を密輸している船がイースタの港へ向かって進んでいた。

東ドイツ、ドイツ民主共和国は1989年11月にベルリンの壁が破られ、ドイツ民主共和国と云う国は消滅したが、東ドイツの貧しさはそのまま残っているのだ。

スウェーデン沿岸まで約12キロ、ちらつく雪に視界を遮られながら進む密輸船の前に赤いゴムボートが浮かび上がってきた。

引き寄せるとボートには、二人の男の死体が抱き合うような形で横たわっていた。一体どこから漂流してきたのか。この二人は誰でどうして死んでいるのか。

理性では当然警察に知らせるべきな訳だが、自分達の立場上このまま連れて行く訳にはいかない。

彼らはボートをロープで曳航し、陸地近くで切り離しどこかの浜辺に打ち上げられるように仕向けた上で匿名で警察に電話をする。

「まもなく、この界隈の海岸に二人の男の死体がのったゴムボートが打ち上げられる」

この謎のような一本の電話が事件の幕開けだった。

ほどなくこの予言のような電話の通りに死体が乗ったゴムボートが発見される。

高級なスーツと靴を履いていた二人の男の死因は射殺であった。彼らの体には生前拷問にあっているような痕跡があった。

死後一週間以上が経過していた。身元を示すような遺留品はなし。救命ボートかと思われるこのボートには、船の名前も国籍も記載されていなかった。

やがて事件は数少ない物証のなかから麻薬取引に関わる国際犯罪の可能性が浮上してくる。捜査の糸口はラトヴィアの都市リガの警察からもたらされる。死体となった発見された男達はリガの市民である可能性があると云うのだ。

事件の捜査を担当するのは、イースタ署の刑事クルト・ヴェランダーである。同僚で友人でもあったリードベリが癌で亡くなって1ヶ月足らず。

ヴェランダーはその喪失感を埋める事が出来ずにいた。捜査の進め方を考えている時などリードベリに問いかけている自分に気付くのだった。

リガから派遣されてきた捜査官は小柄できつい近視を持ちひっきりなしにたばこを吸い続けるリエパ中佐だった。

彼によれば死んだ二人の男は、凶悪犯罪を繰り返している組織に所属し、夥しい違法行為に加わっている疑いがかけられているものだった。しかし組織の背後にはKGBの加護があるらしく、警察当局はしっぽを掴む事ができないでいる状態が続いているらしい。

多くを語らないリエパ中佐の言葉は苦渋に満ちたものだった。

ラトヴィアは帝政ロシア時代から、ロシア、そしてソ連と併呑と独立を繰り返してきており、国内ではロシア人とラトヴィア人の間に深刻な緊張関係があるようだ。特にリガではロシア人の比率が高く、彼らがあらゆる組織に浸透している事で表向きとはからは全くわからないような不正や抑圧が行われているらしいのだった。

平和である事が当たり前になっているスウェーデンで暮らすヴェランダーは、海を挟んでいるとはいえすぐ近くにあるラトヴィアの事を殆ど知らない事を思い知らされる。

そんなある日、警察署の地下室に保管されているゴムボートが忽然と姿を消した。夜の間に何者かが侵入し、ゴムボートを盗んでいったらしい。

このあと事件は急展開を起こし、ヴェランダーをリガへ、そしてその先に待つ思いもよらぬ謀略の渦中へと引き込んでいくのだ。



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リガの人々は以前に読んだジェイムズ・チャーチ(James Church)の小説「「北」の迷宮(A Corpse in the Koryo)」の北朝鮮の人々と驚くほど似通っている。彼らはいつも誰かに監視されている事を警戒し、実際に互いが互いを監視しているているようでもある。

同じ捜査当局で働くもの同士であってすら、信条、民族などの違いによって不気味な緊張感と不信感を抱いているのだ。

これ以上はネタバレになるので書くのは避けるが、物語は舞台をラトヴィアに移し警察小説の枠組みをはみ出していく。この逸脱と二転三転する物語の広がりとには実際びっくりしたし息をのませる。(勿論良い意味で)

ちゃんとスウェーデンに帰れるのかヴェランダー。シリーズものなのに、一体何処へ行こうとしているのか。いろいろな意味で心配になる程でした。

夫をなくしたばかりの未亡人に勝手に惚れ込んだり、肝心要の潜入中に腹を下したりとやや無理・無駄と思える様な枝があったり、またこれは僕の読み落としかもしれないが、「殺人者の顔」の終わりではプジョーからニッサンに買い換えたハズだったヴェランダーの車が再びプジョーに戻っていた等、若干気持ちが逸れてしまうような場面が気になる等欠点もない訳ではない。

また、ついでに云わせてもらうと、地名のカナ表記が今ひとつ一般的な表記になっていないような気がする。

Ystad→イースタッド?イースタ?
Hiddensee→ヒッデンゼー?ヒッデンセー?

しかし、東欧、バルト海を囲む国々の社会問題を背景に展開するこの小説を読むことはそうした現実を知る良い機会になる事は間違いない。1:


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殺人者の顔(Mordare utan ansikte,Faceless Killers )」
ヘニング・マンケル(Henning Mankell)

2008/04/26:警察小説と言えば「マルティン・ベック・シリーズ」と云う刷り込みが入った僕の脳みそ。四半世紀経った今でもあのシリーズを超える作品には出会えていない。

主人公のマルティン・ベックをはじめ、コルベリ、メランデル、そしてク゜ンヴァルド・ラーソンと登場人物の名前が何人も浮かんでくる本なんてそうそうあるものではないですよね。

そればかりか物語の一部は僕の中では映像として蘇ってくる部分まであるのだ。作品の幾つかは映画化されてもいるけれど、僕に見える映像はそのどれでもない。

それは例えば、「ロゼアンナ」の冒頭、運河の浚渫工事のショベルから垂れ下がった白い腕であったりする。

勿論勝手に作り上げたイメージである訳だが、それだけ夢中になって読んでいたという事なのだろう。

この度、僕の前に現れた作品が「クルト・ヴェランダー・シリーズ」だ。

これを手にすれば「マルティン・ベック・シリーズ」とどうしたって比較して読んでしまうだろう。

はじめっからハードルが高すぎだ。それがわかっているからこそ、なんとなく敬遠してきたのだ。

ある時、僕の父が警察小説が読みたいと云ってきた。

それではと云う事で送ってあげたのが本書「殺人者の顔」だ。

これまでも父と僕はこうした海外ミステリ小説を回し読みしてきたのでかなり読んでいる本が重複している。

父親のその審美眼はそれほど衰えていないのではないかと思う。

マイクル・コナリーのボッシュ・シリーズだって、無闇に誉めてきたりはしないのだぜ。

送って数日経ったら電話がかかってきて「これは当たりだ」と。そして「次を送れ」と。

最近なかなかめがねにかなう本がなくて不満げだった父が誉めてきた。いい加減な事を言っている訳ではなさそうな感じだ。

それで先般、仙台に帰省した際にその本を今度は僕が借りてきたと云う訳なのだ。

舞台はイースタと云うスウェーデンの南部、スコーネ地方(県)のバルト海に面した小さな市である。市の中心からはかなりはなれた農村。冬の訪れが近い寒い夜。

イースタ(Ystad)


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老夫婦が普段と違う気配に目を覚ます。最初は何かおかしいのかわからない。しかし、やがて隣家の様子が変な事に気付く。

隣にはずっと昔から一緒に住んでいる自分たちと同じような老夫婦が住んでおり、両方の家は互いにお茶の時間に行き来をするような暮らしを何年も続けてきた間だった。

その隣の家の窓が開いているのだ。この季節、しかも夜に窓を開けたままにしているなどと云う事は考えられない事なのだ。

ただならぬ様子を感じ取った年老いた主人は隣の家に向かう。部屋に入ると、そこには隣の主人の死体と、その妻が激しく暴行された上に椅子に縛り付けられた姿があった。

通報によって自宅から呼び出されたのが主人公のクルト・ヴェランダーである。どうやら彼は最近妻に家を出てしまわれたらしい。

憂鬱な気持ちを抑えつつ事件現場に向かうヴェランダー。

ヴェランダーは刑事らしいが、こうした捜査官が現場についているのに、救急車が呼ばれていないのがちょっと不思議だ。

ヴェランダーは瀕死の状態の夫人を警察官を付き添わせて病院に搬送させるが、彼女は翌日「外国の...」と云う言葉を残して亡くなる。

椅子に縛られた状態で発見された彼女だったが、そのロープの縛り方には特徴がありスウェーデンでは見慣れない結び方がされていたのだ。

村では何も問題なく、質素で平凡な生活を営んでいた被害者の夫婦。彼らを死に追いやる理由らしい理由は見当たらない。

一方、スウェーデンでは無分別にも移民を受け入れ続けすぎているのではないかと云う事で、海外から流入してくる他の人種の人々が起こすトラブルや犯罪が社会問題になりつつあった。そんな中で被害者の残した「外国の」が外国人をさすと云う事であれば、移民問題に対する不満が一気に噴出する気配があった。

捜査は遅々として進まず焦りが浮かぶ捜査陣。事件が暗礁に乗り上げたかと思われた頃、警察署に一人の男が訪れ事件の事について話たいと言い出した。

彼は被害にあった主人には長い間隠してきた秘密の金を持っており、その金の為に殺されたに違いないと云うのだ。

ところがマスコミが報じたニュースは伏せていたハズの警察内部に通じた情報に基づく犯人が外国人らしいと報じられてしまう。

これによって移民問題に対する怒りが噴出し、ついには第二の事件が発生してしまう。こうして事件は思わぬ方向へ進み出していく。

もつれた糸を丹念に解きほぐすかのように物語はじっくりと進んでいく、やがてそれは遠い過去と、他国との関係で生み出された数々の物語が明らかになってくるのだ。

ヴェランダーの父が物語には登場するのだが、これがまた、主人公とは折り合いが悪く頑固に一人暮らしを続けているのだが、どうやらまだらボケになりつつある状態。

お互い顔を合わせればいがみ合うばかりなくせに、顔を出さないと言ってはなじられ、手を焼いているという設定なのだ。

うちの父はこれをどんな風に読んだんだろうか。ちょっと後味悪かったのではないだろうか。

奥さんにも逃げられ、一人娘ともうまく行っていない。うだつの上がらないと云うか情けない面をさらしがちなヴェランダーだが、捜査の展開では獅子奮迅の活躍を見せ終盤ストーリー展開のスピード感も予想以上に上がりかなり読ませる内容でした。

このヴェランダー・シリーズは、1991年から2002年の間で10冊の作品が書かれている。本国では既に完結している訳だ。

本書は『IN★POCKET』文庫翻訳ミステリーベスト10/評論家部門で10位に選ばれ、読者からも高い評価を受けているようだ。

「殺人者の顔」Mordare utan ansikte, 1991 (Faceless Killers)
「リガの犬たち」Hundarna i Riga, 1992 (The Dogs of Riga)
「白い雌ライオン」Den vita lejoninnan, 1993 (The White Lioness)
「笑う男」Mannen som log, 1994 (The Man who Smiled)
「目くらましの道」Villospar, 1995 (Sidetracked)
Den femte kvinnan, 1996 (The Fifth Woman)
Steget efter, 1997 (One Step Behind)
Brandvagg, 1998 (Firewall)
Pyramiden, 1999 (The Pyramid, short stories)
Innan frosten, 2002 (Before the Frost, about Linda Wallander, Kurt Wallanders daughter)

10冊目はシリーズに含めるべきではないのかもしれないが...。

別れてしまった奥さんや娘のリンダ。そして父。またまだちゃんと覚えられていないけど、捜査陣をはじめとするバイプレーヤー達。彼らがこれからどんな物語を見せてくれるのか。

「マルティン・ベック・シリーズ」の時代では、高度医療・高福祉国家として穏やかで安定した社会背景の基、ストックホルムの10年間の歩みを大きな軸として展開していたが、時を移したヴェランダーの時代は、この老人福祉が曲がり角を超えてしまった事、移民の受け入れにより国民の民族構成が大きく変化を遂げ新しい波にさらされるスウェーデンでも、バルト海に面し東欧諸国の趨勢によって直接影響が起こりがちな南部スウェーデンを舞台に展開しようとしているらしい。

比較される事が避けられない両シリーズだが、どうやら立ち位置はかなり違ったものになっているようだ。じっくり堪能する事が出来そうな質の高いシリーズである可能性が高い。

僕と父の回し読みの楽しみに新に加わる一ページとして、最後までつきあえそうな予感がする。


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芝生の復讐(Revenge of the Lawn) 」
リチャード・ブローティガン (Richard Brautigan)

2008/04/26:本書は1971年に出版された本で「アメリカの鱒釣り」が出されたあとの1962年から8年間、1970年までに書かれた62の短編が集められている。

日本でも1976年に訳出されていたが、その後絶版。入手が困難な希少本となっていた。

それが喜ばしい事に先般、文庫本となって復刻され再び僕たちの元に戻ってきた。

実は、本書を読むのは今回がはじめて。

プローティガンに「アメリカの鱒釣り」で出会って衝撃を受け、その後繰り返し、繰り返し読んだ。

訳者の藤本和子さんの聡明さに尊敬とあこがれの気持ちを抱きつつも、それ以降の本には殆ど手を出していなかった。

前にも書いたが、プローティガンをはじめて読んだときは、彼が既にこの世にいない事を知らずにいた。

僕が夢中になって読んでいた時点で既にその1年前に彼はピストル自殺を遂げていたのだった。それを知った時のショックは相当きつかった。

前後して僕の周囲で起きた不幸な事。

鱒釣り以降の本に手を出す事は、彼の死に近づく事に他ならない。

これを書いている今、日本では硫化水素による自殺が相次いでいる。

誰でも死について考える事があるだろう。どんなに心が強くても辛い事や悲しい事があれば、自殺を考える事だってあるだろう。

そんな心が折れかかっている時、自殺した人の存在は何かブラックホールのように人の心を吸い寄せる引力のようなもの発信しているような感じがする。

うっかり近づきすぎるとそのなかに吸い寄せられてしまうのではないか。

そんな怖さを僕は感じる。彼の死に近づく事は知るべきではない事を知ってしまいそうな、何か怖ろしいものを感じた。

そんな事から僕のなかでは勝手にその後のブローティガンの本が禁忌的書物となり、彼の本に手を出しずらい事情となっていたのだった。

この2月。数年来一緒に仕事をしてきた人に突然に去られてしまった。

その人は何も語らずあまりにも唐突逝ってしまった。

1985年の時も今回も残された僕たちが考えるのは、何故なのか、どうしてこうなってしまったのか、どんな気持ちでいたのかだ。そしてどうしてそうする事にしたのか。

そんな答えるもののいない問いばかりだ。僕たちは何か心にぽっかりと空いてしまった穴を抱えながらも日々を過ごしている。

悲しいとか、苦しいとか言うのとはまた違う身もだえるような割り切れなさなのだ。

それでも、僕たちには必ずやはり朝がやって来て、会社に行けば怒濤のようにやらなければならない事が押し寄せてくる。

集中して仕事をしている時には、忘れている事があっても、ふと一息つくとその穴がまだぽっかりとある事に気付かされるのだ。

そして、今回は復刻された「芝生の復讐」である。

今回は躊躇なく手に。再び、ブローティガンと藤本さんに出会える喜び。

あれから20年経ち、最近になって再びその哀しくも美しい文章に浸る機会を得た。やっぱりブローティガンは素晴らしい。

わたしの祖母は、彼女なりに、波乱のアメリカ史に狼煙のごとく光を放つ存在である。「芝生の復讐」

世界最大の海はカリフォルニアのモントレーから始まる。もしくは、そこで終わる。「太平洋のラジオ火事のこと」

ワシントン州タコマの子供らは一九四一年一二月、戦争に行った。「タコマの亡霊の子供ら」

唐突に投げ出されてくるような書き出し。こちらの準備がまだ出来てもいないのに突然話しかけられたかのようなはじまりだ。

これに続いて一体どんな話が繰り出されてくるのか、一体どんな事を伝えようとしているのか。僕たちは驚くと同時にこの話の続きに意識が集中していくのだ。

でもそれでいてプローティガンは決して一方的に語り続ける作者ではない。こうして語りながら僕たちの経験や様々な思いをあちらこちらで呼び覚まし、こちらの話に今度は耳を傾けてくれるような。

いつしか僕たちはブローティガンと時間と場所のないどこかで逢って語り合うのだ。

さらにこの文庫本には、あとがきのあとがきとして、2008年2月に寄せられた藤本さんの文章が。

藤本さんの「ふたたび、訳者あとがき」

かれの自殺の理由についてひとりよがりの解釈はしないときめたわたしとても、ブローティガンの死についてはいうまでもなく残念で寂しく感じていました。

けれども、それは底知れない、と形容できるほどの深い哀しみの中に沈みこむような激情とは異なっていました。理解もできずに、なんという不憫な、とあわれむのも無礼だと思いました。

決して癒される事はない事を知っている僕のこの深い喪失感。この気持ちをどう捉えればいいのか、自分の気持ちを整理する事すらできない。

そんな状態でいた僕だったが、ブローティガンと藤本和子さんは、僕の心に開いた穴を癒すかのように天から降ってきたような出来事でもあったのでした。

藤本さんとブローティガンのおかげで少し自分を取り戻す事ができたように思います。

「アメリカの鱒釣り」と「ビッグ・サーの南軍将軍」のレビューはこちら>>

「不運な女」のレビューはこちら>>

藤本 和子「リチャード・ブローティガン 」のレビューはこちら>>

「エドナ・ウェブスターへの贈り物」のレビューはこちら>>

「西瓜糖の日々」のレビューはこちら>>

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藻類30億年の自然史」 井上 勲

2008/04/26:生物を分類するとしたらどんなものが頭に浮かぶだろうか、僕なんかがとっさに浮かぶのは、動物と植物。これは古典的な二界説だ。

普段の生活では特にそれで問題はない。僕が学校で習ったのは動物、植物、原生生物の三界説でした。

生物は何界に分けられるか。最近の学説は五界説が主流らしい。

この五界とは動物、植物、原生生物、モネラ、菌だ。これは、従来の原生生物から細胞核のない原核生物とカビ・キノコなどの菌を分離したものだ。数年前に国立科学博物館の展示が五界に別けられていてびっくりしたのだった。

なるほど、キノコは菌だったんだよね。僕の場合食べている時には忘れている事が多い。菌と一口にいっても相当に広い範囲をさしているハズだ。

モネラ。細胞核がないんだから、細胞核があるやつとは別だというのは納得できる話だ。

でも、細胞核がある原生生物。細胞核があるのに植物でも動物でもない生き物って云うとなんだろう。植物も動物も細胞核を持っている。

僕たちも植物も原生生物から進化してきたらしい割にはその正体がどうにもぼんやりしている。

これはそもそも原生生物というくくりが動物と植物以外のその他というような大きな器にどさどさほおりこんできた経緯があるかららしい。

キノコやカビが菌だと云う事にしたとして何処までが菌なのか、どんどんちっちゃい生き物になっていくとその辺がやっぱりぼんやりしてくる。

わかっているようで実はなんだか全然よくわからないような気分になってくる。これは僕が余りに無知だからなのだろうか。

この生物界の分類は近年更に六界説、八界説と云う考え方が表れているそうだ。

八界説は、五界説のモネラ界を古細菌界と真正細菌界に、原生生物を藻類・黄色植物を含むクロミスタ界とミトコンドリアを持たないアーケゾア界とそれ以外の原生動物界に分割するというものだ。

つまり古細菌界、真正細菌界、原生動物界、クロミスタ界、アーケゾア界と動物、植物そして菌界である。(説明は間違ってるかも....)

八界説はトーマス・キャバリエ=スミス (Thomas Cavalier-Smith 1942年10月21日)と云うオックスフォードの進化生物学の教授が提唱したもので、キャバリエ=スミスは、原生生物界が混沌とした状態に大胆なメスを入れ続けている急先鋒らしい。

この八界説で取り上げられたアーケゾア界はミトコンドリアの有無で判断されているが、これらのなかには、ミトコンドリアをもともと持っていないものと、退化的にミトコンドリアを喪失したものがある事がわかってきた事から、アーケゾア界という考え方も修正が迫られてしまった。

近年、 DNAデータの分子系統解析によって、動物界、植物界、原生生物などの真核生物と、真正細菌、古細菌を界よりも上の三つのドメイン(超界・域)に分けるという仮説が提案されている。


調べれば調べる程わかったような気がしなくなってくる話だ。その向こう側に生物分類の境界線は極めて不明確で不安定なものだと云う事が見えてこないだろうか。

一体生き物の体系ってほんとのところどうなっているのだろうか。

わからないのだけど知りたい。

そこで本書「藻類30億年の自然史」である。その厚さに圧倒される。毎日の通勤電車で読もうというのはかなりのもの好きと言われても仕方がない。

でも、口絵の沢山の藻類のカラー写真に加えて本文中にもふんだんな図解にしびれる。

これが面白い。期待以上に面白かった。

まずは筆者である筑波大学大学院生命環境科学研究科の教授井上勲氏の文章がとっても良い。読みやすい上に、本当に藻類が好き、そして地味だと思われがちなこの生き物が実はとんでもなく不思議で謎に満ちた魅力的な生き物なのだという事を伝えたいと云う事、その魅力を伝える事を心から楽しんで書いているという事が伝わってくる感じなのだ。

前述の通りごちゃごちゃとした生物分類のなかにあって藻類という生き物もやはりかなり曖昧な分類であってその仲間とされるもののなかには、相当にいろいろなやつが含まれているらしい。

藻類とは一体どんな生き物の群なんだろうか。

藻類(そうるい, algae)は、光合成を行う酸素発生型の生物から、コケ植物、シダ植物、種子植物を除いたもの全てを包含する生物群をさす。

結果として藻類のなかには、真正細菌のシアノバクテリアや真核生物である渦鞭毛藻、多細胞生物である海藻類などまでが入り込んでしまっているのだ。

こうした雑な分類でひとくくりにされた藻類には、とんでもないやつらが沢山いるらしいのだ。

藻類と云われて、具体的にはどんな生き物が頭に浮かぶだろうか。

ノリやテングサが属する、紅藻類。沖縄のアーサー汁がおいしい、アオサやヒトエグサそしてマリモは緑藻類。

緑藻類には、美しい緑のツブツブの生き物オオバロニアと云うやつがいる。

またその代表的なものにボルボックスがいる。ボルボックスは学校の授業でも紹介された記憶がある。

しかしこいつはなかなか変わった生態をしていた。分裂する時に一度内側から反転してひっくり返るのだそうだ。

このひっくり返る時に外側にあった葉緑体などを取り込んでいくのだそうだ。

生物の進化過程には紆余曲折があった事は言うまでもないが、膜の獲得という点では、本当に数える程の機会しかなかったらしい。

生物学で云う膜とは脂質二重層。二重になっているのだ。これはどうやらもともとは泡だったもののなかに潜り込んだトポロジーになっている。

ボルボックスの膜の反転はこの二重になっている泡の反転なのだ。これは動物の受精卵の卵割と胚発生に通じるものがあるのだそうだ。

藻類には日本人で普段食べない人は恐らくいないコンブやワカメの褐藻類といった大型の生き物がいるかと思えば、微細藻類という小さな生き物もいる。

こいつらは、海に住むものと淡水にすむものがいてそれぞれ色が違う。海をすみかにするものは黄色、淡水にすむものは緑色なのだ。

黄金色藻類の近縁、全身が珪酸質の鱗片に覆われた分類群であるシヌラ藻。

従来は黄金色藻類の仲間と考えられてきたが、電子顕微鏡の導入によってそれとは著しく異なる生物群である事が確認されたハプト藻。

彼らはミトコンドリアやゴルジ体などの細胞内共生体の構造が全く違っている事からその由来に決定的な違いがあるとみられているのだ。

細胞内共生体である事がわかったミトコンドリアだが、その構造が全く違っているものを持つ生物がいるとは。

ミトコンドリアとなる元の生命体はそもそも複数の種類の生命体が居た訳でしかもその生物の共生化が進化上複数回起きている事を示唆している。

真核生物でもある藻類であっても、核の分裂プロセスが動物や植物と同じものとそうでないものがあるのだそうだ。

こうなってくると、生命は一体何度この地球上に発生しているのか。そもそも生物とは一体なんなのか。

よその星でもおなじような発現があり得るのかとか。様々な疑問が噴出してくる。

これも興味深い話満載なのだが、これ以上深くまとめる事は僕の知力と体力と時間の限界を超えている。

少しでも興味があると感じた人は是非本書を手にして頂きたい。ほんと面白いんだから。

ハブト藻の一種である円石藻は細胞表面が方解石の微細な結晶でおおわれており、電子顕微鏡写真でみると、まるで宇宙船のようなその姿には目を奪われるような美しさがある。

渦鞭毛藻類。生息域は珪藻に匹敵する幅広さで寄生・共生している種も多いく不思議な特性を持っているものが多い。

先日、熱帯で多発しているシガテラ中毒が日本本州に拡大してきたと云うニュースが取り上げられていたが、このシガラテ中毒の原因となっているのが渦鞭毛藻類の一種によるものだ。

砂浜に住んでいる「ハテナ」(Hatena arenicola)と云う生き物は、葉緑体を持ち光合成によってエネルギーを補給している微生物だが、細胞分裂すると片方にしか葉緑体が引き継がれない。葉緑体を持たない方はその代わりにそれまでにはなかった捕食機能が備わるのだそうだ。

そしてそいつはどこかで葉緑体を捕食し体に取り込んだ時点で本来のハテナへ変身するらしいのだ。

ハテナは、カタブレファリスの仲間の鞭毛虫で、プラシノ藻類の一種として分類されているが、細胞内共生の原始的な姿を残している可能性があり注目されている。

珪藻類は真核藻類群のなかで最も多数の種を含む巨大な生物群であり、それこそ地球上のありとあらゆる場所に住んでいる。

珪藻類の歴史は1億8千年前の中生代白亜紀頃に遡るらしい事がわかっている。

しかし藻類の歴史はこんなものではない。もっともっと遙か昔に遡るのだ。それは、タイトルにもある通り30億年ほど昔までに。

この初期の藻類こそ、シアノバクテリア(藍藻)であり、彼らの酸素発生型光合成機能がその後の地球環境と生物のありようを大きく変えたと云うのだ。

藻類の存在は現在の地球環境に途轍もない影響を与えているのだそうだ。彼らの営みがなければ人間が誕生する事はなかったのかもしれない。それは、

1.太陽系の惑星の中で、地球だけが酸素21%、二酸化炭素0.036%という酸素に富んだ大気を持っている。

2.30億年前に藍藻(シアノバクテリア)が酸素発生型光合成を出現が、現在の酸素呼吸を行う生物の繁栄を可能にした。

3.藻類の活動が宇宙線と短波長の紫外線を遮るオゾン層を創り出した。

4.現在の文明を支える鉄鉱石は18〜25億年前に藻類が放出した酸素によって海水中の鉄が酸化し沈降した事によって出来た鉄鋼床から採掘されている。

5.石油は1〜2億年前に古地中海(テーチス海)で大増殖した藻類とそれを出発点とした食物連鎖に連なる動物プランクトンの死骸が海底に堆積し変性を受けたものである。

6.かつての地球大気の主成分であった二酸化炭素の多くは、藻類によって炭酸カルシウムへと固定されている。

7.雨をもたらす雲の形成は藻類が凝結核となっている。

もし惑星に水があれば、地球のように雨が降るのだろうと僕は思っていたけれど、上記の記述をみるとどうやらそうはならないらしい。いやはや。

確かにどれをとっても欠けていたら人間の現在の生活は成り立たない事がすぐにわかるだろう。こうした藻類の発現と30億年と云う途方もない歳月があってはじめて現在の地球環境が成り立っているという事だ。

本書は分類上の問題は一旦棚上げして、その多彩な藻類の仲間の様々な特色は進化の経過を辿る事で、現在の生物界全体を再認識しようという壮大な目論みに基づくものだ。

著者の目論みどおり本書は藻類を基点としながらも、30億年の地質学的時間のなかでの地球環境の変遷とそのなかを生き延びてきた生物。いやいや、地球環境をも変動させてきた僕たち生物の歴史を俯瞰するものに仕上がっている。

いやいやあっぱれな本でした。

参考に
スノーボール・アース (Snowball earth)」ガブリエル・ウォーカー (Gabrielle Walker)

極限環境の生命―生物のすみかのひろがり (LIFE AT THE LIMITS)」D.A. ワートン (David A. Wharton)

も是非どうぞ。

また、藻類についてもっと知りたい方は

日本藻類学会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsp/Welcome.htm

藻類画像データ(筑波大学)

http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~inouye/ino/phycological_images.html

もお勧めです。


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