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2013年度第一四半期にはいりました。一大プロジェクトも無事完了。それぞれ新しい組織・役割での仕事が始まりました。いつものことですが前途多難な怪しい雲行きではありますが、ここまで乗り切ってきたことが強い自信に繋がっているようで、気持ちは驚くほど穏やかであります。慌てず騒がず着実に前に進んでいこうと思います。

歴史が後ずさりするとき-熱い戦争とメディア
(A passo di gambero.
Guerre calde e populismo mediatico)」
ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)

2013/06/30:さて6月も30日になりました。2013年度第一四半期の最後を飾るのはエーコの「歴史が後ずさりするとき」。エーコの本はどれも手強そうで読むのもやや恐れ入る気配があると思うのだがいかがなものだろうか。本書はエーコが2000年から2005年にかけて新聞や雑誌などに寄せた記事やエッセイをまとめたものだ。これならあまり肩肘を張らずに取り掛かれるかと。

それにしても「歴史が後ずさり」するとはどんな意味なんだろうかと思っていましたが、それはつまり例えばバルカン半島の地図が1914年以前の状態に書き換えられてしまったことや、アフガニスタンやイラクでの戦闘やまるで「十字軍の時代」へと引き戻されたかのようなイスラム世界とキリスト教世界との衝突などまるで歴史は繰り返されるものだといわんばかりの出来事が続いていることを指しているのだ。

これをして「一歩一歩後へと下がっていく」かのようだとエーコはつぶやく。

 まるで歴史が、今まで二千年かけて遂げてきたジャンプに不安になって「伝統」という、安心できる豪奢さの中へと戻りながら、からだを小さく丸まらせていくのを見ているような気がする。


しかしそれとは別に新たに起こったこととして、見逃せない事態が進んでいるという。


 それは、自己の個人的利益を目指す民間企業によって企てられた、メディアを使った民衆への呼びかけを基盤とする新しい政治形態の出現だ。疑いもなく、少なくともヨーロッパの舞台では新しい実験であり、第三世界のポピュリズムよりも抜け目のない、技術的に強固に武装された実験だ。


エーコは歴史が繰り返されているのではなく、政府やメディアなどのがそう見えるように誘導し、更には物事の進展までもを操っているということに対して鋭く反対しているのだ。

<目次>

エビの歩き方---歴史の後ずさり

1.戦争、平和、その他のこと

戦争と平和をめぐるいくつかの考察
アメリカを愛し、平和行進には参加
ヨーロッパの展望
狼と羊---濫用の経済学
ノルベルト・ボッビョ---学者の使命についての再考察
啓蒙主義と常識
遊びからカーニヴァルへ
プライヴァシーの喪失
ポリティカリー・コレクトについて
私立学校とは何か
科学、技術、魔術

2.グレート・ゲームへの逆戻り

ワトソンとアラビアのロレンスとの間で
この話はどこかで聞いたことがある
まず資料をそろえる
戦うには文化を要する
正義の側に立たなくても勝てる
グレート・ゲームの記録

言葉は石のようなものだ

言葉の戦争
ビン・ラディンを「理解している」人たち
原理主義、十全主義、人種差別主義
内戦、レジスタンス、テロリズム
カミカゼと暗殺者

3.十字軍への逆戻り
聖戦、感情、理性
多民族社会における交渉のしかた
エルサレム陥落
ミス、原理主義者、ハンセン病患者
アダム以前の人間の存在をどう取り扱うか

4.『神学大全』その他
ヨーロッパの根源
キリストの十字架像、風俗と習慣
胎芽の霊魂について
偶然と知的設計論
わしの息子から手を引け

神を信じなくなった人間は何でも信じる

ゼロ年を信じる

錬金術を信じる

アーモルト神父を信じる
超能力者を信じる
テンプル騎士団を信じる
ダン・ブラウンを信じる
伝統を信じる
トリスメギストスを信じる
第三の秘密を信じる
PACSとルイーニ枢機卿
相対主義なのか?

5.人種の防衛

イタリア人は反ユダヤか?
陰謀
私の最も親しい友人の何人かは

彼の最も親しい友人の何人かは

6.第三千年紀初めの黄昏

ある夢
死の短所と長所について


これらの記事やエッセイの内容に対し外野から反論やひどい中傷などがおこなわれているらしいことが窺われる。そしてエーコは恐らくは頑迷で狭量な意見に対して冷静で辛辣に切り返したりしているのでした。

 われわれは皆、国内での戦争を経験したし、延々と続く危機の状態を知っている。それゆえ、もしも二機の飛行機がノートルダムやビッグ・ベンに突っ込んだならば、それに対する反応はもちろん恐怖、苦悩、怒りの反応となるに違いないが、しかし、史上初めて自国に攻撃を受けたアメリカ人が襲われたような驚愕、さらに、抑鬱状態と何としても反撃せねばという衝動とが代わる代わる現れる状態とは無縁だろうと言い切ってよいと思う。


高い知性と知識に裏づけられたこれらの記事はどれもとても真っ当。時として時の政治家を皮肉ったりする文章にはエーコの生身の人間臭い部分がはっきりと出ており、なるほどエーコはこんな人なんだなということがよくよく掴める内容になっていました。ますますエーコが好きになりました。

それにしてもどこの国もどうしてこうも変な方向へと進んでいってしまうのだろうか。


「バウドリーノ」のレビューはこちら>>


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コズモポリス(Cosmopolis)」
ドン・デリーロ(Don DeLillo)

2013/06/29:スマホの充電が半日保たない感じになってきたのでショップに行って調べてもらったらなんと充電池の消耗ではなく、本体機器の異常である可能性があるということで急遽入院させることになってしまった。代替機を借り受けて電話帳やモバイルスイカのIDを移動させるなどの諸々の手続をしていたら午前中の半分が飛んでしまった。

新幹線や飛行機だって携帯をかざすだけで乗れる。携帯・スマホは今やないと不便この上ない道具となってしまったと思う。

先日電車での帰り道座ってふと周りを見たら本を読んでいるのは僕1人で他の人はほぼ全員がスマホで何かしてたよ。スマホの普及率もかなりなものになってきたみたいだ。

道を歩きながら、階段を上り下りしながら、ノロノロとしている奴を追い抜きざまに見ると大抵は携帯やスマホを抱えるようにして覗き込んで何かしている。

そうそう、先日は何かのイベントが終わったところだったのか国際フォーラムの出口から大勢のサラリーマンが出てきたのだけど、先頭集団が全員スマホを見てて、つまり前を見てない状態でどっとこっちに向ってきたなんてこともあった。

こんな場合は対向する側としては避けてあげるのがエチケットなんだろうか。

それにしても彼らはスマホで一体何をしているんだろう。まさかゲームじゃないよね。

ということでドン・デリーロの「コズモポリス」。デリーロ4冊目です。この作品上梓されたのは2003年。なので「墜ちていく男」よりも前、[ボディ・アーティスト」との間で書かれた本ということになる。なんで今文庫になって出てきたのかというとクローネンバーグの映画化というトピックがあったからということらしい。

「コズモポリス」を読み終えた直後はどう受け止めていいのか正直全然わからなかった。レビューなんて書けるんだろうかと危ぶむ程でありました。これを書いている今も若干不安だが。頑張ってみるよ。

本書の主人公エリック・パッカーは相場予想で財をなし、いまや形而上学的なレベルに達する金額を指先ひとつで動かす個人投資家だ。その取引はナノセカンドの上を行くスピードで処理される。

その規模とスピードは人知を超え、孤高ともいえる高みにありその実態はリアルな生活をしている者どもの知る由もない。つまりエリックの商売・取引はリアルな僕らの時間や場所、金銭的な価値観とかけ離れたところにあるのである。

24時間眠ることのない為替相場を追い最早現実感の伴わないほどの金を目に見えないスピードで処理される取引の世界に住むエリックもまた、現在の時間的感覚から乖離して現実感はもとより実在性すら薄弱になりつつあるようだ。

彼の仕事場は超大型の白いリムジン。ストレッチしてハイテク機器を装備したこの車からあらゆる取引に対する指示を出すことができるのだ。

彼はこのリムジンで町を横切って子供の頃から通う床屋に向う。この日はニューヨークに大統領が来ており大規模な交通規制が敷かれ道路は渋滞、エリックの身辺警護をしているスタッフも神経を尖らせている。エリックには何者かによって殺人を予告されているのである。

現実世界でのエリックは大統領が来ていることを知らず、道路が渋滞していることもお構いないだ。しかし当然のようにリムジンは遅々として進まない。現実のエリックはやはり他の人と同様現実世界での制約を受けるのである。

エリックの行動を読んでいて何度も想起させられるのが、ポール・ヴィリリオ(Paul Virilio)の本だった。デジタル化され、ビデオやメールなどによって僕らの実在性が薄くなるというようなことを述べているものだ。

メールやSNS、動画のストリームだって即時性と云えども同時ではないし、その相手は大抵その電車に乗っていないほかのどこか別の場所にいる人が相手なのだ。

それは冒頭に書いたスマホに没頭している人たちにも同じことが言える。現実世界では同じ電車に乗り合わせていても彼らはそれぞれ全く違う距離と時間にいる存在とコミュニケーションをとっているのである。

これを仮想空間と呼ぶとするならば、仮想空間に没頭する程度が高ければ高いほど、現実世界での実在性が希薄となる。ヴィリリオが述べていたのは大体こんな話だったと思う。

つまりエリックはその究極だ。市場は猛烈な勢いで走り続ける。しかも彼の予想に反して円は値上がりしていく。それは彼自身の大規模すぎる投機的な取引が根本原因となっていた。市場が急落し、銀行が破綻し、彼の資産も猛烈な勢いで気化・霧消していくのだ。一方でリムジンはノロノロ運転を続けていく。

そんなエリックに殺意を抱いた男の影が忍び寄っていく。仮想空間と現実世界の両方のエリックの存在に危機が迫っているのである。しかし現実世界での肉体としてのエリックはまるで進まないリムジンに座り、妻や愛人、大統領そして街の暴動など希薄な現実と向き合っていく。

そんな彼がやがて見るものとは。

それが何を示唆しているものなのか。今だ僕にはよく理解できていない。肉体を捨て時間のない仮想空間に精神を解放することができるのかということなのだろうか。いやいやなんか違う気がする。

なんともクローネンバーグ的なこの話の落としどころの解釈は多様なものがあると思うが、スーザン・ストレンジが指摘するように国家権威が後退した世界で有りえない程極端な財を抱える個人投資家。その個人の気まぐれな振る舞いに市場が動乱していく様は正に現代社会の向こう側に間違いなくありそうな話で、デリーロはこうしたこれまでに見たこともなかったような世の中、人と人との交わり、つまりは世界観を切り取るのがとてつもなく巧いのだ。

ニューヨークの商品取引所(COMEX)では金の先物価格の価格が1974年の取引開始以来最大の下落率を示した。3ヶ月で23%も下落したのだという。10年にわたる上昇トレンドが終わったとの見方が広がっており、これから更に下落が続くものと思われる。

こうした値動きの背後にはやはりエリックのような存在がいないと言い切れるだろうか。実際には僕らの前で右に左にふらふらしながら歩いている人こそ正にその一端を担って市場を動かしている可能性だって捨てきれないのではないだろうか。

株や為替や金の取引で大損こいたら、そりゃまっすぐ歩いていられないだろうと思えば少しは彼らに対する視線も優しくなろうというものだ。

あれ、こんなオチで良かったかな。


「ボディ・アーティスト」のレビューはこちら>>

「墜ちていく男」こちら>>

「アンダーワールド」こちら>>




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国家の退場-グローバル経済の新しい主役たち
(The Retreat of the State:
the Diffusion of Power in the World Economy)」
スーザン・ストレンジ(Susan Strange)

2013/06/22:スーザン・ストレンジ(Susan Strange)はイギリスの国際政治学者で1923年、大正12年生まれ。1998年、75歳で鬼籍に入られておりますが、その直前まで研究・執筆活動を続けていたようです。遅まきながら僕は今回初めてスーザン・ストレンジの本に挑戦です。読んでびっくり、硬派も硬派、途轍もなく堅い本でありました。

先ずは小手調べ的に「グローバル化」について。


 そのうち最悪のものが「グローバル化」であり、これはインターネットからハンバーガーまで何でも指し示すことのできる用語となっている。あまりにしばしばそれは、消費者の嗜好と文化習慣がどんどんアメリカ化し続けていることについての、ていねいな婉曲表現となっている。


テレビや雑誌や求人関係でも「グローバル化」または「グローバル」に続く、人材、スキル、能力、などという文字が躍るようになって久しいが、僕はこの手の表現にとっても違和感を抱いている。個人的には「グローバル」と名のつくものが消費者側のものであったためしはなく、供給者側の効率性重視の果てに弱者は利便性の低下を我慢するしかないという場合すらあるというものだと理解している。ストレンジの文章に激しく同意します。

それに加えて「グローバル・ガヴァナンス」これもひたすら胡散臭い表現だと思っていたのだけど、ストレンジはこれも見事に一刀両断。


 通常の会話にも忍び込んでいる最新の意味的婉曲法は---何についての婉曲が解っている場合でさえ使われるのは---、「グローバル・ガヴァナンス」である。今やグローバル・ガヴァナンス研究のためのセンターは無数にある。副題にこれを用いた本も多いし、そういうタイトルの雑誌もある。通常受けとられている意味は、領域国家の諸政府間の行動における協力、協調や標準化であり、とりわけ多くは国際官僚の影響を介したそれである。[グローバル」と「ガヴァナンス」の二つの語が伝える暗黙の仮定は、世界的な権威による世界大の統治が実現しつつあるというものである。しかし真実は、政府間機構の研究者なら誰でも知っているように、いかなる政府間機構の官僚組織の意思決定パワーの限界も本質も、加盟する最強の政府によって設定されているのである。国際機構はとりわけ国民政府の道具であり、他の手段による国益追及の道具である。古風な現実主義のこの初歩的認識は、多くの国際レジームに関する議論の展開の中で、おそらく無意識にであろうが、あいまいにされている。


つまり強者の都合に合わせろやという意味だという訳だ。だよね。ほんと。こうした歯に衣着せぬ勢いで本を著しているのが70過ぎの方であるというのはほんとにすごいことですね。恐らくこうしたひとは若いときから前のめりのファイティングスタイルで駆け抜けてきたんでしょう。

こんな調子で批判の槍玉にあがるのが御大チャールズ・キンドルバーガーだったりしてびっくり。しかしその対象はキンドルバーガーばかりでなく国際政治経済学という学問全体に挑んでいるのであるからもうあんぐりであります。

「国際関係論」、それは彼女がこれまで専門としてきた分野である訳なのだが、これが最早受け入れがたいものになり果てたことから道を分かつ決意を固めたとまで言い切るのである。

勿論そこまで言うからにはきちんとした主張がある訳でありまして、しかも負ける喧嘩などするつもりはないらしい。どうしてこう大正生まれみたいな人には今の人に感じられない気骨というか骨太な部分があるのだろうかと思わずにはいられない。正に只者ではない「偉人」ぶりなのでありました。


 今日、政府首脳や閣僚たちは、国民社会および経済に対して従来から保持していた権威を失いつつある。そしてそれを最後まで認めないのもまた彼らであろう。もの事は彼らが以前支配していたようには運ばない。政治家はどこでも、まるで彼らが経済的社会的諸問題に対する解決策をもっているかのような話ぶりで、実に彼らが国の命運を握っているかのようである。だが、人びとはもはや彼らを信じてはいない。


思い浮かびますねー。実際前時代的からタイムスリップしてきたみたいなエラそーな人たちがねー。正に今の日本の政治においてもそれが顕著というか明確になりつつあるようです。あまりに小気味が良くて笑ってしまうほどでありました。

目次

第1部 理論的基礎

第一章 衰退しつつある国家権威

第二章 パワーのパターン

第三章 政治の限界

第四章 政治と生産

第五章 国家の現状
第2部 経験的証拠

第一章 国家を超える権威

第二章 テレコム―コミュニケーションの管理

第三章 組織犯罪―マフィア

第四章 保険とビジネス―リスク・マネジャー

第五章 ビッグ・シックス―六大監査法人

第六章 カルテルと私的保護主義

第七章 国際機構―経済貴族
第3部 結論

終章  ピノキオ問題とその他の結論

タイトルにあるとおり本書は国家の権威が衰退してきたことを物語るものとなっている。文字通り退場してなくなるというようなことはないと思うのだが、これまで国家が保持してきた権威は確実に薄れ、発揮できるパワーもどんどんと縮小してきている。

この背後にはそれらの権威やパワーを発揮する機能が国の他のものに代替されつつあるからだというのがストレンジの主張なのである。

この新しい主役というのは一体誰か。

それはIMFや世界銀行のような国際機関であり、超大型の多国籍企業であり、ビック・シックスと呼ばれる監査法人であり、マフィアのような非合法の組織なのである。

特にこのビック・シックスの権威というものは確かに不思議な強化を遂げてきたのでありました。


 ビック・シックス(六大監査法人・・・プライス・ウォーターハウス、ピート・マーヴィック・マッキントック、クーパーズ&ライブランド、アーンスト&ヤング、デロイト&トーシュ・トーマツ、アーサー・アンダーセン)は世界経済のなかで、大きな影響力をもつ重要な役割を担っている。ビック・シックスがどのような経緯でそのような役割を担うようになったのか、すべてのビック・シックスが基本的にはアングロ・アメリカン企業であるのはなぜか、世界経済の運営においてビック・シックスが保持している権威の本質は何か、また各国がビック・シックスにそのような高い権威を認めているのはなぜか、といった疑問すべてはわれわれの関心を呼ぶものである。これらの疑問に対する答えを用意しておくことは、われわれが世界システムにおける国家の権威と市場のパワーとの間の緊張関係を、真に理解するために必要である。


格付け機関がアメリカ政府の国債の格付けを下げるぞとした先日のニュースはまるで銀行に押入る武装強盗のような気配であって、対するオバマ政権はというとたまたまその時銀行にお金を下ろしに来たおばあさんみたいに事のついでにあしらわれるかのような状況寸前までいったのでありました。


 通説的な社会科学の、特に国際関係論の、いくつかの前提を考えなおすべきだという点にある。このような再考が問題とするのは、第一に社会的活動としての政治の諸限界、第二に社会におけるパワーの性質と源泉、第三に市場経済における権威の必要性と不可分性、第四として国際社会のアナーキー的性格と、国際社会における唯一のアクターとしての国家の合理的なふるまいである。


こうした新たに権威やパワーを持つ組織の行動や影響力を無視してどこが国際関係論なんじゃという次第なのでありまして、この分野で糊口をしのいでいる研究者の方々にとっては冷や水ぶっかぶりな訳なのでありました。

いやはや参りました。

ところで東京の株式市場は乱高下が続いている。海外のヘッジファンド等が莫大な金額を動かし市場を動乱させているという推測が立てられている。FOMCが何て言うかとか、アベノミクスが進んでいるのかどうなのかとか、日銀の動向がどうかとか、こんなニュースに敏感に反応して株価は大きく上下する。

政府の声明やなんかで本来企業の株の価値が変わる訳はないのだけど、敏感に反応しているように見えるのは、こうしたニュースに合わせて素早く金を動かしている連中がいるからなのだろう。紛争であれテロであれ、減税であれ公共投資であれ、波を産み出す情報を待ち構えているのだろう。投機的に金を動かしている連中は激しく乱高下し続けた方が稼ぎ易いのだと思う。

こうして荒々しく波打つ為替や株式の市場はそれ自体で途轍もないパワーを孕んだ龍のようだ。最早一国の政府が支えることのできない程の規模に膨らんだ金融市場こそ国家の権威を貶め退場に追い込む大きな勢力なのではないだろうか。なんてこともついつい考えさせられる一冊でありました。



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昨日までの世界-文明の源流と人類の未来
(The World until Yesterday:
What Can We Learn from Traditional Societies?)」
ジャレド・ダイヤモンド(Jared Diamond)

2013/06/16:ジャレド・ダイヤモンド大望の新刊「昨日までの世界」であります。「銃・鉄・病原菌」は今でもわすれられない衝撃の一冊でありました。この本は文明が進歩し様々な技術を生み出し自分達の環境を変えてきた西欧社会とニューギニアのようにそうしたものがほとんどなく、前時代と変わらない生活を続けてきた人たちがいる。大昔、同じアフリカの森の中から旅立った人類が地球全土に広がる過程で、何故ある者は様々なものを発見、発明し発達させることで多くを持ち、ある者は何千年も前と同様ほとんど何ももたない生活を続けているのだろうか?

「それはなぜだろうか?」という素朴な疑問に端を発するもので、その答えは人類のグレートジャーニーと共に旅した動物や植物、そして地球規模の気候がダイナミックに相互作用したものであったという瞠目のお話でありました。

こんなにも知的興奮に満ち溢れた読書体験ができる本はなかなか出合えるものではありません。この本はサイトを立ち上げる前にであった本のためここでは紹介する機会が作れておりません。いつか時間を作ってトライしてみたいと思っております。

その次の「文明崩壊」。過去から現在という縦軸で世界に興った様々な社会に目を向け、何故ある社会は滅亡し消滅し。ある社会は数千年という歳月のなかで滅びる事なく持続しているのだろうという疑問で検証を始めるのだ。こちらも前著に負けない素晴らしい本なのでありました。

そしてやってきたのがこの「昨日までの世界」こちらの本は一言で言えば「過去に学べ」と云うべきものでありました。人類の歴史を遡るとそこには想像を超えるほどの多様性を抱える社会があり、その多様性は近年急速に収斂化が進んでいる。それも西洋社会という一つの社会・文化へ収束しつつあるように見える。

西洋社会は中核となるべき力や魅力があるのかもしれないけれども、果たして永続的に存続が可能な社会なのか、また失われていく文化・社会の知恵や価値観や形態も決して劣っているからという訳ではない。我々は失われた、または失われつつある文化・社会からもっと学ぶべきものがあるハズだということではないかと思います。

<目次>

日本語版への序文

プロローグ 空港にて

第1部 空間を分割し、舞台を設定する
第1章 友人、敵、見知らぬ他人、そして商人
第2部 平和と戦争
第2章 子どもの死に対する賠償
第3章 小さな戦争についての短い話
第4章 多くの戦争についての長い話
第3部 子どもと高齢者
第5章 子育て
第6章 高齢者への対応――敬うか、遺棄するか、殺すか?
第4部 危険とそれに対する反応

第7章 有益な妄想

第8章 ライオンその他の危険

第5部 宗教、言語、健康
第9章 デンキウナギが教える宗教の発展
第10章 多くの言語を話す
第11章 塩、砂糖、肥満、怠惰
エピローグ 別の空港にて
謝辞
訳者あとがき
参考文献
索引

戦争・紛争や言語、教育・育児など一つ一つの枝葉がおおぶりすぎてやや緩慢な印象を受けてしまう。書かれていることも前著二冊には残念ながら及ばずというところでありますが、これは前著で受けた興奮を期待してしまう読者側の贅沢な渇望のような部分も否めず、冷静に考えてレベルの高い議論となる一冊であることは間違いありません。

特にハッとさせられたのは、WEIRDという話。


2008年の一年間に一流の心理学会誌に発表された論文をサンプル抽出し、被験者を調査した結果、そのうちの96%は西洋工業諸国(北アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランド、イスラエル)出身であり、とりわけ68%はアメリカ出身で、なんと80%は心理学講座に受講登録した大学生だった。つまり、本人たちの出身国のなかでさえも、けっして典型的とはいえない人たちだったのである。社会科学者のジョゼフ・ヘンリック、スティーブン・へイン、アラ・ノレンザヤンが指摘しているように、人間心理に関する認識の大半は、WEIRDの頭文字で表される被験者、つまり、西洋的で(Western)、教育(Educated)が普及していて、産業化(Industrial)されていて、富める(Rich)、民主的(Democratic)な社会に住む被験者を対象にした研究をもとに形成されている。被験者の大半は、文化の世界的バリエーションの基準に照らし合わせてみれば、文字通り風変わり(weird)である。


既に書いてしまったが先日読んだ、ダン・アリエリーの「ずる」に登場する研究もその殆どが自分達の大学の学生や近隣の人に参加してもらって実験していた。

このようなWEIRDな研究によって組み立てられた理論や推論をもとに文化的背景や価値観、倫理観だって異なる場合がある多様性に富んだ世界を観察したら、それは非合理的であったり支離滅裂であったりするような行動や判断であるように見えるものもそれはあるだろうということだ。

まてまて、経済学や政治学だって根底にはこのようなWEIRD部分が多々あるんじゃないだろうか。だからこそダイヤモンドは多様性に富んだ世界から学ぶべきだということを説いているのである。

いやはや賢い人というのはやりはすごいところに目をつけるものだ。

また、もう一つ見逃せないのが「宗教」に関する解釈だ。

一般に、宗教はつぎの五つの要素に関連づけて認識される---すなわち、超越的存在についての信念の存在、信者が形成する社会的集団の存在、信仰にもとづく活動の証の存在、個人の行動の規範となる(たとえば、善悪の規範のような)実践的な教義の存在、そして、超越的存在の力が(たとえば祈りによって)働き、世俗生活に影響をおよぼし得るという信念の存在である。

その上で宗教が果たしてきた役割を七つにくくる。

①説明を提供する

②不安の軽減

③癒しの提供

④組織と服従

⑤見知らぬ他人に対する行動規範

⑥戦争の正当化

⑦忠誠の証

この七つの役割についてそれぞれ昔から果たしてきたものでありながら今は時代遅れになってしまったものや、昔はなかった役割。さらにはそれらの役割は今後どのように変遷していくのか、突き詰めれば宗教は果たして今後どうなっていくのか予測できるハズだという訳だ。ダイヤモンドはこの考え方を一歩も二歩も突き詰めて宗教に求められるもの、そしてその将来の姿までを予測しようとする。

この切り口は見事としか言いようがありません。なるほど物事の捉え方として大変勉強になるなぁ。この分析結果については是非本書を手にして皆さんがご自信で確認して欲しいと思う。

ドーキンスは厳格な無神論者として「宗教」の存在は不要だと説いていました。事の良し悪しは置いたとしても一足飛びにそこに辿り着くことなんて無理だろうと僕は思っていました。なんとなく。というか直感的な部分でありましたが、ダイヤモンドのこの分析を読むとしっくりと腹落ちする。②不安の軽減、③癒しの提供のような個人的な部分で宗教が果たしている役割を代替するものがないかぎり、皆が宗教から離れていくことは難しいだろう。

また一方で、④組織と服従、⑥戦争の正当化、⑦忠誠の証のようなものを支配者側は積極的に利用しようとしているという部分が果たして昔に比べて衰退している役割なのかどうなのか。人類が地球規模で平和で安全な世界に向いつつあるのかそうでないのかの鍵はこの部分が握っているのではないかと思います。

言葉もあまり通じない近隣の他の部族集団との小競り合いを常態にし、時として集団での暴力行為に発展する油断のならない世界と、見渡す限りにおいては一見平和で危険のない社会だが、その外縁部では大量の殺戮と無法地帯が広がる世界。

この世界に対する認識や解釈もまたWEIRDな偏りを持ちすぎると大きな見落としをすることとなり、結果誤った意思決定や行動をとってしまうことに繋がってしまう。

これこそまさに今西洋社会がこの地球上で推し進めていることに他ならないという訳だ。

「昨日までの世界」深遠な思慮に富む一冊でありました。


「文明崩壊」のレビューはこちら>>
「危機と人類」のレビューはこちら>>



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幻の野蒜築港-明治初頭、東北開発の夢
西脇千瀬

2013/06/08:このサイトに何度も書いている話だが、僕ら夫婦の故郷は仙台。老後は貞山堀の近くの小さい家で犬を飼って暮らそう。暇を見つけて僕は自転車でこの運河をのんびり走ろう。ふと二人で話しあってきたことがどんどんと膨らみ、いつしか必ずや実現するものとばかりに思うほどになっていた。

しかし東日本大震災でそれはすっかり流されてしまった。東北の被害は甚大で未曾有の大災害は現実の命やものばかりではなく僕らも含め大勢の将来も奪い去ってしまったのでありました。とうとう見つかったと思った終の棲家は移り住む前に消滅してしまった。この喪失感足るや、未だになんと表現したらよいのか判らずにいる。

そんな貞山掘なのだが、仙台に暮らしていた頃にはその存在をきちんと認識していなかった。「貞山掘」という名は偶に耳にしたけれども、じゃそれはどこなんだという質問に対して大人たちはなんとなく海の方を指さしそれを左右にふらふらとさせるばかり。そんな曖昧なことを聞いている訳ではないのにどうしてこの大人たちはいい加減なんだと。そんな次第で貞山掘とは曖昧な存在として理解していたのである。

しかし、それは間違いだった。貞山掘は仙台市内からみて海岸線のほぼ全域に沿って走る日本最長の運河だったのである。当時の大人たちが指を指している範囲は曖昧なのではなく、寧ろ正確なものだったのだ。

首都圏で運河めぐりに目覚めた僕は遅まきながら地元仙台にそんなすごいものが存在していることに気づいたのでありました。是非ここを自転車で巡ってみたい。そしてその歴史に触れてみたい。それが貞山掘の近くへ住みたいと思ったきっかけでありました。

貞山掘・貞山運河は江戸時代から複数の堀が連結したものでその基礎は仙台藩伊達政宗の命により掘削が開氏されたものだ。貞山の名はこの時の諡に因んで命名されたものだという。

主に松島湾から阿武隈川河口までを貞山掘・運河と呼ぶが、これに接続する形で北上川から成瀬川まで走る北上運河、成瀬川から松島湾までの東名運河という運河があり、貞山運河はその全体の総称でもあるのでした。

これに更に接続する河川や水路が数多くある。仙台市内だけをとっても七北田川、七郷堀、六郷堀、名取川などがあげられる。僕の育った町にも小さな水路があった。広瀬川から分水されていたこの水路は町を抜け仙台の湾岸部に広がる田園地帯を縦横に走り貞山堀に流れ込んでいたのでありました。子供の頃この水路には小さな船着場の跡があったり、旗などの染物を流して洗ったりする光景も見られたものでした。昔は船で米等を運び込んでいたという話をきいたこともあった。当時は想像することができていなかったけれども、仙台も水運を利用して小舟が行き来する光景を見せていた時代があったのだ。

そしてその水運の新しい活力として企画されたのが野蒜の築港であった。勿論僕はこの本を手にするまで野蒜の築港計画のことなんて全く知りませんでした。

明治8年に大久保利通内務卿に対して提出された産業振興策の意見書に纏められたことで産声を上げた宮城県の築港計画は、翌9年、大久保利通本人の視察などを経てその場所を野蒜にすることが決定する。

本書はこの築港計画の策定から難航する工事、そして計画中止に至る全工程について詳細な調査を行った結果を纏めたものとなっている。

また並行して築港・工事が進む宮城県・仙台の当時の人びとの実情・風俗・事件などを当時の新聞記事などを抜粋することで見事に蘇らせている。僕は野蒜築港に興味があって読み始めたのだけれども、当時の仙台の歴史的背景は驚くほど読み応えがありました。


 ---最もここ宮城県などは、昔から土地が肥沃で産物も多かったのにかかわらず、ただ人民が怠惰で、勉強や忍耐といった精神を発揮することができなかった。その為、手中に収めるはずの利益をみすみす他人に奪い取られて、足を貧困社会から抜き去ることができずにする。(仙台 社説)


はっとする一文である。子供の頃の宮城県の県民性というか仙台人の気質はこの記事に指摘されていることを真に受けている感じの雰囲気があったと思うのだ。どこか諦めた感じ、「どうせダメだ」とか「やってもムダ」的なネガティブな部分があったなぁと思うのだ。

江戸城に次ぐ規模の仙台城は自然の城壁に守られた堅城を構え、村上水軍から人を派遣させ水軍も備え日本統一の野望を秘かに抱き続けていたという伊達政宗。

伊達男という表現すら今に残る伊達政宗の存在とこの仙台人の気質のギャップは僕にとって一つの謎であった。これは隆盛を極めた仙台が戊辰戦争で思いがけず逆賊となったことがきっかけであったことに端があったのであったのだということを本書は様々な切り口で浮かび上がらせてくる。

 明治元年(1868)戊辰の敗者となった奥羽越列藩同盟の各藩に処分が行われた。会津藩がわずか3万石に減封されたうえ、二百年続いた会津の地を引き払い、斗南藩に移封し、非常な苦労があったことは有名である。その一方で、仙台藩にも厳しい処分があった。<BR>
表高62万石であった仙台藩であったが、その実高は100万を越すものであった。それが減封されて、実高で28万石と約3分の1にも満たないものとされたのである。財政は当然困窮した。会津のような所替えがなかったのは幸いであったかもしれないが、仙台に新封をなしえたのは仙台藩の本籍士(本藩士)のみだった。仙台藩には亘理(2万5000石)や、角田(2万1400石)など、万石以上を分与された重臣が八家もあり、それらはことごとく仙台藩から切り離され、多くは強制的に帰農せしめられた。行き場をなくすこととなった仙南の藩士は、結果として北海道に渡り大地の侍となる。また、仙台藩の本藩士とその倍臣についても、約3万2000人いた中で、約2万7000名は帰農せしめられた。2万7000名というのは、会津藩士の全数よりも多かったのである。


更には減封や秩禄処分があり、その過程では逆賊となった地域と他の地域ではその査定に大きな差別があったという。大きな社会的潮流として進められた士族の解体はここ仙台では貧困を生んでいた。そしてそんな時期に旱魃や飢饉、そしてコレラが襲いかかってくる。

野蒜築港とその挫折はその最中に起こる。それ自体を知らずともこの出来事は仙台人の心根に深く刻まれているのでありました。横浜のような港を目指していたという野蒜港が見事に完成機能していたら、野蒜港により地域が活性化していたら、果たして明治から昭和にかけて仙台はどのような姿になっていたのだろうか。

失われてしまったものもそれによって起こることがなくなった未来も二度と元に戻ることはないのだけれども、より良い明日を信じて前に進んでいって欲しいと心から思う。また大きな被害にあったからこそできる大胆な変革もあると思う。夢を描きなおして頑張って欲しいと思います。




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ずる-嘘とごまかしの行動経済学
(The Honest Truth about Dishonesty,)」
ダン・アリエリー(Dan Ariely)

2013/06/02:急に色々立込んできて週末が慌しくなってきてしまったので手短に。ダン・アリエリーの本は「予想通りに不合理」に続いて二冊目だ。

この行動経済学というものはなぜ実体経済が経済理論と乖離した結果を生んでいるのか、その間隙をうめんとするりものからスタートしたものなんじゃないかと思うのだけど、研究すればするほどみえてくるのは、そんなに人間は合理的な生き物ではないという方向へ進む一方で、経済理論が机上論で現実世界では役にたたないんじゃないのという、根っこの部分に突然斧を振るうような展開になってくるところがポイントだ。

そんな折併読しているジャレド・ダイヤモンドの「昨日までの世界」に思わず立ち止まって考え込んでしまうような記述にであった。詳しくは当該の本、または後日おそらくアップされる記事を参照頂きたいと思うのだが、簡単に書くと、過去の大学の論文に利用されている統計分析のほぼ大部分に使われている母集団は、研究をしている大学の関係者やその学生であったというものだ。

ダイヤモンドはこの根拠を本のなかで詳しく述べているのだれど、その母集団は西洋的で(Western)、教育(Educated)が普及していて、産業化(Industrial)されていて、富める(Rich)、民主的(Democratic)な社会に住む被験者を対象にしたものだ人間心理に関する認識の大半は、WEIRDつまり、風変わりな人びとを対象にしているというのだ。

繰り返しになってしまうけれども西洋的で金持ちの地球規模でみた場合にはほんの一握りの偏った人たちを対象に調査した結果でロジックを組み立てても世の中で通用しないのは当然だったというのである。

なんと、なんと。当たり前すきで開いた口が塞がらない。

経済理論がこうしたWEIRDな根拠に基づき構築されていて、それに基づき進められる経済政策は的を外れ、規制や法律は身体に合わず、経済はバブルと崩壊を繰り返し、通貨制度は疲弊して新しいものを作り出さなければならなくなる。ということを積み重ねてきているとしたら・・・・悪いのは誰かという話になりませんという感じがしてくる。

そしてこのズレた経済理論を修正しようとしている行動経済学もやはり研究に使うための調査分析は身近なところでやっていた。アリエリーの話は面白いのだけど彼もやはりこのタガから外にでることはできないだった。

彼の研究も大抵は大学の学生や、この大学がやる実験に報酬をもらって集まってくる人たちだった。外から報酬目当てにやってくる人たちが果たして「富める」人びとなのか「教育」をちゃんと受けた人たちなのかはわからないけれども、世界基準のレベルで考えればやはりWEIRDな訳なのだ。

そしてその研究結果はやはり経済理論が予測したものとは乖離が発生する。ではその予測のもととなる経済理論を構築する際に利用した研究対象はどれだけWEIRDだったんだと。

でわれわれはそんなWEIRDな結果に基づきお仕着せられているTPPとか消費税増税とかに振り回され、J-SOXのようなばかみたいに過剰なルールに翻弄されるという次第なんじゃねーかと強く憤る。

ちなみに毎回きちんと選挙に行って投票する人たちもある意味WEIRDなんだろうなーとか思う今日この頃であります。

上述の内容とはまったく外れますが本書には自我消耗という大変示唆に富んだ一文がありましたのでご紹介します。


 誘惑に抵抗するには大変な努力とエネルギーが必要だというのが、自我消耗の基本的な考え方だ。意志力を筋力に見立てるとわかりやすい、フライドチキンやチョコレートシェイクを見ると、わたしたちは本能的に「おいしそう、食べたい」と感じる。それから、この欲求を克服しようとして、いくらかエネルギーを消費する。誘惑から逃れる決定を下すたび、多少の努力が必要になる。(重量挙げを一度するようなものだ)そして意志力は、繰り返し使われるうちにいつしか消耗してしまうのだ。(何度も重量挙げをするようなものだ)つまり、ありとあらゆる誘惑に対して、一日じゅう「ノー」と言い続けると、誘惑に抗う力が弱まっていく。そしていつかある時点で屈してしまい、結局はチーズデニッシュにオレオクッキー、フライドポテトなどなど、よだれの出そうなたべものをたらふくつめこんでしまう。


ダイエットや禁煙などで日々誘惑を退ける努力を行っている方々には強くうなずける話ではないかと思いました。こんなときどう対処すればいいか、我慢の限界まで頑張るのではなく、適当なところでガス抜きをするのだそうです。勿論、ダイエットしている人がたら腹たべたり、禁煙している人が喫煙したりすることではありません。それ以外で我慢する必要があると思われるものを小出しに解放するのだそうです。こうすることで自我消耗が回復して頑張れるようになるのだそうです。

これもWEIRDな話なのかもしれませんが、大丈夫、この本やこの記事を読んでいる以上あなたも少なからずWEIRDなのです。

おそまつでした。


「予想どおりに不合理」のレビューはこちら>>




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ドーキンス博士が教える「世界の秘密
(The Magic of Reality: How We Know What's Really True)」
リチャード・ドーキンス (Richard Dawkins)

2013/05/26:児童書とのことだったので読むだけで記事に書くつもりはなかったのだけど、読み終えてここは何か一言だけでも申し添えておかなければならないという強い思いを抱きました。

本書は我が家の高校生になる娘が合間にパラパラめくって興味を示し、是非読みたい、面白いと言っておりました。是非通して全部読んで欲しいものだと思います。

冒頭、本書のタイトルにもなっている「マジック」。ドーキンスはこの「マジック」には三通りの意味があると述べます。

それは

①超自然のマジック

②ステージ・マジック

③詩的なマジック

です。

①超自然のマジックは神話やおとぎ話にでてくる魔法、②は手品師がステージで行うようなもの、そして③詩的なマジックとは音楽や自然の光景、そして僕らが生きているとなどを実感して感動するようなことを指す。

ここで大切なのは科学的手法によって理解される現実世界の事実をきっちりと踏まえること、この現実世界を正しく理解してこそ、③の詩的なマジックを真に理解・共感することができるのだということ。

うっかりテーブル・マジックのような小手先の嘘やたまさか超自然のマジックのような戯言に迷わされてはならないのだということなのである。

<目次>

1.何が現実で、何がマジックのか?

2.最初の人間は誰だったのだろう?

3.なぜ、こんなにいろんな動物がいるのだろう?

4.ものは何でできているのだろう?

5.なぜ夜と昼があり、冬と夏があるのだろう?

6.太陽って何だろう?

7.虹って何だろう?

8.すべてはいつ、どうやって始まったのだろう?

9.いるのは私たちだけなのか?

10.地震とは何だろう?

11.なぜ悪いことは起こるのだろう?

12.奇跡とはなんだろう?

この背景には、アメリカにおけるキリスト教原理主義の台頭がある。狭量で頑迷なこのキリスト教原理主義者たちが行政やコミュニティを支配し、ダーウィンの「種の起源」や進化論について学校教育でとりあげるのをやめさせたりするという活動を続けた結果、米国人の約40%の人が生命は1万年くらい前に神によって創造されたと信じているというような事態が起こっているのだ。

ちょっと信じられないような話なのだけれども子供のころから周到にそのような科学的な事実や仮説から遠ざけられ、宗教的な勉強を疑いもなく受けてくればそのような大人になるのは当然のことなのだ。

科学界はこうした事実に強い懸念を持ち実際に裁判となったりするケースもあるのだけれども、更にびっくりすることに科学サイドの旗色は悪い。のだ。

これは根拠が薄いからとか理屈で負けているということではなく、司法においても科学よりも宗教を強く信じ、その規範に則り判断をしている人たちが多いからと考えるべきもののようなのだ。

司法や行政、まして国際政治を取り仕切る際にこうした価値観を持って行動している人たちが少なからず居るという現実にまごつくのは大人気ないからだろうか。それとも世間知らず?だから?なのか。

ドーキンスはこうした事態打開への急先鋒ともいうべき人物である訳で、前々から無神論を唱える本を何冊も書いている。直近で僕が読んだ本も「進化の存在証明」というタイトルのものであった。

程度の差こそあれ進化論に一定の信頼を置く人々がこの本を読んでも、実はあまり手ごたえはない。なぜなら当たり前だからだ。一方で進化論を疑う、或いは拒否しているような人びとにとってはどうかというと、そんな人はきっとこの本みたいな本は一切読まないんだろうなーという暗澹たる思いを抱いた。

そして本書。児童向けということで非常にやさしい切り口で幅広い事象に切り込んでいく、とても良い本になったと思う。

しかし高い。天地創造を真っ向から信じている家庭の子供達の目にこの本が触れることがあるのだろうか。こうした人たちが暮らすコミュニティの図書館の本棚にこの本が並ぶことはあるのだろうか。

一方で、一個人が水をワインに変えたり、一つのパンを割いて一万人の人びとに分け与えて皆で満腹になったり、水の上を歩いて渡ったりしたことが「神話やおとぎ話にでてくる魔法」の類であることを認めることができたとして、キリストや蘇生、そして創造主の存在を否定することはできるのかと思わずにはいられない。

個人ではなく社会としてそのような考えに移行することはできるのだろうか。そして更にキリスト教ばかりではなくあまたの宗教を人類が捨てさることができるのかということを考えるに宗教・信仰の存在の大きさを感じずにはすまされない。

今できることを考えるに単に捨て去るのではなく、何らかの解を得つつも折り合いをつけていくことしかないんじゃないかと思う。そして本書にも前著の「進化の存在証明」にも欠けているものはやはりこの信仰や宗教の役割いや意味合いに対する配慮。

残念ながらいくら正論でもそれだけで世の中の人を動かすのは無理でしょう。そこにはやはり詩的なマジックが必要なのかもしれません。


「進化の存在証明」のレビューはこちら>>
「魂に息づく科学」のレビューはこちら>>

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ホビット-ゆきてかえりし物語
(The Hobbit, or There and Back Again)」
J.R.R. トールキン(J.R.R. Tolkien)

2013/05/12:これも何度も書いているけれども僕は今年50歳になる。自分では漠然と全く自覚がない。これほど自覚がないということが普通なのかわからないけれども、本当ならもう少し年相応の落ち着きのようなものがあってもよいのではないかとか、若い人たちと自分自身の世代ギャップのようなものについてもっとはっきり感じるところがあってもよいのではないかと思うのだけれど、どちらもいつになっても備わる気配がないままだ。

高血圧だということで薬を飲み始めてもう随分になるのだけど、先日行った血液検査の結果尿酸値が閾値を超えているということでこれに対する投薬が開始されることとなった。

毎朝、血圧と尿酸値の薬で三錠薬を飲むことになる。10キロを目指してはじめたジョギングも二度も足を痛めて達成が危ういばかりか、普段痛む足をひきずって歩く毎日です。自覚はないけど確実に身体はおっさん化してきている訳なのでありました。

読み始めておやっと思ったのがビルボ・バギンズはそんな僕と同じ50歳という設定なのでありました。格式があり裕福な家柄に生まれたビルボは生まれ育った家で習慣と慣習に沿って日々を過ごすことに何の不自由も不満もなく暮らしているのでありました。

このビルボはホビットで人間に比べればずっと長生きであるという設定だということだと思いますがその暮らしぶりは人間の同世代の大人を模したものになっていると思ったのでありました。

そんな彼が突然現れた魔法使いのガンダルフに召しだされて13人のドワーフと共に今では荒れた地の果となりドラゴンの根城となっているドワーフのかつての城とそこに眠る財宝を取り戻す旅に出る。

ドワーフとは民話や神話に登場する小人の妖精で「白雪姫」などにも登場する者だ。彼らはかつて大きな城と城下町を形成する国を持っており、城には大変な財宝を蓄えていた裕福な国であったが、突如来襲したドラゴンにより城はおろか城下町も荒廃し今では草木も生えない荒野となって久しい。

その土地を取り戻そうと立ち上がった13人のドワーフであったが人数が不吉な数であったということと何かの折に役立つ助っ人を1人探すことをガンダルフに依頼していたのだった。

そのガンダルフが白羽の矢を立てたのが、ドワーフよりも更に小柄でその足音一つ立てずに歩くことができるホビットのビルボ・バギンズだったという訳なのでありました。

これがこの「ホビット-ゆきてかえりし物語」の骨子となっている。

ビルボがやがてこのホビット村に帰ってくることを示唆したタイトルになっているのは一体なんでか。トルーキンは自分の子供達に語り聞かせることを含め子供向けの物語を書いているという意図があったことから結末をはじめに明かしているのではないかと思う。

最後には無事帰ることは間違いないのだけれども旅の途中にはハラハラどきどき、思いがけない展開にびっくりする仕掛けが幾度も仕掛けられているのでした。

僕が「指輪物語」を読んだのはもう10年以上も前で勿論当時はまだ映画の「ロード・オブ・ザ・リング」もできていなかった。この「指輪物語」は1954年から1955年にかけて出版されたもので、本がでるやトルーキンの意図した子供ばかりか大人にも広く読まれ非常に高い評価を受けた作品で、20世紀文学で最もポピュラーな作品の一つになったものだ。

当時営業部門に所属していた僕は通勤と取引先への移動の合間の時間を使ってちびちびとこの本を読みきったのでありました。しかし如何せんこの「指輪物語」は単行本で9冊にもなる大著だ。なかなか読みきるのは大変なのでありました。随分と時間がかかったし、夥しい登場人物の見極めが困難になりかなり迷子になったままゴールインしたというのが正直なところでありました。

そのずっと後になって「ロード・オブ・ザ・リング」を観て漸く物語の全体像がわかった感じでした。お恥ずかしい話でありますが。今回ピーター・ジャクソンがメガホンを取り「ホビット」も三部作として映画化されました。本も新たに訳出し直しされたものが出ました。この機会に「指輪物語」で迷子になったことから見送り続けてきた「ホビット」に手を出してみたという訳です。

わかりやすく読みやすくなった本に加えてホビット村やさけ谷の様子、ガンダルフ、ドワーフ、ホビットたちの風貌なども映画で観た姿が手がかりになって非常に面白く楽しく読めました。

またこの記事を書くべく本棚の奥からひっぱりだしてきた「指輪物語」も訳が古い、わかりにくい印象がありましたが、映画を観てから読むのでは段違いにわかりやすいことにおどろきました。

読みにくいわかりにくい印象を与えていたのは訳そのものではなく、土地を示しているのか族の名なのか人の名なのかはっきりわからない「モルドール」のような単語があり、これに類似するゴンドールなんてのもあるということが非常に多いからなのでした。これに加えてアラゴルンが「馳せ男」のようなあざなのような呼び名を持っているように1人のキャラクターにいくつもの呼び名がある。アラソルンの息子アラゴルンで馳せ男とも云うという情報をしっかり押さえていないと「誰だっけ」となってしまう訳なのでした。映画を観た今じっくり再読するというのはかなり愉しいことになりそうですが、老後の楽しみとして今は本棚に戻そうと思います。

「ホビット」の読みどころはそれこそ沢山ある訳ですが、なかでもとても気になるのはビルボが如何にしてあの指輪を自分のものにしたのかというところにあるのではないかと思います。

「指輪物語」ではゴラムがかつてスメアゴルと呼ばれていたころに仲間を殺してこの指輪を手に入れる映画で描かれたとおりの説明がガンダルフからなされていました。しかしこのゴラムの指輪がなぜビルボの手中にあるのかはこの本には描かれていない。と思っていました。

今回「ホビット」を読み終え再び「旅の仲間」の序章に目を通してみましたところ実はちゃんと概略が書かれているのでした。随分と雑な読書をしていたものですねー。

いろいろと調べてみますと、「指輪物語」に先行してかかれたこの「ホビット」の最初の版ではビルボはゴラムと出会いますが、友好的な関係にあって二人でゲームをして遊びビルボが勝ちこの指輪を手に入れることになっていたそうです。

トルーキンは続編となる「指輪物語」を書くにあたって、この指輪を手に入れる下りを書き換えたのだということでした。

そして旅の同行者であったガンダルフもこのビルボの指輪が実は大変な代物であったことに旅のあとも長く気づくことがなかったという設定にしたのでありました。

この指輪こそエルフに三つ、ドワーフに七つ、死すべき運命にあるとされる人間には九つ授けられたという十六の指輪すべてを統べる恐るべき力を備えた指輪だったのでありました。

かつてこの指輪を持っていたモルドールのサウロンはイシアドゥルに破れ指輪も彼の手に渡った。イシアドゥルはやがてあやめ野でオークの待ち伏せにあい射殺されてしまうがこの際に指輪は失われてしまった。

このサウロンの敗北から長きに渡り闇に引きこもったモルドールがやがて力をぶり返しこの失われた指輪を探しはじめたことがガンダルフの知るところとなり「指輪物語」はお話が歩き出すという次第なのでありました。

さてさて、映画を観て満足しますか。本もじっくりと読んで物語世界に浸るか、「ホビット」から読むか「指輪物語」からとりかかるかあなたならどうしますか。

トルーキンの没後に息子の手によって編纂された「シルマリルの物語」や「終わらざりし物語」という本もあり重層的に広がる世界観を抱えるこの指輪物語は正に世の宝なのでありました。




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心をつくる―脳が生みだす心の世界
(Making up the Mind:
How the Brain Creates Our Mental World )」
クリス・フリス(Chris D. Frith)

2013/04/29:GWであります。あいまでやらなきゃいけない仕事もあるけれども僕の会社は10連休。一方でカミさんや子供達は中日に仕事や学校そしてバイトなんかも入っているということなのでこんなに休んでいるのは僕だけという状況だ。

そんな訳で帰省もできず僕は僕なりに自分でやる事をみつけて過ごす気ままな日々になりそうです。

丁度今、岩波科学ライブラリー〈生きもの〉の山下 桂司の「ヒドラ――怪物?植物?動物! ヒドラ――怪物?植物?動物! 」を読み終えた。この本ではヒドラ類を刺胞動物門に属するグループと定義しているけれどもどんな範囲がヒドラ類なのかよくよく読んでもはっきりしない。

ヒドラ類は定義が不明確なばかりかそのライフサイクルや発達史、遺伝的な関係性も不明な点が多い謎ばかりの連中だ。そのヒドラ類は中枢神経がなく神経細胞が体表にある分散型のネットワーク処理で活動を統制しているのだという。これを散在神経系というのだそうだ。こんなヒドラは捕食や事故などによってどこであれ身体の一部が欠損したとしてもネットワークは機能するし、時間があればやがてその欠損部分を再生させることができるのだという。挙句には老化した個体が分解した結果、無性生殖的に無数の若い子孫となって再生するものもいるのだという。このヒドラ類にとっては個という概念もなければ生や死も異なる事象なのだ。

「心をつくる」でも心は脳が先行的に獲得してきた機能、視覚・嗅覚などを利己的な活動へフィードバックするなどの高度化が進んだ結果として産み出されたものであるということが書かれていた。発達史的に考えても心を生物が獲得したのはより後になってからであることが明らかな訳なので、原始的な生物ほど心のようなものを持っていない可能性は高い。

まえがき
謝辞

プロローグ ホンモノの科学者は心など研究しない

第1部 脳の作る錯覚から透かし見る

第1章 脳の損傷例を手がかりとして
第2章 正常な脳が世界について語ること
第3章 脳が身体について語ること

第2部 脳のやり方

第4章 予測によって先んじる
第5章 私たちが知覚する世界とは現実と対応した幻想である
第6章 脳はどうやって心をモデル化するか
第3部 脳と文化
第7章 心を共有する――脳はいかにして文化を創造するか
エピローグ 私と脳と


神経系の構造は生き物によって様々で、このヒドラ系の散在系に対し海綿動物のように神経系を持たないものやヒトのような集中神経系を持つものがいる。集中神経系の構造にはまた、ヒトを含む脊索動物の管状神経系と節足動物の持っているはしご形神経系、扁形動物のかご形神経系というものがあるのだそうだ。

こうして見ると神経系の発達もその構造的な特性や限界によって、散在系は勿論のこと、管状・はしご形・かご形の神経系でそれぞれ価値観や仮にあるとした場合の意識というものが全く異なるものとなってくる可能性は高いと思う。

では我々の心はいつごろどのようにして生まれてきたのだろう。

学生時代は物理学を専攻していたという著者のクリス・フリスは脳の活動や反応を発展進化してきた測定装置やコンピューター処理を使って分析・研究することで、この意識や心というものは脳が創り出しているものであるということを確信したのだそうだ。意識は脳が外界の世界をモデル化し更には未来を予測し、より自分に有利で価値の高い行動をとって行く為に必要なものとして産み出したものであり「幻想」であるとまで言い切っている。

このあたりの意識の発生起源というかなりたちのような部分がどうであったかというところに現在の僕の興味が向いていたのだけど、本書はこの由来のような部分であったり意識そのものを脳がどのように創り出しているのかということについては踏み込まれていない。なぜならそれは現在の最先端の学説であっても全く5里霧中であるかららしい。なるほど、最初に言ってくれればもう少し読みようも変わっていた筈なのだけどなー。時に軽妙でふいを突かれるかのように高度な話が切り込んでくる本書は読み進むのは楽しいが残念なことに得るものは少ないようだ。

ベイジアン脳は世界のモデルを構築するという章ではトーマス・ベイズが示した条件付確率に関する定理-「ベイズの定理p(a/x)=(p(x/a)*p(a))/p(x)」について、以下のようなことが書かれていた。かなり難解だが。

 知りたいという事象aがあり、この事象aと結びつく証拠となる観察xがあるとき、ベイズの定理は新しい証拠xが与えられたときに事象aに関する知識をどれほど更新すべきかを示してくれる。(~)重要なのはこの方程式こそ、私たちが求める数式による信念の定式化だということである。ここでいう信念を数学の用語では(事象の)確立という。確率を使えば人があることに対してどれくらい信念を抱いているか測ることができる。

 ベイズの定理には脳のはたらきを理解するうえでさらに重要な一面がある。この定理には二つの重要な構成部分がある。p(a/x)とp(x/a)だ。p(a/x)は新しい証拠xが与えられたときに世界についての信念aをどの程度変えなければならないかを示している。これに対してp(x/a)は世界についての信念aが与えられたときにどのような証拠xが期待されるかを示す。これら二つの要素は、一方で予測を立て、もう一方でエラーを検知する装置として見ることができる。脳は世界に対して抱いている信念に基づいて、目や耳や他の感覚が検知するであろう活動パターンを予測できる。これはp(x/a)にあたる。ではこの予測にエラーが起こるとどうなるのだろうか?こうしたエラーは脳が世界に対する信念を更新し、より良いものとするのに役立つので非常に重要だ。これがp(a/x)にあたる。一度こうして更新されれば、脳は世界について新しい信念を得て、また同じプロセスを繰り返すことができるようになる。つまりこの新しい信念によって、私の感覚器が感知する活動パターンをさらに予測するのである。脳がこの閉じた輪のようなプロセスを繰り返すたびに予測のエラーは少なくなっていく。そしてエラーが十分に少なくなったとき、人の脳は外の世界に何があるかを「知る」のだ。


要するに脳は知覚したことを信念に照らし予測を立てる。それは現在の自分自身がおかれている状況から将来起こりえることまで含めたものだ。その上で今後の具体的な活動に移るための決定をするために意識という自己中心的な世界観を造りそこへその予測をイメージとして連動させているらしいのだ。つまりは意識を用いることで単なる条件反射的な反応ではなくより洗練され合理的な行動をとることができるようになったということか。

人間の脳にとって、世界とは周囲に見えるがやがやしたにぎやかな混沌ではなく、未来に起きることの可能性を示すサインからなるマップなのだと。そして未来の可能性を示すこのマップによって、私たちの身体は周囲の世界と密接に結びついているのである。だからこそ意識を持っている我々は現在のこの今の瞬間に生きつつも、過去の記憶と未来の予測や期待とを行きつ戻りつして、思い悩む生き物にしているらしい。

我々は自我が自分自身でありその自我が自分自身の身体を支配し統合していると思いがちな訳だが、本書を通して読んでいるとその常識が転倒していくことになる。我々趣味や仕事を愉しんだり、生きがいを感じたりすることで人生の意味を見出したりしたつもりになっているのは単なる脳の目論見から生まれた副次的なものであるということになってしまうのかもしれない。

僕の父は脳梗塞で左半身が麻痺してしまい車椅子生活となったが左側の視野に一部欠落がある。今はもうすっかり慣れてしまったようだけれど、最初の頃は左側から話かけても相手の存在が認識できなかったり、話が理解できなかったり、車椅子で進むときも左側にものがあるとぶつかってばかりいた。

これを「盲視」と呼ぶ。視覚神経には全く異常がないのだけど、意識下では左側のものを認識することができないことを指すのだそうだ。当時僕らは父親の症状に一喜一憂しつつもおろおろするばかりであった訳だが、この見えている筈なのに認識が出来ないということに歯がゆいというか人知を超えた脳の機能に畏怖の念を覚えたものだった。

本書にはこの盲視の患者のなかには、認識はできていないその欠落した視覚野にある物体に正確に手を伸ばしたりすることができる場合がある例が紹介されていた。脳は知覚しているのに意識の上で認識できていないのである。

言われてみれば当たり前話なのだが、脳にとって意識というものはその機能のほんの極一部にすぎないということなのでありました。




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失われた二〇世紀
(Reappraisals:
Reflections on the Forgotten Twentieth Century)」
トニー・ジャット(Tony Judt)

2013/04/21:トニー・ジャット三冊目。優れた知性というものはかくも鋭いものなのかと。失われた知性やその空いた穴を埋め合わせる、次代を担う人材というものは切れ目なく、絶え間なく生まれ続けていくものなのだろうか。

4月に入って大きなニュースが立て続いている。先ずは地震。イラン東部に続いて四川省雅安市盧山県でも大きな地震が起きかなりの被害が出ている。ここ数週間日本各地でも大きめな地震が増えちょっと心配。

4月8日「鉄の女」の異名を取ったマーガレット・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)が亡くなった。日本のメディアではこぞって彼女の業績を褒め称え「偉大な政治家」等その死を悼む報道がなされ、安倍首相をはじめ政治家達からの同様のコメントも流された。

日本政府としてイギリスのかつての首相の死を悼むコメントとしてそのように述べるのは礼儀だと思う。けどもその実態としてこの人のどこが偉大だったのか。僕には全く理解できない。世間の人の本音は実際どんなものなのだろうか。

ジャットはこの「失われた二〇世紀」なんでトニー・ブレアが2001年の総選挙で圧勝したことを受け、その勝利はブレアの政治上のキャリアの大部分と同様本人の資質ではなく、サッチャーから受け継いだ三つのものによってのみ達成されたと断言していた。その三つのものとは


 第一に彼女は、工業とサービスにおける公共部門を徹底的に解体し、ブレアがその賛歌を熱唱する「民営化された」イギリスをその後釜に据えることを「常態」にした。第二に、彼女はその過程で、旧来の労働党を破壊し、党の改革を推し進めようとする者たちの仕事を容易にした。そうした改革を進めようとした人たちの成果を、ブレアは単に刈り取りさえすればよかった。三番目に、彼女の荒っぽさと反抗分子や意見の不一致に対する不寛容さが、みずからの党を分裂させ、選挙に勝利する力を奪ってしまったということがある。イギリス国民は一度も心から彼女のことを、あるいはその政策が好きだと思ったことはないが、彼女のやり方を渋々ながら称賛し、やりすぎたところと奇抜さは大目に見たのだった。


彼女は徹底した頑迷さで推し進めた民営化の結果イギリスの教育システムはぼろぼろになり、鉄道に至ってはヨーロッパで最も割高で危険なインフラとなったのだそうだ。経済は停滞し地方経済の半分は溺死かその寸前にあり、今やかつての大英帝国の威容を蒸発させ、アメリカの小型の番犬といった体になりさがっている。

こうなることが目的であったとしたなら彼女の手腕は見事としかいいようがないが、本人はこの結果どころか進めていること自体きちんと理解をしていなかったのではないかと思われる。そんな彼女に爵位を与え仰々しい葬儀をテレビ中継しているイギリスという国というものは一体誰の国なのだろうかと思う次第であります。

15日ボストンマラソンのゴール付近で突然の爆発が発生、この爆発で3人が死亡。170人以上が負傷した。爆破テロだという。この後に続いたテキサス州ウェイコの肥料工場が爆発。12人が死亡、200名近くが負傷した。こちらも事件性が疑われ一時はかなり騒然となった。

テキサスの事件は事故と事件の両面から現在も捜査中だが、ボストンの爆弾テロ事件の方は今週更に大きな動きがあった。チェチェン人の26歳と19歳になる兄弟二人が容疑者として特定され、彼らはMITで警察官を射殺しカージャックして逃走。警察隊との銃撃戦で兄タメルラン・ツァルナエフは死亡。弟は負傷しつつも更に逃亡を続け、大勢のまるで軍隊のような武装警官隊に追跡される事態となった。

逃走した弟ジョハル・ツァルナエフは住宅街の裏庭に置かれたヨットの中に潜伏。この気配に気づいた住民の通報により包囲されついに拘束された。兄のタメルランはここ数年の間でイスラム過激主義への傾倒を強めたらしいという情報もあるが、一方で弟ジョハルは普通の学生として学校生活を送っていた模様で凡そ犯人像とは乖離のある感じだ。

本当にこの二人が犯人なのだろうか。しかし現地の警察はバンバン発砲して兄は射殺。弟も重傷なのだという。「悪」のレッテルが貼られるや手加減なし問答無用となるのはお国柄というものなのかこのアメリカという国もまた一体誰のものなのだろうかと思ってしまう次第であります。

そして北朝鮮のミサイル。水面下でいろいろあったということなのだろうが、ここにきて北朝鮮の態度硬化が限界近くまで上昇し、これまでにない過激な発言が報道されるようになってきた。この背景には北朝鮮のミサイルがアメリカ本土を直接攻撃対象として考えられる程に性能が向上してきたことがあるらしい。

二〇世紀を振り返ると過去のどんな時代よりも戦禍にまみれ未曾有の被害を引き起こした時代だったのだという。


 ヨーロッパ大陸のほとんどとアジアの多くの地域にとって、二〇世紀は、少なくとも1970年代までの二〇世紀は、ほとんどたえまのない戦争の時代であった。大陸での戦争、植民地での戦争、内戦、前世紀の戦争は、占領、排除、略奪、破壊、そして大量殺戮を意味していた。敗北した国はしばしば、国民、領土、安全保障、そして独立を奪われた。しかしかたちのうえでは勝利した国でさえも、同じような経験をし、戦争を敗北者とおなじくらいに深く心に刻んだのである。第一次世界大戦後のイタリア、第二次世界大戦後の中国、両戦争後のフランスがそのような例である。さらに戦争には勝ったけれども、勝利によって与えられた機会をむざむざと浪費することで「平和を失った」国の例は枚挙にいとまがない。1967年6月の勝利ののちの年月のイスラエルが、今でも最も好例であろう。


しかし例外がある。アメリカ。この国はこの戦禍の時代にあって直接本土が戦場となり焦土化することが殆どなかったのだという。この戦争の悲惨さに対する直接の記憶のない国アメリカにとっての二〇世紀は他の国のそれとは大きく異なる世界観になるらしい。戦場の、爆撃を受けた街の直接の被害を目にしたことのない人びと。自分達の街が突然の爆撃やテロ攻撃で焼け、ある日突然家族や隣人が帰らぬ人となる経験のない国。

なるほどと思う。集団としての経験値がないゆえに想像しようにも出来ないということか。それに輪をかけているのが、この時代を生きた若者達の現在に対する強い特別視があった。過去に例がない今この現在という特殊性。だから過去に学んでも意味がないという訳だ。


 わたしたちは過去から多くを学ぶことができなかっただけではない(それ自体驚くべきことでもない)それだけでなくわたしたちは、経済的な計画や、政治実践、制度的戦略、教育上の優先事項といった点で、過去には学ぶべきところがないと声高に主張するようになったのである。わたしたちは主張する。わたしたちの生きる世界は新世界であると、そこにあるリスクやチャンスは前例のないものである、と。

 1990年代に、そしてさらには2001年9月11日の余波のなかでものを書いていて、わたしは一度ならず次のような強情な態度に出会って驚かされた。すなわち、国内外を問わず現在のわたしたちのジレンマの文脈を理解しようとしない態度、過去のより賢明な頭脳の持ち主の言葉に、もっと耳を傾けようとはしない態度、忘れないでいるのではなくむしろ積極的に忘却しようとする態度、そして連続性を否定してあらゆる機会をとらえて事態の新奇さを言い立てる態度である。こういった態度はつねに、どうも独我論的に思えた。


しかし、現代という時代は調べれば調べるほど過去と密接に繋がっておりそのくびきから逃れられないように思える。アメリカがイスラエルへの援助や中東からの完全撤退など将来的にも無傷で実施することは恐らく不可能だろう。日本も中国や朝鮮半島との間でこれまでにあったことを全部水に流して皆で手を結ぶことがどんなにか困難なことかは想像に難くないだろう。本書は本来今現在を語る上で必要となる筈の失われた文脈を語り継ぐものになっているという訳なのでありました。

<目次>
第1章 典型的知識人アーサー・ケストラー
第2章 プリーモ・レーヴィにかんする基本的事実
第3章 マネス・シュペルバーのユダヤ的ヨーロッパ
第4章 ハンナ・アーレントと悪
第5章 アルベール・カミュ――「フランスで最高の男」
第6章 衒学者の仕事――アルチュセールの「マルクス主義」
第7章 エリック・ホブズボームと共産主義というロマンス
第8章 さらば古きものよ?――レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産
第9章 「哲人教皇」?――ヨハネ・パウロ二世と現代世界
第10章 エドワード・サイード――根なし草のコスモポリタン
第11章 破局――一九四〇年、フランスの敗北
第12章 失われた時を求めて――フランスとその過去
第13章 庭に置かれたノーム像――トニー・ブレアとイギリスの「遺産」
第14章 国家なき国家――なぜベルギーが重要なのか
第15章 ルーマニア――歴史とヨーロッパのあいだで
第16章 暗い勝利――イスラエルの六日間戦争
第17章 成長を知らない国
第18章 アメリカの悲劇?――ウィテカー・チェンバース事件
第19章 危機――ケネディ、フルシチョフ、キューバ
第20章 幻影に憑かれた男――ヘンリー・キッシンジャーとアメリカの外交政策
第21章 それは誰の物語なのか?――冷戦を回顧する
第22章 羊たちの沈黙――リベラルなアメリカの奇妙な死について
第23章 良き社会――ヨーロッパ対アメリカ

いつの間にか、或いは積極的に忘却してきた僕らの前時代の文脈を捉えること。それはやはり今を知るために必要なことだ。

本書を読んでいて思い起こされるのはコーマック・マッカーシーの[平原の町」に登場したエドュアルドの台詞だ。

当たり前のことだがどういう結果になるかを無視してもその結果は生じる。違うかね?


「失われた二〇世紀」のレビューはこちら>>

「ヨーロッパ戦後史」のレビューはこちら>>

「荒廃する世界のなかで」のレビューはこちら>>

「真実が揺らぐ時」のレビューはこちら>>

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ロボット兵士の戦争
P・W・シンガー(Peter Warren Singer)

2013/04/07:新年度最初の一冊はこちらP・W・シンガーの「ロボット兵士の戦争」概ね予想していた通りの内容で、それ以上というものは何もなかったよ。
それもなんとも冗長。繰り返される表現や話題を削っただけでも数十ページは減らせたのではないかと思う。

記事を整理しているところへ産経新聞のニュースが飛び込んできた。

米、三沢に無人偵察機 先月伝達 対北警戒で配備へ
産経新聞 4月6日(土)7時55分配信

米政府が3月中旬、米軍三沢基地(青森県)に無人偵察機グローバルホークを暫定配備する方針を伝えてきたことが分かった。複数の日本政府高官が5日、明らかにした。日本国内に配備するのは初で、ミサイル発射準備を進める北朝鮮への警戒監視強化が狙い。米側は、伝達してきた時点では6~9月の暫定配備としていたが、4月に入り発射準備が発覚したことで配備を前倒しする可能性もある。



ここ数週間、世界は北朝鮮に「核攻撃」のような表現を使い出させるような状況に追い込んでしまっており、その動向を監視するための措置だということらしい。

このグローバルホークは攻撃能力がない偵察機でノースロップ・グラマン社製のものだ。ロールスロイス製のQE3007Hターボファンエンジン一機によって巡航速度343ノット、実用上昇限度19,800メートルという代物だ。

先日読んだジョビー・ウォリック(Joby Warrick)の「三重スパイ」には9.11以降アフガニスタンでの無人機による猛攻撃が始まったということが書かれていた。本書を手にしたのはこの無人機についてもう少し知りたいと思ったからだ。

この無人機だが、最初は偵察が目的だったはずなのにいつのまにか攻撃機能が実装され、そのコントロールも遠隔化が進み今ではアフガニスタン上空のプレデターをアメリカ本土の基地から制御ができるようになったという。つまり地球の裏側から無人機を操縦して目標に近づきミサイルを発射できるというわけだ。


 プレデターはもともと偵察・監視用で、敵地上空を飛行して目標を探し、状況を監視するために設計された。試作機が最初に使われたのはバルカン紛争だったが、本格的に使われだしたのは9.11以降だ。実際、アフガニスタン戦争が始まって2ヶ月で、約5百二十五の目標がプレデターのレザー指示器によって特定された。それまで将校たちからは見向きもされなかったのが、逆に品薄状態になった。当時、米中央軍(CENTCOM)司令官としてアフガニスタンでの作戦を指揮したトミー・フランクス陸軍大将は、次のように断言した。「プレデターは私にとって、アルカイダとタリバンの幹部を追い詰めて殺害する際に最も有能なセンサーであり、われわれの戦いに必要不可欠だとわかってきた」


無人機は高高度・超長距離を飛ぶような機体から、人体が耐えられないようなGを発する極限飛行が可能なもの、大型の爆撃兵器を搭載するものから、コウモリのように小さく静かに飛ぶ小型のものまで多種多様なものが開発されているのだという。また空に限ったものではなく、海では哨戒船や潜水艦、陸では地雷の除去や歩兵に先んじる斥候用のロボットが開発され無人化が進んでいるのだという。

ロボットというと人型のものをつい想像してしまうが、本書が取り扱っているロボットはセンサー、プロセッサー、エフェクター、動力源があって、自律的に行動し感知し反応することで外部に影響を与えることができるものというような定義になっていた。つまりセンサーを持ち攻撃もする無人機や船はそれ自体がロボットだという訳だ。

そんな戦場で使われるロボットは当然のように攻撃し破壊することを目的として開発されている。

 「相手が子供ならとまるべきだ。RPG7(携行ロケット砲)を抱えたやつだったら、轢き殺したほうがいい」
-米特殊トラックメーカー オシュコシュ・トラック 技術担当副社長 ドナルド・バーホフ

 「仕留めたミグの数をペンキで機体に書いたプレデターがここに戻って来る姿が見たい。その日は近い」
-プレデターの製造元ジェネラル・アトミックスCEO トーマス・キャシディ

 「近くに空軍基地がなくても、通告から30分で世界じゅうどこでも誰かを破壊させる」
-安全保障問題シンクタンク グローバル・セキュリティ ジョン・パイク


これら登場する人物の発言を読んでまず驚くのは疑わしさが微塵も感じられない敵の存在だ。誰なのか分からないけれども隙あらばすべてを奪い去ろうと挑みかかってくる邪悪な敵がおり、その敵と戦うことは当然の権利であり義務でもあるということが前提にあるようなのだ。そんな彼らは利害の反する人びとに「敵」という烙印を押しコンピューターゲームをしているかのように無慈悲に斃していく一方で自分達のロボットを擬人化し攻撃で壊されると涙を流して悲しむのである。

こんな価値観というか世界観を持った人びとが産み出した現実の未来はSF映画、「スターウォーズ」や「ターミネーター」の機械と人間が戦う世界観そのものだった。T2のオープニングの兵士たちをアフガニスタンの兵士に置換えたものが今の現実なのである。

ここにはアシモフのロボット三原則などというものは忘れ去られ、倫理観もあるかどうか怪しい。著しく非対称で歪んだ世界が現実のものであることに違和感はないかい。そしてその行為をはるか遠くの近代的な都市にあるエアコンの効いたオペレーション・ルームから指先一つで実行しているのは僕らの暮らす平和な国の人びとであるということに同意できるだろうか。


 「十分に進んだ科学技術は魔法と見分けがつかない」
-SF作家アーサー・C・クラーク


本書中なんども繰り返されて引き合いにだされるのがこのアーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」に対するコメントだ。米軍はこの飛躍的に進む技術革新を基に戦闘能力を著しく進化させてきた。「ブラックホークダウン」などの例を引き出すまでもなく、訓練され武装化された兵士たちの戦闘能力は、訓練もなく一昔前の武器を手にした者では相手にならず、束になってかかっても負けてしまうほどだ。この強さを更に強化する手段としてロボットの投入が進められていく。遥かに高度化されハイテク化された軍隊は相手からみれば神のような力を持っているようなものだという訳なのだ。


 こうなると、大した理由がなくても、神のように振る舞いやすくなる。こうした新技術は危険をはらんでいると、クリストファー・コーカー教授は言う。指導者が「正確でリスクのない戦争という考えに酔ってしまい、私たちは自分の信じたいことを信じるようになる。だがあいにく、坂を滑り落ちて、気づいたら、客観的な判断ができなくなり、大手を振って暴力を振るっていた、というはめになるかもしれない。あらゆる戦争が(最も倫理的な戦争でさえ)提起する倫理的問題の細かい部分にまでは注意を払わなくなるかもしれない」


傲慢不遜すぎて開いた口が塞がらないよ。
そこで何度も立ち返ってくるのは一つの問いだ。敵とは一体誰のことなのか。

本書では現実に起こった戦争や紛争のことは登場するが敵が一体誰なのかについては全く語ることがない。戦場で戦っている相手が「敵」であるというそれ以上でも以下でもないところで思考は停止しているらしい。

後半この敵の存在が時代とともに変化しつつあるということを吐露する。敵が国家ではなくなってきているというのだ。これを「オープンソース戦争」と呼ぶ者もいるらしい。所謂反政府勢力とかいうことを指している訳だがこうした集団がどんどん細分化し少数の組織が無数にできてきているということがあるらしい。極々少数の組織でも現在の技術をもってすれば大した費用もかけずに大量破壊を目論むことが可能となってきているのだという。


 「歴史的に、戦争は技術を推進してきた。現在は、ある種の技術が十分安くなれば、無数の人びとを恐ろしい目に遭わせられるのは国家だけではなくなり、犯罪組織が無数の人びとを恐ろしい目に遭わせる可能性もある。ある国を全滅させられるものを50ドルで買えるとしたら?言ってみれば、ツイてない一日を送っている人間は誰でも、国の存在を脅かす存在になる」
-SF作家ヴァーナー・ヴィンジ


彼らにとって敵は決して滅びることがないらしい。海の向こうのヘンテコな名前でヘンテコな服を着て意味不明の言葉で邪悪な神に祈る人びとだけではなく、我々の社会にいるごく普通の顔をしている者にも油断してはならない。なんの変哲も無い家の地下室やガレージで大量破壊兵器を作っている者がいるかもしれない。こうした事態を防ぐために街を監視し攻撃するロボットたちも悪意あるものに乗っ取られるとか、故障して暴走するか、突如我々に敵意を抱いて攻撃してくるかもしれない。

だから備えなければならないという訳だ。最後の最後は自分自身の中に敵や悪魔を見出し自殺することになるのだろうか。こういうのって個人だと普通なんかビョーキの名前がついていると思うのだけども。




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