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錯覚の科学
(The Invisible Gorilla: And Other Ways Our Intuitions Deceive Us)

クリストファー・チャブリス (Christopher Chabris) ,
ダニエル・シモンズ (Daniel Simons)

2016/09/25:「錯覚の科学」というタイトルからどんな話を想像するだろうか。僕はてっきり、視覚を中心にした錯覚の話かと思った。しかし違った。全然違った。


この本に登場するのは、私たちに影響を与える日常的な六つの錯覚─注意力、記憶力、自信、知識、原因、可能性にまつわる錯覚─である。自分のことは自分が一番よくわかっているという思い込みは、間違いのもとであると同時に、危険でもある。


六つあるという錯覚だが視覚の錯覚同様、本来の姿を見誤るという点では共通している。

大丈夫だ。間違いない。とつい思ってしまう。しかし、この見落としのせいで思わぬ事態を招いてしまう危険性の話だ。

なるほどと思うのだが、これが意外に難しい。というか捉えにくい。

本書を批判してる訳じゃないよ。というかおそらくこの捉えにくい点にこそ本書の読みどころなんだと思う。

例えば自信に関する錯覚について。


グルジアは悲しいほどの自信過剰で、世界第二の軍事力に戦いを挑んだ。プリンストン大学の政治学者ドミニク・ジョンソンは、その著書『自信過剰と戦争』の中で、第一次世界大戦からベトナム戦争、イラク戦争にいたるまでを分析し、戦いに踏み切るときの境目について考察した。そして自ら戦争を仕掛けて敗北した国が、ほとんど例外なく自信の錯覚に陥っていたと指摘している。


日本史を振り返ってもそんな事例が沢山あるし、今も絶賛再演中というべきものが多々ある。かく言う自分自身も言われてみれば、そうだったと思うような経験が沢山あった。

しかし、他人の事については勝手な事を言えるが、自分自身の事となるとこれなかなか認めにくいのである。

大丈夫だと思ってやったら失敗した。それの根本原因に自分の錯覚があるという事を受け入れるのが難しいと感じるのは僕だけなんだろうか。

もう一度、六つの錯覚とは、注意力、記憶力、自信、知識、原因、可能性だという。

注意力、記憶力、知識について自分が大丈夫だとは思っていない。見落としや思い込みが入り乱れてかなりぐしゃぐしゃになっていると思っている。あとで判ってびっくりなんて日常茶飯事だ。

それが錯覚だと言われれば、納得。返す言葉もない。

原因、可能性についても、実態を見誤ることで誤った結論に達しコケてしまうなんて事は私生活でも、仕事でもしょっちゅうあって、これも錯覚と言われれば勿論これも納得。返す言葉もない。

そして受け入れにくい自信の錯覚。これだけいろいろ錯覚する自身自身の判断にどうして自信を持てるのか。にも関わらず自信を抱いて前進していく私。それを錯覚と言わずしてどう言うのか。

僕自身飲み込みにくい点がどこにあるのか、本書を読み進んでいくに従い徐々に明らかになってくる。

本書にはこれら六つの錯覚に対する明確な回避策のようなものはほとんどない。それどころか、他人と一緒に検討すると悪い結果を招いてしまうというような話もでてきてしまう。

豊洲新市場、広尾病院、東京オリンピック、もんじゅと他人の失敗には厳しく、そんな例には枚挙の暇がない。それぞれについて何か言えと言われればいくらでも言えし書けるだろう。

テレビもそんな話題で持ちきりだ。

なのに自分自身の事になると途端に認めがたくなる。だから失敗が繰り返されていく。ではどうすればいいのか。

我々はこの六つの錯覚を抱えている事を真摯に受け入れ、それを踏まえて状況を観察すること。本書はなかなか受け入れにくいこの事実をじわじわと読者にねじ込んでくるという、なかなか他では味わえない読書体験を与えてくれる本なのでありました。


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動物たちの心の科学 仲間に尽くすイヌ、喪に服すゾウ、
フェアプレイ精神を貫くコヨーテ(The Emotional Lives of Animals: A Leading Scientist Explores Animal Joy, Sorrow, and Empathy and Why They Matter)

マーク・ベコフ (Marc Bekoff)

2016/09/17:僕は動物が心を持っていると思う。全ての動物にかと言われると、ちょっと立ち止まるが、哺乳類だけではなく、幅広い種で何らかの意識や心と呼ぶべきものを持っているのではないかと思う。

人間が高度に進化した心を持っているのに対し、他の動物たちとは何がどのように違っているのか。どうしてその違いが生じているのか。 こんな興味から度々この手の本を手にしてしまう。しかし、残念ながらこの分野の科学はまだ始まって間もなく、非常に進みも遅い。


動物の情動を研究する分野(認知行動科学と呼ばれ、動物の心を研究する科学の一分野)は、過去30年のあいだに大きく変化した。私が研究を始めた頃は、科学者のほとんどは、イヌ、ネコ、チンパンジー、あるいはその他の動物が何かを感じているということを疑ってかかる懐疑家だった。もちろん感情は顕微鏡で観察などできないので、彼らのやり方では発見できるはずがなかった。しかも自分が彼らの実験台だったらと思うと....

だがありがたいことに、今日では懐疑家は次第に減ってきており、「動物は情動を備えているのかどうか」という議論はいまだに続いてはいるものの、問いの中心は「動物の情動は、なぜ現在の形態へと進化したのか」というものへと変わりつつある。


大変失礼だが、まだまだ僕らの疑問点の入り口付近でおろおろしているような状況に見える。 まーそーなんだろーなー。

ということを踏まえて読み始めていった訳ですが、本書は情緒豊かな語り口のジェイン・グドールの前書きがなかなか素晴らしくて、つい期待してしまった。

イヌやネコのような身近な動物からゾウ、マウスや狼、クジラといった哺乳類。鳥類などが持っている情動を顕わにした実例が次々と紹介されていく。 仲間の死や苦しみを悼んだり、共感したり、介助したり、パートナーや種を超えて愛し合ったりしている例には胸が苦しくなる。

それはそれで読み応えはあるのだけど、そこから先へ進まない。 これでもかという実例を並べられても、既に動物に心があると思っている読者にとっては、まーあーそーだよな。という部分がどうしても出てくる。

本書のような本を手にしている人が、これを読んで動転地変にびっくりしてるとか、全否定してるとかも想像しがたいと思うのだけど、実態はどうなんだろうか。 特に日本人の場合、動物の心を認める事に対して抵抗がある人は少ないように思う。

一方で本書はやや過激とも言える方向へと突進していく。それはベジタリアンへの薦め。

確かに意識があって気持ちの通じ合える相手を食べる事に抵抗感があるのは分かる。しかし、だからと言って全人類の向かう先がベジタリアンだというのはちと極論すぎじゃないだろうか。

意識や心が無ければ食べても良いとか、植物なら生き物でも食べて平気というのも、なんだか拙速な気がするよ。

また、日増しに進む地球温暖化や動物多様性の毀損と云った問題にベジタリアンになることでどの程度貢献できるのか、とか、そもそも人類が草食になるためにどんだけの土地と資源が必要なのか。一説には地球10個分だなんて説を読んだことがあるよ。

そして世界に広がる格差貧困の実態。今日今食べるものにすら事欠いている夥しい人々がいる現状を踏まえてベジタリアンになろうという話は恵まれすぎて現実乖離した夢想家の考えとしか聞こえない。

もちろん、動物たちは虐待されるべきではない、僕らは多様性を維持するために共存する道を模索すべきだが、それは相手が心をもっているからではない。 僕ら自身が彼らの存在なくしては生きていけないからだというのが第一の理由だ。

また共生している生き物たち、イヌやネコたちのような生き物と交感し愛し合うのは大切な事だと思う。しかし、自然界にいる多くの生き物たちに過度なか干渉、介入するのは避けるべきだし、それは彼らのためにもならないだろう。 僕らは彼らが生きていくために必要な環境を損なわないようする責任と義務があると思う。


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戦火のサラエボ100年史 「民族浄化」 もう一つの真実
梅原季哉

2016/09/11:折りしも9.11であります。北朝鮮が核実験を強行したりと相変わらず世界は頑迷・不寛容な気配を和らげる気配がない。

自宅のパソコンの外付けハードディスクが壊れてしまった。前回パソコン本体が壊れて情報インフラが全滅しかけた教訓を受けてデータを外付けハードディスクに、適宜バックアップしていくことにしてたのだけど、バックアップするのを忙しさにかまけてしばらく怠っていたところでこの事態である。

住所録が、音楽ソフトが、消えたかも。現在復旧可能かどうか修理にだしてみているが費用も含めどうなることやらというかなり呆然とした状況であります。本件は死亡が確定いたしました。とほほ。

1984年のサラエボで行われた冬季オリンピックの事は朧気ながら覚えている。 金髪、碧眼の人々が踊る開会式の様子はまるで北欧のような印象だった。サラエボがどこにあるのか僕はピンときていなかった。 言うまでもなく実際のサラエボはずっと南東でイタリアと海を挟んで向かい側だったことに驚いたことを思い出す。

なんともカラフルでどこか牧歌的な雰囲気を見せていたサラエボが戦火に包まれ、あれよあれよとユーゴスラビアが崩壊したことは驚く間もないいう感じだった。 「一つの国家」だったユーゴスラビアは、冷戦終結直後から一つ、また一つと連邦を構成する六つの共和国が分離独立し、連邦が崩壊していった。

内戦は、その連邦が崩壊していく過程の中でこそ起きた現象である。 1990年代のユーゴスラビアの崩壊はそもそも、何が原因だったのか。


実は80年代に、すでにその伏線は張られつつあった。

80年代に、ユーゴ建国の父でもあった独裁者チトーが死去すると、連邦国家は、集団指導体制に切り替わった。六つの共和国と2つの自治州から代表一人づつ集めた8人の「幹部会」メンバーが、一年交代の輪番で国家元首を勤めるという形で、特定の個人に権利が集中しないような仕組みだった。

だがそれと同時に、それますチトーの強烈な指導力の下で抑えつけられていた、民族主義感情が頭をもたげ始める。 連邦内の南北問題といえる、構造的な問題もマイナスに作用した。相対的に経済発展が進み 所得水準も高い「北」の共和国であるスロベニアやクロアチアは、自分たちの富田が、それ以外の「南」の貧しい共和国を支えるために使われるのは不公平だ、といった不満を募らせていった。

こうした中で、冷戦時代の最終盤といえる80年代末、それまでタブー視されてきた民族主義を、自分たちの政治的な地歩を固めるのに利用する指導者が現れる。


モザイク国家なんて云う表現もこのとき盛んにニュースに流れた。 遠い国の出来事とはいえ内戦の様子は不明瞭で、一体誰と誰が争っているのか。

悲惨で残虐な殺戮が進んでいるとの情報もあるが、一体どのくらいの人々が犠牲になっているのか。オンタイムではほとんど情報がなかったのではなかっただろうか。

しかし、実際終わってみれば10万人近い人々が犠牲になり、夥しい難民も生んだ。 なかでも、スレブレニツァでは第二次世界大戦後の欧州最悪の大量殺戮行為が行われていたことが明らかになった。

本書は朝日新聞の夕方に連載されたものが元となっているものなのだそうだ。 特派員として現地に派遣されていた著者はさまざまな出自の人々の祖父の時代までその系譜を辿ることでユーゴスラビアの百年の歴史の中で市井の人々がどのような暮らしをし、どのように考え、感じていたのかを探ろうとしたものだ。

しかし、取材した人々はあくまでもちろん取材可能で、基本的に内戦に積極的には関与せず、皆等しく被害者なのだった。

また後半彼らの祖父や親戚筋が入り乱れて語られてしまうことで、かなりもつれた印象もある。

複雑に入り組んだ歴史、多様な宗教観、ドイツやアメリカの不用意な介入、はたまた暴力に先鋭化する犯罪者集団など、さまざまな要因が折り重なることで未曽有の大殺戮へと突き進んでいく。

どうしてこうまで人は残虐になれるのか。もしかしたら、これと言った一つの分かりやすい原因なんてものはないのかもしれぬ。

偶発的突発的にこうした事態へと突き進んでいくことがあるということを認めるのは恐ろしい事だ。

かつての日本人も歩んだ道でもあるこの道のりを明らかにしておくことは、僕らが再びまたこの道を進んでしまわないためにも非常に重要な事だと強く思う。


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忠臣蔵まで 「喧嘩」から見た日本人
野口武彦

2016/08/28:学校の歴史の授業を迷子になったまま過ごした僕はいろいろな事がわかってない。 おそらく一般の方はこうした教育で培った歴史認識を背景にテレビや映画を観て楽しんでいるのだろうと思うのだけど、未知の未知で、それが一体どんなものかもわからない。

子供のころから繰り返しやっていた忠臣蔵の話はその代表かもしれない。ドラマとしての「忠臣蔵」はなんとか理解できているとは思うのだが、史実としての「忠臣蔵」、赤穂事件が何だったのか。どのような意味があったのか。

それがわからないのだ。

泉岳寺は勤め先の近く。数年前、四十七士のお祭りをやっていることに気づいた僕は「あぁここが忠臣蔵のね」とは思ったものの、実際、泉岳寺が忠臣蔵の事件とどう関係してるのか全然わかってなかった。

全然わかってないのはちと残念なんで実際行ってみた。 お祭りだとわかっていたけども、来てる人の多さにびっくりした。四十七士のお墓参りをするわけなのだけど、行列して待つのである。お墓の前にたどり着くまで二時間近くかかったのではなかったろうか。

首洗い井戸などの史跡があり、その説明を読んで漸く少しどんな話なのかわかったというお粗末な状況。

週末自転車であちらこちら走っておりますが、ある日、墨田区を走っていたら吉良邸跡の前にいることに気づいた。 あの吉良邸である。四十七士が討ち入りしてその首を泉岳寺まで運んだ場所。

あ、こんなに遠いのかと。

いろいろ仕入れた話を家族とか会社でしてみたけど、忠臣蔵について皆がおもった程解っている感じはしない。 果たしてみんな何を知ってて何を知らんのか。

しかし分からない事はまだまだたくさんある。討ち入りに行こうという四十七士を泉岳寺はなんで受け入れることにしたのか。とか。四十七士が行動に出たその価値観とはどんなものだったのか。 そして一番腑に落ちないのは浅野内匠頭は何に対してキレたのか。

事件の核となっている問題が見えてこない。何が問題であったのかが分からないと当事者たちの動機が見えてこない。 史実にはこれが語られていないのである。 本書は最近僕が注目している野口武彦さんの忠臣蔵に関する本。本書で何が見えてくるのか。楽しみながら読み進んでいった。


そしてとりわけ、赤穂事件とぴったり重なる元禄14年と15年(1701、1702)が、累年の不作による諸国飢饉であった事実は特記しておくべきだろう。 気象学者の根本順吉によれば、元禄・宝永期は「マウンダー期の最後の頃」に重なるそうだ。

マウンダー期とは、「およそ西暦1645年(正保2年)より1715年(正徳5年)までの70年間」をいい、この期間は「長期にわたり太陽黒点の活動が衰えた時代」だったという。

マウンダー期と呼ばれる太陽活動が衰えていた幕末、綱吉の治世、豪華絢爛な建築や都市のインフラ整備が進む一方、藩主たちの一挙手一投足を調べあげ、隙あらば因縁をつけて取り潰しを画策し、浪人たちによる放火、喧嘩、そこに降りかかる地震に富士山の噴火と不気味な緊張感が溢れる江戸。

大名といえども将軍を頂点とした政のなかでは上司・部下のような関係となった吉良上野介と浅野内匠頭。彼らの確執・衝突に繋がる証拠をあちこちの資料をあさり回ってあぶり出してくる。


いま、もし「忠臣蔵」が日本人にかくも共感を呼び、親近感を与えることの秘密を《忠臣蔵問題》と呼ぶことにすれば、この《忠臣蔵問題》を解く鍵は、徳川幕府という公権力に逆らってまで自己の正義を実現した自力救済権の行使をやはり日本人の多くが認容したとこにある。


自分でも何がわからないのかわからないのでもどかしいが、忠臣蔵、物語ではなく史実の忠臣蔵事件は果たして復讐だったのか。

一方的に切りつけた内匠頭は即日切腹を命じられたが上野介にお咎めはなかった。 裁定に不服があるなら向かう相手は違ってくるはずではないか。

四十七士たちは浅野家の存続を願い、裁きがどこまで及ぶのか様子見していた。最悪のお家取り潰しであった結果をみて行動にでているのである。

裁きに不満があるのではなく、このような事態に陥った原因の核心に吉良がおり、このものが何も変わることなく生きて行くことが自分たちの沽券に関わる問題だと考えたのだろう。

四十七士たちからは上野介が内匠頭に対してやっていた事がかなり詳細に見えていて、内匠頭の衝動的な行動に共感する部分が多分にあったのだろう。我慢の限界を越えた主の果たせなかった遺志を全うするために命を捨てたといったところだろうか。

ここにあるのは喧嘩両成敗の考え方だという。


喧嘩両成敗とは、腕力に訴えた喧嘩口論の当事者双方に、理非を糾明することなく成敗を加える事をいう。成敗とは、制裁・刑罰の意味であるが、狭義では特に死刑を意味し、喧嘩両成敗にあっては、双方に同一の刑を科すのである。
すなわち、喧嘩両成敗法の特質は、訴訟法的には是非曲直の審理の省略、実体法的には双方当事者の等しき処罰という二点に存するのである。 室町時代に始まったこの法令は、戦国時代に盛んにおこなわれ、豊臣秀吉の「惣無事令」でピークに達し、徳川幕府の武家諸法度からは姿を消す。江戸時代にはすでに実体根拠がなくなっている戦国法のシーラカンスだったのである。それにも関わらず潜在的な生命力を保ち、時として人びとの法意識の表層に浮かび上がる。忠臣蔵事件はその好例だ。


喧嘩両成敗は文字通り理非を問わず双方とも処刑していたんだそうで、これは深く考えるまでもなくずいぶんとむちゃくちゃな話ではある。

本書は日本における法文化の変遷について喧嘩を通して俯瞰しようと試みたものになっている。僕のように勝手に忠臣蔵の史実を掘り起こす事に偏って読んでしまうと文脈から足を踏み外してしまう。

この事件が喧嘩両成敗の法意識に基づくものなのかどうなのか。僕には今ひとつしっくりこない。 法の裁き、裁定がどうあろうと、自分たちの信じる正義に基づき行動した。たとえ違法で最後は処刑されることが分かっていても、自分たちの正義を全うして散る。

これが彼らの価値観の中核にあったと感じるのだが、ズレているだろうか。 そしてそんな彼らの処遇をめぐって幕府は悩み抜き、最終的には罪人としてではなく、武士としての名誉刑という名目での切腹であったという。

江戸ではこれに引き続いて起こった天変地異は四十七士を処刑したためではないかと信じるものが現れるなど幕府に対する信頼感の喪失は加速。幕末に向かって火の玉のように堕ちていくのだった。



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証言拒否(The Fifth Witness)
マイクル・コナリー(Michael Connelly)

2016/08/15:一昨年、去年と二年連続でGWの楽しい一時を過ごさせてもらったコナリーでしたが、今年は義母の件もあって機会を先延ばし、夏期休暇を使ってようやくたどり着きました。

じっくりのんびり読もうなんて思っていましたが、いざ読み始めてしまうともう止められない。シリーズ最長らしい本作品でしたが、駆け抜けるように読破してしまいました。

この読者の心をつかんで離さない心憎い展開とその速さときたら、まぁこれ他の追従を許さないものがありますね。

もはや安心感すら漂う。

2011年(たぶん)リーマンショックにより経済が干上がり、刑事弁護士家業も例外ではなかったミッキー・ハラーは強かにも家屋を差し押さえられたり、立ち退きを求められたりしている債務者の弁護を勤める方向へ舵切りして糊口をしのいでいた。

折しも複数の債権をまとめてファンド化したものを次々と仲介債権譲渡した案件が雪だるまのように大きくなったところで、市場価格が暴落、債務者らはおしなべて過剰債務を抱え込むこととなり、それまではいけいけで貸しまくっていた金融機関が破廉恥にも尻に帆を掛けて撤収していったことで世界的な金融危機が生じたことは記憶に新しいどころか、いまだに僕らの仕事でもその余波から抜け出せずにいる。

振り返るとマエストロとか言われていたあのグリーンスパンもただのでたらめなじじいだったし、あのとき猛ダッシュで逃げ出した金融機関は、わざわざ戻ってきていただくために多額の贈り物をせしめた上に、更に当時よりも数段上の場所に居座り、手数料をとって胴元のようなことを再開している。

後の世代の人たちからみたら今の時代はどんな時代に移るのだろうか。

なんと言っていいのか、微妙だが、僕は社会人として日本のバブル経済もこの未曾有の金融危機も経験させていただきました。 大して悩む事もなく就職した会社がどうにか無事で、自分自身もなんとか健康で、会社というか、仕事のなかで自分の果たせる役割というか、求められている資質にある程度応えられてきたというのはほんと幸運という以外にない。

この社会というか経済を支える責任はおしなべてこれを構成している全員に求められるものたが、どうした訳か、あらゆる層にただ乗りしている輩が相当数存在し、彼らの言動によって、社会や経済が著しく毀損してしまうような事が度々起こり、僕らはそれを防ぐことができずにいる。

おそらくマイクル・コナリーもいろいろと言いたいことはあるのだろうが、僕と違って優秀な作家は切り口も鮮やかだ。

ハラーはつまりこうした無責任な貸付で困窮する債務者を相手に商売をしているのだ。彼らを救うためではない。自分が暮らしていくためにだ。

それはつまり強引な取り立てや詐欺的行為による差し押さえに対して訴え出ることで、債権者に流れる金をとめ、債務者の支出と生活を守りあわよくばその一部を自分の懐に入れんとする弱肉強食の闘いなのであって、慈善や正義のためではなかった。

同時進行している訴訟手続きに忙しく立ち回るハラーに緊急の連絡が入る。 顧客の一人が警察に逮捕されたという。それも殺人容疑で。 逮捕されたのは、リサ・トランメル、35歳、教師で離婚し女手独りで子どもを育てている人物だった。

被害者ミッチェル・ポンデュラントは彼女の住宅ローンを引き受けていた金融機関副社長、住宅ローンの責任者だった。 この銀行は彼女の債権を他の案件をひとまとめにパッケージして債権管理会社であるALOFTに売却していた。

ハラーはこのALOFTが詐欺的行為で債務者から住宅を差し押さえ、奪おうとしているというところを争点に戦っていたのだった。 この銀行とALOFTは他にも同様の手口で莫大な収益をあげているらしい。

彼女は同じような目にあっている人びとと結託し、銀行の前でデモをしたり、プラカードを持って座り込んだりすることで、世間の注目を浴びるようになってきていた。

殺された副社長に対しては何度も面会の要求を突きつけていたのだった。

一方、詐欺的行為での裁判の準備が進んでいるなかでの、副社長襲撃、殺人はハラーにとってもあまりに予想外で不自然な行動であり、冤罪を疑わせるに十分だった。

彼女はあくまでも自分は無実だと主張し、あらゆる司法取引を拒絶。ハラーはこの事件の刑事弁護人となった。

果たして裁判の行方は。

物語は法廷のやり取りを中心に進むのだが、そこはコナリー、停滞や足踏みなどという言葉は辞書にない。

次々と予想外の事実や出来事が降りかかり裁判の行方は嵐の中の小舟のように翻弄され予測できない方向へと押し流されていく。 ハラーは協力者たちと限られた時間のなかでその対応に追われていく。

面白い。やめられない。

みるみる残ページは薄くなり、可能性、選択肢は先細っていくのに、物語は止まる勢いも見せずに驀進していく。

最後は。

読み終わって振り返れば、そりゃ確かにいろいろ言いたい部分もなくはない。

しかし、息もつかせず一気読みする醍醐味を十分に詰め込んだ一冊でありました。それで良いじゃないか。これ以上面白い本なんてそうそうないのは、間違いない。

初盆も無事すませて、いい夏休みになりました。

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東電OL事件 - DNAが暴いた闇
読売新聞社会部

2016/08/07:折しも戦後最悪の死傷者を出した相模原の事件が起こり世間を震撼させています。

そんななか僕はたまたま2000年に起こった東電OL殺人事件が紆余曲折の上での無罪判決となった後に書かれたドキュメントを 読んでいた。

東京電力という一流企業に勤める傍ら夜は街角に立ち売春をしていた女性。

彼女の殺人事件の犯人が冤罪であることを頑迷に受け入れることができない検察・警察組織。

障害施設のスタッフとして働いていながら入所者を不要な存在として切り捨てるという暴挙に出た男。

これを止めることができなかった社会。

時間軸も事件の類型としても全く関係がない2つの事件が僕の頭の中で同時進行していく。

相模原の事件はまだその真相、犯人の動機といったものについて何もわかってはいないのだが、 逮捕後悪びれる風もなく薄ら笑いをしている犯人の様子は、単に恐ろしさを通り越していた。

しかし、いわゆるサイコパス的な要素はあまりない感じだ。

単にどうしようもなく壊れている。というように考えるのは簡単だ。 事実そうなのかもしれない。

悪い事がしたくて行うものもいる
無自覚に悪を行うものもいる
悪い事とは知りつつやってしまう人もいる
この場合、それにはそれなりに理由というか原因があるのだろう

親や親せきの保護も切られ、生活保護を受けるまでになっていた男は自暴自棄になっていたとも思われる。 家から切られ、組織や社会からものけ者にされた弱者が弱者を襲っている。

それは自分を切り離したものに対する主旨返しだ。 完全に阻害されたものたちのなかから鬼が生まれると書いたのは誰だっけな。

彼は鬼となって自分を阻害したものたちに自分の存在を必死で訴えている のかもしれない。 なんてことも考える。

これってもしかして・・・連想は綿々と続き

通勤時の列車に飛び込んで自殺する人 万引きや盗撮のような、やらんでいい犯罪で摘発される警察官や学校の先生と 同じベクトルの上にいるのではないだろうか なんて事も頭に浮かんできた。

夜な夜な街角に立ち続けたあの東電のOLも。

コーマック・マッカーシーの「チャイルド・オブ・ゴッド」は 激しく社会から切り離され孤立した男の物語であった。

社会から謝絶された時点で世間も自然もすべてが過酷なものへと変質し 彼はどんどん追いやられていく。 そして同時についてくるのは圧倒的な無視。無関心。

生活が不自由になるだけではなく、精神的にも過酷な状況あっという間に転落していくのである。 恐ろしいまでも。

そして彼は鬼と化す。

それでも疎外している社会の構成員も疎外されている本人も まるっと含めてみんな神の子なのである というようなことをいわば投げ出してくる感じの本であった。

おっとっと関連性の話をしようとしていたのだった。 つまり警察組織も一つの社会であり集団である訳で ここに属するものたちはこの輪のなかにできる限り残ろうとするだろう。 疎外されたときにどうなるのか嫌と言う程わかっている人ならなおさらである。

まるで前時代から抜け出してきたかのような冤罪や事情聴取などの密室で行われているらしい暴力が いまだ止まらないのはこの仲間意識があるが故なのではないかと思ったという事。

そしてここから何等かの事情により結果的に疎外されたものたちのなかから生まれる 鬼たち そんな構図がみえてきはしないかということ

この被害者となった東京電力のOLの方ですが、この方の人となりについて 本書は全くといっていい程何も語らないのであるが、 東京電力初の女性総合職であったということが書かれていた。

彼女が売春や相手を選ばない性交渉が法的にも道徳的にも許されないことであることは 充分に理解していたハズだと考えるに、 この疎外された者たちの物語と同じ韻を踏んでいるということを考えずには居られない。

当時、あの東京電力の社員がこんな行為をしていたということがニュースになり、 ずいぶんとその看板に泥が塗られた感じがしたことをよく覚えている。

自分が属していながらに疎外されているその組織に泥を塗る まさかこんな結末になるとは思ってもいなかっただろう。 たとえバレなくても泥を塗っている自分はわかっているのでそれで充分だったのかもしれない。

そして歪んだ組織は真犯人を見逃し、当人はこの社会のなかでひっそりときっと何食わぬ顔で生きている。

負の連鎖が続いていく。

世の中には割り切れない、きれいごとでは済まされないものがある。しかたがないと一言で片付けるのは簡単なことだ。しかし、そこにはもろに泥をかぶってしまう人たちがいることをやはり忘れてはいけない。 という気がしました。


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ザ・パーフェクト―日本初の恐竜全身骨格発掘記:
ハドロサウルス発見から進化の謎まで

土屋健

2016/08/01:気になるニュースはすかさずクリップしている。最初はメモ帳にちくちくやっていたのだけど、近年はエバノートを活用している。

何かとエバノートは便利だ。

本書の記事をまとめるにあたり保存してた記事を検索してみると、2014年1月21日、毎日新聞の記事が格納されていた。


「大型恐竜:ハドロサウルスの全身骨格か 北海道で発見」 ハドロサウルス科の恐竜の右脚の化石。大腿(だいたい)部(手前)とすね(右側から奥にかけて)を前に説明する小林准教授(右)=北海道むかわ町立穂別博物館で2014年1月21日、斎藤誠撮影 写真特集へ  

◇体長8メートル、体重7トン  

北海道のむかわ町立穂別博物館と、北海道大学総合博物館の小林快次(よしつぐ)准教授(42)=古脊椎(せきつい)動物学=らの研究チームは21日、同町穂別の山林の約7200万年前(白亜紀末期)の地層から見つかった恐竜化石について、「全身骨格の可能性が高い」と発表した。恐竜絶滅直前の同時代の全身骨格が確認されれば国内初となる。

 この化石の一部は地元の収集家が2003年に発見し、調査の結果、大型の草食恐竜ハドロサウルス科の仲間のしっぽの一部(尾椎骨(びついこつ))と判明。昨年9、10月の発掘調査では、左右の大腿(だいたい)部(長さ1.2メートル、直径20センチ)など、体全体の約3分の1に当たる腰から後ろの部位の化石約100個が見つかった。歯の化石も3個あり、頭部も含めた全身骨格が残っているとみられる。推定体長約8メートル、推定体重約7トンで、ハドロサウルス科の中で世界最大級の大型恐竜という。

 化石があった地層は白亜紀末期には水深80〜200メートルの海底とされ、恐竜が死後に海に沈んだため、骨格が散逸しなかったとみられる。国内で発見された恐竜化石は約60点。多くは歯や骨の破片などで、全身骨格の発見は極めて珍しい。  小林准教授は「白亜紀末期は恐竜が繁栄して巨大化し、間もなく絶滅した時代。米国ではティラノサウルスが生きていた時期。化石はアジアの恐竜の進化を探るうえで貴重」と話した。今後2年間で、全身骨格の発掘を目指す。

 米国ニューヨーク自然史博物館のマーク・ノレル博士は「素晴らしい成果。新種の可能性が高い」とのコメントを研究チームに寄せた。  研究チームは25日に兵庫県三田市で開かれる日本古生物学会で調査結果を報告する。


率直に言ってすっかり忘れていた。クリップしてるニュースはあとでゆっくり読む的な勢いで実際ちゃんと読んでないことが多いというのもあるけれども。

このニュースで言及されている全身骨格が結果的に出てきたのである。 日本で恐竜の全身骨格が出た。日本初の快挙であます。 本書はそのドキュメントだ。これは読まずに死ねるか級の一冊。

しかも著者は土屋健さん。古生物を扱った生物ミステリーシリーズをこよなく愛する私としてはまさに飛びつくような本でありました。 改めて毎日新聞の記事をじっくり読んでみると、かなりしっかりと書かれていることに気づく。 地元の収集家が発見したものでその時期が2003年とかなり前。


2003年4月9日


ふと顔をあげると、山の斜面に地層がむき出しになっていた。そこは南斜面で陽がよくあたる。いち早く雪がとけていたのだ。 こうした地層がむき出しの場所は「露頭」と呼ばれる。化石を探すポイントとなる場所だ。今日は化石採集に来たわけではない。それでも長年の習慣で露頭を見上げ、アンモナイトが入っているようなノジュールがないかを無意識で探していた。 すると、いくつかのノジュールが斜面の中腹に顔を出していた。 リハビリ途中ではあったけれども、こうなると体がうずいてしかたがない。 ピッケルで斜面に足場をつくりながらノジュールのある位置まで登った。数は七個。そのうちの一つを両手で拾い上げた。 岩塊の側面が割れていた。そこに、黒い組織が顔を出している。

「骨化石の断面だ」


本書は記事に登場する小林教授も含めこの発掘に関わった大勢の人々の人生にも切り込んでいく。

こうすることでこの全身骨格発見のニュースが如何に幸運と地道な努力の両面があって初めて起こったのかがよくよく分かるという立て付けになっている。 なぜ日本では、このような古生物の全身骨格発見がレアなのだろうか。


大型脊椎動物の化石は全身が残りにくい。おそらくもっともよく知られている恐竜であろうティラノサウルスに関しても、2006年の時点で六割以上の保存率をもつものは、46個体中2個体しか報告されていない。

第二次世界大戦後、しだいに「恐竜」という古生物の知名度があがってきた。しかし、「日本から恐竜化石は産出しない」「産出したとしても部分化石ばかりだ」といわれてきた。日本にも恐竜時代の地層があることはかねてより知られてきたが、日本のように地殻変動の激しい地域では、化石は地中で破壊されてしまっているのではないか、と考えられていたのだ。


そんななか、北海道の陸地としての成り立ち、発見場所である穂別はなぜ水深80~200メートルの海底だったところが現在の状態になっていったのかといったことにもどんどんと踏み込んでいく。

残念ながら発掘された標本の分析はまだまだこれからである。しかし本書を読んだ僕らにはその理由は明らかで、どんな人がそこで頑張っているのかということも分かっている。

焦らず丁寧な仕事で作業を待っている標本群を見つめる優しい視線すら感じる気持ちだ。 僕らも徐々にその全容が明らかになってくることを楽しみにしたいと思う。

そして更に一体が見つかったのなら、外にもまだ発掘されるのを待っている恐竜たちが日本にもいるということをワクワクしていよう。


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ダークマターと恐竜絶滅 新理論で宇宙論の謎に迫る
(Dark Matter and the Dinosaurs)

リサ・ランドール(Lisa Randall)

2016/07/24:リサ・ランドール二冊目であります。最近びっくりするのは、この間読んだと思っていた本を振り返ると、予想外にずっと前だったりすることだ。

一冊目から二年たっていたとは。その間に流れた日々にまごつく。一体僕はこの一年何をしていたんだろうか。思い出せないことの多さに圧倒されるわ。 書いておかないとどんどん忘れる。他人に読んでもらわないでも、自分のために書き残すのは大事というより、必要なことだな。これ。 ブログは若干放置気味になっておりますが、姿勢を正してちゃんと頑張ろうっと。などとあらぬ方向へと思いが漂う今日この頃であります。

さてさて、宇宙論ですが、近年我々の宇宙についてわかってきたことは、壮大かつ予想外なものばかりで、どこまでの深さと広がりがあるのか、ひょっとしてこの宇宙と同様果てもないのではないのかというぐらいだ。 本書で話題の中心はダークマター。観測可能な宇宙の構造を調べていくと、見かけ上の構造が成立しているためには、圧倒的に質量やエネルギーが足らないことがわかってきた。 現在の構造が成立するためには観測できていない、大量の質量やエネルギーが存在していると考えるしかないらしい。

この観測できない物質とエネルギーは我々が知っている元素や素粒子とは異なる物質であることから、ダークマター、ダークエネルギーと呼んでいる。 しかもその量だが、なんと宇宙のすべての原子5パーセントに対し、ダークマター26パーセント、ダークエネルギーは69パーセントに及ぶのだという。

びっくりじゃないですか?

だって、僕らの身体も地球も太陽系も銀河系のような超巨大なものも、宇宙全体からみてたったの5パーセント程度のものからできているだなんて。 天動説を信じていた時代を省みるまでもなく、途方に暮れるようなアウェイな事実じゃないですか。 残りの95パーセントを占めるダークなものは光に反応せず、一体どんな物質でどこにあるのかも解らないという訳なのである。

それは星間空間にひっそりとあるのかもしれないし、僕らの身近にあるかもしれない。重たいものがまばらに点在しているかもしれないし、軽いものが薄く広く分布しているのかもしれない。 しかし、いずれにしても既知の原子や素粒子ではない何かなのだ。

ほんとに飲み込みにくい話だが。そして何よりもどかしい。

未知の物質でほぼ占められている宇宙って何だと。それは一体何なんだと。

最新の実験研究ではこのダークな物質を探す努力ももちろん進めてはいるのだけど、今のところ手がかりになりそうな気配もあまりない様子だ。 もっぱら現在は通常の物質の分布や構造、宇宙の成り立ち等から類推される可能性を模索していると云ったところという感じだ。 一方で、この通常の物質によって構成される我々の世界がどのような構造でどのように形成されてきたのかということについて、実は近年驚くほどいろいろな事がわかってきた。

2000年代以降、太陽系創成期の惑星の移動を天文学者が知るようになったのと合わせて、小惑星帯の形成についての科学的理解は大幅に進んだ。現在では、惑星が形成されはじめてから数百万年後に、太陽から放出された荷電粒子が、原始惑星円盤のあとに残っていたガスと塵のほとんどを排除してしまったことがわかっている。惑星の形成はその時点で終わったが、太陽系の形成は終わらなかった。このときから惑星は移動を始め、ときに非常に破壊的な影響を及ぼした。物質を太陽系の外に追い散らしたり、より小さな天体をあちこちに移動させたりしたのである。ここ数十年での惑星科学のとりわけ重要な成果の一つは、太陽系が現在のような姿に形成されるのに、この惑星移動がどんな役割を果たしたのかがわかってきたことだ。惑星のなかでも、ガス惑星は最も大きく移動して、小惑星と彗星の発達に影響を及ぼした。大量に近い岩石惑星も内側に移動したが、その動きはわずかだったため、太陽系の形成に果たした役割は比較的小さい。おそらく内太陽系に多数の小惑星が集まったのは、いくつかの外太陽系惑星の外側への移動と、木星の内側への移動によって運動を乱されて、太陽系の内側ねと飛ばされたためだろう。これが「後期重爆撃期」と呼ばれる期間の始まりで、約40億年前のこととされている。月と水星に天体衝突による無数のクレーターができているが、この事象の何よりの証拠である。


ガス惑星の定義など、僕はずっと勘違いして理解していたわ。そーなんだ!の連続にこれまたびっくり。

それにしても太陽系創世期に惑星が起動を移動していたということを導き出す科学の力は素晴らしいと思う。どうやったらこんな事がわかったのか。 そしてこの後期重爆撃期、その後、鎮静化したものの、大きな周期でやってくる巨大隕石の衝突。この隕石衝突は繰り返し地球上の生命体を大量絶滅に追い込んできた。 この隕石はなぜ一定的な周期で落ちてきているように見えるのか。そしてそいつらは一体どこからやってきているのか。

これは現在はっきりしたことは解っていないが本書は大胆にこれらの周期にダークマターの存在が関わっているのではないかという推論を進めていく。 大胆な仮説から演繹的にダークマターの所在と性質を絞り込んでいくのである。 そこから手がかりを探しに行くということで、この発想と研究の進め方の切れ味は鮮やかだ。しかも楽しい。さらには仕事にも使えそうだ。

宇宙の広がりと深さに負けず人間の思考というものにも限界はない。100年後、1000年後、人類が無事に生き延びて更にどんな事を探り当てているのか、僕らがそれを知ることは無いのだけれど、そうなっていることを信じたい。


「宇宙の扉をノックする」のレビューはこちら>>

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