2007年度第3クール突入です。昨年下期から仕事が多忙。子供達がパソコンを使う時間が 増えてどんどん家の居場所がなくなりつつあるおやじです。
2007/12/29:今年もいよいよ後数日を残すばかりになってきました。財団法人日本漢字能力検定協会が発表する「今年の漢字」は「偽」(ギ・いつわ-る・にせ)。
これは不二家を始めとする、「白い恋人」や「赤福餅」など食品偽装が次々と表面化。年金記録問題の発覚。防衛省の汚職問題の発覚。テレビ番組『発掘!あるある大事典』による捏造問題。中国・北京の石景山遊楽園で著作権侵害。本当に今年は偽装捏造の発覚が連日のようにニュースになった年でした。ミートホープなんてのもあったな。あれは我が家でも知らずに食べてたらしい。
知らされればやはり何かを奪われたような気がするものだ。確かに腹立たしい。
でも我が家の今年のベスト・オブ・「偽」(ははは。すげー変な表現だ)はなんと言っても船場吉兆だな。
船場吉兆が最初に偽装をパート社員のせいにしたり口封じをしていた事に対し我が家のカミさんは同じパート勤務同士という事で、テーブルの上に上がらんばかりの勢いで激高してました。「パート社員をなめんじゃねー!」
BToCの企業でパート社員使って食品偽装している事自体バレない訳ないと思うんだけどな〜。
ありゃ食品偽装に留まらない強烈な逆宣伝でしたね。その後のばあさんが出てきた記者会見もすごかった。あれを見ていると何の為に謝罪の記者会見してんだか忘れちゃう位のインパクトがありますよね〜。
謝罪の記者会見も事件と正比例して頻繁に開催された年でしたね。亀田家の謝罪会見というのもありました。見てて全く謝られた気がしないやつね。
あれも間違いなく「偽」マーク付きでした。
どこかで、「偽」=「悪」とか「罪」と捉えるのは間違いだと書いている記事があってそれがとっても印象的だった。その記事は偽、つまり嘘には良い嘘と悪い嘘があるし、悪い嘘だったとしても重さが違うものってあるだろうという事を書いていた。
確かに生産地や製造年月日を偽るのは良い事ではないとは思う。知らされればやはり「欺かれた」という気持ちにもなる。
実害らしい実害は出ていない。謝ったふりしているだけの記者会見はむかつくけど罪ではない。
我々に出来る事はせいぜいそんな奴らの相手をしない事だ。
年金問題や防衛庁の汚職なんかは同じ「偽」でも全然罪の重さが違うだろう。あれだけ糾弾されていながらもまだ嘘をつき続けている組織や人がいる事にはちょっと愕然としてしまうのは僕だけなんだろうか。
一方で、不治の病に冒された人に本当の事を告げずにいる事や、酷く傷ついた時に「全然平気だ」と言ってみるなんて云う良い嘘も世の中にはある。偽=悪と云うのはあまりに単純化しすぎだと云う事だ。
身の回りにある良い「偽」、どんなものがあるだろうか。
考えるまでもなく僕にとって最も身近な良い「偽」とは、小説や映画だ。小難しい議論をする気はないけど、小説も映画も虚構だ。いかにもありそうな話だろうと絶対にあり得ない話だろうと、読んだり観たりして面白いと感じるかどうかとはあまり関係がない
面白い小説・映画は如何に上手に観客を騙したかにかかっていると思う。どんなに突拍子のない話であっても上手に組み立てて、語られれば見事に欺かれてしまうという事だ。
だから小説家は全て嘘つきだ。しかしそれは良い「偽」なのだ。上手い嘘つきであればある程良い小説の書き手だとも言う事ができるだろう。
「ゴールデン・スランバー」に引き続き、直木賞候補となった本書「重力ピエロ」を読み終えた瞬間に感じたのはこの良い嘘に見事に欺かれたという気分だった。
仙台市内に起こる連続放火事件とその場所を指し示すかのようなグラフィティアート。この謎を追う二人の兄弟。犯人の意図何か。
春が二階から落ちてきた。
からはじまる物語は二人の兄弟と父は母。家族の物語だ。
とってもいい感じだ。みんなでもっとこうした良い偽を増やそう。
△▲△
2007/12/29:カミさんが読んで、超お勧めだと教えてくれたので読んでみました。いや〜。確かに凄く面白かったよ。
地元出身の首相が初めて誕生した事で凱旋パレードが行われる事になった仙台。
駅にほど近いビルの地下街の蕎麦屋で友人と食事をしている女性。二人は会社の元同僚らしい。蕎麦屋のテレビでは首相のパレードが中継されている。
一人は結婚退職して今は専業主婦となって幼い子供を育てている。もう一人の方は一生の伴侶としての相手を探しあぐねている模様だ。会社の話から男友達の噂話など四方山な会話を楽しんでいる。
専業主婦の女性は、友人の男友達の話を聞きながら、学生時代の恋人の事を思い出している。
彼の名前は青柳雅春。
蕎麦屋のテレビは引き続き首相の乗ったオープンカーを追っている。
その画面のなかで上から何か白いものが降りてくるのが見える。ラジコンのヘリだ。気付いたときには画面が一瞬歪み、真っ白な煙が広がっていく。爆発だ。
地元の大きな病院の一つである仙台病院。
左足を骨折して入院して時間を持てあましている男とその入院仲間の男。彼は両足骨折で入院中という事だが、どう見てももう治っている感じだ。そして裏社会に通じている仕事をしてる等とうそぶく胡散臭い男だ。
二人は甚だ不謹慎ではあるが格好の退屈しのぎができた事で噂話に花を咲かせつつテレビに釘付けだ。
爆発事件の後、病室のテレビには刻一刻と情報が流れ込んでくる。首相の乗ったオーブンカーに爆弾を積んだラジコンヘリが上空から接近し爆発した事。この爆発によって車は原形をとどめない程に大破し、乗っていた首相・首相夫人も含め搭乗者は全員死亡。
警察庁は道路の検問、鉄道の運行停止を実施し仙台市内全域を事実上封鎖。
目撃証言の数々。そして二日目には容疑者特定のニュースが流れてきた。容疑者の名前は青柳雅春。
宅配便の配達をしていた青柳雅春は以前アイドル歌手の部屋に強盗が入ったところに居合わせからくもこの歌手を救った事で一時ニュースとなり一躍有名人となった事がある男だった。
ニュースは市内にまだ潜伏中と思われる青柳雅春を追う方向へ急展開していく。似た男を見た。ファミレスで暴れた。次々に流れ込んでくる目撃情報。そして繰り返し流される救出劇の後のインタビュー映像。
はたして、青柳雅春が本当に犯人なのだろうか。何故青柳雅春は首相を暗殺しなければならなかったのだろうか。
舞台が仙台市内の馴染み深い場所なのが懐かしくもありまた臨場感を生む。生き生きとしたキャラクター、突っ走って最後まで一気に駆け抜ける力を持ったストーリー。
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随所に仕込まれた大小とりどりの伏線が心地よく収束していく心地よさ。そうそう、読んでいてとっても気持ち良いんだよね。裏をかかれても嬉しい。
おっとっと。気合い入れて紹介してねとカミさんに言われましたが、これ以上書くとネタがばれてしまうよ。騙されたと思ってよんでみな。
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「インカに眠る氷の少女(THE ICE MAIDEN:Inca Mummies, Mountain Gods, and Sacred Sites in the Andes)」
ヨハン・ラインハルト(Johan Reinhard)
2007/12/16:高地考古学というジャンルがあるのだそうだ。ちょっと前だったが「アイスマン」の話がありましたね。
このアイスマンはアルプスで発見された約5千年前に死に死体が氷河に閉じこめられてミイラ化したもので1991年偶然に発見されたのだそうだ。
このアイスマンが身につけていた衣服や履き物そして道具から当時の人々の生活ぶりが鮮明に蘇るとともに、その場所で彼が矢によって殺害されたという事からその人生までもが人々の想像をかき立てるものとなった。
本書もまた同様に氷に閉じこめられた遺体を偶然発見したという話なのかと思っていたらこれはそうではなく、著者のヨハン・ラインハルト(Johan Reinhard)は考古学者であり登山家でもある。専門が高地。5千メートルを超えるような高地の遺跡等を調査する考古学者なのだ。
頂上を目指すだけでも大変なのに、その場所に留まって発掘調査をし、出土したものを持ち帰ってこようというのだ。ちょっと考えただけで並大抵の話ではない事がわかるだろう。ヨハン・ラインハルトはそんな高地考古学というジャンルを切り開いたいわばパイオニアなのである。
http://www.mountain.org/reinhard/
著者は1995年発掘調査目的ではない登山でアンパト山を登っている時に雷で墓が倒壊しミイラや供物が山腹に散乱しているところを発見。まるでさっきまで生きていたかのような姿の少女のミイラ。このまま放置すれば瞬く間に日光や風雪にさらされて無に帰してしまう事が明らかな事から彼はこのミイラを担いで山を下りる事にしたのだ。
凍結したミイラを更に氷付けにして担ぐとその重量は約40s。6千メートルを超える山の頂上から保存可能な設備がある場所を探しながら下山しようと云うのだ。
肉体的において精神的な面の過酷さに加えて時間との戦いである。そのプレッシャーは相当のものなのだったろう。
彼女は500年前に生け贄として捧げられた少女であったのだ。
13世紀に成立したインカ帝国はその首都をクスコに構え、最盛期には1千万人もの人口を抱える大国となった。
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当時のインカ帝国は発達した交通網によって結ばれた複数の民族が緩やかに結びついた連邦のような体制だったらしい。
頭には自らが属する民族を示す金属製のプレートを飾る事が義務づけられ一目でどこの人かわかるようになっていたそうだ。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Inca-expansion.png
また、インカでは6千メートルを超える山の山頂で、生け贄として子供を捧げる儀式を行っていた。この生け贄には聖なる処女を捧げる為に特別に選ばれた子供を親からも世間からも隔離して育てて山に連れて行っていたらしい。
これは民族共通の信仰であったようで、遠くからこの為に首都へ送られてきた子供もいたようだ。子供達は大変手間暇のかかる衣装で飾り付けられた上に様々な壮大な儀式のなかで丁重に扱われ山に送られたのだろう。
そして山頂で行われる最後の儀式を経て生け贄として死んでいった。
彼らの遺体は神への供物と一緒に山頂に築かれた墓に葬られた。しかし、あまりに高度が高く気温が低い為、遺体は腐敗する事なくそのまま凍結しミイラ化していたのだった。
僕はこの氷の少女のミイラから判明した当時の生活や文化について話が進むものだと思っていた。しかしこれは勝手な読み違えであり、著者はアンデスの山々にはインカ帝国が崇拝していた信仰によって生け贄にされた人々のミイラが沢山眠っていて、この氷の少女のミイラを超える保存状態にあるものがあるはずだと再び山を目指していくドキュメントなのだった。
ペルー政府の変な役人からミイラの所有権を巡ってすったもんだしたり、ガイドや資材運搬で雇った現地の人が予想外の行動に出て計画がずれ込んだり、ありもしない事をテレビや新聞で報道されて追っかけられたりする事に翻弄され、更には体調を崩しながらの山に登り、探して発掘を行う。その強い意思には敬服しました。
でも、もう少し当時の事を知りたかったな。
△▲△
「アダムの旅―Y染色体がたどった大いなる旅路(The journey of man)」
スペンサー・ウェルズ(Spencer Wells)
2007/12/16:ミトコンドリアのDNAは 父方と母方の遺伝子が結合せず、母の遺伝子がそのまま子へと引き継がれる事からミトコンドリアのDNAによって祖先を辿ると現在の人類はアフリカに共通の母方の祖先を持っている事がわかった。
彼女の事をミトコンドリア・イブと呼ぶ。彼女が生きていた時代は今から15〜30万年前の時代であると考えられている。
ミトコンドリア・イブは恐らくは非常に小さな集団内に暮らしていたと思われる。そのような集団がどの程度あったのかは定かではないし、一つの集団内に何名くらい女性がいたのかも解らない。
しかし、世代を重ねていくうちにイブと同世代に生きていた女性のミトコンドリアのDNAは失われ、イブのものだけが、生き延びる事ができたという事もできる。
ミトコンドリアのDNAは非常に安定した遺伝子を持っている事から、突然変異が生じにくく差異が少ない。
ところが、男性が持っている性染色体のY染色体にあるDNAはミトコンドリアDNAと同じような理屈から父から男子へのみ引き継がれる。
そして比較的突然変異が起こりやすい事からこの差異を詳しく調べることで、我々人類に現在存在する様々な人種が分岐した時期やどの場所で起きたがわかるようになってきたのだ。
この遺伝子も共通の父方の祖先に辿り着く事ができる事からY染色体アダムと呼ばれる。
これは様々な突然変異の痕跡を持っている僕たち現代人のY染色体の中身を調べると、同じところが変異しているグループに分類する事ができる。
この複数のグループ同士を比較すると共通の変異を持っている部分と合致しない変異が含まれているだろう。
共通の変異をもっている部分はおそらく共通の祖先由来であり、合致しない部分は何らかの事情でグループが分化した後で変異したと考える事ができる。
この事を元にグループの拡散している地域と変異が生じた時期を類推していく事でグループが分化した時期と場所を特定する事ができるこれを地球全土に展開している我々人類に適応して調査する事で我々人類がいつ頃どこの地域に住みどこへ移動していったのかがわかるという訳なのだ。
これを叡智と呼ばずになんと呼ぼう。
本書はナショナル・ジオグラフィック・チャンネルがIBMと強力して作った番組「DNAミステリー アダムを探せ ?」と同時並行して書かれたもので、この大がかりな調査によってわかった人類の旅路を解明する事ができた経緯とその道筋とその時代の模様を描いたものである。
繰り返すが目も覚めるようなアイディアで明らかになる人類の旅路。非常にエキサイティングな知なのだ。しかしちょっと残念なのは図版が殆どない。ないので肝心な旅路の模様が描ききれないのだ。
また、大好きなジャレッド・ダイヤモンドの「銃・鉄・病原菌」とかなりテーマか被っており、その主張を裏付けるような内容になっていると思うのだが、これも何故か文献として触れられる事なく済まされてしまっている。
ジャレッド・ダイヤモンドの他の本には触れているのにもかかわらずだ。これもとっても修まりが悪い感じだ。
なんで?
一方でナショナル・ジオグラフィックのサイトにはかなり詳しいしビジュアルコンテンツが
用意されていた。
https://www3.nationalgeographic.com/genographic/atlas.html
時間があれば本書とこのコンテンツを平行して読むことでもっと詳しく理解する事ができるだろう。
約5万年前にアフリカに生きた僕たちの共通の父であるY染色体アダム。狩猟民族として獲物を追ってアフリカ大陸を抜け出し、約4万年をかけて南米大陸へ辿り着いた。
人類は道具と技術を生み出して海や寒冷地を超え最終氷河期、ヤンガー・ドライアス期も越える力を得て最終的には農耕民族となって土地に留まるようになったのだ。
現在の人種が生まれたのはこの5万年の間のなかでも比較的最近の事でこれは農耕によって定住しはじめた事で集団間の遺伝子の差異が拡大したのだろう。
人類の起源がおよそ200万年前に遡る事を考えれば、ほんのごく最近の事だ。
近年人類はグローバル化の波によって再び集団間の距離が近づき遺伝子は混じり合う度合いが大きくなってきている。Y染色体アダムは更に地球を旅してまわるのだ。
△▲△
「ジャマイカの烈風(A High Wind in Jamaica)」
リチャード・ヒューズ (Richard Hughes)
2007/12/02:いよいよ今週から12月ですね〜。来週から職場環境が一変し師走に向けて更にどったばたとなる事必至の状態でレビューの更新なんてしていて大丈夫なんだろうかと自分でも不安ですが、こればっかりは好きでやっている事なので、頑張って続けていきたいと思います。
英国領ジャマイカ恐らく1850年代のお話である。当時英国の植民地であったジャマイカでは、英国人がアフリカから連れてきた奴隷を使って砂糖黍の農園を開いていた。黒人奴隷の逃亡や反乱が続いており、繁栄を誇った植民地は荒廃しはじめていた。
幾つかのプランテーションが破棄され、細々とも誇り高く生活をしている家族がいた。バス=ソーントン家である。小さくも手入れの行き届いた農園。そこには夫婦の間に生まれたジョン、エミリー、レイチェル、エドワード、ローラの5人の子供達が元気で遊ぶ姿が見られた。
彼らにとっての隣人は隣の農園主の家族であり、それは馬車で何時間も走らないとたどり着けない程遠いところにいる存在だ。
エミリーが10歳の誕生日を迎えた頃ジョンとエミリーにとって、はじめて他人の家を訪れる機会がやってきた。その相手は近くに住む農園主であるフェルナンデス家だ。
ここには3人マーガレット、ハリー、ジミーの子供がおり、二人はこの子供達と生活習慣の違いに
やや戸惑いながらも一緒に海で遊ぶという貴重な経験をする。
ジャマイカの強い日差しの中で日が暮れるまで子供達は海や川で遊び、猫や鳥と戯れる日々である。そんなある日突然強烈な嵐が農園を襲い、幸い家族は無事だったが、黒人奴隷のサムが雷に打たれて死んでしまった上に家も納屋も農園もめちゃめちゃになってしまった。
バス=ソーントン家の夫婦は農園を復旧させ、ここの暮らしをなんとか続けようとするのだが子供達にこれ以上危険な目に遭わせたくない、ちゃんとした教育も受けさせたいという事になりイギリスへ送り返す事にする。
汽船に乗せる余裕のない夫婦は子供達を帆船グロリンダ号に乗せることにした。この船にはちょうどフェルナンデス家のマーガレットとハリーも同じような事情で乗り合わせていた。
子供達を手放す事で胸が張り裂けるような思いで見送ったバス=ソーントン夫妻だったが、数週間後受け取った手紙には驚くべき事実が書き込まれていた。
その手紙はグロリンダ号の船長からのもので、グロリンダ号がある日突然海賊に襲われ積荷を奪われたばかりか子供達全員を海賊船へ連れ込むとその場で殺害して海に捨てたというのだ。
しかし事実は違って子供達は海賊船でちゃんと生きていた。
これは海賊船側の脅しもあったし、グロリンダ号の船長の勘違いもあった。思いがけない行き違いで海賊船に取り残されてしまった子供達と海賊達の奇妙な生活がはじまった。
天真爛漫で正に環境に生きる幼い子供達と海賊達の生活が描かれていくが、やがてある怖ろしい事件が起きてしまう事よってこの新しい生活も再び転機がやってくる。
そしてその転機によってもたらされる物語の結末とは。
このような落ち方をするとは思いもよらないような落ちだ。
本書は、『蠅の王』にも通ずる伝説的古典として長く読み続けられてきた本なのだそうだ。日本では余りなじみがないのではないかと思う。
リチャード・ヒューズ (Richard Hughes 1900年〜1976年)は、イギリス生まれの小説家、詩人、劇作家、ラジオドラマ作家。世界初のラジオドラマの作者なのだそうだ。
1929年に発表された本書『ジャマイカの烈風』が処女作品。そして1938年に「大あらし」を上梓した。このに作品は秀れた海洋小説として世に広まったのだという。
当時の文化・世相を踏まえた人々の生活ぶり、そして子供達の生き生きとした描写と思考・感情。古くさくてやや読みにくい面も多々あったけど、読ませるものをもっているのは間違いない。
しかし、本書の核心はやはりこの着地点にある。
これは最後まで読まないと絶対に手に入らないものだ。多少は我慢して投げ出さずに最後まで読むべし。
また、本書は1965年に同名の"A High Wind in Jamaica"で映画化されている。アンソニー・クィンやジェームズ・コバーンが出演している。その映画のポスターがまた味わい深いのでご紹介しよう。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/7/71/High_wind_movieposter.jpg
△▲△
「脱出記―シベリアからインドまで歩いた男たち(THE LONG WALK)」
スラヴォミール・ラウイッツ(Slavomir Rawicz)
2007/11/25:これが実話だと云うのだから、本当に驚いた。読んでいて息が詰まるというのは正にこんな事だと云う以外にないすさまじい読書体験を味合わせてくれるのが本書「脱出記」だ。
いやいや、先日、コーマック・マッカーシーの「血と暴力の国」を本年ベストだと気も早く宣言してしまったけど、早々に撤回させていただく事にします。
これは必読の本ですよ。
これは、ポーランドにソ連が侵攻し、NKVDによって逮捕され無実の罪で25年の強制労働の刑を宣告されてしまった男がシベリアの収容所を脱出し徒歩でインドまで逃げる話なのだ。
その前に、取り調べの段階で人格を踏みにじられ、非人間的な扱いでシベリアへ送られる道程も相当過酷なのだ。約10%は生きて辿り着く事ができなかったらしい。
苦難の旅で辿り着いた収容所からの脱出。インドまでは約6500km。徒歩で。しかも道のりは決してというか全く平坦ではない。
スラヴォミール・ラウイッツ(Slavomir Rawicz)はポーランド、ピンスクに1915年9月1日生まれ。
1939年にヴェラと結婚、二日後にドイツがポーランドへ侵攻、騎兵隊として動員される。
1939年11月19日、NKVDの手によって自宅で逮捕されモスクワへ移送。
ルビャンカ刑務所で激しい尋問・拷問にあう。薬物で意識が朦朧としているなか虚偽の供述書にサインをさせられシベリアでの25年の強制労働の刑を宣告される。
1940年11月ルビャンカ刑務所を後にし、立った状態ですし詰めにされ動くことすらままならない貨物車両で第303収容所へ送り込まれる。
収容所には1941年2月初旬に到着。そこは北極圏から650km南にある厳寒の地であった。
「こんなところでは絶対に死なない」
いつか脱出するというのは収容所に到着する前からラウイッツの頭にあった。しかもなんと幸運なことに収容所の所長夫人がラウイッツに対して同情的でなんと密かに脱出のチャンスや斧等の携行品の提供など具体的な支援をしてくれたのだった。
周囲の仲間の薦めもあって、慎重に一緒に脱出するメンバーを選定し、信用できて且つ強靱な体力のある仲間を6名集めた。
スラヴォミール・ラウイッツ(Slavomir Rawicz)ポーランド陸軍元騎兵隊中尉
ジーグムント・マコウスキー(Zygmunt Makowski)ポーランド元国境軍大尉
アントン・パルチョウィッツ(Anton Paluchowicz)ポーランド元騎兵隊軍曹
アナスタージ・コレメノス(Anastazi Kolemenos)ラトヴィア人の元地主
ユージン・ザロ(Eugene Zaro)バルカン半島出身の元店員
ザカリウス・マルチンコヴァス(Zacharius Marchikovas)リトアニア人の建築家
スミス(Smith)アメリカ人の技術者
このメンバーで1941年4月9日収容所を脱出。一路インドを目指したのだ。
レナ川を越え、バイカル湖の脇を通り過ぎモンゴルへ入る。
バイカル湖畔では、17歳になるポーランド人少女でやはり、収容所送りとなり、そこから脱出してきたクリスチーナ・ポランスカ(Krystyna )が旅の仲間に加わる事となった。
個性豊かなメンバーが力を発揮し合い、互いに助け合い励まし合いながら、次々と襲いかかる過酷な環境、を乗り越えていく。
灼熱の下で極限の飢えと渇きと戦いながらゴビ砂漠を縦断し、チベットへ。こののゴビ砂漠を渡っていく彼らの勇気には恐れ入る。読んでいるだけで息が詰まりそうになる。
そして更には高度障害と厳寒のヒマラヤを越えてインドに入るという驚異的な道筋なのだ。1942年3月にインドに辿り着き、イギリス軍の保護下に入るまで約1年間で6500kmを走破した。
こんな事があっていいのだろうか。こんな事が許されていいのか。という様な事態なのだが全て現実にあった事なのだ。
やはり今の日本は平和ぼけしてしまっている。とても今の現代人にはこの厳しさを生き延びる力なんてないのではないかと思う。
彼らはそんな環境下であっても決して諦めず、助かる、生き延びる事ができると堅く信じて前進していくのだ。ソ連の非人道的な行為よりも寧ろ彼らの敵は自分たちの目の前に伸びる道程であり、自然環境だ。
厳しい気候や飢えや渇きとの戦いに凜として挑む彼らの姿に驚嘆を禁じ得ない。
ヒマラヤ山脈で彼らが出会ったあるものには更に更に驚いた。なんという話なんだっ!
△▲△
「スターリンの銀塊(STALIN'S SILVER)」
ジョン・ビーサント (John・Beasant)
2007/11/24第二次世界大戦中に戦略物資の輸送を目的として大量に建造されたリバティ輸送船の一隻であるSSジョン・バリー号は1944年8月28日オマーン沖でドイツのUボートU−859の魚雷攻撃を受け、2千6百メートルの海底へと沈んだ。
2千6百隻以上が建造されたというリバティ輸送船だが、お粗末な作りの上に申し訳程度の武装。そして訓練も不十分な乗員という環境に加え、ドイツのUボートによる通商破壊とよばれる後方兵站(シーレーン)の攻撃によって、大きな被害を受けた。
この後方兵站(シーレーン)には、アメリカの武器貸与法に基づき中立国や連合国に対して武器や、物資を提供が含まれていた。
この武器貸与法はアメリカの物資を対価の確定もせずに後払いで受け取る事ができるというもので、独ソ戦の開戦以前、ソ連に対して否定的な意見が多かった連合国であったがドイツを打倒する為にはソ連の協定が不可欠と云う事で他の連合国、中立国と同様ソ連に対しても武器貸与法の適応を決めた。
ドイツの進行に対面している国にとっては大切な支援である訳だが、同時にアメリカにとって将来大きな利益を生みだせるという大変都合が良い政策であったのだった。
アメリカはこの政策に則り、豊富な資源を支援国に大量に送り込んで行った。この輸送の要となったのがリバティ輸送船であった訳だ。そしてSSジョン・バリー号はそのなかの一隻という事である。
このジョン・バリー号が特別なものであったのは、その積荷にあった。
この船の積荷は単なる支援物資だけではなく、実はこの船には秘密裏に大量の銀塊が積み込まれていた可能性があるというのだ。
アメリカは戦後になってもこの船の資料を公開する事を一切拒み続けてきているが、ジョン・バリー号の乗組員の証言や数少ない資料には不可解な面が多く残っていたり、なかには具体的に当時の価値で2600万ドル相当の銀塊と記載されている資料もあるのだ。
数千トンの銀塊は果たしてこの海底に眠る沈没船のどこかで一緒に眠っているのだろうか。
そしてこの銀塊の本来の届け先はどこで、一体誰の手に渡るはずのもので、その目的は一体なんだったのだろうか。
SSジョン・バリー号は謎が謎を呼ぶ秘密を抱えて沈んでいる。
ここにきて、深海掘削によって磨かれた最新技術によってこの沈船の捜索が可能になったと云う訳だ。
本書はこの船の捜索を行う権利を取得したチームの調査と捜索そして、この船を攻撃したUボートの足取りも追うと云う盛りだくさんのノンフィクションである。
また本書の最後に補遺として添えられた日独「深海の使者」秘話では、大戦の終盤Uボートが日本にある秘密の物資を輸送する使命を帯びて航海していたらしい事が書かれている。その秘密の物資とその目的とは。これだけでも本当は一冊本が書ける程の驚きの題材だ。
素材良し。背景良し。しかも何より宝探しの本である。そしてちゃんと大量の銀塊を発見しているのだから何も言う事がないハズだ。
しかし、どうした訳か本書は走らない。進まない。食えない。
原文なのか翻訳なのか解らないけど、読みにくい、見えない、理解できない文章が延々と続く。あちこちで話の腰が折れている。
どうしたらこんなに良い素材で不味く料理が出来るんだという位びっくりな出来である。
ネットで調べても殆ど情報らしい情報がない。
はっきり書けない何か事情があるのだろうか。
勿論銀塊が引き上げられたのは事実である。
the.silver.ship
sea and silver
謎が謎のまま残る謎の本という感じで、正に消化不良。
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「我もまた渚を枕―東京近郊ひとり旅」 川本三郎
2007/11/18:僕たち家族は市川、横浜に何年かずつ暮らして今は浦安に住んでいる。
川本三郎氏の事は何も知らなかったのだけど、目次をみたらよく知っている場所ばかりだったので、これは是非読んでみたいと。 自分たちが暮らしたり遊びに行ったりしている場所がどんな風に描かれているのか。とっても興味が湧くじゃないですか。
著者の川本三郎氏は1944年生まれで、朝日新聞社で記者をしていた方で、現在は文芸・映画・都市等の評論家。
小説や映画を入り口として、訪れた町を紹介してくているのだが触れられている題材には疎くてちょっと残念。
小説や映画に描かれた消えゆく風景。文化の残映を追って町の深部へ。 そこにはまだ確かな情緒あふれる懐かしい世界が今も在り。暖かく著者を迎え入れてくれる。
僕もあちこち歩いて回るのが好きで、読んでいてとっても羨ましい。 こんな嗅覚を持って町を歩いていけたらいいのにな。 訪れる居酒屋や食事処はどこも旨そうで行ってみたくなるところばかりだ。
磯の香にひかれて歩く漁師の町「船橋」
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ローカル線に揺られて、川べりを歩く「鶴見」
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近未来都市と田園風景が共存する町「大宮」
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下町の匂いが残る本当の横浜「本牧」
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手賀沼と利根川、水と暮らす町「我孫子」
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荷風晩年の地、寺と緑と川の「市川」
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歴史に消えた風景の幻が残る町「小田原」
ローカ鉄道と漁師の町「銚子」
東急大師線沿線、工場街を歩く「川崎」
「基地」と「日常」が溶け合う町「横須賀」
横浜の裏町、「寿町」「日ノ出町」「黄金町」
鉄道の思い出が残る、かつての軍都「千葉」
二つの川の恵み豊かな人形の町「岩槻」
緑と太陽と潮風の町「藤沢」「鵠沼」
相模川、水無川。川べりの町「厚木」「秦野」
京浜急行終点、海辺の隠れ里「三崎」
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「宇宙のランドスケープ 宇宙の謎にひも理論が答えを出す
(The Cosmic Landscape: String Theory and the Illusion of Intelligent Design)」
レオナルド・サスキンド(Leonard Susskind)
2007/11/10:数学が全くの苦手であるにもかかわらず、ずっと昔から宇宙論とか、量子物理学などの素人向けの本は大好きでずっと読んできた。何冊かは僕のレビューでも紹介する事もできた。
「僕たちはどこから来てどこへ行くのか」
「世界はどうして今の様な在り様なのか」
こうした問いの答えに僕たちは何時か辿り着く事ができるのか、果たしてそれらは永遠の疑問のままで終わるのか。
量子物理学の世界やひも理論、11次元の時空とか次元のコンパクト化?更にはブレーンワールド?
こうした概念はどれ一つをとっても頭に思い描くのは容易な事ではない。
素人向けの本は沢山出ているけど、読んでもうまくイメージできないままに終わってしまうような本も多いのだ。もともと超難解で人類のなかでも一握りの人間しかちゃんと理解できないような数式の世界を素人が読んでイメージできるように書く事ができる人と言うのはもっと希有なのだろう。
著者はスタンフォード大学の理論物理学教授として現役で活躍されている方であり、更にはひも理論の先駆者でもある。
それでも、素人に解りやすく本が書けるかどうかは別だ。
500ページを超える分量。相当の覚悟を持って読み始めたんだけど、これが読みやすい。とってもイメージしやすい比喩を使って丁寧に説明してくれるので楽しい。
読んでいてとっても楽しいのだ。
昔っからこうした科学読み物のような本を読んでいて、友人知人から変わり者扱いされてきた。
「だって面白いんだよ」
「何処がっ!」
こうした質問にはなかなか上手く答えられずもどかしい思いをしてきた。
僕の反応は何時も「だって、僕たちの住んでいる世界がどのようになっているかについての本なんだよ」であった訳で、大抵相手は「それがだからどーした」という反応である訳だった。
最近、脳科学者の茂木健一郎が提唱している「アハ体験」というものの存在を知った。アハ体験とは疑問・問題に対して思考をしていて閃きや気付きが起きた瞬間に「あっ!」と感じる事なのだそうで、この「あっ!」と感じた瞬間脳が活性化するのだと云うのだ。
科学者や数学者が長い間思い詰め、熟考に熟考を重ねついに世紀の発見をした時に非常に強い喜びを感じたという。
これって所謂アハ体験という事なんだな〜。なんて考えてみると僕がこうした科学読み物を読んでいるというのは、最新の科学理論を読んでイメージを掴む、気付きが起きる「あっ!そうなのか!」と膝を打つような気分を感じる為、一つのアハ体験を味わう為に読んでいたのだなと今わかった。
確かに宇宙の創生や世の中の仕組みに興味があるのは間違いないのだが、新しい気付き、新しい閃きを与えてくれる本を探していたのだという事だ。
本書は正にそんな渇望にうってつけの一冊でした。
どうにも取っつきの悪かった11次元の世界や次元のコンパクト化を優しくイメージ出来た。
(勿論本当に正しく理解出来ているかは甚だ自信ないけど)
更には本書の本題である宇宙のランドスケープが提示してくるとてつもなく豊饒な世界観。何故僕たちの住む世界、宇宙が3つの方向と時間を合わせた4つの時空によって構成されているのか、それ以外の次元は何故コンパクト化されているのか、宇宙定数がどうして今の値になっているのか。
ランドスケープはこうした疑問に斬新なアイディア、アプローチで答えてくれる。想像を絶するスケールで広がるランドスケープの中に、実在可能な場所に無数に生まれる多宇宙。メガバース。目が眩む。見たことのない世界観である。そして更に本書はその先へ。
そこで提示される概念とは。
勿論、これらの新しい議論が正しいのか、一時の蛇行、行き止まりの支線として忘れ去られていくのか。
これまで縁のなかった方が取りかかるのにもとってもうってつけな一冊。お奨めです。
「ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い」のレビューは
こちら>>
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「マーリー―世界一おバカな犬が教えてくれたこと
(Marley & Me: Life And Love With the World's Worst Dog) 」
ジョン・グローガン (John Grogan)
2007/11/04:南フロリダの新聞社だコラムを書いている著者とパートタイムでやはり新聞社の仕事をしている奥さんのジェニー。
二人は結婚して幸せの絶頂だった。しかし、不安もあった。それは植木ひとつ満足に育てられない事から子育てに自信が持てない事だった。
自分たちは本当に人の親になる事ができるのだろうか。
そんな二人が下した結論は犬を飼う事だった。
子犬を飼って育ててみれば、自分たちが本当の子供を育てる事が出来るかどうか確認できるし良い練習になるのでは.....。
早速彼らは子犬を譲ってくれるブリーダーを捜して手に入れたのは生後八週齢を向かえる、ラブラドール・レトリーバーの男の子であった。
彼らはこの子犬にボブ・マーリーから名前を頂きマーリーと名付けた。
最初のうちはただひたすら可愛い子犬だったが、みるみるマーリーは大きくなっていく。
しかし、マーリーは大きくなっても一向に大人になっていく気配がなかったのだった。
マーリーは有り余るエネルギーを消費し続ける「パンツに蟻が入った子供」の如く注意欠陥多動性障害を抱えている犬だったのだった。
マーリーはテーブルをひっくり返し、よだれを垂らしまくり、人とみれば全員友達と思いこんで飛びつき、股ぐらに鼻を突っ込んでにおいを嗅いだ。
目に付くものはなんでも咥えて持ち去り、網戸ははぶち抜いて通るもの。壁は壊すためにあるものだと思いこんでいるかのような具合であった。
そして最悪なのは雷恐怖症。雷が鳴り出すとマーリーは怯えきって自分を見失い、ひたすら穴を掘り続ける等してなんとか今いる場所から別の所へ逃げようとするクセがある事だった。それはガレージの中だろうが家の中にいようが同じなのだ。
家で留守番をさせている時に雷がやってきたらその部屋は正に嵐が通り抜けたような惨憺たる状態になってしまうのだった。
毎日を輝きを持った瞳で迎え精一杯楽しむ事にのみ全勢力を傾けるマーリーと夫婦の間に生まれた三人の子供と共に、時として手を焼き怒り、そして笑い、愛し合った13年間。
変わらないのは、子供のような悪戯っけと、悪癖、そして信じ合える友達と精一杯遊ぶ事の為には何でもするという事だ。
犬は人間よりずっと早く年を取ってしまう。愛くるしい子犬だったマーリーも老いて人生の黄昏を向かえる。
自分の老いにとまどいつつも、健気に生きるマーリーの姿は涙を誘う。最後まで家族の一員として、愛し合い、信じ合い、楽しむこと、何より一緒にいる事の為に生きようとするマーリー。
マーリーはそんな本当に大切なことを身をもって示す事で教えてくれるのだ。
かつて一緒に暮らしていた犬を思い出す。そうそう。犬と暮らす生活は愛にあふれている日々なのだ。
号泣。
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「血と暴力の国(No Country for old men)」
コーマック・マッカーシー(Cormac McCarthy)
2007/11/04:たまたまYouTubeで見つけたかなり凄い予告編"No Country for old men"調べるとコーエン兄弟の映画だった。しかも大好きなトミー・リー・ジョーンズ。
ブラッドシンプル凄かったね〜。この新作も凄く期待できそうだと。
これは是非観なくては。
コーマック・マッカーシーの新刊が「血と暴力の国」出版された事を知り、書店へ走った。なかなか見つからなくてやきもきした。
有楽町の大きな書店で発見帯をみて驚いた。コーエン兄弟が映画化?主演はトミー・リー・ジョーンズ?
はて、どこかで見た記憶が....。原題をみて漸くシナプスが繋がった。
読み出した途端更に驚いた、「すべての美しい馬」の作風をイメージしていたのだが、本書は見事なまで全編クライム・ノヴェル。そして扶桑社ミステリーから出版されている事に納得した。
あの予告編で見えるシーンは小説の忠実な映画化だったのだ。
保安官らしい人物。彼は魂のない男、本物の生きた破壊者に出逢った。それを契機に死をも厭わない覚悟の持つ力とそんな相手に対峙する時の恐ろしさを知った。そして自分にはそんな根性がない事も。
冒頭はそんな独白からはじまる。
場面は変わって、保安官事務所にいる保安官補と連行されてきた男。後ろ手で手錠をされている。
男は酸素ボンベの先にスタンガンのようなものがついている「妙なもの」を持ち歩いているところを職務質問され事務所へ連行されてきたのだった。
保安官補が後ろを向いた隙に、男はゆっくりとしゃがみ込むと後ろ手になっていた手錠を膝の後ろからかかとをくぐらせて前に回し、保安官補の首を腕と手錠で絞め殺してしまう。
平然と保安官事務所を出た男はパトカーに乗って州間高速道路へ向かう。手頃な車を見つけると回転灯をつけて停車させる。
車から降りてきた男に近づくと額に手をかざす。
圧縮空気によって飛び出す金属の棒が額を打ち抜き、一瞬にして相手は地面に崩れ落ちた。
パトカーから車を乗り換えると男はどことも知れぬ場所へ消えていった。
その男の名はシュガーと云う。
メキシコ国境に近い荒野にレイヨウ狩りに一人出かけてきたのはベトナム戦争帰りの男で名はモスと云う。
彼が双眼鏡で獲物を探していると、平原に数台の車が停まっているのが見える。
車の周囲には数名の男達が横たわっている。どうやら全員死んでいるようだった。
時間を掛けて用心深く周囲を観察し、人気が他にない事を確認してモスはその場所に近づいていく。
現場は、すさまじい殺戮の跡と大量の麻薬と数百万ドルになると思われる現金の入った鞄が残されていた。
モスは鞄を手にして現場を離れるが、この事が更に多くの死を呼ぶ結果になっていくのだった。
組織の金を持ち逃げする男。それを追う組織。そして事件を追う保安官。ありがちと云えばありがちな設定である。
この物語がひと味もふた味も違うものになっているのは、シュガーと云う殺し屋の存在だ。
ややネタバレになるが、このシュガーこそ、冒頭の保安官が語る『魂のない男』であり、『本物の生きた破壊者』なのである。彼には感情もない、意思決定という考えもない。
この徹底的であり決して妥協しないその存在によって、物語に登場する人々の運命はそれまで考えてもいなかった方向へと急展開させられていく。
シュガーにとって自分の手にかかる事になった人々の運命は、その者が過去いろいろな局面で自ら選択してきた結果であって、誰も変える事ができないもの、シュガー自身も彼らもその決定には必ず従わざるを得ないものなのだ。
モスは奪った金の為に組織から、このシュガーから逃走していく訳だが、追われる事になったのはこの金を奪ったからである訳だし、それは間違いなく自ら選択であった。
モスはつまり自分自身の選択として逃げる事を選んだ訳だ。
逃げ切れるのかどうかは誰にもわからない。でも逃走を続ける自分の立場からは逃れる事が出来ないのだ。
それは正にシュガーの哲学であり、そこには真理がある。
何故なら人の下した決断には必ず従わなければならない。シュガーは単にこの哲学の下で感情もなく単に機械となって行動しているだけなのだ。
このシュガーの存在がこの物語を単なるミステリーの枠組みから解き放っている。
シュガーは選択肢のない結果そのものであり、それも最悪の結果なのだ。
その事は極限に追い詰められているモスばかりではなく、周囲の人々も、保安官、そしてシュガーも例外なく同じであり、そして現実に生きている我々も例外なく同様なのだ。
我々は常に選択し続ける以外にできる事はない世界に生きている事が浮かび上がってくる。
そうなのだ。
人は誰しも、ただひたすら目の前の選択肢のなかから選び続けていく事しかできない。人生は選択の連続なのだ。互いに選択する事で人生と人生が交錯していく、その交錯した結果が良い結果を生むこともあるし、一方が得して一方が損する事もあるだろう。或いは出会ってしまった事で命を落とす事になってしまう事になってしまう事だってある訳だ。
僕たちは買い物で商品を選んだり道のどっち側を歩くかとかいったような些細なことまで意識してるか無意識にしているかに関係なく、常に何かを選択している。
そうして選んだ事が結果的に無慈悲な殺し屋の前に立つこととなり、その男の手によって突然死を迎える事になるかもしれない。
選択肢の善悪はこの際あまり関係がないと言っても良いかもしれない。善いことだけをしているからといってこの環から逃れる事にはならないからだ。
削ぎ落とされた文章は外形描写と登場人物がかわす会話だけで心理描写は殆どない。この映画的な小説世界が、我々の命が如何に危ういバランスの上で成り立っているかをひしひしと感じさせてくるのだ。
すごい。今年度ベストの一冊でした。
「ブラッド・メリディアン」のレビューは
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「すべての美しい馬」のレビューを追加しました。レビューは
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「越境」のレビューを追加しました。レビューは
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「平原の町」のレビューを追加しました。レビューは
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「ザ・ロード」のレビューは
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「チャイルド・オブ・ゴッド
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「女王陛下のダイヤモンド―インドからの道
(CHASING THE MOUNTAIN OF LIGHT)」
ケヴィン・ラシュビー (Kevin Rushby)
2007/10/20:無知な事をさらけだすばかりだが、本書はあとがきから読んだ方が良い。
「コ・イ・ヌール」やインドの歴史を知らないと意味がわからない。
それらについてわかっている事が前提となっている書き方になっている。
日本語のタイトルからイギリスへ渡った数々の財宝、ダイヤモンドの事を指しているものと想像していたけど、実際には「コ・イ・ヌール」と呼ばれる特定の特別なダイヤモンドの事なのだ。
原題である"CHASING THE MOUNTAIN OF LIGHT"の"THE MOUNTAIN OF LIGHT"つまり光の山とはコ・イ・ヌール(Koh-i-noor,
Kohinoor, Koh-i-Nur)と呼ばれるダイヤの名の由来がペルシャ語の「??? ???」(クーへ・ヌール)に由来し、これが光の山を意味する事から来ているのだそうだ。
つまり正にそのコ・イ・ヌールを追うという主旨になっている訳である。
コ・イ・ヌールはかつて世界最大のダイヤモンドとされ、その歴史はインドの神話世界にまで遡るらしい。
神から神、神から人へそして人から人へ。争いや盗み等、人間の醜い争いの渦中で所有者が移ろい渡り、最終的には1850年にイギリスの手に渡り、現在は、英国皇太后の王冠にはめ込まれている。
コ・イ・ヌールは当時は大英帝国の富と権力の象徴とされたダイヤモンドでもあったのだ。
しかしこのダイヤには所有者に不幸を呼ぶという伝説があり、それはこれまでのこのダイヤを巡る数々のそのあまりの価値の高さ故に生じた争いや裏切りによって生み出されたものなのである意味真実でもある訳だが、女性には不幸が及ばないらしいという伝説に基づき、男性には身につけさせないように遺言されているそうだ。
そんないわく付きのダイヤだが、インドのあちこちにはこのコ・イ・ヌールに関係する場所や言い伝えが残る場所が沢山ある。
このダイヤの返還を求めるシーク教徒の藩王の子孫がいたり、遙か神話時代にまで遡る事ができるダイヤモンドの正当な所有者というのはむずかしい問題だ。かつて所有者が住んだ城があったりする。
近代化の波によって、貧富の差はカースト制とは違う縦社会を作り出した事で尚更ややこしい状況になりつつあるインドでコ・イ・ヌールの歴史伝承伝説の地を著者はバスや汽車で丹念に辿っていく。
現在のインドは、公には採算がとれない事で古いダイヤモンド鉱山は殆ど閉鎖されているが、実際には密かに採掘され闇の市場で流通しているらしいのだ。
そんな場所でそれこそ多種多様な人々と出会い、ふれ合い時にはダイヤの事を聞き回る事で危険な目にもあいながらの旅行記である。
ちょっと読みにくい。わかりにくい。情景がみえない。ちょっと不満、消化不良の読後感が残った。
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「もういちど宙(そら)へ―沖縄美ら海水族館人工尾びれをつけたイルカフジの物語」
岩貞 るみこ
2007/10/20:映画になっている事も勿論。予備知識ゼロでした。本書を手にして初めてフジの存在を知った。
沖縄美ら海水族館で飼育されているフジはその開園の為に1976年に静岡で捕獲されたメスのバンドウイルカ。
それ以来ずっと沖縄美ら海水族館で子供も産み立派な母親イルカとして暮らしていた。
ところが2002年、原因不明の病気によって尾びれが壊死し始め、やむなく尾びれの75%を切除する事で一命を取り留めた。しかし結果的には泳ぐ力を殆ど失ってしまった。
プールにただ浮いて漂うようだけとなってしまい気力までもが失われいくフジの姿を見るに見かねた獣医の植田啓一氏は、ブリヂストンの関連会社に勤める友人に連絡を入れた。
「人工の尾びれを作る事はできないだろうか」
グッドイヤーが鮫に手びれを囓り取られたウミガメに人工のてびれを作ったというニュースがあったと事、イルカの尾びれがゴムに似ている事からタイヤメーカーならどうにか出来るのではないかと思ったという事らしい。
どうだろうか、僕はメーカーじゃないので、ピンとこないけど、まぁ普通は世間話の域を出ないのではないかと思う。
ところがブリヂストンの社会貢献を企画する部署にきちんと話が上がっていき、やってみようという事になるのだ。
この辺が実際どの程度のスピードで進んだのかはよくわからないけれど、実際に会社として動き出せた事自体がすごい事だと思う。
一匹のイルカのためにに人工の尾びれを作ることがどのように社会貢献に繋がるのか。僕が担当していたら上手に会社を説得する事ができただろうか。それとも会社として懐が広いという事なのだろうか。
どんな議論が行われたのかわからないけど、打算的だったりするような事がなかった事は間違いないだろう。本書は、ゴールできるかどうかもわからない全くの手探りの尾びれ作りに、獣医の植田氏、水族館の関係者、東京大学元教授の大谷誠司氏、芸術家の薬師寺一彦氏そしてブリヂストンのメンバーが挑んだ記録である。
表紙を見れば明らかなので書いちゃうけど、最終的にはジャンプする事ができるようになる程の遊泳力を与える人工の尾びれが完成する訳だが、素材選びから形状、装着方法など試行錯誤の連続である。
しかも、より良い物を作るという事が単に性能だけではなく、フジは勿論他のイルカ達を傷つけない配慮が必要なのだ。勿論、とうとうジャンプに成功するところは読んでいる僕も一緒に喜んでしまう感動的な内容である。
これを単に美談として片付けるのは簡単だ。人に見せる為に作った水族館。そしてその為に捕らえたイルカ。その面倒を見るのは当然の事だ。そして共に生きる事。生きていく上で出来ることをする。
そして共に喜び合う心。
情に入り込みすぎる事なく、ある意味やや淡泊すぎるかもと云う程坦々としている面もあるが、読後感がさっぱりしていて良い。
ややこしい、複雑な価値観に囲まれてせせこましく生きている最近の僕らにとってこのまっすぐさ。すっきりさ。心地よい。
ブリヂストン「イルカ人工尾びれプロジェクト」
http://www.bridgestone.co.jp/dolphin/
沖縄美ら海水族館
http://www.kaiyouhaku.com/
美ら海 イルカ日記
http://churaumi.moura.jp/
映画
「ドルフィン・ブルー フジ、もういちど宙へ」
http://www.dolphin-blue.com/
岩貞 るみこさんのブログ
http://iwasada.blog.drecom.jp/
薬師寺一彦さんの運営するサイト「harakara」
http://www.harakara.com/j_index.html
△▲△
2007/10/13:読む本を切らしてしまった。手ぶらで通勤電車に乗ることが極度に嫌だ。
落ち着かなくなる。
出がけにカミさんに「何か読んでない本ってない?」
僕らはかなり本を読む方だが、互いに読んでいる本はかなり食い違っており我が家の本棚にはいろいろお互いが読んでいない本が混ざっているという状態なのだ。
「これは?」と持ってきてくれたのが本書「富豪刑事」だった訳だ。
カミさんに筒井康隆を薦められるとは。と云うのは中高生の頃に筒井康隆にはまって貪るようにその著書の大部分を読んでいるハズの自分が。
確かに「富豪刑事」は読んでない。
筒井康隆に関してはそれほど沢山は読んでないハズのカミさんから薦められるとは。本書が自宅にあることすら知りませんでした。
何年ぶりだろうか、筒井康隆。
「虚航船団」あたりか。23年前だよ。マジっすか。
思わぬ出会いにわくわくしつつ通勤電車へ。
さて、この「富豪刑事」だが、1978年の作品。4編からなる短編集である。テレビでは深田恭子が主役だったが、小説の富豪刑事は神戸大助と云う男性。
神戸喜久右衛門という桁外れの大富豪の息子でありながらとある都市の警察の刑事であるという設定となっている。
「富豪刑事の囮」
7年前に起こった5億円強奪事件は時効までに残すところ3ヶ月に迫っていた。容疑者は数名に絞られているものの、有力な手がかりに欠けて真犯人が特定できないままいたずらに時間ばかりが流れていた。
行き詰まった捜査を打開するために富豪刑事が思いついたアイディアとは、桁外れの金持ちと付き合う事でついついお金を使いたくなってしまう状況に追い込む事で、強奪した金に手を着けさせようというものだった。
「密室の富豪刑事」
小さな町工場の社長が密室化された社長室で焼死した状態で発見された。密室殺人のトリックは。そして真犯人は。
犯人らしき競合会社の社長のしっぽを掴むため、富豪刑事は新に競合会社を設立して....
「富豪刑事のスティング」
とある企業の社長の息子が誘拐された。身代金の要求に応えたものの、犯人の要求は更にエスカレートしてきた。零細企業のため、一回目の支払いで金庫にある金は全て使い切ってしまっていた。更に身代金を用意しないと息子の命がない。その時富豪刑事のとった手段とは。
「ホテルの富豪刑事」
富豪刑事の管轄の街に関東と関西の広域指定暴力団が集まり何かの会合を開くという情報が入った。
複数の暴力団が小さな街で出会えばあちこちで問題を引き起こしてしまう危険性がある。手薄な警備体制を補って彼らを管理下におくべく富豪刑事が取った手段とは。
どれもあり得ない程のお金持ちならでは(笑)の手段と価値観で問題を解決していくと云う趣向で犯罪に立ち向かっていく富豪刑事の姿を描いている。
パターン化されているのはキャラクター達の反応、大助の父の神戸喜久右衛門が自分の金を使って息子の大助が世の中のために活躍する話を聞く度に号泣して死にかけるとか、物語の背景や事件のあらましのようなものは登場人物が誰かに説明をする場面であらかた読者に伝わるような形式でとっとと本題に入っていってしまうとか。
更には物語の進行を早めるために、登場人物が小説世界の枠組みを超えて読者に語りかけてきたりする。
正に筒井ワールドといって良い面も随所に用意されていてとってもなんとも楽しい。
一方各編とも事件や犯罪の内容それに対策などはどれも他とは違う手法を用いられており、よく練られている感じだ。
あとがきを見ると4編書き上げるのに2年半かかったと言っている。実はさらさらと読んでしまうには惜しい程の労力がかかっているのだ。
さすが筒井康隆。
オフィシャルサイト
http://www.jali.or.jp/tti/
あらためて過去の著作を眺めるとどれもかつては僕の本棚に並んでいたな〜。杉村篤さんの表紙にはどれも見覚えのあるものばかりだ。
生まれ育った仙台の自宅が立ち退きにあった際に大部分の書籍を施設に寄付してしまったので今はもう手元にはない。
今考えると呉々も勿体ない事をしてしまった。施設では誰かが読んでくすくす笑ったりしてくれているのだろうか。
何十年も前のしかも膨大な短編なのに、記憶に残っている作品が多いのに驚かされる。
もう一度買って読んじゃおうかな〜。新しい発見もありそうな感じだ。
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「強盗こそ、われらが宿命(PRINCE OF THIEVES)」
チャック・ホーガン(Chuck Hogan)
2007/10/13:冒頭、ボストンのフェンウェイ球場の近くにある銀行の天井を夜間に破り侵入し、出勤してくる銀行員を待ち伏せ拘束し、金庫を開けさせて強奪しようとする強盗団。
用意周到。最初に出勤してきたのは女性支店長と副支店長の二人。これも予定通り。暗証番号を聞き出し、金庫を開けさせ、囮紙幣や染料袋、トレイサー等の罠を手際よく避けて、紙幣を詰め込んでいく。
撤収する為に証拠隠滅の為にフロアに漂白剤を撒いていると警察への無音警報が発報している事に気付く。副支店長を激しく殴打して昏倒させると、彼らはこの銀行が包囲されている場合に備えて女性支店長を人質に外へ出る。
スピーディかつスリリングな導入部分。映画をみているような展開である。
強盗団は、アイルランド出身者達が集まって暮らしていた古いチャールズタウンの一角で育った仲間だった。リーダー格のダグは幼い頃に母が失踪、父親が刑務所に入ってしまった事で友達だったジェムの家に引き取られ家族同様に育てられた。そして逃走用の車両調達と運転を受け持つグロンジーと技術面を受け持つデズの4人組である。デズ以外は定職を持たず正に強盗こそ本職であった。
これまで彼らの手口は大胆且つ抜かりがなかった。
今回の銀行襲撃も長い間下調べをし、行員達の出勤時間や防犯装置、支店長の自宅や彼女の生活習慣も尾行して調査していたのだった。しかし、今回不必要な暴力を振るったジェムの本性として持ち合わせた危険さに加え、調査している段階でこの女性支店長と出会ってしまった事で心を揺さぶられるダグの間で微妙なズレが生じ始める。
物語は彼らを追うFBI。彼らの間に生じた隙が捜査の手を近づけてしまう事になっていくのだ。導入部分の展開の早さは僕好みで、とっても先が楽しみな感じだったのだが。
話がなかなか展開しない。しかも展開する方向性がダグと支店長のお話だったり、その上に強面であるハズのFBI捜査官までもが何か鞘当てしているような接し方してくるし。ラブ・ロマンスだったのかこの本?というか正にそうなのかも。
お話の主題はこのあたりにある感じだ。僕としては、なんだか場違いなパーティーに呼ばれた気分であった。
この後の展開はどこもステロタイプで捻りがなくどこかで観たような、読んだような、やっぱりねという内容でした。かなり残念。
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それでもフェンウェイ球場周辺から舞台となったボストン市街をグーグルマップで辿って歩くなんてゆう楽しみ方はある。
がんばれ松坂大輔。
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2007/10/06:「帝都物語」は荒俣宏の小説デビュー作であり、1987年日本SF大賞を受賞した本だ。博覧強記の作家として知った荒俣氏で、その小説は機会があれば読む程度の接し方しかしてこなかったのだが、カミさんが突然「読みたい」と言いだし、僕も一緒に読むことにした。
あらたまって「買って良い?」なんて聞いてきたその訳は六巻もあったからなのだった。僕は全体の分量も知らず、「なかなか面白い」と云うカミさんの言葉につられて読み始めたのだが、こんなに長いとは。これほどの長編だとそれなりに心構えが必要だったなと思った時には引き返せない程読み進んでしまっていたのだった。
ほぼ一月かけて、どっぷり荒俣ワールドに浸りました。そして、これまで荒俣宏を只者ではないとして知っていたつもりが実は半分しかわかっていなかった事を思いしりました。
繰り返すが処女小説にして日本SF大賞を受賞。そしてこの分量。そしてそこに詰め込まれた。陰陽道、風水、奇門遁甲を駆使して創造されたイメージの壮大さ。博覧強記ぶりだけでも人並み外れているその上にこの創造性である。
本書「帝都物語」だが、そもそもは以下の1〜10までで一旦完結しており、受賞対象はこの範囲。
帝都物語1 神霊篇
帝都物語2 魔都(バビロン)篇
帝都物語3 大震災(カタストロフ)篇
帝都物語4 龍動篇
帝都物語5 魔王篇
帝都物語6 不死鳥篇
帝都物語7 百鬼夜行篇
帝都物語8 未来宮篇
帝都物語9 喪神篇
帝都物語10 復活篇
1988年1月戦争篇、1989年に大東亜篇が加わった。
僕が手にしている角川文庫の新装版はこの二つを取り込んで時系列に並べ直し、加筆訂正及び編集を加えたものになっているという事だ。
第壱版 神霊篇・魔都篇
第弐版 大震災篇・龍動篇
第参版 魔王篇・戦争篇
第四版 大東亜篇*・不死鳥篇
第伍版 百鬼夜行篇・未来宮篇
第六版 喪神篇・復活篇
またこれ以外にも、物語は
帝都物語外伝 機関(からくり)童子(1995/06)
帝都物語異録(2001/12)
帝都幻談1〜3(2007/03)
新帝都物語 維新国生み篇(2007/07)
と書き続けられておりさらに広がりを見せているのだ。
また「神霊篇」から「龍動篇」までを映画化1988年に劇場公開されたのが映画「帝都物語」。翌89年に公開されたのが「帝都大戦」でこちらは「戦争篇」が原作になっているという事だ。これらをボックス化したのが「帝都封印」なんだそうだ。
話をこの新装版に戻すと、この帝都物語は、平将門の霊を呼び覚まし、これを打つ事で帝都崩壊を目論む魔神加藤保憲との戦いの物語なのだが、この戦いが尽く1907年から世紀末へと向かう東京の事件・史実を引き起こした形となり、物語を辿る事で帝都東京の歴史が読めるという物語なのだ。
物語には実在の人物がこれでもかとばかり登場し、実際に起こった事件と彼らの生涯に、本書の
フィクションが加わる事で、混沌としたリアリティを呼び起こしてくる。これらの史実と実在の人物を使って架空の物語を紡ぐと作業は如何に根気のいる大変な作業だったのだろうか。
大まかな時代を表すと以下のようになる。
第壱版 神霊篇・魔都篇
帝国主義、軍国主義が台頭していく明治40年1907年〜明治43年1910年
第弐版 大震災篇・龍動篇
関東大震災を引き起こすべく策を巡らす魔神加藤と都市の復興
大正12年1923年〜昭和2年1927年
第参版 魔王篇・戦争篇
第二次世界大戦そして敗戦
昭和10年1935年〜昭和20年1945年
第四版 大東亜篇*・不死鳥篇
戦後の復興と
昭和20年1945年〜昭和23年1948年
第伍版 百鬼夜行篇・未来宮篇
安保阻止から学生運動の動乱を描く百鬼夜行篇
昭和30年1955年〜昭和44年1969年
執筆時点での未来へ。
第六版 喪神篇・復活篇
そして世紀末へ
読んでいて思い起こされたのがエルロイの「アメリカン・デストリップ」と「アメリカン・タブロイド」である。この本は、ロスでおこった様々な事件を特定の人物が裏で引き起こしているという前提で描いており、事件は史実なのだが、内容はフィクション。登場人物に多く実在の人物を起用しているという点でも、この「帝都物語」と類似しているのだ。
東京の歴史を辿るもよし。陰陽道、風水、奇門遁甲が飛び交うファンタジー小説として読むもよし。噛めば噛むほど味がでる小説でありました。
「レックス・ムンディ
こちら>>
「南海文明グランドクルーズ」のレビューは
こちら>>
「パルプマガジン―娯楽小説の殿堂」のレビューは
こちら>>
「風水先生 地相占術の驚異」のレビューは
こちら>>
「風水先生レイラインを行く」のレビューは
こちら>>
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「天使と罪の街(The Narrows)」マイクル・コナリー (Michael Connelly)
2007/10/06:ついつい、うっかりにしては一体どんな勘違いだったのか。
ボッシュシリーズを追いかけてきたつもりだったのが、本書「天使と罪の街」を既読と思いこんで読み飛ばし「終結者たち」を先に読んでしまったのだ。自分で自分が信じられない思いをした。
そこで苦い思いを噛み締めつつ読ませて頂きました。さて、この「天使と罪の街」だが、これは振り返ると「暗く聖なる夜」に続く長年務めたロス市警を辞め私立探偵となったボッシュのお話であると同時に、単独ものだった「ポエット」「わが心臓の痛み」の続編としても位置づけられ、それぞれの登場人物が本書に流入して混じり合ってくる。
これまでも幾度か登場人物が事件、出来事が度々錯綜してきたコナリーの本だが、本書の登場によって、ボッシュシリーズとそれ以外という区別が意味をなさなくなった。本書はそう云う意味では非常に重要な位置づけとなっている訳だ。(それを堂々と読み飛ばしてきた俺。わっはっは)
その為、これまでのボッシュシリーズは無論の事、それ以外の本もきちんと読んでから本書に取りかからないと、大変なネタバレに出会う、とか、本来の伏線が本線に接しているポイントが全く読めなくて十分楽しめない、と云った目に遭ってしまうのでこれは本を開く前に十分注意が必要な作品です。
因みに、ボッシュシリーズにリンクした本は
「ザ・ポエット(THE POET)」
「わが心臓の痛み(BLOOD WORK)」
「夜より暗き闇(A DARKNESS MORE THAN NIGHT)」
「バッドラック・ムーン(VOID MOON)」
の4冊だ。なんだ結局早い話が関係ないのは「チェイシング・リリー(CHASING THE DIME)」だけじゃん。
次回訳出される予定だとされている"The Lincoln Lawyer"は
アメリカ探偵作家クラブ賞(MWA)に最優秀長編賞にノミネートされると云う栄誉に輝いた単独ものだという事だが、これだっていつかどこかでつながっちゃうかもね〜という気配ムンムンな訳である。
そんな複数の物語が本書で本流となって流れ出す訳なので、冒頭ですら引用が憚られるような展開である。あれよあれよと他の物語が乗り入れてきて合流していく様は読んでいて痛快であった。
ほんと、本書の前半の力強さは見事としか言いようがない。
しかし、本書を読み終えて置いた後の感想として個人的には「やりすぎたかも」という感じがする。合流するのは構わないけど、一冊でここまで一気にやる事なかったかなと。
どうしても、過去の本の記憶を辿りつつ本書を読むという事を強いられる事もある意味集中できないという問題がある。
だって期間全体で15年だからね。書いた方はちゃんとわかって書いているんだろうけど、読者はそれほど記憶が良くないのだ特に僕は。
そして、何より本書の主旋律となる事件の向かう先がな〜。一体全体犯人は何がしたかったのかと。もしかして物語を束ねるために登場してきた?
「正義の弧」のレビューは
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