2005年度第3クオーターのページです。10月に入っても真夏日になったり、急に涼しくなったりと天候の急変が続く毎日です。ところで当サイトは気付けば早いもので2周年になります!!訪れた方に得るものがあったと思って頂けるかどうか、甚だ心もとない内容ですが、少しずつでも精進し、より上質な内容を目指してがんばって行きたいと思っております。どうぞ宜しくお願いいたします。
ここでは2005.10〜2005.12に読んだ本をご紹介しています。
「ジェノサイドの丘―ルワンダ虐殺の隠された真実
(We wish to inform you that tomorrow we will be killed with our family
STORIES FROM RWANDA)」
フィリップ・ゴーレイヴィッチ (Philip Gourevitch)
2005/12/29:皆さんはルワンダで起きたジェノサイドの事をご存知ですか?僕は当時のニュース映像を覚えている。滝のなかの岩棚でごろごろと丸太のように転がる複数の遺体。カメラが引くとその滝はかなり大きなもので、岩棚はいくつもあり、そのいずれにも同じような遺体がひっかかって水に打たれている。そして滝壷にはもっと沢山の遺体が見えてくる。どれも遺体は皆、水に打たれて丸太のようにごろごろ、ごろごろと回り続けているのだ。
ニュースの解説はフツ族とツチ族の民族衝突で、とか、大統領機が撃墜されて、と報じられるもののどれも断片的。前後関係も因果関係も理解できない。
大体、首都で現職大統領の乗った飛行機が撃墜されるというのはどんな事態なのだろうか。殺しあっているのではなく、一方的に殺されているみたいだ。誰が誰を襲っているのか。
どうしてこんな大勢の人々が、逃げだす事も出来ずにどんどんと殺されているのか。何故こんな徹底的な事態に迄エスカレートしてしまったのか。
そして殺された人々はただの物のように、滝に流れ込んだまま放置されているのか。報道陣は何故滝に向かってカメラを構えるばかりで、事件の現場はどうして映らないのだろうか。
一体何が起こっているのか、さっぱりわからない。そして滝に揉まれている黒人男性の遺体だが、それは何故かとても「白い」のだ。何もかも現実離れしていているニュースだった。そして、ニュースはそのまま詳細を語る事なく、埋もれていった。
本書は、1994年に起きた100日間で少なくとも人口のほぼ10%に相当する50万人が虐殺されたとされる事件から1年後に現地を訪れ、生き残った者達へのインタビューや綿密な調査の結果著されたその大量虐殺(ジェノサイド)の記録である。
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本書の冒頭には、プラトンの「国家」が引用されている。処刑された遺骸の脇を通りかかり、見たいと思う気持ちと嫌悪の気持ちで葛藤するアグライオンの子レオンティウスの話しだ。彼は最後に目を遺骸にむけて言う、「さあお前たち、呪われた奴らめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」
著者は、正にこのジェノサイドに赴いた意図は、それを見、味わう為だったと述べる。そして本書の読者もそうであろうと推測すらしている。
確かに、僕自身も一体何が起こったのか、知りたい。理解したいと思った。これ程まで邪悪な行為を行う事ができたのか。僕には目をそらす事ができない。そして読んだ。
わずかな土地までも利用しつくす勢いがルワンダの人口密度の高さとそれに伴う競争の苛烈さをよく表現している。そしてジェノサイドの原因は、大きな意味では、こうした根本的な経済要因にあるともされる。「勝って略奪」と「全員の場所はない」−−といったような事だ。まるで虐殺がダーウィン的な人口調整メカニズムででもあるかのように。
一部の殺人者が物質的利益と居住空間の期待に動かされたのは間違いない。だがなぜバングラデッシュでは、あるいはどこでも、他のひどく貧しくてひどく混みあった国ではジェノサイドが起こらなかったのか?人口過剰だけではなぜ数十万人の人々がわずか数週間のあいだに百万人の隣人を殺そうとしたのかは説明できない。本当の意味でそれを説明してくれるものはない。
そう、ジェノサイドは余にも広範で且つ徹底的であった。
本書を読んでも情報は断片的で混乱したままだ。読んで知る事は出来ても、理解する事はできない。実際何がどのように起こったのかを説明できる者は生き残っていない。「何故」に答えられるものはこの世にはいないのだ。
残るのは余にも大きな「問い」と「深い悲しみ」そして消える事のない「罪」なのだ。我々傍観者はあくまで、それを見、味わう事しかできないのだった。この恐ろしさが解って貰えるだろうか。
「ホテル・ルワンダの男」のレビューは
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「LAハードボイルド―世紀末都市ロサンゼルス」
カリフォルニア・オデッセイ1
海野弘
2005/12/17:本書はカリフォルニア・オデッセイと題された全部で6冊からなるシリーズの一冊。このシリーズは全体でカリフォルニアが現在の姿となった由来をサブカルチャーや映画・小説・音楽の視点から紐解いていく。
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個人的には「めまいの街―サンフランシスコ60年代」、「癒しとカルトの大地―神秘のカリフォルニア」に続く3冊目。まとめて読む事も考えたのだが、なんか勿体無くてできない。今回はハードボイルド。僕も大好きなハードボイルド。
さっそく目次を見てみると
第1章 チャンドラーのロサンゼルス(ロスのアンダーワールド
チャンドラーのロサンゼルス
『大いなる眠り』(1939) ほか)
第2章 ロス・マクドナルドのロサンゼルス(『動く標的』(1949)
『魔のプール』(1950)
『人の死に行く道』(1951) ほか)
第3章 LAノワール(1980年代のロサンゼルス
ジェームズ・エルロイのロス
『血まみれの月』(1984) ほか)
チャンドラー、ロス・マクそしてエルロイ!彼らのロサンゼルスを舞台にした小説を全て網羅しているのだ。正に「読まずに死ねるか」というべき内容なのだ。勿体無くて読めないという気持ちを解っていただけるでしょうか?
特に僕的にはエルロイのLA四部作を海野氏がどのように料理しているのか、先に読んじゃえ!という衝動を抑えるのが大変なくらい気になるところでした。
海野氏は建築や都市論に非常に明るく、小説のモデルになった街角や建物などを紹介しながらロスを主人公マーロウやリュウ・アーチゃーと一緒に縦横無尽に駆け抜ける。またチャンドラーから、ロス・マクそしてエルロイと時代を移しながら、その時代、時代のロサンゼルスという都市がどのように発展し、その都市のなかで都市の一部として、人々の暮らしについて光を当てていく。これは正に見事としか言う他ない。
期待に胸いっぱいで噛付いた海野氏の「ホワイト・ジャズ」に寄せた一節。
「タブロイド新聞やスキャンダル雑誌のスクラップによるモンタージュ手法はさらに拡大される。語り手はディヴィッド・クライン警部補であるが、彼の文章もメモのように断絶的になり、感情や説明はカットされ、物語、小説の持つ連続性、流れといったものは粉々になり、破壊された断片が暴風のように舞っていて、統一した人間像や激的な筋はその龍巻にのみこまれ、失われている。
ここでは、主役は個人ではなく、時代であり、都市である。エルロイはロスという都市を描くために、実験的手法を極限までに進め、ついに小説を破壊し、ロマネスクを犠牲にしてしまったように見える。ここには50年代のロスについてのノートやファイルがそのまま投げ出されているかのようだ。もちろん、混沌とした都市の断片の渦の底に巧妙に仕掛けられた網が張られているのだが。
いやはや、嫉妬心を抱いてしまう。こんな事をさらりと書いてみたいものだ
「めまいの街―サンフランシスコ60年代」のレビューは
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「癒しとカルトの大地―神秘のカリフォルニア」のレビューは
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「スパイの世界史」のレビューは
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「陰謀の世界史」のレビューは
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「秘密結社の世界史」のレビューは
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「陰謀と幻想の大アジア」のレビューは
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「新編 東京の盛り場」のレビューは
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「海野弘 本を旅する」のレビューは
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「書斎の博物誌―作家のいる風景」のレビューは
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「武蔵野を歩く」のレビューは
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「海賊の世界史」のレビューは
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2005/12/17:アラマタ氏の守備範囲の広さにはいつも驚かされるばかりだが、今回はパルプマガジン。アラマタ氏の収集歴は35年にも及ぶのだそうだ。
本を書くために様々な事を調べて周り、大量の本を執筆。その合間でチョウチョウウオを採って飼育したり風水師に師事したりしている傍らでパルプマガジンの収集。目の回るような生活じゃないのだろうか。よくテレビになんて出ている暇があるものだ。
さて、パルプマガジンの事だが、雑誌の値段を極限にまで落とす為に粗悪な紙(パルプ)を使い、掲載する小説も大衆向けで且つ原稿料が安い作家に書かせて出したものだ。つまり質が悪い事が売りであるところが面白い。
最近日本でも以前に比べて手に入りやすくなってきたというパルプマガジンを先達として手引きしようというものだ。手引書なのでパルプマガジンの由来やその趨勢、文化に及ぼした影響を体系的に書かれている。
このパルプマガジンの世界が影響を及ぼした日本の娯楽小説という流れも見逃せない読みどころだろう。
しかしその作業はかなりの難業だった模様。それはこのパルプマガジンのジャンル、専門性にあったのだという。
「パルプマガジンが分野を限った小説を載せるメディアに特化して以来、ある雑誌が取り扱うジャンルは他の雑誌にまったく採用されなくなったからである。当然、コレクターにも好みというものがあって、恋愛小説なぞカッタルくて読んでいられないがウエスタン小説は大好きだ、という場合に、恋愛ものを扱うパルプは不必要な雑誌となる。これが専門分野をもつ雑誌群の宿命なのである。
そのおかげで、パルプマガジンの全容を知ることは、一人のコレクターではほとんど不可能といってよい。何人かの趣味を異にするマニアが協力しないことには、歴史や目録すら満足に作成できにないようになっている。」
今回、正にアラマタ氏の地道な調査のおかげで体系的な理解ができるようになったという事だ。ありそうで、なかった本と言う事もできるだろう。表紙絵もふんだんに掲載されていて目にも嬉しい。タイトルに相反して質の高い内容になっている。しかし、この本の表紙は「何で?」
「風水先生レイラインを行く」のレビューは
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「風水先生 地相占術の驚異」のレビューは
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「レックス・ムンディ
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「帝都物語」のレビューは
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「南海文明グランドクルーズ」のレビューは
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「無頼の掟(A World of Thieves)」
ジェイムズ・カルロス・ブレイク(James Carlos Blake)
2005/12/11:本書は物語がシンプルなのであらすじが非常に書きにくい。かといって粗いと言っている訳ではない。武骨で太いキャラクターが最初から最後までただまっすぐ前に突き進んでいくのだ。ここには迷いも無く、懺悔の念もない。互いに道を譲り合うことの無い彼らが只管ぶつかり合うのたが、その練りあがったプロットには目を瞠るものがある。
また冒頭から時間軸を前後させながら急展開する語り口も素晴らしい。残念ながらこの部分は説明するのがかなり難しく、この面白さは読んでいただくしかないだろう。無粋だが時間軸をならして語ると以下のようになる。
1920年代末、ルイジアナ州、ニューオリンズ。物語の主人公ライオネス・ルーミス・ラサル。通称ソニー。彼は商船員の父と物静かな母の元で育った。
今でこそ真面目に働いている父マーロンだが子供の頃は大変な乱暴者だったらしい。若い頃、警官に対する暴行で捕まり刑務所か軍隊かの選択を迫られ海軍を選び、退役後は商船員として働き現在の母と出会い結婚。生まれた子供がソニーだった。
父マーロンには10歳下の二卵性双生児の弟がいる。ラッセルとバックだ。彼らは父よりもなお乱暴者だ。二人は第一次世界大戦下ヨーロッパへ出兵。ラッセルは狙撃兵として優秀な兵士だったらしい。共に激しい戦闘を経験し、当面喰うに困らない程の金を手にして退役してきた。
しかし身が入るような仕事も見つからず窃盗や賭博で生活するようになる。やがて二人は武装強盗にも手を出すようになっていくのだった。ソニーの両親は二人の事を心から愛し心配もしているのだが彼らの行動を止める事ができない。この二人の明日をも知らないアウトローぶり無軌道ぶり、自分自身の痛みにも鈍感になっているところあたりはいかにも戦争後遺症という感じで恐い。
ソニーが高校2年の時母が突然亡くなり、喪失感を埋めるかのように海に出た父は船が難破し帰らぬ人となってしまう。両親はソニーを大学へ進学させまともな職業に就く事を望んでいた。ラッセルとバックの二人の叔父も兄の遺志を組んでソニーを支援しようとするのだが、幼い頃から二人の叔父の武勇伝を聞いて育ったソニーは彼らと一緒に無法者として暮す事を選ぶのだった。
高校卒業したてのソニーを迎え入れ三人組としての初仕事は銀行強盗で、ソニーはその運転手だった。緊張した面持ちで銀行の前で踏み込んだ二人の叔父を待っていると、なんと州の保安官達とパトカーのパレードが通りを凱旋してきた。あれよと言う間にソニーは警察車両に囲まれてしまうのだった。
送り込まれた留置場でソニーは早々と他の勾留された者たちとのトラブルに巻き込まれてしまう。つかみかかってきた看守を夢中で殴り倒したが当たり所が悪かった看守はその場で死んでしまう。
その看守はルイジアナ州の伝説の男ジョン・イズリー・ボナムの息子だった。ボナムはテレボン郡の保安官補で60年間保安官事務所の重鎮として働きルイジアナ州で最も多くの犯罪者を殺してきた男なのだ。ソニーは二人の妻に先立たれたボナムの残された一粒種の息子を殺してしまったのだった。
ここまでの展開は正に怒涛の展開。ここまででも読む価値十分。しかしここで辞められる訳はないよね。
故殺の罪で10年の禁固刑。送り込まれたところはミシシッピ川と山の自然の城壁に四方を囲まれた脱獄不能と云われた刑務所。そこは暴力が支配する地獄だった。正に痛々しい描写が続く。しかしソニーは叔父たちから学んだ無頼の掟に従って進み続ける。あるのはただ行動あるのみ。
驚く事にここまででなんとまだ物語の序の口なのだ。中盤やや中だるみがあるものの、最後までぐいぐい引っ張るストーリーと個性的で生き生きとしたキャラクターが良い。トンプソン?エルロイ?同根でありながらオリジナリティを出しているところも立派。1920年代のフレーバー満開で展開するノワールの世界はどこまでもカッコ良い。映画に、それこそペキンパーが撮ったら凄いものになっただろう。なかなかの拾いものですよ
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「神の創り忘れたビースト(The Beast God Forgot to Invent)」
ジム・ ハリスン (Jim Harrison)
2005/11/19:現代のヘミングウェイとも目されると云うジム・ハリソンの2000年に出版された中編集。「神の創り忘れた獣」、「西への旅」そして「スペインへいくのを忘れていた」の三篇が収録されている。個人的には直前のハリスンが、1973年に書かれた「死ぬには、もってこいの日。」だったので、それと比べると歳を重ねる重さがずっしりと文章に織り込まれていて、なんとも素晴らしい仕上がりだ。この読ませる力。そしてその物語。これは面白い。
「神の創り忘れた獣」
ミシガン州スペリオル湖畔。若くして財を築いたもののバイクで事故を起こし外傷性脳損傷により、視覚による記憶能力を失った男ジョー。彼は湖で泳ぐ姿を最期に溺死体で発見された。
本編は、希少本の取引でかなりの資産家となり湖畔の別荘に隠居している初老の男ノーマンがジョーの検死審問に提出した報告書という体裁をとているものなのだ。
短期記憶不全症候群。出会う人、目にするものは全て見知らぬ初めて見るものになってしまったジョーは、財産を全てリハビリにつぎ込んだものの効果はなく、州の福祉課の委託によって保護を引き受けている老いたラスボーン兄妹の家に引き取られていた。
ノーマンはこのラスボーンの兄妹の近所に建つ別荘で暮らし、何かとラスボーンにも世話をしてもらっていた事からジョーとも知り合いになり、その最期の日々を纏める作業を引き受けたのだった。
ノーマンはお金には不自由しない環境にありながら、希少本の取引、過去の所業、片田舎の噂話など過去に捕らわれ外出すらままならない。隠居生活が目的でいくら素晴らしい自然が間近にあってもアウトドアはからっきし駄目。
一方のジョーは財産も記憶も失い、地元では「のろまのジョー」とバカにされながら、森の中で自給自足の生活する力があり、野生のヒグマやコヨーテすら手懐ける不思議な能力を出現させている。彼は記憶障害であるが故、森の自然に、他人には理解不能な美しさを見出しているようだ。しかも彼は森で見た事のない不思議な生き物を見たと言う。
何から何までも自分とは正反対なジョーの日々を描きながら老いた自分を語るノーマン。深い余韻を残す素晴らしい物語だ。
「西への旅」
B.Dが帰ってきた。「蛍に照らされた女。」に収録された「ブラウン・ドック」から、10年の歳月を越えて執筆されたが本編は前作のすぐ後と云う設定だ。
インディアンの墓地を守るために人類学者のテントに火をつけ発掘を妨害した咎で逮捕されたが留置場から逃亡。しかし一緒に逃げ出した元インディアン活動家ローン・マーティンはB.Dを置いてけぼりにした。しかもローンは呪術に使う大切な熊の毛皮も持ち逃げしたのだった。
熊の毛皮を取り戻すべくローンの足取りを徒歩で追い始めるB.Dは「あるくばか」という異名も持っているのだった。
辿り着いたロサンゼルスは、見るものみな物珍しい。大都会でローンが見つかる確立がどの程度かなんて皆目気にせず、当てもないまま彷徨い、公園で寝るB.D。
偶然見かけた同じ車種で同じ様にみすぼらしい車にに駆け寄ったが、当然ながら持ち主は別人で、かなり成功した映画脚本家ボブだった。ひょんな行きがかりから、常時酔っ払った状態のボブの運転手として働くことになったB.D。
何をする訳でもないのに、見た事もないような大金を稼いでいるボブと彼を囲む人々との出会い。生活様式も金銭感覚も価値観も違う世界に面食らうばかりだ。B.Dは、果たして熊の毛皮を取り戻す事ができるのか。
前作に比べB.Dは武骨さが薄れ、ややマイルドな人格になったようで、より本物のインディアンっぽくなった感じだ。成り行き任せの悪党というよりも、見知らぬ土地でやや途方に暮れつつもいきあたりばったりの流れ者といった風情。そのB.Dは、再び故郷へ戻る事が出来るのだろうか。
「スペインへいくのを忘れていた」
ニューヨークで暮す主人公は、55歳。駅の売店で売る有名人の100ページの伝記、バイオプローブを書く事で財を成した男。1冊7ドル今では37冊が出版されている。
成年する前に両親を亡くし、二人の妹弟を育てるべく進路を曲げ作家となったのだった。父は植物学者、母は大学の歴史の講師を務めていた事からも知性的な血筋、両親の死が違った形であればもっと自分達兄弟にも違った人生があっただろう。
広場恐怖症で家からは殆んど出ずに電話や手紙、インターネットで調査一般を引き受けているのは妹のマーサ。シカゴに事務所を構え事務一般を引き受けているのは弟で末っ子のサッド。サッドは大人になり損ねたままで、未だにひとり立ちできない上に金にルーズだ。
しかし男は今ではどうにか二人にかなりの給与を支払えるまでになっているのだった。若くして背負い込んだ責任をこなす為に足元ばかりを見て歩き続けてきた訳だが、ようやくその重荷も下ろせる見込みも立ち、顔を上げると辺りはもう黄昏時がせまりつつある事に気付いた主人公の心がどうにも切ない。
彼は70年代に駆け落ち同然の学生結婚をしたが、相手の両親の反対と自分の軽はずみな行動から結婚生活はたったの9日間しか続かなかった。そして新婚旅行で行くはずだったスペインにも行きそびれ、未だに行った事がない。出来なかった事、起きなかった事に思いを巡らす日々だ。
ある日、男は離婚した相手であるシンディが雑誌に紹介されていたのを見て、彼女に電話をかけてみる事にするのだった。
僕は本編が、これまで読んだハリスンのもののなかでも最も素晴らしい出来だと思う。主人公の境遇、日常の雑事。そして20年以上も音信が途絶えていた、かつての妻に会いに行く物語を紡ぐ様に語っていく絶妙な語り口。ちょっとだけ引用させて頂く。
正面の窓に近づくと、川の一部が見えた。その夜は人生の驚くべき成果を見せてくれているように思えた。私は人生に自発的に関わってきたとは言いがたい人間だが、人生を五ページごとに区切って考えることをやめたら、もっとましな人生を送ることができるのだろうか。
この三十年間、この切迫感に突き動かされて本を書いてきたが、すぐにまた別の本に取りかかる事になった。だが、がむしゃらに働いたからといってどうなるというのだ。前に進むのは本人の自由だ。わたしは小学校で習った話を思い出した。
こんな文章に出遭ってしまうと、僕はただおろおろと、まごつくばかりだ。もうほんと大好き。
「蛍に、照らされた女。」のレビューがこちらでご覧頂けます。
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「死ぬには、もってこいの日。」のレビューが、こちらでご覧頂けます。
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「日航機墜落―123便、捜索の真相」
河村 一男
1985年8月12日午後6時56分頃、羽田発伊丹行きの日本航空123便ボーイング747は群馬県多野郡上野村の高天原山の山腹へ墜落した。この事件はジャンボ機の墜落そして乗員・乗客520名の犠牲者を出すという未曾有の惨事となった。
2005/11/19:本書は当時現職の群馬県警本部長でこの日航機の事故では日航機事故対策本部長として現場の指揮を執った河村一男氏の手によって墜落以降の警察組織の捜索活動にフォーカスした本だ。
つまりタイトルにもあるとおり墜落場所の特定とそれ以降の警察捜索活動に絞られたものになっている。なので、事故の全容を知るには別な情報が必要で、本書に手を出すのは、それを把握している事が前提となる。
言うまでもなくこの事故は歴史に残る大惨事であった訳だが、拙い僕のサイトはこの事故の詳細へ踏み込む能力も時間もなければ主旨からも遠い。また、本を読むまでもなく、この事故関連では、ほんと頭が下がるほど詳しいウェブサイトが沢山あり、しかも本の情報を凌駕する内容のものもあるのでそちらへ譲る事としたい。
社会的にも人々の心にも大きな傷跡を残すこの事件。20年という歳月が流れても今だ本が書かれ、読まれている事これら手間隙のかかったウェブサイトからもこの事件の大きさが計り知れないものである事がわかろうというものだ。
しかし中にはどうも胡散臭い連中が含まれ、事実を歪曲しようとしている妙なバイアスを常時かけている人達もいるようだ。本書でも事故直後からデマや思い込みにあって苦労した話が繰り返し出てくる。
現場に足を踏み入れた事もないような人が、デマや憶測をさも事実のように報道したり本に書いたりする事で事件の真相をぼやかしていると河村氏は言う。これは、想像以上に事故の規模が大きい事、堕ちた場所があまりに僻地だった事が大きいのだろうが、事故の調査方法や証拠品の開示、更には関係機関が様々な疑問に対し完全に答え切れていないというような要因も絡んでいるのだろう。
河村氏は当時の対策本部長なので、当事者でなければ聞けない、知りえない逸話の数々を持っている立場にあった。それを期待して手にした本書であった訳だったが、どうしてか事故原因に激しく迫る訳でもなく事故機の目撃証言とか生存者の第一発見者だとか、何か周辺情報をうろうろしている。
警察の捜索活動のなかにも学ぶべき点は多々あるはずだが、本書はしかしそこに迫っていく訳でもない。隣県である埼玉県警本部長が同期でお互い気心を知った仲であったり、偶然にも幼馴染であった陸自の空挺部隊の群長の活躍などと内輪の話に詳しい。
要は当時の捜査活動に参加した当事者の方々向けという事ですかね。
しかしその反面、ヒラの警官はおろか犠牲者や生存者が殆んど無人格にまま語られている。うーむ。
何か非常に偏った拘りがあるよなのだが、それが読めなくて、もどかしい。何が言いたいのだ?現場への到着順位か?地名が錯綜した事か?地名が曖昧ならそこに到着した順番に何の意味がある?
当事者といっても更に「一部の」という事か。
本書を読んでマジで驚かされるのは河村氏の、とんでもなく古風で、指揮官として超ド高い目線で語られる捜索指揮活動の描写だ。それこそ大勢の人を取りまとめ、現場を指揮するには高い能力が必要なのだろうが、まるで戦国武将か帝政ロシア時代の貴族の独白みたいだ。
もう引退されて一つの記録として書かれたという事なのだろうが、出るところが違うというか、買った僕ががお呼びでなかったという事か。かなり残念。
何事にも教訓というものはある。本を買う時は出版社もみて選ぼう。
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「古代文明と気候大変動 -人類の運命を変えた二万年史
(The Long Summer: How Climate Changed Civilization)」
ブライアン・フェイガン(Brian M fagan)
2005/10/30:気象庁から10月28日異常気象や地球温暖化についての最新の科学的知見をまとめた「異常気象レポート2005」が公表された。全文では374ページのかなりの労作。ダウンロードも出来ちゃうのだ。
この報告書は、100年を越える国内外のデータを解析した結果に基づき分析しているものだが、その概要は、世界の陸域の平均気温や海面水位は、上昇傾向でかつその上昇率は近年増加傾向にあるという事だ。そして雨、雨量の増加は集中豪雨の出現数の増加による傾向があるのだそうだ。
いつのまにか首都圏生活10年を越える僕だが、今年の都心の豪雨は凄かった。雷とかね。天候急変といい、こんなの初めてだったもんな〜。
地球温暖化というと人為的なもののようなトーンが一般的。我々の努力次第で結果を変える事ができるかのような論調が多い。気象庁のこのレポートも地球温暖化と人為的な二酸化炭素排出量が平行して語られている。
しかし地球史レベルで気候変動を考えた時、ヒトが誕生する以前から地球は大きく寒暖の間を往復してきた。その間、地球は全球凍結した事もあるらしいのだ。全球凍結については「スノーボールアース」に詳しい。レビューは
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勿論、二酸化炭素の排出量を低減したり、資源の有効活用は大切な事だが、千年、万年単位での気候変動を止める事はできないだろう。考古学者であるブライアン・フェイガンはそんな大規模、超長サイクルでの気候変動とそれに対応順応してきたのが我々の生命。気候変動が生物を漸進的に進化させてきた要因であり、人類の歴史もまた、気象変動に大きく左右されてきたのだというアプローチだ。
南極ヴォストーク基地から得た氷床コアから過去42万年に地球に起きた出来事が解ってきた。その他にも深海底掘削や花粉化石の分布分析や有孔虫や甲虫の死がいの堆積量等から過去の気象状態がかなり詳細に渡って明らかになってきた。
以前ここでも紹介した「ノアの洪水」や「地中海は沙漠だった―グロマーチャレンジャー号の航海」は正に慧眼の本であったが、本書の切り口も鋭い。ほんと感心するよ。
「ノアの洪水」のレビューは
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「地中海は沙漠だった」のレビューは
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冒頭、大海で木の葉のように波にもまれるヨットとこの波をものともせず悠然と進む巨大タンカーの姿で幕を開く。タンカーは巨大になることで大きな波も乗り越えて進む事ができるのだ。
しかし、このタンカーですら真っ二つにしてしまうような波がある。極稀にではあるがそんな超巨大な波に遇った時タンカーは成す術もなく破壊されてしまうのだ。しかしこの時ヨットには何事も起きない。これは「規模の上で妥協をはかった。」結果だと指摘する。
そしてこれは我々の社会も同じ。集団となり巨大化する事で10年、100年単位で起きる災害には備えられてきたが、千年、万年単位の災害にたいしては、逆に脆弱性をさらけ出しているというのだ。
ここで、驚かされるのは本書はミシシッピ川の氾濫とニューオリンズの洪水に対する危惧が述べられている下りだ。1718年にフランス人がニューオリンズを築いたその年からここは度々洪水に見舞われてきた。
本書で引用されている1879年のマーク・トウェイン「ミシシッピの生活」より
「ミシシッピ川を知る者なら、声にだしては言わなくても心のなかで、すぐさまこう断言するだろう。
川を管理する委員会が1万あっても....その手に負えない流れを手なずけることも、制御することも、制限することもできないし、川に向かって「こっちへ行け」とか「あっちへ行け」と命ずるわけにもいかない。
川をしたがわせることも....障害物を設けて行く手をさえぎることもできない。そんなことをすれば、川はその障害物を破壊するどころか、その上で踊り、あざ笑うだろう、と。」
被害が出る度に堤防は高くなり組織化も進んできたが、人口の集約度、都市の規模も拡大。許容量を越える規模で洪水が起きた場合に起きる被害は甚大になってしまう。
被災者の規模が多すぎて対処不能になってしまう状況は正に「カテリーナ」の被害状況と合致している。この知恵には戦慄を覚える。
ミシシッピ川の流域面積は世界第三位。グーグルのMAPサービスで周囲の様子を見ていたら日本の河川のように護岸されてる所は殆んどない。出来ないのだ大きすぎて。
しかも現在被災前と後の衛星写真が見れるようになっているじゃないか。大きな倉庫の屋根が破壊されていたりして傷跡も痛々しい。
New Orleans
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Baton Rouge
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「カテリーナ」の被害は島国育ちで世間知らずの僕には「なんでこんな事になってしまうのか」なかなか実感の沸かないものだったが。「規模の問題」改めて良く解りました。
本書は、氷河時代末期からの気候変動に対応し生き残るために、衣食住環境を操作し組織化し文化、宗教等をも操作する事で、乗り越えられる波の大きさを大きくしてきた。僕たちはカヌーのような小船から巨大タンカーに乗り換えてきた訳だ。
その苦難。不屈の意思による創意工夫の積み重ねてきた道程をイメージ豊かに描いている。いろいろのな点でもタイムリーな一冊でした。
「ナイルの略奪」のレビューは
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「水と人類の一万年」のレビューは
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「千年前の人類を襲った大温暖化
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「 海を渡った人類の遥かなる歴史 」のレビューは
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「ダンテの遺稿(IN THE HAND OF DANTE)」
ニック・トーシュ(Nick Tosches)
2005/10/26:うわ〜。きっついぞ〜。すげー手強い。というか最強の部類かもだ。錯綜する登場人物と舞台、時間軸。そして暗示。以下になんとか纏めてみたけれど、ひょっとしたら超勘違いかもだ。
シチリア島にある古い教会の図書館から非常に古い書物が発見された。司書が中を除くと、それはなんとダンテの直筆の原稿らしい。しかもそれは「神曲」の天国編。とすればそれは遺稿の可能性もある。果たしてそれは本物のダンテの遺稿なのか。
ギャングからその書物の真贋を鑑定する仕事を引き受けた作家ニック・トーシュは、正に悪魔を連想させるような組織の殺し屋ルーイとこの書物を強奪すべくシチリア島へ向かう。ボスの命令はシンプルだ「関与したものは全て消せ。」自らは糖尿病に薬物と全身を蝕まれ、創作意欲はおろか生きる気力すら希薄なニックと、悪の権化ルーイ。良心の呵責も憐憫も微塵もなく強奪は成就する。
妻も子もいる身でありながらベアトリーチェへの永遠の愛の詩を作り、彼女の命日には泣き叫び錯乱するダンテ。しかし、これは詩人としての演技に過ぎなかった。
若くして詩人として名声を得、哲学、神学とその知識を深めてきたダンテだか、政治的には年を追うごとに主流からはずれていき、ついにはフィレンツェを永久追放されてしまう。
恵まれた環境を全て失い、従来の演技や技巧を捨て、現実と向き合い、詩作とは、真理とは、知的探求の道を見出したダンテ。
苦難の放浪の末ラベェンナの貴族の庇護を得、「神曲」の最終編である天国編を完成させんとする傍ら、ダンテはユダヤ人の老人を師と仰ぎ教えを受けている。その教えは、詩作を越え、宗派を越え、そして神の存在のそのさらに奥に在る「英知」に関するものだった。その「英知」とはカトリックとイスラムの神の起源を越える存在からもたらされるものらしいのだ。
ダンテはこの「英知」を持つとされる人物が居るという三の中の三の中の三の場所、トリナクリア島を目指す。トリナクリアとは古代ギリシア語で、三つの岬を持つ島という意味であり、現在のシシリー島だった。
有史以来の最高傑作ともいわれる「新曲」、ダンテの直筆によるものは存在しないと考えられていた。仮にそれが本物だとすればその価値は計り知れないものになる。
自らもダンテに傾倒していたニックは丹念にこの書物の真贋の鑑定を進める。しかしダンテ筆跡は一切残っていない為、筆跡からの鑑定は出来ない。化学分析による年代測定では全て「シロ」。更にその内容に目を向けると、その書物は度重なる推敲の後を残していた。
その推敲の後こそダンテの心に迫るもの。ダンテ本人のものとしか考えようのない考えようのないものだった。これこそ正に奇跡。
しかし、ほんの一部、推敲の中には明らかに本文とは違う別人の筆跡があったのだった。
ラテン語と「三韻句法」(テルツァ・リーマ)をはじめとする詩作に対する深い造詣を持ち作者自身を投影した主人公ニックと時間を越えた13世紀に生きたダンテの生き様を大胆な視線で描く。
9.11事件をもモチーフに使い現在を見据える冷徹な視線。そしてその物語が我々に投げつけてくるものとは、一体。これは何。どこまでがリアル。どこからが作り物?
ひっくるめて語りかけてくるこの着地点は、どの程度真に受けるべきなのだろうか。
おもしろい。この示唆するところ。いわば人類の中でもワンランク上の別室。ビップルーム。というその人間離れした存在。そして宗教を越えて人はみな全て「神」である。という。ビジョンの冷徹さは、単なるフィクションの枠を超えていると感じる。
文学界では「現代アメリカの最も偉大な作家のひとり」とか、「稀有な人間性の作家である」と評されているニック・トーシュの正に渾身の一品。えてしてこうしたものは難解な訳だが。
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「死ぬには、もってこいの日。(A Good Day to Die)」
ジム・ ハリスン (Jim Harrison)
2005/10/16:主人公の「私」は結婚に失敗し、定職に就く事も出来ず人生の目的も生きていく価値も見失いキーウエストで釣りに酒に行きずりの女と漂流の日々を送っている。しかも釣りと云ってもへぼで船の操縦だって覚束無い状態。女との関係だってその場限りで、後味の悪い思いを残すばかりだ。
そんな、何から何まで駄目駄目な男。自分にないものを求め続けて失敗の人生を歩んできた私は、まだ28歳だというのに、そのテンションはまるで老人のようだ。
そんな彼が酒場で知り合った男はベトナム帰還兵で奔放なティムだった。過酷な戦闘と娼婦と酒の休暇を何度も往復し、ついに負傷兵として帰還したティムは故郷にも、待っていた恋人シルヴィアとの関係にも戻ることが出来ずにいる。ティムも人生の目的や自己の存在価値を見失っているのだった。
酒場で酩酊しつつ語り合う二人だが、私がグランド・キャニオンにダムが出来るらしいと、ふと口にした一言からダムを爆破する為に旅に出る事になる。
「グランド・キャニオンを守る」為にダムを爆破する。初めは酔っ払いの戯言だった。酩酊した状態での思考らしく、その理由はいつしか忘れ去られ方法だけが目的となっていく。更にそれは彼ら自身の存在意義を与える目的となっていく。
ティムとの関係を諦めきれずにいる恋人シルヴィア。暫し常軌を逸脱するティムを見守り、ティムとの愛を取り戻すという淡い期待を抱いてこの旅に同行してくる。
そんなシルヴィアを一目見た瞬間から横恋慕が募っていく私。
目標を久々に持ったティムは周囲にお構いなしに、ダム爆破に向かって突き進む。私は旅の目的を変更する事も、一人降りる事もティムとシルヴィアの関係を修復してあげる事もできないままずるずると旅を続けていってしまうのだった。そして彼らの旅の行き着く先に待っているものは。
「ブラウン・ドッグ」、「サンセット特急」のように乾いてクールなやつが好みの僕としては本書は何処から何処までもウェットでめそめそしていて、展開も痛々しい。
まぁ、自分を見ているようで嫌、という事のようにも感じるけど。
本書は1973年に上梓されたもので、ハリスンとして初期の作品。物語の時代背景はほぼリアルタイム。知名度の点ではまだまだという感じのハリスン、もっと広く読まれて良い作家だと思うのだが。
「蛍に、照らされた女。」のレビューがこちらでご覧頂けます。
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「神の創り忘れたビースト」のレビューが、こちらでご覧頂けます。
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<ジム・ハリスンの作品リスト>
"The Summer He Didn't Die"(2005)
"True North"(2004)
"The Raw and the Cooked: Adventures of a Roving Gourmand"(2002)
「神の創り忘れたビースト(The Beast God Forgot to Invent)」(2000 - fiction)
「森へ駈けた少年(The Boy Who Ran to The Woods)」(2000 - children's fiction)
"The Shape of the Journey: New and Collected Poems"(1998 - poetry)
"The Road Home"(1998 - fiction)
"After Ikkyu"(1996 - poetry)
"Julip"(1994 - fiction)
"Just Before Dark"(1991 - nonfiction)
「蛍に、照らされた女。(The Woman Lit By Fireflies)」(1990 - fiction)
"The Theory and Practice of Rivers and New Poems"(1989 - poetry)
"Dalva"(1988 - fiction)
"The Theory and Practice of Rivers"(1986 - poetry)
"Sundog"(1984 - fiction)
"Natural World: A Bestiary"(1982 - poetry)
"Selected and New Poems 1961-1981"(1981 - poetry)
「ウォーロック―破廉恥すぎる男(Warlock)」(1981 - fiction)
"Letters to Yesenin and Returning to Earth"(1979 - poetry)
"Legends of the Fall"
「レジェンド・オブ・フォール―果てしなき想い (Legends of the Fall)」(1979 - fiction)
映画化「レジェンド・オブ・フォール 果てしなき想い(Legends of the Fall) 」(1995)
映画化「リベンジ(Revenge)」
"Returning to Earth"(1977 - poetry)
「突然の秋(Farmer)」(1976 - fiction)映画化"Carried Away" (1996)
"Letters to Yesenin"(1973 - poetry)
「死ぬには、もってこいの日。(A Good Day to Die)」(1973 - fiction)
"Outlyer and Ghazals"(1971 - poetry)
"Wolf"(1971 - fiction)映画化「ウルフ(Wolf)」
"Locations"(1968 - poetry)
"Walking"(1967 - poetry)
"Plain Song"(1965 - poetry)
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「奇想、宇宙をゆく―最先端物理学12の物語(The Universe Next Door)」
マーカス・チャウン(Marcus Chown)
2005/10/15:果たして奇想のまま埋没していくのか、それとも未来のアインシュタイン、世紀の閃きとして後世に残る正論となるのか。
時間の矢、宇宙や生命の誕生そして終末は、近年の科学技術は目覚しい程の新たな英知を人類に与えたが一方でそれと同じ位新たな謎も発見し抱え込んできた。
本書はこれらの新たな謎に勇猛果敢に立ち向かっている物理学者達の云わば12の攻撃である。まだまだ科学理論というより、アイディアレベルのものも含まれる訳だがこれが痛烈な一撃、或いは量子論と相対論の統合のようなステージクリアに繋がる大技なのか、はたまた物理学会のドン・キホーテとして嘲笑を浴びる結果となるのか。
個人的にはマックス・デクマーグ(Max Tegmark)が提唱している多世界解釈や人間原理は「何にも答えてくれていない」寧ろ疑問が拡大する感じで納まりが悪いと思う。しかし繰り出されるアイディアは他のものも含め、正に奇想そのもの。
正誤の行方も気になるところだが、常識に捕らわれない奇抜なアイディアに振り回されてみるのはとても楽しい。追いつくことの出来ない究極の答えを求めて身を捩ってみる事ができるのも人類の特権だろう。
<目次>
第一部 実在って何だろう?
逆流する時間
多世界解釈と不死
波動関数の謎
タイムマシンとしての世界
五次元物語
第二部 宇宙って何だろう?
天空のブラックホール
鏡の宇宙
究極の多宇宙
宇宙は誰が造ったのか?
第三部 生命と宇宙
星間宇宙の生命
蔓延する生命
異星人のゴミ捨て場
第二部で採り上げられているロバート・フット(Robert Foot)のミラーマターについてはご本人の著書「「見えない星」を追え!―今世紀最大の宇宙の謎“ミラーマター”の秘密に迫る」に詳しい。これもまた「まさかね」という話ではあるのだが、その根拠を聞かされると唸ってしまうのだ。そのレビューは
こちらでご覧頂けます。
僕が特に興味を持ったのは第三部。宇宙空間の過酷な環境をも耐えうるバクテリアの存在から地球生命の由来を宇宙とするアイディア。そして星間塵粒子がバクテリアである可能性から導き出される壮大なビジョン。ここだけでも十分読む価値ありでした。
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「5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン
(The Dawn of Human Culture)」
リチャード・G・クライン(Richard G. Klein)&
ブレイク・エドガー(Blake Edgar)
2005/10/09:およそ600万年前赤道付近のアフリカで、アウストラルピテクスが二足歩行をした。まさにこの第一歩こそ人類の第一歩であった。今なお様々な謎を抱えながらも近年人類学はかなりいろいろな事が解ってきた。
これは発掘された化石や石器等によって新たな証拠が齎された事は勿論だが、これらの証拠を分析研究する先端科学技術の進歩によるところが大きい。本書はこれらの最新情報によって照らしだされてきた、ヒトが人らしくなって来た経緯を人類史の四つの大きな事件として紹介している。
その四つの事件とは、
第一の事件 250万年前 剥片石器の登場
第二の事件 170万年前 現代人に近い身体。
ハンドアクスの発明
第三の事件 60万年前 脳容量の増大。石器の質の向上
第四の事件 5万年前 文化を発明して、
操作する能力の獲得
である。
これまで暗闇に覆われていたイースト・サイド・ストーリーからアウト・オブ・アフリカそしてグレート・ジャーニーへと長大な人類の歩みが浮かび上がってくる。
<目次>
第1章 「黄昏洞窟」の曙
第2章 最初の一歩
第3章 一七〇万年前の薮の中
第4章 第三の事件―ヒト、登場する
第5章 ヒトの発展―現生人、ユーラシアへ
第6章 ネアンデルタール人はどこへ?
第7章 身体の進化、行動の進化
第8章 曙光がさす瞬間
「私たちはどこから来てどこへ行くのか」に拘る私としては通り過ぎるのが難しい本でした。しかし残念ながらやや散漫。
これは化石と人工遺物を中心に冒頭の四つの事件の概要を語るにあたり、時系列の前後関係を乱す遺物の説明が入り込んでいる為かなり読みにくい。
ネアンデルタール人との分岐、又遺物はどちらの持ち物か等がテーマとして加わってくるのでかなりややこしい。更には証拠を発見した経緯や人となりにまで話が及んでしまうのにはやや閉口。もう少し整理して書いて欲しかったな。
しかも資料はカナ表記だけだし、平行してネットで調べてもなかなか情報に辿り着けないじゃないか。ぶつぶつ言いながら調べたらそれなりな表が出来たのでアップしとこう。
>>興味のある方はこちらからどうぞ。
しかし、あまり正確なものではないので、あてにはしないで下され。
しかし強力な分析技術によって浮かび上がる原始人の生活。それは従来我々が思い描く原始人、古代人のイメージを大きく修正を迫る力は正真正銘。そこには僕らと太い絆で繋がった生き生きとした人々がいる。たどたどしい手つきで来る日も来る日も石を割って石器作りを続けた、かくも長き日々。太古から続く私たちの偉大なる旅の道程。彼らがいたからこそ、今の僕たちがいる。それぞれの時代に生きた私たちの祖先はどんな事を考え、感じていたのだろう。
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