- 「パナマの仕立屋」ジョン・ル・カレ
- 「2001:キューブリック、クラーク」 マイケル・ベンソン
- 「荒地の家族」 佐藤 厚志
- 「哺乳類前史」 エルサ・パンチローリ
- 「われらのゲーム」 ジョン・ル・カレ
- 「地球に月が2つあったころ」エリック ・アスフォーグ
- 「ダーク・アワーズ」マイクル・コナリー
2023/04/01:暦は改まって新年度に入りました。昨日金曜日は倉庫の棚卸も問題なく終了して仕事も無事年度末を迎えました。こちらのサイトでは年度末を飾る最期の一冊にこちら「パナマの仕立屋」を仕込まんと週末の朝からパソコンに向かっております。
本書は1997年に上梓されたジョン・ル・カレの16作目の長編小説。舞台はパナマ。1999年12月31日にアメリカ軍が撤退することが決まり、パナマ運河の運営がどのような形で引き継がれるかについて世界が注目していた。
日本、中国、政府、金融機関が、或いは麻薬組織、フリーメイソンが暗躍し、パナマ政府はそのどこの誰と手を組もうとしているのか。真偽が定かでない噂が行きかい、何が真実か誰もわからないまま期日が迫っていく。
パナマ運河は通商上の最重要課題の一つであり、その動向は正しく把握され、しかるべき対策を講じる必要がある。英国情報機関はその情報収集のために一人の男に白羽の矢を立て、組織から独立した立場に仕立て上げ密かにパナマ大使館へと送り込む。
「アメリカ軍は出ていくのか、残るのか」
「どちらとも言えませんね。ただ海外資本が出ていかないよう、アメリカ軍に留まってもらいたがっているパナマ人も少なくはないようですが。短期主義者は特に。彼らは過渡期と見ている」
「ほかの人間は?」
「あと一日だってごめんだと思っている。1904年以来ずっと植民地支配下にあって、独立国家としての誇りも何もあったもんではなかったんだから。出ていけ、くそったれ、というわけです。アメリカの海兵隊は、20年代にメキシコとニカラグアをここから攻撃し、25年にはパナマのゼネラリストを鎮めた。アメリカ軍は運河ができてからここにいるわけだけれど、それを喜んでいるパナマ人は誰もいない、銀行家を除くと。現在、アメリカはパナマをアンデスと中央アメリカの麻薬王を叩く基地に利用して、また誰が決まったわけではない敵相手の市街戦を想定し、ラテン・アメリカ人兵士を訓練している。そして、基地に4千人を雇い、さらに1万1千人の人間に仕事を与えている。アメリカ軍の兵力は公には7千ということだが、実際にはもっといる。山間部の谷間にはあれこれおもちゃが隠してあり、塹壕もあちこち掘られている。アメリカ軍が駐留していることの経済効果は、パナマのGDPの4.5%と推定されるが、そんな数字はまるであてにならない。パナマの見えざる歳入を計算に入れると」
もっともらしい会話ではあるのだけれども、これは派遣されてきた男に対してパナマのイギリス大使館に元からいる政治部長が投げかけた質問に対する答えなのであって、よくよく考えると仄めかしているばかりで何も語っていない。しかしそれをなるほどと現地の政治部長が聞いているのである。
そもそもこの派遣されてきた男アンドルー・オスナードはスペイン語こそ堪能だが、採用されたばかりの経験の浅い人物であり、そんな男を送り込んでくる英国情報機関も盟友であるはずのアメリカの動向すら遠くから推察するばかりで具体的な情報を掴んではいないのだ。
これほどまでに情報機関の力が衰退しているのに当事者たちには一向に焦りも危機感もない。組織もやり方も旧態依然のままなのだ。
パナマの情報をどこからどうやって掴むのか。派遣されることが決まってから
オスナードがロンドンで情報収集してあぶりだしてきたのがパナマで仕立屋を営む男、ハリー・ペンデルなのであった。
人には言えない過去を持ち、表向きの仕立屋の商売は繁盛しているものの、その内情は借金に塗れて火の車のペンデルの元にオスナードは大使館詰めの新しい職員で金払いのよい客に扮して接近していく。
仮にル・カレの本を最初に読むのだとすれば本書はとてもお勧めできない。きっと何が進んでいるのかちんぷんかんぷんなままだろう。
本書の大部分が本来の時間軸とは全く異なる順序で進んでいく。オスナードやペンデルの来歴、パナマ大使館のメンバーがどこの組織にも属さない人物を受け入れることとなり右往左往する様子。1989年に起こったパナマ侵攻。反米の声をあげる学生運動。登場人物それぞれの経験と価値観があってはじめて意味をなす言動によって物語は紡ぎだされていく。それでも僕も振り落とされそうになりましたよ。一体この物語はどこへ進んでいくのか、どのような結末を迎えるのか。そしてそれはやはり僕の想像の遥か上をいく展開で収束していく。
墓に持っていくとしたらル・カレは本書か「パーフェクト・スパイ」のどちらかだと語ったという。なるほど。
大英帝国の威信は失われて久しく、いまではそれを記憶している人の方が少ないぐらいだし、この失われたものが元に戻ると考えている者はもっと少ないだろう。そうなってしまった理由はたくさんあるのだろう。きっと、そしてそのなかで根本に近い理由の一つは「プロフェッショナルの不在」。ル・カレが言いたかったことはこれなんじゃないかなと思う。
そしてこのプロフェッショナルの不在は本書が書かれた1997年以降、世界の隅々へと拡散を続けて今の日本、そしてこの世の中がある。そんな気がしてならない。新年度はよい年になるといいですね。
「シルバービュー荘にて」のレビューはこちら>>
「スパイはいまも謀略の地に」のレビューはこちら>>
「スパイたちの遺産」のレビューはこちら>>
「地下道の鳩」のレビューはこちら>>
「繊細な真実」のレビューはこちら>>
「誰よりも狙われた男」のレビューはこちら>>
「われらが背きし者」のレビューはこちら>>
「ミッション・ソング」のレビューはこちら>>
「サラマンダーは炎のなかに」のレビューはこちら>>
「ナイロビの蜂」のレビューはこちら>>
「シングル&シングル」のレビューはこちら>>
「パナマの仕立屋」のレビューはこちら>>
「われらのゲーム」のレビューはこちら>>
「ナイト・マネジャー」のレビューはこちら>>
「影の巡礼者」のレビューはこちら>>
「ロシア・ハウス」のレビューはこちら>>
「パーフェクト・スパイ」のレビューはこちら>>
「リトル・ドラマー・ガール」のレビューはこちら>>
「スマイリーと仲間たち」のレビューはこちら>>
「スクールボーイ閣下」のレビューはこちら>>
「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」のレビューはこちら>>
「ドイツの小さな町」のレビューはこちら>>
「鏡の国の戦争」のレビューはこちら>>
「寒い国から帰ってきたスパイ」のレビューはこちら>>
「高貴なる殺人」のレビューはこちら>>
「死者にかかってきた電話」のレビューはこちら>>
△▲△
2023/03/04:本当に没入・夢中になって読みました。面白い。止められない。分厚い本でしたが、最期までびっくりの連続でよくぞこんな本を書いたものだと拍手喝采の一冊でありました。とはいうものの、「2001年宇宙の旅」という映画に思い入れのない方にとってはなんのこっちゃという本だと思うし、まだご覧になっていない方にとっては手にする意味もあまりないのかもしれない。
僕個人としてこの映画は映画を超える映画であって、好き嫌いとか面白いのかどうなのかという以前に、これを超えられる映画が作られることはないだろうとほぼ確信を持っているのであります。こちらのサイトでは「HAL伝説」、「映画監督スタンリー・キューブリック」という本もレビューしていてその中でも映画の中身や凄さについて滔滔と語ってしまっているので繰り返しは避けつつ、何が映画を超える映画になっているのかという点ですこし掘り下げてみたい。
この映画にはほとんどというか必要最低限しかセリフがない。登場人物、ヒトザルやモノリス、HALも含めてだが、それらの行動を映像で受け取りどんな物語が進んでいるのかを観客が理解していく作りになっている。じわじわと理解が進む進み方は観る人によって様々であり、物語もいくつもの解釈ができる内容となっている。なのでこの映画は数えきれないみえ方をしているのだ。僕は何度もこの映画を観ているのだけどもその解釈は最初に観たときからだいぶ変わってきたように思う。面白い映画や大好きな映画は他にもたくさんあるんだけれども、こうした観方ができるこの映画はやはり映画を超えた映画であって、他の追従を許さない孤高の存在だと思います。
目次
主要登場人物
第1章 プロローグ-オデッセイ
第2章 未来論者 1964年冬~春
第3章 監督 1964年春
第4章 プリプロダクション-ニューヨーク 1964年春~1965年夏
第5章 ボアハムウッド1965年夏~冬
第6章 制作 1965年12月~1966年7月
第7章 パープルハートと高所のワイヤ 1966年夏~冬
第8章 人類の夜明け 1966年冬~1967年秋
第9章 最終段階 1966年秋~1967年~1968年3月
第10章 公開 1968年春
第11章 余波 1968年春~2008年春
本書はこの映画がどのように生み出されたのか、印象的な数々のシーンがどのように撮影されたのかについて非常に詳細に描き出されていました。どうやってこんな事がわかったのか。制作の際に書かれた膨大なメモや手紙、そして関係者への綿密なインタビューに基づいて書いているのでした。対象者はキューブリックの妻、クリスティーヌ、アーサー・C・クラーク、ダグラス・トランブルなどそうそうたる方々が含まれています。
そうして言わば再構築された映画の製作過程は正にびっくり仰天。予想外すぎる内容になっているのでした。しかし、その内容をここで書いてしまうのは正にネタバレそのもの。
本書のあとがきには、これまで明かされてこなかった、或いは見過ごされてきた重大な疑問に、はっきりとした答えが示されているとし、その疑問として以下のものがあげられていました。
・『2001年宇宙の旅』に脚本はあったのか?
・骨を投げ上げる動作は、誰が思いついたのか?
・ディスカバリー号は誰がデザインしたのか?
・スター・ゲート映像の原点となった、ある映画のオープニング・タイトルとは?
・アーサー・C・クラークはどこで『2001年』を書いたのか?
ここで一点だけ。4っめのスター・ゲート映像の原点となったある映画のオープニング・タイトルはヒッチコックの「めまい」であることを書かせていただきます。気になる方は是非、「めまい」のオープニングを観てください。
「めまい」は1958年の作品。「ウルトラマン」や「天才バカボン」をリアルタイムで観ていた僕のような世代にとって、「めまい」のオープニングに革新性を感じることはなかった。「2001年宇宙の旅」を初めてみたのはおそらく1970年代後半の頃だと思うのだけど、その頃にはスター・ゲートの映像もそれほど革新的には見えなかった。斬新ではあったけど。しかしこのシーンをどうやって撮ったのかを知ると椅子から落ちそうになりました。そうかコンピューター・グラフィックも合成技術も発達していない1960年代前半にあの映像を撮るということが如何に難しいものなのかがわかりました。
2018年に公開50周年記念イベントとして大画面の映画館で上映された際に僕は子供たちと一緒に観たのだけれども、CGでなんでもありなことが当たり前な彼らにとっては僕以上にこの映画の革新性が感じられなくなっているのだということを知り愕然としました。彼らにとっては回転しながら近づく宇宙ステーションや月面基地の地下にエレベーターで降下していく宇宙船のシーンもどうやって撮ったんだ!!みたいな驚きはなかったのでした。
それはともかくというかそれでも、人工知能は果たして実現可能なのかどうなのか。この点ひとつとってもこの映画のテーマとなっているものに陳腐化したものは殆どない。また特殊効果も陳腐化している部分は殆どないと思う。55年も前につくられてた映画なのにだ。そして宇宙船や宇宙服のデザインも。
1968年というと例えば「ブリット」、「猿の惑星」、「ロミオとジュリエット」、「ラブ・バック」なんかが公開された歳なんだそうだ。「ラブ・バッグ」懐かしい。僕これ映画館に連れて行ってもらって観たな。こうした作品群と同じ年に作られたということを考えるとこれって途轍もなくすごいことだと思う。キューブリックの偉大さが改めてひしひしと伝わる本でありました。
この本を読むと映画のマジックは残念ながら少し消えてしまう。しかしその反面、映画の向こう側でキューブリックをはじめ七転八倒している制作スタッフたちの姿が見えてくることでとても人間臭い部分が見えてくる。それはそれでまたあらたな味わい。一粒で何度も美味しい映画なのでありました。
「2001:キューブリック、クラーク」のレビューはこちら>>
「映画監督 スタンリー・キューブリック」のレビューはこちら>>
「HAL伝説―2001年コンピュータの夢と現実」のレビューはこちら>>
△▲△
2023/02/13:本書は第168回芥川賞受賞作品です。作者は宮城県仙台市出身で学校の後輩。それはいろいろな意味でめでたい。すごい快挙ではありませんか。
しかもテーマは東日本大震災で舞台は亘理なのだという。これは跨いで通り過ぎる訳にはいきませんね。
さっそくお取り寄せして読ませていただきました。カミさんと二人で。先に読み終えたカミさんは一言「かなり重たい、相当重たい本だった」。
それは覚悟して読みました。
しかし純粋文芸作品のレビューなどあまりやったことがありません。こうした作品のあらすじみたいなものを書き散らしたところで誰のためにもならないだろう。まして芥川賞作品の評価などもってのほかだ。
なので僕からみた本書がどんな眺めになっていたのかという話をしようと思う。
そしてその為にも本書の内容に触れる前にすこし個人的なことを書かせていただきます。大学が一緒だったカミさんと僕は二人でよくバイクでツーリングに出かけていました。特に好きだったのが仙台市の海沿いを走る道路を福島方面へ南下していくコースでした。市街地から海へ向かう田んぼの間の農道や時折見える海を片目で眺めつつ走る沿岸部に沿う道はたいてい信号も車も歩行者もいない僕らだけの世界で雲や季節ごとに姿をかえる田んぼの光景はとても美しく、そして何よりバイクを操る楽しさを満喫できる場所でした。
特に亘理周辺では海に出て景色を楽しんだり、地元で採れたものを出す小さいけれどもとっても美味しい食堂で遅いお昼を食べたりと本当に素敵な時間を過ごした場所でした。
僕らは仕事の都合で関東圏の暮らしが長くなっていますが、老後は、あの昔走って遊んでいたあの辺のあたりに小さい家を買い、犬を飼って一緒にお散歩して暮らすという夢を二人で描いていました。犬と歩いて海に出られる場所。なんと贅沢な。そしてとても楽しみだと思っていました。
しかし東日本大震災ではそのような場所はすっかり流されてしまった。津波が仙台東部道路の盛り土構造に瓦礫や車を巻き込みながらぶつかっていく光景はあまりに衝撃的でした。まさかそんな事が起こるとは。今でも人が暮らす場所として認められていません。これからもなることはないでしょう。
僕はこのニュースを帰宅難民となった会社の事務所で観た。そこに一緒にいた人たちには土地勘がなくてこの被害の大きさがピンときていないということに気づいたのもショックな出来事だった。
震災では現実にご家族や大切な方を亡くされた方が大勢いらっしゃって、そんな方々の前では僕も語る言葉もありませんが、僕らも仙台のカミさんの実家も被害は小さかったが被災し、僕らが暮らす千葉の新浦安という地域も断水が長く続くなど被害は大きく、まだ小さかった子供たちとの生活はなかなか大変でした。そして何より僕らは老後の夢を震災で流されたという点で被災したと思っております。そして未だにあの夢にかわる老後の生活設計は描き出せていません。どうにかして仙台の海沿いの小さな家に暮らせないかとつらつらと考え始めてしまうからです。
亘理という場所は僕ら夫婦にとってもとても大切な場所なのです。
「荒地の家族」
震災によって仕事で使う車や道具を流されてしまった植木職人の坂井裕治は生活を立て直すためにわき目もふらず、仕事も選ばず必死に働いた。
そしてどうにか元の植木職人としての仕事を軌道に乗せたと思った矢先に妻を肺炎で失くしてしまう。
坂井はそんな厳しい現実に目を背けるかのようにますます仕事に打ち込んでいく。しかしそれが酒井と周りの人々との距離を離してしまっているようにも見える。周囲の人たちもまた震災とその後の出来事によっていろいろなものを失っていた。唐突に訪れた喪失感に人々はだれしもその意味を測りかね、悔やみ、自分を責め、そしてどうにか元に戻せやしないかともがき苦しむ。
震災に限らず何か大切なものを失うということはその大切なものと一緒に生きる自分たちの未来も失われるということだと思う。
描いていた未来を失ってしまうと僕らは向かうべき方向感を見失い、時間はただひたすら前に進むだけなのに、どうしてか同じ場所をぐるぐると彷徨ってしまうようになってしまう。そこには老後の夢を津波で流された自分がいた。「荒地の家族」は僕にとってそんな本でありました。必ずしも気持ちが整理できた訳ではないんだけど、自分にとっての喪失感がこれだったということに気づけたと思っております。
△▲△
2023/02/05:先日読んだ「地球に月が2つあった頃」もそうだったのだけど、従来の科学読み物とはやや趣きが異なる。本や章のタイトルから中身が推察しづらい。進化史や発達史と科学史、そして著者の研究史のようなものを一つの章や段落のなかで互いに前後に挟んでくる。結果話がもつれてものすごくわかり難くなっている気がするのだけど、これが最近の流行なのだろうか。
加えてそもそも自分の理解不足という問題があるのだけど、地質年代の区分名とその時期と期間、順序というものとその下で進んでいく生物進化の順序というものが全然頭に入ってこない。本書が時間軸に沿って順番通りに話を進めてくれているのかどうかも怪しい。結果、本書のタイトル「哺乳類前史」。前史というからには哺乳類が誕生する以前の話だと思う訳ですが、ではいつどのように哺乳類が誕生したのかは、本書を読んでもそれほどきちんとわかった気がしない。なんだか消化不良で悔しいので少し調べて時間軸を整理してみた。
整理してみてわかったのはまず僕の読む前の予見が強すぎること。予想と違う内容についていけてなかったのでした。また、哺乳類の形質・特徴というものに対する理解も不十分だった。哺乳類は確かに子を産み授乳する訳だが、哺乳類を哺乳類足らしめているのは何もそれだけではなかったのでした。そして様々な部所の複雑な進化は、地球環境と時として環境を大きく変える要因となる共生する他の生き物たちとの関係性のなかで生み出されてきたものであるということ。本書はこうした点を鮮やかに描いているということでした。
「地球に月が2つあった頃」も同じように僕の予見が強すぎたんでしょうね。年取って頭固くなってきたんでしょうねー。
約三億年前、小葉植物が倒れるのを尻目に最初の裸子植物の種子が芽吹き、林床を支配しはじめたころ、わたしたちの系統はすでに、いとこである爬虫類と袂を分かっていた。哺乳類は爬虫類から進化した、というのはよくある誤解だ。これが事実と程遠いことはすでに明らかになっている。ただし、哺乳類と爬虫類に共通祖先がいたのは本当だ。最初の羊膜をもつ四肢動物は、哺乳類でも爬虫類でもなかった。どちらのグループもまだ進化していなかったのだ。石炭紀、わたしたちとカメ、ワニ、恐竜、鳥、トカゲの最後の共通祖先は役目を終え、進化の黄昏のなかに消えていった。
哺乳類の起源は予想外に古く、三畳紀後期の2億2500万年前には、最初の哺乳類といわれるアデロバシレウスが誕生した。哺乳類は元をたどると、ニール・シュービンが「ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト」のなかで紹介していたティクターリク、肉鰭類に遡る。ティクターリクは2004年の秋、カナダ ヌナヴト準州のエルズミア島(Ellesmere Island)で発見された石炭紀3億75百万年前の化石。魚類に共通する鱗と鰭を持ちながら、ワニのような扁平な頭部、その頂部に両眼、そして頸がある生き物。肉鰭類は文字通り鰭を脚のように使って陸上を歩けたのだ。肉鰭類からやがて四肢動物または四足動物が分岐する。肉鰭類と四肢動物が異なる点は、その骨格が背骨とつながっていないことである。つまり、肩と腰の骨が肉鰭類にはないのだ。しかしこの四肢動物の分岐の時期は明確にはなっていないようだ。
確実に四肢動物 (英名の tetrapod もそのまま「四足」を意味する)の祖先といえる生き物たちは、完全な水中生活を送っていた。硬骨魚類のなかの肉鰭類 (Sarcopterygii) と呼ばれるグループだ。シーラカンス、肺魚、四肢動物(もちろんヒトを含む)は、あわせて肉鰭類を構成する。つまり、外見こそ似ていないが、わたしたちヒトはきわめて派生的な魚なのだ(この言い回しは世界の古魚類学者のお気に入りだ)。
すべての四肢動物の共通祖先を含むグループは、四肢形類 (Tetrapodomorpha) と呼ばれる。最初期のメ ンバーの多くはデボン紀の地層から産生し、かつては赤道上にあったが、現在はグリーンランドやカナダ北極圏に位置する。これらの地層は石炭紀よりもやや古い、約3億6000万年前のものだ。
四肢動物からやがて有羊膜類が分岐していく。四肢動物、両生類の中からは陸上産卵する系統が何度も進化しているが、そのなかのひとつである有羊膜は、陸ね上で大型の卵黄の多い卵の中で、胚の呼吸を容易にする呼吸器官として進化した。羊膜によって呼吸が容易となった他にも外界の環境変動からの保護、卵殻の進化によって水分の蒸散の抑制などが可能となり、棲息範囲の拡大にも寄与したらしい。卵を産んでいるという点でまだ哺乳類とは一線を画している感じですね。有羊膜類は石炭紀後期(約3億年前)に単弓類と竜弓類(後に爬虫類が出現した系統を包括する)に分岐し、以降、単弓類は独自の進化していく。
ローマーは、四肢形類の化石記録には、物語の語り手である化石が、単純にまったく得られない時期があることに気づいた。知識のギャップだ。この化石不在の時代を、のちの研究者たちが彼にちなんで名付けた。デボン紀末、3億7500万年前から3億6000万年前にかけて、二度の大量絶滅が地球上の生命を激減させた。その後の1500万年(石炭紀の序盤)の間、化石記録は奇妙な沈黙を保った。地球の大気中の酸素濃度が極端に低下したことで、化石化が起こりにくくなったという説もあるが、単純に動物の数が減っていた可能性もある。このローマーのギャップを超えると、四肢動物は水の外でもまばたきひとつせずに自重を支えられる陸上生活者として、多様化をとげる。
長い間、わたしたちは水から陸への移行がどのように起こったかを知らなかった。けれども最近になって、ギャップが埋まりはじめた。最新の発見の多くはスコットランド発で、TW:eed (四肢動物の世界, 初期進化と多様化)プロジェクトに参加する研究者たちが、新種の初期陸生脊椎動物を次々に発掘している。プロジェクトは分野のパイオニアである古生物学者ジェニー・クラックらの主導で進められていて、成果のひとつがアイトネルペトン・ミクロプス Aytonerpeton microps だ。名前は「小さな顔をしたアイトンの運行者」を意味する(アイトンは発見場所であるスコットランドの行政区)。それが収まる穴がたくさん並んだ顎をもつアイトネルペトン(チーム内では「タイニ針のような歯」との愛称で知られる)だが、頭骨の長さはわずか五センチメートルしかない。つまり彼女は、同時代のほかの四肢動物と比べてかなり小さかった。
単弓類に共通する特徴としては、頭蓋骨の左右、眼窩後方に「側頭窓」と呼ばれる穴がそれぞれ1つずつあり、その下側の骨が細いアーチ状となっていることである。この穴は下顎を閉じるときに使う筋肉が膨らむのを収納するためのもの。これができたことで噛み締める力は圧倒的に強化された。それは木の実や根のような堅い食べ物をかみ砕いて食べられるようになった。石炭紀、植物の光合成により地球大気の酸素濃度は35%に達したが、ペルム紀(2億9千万年前)以降菌類の躍進が始まり、木材の分解が進み酸素濃度はジュラ紀後期(2億年前)にかけて低下していく。このなかで酸素を効率よく摂取できなかった単弓類の大部分は絶滅し、生き延びられたのはキノドン類などごくわずかな系統にすぎなかった。
巨大隕石の落下と大量絶滅によって幕を開ける三畳紀(約2億5190万年前)、単弓類、キノドン類のなかで生き延びられたのは一握りでトリティロドン類、トリテレドン類、そして哺乳形類の三グループが生き延びただけであった。これらはいずれも小型のグループであった。トリテレドン科は肉食、トリティロドン科は草食のグループであった。
目次
第1章 霧とラグーンの島
第2章 カモノハシは原始的じゃない
第3章 頭にあいた穴ひとつ
第4章 最初の哺乳類時代
第5章 血気盛んなハンターたち
第6章 大災害
第7章 乳歯
第8章 デジタルな骨
第9章 中国発の大発見
第10章 反乱の時代
第11章 故郷への旅
エピローグ 小さきものたちの勝利
低酸素状態が続く三畳紀の気候に適応する形でキノドン類の中から哺乳形類が現れてくる。哺乳形類は、顎関節の改変、四肢の直立化および呼吸器の改良など、キノドン類で見られた進化をより押し進めた形態が見られる。恐竜などに主要なニッチを奪われたため、夜への進出を余儀なくされた。当時の生物にとって、夜という世界への進出は、非常に困難に満ちたものであった。日光の恩恵を受けることなく体温を維持するために恒温化し、効率的に獲物を発見するために聴覚が発達、獲物を捕らえるための四肢も、より活発な行動ができる形態へと進化した。同時に、キノドン類において発達しつつあった咬頭が複雑化し、より効率的に咀嚼できるようになった。これは、恒温化が進んだことで、多くのカロリーを必要としたためと言われる。しかし、夜間に確保できる食料は限られるため、大半の哺乳形類は現生のトガリネズミや齧歯類などと大差ない大きさ、姿であった。
現生哺乳類を調査した生物学者たちは、視細胞の大半が桿体であり、錐体は比較的少ないことに気づいた。しかも、ほかの脊椎動物は四種類の錐体をもつのに対し、哺乳類には二種類しかない。これにより、かれらは微光下でもすぐれた視力をもつが、代わりにほぼすべての哺乳類は色盲で、光のスペクト ルの赤・黄・緑の部分を区別できない。わたしたちを含む霊長類は、すぐれた色覚を再獲得した数少ない哺乳類であり、これも遺伝子に起こった変異の賜物だ。霊長類が見ている鮮やかな色彩は法則のなかの例外であり、おそらく共通祖先が熟した果実や新鮮な若葉を採食するのに有利だったために選択されたのだろう。
現生哺乳類の眼にみられる桿体の豊富さと錐体の少なさは、夜行性の過去を裏づける証拠だ。少なくとも2億2000万年前から、現生のすべての哺乳類の祖先は闇を味方につけていた。この現象は「夜行性ボトルネック」と呼ばれるが、類まれな偉業に対してずいぶん否定的な呼び名だ。
哺乳形類は小型化し地下に潜り、闇の中で獲物を襲うことで生き延びる力を得ていたという訳だ。しかしこの哺乳形類の進化はそれだけに留まらない。
鼻甲介には、においの検出に使われる嗅覚鼻甲介と、呼吸に重要な役割を果たす呼吸鼻甲介の二種類がある。後者は、呼気が通過するときに熱と水分を再吸収し、これらが体から失われるのを防いでいる。
今日の地球上に生息する温血動物はみな(クジラと一部の潜水性鳥類を除き) 鼻甲介をもっていて、研究により、これがなければ内温性はおそらく実現不可能だったと考えられている。このことを裏づけるように、代謝率と呼吸鼻甲介の表面積を比較すると、明らかに代謝が高いほど鼻甲介の表面積が大きくなっていて、活発な動物は水分と熱を保存する必要があるという関係を示している。
この結果を化石記録にあてはめれば、単弓類系統でいつ鼻甲介が出現したかを検証できる。においの検出を担う嗅覚鼻甲介は、ほぼすべての単弓類にみられ、最初期の盤竜類にさえ存在する。これに似たものはほぼすべての四肢動物に備わっていることから、空中のにおいの検出は、わたしたちの感覚のなかでもっとも古い適応のひとつであり、四肢動物の進化のきわめて早い段階で現れたと考えられる。だが、呼吸鼻甲介となると話は別だ。最初の呼吸鼻甲介が現れた証拠とされるものは、ペルム紀の最後に登場した系統、つまりテロケファルス類とキノドン類にしか見つからない。
哺乳類系はまた嗅覚、聴覚に加えて硬口蓋の形成、そして骨格の転換、更には歯や消化器官など多肢にわたる進化を重ねてきた。それらについて本書はかなり詳細に説明していました。
三畳紀にキノドン類の骨格に起こった重要な転換、それは椎骨の部位ごとの分化だ。ヒトの体を見るかぎり、首の骨と腰の骨が別々なのは当然に思える。けれども、哺乳類以外のほとんどの脊椎動物では、体の部位を問わず椎骨の形は(少なくとも哺乳類に比べると)よく似ている。例えば、サラマンダーの骨ひとつを見て、どの部分のものかを当てるのは反則級に難しい。尾の骨はかなり特殊だが、それ以外は第三椎骨から骨盤まで、ほとんど同じなのだ。
ヒトはほとんどの哺乳類と同様、脊椎が四つの部位に分かれる。頸椎(首)、胸椎(胸) (限)、仙椎(尾骨)だ。それぞれの部位の骨は、大きさも構造もはっきりと異なる。この違いは、それぞれの部位に求められる別々の機能を反映していて、単弓類、獣弓類、キノドン類と時代を下るにつれ、脊椎の構造が複雑性を増すという進化のパターンを経て生じたことが、最近の研究で明らかになった。
この状況は、白亜紀末(K-T境界)の大量絶滅が発生するまで続く。しかし、その間も哺乳類は地道に進化を重ね。それが恐竜絶滅後の爆発的適応放散につながり、結果として哺乳形類たちは哺乳類との競合に敗れて姿を消していった。
哺乳類がなぜ大量絶滅の時代を生き抜けられたのか、それはもちろん意図したものではなかつたのだけれども、長い間の紆余曲折のなかで得てきた能力、環境適応能力が正に哺乳類を守ったのでした。
時間軸を整理し、本書の内容を改めて振り返ると本書の云う「哺乳類前史」はあくまで三畳紀に哺乳形類が哺乳類へと進化していく部分にフォーカスしており、それ以前の歴史は触れたとしてもほんの僅かとなっていることがわかった。というか時折触れてくるために時間軸が前後して読み手の僕が混乱していた次第でした。
そしてまた三畳紀に哺乳形類に起こった変化が多肢にわたり非常に複雑なものであったこと。本書はかなりここに踏み込んでいてそれがまたなかなかの難しさであることも手ごわい内容となっていたのでありました。
しかし考えてみれば、巨大隕石の落下のみならず、様々な要因で大きく変化していく地球環境や植物や競合する生物の進化などに応じて適応進化してきた哺乳類の祖先たちのしぶとく、粘り強い、気の遠くなるような戦いの歴史。本書には確かに鮮やかに描き出されていたのでありました。
△▲△
2023/01/22:47歳にして公称大蔵省を早期引退し、叔父から継いだサマーセット州メンディップ、プリディにあるブドウ園を経営するプチブルな男、ティモシー・クランマーの荘園に深夜パトカーが訪ねてくる。やってきた二人の警官は知人のラリー・ペティファーの行方を捜しているのだという。
「最期にラリーに会ったのは何時ですか?」
いつだったかな。はっきり答えずのらりくらりし続けるティム。しかし実際には最後に会った日付はしっかりと脳裏に焼き付いていた。ラリーは勤めていた大学の講義を無断休講した10月の第二週目以降、行方不明になっているのだった。
「親友とうかがいました」
「親友?そうはとても言えないな」
必死で煙に巻くティム。ティムが電話を急に止めたことや、ラリーの宿舎に外国人の男が訪ねていたこと、これはティムも知らなかったことだが、など予想以上に捜査は進んでいるのだった。
その外国人の男の風貌はかつてラリーを二重スパイとして潜航させた際に接触していた元KGBの工作指揮官、チェチェ―エフのそれであった。 警察は外国人の男の身元は特定できておらず、そしてティムの愛人で一緒に暮らしていた、エマ・マンジーニもほぼ同時に行方不明になっていることまでは掴んでいなかった。
警察が訪ねてきたことを元の職場である英国情報部へ連絡するや直ちに出頭せよと命じられ、ロンドンへ向かうティム。
「パスポート持参で来るように」
昔の職場はよそよそしいばかりか険悪な気配すら漂っていた。ラリーはチェチェ―エフと共謀してロシアの公金三千七百万ポンドを横領したのだという。そしてこれにティムも加担しているのではと疑われているのだった。また先般ティムのところを訪ねた警官は公安部の人間で、公安は事件の気配をかぎつけ動き出していた。ロシアの公金横領の件からラリーとチェチェ―エフの過去の関係が表沙汰になることは絶対に避けなければならない。つまり公安に先んじてラリーを捕まえる必要があるのだった。
情報部の面談は尋問に近いものになっていくのだが、ここでもティムの歯切れは悪い。そしてティムはパスポートを剝奪され、追って沙汰があるまで家で大人しくしていろと告げられるのだった。
ラリーとティムはウィンチェスター・カレッジ、そしてオクスフォードと同じ学校に通っていた。ティムは三年後輩で、牧師の子であったラリーの面倒をみてあげていたのだった。情報機関に入るやティムはそんなラリーを二重スパイに仕立て上げソ連に浸透させ17年間もの間活動させてきた。しかしソ連崩壊後、役割が意味をなさないものと判断され二人は引退することとなり、組織はラリーにバース大学の教授職を与えたのだった。
ラリーは新しい仕事に興味が持てず、渋々引き受け嫌々やっていた。そして仕事の合間に情報部にも警察にも伝えてはいない頻度でティムの元を訪れて一緒に過ごしていた。そしてそこには必ずエマもいた。エマはラリーと出会うや彼のことをことのほか気に入り、クリスマス、新年を三人で過ごすことを楽しみにするようになっていったのだった。
しかし突如二人はティムの前から姿を消した。三人の間に一体何が起こったのだろうか。ティムは退職前に万が一に備えて情報部から盗み出していた偽名のクレジットカードとパスポートを使ってラリーとエマの足取りを追っていくのだった。
冷戦終結とともに自分の役割は終わったと悠々自適の生活を営んでいたティムの前に現れてくるのは、ソヴィエト連邦が崩壊した後に墓から這い出してきたロシア帝国の悍ましい姿だった。そしてこれは西側社会の無知・無関心、油断がそれを許しているものでもあった。
二人を追うティムの旅は逃避行でもあり、そしてそれは自分の過去、西側社会とソ連の過去を新しい視線から改めて見直していく機会になっていくのだった。
過去読み飛ばしてしまっていたル・カレの本を辿る読書の旅もまた僕の無知と無関心に改めて気づかされる道でもあるのだけれども、本書も驚くほどの慧眼さを発揮していました。その問題を読者の胸に深く刺さるように考え抜かれた設定とプロットで物語は紡ぎだされているというのが読後になってはたと気づく。そうこれは紛れもない傑作でありました。
「シルバービュー荘にて」のレビューはこちら>>
「スパイはいまも謀略の地に」のレビューはこちら>>
「スパイたちの遺産」のレビューはこちら>>
「地下道の鳩」のレビューはこちら>>
「繊細な真実」のレビューはこちら>>
「誰よりも狙われた男」のレビューはこちら>>
「われらが背きし者」のレビューはこちら>>
「ミッション・ソング」のレビューはこちら>>
「サラマンダーは炎のなかに」のレビューはこちら>>
「ナイロビの蜂」のレビューはこちら>>
「シングル&シングル」のレビューはこちら>>
「パナマの仕立屋」のレビューはこちら>>
「われらのゲーム」のレビューはこちら>>
「ナイト・マネジャー」のレビューはこちら>>
「影の巡礼者」のレビューはこちら>>
「ロシア・ハウス」のレビューはこちら>>
「パーフェクト・スパイ」のレビューはこちら>>
「リトル・ドラマー・ガール」のレビューはこちら>>
「スマイリーと仲間たち」のレビューはこちら>>
「スクールボーイ閣下」のレビューはこちら>>
「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」のレビューはこちら>>
「鏡の国の戦争」のレビューはこちら>>
「寒い国から帰ってきたスパイ」のレビューはこちら>>
「高貴なる殺人」のレビューはこちら>>
「死者にかかってきた電話」のレビューはこちら>>
△▲△
2023/01/14:木星が現在の周回軌道ではなくその内側や外側に何度か移動していたことがあったらしいという話をどこかで読んでびっくりした。何よりどうしてそううだったということがわかったのか。そんな事が起こった原因よりもなぜわかったのかの方が気になる。探し方が悪いのかネットでも本もそれに関するものが見当たらないまま時は流れ、ようやくそれらしい本にたどりついたというのが本書でありました。
それにしても読みにくい本でありました。文脈が捉えにくいというか捉えられない。みんなこの本をどう読んでいるのだろうか。例えば太陽系を回る衛星の太陽からの距離の比について、昔はベーデの法則と呼ばれる比で惑星が回っているのではと考えられていたというが、現実には正しくもなければ、惑星のなかには回る軌道を内側や外側に何度も変えて順番が変わっているものがあるという。これこそ僕が知りたかったことなんだけど、さらっと通り過ぎ、宇宙初期の原子構成が初期の恒星によって鉄までが作られる話に進む。それが天体望遠鏡の性能向上により星雲説が唱えられたという話になり、ハッブルやジェームズ・ウェッブの宇宙望遠鏡とそれにより得られた知見の話になっていく。僕には只管脱線しているようにしか見えない。
宇宙史の話と科学史の話や著者の研究史のようなものを互いに前後に挟んでくることや、過去信じられていたことと現在の知見や、今考えられているいろいろな説を並べてくるというのも非常に読みづらくて話についていけない。
そしてずっと後になって唐突に
そもそも木星が移動することはありえないような気がする。木星は地球の数百倍の質量があり、角運動量は太陽より大きい。しかし話はそれだけではすまない。この後で説明する「グランドタック」モデ ルでは、木星は太陽から三AUの位置から一・五AUまでさまよってきた後、最終的には土星も引き連れて、五AUの位置まで戻るのである。巨大惑星がそうした動きをしていると考えると、いろいろなことが説明できる。特に大きいのが、太陽系に見られる、化学組成や構造の隔たりだ。このモデルが詳細な点で正しいかどうかはまだ検証されていない。
なんて記述に出会うのだが、この「グランドタック」モデ ルの説明は本文の15ページも先にある。しかも難しい。
文句ばっかり書いてしまった。しかし、つまらない、面白くない訳ではなかったのだ。読み切るにはたしかに根気と集中力が必要だったのだけど、幅広く深い情報量の流れの向こう側から見えてくるものがある。僕らは遥か昔から空を見上げて「なんでこうなっているのか」という疑問を抱き、様々な事実から推論を重ねて世界を理解しようとずっと努力してきたのだということ。
科学は物事の根本となるものにたどり着きたいという気持ちから生じた。その根本とは、亀がどこに立っているのかだけでなく、比喩的な意味でも、亀がそもそも存在するのかどうか、それともその問題の骨組みを完全に再検討しなければならないのかどうか、ということである。アリストテレスはこうした状況について次のように述べている。「論証がそこからなされる前提の知識を持つことが必然的であり、そして、どこかで無中項の前提が止まるならば、これらの無中項の前提が論証されえないことは必然である」(『アリストテレス全集2 分析論後書』、高橋久一郎訳、岩波書店より引用)。
原因への遡及の先には、直接的な真実がなければならない。それはいうなれば、物事には根本となるものがあるはずだという、西洋的な信念と呼べるものだ。あらゆる事実をそこから知る、あるいは導くことのできる、自明の実証できない基礎が存在する。それは無条件に存在する自然の原理である。科学の役割とは、上から見下ろして、亀がなんの上に立っているかを発見することだ。しかしときには、亀がずっと下まで続いているのではなく、そもそも下というものが存在しない可能性もある。
そしてその時々で知りうる知見を総動員してもっともらしい結論を見出してきた。しかし科学技術の発達に応じて世界は従来考えられていたものからは想像できないようなものであったことが次々とあらわにしてきた。
目次
主な惑星と衛星のリスト
イントロダクション
第1章 朽ち果てた建物
第2章 流れの中の岩
第3章 システムの中のシステム
第4章 奇妙な場所と小さなもの
第5章 ペブルと巨大衝突
第6章 勝ち残ったもの
第7章 10億の地球
結びとして
エピローグ
僕の前提として例えば「グランドタック」モデ ルが事実として証明されたものだと思い込んでいた。その詳細が知りたくて本を探してこの本にたどり着いたのだった。しかしまだこれは仮説にすぎなかった。そればかりか太陽系生成も月の生成プロセスも標準モデルはあるけれども、これも仮説でほかにもいろいろと唱えられている説があるという。つまり太陽系も月もその生成プロセスはわからないことだらけだということだった。通読して一番の驚きはこの部分だった。もっと解明されているものだとばかり思っていたのだ。
子供の頃に読んだ太陽系の生成プロセスは所謂「星雲説」だった。ひろがるガス星雲のとある点でガスが集積して恒星へと成長していく過程で周囲にも物質のたまり場ができ惑星を形成していくというもので、太陽系もそうしたプロセスでできたというなんとももっともらしい話だった。
しかし太陽や惑星を構成する元素同位体の割合を詳細にみていくと原産地、由来がわかる。地球と火星では同位体比がまったく異なっており、太陽との同位体比とも違っているのだそうだ。これは地球も火星もどこかそれぞれべつの場所から流れ着いた可能性があるのだそうだ。
知らなかった・・・。そう知らなかったことが満載なのだ。
そして更に意外なことに本書を通して読んでわかったことはこれまでわかっているつもりでいたことが実はそうではなくて、そして実はどうだったのかということがまだよくわかっていないという読む前よりもずっと解らなくなってしまったということなのだ。なんとなんと。
そしてグランド・タック・モデルで検索するとウィキペディアにはちゃんと記事がありました。
△▲△
2023/01/07:12月中旬にコナリーの新作が出版されていることに気づかずに年末を迎えてしまった。慌てて発注、お正月にどっふり没入して読みました。お陰でとても良いお正月休みになりました。ところで本屋さんで本棚を眺める、一昔前は当たり前で読んでいない本でも作者の名前だとかシリーズものなのかそうではないのかなどの情報を頭に入れていたのだが、今は全くやらなくなった。たまに本屋さんで本棚を眺めても見当識が失われていて本を選べない。こうして読書はどんどん偏っていくのだろう。それにしても読むべき本、読みたい本に対して人生は短すぎますね。
2020年の大晦日、夜勤勤務のレネイ・バラードも年末年始の特別警戒に駆り出されていた。日付が変わるのに備えて、パトカーをカーヴェンガの高速道路の高架下に停めて騒ぎが起こるのを待っていた。新年に合わせて空に向けて銃器を撃つ輩が大勢いるためだ。空に向けて撃ち放たれた銃弾が落ちてきて毎年怪我人がでているのだった。
しかしこの高架下にはホームレスが大勢たむろしており、パートナーを組んでいる性犯罪課の刑事リサ・ムーアはむしろこの場所の方に危険を感じていた。リサは所謂燃え尽き症候群に陥ってしまった刑事で、仕事にも周囲で起こる出来事に対してもシニカルで何かにつけて他人事で、仕事を終えて家に帰ることしか頭になかった。バラードはそんな彼女に辟易しながら待機しているのだった。
概ね場所がわかるところは大抵、グーグルマップでその都度、確認しているのだが、このハリウッドフリーウェイの高架下のストリートビューにはテントやブルーシートのホームレスの人たちの住処が所せましと並んでいた。ここまで酷いことになっているのは今までみたことがない。コロナ禍で仕事や家を失った人々が大勢流れてきているということらしい。中央分離帯のなかにまでテントがある。
二人が待機しているパトカーにホームレスがふらふらと近づいてくる。上半身裸でマスクしていない薄汚れた男は窓越しにマスクも含め持ち物を奪われたと訴えてくる。しかし二人はマスクしていない人と話はできない。これ以上近づくと群刑務所送りになると脅しつけて追っ払ってしまうのだった。群刑務所に送られれば確実にコロナに感染することになるというのだ。
これは当時のロサンゼルス警察の方針だったのだろう。しかし、それにしてもマスクしていない人を助けない。マスクを渡す訳でもない。それで逮捕するとなったらどうやってやるのだろう。バラードも決して納得してやっている感じではなかったが、市民を守るための警察だったはずの立場と荒廃した都市に暮らす人々との関係は完全にコロナ以前とは異なるものになってしまっていることに非常に強いショックを受けました。アメリカの都市はここまで毀損していたのか。
二人はミッドナイト・メンと名付けた二人の暴行犯を追っていた。たまたま夜勤勤務の時に事件が発生したことでバラードが初動捜査にあたったことから非公式に性犯罪課チームに加えられムーアと一緒に捜査していたのだった。
ミッドナイト・メンの二人組はこの五週間の間に二人の女性を襲っていた。襲われた女性の家に侵入し拘束した上で長時間にわたり凌辱を重ね、戦利品のように被害者の頭髪を切り落として持ち去っていた。物証・目撃証言なし。襲われた女性二人にも関係性は見出されていなかった。性犯罪課チームはこの二人組が引き続き犯行を繰り返していくのではないかと危惧していた。二人もできれば年末の特別警戒から離れて事件捜査を続けたいと考えていたのだった。
日付が変わると周囲からポップコーンが爆ぜるように射撃音や爆竹の音が聞こえてくる。それが止むや否や通信指令からの呼び出しが入る。ガウアー・ストリートで発砲事件により負傷者が発生したという。現場はラス・パルマス13団というギャング団が屯する地域の小さな自動車修理工場だった。新年パーティが開催されており、新年を祝う祝砲が止んだとき、主催者である修理工場のオーナーが倒れていることに参加者が気づいたというのだ。被害者は頭部を負傷し近隣の病院へ緊急搬送されていた。大勢がパーティに参加し足元には大量の薬莢が散乱していたが、事件の目撃情報はなし。
バラードが病院に向かうと被害者が今、亡くなったところであった。ベッドに横たわった亡骸を検分すると頭部の銃創の周囲には焼け焦げた跡がはっきりと着いていた。これは流れ弾による事故ではなく明らかに故殺だったのだ。病院に駆けつけていた家族のなかにいた息子と話をすると、彼はパーティには一人場違いな男がいたという。頭をそり上げた白人でフーディを被っているため顔は殆ど見えなかったが近隣住民ではないことは明らかだという。
物語はこの二つの事件を軸に寝る間もなく追い続けるバラードの背中を追っていく。銃撃殺人となった事件で発見された証拠から犯行に使われた武器は過去、ボッシュが担当し未解決となった事件と共通のものであることが判明する。迷うことなくバラードはボッシュにアドバイスを貰いに会いに行くのだった。
歯に衣着せぬ言動とやや軽率とも云える行動によって周囲と衝突、時にはボッシュの気分でさえ害してしまったり、失敗したりしながらの捜査に目が離せなくなっていく。止められない、止まらない、2021年1月の現実世界を見事に背景に織り込んだ怒涛のノンストップスリラーでした。
「正義の弧」のレビューはこちら>>
「ダーク・アワーズ」のレビューはこちら>>
「潔白の法則」のレビューはこちら>>
「警告」のレビューはこちら>>
「ザ・ポエット」のレビューはこちら>>
「鬼火」のレビューはこちら>>
「素晴らしき世界」のレビューはこちら>>
「汚名」のレビューはこちら>>
「レイトショー」のレビューはこちら>>
「訣別」のレビューはこちら>>
「燃える部屋」のレビューはこちら>>
「罪責の神々」のレビューはこちら>>
「ブラックボックス 」のレビューはこちら>>
「転落の街のレビューはこちら>>
「証言拒否のレビューはこちら>>
「判決破棄」のレビューはこちら>>
「ナイン・ドラゴンズ」のレビューはこちら>>
「スケアクロウ」のレビューはこちら>>
「真鍮の評決」のレビューはこちら>>
「死角 オーバールック」のレビューはこちら>>
「エコー・パーク」のレビューはこちら>>
「リンカーン弁護士」のレビューはこちら>>
「天使と罪の街」のレビューはこちら
「終結者たち」のレビューはこちら>>
「暗く聖なる夜」のレビューはこちら>>
「チェイシング・リリー」のレビューはこちら>>
「シティ・オブ・ボーンズ」のレビューはこちら>>
「夜より暗き闇」のレビューはこちら
「夜より暗き闇」のレビュー(書き直し)はこちら>>
「バット・ラック・ムーン」のレビューはこちら>>
「わが心臓の痛み」のレビューはこちら>>
「エンジェルズ・フライト」のレビューはこちら>>
「トランク・ミュージック」のレビューはこちら>>
「ラスト・コヨーテ」のレビューはこちら>>
「ブラック・ハート」のレビューはこちら>>
「ブラック・アイス」のレビューはこちら>>
「ナイト・ホークス」のレビューはこちら>>
△▲△