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ロセアンナ(Roseanna)
マイ・シューヴァル(Maj Sjöwall),
ペール・ヴァールー(Per Wahlöö)

2023/10/01:マルティン・ベックシリーズは警察小説の白眉と呼ばれた作品群であり、また僕がまだ少年だった頃に両親と3人で回し読みをしたとても大切な本のひとつです。僕は少なくともこのシリーズ二度は読み返したんじゃなかったろうか。今となっては時系列が曖昧だけれけども、「笑う警官」がウォルター・マッソーの主演で劇場公開された時にはすでに原作を読んでいたと思うので1975年以前に読み始めていたのだと思う。当時自分はまだ中学生でずいぶんとマセガキだった訳だ。

シリーズは10冊になるとあらかじめ宣言されていた気がする。物語は1年ずつ進んでいき10年間の主人公、スウェーデンの物語が語られていく。僕も両親も最新刊が出るのを楽しみにしていたものだった。しかし最終巻となる『テロリスト』が出る前に作者の一人であるペール・ヴァールーが亡くなってしまう。僕の記憶とウィキペディアの記載が食い違うので確かなことは云えないけれども、たしか『テロリスト』のあとがきかなにかで読んだ記憶があるのは、各作品は概ね30章で構成されていてプロットが決まると偶数と奇数の章を二人で交互に書いていた。そしてペール・ヴァールーが亡くなったときプロットはすでに完成していたので未完成だった部分をマイ・シューヴァルがすべて書き上げて完成させたという。 これまた当時はペール・ヴァールーとマイ・シューヴァルは夫妻として紹介されていたけれども今回、『ロセアンナ』の後書きでは一緒に暮らしてはいたけれども、婚姻関係はなくパートナーという関係だったそうだ。

この二人がペール・ヴァールーのジャーナリストの経験を生かして警察小説を書こうとなった経緯は不明ですが、1冊目を書く前から10冊、10年間というスコープとビジョンをしっかりと持ったうえで書き始めていることは間違いなく、このような濃厚で奥深い物語を生み出せるという絶対の自信のようなものを感じる。

もう10年も前になるのだけど再訳されて文庫本がだされていたのは遠くから見ていました。訳者の柳沢由実子さんはスウェーデン語から直訳しておりヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダー警部シリーズの翻訳もされていて警察小説のご経験も豊富な方でした。初版の訳者高見浩さんは英訳されたものから翻訳してたと。なるほど。高見さん版が『ロゼアンナ』だったものが今回『ロセアンナ』に変っているのもそんな背景があるのだそうです。

今回ようやく再読する機会が作れたことをとてもうれしく思っています。それにしても『ロセアンナ』の物語の舞台は1964年。僕が当時読んでいた時点ですでに10年前が経過しており、今から考えると60年近く前の話になる訳だ。それが未だに読み継がれているということ自体がこのシリーズの作品のレベルの高さを示すものではないでしょうか。

エステルイェータランド県モータラのボーレンスフルト閘門で川底の泥を浚渫していた浚渫船のシャベルから人間の腕が垂れ下がっている光景から物語は幕を開ける。泥と一緒に引き上げられたその腕の主は全裸の女性であった。モータラは小さな街で地元の警察の応援に駆り出されるのがストックホルムの警察本部殺人課の刑事、マルティン・ベックとその部下たちであった。死体には身元を示すものは何もなく性的暴行されたうえで絞殺されていることが司法解剖により判明する。失踪者や行方不明の照会に彼女に似た人物は見当たらない。誰も彼女のことを知らず、探している人もいないようなのだ。 事件は初動から暗礁に乗り上げ何の進展もないまま日々が過ぎていく。そしてベックらの応援活動も中止を宣言され、彼らは本庁へ戻っていくのだった。

しかしベックらはこの事件の捜査をあきらめた訳ではなかった。地元警察のアールベリと頻繁に情報交換したり、各国大使館へ確認をとるなど情報収集を地道に続けていく。

無風状態が3か月程たった頃、被害者がアメリカ合衆国ネブラスカ州リンカーンの街で図書館司書をしていたロセアンナ・マッグローに間違いないと当地の警察から電報が届いた。休暇旅行でスウェーデンを訪れ、イェータ運河を航行する遊覧船に乗っている間に何者かによって襲われ殺害されたらしいことがわかってくる。

それにしても当時はほとんど何もわかってないまま読んでいたことが今回はっきりわかりました。死体が発見されたのはストックホルムの近くの海だと思っていたんだけれどもかなり離れた場所の運河でしかも閘門のなかだった。閘門は水位の異なる運河の接続部分で船を航行させるエレベーター。船を閉じた区画に浮かべて向かう運河の水位まで上げ下げするものだ。東京にも荒川ロックゲートや扇橋閘門があり、水位を上げ下げして行きかう船をみられる。

イェータ運河の歴史は古く19世紀初期に建設されたものだそうです。当初は土木建築用の資材の運搬を目的としていたようですが、同時並行して進んでいた鉄道に使途を奪われた形となり活用されないままだった時期があったようですが近年、再整備されスウェーデンの観光地として活躍している。 運河はスウェーデンの西海岸にあるイェーテボリから、イェータ川やトロルヘッタン運河(en:Trollhätte canal)でつながり、ヴェーネルン湖やヴェッテルン湖を通って、バルト海にあるセーデルシェーピングまで伸びる長大なものでした。

Googlemapで確認してみたところ運河も閘門も巨大なものではなく、非常にのどかでこじんまりしたものだった。こうした運河を10日ほどかけて遊覧する観光ツアーがあるんですね。まさに事件の舞台となったのがこの遊覧船であったという訳だ。

主人公のマルティン・ベックは1922年生まれで事件当時は42歳。29歳の時に結婚し妻のインガと長男長女の4人家族だ。ひっきりなしにタバコ(フロリダ)を喫い、いつもどこかしら体調不良。妻との関係は冷え切り子供たちとの関係も希薄だ。仕事に没頭し家に寄り付かないのは居場所がないからなのかもしれない。家にいるときは自室にこもり船の模型を作ることに没頭している男だ。『ロセアンナ』では練習船デンマークの模型が作りかけていました。そんな趣味からマルティン・ベックは船の構造や運航に詳しく事件解決の糸口をつかんでいく流れもすばらしい。

当時まだ世界大戦の傷あとが残る北欧の観光地に世界各国から観光客が流れ込み、風俗や文化が急速に変化しつつあるスウェーデンの世相を切り取り事件の舞台としていること、どこにでもいるような普通の人たちが殺人事件刑事として地道に真摯にそして時には生活を犠牲にしながら取り組んでいるその姿をあざやかに描き出していてすこしも色褪せることのない傑作だとあらためて感じました。 さてマルティン・ベックシリーズが幕開けです。最後まで頑張っていきたいと思っております。


「ロセアンナ」のレビューはこちら>>
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「サボイ・ホテルの殺人」のレビューはこちら>>


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真実が揺らぐ時:ベルリンの壁崩壊から9.11まで
(When the Facts Change: Essays, 1995–2010)

トニー・ジャット(Tony Judt)

2023/09/24:気が付くとトニー・ジャットが亡くなって13年も経ってしまっていた。月日の流れる速さよ。本書は2019年に訳出されたもので、著者はジャット本人によるものではあるものの、出版にあたっては彼の死後、奥さんだったジェニファー・ホーマンスが彼の生前書き下ろしたエッセイのなかから選び出して一冊の本にまとめたものだ。

序文には二人が生きた時代がどんなものだったのか、ジャットがどんな人物であったのかをなぞりなおすような形でまとめたものであるような事がかかれていました。
トニー・ジャットは1948年1月2日生まれで第二次世界大戦後の生まれ。ジャットの生きた時代は戦後の現代を大きくカバーしている。大戦後の高度成長期、ソ連崩壊による冷戦終結というものが期待されていた、思われていたように平和でもなければ正しくもなかったことが一部の人たちに認知され始めていると思うのだが、こうした気づきを与えてくれた極一握りの知識人の一人であることは間違いない。 ジャットが生きた時代、ジャットの目に世の中がどう映っていたのかを知ることは非常に重要なことであると思う。 当然ながらイスラエル、アメリカの話が中心にはなる訳だけど。

目次
序 誠実さをもって  ジェニファー・ホーマンズ

 I 一九八九年――私たちの時代
第1章 終わりなき下り坂
第2章 ヨーロッパ、大いなる幻想
第3章 重罪と軽罪
第4章 冷戦が機能した理由
第5章 自由と自由の国フリードニア

 II イスラエル、ホロコースト、ユダヤ人
第6章 どこにも辿り着かない道
第7章 イスラエル――代案
第8章 「イスラエル・ロビー」と陰謀論
第9章 戦後ヨーロッパにおける「悪の問題」
第10章 地に足の着いたフィクション
第11章 イスラエルは民族的神話を解体せねばならない
第12章 常套句クリシェなきイスラエル
第13章 何をなすべきか?

 III 9.11と新世界秩序
第14章 『ペスト』について
第15章 みずからの最大の敵
第16章 私たちの現在の生き方
第17章 海外の反アメリカ派
第18章 新世界秩序
第19章 国連は命運尽きたのか?
第20章 私たちはいったい何を学んできたのか?

 IV 私たちの現在の生き方
第21章 鉄道の栄光
第22章 鉄道を取り戻せ!
第23章 革新という名の破壊の鉄球
第24章 社会民主主義の何が生き、何が死んだのか?
第25章 揺れる二つの世代 息子ダニエル・ジャットとの対話

 V 人はいずれみな死ぬ
第26章 フランソワ・フュレ(一九二七-九七年)
第27章 アモス・エロン(一九二六-二〇〇九年)
第28章 レシェク・コワコフスキ(一九二七-二〇〇九年)

原注
訳注
訳者あとがき
索引

アメリカはその存在そのものによって怒りを引きおこすが、その行いによっても反感をあおる。ここにきて最近、事態はさらに悪い方へ向かいはじめた。合衆国はしばしば、怠慢な国際社会のメンバーである。合衆国は、地球温暖化であれ、生物化学兵器戦、刑事裁判、女性の権利に関してであれ、国際的な発議や合意に参加したがらない。合衆国は、一九八九年の「児童の権利に関する条約」を批准しなかった二ヶ国のうちの一ヶ国(もう一方はソマリア)である。現在の合衆国の政府は、国際刑事裁判所を設立したローマ 条約を「無効と宣言」し、また、ある条約に批准していない国々がその条約に従う義務を取り決めた「条約法に関するウィーン条約」によってももはや拘束されないと宣言した。国連とその機関に対するアメリ カの態度は、控えめに言っても冷淡である。今年[二〇〇二年〕のはじめに、合衆国の人権大使は、ルワ ンダと旧ユーゴスラヴィアのために特別法廷の解散を求めた特別法廷があらゆる深刻な対国際テロ戦争にとって重要であり、また合衆国自身はベオグラードに数百万ドルの賄賂を渡し、スロボダン・ミロシェヴィッチをハーグ裁判所に引き渡させたにもかかわらず。


これは2002年に書かれた一文だった。しかしこうしたアメリカの傍若無人ぶりに我々が気づき始めるのはずっとまたこの後のことだし、気づいた頃にはその振る舞いはますます手に負えない状況になりつつある。

国連の無力さについても。

一九九〇年代のハイチ、ソマリア、ボスニア、またルワンダ、そして今日ではイラクとスーダンにおいて、国連は実際に、誰と取り引きすべきなのか? 地域の犯罪的な首長だろうか? 危機に対してまずは責任を負うべき当の政権だろうか? グローバル化の時代において、古典的な国家の中核的な機能はかなりばらばらになっており、誰がどのようにそれらの機能を現在引き受けるべきかは定かではない。というのも、このグローバル化の時代においては、そもそも国家でさえないのに、しかしその豊かさと影響においては多くの国家をはるかに越えている多国籍企業とそのほかの経済的主体が増大し、最悪の権利侵害がしばしば国家でない行為体によってなされるからだ。そのような時代において、まさにその国際連合という名前が示唆するように、国民国家の時代に根ざした理念であり機関である国連の役割とは何なのか?


僕らは香港、ミャンマー、ウクライナの事態を前に国際連合がなすすべもなく遠くから非難の声をあげるしかなかったことにどうして思い至れたろう。 ジャッドが憂いていたイスラエルの問題は解決に近づいた気配はなく、その振る舞いや状況が悪化してきたのはアメリカに限った話ではない。今ジャットはこの世界をみてどう思うのだろうか。僕はまだジャットの跡を引き継ぐ世界の羅針盤のような人物を見出せてもいない。

「失われた二〇世紀」のレビューはこちら>>

「ヨーロッパ戦後史」のレビューはこちら>>

「荒廃する世界のなかで」のレビューはこちら>>

「真実が揺らぐ時」のレビューはこちら>>


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プランタ・サピエンス 知的生命体としての植物
(Planta Sapiens: Unmasking Plant Intelligence)

パコ・カルボ (Paco Calvo),
ナタリー・ローレンス(Natalie Lawrence)

2023/09/10:植物のなかには葉に虫がついて食べられ始めるとその葉に虫が嫌う化学物質を放出しておっぱらったりしているやつがいるんだそうだ。また個体間で敵がきたことを知らせ合ったり、水分を融通しあったりしているようなこともしているらしいことが最近の研究でわかってきたのだそうだ。 そう植物は我々が考えている以上に外界の状況に応じて対応をしているばかりか、個体間で情報共有し協力するようなこともやっているのだ。 これNHKの「ワイルドライフ」という番組で紹介されていたものだ。ふとリビングでたまたまチャンネルがそれになっていたのだけど、ちょっと意表を突くよう内容でとても興味深かった。

そんな折に目に飛び込んできてたのが本書だった。「副題が知的生命体としての植物」なるほど。
本書は期待通り、植物が状況に応じて驚くほど巧妙な対応をしていたり、個体間のネットワークをつかって問題解決を図っていたりする実例を挙げていくことで植物が知覚を持ち、知的な活動をしていることを明らかにしてくれる。

冒頭、こんな例が紹介されていた。僕ら人間が眠ってしまうような麻酔をオジギソウに嗅がせると触ってもおじぎしなくなるのだそうだ。植物も麻痺するという訳だ。しかしこの場合、麻痺しているのは植物のどの部分なのだろうか。著者はこのあたりから植物の持つ「意識」のようなものに踏み込んでいく。

生体内の電気的な情報伝達について考える際には、動物の神経系が行なう高速な伝達を想像しがちだが、植物は独自の目的に沿った伝達の仕組みを進化させてきた。植物は、ネットワーク化された特殊な種類の細胞の信号伝達能力を利用して、体内の各系を調整している。それを行なっているのが神経系ではないという理由からこの情報伝達に目を向けないというのは、視野が狭いと言うほかない。基本に立ち返り、神経細胞が実際に何をしているのかを考えてみてほしい。神経細胞は電荷を生み出し、それを伝えている。細胞間および細胞伝いに起きる電気信号の変化や「活動電位」の発火という形でやりとりを行なっている。『オックスフォード英語辞典』によれば、「活動電位」を生み出すのは、細胞膜に沿った「電気インパルスの移動に関連した電位の変化」とある。 このように細胞膜を伝って電圧変化が移動していくのが、神経系の情報伝達の本質である。だが、以前からよく知られているように、これは神経系の専売特許ではない。それは動物のほかの組織にもあてはまる。たとえば動物の筋細胞は、組織全体に電気の波を広げることができる。心臓が収縮する際には、心筋組織全体に電気インパルスが広がっている。それを考えると、植物に神経細胞がないというのは、植物が電気的な情報伝達を利用していない理由にはならない。


植物だって電圧変化をつかって情報を伝達できるしそうしているからこそ、統合された活動が営めているのだろう。だって生物である以上、そんなことができなければ「生きている」という状態を続けられないのではないだろうか。 極々単純な単細胞生物だって、全体で統合された生態活動を続けていく必要がある訳で、各器官どうしの情報交換は神経系がなくともちゃんと機能しているはずだ。
これがミジンコのような多細胞生物になればもっと更に複雑な情報伝達しなくてはいけなくなる。それは多細胞であるが故に各細胞の役割が異なり作業分担しているからだ。お互いに連携して統合した活動ができなければ多細胞でまとまっている意味はないだろう。

ここに「意識」を持ち込んでくることに僕はとても戸惑った。

もくじ
序 植物を眠らせる
――第1部 植物の見方を改める
第1章 目に入らない植物
第2章 植物の視点を求めて
第3章 植物の賢い行動
――第2部 植物の知性を科学する
第4章 植物神経系
第5章 植物は思考するのか?
第6章 生態学的認知
――第3部 実を結ぶ
第7章 植物であるとはどういうことか?
第8章 植物の解放
第9章 グリーン・ロボット
エピローグ 海馬を太らせる農場


花が昆虫の活動を利用して花粉を運ばせたり受粉したりしていること。驚くほど巧妙な仕掛けを用意している植物がいたりする。こうした仕掛けを進化させてきた植物には何等かの意図があるといいたいのだろうか。

植物には神経系もなければ脳もない。それでも外部の状況を知覚し、それに対処するためにどうすべきかを思考する「意識」があってもおかしくはない。しかし神経系や脳がない植物がどんな「意識」を持っているのかを我々のような動物が理解することは難しい。 そんなことを言っている感じだ。我々の持っている「意識」とは全く別の「意識」がどんなものなのかは仄めかすばかりで何も具体的なことは書かれていないし、それが存在する証拠のようなものもどこにも書かれていない感じだ。

あくまで外部から観察した植物の行動を例示し、その背後に何等かの「意識」を持っている可能性があるということを言っているようだ。電気インパルスによって情報共有している背後に「意識」の存在を考えるとするのであれば動物の心臓の動きの背後にも「意識」がある可能性を考えることになるのでは?と思うのだが、話が脱線しているのだろうか?動物が視覚や嗅覚を発達させたり飛翔能力を獲得してきた背後に「意識」があったと考えるのは進化論を歪んで捉えていると思う。同様に巧妙な仕掛けで虫たちを活用して受粉している植物に「意識」や「意図」を見るのもやはりこれは歪んだ考え方だと思います。


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反撥(RECOILL)
ジム・トンプスン(Jim Thompson)

2023/08/15:本書の原作が書かれたのは1953年、訳出されたのは2022年10月だ。訳者はなんと黒原敏行さんだ。ミステリ小説もたくさん翻訳されていますが、僕のなかで黒原さんといえばコーマック・マッカーシー。マッカーシーの「国境三部作」は忘れられない読書体験でした。その黒原さんの最新の訳出ものが本書であります。

近年、ジム・トンプスンの未訳の作品が相次いで訳出出版されています。それはうれしい限りで僕も何冊か読ませていただきましたがちょっと中断していた。それはトンプスンの作品の多くを翻訳されていた三好基好さんが亡くなり、訳者さんが変わってしまったことが大きい気がする。近年の本はなぜだか訳者が定まらず複数の方が携わっているようだ。そして皆さん当然ながら三好さんとは違う訳で、僕からするとトンプスンの風味が違って感じる。

読者を突き放したかのような粗暴さみたいなところが薄味になってる気がしてしまうんですよね。それが今回は黒原さん。「国境三部作」はもちろん素晴らしかったし、「血と暴力の国(No Country for old men)」、これ最近「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」に改題されてましたね。は無慈悲な展開がすごくて、こういうどす黒いものを噴出させる作品の訳者さんとして黒原さんはとても期待できる。

そして実際とても良かった。すごかった。70年前の作品とは思えない、勢い、展開、そして立ち位置の斬新さ。こうした作品を際立たせる切れ味で訳出されていたと思います。

今年の夏休みのすばらしい思い出になりました。

パトリック・M・コスグローブはサンドストーン州立刑務所に収監されている囚人。彼は15年前に銀行強盗で捕まった。仮釈放の権利を得たが、保護支援する家族がいないため支援者を求めて手紙を書いていた。この手紙を目にしたのはドクター・ルーサー。そして何度かの手紙の往復があり、ドクター・ルーサーは、コスグローブの保証人となり彼を仮釈放させることとなる。

ドクター・ルーサーは2年間、コスグローブの住む場所と仕事を与えて支援することが条件だった。

出所したコスグローブを迎えたドクター・ルーサーは約束通り、彼に住まいを与え、黒人の使用人がいる屋敷の一部屋だ。着るものを用意し、それもかなり高価なものだ。そして仕事をあてがう。

ドクター・ルーサーはかなりの金持ちであり、ドクターというのに医者らしい仕事はせず、州政府の議員や要職の人物たちと何らかのコネで繋がっている人物だった。
あまりの手厚い援助に戸惑うコスグローブだが、気にすることはないと言い切るドクター・ルーサーは限りなく胡散臭い。そして彼の妻や友人たちも、どこか漂流しているようにふあっとした存在感でありながら一癖も二癖もある連中ばかりだ。
コスグローブと二人きりになるや「ここだけの話」のような言動を始めるのだけど、動機も云わんととている事もなんだか不明瞭だ。

そして礼儀正しく従順なコスグローブだがひとたびスイッチが入ると暴力を行使することに一瞬のためらいのない男であることが明らかになる。やはり彼も信頼できない語り手、これぞトンプスンというべきキャラクターなのだった。

コスグローブを仮釈放させたのには何等かのたくらみがあるはずで、一方のコスグローブは死んでもサンドストーンには戻りたくないという充分すぎる動機があって、この話を蹴って席を立つことなどできはしない。

こうして引かれた轍の上をクライマックスに向けて疾走し始める物語は予想もできない展開と結末にむけて問答無用に加速していく。 すばらしい。文句なしの傑作でした。

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「歴史の終わり」の後で(After the End of History: Conversations With Francis Fukuyama)
フランシス・フクヤマ (Francis Fukuyama),
マチルデ・ファスティング (Mathilde Fasting)

2023/08/06:久しぶりのフランシス・フクヤマ。フクヤマの思想を僕はとても信頼しているんだけれども彼の著書はやや専門的すぎる。まるでというか論文そのもので、ぐいぐいと論証を進めて結論に向かうその筆致は確かなのだけど、素人の僕が隙間時間に読んで読解するのはちと骨の折れる作業だし、彼の訴えることが必ずしも僕が読みたいと思う内容ではない場合もある。何より彼が得意にするのは人間の人生を超えた時間軸で流れる政治や国家のありかたのようなものであることが多く、それはフクヤマが云うのであればそれは正しいのだろうと思う反面、いやいやそこまで冷徹に歴史や物事の動きがわかるのであれば今、ここで起こっていることについてどう考えるのか聞かせてほしいと感じることも確かに多々あった。

そして今回は対話形式。インタビューアーはマチルデ・ファスティングというノルウェーのパイオニア・エコノミストという方なのだそうだ。 実際、彼女が繰り出す時世にあった質問は広い範囲に及び、フクヤマがこれに答えていくことでむしろ深く、深く一つのテーマをひたすら掘り下げていくフクヤマの著書よりも読みやすく読み応えのあるものになっている気がしました。 もちろん「歴史の終わり」は別格ではあるけれども。

●目次
編者まえがき
1 歴史の終わり後に何が起こったのか
2 世界の政治はどう変わったのか
3 反自由主義的な攻撃は民主主義をいかに脅かすのか
4 アメリカは自由主義秩序の導きの光ではなくなるのか
5 オーウェル『一九八四年』のディストピアは現実になるのか
6 フクヤマはヨーロッパの古典的自由主義者なのか
7 フクヤマを国際政治へ導いたのは何か
8 歴史の終わりとは何か
9 なぜデンマークへ行くのか
10 いかにして民主主義国をつくるのか
11 社会が動く仕組みをいかに理解するのか
12 アイデンティティの政治は〝テューモス〟の問題なのか
13 社会と資本主義はいかに影響しあうのか
14 人間本性がいかに社会をかたちづくるのか
15 中国は自由民主主義の真の競争相手なのか
16 わたしたちは文明の衝突を経験しているのか
17 どうすれば民主主義を繁栄させられるのか
18 歴史の未来
むすびにかえて
謝辞
文献
索引

冒頭の編者まえがきはこんな出だし。
ベルリンの壁崩壊から30年以を経た2021年に、民主主義とその根底にある価値観を擁護しなければならなくなるとは思っていなかった。第二次世界大戦後は、ヴェトナム戦争や190年代のバルカン紛争など多くの戦争があったとはいえ、おおむね平和と繁栄を特徴とし、グローバリゼーションによって多くの人が貧困を脱出した時代だった。こうした展開を踏まえると、国際政治がふたたび景気後退、軍備拡張、社会不安、恐怖に支配されるとは想像しがたかった。しかしこの数年で楽観論は覆された。今後の展開を不安視する理由があるのか否か、現在の権威主義的な傾向とナショナリスト的な保護貿易主義が束の間の現象として終わるのか否かは、わたしたち民主主義諸国の強さにかかっている。


正に我々が今直面している不安、恐怖。この状況と今後の見通しについてフクヤマがどのように答えるのか。正にそれが読みたかったという切り口になっているものだったと思います。

何が変わったのですか?

いまわたしたちが暮らしているのは、アイデンティティの軸によって定義されつつある世界です。アイデンティティによって定義される世界をおそらく最もよく表しているのが、ドナルド・トランプ 大統領でしょう。二〇一八年のアメリカ中間選挙では、従来の共和党の政策で選挙戦を展開することもできたわけです。減税を掲げたり、経済が雇用を生み出していることをアピールしたり、経済成長を約束したりといった具合です。けれどもトランプはそういったことは語らなかった。何について語ったのか。南部の国境を越えてメキシコから移民が大量に侵入していると語り、軍隊を送ると語ったのです。この脅威とされるものに対処すべく、トランプは出生地主義で市民権を与えるのをやめると脅しをかけ、つまるところ国が外国人に攻撃されていると主張しました。これはアメリカ保守主義の性質が大きく変化して、ロナルド・レーガンの保守主義の特徴だった自由市場のイデオロギーから離れたことを示しています。経済の軸からアイデンティティの軸へとシフトしたわけです。これはアメ リカだけの現象ではありませんが、政治の傾向としてだれもがこれを意識するようになったのは、二〇一六年のドナルド・トランプの大統領選出とイギリスのEU離脱国民投票のときだと思います。これはさまざまな場所に現れつつあります。ヨーロッパではとても強く意識されている。ハンガリーと ポーランドというふたつのEU加盟国が、ポピュリストの方向に大きく舵を切ったからです。おそらく最もわかりやすい例が、オルバーン・ヴィクトルのフィデス・ハンガリー市民連盟が政権を握るハンガリーだと思います。実のところ、これはすべて民主主義ではなく自由民主主義にとっての問題です。こうしたポピュリストの指導者たちは「選挙に勝ったのだから、わたしには正統性がある」と主張する傾向にあって、そのうえで法の支配の制度を掘り崩しにかかるからです。


アイデンティティを優先し理屈ではなく感情で投票しているというのは、先日読んだユヴァル・ノア・ハラリの「21 Lessons」でも繰り返し登場していたものだ。日本の選挙結果も理不尽で矛盾に満ちた結果ばかりが続いている訳で、どうしてなんだろうと不思議を通り越して不安になる程でありましたが、この話を読んですこし理解できた気がします。自民党が神道と公明党に加えて統一教会とつながっている状態をなぜ維持できているのかというと信仰心なんてものではなくて宗教を利用しているからだ。宗教をアイデンティティにする人々を取り込むために手段としてつながっているだけなのだ。

トランプ大統領としての彼についてどうお考えですか?

二〇二〇年、わたしたちは新型コロナウイルス危機のことで頭がいっぱいでしたが、アメリカにとっての何よりの不幸は、この国家の非常事態のときにドナルド・トランプに率いられていたことです。トランプは国のリーダーとしての資格を欠いていることが公衆の面前に晒されました。二か月以上も危機の存在すら否定し、国としてパンデミックに備えることを何もしなかったのです。その結果、現時点でアメリカは世界で最も多くの新型コロナウイルスによる死者を出していますし、わたしたちの記憶にあるかぎり最も急激な景気後退を経験しています。いまアメリカの対応はヨーロッパに大きく後れをとっているのに、トランプはあたかも危機は終わったかのように振る舞っています。
トランプ現象のことで最も気がかりなのは、非常に多くのアメリカ人がすすんで彼に投票したことです。そしてアメリカ人の三五~四〇パーセントが、トランプに投票しただけでなく、彼のことを熱狂的なまでに愛しています。彼がつくりあげたこの個人崇拝を、わたしは非常に困ったことだと思っています。この男がカルト的に称賛されるようなことがアメリカで起こるとはまったく思っていませんでしたし、同胞の良識に疑問を覚えますが、見ての通りの状況です。トランプはいい人だとはとてもいえません。たとえば、これからの世代のために、子どもたちに彼のことを説明するとします。どの面をとっても、トランプよりひどい人間の例を挙げるのは非常に想像しにくいでしょう。子どもには正直であることを教えたいですし、道徳面で大きな目的意識をもってもらいたいですし、人格の中心には自分自身への関心以外のものをもっていてもらいたい。でもこの男は、人間に望まれる性格の特徴すべてにひとつ残らず背いています。おそらく、わたしがいちばん理解に苦しんできたのがこれです。わたしは民主主義に、とりわけアメリカの民主主義に大きな信頼を置いてきました。短期的に国民がばかげたことに賛成票を投じても、最終的には誤りを正してより賢明な選択をするようになると信じています。


そしてトランプの手法も漏れなく自民党は模倣していると思う。彼らはそうしたことについては勤勉なのだ。どういう手段を使えばいいのかだけではなく、どんなことまでなら許されるのか、逃れられるのかという点でもトランプの言動を参考にしていることは間違いない。

これは実際、経済的な自己利益の追求からアイデンティティを土台にした政治への移行なのでしょうか。

ええ、人には自分と同じような人に親近感を覚える傾向があるとわたしは思っています。一九五〇年代にスタンフォード大学でおこなわれた有名な研究のことを聞いたことがあるかもしれません。非常に均質な思春期の少年の集団ふたつを集めて、きみは赤チーム、きみは青チームとふたつのチーム に分けた。赤チームのほうには完全にでっち上げられた属性が与えられたのですが、実験の最後にはみんな相手チームと互いに殺し合おうとしていました。自分と同じような者に親近感を覚える傾向のためです。人種や民族である必要はありません。ほかと区別される特徴であればなんでもいいのです。多くの人がこの気持ちと闘おうとしていると思います。アメリカ政治における対立は多くが感情的なもので、それが経済的合理性を凌駕しています。人びとは選挙で自分たちの利益に反して投票しているのです。オバマケアは南部の農村で暮らす有権者の多くにとって非常に望ましいものだったのに、多くの人が共和党の政治家に投票しました。健康保険に入っていない人たちですら、オバマケアに反対票を投じたのです。理解に苦しみますが、アイデンティティが経済的な自己利益にまさるというのは、つまりそういうことです。


これも端的な話として共和党支持者たちは民主党支持者のひとたちが概ね全員嫌いで、嫌いであるがゆえに共和党候補者であるだけで投票してしまうような人たちがいる。これと同じように、日本では自民党支持者の人たちはおしなべて共産党や社会党の支持者が嫌いだ。ジェンダーとか男女平等という考え方も嫌いだし、半島や大陸の人たちを下に見たい。そうした自分たちの期待に応える自民党なら何をやってもどんな候補者でも投票するのだ。だから野党は選挙に負けてしまう訳だ。

北朝鮮の存在と時折発射してくるミサイルは自民党にとって追い風でしかない。おそらく北朝鮮でもそれを理解しているんじゃないだろうか。

国による歴史のちがいが、現在の自由民主主義諸国の働きに影響を与えています。ヨーロッパと比べてアメリカでは官僚機構がはるかに弱く、国家への信頼と社会的信頼が低かった。いま、この問題についてはどう説明しますか?

アメリカ人の国家不信はやや病的で、国民は身動きがとれない状態に閉じこめられています。国家を信用していないので、税金を払いたがらない。国家に権限を与えたくないから、国家は公的な医療を提供できない。国家が財やサービスを実際に提供できないと、国民は「ほら見ろ、国は無能だ。税金は払わないし、権限もこれ以上は与えないぞ」と言う。悪循環です。アメリカのほかに南アメリカ の多くの国もこの状態に陥っています。


正に日本も同じ轍を踏んでいると思います。自民党に投票している人たちの多くは何かのアイデンティティに囚われていて、自分たちが結果的に損をする選択を進めている自民党に一所懸命に応援している。部外者からは理不尽、矛盾しているとしか見えないような行為なのだけれども本人たちはどうしても対岸側の人間たちとは相いれない価値観が捨てられずにいる。

自民党はこうした矛盾を抱えた人たちをいうなれば利用している。これが最悪な手段だと思うのだが彼らの感情を支配して自分たちの都合のよいように扇動、誘導しているのだ。

また本書ではフクヤマがどんな場所で何を学んできたのが、学生時代の話に遡ったり、共和党政権下で政策立案に携わっていたころの話や、その後一緒に働いていた人たちとの関係、そして誰に投票しているのか、といった身近な話題にも触れられており、フクヤマの人柄がより立体的に多面的に理解できる内容になっているのも見逃せない読みどころとなっていました。

共和党、民主党の対立も深い分断を生んでいますが、一筋縄ではいかない複雑さを孕んでいるように、自民党政権と野党の対立も深く複雑な事情が絡んでいて簡単に解消したり迎合したりすることはどうやら難しいと思われる。
しかし、それにしてもトランプは酷い男で起訴されていますが、今度は有罪に持ち込むことができるのか。日本はマイナンバーで揺れていますが、果たして健康保険証の廃止を阻止できるのか、ジャニーズ事務所問題では事務所のみならずメディア企業も責任をとって自浄できるのか。どれも難しいように思われます。こうした低迷から日本もアメリカも抜け出すことができるのでしょうか。そして地球温暖化にブレーキが掛けられるのか。今の僕らの選択はこの先将来、百年、千年先の未来に大きく影響を与えるものになっていると思います。くだらないことにかかわってる時間はもうないですよ。

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日本の自然をいただきます──山菜・海藻をさがす旅
(Eating Wild Japan Tracking the Culture of Foraged Foods, with a Guide to Plants and Recipes)

ウィニフレッド・バード(Winifred Bird)

2023/07/30:山菜。僕は植物音痴なので採る方はさっぱりなんだけど、亡くなったおやじが山菜採りの名人級の人だったことから子供の頃からいろいろな山菜を食べてあのクセノのある美味しさに慣れ親しんできました。最近はスーパーでも養殖ものの山菜が並んでいることも多くなってきたけれども、やはり採れたての野生の山菜の美味しさにはかなわない。著者はどうした経緯か外国人なのに日本の山菜や海藻を採ったり食べたりするために日本中をずんずんと縦断していく。手にした途端著者のこの好奇心の赴くまま地元の人々の胸元に飛び込んでいく行動力に目が離せなくなりました。

第1章 道端の雑草、森の驚異「春の新緑」

第2章 生命の木「トチノミの盛衰」

第3章 饗宴と飢饉「ワラビの二面性」

第4章 世界でいちばん背の高い草「天然物でもあり栽培物でもあるタケノコの物語」

第5章 海の四季「海藻の消えゆく伝統」

最終章「天然食物と共に生きてきたアイヌ」

――各章末レシピ&「野草・海藻ガイド」付き

軽めな雰囲気で進んでいく本書だけれども、万葉集をはじめとする日本の歴史から植物の起源や栄養素に関する分野など幅広くカバーしている著者はとても博識で、彼女の旅はやがてかつて日本が大変な飢饉を幾度も経験し、凄惨な被害を出しながらも山菜などで食いつなぎ生き延びてきたという食文化史を明らかにしていく。

「宝の山」おやじは何度もつぶやいていたっけ。竹で編んだ大きな背負い籠いっぱいに山菜を採ってホクホク顔で帰ってきたなんてことは一度や二度ではなく、我が家の風物詩でした。玄関前を草葉や土でい散らかしてお袋に文句を言われてもニコニコしてたっけ。 ワラビ、ゼンマイ、アイコ、タラノメ、フキノトウ、フキ、シドケ・・・そしてナメコや舞茸、松茸。どれもとても美味しかった。 オヤジの本家は山間にあり家の裏山から隣の県の山形までの間はほとんど人が住んでないような場所でした。週末ともあれば本家に顔をだしつつも山に入って山菜採りをするのがおやじの楽しみのひとつだった。

僕も何度も連れられて山に登ったのだけど、どうしてもこの種類を同定するのが苦手でした。わかりやすいものももちろんあるんだけど、特にキノコは全然ダメだった。野生のナメコなんて大きさも色もばらばらだ。僕が指さすと半分は毒だったり食べられないやつだったりする感じで、おやじも親戚の叔父連中も「だめだこいつは」となり、挙句に花粉症が炸裂。居場所がバレてしまうことから誘われることもなくなってしまったのでした。

僕の代わりに一緒に山に通っていたのは我が家の飼い犬。とても長生きだったロンはミニコリーのくせに大柄でほとんど吠えず、リードも不要で呼べば戻ってくる賢いやつだった。朝の散歩では自分で柵を飛び越えてでてきて、輪っかにした綱に自分から頭を入れて道路を歩き、広瀬川の河川敷に着くやまたもや自分から綱を外して河川敷に駆け下りていきました。帰るときは呼べば戻ってきて綱に首を入れてくる。そんなロンはオヤジの山菜採りのパートナーとして欠かさず同行。何時間も山のなかを散策してきてはクタクタになって帰ってきていました。自由で深く愛されていたロンは幸せだったなー。

戦時中食べるものがなくて仕方なく陸軍飛行兵学校へ志願したというオヤジは本物の飢えというものを経験していたのだろう。生まれ育った土地の山で山菜やキノコを採り川で魚を獲って食べることを心から幸せだと思っていたに違いない。「宝の山」は単なる比喩でも誇張でもなくオヤジの目からはそう見えていたのであろう。思いがけずあれやこれや懐かしい思い出が蘇ってきました。

飢えから逃れるために灰汁を抜くなどどうにかして食べる方法を編み出して食べていた山菜が飽食の時代にはその希少性により高級食材として流通するようになってきた背景に踏み込み、アイヌでは採って食べる野草の見分け方や調理方法に関する知識が失われていくことへの危惧をうたう。

読み終えるのがもったいない。できればもっとたくさん書いて書いて欲しかったと思うようなすてきな本でした。

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正義の弧(Desert Star)
マイクル・コナリー(Michael Conneliy)

2023/07/22:出版前に気づいて予約注文し届くや否や爆速で読了しました。記録的な早さと面白さでありました。 シリーズ37作目。ボッシュ・レネイ・バラードコンビ、これはコンビと云うのかな。の第四作です。 しかしこれどこが面白いのか。どうして読む手が離せなくなってしまうのか。

こんな本をどうやってまとめればいいんだと考えてみると、手が止まる。どこの何を書いてもネタバレになってしまう。 仕込みが満載なんですよ。あの手この手の。夢中で読んでいると「仕込み」であることに振り回されるばかりでこれが「仕込み」だったのかと気づいている余裕すらありません。

どうにか記事にまとめようと改めて見直して考えてみるとそれらの仕込みが次から次へと伏線回収しつつまた仕込みまれていくことで物語がものすごい勢いで疾走しだし、僕ら読者は振り落とされないようにしがみ付いていく形になる訳だ。

ネタバレしない程度に書きますが。それでもこれから読む方はこの先は読まないでください。

物語は2022年。ちなみに邦訳が初めて原著の出版ペースに追いついたのことで古澤さん頑張りましたね。おめでとうございます。 レネイ・バラードはボッシュの自宅を訪ねる。一年ぶりぐらいだという。前作で未解決事件班へ復帰したレネイはボッシュにボランティアとして自分たちのチームで働かないかと申し入れる。ボッシュは過去の経緯からロス市警に戻ることは組織が許さないだろうと言うと、どうにかしてバラードは上層部を説得して外堀はすでに埋められているという。

ボッシュは未解決となった事件をいくつも引きずって生きている男であり、なかでもどうしても忘れられない事件のひとつは2013年に起こったギャラガ ー一家殺害事件というものがあった。犯人は幼い子供と夫婦四人を無慈悲に殺して砂漠に埋めた。真犯人と思われる人物に肉薄したものの行方をくらませてしまい、ボッシュは無念を果たせぬまま引退しのだった。

公務として事件捜査ができるとバラードは伝える。未解決事件捜査班は少ない予算、しかも予算そのものの一部は市会議員ジェイク・パールマンの寄付によって成り立っており、バラードは責任者だったが、部下は全員、予備警察官かボランティア、契約職員で構成されているチームなのだった。

市会議員のジェイク・パールマンは大学生であった1994年に当時16歳だった妹を自宅で強殺され事件が未解決のままになっているという過去があった。 パールマンは妹の未解決事件解決を進めるようバラードにプレッシャーをかけていた。そのためバラードはボッシュにこの事件の捜査にも参加してほしかったのだった。

バラードは相変わらずの無神経というか雑というか自分本位ぶりを要所、要所で発揮していくのだがボッシュは渋々それを受け入れ捜査に協力していく。それは事件解決に向けて前進していくことこそが本能・本望であるのと同時に自分自身の知見をすこしでも若手に授けたいと考えているということもある気がする。そして捜査班にボッシュが加わったことで長く未解決のままであった事件が動き出していく。 もう下巻は手を休める暇なんてありませんからね。

マイクル・コナリーはアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受賞したのだそうです。それはまた本当にめでたい。マイクル・コナリー正に巨匠と呼ぶにふさわしいと思います。

ボッシュは1950年生まれ。訳者の古澤さんは1958年生まれ、そして僕は1963年生まれ。第一作の「ナイトフォークス」は1992年。約32年間読み続けてきてカミさんや娘も一緒に読んでいるというかけがえのない宝物です。


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21 Lessons:21世紀の人類のための21の思考
(21 Lessons for the 21st Century)

ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)

2023/07/17:ユヴァル・ノア・ハラリ。「サピエンス全史」も「ホモ・デウス」も読んでない。ビル・ゲイツやザッカーバーグが絶賛しているのでなんとなく敬遠してしまった気がする。イスラエルの歴史学者だという点もなんだか迂闊に近づいてはならない気配を感じてしまったと思う。

しかし、今地球温暖化の気配がいよいよ本格的になってきているというのにロシアのウクライナ侵攻は終わる気配はなくこの対立をめぐって世界は右か左かのどちらかに分断してしまったかのようだ。日本はそのなかにあって平均年齢が世界最高齢となり少子高齢化のデッドエンドにさしかかりつつあるというのに、政府は海外に金をバラまき、マイナンバーだとか、インボイス制度だとか国民から金をむしり取る算段にばかり忙しいらしい。 先日のNHKの調査によると政党支持率は自民党が34.2%自民党以外の10の政党合わせて20.5%両方合わせて54.7%で支持政党がない、わからないと答えた人が45.4%なんだという。自民党以外の10の政党には維新やなんかも含まれていてどれも皆一桁台。政治に関心がない人がこんなに居るという問題とどうしてこんなに自民党に偏るのだろう。別なニュースではマイナンバーカードの発行枚数が人口の70%を超えているのだそうだ。 僕はすっかり自分の価値観とか物事の良しあしに関する自分の考え方に自信を失いそうだ。 そこで目に入ってきたのが本書だったという次第です。 21世紀の人類のための21の思考どんな話だろう。

国民投票や選挙は、人の合理性にまつわるものではなく、つねに感情にまつわるものだ。もし民主主義が合理的な意思決定に尽きるのなら、すべての人に同じ投票権を与える理由は断じてない。いや、投票権そのものを与える理由すらないかもしれない。他の人よりもはるかに博識で合理的な人がいることを示す証拠はたっぷりある。特定の経済問題や政治問題に関するときは、間違いなくそうだ。ブレグジットの投票の後、著名な生物学者のリチャード・ ドーキンスは、自分も含め、イギリスの国民に投票で意見を問うべきではなかったと、不満の意を表した。なぜなら一般大衆は、判断に必要とされる経済学と政治学の予備知識を欠いていたからだ。「アインシュタインが代数学的な処理をきちんとこなしていたかどうかな票を行なって決めたり、パイロットがどの滑走路に着陸するかを乗客に投票させたりするようなものだ」ところが是非はともかく、選挙や国民投票は、私たちがどう考えるかを問うものではない。どう感じるかを問うものなのだ。そして、こと感情となると、アインシュタイン やドーキンスでさえ、他の誰とも変わりはない。人間の感情は謎めいていて深遠な「自由意志」を反映しており、この「自由意志」が権限の究極の源泉であり、知能の高さは千差万別でもあらゆる人間は等しく自由であるという前提に、民主主義は立っている。


懸念していたような伺わしさは全く微塵もありませんでした。幅広く深い知識は偏りはなく、何より歴史を人類の枠組みを超えて遥かに長い宇宙の歴史のなかに置いてみるという遠大な視線から捉えているところにその聡明さが光っていると感じました。

目次
Ⅰ テクノロジー面の難題
1 幻滅―先送りにされた「歴史の終わり」
2 雇用―あなたが大人になったときには、仕事がないかもしれない
3 自由―ビッグデータがあなたを見守っている
4 平等―データを制する者が未来を制する

Ⅱ 政治面の難題
5 コミュニティ―人間には身体がある
6 文明―世界にはたった一つの文明しかない
7 ナショナリズム グローバルな問題はグローバルな答えを必要とする
8 7宗教―今や神は国家に仕える
9 移民―文化にも良し悪しがあるかもしれない

Ⅲ 絶望と希望
10 テロ―パニックを起こすな
11 戦争―人間の愚かさをけっして過小評価してはならない
12 謙虚さ―あなたは世界の中心ではない
13 神―神の名をみだりに唱えてはならない
14 世俗主義―自らの陰の面を認めよ

Ⅳ 真実
15 無知―あなたは自分で思っているほど多くを知らない
16 正義―私たちの正義感は時代後れかもしれない
17 ポスト・トゥルース―いつまでも消えないフェイクニュースもある
18 SF―未来は映画で目にするものとは違う

Ⅴ レジリエンス
19 教育―変化だけが唯一不変
20 意味―人生は物語ではない
21 瞑想―ひたすら観察せよ

本書ではアイデンティティによって個人の価値観や善悪といったもののが異なる結論を導き出しうるということ、自分では自由意志に基づき意思決定しているつもりでも集団社会のなかで植え付けられたアイデンティティによってバイアスがかけられてしまうこと。そして選挙、そしてそれを基礎とした民主主義政治は合理的な判断によるものではなく「感情」によって向きを変えられていることなどがとても分かりやすく滔滔と語られていました。

私たちは集団思考に頼っているからこそ、世界の主人になれたのであり、知識の錯覚のおかげで、すべてを自ら理解しようなどという達成不可能な努力にかまけて人生を送らずに済む。進化の視点に立つと、他者の知識を信頼するという方法は、ホモ・サピエンスにとってきわめて有効だった。とはいえ、昔は道理に適っていたものの、現代では厄介のもととなる、人間の他の多くの特性と同じで、知識の錯覚にも欠点がある。世の中はますます複雑になっているのに、人々は今起こっていることにいかに無知であるか、気づけていない。その結果、気象学や生物学についてろくな知識も持たない人が、平気で気候変動や遺伝子組み換え作物についての政策を提案したり、イラクやウクライナを地図で見つけられない人が、そうした国で何をするべきかに関して、恐ろしく強硬な意見を唱えたりする。人々が自分の無知を正しく認識することはめったにない。なぜなら人々は、同じ意見の友人や、自分の意見を裏づけるオンライン配信のニュースから成る殻に閉じこもっており、そこでは自分の信念が絶えず増幅され、正当性を問われることは稀だからだ。


僕らの取り巻く社会がどうしてこんなにも理不尽で理解不能なのか。という点について本書は一つの理解を与えてくれるものになっていると思います。 一方で岸田政権をこのまま暴走させててよいのか。ウクライナをはじめとする世界の紛争を減らし、地球温暖化に対する対策に最大限アクセルを踏むために何ができるのか。という点については何も解がない。

自分の頭に次に浮かんでくることについて、ともかく考えてほしい。それはどこから浮かんできたのか? あなたはそれを思い浮かべることを自由に選び、その後ようやく、それを思い浮かべたのか? 絶対違う。自己探究の過程は単純なことから始まり、しだいに難しくなっていく。最初、私たちは自分の外の世界を支配していないことに気づく。いつ雨が降るかを私は決めてはいない。それから、自分自身の体の中の出来事を支配していないことに気づく。私は自分の血圧を支配してはいない。次に、自分の脳さえ支配していないことを理解する。私はニューロンにいつ発火するかを命じてはいない。最終的に私たちは、自分の欲望、そうした欲望に対する反応さえも支配していないことに気づくべきだ。


意識や感情欲望ですら自由意志ではなくそれは単なる錯覚に過ぎないとする著者が向かうのは瞑想の世界でした。僕はこの後半の意味をくみ取れないまま今回の記事を締めさせていただきます。どなたか僕に読解を与えてくださいませ。


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