2004年度も第3四半期に入り、ページを改め身の引き締まる思いだ。真夏日が連続してひたすら長かった東京の夏、(いくらなんでも長すぎじゃバカぁ!!)もさすがに曲がり角を越え、秋の気配が近づく匂いが漂ってきた(どうだ、ざまみろ!)。しっかし、何年経っても慣れねぇぞ、東京の蒸し暑さって。即刻、夏は背広廃止にすべきだ。それに比べ、今週は涼しくって快適。うぉうりゃあ!!読書の秋はライト・スピードで飛ばしまくるぜぃ!って、あら独りよがりですね。


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ここでは2004.10〜2004.12に読んだ本をご紹介しています。



エクスプローリング・ザ・マトリックス
(EXPLORING THE MATRIX)」
カレン・ヘイバー(Karen Haber)

2004/12/25:待ちに待った「マトリックス・アルティメット・コレクション」の到着。
3部作を通して観てみられるこの幸せ。やはりこれは事件だ。仕事中もグリーンの文字に反応しちゃうよ。

改めてこの3部作を通しで観る前に本書を手にしてみた。18名からなるSF作家らの手による「マトリックス」の解説だ。出版は2003年だけど、内容は「マトリックス」のみを観た時点で書かれている。書き手は読み手が「リローデット」、「レボリューションズ」を観てから読んでいる可能性を視野に入れつつ書かなければならなかった訳だ。

続く第2部第3部の展開を知らずに書けというのは、しかもかなり名を成した作家にとっては随分酷な要求だったのではないだろうか。或いはとても勇気のいる行為だったというべきかも知れない。

第1部と初めて向き合った時、その示唆するもの、埋め込まれた引用を誰しも語り合っただろう。というか、この映画は観客に「そうしろ」と明確に要請している。そう探索(エクスプーリング)せよと。

何れにせよ我々はネオと共に「兎穴を降りて」いくしかないのだ。二重の意味が含まれている地底へと。

確かにそこかしこに埋め込まれた引用をエクスプローリングするのはこの映画を捉える上での一つの観かただろう。幾重にも重なる玉葱の皮。これが玉葱であるならば勿論これを喰わば何を喰うという、しみれば必然の行動。一方しかしこれ程までにあからさまな引用の多様から推測される事といえば、これは予測された行為、可能性の範囲である事も明らだ。そしてそこから導き出される意図は何か。有り得る可能性として、というより取りうる結論として、これは観客の目を欺くトラップでもあるという事だ。

引用のキーワードで、映画のなかを探索し続ける事、または抽出した引用をいつまでもあれこれいじくりまわしているだけでは、決してザイオンには到達しない。ザイオンとは、地底の底であり、結論であり結果。白い兎を追うのが少女のアリスではなく男性のネオである事に代表されるようにこの映画の支点は徹底した「引っくり返し」、「読み替え」そして「投影」にある。

ここで再び、これらの転倒したキーワードの列挙というトラップに陥る罠を飛び越えて、ここまで執拗に「投影」し「模倣」しようとしているのは何かという「意図」の本質へ意識を集中してみよう。

引用という手段は、神話、歴史、現実世界と結びつく事で、この「映画」を観るというヴァーチャルな行為自体も巻き込む構造を生み出す事に成功している。その点が第1部のアートであり全てなのだ。

マトリックスとザイオン、リアルとヴァーチャル、人間とプログラムの対立にというというコアな問題に、この引用され、裏返され、転倒した関係が、玉葱の皮の如くそれこそ何重にも積み重なっているのだ。

そして我々はこの「映画」を前にして何が投影され、何を示唆しようとしているのかについて考えるのだ。そして作り手はその思考を既に予測している。

この映画を批判する一つのパターンに、「決して目新しくはない」とするものがある。何処其処の誰某によるなんたらが原典だと続く訳だが、無論作り手がそれを知らずにいた訳があるはずもなく、ましてそれが「目新しいものだ」とは決して言う訳がないのだ。作り手は批判する者も含めて我々が「引用」や「原典」に言及する事を寧ろ要請しているのだから。

ではその意図は何なのだろうか。

マトリックス・サーガの全容を知った今、その世界観は現実世界との融合してきたと思う。家から一歩外へ出て仕事へ学校へ向かう為に電車に乗ることも、仕事をする事も勉強する事も。人と出会ってコミュニケーションをする事も食事をする料理やビールを味わう事も。。ましてゲームする事、コンピュータで何かをするにしても、インターネットにアクセスする事はマトリックスの模倣と考えることすら可能だ。

マトリックス・サーガで試みている作り手の意図はスミスが行ったように現実世界にリンクし進出し融合する事。そしてそれは映画の結末と重なりエンドレスな循環を生じさせることだったのではないかと思う。

この映画について肯定的であれ否定的であれこれ等の何かについて言及した時点でそれは全てマトリックスの世界にプラグインされ取り込まれていくのだ。ここに並ぶ18名のSF作家も、勿論プラグインされ、エクスプローリングされている事になる訳で、そう考えると、中で何を書いているのかという事自体より寧ろ、本書の企画自体の先見性にこそ素晴らしい閃きがあったといえないだろうか。

はじめに/パット・キャディガン
01・他の映画はみんな下剤(ブルー・ピル)だ/ブルース・スターリング
02・現実のマトリックス/スティーヴン・バクスター
03・『マトリックス』すなわち汝自身を知れ/ジョン・シャーリィ
04・芸術は日常を模倣する(そう、それはニュースなのだ)/ダレル・アンダースン
05・より良いまやかし(シミュラクラ)を造る:『マトリックス』における文学的影響/ポール・ディ・フィリポ
06・一生かかってもすべてはわからない:〈マトリックス〉の兎穴を降りて/キャサリン・アン・グーナン
07・『マトリックス』と『スター・メイカー』/マイク・レズニック
08・袁和平(ユエン・ウーピン)と飛ぶ技術/ウォルター・ジョン・ウィリアムス
09・メトロポリスのアリス、またはみんな鏡を使ってる/ディーン・モッター
10・まがいもの(シミュラクラ)としての『マトリックス』/イアン・ワトスン
11・サイファイとしての『マトリックス』/ジョー・ホールドマン
12・明日は違うかもしれない/デヴィッド・ブリン
13・ぐずの逆襲 第十部/アラン・ディーン・フォスター
14・電脳の眼に映るもの/カレン・ヘイバー
15・特異性マトリックスについての黙想/ジェイムズ・パトリック・ケリー
16・悪いのは『マトリックス』だ/ケヴィン・J・アンダースン
17・本物を夢見て/リック・ベリィ

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エクスプローリング・ザ・マトリックス(EXPLORING THE MATRIX)」






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象・滝への新しい小径
    THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈6〉

レイモンド カーヴァー
(Raymond Carver)

2004/12/23:昨年の健康診断で胃にポリープと腎のう胞がみつかり、経過観察という事で病院から出頭命令が出ていたのだが、躊躇していた。
そうこうしているうちに今年の健康診断でレントゲンで肺に「影がある疑い」があるという事で、いよいよ逃げ道がなくなってきた。

一昨年20年近く吸っていたマルボロをニコレットですっぱり辞めた。にも係わらず、「影がある疑い」だって。診察にいくのが益々気が重くなってしまった。

そんななか同じ会社の社員が亡くなった。肺がんから脳に転移していたという事だ。病状の判明から余の短い期間で亡くなられた事にご家族もさぞ愕かれた事でしょう。ご冥福を祈ります。

自分本位な話だが、自分の肺にある影が大きくなり、酷く落ち込んだ。しかし、かといって検査に出向く踏ん切りもつかない日々を過ごしていた訳だが、レイモンド・カーヴァーの「象・滝への新しい小径 (THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈6〉)」である。

遺作だという事は判っていた。遠い昔に彼の名を知った頃には既に亡くなっていた事も、勿論知っていた。しかし、その病気が亡くなった社員の方と同じ肺がんからがん細胞が脳に転移だったという事は知らなかった。

そしてチェーホフ。余命あとわずかと知ったカーヴァーは肺病で亡くなったチェーホフにインスパイヤーされ、創作活動に没頭していく。本書は告知を受けたカーヴァーが詩作に没頭した最期の日々に描かれた短編と詩を纏めたものなのだ。

最後の日々を共に過ごした詩人テス・ギャラガーと村上春樹が語る思い出の日々。自分の余命が小指の爪の先ほどである事を突きつけられつつも、前向きに旅行の計画を立て、一方で下準備に手間のかかる短編より、詩作に全力を傾けていったカーヴァーに涙。

チェーホフと、カーヴァーと、亡くなった知り合いと、そして僕。
これは何かの「啓示」だろうか。帰り道の通勤電車の中で、なにかこう魂の根幹をつかまれたような感じだった。

1988年に村上春樹の訳で出版された「夜になると鮭は…」ちょうど、ブローディガンの「アメリカの鱒釣り」後、鱒釣りという行為の特別さが理解できなかった僕が
明らかにタイトルの「鮭」引っかかった。釣り上げられたという方が正しいだろう。それも、もう15年近く前の話だ。

個人的内証的世界を乱すちょっとズレた人達の出会い、会話。何気ない、本来であれば何の因果関係もあるはずもないやりとり。突然闖入してくる掃除機のセールスマンとか、夜中に執拗に掛かってくる間違い電話というような事。こういった事が何故か自分でもわからないまま、内証的世界に影響を与え、選択、そして結果に変化を加えていく。そんなカーヴァーの世界が好きだ。

チェーホフの詩とコラボレートされた本書は「珠玉」という表現こそ相応しく、そう正しくグレイビィーだ。なによりここには、救いがあると思う。

そうそう、出頭命令の顛末だ。CTと超音波検査に加えて胃カメラを飲まされ、結果はすべて「白」。
今はまだ。カーヴァーは「黒」そしていつか僕もきっと。
でも僕はもう少なくとも一人ではない。

「ビギナーズ」のレビューはこちら>>


レイモンド・カーヴァー全集について Amazonで見る

レイモンド・カーヴァー全集-THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈8〉

英雄を謳うまい-THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈7〉

象・滝への新しい小径-THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈6〉
 ■引越し
 ■誰かは知らないが、このベッドに寝ていた人が
 ■親密さ
 ■メヌード
 ■象
 ■ブラックバード・パイ
 ■使い走り
 ■滝への新しい小径

水と水とが出会うところ/ウルトラマリン-THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈5〉

ファイアズ(炎)-THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈4〉
 ■エッセイ(父の肖像)
 ■書くことについて
 ■ファイアズ(炎)
 ■ジョン・ガードナー、教師としての作家
 ■詩(一杯やりながらドライブ
 ■幸運
 ■投げ売り
 ■君の犬が死ぬ
 ■君は恋を知らない
 ■朝に帝国を想う
 ■クラマス川近くで
 ■短篇(隔たり)
 ■嘘
 ■キャビン
 ■ハリーの死
 ■雉子
 ■みんなは何処に行ったのか?
 ■足もとに流れる深い川

大聖堂-THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈3〉
 ■羽根
 ■シェフの家
 ■保存されたもの
 ■コンパートメント
 ■ささやかだけれど、役に立つこと
 ■ビタミン
 ■注意深く
 ■ぼくが電話をかけている場所
 ■列車
 ■熱
 ■轡
 ■大聖堂〈カセドラル〉

愛について語るときに我々の語ること-THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈2〉
 ■ダンスしないか?
 ■ファインダー
 ■ミスター・コーヒーとミスター修理屋
 ■ガゼボ
 ■私にはどんな小さなものも見えた
 ■菓子袋
 ■風呂
 ■出かけるって女たちに言ってくるよ
 ■デニムのあとで
 ■足もとに流れる深い川
 ■私の父が死んだ三番めの原因
 ■深刻な話
 ■静けさ
 ■ある日常的力学
 ■何もかもが彼にくっついていた
 ■愛について語るときに我々の語ること
 ■もうひとつだけ

頼むから静かにしてくれ-THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈1〉
 ■でぶ
 ■隣人
 ■人の考えつくこと
 ■ダイエット騒動
 ■あなたお医者さま?
 ■父親
 ■サマー・スティールヘッド―夏にじます
 ■60エーカー
 ■アラスカに何があるというのか?
 ■ナイト・スクール
 ■収集
 ■サン・フランシスコで何をするの?
 ■学生の妻
 ■他人の身になってみること
 ■ジェリーとモリーとサム
 ■嘘つき
 ■鴨
 ■こういうのはどう?
 ■自転車と筋肉と煙草
 ■何か用かい?
 ■合図をしたら
 ■頼むから静かにしてくれ


「レイモンド・カーヴァー」のレビューはこちら>>


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シャッター・アイランド(Shutter Island)」
デニス・レヘイン (Dennis Lehane)


2004.12.02:本書の売り文句は「ミスティック・リバー」の映画化で一躍有名になったデニス・レヘインの拓く「新境地」というものだ。パトリック&アンジーそして忘れてならないブッパ・ロゴウスキーのシリーズを貪り食うのを楽しみにしている僕としては「ミスティック・リバー」よか、更に外れた所にあるらしいその「新境地」とやらは、はっきり言ってどうでも良かったのだが、デニス・ルヘインなのかデニス・レヘインが正しいのかそもそもカナ読みに「正しい」事なんてあんのか、折に触れ目に付くこの本をとにかく読んでしまってその先に進まないことには、収まりが悪くなってきちゃい読みました。

パトリック&アンジーのシリーズが段々と、御大ジャック・ヒギンズが回しまくっている所謂、ジャック・ヒギンズ節のコブシのような傾向を見せてきていて、ちょっと不安になり、「ミスティック・リバー」でどうもはっきり意識してコブシを回している様で尚更不安になった。そして、本書「シャッター・アイランド」だが、その点では新境地でも何でもなくて、ぐるぐる回しまくりだ。そのコブシだがヒギンズの戦争とかテロとか信条とか、男の意地とかからはずっと遠く、ガキの頃からの業を引きずって止むに止まれず振るう暴力、都会の、負け犬の、どうしようもない、行き場のない、でDVみたいなコブシだ。

小学校の同級生から何人も犯罪者、特に重罪犯が出る、しかも別々になんて、ボストンでは有り得るのか。繰り返し同じ町を舞台に暗い話を書いてて苦情がこないのだろうか。

これも近々映画化されるそうだ。確かに良く出来た話ではある、ネタバレになるので余多くは語れないが、本書はネルソン・デミルの「プラム・アイランド」風であり、アンドリュー クラヴァンの「秘密の友人」路線だ。しかしあの時代でしか成立しずらいストーリの前提と、そこまで手が込んだことすんのか普通。という点を含めて考えると、何故今自分はこの本を読まされているのかという、素朴な疑問を持たざるを得ない。もっと違う「新境地」の開拓が是非必要だと思う。頑張れデニス・ラヘイン。

「ムーンライト・マイル」のレビューはこちら>>

Amazonでデニス・レヘインの著書を見る

ミスティック・リバー」(Mystic River 2001)
シャッター・アイランド」(Shutter Island 2003)
Patrick Kenzie and Angela Gennaro
雨に祈りを」(Prayers for Rain 1999)
愛しき者はすべて去りゆく」(Gone, Baby, Gone 1998)
穢れしものに祝福を」(Sacred 1997)
闇よ、我が手を取りたまえ」(Darkness, Take My Hand 1996)
スコッチに涙を託して」(A Drink before the War 1994)

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アバラット (2) Abarat2」
クライヴ バーカー
(Clive Barker)

2004/12/12:クライブ・バーカーの名前を以前から知っている方はどんな作品を思い浮かべるだろう。「ミッドナイト・ミートトレイン」?「ヘル・レイザー」?仮に「不滅の愛」を知っていたとしてもディズニー?「何かの冗談だろ」という反応が普通じゃないだろうか。アバラット

スプラッターホラーの旗手だった作家だよ。それが「ウィーヴワールド」でダークファンタジーの世界に手を染め、「不滅の愛」が好評を持って受け入れられた。今では完全に軸足を移した形だ。この「アバラット」は、映画化されるという、しかもディズニーで。

夫婦の間ではクライブ・バーカーといえば「不滅の愛」であり、「不滅の愛」といえばサルのラウルなのだ。当然、奥さんからの質問は「「不滅の愛」に比べてどうなのよ」になる訳だが、まだ完結してもいず、上記のような経過で「どう?」って言われてもね〜。評価保留じゃ。第三弾がでたらどうするって?「勿論買います。」

本書はどうやら4部作になるらしい「アバラット」の第二弾だ。「アバラット」は「指輪物語」や「ナルニア国物語」の流れを汲む正統的なファンタジー。第一部では、登場人物と背景の一部がようやく把握でき、物語が動き始めた所で終っている。本書ではその大勢の登場人物が錯綜し、島々、アバラットばかりか、こちら側の世界にもと縦横無尽に動き出した。ネタバレになるので多くは語れないが、登場人物たちは大きな事件に巻き込まれていくものの、アバラットの世界観にはまだまだ奥がありそうだし、この物語の全体的な方向性もまだよくわからない。アバラット2

プロモーションサイトも充実、盛り上がりを図っている。未読の方は雰囲気を楽しむためにも是非どうぞ、またそこでは、クライヴ バーカーが本書でも使われることになる書き溜めた絵を元に映画会社へプロモーションをかけた時、業界のトップが自ら自宅へその絵を見にやってきた時のお話が読める。それには入り口から入ってきた瞬間から彼らの背後にはオーラのようなものが発せられていたというのだ。あたかも、別世界の人間が表れたかのような感じだ。いやいや彼らは確かに別世界の人間なのだ。

ナルニア国もディズニーが映画化しているそうで映画ファンとしては楽しみ。そしてそれをディズニーランドにどんな新しいアトラクションにしようというのか、これもなかなかな興味がある話だしかし、東京ディズニーランド単なるお隣さんだったのが、新浦安はだんだん異界にとりかこまれつつあるようにも見えいつかそのうち「チキンタウン」とか、名前を変える必要が出てきそうだ。そしてその町では深夜に二つの町は融合し、コンビニでミッキーが買い物、ウサギがスクーターで移動し、ゲシュラットが川を泳ぎまわるのだ。

何より気がかりなのは、アート三部作と云われた「不滅の愛」はその第二部”Everville”が日本語訳未出版、第三部は未執筆。「アバラット」が無事完結できるのかどうかという事だ。

ソニー・マガジンズのプロモーションサイトはこちらから

クライブ・バーカーのオフィシャルサイトはこちらから

Amazonでクライブ・バーカーの著書を見る

アバラット (2)
冷たい心の谷〈下〉
冷たい心の谷〈上〉
アバラット
クライヴ・バーカーのホラー大全
イマジカ〈4〉
イマジカ〈3〉
イマジカ〈2〉
イマジカ〈1〉
不滅の愛〈下〉
不滅の愛〈上〉
ウィーヴワールド〈下〉
ウィーヴワールド〈上〉
ダムネーション・ゲーム〈下〉
ダムネーション・ゲーム〈上〉
死都伝説」 
ヘルバウンド・ハート」 
魔道士
ラスト・ショウ」 
マドンナ
ゴースト・モーテル」 
ジャクリーン・エス
ミッドナイト・ミートトレイン」 

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「イリュージョン
(ILLUSIONS)」
リチャード・バック(Richard Bach)


2004.11.21:ふと思い出して本棚の奥から取り出して読んだリチャード・バックの「イリュージョン」。本は何遍も読んだのでぼろぼろになってきたけど、真実はやはり色褪せないものだ。本書を紹介するページを作ってみました。こちらからどうぞ

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動物の発育と進化―時間がつくる生命の形
(Shapes of Time: Evolution of Growth and Development)」
ケネス・J. マクナマラ (Kenneth J. McNamara)


2004.12.05:進化論ものは下調べに時間が掛かってしまって、すごく大変だ。判っているのに手を出しちゃうのは好きだからなのでしょうがない訳だが。しかし何となく大体は解っているつもりの「進化」や「進化論」の概念だけど、いざいろいろ調べて詳細に入って行くにしたがって、段々輪郭がぼやけて来て、概要に戻るとまた詳細がつかめなくなる。
こっちの能力に問題があるのは勿論だけど、輪をかけているのが、進化生物学者達の立場がそれぞれかなり食い違っており、それぞれの信念に基づいていろんなことを言っているからだろう。

「進化(evolution)」という言葉を生物学的に用いたのはアルブレヒト・フォン・ハラー(Albrecht von Haller(1708−1777))というスイスの植物学者だ。1744年に発表された論文の中で、個体が発育する間におこる諸変化を指す言葉として使われた。

しかしその後1852年にハーバート・スペンサーがエッセイ「発育の仮説」のなかで、この「進化(evolution)」を「ある種が別の種へ変質する間におこる諸変化」へと概念を拡大すると共に「前進」する変化と結びつけた。この為、本来の発育発生の意味合いが薄れ、「進化(evolution)」は「変移(transmutation)」と同義的になりまた「進歩」する事であり、より善くなる事であると捉えられるようになってしまった。

20世紀に入ってからは遺伝学の興隆により、「進化(evolution)」はある個体群のなかに起こる遺伝的変化をも包み込むようになった。

1859年11月24日に出版されたダーウィンの『種の起源』では、「進化(evolution)」ではなく、「変化を伴う由来(Descent with modification)」という表現を使っている。それはつまり、「自然選択、生存競争、適者生存などの要因によって、常に環境に適応するように種が分岐し、多様な種が生じる」事である。ここには前進するとか、進歩といった考え方とは全く逆の発想がある。

結果的に、その場その場で、都合のよいなにものかの特質を持つものが生き残るという結果論的、確率論的帰結だ。

我々種は元々ある程度の幅をもった子孫を生み出す力というか、アバウトさを持っている。背が大きかったり、力が強かったり、暑さに強かったり、表情が豊だったり、発想が柔軟だったり、その幅とバリエーションには、神々しいものがあると思う。しかもこの強みや弱みは相手の戦略によって、常に変更を要請されるものだ。

そしてその幅の中で、より多く子孫を残す事ができる遺伝子は広く受け継がれその形質をより強く持つ子孫が徐々に増えてくるという寸法だ。こうした事が何千年、何万年も繰り返される事で、何時しか種が分岐してきた。これが現在の生物界の多様性を司っている大いなる力だと考えられている。

現在の進化生物学は大きく「総合説」と「中立進化説」に分かれている。「総合説」は「総合学説」とか「ネオダーウィニズム」とかと呼ばれている。ごく簡単に言えば『遺伝+自然淘汰=進化』だ。これはダーウィンの「進化論」に集団遺伝学、系統分類学、古生物学、生物地理学、生態学等を取り入れ生物の形質の進化を説明しようというものでジョン・ホーガンによれば「何でも飲み込んじゃう」学説になってきている。

「中立進化説」は1968年木村資生によって提唱されたもので、変異は遺伝的浮動によって偶然広まっていくものであり有利不利は結果的に生き延びたものの遺伝子が子孫に蓄積されるものだとする考えだ。「総合説」に「中立進化説」を含めて捉えている人もおり、この辺りになってくると段々訳がわかんなくなってくるのだ。

動植物のサイズと形の変化は自然淘汰以外にどんな要因があるのだろう。総合学説が進化を『遺伝+自然淘汰=進化』として捉えるのであれば遺伝的変化が形態的変化を引き起こす事に他ならなくなる訳だが、『遺伝的変化=形態的変化』では飛躍があり、ここにミッシングリンクがあるとする。本書はこの形態的変化の要因に「ヘテロクロニー(異時性)」があるとしている。

ヘテロクロニーはエルンスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Haeckel(1834−1919))が初めて唱えた概念だ。ヘテロクロニーとは、動植物は誕生の瞬間から成熟するまでの過程で、細胞の増殖や分化、部位の発生等の組成過程が規則正しく進行するタイムテーブルを持っているが、これが何らかの要因で修正される事で、他の個体と違ったプロポーションになったり、幼児性を残したまま成体になる等のタイミングの変化を指すものだ。

このタイムテーブルの変化が子孫に伝えられて定着する。だんだん大きくなっていき最終的には交配が不能なほどの違いに発展し、種として分離されるというものだ。本書はこの概念を詳細に渡って説明し、更にはこの概念で様々な動植物の形質の違いを浮き彫りにしていく。

本書ではアラン・ムアヘッドの記述に対して「環境が動植物の形態をともかく精巧に造り上げるのだという事をほのめかす、多くの生物学者の潜在意識的な努力を曝け出すものだ」とはっきり糾弾している。著者のスタンスは、より有利に、合理的に進歩する尚かつ、暗には前進的に進化するものではなく環境と個々の変動との間でたまたま、他よりもより上首尾だったものが子孫へ伝播し、その変化の積み重ねが「進化」となって見えるという本来ダーウィンが唱えていた「進化論」に立脚している事も申し添えよう。

変異は必ずしもどちらか一方ではなく、喰われる物も喰う物も互いに影響を与え合いながら進化してきた生命の進化の歴史の実態に迫るものだ。

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動物の発育と進化―時間がつくる生命の形(Shapes of Time: Evolution of Growth and Development)」

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人はなぜ悪をなすのか
(THE EVIL THAT MEN DO)」
        ブライアン マスターズ( Brian Masters)

2004.11.23:不正行為、泥棒、詐欺、誘拐、殺人、そして戦争。こういった事件が新聞に載らない日はない。本書は、大抵の人が驚きを禁じえないような邪悪で破壊的な悪が何故行われるのかという疑問からアプローチしていく。

その邪悪で破壊的な行為、「連続殺人」等のニュースは人に目を逸らさせないものがある。犯人が逮捕されて事件の概要が明らかになっても、尚、その情動、動機、目的等埋められない欠落した文脈が残る。我々はそうしたニュースに触れるとき、無意識のうちにその欠けた文脈を読み取ろうとするのではないだろうか。

こうした行為に走る人間の形をしたなにものかの、道徳性の欠如による深い穴、自分達の心の底にも潜んでいるかもしれない獣性を読み取ろうとしているのではないだろうかと思う。そして問うのだ。人間は生まれながらにして悪なのかと。

コールバーグは「道徳性発達段階」として次のように表した。

第0段階「欲求希求志向」−−自己の欲求や願望が満たされた状態を善とする

第1段階「罰回避と従順志向」−−罰を恐れて行動を回避する

第2段階「道具的互恵、快楽主義」−−相互関係を認識する

第3段階「他者への同調、よい子志向」−−社会的承認を得られそうな行動を選択する

第4段階「法と秩序の維持」−−社会に対する自分の義務をあらわす行動をとる

第5段階「社会契約、法律の尊重、及び個人の権利志向」−−個人の都合よりも社会の要求に優位を置く

第6段階「良心または普遍的、原理的原則への志向」−−良心の要求と倫理的選択を最優位に置く

第6段階目にまで進んでいるのは僅か人類のたった6%にすぎないそうだ。動物が捕食したり無慈悲に共食いをしたりする事を普通、悪をなしているとは言わない。動物社会においても、利他的行動を取る例は案外沢山知られているのだ。

一方幼い子供が小動物を虐待したりする事は、道徳性の未熟さ故とされ、こうした行為で発現する攻撃性は本来の人間の姿だと捉えられる。

道徳的に未成熟な状態は悪なのだろうか。
道徳的に未成熟であるが故に、人間に本来備わっている攻撃性が表面化するのだろうか

アンソニー・ストーは「人間の攻撃心」のなかで、自らの心に潜む攻撃性や残虐性を直視する事の大切さ強調すると共に、「攻撃性(アグレッシブ)は大望や進取の気鋭の源、環境の克服の源、個々の人間の存続がかかっているあの独立心の源、リーダーシップの源、平和的な競争の源、芸術的創造の源、さらには愛の源ですらある。」この攻撃性が人間にとって絶対欠かすことのできない、人間行動の基礎をなすものであると唱えた。

それでは「悪」とはどういったものを指すのだろうか。
はたまた「善」とはどういったものなのだろうか

倫理は、知性と衝動の間の力の均衡を保つことなのだろうか。しかしこの考えの底辺には宿命論的人間の悪、人間は生まれながらにして悪であるとする考えがある。これはキリスト教の原罪説と強力に結びついている。原罪説では、アダムやイブが犯したとされる罪の為に聖性を喪失し、肉体と霊魂の死をもたらされる生れながらの罪人であるとする考えだ。

故に厳しく律し戒めを与えなければならないと捉える。本書ではこの考えが非合理的な考えであり、現代社会に大きく影を落としていると語る。

邪悪で破壊的な行動を取る者たちのなかには「心神喪失」状態だったとされるものも多い。明らかに自覚能力もない状態でおぞましい行動に走ってしまうケースでは、この「悪」をなすもの、意識だろうか、衝動だろうか、それとも他のなにかなのか、はどこからやってくるものだと云うのだろうか。

非情に稀な例ではあるが、現代でも悪魔つき(ポゼッション)としか言い様のないような事件が起こる事がある。映画「エクソシスト」は1945年に起きた“メリーランドの悪魔つき事件”として知られる実話に基づいている。1976年4月ドイツでアンナリーゼ・ミヒェルの身に起こった事件はかなり恐い。本人が知るはずがないのに、実在するラテン古語の真性異言現象(ゼノラリア)を伴う異様で、凄まじいものだったようだ。

連続殺人犯のなかにも、本人の意思に反して、こうしたおぞましい行為を強いるある「もの」の存在を主張するもの達もいる。こうした事件は本当に「悪魔」の存在を裏付けるものなのだろうか。だとすると「悪」は「悪魔」の仕業であって、行為者は、むしろ被害者、犠牲者なのだろうか。

これとは反対にローマ・カトリック教会に名を連ねる聖人達のなかには明らかに人格障害を持ち、自らの心身に害を成す事で認められた者が含まれている。仏教の即身仏にも同じ事が言える。

こうした考え方には、神が万人の贖罪の為に、生贄を要求したり、血を流す事を求めると考える姿勢が覗われる訳だが、外部の人間にとっては合理的なものには写らないばかりか、これでは神も悪魔も人間に対して同質の苦痛と死を求める存在になってしまっているとも見ることが出来る。

しかし徹底した破壊的行為も、集団で行われる「大量虐殺(ジェノサイド)」の前では、その邪悪さは霞み、なりを潜めるだろう。かのナチスのアイヒマンは、こうした行為が帝国の繁栄の為に必要な行為であり、それこそ本気で正しい行いをしていたと信じていたとされている。

中世の十字軍をはじめ、インカ帝国への侵攻にせよ、異端者を人間とも思わぬ無慈悲で残虐な行為はそれこそ、有史以来枚挙に暇がない。

9.11事件のテロリスト達も、恐らく犯人個人としては、信仰するイスラムの神のもとで正しい事を行うと信じていたのだろう。信仰する神の為に行われるこうした「大量虐殺」は「善行」として赦され、殺した人間の魂も救われたと本気で信じている。これらは言わば意図しない行為によってもたらされる「悪」であり、この意図しない「悪」こそ最大の「悪」だという訳だ。

これは「悪」の解体だ。何故悪をなすのかという問いもここでは意味を成さない。これが、本書の中核を成す部分だ。ここで提示される問題は実は「人間」とは、なのである。そしてどうすれば「悪」なす事から逃れることができるのか。

少し長くなるが著者の文章を引用してみよう。

「考えるという事は、いつの時代においても努力と勇気を必要としてきたものである。努力を必要とするというのは、考えるということは、定説を安易に受け入れたり他人のくだした決定に安易に従うことを拒否するものだからである。また勇気が必要だというのは、考えることによってさらけだされる空虚さはわびしい物であり、また一方、考えることによって負わされる責任は耐え難いほど重いものだからである。」

「人間は自身の孤独や不測の不可避性におびえているものであり、安定と平安の為にも道徳的規範を求める飢餓感は古くからあるものだ。自らの責任において善を求める旅に疲れ果てるより、規範を押しつけられる事を願うわれわれは自分自身を信用しておらず、自分の好きなように行動させられた時に善良でいられるかどうか、確信がもてない。道徳的規範という拠り所のない空虚さに人間は震え上がってしまう。」

「しかし、英知と善の発見への出発点はここにある。我々に出来ることは自分の責任で可能な限り十分に考えること、思考が決然とした道連れとなり、自分の殻の外に出て利己心や自己れんぴん、或いは恐怖を捨て去る手立てとなるこれが正しい行いへと向かう道である。」

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人はなぜ悪をなすのか
死体と暮らすひとりの部屋―ある連続殺人者の深層
ジェフリー・ダーマー―死体しか愛せなかった男

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考える力をつけるための「読む」技術―情報の解読と解釈
妹尾堅一郎

2004.11.20:「読む技術」。これは文章を読んで、その意味を理解する。一言でいえばそれだけの話だが、文章のポイントを押さえる。暗に書き手が言いたかった事、何故書いたのか等の背景を理解する。読んだ相手に期待されるメッセージは何なのか、「読む」技術とは単に技巧的なではなく、前提となる知、時代背景、そして更には理性とか心理、それこそつたない自分の全知を傾けて行う行為を指すものだ。

これを「リテラシー」としよう。この力が低いと、書き手の意図を酌めるぺくもなく、解ったつもりで頓珍漢な行動に走ってしまうなんて事、誰しも思い当たる話ではないだろうか。現代人はこのリテラシーが低下していきていると、筆者は警鐘を鳴らしている。そして無視できない事実として。我々のような中高年齢に達した人間は特に、鍛錬を怠れば昨日の自分より確実に劣るのだ。

プロローグ・・読めなくては始まらない
1章「情報」を読む・・データを解読し、解釈せよ
 1 解読と解釈
 2 ルールを見つける:情報の解読
 3 意味づける:情報の解釈
2章「図・表」を読む・・「分かったつもり」の罠にはまるな
 1 図・表の種類
 2 図・表に共通する特徴
 3 図・表を読むコツ
3章「統計」を読む・・データの向こう側にリアリティを見よ
  1 統計資料の基礎知識
  2 統計資料をどう読むか
  3 統計資料をめぐる新たな動向
4章「新聞」を読む・・一望で世の中の動きをつかめ
  1 新聞の特徴
  2 新聞で知っておくこと」における記事の読み込み
  3 新聞広告を読む
  4 客観報道はない:新聞を読むときの注意点
  5 記事を集めて編集的に読む
5章「専門分野」の本を読む・・仕事に役立つ「知的栄養」を吸収せよ
  1 専門分野の本
  2 教材を読む
  3 教材の活用法
  4 読み方の工夫
6章「百科事典」を読む・・定説・通説から概要を押さえよ
  1 百科事典の基礎知識
  2 百科事典の七つの特徴
  3 百科事典を百科事典らしく読む
  4 百科事典をどう役立たせるか
7章「年表」を読む・・時間軸に沿って関係づけよ
  1 <年表を読む方法1>既存の年表を読む
  2 <年表を読む方法2>年表を使って状況を読む
  3 年表と照らし合わせて読む
8章「ウェッブサイト」を読む・・読む前に選べ
  1 読む前に調べる
  2 ウェッブサイトの世界
9章「学問と理論」を読む・・体系的に理解する力をつけよ
  1 学問を読む
  2 理論を読む
  3 「モデル」を読む

この本は、そんな、ほって置けば低下の一途を辿るリテラシーの重要さを説くと共に、読む対象となるメディアに応じた読み方を知らしめてくれる。しかし所謂ノウハウ本ではない。読む技術を体系だって解説するのが目的だ。だからこれを読んで著しく「リテラシー」が向上する訳ではなく、それはあくまで日々の精進しかない。

約10年前、転勤で首都圏に引っ越してきた頃、通勤電車で大勢の人が本を読んでいると感心したものだった。しかしそれがすごく減ったとはっきり感じる。最近の電車では専らみんな携帯でメールしている感じだ。

他人の勝手だが。家を出たとたんに一体誰とメールしてんのか。いい年した「おやじ」までメールをしている。なんか違和感ありだ。

しかしメールだって文字だし、本としての読書量は減っても、Webだなんだと、文字を読む量は一方全体的に増えているのではないかとも思う。個人的にはテレビを殆んど見なくなった。ニュースも新聞やテレビよりWeb中心だ。これは僕が変わり者だからかな?

とすると最初に戻って「リテラシー」の低下は、一体何によって進行してきているのだろうか。低下しているのは「リテラシー」能力なのか「コミュニケーション」能力なのか
ここは今後真剣に考える必要がある領域だと思う。

僕個人はこのウェブサイトの記事更新−−なんとか乗り越えている状態に過ぎないので、威張れる話ではないが-−この記事を作る行為が自分の「リテラシー」の向上に良い影響を与えている思う。

従来のように単に次から次へと読み耽っているのと違い、人に読まれる事を前提にきちんと読んで理解して文章に纏める作業を強いられるからだ。こんなサイト程度でもでもかなり忙しいんだよ。

僕の読書時間の殆んどは通勤時間だ。行き帰りで約1時間半程度の孤独。この読書と平行して二つの作業を行っている。その一つがメモ作りと調査だ。メモ作りは本の中に出て来た不明点やポイントを、パソコンにガシガシと入力していく。

それはキーワード、ポイントを拾って転記しながら再読していく感じだ。そして調査、これはこのメモに基づく調査作業だ。Webを中心にした調査になる訳だが、ヒットしたサイトの作り手、主旨、書かれた時期等を睨みつつ、有用と思われる情報を切り出して補助資料として纏めていく。当然これも読む。本書ではこういった行為を「探索」と呼んでいる。これは大体平日の深夜の作業だ。

そしてもう一つの作業が原稿作成作業だ。メモ作りと調査作業で具体的になって来た本の概要、僕個人の感情、その上澄みをすくって原稿を書き始める感じだ。そうしてようやく纏めた文章をアップしているんですよ。こっちは大抵休日の朝が多いかな。これで一冊の本のレビューが完了。

だいたい一冊を読んで原稿作成まで約2週間かかっているようだ。なので同時進行的作業になるのは避けがたい。因みに今このレビュー原稿を仕上げながら、「人間は如何にして悪をなすのか」のキーワード、ポイント抽出を実施。そして通勤電車では「動物の発育と進化」という本を読んでいるといった具合だ。

直下のレビュー、「フォーカル・ポイント」に基づき自分のやっている事を考えると、僕は生涯学び続けたいと心から思っている。もっと世の中の事を理解したい、知りたい。好奇心を持ち続け、知に対して、貪欲で、努力家でありたい。そして何より自分の子供たちにそんな「おやじ」の背中を見せておきたいと思うのだ。いつかここを読んでくれる日が来る為にも、笑われないものを書きたいと思うのだ。何をするにしてもしっかりした動機を持つ事が何よりだという事ですかね。

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フォーカル・ポイント
―仕事の「その一点」に気づく人、気づかない人
(focal point)」
ブライアン・トレーシー
(Brian Tracy)

2004.11.11:気分転換に手にしてみた本書、実はもう少し違った内容のの本と勘違いしてました。サブタイトルの「その一点」の一言に魅かれて手にしましたが実は全く基本的なこの自己啓発ものでした。おぉっと、やや否定的な幕開けになってしまったが制約理論等最新の発想も押さえつつ、コンパクトに纏まった人生における焦点の絞り方、良く纏まった本である事は間違いない。

そして本書は読者に真っ向から「あなたは何者でありたいか?」という問いを突きつけてくる。しかもそれは中途半端な抽象的なものではなく、より具体性を伴った回答を要求するものだ。

今あなたはどんな人物でありたいか
周りからどんな人だという評価を受けたいか
そして5年後どんな人物になっていたいか
どの位お金を持っていて、どんな家に住み、どんな生活を送っていたいか

先程の問題の「その一点」だが、これは「ビジョン」。この自分なりの価値観、つまりビジョンに気付き、これをしてFOCAL POINTと呼んでいた訳ね。

この明確なビジョンに向かって、ちゃんと努力するかどうか。要は向こう5年後の自分がどうなっていたいか、きちんとビジョンを定め、それを達成させる為の手段に集中していく事。

本書はこれらの計画の立て方から、持続させるための工夫など、等身大な視線でとっつきやすく解説していく。しかし言えば簡単な話だが、これを実践する事は並大抵ではないし、本書を読んだだけでは何がどうなるという訳ではない。

一方これを実践して行く事が出来れば、つまり、この教義を信じ、その目標の立て方が妥当で、無駄な行為を綺麗に捨て去る事が出来、その毎日の実践が的外れでなく、且つ、勤勉にこの目標達生の為の課題を消化して行く事ができれば5年後にはその目標に対して今より必ず近づいている。という事だ。

確かにこういった事を長期間維持できる根気というか目的意識があれば、其れなりの事を達成する事ができるだろうな。一方逆読みすると、取り立てて何の目的意識も持たず漫然と生活し、痩せたいと思っていながら、ややもすると暴飲暴食し、体重増加してしまうような生活を5年も続けるとどうなるのか。想像せよ。という訳だ。

しかし、そもそも目的意識の無い人に何が達成できたかを質問する事等は、全くの愚問である訳で、それに対してこっちはちゃんと進んだ、とするにしても、その目的が個人的なものである以上、自己満足と言われても仕方の無い、或いは第三者にとっては逆行して見える事も、これ進歩という。前提があるという事だね。

他人にとって無価値であるかどうかは、この際関係ないとする事は、利己的であるばかりでなく個人主義的な匂いもしないではないが、自分の好きな事、大切な目標に向かってストイックに努力する事自体が否定される事はないだろう。

で、いろいろ書き立ててしまったが、心に滲みた一言をご紹介して筆を置こう。「他の何かのせいにしてしまうと自己改善は停止する」

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フォーカル・ポイント―仕事の「その一点」に気づく人、気づかない人(focal point)」

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パイの物語 (Life of Pi)」
ヤン マーテル
(Yann Martel)

2004.11.07:動物園を経営していたインド人の家族がカナダへ移民する為、動物と共に日本の貨物船ツシマ丸に乗り込んだ。しかしある夜船は沈没、少年パイ・ピシン・パテルはただ一人奇跡的に救命ボートに救われる。

しかしそのボートにはもう一つの生き物が乗り合わせてしまった、リチャード・パーカーと云うベンガル虎だ。前門の海、後門の虎という危機的状態のまま長い漂流生活を強いられる。
どこまでも広がる蒼い海と空、潮に焼かれた白いボート、そして中にはインド人の少年とオレンジと黒の毛並みのベンガル虎といううなんとも美しい色彩豊なシーンだ。大振りの本に、大きめの文字、時としてユーモラスでさえある漂流譚、そして絵の様に美しいシーン。しかしそれらとは裏腹に実際の写実は現実的、且つ時として残酷、とてもシュールだ。手強い本である。

さてこの本の読み所だが、先ずは売れない作家が食い繋ぐために放浪したインドで出会った老人から「神に遇える話」として聞き出し、生還し大人になったパイのところへインタビューをし、本書を書いたという構造だろう。

これによって読者はパイが無事生還した事を早い段階で知りつつも「どうやって?」「神に遇える?」「どんな結末に?」という様々な疑問を逆説的に抱え込んでしまう。

物語はパイのインドでの複数の宗教を受け入れ実践する生活、博識ともいえる動物園で学んだ動物の生態が第一部で語られ、中盤での驚異の漂流物語、終盤では生還したパイと日本の役人とのやりとりを録音したものの引用とパイのカナダでの生活が語られる。

急展開して行き来する現実と虚構、多彩な文学的技巧には、読ませる力が強く、少年と虎の漂流というシンプルな設定の中盤も決してダレる事もなく進んでいく。

しかしこれを寓話とするのであれば、その揶揄するところは何なのか。また本書の愕くべき結末は、結局何に着地したのか。
本書は2002年度のブッカー賞を受賞した。ヤン・マーテルは僕と同い年の1963年スペイン生まれ。ラテンアメリカ文学で文学的表現として認知されるようになったマジック・リアリズムの一つと捉えるべき作品なんだそうだ。

マジック・リアリズム?元々は本物のようだがあり得ない状態を描いた絵に名付けられたもののようで、絵なら写実的とかある程度は判るが、文学に同様の概念がきっちり根ざすのだろうか?本当のような嘘。文学って押並べて全て皆そんなだと思ってましたが。
作品を越えた現実の世界でも疑問符が沢山浮かぶ紛れも無いマジックな本って事?

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リチャード・ブローティガン
藤本 和子

2004.11.06:本書は「アメリカの鱒釣り」等ブローティガンの作品の多くを翻訳したばかりでなく、実際に友人として交流があった藤本和子氏の手によるブローティガン文学論との思い出。僕にとって「アメリカの鱒釣り」等のあとがきは、本文を理解する上で欠かせないものだった。何の解説もなしにトラックドライバーのモウビ・ディックを「白鯨」と結び付けて読む事できる程の力はなく、藤本和子さんのお蔭でブローティガンを味わう事ができたと思っている。

更にそのあとがきは、作品の解説を越え、ブローティガン本人の人柄に個人的なレベルで触れ合い、大変クールな生き方をされている(勝手に想像しているが)藤本和子さんご本人の心へも近づく事ができる素晴らしい内容になっている。

その時から藤本和子さんってどんな人だろうとずっと気になっていた。

本書ではあの「あとがき」で出会った頃と変わらぬ語り口で、ブローティガン文学論を再び。イサーク・バーベリ、長谷川四郎、とてもじゃないけど歯が立たない博識で改めて僕を敬服させてくれる。

ブローティガンと偶然出会った1970年代。そして遺子アイアンシ(Ianthe Brautigan)を訪ね父リチャードの思い出を語り合う。クールで明晰な知性が滲むインタビューだ。

そして友人であった彼女ならではの日本での思い出の数々。そして突然の喪失。多くの人々に埋める事の出来ない大きな穴をポッカリ空けて旅立ったブローティガン。決して得る事のない答えを求めて彷徨いだす思考。
これは決してアメリカでは語りえぬ、藤本和子以外では語りえぬものだ。

藤本和子氏は、現在、夫のイリノイ大学で日本文学の教鞭をとる教授デイヴィッド・グッドマン(David G. Goodman)氏と共にイリノイ在住。デイヴィッド・グッドマン氏は1966年エール大学在学中に来日、岡山県の中学校で英語の教師を務めた後、1970年日本の演劇を海外に紹介する英語雑誌『コンサーンド・シアター・ジャパン』編集発行した。
藤本和子氏はこの雑誌の編集に初期から関わっていたようだ。再び彼女の文章に触れることが出来て、とても嬉しい。本書全体を通して響く心根の清さのようなものを感じる気がする。この人はすごく素敵な人だと思う。

「アメリカの鱒釣り」と「ビッグ・サーの南軍将軍」のレビューはこちら>>

「芝生の復讐」のレビューはこちら>>

「不運な女」のレビューはこちら>>

「エドナ・ウェブスターへの贈り物」のレビューはこちら>>

「西瓜糖の日々」のレビューはこちら>>


<AMAZONで藤本和子の著書を見る>
リチャード・ブローティガン
ブルースだってただの唄―黒人女性のマニフェスト
イリノイ遠景近景
どこにいても、誰といても―異なる者たちとの共生
塩を食う女たち―聞書・北米の黒人女性
ペルーから来た私の娘犀の本
おばあちゃんの子育て記

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スノーボール・アース
(Snowball earth)」
ガブリエル・ウォーカー
(Gabrielle Walker)

スノーボール・アース (Snowball earth)」ガブリエル・ウォーカー (Gabrielle Walker)

2004.11.03:大きな氷河期は全地球史を通じてこれまで3度あったと言われている。24〜22億年前のヒューロニアン氷河期、7.6〜7億年前のスターチアン氷河期、そして6.2〜5.5億年前のマリノアン(またはヴァランガー)氷河期だ。これらの氷河期は直近の最終氷期(ヴュルム−−ウイスコンシン氷期)の比ではなく、なんと地球全球が完全凍結する凄まじいものだったらしい。これをスノーボール・アース仮説と呼ぶ。

本書は、このうちの2つ目7.6〜7億年前のスターチアン氷河期に全球凍結した可能性を見出し、地道な調査研究により証拠を積み重ね、科学界を揺るがす仮説に昇華させた科学者達のドキュメントだ。

第 1章 最初の生命らしきもの―生命四〇億年の歴史と氷の地球
第 2章 北極―異端児ポール・ホフマンの出発
第 3章 始まり―先駆者たちの業績
第 4章 磁場は語る―仮説が誕生したとき
第 5章 ユーリカ!―才能ある研究者たちの共同作業
第 6章 伝道―論争は始まった
第 7章 地球の裏側―オーストラリアで見えてきたもの
第 8章 凍結論争―加熱する議論を超えて
第 9章 天地創造―カンブリア紀の大爆発へ
第10章 やがてまた

7億年前の単細胞生物しかいない原生代後期、赤道直下の大洋も全て厚い氷に閉ざされ、雲も全く無く気象活動はほぼ停止。地球全球が氷点下の沈黙の世界へ。この余にも激しい凍結によって彼らは大変な危機的状況に陥った。しかしスノーボール・アース仮説はこれだけでは終らない。

それは、長い完全凍結した地球がやがて火山活動による二酸化炭素の増大によって起きた温室効果でやがて氷河期から脱出し、この生命への厳しい試練が5億数千万年前に起こった多細胞生物の爆発的な進化(カンブリア紀の大爆発)の引き金になったとするのである。このスノーボール・アース仮説の証拠として挙げられるのが、世界のあらゆる場所で見出される原生時代後期の地層にあるアイス・ロック。氷河の動きで砕かれ運ばれたドロップ・ストーン。赤道付近にこのドロップ・ストーンが見つかるのはそこにはかつて氷河があった事を示している。

そしてもう一つが縞状炭酸塩岩(cap carbonate)だ。(本書ではキャップ炭酸塩岩という表記になっている)通常この縞状炭酸塩岩は珊瑚など生物由来で生成されるものだが、氷河堆積物であるアイス・ロックと縞状炭酸塩岩はミスマッチな取り合わせである上に、原生時代後期にはまだそんな複雑な生物は誕生していないという問題があるのだ。

これをスノーボール・アース仮説は全球凍結による氷河の大進出。二酸化炭素の温室効果により氷河期が終わり、大量の大気中の二酸化炭素が一気に堆積したとするシナリオで解決する。

これに対し、地質学会は白亜紀の恐竜大絶滅がK/T境界を作り出した巨大隕石の落下によるものだとしたアルバレス親子の物語と同じ旋律を繰り返えす。学会はアルバレス親子に対する頑迷な反応に対し手痛いしっぺ返しを受けたが、あまり上手にその教訓を生かすことはできなかったようだ。−−アルバレス親子の物語については「白亜紀に夜がくる―恐竜の絶滅と現代地質学」の読書日記でどうぞ。

全地球凍結という凄まじい環境も、氷河期からの急激な回復も、それによって迎起される生命の複雑化も多様化も「斉一説」を強い拠り所とする者にとって受け入れるのは過激すぎたのかもしれない。

本書では、何故このスターチアン氷河期が起こったかの原因は不明のままだし現時点ではまだ複数ある「仮説」に過ぎない。しかし、これが本当にあった事で、更に仮にこれが隕石によるものだったらどうだろうか。隕石の落下によって気象変化と地殻変動が引き起こされた事による環境の激変が、単細胞生物から多細胞生物へ、恐竜の絶滅、類人猿から人類へ飛躍する第一歩となった二足歩行を生んだとしたら。

これまでの歴史観は大きな修正を迫られる事になる。

2005/8/28ピーター・ラーソン&クリスティン・ドナンの「SUE スー 史上最大のティラノサウルス発掘」レビューを追加しました。

「命がけで南極に住んでみた」のレビューはこちら>>

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スノーボール・アース(Snowball earth)」

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妖精の出現―コティングリー妖精事件
(The coming of The Fairies)」
A・コナン・ドイル(Doyle, Arthur Conan)

2004.10.30:この本の主役でもある問題の写真は女の子の周りに妖精が集まっているものなのだが、これは子供の頃に漫画本かなんかの「心霊写真」の特集でおどろおどろしい日本の心霊写真に紛れて紹介されていたのを見たのが最初だったのではないかと思う。幽霊と妖精?心霊?今考えてもかなり混乱した企画だ。Cottingley Fairies

外国で外国人の幽霊がでるのは、「まぁそうだろう」が、透き通った羽を生やしすっかり垢抜けした衣装と姿かたちで正に「妖精」がでてきちゃうなんて「....マジかよ。」すっかり戸惑ってしまった記憶がある。「妖精」の存在自体よりも、日本にはあんな「妖精」が姿を現す可能性がなさそうで「外国に生まれればよかった」のような劣等意識すら感じたような思い出がある。しかしその写真には話せば長い逸話があったのだ。

1917年7月イングランドのコティングリー村(Cottingley)で16歳になるエルシー・ライト(Elsie Wright 1901−1988)と10歳の従姉妹フランシス・グリフィス(Frances Griffiths 1907−1886)は村はずれの森で親から借り出したカメラで写真を撮った。持ち帰った写真にはなんと「妖精」が写りこんでいた。勿論合成技術等持ち合わせている訳もない子供だった事もあり、本物の妖精が写ったという噂が拡がりだした。この話が心霊に造詣が深かったA・コナン・ドイルの知る所となり、ドイルは写真の真偽を確かめる為自ら出向く等、具体的な行動にでて行く。

本書は、この妖精写真について、事件の核心に迫るべく関係者と情報交換する為に出した書簡や知り合いになったエルシーとの手紙のやり取りをはじめ、1920年のクリスマスに発行された雑誌「ストランド・マガジン」に掲載された、ドイルの記事等から本人が1922年3月に構成して本に纏めたものだ。

最初のうちは半信半疑で科学的見地で写真を調べたりしている様子や、関係者の証言等も織り込まれこの写真も妖精の存在も正真正銘本物とする展開になっている。

本書では読み取れないが、この写真によってドイル以外にも魔術師のフーディーニが絡んできたりジャーナリストや見物客が押し寄せる大事件に発展し、辺鄙で静かな片田舎だった地元はかなり大変な騒ぎになったようだ。

1977年にはこの大騒動が「フェアリーテイル(FairyTale: A True Story)」という映画にもなっている。しかし、話はこれで終らず、ドイルも亡くなったずっとずっと後の1983年になってエルシー(この時なんと83歳だ)が写真は作り物だったと認める。フランシスは妖精を見たことは事実としながらも、5枚の写真のうち4枚は偽物だったと証言。最も長きに渡り人を騙したという事でギネスブックにものる「事件」となったのだ。

問題の写真も、種を明かせば描いた絵を切り抜き草花にピンで留めていたというのだ、大人は必死に合成の痕跡を探していたがある訳が無い訳だ。名探偵ホームズの作家である事からホームズ張りの推理力を期待されてしまうドイルだが、ここはまんまと騙されてしまった事から再びニュースになったのだ。

本書の訳者である井村君江氏の解説に詳しいが、ドイルの父は妖精画を描いていた人物であった生い立ち、仏教や回教等、非キリスト教的生死感を抱え晩年心霊学にますます没頭していったドイルの心にとって妖精の写真はドカンと直球だったのだろう。読んでいるとドイルの純朴さというか、「妖精」の存在を確信して子供のように嬉々としている事に驚いてしまう。二十歳を目前といしているエルシーに、大人になると妖精を見る力が失われてしまう事から気を揉み恋に落ちる前に出来るだけ証拠を集めんとし「急がなければ」と決意している所などは思わず赤面しちゃうところだ。

しかし、鼻で笑う事は簡単だ。作り物の写真は4枚で、1枚は違うとフランシスは証言しているし、写真がニセモノだからといって妖精がいない事にはならない訳で、今だって「妖精」の存在を信じている人はいるだろう。それに、例えば幽霊は?宇宙人は?死後の世界は?実在するのだろうか
神さまは?
どれは実在していて、どれは実在しないのだろうか
どのようにして宇宙が誕生したかに思いを馳せる時、やはり我々はまだ殆んど何も判っていないに等しい事に愕然とする事はないだろうか  

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妖精の出現―コティングリー妖精事件(The coming of The Fairies)」

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ダークライン (A FINE DARK LINE)」
ジョー・R. ランズデール(Joe R. Lansdale)

2004.10.30:2001年度「ボトムズ」でアメリカ探偵作家クラブ最優秀長篇賞ほか4部門を手にしたランズデールが放つ単発物。舞台はお約束のテキサスだが、時は1958年。13歳になる少年がふとした事から裏庭から抜けた森の中から、古い手紙の入った箱を発見する事から始まる。

危険!ランズデール。この男に、読みきりの単発物を書かせてはならない。なにせシリーズ物でさえ、主要人物を意表を付くタイミングと手段でバッサバサ切り捨てる男だ。今回は、何時誰が殺られても不思議のない、儚げなキャラ満載だ。
だめだ!だめっ!ナブったら、そんなとこ、うろうろすんじゃねー。殺られちゃうじゃんか。おい!

こうなったら流れに身を任せて、大人気なく翻弄されよう。しかも、見よ、この本の薄さ具合、途中で何が起きて不思議のない薄さだ。これはこの作品が恰もドラッグ・レースのロケットスタートから加速したままエンディングを迎えるのだという、この本を手にしたものに対する、ランズデールの大胆不敵な宣言だと僕は受け取った。

それは強力にチューンされたエンジンと極限近くまで肉厚を削ぎ落とされた車体、スロットルは野生動物の反射神経のように瞬間的に沸点に到達する、まるで起爆装置だ。残されるものは、ただ唯一アスファルトの鮮やかなタイヤ痕なのだ。ファイン・ダーク・ライン、それは過去から現代への時間軸に引かれた消すことの出来ない影だ。

この本の読み所の一つとなっているのが、この時代背景でもある訳だが、それでは何故1958年という時代を選んだんだろうか。ランズデールの年令は色々調べたけど不明だ。見た所1940年代生まれというには若いように思える。

主人公はWWU終戦直後の1945年生まれという想定だ。2004年現在で59歳になっている事になる。因みに第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュは1946年7月6日の生まれだ。挙げだすと切がないがあらゆるジャンルの著名人で時代を築いてきた大御所とも言える人物が大勢いる。あの時代の少年少女が成長し、現在では大凡の要職を占め、社会に多大なる影響を与えることが可能な権力も持つ世代に至った訳だ。

1958年の重要なキーワードとなるのがヒッチコックの「めまい」だ。この映画は1958年公開だが、1950年代の文化というより、1960年代の入り口として捉えられるべきものだろう。ビートニクと「めまい」の関係については、海野宏氏の「めまいの街―サンフランシスコ60年代」を参照されたい。

1960年代のビートニク等ムーブメントを作り出したのは20代の若者、彼らが1940年代の生まれであることは自明だ。60年代のムーブメントで既に中心的世代だった事になる。では他の年代ではどうだろうか、

1970年代 30代 ベトナム戦争、反戦運動、ウォーターゲート事件
1980年代 40代 冷戦終結、レーガノミックス
1990年代 50代 ソビエト連邦の崩壊、ニュー・エコノミー
2000年代 60代 バブル崩壊、東欧社会、イスラム圏との衝突 
    
主人公の少年と同時代の仲間たちの価値観が必ずしも正しいかどうかはひとまず置いても彼らは疑いもなく長い間、時代の中心に居続けた世代だといえないだろうか?ランズデールは現代社会の良い面も悪い面もその根源を終戦直後の1950年代に見たのだろう。こうして振り返ってみると彼ら1940年代の世代が作り上げた時代に刻まれた光と影が見えないだろうか?

ランズデールのその他の作品をこちらでもご紹介しています。

「ロスト・エコー」のレビューを追加しました。こちらからどうぞ。

「ババ・ホ・テップ」のレビューはこちら>>


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映画監督 スタンリー・キューブリック
(Stanley Kubrick: A Biography)」 
ヴィンセント・ロブロット
(Vincent LoBrutto)

2004.10.19:シドニー・ルメット−−「スタンリー・キューブリックが映画を作っていないとき、それはみなにとっての損失である。」

本書はキューブリックが1999年3月7日死去した直後に出版された本だ。本来、「アイズ・ワイド・シャット」の撮影秘話等も盛り込んだものにもなりえた筈だが、出版時期を優先させたせいだろう。当該の作品は「-無限」と題された章では最新の企画中の映画として紹介されつつ幕切れとなる。

それでも、映画の巨匠スタンリー・キューブリックの生い立ちから撮影された映画の秘話をはじめ、撮影されることのなかった企画、家庭、友人との出来事に対する綿密な調査を通じて、キューブリックという人を浮き彫りにしようとするとんでもない大著である事にかわりはない。

第1部 ブロンクス―1928‐1948
 第 1章「少年時代」
第2部 ニューヨーク―1948‐1956
 第 2章「『ルック』誌」
 第 3章「試合の日」
 第 4章「空飛ぶ牧師」
 第 5章「恐怖と欲望」
 第 6章「非情の罠」
第3部 ハリウッド―1956‐1960
 第 7章「現金に体を張れ」
 第 8章「突撃」
 第 9章「片目のジャック」
 第10章「スパルタカス」
第4部 イングランド―1960‐1964
 第11章「ロリータ」
 第12章「博士の異常な愛情−−又私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」
第5部 隠れ家―1964‐1987
 第13章「2001年宇宙の旅」
 第14章「ナポレオン」
 第15章「時計じかけのオレンジ」
 第16章「バリー・リンドン」
 第17章「シャイニング」
第6部 無限―1988‐
 第19章「アイズ・ワイド・シャットまで」

僕は幸運にも「2001年宇宙の旅」も「時計じかけのオレンジ」も映画館の大画面で観た。勿論リバイバルだったけど。これは、もう途轍もないものを観せられたと思った。「2001年宇宙の旅」、これはもう映画の概念を超えたと思ったものだ。「2001年宇宙の旅」の関連書籍にはディヴィッド・G・ストークの「HAL(ハル)伝説―2001年コンピューターの夢と現実」というすごい研究書もある。

しかし本書を読んで、今まで一角の映画通だと自負していた自分がとんでもない勘違いをしていた事に気づいた。まだまだ、キューブリックの世界はとんでもなく深いのだ。これはもう本書を読んでいただく以外にない。そしてそんな本を紹介できる。キューブリックについて何がしか語れる事は幸せである。

キューブリックは生涯、短編自主映画も含め以下の15本の映画を遺した。そしてその殆んどの映画で脚本を単独かまたは共同で執筆、撮影しながら臨機応変に脚本に変更を加えていく撮影スタイルは脚本家としてクレジットする名前でも様々な物議を醸し出して来た。アーサー・C・クラークですら見事に引き摺り回されている事からもキューブリックの映画を作り上げていく執念は一角ならぬものがあると思う。

■「拳闘試合の日(Day of the Fight)」(1951年)
 ミドル級ボクサーウォルター・カルティエの試合に臨む一日を追う
 「禁じられた過去」ロバート・ミッチャム主演映画とカップリングされて上映される
■「空飛ぶ牧師(Flying Padre)」(1951年)
 「空とぶ牧師」空とぶ牧師レバランド・フレッド・シュタットミューラーの二日間を追う
■「船乗りたち(The Seafarers)」(1953年)
 幻の短編ドキュメンタリーとされた船員国際組合から依頼された産業映画
■「恐れと欲望(Fear and Desire)」(1953年)
■「非情の罠 (Killer's Kiss )」(1955年)
非情の罠








■「現金(ゲンナマ)に体を張れ (The Killing,)」 (1956年)現金に体を張れ









■「突撃 (Paths of Glory)」(1957年)突撃









■「スパルタカス (Spartacus)」(1960年)スパルタカス









■「ロリータ (Lolita)」 (1962年)ロリータ









■「博士の異常な愛情 (Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)」 (1964年)博士の異常な愛情









■「2001年宇宙の旅 (2001: A Space Odyssey)」 (1968年)2001年宇宙の旅









■「時計じかけのオレンジ (A,Clockwork Orange)」(1971年)時計じかけのオレンジ









■「バリー リンドン (Barry Lyndon)」 (1975年)バリーリンドン









■「シャイニング (The Shining)」 (1980年) シャイニング









■「フルメタル・ジャケット(Full Metal Jacket)」 (1987年) フルメタルジャケット









■「アイズ ワイド シャット (Eyes Wide Shute)」(1999年)
アイズ ワイド シャット


いま此処でそれぞれの映画に解説を加える事は、僕の時間と能力に著しい不足があるので避けるが、恐れ多くも彼の映画哲学に若干のコメントを加えさせて頂くとしよう。

キューブリックは文学的表現を映画の画像、音響、全てのファクターを使って観客へ伝える術を模索した天才であり、一方で新しい技術を貪欲に取り入れ実験的な絵を常に追い求めた。また更には夥しいテイク数、現場で脚本に手を加え、「今までに誰も見た事のない映像」を手に入れる為に「何かが起こるの」を「待ち」、実際にその魔法の瞬間を手に入れる為に他を省みず全霊を注いだ映画の鬼だったのだと思う。

「アイズ・ワイド・シャット(Eyes Wide Shute)」で脚本家として名を並べたフレデリック・ラファエル(Frederic Raphael)氏は著作「アイズワイドオープン―スタンリー・キューブリックと「アイズワイドシャット」 」(Eyes Wide Open)」で映画撮影の舞台裏を描いた。彼が共同で脚本を作る過程でどんな目にあい、本にどんな内容を書いたのかは知らないけど夫人のクリスティアーヌ・キューブリックはウエブサイトで彼がキューブリックの友人である事に疑問を呈し、家族に無断で彼を売り物にしていると断罪している。

キューブリックの存在が映画技術に、映画史に大きなトピックを遺したのは事実だが、映画制作に向けたこの一途さ、自分の映画を守り抜くために、何人かの人々に不幸を背負わせた事にもなったのだろう。しかし彼が脚本に手を加えた事で、映画の出来は確実によくなっているのだ。

第17章「シャイニング」では、有名になる前のまだ教師をしていた頃のスティーブン・キングに、キューブリックが初めて、しかも早朝電話をしてくるくだりがある。以下は二人の電話でのやり取りだ。
キューブリック「幽霊という概念はとても楽観的なものだと思わないか」
キング    「???」
キューブリック「幽霊がいると考えることは、死後の世界があると想定することだ。明るい        考えじゃないか。」
キング    「でも、地獄はどうなんですか?」
キューブリック「私は地獄を信じていない」

間違いなく彼の死はわれわれにとっておおきな損失である。僕にはスター・チャイルドになって衛星軌道を周回し再生を待つキューブリックが見える。今は彼の冥福を祈りつつ僕はDVDでディープ・スペースへと旅立とう。


「HAL伝説―2001年コンピュータの夢と現実」のレビューはこちら>>


<Amazonでスタンリー・キューブリック関連の著書を見る>

映画監督 スタンリー・キューブリック」ヴィンセント・ロブロット
スタンリー・キューブリック―写真で見るその人生」クリスティアーヌ キューブリック
アイズワイドオープン―スタンリー・キューブリックと「アイズワイドシャット」」フレデリック・ラファエル
スタンリー・キューブリック―期待の映像作家シリーズ キネ旬ムック―フィルムメーカーズ」巽 孝之
HAL伝説―2001年コンピュータの夢と現実」デイヴィッド・G・ストーク
ザ・コンプリート キューブリック全書」デイヴィッド ヒューズ
アイズワイドシャット」アルトゥル・シュニッツラー他
キューブリック・ミステリー―『2001年宇宙の旅』論 」浜野 保樹
Kubrick」ミシェル・シマン
ザ・キューブリック」モノリス1・2・3




「2001:キューブリック、クラーク」のレビューはこちら>>

「映画監督 スタンリー・キューブリック」のレビューはこちら>>

「HAL伝説―2001年コンピュータの夢と現実」のレビューはこちら>>

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ケリー・ギャングの真実の歴史
(True History of the Kelly Gang)」
ピーター・ケアリー
(Peter Carey)

2004.10.10:本書は2001年のブッカー賞を受賞した。ピーター・ケアリーにとっては1988年の「オスカーとルシンダ」に続いて2度目のブッカー賞だ。主人公のネット・ケリーは実在の人物、オーストラリアのブッシュレンジャー。本書は本人が逃亡生活の合間に書き溜め、その生涯を娘に書き残した13の紙束のメモという体裁で書かれている。13の紙束、束がちょうど章になっている形だ。

包み 一 十二歳まで
包み 二 十二歳から十五歳まで
包み 三 十五歳まで
包み 六 ハリー・パワー逮捕後のできごと
包み 七 ベントリッジ刑務所からの釈放後
包み 八 二十三歳のとき
包み 九 ストリンギバーク・クリークでの殺人
包み 十 歴史のはじまり
包み十一 二十四歳のとき
包み十二 鎧の考案と製作
包み十三 二十五歳のとき


ネット・ケリーの生まれた時代背景あたりから簡単に纏めてみよう。

オーストラリアに人類が到達したのは紀元前5万年から4万年前。彼らはアフリカ大陸から中近東、インドとユーラシア大陸全体に拡散する過程の最終段階で東南アジアの海を渡ったと思われる。彼らは海の民として定着と分離を繰り返しながら太平洋の島々に拡散していった。オーストラリア大陸に定着した先住民族アボリジニーとして知られる彼らは狩猟採集生活を営む小規模な集団となって暮らしていた。

その後最終氷河期も終わり地球が温暖化、15世紀になって中国の船乗りやオランダの航海者・探検家タスマンによる記録がある程度で、海が彼らを大きく隔て外界との接触が極めて限られた状態が長く続く。

キャプテン・クックがボタニー湾に上陸したのが1770年。これを境にオーストラリアへの入植が開始された。

1776年7月4日アメリカが独立宣言。その為イギリスは流刑地をアメリカ大陸からオーストラリア大陸へ変更。

1788年1月26日778名の囚人がポート・ジャクソンに到着。本格的な植民地化が進められる事になった。しかし、それに伴い、長い長い先住民族アボリジニへの差別と虐待が始まった事にもなる。19世紀に入ると入植囚人が逃亡、広い地域に点在する入植地を襲うブッシュレンジングが活発化、ブッシュレンジャーと呼ばれ恐れられた。

1828年イギリスはオーストラリア大陸全土を植民地化、アボリジニーへの迫害が激化。

1830年タスマニアの先住民がほぼ全滅

1851年ヴィクトリアで大きな金脈が発見され白人だけでなく、中国人の自由移民入植者が大量に流入、ゴールドラッシュが起こった。政府は増加するアジア系移民に先制し裕福層の白人を優先すべく「白豪主義」が台頭していく。

1850年代に入るとブッシュレンジングは逃亡囚人ではなく、アウトローによって金銀や家畜を奪う目的で入植地や大農場の襲撃が繰り返されていく。

1854年5月(不確か)貧しいアイルランド移民の子としてネッド・ケリーが生まれた。

1880年6月28日グレンローワンで激しい銃撃戦の末逮捕

1880年11月11日死刑執行

彼らの事件を最期にブッシュマスターもやがて姿を消していくことになる。その後白豪主義は第二次世界大戦終戦後まで続くが庶民のヒーローとされるケリー・ザ・ギャングは長い間政府にとって喉に刺さった骨のように取り扱われてきた。

1960年代に入ると世界中から移民を受け入れる「多文化主義」へと移行、1967年アボリジニーーへの公民権がようやく認められた。シドニーオリンピックの開幕式でのオープニングセレモニーではオーストラリアの歴史がモチーフとして使われアボリジニへの迫害の歴史に加えてケリー・ザ・ギャングの逸話も登場していたそうだ。またアボリジニが代表選手として登場し紹介されていたのは僕も覚えているが、アボリジニ問題の着地への道程はまだまだ遠いようだ。

地元オーストラリアでネット・ケリーはアウトローであると同時に貧しいもの、虐げられたものの代表として、政策の不公平さや警察の理不尽さに対し敢然と立ち向かい、奪った物を分け与えたりと、所謂、義賊としてブッシュレンジングを行った悲劇のヒーローとして有名な人物で、本書で登場する人物も大部分実在の人物だ。

鉄で作った鎧は勿論、50ページ程だが実際にメモも残っている。但しこのメモは相棒のジョー・バーンが口述したもののようだ。本書はこれらの史実と更にはアイルランドの神話「バンシー」等のモチーフを巧みに結びつけた物語になっている。また一人称の口語体、感情のまま時として異常な長文となる文章。これが本書のもう一つの大きな特徴となっている。この一人称を使った書き方は貧しさや先の見えない暮らしに追われる様な当時の生き様とオーバーラップし、雰囲気を伝える事に成功していると思う。

ケリー・ザ・ギャングを取り上げているサイトでは、登場人物たちや現存する鎧の写真を見ることができる。また鎧を付けたネットのフィギュアやキーホルダーなんかも買えるようだ。原作は別だが、2003年には映画「ケリー・ザ・ギャング (NED KELLY)」も公開されている。

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ケリー・ギャングの真実の歴史(True History of the Kelly Gang)」

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海のアジア〈3〉島とひとのダイナミズム− 海のアジア
尾本惠市、濱下武志、村井吉敬、家島彦一 編集委員

2004.10.03:6冊のシリーズを成す、「海のアジア」の3巻目。海の道で繋がる島々の港は様々な国、人種の人、物、情報が交換される環境を生み出した。海によって通じ合う島の人々のネットワークは季節風を利用した航海技術の発達によりアフリカ大陸からインドそしてアジアと広い地域に広がった。そしてそのネットワークは川を伝って大陸の内部奥深くとも通じ合い、大陸の血管のような役割を果たしている。

多様で柔らかでダイナミックな海と島の世界  村井吉敬
■島嶼世界の魅力
多島海の海と島 − カンポンとバンダールの世界  高谷好一
海を守る知恵 − 西パプア、マルクの漁村から  村井吉敬
■歴史のなかの海世界
東南アジアの海と陸 − チャンパとチャム族のネットワーク  桃木至朗
川:陸のなかの海世界 − スマトラの歴史経験から  大木昌
■くらしと海
東南アジアの海に生きる漁民たちのくらし − 漁民と漁業の多様蛙  北窓時男
魚の道をゆく − カンボジア・タイ  岡本和之
■移動と交流
海と国境 − 移動を生きるサマ人の世界  長津一史
メッカ巡礼と東南アジア・ムスリム  弘末雅士
■口絵の言葉
海をわたるピニシ  遅沢克也
■座談会         
多島海に生きる人びと  池澤夏樹 須賀潮美 村井吉敬

シリーズ3冊目を終え、いよいよ折り返し地点だ。西側社会、キリスト教文明を土台にすえた西洋文化からみたアジアの海は正に転倒した世界観を読者に付き付けて来たが、今回僕は内容を重く受け取りすぎてしまったのかもしれない。

高谷好一氏は本書の中で「バルト海はハンザ同盟商人の海、地中海は戦いの海、太平洋は奴隷交易の海、インド洋はイスラム商人の交易の海、東シナ海か朝貢の海、そして東南アジアの海は危険に満ちているが宝の山だから生活の海。」だと述べている。

確かに東南アジアの海には非常に多くの少数民族が暮らしている。海は、海の上に生まれ、暮らしている人々を受け入れ恵を与えてきた。海に生きる人々は、国や人種を飄々と跨ぎ越えて繋がり合って生きてきた。彼らは島と島を緩やかに結びつけ、自由に渡り、移り住んできた。海は誰のものでもなく、海の恵は分け合って暮らしてきたのだ。

しかし、本書はややゆったりと心地良い部分に重点を置きすぎているように思われる。西洋文化と一定の距離を長い間置いてきた、アジアの海によるこのネットワークは、近代になり様々な形で大きな文明の衝突を起こしてきている。

時として血を流す事態を引き起こす、それは社会主義と自由民主主義でもあり、キリスト教とイスラム教でもあり、持つ者と持たざる者でもあるように見える。しかし、それらの根っこには東南アジアの海に生きる人々の心に「人種」や「マイノリティ」と「マジョリティ」
というそれまでは目に映っていなかった概念があるのではないだろうか。これまでは隣り同士で漁をしたり助け合ってきた人々がある日突然「こっち」と「あっち」に見えない線で区切られていく。

複雑に入り組んだ島嶼世界と、大陸奥地から海まで国境を越えて流れる川。これまでのように穏やかに折り合っていけるかどうか、非常に大きな課題を孕んでいると感じる。シリーズ冒頭「海のアジアが開く世界」で濱下武志氏は「国家ならびに国民経済の枠のなかで、国家建設・近代化・経済的発展・工業化を目指してきた二〇世紀の「北」からの論理は、「アジアの海」が提起する将来像によって塗り替えられることになろう。」と述べているが、本書からは残念ながら将来像らしきものを読み取ることは出来ませんでした。

ところで、桃木至朗氏の「東南アジアの海と陸 − チャンパとチャム族のネットワーク」のなかでチャム族や中部高原山地民の組織を「FURLO」と記載されているが、これは「FULRO」の間違い、誤植だ。しかしもっと気になったのは彼らが武装解除され山岳民族として観光資源化されているような文脈になっている部分だ。少数ながらニュースも流れているし、ネルソン・デミルの「アップカントリー」でも活発に活動する武装した反政府組織として描かれている。そんな簡単な話で片付けられる話ではない。地下に潜伏していると考えるのが妥当だと思う。

シリーズ1「海のパラダイム」へ
シリーズ2「モンスーン文化圏」へ
シリーズ4「ウォーレシアという世界
シリーズ5「越境するネットワーク

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