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2010年度第4クォーターの読書日記です。今年は卯年かぁなんて新年になって改めて考えるとなんと今年は年男です。それも4回目の。見た目はどんどんおっさん化してるのだろうなと思う訳ですが、朝顔を洗うとき見るぐらいですが、毎日見てる自分の顔がどれほど経年変化しているのかなんてあんまり自覚はなく、それ以上に精神的には自分が若い頃に想像していたような大人とは程遠いくらい昔のまんまの自分がいます。今年は一体どんな年になるのやら。ワクワクできる事を造り出して行けたらいいなと思っています。

風水先生レイラインを行く
荒俣宏

2011/03/26:皆さんは「レイライン」なる言葉をご存知だろうか、「レイライン」は、1921年6月30日、イギリスのヘレフォードシャー州、古都ヘレフォードにおいて、アルフレッド・ワトキンス(Alfred Watkins)というアマチュア考古学者が見た「幻影(ヴィジョン)」に遡る。

ワトキンスはこのとき、ブレッドウォーディン(Bredwardine)の小高い丘の上から地図を片手に景色を眺めていた。そして古い塚や巨石、教会などがどこまでも直線状に並んでいることに気がついたのだ。古代の人びとはなんらかの意図を持って、「ランドマーク」を直線状に配列していたのではないだろうか。彼はこの概念を"The Old Straight Track"と呼び地元の有志たちと周辺の調査を始めたことに始まる。

ワトキンスはこれらの直線が古くからの地名で「レイ(ley)」がつく土地を通ることが多いことに気がつく。「レイ(ley)」は空き地や原っぱを指す言葉ではあるが、古語に遡るとこの言葉は「光」や「まっすぐな道」という意味を持っていたことを突き止める。そして自分たちが探り当てた"The Old Straight Track"のなかには、夏至や冬至の日に太陽が登る方角から一直線に引いた道があることを「発見」するのだ。これが正に「レイライン」。これは巨石や塚をその場所に作った者たちの知恵と意思そのものではないだろうかという訳だ。

今回のアラマタ御大の旅のスタートは青森県にある三内丸山遺跡だ。約5千年前に遡る大規模集落の遺構である。ここから発見された六本柱建物跡は正確な度量測量技術なしには作れないはずの精度で作られていることが知られている。そして人工のものと思われる大規模な盛土。土地の形を変えることによってより理想的な環境を生み出す。つまり彼らはきちんとした都市計画を持っていたというわけである。そしてそこには風水的な気配すら感じられるというのである。

前回、「風水先生」で、風水の知恵を備えることに成功したアラマタ御大は、土地を選び、改良を加え、そしてその土地を守護するための護符を配し、季節を追尾するシステムを稼動させることで日々の営みを送っていた超古代文明の痕跡を追って世界を股に掛ける。

グラストンベリー・トア(Glastonbury Tor)。この付近は最終氷河期が終わった1万2千年程前には島であった場所だ。ジョン・ミシェルはこの土地の古い丘や塚の位置が北斗七星の配置と同じくなっていることを発見した。また彼はアーサー王の名、アーサーはウェールズ語では「アルス・ファウル」すなわち大熊座(北斗七星)を示すと解釈されていることからこの地がアーサー王に関係する土地ではないかと考えたという。そして、このグラストンベリー・トアから北東30度の直線状には聖マイケルに因んだ教会や巨石が並んでいることを発見した。彼はこれを聖マイケル・ラインと呼んだのだという。

グラストンベリー・トア(Glastonbury Tor)



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なぜ聖マイケルか。旧約聖書に描かれる大天使ミカエルが罪のシンボルである竜を退治し、光を運ぶものであったからだ。竜を退治し、光を運ぶ。なんと風水的ではないだろうか。

エイヴベリー(Avebury)のストーンサークルとシルベリー・ヒル(Silbury Hill)

ここは、また際立ってマジカルな場所であることが地図を見ていただければわかるだろう。ここを調査したウィリアム・ストークリーはこの遺跡群たちはかつて巨大な蛇を形づくっていたのではないかと唱えたのだという。つまりこの地は古代人たちの地母神の神殿だったというのである。蛇、つまりドラゴン、竜なのである。



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まだまだある。ギリシャでは、暦、ゾディアックに基づき物事を12分割する考えがあった。アテナイの支配者、ケクロプスはアクロポリスを中心とした都を12に区切って統治し、そこに住まう人びとの数を分、すなわち360の家、そして家の単位を男女60名として定めていたという。デロス島を中心にした北東30度の直線状にはゾディアックに割り当てられた12の聖なるランドマークが浮かび上がる。これをアポロ・ラインと呼ぶ。

このギリシャ地域のアポロ・ラインを更に延長していくとどうなるか。イタリアのモンテ・サンタンジェロ、ベルジア、サン・ミケーレ、サグラ・ディ・サン・ミケーレ、フランスのプールジュ、モン・サンミシェル、そしてイギリスのセント・マイケルズ・マウント、さらにアイルランドのスケリグ・ミカエルといった聖地の上を通っていくのだという。ミケーレ、マイケル、ミカエル、つまり大天使ミカエルに因んだ場所になっているのである。

残念ながら、すべてを地図で追う時間が僕にはない。興味がある人は是非、地図で追うだけではなく、実際に行って来てほしい。そして是非僕に感想をお願いします。

アラマタ御大はこの「レイライン」の解釈を見事に大きく拡張していた。

 ある石同士は、どこまでも直線をなしてつづいている。また別の石同士は、円や三角形など幾何学的な形に配列されている。まるで、天にばらまかれた無数の星が、それぞれ「見えない線」で結ばれ、星座という「見えない形」にまとめられたように。
 いや実は地上の石たちは、天界の星とまったく同じ役割を果たし、星座(これは昔、天のかたちすなわち「天理」とも呼ばれた)に対して「地理」を形づくる素材そのものであった。地の星、まさしく古代遺跡に残された石たちは、地上に映し出された 天の星であった。
現在、このような地上に置かれた石の「見えない形」すなわち地上の星座に対しては、英語の「レイライン」なることばが総称として使用されている。

ほんとかな。いやいや、どこまでほんとなのだろうか。巨石や遺跡は明らかになんらかの意図に基づいて作られていることは間違いがない。しかし、5千年以上も前の人びとが、地球規模でまっすぐに引いた直線状にこうしたものを築くなどということはありえるのだろうか。あるいは夏至や冬至といった文化が伝承していくなかで、同じような考え、同じような知恵や技術に基づいて作ったことが結果的に直線に並んだということなのだろうか。それにしても、天界、天理を地理へと転回していたというのはなんとも豊かな発想ではないだろうか。

北斗七星に模した配置をみせる遺構が実は日本にも存在する。それはなんと、三内丸山がある青森だ。

 岸俊武が著した「新撰陸奥国誌」に掲載されたものだ。この出典となった熊野奥照神社の古文書によると、坂上田村麻呂が官兵5万8千名を率いて奥州の蝦夷を平定して時代にさかのぼる。当時、京の鬼門にあたる陸奥には鬼が出没し、朝廷に歯向かっていた。田村麻呂は津軽に、「千坊の寺」を建て、国土擁護の秘密呪法を修し、鬼を退散させようとした。しかしこれでも効き目がなかったため、津軽の国に七つの社を建て、それそぞれに武器を置いた。この武器と、それから七星の形をなす七社とを配置したところ、さすがの鬼も出てこなくなったという。

 七社とは、現在の名で①大星神社②浪岡八幡宮③猿賀神社④熊野奥照神社⑤岩木山神社⑥鹿島神社⑦乳井神社だ。古文書では①と②、および⑥と⑦の距離を四里とし、あとはぜんぶ三里ずつになっている。

 要するに、田村麻呂は正確な計画によって大地に「三」と「四」にちなむ北斗七星の形を描き、星にあたる場所に神社を建てたのである!

 田村麻呂は、なぜ北斗七星を大地に描き出したのか。七つの星の力でこの場所を防衛し、聖化するためだ。この秘術を「北斗供」と呼び、天台密教最強の守護防衛術とされる。しかし、あまりに陰陽術(風水)めいているので、後世には嫌われ、天台宗でも用いられなくなった。



より大きな地図で 津軽の北斗供 を表示


征夷大将軍として東北を平定し最後には甲冑・兵杖・剣・鉾・弓箭・糒・塩を持たせ立ったまま葬られたとされている坂上田村麻呂には鬼退治の伝説がついて回る。彼が戦った相手は果たしてどんな人びとだったのだろうか。赤鬼はひょっとするとロシアからやってきた白人だったのではないかという考え方もあるようだ。6万近い軍勢でようやく治めることができたということは、それなりの武力と文化・文明を持った大規模集団であったことは間違いない筈なのだ。

三内丸山、北斗供これらを地図上に広げてみるとまるでバリアを北西に対して張るように配置されているようにも見える。

きっと答えなんてこの先ずっと出てこない。そんな謎がちりばめられた「レイライン」は僕の目を惹きつけて止まないのでありました。


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風水先生 地相占術の驚異
荒俣宏

2011/03/20:東日本大震災から漸く一週間。我が家はまだ断水状態です。水汲みやら粗食やら計画停電によって帰宅難民化しないように電車へダッシュなんて生活で2キロほど痩せました。しかし、そんなことはあくまで笑い話で、東北地方の被害は日に日に大きく膨らみ、福島の原子力発電所は日本の屋台骨を揺るがすような事態に発展しかねない状況が続き、もう言葉もないという感じだ。テレビはコマーシャルが消え、どのチャンネルも地震報道を流し続け、僕らもその流れてくる新しい情報を固唾を呑んで見守っていた。

地震以降、家にいても、通勤電車でも集中して本が読めなくなってしまった。同じように仕事をしていてもどこか注意力が散漫というか集中力が鈍ったというか、ようするに、仕事が手に付かない状態になってしまっている感じだ。

小難しい本を上の空で読んでもなんの意味もないわ。

そんなときは、ここぞとばかりに引っ張り出すべき本を再びひっぱりだして読むのがいいのではないかと。

そんな訳で、引っ張り出してきた本がこちら「風水先生」であります。これを読んだのはおそらく10年くらい前の頃だろう。当時は風水なんて言葉は殆ど聞いたことがなくて、香港の中国銀行と香港上海銀行の、そしてソウルの景福宮とそれを阻害する日本軍の建てた旧朝鮮総督府の風水的呪術の戦いにただただ驚き夢中になって読んでいたものでした。

僕の興味も東京の地理や日本の歴史ではなく、どちらかというと外ばかりをみており、本書にもチラッと登場するヘンリー・リンカーンなんてキーワードをたよりに「隠された聖地―マグダラのマリアの生地を巡る謎を解く」にたどり着き、巨大な陰謀論の存在などに心を奪われているばかりでありました。もちろんそれはそれでとても有意義で楽しい読書体験であったことは間違いないわけだけれども。

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本書は香港、ソウルの風水から、沖縄、京都、大阪へと目をむけ、飛鳥時代から日本は風水を取り入れて都市開発をしていたという事実を明らかにしていく。


 調査のとばぐちとして、われわれはとりあえず奈良盆地を取りあげたい。飛鳥から奈良市までを含めた大きな盆地を眺めてまわると、いかにも風水めいた印象を与える土地がいくつも目につく。なぜ風水的かといえば、平たい盆地のあちこちに、まるで人工的につくったとしか思えない丸い山というか塚がたくさんあるからだ。それから、不思議な巨石---たとえば、酒船石や石舞台のような謎がごろごろしていること。それに方位がしっかりしていて、道が直進、川が蛇行していることなどだ。


そして最大の見所、江戸。江戸の成立の謎へとぐぐぐっと迫っていく。ヤマタノオロチ伝説で素戔男が退治する八岐大蛇は龍にみたてた川でありこれは治水して納めることで国つくりをしたのではないかという解釈がある。利根川を千葉の方に流す工事には風水的呪術がこめられていたのである。


 江戸はまず、水を治めて下町をつくるところからはじまった。なかでも最大のテーマは、江東を流れる三大あばれ川の勢力を分散する切り札として、利根川を東京湾側でなく葉のほうへ流してしまう工事、ということにあった。

 この工事に江戸幕府が1621年から着手し、30年以上かかってようやく利根川本流を銚子の先から太平洋に放出することに成功した。ちょうど、あばれ龍のうち最大の一頭の急所である首を切断し、残った胴体を東へ向けさせたことになる。この切断された首根っこの残骸が、旧江戸川で、さらにこれを新しい人工川として飼い慣らしたのが、現在の荒川だ。ここには中川もくっついている。

 そして次に、今の墨田区と江東区をはさんで東側を流れる隅田川。これも江戸以前は入間川から流れる水をたたえていたが、利根川と同じく寛永年間(1624~44)にもとの荒川につながり入間川からは切り離される工事が行われた。ここでも入間川と荒川というふたつの龍の首が切られ、あらためて人工川として江戸の飼い龍となったわけだ。そうなると、この工事が江戸の風水思想を反映したものであれば、切断した首のあたりには暴れ龍封じの要石というか、護符が置かれていなければいけない。


この護符は回向院や神田明神、そして隅田川神社、三囲神社、牛嶋神社、素盞雄神社などだ。



より大きな地図で 大江戸風水マップ を表示


 鬼や龍には、龍殺しの荒神を。これはあきらかに江戸の霊的防衛スタイルだ。いったい、だれがこんなことを考えついたのだろうか?そこで注目しなければいけないのが江東区のあばれ川をなだめ、江戸の風水を決め、あらゆるところに災いを封じる護符を貼ってまわった、江戸のほんとうの企画立案者だろう。

 この人物の名を天海僧正という。天台宗の坊さんだが、神道も密教も、そして風水も、すべてマスターした江戸初期最大のオカルト能力者といってよい。この怪物が最初に姿をあらわすのが、埼玉県川越市にある喜多院だ。


しかし、土地勘の全くなかった僕はこの文章を読んでも一体どんなことが行われたのかを実態として殆ど把握することができなかった。これは当時まだグーグルマップなんてものもなくて、僕自身がどんな場所に今いるのかよくわかってないままだったというのも非常に大きかったのだと思う。

グーグルマップが出来たのは2005年のことなのだそうだが、僕はこれを本に登場している場所を確認するのに使いはじめた。大まかな地図と違って街並みまでが眺められるこのグーグルマップの登場で僕の興味の矛先はかなり大きく変わったということが今になってみるとはっきりとわかる。

子供たちが中高へ進み、休日に自分の時間が作れるようになり、健康管理の一環として自転車で走り始めたのもこのグーグルマップでみた場所を実際に見てみたいと思ったというのが直接の動機だった。

走り始めて東京の運河の全体像がみえてきてわかったのは、東京、いや大江戸の都市計画の遠大さ、深謀さでした。この企画立案の創始者というのがこの天海僧正だという。こうしたことに鋭くしかも難なく到達してしまう荒俣氏の慧眼にも恐れ入ってしまう。一体僕はその足元で何年ぐるぐると堂々巡りをし続けていたのだろうか。

天海僧正だが、1536年~1643年(天文5年~寛永20年)と今の基準でも大変長命だった人で、生まれは会津らしい。徳川家康公の絶大な信頼を得、以降秀忠公、家光公に顧問・参謀として仕え、慈眼大師となった。

本書によれば、天海こそこの江戸を京都のコピーとして創り出した人物だという。その第一歩が喜多院で、彼はここを東の比叡山ということで、東叡山と名付けた。彼は天台宗のお坊さんだが、天台宗が祀る大山咋神(おおやまくいのかみ)は天照大神と同一のものとされ、更には釈迦が日本に現れたときの仮の姿だという解釈がくわわり、仏教と神道を両立させた考えをベースにした山王一実神道という考えによってあらゆる神を総動員して江戸を京都以上に風水で守られた都市にしようとしたのである。


当初は関東平野全域を風水の呪術でカバーしようとしていたらしいが、家康が死に鬼門を守る力を蓄えるために、上野に東叡山を移すと江戸城下を守る布陣へと切り替えたのだという。


 上野周辺にでかけてみよう。まず上野の山に桜がいっぱい植えてある。なぜ上野の山に桜がいっぱいあるのか?すぐわかるだろう。あれは京都にいる天皇が聖地として<花の吉野山>をコピーしたところなのだ!

 次に不忍池を見てみよう。あの地には弁財天が祀られている。なぜか?書くまでもない。あれは琵琶湖のコピーなのだ。琵琶湖の竹生島には有名な弁才天が祀られている!

 そして、とどめが隅田川。あの川が京の鴨川をコピーした流れであることはもう説明する必要もないだろう。

また、上野には両大師堂がある。この両大師とは、慈恵大師と慈恵大師で、慈恵大師は天海だ。ここに一緒に建てられているのが輪王寺。天海はここに天皇の御子を連れてくることで、京都のコピーを完全なものとし、その仕上げとして五色不動を布陣し、市街の守りを完璧なものとしたのだといいう。

この天海さんはほんとただものではない。しかも彼は実は明智光秀だったのではないかとされる説もあり、また「かごめかごめ」に歌われた「鶴と亀がすべった」の部分は「「鶴と亀が統った」であり、明智が幕府の参謀としてともに統治したとも読み取れるのだというからどこまでびっくりすればいいのか。

僕は自転車をひたすら漕いで水門や橋を巡り、点在する神社仏閣におじゃまして、江戸の成立と発展の痕跡を嗅ぎまわっていたわけだが、荒俣宏の「風水先生」。再読するにしてももっと早く読み返しておけばよかったと強く感じました。また自転車漕いで目指すべき場所がいろいろと出来てきてしまいましたねぇ。はやく普段の生活に戻って自転車で出かける日々がやってくるといいなぁ。


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輝ける嘘
(A Bright Shining Lie)」
ニール・シーハン(Neil Sheehan)

2011/03/14:東北地方太平洋沖地震は2011年3月11日14時46分に発生しました。マグニチュードは何度かの訂正を経て9.0と発表され、現時点では世界史上4番目という巨大地震となりました。被害の全容はまだあきらかになっておりませんが、福島から宮城、岩手の湾岸地域を大きな津波が襲い、5キロ近く内陸に入り込んだという情報もある。津波により相当数の集落が壊滅、万単位の方が犠牲となった模様だ。

僕の知っている、相馬や、閖上、野蒜、気仙沼、女川、大船渡などの町が丸ごとなくなっているようにも見えるニュース映像は簡単に信じられる光景ではない。考えてみると昔から台地の際が好きだったらしく、僕は海岸線、河川敷に沿ってバイクを走らせていた。これらの町はどれもそうした際の部分に点在する美しい町並みだったのだ。

こんな町並みを僕は一人で、そして今一緒に暮らしているカミさんと二人で走っては、流れる光景に見とれ、ぶらっと寄ったお店で出すおいしい食べ物に舌鼓を打ったのでした。

海岸に数百、千という単位で遺体が発見されたという情報もあるが、3日たって漸く救援活動もはじまったばかりの状態のなかから、無事救出される方の情報もあり、少しでも多くの人たちが助けられることを期待しています。

また、福島にある原子力発電所が緊急停止したが、炉心の温度が下がらず爆発。大きな放射能漏れになってはいないか予断を許さない状況だ。電力の供給が下がった関係で、14日月曜日は計画的停電の実施、JRは京葉線を含むいくつかの路線で終日運休となり、朝の首都圏は大混乱となった。

ここ新浦安でも何百という箇所で液状化がおこり、コンクリートの下水管が2メートルも地面から飛び出していたりと、目を疑うような光景のなか、断水により水の確保に子供たちも総動員でシャカリキになって働きました。

本書は、1992年に出版されたニール・シーハンの"A Bright Shining Lie"全訳。ニール・シーハンはUPIの記者としてヴェトナムに行き、デイヴィッド ハルバースタムらと同様に多くの正鵠を得た記事を書き、その後、ダニエル・エルズバーグらがペンタゴン・ペーパーズのコピーを手渡し大スクープを放った記者だ。その彼が新聞社をやめ16年もかけて書き上げたのがこの本なのだ。

ヴェトナムへ戦場記者として出かけた経験をもとに「輝ける闇」を上梓した開高健もニール・シーハンと面識があったという。訳者の菊谷匡祐は本書の翻訳の依頼にしり込みしつつ、開高健にそのことを相談する。タイトルが「輝ける嘘」であることを聞いた開高健は「ううむ、嘘ねぇ。ヴェトナム戦争は壮大なる虚構って訳だ」そして、「モタモタせずにとっとと訳して早く読ませろ」開高健にハッパをかけられて彼は本書を訳すことになったのだという。残念ながら800ページを超える文章の翻訳は簡単には終わらず、開高健が鬼籍に入るまでに終わらせることが出来なかったという。

僕はこの本が出版されてすぐに手に入れて夢中で読んだ。今回は久しぶりに本棚から引っ張り出しての再読です。先般、デイヴィッド ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争」、「ベスト&ブライテスト」を読み、改めてこの「輝ける嘘」を読むことで当時のことが更に深く立体的に理解できるようになるのではないかと考えたからだ。

ハルバースタムがアメリカ政府中枢を中心とした天の文だとしたら、シーハンの「輝ける嘘」は、陸軍中佐であったジョン・P・ヴァンを核としたヴェトナムの地での壮絶で悲壮でそして虚構に満ちた戦いを描いた地の文だ。

南ヴェトナム軍の将軍たちはアメリカの顧問たちを、全権の指揮をとる司令部は政府を、政府中枢は国民と自分自身を欺き、戦争の真の目的を捉え違ったアメリカの兵士たちは、間違った目的と間違った手段でいたずらに尊い命を奪い、自らもその命を落としていく。


 ホー・チ・ミンとその信奉者は、フランス政治の偶然の出来事の中でコミュニストに変貌していった。彼らは官僚であり、ヴェトナムの特権階級であり、外国人が何度試みても征服も鎮圧もできなかった民族の、ごく自然な指導者であった。地球上にそのような人びとは少数ながら存在する。アイルランド人がその例であり、ヴェトナム人がもうひとつの例である。抵抗のための暴力が歴史を形づくり、死を決して恥と思わない生き方を思い起こすという伝統を生んだ。ヴェトナム人の植民地以前の政体は、中国をまねたものである。ヴェトナムの皇帝は、中国の”天の子”のミニチュア版ともいうべき複製だった。そしてその官僚は中国を手本にした国家試験に合格し、孔子の古典に通じていることを証明することで現在の地位を獲得した学者タイプの行政官だった。


ホー・チ・ミンらは共産主義者というよりも、むしろ純粋な民族独立主義者であり反植民地主義であったが、アメリカ政府はそれに気がつくことが最後まで出来なかった。そして、ベトナム民族の大部分が敬虔な仏教徒であり、ベトナムが目指す道は穏健な仏教徒の国であるべきであったのにも関わらず、フランス植民地時代にエリート家庭に生まれ育ったクリスチャンであった人物を傀儡政権の党首としてまつりあげ、国民の反感を買っていることにも全く気づいていなかった。


サロイ寺 Chua Xa Loi


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ヴェトナムの人びとを無垢に愛し守ろうと闘ったジョン・P・ヴァンも自らの生い立ちを再現するかのように、家庭を裏切り、愛人も裏切り、いつしか戦場こそ自分の生きる場所として闘う場所にい続けるために軍を欺き、そして闘う目的そのものについて自分自身も欺きはじめるのだ。


 ヴァンの政治的信条は、世界最強の国だという第二次大戦以後に生まれたアメリカ独自の信念と、この国力ゆえにアメリカはヴェトナムの戦争に導かれたという自分の世界観が結びついたものである。ヴァンにとって他国民は非力な民族であり、アメリカの指導力を受け入れることは当然の理だった。いったん達成すべく運命づけられてた卓越的地位を得た以上、アメリカは決してその座を明け渡してはならないのだと確信していた。アメリカは自己満足のために力を行使するのではない。貧困や社会的不正や悪しき政体によって豊かな生活を否定されている人びとに積極性とテクノロジーを分かち与えながら、非共産主義国に平和を実現し繁栄をもたらす、厳しくはあるが慈悲に満ちた勢力なのだとみなしていた。彼の考えによれば、アメリカの行動はつねに正しく、かりに過ちを犯すことがあるにせよ、意図そのものまでが悪いわけではなかった。反共産主義という点で彼は、極度に単純化して考えた。あらゆる共産主義はアメリカの敵であり、したがって秩序と進歩の敵なのである。


こうした大いなる欺瞞と大いなる犠牲を強いるヴェトナム戦争は、不幸の創造を行う”緑のマシン”と呼ばれ、人種間、世代間の価値観を分断し大きな社会変動を生み出していく。


 1968年1月31日の午前2時45分ごろ、プジョーの小型トラックとポンコツの小型タクシーが、マクディンチ通りの過度を曲がってトンニャット大通りに入ると、そこから工兵小隊が飛び出し、新しいアメリカ大使館の敷地の壁を爆破して穴を開けたときまでに、ヴェトナムでは2万以上のアメリカ兵が死亡し、5万人以上が入院の必要な重症を負っていた。”緑のマシン”とは、アメリカ軍兵士がこの戦争における陸軍につけたうまい名前だが、このマシンは1967年のクリスマスまでに84万1千2百64人を徴兵し、1968年1月にはさらに3万3千人の若者を要求した。戦費は年間3百3十億ドルに達してインフレを招き、アメリカ経済に深刻な影響を与えつつあった。大学のキャンパスは大荒れだった。1967年前は、白人の中流家庭の息子たちは、たいてい大学生の徴兵猶予という手段を利用して、戦争から逃避していた。1967年になると”緑のマシン”の要求はエスカレートし、大学卒業と同時に多数を徴兵するほどになった。戦争に行かされるという恐怖が、拡大する道徳的反発に転化され、本来なら一アジア民族の犠牲や、農村青年および労働者階級や少数民族の息子たちが大砲の餌食になることにもさしたる関心を示さなかったであろう若者を、デモに呼び込んだ。そうした大儀の呼びかけには、同じくらいの数の同じくらい情熱ある女子学生も加わった。


大変な労作。登場する人々の人間性に丁寧にというかこれでもかとばかりに踏み込んでいく本書はまるで深い森のようであり、読んでいく僕たちをその深い森の木々のひとつひとつ、地面の起伏や湿りぐあい、そして風のにおいにいたるまでを知らしめてくれる。

僕たちはシーハンに手引きされ、時には彷徨うようになりながらもその”緑のマシン”の細部から全体像に至るまでを嫌という程味あわせられるのである。

読み終えて浮かび上がってくるものはめらめらと怪しく輝く巨大な嘘の塊なのである。本書を読むのは少なくともこれで3回目。もっとじっくり書きたかったのだが、こんな状況なので文章も体裁もまとめきれていない感がありますがこれまでとさせていただきます。

亡くなられてしまった方々のご冥福をお祈りいたします。被災地の方々にはお見舞い申し上げます。また今も救済の手が差し伸べられるのを待っている人々がいると思います。必ず救済の手は差し伸べられます。それまで希望を捨てず、頑張って耐えてください。そして彼らに一分一秒でも早く手が届くことを願ってやみません。どうか救援活動の方々も頑張ってください。


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荒廃する世界のなかで―
―これからの「社会民主主義」を語ろう
(Ill Fares the Land)」
トニー・ジャット(Tony Judt)

2011/02/26:本書は、2010年8月に62歳でALSで亡くなったトニー・ジャットの本だ。彼は麻痺が進む体と闘いながら最後まで執筆活動を続けていたようで、本書と"The Memory Chalet"の二冊をこの年に上梓している。

僕はトニー・ジャットの本はこれがはじめて、彼は、ユダヤ系イギリス人で、ニューヨーク大学教授。専門はヨーロッパ近代史。「ヨーロッパ戦後史」は歴史に残る金字塔的作品なのだそうだ。一時シオニストとして、イスラエルで軍の支援やボランティアをしたりしていた時期もあるのだそうだが、イスラエルの傲慢さに目覚め決別したという過去を持っている。

政治的には社会民主主義。イギリス、そして特にアメリカでは誠にもって稀少な信条を持っている一握りの人の一人であった。アメリカの社会民主主義者としては他にバーバラ・エーレンライクなどがいる訳だが、大変残念なことであるが依然として旗色は決して良いとはいえない。

アメリカではブッシュⅡがまるで民主党の最右翼であるかのような政策を取って、アメリカの政府の弱体化を進め、オバマが共和党的というかまるで保守的な政策を取って国民皆保険の導入に注力しようなんてしているわけで、それに対して共和党員が集まってティーパーティーだ、増税反対、皆保険導入反対だなんて浮かれているんだから、ほんと訳がわからん。こんなときこそ、社会民主主義者たちはもう少しまともなことを言って前に出てきてもよさそうな気がするんだけどとか。

その点では、日本も全く同様で、アメリカが奈落の瀬戸際に向かって進んでいるのが見えているのに、どうしてそんな状況で民主党が選挙で勝ってしまうのか。自民党だって民主党だってついこの間まではみんな自民党だった人たちばかりなはずなのに、国会で裏切り者だとか造反だとかいって野次を飛ばしあってたり、内輪もめで大臣が辞任だなんて、どんな優先順位持っているだかわからんおっさんがいたりしている間に、国家予算が成立しないとか、海外ではエジプトに続いて、リビアやバーレーンまでもが内戦状態になって、原油価格はどんどん上がるなんて状態になっているのに、まともなコメントすら出来ないというていたらくだ。

国家や国民にとってまるで役に立たない化石のような政治家たちばかりなのは一体どうした訳なんだろうか。なんてことをニュースを眺めながら考えていたら、そんな理由がはっきり分かる本が降ってきた。正に本書はそんな本なのだ。
 こうした一団の政治家たちに共通しているのは、彼らは自国の有権者の熱狂を喚起できていない、ということです。彼らは何か一貫した原理や政策を、確固として信じているようには見えません。そして彼らの誰一人として、前大統領ジョージ・W・ブッシュ(この人もベビーブーマーです)のように嫌われてはいない---ブレアは例外かもしれません---のですが、第二次世界大戦世代のステーツマンたちとは、際立った対照をなしています。彼らからは、信念や威厳が伝わってこないのです。

 彼らは福祉国家の受益者でありながら、その制度に疑問を呈している点で、すべてサッチャーの申し子であり、自分の先輩たちが抱いていた大望に見切りをつけた政治家たちなのです。彼らに託された民主主義的信頼を積極的に裏切った、と言われるような人はほとんどいません---ここでもまたブッシュとブレアは例外ですが。政治と政治家に対して、われわれ全体が抱いている疑念について、責任を分かち持つ公的な人間の世代があるとすれば、彼らこそその真の代表者です。何もできないと確信しているので、彼らは何もしないのです。彼らに対してせいぜい言えるのは、ベビーブーマー世代についてもほぼ同じですが、彼らは特別に何かのために闘うことなどない、ということです---言わば化石化した政治家なのです。

僕らは自分たちの経験則、知識を前提に物事を捉えることしかできないわけだが、長い時間軸でうねりながら流れる潮流を俯瞰する歴史観を持って物事を捉えると、これまでとは全く違った地形が見えてくるものだ。

ジャットは、ヨーロッパの近代史を研究するなかで、近代の政治機構や主義主張、イデオロギーの近代史の全体像を俯瞰する視線を持っている。こうした視線からみた現代社会は、この三十年間それ以前に培われて育て上げ築き上げられてきた様々なものが、グロテスクに音を立てて崩れ壊れていく様子だった。

一方こうした視線を持たず、非常に小さい球体の上に暮らす僕たちは、向こう側はすぐに地平線上から消えて見えなくなるために、その危機感に気がつくことができない。この崩壊は地球が温暖化して砂漠化が進むよりもずっと早く僕たちの社会を荒廃させ、粉々にする破壊力とスピードを持っているのにも関わらず、能天気に僕たちは奇行の目立つどこか壊れた芸能人のニュースに目を奪われたりしてしまうのだ。

チョムスキーも指摘しているように現代社会の荒廃の源泉をたどるとサッチャーが現れ、そしてその背後にはシカゴ・ボーイズがおり、その後ろにはハイエクがいる。

リードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク(Friedrich August von Hayek)は、要は国家権力は本来不要で、必要最低限のもの、バスタブに沈められるくらいの大きさにしちゃえということだった。それ以外のものはすべて余計なもので、それらは民間にやらせるべきだと。

サッチャーやシカゴ・ボーイズがどうあれ、ハイエクがそのような主張をしたことには、やはり背景があった。彼らはオーストリアで、自分たちの国がファシストの全体主義的な行動によっていとも簡単に膝を折って屈服してしまったという苦い経験があったからだという。


 1918年以降のオーストリアには、国家主導の計画化や自治体運営のサービスや、集散的経済活動などを導入しようとして不首尾に終わった(マルクス主義)左翼の試みは、挫折しただけではなく、反動へと直結してしまいました。最もよく知られているポパーの議論によれば、彼と同時代の社会主義者の優柔不断ぶり---「歴史法則」への信仰で自由が利かなかった---は、行動するファシストの根源的エネルギーに太刀打ちできなかった、というわけです。ここでの問題は、社会主義者たちが歴史の論理と人間の理性の両方を信じ過ぎていた、という点でした。どちらにも関心がなかったファシスト側には、踏み込むにはもってこいの状態だった、というわけです。

 したがって、ハイエクとその同時代人から見ると、ヨーロッパの悲劇は左翼の欠陥によってもたらされたのです---先ずは彼らの目的貫徹能力の欠如と、次には右翼からの挑戦に堪えきれなかったこと。これら二つのそれぞれから、道筋は異なるにほよ、同じ結論が導き出されました---自由主義と開かれた社会とを護持する最良の---実際には唯一の---方法として、経済生活から国家を取り除いてしまう、というのがその結論です。権威が安全な位置まで遠ざけられ、政治家たち---どれほど善意の人たちであろうと---が経済計画や、市場操作や、仲間である市民の問題への指導から締め出されるなら、右翼・左翼の過激派も等しく寄り付けなくなるでしょう。


特にアメリカでは、歴史的に国家政府機関に大きな干渉力を持たせることに対する強い懸念があるという。先のティー・パーティー、あのペイリン率いるおバカな騒ぎではなくボストンの事件や、州政府の強い権力などといったものは、ある意味こうした文化的な背景もあって、社会保障、学校、病院、郵政、エネルギーといった本来は社会インフラとして整備されてきたものが売却、放棄され骨抜きにされていった。


 何であれ中央政府に明示的に与えられていない権力は、その欠如ゆえに、州政府それぞれの優先的権力となる---というアメリカ合衆国「権利章典」の大前提は、数世紀にわたる時間の経過のなかで幾世代もの開拓民や移住民の内面に浸透し、ワシントンを「自分たちの生活圏外」へと締め出すための、格好の免許証となってきたのです。


こうした大きな潮流によって、奈落の底へと押し流されそうになっているのにも関わらず、こうした歴史的大局観のない人びとはそのこと自体に気がつくこともできないというのは、なんとも恐ろしい状況だ。まるで地球に向かって巨大な隕石が落ちてきているのに、全く気がついていないかのような状況とも言えるだろう。

ジャットは更にこの潮流に60年代のベビーブーマーたちが起こした新左翼的な動きが加わっていることを明らかにする。


 世代間の亀裂が、階級はもとより民族的経験をも超えて広がったというのが、この時代の特異性です。若者の反乱のレトリカルな表現は、当然ながら一部少数派のものでした。当時のアメリカにおいても、若者の大半は大学生ではなく、学校での抗議行動は必ずしも若者一般を代表していたのではありませんでした。ところが、広範な世代間断絶を示す徴候---音楽、服装、言葉遣い---がテレビやトランジスターラジオや国際化した大衆文化のおかげで、異常な広がりを見せたのです。60年代後半までには、若者とその両親とを隔てる文化の違いは、おそらく19世紀初期以来のどの時点と比べても、大きくなっていたでしょう。


人種や世代間で価値観の格差が大きく広がってしまった結果、何が起こったかといえば、だれかにとって良いものが、必ずしも他者にとって良いものとは限らないという価値観の分裂だ。このように分裂した価値観を持った集団のなかでは、当然のことながら意見の一致をみることができず、効果的で全体的な施策を大胆にとることができなくなっていく。

また、一方で、自由競争、成果主義の広がりは人びとの格差を拡大してきた。この格差は国家間でも、同じ国の人びとの間でも拡大した。社会問題、幼児死亡、平均余命、犯罪発生、刑務所人口、精神疾患、失業、肥満、栄養不良、十代妊娠、違法ドラッグ、経済不安、個人負債、不安障害といった病理学的な社会問題は国家間ではなく、同じ国のなかで暮らす人びとの間での格差が大きいほど増大する傾向があるのだそうだ。
世界的にみてもこのような問題を最も多く抱えているのは考えるまでもなくアメリカなのである。

先日、レイモンド・カーヴァーの本を久々に読み、その直後に本書に取り掛かったわけだが、正にこのような格差社会の寒々とした街のなかで、抱えきれないようなストレスや不安であえぐ人びとが描かれていたということにあらためて気づき愕然とした訳です。

僕たちの社会をこのように荒廃させてしまってはならない。日本の社会は勿論今でもいろいろ問題は抱えているものの、だからといって一度壊してしまえば、そう簡単には、いやもう二度と元に戻すことはできない程長い長い時間をかけて培ってきたかけがえのないものだからだ。


「失われた二〇世紀」のレビューはこちら>>

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「荒廃する世界のなかで」のレビューはこちら>>

「真実が揺らぐ時」のレビューはこちら>>


「ニッケル・アンド・ダイムド」のレビューはこちら>>

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ビギナーズ(The Unknown Terrorist)」
レイモンド・カーヴァー(Raymond Carver)

2011/02/19:カーヴァーは久々、7年ぶり。「夜になると鱒は・・・」から取り掛かり、断続的に、「頼むから静かにしてくれ」や「僕が電話をかけている場所」そして「愛について語るときに我々の語ること」を読んできた。かれこれ20年以上の付き合いになる、カーヴァーは度々帰る故郷の家のような場所だ。

本書「ビギナーズ」は「愛について語るときに我々の語ること」に収録されてた作品群と基本的には同じものだ。「愛について語るときに我々の語ること」が出版されるとき、編集者でカーヴァーを発掘したとも云えるゴードン・リッシュはカーヴァーの作品群に大幅に手を入れ、タイトルを変え文章の分量はなんと半分近くまで削除していた。

この度、カーヴァーの研究家である、ウィリアム・L・スタルとモーリン・P・キャロルによってオリジナル原稿が発掘、一冊の本としてまとめられたものだ。

彼らのおかげで本来の分量を取り戻し、各作品タイトルも元に戻して出版されたものなのだそうだ。

リッシュのおかげで、カーヴァーは有名になりカーヴァーはリッシュを下にもおかない大切な人物として捉えてはいたが二人の関係は必ずしもよいものではなかったらしい。リッシュの編集によってズタズタにされた作品を前に相当なショックを受けていたことは明らかだ。こうして本来の形で出版されたことにきっとカーヴァーは天国で喜んでいることだろう。

僕はこの本を二十数年ぶりに手にし、断片的に覚えている作品もあったが、ほとんど全く初めて手にしたかのような印象を受けた。残念ながら、昔の本が手元にないので、どのあたりが編集されていたのか確認することはできない。しかし、当時の目次が手に入ったので、今回のものと比較してみた。

「愛について語るときに我々の語ること」

"Why don’t You Dance?"「ダンスしないか?」
"Viewfinder"「ファインダー」
"Mr Coffee and Mr Fixit"「ミスター・コーヒーとミスター修理屋」
"Gazebo"「ガゼボ」
"I Could See the Smallest Things"「私にはどんな小さなものも見えた」
"Sacks"「菓子袋」
"The Bath"「風呂」
"Tell the Women we’re Going"「出かけるって女たちに言ってくるよ」
"After the Denim"「デニムのあとで」
"So Much Water so Close to Home"「足もとに流れる深い川」
"The Third Thing That Killed My Father off"「私の父が死んだ三番めの原因」
"A Serious Talk"「深刻な話」
"The Calm"「静けさ」
"Popular Mechanics"「ある日常的力学」
"Everything Stuck to Him"「何もかもが彼にくっついていた」
"What We Talk about When We Talk about Love"「愛について語るときに我々の語ること」
"One More Thing"「もうひとつだけ」

「ビギナーズ」

"Why don’t You Dance?"「ダンスしないか?」
"Viewfinder"「ファインダー」
"Where Is Everyone"「みんなはどこへいった?」
"Gazebo"「ガゼボ」
"Want To See Somthing?"「いいみのを見せてあげよう」
"The Fling"「浮気」
"A Small,Good Thing"「ささやかだけど、役に立つこと」
"Tell the Women we’re Going"「出かけるって女たちに言ってくるよ」
"If It Please You"「もし叶うものなら」
"So Much Water so Close to Home"「足もとに流れる深い川」
"Dummy"「ダミー」
"Pie"「パイ」
"The Calm"「静けさ」
"Mine"「私のもの」
"Distance"「隔たり」
"Beginners"「ビギナーズ」
"One More Thing"「もうひとつだけ」


なかでも強烈に覚えていたのは、「ささやかだけど、役に立つこと」と「足もとに流れる深い川」だった。細かいディテールは漂白されてしまっていたけれど、話の本筋や、ケーキ屋さんで子供のためにケーキを注文するところなんかは映像的に蘇ってくるものがありました。

そして、その話の落としどころには、正に鳥肌が立つ、言葉にならない情動を呼びました。カーヴァーのすごさはこうした、普段触ることも、思って動かすことのできない心根の部分をガンっと蹴っ飛ばしてくるようなところにあると僕は思う。

カミさんに「足もとに流れる深い川」の話をどうしてもしたくてしてしまった。この話は毎年山奥の沢にキャンプして釣りをする男たちの話で、彼らは若いころからの友人同士でこのキャンプを楽しみにしている。それぞれ仕事や家庭を持っているのだが、毎年この時期のキャンプについては、やりくりして予定を合わせている。

彼らが夕暮れ近くに荷物を担いで山奥のそのキャンプ地まで何キロか上り、川岸にキャンプを設営しようとしたところ、川に若い女性の死体が浮いていた。全裸で殺されていたようだった。夜になってしまったしとても疲れていた彼らは、彼女の死体を紐で木に結び流れないようにしてその夜は休んだ。

しかし彼らは翌日もその翌日も釣りをし、予定を一日切り上げて、山を降りると漸く警察を呼んだのだった。夫からこの話を聞いた妻はこの夫の行動に仰天。その無神経な行動が信じられない。
一方で旦那の方は彼女の反応が理解できない。妻は夫に繰り返しそのときの様子を聞きだし、殺された女性の死体のそばで炊事をして釣りをしてきた夫のことをやがて生理的にも受け付けられなくなっていくのだ。

普段ひとつの屋根の下で価値観を共有しつつ暮らしてきたと思っていた人が実は全く自分とは違う考え方、価値観を持っていたことに対する驚きと不安感のようなものがこの作品からはじわじわと滲み出てくるのだ。

カミさんはこの話を聞いて一言「怖いねぇ」。そうなのだ、「怖い」のだ。カーヴァーは怖い。この怖さはどこからやってくるのだろうか。

当時、僕はこのカーヴァーの抱える不安さを単に個人主義の台頭によって忍び寄ってきたものとして捉えていた。今僕はこの記事を書きながらトニー・ジャットの「荒廃する世界のなかで」を読んでいる。
この本のなかでジャットは、戦後から現在までに起こったアメリカの社会の大きな価値観変化について、その原因とともに鋭く切り出していた。

大戦後、復興とよりよい社会を目指して、公的資金を投入して社会インフラを整備してきたが、反共や反戦活動の副作用的なものによって、人種・世代間の価値観に乖離が浮き彫りとなり、マイノリティの価値観も尊重すべきという流れから個人主義が台頭してきた。平行して進んでいたのが、拝金主義とハイエクの流れを汲む小さな政府を目指すリベラル派の活動だった。

社会インフラはどんどんと民営化され、効率化こそもっとも正しいという錯覚が起こり、実際に倫理よりも効率が優先された政策が取られていく。個人はその成果によって報酬を受け格差はどんどんと拡大していく。

諸々の事情により取り残されていってしまう個人は、時として追い詰められ放置されることから、自暴自棄となるものも出てくる。格差社会ではこうした見捨てられた人々によって起こる行きずりの犯罪も増加する傾向があるのだ。

この格差社会の怖いところは、地域ではなく、隣り合って暮らす人と人との間で起こっていくところだ。そしてその格差は通常見えにくい。見えにくいが、確実にそれは広がり根を下ろし、お互いが信じあえない不信感も加わって社会そのものを急速に蝕んでいくのだ。

カーヴァーは、信頼感が前提となっていない人々たちが、同じ社会に暮らしているのにも関わらず、まるで違う星にいるように離れている人たちのその距離感がふと垣間見える瞬間を切り出していたというわけだ。そう、カーヴァーの怖さは正にこの点にある。この手を伸ばせは触れられるほどの距離にいながら、共通点が殆ど見出せなくなってしまうほど価値観がかけ離れていることに気がつく怖さだ。そして後に残る寂寥感を伴う深い余韻。これからも僕はカーヴァーを読んでいくだろう。


「象・滝への新しい小径」のレビューはこちら>>

「レイモンド・カーヴァー」のレビューはこちら>>


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空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」
角幡 唯介

2011/02/19:冬場は無理しないもんねと、心も体もすっかり怠惰な生活になじみきってしまっておりますが、この2年間は天候さえよければかなり頑張って自転車を踏む生活をしてきた。

荒川、中川、江戸川を自転車で遡上していくのはなかなか楽しい。川がどこから流れてきているのか、そしてその場所はどんな感じになっているのか。こうしたことに思いを馳せることってないだろうか。

僕の父の故郷はすっごく山の中で、仙台市内を流れる広瀬川のいわゆる源流のような場所にあった。子供のころ、僕は川というものはどこかにまさにこここそこの川のはじまりと云える場所があるのだろうと思っていた。

「川が流れ出す場所が見たい」父親に連れられて実はあんまり興味のわかない山菜採りやキノコ採りの途中の山の中で僕はおそらくそんなことを言い出したに違いない。

あまりはっきりは覚えていないのだが、父とはどうもこの先会話があまりかみ合わないままれ尻切れになっていったような気がする。
広瀬川も父の実家よりも上に行くと、それは無数の細い沢になり、その沢は周囲の地面から水が集まっている場所であり、川の始まりとはまさにそのとき僕らが立って山菜やキノコを探している場所だった訳だったのだが、当時僕にはその意味が理解できなかった。

父は父なりに説明をしてくれていたのではないかと思うのだが、僕が思っていた川のはじまりというべきイメージとあまりに食い違っていたために飲み込めなかったのだ。

突然素っ頓狂なことを言って家族を困らせるような子供だったらしいし、大人になってもそれはあんまり変わってないのね私ということにも思い知らされる今日この頃だ。

何をだらだらこんなことを書いているのかというと、この「空白の5マイル」である。川の源流が見たい?しかも前人未到で誰も見たことのない場所へ行ってみたい?
そりゃ、確かに!その気持ちすっごくよくわかります!全力でそう思います。第三者から見れば、「なんだそんなこと」とか「それがどうした」と言われるだろうことでも、きっとあなたは自己満足のために行くのだ。文句あっか、と言いたいその気持ちも含めてすっごくよくわかります。
だから、夢中で読みました。わき目も振らず一心不乱に読みました。

本書は第8回開高健ノンフィクション賞受賞作、学生時代に「発見した」前人未到の地、チベット、ツアンポー峡谷の奥地にある「空白の5マイル」。
そこは1878年、イギリス領インドより探検スパイ「パンデット」の任務を帯びたキントゥプから、プラントハンターであったフランク・キングドン=ウォード、そしてカヌーイストの武井義隆など多くの挑戦を無常にも跳ね除け続けている地表に僅かに残る正に前人未到の場所であった。

筆者は単身、無許可でチベットへ潜入この「空白の5マイル」を目指して果敢にも挑戦していく。現地の人ですらあきれるような場所に乗り込んでいく角幡さんの勇気には無謀さすら感じてしまう程だ。



大きな地図で見る


本書では、ご本人の挑戦行ばかりではなく、この地に挑戦した人々、それは一人ひとりのことで一冊本が書けるだろうほど、魅力的で深みのある人々の物語にも触れられており、読みどころは沢山。

ちょっと残念なのは、その「空白の5マイル」の険しさ、ご本人の挑戦そのものの過酷さがいまひとつ把握しきれないところだ。

グーグルマップでは高低差がないため更に全く険しさがわからない訳だけれど、角幡の写真にアクセスすることができました。

そしてほらほら、やっぱり川の源流を見たいと思う心ははやり昔からいろんな人が持っていたわけで、「行ってやろう」「見てやろう」という心意気は痛いほどよくわかりました。


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姿なきテロリスト
(The Unknown Terrorist)」
リチャード・フラナガン(Richard Flanagan)

2011/02/13:三連休を前に考えていたのは、家でのんびりしようということでした。どうやら天候も荒れ気味で、おそらくは雪。そんな日は楽しめる本をしこんで、家に篭ろう、そんな風に考えていた。

この三連休、新年に入ってから固めの本が続いてきたこともあって、ノンフィクションの面白そうな本はないかと思って選んでいたのが、この「姿なきテロリスト」でした。リチャード・フラナガンは初めてで、「グールド魚類画帖」も面白そうだったし、オーストラリアを舞台にした小説というのも、よさげではないかと思った訳でした。

貧しい西部地域から単身シドニーへやってきて、クラブでポールダンサーをしている26歳のドールは、ボンダイ・ビーチで溺れかけた友人の子供を助けてくれた男と街中で再会する。どことなくエキゾチックな雰囲気を持った男はタリクという名であった。

二人はタリクの住む高級マンションの一室で一夜を過ごすが、ドールが目覚めるとタリクはメモを残して部屋から出かけた後だった。ドールも再会を仄めかすメモを残し部屋を後にする。

マンションに隣接するカフェでテイクアウトのマキアートができるのを待っていると、道路に警察車両が殺到しタリクのマンションを取り囲みはじめた。ドールはこの騒ぎと自分自身が関係しているとは夢にも思っていなかったが、この時捜索の対象となっていたのはタリク本人であった。

二人がマンションに入ったときの姿は防犯カメラに収まっており、ドールとクラブで面識を持っていたテレビキャスターは、この映像を見て女がドールであることを見抜くこともまったく予想外の事態であった。ドールの与り知らない間に彼女はテロリストの一味として、テレビに繰り返しその姿が流され、まるで裏づけもないままに容疑者として追われる身となってしまうのだった。

滑り出しはなかなかで、前半までは明らかに読ませるものがある。ドールは自分の生い立ちも西から来たということも常に引け目に感じており、その反動からか、アジア人や中東の人々に対して強いよそ者意識を持っていたり、ニュース・キャスター絵に描いたような俗人ぶりなど。

しかし、ニュース・キャスターとしてテレビで顔を知られている人物が一元の客として、ポールダンサーに札びらを切ったり、暴言を吐いたりするのだろうかなんて部分が気にならないわけではない。

そんなこんなで、登場人物が出揃ってくると、なんだかみんなご近所さんなのだ。みんなして知り合い。そんなことある?ってくらい世間が狭いのだ。

本書のテーマは、テロリスト本人というよりも、そんな人物が紛れているかもしれないという社会に暮らす不安さであったり、マスコミによって必要以上にヒステリーになってしまう人々そのものにあるのではないかと思うのだが、物語はなんだか密室劇のような閉塞感のなかにどんどんと落ち込んでいってしまう。

僕の予想では、オーストラリアらしさのようなものがもっと醸し出されてくるものかとも思っていたんだけどね。そして最後は途中で感じた以上でも以下でもない着地を見せてあっけなく幕を閉じてしまった。

本書は物語やテーマというよりも各シーンにおけるイメージ先行型。どことなく「ブレードランナー」を思わせる近未来的な都市のなかで追われる女。映像にすればそれは見た目スリリングで美しいものは作れるかもしれないけど、映画ってそんだけのものではないと思う訳で、すこぶる残念でありました。


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チェチェン 廃墟に生きる戦争孤児たち
(Angel of Grozny: Inside Chechnya)」
オスネ・セイエルスタッド(Asne Seierstad)

2011/02/12:チェチェンという聞きなれない地域のことがニュースになったのは2002年、チェチェン共和国の独立派武装勢力がモスクワ劇場で多数の人質を取って占拠されるという事件が起こり、これに強硬な態度で応じた政府側がどうやら人質がいるのにも関わらず致死性の有毒ガスを使って鎮圧したらしいという不気味な事件が起こったときだったと思う。

その後、2004年にはベスランの中学校が今度はチェチェン独立を唱える多国籍の武装派勢力によって占拠されるという事件が起こった。このときも激しい銃撃戦となり、子供を含む大勢の死者が出た。

あの時も今もチェチェンでは悲惨なことが起こっていると言われながらも、いったいどんなことが進行しているのか、正直さっぱりわからないという状態にあった。

いつかちゃんとチェチェンで何が起こっているのかを知りたいと思っていた。これだと思う本を探していた。天からゆっくりと降りてきたのがこちらの一冊。

読み始めてまずびっくりしたのはこの本を書いているオスネ・セイエルスタッドは女性だったことでした。

チェチェンでは相当悲惨なことが起こっていて治安もかなり悪い。こうした場所に取材に行ってきたということから、てっきり男性だとばかり思っていたのだ。

彼女はノルウェーのアルバイデルブラーデ紙、現在はダーグスアヴィーセン(dagsavisen)紙となっている新聞記者であった。ごく普通の記事を書いていたらしいが、1994年の暮れ、エリツィンが鼻の手術のために入院すると、その代行役となったパーヴェル・グラチョフが、チェチェンに侵攻した際に新聞社の反対を押し切って、単身チェチェンに潜入取材を試みた。

本書は彼女の本のなかでは後発だが、この初めての戦争ルポに加えて、第二次チェチェン戦争、そしてその後にやってきた、親ロシア派大統領ラムザン・カディロフの欺瞞に満ちた傀儡政権の内部へも入り込んで得られた情報に基づき書かれているという大変な労作なのである。

この本のなかにあるチェチェンは、僕の目には過去のものに似てもいなければ未来的でもない、目を覆う、暴力につぐ暴力の嵐で激しく歪められた社会だった。


 ドゥバユルトは堂々たるコーカサス山脈のふもとにあり、緑豊かな丘に囲まれている。ロシアが何百年も前から征服したがっていたところだ。アレクサンドル一世は、1801年にグルジア王国を併合したが、この土地の部族は19世紀半ばまで帝政ロシアと戦い続けた。当時、ロシア軍はテレク川のほとりに陣を張り、そこに配置したコサック兵に村落を襲撃させていた。放牧地を荒らし、家畜を奪い、一人でも多くの村人を捕虜にしようとした。しかし部族民が報復に出るのは早かった。自陣に帰り着かないうちに反撃されることは珍しくなく、夜、宿営地にどこからともなく弾丸が飛んできて、見張りの喉がかき切られ、テントに火が放たれ、捕虜が逃がされることもある。ロシアにとって、彼らダゲスタンとチェチェンの戦士たちは最強の敵となった。彼らの指導者イマーム・シャミーリは、キリスト教徒に対する聖戦を呼びかけ、配下の民を終結していった。


トルストイがはじめて戦争に出かけてコーカサス地方で戦った相手はこのチェチェン民族たちであったわけだ。この後もチェチェンはロシアの飼い犬となることに強く反対する風潮が根ざし、度重なる抵抗と粛清が行われていたようだ。

1944年。ドイツ軍の侵攻が再びチェチェンの反政府意識に火をつけてしまうことを恐れたソ連は、チェチェン人たちの中央アジアやシベリアへ強制移住を強いる。
この移住によって全人口の50万人のうちおよそ3分の1(一説には4分の3)に相当する人々が命を落としたという。

1957年、フルシチョフがチェチェン人の圧制が緩和したことで漸く故郷へ帰ることが許されたのだという。この強制移住の話はソ連時代にはタブーとされ、歴史の本には記述がなく、大部分のロシア人たちはこの事実を知らないのだそうだ。

ソ連崩壊を目前とする1990年、エリツィンはゴルバチョフの弱体化を目論見、地方の共和国に権力の移譲を求めるように働きかけた。グローズヌイでは、チェチェン民族会議の執行委員であったジョハール・ドゥダーエフはエリツィンに賛同していたが、目指すものには大きな開きがあった。ドゥダーエフはチェチェンを独立した国にしたいと考えたが、エリツィンが目指したロシアの地図にはチェチェンがそもそも含まれていたのである。

1991年。ドゥダーエフは地元での基盤を固め、ロシアからの独立宣言をするやエリツィンはチェチェンに対し非常事態宣言を発令、ロシアの内務省治安部隊が出動する事態となった。この時は、内務省の部隊が空港で武装解除させられソ連に戻されたことで、無血に終わることができたが、ソ連にしてみれば大変な屈辱的事態であり、この時からドゥダーエフとエリツィンの間では決定的な決別があったものと思われる。

1994年12月。4千人のロシア兵は突如チェチェンになだれ込んだ。もちろんこの背景にはチェチェンの反ロシア的な挑発もあったろうし、チェチェンマフィアと呼ばれる者どもによる、モスクワ銀行襲撃をはじめとする強奪、密輸、詐欺などに業を煮やしたものであったらしい。

しかし、この時の侵攻そのものは、パーヴェル・グラチョフが自身の誕生日の酒宴で思いつきで実行が決定したということから「バースデー作戦」と呼ばれる杜撰なもので、侵攻した戦車部隊は無抵抗のままグローズヌイの街中まで入り込んだ時点で大規模な待ち伏せに合い、徹底的に殲滅させられてしまうのだった。

ロシアは二度にわたる屈辱的な敗北と、チェチェンの独立を許せば他の地域に波及してしまう可能性を呼び起こす、まさにあってはならない事態となった。熊が全力でその怒りのこぶしを振るうことになった。

1999年。プーチンは首相に就任するとチェチェンに対してさらに強硬な態度で臨んでいく。チェチェンの町は瓦礫の山と化し、社会インフラは崩壊してしまうのだ。

一方でこの戦いのなかでチェチェンの戦士たちは、自身の民族独立のレトリックに、急進的イスラム教の要素を付け足すことで、中東・アジアに広がるイスラム過激派の支援を受けることになったらしい。このため地域の若者たちはそれまでにはみられなかったワハビズムに急速に傾倒し狂信的な過激派たちを生み出していくことになった。

1996年に暫定政権首相に就任したアスラン・マスハドフは、比較的穏健派でロシア連邦大統領・エリツィンと歩み寄るかとみえたが、シャミル・バサエフ率いるイスラム原理主義者たちがダスケンに侵攻するなどの事件が相次ぎ、イスラム化に強い警戒心を抱くロシアはマスハドフ政権の合法性を認めず、新ロシア派としてアフマド・カディロフを暫定政府大統領に立てつつも第二次チェチェン戦争に突入していく。

2004年、アフマド・カディロフはグロズヌイの競技場で対独戦勝利を祝う戦勝記念式典に出席した際、座席の下に仕掛けられた爆弾によって暗殺されてしまう。この事件はロシアによる自作自演であるという疑いもあるが、シャミル・バサエフによる犯行声明が流れている。

2005年。ロシア連邦保安庁(FSB)特殊部隊を差し向けマスハドフを殺害。2007年には、イングーシでバサエフも戦闘中に死亡が確認されている。

現在、チェチェンの大統領となっているのは、アフマド・カディロフの息子ラムザン・カディロフである。彼はロシアからの支援を後ろ盾にカディロフッィと呼ばれる親衛隊のような男たちにガードされている。

彼らは実体としてはロシアの手先であるらしく、イスラム原理主義者たちを激しく取り締まり、その手段は証拠も証言も不要で拷問や暗殺も辞さない非常に残虐で一説には私設の刑務所までもあるという話だ。

チェチェンでは、民族独立に対するプライドとイスラム原理主義が最悪の形で結びつき、一方の側ではなんとしてもロシアからの独立を許さない国益優先の無慈悲な国家が対峙することでこれ以上ない悪夢のような事態が生み出されていたのである。

モスクワの劇場もベスランの学校も占拠していたのはこのチェチェンの地で家族を殺され望みも行き場も失った者たちによって引き起こされていたものだったのだ。

オスネはこのチェチェンの地を合法・非合法の手段でなんども訪れ、女性ならではの目線と立場で現場で生きている女性たちや子供たちの話を拾い集めている。
それは胸が締め付けられるような悲劇の連続だ。

目を開き、そして知れ。


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HAL伝説―2001年コンピュータの夢と現実
(HAL's Legacy: 2001's Computer as Dream and Reality)」
デイヴィッド・G・ストーク(David G. Stork)

2011/02/12:映画好きなら、映画に関する本が面白いのは当たり前なのだろうが、これは製作過程のこぼれ話にとどまらず、製作者側の意図したものを知ってから再び映画を観ることでまた一段と面白さも増すからだ。

なかでもキューブリックの映画に関する本は、非常に奥深いものがいろいろある。ヴィンセント・ロブロットの「映画監督 スタンリー・キューブリック」も面白かった。



今振り返ると、この記事のなかで僕は、「2001年宇宙の旅」について映画を超えた概念だと思ったなんて、ずいぶんと簡単に触れていただけだった。

キューブリックに関する圧倒的な情報量の前で、そそくさとお店をたたんでしまった感じですね。そのとき、「HAL伝説」にもチラッと触れていたわけだが、こちらに関してもほとんど何も触れずじまいだった。

「2001年宇宙の旅」についても、「HAL伝説」についてもいつか触れてみたいと思ってはいたのだがなかなか機会がないままになってしまっていた。

先日「ファーストマン」を読んで、そうかこの「2001年宇宙の旅」はアポロが月へ飛ぶ前年に公開されてたんだなぁと改めて気がつき、

驚いたことに、2001年も2010年も過ぎた今、今一度この「HAL伝説」に立ち返ってみたらどんなものが見えるのだろうかということで再読することにしました。

まずは映画「2001年宇宙の旅」について、こちらは1968年に劇場公開された映画だ。人類の祖先となるヒトザルたちが知恵や道具を獲得する以前の約400万年前。群れ同士で獲物や水を奪い合っていた彼らの前に突如、黒い石版のような謎の物体モノリスが現れる。このモノリスに触れたヒトザルはそれを機会に道具を使うという知恵を授かる。

2001年。宇宙ステーションが地球の周回を回り、月面には研究施設としての基地が設けられている。アメリカ合衆国宇宙評議会のヘイウッド・フロイド博士は、宇宙ステーション経由で月のグラビウス基地へ向かう。グラビウス基地に謎の伝染病が広がっているといううわさが流れていた。しかし、この伝染病の話は作為的に流されたデマであり、実態はティコクレーターで発掘された謎の物体が発見されたことによるものだった。

この発掘された物体は、黒い石版まさにモノリスであった。明らかに人工物であり、埋められたのは少なくとも400万年も前のことらしい。フロイド博士がこの石版に触れると、耳を聾するような強烈な信号が発せられた。

18ヵ月後、宇宙船ディスカバリー号が木星探査へ向かっている。乗員は、5名。うち3名は人口冬眠中で起きているのは船長のデビッド・ボーマンとフランク・プールの2人。そして宇宙船のすべてのコントロールをつかさどるコンピューターHAL9000。HALは完全無欠の人工知能であり、カメラやマイクとスピーカーを使って、視覚もあり会話をかわすこともできるのだ。

船の航行に関すること、人口冬眠している乗組員を含めて乗員たちの状態管理もHALが行い、ボーマンらはほとんどすることがない。ある日、HALは地球との交信用に使っている送信装置の障害が起こりそうだと告げる。船外活動を行ってこの送信装置を交換し確認したところ、どこにも問題がないことがわかる。

地球上にあるHALと双子の9000型のコンピューターも異なる判断をしている。完全無欠のコンピューターであるはずのHALが間違う、双子の相手と違う回答を出したということに憂慮したボーマンとフランクは、HALに隠れてHALの接続を切ることを相談する。

彼らの唇の動きから、その思惑を読み取ったHALは乗員たちを殺害しはじめる。HALは乗組員たちには知らされていない指令が与えられており、この指令の実行とシステムを切断されるかもしれないという葛藤のなかで、異常な判断を下しだしたのだった。

ディスカバリー号の真の目的は、月で発見されたモノリスが発信している信号の送信先となっている木星付近の場所を探索することにあったのだ。

この後映画はさらに観客の予想を超えた出会いをとげ、スターチャイルドの誕生へとつながっていく。

この映画の本題だと思われるものとして、高度に進化した異星人文明との出会いはわれわれにとって神との遭遇と区別がつかないだろうというところにある。ヒトザルが触れることで人類は知恵を獲得したように、木星付近で次なる接触を果たした人類は次の進化のステージへ進んでいく。
この進化の時期と方法を授けているのが実は高度に進化した神のような存在である異星人だという訳だ。

この映画にはセリフが殆どなく、説明的な部分も非常に限られている。観客は映像が誰目線でそれの意味するところは何かということについて深い洞察をめぐらせる必要がある。長い長いひとつのシーンの背景が徐々に見えてくるような撮り方をしているのだ。この僕の解釈はいろいろな人の受け売りも含まれているが最終的には僕個人のもの。説明もセリフも殆どない本作についてはほかにも何通りにでも解釈は可能だ。

映画を未見の方はぜひじっくり鑑賞して自分なりの解釈を生み出してみてはいかがだろうか。

この映画が映画を超えていると思うわけはこの解釈の多様性と、その映画の取り扱っているテーマ。人類の誕生。進化。そして神のような異星人の存在にある。神がどんな姿でどのようにこの世界を作ったかについては議論をしてもほんとにいるのかいないのかも含めて答えが得られることはないだろうが、神のように進化した異星人の存在は否定しにくいようだ。

そのような大胆な発想をもとにしていることがこの映画を単なる映画とは一線を隔したものにしているのである。

この映画そのものについては、まだまだ沢山掘り下げるべきテーマがあるわけだが、その代表格はHALだ。

HALは映画の中で自ら「自分は完全無欠だ」と発言している。一方で、ボーマンは「話をしやすいように作られている」とか「まるで感情があるかのようにみえる」とし、HALの人格を尊重しているようでもありながら、おそらくたぶん認めていない。

また、モノリスの背後にいる知的生命体もHALの存在を拒否しているかのような、あるいはHALのようなものに頼りきりになっている人類そのものを拒否しようとしているかのようでもある。

我が家では一台しかないコンピューターのWindows Vistaのセキュリティ用のパッチプログラムの更新のひとつがあたらず、修復方法をいくつか試してもうまくいかず、最後の手段で、Vistaのリカバリをしたら、インストールされていたソフトがすべて消えるという前よりも状態が悪くなっちゃったじゃないのという果てしなく憂鬱な事態に陥っています。

HALのようなコンピュータと宇宙旅行はごめんだが、ロケットのOSがWindows Vistaでしたと言われたらやっぱり不安になる。ちゃんとした人工知能が開発される日は来るのだろうか。


果たしてHALはいつか実現可能なものなのだろうか。1968年当時に考えられていたコンピューターの将来、人工知能の定義とはいったいどのようなもので、今それはどんな状況になっているのだろう。どんな予測が正しくあるいは間違っていたのだろうか。


序(Foreword)
アーサー・C・クラーク(Arthur C. Clarke)

まえがき(Preface)
ディヴィッド・G・ストーク(David G. Stork)

第 1章『』よく考えぬかれた夢(The Best-Informed Dream: HAL and the Vision of 2001)』
ディヴィッド・G・ストーク(David G. Stork)

第 2章『セットに立った科学者(Scientist on the Set: An Interview with Marvin Minsky)』
ディヴィッド・G・ストーク(David G. Stork)

第 3章『HALは製造可能か?(Could We Build HAL? Supercomputer Design)』
ディヴッド・J・カック(David J. Kuck)

第 4章『完全無欠でありエラーもない?("Foolproof and incapable of error?" Reliable Computing and Fault Tolerance)』
ラヴィシャンカール・K・アイアー(Ravishankar K. Iyer)

第 5章『とても楽しいゲームでした("An Enjoyable Game": How HAL Plays Chess)』
マレイ・S・キャンベル(Murray S. Campbell)

第 6章『話すコンピュータ("The Talking Computer": Text to Speech Synthesis)』
ジョセフ・P・オリーブ(Joseph P. Olive)

第 7章『いつHALはわれわれの話を理解するようになるか?(When Will HAL Understand What We Are Saying?Computer Speech Recognition and Understanding)』
レイモンド・カーツワイル(Raymond Kurzweil)

第 8章『もうしわけありませんが、デイヴ、それはできません("I'm sorry, Dave, I'm afraid I can't do that":How Could HAL Use Language?)』
ロジャー・C・シャンク(Roger C. Schank)

第 9章『「2001年宇宙の旅」から2001年へ(From 2001 to 2001: Common Sense and the Mind of HAL)』
ダグラス・B・レナト(Douglas B. Lenat)

第10章『コンピュータの目(Eyes for Computers: How HAL Could "See")』
アズリール・ローゼンフェルド(Azriel Rosenfeld)

第11章『唇の動きが見えた("I could see your lips move": HAL and Speechreading)』
ディヴィッド・G・ストーク(David G. Stork)

第12章『宇宙での生活(Living in Space: Working with the Machines of the Future)』
ドナルド・A・ノーマン(Donald A. Norman)

第13章『HALはデジタルの涙を流すか?(Does HAL Cry Digital Tears? Emotions and Computers)』
ロザリンド・W・ピカード(Rosalind W. Picard)

第14章『そのような事態を許すわけにはいかない("That's something I could not allow to happen": HAL and Planning)』
ディヴィッド・E・ウィルキンズ(David E. Wilkins)

第15章『コンピューター、科学、地球外生命-スティーヴン・ウォルフラム・インタビュー(Computers, Science, and Extraterrestrials:An Interview with Stephen Wolfram)』
ディヴィッド・G・ストーク(David G. Stork)

第16章HALが殺人をおかしたら、だれが責められるのか?『(When HAL Kills, Who's to Blame? Computer Ethics)』
ダニエル・C・デネット(Daniel C. Dennett)


本書は原作者であるアーサー・C・クラークや、「誰のためのデザイン」なんていう古典的名著を書かれたドナルド・A・ノーマンをはじめとして、認知科学やコンピューター・サイエンスの最先端を行く方々に、この映画を観て、解釈を加えたものになっている。

マレイ・S・キャンベル(Murray S. Campbell)
IBMのT・J・ワトソン研究所研究員で、ディープ・プルー・コンピューター・チェス・グループの初期メンバーのひとり。

アーサー・C・クラーク(Arthur C. Clarke)
ポピュラー・サイエンスとサイエンス・ファンタジーの分野で70冊以上の本を執筆。「2001宇宙の旅」原作者

ダニエル・C・デネット(Daniel C. Dennett)
タフツ大学の芸術・科学教授。哲学教授。認知科学センターの部長

ラヴィシャンカール・K・アイアー(Ravishankar K. Iyer)
イリノイ大学アーパナ・シャンペイン校の電子・コンピューター工学科、コンピューター科学科、統合科学研究所の教授

ディヴッド・J・カック(David J. Kuck)
MITのコンピューター科学及び電子・コンピューター工学の教授。カック&アソシエイツ社の創設者

レイモンド・カーツワイル(Raymond Kurzweil)
カーツワイル・アプライド・インテリジェンス社の創設者。世界初のオムニフォントOCRシステム、盲人用印刷物読上げマシン、フラットベット・イメージスキャナ等の開発を手がけた。

ダグラス・B・レナト(Douglas B. Lenat)
元カーネギー・メロン大学、スタンフォード大学のコンピューター・サイエンス教授。人工知能が専門。

ドナルド・A・ノーマン(Donald A. Norman)
アップル・コンピューター社の先端技術担当副社長。カリフォルニア大学では認知科学部を創設し最初の学部長へ就任「誰のためのデザイン?」は古典的名著となっている。

ジョセフ・P・オリーブ(Joseph P. Olive)
ベル先端技術研究所のテキスト-音声研究部部長。言語学、言語処理、発声法など研究を行っている。

ロザリンド・W・ピカード(Rosalind W. Picard)
MITのコンピューター・アンド・コミュニケーション日電開発教授。

アズリール・ローゼンフェルド(Azriel Rosenfeld)
メリーランド大学オートメーション研究センターの教授兼センター長。コンピューター・サイエンス・心理学部と、工学部の提携教授。

ロジャー・C・シャンク(Roger C. Schank)
ノースウェスタン大学のコンピューター・サイエンス、教育、心理学におけるジョン・エバンス(記念)教授。同大学のラーニング・サイエンス研究所所長。

ディヴィッド・G・ストーク(David G. Stork)
リコー・カルフォルニア研究センター主任研究員。機械学習および知覚グループのリーダー。スタンフォード大学電子工学科顧問準教授。心理学の客員研究員。

ディヴィッド・E・ウィルキンズ(David E. Wilkins)
スタンフォード大学、メルボルン大学の客員研究員。人工知能、行動、知識表現、設計と実行に関するプランニングと推論などの研究を行っている。

スティーヴン・ウォルフラム(Stephen Wolfram)
ウォルフラム・リサーチ社の創設者。コンピューター・ソフト”マセマティカ”の主要開発者。イートン校、オックスフォード大学、カルテクを卒業。高エネルギー物理、量子場理論、宇宙論、セルオートマトン、カオスと複雑さの理論、コンピューター流体力学、コンピューター暗号理論などの分野で業績がある。

上梓されたのは1997年。映画から約30年が流れている。30年経っても立派に評価されるSF映画ということ自体がこの映画の芸術性の高さの証なのではないかと思う。


 コンピューターにできることを何でもバカにするのは、常にたやすいことだ。コンピューターは巨大なメモリと高速の論理計算能力を備え、些細な一ステップの動作を順番に行うよう人間にプログラムされる、文字どおり、本物のバカなのである。

 けれども、これまでに開発されてきた複雑なアプリケーション・プログラムによって、今日のコンピューターがどれほどのことを行えるか、考えてみてほしい。そして科学者も、技術者も、そしてビジネスマンも、コンピューターなしでどれほどのことができるのかも考えてみてほしい。もちろん、コンピューターで何を演算するかということ、ユーザーが演算結果を元に何をするかということのあいだには、違いを示す細い線が引かれているが、演算結果が(それがいかなる形式で出力されたのかを問わず)人々の技術上、もしくはビジネス上の判断に影響を及ぼしたり、変更を生じさせたりすることが多いということに、ここで言及しておこう。

ディヴッド・J・カック(David J. Kuck)


 知識とはたんにる事実やデータではない。”情報(インフォメーション)”が”知識(ナレッジ)”となるには、アイディアとの関係が組み込まれていなくてはならない。
また使える知識であるためには、概念と概念の関係を記述しているリンクが容易にアクセス、更新、操作できるものでなくてはならない。
人間の知能はこれらの課題すべてにおいて、とてもすぐれている。ところが皮肉なことに、、知識の基盤となっている情報の確実な蓄積という点では、きわめて劣っている。

 現在のコンピューターは大量の情報を確実に蓄積し、すばやく引き出せるがゆえに、人間にとってはきわめて有能な味方となっているのだ。逆をいえば、彼らは真の知識をなかなか獲得できない。

レイモンド・カーツワイル(Raymond Kurzweil)


 複雑な価値判断のさいに完全無欠であるといっていること自体、HALがとうてい完全無欠などではないことをしめしている。個人的にはシナリオライターの単純ミスだと思うが、やはり責任問題でこんなふうに答える輩は、ふざけていると思われるのがおちだろう。このことから、HALはインタビュアーの質問を本当には理解していないと考えるほうが筋が通る。しかしそれは別の問題だ。

 つまりHALはこの日から運用をはじめられた。しかしHALのようなコンピューターの場合、この日時に知能をもったとはいえない。当時は子どものコンピューターとでもいったもので、それからささまざまな現象を経験しながら学んできたはずだ。もちろん、新しい経験を解釈するために、最初から最小限の知能はもっていなくてはならない。さらにそういった経験を意欲的に積み重ねるような目標をもっていなくてはならない。いいかえれば、人間と同じように行動によって学んでいくのだ。説明してもらって覚えるものもあるだろうが、いらだちや自信の欠如といった概念において、直接にせよ間接にせよ、経験して学ぶしかない。
つまり(子どもの頃の)HALは”遊び”としてミッションの管理を行い、様々な結果を経験して、そのなかから本物のミッションの管理法を学んでいくはずだ。子猫が遊ぶのはただ楽しいからだけではない。学習とは、さまざまな情況における試行のうえに成り立つものなのだ。

 「2001年宇宙の旅」のHALにおいて仮定されていた知能のモデルというのは、AIのモデルとしてまちがっているばかりか、人間知能のモデルとしてもまちがっていた。すぺての話題を知的にこなせる人間など、いったいいるだろうか。

ロジャー・C・シャンク(Roger C. Schank)


 ”感情(エモーション)”というのは定義しにくい言葉だ。恐怖や怒りのような人の内的状態(心理学でいう”情動状態”)はまぎれもなく感情の側面のように思える。だが、それなら、興味や退屈や希望、欲求不満や欲望は?じつのところ、感情の研究者のあいだでも感情の定義についての通説は存在しないし、愛情のような気持ちは感情とみなされていない。彼らはまた基本的な感情なるものが存在するのか否か、唯一の連続的な状態が存在するのか、それともわたしたちが”感情”というレッテルを貼っているさまざまな思考が存在するにすぎないのかについても論議している。感情の定義について研究者の意見が一致するまでには、長い時間がかかりそうだ。

 ボーマンの答えは、科学というよりも哲学の領域に属する、「コンピューターは感情をもてるか?」という難題をうまくかわしている。いうまでもなく、その答えは感情の定義によって変わるが、理論家たちは、その定義をめぐっていまだに議論しつづけている。したがって、いまのところ、うまい答えは存在しないということになる。この質問は、「コンピューターは意識を持てるか」という質問に等しい。だが、”意識(コンシャスネス)”もやはり定義が難しい概念だ。小説版「2001年宇宙の旅」で、クラークはHALに、恥や罪悪感のようなある種の感情に不可欠な必要条件自意識(セルフコンシャスネス)を与えている。

ロザリンド・W・ピカード(Rosalind W. Picard)


専門家の意見も一部その実現に向けて意気込んでいる方を除けばコンピューターが人間と同じ自我・人格を持ち得ること自体にどちらかといえば否定的。できたとしてもまだまだ先のことだと考えているようだ。

人間の脳はおよそ一千億のニューロンを持っており、この接点は全体で百兆の同時処理を行うことができるのだそうだ。1997年当時のコンピューターはこの一千万分の一程度の計算能力しかないのだそうだ。

このことから人間が生きていくうえで必要となる生体のコントロールと、思考や情動のような大脳皮質で行っている働きをコンピューターが模倣できるようになるには当然のことながら相当の時間を要することになりそうだ。その意味では2001年のHALの存在は製作当時の予測を誤ったといえることができるだろう。

しかし、いつかHALのような人工知能を実現させることはできるのだろうか。HALは自分自身の意識、ミッションの達成と乗組員たちの生命を天秤にかけ、乗組員たちを殺すことにした。またミスを犯し、その失敗を認めようとせず、他人のせいにするばかりか嘘をつき、最期には「死」に対する畏れも口にするのである。

ロジャー・C・シャンクは人工知能のモデルとして間違った考え方をしていると述べているが、僕にはむしろ本当に人間のような知性をコンピューターが持つとしたらHALのようになってしまうのではないかと思う。

なぜなら人間がミスを犯し、嘘をついたり、ごまかしたり、場合によっては相手を殺すような存在だからだ。コンピューターに目指させるものがあるとすれば、それは人間的であるべきではなく、もっと違ったものにするべきなのではないだろうか。

アーサー・C・クラークやキューブリックはこうしたことについてどんな風に考えているのだろう。そんな切り口で彼らの言動を追ってみるのだが孤高にして多くを語らず。

うーむ。どうなんだろうねー。どんな考えでこの映画を作ったんだろうね。僕は我が家のささやかなコンピューターにWindows Vistaをインストールしている間、リビングで「2001年宇宙の旅」のDVDを再び引っ張り出して鑑賞しました。

この映画も度々繰り返してみているのだけれど、そのたびにはじめて見たときの印象ほど長くない、そしていまだに衰えない斬新さに驚いてしまうのでした。

本書はHAL's Legacy で原文だが触れることが可能でした。


「2001:キューブリック、クラーク」のレビューはこちら>>

「映画監督 スタンリー・キューブリック」のレビューはこちら>>

「HAL伝説―2001年コンピュータの夢と現実」のレビューはこちら>>

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ヤマト王権 幻視行―熊野・大和・伊勢
桐村 英一郎

2011/02/06:現在、日本神話と呼ばれているものは僕の父母の時代には神話ではなく史実として教えられていた訳で、それは現人神である天皇と直結したものであって、宗教観と云うよりもおおきな世界観として捉えられるようにされていたのではないかと思う。受けとめる側がそれを信じていたのかどうかは別として。

「日本書紀」や「古事記」をお話、伝説とかの類ではなく、旧約聖書やコーランのように共通の世界観、信条・信念を支える教典として捉えるなら、戦前の教育はさておき、この天皇を頂点とする日本人のこの世界観というものは、どこからやってきてどんな人々によって共有され、受け継がれてきたのだろうか。

僕らが子どもの頃、学校では大和時代と云う時代区分があり、大和朝廷が黎明期の日本の政治勢力を築いたと教えられていた。しかし、その後の調査研究や年代特定手法の進歩等により、大和時代と呼ぶことが必ずしも適切ではないことがわかってきた。

現在では、この時代を古墳時代と呼んでいるのだそうだ。つまり


旧石器時代
縄文時代
弥生時代
古墳時代
飛鳥時代
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
南北朝時代
建武の新政
室町時代
戦国時代
安土桃山時代
江戸時代


こんな感じになるのだそうだ。古墳時代は前期・中期・後期があり、前期が3世紀後半から4世紀初め頃まで。中期は5世紀末、後期は7世紀の半ば頃までとされる。

古墳時代のいわれは正しく古墳にあり、九州から東北までの広い地域で前方後円墳を中心とした古墳が作られた時代だ。

この古墳群を作ったのが大和王権なのであれば、これを大和時代と呼ばなくなった事情はどんなところにあるのかと思うのだが、どうもこのあたりはよくわからない。いろいろ手繰ってはみているのだが、なんとも歯がゆい。

素人の斜め読みで解釈させていただくと、倭国にヤマト王権が成立し、王権を強化し日本列島の統一を進めていくなかで、大伴・物部・蘇我といった地方地方の豪族たちを討ち滅ぼすというよりは併呑・融合していった時代だった。結果的にはヤマト王権から連なる系譜が大化の改新を行い飛鳥時代へと連携を果たすわけだが、黎明期のヤマト王権はあくまで他の豪族たちと横並びの地方豪族の一つであり、近隣の王たちと連合・連立或いは衝突・侵略をし合っていた。つまり今に残っている歴史は勝ち残ったもののストーリーなハズだ。

こうした時代に生きた人々の間で王に世界の創造等の神格化した権威づけがなされているのは世界的にみてもありがちな話しで、支配される側の人々を畏れさせ、敬わせるものであったろう。繰り返すが、現在の神話はこうした時代にあっては宗教を越えた世界観を人々に抱かせるものがあったろう。

日本神話は地方の王権の統廃合と合わせてその土地、その土地の物語、つまりアミニズムを飲み込み結びついていったものなのではないだろうか。日本列島に散らり点在していた集団・豪族たちは、その土地、その土地にある山や森、巨石や大木などといったものに神を見出し、信仰の対象とすると同時に支配者たちは自分たちの物語にそれら神格化された対象を結びつけていた。つまり地方の支配者=神であった訳だ。

本書は朝日新聞で記者や論説に長く務めた著者が定年後、奈良県明日香村に居を構え、ヤマト王権について研究しその成果を踏まえつつ、熊野、大和、出雲、越、高千穂、伊勢とその痕跡を追っていくというものだ。

そこには、喜怒哀楽に富み、そして驚いたり、嫉妬したり、悪事をはたらき時には懲罰も受けてしまうなんとも人間臭い神々がおり、こうした神々と深く結びついた王権政治、そこに暮らしてきた人々の営みも浮かび上がってくる。権力者たちにとっては神と結びつく自分たちであり、市井の我々にしてみれば、自分たちの暮らす場所におわす八百万の神々と結びついた権力者たちであった訳だ。

このテーマはまだまだわからないところが沢山あり、とても深い。もっともっと掘り下げて調べていってみたいと思います。

あ、また塚原さんの写真もとっても素晴らしかったです。


△▲△

ファーストマン
(FIRST MAN: THE LIFE OF NEIL A. ARMSTRONG )」
ジェイムズ・R・ハンセン(James R. Hansen)

2011/01/30:種子島から22日打ち上げられた、無人物資輸送機「HTV(愛称・こうのとり)」2号機は国際宇宙ステーション(ISS)へのドッキングに成功した。また昨年は小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星イトカワからウルトラC的活躍で微粒子を持ち帰るなど日本の宇宙開発に弾みが出るような成功が続いています。漸く日本もここまで頑張れるようになったかととても嬉しい気持ちです。

僕は昭和38年。1963年生まれ。1969年アポロ11号が月面着陸した時は6歳。小学校1年生だった。我が家ではテレビはまだ白黒で、ピンキーとキラーズの「恋の季節」やいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」が繰り返し流れ、ドリフターズやコント55号のバラエティー番組や「ゲゲゲの鬼太郎」、「巨人の星」だとか「サイボーグ009」、「怪物くん」なんてアニメ番組が怒濤のように押し寄せ、僕らはテレビに釘付けだった。

このアポロの月面着陸の当時で家庭内でこれをどう受けとめられていたのか残念ながらあまり記憶がない。しかし、どこからか両眼で覗きこんみる手持ちのスライド鑑賞の機器と、アポロ11号のカラースライドがやってきて、これを見てびっくり仰天した事は鮮明に覚えている。

月や地球を背景に飛ぶアポロや月面を歩く宇宙飛行士の姿の意表を突くその構図、そしてその惚れ惚れする程の美しさ。ここには、未来があった。すでに現実のものとなった来るべき未来の姿があると思った。僕はしょっちゅうこれを引っ張り出しては見ていたものでした。

こんな途轍もない事を実現するアメリカと云う国も犠牲を恐れず前人未踏の宇宙に、そして未来に向かってゆるぎない進歩を続け夢を実現させる事に、決意と勇気に溢れる公正な国であるとも思った訳なのでした。しかし、子どもだった僕はあまりにも世間知らずであった。


 1968年はアメリカにとって忘れられないほどひどい年だったが、決して1967年のほうがそれよりずっと良かったからというわけではない。激動の発端は、1968年1月に北朝鮮がアメリカの艦船プエブロ号を、スパイ活動中に領海侵犯したとして拿捕したことだった(拿捕されたときこの船が航行していたのは、アームストロングが北朝鮮沖合での数ヶ月にわたる戦闘で馴染みになったウォンサンという港湾都市の沖だった。)プエブロ号の事件から一週間後、南ベトナムでベトコンが大規模な奇襲攻撃を開始した。テト攻勢と呼ばれるこの血なまぐさい戦闘によって、ベトナムでの戦争がすぐには終結しないことが誰の目にも明らかとなった。そして三月には、アメリカ人兵士が少なくとも175人のベトナム人女性や子どもを殺害するというミーライの大虐殺のことが世界中に知れ渡り、この悲劇によって反戦ムードが大きく盛り上がった。同じ月の末には、戦争に疲れて打ちひしがれたリンドン・ジョンソン大統領が、再戦へ向けた党からの指名を希望もしないし受託もしないと発表した。


朝鮮戦争、ベトナム戦争、そしてイスラエル、北アイルランドなどで紛争が起こり、フランス、チェコスロバキアでは、反政府勢力が、アメリカでも反戦公民権運動家たちの活動が活発化し、マーティン・ルーサー・キング牧師やロバート・F・ケネディが暗殺され、コロンビア大学では学生たちが大学本部ビルを占拠するなど、人種間、世代間の軋轢と緊張が大いに高まった。

ケネディ大統領が月に人を向かわせると決断した頃、世界は大きな動乱の時期への入口にいたのである。

こうした激動・動乱の時代にアポロ計画は、当時の人々を立ち止まらせ、胸の中に広がっている不満や怒りや憎しみをもしかする吐き出して、手を取り合って共に前に進む事ができるかもしれないという期待と希望のようなものを思い描かせるものだったのではないだろうか。

宇宙飛行士と云えば「ライトスタッフ」。こちらは映画にもなったが、本はそれ以上にエキサイティングで面白かった。ノンフィクション・ドキュメンタリーのジャンルが小説以上に面白い事を教えてくれたのはこの「ライトスタッフ」でありました。チャック・イエーガーは素敵にかっこよかった。

しかし、本書、アポロ11号の船長であり、月面着陸では人類初めて、その足で月に降り立った男。ニール・アームストロングの自伝はそれを凌駕している。上下2冊、千ページを越えるボリュームだが、これは面白い!そして素晴らしい!期待以上に素敵な本でありました。前半はアームストロングの生い立ち。子どもの頃から飛ぶ事に憧れ、ジェット戦闘機パイロットからテストパイロット、そして宇宙飛行士へとステップアップしていくアームストロングとそれに絡み合うように進んでいくX計画、マーキュリー計画そしてアポロ計画。

中盤からは、アポロ計画、そしてアポロ11号の息詰まる航海。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.)」の言葉はあまりにも有名だ。月面着陸の緊迫感・臨場感のすごさは是非読んで味わって欲しい。

彼らを送りこむプロジェクトの面々、そして無事の生還を祈るように待つ、家族たちの姿。公民権運動などに揺れるアメリカを治める為に宇宙飛行士たちが政治的に利用されていく様や、誰が月面に最初に降り立つか等で人間臭く右往左往する人々等読みどころも沢山あって飽くことがない。

読み進んでいくうちに気づかされたのは、プロジェクトは傍目たいへんな冒険的であった訳だが、実際には堅実で着実な仮説・検証・実験・実証の繰り返しであった訳で、気の遠くなるようなテスト・シミュレーションの積み重ねによって実現していくのである。


 おもしろいことに、アームストロングがシミュレーションを中断したがらなかったというこの話は、1962年4月に彼がX-15の飛行中、パサデナ上空で機体が急上昇して危機一髪を迎えた話とどこか似ている。いずれの場合にもニールは、実証的な実験を通じて技術的な経験を積もうとした。「こちらか地上管制官のどちらかが解決方法を思いつけなかったら、それは飛行軌道のその部分について理解が足りないという意味なんだと思った」。事実、その練習中のシミュレーションで月面に衝突したことで、ニールは、「それまで作ったことのなかった高度対降下速度のグラフを書き、問題の領域にいつ入ったかがわかるようにそこに帯を引いた。みんなが求めたとおりの時に中断していたら、たぶんわざわざそんなものを作ることはなかっただろう」。また、この”しくじった”シミュレーションによって、飛行責任者やその部下たちは、こうした事態についてどう分析していたかを再検討させられることになった。アームストロングは言っている。「彼らがそれを理解して、危険な領域に入るのはいつなのかを見極める方法が進歩したと思う。だからそれは役立つ結果を生んだ。すぐにわからなかったことには少しがっかりしたが、物事はプロセスを踏んで学んでいくものだ。経験した中でも最大規模のシミュレーションだったが、まさにそうであるべきだった。月着陸は、それまで誰もが経験したより数多くの人が関わる大規模な計画だったんだから」


不確定要素・未知な部分を極小化させる為に地道な気の遠くなるような作業を積み重ねる事で、地歩を固め前進・進歩していくプロジェクトの推進方法は僕らが普段やっている仕事にも通じるものだし、同時に彼らが果たした偉業に比べればなんとささやかな規模の仕事なのかと、及び腰で恐る恐るやってる場合なのかと、勇気と元気をもらう事にもなりました。

そして何より、余計なことは言わず、ストイックに鍛錬を続ける事こそ、何よりも大切で、確実な前進・進歩を手に入れる方法なのだと。


△▲△

ミミズの話
(The Earth Moved: On The Remarkable Achievements Of Earthworms)」
エイミィ・ステュワート(Amy Stewart)

2011/01/23:僕の住んでいる場所の敷地には駐車場の間や道路の間に小さな公園やよく手入れされた植え込みがあり、ちょっとしたサンクチュアリのような場所もある。その地面からたまにミミズが地面から這いだしてきているのを見かける。どうした訳か何匹も逃げ出すように地面に這いだし死んじゃったりしている事もある。一体地面のなかではどんなことが起こったんだろうか。

先般読んだ「土の文明史」でもあったが、我々は土について、あまりにも無頓着で身勝手な事を続けてきてしまっているのではないかという危惧もあり、少しミミズの事が識りたいと思っていたところだ。

本書の著者エイミィ・ステュワートはライターで、ジャンルはサイエンスと云うよりはエコロジー、ガーデニングといったところが専門のようだ。彼女は自宅から出る生ゴミを処理し堆肥として再利用する目的で、ミミズコンポストを購入した。

ミミズコンポストとは聞き慣れない言葉だがミミズ箱とかミミズ堆肥容器とも呼ばれるもので、ミミズを収容する容器が階層上になったもので、下の段から上の段へ糞が溜まる度にミミズが移動していけるようになっており、下の段から堆肥を取り出しては上の段へ容器を入れ替えていくことでミミズに生ゴミを堆肥に変えてもらうという仕掛けとなっている。そして購入したコンポストと一緒にやってきたミミズの生態に触れ、その小さい体からは想像できないような能力に眼をみはった。

一日にミミズは自分の体重くらいの生ゴミを処理できるらしい。シュレッダーにかけた新聞紙などは次の日には姿形もなくなってしまうのだという。まったく気にした事もなかったミミズの生態。ミミズについて調べはじめるとそこには地中と云う普段意識する事があまりなかった広大な世界が広がっているのだった。

ダーウィンの最後の著書はミミズに関した本だった。晩年はミミズの研究に没頭していたらしい。確かに「ミミズと土」は1881年、ダーウィンが死の前年である72歳の時に出版された本だ。
本書を読んで知ったのだが、出版は晩年だったが、ダーウィンのミミズに対する研究は、ビーグル号の旅を終えて比較的すぐにはじめらているのだそうだ。

ビーグル号の旅から持ち帰った厖大なメモや標本、資料の整理にやや途方に暮れたダーウィンは、親戚のウェッジウッドの暮らす田舎で静養することにした。このウェッジウッドはボーンチャイナでとっても有名なウェッジウッドだ。この家の牧草地でおじから撒いた炭殻やレンガのかけらがミミズの糞が積みか上がってくる為に何年かすると地中に埋もれてしまうという話しを聞く。

ほんのちっぽけなミミズが大量の土を積み上げているというなんて事は当時誰も考えたことがない事だったがおじは確信を持っていた。ダーウィンはこの話しに感銘を受けまた、信じるというよりも、寧ろそれを本気で確かめる事にしたのだ。

そして早速研究をはじめるや「肥沃土の形成について」という論文を出す。それは、「ビーグル号航海記」よりも先なのである。その後ダーウィンは「種の起源」を出し多忙な日々を送る事になる。高齢になって再びミミズの研究に戻っていったという訳なのだ。ダーウィンのミミズに対する思い入れの深さがうかがえる話しだ。

ミミズは非常に脆く単純な構造をしていていながら、驚くべき再生能力を持っていたり、病気などに対する強い耐性を持っている。そして意外にしっかりと状況を認識して判断するような事も行っているらしい。残念ながら本書はミミズの生態については若干踏み込みが浅く詳しく知るには他の本をあたる必要がある。

またミミズコンポストと一緒にミミズの購入に加えて、本書では庭木の病気を防ぐためにグリオクラディウム・ビレンスと云う真菌を買って庭に撒いているというような事が書かれていた。コンポストのなかで飼っているミミズは逃げ出したりする事はないのかとか、真菌を買う?庭に撒く?こうした事で環境に大きな影響を与えてしまう事はないのだろうか。日本でも真菌を購入する事はできるのだろうか。DIYセンターなんかで、そんなものが売っていた記憶はないな。本の中ではミネソタでは釣り人たちが使い余した釣り餌のミミズが棄てられそこから繁殖して土地を荒廃させてしまったという例が紹介されていた。外来種を持ち込む事はリスクが高い事は明らかだと思うのだが、どうした訳か作者自身がどのようにこの事と折り合っているのか、本のなかからは伺い知れない。

ダーウィンは試行錯誤を重ねながらミミズの生態を調べたが、その後も調査研究は進み現在では1エーカーの土地に凡そ100万匹のミミズがおり、ナイル川流域では1エーカーの土地に千トンものミミズの糞が堆積していると推定されているのだそうだ。地域の肥沃さを支えているどころか生み出しているのはミミズだと言っても良いかもしれない。我々は人類として目覚めてからの時間よりも遙かに長い歳月で造り出された環境の中で生きている。ミミズはその一例にすぎないのだ。

人類が食べてきた生き物は地質年代的な歳月で振り返るとどんどん小さくなってきていると云う事ができる。最近ではワームを食糧にしようという試みも実際には進んでいるようで、何世代か後の人たちはもしかすると高級レストランで出される虫たちに喜んでお金を払う事になっているのかもしれない。

僕は先日、生きている虫を袋に入れて嬉しそうに買い物から帰ってきたカミさ んに驚くという夢をみた。夢ではその袋から大きめの蟻というか蜂のような虫がうじゃうじゃと這い出てきて、「逃げ出しているじゃないの」とびっくりして目が覚めた。生物進化は我々の視線ではほとんど停止してしまったかに見えるが、そんな事は全くなく、起こっているのは生物の進化よりも早い速度で進む環境変化だ。環境に耐えられなくなった生物たちはただ消えていくしかないのだ。人類が獲りやすい食べたいものを選択的にどんどん奪えば環境に残るのは当然ながら獲りにくい食べたくないものだけになっていく訳だ。この分野はもっともっと掘り下げていく必要があるようです。より豊かな未来を将来の生き物たちへ引き継ぐためにも。


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暗殺のジャムセッション
(Cast a Yellow Shadow)」
ロス・トーマス(Ross Thomas)

2011/01/22:前にも書いたけど、早川のミステリアス・プレス文庫は濃いめのオレンジ色の背表紙で統一されたシリーズで、トニイ・ヒラーマンとかドナルド・E・ウェストレイクとか随分とお世話になったものだ。ロス・トーマスのその一人で、とても印象深い作家だった。

しかし振り返ってみると「モルディダ・マン」、「八番目の小人」、「女刑事の死」「黄昏にマックの店で」、「神が忘れた町」、「五百万ドルの迷宮」とかタイトルにはどれも見覚えがあるのに内容が全く蘇ってこない。全部読んでるハズなんだけどな。

本書、「暗殺のジャムセッション」はなんと40年ぶりの初訳出なのだそうで、登場人物は、「冷戦交換ゲーム」や「モルディダ・マン」、「黄昏にマックの店で」等と被っている。時間軸から云うと「冷戦交換ゲーム」の後日談という形になっているようだ。

そもそもだが「冷戦交換ゲーム」をちゃんと読んだのかも残念だがはっきりしない。本書の更に後日談となっている本を読んでいるのに思い出せないでいるという状況で、この本に手を出すべきなのかどうなのか。実はだいぶ逡巡した経緯がある。

40年も経ってあらためて出版してくるにはそれなりに理由があると云うか今もって読むべきものがあるからだろうと思う反面、今更、この隙間を埋めるような事をしても、そもそもその隙間にピンと来るものがあるのかという事だ。

そんな訳で僕の中ではいつも優先順位が二の次の次ぐらいの高さでふわふわと浮いている状態だった。

しかし12月まで随分と固い本が続き、多少息切れしてきた事もあって、軽い気持ちで、それもシリーズものというよりは寧ろあくまで独立した気晴らし本として読ませて頂いた次第だ。

アフリカから到着した輸送船から降り立った男は船から下りるや何者かと乱闘になり、腹を刺され意識不明となった。

所持品はなし。持っていたのは一枚のメモのみであった。それはワシントンにあるマッコールの料理店、マックの店の電話番号だった。

曰くありげなこの患者を、当の店の主人と引き合わせると二人は旧知の間柄で、かつては、東西冷戦のさなかに情報機関で働いた仲間であった。

刺された男パディロは、人質交換の取引のさなか、川に転落し行方不明となっていたが、その後、無事アフリカに逃げ込み、武器商人のエージェントとして、各国へ武器を売り歩いていたのだが、ある小国からその国の首相暗殺の仕事を依頼され、断った事からトラブルになり、アフリカを脱出してきたというのだ。

このアフリカの小国の土地にはクロムが埋蔵しており、これが欲しいアメリカの植民地的支配が続いていた。現地の黒人社会ではこのアメリカの支配から脱却すべきたという気運が盛り上がってきていた。この国を牛耳る少数の白人社会を代表する高齢の首相は、自分の余命があとわずかである事を知り、ワシントンで自分自身の暗殺を企んでいるのであった。自分がワシントンで悲劇的に暗殺される事で白人社会に対する反発と、アメリカ支配脱却の気運を削ぐ事が目的だという訳だ。

パディロを匿い、自宅に戻ったマックは自身の妻フレドルが誘拐されている事を知る。パディロに暗殺を依頼していた組織の手が及んできたのである。マッコールとパディロは抜き差しならない事態へと巻き込まれていく。

物語はこの政府中枢の陰謀を知り、阻止しようとする人物や、パディロが暗殺を実行するために招集したメチャメチャクセのある三人のエージェント等が入り乱れて二転三転、転がるように話しが展開していく。

諜報機関あがりの腕利きの諜報員がナイフの達人だったり、思わせぶりたっぷりの、おそらく当時の基準ではとても粋な会話などは、ちょっと思わず笑ってしまうような部分もあるのだが、話しの展開自体はよくよく練られており、とても面白く読めました。この色褪せ加減を敢えて楽しむという線はあるかもね。

しかし、同じ時期に読んだトニイ・ヒラーマンや、そのもっと前に読んでいる本でも随分しっかりと覚えている事からみると、ロス・トーマスと面白いんだけど、軽い。軽くて印象が薄いという事なのでしょう。


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キングズ・オブ・コカイン―コロンビア・メデジン・カルテルの全貌
(Kings of Cocaine Inside the Medellin Cartel an Astonishing True Story of Murder Money and International Corruption)」
ガイ・グリオッタ(Guy Gugliotta)&ジェフ・リーン(Jeff Leen)

2011/01/22:年末年始のお休みはじっくり読書する時間が沢山あった。今年も去年に負けず沢山本を読んでいきたいと思う。ところで、新年の抱負を語るみたいなものが、この時期多い訳で、自分として今年の抱負を述べるとすればなんだろうな、なんて事をやはり必然的に考えてしまう訳だ。あらたまって抱負なんて考えるとついつい、今できてない、やれてない事をやろうみたいな事を思い描こうとしてしまうものだが、冷静に考えると、何か新しい事にチャレンジする事も大切だが、これまで続けてきた事を今年も一年地道に続ける事という抱負だったあってもよいのではないか、と思った。これまで培ってきたものをさらに一段高いところへ、もっともっと頑張る。これを今年の抱負とさせていただきます。今年もよろしくお願いします。

さて2011年の最初を飾る一冊は「キングズ・オブ・コカイン」だ。こちらの本は原著としては1989年に出された本で、著者の二人はマイアミ・ヘラルドで記者をしていた人らしい。新聞で特番記事を書いたものを拡張して本にしたもののようだ。

現在は、メキシコが大変な麻薬戦争を繰り広げており、年間の死者が3万人を越えたとか、血なまぐさいニュースが時折流れてくる。中南米とアメリカ合衆国の間の歴史をもう少し詳しく見ていきたいと思っていた事もあって、この麻薬戦争の根源はどこらへんにあるのだろうと嗅ぎ回ってみるとどうやらコロンビア、メデジンにあるらしい。

コロンビアの麻薬取引と云えば、パブロ・エスコバル。彼は最終的には隠遁先を突き止められデルタフォースとコロンビア治安部隊に襲撃され射殺された話しが有名だ。この襲撃を指揮したデルタフォースの指揮官はウィリアム・ボイキンという男で、この男はまたモガディシュでブラックホークが墜落した事で映画にもなった、政府要人拉致の作戦も指揮していたという。エスコバルは犯罪者だが、ボイキンも負けず劣らずの相当なならず者なのだ。この事件というかボイキンについても非常に興味が湧くが、まずは外堀から埋めていきたい。なにか適当な本がないかを探ていたところに浮上してきたのがこの本だった。


 けれども麻薬担当の警官のほとんどは、メデジンがどんな意味を持つかはもちろん、それがどこにあるのかさえ知らなかった。しかしコカインを知るためには、メデジンを避けて通るわけにはいかない。
 この町をざっと眺めただけでは、麻薬との関連を知るための手がかりはつかめない。観光客向けのパンフレットには「常春の町」、「ランの町」などと書かれている。アンティオキア州メデジンは、コロンビア中央部からやや北寄りに位置し、松の森林に囲まれた渓谷の都市である。標高は約1600メートル、人口は120万人で、最近になって急速に発展してきた。メデジンはアンティオキア州の州都であり、コロンビア国内でも首都ボゴタに次いで二番目に大きい。確かにパンフレットの言うとおり、南アメリカでは最も美しい町だろう。1977年当時のメデジンは、賑やかなダウンタウンに新しくできたばかりの高層ビルがそびえ、ガラスとスチールのエレガントな美しさを添えていた。産業の発展につれて町は周囲に広がりつつあった。メデジンには大学のキャンパスが三つと植物園が一つあり、公園もたくさんある。大通りにはいたるところに街路樹が植えられていた。絵のようにくねる道路が郊外の丘を横切り、裕福な人びとはそこに大きな屋敷や週末を過ごす別荘を建てた。つつましい農民の暮らすこぢんまりした化粧漆喰のコテージは、赤い窓枠と花を植えるプランターがベランダに張り出している。気温は年間を通じて摂氏22度ほどで、穏やかな気候である。雨は多いが、標高が高い山の町なので日差しもたっぷりと浴びることができる。
 メデジンの人びとは、男女を問わず自らをパイサと呼ぶ。これはアンティオキアの伝説に出てくる、タフで機知にあふれ、冒険好きな「同郷人」にちなんだ呼び方だ。メデジンの人びとは一見控えめだが、実は攻撃的な野心家である。抜け目なく一所懸命に働き、金と社会的地位への欲望が人一倍強い。メデジンの人間は、ガッツと知恵、そして成功への夢さえ持っていれば、貧富にかかわらず必ず勝者になることができる。


そもそもこのメデジンのパイサたちのなかには、19世紀の頃から国境を跨いで行商をしていた人たちがおり、主婦たちを相手に雑貨を売り歩いていたものが、徐々にその取扱商品を増やしてきた経緯があるようだ。そもそも国境意識が薄く、広いネットワークを持ったパイサの人びとは、いつしかアメリカから酒や煙草、テレビやステレオ、ラジオなどを運んでは売るようになっていたのだそうだ。そして1970年に入った頃にはチリで家内工業的な規模で作られたコカインを仲買してアメリカへの運び込んでいたのだ。


 しかし1973年の9月に状況が一変した。チリのアウグスト・ピノチェト・ウガルテ将軍が、マルクス主義者のサルバドール・アジェンデ・ゴッセンス大統領を政権の座から引きずり下ろしたのだピノチェト将軍支配下の警察は、麻薬の密売人を次々と投獄し、国外追放した。ピノチェトの独裁が始まった最初の年だけで、73人が刑務所に入れられ、20人のボスがアメリカに送られた。こうしたチリのコカイン・ビジネスは終わりをつげた。
 商売を引き継いだのはコロンビア人である。彼らは密輸入のノウハウを持っていたし。チリと同じくペルーやボリビアのコカ生産農家と連絡が取りやすかった。技術を持ったチリ人が北のコロンビアに渡ったがまもなく姿を消した。コロンビア人は二年間で外国人をほぼ締めだしていた。それから数年後にも、彼らはマイアミで同じ方針を貫くのである。


コロンビアで麻薬の精製を行うようになるや、その規模は急拡大、その輸送手段はみるみるうちに大胆不敵なものへと変容していく。


 実情が初めて明るみに出たのは、1975年11月22日のことである。カリの空港で、アビアンカ航空のジェット機のレーダーを攪乱し、こっそり着陸を試みた小型飛行機が警察に捕まった。飛行機の荷物室からは600キロのコカインが発見されたが、これは当時としては前代未聞の押収量だった。もともと家内工業で始まったコカイン製造だが、チリからコロンビアに引き継がれるちに、その域を超えていたのである。


この流入量の多さに驚愕したアメリカ政府は、麻薬取引の取り締まりに対する強化と犯罪者の引渡しをコロンビアに強く求めていく事になる訳だが、コロンビアにはコロンビアの事情があった。麻薬取引は国内での問題としてはさほど表面化しにくい事を背景に密輸業者たちからの贈収賄によって政府の優先順位はも低いままとなった。また彼らはFARC、M-19などといった国内反政府勢力とも手を結びはじめていく。こうして蓄えられた巨額な資金と権力はやがてコロンビア政府をひっくり返してしまう程の力を孕みはじめ、ついにはドミニカ大使館や最高裁判所の占拠、政府要人の暗殺とマグマによる火山の噴火のような形での暴力の噴出を生む事になる。


 1985年にメデジンでは1698人が殺されている。コロンビア国内全体では1万1000人である。単位人口あたりの発生率は最も高い。内戦状態にない国としては、世界でも最高の数字である。人口がコロンビアのおよそ10倍のアメリカでさえ、1986年に殺された人の数は1万6000人だった。
 1986年には、メデジンは前年の数字を更新した。コロンビア全体で見ても、15歳から40歳までの男性の死因のトップは殺人である。アンティオキア大学の調査によると、メデジンでは86年の前半だけで1155人が殺され、そのうち80.4パーセントが射殺だった。1986年全体では、メデジンで殺された人は3500人に達する勢いだった---毎日10人が殺されている割合である。
メデジンの法執行機関は完全に麻痺していた。ボゴタでは、「メデジンには殺人者が2万人もいるのに、被告になるのはわずか20人だ」とささやかれるほどだった。 メデジンのDASはもはや事件の捜査を行わず、ボゴタにまわして、そのたびにDAS本部から捜査官を派遣してもらうやり方をとっていた。捜査官がメデジンに長く滞在していると、上品なボゴタのアクセントと洗練された物腰からすぐそれと分かり、メデジン北部の殺し屋たちに顔を覚えられて、つけ狙われるのである。


本書は書かれたのは1989年。実質的にはカルロス・レーデルが逮捕されアメリカへ移送された1987年の時点でほぼ幕を下ろす。しかし現実は、サンティアゴ・デ・カリでヒルベルトとミゲルのロドリゲス兄弟によって結成されたカリ・カルテルがエスコバル及びメデジンの徹底的な排除を目論み抗争が勃発、さらに血で血を洗う戦いとなっていく。このあたりの事情を知るにはまたもっと別な本が必要だ。

コカインの取引に関係してこの夥しい人びとが殺されていくのには、それだけ大きな利益が上がるからだろう。一方でそれには相当のリスクもある。ヴィンセント・A. ギャラガーは「豊かさの向こうに―グローバリゼーションの暴力」の中でアメリカ合衆国から政府の補助金を受けて非常に安いトウモロコシがメキシコに流通したため、百五十万人以上の農民が生活手段(小農園)を失ったと述べている。こうした不均衡が命の値段を押し下げる事によって、リスクの大きな麻薬取引に消耗品のように安い命が賭けられているとみる事もできるだろう。

また、この莫大な麻薬取引の相互作用において忘れてはならないのは、アメリカ国内における消費者需要がある。高い金を払って買うヤツらがいるからそこ、そこに賭ける商売が成り立っている訳だ。麻薬戦争の舞台は、コロンビアからメキシコへと移ったのかもしれないが、一大消費地域であるアメリカはずっとその地位を守り続けている訳だ。


「誘拐」のレビューはこちら>>

「パブロを殺せ」のレビューはこちら>>


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