何故故にトンプスンなのか
2005/05/30:映画にハマり込み始めていた僕はペキンパーの「ゲッタウェイ」を観損ねた代替として原作に取り組んだ。角川文庫のそれは表紙と裏表紙をめくると映画のスチル写真が何枚か載っており、残念ながら本の内容は殆んど覚えていないけど、読み進みながら時折眺めてたのを覚えている。
この「ゲッタウェイ」をはじめ70年代の映画の原作本は、僕を読書という世界に導いてくれたいわば恩人とも言うべき存在だ。思い出深いところでは、フレデリック・フォーサイス(Frederick
Forsyth)の「ジャッカルの日」や「オデッサ・ファイル」。ウォリー・フェリス(Wally Ferris)の「110番街交差点」なんか随分大事にしてたっけ。マリオ・プーゾ(Mario
Puzo)の「ゴッドファーザー」も原作を読む方が先だったっけ。ピーター・ベンチリー(Peter Benchley)の「ザ・ディープ」なんかも忘れられない一冊でした。
最近ステイーブン・キングやタランティーノ等がジム・トンプスンを担ぎ上げ、再認識されてきている。なかでも「ポップ1280」は筆頭で、僕の弟も「凄いぞ」と薦めてきた。どうも昔の薄い印象と、何で今更という反応が前にきてしまい、「へぇ、そうなの」なんて、暫く聞き流していたが、縁あって手を出してみることにした。
そしたら、まぁなんと、凄いんだよ。マジで驚いた。彼の本を忘れ去ろうとしていた人々と、そのなかから再発見してきてしまう人々がいる事にも驚かされる。考えてみれば当時の僕の印象なんて、たかだか10歳そこそこのガキだった訳で、こっちが全然理解できてなかったんだろう。
そして今僕も改めてジム・トンプスンを一から堪能させてもらい、レビューを書く機会に恵まれた訳だ。とは言うものの、彼自身とその人生や価値観について触れず彼の作品について語るのは難しい。それは、ある人は彼を紳士的と言い、またある人は、皺くちゃの紙袋に入れたウィスキーを片手によれよれのコートを着た、不遜で野暮な人物だと言う。不確かな彼の経歴と、相当に複雑な人格
大量のノワールを執筆し、ハリウッドではスタンリー・キューブリック、サム・ペキンパーと関わるというエポックを造り上げたにも係わらず晩年にはその殆んどが絶版となっていたとか、葬儀の出席者はたったの25名だったとか、それぞれの局面で彼は一体何を考え、どう感じていたのだろうか。
彼の作品の登場人物の殆んどは、平然と人を殺したり傷つけたりする事を厭わない野蛮で暴力的な者ばかり。一見普通でも、どこか狂った人々ばかりだ。そしてその物語も、ダークで狂気に満ちた展開に向けて只管つき進むばかりだ。
しかしその物語の奥底には、理性的で思慮深いトンプスンが居る。ミステリ研究家の霜月蒼氏(途方にくれると言わしめ)を初め、彼を再発見した当事者と云ってもいい筈のジェフリー・オブライエン(Geoffrey
O'Brien)、彼はパルプフィクションの収集家で"the Library of America"の主任編集員を勤めるような人物、にあっては安雑貨店(ダイムストア)のドストエフスキーと呼ばしめたこのトンプスンを僕ごときが論じるなんて、おこがましいにも程があると思う。
そして乏しい文章能力の上で、書くべき事、それ以上に書いておきたい事は非常に多い。しかし、恥じて筆を置くのは簡単な事だ。精一杯頑張って整理してみよう。
これを読んで下さった方、稚拙な文章に最後までお付き合い頂きありがとうございました。
2009/06/07:短編集「この世界、そして花火」のレビューを追加しました。トンプスンの訳者としてずっとお世話になった三好基好氏のご冥福を心より祈念致します。最高のノワールを僕たちに見せてくれたことは感謝に堪えません。「この世界、そして花火」のレビューは
こちらから>>
He’s Life
ごめんなさい、準備中です。いつか必ずちゃんと書きます。忘れている訳ではありません。
He’s Art
2005/06/18:
これ以降の内容はあなたの読書を損なう恐れがあります。トンプスンの世界にこれから触れられる方は以降の内容を「読まない」事を強くお勧めします。
ここではトンプスン独自のアートに迫ってみたいと思う。最初から最後まで一人称で語るのは彼の作風になっている訳だが、これはもう執着というしかない程に拘っている。ナラティブ・アプローチ(Narrative
approach)、あくまで主人公の主観によって出来事と出来事の繋がりに意味づけされた物語となっている。つまり読者は主人公が見て、意味付けし解釈した世界観を通して物語を読み進む事になる。
文字として示される物語は1人分だが、そこから各登場人物の物語を読み替える事で、物語は文字の量を遥かに超えた情報量を読者に与える事が可能。読み替える為の手がかりを多く残すことで作品を重層的にする事も可能だっただろう。
しかし、他の登場人物の情動を類推させる事はあくまで二の次。ここでトンプスンは各登場人物の情動を伝える事を意識的に省略していると思う。
主人公の物語は他の登場人物にも決して語られない。「アフター・ダーク」では、主人公ビルの物語は主人公本人以外には誰も知る事ができない内観的なエンディングが用意されている。共感が許されているのはあくまで主人公と読者の特別な関係のみに絞り込んでいるのだ。
逆に主人公以外の登場人物の物語、解釈や世界観は主人公とのやり取りで生じる言動で推し量らせる事でるしか手立てがなくなる訳だが、それは多くの場合語られず、不明のまま。解決する事はないのだ。この着地のない不安定な結末というのもトンプスンの物語の怖ろしさの一つになっている。
この省略は、犯罪に手を染め暴力はおろか殺人をも厭わないような人物が語る自分勝手な物語という設定の上で、多くの作品の主人公に共通する他人を省みない身勝手さを反映しているという事もできる。確かにそれも恐らく計算していただろう。
トンプスンの本当の狙いは以下の2点だと僕は思う。一つは読者に物語を自己の中で再構築させる事で自分の善悪の判定基準や倫理観、価値基準そして人生観と向き合う事を強要する。
トンプスンは徹底的な罪悪を描く一方、人種差別や貧富の差等、現在も我々の身の回りに常にある悪も同じく一括りにして、「ホレ、受け取れ」とばかりにドスンと投げ込んでくる。それは受け取った途端に一斉に「本当に悪い事ってなんだろう?」「善悪の基準とは?」と繰返し問いかけてくる。
それはそのままトンプスンの問いかけである訳だ。この事はブライアン・マスターズの「人はなぜ悪をなすのか」を思い出させるもので、トンプスンは彼が生きた時代にはそぐわない程、現代的で洗練された問題意識を持っていたと思わずにはおれない。(ブライアン・マスターズの「人はなぜ悪をなすのか」のレビューも是非併読してください。レビューは
こちらからどうぞ)
そしてもう一つの狙い。
彼が試みていたのは主人公の物語に集中してそれ以外のものを徹底的に削ぎ落としていく事だったと思う。我々が現実世界で経験している人生と同じ形式で主人公の物語に対峙させる。それはトンプスンが描かんとしたのは正にこの主人公の「人生」だったからだろう。
そして自分自身の「死」そのもの。
彼の作品の多くでは主人公が最後に死ぬ。我々が通常経験する「死」は肉親や親戚をはじめ第三者の死の客観的なものだ。自分自身の死を客観的に観察する事は不可能だ。何故なら生物して自分自身に死後は存在しないからだ。しかし、ここで描かれている「死」は、主観として経験する「死」なのだ。一人称で語っていた物語で語り手が死んでしまう。これは一つのジレンマだったのかもしれない。
しかしこれを強引に描ききる事で、トンプスンは「突き抜けた」と思う。此処こそが、トンプスンの真骨頂だ。トンプスンの作り出した主人公はどれも西洋人らしく霊や死後世界を全く受け入れていない風だ。しかし「内なる殺人者」や「サヴェッジ・ナイト」等では、主人公は結末間際に明らかになにものかに出会っている。なにものかの存在と対峙している記述がみられる。
それは「羊」であったり手にかけて殺した人々であったりする訳だが。これが主人公の意識が作り出した幻影なのか、実態が伴うものなのか、トンプスンは答えてくれない。これがまた想像力を描き立てるそら恐ろしさなのだ。
やがてとうとう、主人公自身が死に、「俺は死んだ。」と語る。しかし、物語はそこで止まらない。止まらないのだ。びっくりしました。
そこで、読者は悟るのだ、今まで読者に語り掛けてきていたこの主人公が既に死んでいたという事に。
その此処ではない何処か、そして時間を超越した向こう側の世界で、主人公は自分の身の上を下らない下ネタを交えながら都合よく脚色して語っていたのだ。
そしておそらくこの語りは、延々と繰り返され決して終ることがないのだ。その語り手には実態がなく、背後に広がっているのは絶対的な虚無だ。こうしたやや東洋的ともいえる生死感を突き付けられた当時の人の驚きようは計り知れないものだっただろう。
これは物語、単なるパルプ・フィクション等ではなく、個々の人生であり、「死」が描かれているという意味がお解かりだろうか?ジェフリー・オブライエンがトンプスンを安物雑貨店(ダイムストア)のドストエフスキーと呼ぶ所以には、このように一般的には娯楽小説とは相容れないテーマが苦もなく織り込まれている事。そしてそれが故にトンプスンの作品は他に類を見ない速さと鋭さで胸に突き刺さってくるのだ。
いやはや、正にとんでもない読み物だという以外にない。