2012年に入りました。長く辛い2011年でありましたが、まだまだ油断するなよと言わんばかりに明けた元旦に比較的大きな地震が起こりました。子どもたち2人は揃って進学、僕の参加しているプロジェクトは大団円を迎えます。この2012年は一体どんな年になるのでしょう。やや腰が引ける思いですが、笑顔で年末を迎えられるよう精一杯頑張っていきたいと思います。
「ホーキング、宇宙と人間を語る
(THE GRAND DESIGN)」
スティーヴン・ホーキング(Stephen William Hawking)&
レナード・ムロディナウ (Leonard Mlodinow)
2012/03/31:久々の帰省。しかも新幹線での帰省。字も大きくて電車で読むのに丁度いいかと選んでみました。しかしその内容は想像以上に厳しく難しい問題をはらんでいるものでした。
現代物理学はアインシュタインの相対性物理学以降、その方向性はアインシュタイン自身をも驚嘆させ、否定的な姿勢を見せてしまうほど予想外な展開をみせている。アインシュタインはあくまで実在性を信じ、決定論的な世界観を抱いていた。彼にとっては不確定性を前提とする量子論の世界観をどうしても受けいれることができなかったのだ。このあたりの実像は、数学音痴の僕のような素人が理解するのは難しい。わからないなりに僕としては決定論的な世界観については違和感を覚えるけれども。
一方で、天動説をあたまから信じていたり、天地創造の主であるという「神」を信じて疑いもなかった過去の人たちの価値観や世界観を振り返れば、現代物理学が、われわれの世界観を、またさらには哲学を宗教感を大きく変えてきたことに改めて気付く。
いや、世間一般常識として本当に変わってきたと言えるのだろうか。
本書はキリスト教関係者から強い反撥を生んだという。一般的な宗教感はおろかアインシュタインが描く理神的な神ですら完全に否定する、宇宙の誕生が完全に数学的・物理的なものであるとする強い姿勢と意見表明が含まれているからだろう。
現代人の価値観といっても一口に昔と全く違ったものになってきているとばかりには言えないのである。
今この世界には創造主を信じていてまるで100年前と変わらぬ世界観を抱いて生きている人たちも多くいる訳だ。アメリカでは半数以上の人が人類創造を、そしてこの世界が数千年前に神によって創られたと本気で信じているらしいという統計があったりするのだから本気で驚く。
チョムスキーも書いているようにまるで西部開拓時代の人と何も変わらぬ世界観と価値観を持って生きている人たちがアメリカのような先進諸国において大半を占めているということはしばし立ち止まってどうゆうことなのかを考える必要がある事態だと思う。
そしてそんな価値観を抱えたひとが選び出したリーダーや主導者に率いられた政府というものがどんなもので、どんな行為を行う可能性があるのかも。それはある意味隣国の飛ぶか飛ばないかわからないロケットなのかミサイルなのかそんなのは言葉の定義の問題なのだけど、所詮一発だよね。というものなんかよりも比べ物にならないくらい危険なものだと思うのだが、世間ではそう取らない人の方がやはり多いらしい。
おっとっと脱線した。
本書の立ち位置を考えるに、こうした天地創造を信じる人たちに向けて啓蒙的に諭す内容になっているのかというとそうではない。本書は現代物理学を信じる人たちに向けてホーキングやムロディナウが更に一歩進んで現代の最新の物理学が指し示す世界観と哲学の姿。いってみればそれもかなり野心的に描き出したものになっていると思う。
本書の最も難しいのはこの部分だ。
本書では具体的に触れられていないがこれはホーキングがかねてより唱えている「モデル依存実在論」というものに立脚しているらしい。
ホーキングとムロディナウは純粋に数学的、確率論的に生まれる宇宙というものを前提とした世界観・哲学を提示しているのでありました。この僕達の生命や地球、この宇宙の誕生はおろか、永遠に、いや無限に生み出され続ける多宇宙の世界すべてが純粋に数学的・確率論的な存在であって、創造神の存在する余地を一切認めないというものだ。
数学音痴の僕のようなものにとって、数学的に導き出されるこの世界観というものをこの本を読んだだけで受け入れるのは難しい。根拠となっているもの全体が全然理解できていないわけなのでどうしようもないことなんだけど。
更に横槍を入れさせてもらえば、この現代物理学が提示している理論、量子論もひも理論をはじめ様々な理論が生み出されている訳だけど、いずれも現代の実験科学では確認が難しいというか不可能なほど高エネルギーまたは超微細な世界に依存したものである訳で、まして多宇宙などというものの存在について人類がその証拠を具体的に掴む可能性は殆どないのではないかと思う。つまるところこの話自体が一つの信仰。つまり現代物理学という信仰なんじゃないのかという切り替えしさえ受けかねないスタンスとなっている訳なのだ。
現代物理学という信仰を得たら世界は今よりも善くなるのだろうか。また、100年前の人たちと同じような世界観を持った人たちとの相容れることが不可能とも思われるこの深い溝。一般人に理解できる内容で心から信じることができる世界観を共有することこそが本来は必要なことなのではないだろうか。僕の思考は本書から徐々にはなれてもやもやと彷徨い、気がつくとまどろむ新幹線の旅でありました。
2011年度の更新はどうやらこの本が最後になりました。ご愛顧いただき本当にありがとうございました。新年度も引き続き細々とではありますが続けていく所存です。これらかもどうぞよろしくおねがいいたします。
「人類と科学の400万年史」のレビューは
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「柔軟的思考」のレビューは
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「ユークリッドの窓」のレビューは
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「たまたま」のレビューは
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「ホーキング、宇宙と人間を語る」のレビューは
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「いま、目の前で起きていることの意味について」
(Le Sens des choses)」
ジャック・アタリ (Jacques Attali)
2012/03/25:ジャック・アタリ初挑戦であります。内容ではなくタイトルで選んでみたのだが、この本はアタリが書いた本という訳ではありませんでした。フランスの公共放送の文化部門のチャンネルであるキュルテュールの番組の企画として、フランスの知識人たちの対話とそれに対するアタリの包括的な意見が重層的につづられた本でありました。
そんな訳で本書の大半は複数の人たちの対話になっているのでありました。残念なことに次々と登場する人たちの背景が殆どわからず、目まぐるしく入れ替わって、唐突に切り替わる広範なテーマにまごつくばかりでなかなか集中することが難しかった。
目次
序文 現実に意味を与える〔ステファニー・ボンヴィシニ、ジャック・アタリ〕
■第I部 世界
1章 民主主義〔クリストフ・アギトン × マルセル・ゴーシェ〕
民主主義の未来〔ジャック・アタリ〕
2章 国際安全保障の問題点〔マルク・ペラン・ド・ブリシャンボー〕
来るべき世界民主主義〔ジャック・アタリ〕
3章 暴力のない世界は考えられるか〔マックス・ガロ × ルネ・ジラール〕
暴力の将来〔ジャック・アタリ〕
4章 中東の平和は世界平和につながるか〔ブトロス・ブトロス=ガリ × ジャック・アタリ〕
中東の未来〔ジャック・アタリ〕
5章 エイズ──求められる国際的連帯〔ミシェル・バルザック〕
伝染病、貧困、ノマデイズム〔ジャック・アタリ〕
6章 気候をめぐる諸問題〔ナタリー・コシュスコ=モリゼ × セドリック・デュ・モンソー〕
気候の将来〔ジャック・アタリ〕
■第II部 経済と政治
7章 政治家の役割〔ミシェル・ロカール〕
政治の未来〔ジャック・アタリ〕
8章 金(マネー) 〔ジャン=クロード・トリシェ × グザヴィエ・エマニュエリ〕
金〔ジャック・アタリ〕
9章 保険の未来〔ドニ・ケスレール × ジャック・アタリ〕
10章 法の未来〔ジャン=ミシェル・ダロワ〕
法の未来〔ジャック・アタリ〕
■第III部 科学とテクノロジー
11章 科学の将来をめぐる断想〔クロード・アレーグル〕
教育の未来〔ジャック・アタリ〕
12章 生命の未来〔ダニエル・コーエン〕
健康の未来〔ジャック・アタリ〕
13章 科学──変わりつつある人格の概念〔アンリ・アトラン〕
人間の生殖の未来〔ジャック・アタリ〕
■第IV部 文化
14章 フランスの才能は果たして衰退しているのか?〔エリック・ルセルフ × エリック・オルセナ〕
フランスの将来〔ジャック・アタリ〕
15章 変化する音楽界〔ドミニク・メイエール × パトリク・ゼルニク〕
音楽の将来〔ジャック・アタリ〕
16章 文学および演劇、芸術それとも娯楽?〔クロード・デュラン × ダニエル・メズギッシュ〕
書籍、興行および娯楽の未来〔ジャック・アタリ〕
17章 現代社会における無償(フリー)の新たな位置づけ〔ロラン・カストロ × ベルナール・ミエ〕
無料性の将来〔ジャック・アタリ〕
■第V部 社会
18章 女性の地位は世界中で低下しているのか?〔シモーヌ・ヴェイユ〕
二一世紀は女性の世紀か?〔ジャック・アタリ〕
19章 宗教は我々の行く末を規定するか?〔マレク・シェベル〕
レゴ宗教〔ジャック・アタリ〕
20章 激動する家族と恋愛関係〔フィリップ・ソレルス × クリストフ・ジラール〕
愛の将来〔ジャック・アタリ〕
21章 労働──新たな慣行、それとも新たな不安定さ?〔ヴァンサン・シャンパン × ジャン=フィリップ・クルトワ〕
労働の未来〔ジャック・アタリ〕
22章 麻薬──気晴らしの極端なかたち?〔ウィリアム・ローウェンスティン〕
薬物の未来〔ジャック・アタリ〕
23章 時間〔ジャック・アタリ〕
著者紹介
巻末には登場する人たちの紹介が入っていましたが、最初に言ってくれと。しかし、これを日本で云うところのNHKのようなラジオ番組で放送され、視聴者がちゃんといるのかと驚いた。そしてそのような視聴者の人であれば、この登場する人たちのプロフィールなどは当然よく知っているのが当たり前になのだろう。
本書は2010年に出版された新しいものだが、実際の対話は2006年ごろから長い期間にわたって交わされたものが一つに纏められていた。このことも読み手を惑わす一因となっているのかもしれない。
なんと言ってもブトロス・ブトロス=ガリが中東の和平について語っているあまりにも楽観的な意見には目を疑うものがあるのだけれど、一体これは何時どんな立場にいるときに言っているのがわからないという歯がゆさみたいなものがあった。
このガリとアタリの対話に代表されるように全体的に本書における危機感というものが非常に薄い。それでも今の日本人の一般的な感覚に比べればずっとずっと敏感で、先を行っているのだろう。
そのなかから一部特にハッとさせられた部分。WWF(世界自然保護基金)のフランス代表を務めたセドリック・デュ・モンソーと環境担当閣外相を勤めたナタリー・コシュスコ=モリゼとの対話のなかから、セドリック・デュ・モンソーの言葉。
経済学部の学生だったころ私は、我々の発展モデルが比較優位の原則に基づいていて、貿易を支援する世界貿易機関(WTO)の重要性もそこにあると教えられました。やがてコンサルタント会社のマッキンゼーで働くようになると、ほとんどの企業が、労働者の専門化に応じて昇給を決めるテーラー・システムの発展形である”コア・ビジネス”を目指していることがわかりました。つまり我々の社会の基礎はミクロ経済学的にもマクロ経済学的にも能力の専門化なのです。しかし自分の人生を振り返ると、糧になったのは専門化だけでなく、多くの経験、さまざまな人との出会いでした。マズローの欲求階層説が説くように、人間には自己実現を目指す傾向があります。だから企業の成長の論拠とされている仮説は、人間の追及する個人的発展の欲求と一致しません。我々は現在の成長モデルのしくみを根底から見直さなければならないのです。持続可能な発展という問題意識があるけれども、単に従来の発展が続かないことを危惧するだけなら、何の意味もありません。
企業の権益を優先させる自由市場主義者たちと我々一般人との間に横たわる決定的な溝を端的に表現していると思う。この企業の成長と個々人の発展の要求の矛盾を解決もしくは解消させる仕組みを生み出さない限り、我々個々人の幸福度は低下の一途を辿ることは間違いないと思う。そしてこの解決策を見出し、社会を根底から変えていくことができるのは政治家でも投資家でも経営者でもない我々自身だということも。
そして同じくデュ・モンソー。
核を土台とするエネルギー政策には、廃棄物の処理上少なくとも100年間安定が続くことが必要ですが、民主主義はそれほど強固ではありません。この100年、我々はいくつもの民主主義体制が倒され、戦争が起こるのを見てきました。また、最近発見された第一次世界大戦の弾薬庫は、有毒な廃棄物の長期にわたる管理の難しさを証明しました。100年以上の安全を要する放射性廃棄物の場合はなおさらです。さらに大企業グループを相手に働いてきた経験から言うと、一世紀規模の発展を持った企業というのは、企業が短期的な株式市場の力に左右されることもあってまず存在しません。放射性廃棄物を100年以上保管するのにかかる費用と、耐用年数を過ぎた発電所を解体する費用を現代の株主がすすんで負担するなどと、本気で信じることができるでしょうか?
日本はこの脆弱な民主主義政権の下でもっと脆弱で短期的な価値追求に走る上場企業である東京電力をはじめとする民間企業に、原子力発電というエネルギー政策から廃棄物処理までを丸投げしてきたわけであります。デュ・モンソーが述べている通り、いざ事故が起きて放射能汚染による被害が発生したとたんに企業はその責任を放棄して、現状復帰にかかる費用をすべて国民に投げつけてきているというのが今の状態でありましょう。
こんな事が目の前で起こっているのに、原発の再稼動であったり電力料金の値上げであったりということをのうのうと語られてもまだ何の反応もない市民たちはまるで家でテレビを見ている居間に正に泥棒が入ってきて財布を手にして出て行こうとしているところ見てもぼさっとしているのと同じくらい鈍感なのではないかと思いますがいかがでしょう。
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2012/03/14:敬愛するスーザン・ジョージの新刊です。折しも日本を襲った3.11の地震から一周年を迎える今、日本の読者に向けて書かれたメッセージに目頭が熱くなる。この一言を読むだけでも本書を手にする価値があったと僕は思う。
日本の危機に対するみなさん自身の解決はみなさんの文化に則したものであるべきですが、福島の危機で日本の社会運動が敢然として政府と財界に要求を出し、政財界関係者が深々と頭を下げて謝罪しただけで逃げおおせるのを許さないことに、西欧でも多くの者が強く共感しています。福島での事故は原子力に永遠の別れを告げよという警鐘だと私自身は考えており、西欧の反核運動が日本の運動との連携をはるかに密にしているのは心強いことです。それはだれにとっても望ましいはずです。日本には課題があると同時に、誇れるものがたくさんあります。本書が微力ながら、みなさんの思索と築きつつある成果に貢献できることを願ってやみません。
被災地からは「風化させるな」、「忘れるな」、「一日も早い復興を」等と云う声が上がっている。勿論だ。そして「忘れてはならないもの」の一つに頭は下げたものの、今回の事態に増税や電気料金の値上げで対処し、のうのうと逃げ切ろうとしている妖怪のような連中がいること。そしてあの震災のあとで我々市民の一人ひとりが手を取り合い協力しあうことで大変な力を発揮し環境を改善し世の中を動かすことができたという力があると思う。
名もない市民の一人ひとりが協力して手を取り合い行動することで世の中は変えられる。風化させてはならないのはこの力を眠らさずに、悪を糾弾し、企業権益に尻尾を激しく振り続けている器の小さい政治家をその表舞台から引きずり降ろすことだと思う。それはつまり決して次の震災に備える話ではなく、今すぐ行動できるものなのだ。
今の事態をこのまま放置すれば、ますます企業に有利で国民には不利益が。個人の格差と不平等の拡大が進み、住み難い暮らしにくい社会へと日本は変容してしまうだろう。震災で漸く目覚めた僕らの龍を再び眠りにつかせてはならないと思うのだ。そのためにも本書のような本を一人でも多くの人が読み、今の世の中ではどんなことが推し進められてきているのかについて目を向けるようになって欲しいと願ってやまない。
■ 目次
日本の読者のみなさんへ
序 章 自由を選び取る
同心円/壁/ダボス階級/脱出路/牢獄の原理と実践/本書でご期待に添えないこと/数字について
第一章 金融の壁
なぜこうなったのか/教義/資本の勝利/「金融化」とレバレッジ/銀行が銀行でなくなるとき/政府を抱き込む/プライム,サブプライム,犯罪,犯罪未満/「だれもこうなるとは思わなかった」とはどういう意味か/お寒い規制/世界最大の救難作戦/授かったホルモン=授かるボーナス
第二章 貧困と格差の壁
研究を食わせておけ/金持ちを研究せよ,貧困層ではなく/格差はみなに重くのしかかる――最底辺層だけではない/危機はどのように南を襲ったか/雇用の蒸発/出口は?
第三章 最も基礎的な必需品
第一部 食糧
見せかけの平穏/数十年にわたる無関心と破壊的「解決策」/新たな食糧問題――前例はないが予測はついた/事実とフィクション/飢餓を招く独創的新手法/「自由貿易」,そして忌み嫌われるその反意語/食糧安全保障か食糧主権か
第二部 水――最高の資本主義商品
水の権利,水の不足――自然,経済,社会の面から/人為的影響――かつては見えなかった新たな危険/水の権利とその闘い/独占の功罪/もう一つの水の世界は本当に可能だ
第四章 紛争の壁
暴力は遺伝子に組み込まれたものではない/戦争からの脱却/地球温暖化否定論者は健在/水戦争――過去,現在,未来/「汝平和を欲せば,戦争に備えよ」は依然として真実か/市民の責任
第五章 私たちの未来
インセンティブ,報酬,上限/グリーン・ニューディール政策/今すぐ,銀行を市民の管理下におく/企業救済ではなく,剣を鍬に変えよ/もしもし,南の債務をお忘れではありませんか?/クリーンで,グリーンで,……しかもリッチに/金,大金,税金/課税を妨害するEU/打開か破綻か/トービンか,否か/タックスヘイブンは天国/会計学は退屈なものではない/交通,貿易,グリーンテクノロジー/ヨーロッパのニーズに応じたユーロ債発行/未来
結び
今週は、娘の中学校の卒業式に参列してきました。校長先生の式辞、来賓代表の方の祝辞を拝聴しました。夢を持って、荒波を超えてといった、昔からよく言われているような言葉と同時に、東日本大震災は勿論、リーマンショックや円高など今の日本経済のおかれている状況が非常に厳しいということが滔々と述べられていました。その厳しさは大人の僕でも腰が引けるような状況で子どもたちはどうこの話を聞いているのかと思うほどでありました。
今年の卒業式は父兄や在校生も参加し平常な形で開催できたけど、昨年のここ新浦安の中学の卒業式は、水道が止まり液状化であちこちが沈降、泥が堆積した施設で予行演習はおろか式そのものもできないような事態であった訳で、もっと暗く重い雰囲気だったらしい。
勿論地震は誰のせいでもない。しかし、地震と津波によって発生した福島第一原発のメルトダウンとその事態に対応する東京電力や政府の対応のまずさや、そもそも津波に対する備えが不十分で杜撰なものであったのは人災だ。
それと同様に現在、世界経済が陥っている格差と不平等、そして紛争の拡大。本書が指し示すとおりこの危機は、成層圏のような高みにいる極々一部の富裕層によって市井の市民の預かり知らないところから金と情報とコバンザメのような政治家とメディアを操作することによって醸成されたものだ。
こうした不平等を是正し、世の中をまっとうな状態に戻すことを彼らに期待しても無理なので、ここからこの危機を脱出していくためには我々市井の人々が手を取り合って行動をしていく以外にない。
これは東日本大震災直後の状況と同じで、僕ら一人ひとりができることを具体的に行動に移すことでしか変えられないもので、投票箱なんかよりもずっとずっと重要な、民主主義以前、民主主義の前提条件となるべきものだ。
これは我々の意思の問題だ。痛みは伴うものではあるけれど、みんながその気になれば変えられる。前進できることなのだ。本書はどこを目指していけばいいのか。そんな目線を提示してくれるものになっているのだ。僕らの子どもたちのためにも。
是非ご一読を。
「ルガノ秘密報告」のレビューは
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「WTO徹底批判!」のレビューは
こちら >>
「アメリカは、キリスト教原理主義・新保守主義に、いかに乗っ取られたのか?」のレビューは
こちら>>
「金持ちが確実に世界を支配する方法
こちら>>
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「移行化石の発見」
(Written in Stone:
Evolution, the Fossil Record, and Our Place in Nature)」
ブライアン・スウィーテク (Brian Switek)
2012/03/10:いよいよ花粉症の時期に入りました。とは云うものの先週あたりから天候は不順で、断続的な雨。雨の日は花粉が飛ばないので症状が落ち着く。その反面地面が乾くと一気に花粉が舞い始め途端にくしゃみや目のかゆみ。雨上がりの日は特に花粉症が重いと思うのは僕だけでしょうか。
三年続けてきた鼻の粘膜をレーザー照射で焼く治療を今年はパスした。今年は休んでも大丈夫でしょうと医者から云われたのだ。中学の頃からかなりの劇症でこの季節、薬が手放せない体質だったものがレーザーのお陰でほぼ問題ない状態で乗り切れるようになった。しなくても大丈夫と云われても甚だ不安だよ。
マスクで防衛してても先週の晴れ間が見えた日は、くしゃみが出、目もかなり痒くなった。しかし以前の症状に比べれば全然たいしたことのない。この週末はまた雨。本格的に飛び始めるのは来週以降からになるようですが、果たして僕は薬なしの手放しでこの時期を乗り切ることができるのでありますでしょうか。
To Be Continue
週末仕事もしなけれりゃならない日が続くますます忙しい3月だけど、本だけはちゃんと読むし、そして記事もちゃんとアップしていきたい。
しかし、ちゃんと背景情報を調べて筋道立てて一つ書くのはやはりなかなか体力のいることであります。
先日ニュースでは、始祖鳥の羽の色が特定できたという話が取り上げられていた。約1億3千年前に中国北東部付近で暮らしていた、羽のある肉食恐竜、ミクロラプトル(Microraptor)はカラスのように羽の色は黒く光を反射して玉虫色に輝いていたという。これは米中の研究グループが化石に残された羽毛を電子顕微鏡で調べたことからわかったのだそうだ。
子どもの頃、恐竜図鑑で眺めていた巨大なトカゲのような姿は、移動する際の姿勢が違っていたり実は羽毛や毛も生えていたらしいとか、随分と様相の違ったものであったことが最近の研究ではわかってきた。
巨大な肉食恐竜が実は鳥のような羽毛をまとった姿であったというのはちょっとびっくりではありませんか。ねぇ。
そんな訳で、進化論や人類のグレート・ジャーニーのお話などに強い興味を抱いている僕としてはこの「移行化石」の発見というものにはえらく気を引かれるものがありました。書評などでもなかなか評判もよいようだし。楽しみにしておりました。
しかし、読み始めてまもなく僕は徐々に彷徨いはじめてしまった。本書はどこに行こうとしているのだろうかと。主張していることや、科学史の内容には全く違和感はないのだけど、一冊の本として貫くテーマというものがどうにも見つからない。
進化論を強固なものにしたものが移行化石の発見であった。として。ダーウィンが述べた進化論が宗教界を巻き込みながら猛烈な論争が起こり、社会的価値観の変更を迫られるなかでこの移行化石の発見を巡る物語なのだろうか。
ヒトが、類人猿が、或いは哺乳類といった様々な種がおおもとの幹から枝分かれをしはじめた正に「移行」期の化石たちを俯瞰していく道のりだろうか。
序章 「ザ・リンク」はリンクではなかった
第1章 化石と聖書
第2章 ダーウィンが提示できなかった証拠
第3章 ヒレから指へ
第4章 羽毛を生やした恐竜
第5章 哺乳類はどこから来たのか
第6章 陸に棲むクジラ
第7章 百象争鳴
第8章 ウマはなぜウマ面なのか
第9章 ネアンデルタールが隣人だった頃
終章 進化は必然か偶然か
本書は短い路地を進んでは、気ままに角を曲がってしまうように僕には読めて仕方がなかった。しかもまた時間軸や話題そのものもいったりきたりしている部分もあって、ぶっちゃけ迷って歩いている人についていっている感じすらした。なぜ魚類が陸に上がってきたのかという部分も「涸れ池仮説」として簡単に語られてはいるけれども深く踏み込まず。一体なんなんだと。
ゾウの進化を辿るのであればクローディーヌ・コーエンの「
化石ゾウが語る古生物学の歴史 」。なんと古代マンモスの頭蓋骨の化石は、一つ目の巨人のものだと信じられていたことがあったという。
本書にも繰り返し登場するニール・シュービンとワニなどに繋がる移行生物であったテクターリクのお話であれば、ご本人の「
ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト―最新科学が明らかにする人体進化35億年の旅 」。このテクターリクはかなりキテレツな生き物だった模様だが、まだ多くの謎に包まれている。本書はこのテクターリクの脇もなぜかやや早足で通り過ぎていってしまうのだ。
カンブリアの大爆発を誘発したのはなんと眼を持つ生き物が登場したからだという興味深いお話としてアンドリュー・パーカーの「
眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く 」なんてものもありました。
人間の進化は度重なる幸運と偶然の重なりによって生じたのだと僕は信じる。しかし、人間がここまで進化してこなかったとしたらこの地球はどうなっていたのだろうか。今の僕らとはかなり様相の違う動物が知能を発達させて文明社会を築いていたのだろうか。
そもそも生物のボディ・デザインというものはどのように進められるものなのだろうか。ケネス・J. マクナマラ 「
動物の発育と進化―時間がつくる生命の形 」
そして、最近とても興味深く読んだ一冊がサイモン・コンウェイ=モリスの「
進化の運命-孤独な宇宙の必然としての人間 」地球型惑星で仮に生物が進化していくとき、利用できる素材が同じであることから結果的には非常に似通った生き物の姿かたちになるだろうという話だ。
タコ型の知的な火星人ではなく人間に似た知的生命体のいる星がこの宇宙のどこかにあり、そしてそこではやはりこの地球と同じように雨が降る。そしてもしかしたら花粉症でくしゃみもしているかもしれない。
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「野蛮なやつら」 (SAVAGES)」
ドン・ウィンズロウ (Don Winslow)
2012/03/03:待ちに待ったウィンズロウの新作であります。2010年に出版された"SAVAGES"は既に映画化の話が進んで、オリバー・ストーンが、トラヴォルタが、そして脚本はウィンズロウ本人が参加しているらしい。そして本書には既に続編が、とか。ウィンズロウの躍進ぶりは本当に目覚しいものがあります。
なるべく余計な情報を入れずに徐に本に没頭したいところなのだが、どうしたっていろいろな情報が入ってきてしまうものだ。
主人公たちは何やら、ブッチ・キャシディとサンダンス・キットとエッタ・プレイスのような組み合わせの三人組であるらしいとか。そんでもって訳者は東江さんときたらもう期待するなという方が無理というものでしょう。
風邪気味で体調が悪化するなか、床に伏せってもこの週末はこれを読むという執念のような思いで本屋に立ち寄り手に入れるや寝床に倒れこんで読みました。
マリファナの密売で刑務所に入った父を持つアフガン戦争帰りのチョン。精神分析医の父母を持つベン。二人は全く違う環境に生まれたにも関わらず無二の親友同士。ベンは大学に進み生物学を学び、チョンはアフガンから大麻の種を持って生還した。ベンは教養を生かしてチョンの持ち帰った大麻の種を水耕栽培し、更に品質改良を重ね誰にも真似の出来ない調合を施したマリファナの製造に成功した。
二人は手を組んでマリファナの売買に精を尽くし、今ではラグーナの豪奢な家に暮らす身分だ。頭脳担当はベン。そして商売につきものの汚れ仕事はチョンの役割。そして一緒に暮らすオフィリーア。彼女はチョンともベンとも関係を持っていて、その思いには偽りもない。そしてチョンもベンも承知で心から彼女を愛していた。
平和主義者で仏教徒のベンは稼いだ金を海外の貧困地域の救済に金をつぎ込むだけでは飽き足らず、自ら現地へ赴き支援活動に没頭する日々だ。そしてビジネスはもっぱらチョンが切り回す。そして下手な横槍を入れようとしてくる輩には迷わず鉄槌を下す。
かくしてビジネスは安泰。
しかし、そんな日々もバハ・カルテルが彼らに狙いをすませたことから終わりを遂げる。
製造したヤクはすべて、こっちへ卸せと。さもなければ。
さもなければ。チェーンソーで切り落とされた生首の映像。本物の。説明は不要。
そして要求を飲んでもロクなことにはならないというあまり参考にならない情報付きだ。
ウィンズロウの器用さはますます磨きがかかっていていると思う次第だが、作風の幅の広さにはまた目を見張るものがある。
この「野蛮なやつら」は似ているといえば、「フランキー・マシーンの冬」。直情径行のストーリー展開はまず脇目も降らず一直線にクライマックスへと爆走する。
一気に駆け抜ける物語は面白い。そしてあっと驚く展開。いはやはどこまで人の裏をかくのが巧いのか。憎らしいよ。まったく。
しかし、ちょっとだけだけど、どうも喉の奥に違和感を覚える。何も風邪のせいじゃないと思う。ブッチ・キャシディとサンダンス・キットとエッタ・プレイスも確かに友情と奇妙な三角関係にあって、彼らもまた銀行強盗をくり返したアウトローなのだが、それが現代に蘇ったかのようなこのチョンとベンそしてオフィーリアの関係はどうにも居心地が良くない。
史実はともかく映画でのブッチ・キャシディとサンダンス・キットの二人は人を殺めることに強い罪の意識を持っていた。彼らがはじめて人を殺すのは強盗から足を洗うべく、鉱山で働く人たちへ給料の配送の護衛の仕事に就いたときだった。突如襲ってきた山賊たちに向かって止むを得ず銃を撃ち放つのだ。一瞬にして多数の男達を殺した二人の哀愁に満ちた顔はあの映画の大きなターニングポイントでもあった。
チョンはともかくベンは平和主義者である設定で、バハ・カルテルの非道な行為に立ち向かうことは避けられない事態なのだけども、どうしてかブッチとサンダンスのようなイノセントな部分が欠けているように読めてしまうのだ。
そんな訳でちょっと残念だけど三人の誰にも感情移入がし難く、波に乗り切れない自分がおりました。
あとがきを読むと、本書でウィンズロウは犯罪小説の枠組みをぶち壊そうと試みたということが書かれていた。そして「たくさんのことに腹を立てていた」と。
強者の弱者によるあまりにも非対称な構造のもとに行われる政治も経済も専制も横暴もそして偽善も。そして当然そんな中で進められる民主主義も。
そう、こんな世の中の仕組みを巧みに利用するやつらも、そんな事情に気付きもせず能天気に民主主義を信じて利用されて捨てられる人々も。
また、犯罪小説の硬直化、無力化、犯罪小説の定義にとらわれる作家たちをも。
そんな枠を全部ぶっ壊したいと思ったと。
ウィンズロウの考えには激しく同意するのであるのだけど。
そんな背景から生まれたという本書を割り切ることができない僕は少し頭が固いのかもしれません。
そして勿論続編も楽しみにしてますけども。
「キング・オブ・クール」のレビューは
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「紳士の黙約」のレビューは
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「夜明けのパトロール」のレビューは
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「シブミ」のレビューは
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「フランキー・マシーンの冬」のレビューは
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ニール・ケアリーシリーズのレビューは
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「ザ・カルテル
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「報復」のレビューは
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「小さきものたちの神」
(The God of Small Things)」
アルンダティ・ロイ(Arundhati Roy)
2012/02/25:年に一度・二度は風邪で体調不良になる。この週末はそんな日でありました。平日から徐々に体調が悪化。ルル飲んで誤魔化しつつ仕事をして週末にダウンするパターンだ。
今朝はカミさんのご出勤だったので起き出して送迎。あとはずっとリビングで横になって本を読んで眠くなると寝て、起きてはまた本を読む。そんなことをして一日過ごしてしまった。アルンダティ・ロイの「小さきものたちの神」そしてドン・ウィンズロウの「野蛮人なやつら」
見方によってはとっても贅沢な一日でもある。仕事は年末からずっとどたばたと忙しい日々のレベルがますます上がって、もう本当にこんなに目まぐるしいのは会社人生でもはじめてだという位な状態が続いてきたので、ここらで一服するのは寧ろ必要なことかもと割り切って、なすがままにまどろむ。
そしてアルンダティ・ロイの「小さきものたちの神」読んでいる間よりも読後、一眠りした後の方がよくなってくる。そしてずっしりと重さを持ち始めて僕の心に沈み込んでいく。
ごちゃごちゃと雑多で、混沌として落ち着きがなく、常に騒がしい子ども時代のエスタとラヘル。彼らは二卵性の双子。
18分先に生まれたのがエスタ、エスタパンは男の子、そして後から生まれた女の子がラヘル。二人は二人で一つのわたしだった頃。すべてに神がやどり活き活きとひかり輝いていた時間。
エスタはそのかつて子ども時代に暮らしたインド南西部ケララ州にあるアエメナムの屋敷へと帰郷する。二十数年ぶりのアエメナムは5月。色彩豊かで濃厚な自然に囲まれた故郷の地はどこか憂くうつろであり、かつての屋敷も生気のない空虚を抱え込んだ気配を漂わせている。
本書はこの二つの時間と二つの世界観を目まぐるしく行き来する。決して前進しない。閉じられた時間。閉じられた世界観をぐるぐると延々と回り続ける。
行き着く先は物事の細部。一つ一つの出来事、一つ一つの言葉、しぐさ。そして一つ一つの品。
ラブ・イン・トウキョウ。溶けたチョコレート。黄縁のサングラス。
(a)だれにでもいかなることでも起こりうる
(b)心してそれにそなえよ
たった一日のうちに人生が変わってしまうこともある。
オーストラリアからやってきた伝道師ミス・ミトンを嫌った二人はプレゼントにもらった「リスのスージーの冒険」の本を逆さ読みする。
これに怒ったミス・ミトンは大叔母で元修道女のベイビー・コチャマへ言いつける。彼らの目にはサタンが見えると。目のなかに「ンタサ」が。
ミス・ミトンは数ヵ月後、牛乳配達の車にはねられて死んだ。二人はこの車がバックしていたことに対して隠れた正義を感じる。
そして愛すべきソフィー・モル。黄色いクリンポーリン地のパンタロンに、髪にリボン、イギリス製のゴーゴーバックを持って。9歳の。
「おばのベイビーです。」
ウシの赤ちゃんもイヌの赤ちゃんも、クマの赤ちゃんも知っているけれど、おばちゃんのベイビーとはと目を見開いて驚くソフィー・モル。
すべてが活き活きと輝き続ける過去と、生気を失い、うつろにただ朽ちていくのを待っているだけの現在。
アエメナムの屋敷。ヒンドゥーとシリア・正教徒。不可触民と可触民。パラヴァン、彼らは穢れた足跡を消すために、自ら箒で足跡を消しながら後ろ向きに歩かされたという。そしてイギリスの植民地政策と共産主義。パラダイス・ピクルス&保存食品。
振り子がふれるように過去と現在を行き来し、そのたびに細部へ細部へと思考は入り込んでいく。
闇の奥へ。
それはラヘルの贖罪と後悔を伴う過去の反芻であり思考。そして祈りでもあった。
小さきものたちの神。
失われしものたちの神。
すべてはソフィー・モルがアエメナムにやってきたときに始まり。そして終わる。ばらばらだったもの。雑多なもの。混沌としたものたちが一つの塊へと収斂していく。
はかなげに哀しくそして美しく光る一つの点へと。
「わたしの愛したインド」のレビューは
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「帝国を壊すために」のレビューは
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「民主主義のあとに生き残るものは」のレビューは
こちら>>
「ゲリラと森を行く」のレビューは
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「イスラームから見た「世界史」」
(DESTINY DISRUPTED:
A History of the World Through Islamic Eyes)」
タミム・アンサーリー(Tamim Ansary)
2012/02/20:中東、中近東、東欧、アラブ、アラビア、パレスチナ、そしてイスラーム。今このあちこちで突如炎上しては悲劇的な殺戮が巻き起こるこの地域。
アメリカ政府はならず者国家だの、テロリスト支援国家だの、西洋諸国の安全保障だとか、国内のなんとか派に対する人権蹂躙の阻止やら、少数部族の権利を守るなどと言ったかと思えば、狂信的な原理主義者の排除だの、テロリストの掃敵だの、武装した反政府勢力の鎮圧だと言ってみたりと、その立ち位置は変幻自在だが、一体その立ち位置はどのような価値観と判断によってなされているのか。
そんな内容は我々一般人にはまったく伺えず、さぞやこれら彼の地の人々の文化と歴史に通暁した非凡な才能のある人々がその舵取りをしているのだろうなどとついつい早合点をしてしまう訳だが、現実には、彼の地の現地語を理解するものなど殆どいないばかりか、千年以上に渡るその文化や歴史の流れを汲んで暮らす諸族の人々の価値観や思想などについて思いが及ぶような政府高官は全く居ないまま、意思決定と具体的な行動が行われてきた。
アメリカ政府の海外の人々の価値観や思想に対する無知と無関心はヴェトナム戦争の時ばかりか第二次世界大戦の時も、いやもっと遡れは、そもそも先住民の存在を全く省みず開拓と称して押入り蹂躙して征服して居座った時からであり、そんなアメリカ政府に長い歴史的文化を持つ者の価値観を理解する力は備わっていないと考えるほうが正しいのかもしれない。
政府としてアメリカ先住民やメキシコから騙し取ったテキサスのことを真っ向から取り上げ反省して土地を返還するなどこの世界の終末がやってきても有り得ない話で、である以上そうした行為は正当性があれば常に認められなければならないというのが常に正しい世界であり続ける必要があるのだろう。
いやいやかなり脱線しました。
イスラム教は世界三大宗教と言われているわけだけどどんな宗教なのか。どこかでちゃんと調べておきたいと思って適当な本がないか探しいていたところ行き当たったのが本書でした。
イスラームの事をはじめ、そのイスラームから見た「世界史」。正に一度触れてみたいと思っていた切り口だ。そんな本ではどんな世界観が垣間見せてくれるのだろう。
ウィキペディアによれば、世界の信者数はキリスト教約20億人(33.3%)、次いでイスラム教約11億9千万人(19.6%)、ヒンドゥー教約8億1千万人(13.4%)、仏教徒約3億6千万人(5.9%)、ユダヤ教約1千4百万人(0.2%)その他の宗教約9億1千万人(15.0%)そして無宗教約7億7千万人(12.7%)という内訳になっているのだという。
この数字のなかで僕はどこに数えられているのかわからないけども、日本で生まれ育ちながらも仏教の信者の人たちが何を信じているのか、僕にはよくわかっていない。そしてまたプロテスタントの学校に通っていたくせに、いやいやその経験があるからこそからかもしれないけれど、キリスト教の信者の人たちが本当に信じているものが何なのかやはり僕にはよくわかっていない。
イスラム教やヒンドゥー教の信者の人たちは何を信じているのだろう。それらの宗教というものは一体どんなものなのか。ぐるっと見て回ることで改めて仏教やキリスト教について見えてくるものもあるかもしれない。
ましてイスラム教ではその創始者である預言者モハメッドが最初に顕現を受けたのは天使ガブリエルからのものだったというではないか。ということはつまり、キリスト教と同様にユダヤ教と同根である訳で、その歴史を辿れば今なぜ彼らが互いにすさまじい悪意を抱いて血を流し合っているのかについても理解できるのではないかと。
イスラム教の創成期の物語はおろか本書で語られるイスラムの世界史をここでかいつまんで書く力も時間も残念ながら僕にはとてもない。しかし、ちょっとだけ。
ユダヤ教やキリスト教のそれと大きく異なるのはこの創始された時期がずっと時代が下っていることだ。ムハンマドがガブリエルの顕現に会い、クルアーンの啓示を授かったとされるのが610年頃の出来事だったらしい。
勿論この顕現も啓示もムハンマドが個人的に体験したことである訳だけど、その啓示によって人々が集まりだし、集団内(ダール・アル・イスラーム)の平穏を守るために外部(ダール・アル・ハルブ)と戦い、何倍もいる敵を撃破したことが神の守護によるものに違いないということでますます信者を増やしていったその過程はかなり史実に基づいたものになっているのではないかと思われる。
610年といえば日本では推古天皇や聖徳太子の時代だ。イスラム文化圏では、この創成期の物語、ムハンマドの子孫や歴代のカリフ達の生き様と血筋そしてその教えを現代まで脈々と受け継いで今を生きているのだ。
イスラームの教義の体系>>
そしてイスラム文化圏もまたそれ自体で独立したものではなく、イスラム文化圏の拡大は結果として他の文化圏との接点が生まれていく。それはユダヤ教徒、キリスト教徒とだけではなく、トルコ、モンゴル、インド、オスマン、そしてヨーロッパと大きな潮流となってぶつかり合い、怒涛を響かせ現代史へとなだれ込んでくる。
この近代史以降へと急激に流れ込んでいく本書の構成は正に怒涛のごとくであり、大変な読みどころとなっておりました。
かような歴史観を持っている人々に単にシステムとしての民主主義を持ち込んだところでどうなるものでもないということも含め正に西洋社会の厚顔無恥さ加減の罪深さが一段と色濃くなる本でもありました。
そしてまたこうした複雑に壊れてしまった関係はいつか真摯に向き合い過去を清算し、手を結び合うことができる日がくるのかどうかについても深く考えさせられるものがありました。
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2012/02/11:まずは事態が悪化の一途を辿るシリアの状況について
2012年2月5日「シリア非難決議案否決 中ロが拒否権、昨年に続き2度目」
国国連安全保障理事会は4日、反政府デモへの武力弾圧を続けるシリアのアサド政権を非難する決議案を採決したが、常任理事国のロシア、中国が拒否権を発動し、決議案は否決された。中ロによる拒否権の発動は昨年10月のシリア非難決議採択時に続き2度目。
両国以外の13カ国は決議案に賛成した。常任理事国の米国、フランス、英国は、両国を強く非難した。
国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長は採決後、暴力停止の機会が失われたと述べた。米国のライス国連大使はCNNとのインタビューで「シリア国民は再び安保理と国際社会に見捨てられた」と失望感を示した。ライス氏はさらに、ロシアがシリアへの武器輸出国であることを改めて指摘した。
これに対してロシアのチュルキン大使は、決議案には事態が正しく反映されていなかったと述べた。中国の李保東大使も、シリアの全当事者に暴力停止と秩序回復を求める立場を示したうえで、決議案の文言は問題を複雑化するばかりだと語った。
シリアのジャファリ国連大使は、同国が一部の大国の標的になっていると主張。危機がねつ造され、メディアがアサド政権側を悪者に仕立てあげていると述べた。
この利害が一致できなかったという決議案の詳細は報道されていない。ニュースの論調はロシア・中国が国連決議に対する拒否権発動に対する非難の声ばかりが目立っている。確かにシリアでは現在内戦状態に陥り大勢の人が死んでいる。こちらから見てシリアのアサド大統領の姿勢がはっきりしている部分は何かと云えば「反米」であることぐらいだ。おそらくはその反米思想が西側から反政府勢力への支援を呼び暴力が噴出しているようにみえる。
これに対し日本の外務大臣玄葉光一郎は、拒否権行使は遺憾との談話を発表。シリアのアサド政権に反政府デモ弾圧の即時停止を要求した国連安全保障理事会の決議案が、中国とロシアの拒否権行使で廃案になったことについて、「弾圧に苦しむ人々を強く失望させるもので、深く遺憾に思う」とする談話を発表した。勿論日本はアメリカに従って国連では一票入れているのだろう。
玄葉は余計なことを言うなと強く思う。国連決議を棄権して安保理を骨抜きにしているのはアメリカも一緒。問題なのは報道されていない今回の決議案の文面だ。メディアもその内容をちゃんと分析して報道すべきだと思う。
2012年2月9日「シリア 医師や乳幼児も死亡 街には遺体散乱」
シリア国内の反体制活動家によると、西部のホムスで8日までの4日間連続して政府軍による爆撃が続き、住民が恐怖に陥っている。街に散乱する遺体は回収できず、負傷者の治療もできない状況だという。
爆発音は数分おきに聞こえ、幼い子どもや医療スタッフまで犠牲になっているとこの活動家は話し、「人道に対する犯罪だ」と訴えた。爆撃には重火器や対空砲などあらゆる兵器が使われているという。
政府軍が重火器を含めたあらゆる兵器で対抗する必要があるくらいに武装した反政府勢力を支援しているのは西側だ。シリアの市民たちが戦闘の狭間で死ななければならないのは天然資源があるからに他ならない。
また、一方で非常に気になるのはイスラエルとアメリカのイランに対する強い圧力だ。もはや論調はやるかやらないかではなく、何時かという話になってきている。
2012年2月5日「イスラエル情報機関長官が訪米、イラン攻撃時の対応見極めで」
イランの核開発計画阻止のためイスラエルが先制攻撃を仕掛けるとの憶測が強まっているなか、米連邦議会筋は5日までに、イスラエルの対外情報機関モサドの長官が訪米して情報機関当局者や一部議員と会談、攻撃に踏み切った場合の米側の対応の分析に努めたことを明らかにした。
同長官は先週米国を訪れており、クラッパー米国家情報長官は議会の公聴会でこの事実を確認している。
議会筋によると、モサド長官は一連の会談で先制攻撃を実行した場合、イランへの対抗措置を含む米側の具体的な対応について見極めようとしたという。同筋はまた、先制攻撃の実行前にイスラエルは米国に通告しないと判断しているとも述べた。
米国防総省高官は先にCNNに対し、パネッタ国防長官はイスラエルが早ければ今春にもイランを攻撃するとの見方に傾斜していることを明らかにしている。同長官はブリュッセルで北大西洋条約機構(NATO)の会合に出席した際、記者団にCNN報道の真偽を問われたが確認も否定もしなかった。
パネッタ長官は、米政府がイスラエルに対し懸念を表明したことを明らかにしたものの、詳細については言及しなかった。懸念の一つは、イスラエルから先制攻撃を受けた場合のイランの反応だと見られている。
2012年2月9日「対イラン攻撃、10月の可能性高い=ブレジンスキー氏が分析」
カーター元米政権(民主)で大統領補佐官(国家安全保障担当)を務めたズビグニュー・ブレジンスキー氏は8日、ワシントン市内で開かれた会合で、イスラエルがイランの核施設を攻撃するとすれば、10月に行われる可能性が高いとの見方を示した。その理由について、11月の米大統領選直前に攻撃することで、イスラエルは米国の支援・理解を得やすくなると判断すると分析した。野党共和党候補は対イラン武力行使に言及するなど、強硬姿勢を強めている。
イランの実態がどうあれ、アメリカでは大統領選挙にあわせて花火のように攻撃を実施し民意をそらし、イスラエルはその尻馬にのってやりたいことをやるという意味にとれる。イラク戦争のように始まる前に西側諸国の主要メディアは一番眺めのよい場所に到着しているなんてことになりかねない。何があってもこんな暴挙を推し進めさせてはならないと思う。
さて、ジャン・ブリクモンの「人道的帝国主義」。ひと言で言ってしまえば、人道的、人権擁護の名のもとに、他国に干渉、介入、はたまた予防戦争などと云ったレトリックを使って、なんだかんだ侵攻して制服してしまう帝国主義的国家に対する痛烈な批判だ。
その矛先の殆ど大部分はアメリカ政府。そしてそんなならず者国家を支援している国々に対するものだ。我々日本のような。
ブッシュ政権は京都議定書に加わらず、クリーン・エネルギー国際計画に反対したのみならず、人権差別国際会議からも脱退し、対人地雷、爆弾の生産、使用を禁止する123カ国の協定への参加も拒否し、不法な小武器の国際的流通の制限にも反対し、生物・有毒兵器にかんする1972年の協定の受け入れをも拒否し、国際刑事裁判所への参加をも拒否し、反弾道ミサイルにかんする72年の条約からも脱退し、わけても核実験全面禁止条約をも拒否した。そして一方で、より簡単に使用できるための洗練された核兵器や、宇宙に設置するための軍事ステーションを開発し、好きなときに予防戦争を仕掛けることのできる権利を通告した。
先ずは何より僕ら有権者はこうした事態に対して一連の責任があるという自覚を持つ必要がある。先のシリアの国連決議に対する拒否権発動に対する非難報道がまるで正義であるかのように日本でもなされていたことについて正しく理解したい。アメリカ政府が国連決議で拒否権を発動した回数はどこの国よりも多いのだ。そのアメリカが何を言うかという話で、にも関わらずメディアは語らず、我々の大半もそんなことは知らないというわけだ。
まさしくこうした国際秩序の確立に反対しているのが、合衆国および人権の名においてそのアメリカの行動の支持している国々である。そして、現在予定されている国連改革は、それらによる一方的行動のさらなる正当化をもたらす危険が大いにある。一番よく持ち出される議論は、国連、特に人権委員会に、民主的な国とそうでない国が同席しているのは実に嘆かわしいというものだ。しかしこれは、非同盟国のどの会合を見ても、また人類が70%を代表する南側のどの首脳会議を見ても、大国による通商禁止であれ、経済制裁であれ、戦争であれ、あるいはさまざまな一方的干渉であれ、すべて断罪されている事実を忘れている。しかも、それらを断罪しているのは「専制国家」だけではないのだ。
非同盟国の会合や、また人類の70%を代表するという南側の首脳会議の中身に関する報道を読んだ記憶があるだろうか?アサド大統領、アフマディーネジャード大統領、そしてチャベス大統領の具体的な声明は?彼らが報道される場合決まって、何かに激昂しているとか、変な汗をかいているみたいな画で、何を主張しているのかについては殆ど解説もないのが常だ。僕が先日目にしたチャベス大統領の言葉は「反米的な政府の国家元首が次々病気になるのは何かの陰謀」みたいなことを言ったとか言わないとかという怪しげなものだった。何時の間にか僕らは政府の思惑通りに相手国を下にみたり、敵対的国家だと思い込んでしまうのだ。
本書にはグアテマラのアルベンス政権が打倒された際の事例を元にアメリカ政府が実践している「民主主義の擁護」の特徴的なレトリックを紹介している。
・おのれの秩序に針の先でも傷付くと騒ぎ立てる超大国の偏執狂。
・対立者の悪者扱い。当時は「コミュニスト」として生け贄扱いするだけで、十分だった。やがてそれは、「テロリスト」に取って代わられる。いずれにしても、対立者を悪者扱いすれば、彼らの訴えに耳を貸さずに済むし、彼らの言い分を考慮しなくても済む。
・傲岸な無知。ワシントンが外国について知っていると思われる事実は(ユナイテッド・フルーツ社)のように外国を搾取する大会社か、彼らとつながる反動的ロビーから出ている情報だ。幾人かの外交官、あるいは程々にものが見えるCIA要員からのもう少しましな知識は、政策決定者の部屋にはまず届かない。
・メディアの体制順応。アメリカのメディアは事件の公式見解を調べもせずに受け入れ、「敵」の説明をばかげているとみなす。
・指導者階級の「二党連立的」一致団結。グアテマラの軍事クーデターは民主党のトルーマン大統領によって計画され、共和党のアイゼンハウアー大統領によって具体化された。
・国際法の完全無視と国際法を適用しようとした者への威嚇。1954年6月、フランスが国連安保理で、グアテマラによる緊急動議(合衆国に従属する隣国ホンジュラス、ニカラグアから派兵された軍事侵略を阻止するもの)を支持しようとしたとき、アメリカの外交団は憤然とフランスの「狭量な行動」に反撃した。ワシントンの脅しに屈して、フランスは英国と同様、棄権にまわった。当時の国連の事務総長ダグ・ハマーショルドは、グアテマラ問題に対するアメリカの拒絶反応を、「国連に対する最も深刻な打撃」と断じた。それ以降、これと同じ打撃が次々と襲うことになる。
・「第三の道」と称するものに道を開くとの口実で、一国のきわめて民主的で進歩的な勢力を破壊させる。この道はこれまで以上に民主的というが、実はそういうものは存在しない。
ソ連が崩壊し、コミュニストがいなくなった今、敵はすべて「テロリスト」と呼ばれる。テロリストの定義は近年どんどんと拡大解釈され、反米的、或いは反米思想を持っている可能性があるものも含まれている。そしてアメリカ政府はそうした勢力、どこの国に住んでいようが、に対して予防的手段として攻撃する権利を持っているばかりか民主主義を擁護するためにそうする義務すら持っているというわけなのだ。
これから我々がなんとかしなければならないのは、ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」で明らかにしたように世界各国に拡散してしまったシカゴ学派の連中を一日も早く表舞台から引き摺り下ろし、冷静で正常な政治的判断と政策実行を行える政府へと舵切りをすることだ。このままではますます世の中が滅茶苦茶になってしまうぞ。
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「アインシュタイン その生涯と宇宙
(Einstein: His Life and Universe)」
ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)
2012/02/05:前にも書いたが、数学はもう殆どまったくの苦手なくせ宇宙論の本なんかを読んでわかったような顔をしている。難解な宇宙論の本に傾倒するきっかけとなったのは1979
年に放送されたBBCの"Einstein's Universe"だった。
なんとユーチューブでその映像が観れるではありませんか。世の中便利になったものだ。
VIDEO
激しく歪んだトラック、そして接近するときには真っ青、遠ざかるときには真っ赤になるハーレー。この番組で宇宙のあらまし。成り立ち。想像もできないほどの大きさ。一方で宇宙の片隅のちっぽけな領域で生まれた僕ら生命の存在という概念にそれこそどっかーんと衝突したのでした。
そして浮かんでくる問い。「僕たちはどこから来て、そして何処へ向かっているのだろうか?」
正に衝撃的であった。そんな相対論をかのアインシュタインはどんな風に考え生み出したのか。またこの新しい公理の発見によって世界情勢は大きく動いていく。あの時代に生きた等身大のアインシュタインの人生とは一体どんなものだったのだろうか。
本書では父親の仕事に気をもんだり、結婚にあたり両親の反対にあって悩んだりする若きアインシュタインから、自分の子どもの結婚相手について自分の親と同じような反応をしたり、複数の女性と恋に落ちたかと思えば、近所の子どもたちの宿題を手伝い、散歩中の瞑想が深すぎて家に帰れなくなったりするとても人間くさいアインシュタイン。そして平和主義者として時代のアイコンとして悩み翻弄されるアインシュタインと彼の人生を丹念に追いかけていく。そして同時に彼が発見した相対論をはじめとする重要な理論についても詳しく知ることができる内容になっている。
経験科学の創造について最も簡単な描像は一連の帰納法的手法である。個々の事実が選ばれ、まとめられ、それらを繋ぐ法則が明らかになる。・・・・・・しかしこのような方法で得られる大きな科学的知識の進歩は少ない・・・・・・自然の理解における真に偉大な進歩は帰納的手法とはほとんど正反対の所にある。事実の複雑な集大成から直感的に本質をつかみ出すことで科学者は仮説的な法則を導き出す。これらの法則から科学者は結論を引き出す。
経験科学に対して否定的であったアインシュタインは演繹的に相対論を初めとする重大な論文を矢継ぎ早に書き「奇跡の年」を生み出していったのだった。
窓のない箱に入っている人にとって加速度と重力は見分けがつかない。言われて見れば明らかに自明のことである訳だが、その閃きはまさに奇跡というべきものだと思う。そして相対論から導き出される驚くべき世界観。こんなに興味深くて面白い話もないと思うのだけど。
そんな訳で本書もそれなりに面白く読んだと思う。しかしすこしというかかなり消化不良でありました。
自ら激動の時代を生み、その渦中へと引き込まれていくアインシュタインの人生はめまぐるしく、この程度の本で語りつくせるものではなかったということもあるだろう。
家族や友人との関係、平和主義者、物理学者、そしてあの時代の世相というまったく異なる様々なテーマが交錯するアインシュタインの人生をすべて描こうとすると逆に読み物としては散漫になってしまったのかもしれない。
しかし、それだけではない。この書き手ウォルター・アイザックソンの一歩退いた目線が人間としてのアインシュタインを遠いものとして描き出している部分があると思う。
全編を通してアイザックソンはアインシュタインの言動を第三者的に累積的にだらだらと書いているように見えてならなかった。何の解釈も訴求点も作者は持っていないように見える。その為本書の読みどころとは結果的にアインシュタイン本人が、言ったり、書いたりしている部分になってしまった。
晩年、量子力学をどうしても受け入れられないアインシュタインの根底には強固な実在性と決定論があった。
量子力学をめぐる、ボーア―ハイゼンベルク派とのアインシュタインの基本的な争いは、単に神がさいころを振るとか、猫を半分死んだ状態に放っておくかということではないし、因果性、局所性、さらには理論が完全かどうかだけのことでもなかった。実在性にかかわることだったのだ。果たしてそれは存在するのか。もっと具体的に言えば、われわれの行えるどんな観測とも独立して存在する物理的な実在についてどうこう言うことに意味があるのか。アインシュタインは量子力学について、「問題の核心には、因果性の問題よりも、実在論の問題がある」と言う。
アインシュタインは自分自身の人生も自分の意思も決定論に基づきあらかじめ定められたものになっていると本当に信じていた。そしてその決定論を支えるものとしてあるのが実在性だった。対象は時空のなかで、独立して局所的に物理的に実在する。だからこそ「物理的実在」な訳だが、こうした物理的実在が相互作用をすることで決定論的に世界は動いていると考えていたようだ。それ故、量子力学が提示する曖昧さや不確定性のようなものをどうしても受付けられなかったのだ。
この決定論的な世界観をもっていたというのは本書ではじめて知りました。物性物理を突き詰めるアインシュタインらしい考え方なんだなと思います。最近の宇宙論の議論を知ったらアインシュタインはきっと怒り出しちゃいそうですね。
「私は無神論者ではありません。相手にしている話題は、私たちの限りある精神にとっては大きすぎます。私たちは、いろいろな言語で書かれた本でいっぱいの巨大な図書館に入っていく小さな子どものような立場にあります。子どもは誰かがこの本を書いたのだということは知っています。どい書かれているかは知りません。それが書かれているいろいろな言語が理解できないのです。子どもはおぼろげに、本の並べ方には、よくわからないが秩序があるのではないかと思っていますが、その秩序がどんなものかは知りません。私には、どんなに頭のいい人間でも神に対する姿勢はそういうもののように見えます。宇宙が驚くべき配置になっていて、何かの法則に従っていることはわかりますが、その法則はぼんやりとしか理解できません」
アインシュタインは特定の宗教が人格を伴う神については否定的で、もっと超越的で理神論的な神の概念を信じていたという。これは僕自身の宗教観とほぼ同じだ。僕のこの宗教的信条のルーツもアインシュタインにあったのか。宇宙がビックバンからはじまり、その物理学的特性がもっともっと詳しく解明されていったとしても、その向こう側に宇宙の構造を超える大きさで広がる理神論的な神の存在という概念は絶対に消し去れないだろう。一方で特定の宗教が抱く人格を持った、或いは世界創造の神は、伝承的なたとえ話のようなものであり現実のものではないと思う。
ほんとにもう途轍もない影響力を持った人でありました。
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「ショック・ドクトリン――
惨事便乗型資本主義の正体を暴く
(The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism)」
ナオミ・クライン (Naomi Klein)
2012/01/22:先ずは本日の周辺事情について、アルゼンチンでは、フォークランド諸島領有権をめぐりイギリス政府に対する抗議デモが加熱。直接の引き金になったのはイギリスのキャメロン首相が議会で「アルゼンチン人の領有権の主張は、植民地主義以上のものだ」と発言したことによるもののようで、アルゼンチンではイギリスとの国交を断絶すべきだという声も上がっているという。一方イギリスではフォークランドに派遣している軍を増員、2月にはウィリアム王子も空軍パイロットとして配属される予定ということで緊張の高まりが懸念されている。
イギリスでは、サッチャーはフォークランド紛争と炭鉱ストでの勝利を利用して、急進的な経済改革を大きく前進させた。1984年から88年までの間に、英政府はブリティッシュ・テレコム、ブリティッシュ・ガス、ブリティッシュ・エアウェイズ、イギリス空港公社、ブリティッシュ・スティールなどの国営企業を民営化し、ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)の株を売却した。
2001年9月11日のテロ攻撃によって、国民に不人気の大統領が大規模な民営化計画をスタートさせるチャンスを得た(ブッシュが行ったのは治安、戦争そして復興事業における「民営化」だった)と同じく、サッチャーもまた自らの戦争を利用して、西側先進国における最初の大規模民営化オークションをスタートさせた。これぞまさに「コーポレート作戦」であり、それらは大きな歴史的意味があった
ロシアでは議会選挙の不正疑惑が拡大。連邦捜査委員会は「選挙権行使や選挙管理委員会業務の妨害」、「選挙関係書類の改ざん」、「投票結果の改ざん」等により刑事事件として捜査を開始。対象は与党、統一ロシアだけではなく「下院議席を得た事実上すべての党」だという。政府は3月に行われる大統領選までにはこうした疑惑を払拭したい構えだ。
本書はナオミ・クラインが2007年に出した本だ。ここ数年の僕の読書は自由市場主義者が辿ってきた夥しくそしてあまりにも醜悪な出来事を辿る道となってきている。その謂わば歴史に敷かれた「黄色いレンガの道」を辿れば、ブッシュやレーガンやサッチャーの後ろにシカゴ学派の連中がおり、そしてシカゴ・ボーイズがいて、その後ろにはミルトン・フリードマンがおり、そしてその後ろに鎮座しているオズの魔法使いはフリードリッヒ・ハイエクであることが見えてきた。
すべての原理主義の教義がそうであるように、シカゴ学派はその信奉者たちにとって、自己完結した世界だった。まず出発点は完璧な科学的システムであり、個々人が自己利益に基づく願望に従って行動することによって、万人にとって最大限の利益が生み出されるという前提にある。すると必然的に、自由市場経済内部で何かまずいこと(インフレ率や失業率の上昇など)が起きるのは市場が真に自由ではなく、なんらかの介入やシステムを歪める要因があるからだ、ということになる。したがって結論は常に同じだった---基礎条件をより厳格かつ完全に適用することである。
僕ら1960年代生まれのテレビ世代の子どもは、どらえもんをはじめとする、楽天的に平和で何もかも便利でピカピカな未来がその先にあるという漫画を観て描かれている世界は絵空事であるとは云え本質的には平和で便利な未来世界がやってくることに一抹の疑いを持っていなかった。
しかし現実は違った。僕たちは僕らの親達の老後世代よりも豊かな暮らしができるだろうか。年金問題を見ている限り決して楽観できる状況にはないと思う。父がお世話になっている介護施設に自分の年金や蓄財で入ることができるかというと難しい気がする。
また僕らの子どもたちがこれから社会に出て親となり年老いていく世界においてこの日本はこれまでのような経済を維持していけるのだろうか。並み居る世界と競合して生き抜いていく力が今の日本にあるのだろうか。勿論頑張っていかなければならない訳だが、バブル経済期を社会人として経験している僕らからみれば、相当に高いハードルであると思わざるを得ない。皆さんはどうお感じだろうか。
社会における大半の人が将来を決して明るくないと捉えているとしたらそれはとても重大な事態だと思う。
ソ連が崩壊したときはこれで世界は平和に近づくと思ったのは僕だけではないだろう。しかし、今の世界情勢をみれば、紛争と衝突の度合いは寧ろ激しさと範囲を増し、国家間だけではなく、政府や企業と市民の対立も深まり暴動が欧米の街並みにまで広がっている。格差社会が広がり続け、目を疑うような貧困国・貧困層の人々の暮らすスラムが出現してきた。
1945年12月11日、ナチスによるユダヤ人大虐殺を受け、国連総会は「人種的、宗教的、政治および他の集団の全部または一部を破壊する」ジェノサイド行為を禁止する決議を全会一致で採択した。ところが二年後のジェノサイド条約では「政治的」という言葉が削除された。これはスターリンが反対したことによる。もし「政治的集団」を破壊することがジェノサイドだとすれば、彼が行った血の粛清や政治犯を大量に強制収容所送りにしたことはジェノサイドとみなされてしまうからだ。政敵を消滅させる権利を保持しておきたい各国指導者はスターリン以外にも十分いたため、「政治的」という言葉は削除されてしまったのだ。
日本においてはまだまだ穏健な状態だが、格差の拡大は実際に起こっており、欧米並みな役員報酬を受け取る上場企業のトップが出現する一方で活性化が低下し静かに年老いていく地方都市がある。
未来がこんな世界だとは思いもよらないことだったよ。
惨事便乗型資本主義とは一体何か。或る程度予想はつくと思っていた。しかし、甘かった。彼女が云う惨事便乗型資本主義とは、シカゴ学派の連中が推し進めている病的に歪んだ社会改造の企てであり、その結果は押並べて殆ど大部分の人間にとっての不幸の増大でしかないもので、その規模と範囲は僕の予想を遥かに凌ぐ途轍もない事態が実際に行われ、しかも尚現在進行形で進められているのである。
アジェンデ政権の転覆は一般に軍事クーデターと呼ばれているが、アジェンデ政権の駐米大使オルランド・レテリエルはこう書く。「チリで「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれている連中は軍の将軍たちに、軍の持つ残虐性をさらに強化するとともに、軍に欠けている知的資産を補完することを確約した」
実際に起きたチリのクーデターは、三つの明確なショックを特徴としており、これはその後近隣諸国で、そして30年後にイラクでくり返されることになる。クーデータによる最初のショックの直後に続く二つのショックのうち、ひとつはミルトン・フリードマンの資本主義的「ショック療法」である。今やラテンアメリカには、シカゴ大学およびその多様なフランチャイズ組織でこの技術の教えを受けた経済学者が数百人にも上がっていた。もうひとつはユーイン・キャメロンのショックで、薬物と感覚遮断を用いるこの方法はクバーク・マニュアルに拷問技術として体系化され、ラテンアメリカの警察や軍で実施されるCIAの訓練プログラムを通じて普及していた。
1月20日の産経新聞には、中国のジニ指数の記事が書かれていた。中国は拡大する格差を隠蔽するためにジニ指数を公表していなかったという。世界銀行の推定では2009年の時点で0.47と見られていたが、外資系金融機関の最新の見立てでは0.5の危険水域をすでに上回った恐れがあるという。
12月9日のニュースにはこんなことが書かれていた、『中国「WTO公約全て履行」 加盟10年、国家統制型政策に批判も』。中国はWTOへの加盟10年を迎え政府として初の「対外貿易白書」をまとめたが、白書は「非関税障壁の撤廃など、中国はWTO加盟時の公約を10年までに全て履行し、輸入大国として世界経済の回復にも貢献した」と強調したという。
これに対して国際社会からは人民元為替レート問題など国家統制型の経済政策に対する批判がまだ根強くでているという。進む中国の経済成長とシカゴ学派は別ものだと僕は理解していた。中国の経済成長は強い中国政府の計画経済の推進と保護主義があるものだと思っていた訳だが、ジニ指数が0.5を超えた?非関税障壁は既に撤廃した?そして誰がそれでもまだ完全自由化に向けて根強く批判しているというのか?本書を読んだ後でこの記事を改めて読み返すとまったく違った意味合いが見えてくる。
またロシアでは先にあげた下院選の不正についてモスクワをはじめとする主要都市で大規模なデモが展開される事態となってきている。ニューヨークでは格差社会の拡大に反対する者たちによってハンガーストライキが起こっているが、ロシアとアメリカで起きているこの二つの抗議運動の背景にある一般市民の怒りはそれぞれ別なものだと理解していた。
しかしそれは完全な勘違いだった。中国もロシアもアメリカと同様背後にはシカゴ学派の息がかかったものが跋扈していたのである。デモや集会に集まってきた一般市民たちの怒りは共通したものなのだ。
彼らは誰に怒っているのか、それこそ正に惨事便乗型資本主義に対してであったのである。
また惨事便乗型資本主義はどんどんとその手法を洗練させ、ますますあからさまになってきている。紛争や独裁政権の崩壊、津波やハリケーンの自然災害や大事故。こうしたち惨事に便乗することは勿論、寧ろ積極的に惨事がおこる蓋然性を高めるような圧力をかけてきているのだ。
彼らは不安定を望み、不安定になるように積極的に働きかけているのだ。そして一度惨事が発生すればハゲタカのごとくそこに来襲し徹底した略奪を働く。抵抗する主義主張、思想そして活動はすべて反政府勢力的な行為でありテロリストと呼ばれる、拘束され拷問され運が悪ければ殺されてしまう。
「大きな政府」と「大きな企業」の境を取り払おうとするシステムにふさわしい名称は「リベラル」でもなければ「保守」や「資本主義」でもなく「コーポラティズム」である。コーポラティズムは、膨大な公共資産の民間への移転(往々にして莫大な負債を伴う)、とてつもない富裕層と見捨てられた貧困層という二極格差の拡大、そして安全保障への際限ない出費を正当化する好戦的ナショナリズムをおもな特徴とする。このようにして生み出された巨大な富のバブルの内側にいる者にとっては、これほど収益性の高い社会構造はほかにない。だが、バブルの外側にいる大多数の人々は明らかに不利な立場に置かれるため、コーポラティズム国家は露骨な監視活動(ここでもまた政府と大企業が互いに便益を図り、契約を交わす)、大量の人々の監禁、市民的自由の制限、さらには多くの場合、拷問という特徴を持つことになる。
僕らの未来社会をこのような病的なものに変質させてきたその原因とそれを生み出した者達のことをしかと認識し、何があっても彼らに家の敷居を跨がせないようにしなければならない。いやいや敷地に入れてもだめだ。そもそも彼らはどんなものでも誰のものでもいつかは自分のものにすることができる自由があると考えているからだ。
ポーランドのワレサが、ロシアではエリツィンが、南アではネルソン・マンデラが、パレスチナではヤーセル・アラファートが思い描いた和平や民主政治はそれぞれ異なる絵であったろう。しかし、彼らに対峙したのは惨事便乗型資本主義であり、提示された条件はすべて同じ将来を描いた絵だった。拒絶すればテロリストの手先を呼ばれ、飲んだ結果起こるのは経済的惨事と主導者に対する不信感と不満噴出であった。
自分達の将来に、子どもたちの将来に不安を覚えることがあるのであれば、本書を是非一読して欲しい。そして理解して欲しい。今この世の中でどのようなことが起こっているのかを。
「ブランドなんか、いらない」のレビューは
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「ショック・ドクトリン」のレビューは
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「これがすべてを変える」のレビューは
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「NOでは足りない」のレビューは
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「地球が燃えている」のレビューは
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△▲△
「荒野のホームズ、西へ行く
(On the Wrong Track)」
スティーヴ・ホッケンスミス(Steve Hockensmith)
2012/01/21:さてさて、「荒野のホームズ」の続編です。仕事に追われ追われる年末年始でありましたが、せめてもの気晴らしにと選んだのがこの一冊。そして大ビンゴ!!
これはほんとに楽しい一冊になっておりましたよ。状況設定、巧妙な会話、転がるような場面展開、週末の至福の時間をいただきました。
前作を上回る面白さでありました。
これから本書を読もうかなと思っている方はここから先は読まない事をお勧めします。
ネタバレはありませんが、この手の小説に関しては可能な限り予備知識なしにページを開く方が面白いに決まっています。
僕はこんな本、つまり信頼を寄せている作家の場合には背表紙の文章も読みません。
では、先に進みますよ。本書は前作、「荒野のホームズ」の翌年1893年と云う設定。相変わらず仕事を求めて彷徨う我らがオールド・レッドとビック・レッドのアムリングマイヤー兄弟はなんと汽車に乗っております。列車の最後尾でオールド・レッドはゲロを吐いているところで幕を開きます。
2人はどうしたことかサザン・パシフィック鉄道の列車に探偵として身分を隠して乗り込む仕事を得たのでした。列車はユニオン・パシフィック鉄道とサザン・パシフィック鉄道が共同で運行するシカゴ・オークランド間を走る特別列車。オグデンのユニオン駅から乗り込んだ2人の使命は度重なる列車強盗に手引きをしている者を潜入捜査するというものであった。
サザン・パシフィック鉄道の経営者によれば、金を運ぶ列車の運行情報をスパイし強盗団に漏らしている者がいるという訳なのであった。そしてそのスパイを見つけ出すためには限りなく探偵らしくない人間を探していたという訳なのだった。
どうしても探偵の仕事をしたいというオールド・レッドに付き合って、町から町へと探偵社の扉を叩いては断られる日々を過ごしていた2人はたまたま入ったバーでへべれけに酔っ払った年寄りに出会った。その男は数多くの牛泥棒や強盗、犯罪者と戦い捕らえてきたピンカートン探偵社で伝説の男と呼ばれたバール・ロックハートであった。
このロックハートが2人に列車での潜入捜査の仕事を紹介してくれたのであった。
馬を売り、探偵のバッチを受け取り二人は列車に乗り込んでいくのだが、どこからみてもみすぼらしいカウボーイの2人は豪奢な特別列車のなかでは浮いた存在であった。
またその列車には変装し、2人のことなどまるで知らないふりをしているロックハートの姿が。
そして走り出すやいなや急激に体調を崩すオールド・レッド。
列車酔いだ。列車の最後尾から外に出るや猛然とゲロを吐いてしまうのだった。甲斐甲斐しく背中をさすり慰めるビック・レッド。
そんな2人の足元、レールの間から飛び出してきたのは人間の生首だった。
遷り行く時代に取り残され、かつての気概を奪われ、酒におぼれるロックハートをはじめ、怪しげな乗員・乗客、謎の積荷を載せてシェラネバダの山間部を爆走する列車、そして強盗団の襲撃、盛りだくさんで二回、三回とロールする物語。もうわくわくして読むのをやめるのが難しいくらい面白い本でありました。
「荒野のホームズ」のレビューは
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2012/01/07:亀島川を自転車で年末に走った際に立ち寄った徳船稲荷神社には、その縁起として以下のような文が紹介されていました。
徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方堀割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。御神体は徳川家の遊船と舳を切って彫られたものと伝えられる。明暦三年、世に云う振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前難を免れ、大正十一年に至るまで土地の恵比須稲荷へ安置された。関東大震災では再度救出され、昭和六年隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和二十九年中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。例祭は十一月十五日である。
振袖火事とは明暦の大火のこと、明暦3年(1657/1/18)に起こった江戸の大半を焼失した大火で約10万人もの犠牲者を出した大変な災害であったという。
なぜ振袖火事と呼ばれているのか。惚れた人の着物と同じ柄の振袖を着るほどに恋煩いをし、ついには亡くなった梅乃という娘がいた。
この梅乃の振袖は死後人手に渡るがそれを着た娘が次々と若死にしてしまう。当時文京区本郷にあった本妙寺ではその振袖を供養しようということになり、読経しつつ火にくべるや火のついた振袖が舞い上がり本堂に入り出火したことが原因であるからなのだという。
さて新年最初を飾る第一冊目はこちら「江戸の放火」であります。普段から変な本を読んでると良く言われますが、こちらの本もやはり人目を引く一風変わった本なのだろうと思います。
つまりそういうちょっと変わった目線。これまで考えたことがないような切り口で書かれた本こそが面白い本だと思う次第なのだが、えてして読者数は少ないものばかりなのが世の常。
読書メーターで僕の読んだ本をみてみると同じ本を読んだ人が10人未満なんてのがゴロゴロしている。結果的に読書者社会でのはぐれ者ちっくな本がならぶ僕のこのサイト。稀少であることは間違いないけれどもやはり集客力も虚弱になるのは避けられないもののようです。しかしそれでもめげずに頑張っていこうと思います。
江戸の火事と言って先ず最初に頭に浮かぶのは「吉原炎上」。映画の舞台は明治後期で江戸ではないのだけど、現実に吉原は江戸時代を通じて何度も大火にあっているという。そしてもうひとつは八百屋のお七。どちらも色恋の果ての放火のような悲壮な物語なのだろう程度の認識しかなかった。
ちょっと前に読んだ「血塗られた慈悲、笞打つ帝国。」は江戸東京に対する僕の目線を大きく変える体験となった。そこでは思っていた以上に激しい身分格差の差別があり、厳しい統制が敷かれ、そこで罪を犯せば厳罰、それも人々の見せしめとして、日本橋などの大通りで晒され、衆人環視のもとで残酷な処刑を伴う懲罰が下る社会であったのでありました。
この本が僕を鈴が森の刑場跡へ足を運ばせたのでありました。仕事を終え夕闇に包まれた第一京浜沿いのその場所は人気もなくひっそりとしておりなんとも肝の冷える場所でありました。そこには八百屋のお七が火炙りとなった際にも使われたという礎石が残されていました。220年間で10万とも20万とも云われる人々がこの場所で処刑されていたというのも驚きでした。
「浅草弾左衛門」。「血塗られた慈悲、笞打つ帝国。」が目を向けさせてくれたこの一冊。弾左衛門は自らと率いる穢多45万人、非人8万人という膨大な人々たちを人として認めてもらうため江戸幕府の手先として組織した男の物語だ。
週に1回を超えたとも云われるペースで行われた処刑では浅草弾左衛門率いる穢多・非人、被差別民である人々の存在が欠かせないものとなってたという。江戸の治安維持は被差別民たちを組み込むことで幾重にも重なる階層社会の統制を生み出していたという。
江戸時代というほんの少し前の時代が一体どんな時代だったのかについてこの二冊はそれまでとは全く違う様相をしていたことを教えてくれたのでありました。
「血塗られた慈悲、笞打つ帝国。」のレビューは
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「浅草弾左衛門」のレビューは
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振り返って江戸の火事。それも放火。発覚すれば仮に未遂や小火であったとしても死罪や火炙りが避けられないその社会において頻発した放火。また、一度火がつけば町がいくつも焼失してしまうような大火に発展しかねないような時代にあって放火が八百屋のお七の物語のような色恋沙汰からくるものだと見るのは不自然なのではないだろうか。これにはもっと深い事情というものがあるのではないかと思う。
本書は先にあげた大火の他にももっと沢山の火事の記録、その出火原因、特に放火犯たちの意図、下された刑罰を収集したものになっていました。
江戸における主な大火
西暦
和暦
名称
通称・別称
死者
出火場所
原因
1601/11/2
慶長6年
-
-
不明
駿河町
不審火
1641/1/29
寛永18年
-
-
400~
京橋桶町
不明
1657/1/18
明暦3年
明暦の大火
振袖火事
10万
山の手3箇所
失火
1668/2/1
寛文8年
寛文の大火
-
不明
牛込
失火
1676/12/7
延享2年
新吉原大火
-
不明
新吉原
不審火
1682/12/28
天和2年
天和の大火
八百屋お七の火事
830-3千5百
駒込大円寺
不明
1683/3/2
天和3年
-
-
駒込大円寺
お七による放火
1698/9/6
元禄11年
勅額火事
中堂火事
3千
京橋南鍋町
失火
1704/11/29
元禄16年
水戸様火事
-
不明
小石川水戸屋敷
地震
1717/1/22
享保2年
小石川馬場の火事
不明
小石川馬場
不明
1725/2/14
享保10年
享保の大火
-
不明
青山久保町
不明
1731/4/15
享保16年
-
-
不明
目白台
不明
1732/3/28
享保17年
-
-
不明
浅草本蔵寺 同時多発
不審火
1745/2/12
延享2年
六道火事
-
1323
千駄ヶ谷
不明
1760/2/6
宝暦10年
宝暦の大火
明石屋火事
不明
神田旅籠町
不明
1772/2/29
明和9年
明和の大火
行人坂の火事
14700
目黒行人坂大円寺
放火
1806/3/4
文化3年
文化の大火
車町火事・牛町火事
1200
芝車町
不明
1829/3/21
文政12年
文政の大火
神田佐久間町の火事
2800
神田佐久間町
不明
1834/2/7
天保5年
甲午火事
-
4000
神田佐久間町
不明
1844/5/10
天保15年
-
-
不明
江戸城本丸
不明
1845/1/24
弘化2年
青山火事
-
800-900
青山
不明
1855/10/2
安政2年
地震火事
-
4500-26000
江戸各所
安政の大地震
1859/2/22
安政6年
-
-
不明
青山 同時多発
不明
そこでは勿論単なる失火、色恋沙汰や泥棒目的によるものもある訳ですが、奉公先の待遇を巡る不満からくるもの、特に遊女奉公に失意した女性や、無宿者による自暴自棄の行為があったり、歌舞伎者のような反社会的勢力による同時多発的な放火事件があるかと思えば、江戸幕府による都市開発の強引な推進のために邪魔な地域に火を放ち焼き払ったのではないかという事件や、大名家/旗本家の取り潰しの謀の一環で火を着けられたらしいもの、一方で江戸幕府に対する反政府勢力であった薩長の息がかかったものによるテロ行為による火事ではないかと思われる不審火も少なからず見受けられました。
そして再びお七。かってに僕は恋に狂った大人の女の人を想像していた訳ですが、このお七は実年齢では14歳だったという。また八百屋のお七の火事として知られる1682年の火事ではお七は被害者であること。
この火事で逃げ延びた吉祥寺でお七は運命の人吉三に出会う。2人は身分が違う身であり、両親の反対もあり自由に行き来ができる間ではなかった。火事が起こればこの吉三に再び逢えると考えたお七は放火に及んだということでありました。
こうしてみてくると激しい格差社会と差別意識を抱え込んだ江戸の町が孕んでいた大きな歪みが行き場をなくし、または激しく憤った人々を鬼と化し、火を放たせたと見えなくないだろうか。
繰り返される焼失と再建に江戸幕府は疲弊を重ね、政府転覆を狙うものにより更にその力は弱体化していく。人々の心は荒み、恨みや妬みがまた火事を呼ぶ悪循環から社会全体が荒廃していった。
ここにもまた見たことのない江戸の姿がある訳でありました。しかし、当時の取調べ方法にも問題があったこと、調書そのものも火災により焼失してしまっていることなどから如何せん史料が乏しいこともあり、放火犯たちの心情・実情にはいま一つ手が届かないもどかしさも残りました。また、ここまで調べたのに年表にまとまっていないのがなんとも残念でした。
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