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銀座建築探訪
藤森照信

2015/06/28:週末にかけて体調を崩して週明けには復活するというのがぼくの得意技のひとつなのだが、この週末は正にそんな週末でありました。金曜日の午後、二俣新町にある得意先を訪問した後、そのまま週末入りして三日半伏せり、それでも記事も更新しようとしている自分は一体何なのか。

自分でもやや呆れつつ。「銀座建設探訪」であります。この手の本は大好きで週末お昼寝がてらパラパラと読むために数冊積ん読しているのだが、この本は一味も二味も違う。

建築・デザインは門外漢だが、クラシックビルみたいなのが好きで会社帰りにあちらこちらと徘徊鑑賞してきたお陰で都内東部はだいぶ詳しくなってきた。

日本の西洋風建築というのはどこまで行っても「風」である訳で、特にクラシックビルにはその手の意匠が極端なものが多い。なんでギリシャ風なのかとか。周りの景観とかとも全く関係なく唐突に何々「風」な訳で、僕らはその唐突なデザインに目が留まるわけだし、「なんで?」と考える訳だ。

しかし歴史を紐解くとその場所に建物を建てる、デザインを決める際にはいろいろと背景や経緯や意図がある訳で単に好きだから選んだというもの以上の事情がある。

本書で取り上げられていた建物も実際に足を運んだ場所ばかり。しかし僕葉あくまで外見を遠巻きに観てきただけで、中に入るとか、関係者の方のお話を聞くなんてことはできない。仮にその機会があったとしても、僕には聞き出すための素地もない。

文章も写真もすごくしっかりしている。特に建物に対する造詣がただ者ではない。


まず全体は、塔やギリシャ風列柱など立てずにあっさりと箱型に構成する。合理性、機能性を旗印に当時勃興中のモダニズムデザインの影響にほかならない。とは言っても、東京市建設局としては、前衛的な若い建築家連中みたいに四角な箱に四角な窓だけではどうも落ち着かない。なんだか目のとまりどころのない淋しさがある。ギリシャだローマだルネッサンスだといった歴史的な装飾デザインはやめるにしても、幾何学的な装飾くらいは付けたいし、アーチの窓もほしい。こういう過渡期的な気持ちが、建物のあちこちの装飾部分に表現されているのである〈アール・デコ〉と今日では言う。

そして構成。まずは文章で建物の由来や建築家やオーナーの歴史、意匠についての蘊蓄が語られ、建物の写真が現れる。なるほどこんな意図や思いがこめられていたのかという話についつい夢中になってしまう。建築探偵を自称する著者ならではの本に仕上がっている訳なのだ。本書を読んでからこれらの建物を訪れてみればまたこれまでとは違う光景を見ることができる気がします。

明日は会社に行きます。


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殺人犯はそこにいる
清水潔

2015/06/28:著者の清水潔氏はジャーナリストでこれまで桶川事件や免田事件など数々の冤罪となった事件を追ってきたという。最初は新潮社「フォーカス」編集部のカメラマンだったそうだ。「フォーカス」懐かしい。これ僕創刊から読んでたよ。

日本テレビに転進した著者はある日、編集長から未解決事件を追う報道特番を組みたいという依頼を受け、全国の未解決事件から番組に取り上げるものを探し出すことにした。

そこで浮かび上がってきたのが北関東、群馬県と栃木県にまたがって繰り返し発生している幼児誘拐殺人事件だった。

誘拐や死体遺棄の手口などが類似する事例を探った結果でできたのは1979年から1996年までの間になんと5人もの幼児が誘拐され4人は殺害されて発見、一人はまだ行方不明なのである。

これは連続殺人事件なのではないのか。しかし事件の一部は犯人が既に逮捕されていた。DNA型判定と本人の自供という覆すことができない証拠とともに。

逮捕された犯人は奇妙なことにこのうちの1件、1990年足利市で起こった幼児誘拐殺人事件のみの犯人として逮捕されており、残りの4件は未解決のままなのであった。残りの4件はこの逮捕された男の余罪ではないのか。或いは5件の事件はそれぞれ違う者による犯行だったのか。

そもそもこの事件が非常に狭い範囲で起こっていること、それと

・幼女を狙った犯行である
・3件の誘拐現場はパチンコ店
・3件の遺体発見現場は河川敷のアシの中
・事件のほとんどは、週末なので休日に発生
・どの現場でも、泣く子供の姿は目撃されていない

事件が上記のような共通点をもっていることから同一犯だという確信を深めていく。

同様に足利事件の犯人として有罪判決を受け懲役している菅家さんの件も調べていくに従い証拠などの信憑性が低いこともわかってくる。

菅家さんは冤罪なのではないか。

だとすればこの5件の事件を起こした真犯人はいまだ官憲の目を逃れてのうのうとしている、さらには再び事件を起こす可能性もあるのではないか。

清水氏と報道スタッフたちは警察の協力も得られぬまま地道な調査を進めていく。

足利事件が冤罪であったことは記憶に新しい。釈放された時の報道番組を僕は覚えている。ひどい話だと思った。

しかし現実はもっとひどかった。一般に報道されているよりもこの事件の捜査が杜撰で、帳尻あわせ的に行われていたことが明らかになっていく。事件の裏にこんな醜い現実があったとは。

犯人とされた菅家さんはありもしない幼女誘拐性的暴行殺害といった罪を着せられ17年間も服役し、その間に両親を亡くすという取り返しもつなかい目にあいながらも、罪をなすりつけた警察の当事者は名前すら公表されず、警察組織を守るために何重もの嘘で取り繕っていることも含め誰も責任をとろうとしていない。

信じられない話だ。こんな事をまかり通していて良いのか。

現代の日本の出来事とは思えないような実態があった。それだけでも一読の価値が、いや僕らはこうしたことがおき得るということをちゃんと知っておくべきだとも思う。

しかし、本書はそれだけに止まらない。本書はあくまでもこの北関東で起こった連続幼児誘拐殺人事件を追う本なのである。

清水氏の執念の調査には息を呑む。マジか。時効がなんだ。検察、警察のメンツがなんだ。こんな事件を放置してていいのか。ここまで明らかになっているのにも関わらずそれでも警察は動かないものなのか。


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21世紀の資本 (Le Capital au XXIe siècle)」
トマ・ピケティ(Thomas Piketty)

2015/06/21:大変話題になった「21世紀の資本」いったいどんな内容なのか。これは是非読みたいということで機会を待っておりましたが、漸く手にすることができました。期末期首のどたばたの合間では気もそぞろになりがちということで少し落ち着いたところでじっくり読みたかった。

実際手にしてみるとこれが大きいしまた重いのね。僕の読書時間は通勤電車の中でしかも行きはほぼ立ちっぱなし、しかもお弁当持参だしという環境でこれほんとに読みきれるのかしらん。

普段持ち歩いているモレスキンのノートから方位磁石のようなガラクタまでかばんから一旦全部出して会社の机にしまい、極力荷物を軽量化して対応しましたが、それでも中盤は肩が痛くなってきたよ。

それでもどうにか約二週間で一通り読み通すことができました。

電車で読みきったというのは嘘ではないけれど、毎日朝会社では読んだ部分のポイントをノートに書き出し、さらにはその部分をevernoteに転記している。大抵読んだ本は同じことをしている訳だが、通して一回、ポイントと思われるところを二回読んでいることになる。

本書ではその量が圧倒的に多くてなかなか終わらない。

確かに中身は非常に濃いのだ。

本書の主要な結論とは何だろか?こうした新しい歴史的情報源からどんな主要結論を渡しますは引き出しただろうか?最初の結論は、富と所得の格差についてのあらゆる経済的決定論に対し、眉にツバをつけるべきだということにもなる。富の分配史は昔からきわめて政治的で、経済メカニズムだけに還元できるものではない。特に、1910年けり1950年にかけてほとんどの先進国で生じた格差の低減は、何よりも戦争の結果であり、戦争のショックに対応するため政府が採用した政策の結果なのだ。同様に、1980年以降の格差再興もまた、過去十年における政治的シフトによる部分が大きい。特に課税お金融に関する部分が大きい。格差の歴史は、経済的、社会的、政治的なアクターたちの相対的な力関係とそこから生じる集合的な選択によって形成される。これは関係するアクターたちすべての共同の産物なのだ。

第二の結論は、本書の核心となるものだが、富の分配の力学を見ると収斂と拡大を交互に進めるような強力なメカニズムがわかるということだ。さらに、不安定性を拡大するような不均衡化への力が永続的に有利であり続けるのを止める、自然の自発的なプロセスなどにないこともわかる。

格差拡大の根本的な力

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格差社会は今に始まったものではなく、遡れるだけ遡った1900年代の頃からそれはあって、その推移を膨大な資料からデータベースを構築してこれを分析した結果が本書の核となる部分だ。

これを調べることでフランスやドイツ、イギリス、アメリカなどの国のなかでの格差がどう推移してきたかがわかるというわけだ。これだけでも十分に面白い。これを革命や世界大戦、大恐慌のような歴史的事実と重ねることでなぜ格差の比率が動いていくのかを類推していくのだけれどもピケティ賢いわ。

そして終えてどうだったのか。

期待していたようなサプライズは殆どなし。格差社会の変遷については意外な歴史があったことがわかりましたが、今この現在の状況というものは僕が理解しているものと大きく乖離はなくて、その理由についても至極当然の内容でありました。

また覚悟していたような堅さもありません。読みやすい。面白い。退屈する部分もない。解説書とか入門書とかいろいろでていますけれども、勿論そっちは読んでもいないし、僕がこの本を読んでどこまで理解できたかという部分も勿論怪しげである訳ですが、わざわざ避けて通るくらいなら本物を読んだ方がいいと思うよ。

但しここまで大きく厚くする必要はなかったんじゃないかという気持ちはある。本の大きさは確実に一回り小さくできたハズだし、上下巻にするという手もあったかと思う。これは出版社のマーケティングなんだろうしそれが成功しているのかどうかはわからないけれども、電車で読む、持ち歩くのにはあまりに不向きな本でした。

また出勤時かばんに入りきらず手に持っている本を見て同僚達は「ピケティか!」という反応から「百科事典か?」とか、「ピケティ?なんすかそれ」みたいなのまで様々で、あんだけニュースになったのに読んだという人には全く出会わず、知らんのかという部分では僕ら社会人として世の中をどう見ているのかあらためて考えさせられる出来事もありました。あらためて本書の反応を見ているとこの本が後半で提示している案に向けて社会が動き出す気配はあまり感じられず、一過性の話題として通り過ぎられている感じがしているのはとても残念なことであります。

そしてそれは現在の選挙に基づく議会制民主主義の限界を示しているものであるハズだし、人口・天然資源及び歴史的背景を含めた国力の差が大きいこと、同様に企業もまた国を超えるような規模の企業のような存在が利害関係を作っていることも不平等を是正できない根本的な問題なハズなのだ。

それを巧妙に利用している企業や富裕層がいる反面、いいように搾取される市井の人々や利用する価値もないというかの如く人権を蹂躙されたまま放置されている最貧民の人々がいる。

こうした関係を是正するこそ「政」であるべきだし、これらの事実を照らし出して多くの人々の間で共通認識とすることは学問であり教育であるべきだと思います。

では学問の方はということになる訳ですが、政治経済という学問は一体全体何をやっているのかという話で、近年彼らがやっていることは良く稼ぐためのビジネス手法こそ洗練されて広く展開されてきたものの、その本質である社会科学という点では、正直全く現実から置いていかれているというように思います。

それは世界人口の推移予測や貧困層の救済といった絞り込んだ特定のテーマに対してすら正反対の意見に割れて結論が出せていないことから明らかであると思うのだがいかがだろうか。

つまりは特定の利益関係者に後押しされた政治家によって民意が反映できない政治と結論の出せない政治経済学がセットになって醜く歪んだ社会が続いていくということだ。

本書の結論というか目的としはではどうすればよいのかというところにある。それは非常に納得感のあるものだと思う。それがどんなものなのかについてはやはり本書をじっくり読んで腹落ちすべきものであって、要約本とか僕の記事なんかに期待すべきものではないとも思う。

となると。

果たしてどれほどの人にこの考え方が伝わっているのか。本の売り上げだけでは推し量れないだろう。きっと買ったけど読んでないひとや読んだけど同意しない人だっているだろうからだ。

かくして不平等は拡大と収斂を繰り返しつつ歴史は続くということなのか。どうなのか。

我が家ではカミさんがこれから本書に挑戦です。果たして読後どんな反応を示すのか。いまから楽しみにしております。

「21世紀の資本 」のレビューはこちら>>
「自然、文化、そして不平等」のレビューはこちら>>

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ロングウォーク: 爆発物処理班のイラク戦争とその後
(The Long Walk: A Story of War and the Life That Follows)」
ブライアン・キャストナー(brian castner)

2015/06/07:イラク戦争に従軍した爆弾処理の専門家のノンフィクションだ。ずっと気になっていたのだけど、なかなかタイミングがあわなかった。

しかし読んでみると、自分が予想していた内容とは全く違ったものだった。

良い意味で読んで正解だった。うまく言えないけれども、自分としてはもっと淡々としたものを予想していたのだと思う。たぶん。

戦争も戦場も悲惨なものであろうし、そこでの体験がとても厳しいものであることはわかっている。ここで「わかっている」なんて書くことに少し躊躇している。「わかっている」といいつつも、実際の体験がある訳でもなく、「わかっている」と言ったところで、実際には何もわかってはいない。本書を読んで本当に何もわかってはいないという事がよくよくわかった。実際にそれを理解し、「わかる」ためには、おそらく実際に体験するしかないだろうということも。

著者は1999年12月から2007年9月まで米空軍将校として勤務。2001年8月にはサウジアラビアに、2005年1月にはイラク中央部バラド、2006年5月にはイラク北部キルクークに配属されたという。

その間彼は夥しい数の爆弾処理を行ってきた。ときには、間近で爆弾が爆発したこともあった。

彼は知らない間に「爆風による外傷性脳損傷(TBI)」を負っていたのだった。

地雷や仕掛け爆弾から兵士を守るため軍用車両の装甲は強化され底部は爆風を逸らすように逆三角形のような形状になった。

おかげで多くの兵士の命が救われた。しかしその結果としてTBIの患者が急増してきたのである。


 衝撃波というと恐ろしげだが、要は音波のことだ。だから音波と同じ基本的な物理法則に従う。跳ね返ったり、反響したりするし、少し離れるとたちまち弱くなる。また物体(たとえば人体とか)を通り抜ける。衝撃波が物質─壁、自動車、人体組織─を振動しつつ通過するとき、その速度は物質の密度によって決まる。空気は密度が低いので、衝撃波は比較的ゆっくり進む。とはいえ!その衝撃波を生み出した爆弾の種類にもよるが、やはり毎秒数千フィートに達する。しかしコンクリート壁、液体の詰まった臓器は密度も高いから、それを通過するとき衝撃波の速度は高まる。ある物体(人体も含めて)への被害は!物質の密度が高いところと低いところの境界で生じる。

 通りで自動車爆弾が爆発したとき、そのすぐ近くに立っていたとしよう。腹部に当たった衝撃波は、速度をあげつつ表皮を通り抜け、腹壁をなす体液の詰まった筋肉を抜け、直腸に達する。しかし結腸内は空洞なので速度が落ち、その速度差のために組織がねじ切れたりちぎれたり裂けたりする。衝撃波が空洞を横切り、向かいの腸壁に達したときにも同じことが起こる。これが全身で繰り返される。密度の異なる場所に来るごとに、剪断力と急激な膨張と収縮によって重大な損傷が生じるわけだ。小腸大腸では内出血が起こる。腎臓は脆弱な結合組織がちぎれて機能面不全を生じる。繊細な肺胞が破裂し、肺に血がたまっては窒息を引き起こす。そして脳では、弱い衝撃波でも重大な影響が及ぶことがある。

 かつて科学や医学では、脳は液のつまった大きな器官と考えられていた。その点では肝臓などとまったく同じだから、衝撃波による損傷には比較的強いとされていた。ところがボスニア紛争では、負傷した帰還兵は前例のない脳損傷の症状を見せるようになった。頭に当たった衝撃波は、境界に来るごとに速度をあげつつ、皮膚と頭蓋骨と液体入りの袋(脳を構成するふたつの大きな葉を包み、衝撃を吸収する)を通り抜ける。そしてついに、微細な神経終末、神経組織、そしてシナプスに出会う。密度の境界が二十億もあって、その度に衝撃波は切ったりちぎったり裂いたりしながら前進し、しまいに頭蓋骨の反対側に達して外界に出ていくわけだ。

 このような傷を負っても、兵士は気づかないことが多い。大爆発の現場近くに居合わせたときは、まず心配するのは頭以外の全身、つまり破片を浴びたせいで生じた傷のほうだ。手足がちぎれたり、胴体に穴があいて出血している場合もある。また装甲トラックに乗っていた場合は、鋼鉄の箱のなかで吹っ飛ばされて、ヘルメットを被った頭を天井に叩きつけ、爆風による損傷の他にふつうの脳震盪も起こしているかもしれない。どちらの場合も、切羽詰まった急性損傷の治療を受け、生命が助かった後で初めて、長期的なTBIの悪夢が出現してくるのだ。


脳神経細胞に障害をうけると記憶が消え、性格や人格が全く変わってしまう場合があることは症例からよく知られたことで、TBIは正にその症例を多発させていたのだ。

戦場で出兵したときの自分は死んだと言っている。家族の元に戻ってきたのは全くの別人なのだと。その男は全く笑わずしかも狂っているのだという。

別人となった男の身体は戦場を離れたが魂は、いまだ戦場におり、緩和できない緊張感と切迫感に追い立てられながら生きている。家庭は荒廃し、行き場のない男は只管走り肉体を酷使することで狂気から逃れようとするが、狂気はすぐに追いつき戦場の記憶がフラッシュバックしてくる。

本書はこの帰還後の彼の心情を再現した形で進んでいく。息の詰まるような閉塞間に満ちた彼の世界は悲惨という以外にない。

日本では安倍政権が海外派兵や安全保障のためとして憲法改正に向けて胡散臭い動きを続けているが、自衛隊の人々は政府の決定に何の疑いをさしはさむこともなく、命令が下れば戦地に赴き引き金を引くのかというと、おそらく喜んでいく奴もいるとは思うがそんな人ばかりではないはずだ。

政府の決定に疑義を挟むような人がアメリカで職業軍人の道を選ぶなんてことはないのかもしれないけれども、それにしても考えが浅いというか、無邪気すぎるというべきなのか、或いはアメリカ政府がこうした無垢で疑いを持たない人々を巧妙に利用しているのかなんだかわからないけれども、かくしてアメリカはその戦場を自分達の内側に生み出した。一見全く普通の人でありながら記憶も人格も歪み戦場での緊張感を断ち切れず武器を弄ぶ危険な人物達。彼らはかつて国の為に命を賭けた者たちだ。彼らが狂気に走れば国内の治安部隊はそんな彼らに向けて容赦なく引き金をやはり引くのだろう。

恐ろしい本でありました。


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宇宙は始まる前には何があったのか?
(A Universe from Nothing:
Why There Is Something Rather Than Nothing)」
ローレンス・クラウス(Lawrence M. Krauss)

2015/05/31:自然科学の本に限った話しでは無いのだろうが、同様のジャンルの本をいろいろ読んでいくと話題が被ってくる。すでに知っているはずの部分と初めて聞くような話が入り混じって進む。知っている、解っている部分は読みやすくサクサク進むが、知らなかった話はとても難しい。自然科学の本ではこの難しさが特に顕著だと思う。

読んでもまったくわかった気にならないところさえある。解った。解ったような気がする部分も大変怪しい訳だけれども。

本書はタイトルでいわば炎上のような事態が生じたらしい。なぜ「無」から何かが生じたのかという問いは人によってはその理由を問うものだと解釈されてしまったことによるものらしい。

更には神の意図を問うような宗教哲学的な問いを発しているのだという理解をする人もいたようだ。

この解釈の違いがいきなり議論のかみ合わない論争を生んだようだ。著者はこれを言葉の選び方がまずかったと述べている。

 科学者が「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うとき、じっさいには、「いかにして、何もないのではなく、何かがあるようになったのか」と問うているのである。かくして、わたしの言葉の選び方がまずかったせいで、二つ目の混乱が生じた。自然界には、到底説明できそうにない、まるで奇跡のような出来事がたくさん起こるので、われわれがこうして存在している理由を説明しようとすることを諦め、いっさいを神のせいにして済ませている人が多いように見える。

 しかし、わたしがほんとうに知りたいのは─そして、じっさいに科学に取り扱うことのできる問題は─宇宙に存在するいっさいの「もの」は、「もの」のない状態から、いかにして生じたのかということなのだ。あるいは、次のように言うこともできよう。「形あるもの」が「形のないもの」から、いかにして生じたのか、と。それはまぎれもない驚異であり、直感に反する出来事である。それは宇宙に関するいっさいの知識に反している─とくに、質量をはじめ、さまざまなタイプのエネルギーは保存されるという事実に反している─ように見える。常識的に考えれば、「あらゆるもの」が欠如しているという意味での「無」の状態では、全エネルギーはゼロであるべきだろう。では、もしこの宇宙が無から生じたというなら、観測可能な宇宙を構成している四千億ほどもの銀河は、いったいどこから生じたのだろうか。


僕はこの本のタイトルに違和感を覚えることもなかったし、この問いが「どのようにして」であって「どのような目的や理由によって」という問いではないこともあらかじめ理解していた。目的や理由だなんてことは思いもしなかった。

この違いというものを単に宗教的な信条に基づくものだと一言で片付けて良いものなのだろうか。本書を読み終えた今僕の頭に浮かんでいるのはこんな疑問だ。

宇宙の創造にあたり超越的な力が必要であったことはまぎれもなく、それ自体は驚異であり畏怖を覚える出来事であることは間違いない。

しかしそこに超越的な意図や目的が存在する必要性は必ずしもないように僕は考える。

一方でいっさい何もない状態。絶対的な「無」とはものがないばかりか、空間も時間もない状態をさしているという。この状態を頭で理解するのは難しい。あくまでイメージとしてではあるけれどもきちんとイメージできているかどうかは甚だ自信がない。

突如として空間や時間、そしてエネルギーを生み出す「無」は本当の意味で「無」なのか。とかなんとか。

目次

まえがき 宇宙は無から生じた
はじめに 何もないところから、何かが生まれなくてはならない
第1章 いかに始まったのか?
第2章 いかに終わるのか?
第3章 時間の始まりからやってきた光
第4章 ディラックの方程式
第5章 99パーセントの宇宙は見えない
第6章 光速を超えて膨張する
第7章 2兆年後には銀河系以外は見えなくなる
第8章 その偶然は人間が存在するから?
第9章 量子のゆらぎ
第10章 物質と反物質の非対称
第11章 無限の未来には
あとがき リチャード・ドーキンス

この宇宙の果てのその向こう側には空間も時間もないとするならば向こう側自体が「ない」訳で、それはつまりこの世にはこの宇宙しか存在しないという意味なんじゃないか。その無から宇宙が生まれたなら隣にいるはずの僕らの宇宙にはどんな影響を生むのか。

「無」というものの捉え方にも何か経験的・文化的背景による差違があるようにも思える。またペンローズは「宇宙のはじまりと終わりは何故同じなのか」の中で、開かれた宇宙は拡散を果てしなく続け、残されたブラックホールですら蒸発し、最後の粒子までもが崩壊し光子となった時点で、空間と時間の概念も消滅すると述べている、と思われる。たぶん。世界が光子のみとなった場合、光子にとっては距離も時間もなくなるため、世界は大きさのない点になるのだという。

この大きさのない点こそ、ビッグバンの始点となるのだ。ペンローズの思考の鋭さにはただただ驚くほかないのだけれど、となると宇宙は一点の増減もなくひたすら誕生と崩壊を繰り返しているのだろうか。

これだとエネルギーの保存則も崩れない。しかしではこのエネルギーはどこからやってきたのか。

人はいつかこうした問いに対して「なぜ?」と言いたくなるものなのかもしれない。遅かれ早かれそれを神の御業として片付ける以外にないのかもしれない。

しかし、着実に神の存在はわれわれの生活から程遠いところへと遠のいていっている。それこそ科学の進歩なんではないだろうか。

ところで本書の読みどころは知らなかったことであってそれは読み手の人それぞれであるということになりますが、僕は最終散乱面の揺らぎが秘めていた事実という話でした。


 宇宙の過去は、宇宙が電気的に中性になったとき、すなわち「最終散乱面」までしか見ることができない。それは、陽子が電子と結合して、中性の水素原子になったときである。それ以降、放射はほとんどそのまま宇宙を進むことができるようになった。そして、宇宙の物質が電気的に中性になったおかげで、いまやわたしは、電子が吸収したり放出したりする放射を見ることができるというわけである。

 したがって、その「最終散乱面」から出た放射が、宇宙のあらゆる方角からわたしに向かって飛んでくるはずだ、というのがビックバン宇宙像の「予測」なのである。宇宙はその当時から約千倍ほどに膨張しているので、われわれのところに到達するまでには、放射も引き伸ばされて冷たくなっており、今では絶対温度で約3度になっている。1965年にニュージャージー州で二人の科学者がたまたま検出した信号は、まさにそのような放射だった。二人はこの発見に対してのちにノーベル賞を授与されることになる。

 もしも最終散乱面の写真が撮影できたとすると、誕生からわずか30万年後の、いわば新生児期の宇宙の姿を見ることができる。そこに写っている構造はすべて、やがて重力の働きにより収縮して、銀河や、星や、惑星や、地球外生命体や、その他もろもろのものとなるだろう。とりわけ重要なのは、そこに見られる構造は、その後のダイナミックな宇宙の進化の影響を被っていないということだ、したがって、おそらくはビックバンのごく初期におこったエキゾチックな反応過程で生じたであろう、物質とエネルギーの分布にみられるわずかなゆらぎの基本的性質や、ゆらぎの起源が姿をとどめているはずなのである。


宇宙はその生い立ちを簡単には語ってくれはしない。しかも手がかりは希少で微細だ。しかし、たとえあゆみが遅くともこれまでもそうであったように、これからもあっと驚くような姿をあらわにする時が何度も何度も起こるに違いない。これからも僕はこうして宇宙の姿を追う物理学者の活躍をずっと後方から追い続けていきたいと思います。


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特捜部Q キジ殺し (Fasandraberne)」
ユッシ・エーズラ・オールスン(Jussi Adler-Olsen)

2015/05/24:特捜部Q第二弾ですよ。GWは無事切り抜けた(怪我もなくという意味です)ものの、GW明けの仕事は覚悟していた以上にしんどくて心が折れそうな日々でした。この3ヶ月で三人産休者を送り出し、代わりに新規の派遣さんを受け入れるというような事を進めてきました。今月はそのなかでも一番の山場でした。それは今回産休入りするのが頼りにしていた中堅の女性だったからです。彼女の仕事を引き継ぐ社員と一緒に仕事の中身を整理する作業におよそ3ヶ月位かかった。

これまで一人に任せっきりにしてきたツケが回ってきた訳ですが、いやはや深い、ややこしい内容を協力会社のSEの方も巻き込み最終的には5人がかりでの分解整理作業となりました。

一昨年前に当部にやってきたときとおんなじ位大変だった。まったく諸々の問題を放置してた前任者はバチが当たれとマジで思う。それもどうにか金曜日ギリギリまで続けてやりきった感じです。

いやはや大変でしたが、ブラックボックス化してた業務をかなり明確にすることができました。という事で今週末は腑抜け状態。

これで彼女が元気な赤ちゃんを産んで素敵なお母さんになってくれれば言うことないよね。こんな時はさすがに本も小難しくないやつなにかブリーズということで、狙ってた特捜部Qに触手を延ばしたという訳です。

カールが夏期休暇から戻ってくると相棒のアサドが差し出してきたのは地下にあった古いファイルだった。1987年夏に、18歳と17歳になる兄妹が惨殺された事件だった。この事件は未解決のままでいたが9年後に突如犯人が自首して解決されていた。

なぜ管轄外の署の地下にこんなファイルがあったのか。しかもこのファイルには犯人が収監後の税務会計報告書が添付されており、それには収監中に株式投資で巨額の収益を上げていることが示されていた。

路上生活者のキミーは何者から逃げつつも激しい憎悪を抱いていていた。彼女はどうやら事件の鍵を握っているらしい。キミーは事件とどんな関わりがあるのか。

特捜部に新たに配属されてきたローセ・クヌスンはどう見ても元の部署で持て余されて追い出されてきた感じだ。

またカールはノルウェーからの視察団を特捜部の職場に案内しろと命じられる。

カールは療養中の元同僚ハーディーを見舞いに訪れる。1月にアマー島で起こった銃撃戦でハーディーは半身不随。もう一人の同僚アンカーは死亡したのだった。

幸いカールは同僚の身体が盾となって九死に一生を得、頼むから一思いに殺して欲しいとまでつぶやくハーディーに拭いきれない罪悪感を抱いているのだった。

またハーディーはあのアマー島に訪れた際にどうして犯人がやってきたのか。あれは待ち伏せだったのではないかと言う。

カールが仕事場に戻ると机の上には証拠品と見られるビニール袋がおかれていた。誰が持ち込んできたのかは不明。中身を調べるとそれは件の兄妹が殺害された現場にあったボードゲームのコマだった。何者かが特捜部にこの事件を捜査させようとしているらしい。

しかしカールが動きだすと、上層部からは待ったがかかってくるのだった。

硬軟様々な障害が取り巻くなか事件の捜査を続けようとするカールは果たして真相に近づくことができるのか。

そしてその真相とは。

シリーズ二作目で、カールとアサドのコンビは相変わらずギクシャク。この手の本は時に脱線していく登場人物達の言動にハラハラ、やきもきして読むのがその楽しみ方なんだろうと思う。

しかし僕はどうも波に乗り切れない。何より本編の核となる事件捜査の展開も、二転三転というよりも何かこうドタバタしてるようにしか見えなくなっていく。

概ね読者は真相っぽいものの推測がついてしまっているはずの段になってまだバタバタしてる後半は最早惰性で読み切った感じでした。

もう少し磨けばもっと良くなったのにと思われる分、もったいない、残念でありました。

それでもちょっと次は気になる。しかも次回作はガラスの鍵賞を受賞している。また「檻の中の女」は映画化されています。予告編しか見てないけども、なかなか雰囲気があって面白そうな感じにできているようです。但しカールはちょっとカッコ良すぎじゃないかな。

「特捜部Q-檻の中の女」のレビューはこちら>>


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イチョウ 奇跡の2億年史 生き残った最古の樹木の物語 (Ginkgo: The Tree That Time Forgot)」
ピーター・クレイン (Peter Crane)

2015/05/23:植物音痴の僕だけど、イチョウくらいは見分けられる。僕の生まれた家の前の道から坂道を上がったところにあるお寺、円福寺には雌のイチョウがあり銀杏を拾いにいったことがあったっけ。子供の頃はよく遊びに行ってたし、お祭りもあったりして身近な場所だったけども最後に訪れたのはいつのことだったのかもう思い出せない。今の様子をネットで確認してももうイチョウは見当たらない。

荒町の突き当たりにあった神社にも大きなイチョウがあった。

三宝大荒神だ。これは今も健在で、樹齢は約320年、市の保存樹木に指定されているという。そしてこちらは雄。

イチョウは雌雄別株だということもこんな身近な例から体験的に知っていた。

植物には雌雄別株のものと同株のものがあるとしながらも、イチョウ以外に別株のものなんて知らない。実はソテツやヤマモモ、ヤナギも雌雄別株なのだそうだが、どちらかというと別株は少数派らしい。

考えてみればすごく不思議な話だ。動物界では雌雄が別なのに植物界では反対なのはどうしてなのだろう。進化の過程をみれば有性生殖が後発な訳なので雌雄別株も後発組なはずだ。

なのにイチョウ以外ではほとんど見当たらないということは何を意味するのか。

果たしてイチョウの辿ってきた奇跡の道とはどのようなものだったのだろうか。

本書を読んで何より驚いたのは、イチョウの存在は長く知られないままでいたと云うことだ。しかも発見されたときは絶滅寸前の状態だった。イチョウは中国の奥地の山の一角にあるのみで他の地ではイチョウは存在していなかった。
 
世界各地の公園の緑地や街路樹として育てられているイチョウはこの中国の絶滅寸前だったイチョウが人の手によって拡散した結果だったのである。それもまずは日本へ渡り、日本から世界へと拡散していったらしいのだ。

イチョウが珍重されたのは勿論雌雄別株という生態ということもある。しかし秋に一気に黄色へと姿を変えるその美しさ。銀杏の薬効といったものがあったからだ。

僕はイチョウが生えている場所に神社なんかを作ったのだろうと勝手に思い込んでいたよ。

なんとなんと。

そんな訳で自然のなかで自生しているイチョウは中国以外にはどこにもない。

中国の南部の貴州省にある李家湾には幹の直径が5.1メートルもあるイチョウがあり、これが世界最大なのだという。樹齢は千年をはるかに超えており、4500年と言う推定もあるのだそうだ。中国には樹齢が千年を越えていると思われるイチョウが100本あるという。

鶴岡八幡宮のイチョウは有名な古木となる訳だが、どうやら源実朝が暗殺された1219年には件のイチョウはなかったらしい。イチョウが文献に登場するのは1659年に書かれた『鎌倉物語』でおそらく樹齢も500年か600年くらいであろうという。

荒町のイチョウもこうした流れのなかでかの地へとやってきたということだった訳か。街の光景がまた一味違って見えてきますね。


本書では更に類推を進め中国でイチョウの栽培が始まったのが、10世紀後期、それが日本に渡ったのが15世紀前期頃とし、つまり日本のイチョウは古いものでも樹齢は700年程度だろうとしている。これがヨーロッパでは更に若く、1750年代の頃らしい。そこでイチョウはリンネと出会うのだ。

なるほどイチョウは数奇な足取りを辿ってきたものだ。

しかし近年の研究により、古代ではイチョウ様植物が多数存在し共存していたらしいことがわかってきたのだという。

 私たちはこれまで、イチョウの祖先をひとつずつさかのぼっていけば、ペルム紀かそれ以前に生きていたトリコピティスのような古代植物に行き着くのではないかと考えていた。しかし、こんにち、周志炎その他の研究により、まったく別の進化像が見えてきた。その進化像は、以前はきづかなかった多様性が見えてきたおかげできなり複雑になっている。私たちはいま、イチョウ様植物の多くの種が過去の同時期に生きてたこと、そうした複数の種が同じような植物共同体の中で共存していたらしいことを知っている。

DNAを使った分岐学が我々の進化の過程や分岐時期について思いも寄らない実態を明らかにしてきたことは『生き物を名づける』で知ったところだが、絶滅してしまった生き物の場合DNAは使えない為、判明が難しい。まだまだ不明な点もある。しかし雌雄別株と思われるイチョウの仲間が古代では非常に多くいたという事実はこれまた意外という他ない。

どうやらイチョウの仲間達は二億年前から数々の絶滅の危機を乗り越えてきたらしい。それも所謂ビックファイブと呼ばれる地球上の生命のほぼすべてが消えるほどの大絶滅を生き抜いてきたというのだ。
ところがなぜか種を減らし続け、最終的には中国の奥地にひっそりとのこるばかりになるまでに減少した。

これにはイチョウ様植物の実を食べる動物の減少なんかが関与しているのではないかという説もあるようだが、はっきりしたことはわからない。地質年代的な気候変動で森が減少し草原や砂漠が広がってきたことも関係がある可能性もあるようだ。

大局的な流れでみると太古の時代には巨木の森が広がっていた時期もあったが、これが草のような植物に駆逐されてきた。つまり小型化しつつ種を減らしてきたのは動物ばかりではなかったということだ。そのなかで大絶滅の時期を何度も乗り切ってきたイチョウ様植物が今人の手がなければ生き延びられない時代となったきていたこと。これは非常に重要なメッセージでもあると思った次第でありました。


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判決破棄(The Reversal)」
マイクル・コナリー (Michael Connelly)

2015/05/04:GWのためにとっといた感のあるコナリーの「判決破棄」であります。振り返ると前作「ナイン・ドラゴンズ」は去年のGW、カミさんは仕事で子供達も学校の行事で不在がちな一方僕は一人でぬくぬくとミステリを読み耽るという楽しみ。こんなときに何を選ぶかとなるとど外れしない磐石な本を選びたいですよね。

舞台は「ナイン・ドラゴンズ」から4ヵ月後の2010年2月、マイクル・ハラーは検事長のゲイブリエル・ウォーカーとレストランで会食をしている。検事長との会食は異例のことでその目的をいぶかしむハラーに、ウォーカーは意外な依頼を持ち込んできた。

24年前、1986年に12歳の少女を誘拐殺害したかどで収監されていたジェイソン・ジェサップの事件についてカルフォルニア州最高裁判所がこの判決を破棄した。殺害された少女の着ていたワンピースに付着していた体液のDNAがジェサップのものではないことが判明したからだ。当時はまだDNA判定が捜査や裁判に持ち込まれる前だった。

DNAの判定がどうあれ、犯人がジェサップであることを確信している検事長だが、自分自身で訴追ができず、大手を振って自由の身になりつつあるジェサップをこのまま放置することはできない。苦肉の策としてハラーを特別検察官に任命しジェサップを訴追して欲しいというものだった。

ハラーはこれを二つ返事で引き受け、パートナーとして元妻のマーガレット・マクファースン、そして捜査官としてボッシュを指名しチームで事件にあたることになる。

ハラーがはじめて検察側として裁判、しかもボッシュと組んでのぞむという設定の妙。果たしてジェサップは真犯人だったのか、冤罪だったのか。物語はどう展開していくのか。

ここまでで約30ページ。ジェットコースターでいえば昇っているところという感じだろうか。さすがコナリー昇るのも早い。後は下巻のラストまで急降下は勿論急旋回、ロールありと一時も気を許す暇もなくぎっちり圧縮された濃厚な展開を味わうばかりであります。

事件を過去のこととして調査し、裁判で判決を生むだけではなく、現在の事態を動かし続けることで真相を明らかにしようとするという考え方があるようで、これは捜査官や検事ばかりではなく、裁判官にもそのような考え方をしている人がいるらしい。

僕にはとても目新しい考え方だと思うのだが、アメリカの司法では昔からあるのだろうか。コナリーがこの考え方についてどう評価しているのかはっきりはわからないが、功罪の両方があると見ていると思われる。本編は正にこの「事態を動かし続ける」事に物語の核をおいたものになっていると思います。

なんのこっちゃという感じでしょうがそれは是非読んで頂ければはっきりとわかると思います。深く複雑な問題提起を含んだ着地になっているという点でも本書は味わい深いと思いました。


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貧乏人の経済学―もういちど貧困問題を根っこから考える
(Poor Economics:
A Radical Rethinking of the Way to Fight Global Poverty)

アビジット・V・バナジー (Abhijit Banerjee)&
エスター・デュフロ (Esther Duflo)

2015/05/03:しかしまとめにくい本だ。何が難しいって書かれている話ではなく、本書に書かれていない面も含め記事をどのようなポイントでまとめるかが難しいのだ。

先ずは供給ワラーと需要ワラーの対立。ウィリアム・イースタリーを代表格とする援助が無駄で有害ですらあるとする「需要ワラー」と対するはジェフリー・サックスが筆頭格である貧困から脱出するためのビックプッシュが必要だとする供給ワラーの議論がある。ワラーはインドでは「調達人」を指す言葉で、サプライサイド経済論者との混同を避けるために著者らが用いた定義なのだそうだ。


 こうした立場は、単に各自のイデオロギーからくるお決まりの反応というだけではありません。サックスとイースタリーはどちらも経済学者で、二人の差の相当部分は、次の経済的問題に対する答えのちがいからくるのです。つまり、貧困にとらわれてしまうことはあり得るのか、というものです。サックスは一部の国は地理や不運により貧困にとらわれていると信じています。そうした国は、貧乏だから貧乏なんだということです。豊かになる潜在力はあるのですが、それには現在はまっている場所から引っ張り出し、繁栄への道に送り出してやる必要があるということです。だからこそサックスは、ビッグプッシュ一発を強調するのです。これに対してイースタリーは、かつて貧乏だったのにいまは豊かな国もあり、その逆もあると指摘します。貧困の条件が永続的でないなら、貧困に国をつかまえて放さないような貧困の罠という発送はでたらめだ、ということになります。


本書の中心となるのはこの相反する議論とは全然異なる切り口である社会実験と結果検証に基づく支援の効果的な方法論に関するお話だ。供給ワラーと需要ワラーの議論と社会実験によって確認された効果を比較しながら本書はそのテーマを食糧、健康衛生、教育、家族計画、保険、金融、貯蓄、起業などの分野へと広げていく。

著者の二人はミクロ経済が専門で、例えば蚊帳を無償で配布した場合と安いものの一定の値段で売った場合でどちらが有効に活用されるのかを異なる地域で実施し結果を検証して得た経験値を体系付けしたものだ。結果的には供給ワラーも需要ワラーも同じくらい結果と合致しない。合致しなかったのなら理論が間違っているのが明らかなハズなのにどうしてか学者も世論も軌道修正ができなくなってしまっているようなのだ。

なぜなのか。そこで浮上するのが貧困の定義の問題だ。果たして貧困とはどのライン以下なのか。或いはスパッと線が引けるものなのかどうなのかという問題。因みに本書では一日99セント以下で暮らす人々というような表現をとっている。

先日、厚生労働省は日本のホームレスの数が6,541名であると発表した。これは同省が毎年1回おこなっている調査結果なのだそうだ。この調査は福祉事務所の職員らが管内を巡回し人数を把握しているようです。彼らの生活費は果たして幾らぐらいなんだろう。仮に99セント以上であるというならば彼らは本書における貧乏人の定義からは外れてしまう訳だ。しかし確実に云えることとして彼ら6,541名は貧しいと思う。支援や援助だって必要なんじゃないかと。

またメキシコシティやソウル・インチョン、ニューヨークの外延部にある二千万人規模のメガスラムの人たちやポール・コリアーが指摘している最底辺の10億人が暮らす後発後進諸国とも呼ばれる58の国々の人々のような人々。いまだ紛争の最中にいる中東やアフリカから逃げ惑っている難民の人々と世界に目を向けると貧しい人にもいろいろな状況・環境があると思うのだが、本書が想定している貧乏人とは一体誰を指しているのかという問題。


 毎年、5歳前に死ぬ9億人の子供のうち、大多数を占めるのは南アジアとサハラ以南のアフリカの貧しい子供たちで、その約5人にひとりの死因が下痢です。多くの(すべてではない)下痢症状の原因となるロタウイルスのワクチンを開発、配布する努力が続けられています。しかし既存の3つの「奇跡の薬」によって、これらほとんどの子供を今だって救えるのです。水を殺菌する塩素系漂白剤、水分補給飲料であるORSの主成分となる塩と砂糖です。家庭用の塩素にたった100ドル使だけで32件の下痢を予防策できます。脱水症状は下痢による死因のなかでももっとも多く、ほとんどお金のかからないORSはその予防に驚くくらい効果があります。


渡すべきだ、いや渡してはいけない。そんな議論の間に年間9億の子供が死んでいる。実証実験に踏み込んでみると確かにただ渡しただけでは習慣化されず使用されずに効果が上がらないというようなことが起こってしまうというわけなのだった。

そして次は時間軸の問題。本書では貧困は今にはじまった問題ではないと述べている。残念ながら決定打は持ち合わせておらず、すぐに効く薬はないのだとまでいう。地道な努力を積み重ねていくことで徐々に改善していくしかないのだと。

インドや中国では時間をかけて貧困層から徐々に脱していくような支援施策を講じることは可能らしい。個人が努力し創意工夫を重ねることで貧困から抜け出していくことはとても意味のあることだと思う。それは常識的に「良いお話」だろう。インドや中国ではそのような人がたくさんいるのかもしれない。

日本のホームレスを減らすためには教育や家族計画が大事だなんて話しは現時点でホームレスである個人とはなんの関係もない訳で、同様に今、貧困のどん底におり、明日の朝を迎えられるかどうかも覚束ない状態で生きている人々がいて、助けを求めている、助けが必要なことが明らかなのに、いたずらに支援をするだけではダメなのだというような論調で足踏みしていることが果たして許されることなのか。本書を読み進むためのストレスは何よりこのもどかしさにあるのであってそれは書き手や書き方に問題がある訳ではないのだけれどもついつい我を忘れてイラついてしまうのでありました。

そして最後に僕が一番気になった事として貧困が発生する原因は一体何なのかというもの。貧乏人は昔から居たと本書はひとくくりにしているけれども、今世界に広がる貧困層は昔からどこにでもいた貧乏人とは全く異なる新しい種類の貧乏人であると僕は思うのだ。そしてこの新しい貧乏人は如何にして生み出されたのか。そこには先進国による収奪、徹底的に奪い続けている我々という存在があると思うのだ。それを一口に貧困とひとくくりにし一つの処方箋で解決しようとしているのではないのかと思えてならない。

なのに時間をかけて徐々に解決とか言ってていいのかとどうしても思ってしまうわけですよ。支援すべきかほっとくべきか以前に奪うのをやめるということが先ず最初にあり、そして恐らくその次は奪ったものを返すとかね。

その熾烈なやり口によって暴動が起こったりしている世界銀行やIMFの息がかかる二人の著者のような人の話を聞く場合は言っている事と同じぐらい言ってない事にも目を光らせるべきだとも思う訳ですよ。

GWも速くも折り返し地点に到達、ゆっくり羽を伸ばすつもりがついついイライラしながら記事を書く日曜日の朝でありました。


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自然を名づける
―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか
(Naming Nature
THE CLASH BETWEEN INSTINCT AND SCIENCE)

キャロル・キサク・ヨーン (Carol Kaesuk Yoon )

2015/04/26:「自然を名づける」。動物や植物を、哺乳類や爬虫類をどんどんと細かく分類して名づける。我々は対象の生き物をどうやって分別しているのだろう。

ところで僕にはちょっと変わった特技がある。僕は人を見分けるのが一般の人より上手いのだ。駅の雑踏のなかから知人を見分ける。たまに電車で乗り合わせる人やお店やコンビニの店員さんといった僅かな接点があった人でも認識することがある。それも後姿だけとかで。

いきなり何を言い出すんだお前はと思われるだろうなと思うけど。構わず更に変な話に進もう。この僕の識別能力は動物、哺乳類はまだましだが、魚類となると大雑把になり、植物となるともう全然ダメ。山菜やキノコなどの選別とかは親が匙を投げるほどに才能がなかった。

自分自身これを自覚していて、これはどうしてなんだろうかと思い悩んでみたりしていた。

見分けるとういうことは、どこか他と異なる点、特徴的な点を一瞬で認識できるということじゃないかと思う。知人の事は相当遠くから後姿でもそれとわかるのに、どうして魚はその種別も怪しいのか。

こういうのを環世界センスというらしい。ちょっと違うかもしらんけど。

環世界センスは我々が狩猟採集民であったころに備わったものと云われるもので僕らが生きる自分たちの世界を仲間と敵、安全なもの、危険なもの、食べられもの、食べられないものを分別識別する感覚的なものだという。しかしもう少し掘り下げて調べるとこのような感覚は動物だってもっている訳で、狩猟採集民だなんてそんな最近の話じゃなくてあらゆる生物に備わった原始的な能力の一部であるというような説明をしている文献もある。

つまり生き物が生き抜いて行く上で磨き上げてきたセンスだというように理解したい。そして当然のようにそのセンスには個体差がある。本能のように生まれつき備わっている能力に個体差があるというのは若干意外ではあるけれども、運動能力や理解力や、無意識下で行われる消化や代謝のような能力にも個体差がある訳なのでバラついていることの方が寧ろ自然な訳だ。集団活動をする生き物の場合、個人差がある程度あったほうが集団としては有利になるというようなことがあるのではないだろうか。

僕のように植物や菌類、魚類がだめな人がいるなら、もっと全般的にだめな人もいる。脳の特定部位に障害を起こした人は生き物が全く特定できなくなってしまったり、自分も含めて人物の特定が全然ダメになってしまったりする事があるのだそうだ。


 自然界の秩序を構成する生物とそれらが暮らす環世界を、脳のどこが認識しているかを解明し、それはここなのだ、と手で触れ、あるいは少なくとも指で指し示すことができるというのは、実に驚くべき偉業である。人間の心、すなわち脳の暗い一角を探る心理学者たちは、まさにそれを成し遂げたのだ。彼らは、環世界センスを失った人々の研究を通して、環世界センスの真の重要性を明らかにした。生物を分類命名する能力を生来備えていること、混沌とした現実世界を見て、そこに秩序正しい環世界を捉えられるということが、分類学者にとって、否、すべての人々にとって、何を意味するかを心理学者たちは明らかにしたのである。


環世界センスはつまり脳に生まれつきセッティングされる程に深く強く刷り込まれているもので脳の進化の初期から磨き抜かれてきたものなんだろう。

生物の分類学を学ぶもの、更にその世界で名を馳せる偉人たちというのは生き物を見分けるというセンスを極めた人たちだった。そんな彼らは生物のどこに差違を見いだして分類していたのだろう。リンネは植物の特定に神々しいセンスを持っていたのだという。

成長ぶりがまったく違い葉の大きさや茎の太さが全然違うような二つの植物をこれは同じ、これは違うと見分ける心眼は言葉にできない他人に説明できない正に「センス」が関わっていた。

しかし、しかしである、この環世界センスに頼ったものであるが故に生物分類学は停滞していくのである。本書は正に読書の醍醐味を体現している。予想もしない展開を繰り返すが突飛過ぎず、読者を掴んで話さない絶妙な距離感で先行していく。この間合いは見事としか言いようがない。

DNAが解析され、ヴィリ・ヘニッヒが提唱した分岐学、すなわち生物の進化過程を分岐パターンとして推定する系統学・分類学が進むに連れて生物の分類は直感ではなく科学へと進化していく。

しかしこの進化が生み出したものは当初は思いも寄らない形で衝撃を生み始める。直感と科学の衝突である。

そしてその果てにあったものは何か。「魚類」が分類から消えたというのである。


 結論。魚類は死んだ。かつてダーウィンが分類学は生命の系譜に基づかねばならないと述べたことの必然的な帰結がこれだ。自然の秩序の背後には巨大な生命の樹があることを、そして生命は進化することをダーウィンが指摘した瞬間から科学はこの逃れられない到達点を目指してきたのだ。


大事件だこれ。

著者は環世界センスの大切さを問い、進化論的分類学とどう折り合っていくかについても重要な問題提起をしている。是非本書を読んでみてください。きっととってもスリリングな読書体験を得られると思いますよ。



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千年前の人類を襲った大温暖化-
文明を崩壊させた気候大変動(The Great Warming:
Climate Change and the Rise and Fall of Civilizations)

ブライアン・フェイガン(Brian M Fagani)

2015/04/12:フェイガンさん通算四冊目であります。過去に読んだ本を振り返ると身近なところで天変地異や気象変動に振り回されるようなことがある度にフェイガンの本を手にしている感じだったことがわかった。

今回は特にそんなに気配はなかったはずだが、読み出した頃から俄に天候が乱れだし、東京は五年ぶりの雪が降るなど寒い日が続き、僕らは慌てて冬ものの服装を再びひっぱりだして着ている。そして茨城の海岸には150頭を超えるイルカが海岸に打ち上げられて死んだ。地震の前ぶれではないかとか、病変かという説もあるが、追われて逃げてきたような様子で、どうやらこれは冷水域に遭遇して逃げ場がなくなったのではないかという情報もある。関東地域の急激な寒冷化は海水温度の影響もあったのかもしれない。またシカゴでは大きな竜巻が起こり被害がでている模様です。ここ新浦安はこの週末も寒いし雨が続く日々が続いています。

あらためて人間のような動物が暮らすことのできる環境の幅というものはとても小さい。ほんのちょっと寒かったり暑かったりしただけで病気になったり、命を落としたりしてしまう。脆弱なものなのだと感じます。

過去の人々はこのような気候変動をどのように乗り切ってきたのか。

近年過去の気候変動についてこれまで知り得なかった情報が氷床コアなど従来では思いも寄らない場所や方法によって得ることが可能になってきた。さまざまな手がかりを利用して過去を再構成する。そしてその原因を探っていく。これだけでも十分スリリングな話な訳だが、更にこの知見を将来の予測に使う。これを叡智と呼ばずになんと言おう。僕ら人間社会はこのような知恵をまさに武器としてこの世界をここまで渡ってくることができたのである。

本書では最新の情報を駆使して浮かび上がってきた千年前、より具体的には西暦800年から1200年までの中世温暖期とも呼ばれていた時期に絞って気候変動とそれに迎起された出来事を俯瞰していこうというものだ。

中世温暖期は従来考えられていたようなヨーロッパの温暖で理想的な気候が極局所的なものであら、地球規模で見た場合、厳しい干ばつ、乾燥により、大勢の生き物たちを死に追いやり、飢えと渇きに追われた人びとの間で激しい紛争を引き起こし、幾つかの文明を崩壊させる壮絶なものだったのだ。


 カリアコのコアは、中世温暖期の始まりである九世紀に、しばらくチタンの少ない時期があったことを記録している。この厳しい干ばつの痕跡は、ユカタン半島にあるチチャンカナブ湖で掘削されたコアからも見つかった。二つの記録は多年にまたがる干ばつがあったことを示している。古くは西暦760年に始まり、50年の間隔で、干ばつは760年、820年、860年、910年と繰り返した。最初の干ばつは長期にわたる乾燥気味の状況となり、その後、810年にほぼ三年におよぶ干ばつが始まり、さらにまた910年ごろから干ばつになり、六年ほど続いた。このころユカタンの低地の南部および中部のマヤ文明は崩壊した。


僕はこの中世温暖期の発生要因にこだわりすぎて本書のなかでやや、迷子になってしまった。局所的な気候変動の要因は時として複雑過ぎて、大局的に把握することができない。

そしてそもそものこの変動が何故起こったのか。本書にその答えはない。

答えを探して先を急いで読んだ僕は読み方が悪かったよ。まだ原因は解ってないのである。

そして最初に戻れば、ヨーロッパに豊さと平穏を与えたかに見えていた温暖化が地球規模では大変な悲劇であったというこの事実。近視眼的、局所的な知識で理解していたことと、現実とのギャップの大きさは余りにも衝撃的であります。


 モンゴルの支配の盛衰は、何千年にも渡って繰り返されてきたように、遊牧生活の現実にある意味で左右されていた。牧草地に恵まれた時代は平和になる。気候が悪化して干ばつがステップを襲うと、戦争が起こって定住地の人々は恐怖におののいた。温暖な時期と寒冷な時期が果てしなく繰り返し、降水量の多い時期と干ばつが、牧草が豊富なときと、飼料のないときが交互に訪れたことが、歴史の主動力だったのだ。それは経済的な変化や政治的策略の盛衰や、個々の支配者の能力と同じくらい、強烈な影響力をもっていた。


ほんのちょっと温暖化したと思っていたら、実はという訳なのだ。

この知見を僕らの将来の予測に使ってみたらどうなるのか。フェイガンの言わんとしている事は正にここにある。

そしてこの将来予測もまた本書の埒外にある。フェイガンなら本当は描けたのかもしれない。しかし、ここは我々ひとりひとりが自分の頭で考え思い浮かべるべきものであると彼は考えたのではないだろうか。


 モーリタニアの海洋コアは近年、北大西洋東部の海面水温に華氏一度(摂氏0.56度)以上の急激な変化が見られることを明らかにしている。それと同時に、海の塩分濃度が水深とともに変化すれば、海洋のベルトコンベアーの働きに影響がでる可能性がある。海のベルトコンベアーは世界の気候を根本的に動かしているものであり、熱帯から北半球へと熱を移動させている。北大西洋東部の海面水温は、サハラを吹き抜ける乾いた風に強い影響をおよぼす。北大西洋東部の海面水温が、北緯10度から25度のあいだで低く、〔その南の〕ギニア湾で高ければ、モンスーンは南に追いやられ、サヘルとサハラは干ばつに見舞われる。これが判明しているのは、西暦1300年から1900年のあいだに寒冷化がサヘルで乾燥した状況を生み出していたことがモーリタニアの海洋コアに記録されているからだ。


人類が生み出そうとしている地球温暖化はこれまでの温暖化とは規模も影響力もより強力で広範囲なものになるのではないかと予測されている。しぶとくこの温暖化の事実を無視しようと抵抗している者たちによって我々はいまだにブレーキに足が届かない状態で暴走を続けている。

ひょっとしたら極地や高地は今よりずっと暮らしやすい場所になるかもしれない。しかし、今でも既に乾燥して暑い場所はその時どうなっているのだろうか。サハラ、サヘル、中東、赤道下のアフリカ、中国の高原、北米、南米といった気候変動の影響を大きく受けた地域が、今後起こりゆく温暖化でどのようになってゆくのか。そこに広がって暮らしているたくさんの生き物達の行き場は残されているのだろうか。そしてそれを僕らはどんなように見つめていくのか。

ならば今僕らにできることは何なのか。


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ダルフールの通訳
(The Translator: A Tribesman's Memoir of Darfur)

ダウド・ハリ(Daoud Hari)

2015/04/04:スーダン、ハルツーム、ダルフール。スーダンは南スーダン分離前、アフリカ最大の面積を占める国だった。しかし世界地図を前にスーダンの場所を示すのは難しい。更にスーダンの歴史となるとアラブ、イスラム、西欧社会が入り乱れて覇権を奪いあった近年の歴史ですら縺れに縺れ紐解くのは容易ではない。ましてアフリカ大陸全土の歴史となるとそれは更に・・・。これはアフリカ大陸があまりに大きくその歴史が最も長いからなのか。

アフリカは今、宗教・民族、そして地下資源を巡っては中国やロシア等も加わり人類の縮図のような形でこの地で利権を奪い合っているように見える。

ダルフール紛争は正にそんな波頭が激しく激突する場所だった。スーダンは1989年、アラブ系スーダン人のオマル・アル=バシールが無血クーデターで政権についた。彼はスーダンでは少数派のアラブ系スーダン人のイスラム教徒だった。少数派であるにも関わらず彼はスーダンのイスラム化を強く推進していった。これに反発した非アラブ系の人々の反対・抵抗運動が広がり、2003年スーダン政府とスーダン政府が支援するアラブ系スーダン人の民塀組織「ジャンジャウィード」による非アラブ系民族の集落の攻撃がはじまりだった。

犠牲者の正確な数はわからないとしながら、国連は1956年の独立以来、1972年から1983年の11年間を除く期間に、200万人の死者、400万人の家を追われた者、60万人の難民が発生した。

当初、ダルフール紛争は果たして内戦なのか、非アラブ系民族に対するジェノサイドなのか議論が分かれていたらしい。人権団体やジャーナリストたちが現地調査を進めた結果、今ではジェノサイドだと理解され、バシールには国際法廷から逮捕状がだされるに至った。しかし、石油資源などの利権の絡みもあり中国政府やロシア政府がスーダンを後押ししているため、国連の判断が立ち往生しているという事実があることも見逃せない。

善悪の基準という根本的な価値観も集団規模が地球レベルになると共通認識に立つことが難しくなってしまうというのは、なんとも残念なお話だ。

彼の地で起こっている事、その実態が掴めないダルフールだが、本書は「悲しみのダルフール」に続く二冊目。

著者のダウド・ハリは非アラブ系ザガワ族出身。比較的裕福な家庭に育った彼は中学に進む際、北ダルフールで一番大きな町エルファシェルの学校へ進学した。高校卒業までの間に彼は英語を学ぶ、この英語がその後の彼の運命を大きく変えていくことになったのだった。

高校を卒業した彼は村には戻らずお金になる仕事を求めリビア、エジプト、そしてガザからイスラエルに渡ろうとしたところで捕まり、エジプトの刑務所に収監されてしまう。エジプトからスーダンに強制送還されれば処刑されることは明らかだ。

ダウドは正に強制送還されるための船に乗せられたところを国連と人権団体によって救い出されて釈放されたのだった。

九死に一生とはこの事か。ダウドが間一髪の旅を終え生まれ故郷の村に戻ったのは2003年の夏。ダルフール紛争が始まって半年という時期であった。

あれよあれよと避ける事も抗う術もなくダウドは渦中へと引きずり込まれていく。彼の過酷な旅はまだまだこれから始まるのである。

全く信じられないような旅だ。

これまでアラブ系は牧羊、非アラブ系は農業を営み時には一緒に食事をしたりするような隣人としての間柄で長く過ごしてきた双方が突如対立その暴力は激しく先鋭化してきた。

多くは隣人そのもので彼らは政府やジャンジャウィードたちから、非アラブ系の人々から攻撃され殺されると吹き込まれ、それを信じて恐れるがあまりに行動に走っていたのであった。

ダウドの故郷に向かう旅はやがて荒廃した村々を抜ける旅へと変貌していく。そして辿りついた自分の村は若者達が武装しいまや攻撃をしかけてくるであろうアラブ系の人々を迎え撃つ準備をものものしくも進めている最中だった。慌しく両親や兄弟たちと挨拶をして数日もたつといよいよ攻撃が始まってしまうのだった。


すでに百人は、賢明にも襲撃の数日前に村を後にしていた。残る百五十人を逃がすため、われわれは奮闘した。誰より助けを必要としていたのは、逃げることに同意したお年寄りたちだった。一人を助けに戻り、また戻っては別の一人に手を貸す。銃弾が木々を裂いて飛び交い、携行式ロケット弾が村の中央に炸裂し、多くの小屋が炎に包まれた。燃え盛る小屋を覗き込み、自力で走れない人たちを抱えて走った。なんだか夢でも見ているようで、すべてが奇妙にゆっくりと感じられた。

俺は死んだんだ、俺はもう死んでいる、こうやって俺は死んだんだ、そんなに悪くないじゃないか。自分の死体を見下ろすことになるのが怖くて、わたしはずっとそう唱えていた。周り中を銃弾が飛び交い、自分がまだ無事でいるとは信じられなかった。ともかく動き続けた。誰かを木の陰に運び、それから岩だらけの渓谷まで抱え上げる、そしてまた振り返る、助けの必要な人がもう背後に誰もいないことを祈りながら。でもまた見つけては戻る。


ダウドは死なない。それはわかっている。なぜなら僕がこうして本を読んでいるからだ。しかし彼が死ななかったのは万に一つたまたま運が良かったからとしか言いようがないことも。そして彼のような幸運に恵まれず命を落とした夥しい人々がいるということも。ダウドはダルフール紛争の最中に人権団体やジャーナリストたちの通訳として何度も虐殺の現場へと戻っていく。そのダウドの巡る旅のその辛いこと。しかし本人はどこまでも飄々としている。それが本書の救いでもある。でなければこの本は途轍もなく重たい本になってしまっていただろう。

打ち寄せる波頭が怒涛のようにぶつかりあっていくように暴力が溢れかえるダルフールだが、その背景にはそのような衝突を生む僕らの世界があり価値観がある。更には衝突させようとする意図も存在する。ダルフールの暴力やバシル大統領の犯罪にばかり目を奪われてはならない。ダルフールの世界は僕らの世界と地続きであり、その様相は僕らの世界の未来なのかもしれないのだから。


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