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これが物理学だ! マサチューセッツ工科大学「感動」講義
(For the Love of Physics :
From the End of the Rainbow to the Edge of Time - a Journey through the Wonders of Physics)

ウォルター・ルーウィン(Walter H.G. Lewin)

2015/09/23:前々からこれ知ってはいたけどTVの放送も観てないし、本自体も目する機会がなかった。先日実際手にして見れば訳者が東江さんじゃありませんか。こりゃさっそく読まなきゃ。

東江さんもしかし仕事の幅広い、なんてプロフィールを見てみると・・。なんと2014年にお亡くなりになっているではありませんか。うわ、一体どうしちゃったんだよー!!全く存じ上げませんでした。自失呆然であります。

ウィンズロウのニール・ケアリーシリーズが宝物のような作品として僕らの手に渡ったのは東江さんのお陰だと思っています。そしたらウィンズロウの次回作はだれが翻訳するんだよー。東江さんじゃなきゃダメなんだよー。あー、ホントに残念です。知らずに1年も過ごしてしまったことも含めいろいろと本当に悔しい。

今更ではありますがご冥福を心からお祈りさせていただきます。

「これが物理学だ!」は2012年に訳出出版されたものです。番組がNHKで放送されていたのが2013年1月というから本の方が先に出ていたようです。この本と番組は著者で物理学博士、専攻は核物理学専攻のウォルター・ルーウィン氏がMITの教養課程で行っている物理学の講義の内容をまとめたものだ。

授業そのものが動画と本で出されるというのはちょっと考えると非常に珍しいというか他にはない感じだ。これはルーウィン氏が体を張って物理学の正しさや楽しさを学生達へ伝えようとしているパフォーマンスそのものもあるだろうけれども、それ以前に彼がどうやったら学生達に伝えたいこと、わかって欲しいことをちゃんと伝えることができるのかについて真剣に突き詰めて考えて練り上げた授業だからこそのまとまりであり、解りやすさ、面白さがあるのだと思う。

授業の内容を構想するにあたり彼は「ほとんどの学生は物理学者になるわけではない。ゆえに「複雑な数理計算よりも発見することのすばらしさ」を胸に刻ませるほうが、ずっと大切だ。」というようなことを述べているらしい。MITの学生だからといっても専門分野はばらばらで必ずしも学者になる人ばかりではなく、それも教養課程で行う授業だからこその内容となっているということを予め解った上で読むのがよいように思います。

ではだからといって非常に易しい話題なのかということですが、入り口は易しいもののその先はやはり当然のことながら手強い。理系の人にとってはこの程度は常識ということなのかもしれませんが、文系の一般人である僕にとっては十分すぎる内容となっておりました。


 わたしは物理学において測定が重大な役割を担うと考えているので、測定によって実証できない理論には疑問を抱いている。例えば、ひも理論や、さらにそれに磨きをかけた超ひも理論、言い換えれば”万物の理論”を追求する理論家たちによる最先端の研究だ。理論物理学者たちの中には、ひも理論を扱う非常に優秀な学者が何人もいるのだが、彼らはまだひも理論の命題を実証するための実験ひとつ、予測ひとつすら思いついていない。ひも理論では何ひとつ実験的に証明することができないのだ・・・・少なくとも、今のところは。つまり、ひも理論には予測力がなく、それが理由で、ハーヴァード大学のシェルドン・グラショーなど一部の物理学者は、この理論が物理学なのかどうかさえ疑問視している。


超ひも理論に否定的なのは彼のスタンス故。そのスタンスは一言で言えば「測定できなければ意味がない」というものだ。はぁはぁ測れることね。そうですか。となる訳だけれども科学するものとしてこの「測る」こと自体の重さが我々一般人とはレベルが違うのだ。どうやって測るか。どの程度の精度があるのか。この精度をさらに上げることはできないか。これを只管突き詰めて実験を繰り返すことで真実に辿りつくことができるという大変厳しい道のりであること。本書は言ってみればこのことについて話題を変えつつ繰り返し我々にうったえている。

第1講 物理学を学ぶことの特権
第2講 物理学は測定できなければならない
第3講 息を呑むほどに美しいニュートンの法則
第4講 人間はどこまで深く潜ることができるか
第5講 虹の彼方に―光の不思議を探る
第6講 ビックバンはどんな音がしたのか
第7講 電気の奇跡
第8講 磁力のミステリー
第9講 エネルギー保存の法則
第10講 まったく新しい天文学の誕生
第11講 気球で宇宙からX線をとらえる
第12講 中性子星からブラックホールへ
第13講 天空の舞踏
第14講 謎のX線爆発
最終講 世界が違って見えてくる

それは例えば遠くの天体との距離。

6ヶ月の間隔をあけて観測された年間視差にはいくつもの値があるが、天文学者が口にする年間視差は、あるひとつの値になる。最大年間視差の二分の一の角度だ。仮にある星の最大年間視差が2.00秒角だとすると、その年間視差は1.00秒角となり、その星までの距離は3.26光年ということになる(ただしそんなに近い星は存在しない)。年間視差が小さくなれば小さくなるほど、距離は長くなる。もし年間視差が0.10秒角であれば、距離は32.6光年だ。太陽に最も近い恒星はプロキシマ・ケンタウリ(ケンタウルス座のプロキシマ星)だ。その年間視差は0.76秒角、よって、距離は4.3光年になる。

をはじめパーセク、ニュートン、静水圧、ボルト、アンペア、エネルギー量などといった単位の概念とその測定方法や精度について非常にわかりやすい形で、あくまで各々の導入部分ですが解説があり、実際の授業では言葉だけではなく実験やパフォーマンスなどを差し挟みつつ深遠な科学の心、物理学への愛を伝授していくという志向だ。

どれもこれも面白い。虹の話も是非読んで欲しい。勿論授業の核となるものは終盤彼の本業であるX線宇宙物理学の話になる訳だけれどもそれは是非実際に観るなり読むなりして体感していただきたいところでありますが、ひとつだけ。

揚力の話。


 飛行機の翼は、上を通過する空気より下を通過する空気の方が速く流れるように設計されている。ベルヌーイによれば、翼の上面の空気の流れが速いと、上側の空気圧が下がり、翼の下側の空気圧との差によって、上に上げる力が発生する。これを”ベルヌーイの揚力”と呼ぼう。多くの専門書が、飛行機を揚げる力はベルヌーイの揚力だけで説明できるとしており、事実、至るところでこの説を目にする。とはいえ、一分間か二分間考えてみれば、そんなはずはないということがわかる。もしこの説が正しいとしたら、飛行機はなぜ上下逆さまに飛ぶことができるのだろうか?

 どう見ても、ベルヌーイの定理だけで飛行機を揚げる力を説明することはできない。ベルヌーイの揚力のほかに、いわゆる”反作用揚力”が存在する。これについては、B・C・ジョンソンが小気味よい論文『空気力学的揚力、ベルヌーイ効果、反作用揚力』で詳しく述べている。反作用揚力(どんな作用にも、大きさが等しく向きが反対の反作用がある、というニュートンの第三法則に由来)は、翼の下側を通過する空気が上向きに曲がるときに発生する。その空気は、翼の前方から後方へ流れ、翼によって下向きに押される。これが”作用”だ。この作用は必ず、等しい力で上向きに働く空気の反作用を伴うので、翼に上向きの揚力が生じる。ボーイング747(高度約9000メートルを時速880キロで航行する)を例に挙げると、揚力の80パーセント以上が反作用揚力から、20パーセント未満がベルヌーイの揚力からもたらされる。


ほほーっ!!JALの整備工場での説明会でもベルヌーイの定理だけで飛んでるような話をしてたなー。しかし実際には全然違うじゃんというお話。僕のような凡人にはなるほどなるほどな話が満載でとっても楽しい本でありました。

東江さん、すてきな読書体験を与えてくださりありがとうございました。本当はもっともっと沢山訳出して僕を楽しませて欲しかった。しかしそれは叶わぬ事となってしまった今、遺してくれた本たちを愛しんで繰り返し読んでいきたいと思います。
ありがとうございました。


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黒い迷宮: ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実
(People Who Eat Darkness: The True Story of a Young Woman Who Vanished from the Streets of Tokyo--and the Evil That Swallowed Her Up)

リチャード・ロイド・パリー(Richard Lloyd Parry)

2015/09/06:大変申し訳ない話なのだが読み始めるまで2007年に行徳で起こったリンゼイ・アン・ホーカーさん殺害の事件の話だと思っていた。警察の目前から逃亡した市橋達也はその後3年近くサバイバル生活のような暮らしで逃亡生活を送っていたというあの話だ。事件が僕らの生活圏のなかで起こったこともあってとても印象に残っているのだけれども、結局被害者の方の名前もおぼろで錯誤していたのでありました。

本書は2000年7月六本木のクラブでホステスとして働くルーシー・ブラックマンさんが行方不明となった事件だ。結局彼女は神奈川県三浦市油壺の洞窟のなかでバラバラに切断された状態で埋められているのが発見された。彼女はホステスとして働く前は英国航空乗務員を勤めており、その事件の経緯と彼女の軌跡というものが頭のなかでうまく繋がらない、どうしてこんな事になったのかとても腑に落ちない事件であった。2000年といえばY2K問題で当時神奈川にいた僕らはみなとみらいで年越しをし、春になったと思ったら本社に異動になって、ついでにもといた浦安に戻ろうということで慌しく引越ししたりしていた年だ。

新設部門でバタバタしてた最中の事件だったので記憶も途切れがちなこの事件。犯人はどんな奴で事件の経緯はどんなだったんだろうか。本書はルーシー・ブラックマンさんの両親や友人の人生にまでも入り込みながら事件の核心へと迫っていく。

しかし、肝心の犯人は・・・。実際に起こった話なのでネタバレでもないのだけれども本書で明らかになる話は一般に出回っている話とは広さと深さがかなり異なる。実際はこんな事件だったのね。という驚き。

例えば失踪直後に一緒に働いていた友人にかかってきた一本の電話。その電話で相手の男は、ルーシーが日本の新興宗教に入信しこれまでの生活をすべて捨てることになったので探さないで欲しいと言ったという。

勿論この時点で被害者は既に死亡していることがわかっており、その電話の主は犯人本人である可能性が高い訳だが、これも時世を踏んで事件を霍乱する目的があった訳で非常に不気味な手を使う男であった。

どんな事件も当事者のみならず近親者から友人知人らの人生も何らかの形で影響を受けてしまうものなのだろうが、今回の事件ではその後の経緯によってさらに関係者たちは人生の歯車を狂わせていく。

何度も足繁く通い関係者たちと胸襟を開いた話を聞けるほどの間柄になっていったからこそ見えてくる話は正にここでしか読めない話。

ここまでもつれていくのは果たして事件の衝撃故なのか、それともそもそも問題を抱えていたからこそ事件に巻き込まれてしまったのかと考えずにはいられない。

また本書は外国人から見た日本の姿を、それもアンダーグランドな姿をえぐり出していくところも興味深い

水商売。


すべての物事がきっちりとした意味を持つ日本では、ホステスの仕事、ホステス、そしてホステスクラブにも決められた居場所がある。六本木に見られるような夜の商売は─低俗であれ高級でおれ、まっとうな店でも怪しい店でも─美しく示唆的な″水商売″という言葉で一括りにされる。水商売というこの熟語は実に謎めいたものだ。この″水″とは何を意味するのか?セックス、出産、溺死などを連想する人も多いだろう。夜遊びには欠かせない酒かもしれない。あるいは、水の流れのような快楽の儚さを暗示するのか?そんな水商売の一端をなすのが芸者である。並外れた技能と教養を兼ね備えた芸者による伝統的な歓待は、現在では京都や東京の限られた昔からの花街に残るだけとなった。もう一端を担うのは、ハードコアなSMクラブや拷問部屋などで、ここでは金を介して陋劣で残虐な行為が繰り広げられる。そんな幅広いスペクトルのあいだに、下品なものから優雅なもの、安いものから高級なもの、オープンなものから排他的なものまで多種多様な水商売が存在する。


警察。


表面的にみれば、日本の警察は世界でも屈指の優秀な警察だといえる。ほかの多くの先進国と同じように、日本でも、若者の非行や伝統的な倫理観の低下は大きな社会問題となってきた。だとしても、日本がこの地球上で最も安全で、犯罪率の低い国であるという絶対的事実を覆すことはできない。それはまちがいない。日本における強盗、ひったくり、ドラッグ取引などの犯罪─世界のほかの大都市の住人にとって日常生活の一部と化した犯罪─の発生率は、欧米に比べて四分の一から八分の一に過ぎない。


そして嫌韓、差別感情。


朝鮮人に対する日本政府の方針は同化政策へと大きく傾き、朝鮮の文化や言語は徐々に呑み込まれようとしていた。政府は、彼らのアイデンティティを抹殺して日本人に同化させようとする一方で、日本国民が享受する特権やステータスを朝鮮人に与えようとはしなかった。
朝鮮人は天皇の臣民でありながら、選挙権および被選挙権は制限された。大阪や川崎の朝鮮人街の住民の健康水準や識字率は、″日本人″よりも低かった。日本人と同じ仕事をしても、賃金に大幅に低く抑えられた。にもかかわらず、給料と仕事が横取りされた、と日本人労働者から憎まれる始末立った。日常生活における差別と偏見の壁は厚く、結果として教育、雇用、政治の場でさまざまな機会が奪われることになった。


事件の背景には確かに被差別者の虐げられて歪んだ人生があったろう。しかし事件はそれだけでは起こらなかった。間違いなく。

事件の核心には深い闇に閉ざされた犯人の心があった。事件の結末もまた本書を是非読んで自分で確認してほしい。

大阪では中学生二人を残虐に殺した男が逮捕された。どんなヤツかと思っていたが、中学生の男の子を拉致監禁するような事件を繰り返しやっていたという。

彼は厚生不能だったと思う。こうなる前になんとかならなかったのかと憤りすら感じる。

日本の司法はこのような事態に全く対応できていない。あちこちで同様の再犯者による悲劇が繰り返されている。

残念だけど、一定の比率で心が壊れている、病んでいる人々がいて、彼らは治らないし、繰り返し犯行を重ねることもやめられない。

また朝鮮人がとか、朝鮮人だからみたいなところで原因を捉えてしまうのは単なる思考停止以外の何物でもない。何人だろうと、ぶっ壊れた人間はいるのだ。

闇に踏み込んでみるのも大切だ。今は無理でもいつかは治療できるようになるかもしれない。

しかし、今は犯行を止めさせて悲劇を繰り返させない事が肝心だ。果たして日本はこのような飛び抜けた暴力性を抱え込んだ人を抑えこむことができるようになるのだろうか。


「狂気の時代」のレビューはこちら>>

「黒い迷宮」のレビューはこちら>>

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ウィダーの副王(The Viceroy of Ouidah)
ブルース・チャトウィン(Bruce Chatwin)

2015/08/30:チャトウィンとの出会いは長い読書体験のなかでも飛び抜けて美しい宝物だ。

パタゴニア。ブッチ・キャシデイとサンダンス・キッド。これらは本という概念を飛び越えて、様々な僕の人生の共鳴する特別な存在となった。

チャトウィンは僕のなかで眠っている子供の頃の記憶を呼び覚ます祈祷師だ。彼はあの世にいて現世とつながる霊媒師なのかもしれない。

しかもそれは超個人的な問題であって、本来的なチャトウィンとは全く関係がない。一方的にこんな形で敬服している事について彼が迷惑に思っているような事がないと信じたい。また、そんな個人的な思い入れを差し引いてもチャトウィンの作品群の素晴らしさには第一級のものがある。

「パタゴニア」、「ソングライン」のトラヴェローグで紡ぎ出される逸話の美しさ、切なさはどれも深く長い余韻を残すものがある。

どのようにしてチャトウィンはこうした出会いを遂げる事ができたのか。どうやって旅をしていたのか。どこまでが本当でどこからが創作なのか。

チャトウィンの作品群の魅力の中核には読書の興味の的から僅かにズレて核心が見えないところにある気がする。「パタゴニア」も本人は本を書くための取材で旅をしているという体で話が進む訳だけど、もちろんその取材で書かれた本こそ本書であって、当初の目的となっていたテーマの調査は終わりを迎えず、本もついぞ書かれることがない。

このような形でチャトウィンが逸れていってしまう一方で我々はその投げ出されたお話の先に想像を膨らませてしまうところに絶妙な味があると思う。

ポール・セローはチャトウィンが「嘘つき」だと多分やっかみ半分で述べているが、実際彼の本はどこまで本当かわからないというよりも半分以上が創作であり、上記のような形で書いているのも意図的なものであってそれ自体がチャトウィンのアートであった。それをあたかもすべてが本当の話であるかのように書いているところにトラヴェローグの書き手であるポール・セローはそりゃ反則だろうと言っているのだろう。

さて本書「ウィダーの副王」は「パタゴニア」の1977年に次いで1980年に書かれたもので2作目になるもの。パタゴニアが旅行記のような形で書かれているが本書は「フィクション」だ。だとしながら名残は残っている。

チャトウィンは物語の地を二度訪れたと書いている。1971年と1977年だ。二度目に訪問したときにはダホメー王国は崩壊しベナン共和国となっていたが、クーデターに遭遇し逮捕されてしまったという。しかしこの話はちらっと触れられるだけで全く詳細がない。彼は「パタゴニア」同様あるテーマについて取材をするために現地に向かったわけだが、この二度の訪問で十分調査ができた、だから本書を書き上げたのだと言う。しかしそれは史実を元にした「創作」だという。つまり本当のような嘘の話だよという訳だ。

そのチャトウィンが調べ上げたというお話というのはフランシスコ・フェリクス・デ・ソウザという男の話。彼は1812年にブラジルからダホメーに渡って来て稀代の奴隷商人となった白人だ。本書は彼の辿った数奇な人生と、さらには彼が残した子孫達が現地の人たちと混合しつつも、奴隷であった過去をもつ人たちと一線を画した人種と自我をなんとか維持しようとしているというちぐはぐな状況を描いたものだ。

ダホメーには長く悲惨な奴隷市場としての歴史があった。そこで王の承認を得て奴隷売買を行い巨万の富を築いたデ・ソウザ。黒人の王と白人であるデ・ソウザ。自らも奴隷売買で収益を上げその地位を維持している王。奴隷と支配者。デ・ソウザと交わることで混血していく子孫たち。ブラジルで自由民となってベナンに帰巣した者たちと差別と被差別者の複雑にねじれた関係が生まれた。

チャトウィンの訪れたベナンはそのような事情でまるで出鱈目なパッチワークのようになっている場所であったろう。チャトウィンはそんな現状を鮮やかに切り取って見せたかと思えば、一気にフランシスコ・フェリクス・デ・ソウザの生い立ちへと遡っていく。

しかし実はデ・ソウザの事は記録があまり残っていないらしい。少なくともブラジルから渡って来た時期が本当は1800年頃であり意図的に時期がずらされているらしい。つまりはチャトウィンが創作であることをはっきりさせる為にそうしたのじゃないのかなと思う次第であります。

訳者の旦敬介氏のあとがきではデ・ソウザやダホメーの歴史がかなり詳細に解説されているので是非読まれたし。

一方でこの解説に書かれている話はインターネットで調べても、といっても僕の場合は日本語に限っていてせいぜいウィキペディアを読む程度な訳だけれども、ちっとも出てこない。すべての情報がネットにある訳ではないし、日本語になっている訳ではないのは勿論だけれども。つまりは確かめようがない。

旦氏は頑張っていろいろと調べてくれて解説してくれているのだけれど、やっぱりチャトウィンのお話はどこまでが本当なのか判然としない。

それこそがチャトウィンの狙いなんだろう。事実は時間の経過とともに茫漠と消え去っていき「物語」だけが残る。という事だ。

「パタゴニア」のレビューはこちら>>

「パタゴニアふたたび」のレビューはこちら>>

「ソングライン」のレビューはこちら>>

「どうして僕はこんなところに」のレビューはこちら>>


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賤民の場所 江戸の城と川
塩見 鮮一郎

2015/08/23:塩見鮮一郎氏が川に目をつけていたとは。これは読まねばと。そして読んでしまえば、著者の切り口はご本人にしてみれば当然の事であって、それに今更気づいて驚いている自分の方が遥か後方にいる事を思い知らされる一冊でありました。

僕の興味・好奇心の方向性としては、江戸、関東平野の地質年代学的推移であり、そこへやってきた人たちは何時、何処から、どのような事情でやってきたのか。というような事で、その中でも特に気になっているのは江戸氏と呼ばれた一族の趨勢であった。

しかし江戸氏の事について書かれている本はなかなかまとまったものがない。

江戸の名を名乗る人たちなのにその素性がはっきりしないのは一体どうした事なのか。

これに対し塩見氏はあっさりとこんな事を言う。


日本の歴史書は、その出発点にあった朝鮮人の歴史をひたすら無化し消し去る方向で語られてきたが、深大寺の開創者の満功上人についての次のような話は、解かれるべき暗号を秘めているのである。満功上人の父というのは、どことも知れないところからここにやってきた福満という青年で、深渉大王に助けられ、土地の娘と結婚した、というのである。福満はたぶん高麗人の子孫であろうと言われるが、ともかく立川段丘に渡来人によって先進文化が生まれた。深大寺ができて数年後に、武蔵の中心である府中ができるが、これが氷川神社のある埼玉県の大宮ではなく、立川段丘に置かれたのも、こちらのほうに、富と文化と技術者が集まっていたためかもしれない。そして、奈良の朝廷も、その全国統一の支配を安定させるために、東国を、つまり関東地方を重視しばしめていた。口分田を授けるための地図を作る命令も、奈良のお膝元のほかでは、まず関東に届いたのである。


あー経緯がはっきりしないのは意図的に有耶無耶になっているという訳なのね。掘り下げられるといろいろと不都合な事情があると云う意味ね。

もともと怪しいと睨んでいた訳だけど、こんな文章にぶつかってしまうと天の邪鬼な僕としてはますますしぶとく掘り進んでしまいそうだ。僕は適当に装飾された支配者に都合のよい歴史なんかではなく、本当の歴史が知りたい。

応神天皇時代の漢人系の渡来人であった阿知使主、この人はなんでも東の国に聖人君子がいるというのでわざわざ一族郎党で海を渡ってきたらしい。の子孫であった坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられたのは延暦20年(801年)。阿知使主は祖国から農民を招致したようで、おおくの人が流入・合流した。

深く考える必要もなくこのような事は農民に限らず、織物、酒造、産鉄、造船など、時代の先端技術を持った人々が呼び寄せられるなど、何度も何度も繰り返されてきたのである。

そして坂上田村麻呂の一族が得意とする分野は馬の調教であったらしい。


やがて一族から坂上田村麻呂がでてきて東北を侵略するのだが、馬に関する専門知識を買われて、関東の牧場をまかされたのが同族にいた。武蔵野台地のその牧場は、こんどはかれらの名をとって、「檜前牧(ヒノクママキ)」と呼ばれるようになる。これはわたしがわかりやすく「ヒノクマ牧場」と記したもので、その場所については定説がない。浅草のたもとあたりともいわれるが、わたしは山の手の高台のほうを考え、「馬込」とか「駒込」を考える。


東北に対する前哨基地的な役割から発展してきたのは当時浅草だった。まだ日比谷あたりは海だった頃の話だ。こうした地理的変遷を平行しながら当時の様子を再現していく本書は薄くて軽いがなかみはそう簡単に読み解けないほど深いのであります。

この発展した浅草に対峙する形で登場してくるのが坂東武者であり、平氏の流れを汲む秩父流平氏であった。そのなかから登場するのが江戸氏なのである。

つまりは平氏の流れをくむ人であったわけだがこの平氏、その祖は桓武天皇の孫が臣籍降下する際に与えられたものらしい。つまりは皇族の血を分けているはずなのだが、将門が朝敵となったことをはじめ、朝廷とはくっついたり離れたりと複雑な経緯をたどってめまぐるしい。物覚えが悪くて大雑把にしか理解できない僕には結局親族同士で争っているようにしか見えない。きちんとちゃんと理解したいと思う一方でこれらの争いは結局権力の奪い合い以外の何者でもなくて瑣末なことじゃないかなんて思いだすのは乱暴すぎなのだろうか。

結局のところ、こうした利権・覇権を求めてうごめく支配者層とこれに巻き込まれる形の被支配者層の人々がいた訳だが、塩見氏はさらにここに第三の層が存在したと指摘する。


しかし近代以前は、納税義務のない人が、いっぱいいたのである。そんなことは先刻ご承知さ、といわれそうだが、そのことをもう一度はっきりと確認するのは、なかなか大切なのである。というのは、ある時代の社会を支える基本が、収税と納税で成立しているとするなら、その支配と被支配の両階層こそが、社会を社会たらしめているのである。日本では、その両階層とは、大雑把にいって、先に述べた支配層(天皇、公卿、武士、社寺)と、主として農民で構成されていたのである。農民は納税を義務付けられているかわりに、田畑の所領や水利権を原則として保護されているので、支配者ともども、これらの人たちをわたしはインナーグループと呼んで納税の義務すらない人たち(アウターグループ)から区別したい。近代以前の日本の権力は、インナーグループの収税と納税の濃い関係によって維持されたのであって、それ以外の人たちは、政治にはそれほど関わりを持たなかったのである。


こうした政治に関わりがない人々が中心となって川原に市を建てて物や芸のようなものを売り買いすることで活気溢れるマーケットが出現していた。権力者たちにとっては直接支配にはない人々であるけれども、こうした存在は無視できない規模と影響力を有するようになっていった。歴史はこうした関係の間で生み出されてきたのだという事だ。

目次
はじめに 一例としての江戸

1章 水の地図 
1 始原の地図
2 水と地の境界

2章 館の地図
1 地図と権力
2 江戸の後背地
3 ヒノクマ牧場
4 坂東圏構想の誕生
5 「江戸館」建設
6 江戸対鎌倉

3章 川の地図
1 平川
2 石神井川
3 摂津国の長吏
4 荒川、入間川、隅田川
5 利根川、渡良瀬川
6 四条河原

4章 城の地図
1 江戸氏衰退
2 太田江戸城
3 城と川
4 城の周辺
5 後北条の支城

付録 地図の恣意性―デマゴギーについて

古地図に残る川の流れを推理し、そこに展開されていたであろう歴史を紐解くという羨ましい限りの時間の使い方であります。内容が広く深すぎで僕の能力と時間では到底まとめきれるものではありませんでした。仕事引退したらこんなことをして過ごせたら最高だよなというような一冊でありました。


「浅草弾左衛門」のレビューはこちら>>


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ゾミア―脱国家の世界史 (The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland Southeast Asia)
ジェームズ・C・スコット(James C. Scott)

2015/0817:今でこそ仙台市青葉区というハイカラな地名が頭についているが、父の実家、本家は宮城県と山形県の県境近くの山間の集落にあり、世間一般の感覚から言えば昔も今もど田舎だ。

家の裏側はすぐ山でそれを北や西に進めば誰かに出会う前にたぶん遭難する。しかし軟弱な僕は遭難するほど先にも進めないだろう場所だった。

この本家に僕は事あるごとに連れて行かれていたわけだが、だいたい三回に一回は法事で、大勢の親戚縁者が集まって正体を無くすほどに飲んでいる脇で従兄弟たちと地味に遊んで暇を潰していた。

「誰の息子?」何十回も聞かれるその相手はいったい誰なのか。そんな人たちがかわす脈絡もない話をひたすら聴かされるなんて事もよくあって、しかもホラっぽい話ばっか。

誰某は昔駐在さんに無理やり頼んで「てっぽう」を撃たせてもらったんだ、とか、皇族の人がここに来てその時の記念に植えた樹があったんだけど、誰某が酔っ払って日本刀で切り倒したんだ、とか。私昔サルを食べたことがあるんだよとか。

これに負けずうちのオヤジの話も嘘っぽいのばっかりで、戦時中の食いもんがない時、たまたま庭に迷い込んできたニワトリを捕まえて食って、バレるとマズいので羽を枕に詰めたんだとかなんとか。

映画「ビックフィッシュ」の既視感は半端なかったよ僕の場合。

印象に残る話のなかに「山の人」の話があった。裏山なんかではなく、もっとずっと人里離れた山のなかで、定住せずに暮らしている「山の人」がいたという。たまに物々交換の目的で村に降りてくることもあったようで、オヤジは祖父に言いつけられて、彼らと一緒に暮らしたことがあるというのだ。小学生?中学生?の頃のほんの短い期間だったのだろうが、彼らと山のなかを移動しながら、いろいろ教えてもらったという。

「話し方」がちょっと独自で、水を飲むときに手を使わないんだよ、とオヤジは良く言っていた。

僕にしてみれば「山の人」って一体どんな人々でどこでどうしてそうなったのか。「今はもういなくなった」という彼らはどこに消えたのか。

残念ながら彼らから得た山の知識は僕に伝えるのが難しかったらしく、それ以上踏み込んだ話はあまり聴かず終いで、その茫漠としたイメージだけが残った。

彼らは「サンカ」と呼ばれた人々であったことがわかった。昭和初期まではかなりの数の人が定住せずに山のなかで暮らしていたようだ。彼らはその後徐々に定住化していったのだという。

オヤジが出会った「山の人」はまさにこの最後の「サンカ」の人たちだったのだろう。「サンカ」とは「山窩」、「山家」、「三家」、「散家」、「傘下」、「燦下」と書かれることもある、川漁や竹細工などで生計を立ててる非定住者のことを指すようだ。

では彼らは何者だったのか。どこからどのようにしてやってきたのだろうか。

一部では犯罪者予備軍だとか、ヤマト王権時代からの異民族だとか諸説あるようだが、父の祖父のやりとりを聞く限り、危険な人たちという認識もなく、必要に応じて接点のあるちょっと遠目の近所の人たちくらいの身近さすらある。

この「サンカ」の人たちの事をいつかちゃんと調べてみようと思っているのだがなかなかその機会がない。前置きが長くなった。

本書「ゾミア」は「サンカ」のような人たちが実は世界各地に点在しているというお話なのだ。

彼らに共通するものとは一体何なのか。


 「ゾミア」とは、ベトナムの中央高原からインドの北東部にかけて広がり、東南アジア大陸部の五カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ)と中国の四省(雲南、貴州、広西、四川)を含む広大な丘陵地帯を指す新名称である。およそ標高300メートルにあるこの地域全体は、面積にして250万平方キロメートルにおよぶ。約一億の少数民族の人々が住み、言語的にも目もくらむほど多様である。東南アジア大陸部の山塊(マンタ)とも呼ばれてきたこの地域は、いかなる国家の中心になることもなく、九つの国家の辺境に位置し、東南アジア、東アジア、南アジアといった通例の地域区分にも当てはまらない。特に興味深いのはこの地域の生態学的多様性であり、その多様性と国家形成との相互関係である。あたかも北米のアパラチア山脈の国際越境版であるかのようなこの地域は、新鮮な研究対象であり、地域研究への新たな視点を提供している。


さすがにヤマト王権時代から社会から切り離れた状態で暮らし続けるなんて事はこの狭い日本では難しいだろうと思っていたが、この「ゾミア」を読んで、彼らが非常に柔軟で多様な集団であって、常に流入、合流、分散を繰り返してきた人たちの総称であることがはっきりと見えてきた。

「部族」とか、「民族」とか、そういった枠組みからも外れたところに居合わせて行動を共にするような人たちが綿々とリレーしていたのだ。

彼らを野蛮だとか、非文明的であるとするのは、確かに山で定住せずに暮らすのは不自由な面も多々あるとは思うが、国家、統治者側から見て目障りで、邪魔な存在だった。


 中心に向かう傾向をもつ文明化の物語を念入りに検討すると、「文明人であること」とは結局のところ、水稲国家の臣民になることに他ならないことが驚くほどはっきりする。統治された臣民になるか、国家の外部にとどまるかは、きわめて重大な違いを生み出す。これは典型的にはアイデンティティ、なかで民族的なアイデンティティの転向という特徴を伴う。水田稲作の中心、つまりは国家によって構造化された階層に向かうことは、文脈に応じて、タイやビルマ人、マレー人になることを意味した。中国南西部の辺境地帯の文脈であれば、「生」の野性的地位から「熟」の文明へと移行することを指し、最終的に漢民族のアイデンティティそのものになっていくことを意味した。


そっち側からの視線は新鮮ではっとさせる面を持っているじゃないですか。彼は単に非定住な暮らしを選んだだけではなく、文字も自ら進んで捨て去り、過去とも決別している風でもあるという。


 無文字ではなく、あえて非識字性や口承と呼ぶのは、口承が単にある能力の欠如ではなく、文化的生活を送るための積極的な意味を持った別種の媒体であることに気づいて貰いたいからだ。ここで取り上げる「口承」は、ある社会が初めて文字と遭遇した状態を意味する一次的無文字状態と区別する必然がある。はじめから読み書きを知らない人々とは対照的に、東南アジア大陸の山塊の非識字社会で暮らす人々は、少数の読み書きに通じた人々や文書が存在する諸国家に接触しながら、二千年以上暮らしてきた。彼らはそうした国家に対して、自らの守備位置を定めなければならなかった。さらに、読み書きに通じる低地国家のエリートたちは、国の総人口からすればつい最近まで、ごく少数の者に限られていたことは言うまでもない。低地国家においてでさえ圧倒的多数者が、筆記や文書から影響を受けつつも、口承文化のなかで生きてきたのである。


そうまでして彼らは何から逃れていたのか。文明・文化にどっぷりと浸かっている我々の感覚からはなかなか想像し難いものがある。
 このような「自己野蛮(人)化」は、どのようにも生じうる。交易目的のため、税から逃れるため、法をかいくぐるため、新たな土地を探すために、漢民族たちは野蛮人が暮らす地域へと絶え間なく分け入った。いったんそこへたどりつくと、彼らはその土地の方言を学び、土地の者と結婚し、野蛮人の首長に保護を求めたようだ。散り散りになった反逆者の残党(最も有名なのは、19世紀の太平天国の乱である。)、かつての地位を追われた君主、そしてその側近たち(たとえば清朝初期に残った明朝の支配者たち)は、みな野蛮人地域への人の流れに加わった人々である。


なんらかの事情により本流に乗れずまたは対立し決別して山に逃れた人々が、同様になんらかの事情により山で暮らしている人々と合流し協力して生活を続けていく。お互いの過去は黙して語らずにいる。そんな「仲間」たちがいつしか一つの「部族」のような集団となっていくというのは、流れとしても自然だし、ありそうな話に聞こえないだろうか。さだめし近年では、取り潰しになった藩から落ちた者、飢饉から逃れた人々など逃げ出す理由はいくらでもあったろうと思うのだ。


 マイノリティとはどんな人々で、どのようにして現在の地にたどりついたのだろうか。古くからの物語や平地の民衆に伝わる見方では、少数民族とは平地民の祖先であり、最初の先住民である。一方、現在の歴史家や民族誌家は、ゾミアに住んでいる少数民族を、敗北、迫害、周縁化の苦汁をなめた移民として描くことが多い。この見方は一般に、少数民族を不当に被害者に仕立て上げるものである。二つの暗黙の前提が、この見解を支えている。第一の前提は、山地民はみな、できることなら平地に住みたいと思っており、彼らの多くはかつて低地に居住していたが圧力に屈して不本意ながら山地へと追い立てられた、というものである。第二は、山地民は「野蛮さ」や後進性というこれまでも貼られてきた烙印を避けたいと思っているはずであり、その野蛮さは逃避行のもたらした必然の結果である、という前提である。低地の基準から見ると、文明化した人々とは水稲耕作を営み国家に納税する臣民であり、こういった状態から逃れ、国家の勢力圏の外側で新しい生業形態を採用することは、それ自体が常軌を逸したところに身を置くことにほかならない。


「サンカ」の人々をまるで日本人とは別の民族のような取り扱いをしていること自体が実は差別的だし、では我々日本人というのは一体何者だったのかというところに視線はぐるっと戻ってくるという次第なのでありました。

先日安倍総理は、「談話」なるものを発して世間の失笑を買っているがあれは結局何が言いたかったのか、したかったのか。

天皇の祖先は朝鮮から渡ってきたらしい、朝鮮でなくとも大陸側からだったことは間違いない訳だし、日本人と呼ばれる我々の祖先だって、何度も何度も大陸のあちらこちらから渡ってきた人たちの混合であったろう。

そんな血のつながりがある大陸の人たちと日本人を無理やり線引きし、分離しようとしているのは正に「日本人」というものの定義が「脆く」、「曖昧」であることの反証なんじゃないかと思うのだ。

またその祖先の人たちだって、なんで大陸からこの島にやってきたのかを振り返るに、やはりそれなりの「事情」というものがあったろうと思うのだが、これらは全く語られることがないという事実にも「サンカ」の「ゾミア」の人たちと共通する背景のようなものを感じてしまう僕は皮肉屋すぎだろうか。


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江戸・東京の都市史: 近代移行期の都市・建築・社会
松山 恵(MATSUYAMA Megumi)

2015/08/09:本を開くと恐ろしく堅い文章におののきました。一体どんな人が書いているのだと思えば、女性でしかも僕なんかよりもずっとお若い。明治大学の文学部史学地理学科の講師をされているという事ですが、いやびっくりしました。やはり学問を生業にするというのも大変だなこりゃと変なところで感心してしまいました。

本書の主眼は江戸末期から明治初期の時代の江戸・東京が新しい政府のもとで生まれ変わったのではなく、新しい国づくりのもとで連続的でしなやかにしたたかに変化を続けていった事を非常に綿密な調査分析によって浮かび上がらせるべく野心的に取り組んだ本なのでした。

徳川幕府が江戸城を無血開城しほどなく、天皇は東京にやってきてこの江戸城に移り住んだ。当時最低限の改築改装で、まだ城の体裁を保っていた江戸城、徳川幕府がつい先日まで政を司っていたその場所に天皇が足を踏み入れたとき、それはどんな光景でどんな思いだったのか。天皇を導いた明治政府の面々はどんな様子だったのか。

はっとさせるイメージがそこにはあった。しかし残念ながら実際の様子は描かれない。本書のテーマから外れるからなのだろう。実際本書では天皇や政府のみならず市井の人々も含めて、情動というか感情というか思いが排除されている。あってもそれは極一部の政治家の発言で、これも事実を記載するのみで、何かしらの解釈というか、意味づけのようなものは書かれていない。

寧ろ徹底的に避けて書いていると捉えるべきなのか・・・。そんな思いを抱きつつも読み進むと大隈重信が推し進めた国教化の話が出てくる。これは数寄屋橋付近に国教の中心とすべく政府が神社を作ったという話なのだが、数寄屋橋、今のマリオンがあるあたりらしいのだが、そこに神社が建っていて、それも政府が建てたと?


 正確には、「太神宮」とは皇大神宮遥拝殿(以降「遥拝殿」と略す)、そして「神宮教院」は明治八年(1875)に設立された日本全国の神道布教をつかさどる国教教化のための半公的な機関であった神道事務局のことを指す。なお前者は、当時、一般には日比谷大神宮と呼ばれており、また現在は靖国神社にもほど近い飯田橋に座す東京大神宮の前身となるものである。


この大隈はここに神社を建てて国教化の中心にしようと考えていたらしい。勿論国教とは神道のことなのだがこれを大隈は新しい宗教として従来の神社を取り込んで世の中をまとめようとしていたことが解るというのだ。


 神祇官の国学者連中が、一つ神道を基礎とした新宗教を作ろうと云うことになった。それはこのままにしておけば耶蘇教が入って来るから、特に仏教に代わるべき、わが国固有の新宗教を作らねばならぬ。そうして勅命によって国民の信仰を定めようと云うのであったが、実はその時はわが輩も同感の方で・・・今、正直に白状すると、最初は一つやって見ようと思うたのである。大神宮を中心として皇祖皇宗の神霊を祀り、学校もそれを中心に教育して、一朝事有る際には大神宮の信仰によって民心─今の政府あたりの言葉を借りて言えば─を統一しよう等と考えていたのである。維新後列国がわが国を苦しめた際に、わが輩がその衝に当たり、また長崎あたりで宗教の事にも関係していたこともあって、木戸、大久保等もわが輩の議論には敬服していた


耶蘇教というのはキリスト教のことね。つまりキリスト教文化が入ってくるのを排斥するために俄作りの宗教つまり神道で対抗しようという意味?

ちょっと待った。つまり明治政府が言う正統性というものが実は完全な後付けであったということで良いのか、つまりは大隈がいう人心をつかみ、国策に利用するために新しい宗教が「必要」なのであって、本人がそんなものを信じてる訳ではないことをはっきりと言っているという意味だよね?

むむむ!本書にはやはり何事か表面とは違う意図があるような気がしてきた。しかもこの神社は当時の大隈の土地を政府が買い上げる形で建築されたというではありませんか。なんなんだこの男は。しかし。

大隈はアメリカの向こうを張り不平等条約を蹴っ飛ばしたことでその名を馳せた人だという。日本はこの不平等条約を撤廃させたことで、実質的植民地支配から脱却することができた訳だが、その一方で、欧米に続けとばかりに帝国主義、そして戦争へと向かって驀進していった。

あらためて不平等条約を蹴っ飛ばした大隈の発言をみてみよう。


 「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」


なんとキリスト教の歴史を暴力と戦争の歴史と重ねて切り捨てているではないか。今これを読むとそれは正にその通りである訳だけれど、大隈はこれに対抗すべく国教の導入を焦ったのだ。

しかし戦争を伴うキリスト教と対抗するもう一つの宗教もまた暴力と戦争を伴うものである必要があったのだ。

こんな意図で作り上げられた宗教を教育されて、それを信じ、戦地に赴き、命を散らした人も多かったはずなのに、その中核にいる連中はただひとを利用しようとしていただけなのだ。

吐き気を覚えるような考え方だと思うのは僕だけか?

大隈がなんでキリスト教を忌み嫌っているのかにせよ、信じてもいないどころか、形すら明確ではない新しい宗教を持ち出したその意図は、明らかに倒幕して打ち立てた新しい日本という国を一つにまとめるためだったのだろう。しかしその行方と結末はキリスト教にも負けない戦乱の歴史を生む宗教をもう一つ作っただけだったということは実に皮肉な結果だったと言わざるを得ない。

今や安倍何某とやらがまた再び同じ過ちを繰り返しかねない事態となりつつある東京であります。一つ間違わばまたもや大勢の死と暴力が吹き荒れるだろう。しかし、今東京に暮らす人々はそんな危機感も実感もなく平和に暮らしている。

彼女がこの話をどう解釈しているかについても当然ながら不明だ。勿論勝手な僕の読み違いなのかもしれぬ。しかし僕は著者がこの史実をきっちり調べあげているからこそ、その意味をよく理解しているものと思いたい。

明治維新も大隈の目論見も長い目で見れば功罪あってその判断は難しいものがある。それ故に本書は解釈や判断というものを排除して淡々と分析を重ねているのかもしれない。この大隈の話は本書のほんの一部でたくさんあるエピソードの一つに過ぎない。著者はその歩みを緩めることもなくどんどん先に進んでいく。

本書の目論見に立ち返れば、倒幕も明治維新も人心を利用しようとした大隈何某がどうあれ、さらには関東大震災、空襲と人災であれ天災であれがこようともしなやかにしたたかに変化し続ける都市がある。それはまるで人間の意図と切り離されて、一つの独立した生き物のように成長を続ける江戸・東京という存在があると彼女は述べているのではないだろうか。

おもいがけない情報を与えてくれた一冊でありました。

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チョムスキーが語る戦争のからくり
(On Western Terrorism From Hiroshima to Drone Warfare)

ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky) &
アンドレ・ヴルチェク(Andre Vltchek)

2015/08/02:チョムスキーの新しい本が出たので飛びついたのだけど、何も慌てる必要はあまりなかった。飛びついていく人などそんなにたくさんはいないからだ。残念なことだけど。相変わらずメディアのチョムスキーの扱いは良くて「無視」という感じでほんとここまであからさまなんだねというのに驚くよ。多様な意見をといいつつチョムスキーのようなのはその埒外にあるという暗黙の了解事項というところか。

一方で実際にその中身を知れば知るほど彼の言っていることが寧ろ真実であるということがじわじわとわかってくるこの恐ろしさたるや。なんと表現すればいいのか。

今回の本は対談もの。相手はアンドレ・ヴルチェクというドキュメンタリーの映像作家といったところかな。の人で、紛争地帯のそうとう危なげな場所にまで踏み込んで実態を撮って世界に流す。世間のジャーナリストと呼ばれる人たちが行かないようなところに行ってやっている人らしい。

 私は統計学者の協力を得て、第二次世界大戦後、植民地主義や新植民地主義の結果としてどれだけの人が亡くなったのかを推計しています。最初のところでも言いましたが、その数は5000万から5500万にのぼるとみられる。しかし正確な数はたぶん意味がありません。4000万だろうと6000万だろうと。その数の多さはとんでもないものですが、それでも西洋文化はこうした犯罪に知らぬふりをして、ある種の倫理的規範を保持しているかのように世界を信じ込ませている。西洋の組織やメディアを通じたその価値の浸透によって、世界を支配する権利があると思わせている。どうしてこんな事になっているのでしょう?


つまりナチス・ドイツがとか、共産主義のソ連が粛清でとか虐殺の歴史はいろいろとあるけれども、最大最長なのはつまり西側諸国の帝国主義であったという「発見」なのであった。

ヴルチェクの言動を読んだ感じジャーナリスト、海外特派員とかいう連中と自分は違う、というような自負もあるようなので彼をジャーナリストと呼ぶのは失礼にあたる気がする。

世界各地の紛争地域で行われている数々の非道な行為を目の当たりにしてきたヴルチェクと他に類を見ない情報収集とリテラシー能力を駆使して今世の中で本当に起こっていることを抉り出すチョムスキーが対話をするといったいどんな会話になるのかというところだ。

実際こんな会話が交わせる人などこの二人をおいてどこにいるのかというくらい凄い話がとめどもなく流れ出す。

 いま日本では南京大虐殺を否定するような本も出ています。それにこうした歴史の忘却には実際アメリカ合衆国も一枚噛んでいる。第二次世界大戦の終結時点で、アメリカはアジアのほとんどの地域と日本に君臨した。日本を占領し、アジアもほぼ支配下に置いたアメリカは、サンフランシスコ講和条約で日本が問われるべき犯罪は1941年12月7日の日米戦争開始以降のものに限られると主張したのです。それ以前の10年間にアジアで起きたことについては問わないという姿勢ですね。結果としてアジアの独立国は、実質上アメリカの植民地だったフィリピンとイギリス占領下のセイロンを除いて講和条約には参加しなかった。アメリカ合衆国が日本の植民地主義犯罪を無視したからインドもインドネシアも来なかったのです。アメリカが影響を受けなかった日本の犯罪はなかったことにされた。日本の植民地主義で苦しんだのは「非人間」とされた人々だけだというわけだ。


日本では原爆投下に終戦記念日を前に憲法第九条をないがしろにし、法律を拡大解釈することでアメリカの軍事作戦の後方支援に自衛隊を出動できるよう安倍が着々と働きかけをしているというのに、自衛隊員から懸念の声をメディアが取り上げることもほとんどなく、デモが起こっても対岸の火事程度の扱いで止まったり曲がったりする気配は皆無だ。

最初は確か国外にいる日本人が紛争に巻き込まれた場合に自衛隊が救出に行けるとか行けないというような議論だったはずがいつのまにか、同盟国つまりアメリカを集団的自衛権の範囲内とし、アメリカが行う海外の軍事作戦上の危険つまり攻撃される懸念があれば自衛隊はこれに協力して「自衛」するというような話に「拡大」しているがこれはもう「拡大」ではなくと「本末転倒」している訳だけれども安倍にとってはどうでもいいことらしい。

ほんと腹たつ。

そもそもアメリカが海外で行う軍事作戦の正統性はどこに担保されているのか。アメリカが海外で攻撃せれているのはそもそも出掛けて行って非道な事を重ねているからである場合が殆どで、原因は基本的に自分自身にある。いきなりやってきて
見境なくミサイルだ空爆だのをやりだす粗暴な連中にちょっと反撃しただけで、倍返し以上の報復をする。

チョムスキーの本を読めこれは只管富を独占する一握りの者によって進められる帝国主義的利己的さであり、メディアを操作することで一般人の目から見えなくしつつ資源や利益を奪い続けている簒奪の繰り返しであって、それに対する抵抗をテロだなんだと決め付けてミサイル攻撃したりすることの片棒を担ぐという意味だということが嫌というほどわかる。

ミサイルとか機関銃を撃ちたいだけで自衛隊に入ったようなバカ者たちは喜んでいるのかもしれないけれども、そんな人ばかりではないと思いたいところであります。

非人間というのも本書の重要なキーワードで「非人間」とされた途端彼らは視界から消えてしまう。視界に入らないから彼らがどんな運命を辿るのか、どんな生活を強いられているのか、彼らがどんな思いを持っているのかについても一切見えなくなってしまう。一般人の目をそらしこのような思考回路を作り出すために西側のプロパガンダはものすごく上手く機能していて、なかにいるとその存在自体もみえないというのだ。


 そうですね。また、広告についてひとつ明らかな事実があるのに誰も指摘しようとしないのが興味深いのですが、それは広告が市場に対抗するものだということです。経済学の授業では、合理的な選択ができる知識のある消費者によって市場が支えられていると習う。でもテレビの広告を例に取ると、その目的は不合理な選択をする無知な消費者を作り出すことにある。ここにあるのはすさまじい矛盾ですよ。私たちは市場を愛すべきで、市場を維持するためにさまざまな理論や経済学者、連邦準備制度とかが動員されている。なのにそれをひっくり返そうとする巨大産業が常に消費者の目の前にあって、しかもその矛盾がまったく見えていない。同じことが選挙でも起きていますね。いまや選挙の目的は民主主義を邪魔することです。選挙を牛耳っているのは広報産業で、彼らがやろうとしているのは正しい情報をもって合理的な選択をする選挙民を作ることではない。不合理な選択をするよう人々を騙しているのだから。市場の邪魔をするのに使われているのと同じテクニックが民主主義を阻害している。それがアメリカ合衆国の主要産業の一つであって、その働きは目に見えない。


「イエス ウィー キャン」という言葉とともに登場したオバマはまるで国民、弱者の味方であるかのように装っていたが、政権につくや化けの皮が剥がれてみんなが動揺した訳だが、彼の生い立ちを辿れば極右の信条を抱えている事が明らかだったという。そんなの選挙後に明らかになっても今更遅くて、話を戻すとつまり安倍とオバマは同じくあっち側の連中で、順調に思い通り計画を進めるチャンスという訳なのだ。

ところでオバマという男は一体何者なのか。本書の読みどころの一つはおそらくここだろう。この部分は是非本書を手にとって実際に読んで欲しい。これぞ正に今の世の中を動かしている「戦争のからくり」でありました。


 私が思うに、東ヨーロッパの極右はデンマークやオランダ、ギリシャといった国々と同じような状況になるのでは?ヨーロッパを全般として見れば歴史的にはファシズム国家だったと思いますね。何世紀も地球全体を搾取し続けてきたことが何よりの証拠でしょう。それに加えて、すでにヨーロッパ大陸は文化的にも経済的にも破産していて、衰退しつつあるのではないでしょうか。
 過去においてヨーロッパはすでに見てきたように、比類のない残虐さで人を大量に殺してきたわけですし、世界中を植民地にしていたときには大虐殺をおこない、いまでも、アメリカ合衆国という、いつでも引き金を引く用意のある親分とともに世界を支配しようとしている。ですから極右の台頭も当然だと思う。ファシスト政党はヨーロッパには生来のものだし、表面に出てきてもらったほうが闘いやすい。第二次世界大戦後にヨーロッパが世界の何千万という人を犠牲にして作り上げた、自己中心的な社会福祉システムの化けの皮がはがれてきたのです。


裏でこそこそやられるよりも表面に浮かび上がってきたところの方がたたきやすいからいいのではないかと言っている訳だ。なるほど長年闘い続けて来た人は言う事が違う。確かに彼らが先を急いでいるのは焦っている証拠だし、ギリシャの問題をみてもEUの体制も思っていた以上に脆弱らしい。安倍がどうあがこうと頼る相手が膝を折れば日本だけで世界を相手にする豪胆さなんてないことは明らかなので、少しくらい暴走したところで慌てる必要はないのかもしれない。

チョムスキーは本書でもかなり怒っている。彼の健在ぶりは何よりもありがたい話でありますが、さらに怒っているのだけれどもどこか余裕が生まれてきた感じがする。西側の暴挙も先が見えてきたというところなのではないだろうか。僅かではありますがそんな希望が見えたことも良い話でありました。


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探偵は壊れた街で
(Claire DeWitt and the City of the Dead)

サラ・グラン(Sara Gran)

2015/07/20:息抜きの海外ミステリーは本を選ぶところから楽しい訳だが、さすがに最近の選択肢のやせ細り具合には心配になる。

売れ筋の作家さんの本が離れ小島のように点在するその合間は茫漠とした海原というのか砂漠地帯と言えばいいのか、そこには見知らぬ草がちょぼちょぼと生えているもののどこか頼りなさげで寂しげな感じなのである。

ここにきて北欧系の作家さんの一群も登場してきて、アメリカの探偵小説世界はますます遠く小さくなってきていることに危惧を覚えずにはいられない。

北欧ものもちょっと続いたし、何か新しいものをひとつと思って手にしたのがこちら「探偵は壊れた街で」。舞台はハリケーン・カトリーナの傷まだ癒えぬニューオリンズだというではありませんか。
タイトルにある壊れた街というのはつまりニューオリンズの事だ。原題の"City of the Dead"もそこから来ているということだろう。

小説のなかでニューオリンズが、洪水が、そしてその後の様子がどのように描かれているのか。ここだけでも読んでみる価値があるのではないかと思った次第です。

ハリケーン・カトリーナは2005年8月に発生した大型のハリケーンでルイジアナ州に上陸、ニューオリンズの8割が水没するという大規模な災害を引き起こした。この被害で複数の州で死者が1836名、行方不明705名を出した。ルイジアナ州では政府により非常事態宣言がなされ、約3万人近い人がヒューストンのアストロドーム球場に避難するなどする事態となったが事前の予防策も政府の救援活動も後手後手に回り被害はいっそう大きなものになった。

本書ではこのハリケーン直後から行方がわからなくなってしまった判事を探して欲しいという甥の依頼を主人公、の女探偵クレア・デウィットが引き受けるというお話。判事ヴィク・ウィリングの自宅は洪水被害から免れている上に、洪水後彼に遭ったという男もいるというのにも関わらず、その後の消息がわからなくなってしまっているのだという。

この甥の男はヴィクの遺産を整理していく過程でヴィクがかなりの額の資産を所有していたこと、それを自分が引き継ぐことになったことから彼の消息をきちんと調べたいと感じたということだった。

クレアは探偵としてある程度名を知られている存在であったが、事件により心に傷を負い一時休業していた模様だ。仕事を再開する最初の仕事として向かうニューオリンズはクレアの故郷でもあった。

物語は2007年、ハリケーンから1年半ほど後。クレアにとってニューオリンズは久々なのであった。街の復興がどんな感じで進んでいるのかと思っていたのだが、被害の最も激しかった場所では全く支援や復興が進んでいる気配はない。そこで暮らす人たちはこの洪水をどう理解しているのだろうか。

例えばハリケーン・カトリーナは発生した直後はカテゴリー5まで勢力を強めたけれども、ニューオリンズに上陸した時点ではカテゴリー3に力を弱めていた。なぜカテゴリー3であれほど被害が甚大化したか。

一つには災害、防災対応のための組織とインフラが予算削減により骨抜きになっており機能しないまでになっていたこと。そしてもう一つは「ミシシッピ川湾岸放水路「MR-GO」(Mississippi River-Gulf Outlet)と呼ばれる運河。この運河は1965年にアメリカ陸軍が石油運搬の効率化のために作った延長距離122キロもあるもので、メキシコ湾とニューオリンズが直線的に繋がったことで洪水被害も直撃するようになったのだというものだ。このMR-GOは2009年に閉鎖されている。

しかし残念なことに本書はほとんどそこに踏み込まない。瓦礫のなかで暮らす人々は背景であって舞台であって掘り下げるものではなかったようだ。期待したこっちが勝手なんだけどさ。

政府の支援が何もないまま洪水に遭い大混乱となったニューオリンズのなかで行方不明となったひとりの男。クレアはどうやって彼を探すのか。彼女は世界的に著名なフランスの探偵ジャック・シレットの孫弟子。シレットは探偵の仕事を普通の探偵がやっているレベルを超越した力で行った人だったらしい。一言で云うと霊感みたいな感じだろうか?

それはそれで別に悪くはない。しかしジャック・シレットという人物もこの能力も作者サラ・グランの創作であるらしいのだけど、やっぱりちょっと中途半端で説得力が薄い。

膨大な人が彷徨ったニューオリンズの洪水被害のなかから人探しをするという舞台設定とこの時としてホームズばりの推理を働かせるクレアの能力という設定も何か化学反応のような昇華はみられず「場違い」感が漂う。

薬物とアルコールと直感に頼って行動するクレアの物語はストーリーというよりも迷走している感じで、ちっとも走らないのも残念でありました。

何よりものを書くには実際の経験がないと臨場感がでませんね。探偵業も素人ならニューオリンズのことをどこまで知って書いているのかも疑問でありました。


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人類五〇万年の闘い マラリア全史
(The Fever:
How Malaria Has Ruled Humankind for 500,000 Years)

ソニア・シャー(Sonia Shah)

2015/07/12:マラリアといえば蚊が媒介する寄生生物。その50万年史。この手の特定分野の歴史を辿る本って大好き。しかもおどろおどろしい寄生生物となればなおさら。ぞっとする寄生生物の話も怖いもの見たさで本を読むのは大好きだ。お近づきにはなりたくないけれども。

ソニア・シャーは科学ジャーナリストで何冊か本を書いている人でインド系移民のニューヨーク在住。ジャイナ教の信者らしい。浅草橋にある宝石店街はインドから来たジャイナ教の人が多いらしい。ジャイナ教は生き物の殺生を極端に避けていて基本ベジタリアンなのだが、蚊も殺しちゃいけないらしい。彼女の最新作はパンデミックに関する本のようだ。

マラリアを引き起こすマラリア原虫は寄生性の原生生物でその生活史は複雑で大まかに、赤血球外サイクル、赤血球内サイクルそして蚊の体内で回る胞子小体形成サイクルの三つに分かれている。
人類はこの病に50万年ほど前から闘い続けてきているのだという。

大抵の伝染病というのは拡散するに従いその毒性は穏やかになっていく傾向があるにも関わらずマラリアだけは例外でその毒性を弱めることもなく人類に寄り添う影のようにともに歩んできた形になっているらしい。1万年ほど前には一時期絶滅寸前までに追い込まれた時期があったらしいが、5000年ほど前に再び火が勢いを増しアフリカから世界へと拡散した。これは水の近くに定住する農耕民族の生活圏という問題があったのだろう。

寄生生物には宿主の行動を都合の良いようにコントロールするという気色の悪い性癖があるがマラリアも例外ではなく感染した人の活動性を奪い寝たきりにする。蚊に刺されやすい状態にするのだ。また感染者は蚊を惹き寄せるように化学物質を変化させるのだという。

定住した農耕民にとっては正に集団で感染しやすい環境だった。しかもマラリアにとっては好都合なことに農耕民族は狩猟採集民族たちを駆逐し拡散したのである。

まるで下界の事を見通して悪意を持って攻撃してきているようにしか見えないマラリア原虫だが、寄生生物に限らず、進化論が照らし出す通り、淘汰圧による選択を受けた結果、このような生き方が残ったということだ。


 西アフリカおよび南アフリカ内陸部に広がっていったバンツー語族の農耕民は、熱帯熱マラリアに対する相対的に強い免疫によって潜在的競争者である他の語族を制圧した最初の人々だった。300年から4000年前に、原バンツー語から別れた300ほどの別々の言語集団がアフリカ南部に広がったことが、言語学的な証拠から分かる。この大陸には、各種の言語集団が大規模に拡散した時期があった。狩猟採集民の生き残りがいたが、彼らはバンツー語系ではなく、たいていは辺境の地に住み、政治的には下位に置かれるのが普通だった。


マラリアが根絶できない一つの理由には突然変異による耐性獲得のスピードがあるらしい。マラリアを引き起こすマラリア原虫は寄生性の原生動物だが、人間にマラリアを発症するマラリア原虫以外にも、猿や鳥、げっ歯類、トカゲなどに特化しているものもいてその裾野は広い上に、ヒトのマラリアにも、
熱帯熱マラリア、三日熱マラリア、四日熱マラリア、卵形マラリア、近年新種としてサルマラリアなどの種類と多様化していることで医学的対応が追いつかない面と、この病気が広がっている地域にこの医療と防疫を徹底することがなかなかできないという面があるようだ。

そしてどうやらそこには医薬品ビジネスという利権も入り込んで事態はややこしいことにもなっている模様だ。


[目次]
1 戸口にせまるマラリア
2 殺人鬼の誕生
3 激流の真っ只中へ
4 マラリアの生態学
5 薬物療法のつまずき
6 マラリアは宿命
7 科学的解決法
8 消えたマラリア──西洋からいなくなったわけ
9 スプレーガン戦争
10 新時代の闘い
訳者あとがき
原注
索引


 マラリアに対する私たちよそ者の見解は、援助しようとしている人たちに、不可解な印象を与える。マラリア発生地域ではどこでも、「マラリアが重視されることに、戸惑っている」と、医学人類学者のH・クリスチャン・ヘッゲンハウゲンが書いている。貧困のただ中で、命にかかわる無数の問題に直面しながら生活している人々は、「よそ者たちは、日々直面する多くの問題から、どうして取るに足りないものを取り出しては資金を注ぐのだろう」と不思議に思っている。タイの社会疫学の専門家、ウィジトゥル・フングラッダは、彼らは「なぜ、貧困状態や他の多くの病気に優先して!マラリアが根絶の対象として選ばれなければならないのか理解できないのだ」という。(じゃあ何が欲しいのか?『ニューヨークタイムズ』紙のティナ・ローゼンバーグは書いている。「最も重要な品物三つを挙げると、ラジオ、自転車、それに聞けば実に心痛むのだが!なんとプラスチック製のバケツなのだ」。)


マラリアのような伝染病治療にかかる薬品は巨大なビジネスになってきている。果たして誰が言っていることが正しいのか。防疫対策の方法も援助もなかなか答えが出せないまま、日々命は失われていく。
しかし貧困地域における命の危険は何もマラリアばかりではない。その地域その人にとっての最優先な問題というものの多様さにも目を向ける必要があるのだという訳だ。

非常に示唆に富んだ内容なのだけど、時系列と地域の話があちらこちらと飛ぶために僕は文脈からちょくちょく振り落とされてしまって宙を眺めている自分を発見するという残念ながらちょっと読みにくい本でありました。


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キム・フィルビー - かくも親密な裏切り
(A Spy Among Friends:
Kim Philby and the Great Betrayal )

ベン・マッキンタイアー(Ben Macintyre)

2015/07/05:2015年度第二四半期の一冊目は「キム・フィルビー」であります。キム・フィルビーと聞いて何者なのかすぐ分かる人って今この時点でどれほどいるのだろうか。

キム・フィルビーはイギリス情報機関であるMI6のエリート幹部だった男だが、実は組織に採用される以前から共産主義の大義を抱えソヴィエト連邦に仕える二重スパイだった。彼のその二重性は長い間バレる事がなく、組織の重要な要職を歴任すると同時にイギリスばかりかアメリカのCIAの特殊作戦の詳細までをも東側に流し続けていたのである。

彼の話は多くのスパイ小説で引き合いにだされたり、題材に使われたりその例は枚挙に暇がない。僕のようなスパイ小説大好き!という人間にとってはキム・フィルビーの名前は忘れようにも忘れられない名前なのであります。

その彼を取り上げたノンフィクションとなれば読まずに死ねるかという位の一冊なのであります。

実際、フィルビーの名前も事件も何度も目にしてきたけれども、何故故にかくも長きに渡りバレる事なく彼は生き延びることができたのか。しかも最後はソヴィエトに亡命してたはず。イギリス情報部は何故彼を捕まえることができなかったのか。

僕はこれまでフィルビーが二重スパイであることにイギリス情報部が察知する前に逃亡したのだと思っていたのだが、実は違った。事実はもっと複雑怪奇なのであります。

本書はフィルビーと彼と公私ともに長い間付き合いのあった同僚たちの出来事を丹念に追った大変な労作で、目を離す事ができないほど面白い本なのでありました。面白いなんて、本当は大勢の人々がフィルビーの漏洩によって犠牲になっているので不謹慎なんだけど、まるでジヨン・ル・カレの小説のような息をのむ面白さなのだ。

というかル・カレの小説がかくも同時実際に起こっていた諜報活動をリアルに再現したものだったのかと云うことに改めて感心しました。

あとがきはなんとル・カレ本人だよ。彼もかつてMI6に在籍していた訳だが、当時の幹部にはニコラス・エリオットがいたのだという。エリオットはフィルビーの親友にして同僚で一緒にMI6の中で昇進してきた仲というフィルビー事件のいわばもう一人の当事者で本書のもう一人の主人公ともいうべき人物であったのだった。


 二人の関係は、共にイギリス情報機関の周縁部から引き抜かれ、その中核と言うべき、MI6で対情報活動を専門とする部署セクションVに配属されると!さらに強くなった。MI5の任務は、イギリス本国および植民地における治安維持で、敵スパイの取り締まりもMI5の仕事だった。これに対してMI6は!海外での情報収集および工作員の運用を担当していた。そのMI6内でセクションVは特別で重要な役割を担っており、外国で活動する敵の諜報機関に関する情報をスパイや亡命者を通じて収集し、イギリスがスパイ活動の脅威にさらされそうな場合はMI5へ事前に警告を発することになっていた。つまりセクションVは。イギリスにある二つの情報機関をつなぐ重要な部署であり、その任務は「外国の政府またはその機関による隠密情報収集作戦および同作戦の工作員を、妨害し、混乱させ、欺き、失敗させ、監視し、または監督下に置く」ことだったのである。戦前にこのセクションは、国際共産主義の拡大を監視し、ソ連の諜報活動と戦うことに精力の大半を注いでいた。しかし戦争が進むにつれ、ほぼもっぱら枢軸国の情報収集活動に焦点を絞るようになった。特に関心が向けられたのはイベリア半島だ。中立国であるスペインとポルトガルは、諜報戦の最前線だった。


ル・カレは退職後もエリオットと長い間個人的にも付き合いがあったそうな。詳しくは本書あとがきをどうぞ。もちろん本編読後にね。

当時のMI6にはグレアム・グリーンやあのジェームズ・ボンドの生みの親であるイアン・フレミングもおり、諜報作戦の立案や実施に関わっていた。007のベースも決して荒唐無稽だった訳ではなく、実は当時の国際情勢が冒険的で大胆不敵で、さらには騙し騙される世界であったのでありました。


一方でフィルビーの物語には、イアン・フレミングの小説のような豪胆さや冒険活劇的な側面はなく、ジョン・ル・カレの小説の主人公のような愛すべき人間臭さのようなものも何故か欠けている。もちろんニコラス・エリオットにせよ、CIAのジェームズ・アングルトンにせよ、根本的に善人で育ちも大変によく、フィルビーも含めて仲間たちを互いに敬愛し合う人々であった。しかし、その中核にいたフィルビーの二面性があまりにも徹底しているため、そこにあるのが空虚な偽りの世界であったかのようにしか見えないのだ。

一体フィルビーとはどんな人間だったのか。共産主義の大義を信条としているとしながらも、その具体的な痕跡は希薄だ。ソ連のために働きつつ、自分自身は西側のエリート支配階層の生活を謳歌していた。その自由民主主義の側からの作戦行動を詳細に漏らすことで夥しい人々が罠の渦中に何も知らずに降下・侵入していくことを顔色一つ変えずに見殺しにしていた。


 正確な死者数は、今後も絶対にわからないだろう。死亡したアルバニア人ゲリラの数は、100人から200人の間であり、これに彼らの家族など報復の犠牲者を加えれば、死者数は数千人に跳ね上がる。生きて帰れる見込みのなかったアルバニア人ゲリラを派遣した者たちを、何年も立ってから、ジェームズ・アングルトンが、ランチを共にした二年間の間に「酒を飲みながらフィルビーに、アルバニアにおけるCIAの降着地域の正確な位置をすべて教えた」との結論に達した。

 この悲劇の核心には、深い友情と、大いなる裏切りとがあった。ハーヴィー・レストランでのランチは、ずいぶんと高くついたのだった。


友人も父も妻も子供も自分の身近にいる人間すべてを裏切りながらも、一度も足を踏み入れたこともなければ会ったこともない国の人間に忠誠するというどこも矛盾にあふれて不可解な男なのである。

万引きや窃盗を止められない人がいて、彼らは一種の精神的な病気であるらしいのだけど、フィルビーのように人を裏切らずにはいられないというこの性癖というものもまたある種の精神的な病なのかもしれない、というかそう言われてもらわないと、なんだか収まりが悪い。病気でもなければなんでここまでやってしまったのか。どうにも理解に苦しむ。


 大英帝国末期に支配階層に生まれた人物の例に漏れず、彼も自分には世界を改革して支配する能力と権利があるのだと当然のごとく信じていた。この点はエリオットも同じだったが、世界をどのように動かすべきかについて、二人の考えはこれ以上ないと言っていいほど正反対だった。二人とも帝国主義者だったが、それぞれ敵対する帝国を支持していたのである。フィルビーの輝くような魅力の下には、分厚い自尊心の層が横たわっていた。魅力で相手を自分の世界に引き込むが、決して深入りさせず、自分の見せたいものしか見せない。イギリス人は秘密が大好きで、隣りに立っている人物よりちょっと詳しい知識を持っているのが何より好きだ。しかし、その隣りの人物も秘密を隠していたら、トレヴァー=ローパー言うところの「情け無用で相手を騙してはばからない秘密の力の、えも言われぬ魅力」は倍増することになる。フィルビーは、若いころに欺瞞という強烈の麻薬に手を出し、その後は生涯を通じて背信中毒だった。


バレたかもしれない。いつかバレるに違いないとビクビクしながらも、友人として酒を飲んで和気あいあいと語り合い、時には深い人生の悩み事を打ち明け、相談に乗り、苦しい時には金銭的な支援までも厭わない関係にありつつも、裏切りを繰り返して後悔することもないなんて事が成り立っているフィルビーの世界観はどうにも歪んでいて他人がその中に立ち入る事を許さない。彼は自分の秘密を壁の向こう側で分厚い自分の殻の中にしまい込むことで永久に解けない謎として残すことに成功したようにも見える。

フィルビーの事件にここまで迫った本がでてくるとは思いも寄りませんでした。これは戦後の諜報史を語る上でも欠かせない第一級の資料でもありました。


「キム・フィルビー」のレビューはこちら>>

「KGBの男」のレビューはこちら>>


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