2006年度第三クォータ。何故か航空機サスペンスものが続いています。内田幹樹のNIAシリーズは中でも「操縦不能」は熱い。辛いことも嫌なことも忘れて本に没頭できる時間は正に「宝石」のような時間ですね。
ここでは2006.10以降に読んだ本をご紹介しています。
「原典 ユダの福音書(The Gospel of Judas)」
編集,ロドルフ・カッセル(Rodolphe Kasser), マービン・マイヤー(Marvin W. Meyer), グレゴール・ウルスト(Gregor
Wurst),
コメント,バート・D・アーマン(Bart D. Ehrman)
2006/12/31:年末を飾る一冊になったのが本書、「ユダの福音書」である。
新約聖書に馴染みのある者なら違和感たっぷりのタイトルなハズだ。
なぜならユダとは、最後の晩餐の後にイエスを売り渡したイスカリオテのユダの事だからだ。新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカによる共観福音書とヨハネ福音書の4つの福音書が収められているが、これ以外にも外典福音書としていくつかの福音書の存在が知られている。
いずれにせよ、書き手とされる使徒の名前がつけられているものだと思っていたが、『使徒言行録』には裏切りで得た金で買った土地にまっさかさまにおちて内臓がすべて飛び出して死んだとされているそのユダが書く福音書とは、一体全体どんなものだというのだろうか。
その内容に入る前に、この「ユダの福音書」がどうして今こうして本になっているかを簡単に概観しよう。
この写本は1978年頃中部エジプトで盗掘された墓の中から発見された。
その後古美術商の手に渡った写本は、その価値が不明確であった為一部の人しか知らない状態が長く続いた。しかし、その間保存状態が悪かった事で写本の状態は悪化の一途を辿る。その上、盗難にあったり、写本の価値を高めるために引きはがし場所を組み替えられ、無知により冷凍保存されて更に状態を悪化させてしまうような目にもあってしまう。
現代になって発見された後になってもこの様な紆余曲折を経て、この写本は漸くマエケナス古美術財団の手に渡り、慎重に復元・解読されて、今回本書が世に出てきた訳である。
そしていよいよ、「ユダの福音書」の内容に入るが、これはもう本当にぶったまげるような内容なのだ。
我々が住むこの世界は下級で愚か者の神が創り出した間違いにまみれたものであり、イエスは、この世界の創造主である神の子ではなく、その遙か上に存在する絶対的、永遠の神の世界からやってきた存在であるらしい。
下級で愚か者の神が創り出した世界だが、この世界には、この世界を超える存在である永遠の神、真の神性を持っている者がいる。
この神性がなければ、何をしようにも、何を信じようとも肉体と一緒にその存在を終える以外にない。
仮にこの神性を持っているとしても、間違った信仰を持っているなら、永遠の国に行く事は出来ないのだ。
だから人間の住む世界を創り出した神をあがめている者は勿論、イエスをこの世の神の子であると勘違いしてい自分に師事している十二使徒ですら、神性もなければ、間違った信仰を持っている者たちであると云うのだ。
そして、イエスの真の神性に気付き同様に真の神性を有するイスカリオテのユダは、イエスによって覚醒され変容を遂げ、永遠の国へ迎えられる叡智を得る。
そのイスカリオテのユダにイエスは、そももそ自分が属する永遠の世界へ帰るためにはこの肉体から解放される必要があり、その為に自分を売れと命じているのだった。
イスカリオテのユダは十二使徒から呪われるような事をあえて行う事によって真の神性を得られる事を知り、イエスの教えに従ってあの裏切りととれる行為を行うのだった。
どうだろう、おわかりだろうか?この福音書の含みは、ユダヤ教はおろか、現在のキリスト教の本流の根幹をも真っ向から否定する内容になっているのだ。
この様な思想、考え方はセツ派、グノーシス主義の流れをくむものであるのだそうだ。
キリスト教の黎明期にあった原始キリスト教会の立場と真っ向から激突する考え方であり、聖エイレナイオス(130頃 - 202年)がその著書「異端反駁」の中で異端者の書としてあげているのも当然と云えば当然であろう。
注目すべきはこの当然とも云える批判を展開している時期が2世紀のしかも早い頃であるという事だ。
キリスト教黎明期に既に様々な考え方、とらえ方で分裂・統合を繰り返していたハズの時期に、上記のような極端に突出した思想を織り込んだ福音書を書き、これを信じて生きた人達がいる。
このユダの福音書と共に葬られていた人物がどんな人で、どのような時代にどんな人生を送ったのかと云う事も非常に気になる部分である。
奇跡とも云えるような確率で現代に蘇った「ユダの福音書」である訳だが、この「ユダの福音書」は異端として徹底的にそのテキストは破壊されてきたハズなので、今に残るものがこの一冊であったとしても当然かもしれない。
しかし、その宗教の多様性、排他性は、後にグノーシス主義の流れに確実に引き継がれていった訳だ。
このような思想や信仰の相違は歴史の大きな流れを創り出してきた訳だし、それは現代にも繋がり脈々と人々の心に根ざして生き続けているのだ。
これほどの多様な解釈と、2千年の長きに渡って多くの人々人生と運命を左右してき
た史的な事件としてのイエスは一体どんな人物で、どんな出来事だったのだろうかと思わざるを得ない。
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「獣どもの街」
ジェィムズ・エルロイ(James Ellroy )
2006/12/24:エルロイの新作というので一も二もなく飛びついた。
おれはくだらない撃ち合いで死んだ。おれより先に逝った者もいる。
本編を彼らに捧げる。
のっけからジム・トンプスンのようなのりではじまる本書は、
「ハリウッドのファック小屋(HOLLYWOOD FUCK PAD)」
「押し込み強姦魔(HOT-PROWL RAPE-O)」
「ジャングルタウンのジハード(JUNGLETOWN JIHAD)」
の3編からなる短編集である。
この3編はどれもハリウッド署の殺人課の刑事であるリック・ジェンソンを主人公にした物語で全体で一つの物語として構成されている。
主人公リック・ジェンソンは、おそらくたぶん比喩であろう犀革のファッションで全身を包み事件で出会ったハリウッド女優のドナ・W・ドナヒューを生涯の女として全身全霊で愛している。
また、1965年にレイプされ殺された16歳の少女ステファニー・ゴーマンの犯人を追うことが自らに課せられた指名であると強迫的に思い詰めている男だ。
彼が担当する事件の捜査と平行してステファニー・ゴーマンを殺った犯人をドナ・W・ドナヒューと共に追うとき、その先に待ち受けるものは常に暴力と性の臭いだ。
刑事とハリウッド女優、結ばれつつもそれぞれ事件と仕事を優先して別々に生きる二人。互いに求め合う強烈な欲求と同じくらい強烈な暴力への衝動。二人が出会い共に事件を追い、アクセルを踏み込み、タイヤを軋らせる。更に犯人を追い詰めて、対決の場に飛び込み拳銃をぶっ放すのだ。
ここに来て理由は希薄となり、あるのは単にアドレナリンが噴出するクライマックスへ向かおうとする衝動だけだ。
エルロイにしては珍しく、時代背景が現代であり9.11事件で揺れるアメリカを背景に描かれている事が注目されるが、今回のエルロイは現代を描きながら過去と繋がり時間軸は未来をも包含し、冒頭の一文で時空をも超えた目線を突きつけてくる。しかも強迫的に頭韻を踏み続ける主人公の独白で。
この一人称の独白はトンプスンのリスペクトであろう。そのトンプスンとエルロイが編み出した頭韻にまみれてオーバーロード気味な文体の融合。
エルロイが好きなら、読まずにはいられない一冊ではあるが、残念ながらオーバーロード気味ではあるがオーバーロードしない。最初からハイテンションすぎてこれ以上スピードをあげるのは無理なのだろうか。
どうも頭韻が過ぎて、そこで一体何が起きているのか、状況が把握しずらい。ほんとなのか単なる比喩なのか理解するのに時間がかかるので進まない。
もしかしたら、このエルロイの文体を翻訳する事に無理があるのかもしれぬ。
でも巻末に納められた杉江松恋氏の解説はかなり秀逸。
しかし、この天から降ってきたかのような3つの短編だが、どうも出自が明確にならない。
「クライム・ウェイブ」に次いでGQ誌に掲載された短編を纏めた"Destination: Morgue! : L.A. Tales"に納められている"Stephanie,"は主人公がリック・ジェンソンであり本書でも触れられているステファニー・ゴーマン殺しを扱った一編らしい。ステファニー・ゴーマンはL.Aで1965年にレイプされて殺害された実在の人物であるらしい。
杉江松恋氏の情報と重ね合わせてみると、当初エルロイは本書にある「ハリウッドのファック小屋(HOLLYWOOD FUCK PAD)」を"Destination:
Morgue! : L.A. Tales"に納めるつもりで書いたようだが、連作にする事にする為に別なものを書いて納めたという事らしい。
しかし、ここからがよくわからないのだが、結局エルロイのサイトを見ても本書の情報は得られず、<アンダーワールドUSA三部作>と呼ばれているクセに第三部が出版される気配がない。
The Demon Dog is back!
と再び世間を震撼させるような一冊を早く出してほしいものだ。
「背信の都 」のレビューは
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「アンダーワールドUSA」のレビューは
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「アメリカン・タブロイド」のレビューは
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「アメリカン・デストリップ」のレビューは
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「クライム・ウェイブ」のレビューは
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「獣どもの街」のレビューは
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2006/12/24:忙しくて本を選んでいる暇がない。のっけから余談だが僕は本屋さんで本を選ぶ場合ものすごく時間がかかる人だ。結局あれもこれも読むのかもしれないのに、今日今この時どっちの本を買って読むか深く深く悩んでいる事がある。
自分でも不思議なくらいである。
つまらない本を読むくらいなら本なんて読まない方がいい。
かなり重度の活字中毒者であるハズなら、こんな事を言うのだろうか。面白い本が大好きな反面、つまらない本はとても嫌いだ。これは誰でも普通そうか。
面白そうな本がない時は本棚から好きな本を引っ張り出して繰り返し読む。
好きな映画は何回も観るだろう。
つまらない本を掴まされる位なら、繰り返し同じ本を読んでいた方がいい。すぐに手に取れるところにあるのはそんな本なのだ。そんな一冊であるのがこれ開高健の「輝ける闇」なのだ。
そうは云っても読み通すのは何年ぶりだろう。背表紙を開くと昭和61年。丁度僕が社会人になった年の本だ。あれから20年。
再び僕は1964年のベトナムへ開高健と旅立つ。幼い頃に戦争で焼け出された経験を持ち、ベトナム戦争がどんな戦争なのか。どうして人は戦うのか。戦う者。死んでいく者。死んだ者。肉親や家族に死なれた者。
そして戦争で金儲けをする者。戦いを忌む者。そしてそれらすべてを目撃する者。おそらくはそんな戦争のすべてを知る為に朝日新聞社臨時特派員としてベトナムへ向かった開高健と。
今回改めてこの本を読んだ僕は、今まで以上に戦争に召集されるベトナム人記者のチャンを見送るシーンにとらわれた。
チャンは自分の意志で指を切り落とし前線に送られる事から逃避していたのだが、それでも招集されてしまうのだった。
主人公が渡すお守りを受け取って初めてチャンは一緒に仕事をしてきた外国人記者たちが単に、冒険心で見物に来ていた訳ではなかった事に気づき、激しく動揺し慟哭する。このチャンの心の動きに僕は涙がとまらなかった。
そしてその後、主人公は自らの意志で前線のパトロールへ随行して行くのだ。そこで主人公は、待ち伏せに遭い200名からの部隊で生還したのはたったの17名というおよそ12時間にもおよぶ銃撃戦と退避とを経験するのだった。
肝心な事はこの出来事が実は開高健の実体験に基づいて書かれているという事だ。
大きな地図で見る
本書に先立って上梓された「ベトナム戦記」を読めばわかるが、「輝ける闇」の主人公は紛れもなく開高健本人であり、そこで起きる出来事もほとんど実体験に基づいているのである。
この「ベトナム戦記」この「ベトナム戦記」では、銃撃戦に出会った時の経験がより具体的に描かれており、その戦闘が如何に唐突で、無力で、そこに意味を見出すことが困難である事がわかる。そしてそれが戦争なのだと云う事が。是非併せて読んでいただきたい。
この強烈な実体験に基づき描かれた「輝ける闇」は僕に様々な事を語りかけ教えてくれる本なのだ。
最初にこの「輝ける闇」を読んだ時は、主人公が自分より大人であり、生も死も今より全然理解出来ていた訳ではなかった。
そんな明日をも知れぬ、死がいつでも身近に満ちあふれた日々を送り、生き延びた理由をも決して解ける事のない謎となっても、尚、生きる。生還後の開高健その人の生き方を大きく変える事となった経験をありがたく共有させて頂き思い起こす為にも僕はこれからも繰り返しこの本を手にするだろう。。
開高健の人となりがすべて好きだ。
「われらの獲物は、一滴の光」のレビューは
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「開口・閉口」のレビューは
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「歩く影たち」のレビューは
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ニール・シーハンの「輝ける嘘」のレビューは
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2006/12/10:なんとこの表紙は紛れもなく「ブリット」(1968)だ。アクションムービー。カーチェイスムービー。B級アクションムービー大好きな僕としては無視できないタイトル。早速貪るように読んでみた。
おぉ。なんと。「ブリット」をはじめ「フレンチ・コネクション」(1971)のようなメジャーな映画から、「バニシング・ポイント」とか(これは当然か)「悪魔の追跡」や「激走トラック'76」なんてのも取り上げられていてとっても嬉しい。
ハリウッド映画はカーアクションがかなりの比率で盛り込まれているのだった事に改めて気付かされた。それも単なる「クルマ」ではなく、圧倒的なパワーであり、スピードであり、ド迫力である事を目指していたのだな。
「ブリット」ではそれがムスタングであった訳だ。
あの映画のチェイスシーンは今見ても凄まじい迫力だが、その臨場感はスティーブ・マックィーンが自分で運転しているところが大きいと思う。
バックで白煙を上げつつホイールがもげそうな位になる車なんて一体どんな車なんだろうと初めて観た時の驚きは今でも忘れられない。
ハリウッドが目指すものが圧倒的なパワーであり、スピードであり、ド迫力であるなら、
続く「ダーティーハリー」(1971)は44マグナムだった訳だろう。二番煎じを避けてカーアクションは盛り込まなかったのかもしれない。
面白かったのは、クリント・イーストウッドの映画でのカーアクションはどれも「しょぼい」と云う指摘であった。「ダーティーハリー2」を除く殆んどの作品でのカーアクションは言われて見れば確かにどれもしょぼい。
「ピンク・キャデラック」も「ガントレット」もなんかスピード感のないものばかりだ。
「なんか仕方なく運転してる感じ」確かに!(笑)
「ダーティーハリー」にカーアクションが殆んどなかったのはやはり嫌だったからだろうか。
ご本人も運転がそんなに好きではないのかもしれない。
また、本書には「ダーティハリー」について別な裏話が収められている。それはエンディングでハリーがバッチを池に投げ捨てるシーンについてであった。クリント・イーストウッドはラストで警察を辞職するのに反対だったそうだ。
それに対して監督のドン・シーゲルは「辞めるんじゃない。ただ官僚制を否定しているだけだ。」と云う様な主旨で諭したのだそうだ。
あれはどう見ても「辞めた」と云う表現だよな。
僕は「2」を先に観ていたので一作目でもバッチを捨てていた事に驚いてしまった。そう考えると「2」のバッチを捨てる行為もあれは官僚主義に対する反抗であって辞めた訳ではなかった訳だ。シリーズもちゃんと続いたしね。
そして「マックQ」(1973)。
一番遅れてやってきたのはジョン・ウェインであり、本書でも抜かりなく触れられている。あの映画「ブリット」にも「ダーティハリー」にも対抗しようという意気込みである。
手にするのは、なんとイングラム。MAC10だよ。しかもフルオートでサイレンサー付。刑事が持つか普通。
これでもかと云う火器と海岸での派手なカーアクションで上を狙ったのだろうと思われるが御大ジョン・ウェインは当時66歳。やや無理があったと言わざるを得ない。
おおっとかなり脱線してるぞ。俺。まぁいいか。
真面目に考えればこうした娯楽映画の目指すパワーはスピードはそのままアメリカの精神的文化を反映していて国としての価値観に依存していると考えるべきなのだろう。
国家や警察組織の一員が圧倒的なパワーとスピードを持ち正義の名の下に戦う訳だ。しかし、70年代も後半に入るとやがて映画の主人公は警察官ではなく、アウトローに移っていくのだ。
強力なエンジンを積んだマシンを駆って並居るパトカーをごぼう抜きにしていくようなシーンが展開するような映画が沢山撮られた時代になったのだった。
多くのバート・レイノルズの映画は警察をコケにする凄腕のアウトロードライバーの役だった。また登場する警察官もどこかコミカルで間抜けな描き方をされているものが多かったっけ。
一方でアーノルド・シュワルツェネッガーの映画が一本も取り上げられていない。「コマンドー」でエンジンが切れているオフロード車で山を下るシーンや「ターミネーター」でカイル・リースとのカーチェイスはなかなかの出来だったと思うのだが如何だろうか。
なんてあんな映画こんな映画もあったよな。なんて言いつつ、全編を通していったい何処が文化論なんだろうという突っこみは残るものの、いろいろ拾い物的な情報が沢山あった本でありました。
名残惜しい事この上ないテーマなのだがこの辺で。
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2006/11/19:ジョー・R・ランズデールの大好きな東テキサスの貧乏人コンビ、ハップとレナードシリーズで二度までも『大好きな映画は「脱出」だよな。』と繰り返されて尚まだ観る機会に恵まれなていない僕としてはその脚本家であったジェイムズ・ディッキーの作品とあれば読まない訳にはいかない一冊であった。
読むタイミングとしては今更と言えば今更なのだが。
企画自体既にお蔵入りしてしまったらしいが、数年前には本書をコーエン兄弟&ブラット・ピットで映画化しようとしていたらしい。それも北海道でロケしようとしていたのだそうだ。9.11の事件で残念ながら渡航が危険視された事等が原因になった模様だ。
1945年東京に空襲を仕掛けるべくテニアン島から飛び立ったB29型爆撃機の一機に乗り込んだ主人公マルドロウはアラスカで父と二人で雪原のなかの狩猟生活で育った。
マルドロウは厳しい環境において孤立無援の状態のなかで動物を狩る事によって生き方を学んだ男でありそれが全てであった。何事においても用意周到で目前の問題に対処する事にかけては並外れた能力を持っているものの、他人との共感性や戦争の目的のような社会的な面はとても貧しくどこか遠いところに心があるような男だ。
その彼の乗った爆撃機は東京上空で攻撃に会い撃墜されてしまうのだった。常に万全な体勢にあるマルドロウは自分の近くに仕込んでいたパラシュートを背にたった一人脱出し地上に降り立つ。
東京の大空襲の混乱に乗じてマルドロウは只管北を目指す。生き延びるためには躊躇なく服や食べものを奪い、人を殺していく。生き残る為だけに。
殺戮を繰り返しつつ数々の苦難を乗り越え、自分の居るべき場所アラスカに近い環境である白銀の北海道に辿り着いたマルドロウが出会ったものとは。
戦争とは関係ない展開。狩るものと狩られるもの。いやいや戦争が悪なら、生きるための殺しはどうなのだと云うのか。殺すものと、殺されるもの。その向こう側にある「意味」とは。豊かな自然描写を背景に鮮やかで強烈な生死感を描き出している。
ジェイムズ・ディッキー(James Dickey)は詩人、純文学の作家。1923年生まれ1997年没したと云う事だが、冒頭の「脱出」の脚本家としての彼以外には殆んど情報がない。しかし、この痛いように寒い空気の下で脈動する「生」のイメージはすばらしく美しいと思うのだ。
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2006/11/19:冒頭から引用で申し訳ないが、本を開くと本文の前にこんな前書きのようなものがある。
『人生の答』とは何だろうか。そもそも人生に「答」などというものがあるのだろうか。「ある」と言える人にはあるし、「ない」と言う人にはない−−と答えるしかない。なぜなら、『人生の答』とは、ただ待つ人に与えられるものではなく、ひたすら作ろうとする人が生み出すものだからだ。
本書は
人生への答
人が生きる時間
子供を壊してきた半世紀
社会病理を見通す眼
時代を超えた二人の写真家
癒し人は言葉が美しい
自分の作り方
と云う構成で一冊の本として纏められているが、掲載された本も書かれた時期も違うエッセイを改題、加筆を加えた上で上記の流れにそって再構成されたものだ。なので、一冊の本としてのレビューはなかなか難しいものがある。
全体的なトーンとしては、死を「在るもの」として受け容れた上で如何に生きるべきかと云う問いにいかに真剣に向き合いながら生きるかがその人の「生」であり、輝き方が違ってくるのだろうと云うものだと思う。
難病に侵され余命わずかであっても大きく輝く生き方ができた人達、大きな障害やハンデを背負いつつも尚、自己の人生の意味を問い答えを引き出した答えを信じて強く生き抜く事ができた人達。
一方で何不自由なく生まれていながら「生」の実感がなく、朦朧とした状態で今を生き、虚ろな人生を送る人達。
この「生き方」の違いは何が原因なのだろうか。本書の冒頭の一文にはこんな思いが込められているように思う。
また一つ一つのエッセイで紹介される人々の生き様の濃さと深さはとても簡単に受け止められる重さではない。
心に滲みる言葉の数々。
「一人称の時間」と「三人称の時間」
次男の死を受け容れられず離人状態にあった頃の事を振り返り、その時期生きているという実感がなかったと述べている。その体験を通じて書かれた一節。
私の中には二つの異質な時間が流れていたのだ。一つは、私だけが個人的に直面している現実と結びついた「一人称的な時間」。そして、もう一つは、主観的な感覚や意識に関係なく、誰の上にも共通に流れいる客観性を持った「三人称的な時間」である。
これは京都大学名誉教授の精神医学者・木村敏氏が『時間と自己』で使われた術語だそうだ。深い洞察は続く。
人間が生きるうえで決定的に重要なのは、「一人称的な時間」の中で、「生きられた時間」を持てたかどうかということだった。次男は苦悩する日々の中で、時折、「僕には『生きられた時間』がなかったんだ」と語っていた。「生きられる時間」とは、哲学者ウジェーヌ・ミンコフスキーが提示した概念だ。次男がミンコフスキーについて知っていたかどうかはわからないが、何と正確に自分を表現していたことかと、私は胸が痛んでならなかった。
彼が語っていたときには、私は心を病み社会に出て行けない辛さをそういう言葉で表現しているのだろうといった理解の仕方しかしていなかった。だが、情けないことに、彼が死んで、自分が離人症的な精神状態を経験してはじめて、「生きられた時間」が持てないというのは、ずっと深い実存的な苦しみであったのだと、ようやく実感のレベルで理解できるようになったのだった。
正に如何に「生」を実感して生きる事が難しい事か。
「一人称の死」と「二人称の死」
「一人称」の死とは、自分自身の死だ。死を前にいかに生きるか、どのような死の迎え方をしたいのか、何を遺すのか、が問われる死だ。
「二人称」の死とは、あなたの死、つまり家族や恋人や親友・戦友の死だ。
僕たちが「死」についていろいろ思いを巡らす時、大抵は「一人称の死」であったり、絶対に答えが見つからないであろう死後の世界の話になってしまっていないだろうか。
この「二人称の死」についての深い洞察は大変重要なものだと思う。家族等の固定されたメンバーの間では、いろいろな仕事の役割が自然に出来てくるものだか、記憶に関しても同様の役割分担が暗黙のうちに行われているそうだ。物の置き場所や出来事の記憶などでもどの領域は誰が記憶しているかが結構決まっているのだそうだ。
例えば旅行に行った時の「出来事」や「話した事」等である。記憶を分担する事でメモリーを省力化する目的もあるらしいのだが、家族はこうして情報を共有する事で依存しあって生きているものなのだそうだ。
家族の死はこの記憶の一部の喪失にもなる訳で、失われた記憶は蘇らず、正に、自分の心の中でのもうひとつの死だと思う。
死と向き合う事は「畏ろしい事」である。しかし死と向き合う事。自分がいずれ間違いなく「無」となる日が来る事をリアルに想像できるようになる事があってはじめて良く生きる事ができると僕は思う。
「死」が身近ではなくなりつつあり、インターネットやテレビゲームのようにいつでも退出、やり直しができるかのような軽さをもっているかのような感覚こそ寧ろ「畏ろしい」
どうだろう、あなたは人生に答えがあると考えて生きたいか無いと考えて生きたいか。
「想定外」の罠」のレビューは
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「砂漠でみつけた一冊の絵本」のレビューは
こちら>>
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「悪魔のピクニック―世界中の「禁断の果実」を食べ歩く
(The Devil's Picnic:
Around the World in Pursuit of Forbidden Fruit)」
タラス・グレスコー(Taras Grescoe)
2006/11/11:本を読む時間はあってもレビューを書く時間が取れない。
カナダ人のトラベルライターが他所の国では認められない、輸出ができない食べ物や飲み物を試してみるべく世界を巡る。
目次
1 アペリティフ―イェメベレント
2 クラッカー―食前のクラッカー
3 チーズ―エポワス
4 メインコース―クリアディリャス
5 葉巻―コイーバ・エスプレンディード
6 食後酒―アブサン
7 デザート―ショコラ・ムース
8 ハーブ・ティー―コカ茶
9 ナイトキャップ―ペントバルビタール・ナトリウム
1 アペリティフ
イェメベレントとはスウェーデンの昔から自宅で醸造されていたお酒で今では密造酒とされているものだ。ヨーロッパでは、水事情が悪く疫病から身を守るために生水を飲まないように色々と工夫を重ねてきた背景がありアルコールも広く飲まれてきた。しかし、このアルコール。禁酒法を施行する事で社会から撲滅を図ろうとしている、少なくとも消費量を減らそうとする努力をしている国がある。
しかし、隣国と地続きのヨーロッパで禁止する事と消費量は果して正しく相関するのだろうか。或いは世界的には禁止薬物とされる事が多い薬物依存度とアルコール中毒者の相関はどうなのだろうか。
2 クラッカー
ポビーシードをまぶしたクラッカー。シンガポールではポピーシード(ケシの実)にアヘンが含まれている事が理由で輸入が禁止されている。ケシには種類によって日本では栽培が禁止されているものがある。しかし輸入品として入ってくるケシの実やそれを使って作られるカレー粉や七味には、栽培が禁止されているハズのケシの実が使われている可能性もあるらしい。
シンガポールでは、チューインガムが禁止されていたり、壁に落書きして鞭打ちの刑になったりマリファナなんて微量を所持していただけで死刑になるような国である。抑圧とも言えるような厳しい法律が国民の行動基準にどのような影響を与えるのだろうか。
3 チーズ
エポワス。チーズの王様と呼ばれるウォッシュチーズの代表格である。地元の牧草地で育てた乳牛によってのみ絞られた生乳を使って作られたものだけが「エポワス」を名乗ることが許される。北米では感染症を嫌気し、生乳チーズの輸入を全面的に禁止している。チーズの生成は高度に衛生管理されているが、生乳を使う事で法律に抵触してしまうのだ。当地では輸出量を確保する為に製法を曲げ、高温殺菌した乳を使ったエポワスも作り始めていた。
4 メインコース
クリアディリャス。スペインの闘牛の睾丸料理。これも狂牛病騒ぎで北米では体験困難な部位となっている。ご当地スペインでは衛生管理が形骸化している感じも。しかし、狂牛病の原因として偶蹄目の家畜を肥育に肉骨粉を使い、この肉骨粉が異常プリオンに汚染されているためではないかと言われている事がある。そもそも草食動物である牛に粉にしたとはいえ共食いをさせている事に違和感を感じる。
衛生状態が多少悪くても人類は十分免疫があるハズである一方、新しい、或いは未知の病原体に対する耐性は未知数である。衛生状態で禁止しているスペインの肉と肉骨粉を使ったアメリカの国内の牛たちとどちらが果して安全なのだろうか。
5 葉巻
コイーバ・エスプレンディード。キューバー産の高級葉巻である。喫煙者の肩身は狭くなる一方だが、葉巻の愛好者を見かけるなんて事は殆んどありえないシチュエーションになりつつある。気兼ねなく思いっきり葉巻を吸える場所を目指して都市を彷徨う。
6 食後酒
アブサン。禁止され長く幻の酒であったものが、2005年解禁となった。本書はこの解禁前夜のフランス、スイスで「アブサン」を味わえる場所を訪ねる。ニガヨモギのに含まれるツヨンは幻覚等の向精神作用が引き起こされる事が知られている。アブサンによって多数の中毒者や事件が起きた事から禁止されたと云う事だが、レシピも様々であり、工業用アルコールを使った模造品による事故が起きたりしている事も禁止された背景にはあるらしい。
7 デザート
ショコラ・ムース。カフェインやテオブロミン等の覚醒作用を持つアルカロイドを含有している割には何処の国でも禁止されていないのは何故か。カカオを自ら産出しない国々がチョコレートの名産地となった背景とはどんなものなのだろうか。
8 ハーブ・ティー
コカ茶。コカノキ科コカ属の常緑低木樹の葉から抽出するお茶。コカの葉からコカインを精製する事ができる事からコカノキや葉は多くの国で麻薬として扱われ所持も栽培も禁止されている。しかし、ペルーではコカ茶は日常の嗜好品として扱われ、葉を直接噛む事を習慣にしている人も多い。
9 ナイトキャップ
ペントバルビタール・ナトリウム。ペットの安楽死の薬として使われる事が多い薬物である。スイスでは、尊厳死を迎えたいと臨む重病者に対してこの薬物を自ら使用する事を支援している団体がある。
食べ物や嗜好品更には薬物や売春等を法律によって禁止したり認めたりしている国々の背景にはどんな違いがあるのかという点に迫っていく。そこには、支配者や有力者の誘導的な意思が見え隠れしている。読み味としてジョン・ホーガンの
「科学の終焉(おわり)」 に非常に近い。結構面白く読みました。もう少し突き詰めたいところだが、時間がない。すまん。
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「王様の空(Stranger to the Ground)」
リチャード・バック(Richard Bach)
2006/10/21:内田幹樹の航空小説を読んでいて無性に読みたくなった本があった。
それは「王様の空」である。あの「かもめのジョナサン」、あの「イリュージョン」の
リチャード・バックの処女作である。
いまでは入手がかなり困難な本書は、その昔古本屋さんでたまたま見つけて飛び上がらんばかりにして購入したもので、僕の宝物なのだ。
もう何度読んだだろうか。10回?20回?かなりボロボロになってきちゃった。
発行は三笠書房。1974年10月25日。二版があったのかどうか不明だが、初版だ。定価は780円である。翻訳は中田耕治氏。
何がこんなにも僕を引きつけているのだろうか。
中田氏はあとがきで簡潔に一言述べている。
ヘミングウェイの終わったところから継続させようとした「鍛錬」(ディシプリン)の文学なのだ。ヘミングウェイが大学に行かずに、戦争に行ったように、バックは大学を中退して空に行った。バックの場合は、空を飛ぶための鍛錬がきびしければきびしいほど、孤立して、ときには傲慢にさえ見える態度をとっている。
暫し沈黙しよう。これ以上何を足せばいいというのか。
気を取り直して。
そうなのだ。「鍛錬」そしてその打ち込み方は決して妥協のないものだ。ストイックにただひたすら鍛錬することを目的に生きる生き方。それはそのまま「かもめのジョナサン」にも「イリュージョン」にも静かにではあるが太く受け継がれているのだ。
ニュージャージーの州空軍でリパブリックF−84Fサンダーストリークのパイロットをしていたリチャード・バックはアメリカ空軍に編入されヨーロッパに派兵された。その時の経験を生かして著されたのが本書「王様の空」である。
フランスのショーモン基地に配備されたバックはある日、緊急と認識された一山の書類をイギリスのウェザーフィールド基地から持ち帰る任務を与えられる。
機関砲と弾薬の代わりに書類を機首に積み込んで、クーリエ(急使)としてショーモン基地を目指す飛行の全工程を描いているのが本書の粗筋だ。
慣れた手つきで離陸準備からエンジンスタート、そして離陸までの細かい描写からはなれるとやがて本の内容は孤独に飛ぶバックの人となりから内省的な世界観や、パイロットの生活。飛ぶことの意義。恐怖。
そして飛ぶために生き、飛ぶために出来ることを懸命に行うバックの生き様が語られていく。
例えばこんな感じだ。
いまわたしと、黄色い機首のメッサーシュミット109との間にある距離は、時間という名の小さな蛇行だけなのだ。カレーの砂浜を洗う波。チェス盤のようなヨーロッパを吹きぬける風の静まり、時計の針の回転。大気もおなじ、海もおなじ、時計の針もおなじ、時の川ももみなおなじなのだ。
だが、メッサーシュミットはいまはない。あのすばらしいスピットファイアも。今夜、わたしの機が川に沿ってではなく、その曲がりくねった川を越えて飛んだとしても、世界の様相は今夜とまったくおなじだろう。そしてまた、このおなじ大気のなかに、かっての大気層のなかに、ブルゲ、ラテン、あの孤高の、ライアンが、西から、ル・ブルジエ空港のサーチライトのなかにやってくる。また、時という川をさかのぼっていけば、ニューポート、プファルツ、フォッカー、ソップウイズが、さらに、フォルマンの複葉機、ブレリオの単葉機、ライト兄弟のフライヤー号、サントス・デュモンの気球モンゴルフィエの熱気球が、鷹たちが空を飛びかっている。かつての日々も人びとは地上から空を見上げたのだ。今夜とちょうどおなじ空の彼方を。
わたしは人生の色彩と味わいを深くたのしむ。死は、行く手に待つ興味あるものだが、わたしはいそいで死に出会いたいとも、わざわざ自分からもとめたいとも思わない。というよりも死のほうにわたしを発見させてやりたい。それなら、なぜ横転飛行をしたり、高速度で低空飛行をしたりするのかと、自分に問いただす。たのしいからさ、という答えがかえってくる。ありていにいえば自己満足といってもいいだろう。おもしろいから。そうなのだ。
パイロットなら誰ひとりこれを否定しないだろう。だがわたしは、ことばをおぼえたばかりの子どものように、「なぜおもしろいんだ」と聞いてみる。見せびらかしたいからさ。アハハ。そんな声が脳裡をかすめ、わたしは気づかないふりをするが、もうおそい。じゃどうして見せびらかしたいんだ?
ここでスポットライトをいっせいにあびたように、答がくっきりと浮かびあがる。それはわたしが自由だからだ。おれの魂は、82キロの肉体に閉じこめられてはいないからさ。
夜のサンダーストリークのエンジンの秘密の回転炉は、多くの人にはまったく見る機会のない光景で、ほとんど神々しい眺めといってもいい。わたしはそれを記憶しておき、地上にいて空にあまり美しいものがない夜など、思い出すのだ。
わたしはただ一人の人間だ。今夜、わたしの星の下で、わたしの銀河を見あげている。おそらくただ一人の人間だ。この小さな地球から銀河を見あげてきた幾世紀もの人間の歴史が、一瞬にして、わたしの内部に結晶してゆく。
読んでいたら、付箋代わりにつかったのか日めくりのカレンダーが挟まっていた。日付を見ると1980年3月30日であった。日曜日だ。26年前。高校生だ。
そうなのだ。これを読んだ僕はパックのように決然として、顔を上げ、弛まざる努力を続けていくような大人になりたいと考えたのだった。
それにしても何をすればいいのだ。果してバックのように一点の曇りなく好きだと言える事に出会えるのだろうか。当時高校生だった自分が自問自答をしていた事を昨日のことのように憶えている。バックのように全身全霊をかけて打ち込めるものが見つかったとは残念ながら言えないけど、
今の自分は精一杯がんばって生きているとは言えるとは思う。そして今でもずっと探し続けているのだ。ずっと探す旅をしてきたとも言えるな。
そしてこれからも僕はずっとこの本を読んで行くのだろうと思う。
「イリュージョン」のレビューはこちらから
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「ヒプノタイジング・マリア」のレビューは
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「かもめのジョナサン」のレビューは
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2006/10/15:現行の航空法をざっと一読すると第72条(航空運送事業の用に供する航空機に乗り組む機長の要件)という条項がある。
かいつまんで云えば機長になった人は定期的及び臨時に審査を受けこれにパスしないと資格が剥奪されてしまうという事だ。
その定期審査の具体的な内容である査察官と一緒に実際の航路を飛ぶ査察飛行を題材にしたものが本書「査察機長」なのである。
機長になりたての主人公村井と共に乗り込むベテランパイロット大隈が成田=ニューヨーク間のフライトを往復する間、査察官の氏原が乗り込んでチェックを行うという設定で、村井は今回がはじめての査察飛行、それも先ずは成田からニューヨークへ向う往路でのチェックを受けるべく、その出発から物語は幕を開ける。
村井ははじめてのチェックを受けるにあたり色々と情報を収集し、チェッカーの氏原は大変厳しく難しい性格の持ち主らしいという事、少し前に受けた同期の者はこの氏原のチェックで落とされた事もあって重い重圧を感じている。
一方の大隈はベテランというだけあって査察飛行に対する固さや緊張は微塵も感じさせず飄々と準備を進めている。
村井にとって教官経験もあるベテランの大隈と組んで飛ぶのも今回初めてなのだが、この大隈と組まされているのも会社側の意図を感じずにはいられないのだった。二人で自分の技量をチェックしようと云うのだろうか。
舞台はいつものニッポン・インターナショナル・エア(NIA)なのだが「パイロット・イン・コマンド」とは登場人物が重ならない独立した物語になっている。
はっきり言ってしまえば、従来のシリーズのような事件性はなく、本来のと云うかパイロットの出発前の準備から着陸そして次のフライトまでを一つの物語として描くことで、その日常をよりリアルに際立たせる事に焦点を絞り込んだ内容になっているのだ。
フライトにおける日常的な出来事から天候や事故等に対する配慮と村井や大隈の内省的な独白や葛藤。本書を読む事で読者はまるで機長として一つのフライトを経験し、その仕事の中身を知るだけではなく、その裁量の幅の広さと責任。旅客機の機長として飛ぶという事自体をも感じさせるような内容になっているのだ。
前著「操縦不能」でもかなり腕を上げた事を感じさせた内田幹樹であったが、本書は第一級どころか新境地を開いたとすら感じさせる出来の良さである。
繰返しでネタバレちっくであるが、読み手としては事件性はないもののフライト全般を通じて受ける深い感動は素晴らしいものであった。いやいや事件性がないからこそ、そこにフライトの困難さとそれ故の達成感が深く沁み渡ってくるのだろう。
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2006/10/09:NIAサーガと敢えて呼ばせてもらうがNIAサーガ第三弾である。
NIAサーガは、ニッポン・インターナショナル・エア(NIA)という国際線、国内線の旅客機を飛ばす日本の航空旅客企業でありここで働くパイロットの江波順一を主人公とする物語である。
オーストリアのウィーン・シュヴェヒャト国際空港から飛び立った成田行きのNIA208便は順調な飛行を行っていた。
ミールサービスも終え暫くするとパーサーは食事の数が乗客数より一つ多い事に気付いた。
数え間違いではない。乗客が一人多いようなのだ。
同じ頃操縦席には無線通信でモスクワから乗客数の確認が二度も入ってきていた。
客室乗務員から乗客が一人多いという報告が操縦席に入ると機長の砧は声を荒げた。「乗客の数も数えてないのか!」乗務員に緊張が走る。
座席を一つずつ確認していく客室乗務員たち。やがて乗客名簿にはいない一人の男が座席に座っている事が判明する。男は洪と云うスイス駐在の北朝鮮の外交官であり亡命を希望しているという。
洪はロシアがこの飛行機に自分が乗っているのがバレれば強制着陸させられる事になり捕まれば自分は殺される事をほのめかす。
モスクワでは、ウィーン空港から飛び立った飛行機を虱潰しに調査し、洪が乗っている可能性がある機はこのNIA208便しかないと判断し、再三乗客数の確認を繰り返してきた挙句戦闘機がスクランブルをかけてきた。
砧機長の面目躍如たるつっぱりと息詰まる駆け引きによって洪を乗せた機は成田に到着する事が出来るのだが、北朝鮮は何らかの理由によりどうしても洪に生きていて貰っては不味い事情があるらしい。
洪の到着から不穏な影がNIAに忍び寄り、江波は再び渦中へと巻き込まれていくのだった。
滝内教官や広報課の川口氏なども登場したりする上に、物語の展開の背景も従来以上に重層的でかつ濃厚。三部作中最も完成度が高く、しかも非常に面白い。
構成や会話などの不自然さは消え、第一級の航空機小説に仕上がっていると言えよう。お見事です。そしてこれは是非映画にすべきですね。
「パイロット・イン・コマンド」のレビューは
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「機体消失」のレビューは
こちら
「拒絶空港」のレビューは
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「ナイト・フォール(Night Fall)」
ネルソン・デミル(Nelson DeMille)
2006/10/09:久々のネルソン・デミルの新作。貪るように読みました。
アメリカ東部時間で1996年7月17日午後8時19分、ジョン・F・ケネディ国際空港から飛び立ったパリ行きのトランスワールド(TWA)航空800便(ボーイング747-100型機−機体記号N93119)は離陸して約12分後の午後8時31分12秒高度4,194メートルで空中爆発しニューヨーク州ロングアイランドのイースト・ハンプトン沖に墜落した。
この事故で乗員18名、乗客212名、計230名全員が死亡した。
墜落直後から事件事故の両面から大規模な調査が行われ、墜落した機体の大部分が引き揚げられ墜落原因の究明に関して言えば史上稀に見る規模での調査作業が行われた。
墜落の一週間後に開催される予定だったアトランタ五輪を狙ったテロであるとの説があり時の大統領ビル・クリントンに対しイランへの宣戦布告を行う事を検討した程であったらしい。
事実、複数の目撃者がミサイル様な航跡が旅客機に向かって飛んでいくのを見たと主張したものも現れた。
その後、NTSBによる徹底的な結果、事故原因は飛行中の燃料タンクそばにある電気配線がショートし、気化していた中央燃料タンク内の燃料に引火し爆発したと断定され、公式的には事故と認定された。
しかし、事件性を疑う声が消える事はなく、TWA800機の墜落原因をテロリストの爆弾や隕石等だとするものもいる。これらの説が一般的に陰謀論説として一纏めにされている。陰謀論説の中でも実際の目撃証言もある事から最も根強いのはミサイル攻撃によるものだとする説であり、このミサイルもテロリストによるものだとする説からアメリカ海軍の誤射によるものだとするものもある。
海野弘の「陰謀の世界史−コンスピラシー・エイジ」によれば、
とにかくアメリカでは陰謀が多い。アメリカは、建国以来、陰謀だらけであったともいう。さまざまな人種のアメリカは、いつもなにかの<敵>をつくり、そのイメージに対してまとまり、アイデンティティを作ってきたのだそうだ。
TWA800機が墜落した事。この原因について陰謀論等の諸説入り乱れている事。これらは実際に起こった事だ。
本書は墜落から5年後の2001年7月17日TWA800機の犠牲者たちの追悼式から幕を開ける。ここからがフィクション。
主人公はジョン・コーリー、「プラム・アイランド」で主人公として登場し、「王者のゲーム」でも活躍した男である。
初登場した時には、捜査中の怪我を治療中のニューヨーク市警本部の刑事であった。その後ATTF(Anti-Terrorist Task Force)という対テロ対策組織に席を置き、「王者のゲーム」で瀕死の重傷に倒れた男でもある。
世の中を斜めに見る捻くれた態度で嫌味を言うコーリーはかなりお気に入りのキャラクターだ。久々の登場は嬉しい限りである。
彼の二番目の妻ケイト・メイフィールドは弁護士の資格を持つFBI捜査官だが、現在はコーリーと同じATTFで一緒に仕事をしているのだった。
彼女はTWA800機の墜落直後に派遣されたFBIの捜査チームの一人として引き揚げられてくる膨大な機体の残骸と遺品の整理や目撃者達への聴取を行っていたのだった。
彼女が追悼式に出たいという事でコーリーも一緒に出かける事にしたのだった。
5年の歳月が経過したにも係わらず、その喪失感を埋めることが出来ずにいる多くの遺族たちの姿に心を揺さぶられるコーリーだったが、突然目の前に一人の男が現れた。
男はグリフィスと名前を名乗るが、名前より明らかなのはその素性であった。男はFBIの者なのだ。
この男の主張を簡単に纏めれば今の仕事を続けている限り勤務時間内でも外でも、この事故の事について調査したりする事はおろか考える事もまかりならんと言うものだった。
コーリーの反応をもっと簡単に纏めれば「クソ食らえ」と、「とっとと消え失せろ。」と云う事になる。
グリフィスの登場はまるでコーリーにTWA800機の捜査を真剣にやって欲しいと懇願したかのような効果をもたらし、ケイトから紹介された目撃者達との出会いによって調査に乗り出していく。
二人のプライヴェートな調査はやがて組織の知るところなり、多くの人々を巻き込むとんでもない事態へと展開していくのだった。
うーむ。読み終わった時には、もう呆然。
一体この着地点はそもそも何処だと云うのか。あまりに意外な結末で評価不能となる程でした。
物語全体の展開は申し分なく面白いし、コーリーの推理も活躍も十二分に面白い。しかし、この着地は....。
このレビューを書くにあたり、あらためて色々な事を調べてみた。TWA800機の墜落もその墜落によって失われた人達もそれこそ大勢の遺族の方々も現実である訳で、いくらエンターテーメントであろうとも、不謹慎な展開や結末は許される物ではないだろう。
詳しく書くとネタバレになってしまうので、抽象的に書くがこの投げ出されたような結末となっているのは、物語には続編の"Wild Fire"が用意されており、作者の構想はそもそも本書とニ作品で(更にその次があるのかもしれないけど)語らないと全体像が見えないような構造になってるからのようだ。
全体を読みきってはじめて、現在我々が目にしているものとは全く異なる世界観が明らかになる模様で、恐らくは陰謀論説のなかでもかなり辛辣なものであろうと想定される。
であるからこそ、ネルソン・デミルは本書をあの時、あの場所で結末を迎えさせる事にしたに違いない。
大きな地図で見る
果してネルソン・デミルが纏めようとしているアイデンティティとは一体どのようなものなのだろうか。
→ネルソン・デミルのオフィシャルサイト
早く"Wild Fire"を訳出してくれ〜。
「ナイト・フォール」は紛れもなく陰謀説の本だ。アメリカは陰謀の国であるらしい。
ところで日本はどうなのだろうか。陰謀とは無縁の国なのだろうか。それとも真逆の国なのだろうか。
ところで、海野弘の「陰謀の世界史−コンスピラシー・エイジ」レビューは
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2008/06/07:「ワイルドファイア」のレビューを追加しました。レビューは
こちらから>>
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