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素晴らしき世界(Dark Sacred Night)
マイクル・コナリー(Michael Conneliy)

2020/12/30:振り返れば2020年はコナリーで明けて、コナリーで暮れていく正にマイクル・コナリーの年になりました。

通常一年に一冊新作がでるペースなので読者側も年一冊ということになる訳だけど、僕がもったいなくてとっておいた「訣別」に古澤さんの頑張りが重なり、今年は新作が4冊。カミさんとシリーズ初期に立ち返るということで「ブラック・エコー」から三冊。今年は大漁の7冊となったのでした。

そこではたと気づいたのは「ブラック・ハート」を飛ばしてしもーた。カミさんに確認すると「読んだ」、図書館で借りたのだという。僕はそこで混線して第三作を飛ばして「ラスト・コヨーテ」に進んでしまったようだ。うわ、またやってしまったか。

コナリーの本で順番間違うのはこれでもう多分三回目ぐらいか・・・。「ブラック・・・・」から始まる本が三冊も続くとか、いやいや第一作目は「ブラック・エコー」じゃなくて「ナイトホークス」だったとか。「堕天使は地獄へ飛ぶ」が「エンジェルズ・フライト」に改題されたんだけど、後に「暗く聖なる夜」、「天使と罪の街」が続き、どれがどれに改題されたのかわからんなるとかいろいろ事情はあるけども悪いのは物覚えの悪い私。

30年近く前のシリーズ初期の物語。ほとんど大部分を忘れてしまったものを再読、再確認しつつ、平行して最新の物語に接することで、両方をより楽しむことができたのではないかと思う。

折しもコナリーの作品群は新キャラによる新境地へ展開が始まったところだ。レネイ・バラードはハリウッド分署の深夜担当刑事だ。深夜に発生する事件の初動捜査の処理を行い、担当に割り振られる日勤の刑事に引継ぎをするのが仕事で、事件を解決することは基本的にないという役割なのだった。故あって深夜担当になってしまったバラードだが、きちんと事件を担当し解決する仕事がしたい、深夜勤務から抜け出したと願っているのだが、人事上に絡む複雑な事情で抜け出せないでいるのだった。

不当な扱いで達成感の乏しい仕事に追われる日々。ある夜、人気のない分署の事務室で報告書を書いていると、見知らぬ男が署のキャビネットをあさっているところを見かける。誰何するとその男はハリー・ボッシュであった。昔の事件のことを聞きにハリウッド分署の刑事に会いにやってきたという。そもそも物色していたキャビネは鍵がかかっていなかったというけれども、そんな訳はなくて、ボッシュがこじ開けていたに違いないのだった。上司や彼が会いに来たという刑事に話をきいてまわり、ボッシュが追っている事件、ボッシュ本人に好奇心を抱いていくバラード。

ボッシュはサンフェルナンド市警察の嘱託として捜査をする身であった。市の財政問題から大幅に人員を削られている警察組織は引退したボッシュのような刑事に事件捜査をしてもらうことでどうにか体面を保とうとあがいているのだった。

ボッシュは天命である刑事の仕事ができるとあって、日々の事件捜査、同僚たちの指導育成、過去の未解決事件の捜査、そしてそれとは別に私的に昔の事件の捜査を進めるという同時に何足ものわらじを履いていた。

現在、ボッシュはギャング団の抗争の最中に銃撃されて死んだボスの事件を掘り起こしていた。当時対立していた複数のギャング団による犯行という線で捜査が進められていたが犯人逮捕に至らず暗礁に乗り上げたままとなっているものだった。

ボッシュはあらためて事件とその後の経緯を俯瞰し、犯行は後にボスののし上がった男の手によるものでつまりは内部抗争だったのではないかという見方を固めつつあった。そこで当該のギャング団の内部事情に詳しい者を探って過去の状況について情報収集を進めていく。そして空き時間や夜には、少し前に潜入捜査を行った際、潜入先で出会った薬物中毒の女性の娘が殺された事件を追っていた。

バラードはこの私的な事件捜査を行っているボッシュと行き会ったのだった。その後彼女は対象となっている事件を探り当て、当夜ボッシュが探していた資料、これは時間経過とともに保管場所が他に移されていたもので、それは事件当時の警邏の警察官たちが書き残した職務質問の記録カードだったのだが、この保管場所も探り当てていた。

ロス市警の警察官たちは街を警邏する際に、かなりの頻度で職務質問をし、対象者の氏名やその場所に居合わせた理由などを細かく書き残すのが仕事の一つとなっているのだった。少女の殺人事件は証拠に乏しく捜査が行き詰まってしまっていたことを悟ったボッシュは事件当時のカードをさらうことで何かつかめるのではないかとにらんだのだ。 バラードはボッシュの元を訪れ、資料のありかを伝えるとともにこの事件捜査を一緒にやらせてほしいと申し出るのだった。

複数の事件が錯綜して進むいわば警察小説の定石を踏まえて新たなバディものとしてシリーズはシフトチェンジしたのか、しようとしているのか、老いてますます手練手管に磨きがかかるコナリーの腕がさえる一冊となっていました。そしてまだまだやる気満々なのでありました。次回作を楽しみにしております。

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地球を支配する水の力: 気象予測の謎に挑んだ科学者たち(Waters of the World: the story of the climate in six remarkable lives)
セアラ・ドライ (Sarah Dry)

2020/12/13:ようやく2020年11月20日、日本は気候異常事態宣言に参加した。東京都はこれを受けた形で2030年にガソリン車の販売を禁止するのだそうだ。日本の活動がどの程度本格化するのか、どの程度の成果を上げることができるのか、そしてそれは果たして間に合うのか、そんなペースでという点では憂鬱でしかない。

一方で「気候異常事態」とか「地球温暖化」というワードで検索すると、同じぐらいの頻度で、それは嘘だとか、誇張しているとか、間違っている、といった主張を頑迷に垂れ流しているサイトにもヒットする。

こんな状況では、日本人の集団知にこの「気候異常事態」が共通認識になるのはいつの日になることやらとこれまた気力をなくしてしまいそうになる。

現在における我々の抱える大問題はこの共通認識にたどり着けないという点があるというのが最近の僕の考えだ。どっちに行くべきか、とか、どうすべきか、というよりも前にまず今我々が置かれている状況に対する認識が一致しない。

現状認識が異なるためにどうあるべきか、という点で議論がすり合わず、解決策に対する合意形成もできず、具体的な打ち手を打てずに迷走して時間を浪費してしまう。地球温暖化に対する世界中の人々も正にそのようなどつぼにはまり込んでしまっている感じだ。

雨が降る日もあれば晴れる日もある。風が強い日もあれば、そうでない日もある。日本では四季が巡るが、夏や冬が早くやってくることもあれば、遅い年もある。猛暑の夏があれば酷寒の冬もある。

寒冷だったり豪雨だったりすると必ず聞こえるのが「どこが温暖化なんだ」みたいな発言。いやいやそういうことじゃなくて・・・。 思いつきで発言している物知らずの発言にいちいち反応していても仕方がないのだが、彼からがすべて無知蒙昧な訳ではなく、彼らのニュースソースには、なんだか肩書がしっかりしている科学的な立ち位置であるかのような立派なサイトがあったりする。

化石燃料業界の御用学者や陰謀論者ばかりではなく、どうしてそこにたどり着いた?というような肩書の人もいたりする。

今の政府が信用できないという点もあろうが、国際的にも広がりをみせている気候非常事態宣言を眉唾物だとして踏みつけることのどこに彼らの利益があるのか理解できない。

だから、そうじゃなくて・・・。と思って地団駄踏むのだけど、第三者に気候変動の話をするのは骨の折れる話だ。一言で伝えるのは無理で、そもそもどうして気候が変動しているということが言えるのかということ一つとってもこれを理解するのはとても難しい。

いや本書を読んで改めて思うのは気象・気候そのものが非常に難しい話なのだということだ。人類が気候や気象に対する理解を深めてきた歴史は想像以上に短かった。

気圧・気温など、これまで以上に大量になる気象関連の現象の測定記録を正確にはどのように気象の科学に変貌させられるかは、未解決の問題だった。1870年代のイギリスの気象学者は、自分たちが初期の発達段階で行き詰っていると感じていた。かつて天文学者が達成したことーはるか未来まで正確に予測する能力ーは、ますます遠ざかる目標に思われた。その間に、天文学そのものもニュートンの偉大な功績のあとで、かつての自信を喪失していた。ウィリアム・ハーシェル、エドワード・サビーン、ジョン・ハーシェル、ディヴィッド・ブルースター、ジュール・ジャンサン、そしてもちろんチャールズ・ピアッツィ・スマイスといった人々は、天文学が物理科学であるだけでなく、位置の科学にもなりうることを示していたが、そうすることで彼らは新たに無知と不確実性を生み出す源泉を露呈していたのだ。天文学の成熟した科学は再び未熟なものとなり、かたやつねに「赤子」の科学であった気象学は、新たな確信の源泉を探し求めていた。


現在の知見にたどり着くまでえらい勢いで追い上げてきたのだった。本書はその短い道のりを気象科学に貢献した方々の物語とともに辿ったものになっていました。それは地殻変動や氷河期などに対する理解と同時並行的に進んできたものだった。これは僕の近年の読書体験のなかでも最高にスリリングでエキサイティングなジャンルだ。

隕石の落下に伴う寒冷化と全球凍結、こうした地球の歴史をまるで推理小説のように証拠をそれこそ地を這うような努力で集めて類推してきたことで明らかになってきた激しく大きく変化してきた地球環境。

僕はこうした話を例えば、ウィリアム・ライアン&ウォルター・ピットマンの「ノアの洪水 」、ケネス・J・シューの「地中海は沙漠だった―グロマーチャレンジャー号の航海」や、ジェームズ・ローレンス・パウエルの「白亜紀に夜がくる―恐竜の絶滅と現代地質学」、そしてガブリエル・ウォーカーの「スノーボール・アース」のような本を読んでじわじわと自信の理解を深めてきた。疑いの目を持って読んだ本の内容をネットで調べたり他の本で確認したりするようなことを丹念に行ってきた。お陰で自分たちが暮らしているこの世界に対する理解をかなり深めることができたと思う。自分には宗教のような頭ごなしに信じている信条もなく、柔軟にこうした新しい知見を受け入れることができる素地もあったと思う。

興味を持って自分から分厚い本を読んでみるとかでもしないとなかなかこうした新しい知見を受け入れていくことは難しい。ましてネットの記事のような短く読めるように編集された内容では理解すること事態が困難な気がする。

うまく文章化できているとは思えなくて歯がゆいのだけど、科学の進化に伴い事実はどんどんと複雑なものになり、簡単に理解することが困難になってきているように思う。僕らが子供の頃に学校で習った内容は既に陳腐化し、世界の解釈は全く違ったものになっているのに、知識は行更新されず古いままの大人が、その実態に反して権力や問題解決の鍵を握る立場に多くおり、受け入れやすく必ずしも正しいとは言えない提案を握って走っていく。それはメディアの報道にも影響を与えているだろう。

目次
第1章 序文
第2章 熱い氷
第3章 透明な雲
第4章 モンスーンの数値
第5章 熱い塔
第6章 速い水
第7章 古い氷
第8章 結論


氷河が動いていることを発見し、雨に含まれる元素からその由来を辿り、モンスーンの発生原因を追究、極地の氷から地質年代学的期間における地球の気候変動を読み取ることができるようになってきた人類。黎明期の科学は粘り強く強靭で果敢に謎に挑戦し続ける人々によって道が拓かれてきたが、近年、コンピューター技術の発展の伴い、大量なデータを扱い分析する専門分野の違う人たちが力を合わせて取り組む大規模なチームの活動へと変遷してきた。その結果従来はとても把握することができなかった情報を扱い、新しい知見を得ることができるようになってきた。こうしたことが個人の素人にとってはなかなか解り難い話になってきているということがあるのだろう。

菅政権、評判は悪いけど、は今日国連のオンライン会合で日本が2050年に温室効果ガスの排出を実質ゼロにするということを宣言した。11月の気象危機宣言を受けたものなのだろう。あゆみはとても遅いけれども、前進していることは間違いない。

果たして間に合うのか。科学の前進と集団知の進展と、心もとないことこの上ないけれども、僕らの子供たちや子孫が幸せに暮らせる環境を残してあげることができると希望を捨てずにいきたいと思う次第です。

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汚名(Two Kinds of Truth)
マイクル・コナリー(Michael Conneliy)

2020/11/29:面白かった。爆速で読了した。カミさんも読んで絶賛でありました。普段通りメモもまとめた。しかし記事の作成が全然進まない。記事という以前に物語の概略を書こうとしているところで身動きができない。何故か。どこまでというかどこで止めればネタバレにならないのかという点で話の筋を戻ってくると冒頭のところまで戻ってきてしまうのだ。 それじゃ記事にならん。で語り始めるとやっぱりネタバレになるなー。となり、僕は本書のストーリーを前進・後退しながら出口を見いだせない状態に陥っているのであります。

間違いない。絶対に裏切られることはない。余計な情報を仕入れることなく、黙って本書にとりかかるが吉である。以上。

これで終わりにしてしまおうかと本気で逡巡しました。

しかし、どうしても一言・二言言いたい。書きたい。からこそ、こんなサイトを作って長年記事を書いてきていて、しかし他所様の読書を損なうようなネタバレはしたくないという訳で悶々となる。

ここから先、差しさわりがないように注意をしつつ最小限に抑えますが、未読の方は読まないに越したことはないことを予め提言させていたただきます。

さて、どうしてここまで書きにくいのかという点についてすこし考えてみたいと思います。それはタイトル「汚名」が語るような状況に冒頭でボッシュがいきなり陥ってしまうからだと思います。

降ってわいてきたかのようにボッシュが解決した昔の事件に「冤罪」の疑いが生じてしまう。しかし、単なる冤罪であれば「汚名」とまで言われることはない訳で、ここにもう一段看過できない話が織り込まれ、ボッシュとしてはなんとしてもこの汚名を雪ぐ必要性に追われていくことになるのだ。

しかし、本書の面白さと同時に紹介しづらくしている点がもう一点、この昔の事件が悪い形で蘇ってきたと同時に、もう一つ、現在進行形の最新の事件がボッシュに降りかかってくる。地元、サンフェルナンド市の商店街の一角にある処方箋薬局で銃撃事件が発生。初動捜査の陣頭指揮をボッシュは買ってで捜査員や警察官たちに指示を出して捜査を進めていく。

この二つの事件が同時並行的に進んでいき、時に関係者の言動が双方の事件に影響を与えたりすることで物語は予想もつかない方向へとぐいぐいと進んでいくのでありました。

物語の推進力と同時に紹介しづらさを生み出しているのはこうした展開があまりにも冒頭の部分から切り離せないような形で進んでいくことにある。もうほんと前置きなし。いきなり最初から。なのでありました。

こうした展開を実現しているのはボッシュという強くて深く、今や読者に説明不要となっているキャラクターがおり、事件捜査のリアルな筆致と着実に把握された世相というものがある。ボッシュシリーズというか、コナリーの本の面白さはやはり著者の正義感というか善悪の捉え方に僕ら読者が強く共感できる安心感というものがあると思う。

こうした正義感に裏打ちされたボッシュはこの二つの事件に真摯に向き合い事件解決に邁進していく訳だが、それは大きな危険を孕む状況に身を投げ出すことを本人に強いることになっていく。こうして物語はジェットロケットのような推進力を持って激しく加速していくのでありました。いやはや本当に面白い本をありがとう。

ところで本書の原題は"Two Kinds of Truth"。これはどういう意味だろう。読了して思うのは、これにも複数の解釈が込められているように 思う。日本語のタイトル「汚名」よりエンディングを強く示唆する形のタイトルだなーとも思う。このあたりのことを古沢さんはなんて言うのだろうと思ってたのに、訳者あとがきがない!!

これももう一つの予想外であった訳ですが、多くを語らず・・・。これは僕が記事を書くのを躊躇してしまった理由の一つにもなっていたのでありました。

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投票権をわれらに:選挙制度をめぐるアメリカの新たな闘い(Give Us the Ballot: The Modern Struggle for Voting Rights in America)
アリ・バーマン(Ari Berman)

2020/11/15:現実というものは常々僕らの思い描いていたものとは異なるものになる訳だけど、今回のアメリカの大統領選挙は正にそんな着地だったのではないだろうか。思い描いていたもの自体我々一人ひとり違うものであり、思っていた通りだと言う人もいるのかもしれないけども、僕個人はさすがに今回、バイデン圧勝で終わるのだろうと思っていた。

しかし、結果は僅差だった。一言で云って非常にきわどかった。そしてここは案の定というか、トランプは自信の敗北を認めず、選挙に不正があった等と難癖をつけて実態としては自分が勝っているというようなことを主張しており、これに同調している人々がワシントンでデモ行進したりしている。

どんな人なのかわからないけども「私の調査ではトランプが勝っている」などとテレビのインタビューに答えている白人の女性が登場したりしていて、つまり選挙結果って果たしてどうだったのかが出口の見えない感じに混沌へとひきずりこまれていってしまっている。

バイデンは繰り返し、分断を解消する方向で力を合わせようというメッセージを発しているけれども相手がこんな調子では迎合しようにも無理がある感じだ。何せ頑迷を極めた極右に加えて宗教・信仰が固く一つになってしまっている信条を持っている人たちと折り合いをつけようと考えた時点でどこまで妥協すればいいのかという話になり、つまるところ選挙に勝とうが負けようが方向性を変えるのは容易でないことが明らかになってきた。何より僕の想像を超えたところにある今というのはこの部分だと思う。

トランプが標榜している差別主義だったり臆面もない図々しさが負けても前進したりしえるということだ、つまり。トランプはどうやら既に次の選挙に向けた計画を持っているとか。今回は勝ちましたけども、次回は・・・。トランプだっていつまでも生きている訳ではないけれども彼と同等の主義主張をもっている連中が選挙に負けたら霧散するのかと思っていたけども、どうやら寧ろ結束が強まっている印象すらあり、将来・未来に対する展望は嵐の気配というところではないだろうか。

そして振り返ると子供の頃に輝いて見えたアメリカの明るさや公正さや力強さというものがあれよという間に色褪せ、とても同じ国とは思えない姿を現してきたこと。そしてそれはどうやら変貌したのではなく、そもそも本来の姿がそうであったものの、化けの皮がはがれてきたのだということ。

それは最近読んできた複数の本から読み取れるもので、間違いない事実だろうと思う。これほどに自分を戸惑わせる現実というものに出会うとはね。それは本書「選挙権をわれらに」も現れていました。

ジョン・ルイス(John Robert Lewis)はアメリカの民主党員で下院議員を17期務めた人で、公民権運動を主導した人物としても知られている。1965年3月7日、「血の日曜日」と呼ばれることとなるアラバマ州のデモに参加、武装警官からこん棒で殴打され、頭蓋骨を骨折するという重症を負いつつも行進を続けたという。

彼の黒人差別との闘いを縦糸にアメリカの投票権法を巡る長く紆余曲折を辿る物語を描いたものだ。

公民権運動史上もっとも重要な行進で殺されかけてから50年後の2015年3月7日、連邦議会下院議員のジョン・ルイスはアラバマ州セルマに戻ってきた。 『大統領万歳』が演奏されるなか、ルイスはバラク・オバマ大統領とジョージ・W・ブッシュ元大統領に続いてセルマ中心部のウォーター街を渡り、エドモンド・ペタス橋のたもとにおかれた演壇に立った。これはアラバマ州クー・クラックス・クランの長だった人物にちなんで名づけられた橋である。午後のまぶしい日差しのもと、公民権運動の聖地であるセルマを訪れた連邦議会議員100人が席についていた。マサチューセッツ州選出のエリザベス・ウォーレンなど数人の民主党上院議員は「投票も当然公民権」と書かれたプラカードを持っていた。


バラク・オバマはアフリカ系アメリカ人、有色人種として初のアメリカ大統領に就任した訳だが、彼の大統領選挙では、イリノイ州、ニューヨーク州、カリフォルニア州、ペンシルベニア州、フロリダ州、オハイオ州、ヴァージニア州、ノースカロライナ州、インディアナ州で勝利。選挙人合計365人を獲得。一般投票の得票率は52.5パーセントと、クリントンには及ばなかったものの、得票率が50パーセントを越えた民主党候補としては1976年のジミー・カーター以来だったという。この一般投票の得票率を下支えしていたのは勿論、有色人種、マイノリティの人々の投票活動があったことは言うまでもない。

同じくカーターの大統領就任を後押ししていたのもこうしたマイノリティの存在があった。

[目次]
プロローグ
第1章 第二次奴隷解放
第2章 第二次南部再建
第3章 南部戦略
第4章 綿を摘む手
第5章 反革命 その1
第6章 コンセンサスの揺らぎ
第7章 再編成
第8章 反革命 その2
第9章 瓶を変えても毒は毒
第10章 シェルビー判決の後に
謝辞
訳者あとがき
インタビュー対象者一覧
原注


カーターの当選は黒人票のおかげだった。それは得票数の三分の一が黒人票だったミシシッピ州だけでなく、南部の大部分についても言えることで、カーターはヴァージニアを除くすべての南部州で勝ち、南部の白人票は45%しかとれなかったものの黒人票の95%を獲得した。「カーターとモンデールにとって鍵となったのは南部の黒人有権者の投票率だった」と書いたのはなんとフォードの選挙運動の顧問を務めていたハリー・デントだった。「黒人有権者が南部でカーターを救い、南部がカーターの当選の決め手となった」


投票権。日本では一票の格差が問題となり長くその解決がみられない状態が続いているが、アメリカにおける投票権をめぐる戦いは、もっと激しくあからさまであった。

投票権法とは、投票率が50%未満となっている州が行っていた識字テストなど投票を妨害する様々な措置の廃止を求める法律であった。対象となったのはアラバマ、ジョージア、ルイジアナ、ミシシッピ、サウスカロライナ、ヴァージニア州とノースカロライナ州の34郡、アラスカ州、アリゾナ州、アパッチ郡、アイダホ州エルモア郡、メイン州アル―ストック郡だった。1965年、この投票権法に署名したのはケネディ大統領暗殺に揺れる世の中にあったジョンソン大統領であった。

投票権法の圧倒的多数による可決は様々な要素が組み合わさった結果だった。ジムクロウ下の南部で黒人の投票権が明らかに奪われていたこと、セルマでの暴力に対する一般市民の激しい怒り、統制がとれ説得力がある公民権運動、ニューデール以来もっともリベラルな連邦議会、多くがベテランである北部出身の穏健派が多数を占める共和党、そして複雑な法案を通すのに長けた大統領、である。


投票権法によって投票における差別や格差は撤廃されリベラルな世の中へとアメリカは前進していくかに見えたのだが、残念ながら決してそんなようにはならなかった。

全般的に民主党は投票における平等性、格差撤廃に前向きな姿勢をとり続けてきたが、これに共和党はときに巧妙にもときにあからさまに反対・抵抗することでその歩みを後退させつづけてきた。投票所の閉鎖、投票所の開業時間の短縮、選挙区域の恣意的な分離、マイノリティの暮らす地域から投票所を減らし、開業時間を平日の昼間に限定することで労働者たちが投票にいけなくする、票が分散し得票の有効性を薄めるなど執拗で徹底的な抵抗をしていたのだ。

このような一進一退がアメリカ大統領選挙の選挙結果を左右するまで力を持つようになってしまったというのは驚くべきことだが、レーガン、ブッシュ、そしてトランプの大統領選挙では確実にそのような妨害活動が功を奏した事実があった。

正確に何人の合法的に登録された有権者が投票できなかったかは結局誰も明らかにすることはできなかった。それでも委員間の事務局長エドワード・ヘイルズはできる限り計算した。1万2000人の有権者が不当に登録を抹消され、そのうち44%がアフリカ系アメリカ人で、アフリカ系アメリカ人の90%がゴアに投票していたとすれば、ゴア支持の黒人4752人が投票できなかった可能性がある。ブッシュの勝差の9倍に近い人数である。登録抹消のせいでゴアが負けたという結論を十分導くことができる。「結果を左右したとは考えた」とヘイルズは言った。


今回はかろうじてバイデンが勝った。トランプも共和党も大規模な不正があったと声高に叫んでいる。どの口が言うかという話なのだが、このような重大な問題に関して白黒が明確につけられないままとなってしまうのは現代の趨勢のようだ。次の選挙は果たして勝てるのか、アメリカの後を追う日本は大丈夫なのか。はなはだ心配がつきない内容でありました。

それにしてもこの本めちゃくちゃ読みにくい本でした。

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魂に息づく科学:ドーキンスの反ポピュリズム宣言(Science in the Soul: Selected Writings of a Passionate Rationalist)
リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)

2020/10/25:
私がこれを書いている2016年11月は、希望のない年の希望のない月であり、「野蛮人が門前に迫っている」という表現が皮肉抜きで注意を引く。むしろ野蛮人は門のなかにいる。なぜなら英語圏で最も人口の多い二つの国を2016年に襲った惨事(訳注 ブレグジットの決定とトランプ大統領の誕生を指す)は、みずから招いたものだからであり、受けた痛手は地震や軍事クーデターによるものではなく、民主的プロセスそのものによってもたらされた。いまこそこれまで以上に理性が主役になる必要がある。


僕がこの本を読み記事を書いている2020年10月は、その希望のない歳月が終わるのか、更に延長されるのかという正念場を迎えようとしている。民主党はトランプ圧勝だそうです。対抗馬はオバマ大統領時代に副大統領を務めたジョー・バイデンだ。予備選では民主党が今度こそバーニー・サンダースを指名するかと思っていた。実際支持者数は一時バイデンを超えていた。しかし敗退していく候補者が尽くバイデン支持に回り逆転されてしまった。彼らには左過ぎだったのだろう。

日本も似たような状況なのだが、世論も政治家の言動も、どうあるべきかとか何を目指すのかといった建設的な部分ではなく、現状、事実認識や歴史認識の違いで揉めているばかりで、しかもなおかつそれに明確な結論が出せず仕舞いになるという事の繰り返しをしている感じだ。

曰く、学術会議の任命権は首相にある。桜を見る会の名簿は本当に存在しない。バイデンの息子の会社がウクライナや中国と不法な取引し報酬を得ていたらしい。進化論は反論も多い学説のひとつにすぎない。世界は4000年ぐらい前に神によって創られた。キリストは復活した。ジハードによる殉教は天国の道が約束されている。人間の魂は永遠に不滅だ。

ドーキンスは本書の中で魂について二つの定義を紹介していました。どちらも『オックスフォード英語大辞典』に記載されているものだそうだ。

1.死後も存続し、来世で幸福または不幸になると考えられている、人間の精神的部分。死者の肉体を離れた霊であり、別の実態として、なんらかの形と人格を与えられているとされる。

2.知的または精神的な力。知的能力の高度な発達。やや弱い意味では、深い感情、感受性。情動、感情、または心情の座。人間の性質の情緒的要素。


ドーキンスはこれらを魂1、魂2とそれぞれ呼んでいて、一般的には混同されやすいが深いところでは大きく異なると述べている。

1は科学が息の根をとめることになる魂である。超自然現象で、肉体を持たず、脳の死後も存続し、ニューロンがちりになりホルモンが乾いても、幸福や不幸を感じることができる。科学はそれを完全に抹殺することになる。しかし魂2はけっして科学に脅かされない。逆に、科学は魂2の双子の兄弟であり、補佐役である。やはり『オックスフォード英語大辞典』からの次の定義は、魂2の様々な側面を伝えている。アインシュタインは科学における魂2のすばらしい象徴であり、カール・セーガンはその大家だった。


魂に限らず、例示したような事象についてどう解釈しているのか、ひとそれぞれ大きく異なっていて、近年その差異は、その対象を増やし、考え方捉え方の違いは拡大傾向にあるのではないかと思う。現状認識が異なる人たちとあるべき論や方向性が一致したとしたらそれはただの偶然とよぶべきものかもしれない。世の中は結局偶然によって左右されていると言っても良いのかも。ドーキンスはこの根っこの部分、つまりこうした分断の根っこにあるものが宗教であると断じていたのでありました。

宗教の教えを優先し科学する心を否定することは非常に危険だ。自分は天国へ行き大勢の処女に迎え入れられるのだと信じて、旅客機を乗っ取り高層ビルに突っ込んでいくことが可能になるのだから。

こうした話は荒唐無稽だろうか。それとも極端すぎる?これが今現実に起こっている事なのだけれども。 書いている僕ですらやはり極端な例だと思ってしまうのはなんでだろうか。

しかし、ドーキンスはこうした実感のなさは人々の無関心さや曖昧さにあり、その一方で一部の人々にとって、信仰の教えこそリアルな現実だと捉えて生きていることを許してしまっているのだと指摘している。「天国に行って永遠に生きるのだ」などと信じている人がいること自体、そうした信条から離れている人にとってはとても信じられる話ではない。そんな訳なかろうという油断が彼らの信条をさらに強化してしまう余地を生んでいるのだという訳だ。

そしてこうしたことは進化論に対する執拗で執念深い攻撃にも繋がっている。進化論を信じない?それってどういう意味なのかという話なんだ訳だが、これは端的に科学よりも宗教の教えを優先してしまっているからに他ならない。

キリストを信じるのか、アラーを信じるのかについて自由があるのか僕にはよく解らないけれども、1+1=2を信じるか信じないという自由な余地があるとは思えない。それと同様に現代社会における一般常識として進化論についても信じる、信じないの余地はないものと思う。

しかし、本書に紹介される「アラバマの挟み込み文」のように頑迷にこれを受け入れようとしない人々にはキリスト教文化の西洋社会にも相当数おり、そのような人々の言動が社会を歪め得ることを査証している。

1995年11月、アラバマ州教育委員会は、「アラバマ州教育委員会からのメッセージ」と銘打たれた一枚の貼付用シートを、州立の学校で同じように使われる生物の教科書すべてに挟み込むよう命じた。このシートは、少しあとにオクラホマ州でも同じようにくばられた文書のベースとなった。「アラバマの挟み込み文」は必ずしも凝っているわけではないが、教養ある読者に向けた意思表示が込められている。何より間違いなくその根底にある宗教については何も語らず、理にかなった科学的懐疑論の正しさを装っている。


以下は挟み込み文である。

この教科書で論じられている進化論は、一部の科学者が、植物や動物や人間のような生き物の起源の科学的説明として指名、論争の的となっている理論です。

生命が最初に地球上に現れたとき、人は誰も存在しませんでした。ですから生命の起源に関する主張はどれも、事実ではなく理論と考えるべきです。
「進化」という言葉はさまざまな種類の変化を示す可能性があります。進化は種内に起こる変化を説明します(たとえば白い蛾が灰色の蛾に「進化」するかもしれません)。このプロセスは小進化であり、事実として観察し記述できるものです。進化は、爬虫類から鳥類へのような、ある生き物から別の生き物への変化を指す場合もあります。大進化と呼ばれるこのプロセスは、観察されたことがないので理論と考えるべきです。
進化論は、ランダムで方向性のない力が生き物の世界を作り出したという、根拠のない考えにも言及しています。
教科書で触れられていない生命の起源に関する未解決の疑問はたくさんあります。
●なぜ、動物の主要な分類群は突然(いわゆる『カンブリア爆発』で)化石記録に現れたのでしょう?
●なぜ生き物の新しい主要な分類群が、長い間化石記録に現れていないのでしょう?
●なぜ植物や動物の主要な新しい分類群は、化石記録に移行型がないのでしょう?
●あなたもすべての生き物も、生きている体をつくるためのそんなに完璧で複雑な「指示」を、どうして有するようになったのでしょう?

一生懸命勉強して、つねに広い心を持ちましょう。いつの日かあなたは、どうして生き物が地球上に現れたのかについての理論に貢献するかもしれません。


ドーキンスは怒り心頭でこの一文一文に激しく反論をしているのだけれども、僕もこの行為も、この文章にも誠意がなく、非常に巧妙というか作為的、姑息で進化論を否定しているとか反論しているのではなく、受け入れることを単に拒否しているが故の言動としか見えず、受け入れ難いことこの上なくて読んでる僕も怒りが湧き上がってくる。これを無垢な子供たちにしれっと教えたりするということが罪でなくてなんと呼べばいいのか。

ダーウィン主義の基本的論理はこうです。誰にでも祖先はいるが、誰にでも子孫がある訳ではない。私たちはみな、祖先になれない遺伝子を犠牲にして、祖先になるための遺伝子を受け継います。祖先はダーウィン主義の究極の価値です。純粋なダーウィン主義の世界では、他の価値はすべて副次的です。それと同義な表現を用いて言えば、遺伝子の存続こそダーウィン主義の究極の価値です。予想としてまず頭に浮かぶのは、すべての動植物は、自分の内に乗っている遺伝子の長期的生存のために、たゆまず努力すると考えてよさそうだ、ということです。

世界は、この単純な論理が火を見るよりも明らかだと思う人と、何度説明されても理解できない人に分かれます。アルフレッド・ウォレスはこの問題について、自然淘汰の共同発見者への手紙に書いています。「親愛なるダーウィン、自然淘汰はおのずと発揮される必然的な効果をはっきりと、またはまるで理解できていない多数の知識人の無能ぶりに、私は何度も驚かされています」
理解しない人たちは、淘汰の背景にはなんらかの理性を持った主体がいるはずだと思い込んでいるか、なぜ個体は、たとえば種の存続や自分がその一部である生態系の存続ではなく、自分自身の遺伝子の存続を尊重すべきなのかと思っているか、どちらかです。後者の人たちは、どのみち種や生態系が存続しなければ個体も存続しないのだから、種と生態系を尊重することが個体の利益になるのだ、と言います。遺伝子の存続が究極の価値だと誰が決めるのか、というわけです。

誰も決めません。遺伝子は自分がつくる身体のなかに存在し、ある世代か次の世代へと(コード化された複製という形で)生き残れる唯一のものだという事実から、自動的にそうなるのです。


自然淘汰は原始の単純さの低地から、不可能の山の緩やかな傾斜を少しずつ着実に上り、十分な地質学的時間を経ると、進化の最終結果は眼や心臓のようなものになる-これらはそれぞれありえなさのレベルが非常に高いので、良識のある人ならランダムな偶然のせいにはできない。ダーウィン主義に対する最も残念な誤解は、それが偶然の理論だとするものだ。この誤解はおそらく、突然変異がランダムである事実から生じている。しかし自然淘汰はけっしてランダムではない。どんな生命論も目指すべき基本的成果は、偶然から抜け出すことである。もし自然淘汰がランダムな偶然の理論であるなら、当然、正しいはずはない。ダーウィン主義の自然淘汰は、ランダムに変動するコード化されたからだづくりの命令が、ランダムでなく存続することなのだ。
進化論の背後に何等かの主体がいる訳でもなく、ランダムウォークしてきた訳でもなく、周囲の環境と自らの関係性の中で自動的に生み出されるものなのだという意味なのだろうと思う。しかし、なんていうか、この世の中が四千年前に一気に創造されたとおもおうとすることにどれだけ無理があろうとも、それをみとめようとしないというのは生き方としてもかなりしんどいものがあると思うのだが。

ドーキンス先生はこうした根深い相手と飽くことなく戦い続けていたのでありました。

「進化の存在証明」のレビューはこちら>>

「ドーキンス博士が教える「世界の秘密」」のレビューはこちら>>


△▲△

倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本
鳥越憲三郎

2020/10/10:予想以上に難解で集中力が擦り切れました。


倭人・倭国について記した中国の正史、それは『漢書』から『旧唐書』まで十一種の史書にわたる。そのすべてを日本文で読み下し、語句の注釈のほか詳細な解説をつけたのは、本書が初めてのことである。
その執筆にあたって、もっとも大きな目的としたのは、これまで幾多の論者で発表した「倭族論」の締めくくりの書とすることであった。彼らは中国の南部に横たわる長江流域に発祥し、稲作と高床式住居を文化的特質として、東南アジア諸国からインドネシア諸島、さらに朝鮮半島中・南部から日本列島に移動分布した民族で、それを「倭族」という新しい概念でとらえたものである。
そのことは中国の正史に見える倭人・倭国が、日本人、日本国に対しての呼称であるとしてきた先学者たちの見解を、真っ向から否定するものであった。「倭人」という語のおこりは、黄河流域を原住地として政治的・軍事的に覇権を掌握した民族が、とりわけ秦・漢の時代以降、彼らの迫害によって四散亡命した長江流域の原住民に対して、蔑んでつけた卑称であった。


十一種の史書とは漢書、後漢書、三国志、晋書、宋書、南斉書、梁書、隋書、北史、南史、旧唐書のことだ。これらの史書は時間軸で直列した中国大陸を治めた国々の歴史というような単純なものではなく、時間軸にも地域的にも抜け漏れ、重複があるようだ。時代を下れは当然遡れるだけ遡ったものに纏めたいと思う気持ちは解る気がする。

しかし、過去のことは結局他の昔からある底本から拝借するしかないので当然似たような記述になってしまう。しかしこれをどこから持ってきたのか。不正解な本を基にしてしまったり、持ってくる時に間違って転記してしまったりすることで内容は歪んだものになってしまう場合もある。 本書はこれらの史書に登場する「倭人」、「倭国」に関する記述を読解し他の史書と比較して正誤を見極めていこうという、これまで試みられたことがないことをやったのだという。残念ながらそれぞれの史書の立ち位置すらややこしいこれらの本について書かれた詳細は読んでも頭に入りずらい難解なものでした。

しかし、大きな主張としてこれらの史書に登場する倭人・倭国が必ずしも日本列島にあった国のことのみを指している訳ではないということについては、そもそもヤマト王権、邪馬台と史書に書かれた出来事の時間軸が合っていないという点で説得力があると思う。 ヤマト王権は、これも勿論所説あるが王権の胎動期が190年代-260年代としているのに対し、漢王朝は前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)であって、前漢時代に倭国から入貢したという記述をこれが日本から大和朝廷からのものであるということにはそもそも無理があるという訳だ。 それゃそうだよね。

この時に書かれている倭国・倭人は日本列島にいた人びとのことではなく、中国の南部に横たわる長江流域に発祥し、稲作と高床式住居を文化的特質として、東南アジア諸国からインドネシア諸島、さらに朝鮮半島中・南部から日本列島に移動分布した民族のことを指しているのだとしている。そしてこのような解釈の変更に基づき史書を読解していくことで新たな世界観が浮かび上がってくるという訳だ。

ちょっと前に読んだ斎藤 成也の「核DNA解析でたどる 日本人の源流」を上記の認識を踏まえて再度確認してみよう。これはミトコンドリアDNAを解析することで血統とその分岐した時期を変化量から推定するという最新の知見によるものだ。 これによると、

第三段階前半とされる約3000年前~1700年前に朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二波渡来民と遺伝的に近いがすこし異なる第三波の渡来民が日本列島に到来し、水田稲作などの技術を導入した。彼らとその子孫は、日本列島中央部の中心軸にもっぱら沿って居住域を拡大し、急速に人口が増えていったのだという。彼らが九州地域で農耕を基礎とした国家形成を進めていったであろうことは想像に難くない。当然のことながら彼らが農耕技術だけを持ち込んでいる訳はなく、それを運用して暮らしを支える組織や分担、文化も同時に持ち込んできたのである。彼らが九州から近畿地方へと政治の中心を移していったのだとう。このことからも中国南部の稲作を行っていた人々と日本人の源流が同根となっていると考えるのは至極当然のことのように思える。


倭人・倭国=日本人であるはずであるという頑固な考えは一旦納めてここは少し冷静にそのような可能性もあるよね的な柔軟な発想で歴史認識を再考証していくことで新たな日本人観、あらたなアジア圏観が生まれ、そしてそれは前向きに我々の関係を前進させるものになるんじゃないだろうかと思う次第であります。

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