- 「書いてはいけない」 森永 卓郎
- 「上昇(アップスウィング)」ロバート・D・パットナム, シェイリン・ロムニー・ギャレット
- 「黒牢城」米澤穂信
- 「「協力」の生命全史」ニコラ・ライハニ
- 「暗闇のなかの光」ハイノー・ファルケ , イェルク・レーマー
- 「消えた消防車」マイ・シューヴァル, ペール・ヴァールー
- 「ドイツの小さな町」 ジョン・ル・カレ
- 「ザイム真理教」 森永 卓郎
2024/03/31:森永さんの「ザイム真理教」を先日読んでびっくり仰天しました。
迂闊なことにこれまでプライマリーバランスなるものについて全く疑いを持ったことがなかったからだ。
日本の政府は借金漬けで将来のまだ生まれてもいない人たちに大変な返済負担を強いる無責任な財政赤字を積み上げてしまっている。少子高齢化が進むなかこのままでは借金返済する未来の日本人は減る一方で結果的にその負担は上がるばかりなのだと。
しかしそれは全くのデタラメだった。
日本は確かに巨額の国債を発行しているんだけれども、その反面それに匹敵する資産を保有している稀有な国であり、実質的な借金はほとんどないのだ。
そしてまたプライマリーバランスという考え方は古い経済学の考え方であって、今では誤りであることが指摘されているものなのだ。
これと同様の意見を語っている記事がいくつもあって、森永さん独りの思い込みだったり虚言だったり、ましてや陰謀論のようなものでは全くない。大真面目な内容なのだ。
日本政府の借金には裏付けとして莫大な資産があるのは紛れもない事実だ。
一方でプライマリーバランスが誤った考え方だとするのは経済学の一つの考え方であって、絶対的な真実だとかいうことではない。
またプライマリーバランスを無視した財政出動もどこまで許容されるのかなどは議論がある。
しかし、長い間停滞を続けるGDPやマイナス成長してきた賃金と、どんどん貧しくなってきた日本の状況を考えるに、固執してきた古臭い経済理論に疑いの目を向けて他の理論を試してみる事は有意なのではないだろうか。
実際一時だが、安倍政権で大型の財政出動した際、日本は潰れなかったし円も問題なく流通し、経済も上向いたのだ。
ステージ4のすい臓がんが判明し余命半年の宣告を受けたという森永さんは正に命がけで執筆活動している。前著では自民党政権であろうがそうでなかろうが、反対する政権はつぶしてきた財務省の実態を暴露した。
しかし本の出版にあたっては大手の出版社にはことごとく断られたのだそうだ。
日本人は、権力に阿る、忖度する、暗黙のうちに同調圧力に迎合する傾向があるらしい。
それはジャニーズ事務所の性被害問題についても全く同じ展開であった。
もくじ
まえがき
けっして触れてはいけない「タブー」
なぜ彼らは口をつぐむのか?
第1章 ジャニーズ事務所
無視された東京高裁判決
推しを育てるというビジネスモデル
退所したタレントは許さない
少しでも批判すれば…
駒井千佳子氏のちょっとしたミス
「森永さん、表に出したら、容赦しませんからね」
性加害、大勢の「共犯者」たち
ジャニーズ問題と同じ構造の「2つのタブー」
第2章 ザイム真理教
統一教会と財務省を比較してみる
アベノミクスとはなんだったのか?
増税せずに税収を増やす方法
繰り返された〝非科学的〟経済政策
高齢者は年金をもらいすぎている?
税制の常識から外れる「ホリエモン発言」
税務調査という刃
玉川徹氏は「ザイム真理教」信者か?
きめ細かく、熱心な布教活動
財務官僚は無罪放免
財務省は、司法・立法の上に位置する
ザイム真理教問題を解決する秘策
第3章 日航123便はなぜ墜落したのか
踏みにじられた遺族の声
違和感だらけの日本航空123便の墜落
ニュースステーションが放送した衝撃の特集
『日航123便 墜落の新事実』との出合い
圧力隔壁説のデタラメ
非炸薬ミサイルか、無人標的機か
幻に終わった横田基地への緊急着陸
123便の最後、驚くべき推測
特殊部隊が現場を焼き払った
正否を検証するたった一つの方法
第4章 日本経済墜落の真相
日本経済集団リンチ事件
2つ目の「ありえない政策決定」
バブルはこうして発生した
バブル崩壊から逆バブルへ
日本の高度経済成長を支えた仕組み
私の、人生最大の後悔
「小泉構造改革」の正体
珍妙な経済理論
あとがき
昔からジャニーズ事務所については怪しいと度々噂があったし、品の悪い冗談というかジャニーズのタレントを鼻で笑うネタとしても使われてきた。
事件が明らかになり「やはり」と思った人は多かったのではないだろうか。しかしそれがここまでの規模であったとは。そしてそんな実態を長く続けてきたことに関係者は「知らなかった」、「気づかなかった」と繰り返すばかり。何よりそんなジャニーズ事務所とべったりだったテレビ局はこの問題と向き合うことを「無視」していると思う。
自民党の裏金問題は全く同じベクトルで動いていると感じる。
幹部の政治家の処分にばかり報道しているのは偏向していると思う。
裏金キックバックを続けることを誰が決めたのかというごく最近の話題に集中している訳だが、裏金もキックバックも過去20年以上続けてきたらしいこと、それに誰が関与していたのか、その裏金のもととなる企業献金してたのはどこの企業なのか。どれだけ金を出していたのか、その結果どんな利益誘導が行われてきたのか。どんな法案、政策が実施され、どこの企業がどれだけ儲かったのか。
そんなことは調べるまでもなく、身に覚えがある企業や政治家はたくさんいるはずなのに、誰も口を開かない。
テレビ局だって金を出してきたのかもしれないのにだ。
例えば、防衛費の増大、オリンピック、万博、消費税、不正規労働、郵政民営化こんなことが企業の献金により利益誘導されて進んできたのではないかと思わずにいられないのは僕だけだろうか。
こんな例はいくらでも挙げられるよ僕は。
総じて問題の核心であると思う、どんな企業が金を出してきたのかについては「無視」していると思うし、みんなもそんな現状を受けてれているというこの事実はもはやグロテスクだと思う。
「書いてはいけない」は正にそんな僕の思いを裏付けてくれる本でした。
やっぱりおかしいよ。今の日本は。
そしてその根元の問題に日航機123便の事件があった。
これまで青山透子さんの本を中心にこの事件について取り上げた本を何冊か紹介してきた。
そしてその読書を通じて、圧力隔壁の破損による客室の与圧が抜けたことで尾翼が吹き飛んだという話や、墜落した日航機のエンジンが山の樹木に激突してバラバラになったという全く物理を無視した内容が調査結果とされていることを知った。
ウィキペディアでも圧力隔壁が破損した場合におこる急減圧が起きていないことから事故原因に疑問があるという記載がされているのだ。
透子さんの地道な調査によって最近になってようやく尾翼付近に後方から何かが激突したことによって尾翼が破損したという調査結果が存在していることが判明した。
フライトレコーダーの捜索も引き上げもしない。ボイスレコーダーも公開しない。
日本政府は明らかにこの事件を事故として隠蔽している。三権分立は機能していないのだ。
そしてそのためにどんな事が起こってきたのか。
本書はまさにこの点に切り込んでいく。同時代を生きてきた僕らとしては正に腑に落ちることばかりだ。
繰り返すけれどもこれは変な妄想、妄言からくるものでも陰謀論でもない。紛れもない事実なのである。
ジャニーズ事務所、裏金問題、日航機123便、同様のベクトルで「無視」され「黙殺」して世論から消されていく手法はお家芸的なもので繰り返されている。
これに僕らはきちんと向き合っていく姿勢と覚悟が必要なのだと思う。
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2024/03/24:ロバート・パットナムの新作。内容も把握せぬまま読み始めました。しかし、これかなかになかなり重たい、そして個人的な面でかなりショッキングな本でした。
アメリカ合衆国は今年大統領選挙を控え、バイデン大統領とトランプ前大統領が再び激突する勢いだ。
二人を前面に共和党と民主党、そしてそれぞれの党を支援する人々の間の対立と分断はますますその溝を深めているようにみえる。しかし、その中身を更に細かく見ていくとキリスト教保守派とそれ以外、有色人種と白人、富裕層と貧困層、年齢、性別などで複雑に分断が生じていて、それぞれが不寛容の度合いを強めるばかりで歩み寄りは不可能とさえ思える状況となっている。
そのような対立と分断は日本も同様で、国民を顧みることのない自民党議員たちのやりたい放題のなかで国民の怒りは頂点達しようとしているなか頑迷で不寛容な自民党支持者層の存在と細分化し迎合できない野党により選挙結果が揺るぐ兆しは見えない。
少子高齢化、世界最高齢の平均年齢、老朽化する原子力発電所など山積する問題は何一つ前進することなく、自民党と支持者たちにとって都合の良い法令ばかりが決議されている。
自民党支持者たちと反自民党派の対立は激しく最早歩み寄ることなど不可能だと思われる。またそれに留まらず子育て世代、そもそも結婚したり子育てすることを諦めているのではと思われる若年貧困層の人たち、富裕層、中間層、貧困層とアメリカと同様に分断は細分化され、それぞれがそれぞれと対立する構図で何がどうあるべきなのか、何が正しいのか、今何が問題なのかといったことについて何一つ共通の解をもてずにいる。
しかし、これ今に始まったことではなくてずっとこうだった。子供だった僕らが単に無知で気が付いていなかっただけで、アメリカも日本もその他の国も同様に分断と対立は続いてきたことを読書体験してきた。
そうした事実を知ることは驚きの連続だったが、更に驚いたのはそのような実態に気づかずにいる人がまだまだたくさんいるということだ。
目の前の生活で精一杯だ。自分たちの置かれいる環境を当たり前のものとして疑問を抱く機会がない。芸能やゲームなどに目を逸らされている。政治や経済に関心興味がない。様々な理由が考えられるのだけども、結果として不利益で不公平な法律やルールによって搾取され貧しくなり続けていることに気づくこともないので怒ることもない。
いつからどうして世の中はこんな世の中になったのか。
第一章 過ぎ去りしは序幕
第二章 経済――平等性の盛衰
第三章 政治――部族主義から礼譲へ、そして元通りに
第四章 社会――孤立と連帯の間
第五章 文化――個人主義 対 コミュニティ
第六章 人種とアメリカの「われわれ」
第七章 ジェンダーとアメリカの「われわれ」
第八章 二〇世紀の弧
第九章 漂流と統御
謝辞
訳者あとがき
原注
索引
1963年生まれの僕の記憶に残る範囲の視野で世の中を俯瞰するに、対立と分断の度合いは子供の頃に比べて強まるばかりだった。まずは僕の親について、社交的だった父は家によく会社の同僚を呼んで遅くまで麻雀しながら呑んでいたり、社員旅行だと云って僕ら家族も連れて会社の人たちと旅行に行ったり、採った山菜だ、搗いたお餅だといっては友人や取引先の人たちの家々をまわって配って回っていた。
予科練の少年飛行兵として入隊経験がある割には敵対していたアメリカに悪い印象がある気配は全くなく、母は母で東京のアメリカ大使館で通訳として働いていたりして二人ともアメリカの事が寧ろ好きなだった。僕が生まれる前、仙台市内で迷子になっていた米兵に声をかけて一晩家に泊めてあげたことがあったらしい。ちょっと前まで戦争してたのに?泊る方も泊る方だけど。
休みの日には父方の本家だったり母の兄の家だったりと親戚の家に行く、または誰かがやってくるのが当たり前でひっきりなしに人が出入りしていた。なかには玄関から入ってきて裏の家に勝手口から出てってしまう人もいて我が家のサンダルはどこの家のものなのか判然としない感じになっていたっけ。二人は政治思想らしきものを語ることもなく、対立や分断とは無縁と思えるような人だった。そしてそんな僕らを取り囲む親戚、友人、知人たちも互恵的でみな一貫して寛容だった。
しかし僕が大人になり、世の中のことを深く知れば知るほどそうした人たちの背後に分断、対立が忍び寄りいつしか世の中は、自分本位で不寛容が広がるぎくしゃくとして殺伐としたものになってしまった。
ジャレド・ダイヤモンドはその著書のなかで一昔前の研究者たちは反対する意見を持っている人同士でも、会合が終われば家に呼んで一緒に晩餐をとったりするのが普通だったが今では講演会に行くためにボディガードが必要になっきたと語っていました。
いつしか僕はこうした世の中である今がどうして今ある形になっているのか。それが本を読む大きな動機になっていた。
パットナムの本もそうした、決して高いとはいえない僕のアンテナにかかったものであり「われらの子ども」も大変興味深く読ませてもらいました。彼の有名な本の一つに「孤独なボーリング」という著書がある。未読だが、地域のコミュティーが解体し一人孤独にボーリングに興じる人たちがみられるようになってきた背景を探る本になっていたはずだ。
そんな彼の新作となれば是非ということでとりかかった訳でありました。
本書はアメリカが過去125年、1870年代から現代という期間の間、世の中の思想、文化がどのように変遷してきたのかをあぶりだしたものになっている。そのベースとなっているのがNgramだ。
Ngram、Google Ngram ViewerはGoogleが1500年から 2019 年までに出版された印刷物に含まれる検索文字列のセットの頻度をグラフ化するオンライン検索エンジンだ。
われわれはたまたま、この文化的変化をめぐる歴史的物語をインターネット時代の驚くべきツールが生み出した証拠によって補強することができる。グーグルは一六世紀までさかのぼる、半兆語以上の英単語が含まれる数百万冊の書籍をデジタル化している。ウェブサイト(http://books.google.com/ngrams) を利用することで、長期間を通じたいかなる単語もしくは単語群の相対出現頻度を表示すること、したがって単語や概念の文化的顕出性の傾向を推定することが可能となっているのである。われわれはおよそ一八八〇年(われわれが関心持つ時期が始まったとき)から一二〇〇八年(アーカイブが入手可能な最終年)までにアメリカで出版された全書籍に基いた Ngram の証拠をしばしば使うことになる。文化の歴史的研究のために Ngram を先駆的に利用してきた研究者らは、この分野を「カルチャロミクス」と呼んでいる。彼らの主張では、文化的変化を探求し計量化するための新しくより精密な手法を Ngram が提供していて、それにより文化についての主張が単なる主観的なもの以上となるのである。
この方法は「書籍が、化について実体を持つ公的な表象になっているという前提に基づいている」。確かに、著者や書かれた言葉が文化的変化の唯一のバロメーターであるということはないが、書籍には時間を超えた類似性や差異が系統的に記録されるという利点がある。グーグルのアーカイブは非常に広範なジャンルー 探偵小説、歴史書、園芸書、児童書、詩、時事評論、自己啓発書、科学・医学教科書、旅行ガイド、恋愛小説、料理本その他――をカバーしているが、どのジャンルに限って利用するかはユーザーに許されていないため、特定の時代に識字能力のあるアメリカ人が何を書きまた読んでいたのかについて大まかに指し示すものと解釈するのがよいだろう。
検索エンジンを利用して特定の単語や熟語の頻出度合いを比較していくことで人々の関心毎や価値観を把握しようという試みだ。パットナムは「われらの子ども」を最後に著作活動を引退する意向であったらしいのだが、この新しい技術を活用して研究し本を著わすという提案を共著者から受け翻意したらしい、それほどこの技術とそれによってもたらされる結果が魅力的であったからなのだろう。
検索エンジンは"GOD"であれ"LOVE"であれ単語を登録するとあっという間にその出現頻度が時間軸でグラフ化されてくるものだが、その変化の意味合いを探る、有意な結果を得るためには相当の知識と分析力がなければ役に立てるのは難しい代物のようだ。
しかし彼らはこうしたツールを利用して互恵的、相互扶助的で寛容な社会と、個人主義的、不寛容、利己的な社会の変化の過程とその変遷を探っていったところ驚くべき事実に行き当たったのだという。
それは、1870年代、80年代の気風が現代と驚くほど共通点があるということ。それが時代を追うごとに徐々に協力的で互恵的な社会へと変化しつづけ、1960年代、70年代をピークに突然失速、そして後退をはじめ坂を下るように協調性がない不寛容な時代へと変わってきたのだというのである。
一八七〇年代、八〇年代そして九〇年代の米国は、驚くほどに今日と似ている時代だった。不平等、政治的分極化、社会的混乱、文化的ナルシシズムが広がっていた――それら全ては、現在と同じように、前例なき技術的発展、繁栄そして物質的豊かさをともなうものだった。この相似は本当に顕著なもので、先述の描写は今日のわが国についてほとんど一字一句を書き記していたかのようである。マーク・トウェインが「金ぴか時代」と嘲った時代を振り返ると、鏡をのぞいているような不気味な感じがする。もちろん、この厄介な類似性はすでに他の評者によって指摘されてきた。道行きを変えなければ今日のアメリカ人は、歴史のなかの醜い一章が繰り返されることを許した罪で有罪となろうと正しく警告を発してきたのである。しかしこの比較――見てのとおり驚くほどに適切である――から必然的に抱かれる問いは、このように困難な事態に陥った前回、わが国にいったい何が起こったのかというものである。一八〇〇年代終わりの破滅の予言も絶望的な不安も、成就しなかったのは明らかである――アメリカというプロジェクトが取り返しのつかない方向に向かうという懸念は杞憂に終わっている。それでは、前回のアメリカ金ぴか時代から、現在のわれわれの苦境にはどのように至ったのだろうか。その間の世紀には何が起こったのだろう。
本書では例えば黒人の差別の度合いの変化についてこの125年間の初期から1960年代までを追ってみると従来考えられてきたような公民権活動が世の中を大きく変えたのではなく訳ではなく、徐々に改善が進んできた寧ろ公民権活動は最後にやってきてピークを迎えると同時にその直後に失速していることを発見したことを紹介していた。
人々の信仰心や、コミュニティ活動の活発度合い、政党間の妥協度合いなど様々な尺度で分析してみるとどれも皆同じ時間軸のなかで上昇と下降をみせていることがわかったのだという。
時代の分岐点が1960年代70年代と自分が育った時期にあったということだ。その変化の最中にいながら何も気づかずに過ごしてきた訳だが、本書を読むと様々な出来事が正に社会の変質を物語っていたことがわかる。そして父母や親戚たちの社交的で開放的な生活に比べて自分は真逆とまでは言わないまでも、間違いなく個人主義的で他人に対する信頼感や互恵的な意識、コミュニティに対する帰属意識は低く、時代に趨勢に沿っているというべきなのか、自分もその一部になってきていたのだということが何よりもショックだった。
どうして僕らはこんなにも自分たちの親たちと価値観や意識にこんなにも違いがあるのだろうか。どういう事がこれほどの違いを生み出しているのだろうか。
六〇年代は単なる文化的転換点ではなく、多次元的な、さもなくば無関連な社会的危機が連鎖して、長らく茹だっていた多くの対立が沸騰した時期だった。
・JFK、RFKそしてMLKの暗殺
・ベトナム戦争
・学生運動
·公民権革命
・都市危機と都市暴動
・国内テロと虚無的暴力
·女性運動
・ピルと性的革命
・カウンターカルチャーと薬物汚染
・伝統的宗教と家族的価値に対するかつてない異議
・相次ぐ環境危機
・ウォーターゲートとニクソン辞任
・スタグフレーション、石油不足と経済停滞
根本的な意味でこれらは全ておおむね独立した、無関係な現象だった――ピルを「引き起こした」のが何であっても、それは「ベトナム」を「引き起こした」ものではないし、ドラッグ汚染を「引き起こした」のが何であっても、それは石油不足を「引き起こした」ものではない。しかし一緒になると、これらのさまざまな危機はシナジー効果を持ち、国家的な神経衰弱のようなものを引き起こしたように見えるのである。それは最悪の嵐の極みであり、その嵐の激しさ自体が急激な文化的、政治的転回に貢献した。
何か一つの要因に絞ることは困難だとしながら1960年代から立て続けに起こった事象が世の中を人々の意識を変えていたのだという。おそらくは日本でも、そこで育っていた僕らも何かしらの影響を受けていたということなのだろう。
石油危機でなぜかトイレットペーパーの買い占めが進み、スーパーの棚が空っぽになった。母もびつくり呆然としつつも慌てて買い物に走ったなんてことがありました確かに。知らず識らずのうちにこうした出来事を通じて我々は考え方を変えてきてしまっていたのだ。
本書はそれに留まらず、では先々再度上昇に転じるためにはどんなことが必要なのかという問いを立てて思索を続けていく。
しかし、ことはそう簡単に変化するとは思えない。そして自分がこうした時代を生きてきたことをはっきり明確に気づいた僕個人として感じることは、環境や経済、治安などが今よりも良くなるのではなく、悪くなる一人では、家族だけでは乗り切れないような事態にならないと下降のベクトルが反転上昇することはないのではないかとすら感じている次第です。
本書の目の付け所と引き出してきた分析結果にはただただ脱帽でありました。
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「黒牢城」
米澤穂信
2024/03/03:娘に勧められて初めて読んだ米澤さんの短編集「満願」は書き手の手練手管がよく示された作品群でありました。とても面白くよませて頂き、今度は長編を是非。なんて思っていたのだけど、それからもう1年以上も経ってしまった。
その事実に先ほど僕は二度見しました。あれからそんなになるのか。
ようやくその機会が巡ってきた「黒牢城」は直木賞、山本風太郎賞、そして「ミステリが読みたい!」、「週刊文春ミステリーベスト10」、「このミステリーがすごい」、「本格ミステリ・ベスト10」の四代ミステリーで史上初の四冠制覇という偉業を成し遂げた本なのであります。
カミさんも娘も読みたいと言っていて、まずは最初に僕に順番を回してくれた。
なんか否応もなくハードルが上がるな。
そしてろくに前情報がないまま読み始めてしまいました。
結果、びっくりでした。特設サイトには、「デビュー20周年の集大成。『満願』『王とサーカス』の著者が辿り着いた、ミステリの精髄と歴史小説の王道。」とありましたが、なるほどそういう事かと。
僕は日本のミステリや歴史小説をそれほど読んできていない。なので判ったようなことを言える立場ではないのだけど、歴史小説であると同時にミステリであるというこんな構成・展開になっている本って海外ミステリでも読んだことがないと思います。
こういう本にしようとしてできてしまってしかも面白いと多くの人に言わしめる米澤さんの才能はすばらしいという他ない。
そして更に驚いたのはこの物語、主人公や登場人物は史実を基に描いているということでした。
知らなくても充分楽しめる本でありましたが、史実をある程度知った上で本書を読んだ方がきっと何倍も面白かったのではないかと思います。
僕はこの通り全く知らずに読んでしまいました。そして後から登場人物たちとその歴史に触れ、またしてもこの本の時代の切り取り方の見事さに舌を巻きました。
おそらくそれは米澤さんが単なる歴史小説ではなくミステリ仕立てにしたかったからこそ、この時期、この舞台だったということだったのだなーということです。
これから読まれる方のためにもちょっとだけ触れさせていただきます。本能寺の変より四年前、天正六年の冬。織田信長に叛旗を翻して有岡城に立て籠った荒木村重という人物は実在で史実通りの設定となっています。
そしてその城に幽閉される織田方の智将・黒田官兵衛も、村重の側近たちも実在の人物なのでした。
北野武の「首」の予告編では織田信長と思われるキャラクターが配下の者に刀の先に刺した餅を食わせるシーンが登場していてご覧になった方もいるのではないかと思います。僕はこの「首」もまだ観ていないのでこの相手がだれかはわかりませんが、織田信長と村重のエピソードにはこの餅を食わせる話が残っていました。
村重がなぜ信長に叛旗を翻したのか。それは諸説あり真相はさだかではありません。本書でもその理由に言及されているところはなかったように思いますが、それでも村重の思いというか覚悟というようなものが鋼のように肝にあるのだということがはっきりと描かれていたと思います。
いやはや本当にこの本は素晴らしい。そしてこうした本を推してくる日本の読者の方々もまた素晴らしい読み手であると思いました。
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2024/02/23:一般的に人類が持ち合わせている「協力」、「協調」、「互恵的」、「利他的」行動というものはどのように進化してきたのだろうか。そしてそれらは遡るとどのような時代にどのような生物によって獲得されてきたのだろう。
そんな思いで本書を読み始めたのだけど、なんだか話題が飛び地飛び地な印象。そのため各章での話のポイントが把握できずちょっと迷子になりました。そして予想以上に込み入った話がなかなか頭に入らない。
しかし、これタイトルの「生命全史」がミスリードさせているようです。原題は「協力が世界をどのように形作ったのか」であって「全史」的な時間軸を追うものにはそもそもなっていない。自然科学の読み物としてはあるあるな話の落とし穴にまたまたはまってしまった。
そして、なぜ進化の過程を追う時間軸で本書が構成されていないのかというポイントにこそ、本書の肝があった。
親が子を、配偶者、集団を守る、種を超えた他の生き物を守ると云った行動の有無を調べていくと、予想以上に種ごとにむらがあり、似たような「協力」行動を示す生物は種を超えた飛び地に存在する一方で、近い種同士では持ち合わせていないことが多いからなのだった。
冒頭で紹介されるのはフォレリウス・プシルスというブラジルにいるアリの例だ。このアリは群れで巣に暮らす一見普通の社会性のアリだが、夜になると巣の入り口をふさぐために一定数のアリが巣の外に残る。そして巣穴を塞ぐと巣の場所が外敵に知られないように去っていく。そのアリたちの運命は確定的でその夜のうちに捕獲されるなどで命を落とすのだという。なかなかに衝撃的な話ではないだろうか。
これが毎晩繰り返されるという行動が群れで綿々と引き継がれていくということにはとても驚かされる。なにがどうしたらそんな形質が生まれそしてどうやって引き継がれていくんだろう。
目次
第1部 「自己」と「他者」ができるまで(協力を推し進めるもの;個体の出現;体のなかの裏切り者)
第2部 家族のかたち(育児をするのは父親か母親か;働き者の親と怠け者の親;人類の家族のあり方;助け合い、教え合う動物たち;長生きの理由;家族内の争い)
第3部 利他主義の謎(協力の社会的ジレンマ;罰と協力;見栄の張り合い;評判をめぐる綱渡り)
第4部 協力に依存するサル(他人と比較することへの執着;連携と反乱;パラノイアと陰謀論;平等主義と独裁制;協力がもたらす代償)
本書はあちらこちらでびっくりするような「協力」の例が登場してくる。クモ、鳥、魚・・・。なかには冒頭のアリの例同様、人類が行っているような「協力」という概念から飛びぬけた自己犠牲を当然のように行っている生き物がいる。
その一方でサル、チンパンジーやゴリラと人類を比較では、仲間同士の絆を深めるための毛づくろいや弱者の支援といった協力的な行動もその原理を深く掘り下げていくと異なる部分が多いようで、例えば人間は他者からの評判を気にするという側面がある一方サルには評判を得るために利他的な行動をとるようなことはないというように、大きな差異がみられるのだという。
他人からの評判を気にするのは人間にだけみられる特質なのかと思えば実はそうではなく、他の魚の身体につく寄生虫をクリーニングするソメワケベラはちゃっかり魚の粘膜やうろこを頂戴しているのだが、やりすぎると自分のところにクリーニングしてもらいにくる魚が減ってしまうため、パートナーがやり過ぎないようけん制する。また近くに顧客になりそうな魚がいるとクリーニングを丁寧にしてみせるようなこともやるのだという。つまり評判が落ちないように行動しているのだ。
魚のなかに自分たちの評判を気にするものが存在する一方で、類人猿にそのようなものがいないというこの飛び地な状況はどうして生まれたのだろうか。
また、特定の種のなかではこうした形質が次世代へ引き継がれていく一方で近隣の種同士の相関があまりみられないというのはこれは一体何を意味しているのだろうか。
冒頭のアリの例をはじめとする様々な生き物たちの驚くような形質は残念ながらどこでどのように獲得されたのかは謎のままだ。それはまるでダーウィンを悩ませた「眼の誕生」のように中途半端な出現は役に立たず、突然完成形として出現してきたかのように見える。
本書では人間がどうして評判を気にするようになったのかについて解説されているのだが、それはとても長くて込み入った話で、かつまたこの説明がソメワケベラに適応できるようなものではない。
進化生物学や動物行動学のなかで利他的行動、協力行動は様々な議論が交わされているようだが、定説はまだなく、諸説交錯した状況のようだ。
なので残念ながら本書で登場してくる協力能力獲得の物語もそうした諸説の一つにすぎず、個人的にも腹落ち感はあまりありませんでした。
しかし、それでも本書は読む価値が十分にあると思う。はるか昔に細胞が別の細胞を自分自身の細胞内に取り込み共生するようになった。この細胞内の細胞はミトコンドリアと呼ばれる。
どうしてこんなことが起こったのかは謎だが、この取り込んだ細胞ととりこまれたミトコンドリアは協力することで互いにメリットをみいだし、そのまま共存する道を選んだという訳だ。
現在、この真核細胞がミトコンドリアを取り込んだ起源は単一だとする説が有力なようで、たたの一回起きた奇跡のような出来事が、真核生物の能力を一変させた。
外敵に囲まれ、喰うか喰われるかの戦いを日夜繰り返していく生き物たちのなかでたまたま協力関係が生まれ、それが強みとして生き延び、それが形質として引き継がれてきた。そして協力関係も地質学的な時間軸のなかでは生まれては消えたりを繰り返しているのかもしれない。飛び地でみられるこの協力関係はそんな偶然から生じているのかもしれない。
ちょっと世界がまた違って見えてくるような読書体験でありました。
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2024/02/11:ブラックホールの姿を捉えようとした天文学者たちの実話。確かにすこし前だけどこれがブラックホールの姿だとして報道されていたのを覚えていた。しかし僕のなかでは時折ながれてくる天文学や物理学の他のニュースに比べて飛びぬけた印象はなかったし、その映像に惹きつけられることもあまりなかったと記憶している。
紹介されたその映像の中心はやはりどこかぼんやりしていて真っ黒い球体のような姿だったはずだ。
それを見たときに思ったのは、これが本当にブラックホールの姿と云えるのかなということだった。だってブラックホールは光ですら脱出できないすさまじい重力をはなつ途轍もない質量の物質というか天体であって、自ら光ることもなければ、他の天体の光を反射することもない訳でそんな天体の姿は「見えない」ハズなんじゃないのか。
とか。
はたまたブラックホールの周囲はブラックホールに落ち込むかその周りを光速近い速度でギリギリ回るガスがプラズマ化しており、それらが高温で光ることからやはりその中心にあるブラックホールは「見えない」んじゃなかったのか。
そんな思いが邪魔してこれがブラックホールの姿だとして見せられた映像に素直に「なるほどそうなのか」と言えなかったのでした。
面白いのかなこの本とやや懐疑心すら抱きつつ読み始めたのですが冒頭、このプロジェクトに20年かかったと書かれていて俄然興味がわき一気読みとなりました。
著者のハイノー・ファルケはドイツ人でオランダにあるラドボウド大学ナイメーヘンの電波天文学と天体素粒子物理学の教授。イベントホライズンテレスコープ(Event Horizon Telescope; EHT)というプロジェクトの活動を通じて、2019年、M87中心の巨大ブラックホールの撮像が公開された。この観測により、超大質量ブラックホールの事象の地平面の周囲に存在する光子球の存在とそれが作るブラックホールシャドウが直接確認された。ブラックホールシャドウのサイズは1000億km、事象の地平面の直径は400億kmと見積もられているという。
そう正確にはブラックホールの姿ではなくブラックホールの影だったのだ。
【目次】
前書き
プロローグ
本書について
第1部 空間と時間のなかを進む旅
第1章………人類、地球、そして月
第2章………太陽系と進化する宇宙モデル
第2部 宇宙の謎
第3章………アインシュタインが一番楽しんだアイデア
第4章………天の川銀河とその恒星たち
第5章………死んだ恒星とブラックホール
第6章………銀河、クェーサー、そしてビックバン
第3部 世界初のブラックホール撮影への道
第7章………銀河中心
第8章………画像の背後にある考え方
第9章………地球サイズの望遠鏡を作る
第10章……遠征への出発
第11章……現れ出る画像
第4部 限界を超えて
第12章……私たちの想像の力を超えて
第13章……アインシュタインを超える?
第14章……全知と限界
謝辞
EHT著者一覧
用語解説
訳者あとがき
原注
索引
第1部、第2部は天文学の進展に伴い我々の宇宙に対する理解の変遷を駆け足で進んでいく、こうした本を繰り返し読んでいる僕としてはここにサプライズはほとんどないのだけれども、従来考えられていた宇宙の姿が実は全く違うものであったというパラダイムシフトの話は何度読んでも面白いと思う。
特にアインシュタインによる相対論の話は繰り返し読むに堪えうるというか繰り返し読む価値がある物語だと思っています。同時に本書は天体、宇宙観測の技術的進化の話が同時に語られていて興味深い。
行き着く先は電波望遠鏡の仕組みと働き。そしてそれがイベントホライズンテレスコープ(Event Horizon Telescope; EHT)へと発展していく。
しかしその歩みは恐ろしく遅い。なにせ足掛け20年もかかっているのだから。
遡れば1990年代、クェーサーが発見されブラックホールの概念が構築され受け入れられていく過程のなかで、どうにかしてこのブラックホールを捉えられないかと考えた天文学者は少なくはなかった。
著者もその一人で当時はまだ若く駆け出しだったなかで論文を書いたことに端を発している。それ以来、著者はブラックホールの姿を捉えようと研究を重ねていく。
長い研究の成果により観測のための研究費が支給され、複数の電波天文台のデータを同時に収集し集約することで分解能を大幅に改善させることで件のブラックホールの影を捉えることに成功したのだった。
プロジェクトは全世界で13の研究機関、200名を超える研究者が参加する巨大プロジェクトへと成長していく。
地球上に点在する電波望遠鏡と観測対象は、地球の自転、公転により刻々とその距離と方向を変えていく。そしてさらに地球上の位置も太陽や月の重力、地殻変動によって常に変動しつづけている。
そんな環境にある観測データを原子時計とGPSで補正しデータを統合していく必要があるのだという。
このEHTの構築とその仕組みに関する内容はちょっと興奮する程に面白かった。
そして改めて目にするブラックホールの影は従来とは打って変わって饒舌で美しい。
この本読んでよかったと思う瞬間でありました。
しかし、しかしであります。
第4部はご本人が実は敬虔なキリスト教信者であることが明らかにされ、電波天文学と天体素粒子物理学の教授であることと同時にキリスト教信者でいることの論理的合理性のような話へとスライドしていったのにはびっくりしました。
宗教、信仰の自由はあり、物理学者や天文学者がキリスト教徒であること自体に「悪い」とか「おかしい」とは思わないんだけれども、こうした本でその合理性を訴えられても正直理解不能だし、そんなものを押し付けてくる必要性は全くないんではないかとも思う。
訳者の方もそのスタンスにはかなり違和感があったようで、訳注が挟まれたり、訳者あとがきでもコメントがありました。
著者の自伝的性格が表れているという解釈もできるのかもしれませんが、はっきりいってこれは蛇足以外の何物でもなく、本書の価値を貶めていると思いました。
△▲△
2024/02/03:マルティン・ベックシリーズの第5巻は本書「消えた消防車」特に好きで何度も読み返していた気がする。しかし案の定どんな話だったのか全く思い出せない。
1968年3月。街は外国人労働者が増加し、それとともに犯罪が増加、若者たちの間には麻薬が広がりつつあった。
またベトナム戦争に対する意見の食い違いなどによって世代や人種間での対立もまた目立ち始めていた。
そんなある寒い日、深夜のアパートの一室で拳銃自殺を遂げた一人の男がいた。電話の脇には「マルティン・ベック」と書かれたメモが残されていた。
グンヴァルド・ラーソンは殺人事件の捜査から一時外れて他所の部署から依頼されたとある男を監視する仕事を引き受けていた。その男は小さなアパートの一室で夜を過ごしているはずだった。このアパートを見下す凍える丘に立った彼の目の前でそのアパートは突然爆発炎上した。
ラーソンは孤軍奮闘、建物の下に駆けつけるや飛び降りてくる住民たちの身体を受け止め、ドアを蹴破りアパートの中で取り残された人を助け出すのだった。自らも火傷、裂傷を負いながら多くの住民を救出するも、肝心の監視していた男は焼死していた。あとから駆け付けてきた警察官はおかしなことを言う。とっくに到着しているはずの消防車の姿がないというのだ。
監視下にあったマルムという男は窃盗犯の捜査線に浮かんだ男であった。彼は自動車を盗み、偽装ナンバーと再塗装して外国へ売り飛ばしていたらしい。そして国立犯罪技術研究所の鑑識官イェルムは、このマルムが火事になる前に死んでいたこと、そして彼が寝ていたマットレスの中に小さな発火装置が仕込まれていたことを発見する。
単なる失火かと思われた火事は事件となり、そしてその事件は思いがけない広がりをみせていく。警部に昇進したコルベリ。フレデリック・メランダー、エイナール・ルンといったシリーズ常連の登場人物に加え、殉死したステンステルムの後任として配属され、昇進して署長になるというのが夢で何かと空回りしているベニー・スカッケ。マルメ警察のペール・モンソンらも捜査に加わり、不可解な謎が多い事件のてがかりを追っていく。
ベックはひとりショックを受けていた。家族の中で唯一心が通じ合うと考えていたイングリッドが17歳になったことを契機に家を出て一人暮らしをするのだというのである。ベックの心を察したかのようにイングリッドは「どうしてパパは家を出ないの?」と問うのだった。1960年代後半の世相を背景に事件を追う捜査陣たちの私生活も丁寧に描かれ読む手をとめるのが難しい。
何より孤高に戦うグンヴァルド・ラーソンの活躍が目覚ましい本書はやはり傑作でありました。
ところでシリーズのスウェーデン語からの直訳は一旦本作でおしまいになってしまったようだ。こんな面白いシリーズなので是非最後まで頑張って欲しかったのだが。
ここまできて行き止まりについてしまった僕としてはどうすべきだろうか。昔の本を探して最後まで行きましょうかね。
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2024/01/21:とうとうと云うかようやくと云うかル・カレの本の最後の一冊にたどり着いてしまった。
折しも今日の浦安は冷たい雨。まるでじっくり時間をかけてまとめろと背中を押されているようだ。
遥か昔に読んでいるはずの本書だが、実は全く印象がない。
1970年のボン。東西ドイツ再統一以前、イギリスはEC加盟に向けて地ならしに気の抜けない日々を送っていた。
当時のボンでは反英を掲げる化学者カーフェルトという人物をリーダーとする反英運動のデモがその熱量を上げつつあった。近くカーフェルトがボンを訪れ演説する予定になっているのだった。
ハノーファーのイギリス図書館ではデモ隊が乱入し、図書館員の女性が暴行されるという事件も起こっていた。
まずもって当時の時代背景に疎い僕のような読者にとって、ドイツの壁の崩壊と東西ドイツの再統一とは、東ドイツの西側への開放であって、西側にしても東側にしても統一に反対、後ろ向きの人がいたとは思うものの、西ドイツの市民の反英感情というものがあったというのは全く寝耳に水の光景でありました。
そんな彼らにしてみれば東西ドイツの統一よりもイギリスのEC加盟は、決して受け入れられるものではなかったのだろう。曰く、甘い言葉で西ドイツのNATO加盟を認めながらナチスドイツのユダヤ人迫害の事実を基に、西ドイツには指揮権を与えず、金と兵力だけを供出させられているその糸を後ろで操っているのは他でもないイギリスだったからだ。
そんな反英感情に囲まれたボンのイギリス大使館では大問題が持ち上がりつつあった。大使館内にあった手押し車やタイプライター、コップやヒーターのような備品がなくなっていることが解ったかと思えば、極秘資料のファイルの50冊近くがなくなっており、そして次には職員の一人リオ・ハーティング本人の行方が分からなくなっていることが判明したのだった。
リオは、このボンのイギリス大使館に21年間という長きにわたり臨時雇員として働いてきた男だった。第一次世界大戦時に難民としてドイツ渡ってきた両親に連れられた子供で第二次世界大戦ではドイツ軍に兵士として従軍、戦後は着の身着のままで領事館の仕事にどうにかありつき、そのまま仕事を続けてきた人物であった。
ドイツ人と認めらず、イギリス大使館のなかでも大使館職員とは立場が異なりり、やはり余所者的な立ち位置。
勤勉で慇懃に働くリオをイギリス大使館のメンバーは便利に使っていたのだった。
「何、リオの行方がわからん?そんな訳なかろう」二日酔いで寝込んでいるかどこかの女性のもとにしけこんでいるとかそんな事なんじゃないのか。当初は全く危機感のない大使館であったが、彼の不在がいよいよ本物であるらしいことがじわじわと理解されるにつれ、イギリスの立場を揺るがす大問題を孕んでいることが明らかになっていく。
それは、無くなったファイルのなかにはEC加盟に向けてボンの大使館がいつどこでだれとどんな話をしているのかという議事録が含まれているからだった。
イギリスの言動が明らかになればその信用が失墜し西ドイツとの関係が壊れてしまいかねない内容が書かれているらしい。
危機感を持った本国イギリス外務省はリオとその無くなったファイルの行方を追うために一人の人物を送り込んでくる。アラン・ターナー。外務省公安部に所属する男だった。
ボンへの出張も、行方不明の男を追う仕事も気乗りしない仕事であるが、得意とする仕事でもあり、一旦始めたらが最後、どこまでも追い続ける性分であることが解っている男だった。
リオはファイルを持ってソ連に駆け込んだ東側のスパイだったのだろうか。どんな仕事を託していたのか、どうして21年間という長きに渡り雇用し続けていたのか。
ボンに到着するや否や大使館のメンバーから聞き取り調査を始めるターナーであったが、誰も口が重く、何かを隠しているような気配があるのだった。
断片的に起こる出来事。判明する事実。登場人物たちが語った話。あれやこれやが徐々に繋がり、背後で起こっていた物語が明らかになっていくのだけれども、これが更にまた二転、三転とその世界観を大きく変えていくその驚き。そして圧倒的な結末に向けて進むその展開。
こんな本だったとは。おそらく昔読んだ僕はまるで読解できていなかったに違いない。
そんな本書をこうして今読んで感動できたことは稀に見る至福の読書体験でした。
ル・カレとその本に出合えたことは僕の読書人生を大きく変えてくれました。ただただ感謝であります。「ドイツの小さな町」はまたもう一度、いや許されるなら何度も読み返していきたい。ル・カレと一緒に。
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2024/01/04:またしてもカミさんがやってくれました。読んでみてと差し出してきたのは他でもない森永卓郎の本でした。
僕のなかで森永さんは自民党シンパだったし、おかしな言動でメディアからも干された感もあってイロモノ的な人。
自分からこの人の本を読むことは決してなかったと思う。
しかし、まーとにかく読んでみてくれと。
軽めの本だったし年末年始のお休みにではと読み始めましたが、中身は大真面目でかつ僕らが普段あまり考えることがなかった、税務や社会保障そしてさらには日本の財務に関するもので、「失われた30年」と叫ばれている昨今の諸悪の根源が実は自民党ではなくて財務省にあるのだという読んでみれば確かにそういうことだったのかと腹落ちする内容でありました。
まーだからって自民党が悪くないとかいう話でももちろんない。しかし世の中は僕らが考えているよりもずっとずっと複雑怪奇であり、
事であれ人であれ、その良し悪しや善悪というものが白黒はっきり線が引けるものではないという当たり前のことを改めてじっくり考えさせられるという思いもよらない深い洞察を与えてくれる本だった訳でした。
こんな本をぶっこんでくる僕のカミさんってさすがじゃないか。
話の要は日本政府が縛られている財政均衡主義というものがいかに誤りで、その弊害が正に「失われて30年」を生み出しているということであり、そしてそれは今でも続いている。
目次
第1章 ザイム真理教の誕生
第2章 宗教とカルトの違い
第3章 事実と異なる神話を作る
第4章 アベノミクスはなぜ失敗したのか
第5章 信者の人権と生活を破壊する
第6章 教祖と幹部の豪華な生活
第7章 強力サポーターと親衛隊
第8章 岸田政権は財務省の傀儡となった
財務省のサイトをみると、「プライマリーバランスとは何か」、これからの日本のために財政を考えるというページに簡潔に説明されている。
https://www.mof.go.jp/zaisei/reference/reference-03.html
プライマリーバランス(PB)とは、社会保障や公共事業をはじめ様々な行政サービスを提供するための経費(政策的経費)を、税収等で賄えているかどうかを示す指標です。現在、日本のPBは赤字であり、政策的経費を借金で賄っている状況です。
我が国の2022年度の一般会計予算(当初予算ベース)で考えてみると、「政策的経費」とは、歳出総額から国債費の一部を除いた83.7兆円、「税収等」とは、歳入総額から公債金を除いた70.7兆円であり、PBは13.0兆円の赤字になっています。
僕は営業職だった時代に長く官公庁を顧客として出入りさせてもらっていた。中央官庁がいかに予算にこだわって仕事をしているかは嫌という程目にしてきた。翻って自分たちの会社もやはり予算に縛られ営業は走り、経費の紐はきつかった。そして自分の家でも、予算こそなかったけれども、入ってくる以上に使ったら大変なことになることは明白で当たり前のことだった。
こうした目線から国がプライマリーバランス、財政均衡を訴えていることに不自然さは全くなかった。気が付いたら巨額の借金を抱えて、「首がまわらな」状態にあり、この借金を我々やまだ生まれてもいない次世代の人たちが背負って返済していかなければならないとは何事なんだと。それを積み重ねてきた奴らこそ自民党であり、どうしてそんな政党が与党として居座り続けていられるのかという点でも矛盾に満ちた意味不明だと思っていた。
またそんな風に考えている人は大勢いるんではないかと思う。
先ほどの財務省のサイトを先へ進むと財務状況の悪化の原因が何かについて書かれていた。
3 なぜ財政は悪化したのか(財政構造の変化)
1990年度と現在の歳出を比較すると、社会保障関係費や国債費が大きく伸びています。特に社会保障は、年金、医療、介護、こども・子育てなどの分野に分けられ、国の一般会計歳出の約1/3を占める最大の支出項目となっています。
歳出の増加に対し歳入は、経済成長の停滞などが影響して税収の伸びが見合っておらず、不足分を借金に頼っているため、公債金は約6倍と大幅に増加しています。
1990年度と2023年度を比較した時に、歳出は66.2兆円が114.4兆円に、そして社会保障費が11.6兆円から36.9兆円、国債費は14.3兆円から25.3兆円に増加したことが主な原因であると書かれています。
財務省の主な主張としては
①税収を大きく上回る歳出がなされ、その差である財政赤字がどんどん拡大している
②その結果、日本の国債残高は、どんどん増えていて、いまや先進国のなかでダントツに大きな残高になっている
③財政赤字を放置すれば、将来世代に負担を先送りすることになる
④同時に、国債の信認が失われれば、通貨の信認や金融機関の財務状況にも悪影響を及ぼす。たとえ自国通貨建ての債務でも資本逃避リスクに直面する
⑤国民が広く受益する社会保障費は今後も増大していくと見込まれ、その費用をあらゆる世代が広く公平に分かち合う観点から消費税の引き上げは必要
国債費というのは国が発行した国債の利息や償還にかかる費用のことでこれが借金返済にあたる部分とされていて、まー一般の人はそうなんだろうなと感覚的に捉えてしまう部分なんだろうと思うし、僕もずっとそう思ってきました。
とあるサイトでは国別の借金額のランキングが示されており、2020年の時点で日本はアメリカに次ぐ世界第二位で1114兆5400億円あるとされていました。そしてその記事では続けて、こんなに多くもの借金があるのに、日本が経済破綻しない4つが理由が挙げられていました。
①日本政府の574兆円の金融資産
②世界1位の366兆円の対外純資産
③円で発行される国債→1,218兆円くらいあるらしい
④1700兆円の家計金融資産
合計すると3000兆円程になる計算であり、借金額の倍以上の資産があることがわかる。こんにな資産があるのに借金でクビがまわらないはやはりおかしなことを言っていると思って間違いないようだ。
財政均衡にかかわることについてちょっとネットで調べただけで出てくるのは、財政均衡主義はそもそも予算の支出と収入が一会計年度において一致すべきであるという立場。均衡財政主義ともいう。公債発行による赤字財政を悪とするものであり,19世紀の財政学者の基本的な立場であったというような記述に出会う。
そしてこれは本書にも詳しく述べられている訳だが、WIKIなどには以下の記述がみられる。
プライマリーバランス黒字化目標は、国家財政を家計簿と混同している不適切な財政規律であり、財政の基本機能である「経済の安定化機能」および「資源配分機能」を損ない、財政を不健全化させているとの指摘が次のようにある。
日本を救うため、PB制約を撤廃し、「政策の自由度」を高めよ
^ “財政をめぐる7つのウソ (その1)”. 全日本建設技術協会. 2022年11月19日閲覧。
【三橋貴明】プライマリーバランス黒字化目標を破棄せよ
^ “日本を救うため、PB制約を撤廃し、「政策の自由度」を高めよ”. 株式会社新日本コンサルタント. 2022年11月19日閲覧。
プライマリーバランス黒字化目標の間違いが高校数学で判明
^ “【三橋貴明】プライマリーバランス黒字化目標を破棄せよ”. 株式会社経営科学出版. 2022年11月19日閲覧。
プライマリーバランス主義が間違っている理由【CGS 神谷宗幣 藤井聡 特別編 その2】
【藤井聡】プライマリー・バランス亡国論
財務省のPB黒字化路線の狂気[三橋TV第72回]三橋貴明・高家望愛
国を滅ぼす財務省のPB黒字化目標から脱却せよ!【西田昌司ビデオレター令和4年3月30日】
全日本建設技術協会の資料を掘るとこの記事を書いているのは一般社団法人 全日本建設技術協会 会長の大石久和という方でこの方は国土交通省、建設官僚だった人のようだ。このなかにはこんなことが書かれてました。
⑥「健全財政が正しい」のウソこれに対するわかりやすい批判は、歳出とは政府から国民への財の供出であるから、税収分しか仕事をしない政府が正しい政府なのかというものだ。財政均衡主義への更なる批判は、政府に裁量権を与えることは、民間の自由な行動や判断を阻害することになるとして、より小さい政府を指向する「政府否定」、つまり民主主義否定思想だとの批判である。
この思想は、わが国の一部にもあるが「財政健全化を憲法に規定せよ」といった主張と同類である。しかし、機動的な財政出動を容認しないこの考えは「一体国民は、何のために政府を組織しているのか」という根幹を否定的に整理せずには成立しないものなのだ。
⑦「このままでは財政は破綻する」のウソ間違い続けてきた財政運営の根本は、この言葉かもしれない。吉川洋や伊藤隆敏ら経済学者は、2003年に「政府債務のGDPが140%に達したが、このままだと200%を超える。これは国家財政の事実上の破綻を意味すると
言ってよい。」と、財政破綻の意味も具体的内容も示さないまま日本経済新聞の経済教室で訴えた。
しかし、現在200%を超えたが、日本国債の長期金利は世界最低レベルできわめて低いまま推移しており、破綻の兆しなどどこにも見えない。現に、財務省自身が2002年には「自国通貨建ての国債のデフォルトは考えられない」と表明しているのだ。
このように見てくると、新古典派経済学は、財政破綻を叫ぶばかりで国民が豊かになる政策を何一つ提案できず、経済成長に寄与する
方法も示すことができなかったことが明らかとなった。経済成長による税収増こそが、財政問題を解決するのである。2018年のノーベル経済学賞を受賞したポール・ローマーは、「マクロ経済学は、30年以上にわたって進化するどころか、むしろ退化した」と述べている。
アメリカの財務長官も務めたローレンス・サマーズは、「主流派経済学に基づく論文は、政策担当者にとっては本質的に無益であった」と言うし、イギリスの歴史家でもある経済学者のロバート・スキデルスキーは、「新古典派経済学がどれほどの害悪を与えたかは、
簡単に話せないほどだ」と言い、「歴史上、これほど奇妙な考え方に優秀な人たちが熱中した例はまずない」と述べている。
このウソシリーズで述べてきた財政説明のウソから脱却できなければ、この国は本当に危ないところまで来ている。われわれが、子や孫の世代に顔向けできない世代とならないためにも、正しい知識に基づく具体の行動が今ほど求められている時はないのである。
本書では
自国通貨を持っている国は財政均衡に縛られずに、より柔軟な財政政策をとれる。財政赤字はある程度拡大させて大丈夫なのだ。
と主張している。
そして国債に関する点でさらにふみ込んだ問題提起しています。
日本が抱える借金は国債という形で積みあがっている訳だが、この国債の最大の買い手は日銀だ。2021年の資金循環統計によると、国債発行残高約1,218兆円のうち、日本国債を最も多く保有していたのは日本銀行の44.48%。 つまり546兆円だ。
国債を日銀が買った瞬間に実は日本の借金は借金でなくなる。それは満期がきたら借り換えつづければいいだけだからだ。国が払う利払いですら一部を除いて国庫納付金として国に戻るのだというのである。
つまりはここで僕が何を言いたいのかというと森永さん独りの思いつきな話ではなく、異口同音の主張があちこちでなされており、結論から言うと財務省の主張は古臭い経済学に縛られた誤った考えであるということだ。
単に誤っているだけではない。こうした財政運営が続いていることで、経済成長が鈍化し、我々の賃金があがらない。賃金が上がらないのに税金や社会保障の負担が増え続けることで実質賃金が下がり続けているということが起こっている。
正に「失われた30年」の諸悪の根源が実は自民党ではなく財務省にあったということなのである。
本書を読んで更に驚いたのは安部がこの財務省と対立していたこと。財政赤字を拡大しても財政出動させようとしていたこと。財務省はこの安倍政権とかなり激しく対立していたようなのだ。森友学園の問題はそこから生まれているらしい。事件の真相こそあきらかにはなっていないが、財務省の意図が絡んでいることは間違いないらしいということだ。
だからといって安部が正しかったとか良い人だったなんて微塵も思わないんだけども。
そして大事なことは自民党かどうかに限らずこの財政均衡が誤っているという認識を持っている者は殆どいなくて、仮にいたとしても政府の要職についた途端に財務省からの強烈な洗脳を受けて考えを変えてしまうのだというのである。
財政均衡主義はかくも根深く世の中に蔓延っており、これを押しのけて財政運営するためには相当の力が必要であり、一方この古臭い箍を外さない限り、日本が経済成長に向けて動きだすことは難しいようなのだ。
オリンピックだ万博だ、軍備増強とか少子化対策だといった政策の良し悪しはもちろんではあるものの、その背後にある財政政策、こちらについて迂闊にも僕は殆ど注意を払ってきてはいなかった。
しかし実は一番大事なことが財政政策であったのだ。2024年は元旦から世の中がまたちょっと違って見えるような読書体験でありました。
今能登半島が大きな地震で甚大な被害が発生している。発生からすでに72時間が経過しているというのに救助の手が届いていない地域も多々ある模様だ。なかには潰れた家屋の下敷きになったままの人たちも少なくはないらしい。
一刻一秒でも早く救助の手が届き1日も早い復興を祈りたい。
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