2017/07/17:いろいろあって、なかなか手がだせなかった本書だが漸く手にして先ほど読み終えた。圧倒的な暴力の暴風に翻弄されつつもなぜか去りがたい世界観。
今も頭のなかでぐるぐると彼らが動き回っているようだ。 なかなか読めなかった一番の理由は義母の闘病生活にあった。いつ何時スクランブルとなるのか先行きが全く判らない日々が続いておりました。
その義母も5月に永眠。先日四十九日のお勤めも無事終了いたしました。
またウィンズロウ作品の大きな魅力の一つであった東江さんが亡くなっていることも本書に取りかかることを躊躇させる理由になっておりました。 前作「犬の力」はウィンズロウの新たな一面をみせて読者を大いに驚かせた訳ですが、この時も深刻になりすぎない、陰惨になりすぎない東江さんのボキャブラリーとリズム感は存在感があった。その続編が全く違う仕上がりになってしまうのではないかという懸念。
しかしそれ杞憂でありました。
峯村利哉さんの文章は驚くほど違和感がない。更には明らかに東江さんをリスペクトしたボキャブラリーが随所に溢れているではありませんか。 それだけでも涙がでるよ。
しかし、本書に取りかかることを躊躇させていた一番の理由がもっと他にある。 それは本書がアート・ケラーとアダン・バレーラの宿命とも云える闘いの話であることが明らかで、しかも彼らの対決がどんな形になろうとも、麻薬戦争そのものが終わる訳ではないという事実にある。
前作でバレーラはこんなことを呟いていた。
ケラーが復讐にこだわっているおかげで、短期的には経費がかさむものの、長期的には利益が増す。その辺がアメリカ人にはまったく理解できないらしい。連中のやることひとつひとつが商品の値を吊り上げ、おれたに儲けをもたらす。もし、連中がいなければ、どんなばかでも、おんぽろトラックや水漏れする旧式ボートを使って、国境の北に麻薬を持ち込むことができる。そうなったら労力に見合わないほど値が下がってしまうだろう。しかし、今の状態なら、麻薬の移送には何百万ドルもかかるので、いきおい価格は天井知らずになる。簡単に手にはいるはずの品物を、アメリカの捜査官たちが貴重な商品に変えているわけだ。
そして麻薬の供給源はこの釣り上げられたとんでもない利益をめぐって覇権を奪い合って血まみれの闘いを続けているが、いくら殺し合っても、次の奴がでてくるだけなのだ。
前作で我々はこれを嫌と言うほど思い知らされていた訳だが、ここにきて続編?ドン・ウィンズロウの本である以上、もちろん読むけども。正直、話の展開は二の次でそこにどんな思いが籠められているのか。それが判れば充分だったのでありました。
本編は予想通りというか、期待以上に「犬の力」を更にがっちり圧縮率をあげたガチガチな硬さと濃さで疾走する。疾走というか、暴風雨に翻弄されているかのごとくの展開は全く先の読めない怒濤の物語となっている。
あまりのテンポと展開にもはやスリリング、サスペンスも蒸発してしまった感もある。 僕らは物語に描かれている悲惨で残酷な事件が現実に起こっている事件を下敷きに書かれていることに戦くしかない。
また物語は、前作以上に救いのない内容になっている。あのオスカル・ロメロを彷彿とさせたファン・バラーダも、それに準じて、市井の人々に心をくだく者は消え去り、サル・スカーチのように例え歪み頑迷であっても、正しいと信じてこの闘いに信条的な目的を見出している者も消え、あるのは只金の為、愛する人を奪われて復讐に燃え、奪い合い、殺しあう者どもばかりとなった。
しかも当事者もみなこれらの事態を制御できず、無益な闘いになっていることをわかっているのに辞められない。いや誰も止められない暴走となってしまっているのである。
もちろんこれらはドン・ウィンズロウが意図したものだろう。
そして、おそらくはドン・ウィンズロウが更に意図したものとして考えられるのは、ここに描かれていないもの。圧倒的なまでに存在感が消されている、麻薬取引をここまでヒートアップさせているアメリカ合衆国という一大消費市場のことだ。
新聞の一面に批判広告を書いたこともあるらしいウィンズロウは徹底的に状況設定を行い、麻薬戦争の非対称性、非条理さを際立たせるよう計算していると思われる。
そしてこの計算は見事に成功している。 そう、つまり物語の行く末は、麻薬戦争を闘うものども、アメリカ政府の行く先を暗示させるものになっている。
これ以外の落着に向かうことなどできはしないと思われるのだ。
「キング・オブ・クール」のレビューは
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「野蛮なやつら」のレビューは
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「紳士の黙約」のレビューは
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「夜明けのパトロール」のレビューは
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「シブミ」のレビューは
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「フランキー・マシーンの冬」のレビューは
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「犬の力」のレビューは
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「報復」のレビューは
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ニール・ケアリーシリーズのレビューは
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2016/06/26:無限小。一体何の話なのか。まったく解らないという時点で自分は如何にも数学音痴であるんだろうと思うのだけど、どんな話なのかちょっとだけ見てみたい。ちょろっと偵察してダメだったら、速攻で撤退するつもりだった。
冒頭1663年、フランスの廷臣の一人の男ができたてのロンドン王立協会の会合に招待された話が描かれる。廷臣の目的は科学アカデミーの内情を視察し、自国で同様の組織を立ち上げる参考にすることの他、もう一つ重要な役割があった。それはイギリスの王政を頂点とした政治組織と宗教の求心力を推し量ることだ。
その結果、科学アカデミーは賞賛に値するものの、イギリスの政治的宗教的信条は価値観が多様化し混沌として堕落しており、格式の低いレベルであったとうように評価されたという。まるで「薔薇の名前」を地でいくような重厚な語り口で綴られていくのは、「不可分者」を巡る闘争の物語なのだ。
ちょっと長いが勘弁。
不可分者を巡る闘争を理解するには、その概念をまず理解してかかる必要性がある。不可分者というのは一見単純であるように見えるが、実はとても大きな問題をはらんだ概念である。この学説が述べるように線分が不可分者で構成されているとするなら、それらはいくつあり、どのような大きさなのだろうか?一つの可能性として線分上には非常に大きな個数、例えば10の18乗の不可分者があるとしよう。その場合一つの不可分者のサイズは元の線分の10の18乗分の1となり、確かに非常に小さい。問題は、正の大きさは、それがたとえどんなに小さかろうと、必ず分割できるということである。
例えば、元の線分を2等分し、さらにそれぞれを10の18乗分に分割すれば、結果として元の「不可分者」の半分の大きさの線分ができるだろう。したがって想定された「不可分者」は実は「可分」であるということになって、連続な線分の還元不能な原子であるという当初の仮説は虚偽であるということになる。
もう一つの可能性は、「非常に多くの」不可分者があるのではなく、実は「無限に」あるという可能性である。もしこれらの不可分者が正の大きさをもっているとすれば、それらを一列に無限固並べた場合、長さは無限大になり、線分が有限であるという最初の仮説に反する。したがって、不可分者は正の大きさを持っていない。言い換えれば、大きさは0であると結論されなければならない。不幸にも0+0=0という事実があるので、幅が0の不可分者をいくら加え合わせても長さは0のままであり、元の長さにたどり着くことができない。したがって、連続な線分が不可分者によって構成されているという仮説はふたたび矛盾に導かれてしまう。
線分に太さがないなら、つまり0なら、これをいくら重ねても面にはならない。逆にこれ以上分割できない最小の太さがあると仮定しても、数字の上では分割が可能であり、仮定が破られてしまうという訳だ。
それは解った。しかしだからなんだと。どうしてこれが危険思想とか、闘争というような展開になってしまうのか。 予備知識ゼロで向かったのは無謀すぎたかと慄きつつ、読み進んで行ったのですが、これが面白い!やめられない。
予想もしない話の展開と広がり。 また著者の博識は途轍もない。著者はイスラエルに生まれ、同い年だな。ヘブライ大学で学んだ後に渡米、スタンフォード大学で教鞭をとっている人のようだ。専門は数学とそれを核にした社会学、歴史ということで正に本書はそのテリトリーで存分に力を発揮した形になっている。
おそらく教会などが残した古文書を読んで分析しているのだと思うのだが、膨大な資料を読み込んで比較することで、当時の人たちの考えているとこや、感情といったものの機微に迫り、まるでその時代に行って見てきたかのような語り口は陶然となる読書体験を与えてくれる。
ガリレオは地雷原を歩いていた。彼はローマ教会の神学者に大切にされてきたアリストテレスの権威に挑んだだけでなく、太陽が地球の周りを回転していると数カ所で明言している聖書の記述に従っていなかった。もっと臆病な心の持ち主ならこのような危なっかしい問題から身を遠ざけるであろうが、ガリレオは断じてそのようなタイプの人ではなかった。彼は相手からの攻撃を座して待つ代わりに、自分なりの神学を論じる論文を出版して敵のホームグラウンドで戦うことを選んだ。
教会の権威を守らんとするカトリック教会は数学に矛盾を孕んだ概念を持ち込むことに対して強烈な嫌悪感を示していた。 これは聖書が神の御言葉そのものであり、書かれていることは一字一句全て真理、真実であるとする原理主義に立脚するもので、ガリレオは自然科学の概念から世界を解読しようとするアプローチと激しく対立した。
ガリレオが教会と対立していたのは、天動説のみの話ではなく、大きく幅広い思想における対立であったのだった。 しかもこの対立は、プロテスタントなどのキリスト教他宗派、自然科学の枠組みを飛び越えて、政治的信条、社会的価値観、哲学思想といった分野にまで飛び火し、長く激しい闘争へと発展していく。
そしてその闘争は大きく歴史を形作っていくのだ。
なんと。こんな歴史が、こんなとんでもない話が潜んでいたとは。かなりの長編で時間がかかる、重さで爪が曲がるような本でありましたが、読んで損のない一冊でありました。
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2016/06/05:間諜、エスピオナージュに強い興味を持っていろいろ本を読んできたわけですが、このゴードン・トーマスはこれまで網にかからなかった。著書多数というけれどもありきたりな名前なので、どこまでが本人の本なのかも判別しづらい。初挑戦なことは間違いないのだが。17歳ではじめて書いた本がノンフィクションのスパイもので、以後ずっと著作活動を続けてきた人らしい。
17歳でノンフィクションのスパイものって一体どういう意味なのか。実際にその世界で働いた経験はなさげで、どうやったらその世界の情報を収集してノンフィクションの本が書けるというのか。
そう、半信半疑なまま読み進めた次第であります。本書はMI5、MI6の歴史を辿る本なので当然ながら最初は対戦前の話から始まる。内容としてはよく書けてはいる。
しかしこれまでいろいろな本を読んできた僕からすると殆ど既知のお話。この著者はこれらの情報をどうやって集めたのかしらと思うにあたり、もしかして僕のようにいろいろな本を読んでまとめなおししている可能性もあるよな。というやや嫌味な考えが度々脳裏に浮かぶ。
イギリスのイーデンとフランスのモレ首相は、アラブ・イスラエル双方に現状維持を守らせることを保証した1950年の英米仏の3国宣言を根拠に、もしイスラエルとエジプトとの間で戦争が起これば、英仏が平和維持の名目でスエズ運河地帯に出兵することは合法であるとの考えで一致した。そこでイーデンは、MI6のホワイトにラジオのプロパガンダ放送をさらに強化するよう命じ、イスラエルのモサドもナセルのイスラエル攻撃がますます切迫しているかのようなニセ情報を世界中のメディアに流した。これは邪悪なメディア操作の古典的な例である。
しかし立ち位置は非常に良いではないか。間諜活動にのみ目線をすえるのではなく、国際政治・外交の手段としての間諜であることをきちんと認識しており、それを更に正しく批判している。単なるスパイもの好きではないことはこの一文からも明らかだ。また、時折後日談的なものがフラッシュしてくる。例えば上記の件では、こんな感じ。
スエズ危機発生から50年以上の歳月が流れた2007年6月、ロンドン中心部の高層マンションの近くの路上で、あるエジプト人の大富豪が死亡しているのが発見された。そのエジプト人、アシュラフ・マルワンはナセルの娘モナの夫で、1970年代にはナセルの後を継いだサダト大統領の主席補佐官を務めた人物だった。
勿論この後日談に落ちはない。原因も事件性も不明なままなのである。ただ本を読んでるだけではこうしたことは書けないハズ。この人がどうやってか取材してまわっているらしいことが段々とわかってくる。
否認権というのは、たとえばCIAの作戦の場合なら、アメリカ合衆国大統領はたとえその作戦についてCIAから説明を受けて知っていたとしても、「その存在を知らなかった」と言えるような、確実な根拠をもとに成り立つものである。それについてCIAのある元長官は、「一言で言えば、その作戦に参加した人たちが、作戦が進行する熱気のなかで本来の指示から逸脱し、やりすぎた行動をしたかもしらない、という状態だと理解されている」と説明している。
CIAの元長官の話だと。シチュエーションがさっぱりわからないのだけれども、確かに著者はこうした高官やスタッフたちと交流し、情報を直接仕入れている。実際あとがきにもそれがはっきり書かれている。
時代はどんどん下り、戦後、冷戦時代を駆け抜け近代、現代へと本書は着実に進んでいく。
その機密性、包括性において、世界中に張り巡らされたNSAの監視網に匹敵するものはない。この監視網は俗に"エシュロン"と呼ばれ、通信衛星が送受信する地球上のあらゆる電波を傍受する能力がある。つまり軍事通信に限らず、民間のあらゆる通信、銀行口座や病院の医療記録といった個人情報から企業秘密、企業の取引交渉なども、すべてエシュロンに読み取られている可能性がある。イギリスのダイアナ元皇太妃が亡くなる直前の数週間に恋人のドディと交換していたメールも、みな読まれていた。
そこに見えてくるのは旧来の間諜の世界とはまるで異なる情報活動の実態があった。しかも著者の情報収集能力が半端ないことに舌を巻くことも間違いない。だからこそ、彼の53冊以上ある本は30カ国を超える多数の言語で翻訳され出版されているのだ。
後段、本書の上昇具合は想定を超えてどんどん進む。これは凄い。しかし、一度立ち止まって思い起こそう。間諜活動の情報が外にもれてくるのは、計画に失敗したものなどそのごく一部に過ぎないということを。現代、本当に行われていることは僕達が知りうる領域よりもはるかに深く静かに大きく広がっているはずなのでありました。
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2016/05/15:「別海から来た女」本書は木嶋早苗の事件を追ったルポルタージュだ。
木嶋は2012年埼玉地方裁判所で死刑を求刑されたが控訴し、2014年に東京高等裁判所はこれを棄却上告中となっている。
埼玉地方裁判所で問われた罪は殺人3、詐欺・同未遂6、窃盗1である。検察側の証拠は状況証拠のみだが、裁判の対象となっていない事案も含めた夥しい行状の数々から木嶋がやっていることは素人目にも明らかだと思う。
これに対し木嶋側は基本全面的に否定をしていて、これを完全否定できないでいるというのもまた事実なのである。勿論真犯人が木嶋であるという前提で語れば、木嶋の事件は知る限りにおいても最悪の部類に入る残忍さと慈悲のなさであり
本人の言動は明らかにサイコパスの要素を十分に見せつけるものである。
この事件の追いどころの一つは正にこの犯人の恐ろしいまでの非人間性にある。著者はこれを別海という土地柄と結び付けてなんとか整理しようとしている感じだけれども、サイコパスというものはそもそも特定の環境下で必然的に生まれるものではなく、確率論のなかで発生する「エラー」であり出生も親の責任もこの際は関係がないと僕は考える。
アメリカには、幼少期の犯罪として、窃盗、放火、小動物の虐待といった三つの行為を繰り返す者は厚生する可能性が低いとしてマークされるというようなことがあるときく。こうした者は残念ながら大人になると人間相手に残虐な犯行に及ぶ可能性が高いのだ。
更に「サイコパスを探せ!」で紹介されていた、ボブ・ヘアの作ったPCL-Rと呼ばれる精神病質チェックリストはこんな具合だ。
項目01 口達者/うわべの魅力
項目02 自己価値に対する誇大な感覚
項目03 刺激を必要とする/退屈しやすい
項目04 病的な嘘つき
項目05 狡猾/人を操る
項目06 良心の呵責あるいは罪悪感の欠如
項目07 浅薄な感情
項目08 冷淡/共感性の欠如
項目09 寄生的な生き方
項目10 行動を十分に抑制できない
項目11 相手を選ばない乱れた性行動
項目12 幼少期からの行動上の問題
項目13 現実的な長期目標を持てない
項目14 衝動的
項目15 無責任
項目16 自分の行動に対して責任を取ろうとしない
項目17 何度も結婚するが長続きしない
項目18 少年犯罪
項目19 仮釈放の取消
項目20 多様な犯罪歴
裁判の間の木嶋の言動や別海に住んでいた頃のエピソードなどを読めば読むほど恐ろしさがにじみ出てくる。
残念ながら日本では、サイコパスに対する認識は非常に遅れていて、こうした行為は家庭内や地域内で隠ぺいされ、表面化されることなく済まされてしまう。結果、人間の被害者が生まれるのだ。木嶋の幼少期の行動の記録はサイコパスの判定リストに照らしてみても十分に危険人物なのである。
サイコパスは都会の人混みのなかに紛れてこそ、本来の自分らしい生き方ができる。もちろんそれは犯罪だが。そう別海はサイコパスが暮らすには人が少なすぎるのだ。それを許したという点で別海にいた親はその責任について問われるべきなのかもしれない。
しかし、サイコパスを生んだことに責任はないのだ。ここを間違ってはいけない。
またこの事件の追いどころのもうひとつは、なぜこれだけの犯行を繰り返していた人物の事件が単なる状況証拠しかないのかという点である。
検察は地方裁判所で「窓の外には夜空が広がっている。夜が明けると、雪化粧になっている。雪がいつ降ったかを見ていなくても、夜中に降ったと認定できる」という比喩を使った。
それは確かに明らかなのだが、本人の自白はなく、被害者・目撃者の犯行目撃証言といった直接証拠を検察は裁判に持ち込むことができなかったのである。もちろんそれは木嶋の用意周到さというものがあったのかもしれない。しかし、サイコパスというものは本来飽きっぽくて、計画性に欠け杜撰なのが普通なのであって、彼女の事件に直接証拠がとれなかったのは「運」と警察の初動捜査の甘さがあった。自殺だという思いこみが強すぎた結果、本当は得られたかもしれない証拠を逃しているのである。
無計画で杜撰なはずの犯罪が最高裁で争われていることは、ひょっとしてこんな事件は氷山の一角なのではないかということに空恐ろしさを覚えるという面は見逃してはならないところだと思う。木嶋は世紀の毒婦なのか。あたかも簡単にその罠にかかった何人もの犠牲者や危うく犠牲者になりそうになった人たちの姿をみると誰にも悟られることなく、自殺と断定された同様の事件がないと誰が言えよう。
日本では毎年3万人を超える人が自殺しているという。このなかに木嶋のような行為で殺されているひとがいないとは言えないだろう。
生まれつきこうした気質を抱えている人は予想よりもずっと多いらしい。不幸な事件を繰り返し、その後を追うのではなく予防もできるような世の中にしていかないといけないんじゃないのかと思うのだけれども、どうもそっちの方向へ進む気配はまだないようですね。
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2016/05/08:遺伝子から探る生物進化というシリーズだそうです。このシリーズは単にアプローチだけではなく、まだ単著のない若い書き手を選び、研究結果だけでなく、研究活動の苦労や失敗談なども折り込み、若手の研究者たちへの参考になるようなところを狙ったものになっているという。
ただの通りすがりの僕のような素人が手を出して大丈夫な本なのか、ややたじろぎつつ読み始めましたが杞憂でした。
大学四年生から大学修士課程にかけて、私は主に野生のイルカの調査に従事した。イルカの傍らで海に潜りながら、いつもある種の不自由さを感じていた。海の中はなんと知覚しにくい世界なのだろうか。水中メガネがなければモノを見ることもできない。いや、水中メガネを装着したところで、せいぜい数十メートル先までしか見えないし、遠近感もなんか変だ。色彩感覚もどこかおかしい。音はくぐもってしか聞こえないし、発音源を定位できない。そして鼻はまったく利かない。五感がうまく機能しないのだ。開けた海では、このことは恐怖につながる。自分の周囲にどこまでも広がっている空間を、自分自身の感覚能力で把握することができない恐ろしさ。
なんと瑞々しい感性なのか。実際に潜ったときの事を思い出せば、確かにその通りで、しかも呼吸だって出来ない訳で不自由極まりない事に何の違和感もなかったわ。
これがかつては水生動物から進化してきた果ての姿な訳で、祖先からみたら進化だなんて鼻で笑われる姿だと思う。つまり進化ではなく陸上に適合した結果、水中で必要だった能力や機能を捨ててきたのだ。むむむなるほどすごく分かり易い。悔しいくらいだ。
クジラとわれわれ人間は羊膜類という仲間だ。羊膜は陸にあがり乾燥に耐えられるよう卵を包む膜のことで、完全に水生化したクジラはこの陸生生物が獲得した機能を持ったまま海で暮らしている。クジラの祖先をたどると牛、特にカバに近い偶踵類にたどり着くという。羊膜類の出現は石炭紀頃、偶踵類との分岐は中生代、白亜紀の新世から新生代、旧成紀の暁新世間くらいだったようだ。
ここで嗅覚の話。以外な事に嗅覚の獲得は視覚などよりもずっと後なのだそうで、よくよくかんかれば当たり前のことなのだが、大気中の匂いを嗅ぐ能力は陸生になってからのこと。水中生物が持っている嗅覚とは異なる機能なんだそうだ。
水中生物の嗅覚は陸上では役に立たないという事ね。なるほど、最初に陸にあがった動物たちは、僕らが水中で感じ不自由さを陸で感じていた訳だ。
陸上生物の嗅覚を作り出す遺伝子は特定されていて嗅覚受容体遺伝子と呼ばれるものだが、その出現時期の特定は難しい。
しかしクジラには人間と同じ嗅覚受容体遺伝子があるのだという。当然のとこだが、この遺伝子によって作り出される機能では大気中の匂いしか感じることができない。
このあたりからだんだん本書の核心が見えてくるのだけれども、まるで玉ねぎの皮をむくような感じで一枚一枚ベールが剥がれて過去が蘇ってくる様子は思わず夢中になる面白さがありました。
遺伝子の解析方法もどうやっているのか門外漢にはピンとこないところでありましたが本書を読んでずいぶん具体的なイメージを持つことができました。
ほんとなるほど、なるほどの連続でとてもスリリング。とっても楽しい読書体験でありました。
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2016/04/29:本書を読んでいる最中に熊本方面で大きな地震が起こった。それはまだ現在進行形かもしれない。活断層に沿って断続的な地震が続いているのだ。活断層の真上では1メートル以上のズレが生じた所もある。用水路や畑の畔などが分断され、くっきりとズレている光景には唖然とさせられる。被災地域の方々にはくれぐれもお見舞い申し上げます。
やっぱり原発なんか日本に作っちゃダメだったなぁと思うものの、政府も電力会社も動く気配はなく、いっそ一つ二つ地割れに飲み込まれてみればいいのに、等と暴言の一つも吐きたくなる。
朝になってみたら、あれ原発が無くなってたなんて。
というか、東日本大震災の際の当事者意識からするとやはり熊本は遠い。あの時、西の方の人たちに何かピンと来てない感を感じた事が何度かあったけども、それと同じ事が自分にも言えると思う。でも仕方ないだろうと言って良いのか複雑な気分だ。
また本書が明治維新に関する本で熊本方面が話題になること度々であったことの偶然に驚いた訳だが、著者の野口武彦氏の本を読むのが実は2冊目で、最初は「安政江戸地震」の本であった事がわかって更に驚いた。
「安政江戸地震」もとても興味深く読んだのだけど、この本は阪神・淡路大震災が契機となって書かれたものだった。
どこまで地震繋がりなんだ。
この本の中で地震対応に躓いた政府は斃れる運命にあるという讒言をいていたのが印象的だった。予測でも、予言でもなく、讒言として。
残念ながら地震対応も政府としては総じてバラマキ政策に終始しており、原子力行政では明らかに躓き、アベノミクスは中身のない、イメージ先行で、消費税増税は延期されそうで、TPPは思った通り見切り発車し、環境問題に対するパリ協定は見せかけに過ぎないというのに、政府が斃れる気配はない。死ぬのを忘れた妖怪のような政治家ばかりで運営しているからじゃねーのか。とか、あいつら実は操られているだけで実はとっくに死んでんじゃねーのとか。またぞろ暴言を吐く気分になるのもご容赦いただきたい。
激しく脱線したが、不平士族の話に戻ろう。本書は幕末から明治初期の時代の流れに乗り損ねた不満分子、いやまたは都合良く利用されて捨てられた人たちのものがたりだ。ものがたりと云っても創作ではない、史実だ。
僕には明治維新もそれに続く戊辰戦争もなんだか良く解っていない気がしてならないところがある。いったいあの時代を突き動かしていたものは何なのか。それをなんとか掴みたいと思うのだが、もどかしいことに指の間を手応えもなくすり抜けてしまう事しきりでありました。
しかし、この本を読んで少し掴めた気がしている。探していたものが、何なのかようやく解ったと言えばいいのだろうか。これまで僕は何を探しているのか自分自身でよく解っていなかったのだ。
初岡敬次の秋田藩は、戊辰戦争時に、東北諸藩が大部分佐幕派の奥羽列藩同盟に参加する大勢の中で、孤立しながらも尊皇攘夷の方針を貫いた藩である。だが、初岡は、明治維新後の政府が西欧文明に心酔し、尊王精神をないがしろにしてゆくことに反発して復古主義に傾き、「東の秋田、西の久留米」と並称されるまでの反政府拠点に仕上げていった。
戊辰戦争時には、奥羽地方では数少ない尊皇派だった秋田藩が、尊王は尊王ながら、強固な反政府勢力に転化したのはなぜか。
慶応三年(1867)十月に大政奉還があってからは平田派国学を土台とする尊攘派がイニシアチブを握り、戊辰戦争中の慶応四年(1868)七月四日には奥羽列藩同盟側の仙台藩の使者を斬り、秋田藩を「一藩勤王」の立場に立たざるを得なくした。大政奉還後の新体制である府県藩三治制のもとで、秋田藩は「久保田藩」と改称、旧藩主佐竹義堯が久保田藩事に就任する。この時、知藩事の次席にあたり、現在の副知事に相当する権大参事という役職に就いたのが初岡敬次である。
繰り返されるのは、尊皇、尊王、攘夷の言葉だ。尊王か尊皇か、はたまた攘夷とどちらを優先するのか。倒幕に力を合わせた人々も、幕府側で戦った人々も等しくこれらの問題で激しく意見を異にして闘っていたのである。
尊皇、尊王はつまり天皇か将軍かということになるのだけれども、ここに攘夷つまり外国勢力を排除すべしという考えが平行し、尊皇・尊王よりも攘夷を優先するという考えを持つものもいて事態は縺れに縺れていく。この混乱する価値観のなか自分の信条があくまで正しいという思いはやがて激情に変わっていく。
そしてそれが何故暴力的な闘争へとエスカレートしていくったのか。もちろん外国からの強い圧力というか、危機感があったのも確かだろう。そもそも江戸という時代が厳しい刑罰つまり死と隣り合わせな統制によって運営されてきた訳で、これに反対する以上命がけでやらんとダメなくらい厳しい時代だったという事があるのだろう。
明治維新によって権力の座に就いた面々は、権力奪取闘争を事としていた当初の期間、いわば自前の「憲法制定権力」であった訳だから、自分たちの行動の合法・非合法を考慮する必要がなかった。極端にいえば、自分たちの意思に逆らう者は「非合法」として切って捨てればよかった。しかし、いったん罪刑法定主義がグローバル・スタンダードとされるに至った時代となると、適法性の判断をすべて権力者の任意に委ねることはできなくなる。
明治政府の要人たちは、権力の座につくとすぐさま、自分たちの地位はおろか、生命さえも直接危うくしかねない脅威に当面することになったのだ。この直感に間違いはなかった。なぜなら、自分たちがかつてさんざんやってきた事柄だったからである。
繰り返すけれども本書で随分とこの激動の時代というものが一体どんな出来事だったのか自分なりの理解が大きく進んだと思います。野口さんの本他のものも挑戦してみようっと。
「安政江戸地震」のレビューは
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「忠臣蔵まで 「喧嘩」から見た日本人
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2016/04/29:スーザン・ジョージのあまりに鋭い舌鋒にはいつも驚かされる。普段どんな人なんだろうかなんて余計な心配をしてしまう程だ。
本書は2000年に出された「ルガノ秘密報告」の続編だ。前著はスイスのルガノに秘密裏に集まった作業部会、富裕層に指名依頼された研究者たちが、資本主義が21世紀に、機能し続けるだけでなく一層繁栄し、揺るぎないものとなるにはどうすればよいか、新自由主義グローバリゼーションを維持、発展、深化させるにはどうすればよいかを諮問したという体裁で書かれたフィクションである。
つまりスーザン・ジョージのスタンスとは真逆の側の連中が企んでいる様子を描いたものになっている訳だ。
研究者たちは、この金持ちたちの依頼に応じて血も涙もないような結論をなんの躊躇もなく、むしろ喜んで差し出してくる訳だが、果たしてこれに類する事が起きていないと言い切れるのか。
先日パナマ文書と呼ばれる情報がリークされ世間を騒がせているけれども、ああした連中が何を考え、どんな会話を交わしているのかと言えば、おそらくこんな事なのではないかと思われるような内容なのである。
具体的にはこんな内容だ。
増え続ける人口動態を前に、なすべきことは唯一人口削減。
人口を減らしつつも、新自由主義グローバリゼーションを維持、深化させるには利用できるものはすべて利用せよとし、その利用できるものを黙示録の四人の騎手になぞらえる。
それは、
白い馬---征服
赤い馬---戦争
黒い馬---飢饉
青白い馬---疫病
こうした災いを底辺層で誘発させていくことで余計な人間を消滅させ自分たちが生き残っていくのだというのである。
どう思います。
今世の中で起こっていることを俯瞰するに、本気で止めようとなんて思ってなくて、むしろ積極的に事を起こそうとしていると考えても間違いではないような気がしないだろうか。
あれから14年。計画は成功裡に進んできたものの、予想外の事態もいくつか発生しており、再び作業部会に発注が出されたという体裁でこの続編は幕を開ける。
前回の作業部会で想定した以上に成果があがったものとして、富裕層の拡大と富の更なる集中化があるという。それは裕福とされる人が以前よりもずっと多くなり、それらの人々が所有する富の大きさがずっと大きくなったという訳だ。
2010年、70億人の世界の人口に対して、
1100万人が合計42兆7000億ドル相当を所有。すなわち、636人に1人が、平均390万ドルの(流動)資産を持っている。
そのうち、10万3000人が15兆4000億ドルを所有。すなわち6万8000人に1人が、平均1億5000万ドルを持っている。
そのうち、1100人が4兆5000億ドルを所有。すなわち640万人に1人が、平均41億ドルを持っている。
さらに驚くべきことに、オクスファムによれば、世界人口の半数約35億人分と同じ富を85人の人間が所有しているのだという。
世界の富が有限である以上、富裕層の拡大や富の集中化の裏側には、ひたすらな貧困層の拡大がある訳だが、作業部会のスタンスは、貧困層の人々は大人しくさせておくべき、または何らかの不幸な出来事によって静かに消えていくべきものでしかない。
一方で前回の作業部会では予測できなかった事もいくつかある。
それは六つある。
一、厳しい規制が新たに課せられた地域はまったくなかったこと。富の集中化を邪魔立てするような動きが予測に反してなかったという訳だ。
二、銀行は、政策形成の任に戻っている。危機発生により金融機関の信頼が失墜しもとに戻るのは難しいと思っていたが実際は以前以上に権力を握っている。
三、金融商品は依然として増殖しており、その一部、特に通貨とデリバティブに厳しい規制が強いられる事を予想していたけどそんな事にはならなかった。
四、ダックスヘイヴンは、健在であるばかりか繁栄を謳歌している。パナマ文書がリークされたがこんなものは氷山の一角ですらない。
五、非常に富裕な層は、数においても、また各人の資産も資産合計も、危機から立ち直っただけでなく、大幅に増えている。
六、危機のコストは、圧倒的に一般的の肩にのしかかっている。人事ではない東京電力の組織犯罪は罰せられるどころか無視され、会社は最高収益を上げる一方、復旧にかかる費用は一般人の税金から捻出されているのだ。
わはは笑えるでしょ?笑えませんか?ここまで僕らはコケにされているという訳だ。これを読んで同感している方々はまだまだマシな生活をされていて、世界には今日食べるものに飢えている人たちが億単位で存在しているのにも関わらず、これほどの格差は是正されるどころか拡大しているのだ。
いったい、この超富裕層の人たちはどこにいるのだろう?普段通り過ぎているのに目立たないのだろうか?どんな生活をしているのか想像することも難しい。一方で紛争や疫病、飢えに苦しむ大勢の人たちがどこにいるのか。大凡の見当はつくけども、遙かに遠くて実感が薄いのではないだろうか。
この激しく伸びきった世界観のなかで想像力の欠如が、その溝を埋めることを阻害している。
このルガノの二回目の報告書はどうしたらこの状態を維持、深化させることができるかということを基本原理として整理していく。ここでは紹介しない。気になる方は是非本を読んで欲しい。
そしてそれは、この作業部会がフィクションであるにも関わらず、今現実に起こっていることそのものに他ならない。
「これは誰の危機か、未来は誰のものか」のレビューは
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「ルガノ秘密報告 グローバル市場経済生き残り戦略」のレビューは
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「WTO徹底批判!」のレビューは
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「アメリカは、キリスト教原理主義・新保守主義に、いかに乗っ取られたのか?」のレビューは
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2016/04/29:この春、長男が社会人として巣立ちました。長かったといえば長かった。大変だった。しかし、短かったといえば短かった。あっという間だった。あんなことやこんなこと、まるで昨日のことのようなことばかり。それもどれも思い出すと幸せな気持ちになる思い出ばかりだ。なんとありがたいことなのだろう。
しかし、人生幸せな事ばかりという訳にはいかない。仙台の実家方面では、老いた親たちがそれぞれ体調を崩し始めており、かなり重たい事態となってきた。
正に世代交代。時代の移り変わりを体現した状況となっております。そんな訳でカミさんは隔週で仙台と浦安を行ったり来たり、僕も散発的に帰省を繰り返しております。
更なる波乱を予感させる2016年度の幕開けは本書「古文書はいかに歴史を描くのか」。本書は息子が卒業の記念に恩師から頂戴してきたものです。
彼は四年間この白水先生のゼミで学んできた。本書でも取り上げられている栄村にも連れて行ってもらってきたのでありました。
彼がいったい栄村でどんな事をしてきたのか。あまり多くを語らない息子に代わって、研究室のためのフィールドワークの実際について、本書は詳しく解説していってくれる。
天下国家の大文字の歴史ももちろん大切であるが、どの時代についても、教科書に書かれているような簡単なまとめで括られるほど日本は一元化されているわけではない。飛行機で簡単に全国を飛び回ることができ、テレビを通じて全国のニュースが見られる現代ですら、地域の言語・風俗・習慣・文化は決して一元化されることなくそれぞれの個性を放っている。旅が楽しいのは、当然ながらそうした違いや個性があるからである。まして交通も通信も今ほど発達していなかった時代、「一つの日本」のように見えながら実は無数の地域の個性が寄り集まった形で日本が成り立っていたことは確かであろう。こうした地域の多様性こそが、国を構成し、動かしてきたのである。そして地域の個性を体現し、今に伝える素材こそが、地域に残る歴史的史料なのである。大文字の歴史ばかりが人々の中では歴史そのものとしてイメージされがちであるが、それは誤りであるばかりでなく、そうした理解は、歴史を自らの今の人生とは無縁な異世界のフィクションに追いやってしまうことにもつながる。
おっしゃるとおりですね。特に大文字の歴史に全然臨場感を覚えず、古えの歴史よりも、地質年代学的な自然史や江戸時代以降の市井の人々の暮らしや価値観のようなものにばかり、興味が向くという激しくへそ曲りな僕にとって、こうした地に足がついた地道なフィールドワークによって浮かび上がってくる昔の人たちの息づきが聞こえるような事実には胸が熱くなる。
そう、これは「歴史」ではなく「事実」、実際に起こった事に他ならない。ただ過ぎ去っていく時間の矢はどうやらどんな事をしても後戻りができないらしい。
そして過ぎ去ってしまった日、時間に起こったことは、時間の地平線の向こう側へと消え、僕らが直接見る事ができなくなってしまう。しかし、さまざまな遺構や痕跡を継ぎ合わせる事で過去を再構成することが可能になる場合がある。
天文学者たちが深宇宙を覗き込み、深い考察を重ねる事で宇宙の生い立ちについて、驚く程詳細な知見を得た。それは僕たちのそれまでの常識を根底から覆すような驚愕の事実だったわけだが。古文書に向かい合う行為はそれとまったく同じなのである。
詳細な事実を重ねていくことできっと、おそらくは従来考えられている、大雑把な歴史観をひっくり返してしまうような、新たな知見が生まれてくると思われる。
この科学的手法は強力で揺るぎない。コンピュータやデータベースの技法が高度化していくことで、ますます洗練されたものになっていくだろう。
こらからがますます楽しみだ。息子は就職して全く別の道に進みましたが、教えていただいた事は仕事にだって通じるハズで、学んだ事を活かして活躍してほしいと心から願ってやまない。
また先生のますますのご活躍も祈念いたします。
ありがとうございました。
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